◆10.呻吟
それから私は幾何かの時間をただ茫然としながら過ごした。朝焼けの光と、冷たい空気に当てられて、自然と身体は震えてしまったが、それでもその場を動く気になれなかった。半刻前にはもう宴会の喧騒も無くなった。鳥の囀る軽快な鳴き声が、東の空から昇る太陽の光に彩られ、薄暗い雑木林を賑やかせている。けれど、厚い雲の層は次第に私の方へと近付いて、もう間もなく太陽もその雲影に飲み込まれてしまうだろう。黒い塊が細い糸に変わるのも時間の問題だった。
朝焼けの空気は肌に厳しく刺さる。もう少し太陽が真上に来る時分になれば申し訳程度の暖かさがあるのだろうが、生憎その時間までは随分と時間があった。それに、私は幾ら凍えようとも何も思わない。元より生きる居場所が無くなったのだ。凍死したって何も不都合は無い。出来るならば、心残りを無くしてから死にたかったが、それも今では叶わない。
死のう。
お嬢様が私に別れを告げた瞬間から、幾度そう思ったか解らない。丁度命を容易に断つ事の出来る刃は私の手の中にある。これを頸動脈に宛がって、ゆっくりと引くだけで私は死ねるだろう。痛みは些細なものだ。直ぐに死の暖かさが私を包み込み、やがて死神が居る川へと辿り着くのだろう。しかしそれが解っていても、どうしても私はこの冷たい輝きで首を裂く事が出来なかった。何度かは激しく脈打つ血管に宛がう事は出来たものの、やはりナイフはそこで止まるばかりで一向に私の命の源の流れを乱してはくれず、その度に私は涙を流した。
醜い。
生きる意味を無くしておきながら見苦しく生に縋り付くなんて、どうしようもなく醜過ぎる。それでいて馬鹿だ。あの行為が何をもたらすのか、そんな事は少し考えれば解るはずなのに、自分を止める事が出来なかった。湧き上がる悔恨に腹が立つ。自分で荒立てた事を、何時の間にか紫に押し付けようとしているのにも、腹が立つ。何で私は生きているのだろう。こうして生き恥を晒して、生きる世界を無くした私は、何で生きているのだろう。答えは出なかった。出るはずがなかった。その内に何も考えられなくなって、私は宴会の会場だった場所に向かって歩き出した。
雑木林の地面に茂る草が、私が歩く度にかさりと鳴る。朝露に濡れた青々とした葉は、足に冷たく当たって、それが心地良く感じられた。心身ともに凍えているはずなのに、心地よく感じられた。何故だろう。その問いにも答えは出ない。
「……」
宴会は既に解散となったようで、神社の境内はその名残を漂わせる残肴の数々が物哀しく散らばっていた。これを掃除する霊夢も大変だろう、と頭の中に箒で地面を掃いている霊夢の姿を想像して、不意に何かが込み上げた。憎悪と後悔を綯い交ぜにした不愉快な感情。涙さえ眼に浮かんで来る始末で、私は腕で眼を拭う。やはり、暖かい雫が付いていた。
今一度、思い出す。――私は本気で、霊夢を殺そうとしたのだと。私は荒れ狂う感情の狂瀾に身を任せて、自分勝手な想いだけで幸福を肌で感じていた霊夢を殺そうとした。霊夢だけでなくお嬢様に対しても多大な迷惑を掛けてしまった。弁解の仕様があるはずもない。私は此処に居るべきではなかった。博麗神社の境内の中で、私は不純物と同義だろう。であれば、即刻立ち去るべきだ。霊夢がこんな早朝に起きているとは思わないが、何時掃除に来るかも解らない。万が一の事態に遭遇して、霊夢が私を見付けてしまう前に、此処を去ろう。そうしてゆっくりと死ぬ方法を考えれば良い。
――私は足を長い石段の方へと向けた。朝焼けを一望できる綺麗な景色が今の私には場違いに映る。何も知らず、明日も昇り、その明日にも昇る、同じ習慣を永劫繰り返す太陽が、羨ましい。私の日常は、もう壊れてしまったから。修復が出来ないくらいに粉々になってしまったから。そんな事を考えていたら、朝焼けの光が眼に染みた。肺腑を抉る言葉が思い起こされて、余計に眼に染みた。暖かい雫が頬を伝う。全く、恨めしい太陽だと呟いた。
「……咲夜?」
そして、そこで立ち止まったのは間違った選択だったのだと訴える声が背後から聞こえてしまった。万が一の事態は、意外にも訪れて、私は会うべきではない人物と邂逅を果たしてしまった。このまま駆け出そうかとも思う。或いは飛んで逃げてしまえば良いと思う。けれど、幾らそう思った所で足は棒になったかの如くその場に立つのみで、地を蹴って飛び上がろうと思おうと、やはりぴくりとも動かない。だからと云って後ろを振り返るのも憚れた。結局私はその場に佇むだけだった。
「……」
歩み寄って来る音がする。境内の砂利を踏み締める靴の音が背後から、一歩一歩近付いて来るのが鮮明に聞こえる。早朝の澄んだ冷たい空気に、焦燥を表すかのような私の息が混じり、それに呼応して心臓は五月蠅く鼓動を刻む。やがて足音は私の真後ろで止まり、私達の間には鳥達の囀りが響く沈黙が流れ始めた。私は元より言葉を発するつもりはなかった。と云うよりも、私にそんな権利は無いように思えた。だから、私は背後から声が聞こえて来るのを黙然と待ち続けていた。どうして待つのか、その理由すら解らない。ただ、背後に立つ人物は私がこのまま逃げるのを良しとしていないように思った。
「……」
「……っ」
突然、空に在り続けるだけだった冷たい手に、暖かい感触と体温を感じた。随分と冷たい外気に晒されていた手は、久し振りの暖かさに慣れていなくて、その体温が熱いとさえ感じられた。けれど、直ぐにそれは戸惑いへと変化し、私は瞠目した。朝焼けの光がまた眼球を射抜く。冷たい空気がその鋭さを研磨するのに一役買っていた。
私にはとてもその行動の意味が解らなかった。どうして数時間前に自分を殺そうとした人間の手に触れられるのか、自分が傷付けていた相手に同情染みた物を掛けるのか、私には到底解らない。叶うなら、放って置くだけで良かったのに。
「あれから、ずっとあそこに居たの?」
「……」
私は黙っていた。そして、私がそうするのを解っていたのか、背後の人物は「こんなに冷たいじゃない」と云って私の手を握る手に、力を入れた。心地良い力加減は、冷えた手を忽ち温めて、失った体温が戻って来るかのようだった。そうして、背後の人物はやがて何も云わずに私の手を引くと、神社の母屋の方に強い足取りで歩き始めた。付いて行くのを強制された私はその行動に抗う事も出来ずに、引っ張られるがままにされていた。
――紅い袴と白い袖、露出された肩口。博麗 霊夢は何を思ったのか、私を人家の温かみを感じさせる家の中へと招き入れた。流れる髪を大きなリボンで着飾って、地を思い切り踏み付けるかのような足取りで歩く霊夢の後ろ姿は、私を不安にさせたが、ある種の安堵を私に感じさせていたのも確かだった。その理由は、無論解るはずが無かった。
◆11.糠雨
私は畏まったような座り方をして、机を挟んで向かいに黙って座っている霊夢の顔を直視する事が出来ないでいた。だから、此処に座らされてから、私は始終自分の膝元に視線を落としている。そこには、霊夢が履いているのと同じ紅の袴がある。私が来ている服も、肩口こそ開けていないが、殆ど霊夢と同じ物だった。着慣れない服装の所為で余計に心中は乱れたままで、私はそれでも落ち着きを取り戻そうと浅い呼吸をゆっくりと繰り返していた
窓の外は既に雲が一面を覆っている。切れ間からその姿を覗かせていた太陽も隠れてしまった。今は細かい雨粒が世界を包み、微かな雨音を響かせているだけだった。重々しい雲は、眺めるには向かなかった。
私を家の中に招いた霊夢は、お湯沸いてるから、とだけ云って私を脱衣場に押し込んで、そのまま出て行った。そこに連れて行かれると云う事は風呂に入れと云う事なのだろうが、何故急に連れて来られて、更には風呂に入れと云われるのか理解に窮した為に、私はどうする事も出来ずに脱衣場で突っ立っていた。そしたら、やがて着替えらしき物を持って来た霊夢に着ている服を剥がれて、半ば強引に風呂場に押し遣られた。仕様がないので、私は冷えた身体にもたらされる恩恵を享受する事にして、湯を借りた。私の身体には少し熱過ぎる温度ではあったが、とても気持ちの良い湯だった。
そして幾らかしてから風呂を上がると、用意されていた着替えに驚かされた。下の下着はまだ良かったが、上の下着はさらしだったので、着ける方法が解らずに四苦八苦していると、これも霊夢がまた唐突に遣って来て、こうして付けるのだと教えてくれた。慣れない感触と胸を圧迫されているかのような装着感は決して良い物だとは云えなかったが、怏々とした態度も不平も漏らさずに、今度は用意されていた袴と白い着物を身に着けた。脱衣場の鏡に映った私のその姿は、見慣れない人物が映り込んだみたいで何だか滑稽に見えたが、また新鮮にも見えた。
この服装にはそうした方が合うと思って、髪の毛は結ばずに、梳るだけにした。全てを整え終えた私に、霊夢は微笑を浮かべながら「似合うじゃない」と云った。
それからお茶を出されて、今に至っている。私にはやはり、霊夢の意図が解らない。
「まあ、暫くは此処で暮らしたら良いわ」
「え?」
霊夢はお茶を啜って一息吐いた後でそう云った。外に降る雨の音が突然大きくなった気がする。私は思わず霊夢の目を見た後で窓の外を眺めてしまったが、霧のように細かい雨がしとしとと降っているばかりで、音などは本当に微かな程度しか聞こえない。暫く逡巡した後で、改めて私は「え?」と聞き返した。
霊夢は面倒だとか億劫だとか、そう云う反応を少しもせずに、もう一度同じ事を繰り返した。私は霊夢が冗談を云っているのかと疑ったが、真剣な眼差しを向けられてしまっては返事に窮する事しか出来ず、また紅の袴の上に視線を落とした。同情や憐憫などは感じられない霊夢の口調は、私を苛立たせる事もなく、だからこそこの沈黙の中で私を煩悶に陥れる。好意を甘んじて受け取るべきか、突っ撥ねるべきか、そのどちらかの選択肢が私の目の前に揺れていた。
「……」
私は何も答えずに、視線を同じ場所に注いでいた。
――私が霊夢に引き留められて、半ば強制的にこの家に連れて来られた直前に、私は死のうと考えていた。元よりただ一つの居場所だった紅魔館に戻れなくなっては死ぬ方が適切な選択だと考えていた。けれど、目の前で涼しい顔をしながらお茶を啜る霊夢は、私に新たな居場所を与えようとしている。生きる場所を失くした私に、生きる意味を失くした私に、今一度機会を与えてくれようとしている。本来ならば、首肯するべきなのだろう。
例え可能性が万に一つも無かったとしても、生き長らえる事でまたお嬢様の元に戻れる未来は存在するかも知れない。その未来を信じて奔走するのは、私に新たな生きる意味を与えるのと同義だ。しかし、永遠の別れを切り出したあの光景が私の中に蔓延る所為で、その決断は簡単に下せなかった。ある種の意地のように、私は霊夢の好意に甘える事を潔しとしていなかった。もしかしたなら、お嬢様に愛されている霊夢が憎くて、その近くに居座りたくないと云う考えがあったのかも知れない。どちらにしても、霊夢の傍に居ると云う事は尋常ではない苦しみを伴うだろう。
しとしとと降る雨の音が私達を包み込む。空を覆う暗雲が、薄暗い室内の静寂に拍車を掛けている。意を決して、私は首を横に振ろうとした。その時には丁度、霊夢が口を開いていて、私の切り出した答えは霊夢に届かずに暗い外に振る雨の音の中に消えてしまったかのようだった。霊夢は云う。私に口答えを許さない内容の言葉を、私に少し前の過去を省みる機会を与える言葉を、重々しい内容でありながら、実に軽々しく、霊夢は云った。
「まあ、私を殺そうとしたんだから、その責任を取って貰うには便利よね。神社の仕事手伝って貰ったり家事を手伝って貰ったり、色々と遣って貰うつもりだからよろしく頼むわよ」
ぽかんと口を開けたまま呆けている私に、霊夢は清々しい笑顔で「ね?」と念を押した。悪戯っ子が見せるような、無邪気なそれに抗う権利は私には無く、またそれを払い除ける勇気も既に無く、私は黙って首を縦に振った。まだ笑顔は作れそうにないけれど、それでも可能性がある生を与えてくれた事には感謝した。
この選択が合っているのかは無論解らなかった。お嬢様はもう私なんて死んだ方が良いと思っているのかも知れないし、霊夢の元で匿って貰っているだなんて事が知られたら怒り狂うかも知れない。それを鑑みるとどうしようもなく不安になってしまうが、その裏で確かな安心を得ているのは紛れもない真実だったから、私は今の時点より博麗神社のお手伝いとなった。
しとしと降り落ちる小さな雨粒が、霧のように降っている中で、宴会の残肴が虚しく散らばっているのが見えた。私は明日には晴れるだろう事を祈って、黒い雲影に覆われた空を仰ぎ、願を掛けた。
◆12.夢想連歌 ―追憶の句―
その日、私と霊夢は既に昼間の時分でありながら眠る事にした。昨夜は一睡もしていなかったし、私も気が抜けた事もあって随分と眠気が襲って来ている。そしてそれは霊夢も同様だったらしく、頻りに瞼を擦っている様からももう眠りに就きたいのだろう事は云わずとも知れていた。
そうして、私達は同じ寝室で、私は慣れていない敷布団に身を横たえて眠りに就いていたのだった。何時もはベッドを使って寝ているので、拭い切れない違和感は私を一向に寝かさなかった上、霊夢が隣で寝息を立てて居ると云う妙な構図もあってか、私は長い間薄暗い天井を眺めていた気がするが、老朽化が進んだお世辞にも綺麗とは云えない天井を見詰めていると、一時的に離れてしまった睡魔も戻って来るようで、間もなく私は就寝した。
そして、深い眠りに落ちた私は、一つの夢を見た。懐かしくも悲しく、嬉しくも辛い、そんな夢だった。忘れるはずのない、十六夜の月が不完全な形であるにも関わらず精一杯の光を夜の帳の中に降らす、心地の良い夜が印象的な日の記憶。あの日、私は初めて十六夜 咲夜になった。人間、十六夜 咲夜に、成れたのだ。
――私は、大っ嫌い。
彼女はそう云ってから、意識が無くなった私を室内に運ばせたようで、私が漸く目を覚ました時には周りには見慣れない物ばかりが在った。寝かされている寝台は見た事もないような豪奢な造りで、広い部屋の中に点在する置物や壁に掛けられた絵画など、見るからに値が張るような代物ばかりだった。その、私には到底似付かない貴族が住まうような部屋に、私は一人で寝かされていた。定まらない意識の中では、今見ている光景ですらも夢の中の出来事のように思えた。
そして、暫くの時間が経ってから私は漸く身体を動かすくらいには意識が定まって来て、節々が軋む骨肉に鞭を打って、何とか寝台から脚を下ろした。しかし、歩くのはままならなかったので、そこに呆然としながら座っていた。そんな時に、大きな扉の取っ手が軋んだかと思うと、それを開けて私を拾った本人だろう、彼女が入って来た。
「あら、漸く気が付いたのね」
扉を後ろ手に閉めて彼女はまず最初にそう云った。出会った一番最初に見せた妙な笑顔ではなく、穏やかな笑みを浮かべて、白く光る牙を覗かせた彼女は私の傍まで歩み寄ると、寝台の傍らに置いてあった椅子を引き寄せてそこに腰を落ち着けた。私は何をする訳でもなく、彼女の行動をただ見詰め続けるだけだったが、頭の中には彼女に聞かなければならない事を沢山思い浮かべていた。ただ、それは云わなくとも目の前の彼女が説明するだろうと考えて、暫くは口を噤んで、彼女の様子を観察するだけにした。
蒼銀の髪の毛の主は、自身の髪の毛を掻き上げてから私に向き直ると、不敵な笑みを浮かべて私を見遣った。唇の端からまた白い牙が姿を見せる。艶めかしいようで神聖的なその牙に私は目を奪われたが、それ以上に彼女の幼い容貌から醸し出されている威厳のようなものに驚かされていた、明らかに私より年を取っていないように見えるのに、目の前の幼い少女は私を威圧するような雰囲気を撒き散らしているようだった。
「貴方、人間でしょう。どうしてあんな所に倒れていたのかしら」
彼女はそう私に訊ねた。しかし、私がその問いに適切な返答を返すには余りにもその理由が重過ぎる。私は彼女に悟られないように、内側の頬の肉を奥歯で噛み締めた。鋭い痛みが一瞬私を襲うが、それが却って私を救う。笑えもしない。自らを一番慰められる方法が自傷行為だなんて、全く笑えない。私は顔を俯かせて自分の膝を見詰めた。何時の間に着替えさせられたのか、清潔な白いワンピースが、今着ている洋服だった。
彼女は黙り込む私に対して何事をも追究して来なかった。根気よく私の返答を待ち兼ねているのか、それともこれは云わなくても良いと暗に示されているのか、判然とした所は解らないが、どちらにしろ私が何か言葉を発さなければこの沈黙は永遠に続いて行くような気がした。私は心の中に覚悟を決めて、唇をゆっくりと動かした。
「……走っていたら、何時の間にかあそこに出ていたの」
「走っていたら? だとしたら貴方、余程勇気があるのね。吸血鬼の館にわざわざ走って来るなんて」
少女は笑いを含みながら可笑しそうに云って私をからかった。私からしても、自ら捻り出した答えの内容は要領を得ないものだった。あの白く、至る所に亀裂が走る意味の解らない空間を走り抜けた、だなんて云える訳がないと思った。私にすらあれが何だったのかは、私の能力がどうかしたんだ、くらいの認識しか持っていない。故に、私の答えの内容は知らない者からしたら恐らくは冗談にしか聞こえないものだった。
「面白い冗談だけど、生憎私のこの館は結界に囲まれているのよ。ただ走って来れるような場所じゃない。だったら、貴方は何故此処に居るのかしら。人間に破られた事なんて一度もないこの結界を越えて来た貴方は」
結界、彼女はそう云う。私の知識が正しいのならば、結界とは囲んだ空間を現実から隔離してただの人間には見えないようにしたり出来るものだ。ならば、私が走ってきた空間も結界だったのだろうか。現実とは到底思えない光景が広がっていたあの空間は。そして結界の強弱が単純に力の差で決まるのならば、私が此処に来れたのはあの空間の力が強かったから、と考えられる。そんな事を考えていた私は、唐突に聞こえた彼女の声に驚いて、思わず顔を上げていた。
「まあいいわ。はっきりとした事が解らないなら、いずれ解った時にでも聞かせて頂戴。だから質問を変えるけど、貴方の名前と、元居た場所。それくらいは答えられる?」
此処で、私はまた返事に窮した。私の名――それは簡単に頭の中に思い浮かべる事が出来る。ただ、その時に私を襲うのは人々の差別と嫌悪の視線や、この身に受けた痛みばかりで、私はワンピースの裾を堅く握った。思い出したくない。そんな逃避的な思考が頭の中を埋め尽くす。自分の名前も、私に降り掛かる人々の視線も、何もかも忘れてしまいたかった。何より、私の能力を知られたら、また私は前と同じような目に遭うかも知れないと、恐れていた。
「これも答えられないと云うの? それとも、記憶喪失にでもなったのかしら?」
待ち兼ねた様子の彼女の言葉は、私に一本の逃げ道をくれたようなものだった。此処で記憶が無くなったと答えれば、私はもう自分の事を話す必要が無くなる。知らない振りを続けていれば、本当に自分の過去を忘れられるかも知れない。暫くの逡巡の後、私はそう云う打算を思い浮かべて首を縦に振った。彼女は怪訝な視線を向けながらも、その問題から興味を失ったようで、それ以上この件について触れて来る事も無かった。逆に、彼女は自分の事を話し始めた。
「遅れたけど、私の名前はレミリア。レミリア・スカーレット。この紅魔館の主で、見ての通り吸血鬼よ」
彼女――レミリアはそう云って背中に生えた蝙蝠のような黒い翼を広げて見せた。
吸血鬼。私にとっては御伽話の中にしか存在しない、幻想の生物。どの物語にも恐ろしい魔性の者として描かれていた忌むべき存在が目の前に座っていると云うのに、不思議と私は微塵の恐怖すら感じて居なかった。私が見た事のある御伽話の中の吸血鬼なら、人間の血を吸って生きるのが普通だったが、やはり危機感は微塵も感じない。私は努めるでもなく、普通の人間を見るように、彼女の視線を見返しただけだった。すると、意外にもレミリアはその紅の瞳を丸くした。
「貴方、吸血鬼と面識があるの?」
「無いわ。本の中くらいでしか見たことなんてないもの」
「それでも吸血鬼は恐ろしい存在として描かれていたでしょう」
「だって、貴方は牙も翼もあるけど、怖くはないわ」
「……」
レミリアは私の答えを聞いて、急に黙り込んだ。私は吸血鬼に怖くないと云うのは挑発と同義だったかも知れないと、自分の軽率な行動を省みて、ごめんなさいと謝った。しかし、何を思ったのかレミリアは私が頭を下げるのを見て、笑うのを堪えるようにくつくつと喉を鳴らし始めた。何か笑われるような事をしたのだろうか、と不思議に思ったが、思い当たる節など何処にも有りはしない。結局、私は彼女が落ち着くまで首を捻っていた。
「ふふ、此処に居るだけでも充分に変なのに、貴方はもっと変な人間ね。吸血鬼を怖くないだなんて。私達は人間を襲って血を糧として生きているのよ。貴方は自分が殺されないか、とか思わないの?」
口元に手を当てて、上品さを漂わせながら笑う彼女の表情は自然な物では無かった。私が最初に出会った時のように、嬉しさを表しながらも影に隠れる寂寥が確かに存在を誇示しているかのような、そんな表情。私と何処か似通った表情だった。だからか、私は同情などではなく、ましてや憐憫からでもなく、純粋に自分が思った事を告げた。それを聞くと、やはり私は自分が思った以上に変に見えるかも知れないと自覚せざるを得なかった。隠そうと決めていた事ですら何時の間にか口から発せられているのだから、そう思わずには居られない。失笑さえ零してしまいそうだった。
「殺されても別に構わないわ。私も貴方と同じようなものだから」
「どう云う意味かしら。私には極々普通の人間にしか見えないけれど」
少し事情があって、と云って私は何時も肌身離さず持っていた銀時計を持っていない事に気が付いた。一応自分の身体を物色してみたが、何処にもそれらしき物は無く、レミリアに助けを乞うように視線を送ると、彼女は黙って寝台の脇にある小さな洋箪笥を指差した。その上に、私の銀時計は丁寧に置かれている。私はそれを手に取ると、再びレミリアを見た。彼女は好奇の眼差しを私に向けて、私が何かすると思っているのか、期待しているようだった。
「倒れていた時もずっと握っていたけど、その懐中時計が何か特別な物なの?」
「……そうかも知れないけど――」
私はそこまで云って、かちりと時計を鳴らした。途端に世界が静まり、目の前の少女が動きを止める。私は痛む身体で立ち上がると、彼女の後ろに移動した。そうして、丁度世界が音を取り戻す。同時にレミリアが驚いたように辺りを見回していた。目の前に居た人間が忽然と、それも動く素振りさえ見せずに姿を消すのだから、驚く方が当り前だろう。しかし、彼女の驚き方は私を忌むべき対象として扱うのではなく、飽くまで珍しい物を見た享楽から来ているようだった。今まで私の能力を見て蔑まなかった人間は居ない。それだから、私には彼女の反応が殊更に不思議なものに思えた。
「――単純に、私が変なのかも知れない」
私が後ろから声を掛けるとレミリアは更に驚いたようで、立っている私を隅から隅まで見渡した。私はそれを確認すると、ただ立っているだけでも辛かったので、再び寝台に腰掛けた。レミリアは相変わらず私を頭の先から爪先まで隈なく眺めている。奇異の視線で見られるよりは全然良かったが、逆にレミリアのような反応が歯痒くて、私は顔に体温が上がるのを感じた。彼女は一頻り眺め終えたのか、楽しそうにしながら佇まいを直した。
「面白い能力を持っているのね。時間を止められるのかしら」
「ええ。それにしたって、貴方も変よ。私の能力を見た人間は全員化け物を見たような顔をしてたのに」
「私がその化け物だもの。だからかも知れないわね」
私達はそんな滑稽とも思えるような会話を交わして、同時に笑った。最早目の前の少女が吸血鬼だなどと思う余裕は良い意味で無かった。私を見るあの嫌悪と差別の視線が消えて、彼女の紅の瞳は私その物に向けられている気がした。他人とは違った能力ばかりに目を向けて、それを迫害の対象としたあの視線の呪縛から、私は少しだけ解き放たれたのだ。私と同じ、変な存在の彼女によって。そう思うと、私は自然と頬が綻んでしまうのを感じた。
「貴方、此処で働いてみない?」
「え?」
レミリアは唐突にそんな提案をした。私にとっては願ったりの話ではあったが、拾われたその日に雇われるとは思って無かったので、思わず呆気に取られてしまって、暫くはレミリアの紅の瞳を見詰めていた。
「行く宛ても帰る場所も解らないなら、都合が良いでしょう。悪くない提案だと思わない?」
「でも……私は行き倒れていた貴方達の食料よ。使えるかどうかも解らないのに」
「覚えて行けば良いわ。一つずつ、少しずつ。そうね、戦闘の技術を磨けば、私の側近にしてあげる」
聞いた事もないような優しい声音が私の凍結した心に温もりを与え、溶かして行く。彼女の言葉の一つ一つが嬉しかった。そこにあるのは侮蔑などではなく、私に期待して、私が仕える事を楽しみにしてくれている響きだった。それでも、私は捻くれてしまっているから、素直にその提案に頷けない。半ば云い訳めいた言葉を泣きそうになりながら紡ぎ続けていた。云っているのが苦痛だと云うのに、私の口は止まる事を知らなかった。
「私は変な人間なのよ。何時貴方の寝首を掻くか解らない」
「私にとっては便利な能力よ。――ふふ、寝首を掻くつもりで此処に居るなら、貴方が今流している涙は迫真の演技ね」
可笑しそうに笑いながら、彼女は私の頬を何時の間にか伝っていた雫を指で掬い取った。その手はとても冷たかったが、何にも勝る暖かさを持っている。私は震える声で、途切れ途切れの言葉を、顔を手で覆いながら伝えた。私の正直な気持ちを、不安に脅え、過去の残影を恐れる感情の全てを含めた、殆ど懇願と同義の問いを、吸血鬼だと自称し、その証拠を充分に持ち合わせるレミリアに。彼女は黙って、私の頭を引き寄せて胸に抱いた。
「……良いの……?」
「勿論。歓迎するわ」
私の髪を梳く、私よりも小さく華奢な手は、とても心地よく、私に安心を与える。私はとうとう堪え切れずに、泣き出した。今まで積もってきた鬱積を全て発散するように、幼子のように。レミリアはそれを黙って受け入れてくれる。子供をあやすように、優しい手付きで頭を撫でて、背中を摩り、私を包み込んでくれた。
彼女は泣いている私を宥めながら、唄うように云う――。
「十六夜――十六夜 咲夜」
レミリアはそう云った。私は涙を必死に堪えながら、「え?」と聞き返す。
窓の外の夜は更けて行くけれど、私は寂しさなど既に感じては居なかった。
「貴方の名前。過去も未来も不安で埋め尽くされているのなら、私と云う満月に続いて出て来る月が貴方。私が前に居れば不安も少しは和らぐわ。今を刻んで行けば、いずれ過去は遺物になるわ。だから、頑張りなさい。太陽の光を待って夜を耐え忍ぶ花のように、耐える努力をしなさい。そうすればきっと、貴方は満月に照らされる花としてそこに居続けられるから。貴方が居た世界は人間が暗闇に身を置くように辛い物だったのかも知れないけど、これからは私が照らしてあげるから――」
嗚呼、そうだ。
私が涙を流しているのは、寂しさからなどではなく、悲しみでもなく、恐怖でもなく、嬉しくて、嬉し過ぎて流れる涙だったのだ。――私は生まれて初めて嬉し涙と云うものを、この瞳から流していた。
◆13.日常
それから一週間が過ぎた。神社の境内に植えられている桜の木に芽吹いていた蕾も、少しだけ開いているように思える。私はそんな、思わず期待してしまうような光景を眺めながら大して散らかってもいない境内の中で掃き掃除をしていた。手慣れたものだ。以前は違和感を覚えていたこの巫女服にも慣れて、私は習慣と化したこの仕事を黙々と続けていた。
蒼い空に浮かぶ白い雲が悠然と流れる風景を眺めて、私はこの一週間で劇的な変化を遂げた自分の生活を顧みた。以前は紅魔館の掃除や洗濯など、ありとあらゆる仕事をこなしていた私だが、今では朝起きて神社の境内の掃除をし、それが終われば朝食を作り、放っておけば昼間まで寝ているのではないかと思えるほど安らかな寝息を立てている霊夢を起こし、二人で朝食を摂り、それから倉庫や母屋の中の掃除をする毎日だった。
別段それが嫌だった訳ではなかった。むしろ、仕事を与えられたのは喜ばしい事で、それに没頭する事で少しの間だけは紅魔館の暗い廊下の光景などを忘れる事が出来た。ただ、それでも今のように無聊な時間を持て余している時にはどうしても遠く懸け離れてしまった紅い館を思い出してしまう。そうして、紅魔館の事を思い出せば必然的にお嬢様の事も思い浮かべて、気分が沈む。私を人間と呼称した時の云い表せない恐怖にも似た悲しみを思い出してしまうのだ。
そんな時は、私は大抵頭を振って、頭の中に蔓延る嫌な思考を払拭しようとしてから次の仕事に取り掛かろうとするのだが、何故だか今日はそんな気分にもなれなかった。と云うのも、今遣るべき仕事も無いのだ。母屋の掃除も倉庫の掃除も、全て毎日遣っているのだから、今更掃除をする必要もない。洗濯も朝の内に済ませてしまったし、私はこの徒然を晴らす手段を持ち得なかった。それ故に、こうして途方もなく広がる悠久の空を眺めている。
霊夢が居たなら会話をする事も出来るのだろうが、生憎霊夢はこの一週間の間、午後は殆ど神社に居ない。昼を過ぎた辺りには何処かしらへ出掛けてしまって、今では私と霊夢のどちらが博麗神社の巫女なのか解らないくらいだった。何処へ出掛けているのか、と尋ねてみた事もあったが、霊夢は曖昧に話をはぐらかすばかりで一向に出先を明かす事はなく、私も敢えて深くは追究しなかった。他人の事情に口を挟むなどと、殊に霊夢に対してそんな事を行うなんて愚の骨頂も甚だしい。私は霊夢を殺そうとしたのだし、霊夢とお嬢様は今恋人同士なのだから。
お嬢様に会いに行っている、そう考えれば全て辻褄が合ってしまうのが辛かった。私とお嬢様の現在の関係が複雑なものになっているのは霊夢も十分承知の上だろうし、私にお嬢様に会いに行っていたなどと云うはずがない。ならば話をはぐらかすのも道理だから、私にはどうする事も出来ない。私は頭の中に嫌でも思い浮かぶ霊夢とお嬢様が楽しそうに会話をしている所を思い浮かべては、胸を締め付けられるような思いになった。
「……」
――また嫌な気分になってしまった。
私は例の通り頭を振って、纏綿する思考を無理やり振り払うと、神社の入口に目を向けた。その時に丁度、私と同じ紅白の巫女服を着た霊夢が石段を上がって来た。霊夢は心持ち苛ついた足取りで母屋の――私の方に歩いてくる。私は特に何をする訳でもなく、霊夢がある程度近付いた時にお帰りと云ったきりだった。霊夢は低い声でただいまと云って、私の隣に腰を掛ける。乱暴に座った為に、大分年季が入っている板がぎしりと軋んだ。
「あー、もう本当に何でなのよー」
自分の腕を支えに身体を傾けて、霊夢は如何にも不服だと訴えるように空を仰いだ。突然何の脈絡もなく不平を洩らされても私には何の事なのか全く解らないので、ただ黙っているだけだったが、霊夢は一人で内容が不明瞭な文句を口々に空に向かって呟いていた。このまま放って置くのも何だか憚れるので、私は仕方なしに声を掛けようと思い、隣りで相変わらず愚痴を零している霊夢を見遣る。霊夢は疲れた表情をしていた。
「何かあったの?」
「んー。まあ、少しね」
そう云って、溜息を零す。それから霊夢はお茶を入れて来ると云ったので、折角だから私が入れてあげようと思い、その旨を伝えてから私は台所に赴いた。霊夢はただありがとうと云ったきりで、他に何も云わなかった。
台所に立って、この一週間で茶葉が何処に置いてあるのか、急須が何処に片付けられているのかと云った場所を全て覚えた私には、この神社で過ごすと云う点に於いて最早どんな支障も存在しなかった。それだけ私が紅魔館から離れてしまったのかと思うと、また気分が沈んでしまうが、今は霊夢に教えられた通りにお茶を淹れる事に集中しようと思い、私は茶葉の分量を目測で出来るだけ正しくなるように見定めた。
適量を急須に入れて、そこにお湯を注ぎ、暫く葉が開くのを待ってから、二人分の湯呑に程よい黄緑色に染まったお茶を移す。その一連の作業を終えると、私は二つの湯呑を盆の上に乗せて再び縁側の方へと向かった。霊夢は、何時かの私と同じように縁側に足を投げ出して、居間に寝転がっていた。ぼんやりと開かれた瞼の奥の瞳は、何処を見る訳でもなくただ蒼い空ばかりを見詰めている。私は霊夢の頭の直ぐ前に立った。
「何だか難しい顔をしてるわ」
私を目にして漸く呆けていた事に気が付いたのか、霊夢は寝転がっていた身体をまた上げて、縁側に腰掛けて佇まいを直した。私は盆の上から湯呑を一つ、霊夢に手渡す。もう一つは自分の手に持って、残された盆は脇に置いた。霊夢は渡された湯呑に口を付けて一口啜り、それからほう、と熱い息を吐いた。幾分気分も落ち着いているように見受けられる。それを見届けた私は、霊夢と同じようにお茶を一口啜った。
渋みのある味が、舌の上に広がって行く。紅茶とは違った風味が喉を通り、鼻孔に良い香りを届けて行く。この一週間で、私は緑茶の趣を理解出来たようだ。人間、慣れさえすればどうにでもなると云うのはあながち間違いではないらしい。私はお茶の味を吟味するように、少しずつ喉の奥に渋い液体を流して行った。
「んー……」
湯呑を両手で包み、呻きながら悩んでいるのか考えているのかよく解らない様子を見せる霊夢を尻目に、私は湯呑の中のお茶に映る自分の顔を眺めていた。その内に、霊夢は悩みを解決したのか考えを纏めたのかよく解らない様子をまた見せて、私の名を呼んだ。何処か真剣さが滲み出すその呼び声に、私は図らずも背筋が伸びるのを感じた。私が黙って霊夢に向き直ると、霊夢は一呼吸置いてから、話す事があると云う言句で話を始めた。
「あんたが来てからの一週間、私、毎日出掛けてたじゃない?」
霊夢は何処か云い難そうにそうにしていたが、その様子を見せまいとしているのか余計に私の目には不自然に窺えた。霊夢の確認するような物言いに私は黙って頷くと、話の先を促す。お茶を一口喉に流し込んでから、霊夢は続けた。まるで霊夢が私に思い人を告白した日の時のようだと私は思う。あの時とは何もかもが変わってしまっているが、それでも懐かしさのような感覚を覚えた。叶う事だったなら、あの日が無ければ良かったとは思うけれど。
「聞くのが辛いかも知れないけど、出掛けてた場所って紅魔館なの」
「……ええ」
予想はしていた事だ。今になって驚く道理もない。多少傷つく事はあっても、それは飽くまで多少の範囲なのだ。
――などと自分に云い聞かせても、良い効果は見られなかった。紅魔館と云う単語が出るだけで私の心臓は跳ね上がる。霊夢が紅魔館に訪れていたと云うだけで心が軋む。疎隔されている現実に押し潰されそうになる。私は空元気さえも出す気力を無くして、単調な返事を返した。霊夢はそれから先を話し始めるまでに暫くの時間を要したが、やがて傍目からも重くなってしまっている口を開く。今度はどんな告白なのだろう。私は零砕なる恐怖を感じていた。
「それで――まあ、レミリアに色々云ってるのよ。咲夜がした事は別に怒ってないし、こうして生きてるんだからそろそろ許してあげなさいよ、って。でも、それが中々捗々しくなくてね。今日なんか追い出されたのよ」
それから霊夢が語った内容を要約すると、霊夢は毎日紅魔館に通ってお嬢様にいい加減私の遣った事を許すよう云い聞かせているらしかった。私は霊夢が私に黙って交渉をしに行っていた事など知る由も無かったので、それを聞かされた時にはかなり驚いた。霊夢の言分では、お嬢様は単に意地を張っているだけで、我儘な性格だからその意地を通そうとしていると云うもので、もっと押して行けばきっと私を許してくれるはずだと云った。加えて、パチュリ―様に聞いた所によれば、私が居なくなった後のお嬢様は寝ている時間の方が多くなり、霊夢が押し掛けて叩き起こしてから漸く目覚めるのだと云う。私はそれを聞いて、微かな期待を感じると共に確かな随喜を感じた。
「こう云う訳だから、今度行く時はあんたも来なさい」
「……え?」
「私が行くだけじゃ弱いみたいだから、あんたも一緒に来てレミリアを説得すれば多分大丈夫だと思うのよ。此処に居てもいずれは誰かに知られるし、最悪な過程を経てそれがレミリアに伝わればまた面倒になるでしょ?」
「……無理よ。どんな顔をしてお嬢様に会えば良いのかも解らないわ」
幾ら微かに期待があっても、幾ら随喜を感じても、私には紅魔館に出向く事なんて出来そうになかった。今の私は微かに持っている期待が砕かれるだけで何もかもが壊れてしまう。随喜が悲壮に凋落してしまえばその落差には到底耐えられない。私にはそれらを予期していながら紅魔館に行く事は出来ないのだ。霊夢の云う最悪の過程を経てお嬢様に現状を知られたなら、私は自分の足でお嬢様の元に行って悲惨な目に遭うよりかは痛みを和らげる事が出来る。弱い私にはその選択が最善に思えた。最初から悪い結果にしか成り得ない事ならば、期待する事もないだろうから。
だから、霊夢の提案には賛成出来なかった。弱音を吐いて俯いた私を霊夢はどう思っているだろうか。瀟洒な従者だと謳われていた私と、今の私とを見比べて軽蔑しているだろうか。もしかしたら私がこの神社に居るのが鬱陶しいのかも知れない。私さえ居なければ、私に構う事が無ければ、お嬢様を招いたりも出来ただろうに、私が此処にいる事で結果的に私は霊夢の邪魔ばかりをしている。そう考えれば私が疎ましくなって無理やり遠ざけようとするのも頷ける。私は一人、口元を歪めた。こうして匿って貰っていても、私は何処までも独りだったと云うのが可笑しくて仕様がない。
「あのね、私があんたを疎ましく思ってるとか考えてるんじゃないわよ。むしろ、私はあんたが勇気を出そうとしていない事の方が腹が立つわ。大体、そんな顔をしてる人を見捨てるほど博麗の巫女は酷い人間じゃないんだから」
相変わらず、勘が良い人間だと思った。そうして性質が悪い。私の懸念を颯然と杞憂だと云い切ってしまうのだから、全く性質が悪い勘の良さだと思った。霊夢はその言葉に付け加えて諧謔を弄する時のような軽い調子でこう云った。
「そうね。あんたが行かないなら、レミリアを此処に連れて来ても良いのよ? 勿論、あんたもレミリアも逃げられないようにしっかりと麻縄で縛り付けた上で」
博麗の巫女の提案を蔑ろにするのは、どうやら私には出来ないらしい。笑いながら恐ろしい冗談を云って見せた霊夢は、本当にそれを遣りかねないように見える。そんな霊夢に啓発されたのか、或いは私の中で小さな勇気が奮起したのかも知れない。どちらにしろ、私はあの女からも云われた〝臆病〟から少しは脱する事が出来るのだと思う。その結果も、あの女が云うようにどうなるかは解らない賭けのようなものだが、何もしないと云う怠慢よりかは、それは遥かに価値があるはずだから。私は此処で一歩を踏み出すべきなのだと、決意を固めた。
◆14.紅魔館
紅魔館の前、私と霊夢はそれぞれ違う顔をして立っていた。私は恐らく小難しい顔をしているのだろう。期待と恐怖を分けた、複雑な表情をしているのだろう。この門の前に立つだけで心臓が慌ただしい鼓動を刻む。頭の中が冷静になるが、何処か落ち着きなく色々な事を考える。結局、私は此処へ赴く勇気を出す事は出来たが、気持ちの整理は付けられなかったようだった。対して霊夢は友達の家に赴く時のような気楽な顔をしている。何とも羨ましいものだと思ったが、これも霊夢が変に私を緊張させないようにしている気遣いなのだと思った。此処で私と同じような表情をしていられたら、逆に私の方まで気分が滅入ってしまう。どう云う意図であれ私には今の霊夢の表情が多少の救いになっていた。
私達はこうしてこの紅魔館の門の前に数刻ばかり佇んでいる。と云うのも、私が気持ちの整理を付けたいと云う提案の上で成り立った事だったが、不思議な所は何時もこの門の前で番をしている美鈴の姿が無かった事だった。今は開け放たれた門が私達の前にあるだけで、他に生物は居ない。物静かな紅の館は、荘厳な雰囲気を湛えていると共に、私に一種の安堵を与えている。何も云わずに別れた美鈴が居ないのも、その安堵を得るのに一役買っているように思えた。
「咲夜、心の準備はいい? そろそろ行くわよ」
霊夢が私を顧みて、そう云った。私はもう一度窓の少ない屋敷の全容を見据えてから、黙って頷く。霊夢はそれを見届けると、悠然と歩を進めて紅魔館の門を潜った。私もその後ろに続いて門を潜る。慣れ親しんだはずの大仰な門を潜るのに、こんなにも心臓が五月蠅くなるなんて少し前までは思いもしなかった事だ。願わくば、私がこうして紅魔館の門を潜る事が最後にならないようにと心の中に呟いて、私は決意の籠った一歩を踏み出した。
遠く後ろに見えた広大な湖は、昇った太陽に照らされて水面を輝かせている。晴れ渡る青空に曇りは一点も存在せず、それとは裏腹に様々な想いが錯綜する私の心は、忙しなくあらゆる思考に彩られていた。
紅魔館の玄関から中へと入った私は、私が最後に此処に居た時と今とで、明らかな変化が見て取れた。紅魔館で働く妖精達は慌ただしく動いてはいるが、殆ど何も出来ていない。最初から此処の仕事は殆ど全部が私の仕事だったので、それをいきなり遣れと云われたのだろう、妖精達は勝手が解らずに四苦八苦しているように窺える。元来が自分の洗濯物を片付けるだけで精一杯だったのだから、急に私が消えたのは大きな痛手だったのだろう。教育を強化したと云っても、誰かの指示が無ければ妖精達は動けないのだ。流石の美鈴も、毎日門番をしながら妖精達に指示を出すなど、出来なかったらしい。
私は何とも無しに長く続く薄暗い廊下で、時々姿を現す窓枠を指でなぞってみた。人差し指の腹には灰色の埃が付いている。
「何だか、前と比べて随分と慌ただしくなったわよね。それに、妖精達のあの必死の表情、相当脅されたのね」
「……そうね。元々私が全部遣ってたし、少し荷が重いのかも知れないわ」
お嬢様の部屋に続く廊下を歩いている途中で、唐突に呟かれた霊夢の言葉に、私は思っていた事を返した。すると霊夢は私の方を振り返って、意地の悪い笑みを浮かべながらからかうように云った。
「やっぱり、紅魔館にはあんたが必要なのよ。紅茶も満足に淹れられないなんて、ってレミリアが憤慨してたわ」
その言葉を聞いて、思わず私は頬から嬉しさが滲み出て来るのを感じた。私が紅魔館に来てから、お嬢様に真っ先に褒められたのは紅茶の味だった。今まで飲んでいたのは妖精達の拙い物で、その上味が安定しないのだと云っていた。或る時は苦過ぎ、或る時は甘過ぎ、或る時はコーヒーが出たりしたらしい。それが私が来て、美味しい紅茶になった事がとても喜ばしいと、お嬢様は云ってくれた。それから、私はお嬢様の期待に応える事が出来るようにと紅茶の淹れ方を随分と勉強した記憶が残っている。あの時はただ一心に美味しい紅茶を作ろうとしていて、とても楽しかった。
「それに、一度秘密で私が作った事があったのよ。悪いけど此処の妖精達よりは上手く出来る自信があったし、実際自分で飲み比べたから明らかに出来が良いのは私のだったんだけど、それも不味いって云うから、危うく笑いそうになったわ。結局、あんたの淹れた紅茶じゃないと満足できないみたいよ、此処のお嬢様は」
それを聞いて、不意に熱い物が眼の奥から込み上げてきた。霊夢の激励が嬉しかったからかも知れない。或いはその激励の中に今のお嬢様を想像出来たからかも知れない。しかし、一番正しく思えるのは、お嬢様が私を必要としてくれていると云う、その一点だけだった。真偽の程は確かめようもないが、それでも私が生きる理由は全てお嬢様に関係していたから、それがとてつもない随喜となって私の胸を打ったのだ。目尻から落ちそうになった暖かな雫を指で拭って、私は掠れた声で霊夢に有難うと伝えた。霊夢はそれに、嫣然と微笑んで見せてからまた前を向いて歩き続けた。
――お嬢様の部屋が徐々に近付いている。今直ぐにでも、あの豪奢な扉が見えて来るような心持になって、私は今一度気を引き締めた。私の決意を形にする時が、刻々と近付いている。
それから暫くの間歩き続け、私達は豪奢な扉の前に立った。この扉を見るのがとても懐かしく思えるのは、紅魔館から離れたのが要因ではなく、お嬢様と私の距離が急激に遠ざかったからなのだろう。私はこの扉の前に立つだけで、身体が震える心地がした。しかし、それも霊夢に励まされたお陰でどうにかなり、私はまた挫けそうになっている気を引き締める。そして、とうとうその扉の取っ手に手を掛けようとした時に、それは私達の鼓膜を唐突に刺激した。
「そんなの嫌ですよ!」
叫喚にも聞こえる声は、私が今まさに開け放とうとした扉の向こうから聞こえて来た。覇気のある、通りの良い声は美鈴のものだ。門番に美鈴が居なかったのはこう云う訳だったのか、と私は状況を理解すると同時に、何故あの美鈴がお嬢様に対して怒鳴り声を上げるなどと、普段なら想像さえ出来ない行動をしているのか、疑問に思った。
間が悪い。そう悟った私と霊夢は互いに顔を見合せて、お嬢様の部屋に入る時を見送る事にした。但し、中で繰り広げられている諍いが気になったので、扉の前で聞き耳を立てると云う行動は、相談も特に必要無く自然な流れで決まった。私達は大きい美鈴の声と、落ち着いた声音で話すお嬢様の会話に全神経を集中させて、扉の前に立った。
「美鈴、自分の立場が解っていないようだから云っておくけど、私の決めた事に貴方が異議を立てる権利なんて無いのよ。それで、立場を弁えられたら直ぐに門番の仕事に戻りなさい」
激する美鈴の言葉を鬱陶しいと云うように、お嬢様は冷然とした調子で言葉を紡ぐ。美鈴が少し羽目を一時的に外しただけならば、お嬢様のこの言葉で直ぐに自分の仕事に戻るだろう。少なくとも、私はそう予測した。どんな理由で美鈴が怒りを露わにしているのかは解らないが、門番としての立場が解らないほど美鈴は馬鹿ではない。しかし、私の予測は大きく外れる事となった。私が記憶する美鈴と云う妖怪は、驚嘆さえ感じるほどに変貌を遂げていたのだ。
「嫌です。私は納得しません。お嬢様が意見を変えないなら、此処の門番だって辞める覚悟の上です」
「……」
美鈴の発言は、私の心を大きく揺るがすと共に霊夢ですら驚かせているようだった。私が来る前から紅魔館への侵入者のことごとくを退けて来て、門番としての自分を誇りに思っていると云う事を私に話した事もある美鈴が、辞めるなどと、私は生涯聞く事が出来ない発言だと思った。そして、それほどの覚悟をしてまでお嬢様に対して異議を立てる理由は何なのだろう、と私は考えた。けれど、紅魔館を暫く出ていた私には、どんな憶測も閑文字を並べ立てるようなものだった。仕方なしに、また耳を傾ける。扉の向こうで進む議論は、まだ終わる気配を見せていなかった。
「だって、そんなのおかしいですよ。理由もなく咲夜さんを解雇するなんて、正気の沙汰じゃありません!」
一際大きく、私の心臓が何かの扉を叩いた。溢れそうなほどの激情を閉じ込めた扉を、突き破ろうとする勢いを以て乱暴だとも思える力で叩いた。美鈴があれほどの覚悟をしていた訳が、全て私に対する事だったなんて、信じられなかった。あの宴会の日に、美鈴の気持ちを踏み躙るような事をした私を紅魔館に止まらせる為、自身の最大の誇りをも放擲しようとする覚悟が、何より強く私の中の扉を叩いた。何故、と云う自問に答えが出ない。私と美鈴の間に隔たった壁は決して薄くないはずなのに、それでも美鈴は自分の主であるお嬢様に異議を立てている。私が思っている以上に美鈴は私の事を大切に思ってくれていると云う事実が、引き締めたはずの涙腺を緩ませた。
「正気だろうと、そうじゃなかろうと、貴方には関係ないと云ってるのよ。……早く下がりなさい」
「……何で、そこまで理由を隠すんですか。私には、お嬢様が自分に関係ないと云い聞かせているように見えます」
「……っ、早く下がりなさいと云ってるのよ……!」
怒りに震えるお嬢様の声が、扉越しだと云うのにそれがまるで無いかのように、私の耳に届いた。その声が、恐ろしい物を孕んでいる事でさえも私には解る。此処で美鈴が引かなければ、間違い無く危険が及ぶだろう。今のお嬢様の声は、私がお嬢様の過去を聞いた時と同じ危うさを秘めている。今にも壊れてしまいそうで、それでいて自分を守る為に他の物を破壊してしまうかのような、危うさを秘めている。私は心の中で美鈴に告げていた。私に構わずに、直ぐにその場から立ち退きなさいと、全ては私が蒔いた種が原因なのだから、美鈴が危険な思いをする所以もない。
――しかし、それでも美鈴は、覇気のある声で、お嬢様の命令を拒絶した。力強く、誰に対してでも変わらない不動の想いを乗せた言の葉が、今の彼女にとって自らが背負う爆弾を起爆するのと同義な行為と、承知しているだろうに。
「下がりません。私は例え死んでも反対します。……お嬢様だって、咲夜さんが居なくなってから元気を無くしているじゃないですか。私もパチュリ―様も、霊夢も気付いています。それなのにお嬢様は逃げているじゃないですか、逃げられるはずもないのに、自分から逃げようとしているじゃないですか。――受け止めてくれる人が傍に居なくなったから」
美鈴がそれを云い終わるのと同時、否、それよりも速く、紅魔館が揺れた。とてつもない衝撃による揺れ、私達の前にある部屋の壁に罅が走り、今にも吹き飛びそうになりながら、それでもまだ耐えていた。私は頭の中に最悪の事態が浮かぶのを感じ、直ぐに扉を開けようと取っ手に手を掛ける。しかし、私が扉を開くよりも速く、私の心配が杞憂だと教えてくれる美鈴の声が扉の向こうに聞こえた。途端に、私は安堵によって気が抜けるのを感じた。
「お嬢様、今は素直になってくれませんか。そうやって感情を行動に置き換えるのは、私が云っている事が正しいからでしょう。咲夜さんに戻って来て欲しいと思っているからでしょう。だったら強情にならないで下さい。……お願いします」
冷淡にも聞こえる美鈴の冷静な口調は、今まで私が聞いた事もないような声音だった。お嬢様の力も恐れず、自分の命が失われる危険すら顧みず、真直ぐに自分の想いを直接お嬢様に叩き付けている。凡そ、私には考えられない行動。主に逆らうなど、門番にとって有るまじき行為、そしてそこに含まれる理由、それらを躊躇う事もせずに全て伝えている。私は、私の中に居た美鈴に対する評価を改め直さなければならなくなった。厳密には、美鈴に対する評価が過去に感じていたそれに戻っただけの事だ。遠く、私が忘れてしまっていた、美鈴の強さを思い起こさせる評価だ。
――美鈴は、そう云う妖怪だった。普段は呑気にしていて、仕事も偶に放り出してしまう短所もあったが、その本質にあるのは決して曲げる事の出来ない真直ぐな心だった。――こんな昔話を思い出した。私が紅魔館に遣って来て、此処に居られるだけの能力を培う為に、メイドとしての練習と兼ねて美鈴に稽古を付けて貰っていた。お嬢様が私の側近になる為に、強くなりなさいと云う言葉から、私は美鈴の稽古に一生懸命励んだ。
戦闘の基本など何も知らない私が、例え時間を止める能力を持ち合わせていた所で美鈴に勝てるはずが無かった。時間を止めても、私の動きの先を読んで攻撃を繰り出す美鈴は、あの頃の私にとって絶対的な力の象徴だった。しかし、私は強くなりたいと云う一心で美鈴の稽古を受け続けた。何度も顔に青痣を作り、美鈴がまだ手加減をしていると知って泣き、それでも少しだけ空いた時間に自主訓練を積み、そんな歳月を飽きる事もなく過ごし、肉体的にも精神的にも成長した私は、とうとう本気の美鈴に勝利した。その時、美鈴は辛そうにしながらも立ち上がり、私を見てこう云った。
――お嬢様の側近になるには、文句の付け所のないほどの実力ですよ。
創り出された笑顔は苦渋に歪み、地を踏む足は震え、手を上げるのも億劫なはずなのに、美鈴はそう云って私の頭を撫でた。美鈴が初めて私に敬語を使った時だった。美鈴が初めて負けるのを目にした時だった。私はその時に、自分が何をしたのか、美鈴がどんな思いで私の頭を撫でたのか、その全てを大悟した。
積み重ねた戦績を、いきなり紅魔館に遣って来た人間の小娘によって傷付けられるのが、彼女にとってどれだけ悔しいものなのか、自分よりも遥かに年下の人間に敗北を喫すると云う事が、どれだけ許されないものだったのか、私は歪んだ彼女の表情を見て悟ったのだ。それでも、美鈴は私の実力を認めたから、言訳など一言もせずに、私が成長した事を認めたから、ああして私の頭を撫でた。それは、それまでの私と美鈴の関係が終わる事を示すと共に、私と美鈴の関係が一新すると云う事を指し示していた。だからこそ、私は云わなくてはならない。
――有難う、美鈴。
私が初めて美鈴に対して敬語を使わなくなった時だった。私が初めて美鈴を呼び捨てにした時だった。私はその時、泣いていた。私に背を向けた美鈴も、恐らくは泣いていた。互いにその涙を見せる事もなく、私達は別れ、それからはぎこちなさを他人に知られる事もなく今のような関係になった。――だから、美鈴は何時だって真直ぐだった。結果を認めて、言訳などはせず、自身の敗北を受け入れて、立場を変える事の出来る、真直ぐな妖怪だった。私は、美鈴の真に強い部分を今目の当たりにしているのだ。私よりも遥かに強い姿を、扉越しにこの瞳の奥に映しているのだ。
「何で……っ! 何でそこまでするの! 今のが当たっていれば死んでいたのかも知れないのに!」
荒くなった息遣いと、荒くなった語勢とが、扉の向こうから聞こえて来る。お嬢様は怒気を言葉の中に漲らせていたが、それにも関わらず弱々しく言葉を紡いだ。美鈴は、先刻と変わらない静かな調子で答える。凡そ、この部屋の中での最初の時のような様子を微塵も残さない冷静な口調で、ともすればお嬢様を追い詰めようとするかのように、淡々とした口調で言葉を紡ぐ。しかし、感情が籠っていない訳ではない。美鈴の真直ぐな本質が、顕著に表れているだけなのだ。
「咲夜さんが、好きだからです」
「え……?」
「私は咲夜さんが好きです。パチュリ―様だって好きでしょう。紅魔館に居る妖精達も、咲夜さんが好きでしょう。それはお嬢様だって同じはずです。お嬢様が何と仰ろうが、私はそう信じていますから」
「わ、私は――」
――堪える事が、出来ない。幾ら緩んだ涙腺を引き締めようと思っても、その抵抗を嘲笑うかのように私の瞳からは涙が零れ落ちている。視界が判然とせず、震える咽喉から絞り出されたような嗚咽が発せられる。その場にへたり込んでしまいそうになる私の背中を、霊夢は優しく叩いた。そうして、促すように扉の方向を目で示した。私は涙を拭って、黙って頷く。間もなく、豪奢な扉が霊夢の手によって開かれた。
その中に居るお嬢様の姿と、美鈴の後ろ姿が私の視界の中に入ってきた。双方共に驚いたように目を見開いて、予期せぬ来客に視線を注いでいる。私は黙って、閉じられた扉の前に立ち、美鈴とお嬢様とを交互に見遣った。
「さ、咲夜さん!?」
美鈴は強い光を瞳の奥に据えて、私を見た。先日の宴会によって生まれた私との間にある隔たりなど忘れてしまったかのように、体全体で嬉しさを体現しながら。私は「ごめんなさい」と云う小さな呟きと共に、笑顔を返す。美鈴は泣きそうな顔になりながらいいえと云って、頬を綻ばせた。私はそれを見届けて、美鈴の横を取り抜けてお嬢様の前に進む。困惑したように、けれど鋭い目付きのまま、お嬢様は私を見詰めていた。
「霊夢……どう云うつもりなの、これは」
「そろそろ仲直りする頃合いだと思ってね」
「ふざけないで! 私は何度云われようと――」
「お嬢様」
お嬢様が私から視線を外し、忌々しげな視線を霊夢に送って言葉を発するのを遮って、私は呼び掛けた。お嬢様は驚いたように私に目を戻すと、直ぐに視線を下に落とした。私は胸に微々たる痛みを感じながらも、此処まで来て今更怖気づく訳にはいかないと自分を奮い立たせて、またお嬢様に一歩近付き、床に片膝を付いて頭を下げた。戸惑ったお嬢様の声が頭上から聞こえる。それにも構わずに、私は言葉を続けた。
「申し訳ありませんでした」
「……っ、何を今更……私は二度と目の前に姿を現さないでと云ったはずよ」
辛辣な言葉が容赦なく私の胸を抉る。微々たる痛みは段々とその強さを増して、耐え難い物へと姿を変えて行く。それでも私はそれに耐えて、お嬢様に対して謝らなければならない。私自身を守る為に、美鈴の為に、そして――お嬢様の為にも。言訳だと罵られても構わなかった。私はその為に此処に来ているのだから、此処に連れて来て貰ったのだから、するべき事を成さなければならない。今こそ、私はお嬢様の想いに応えなければならないのだ。
「それは解っています。ですが、私には紅魔館しか有りません。紅魔館でしか私は生きられません。ですからどうか、私の話を聞いて頂けませんか。その上で、私をどうするか決めて下さいませんか」
「……知らないわ。出て行って。声も聞きたくない」
私は俯きながら、心を襲う痛みに歯を噛み締めた。お嬢様はどうしても私の話を聞く様子が無かった。これ以上私が口を聞こうものなら直ぐにでも激する危うさを持っていた。だから、私は黙り込んでしまう。聞き遂げられない言葉に意味などは無い。咀嚼される前に吐き出されてしまえば、どんな重みを持っていた所でそれに意味はないのだ。
私は無力だった。今のお嬢様に対して成し得る事が何も無い。けれど引き返す事も出来ない。その矛盾する動機に、何か刺激が無ければ、私はこの沈黙に削られて行く以外に道が無かった。――以前の私ならば、それに耐える事など出来はしなかっただろう。しかし、今私が居るこの空間には、私を助けようとしてくれている人間が居る。私を助けてくれていた人間が居る。彼女は、口を噤んだ私を助けるが如く、お嬢様に向かって口を開いた。
「ねえ、レミリア。あんたは私にも話さなかった事を咲夜に話したんでしょ?」
「……話したわ。でもそれが何だって云うのよ。今は、そんな事関係ない」
「私はあんたの昔の事なんて何も知らないけど、咲夜はそれを知ってるし、素直な気持ちで受け止めてくれるただ一人の人間だって云ってたじゃない。咲夜が居なくなったら辛いのは誰なのか、もう一度考えてみて」
無理に何かを我慢するような、そんな声がお嬢様の口から絞り出される。霊夢は何処までも冷静に言葉を紡ぐ。そこにあるのは、お嬢様が断片的ながらも話してくれた過去を知っているのが、私一人なのだと云う事実。私はその事実に驚いた。お嬢様はもう霊夢にも話しているのではないかと思っていた。加えて、お嬢様の私に対する想いはとてつもなく嬉しものだった。同じ過去を体験したからこそ解る痛みが、私にはある。それを話したと云う事が、お嬢様にとってどう云う事だったのか、詳細は解らないが、それでも解る事が少しだけあった。
お嬢様は私に対して恋慕こそ抱かなかったけれど、最も自分の痛みを理解してくれる、或る意味で恋人よりも近しい位置に私を置いていたのだと。そう――遠く忘れてしまった、母に対して思うような感情を、私に対して向けていたのだと。自意識過剰だと云われればそれまでかも知れない。しかし、それでもお嬢様が過去を話したあの時に見せた弱さは、誰よりも信頼する相手に対して見せるものだったに違いないと私は確信を持てるのだ。
錯落する思考に囚われていた私は、あの時あの場所でそれを理解する事が出来なかった。ただ自分の事ばかりを考えて、お嬢様を視野の外に置いていたのだから。
「私だって……っ、私だってそんな事は解ってる! 咲夜が居なくなったら私がどうなるのかくらい解ってるわ! でも仕方ないじゃない……怖いのよ、裏切られるのが! 信じてた人に裏切られるのが!」
そこに普段の威厳があるお嬢様の姿はなく、その代わりにあの日私に見せた弱々しい雰囲気がお嬢様に備わっていた。しかし今の私に、お嬢様を抱き締める権利などは無い。また、お嬢様にも私の抱擁を受け止められるほどの余裕がない。私は全ての想いをお嬢様の前に、言葉のみで説明しなければならない。これは試練だ。与えられるべくして与えられた私に対する試練。これを乗り越える先にしか、私の未来は存在しない。故に私は告げる。私の全てを守る為に。
「お嬢様。私は自分がした事がお嬢様をどれだけ傷付ける事だったのか、今になって理解したつもりです」
「理解した所で、過去に戻れる訳もないじゃない。理解したのなら、此処から出て行って。それが正しい選択」
「お嬢様は私に云いましたわ。何をしても意味が無いから何もしなかった、と。暗に私が逃げていたと仰いました」
「……」
「私はあの時それを否定しました。自分が逃げていたのだと云う事を認めたくなかったからです。しかし、今は認めます。私は自分を受け入れない人間に対して、逃避の選択を取っていました」
「それが、どうしたって云うの」
「だから、もう逃げません。私は、自らの過去を語って下さったお嬢様を裏切りました。独りを何よりも恐れていたお嬢様に対して、最低な罪を犯しました。だからこそ贖罪をさせて下さい。犯した罪を購う機会を、下さいませんか」
強く、そう告げる。私はそれきり顔を上げなかった。私の願いに対するお嬢様の答えがどんな言葉であれ、それを受け入れるつもりだった。だから、これから紡がれるお嬢様の言葉は私の未来を示す選択肢の内の一つ。それを聞き遂げるのが、この場で私が出来得る最高の行い。過去は変えられない。ならばこれからを変えて行く。罪を犯してしまったのなら生涯を懸けて私は贖罪に努めて見せる。それが、例えどんな苦しみの付き纏うものであったとしても。
窓が鳴る。閉じられた窓掛けの向こうにはきっと、蒼茫たる空が広がっている。白い太陽が世界を照らし、漂う雲が時を感じさせる空が広がっている。同時に私の中にも一つの窓がある。窓掛けに遮られて何も見えはしない窓がある。その向こうに何が見えるのか、今の私には解らない。ただ、何も見えはしない漆黒が見えるのか、果てのない空が広がっているのか、そのどちらかであるようには思う。全てはお嬢様の言葉によって判然とする事だった。お嬢様の言葉一つで、私の窓を覆い隠す窓掛けは他愛なく開く。それを今、私は待ち望んでいる。
「……」
答えは一向に返って来なかった。
部屋の中は沈黙に包まれている。誰の息遣いも聞こえはしなかった。
外界から入って来る音ですら、存在し得なかった。紅魔館に居る生物が、私達だけになったかのような静けさが流れている。身体を押し潰そうとする恐怖が、その静けさと合わさって私に圧し掛かる。沈黙が破られるその時までこの恐怖に耐え続けないとならないと思うと、背筋が凍り付くようだった。極寒の地の冷気にも、この恐怖は勝っている。
――ぽたり。
私の前に何かが落ちる。小さな音の波紋は積み重なるようにして、一粒二粒と音を奏で、静謐な部屋の中を包み込む沈黙を内側から破壊して行く。私はまだ顔を上げなかった。ただ恭しくお嬢様の御前に佇んでいる。その内に、誰かが室内を歩き出して、お嬢様の隣に移動した。――静寂を打ち破った声は、霊夢の物だった。
「そんな顔してるって事は、咲夜を戻す気になった、って事よね」
お嬢様の声は聞こえない。ただ、霊夢が私を立つように促した。
「泣いてなんか……ないっ……!」
お嬢様は顔を床に向け、小さな双肩を震わせながら拳に力を入れていた。立ち上がった私はどうする事も出来ず、その場に立ち尽くしながら霊夢を見る。霊夢はにこりと笑って見せると、この場の空気にはまるで似付かない軽い足取りで私の横を通り、美鈴を連れて部屋を出て行った。扉が閉まる音が、妙に大きく聞こえる。
部屋の中に取り残された私とお嬢様は、先刻から何も変わらない立ち位置のまま佇んでいた。お嬢様の足元には時折透明な雫が落ちて、赤い絨毯に染みを作っている。しゃくり上げる声も聞こえて来る。私は何もかもに窮したまま、徒然に打ち震える両の手で握ったり開いたりを繰り返していた。
「咲夜なんて……、暫くは門番の手伝いよっ。掃除も料理も全部咲夜がしなさい……!」
震える声音が紡ぐ声。
流れる涙に込められる想い。
我慢を忘れた私の心。
開かれて行く。私の中の窓を追い隠す窓掛けが開かれて行く。
私はお嬢様の背中に手を回した。私の背中にもお嬢様の手が回された。
「それで、早く紅茶を淹れなさい……っ」
薄暗い室内に響く泣き声。
互いの背中に回された手に籠った力。
蒼銀の髪の毛が私の鼻孔を擽る。
窓の外に漆黒が広がっている。先の見えない、恐怖すら感じさせる暗闇が広がっている。
震える声が、お嬢様の言葉に返事を送る。
「……はい」
照らされている。闇夜に浮かぶ月光が、漆黒の帳を引き裂いて、儚く咲いた花が、朧気な光に照らされる。何時か咲き誇るその花を、束にしてあの月に送ろう。何時か届くと信じて、あの月に捧げよう。
紅の光に染められた、この白い花を。
◆15.月光花
春が幻想郷に遣って来た。
紅魔館の周りの植物も、その全てが春の彩りに溢れている。私はそんな光景を、薄暗い室内の、僅かに空いた窓掛けの隙間から窓越しに眺めていた。時折花びらが窓を横切り、風に攫われて何処かに舞って行く。そんな光景を見ては、私は日々の平和を噛み締めるのだ。こうして窓から見る景色に色がある事を嬉しく思うのだ。
「ん……」
と、明媚な風景に見惚れていた私を我に返す声が、後ろの寝台から聞こえてきた。見ると、山が出来ている布団が小さく動いている。それを見て、私は自分が本来此処に何をしに来たのかを思い出して、天蓋付きの豪奢な寝台に歩み寄った。掛け布団の頭の方から、蒼銀の髪の毛が覗いている。小さく動いたと云ってもその眠りはまだ深いようで、私の前で眠っているお嬢様は静かに寝息を立てて、心地良さそうな様子だった。
今日はお嬢様が博麗神社に赴くと云うので、早めに起こして欲しいと頼まれていた。だから、こんなにも心地よさそうな眠りに就いているお嬢様を起こすのは些か気が引けるのだが、起こさなくては更に怒るに決まっているから、私は心を鬼にしてお嬢様の肩を軽く揺さぶろうと手を伸ばす。その手が触れるか否かの瞬間に、お嬢様の小さな唇が何かを呟くように動いたので、思わず私は伸ばしていた手を引いてしまった。
「れい……む……」
「……」
ちくりと、私の胸が小さく痛んだ。お嬢様はあれ以来霊夢と更に親しくなったようで、最近は殆ど毎日博麗神社に赴いている。そして、今では私はお嬢様に付き添うような事をしていない。霊夢の傍に居れば、万が一の事態も考えられないと判断したからだ。尤も、それは建前でしかなく、本音を云えば二人の間に無粋な掣肘を挟みたくなかったからで、簡単に云えば恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死んでしまえ、と云う慣用句の通り空気を読んでいるに過ぎない。
それでも、お嬢様が博麗神社に赴く時も、こうして不意に霊夢の名を呼ぶ時も、私は小さな痛痒を覚えてしまう。感情を制御出来なくなると云う最大の愚行を犯すような真似はもう間違いなくしないが、それ故に私はその蟠りが次第に胸の底に溜まって行くようで、苦しい思いをしている。だが、それを顔に顔に出すような事は決してしない。私はあれから瀟洒な従者に戻る事が出来たのだ。全てが完璧な従者は、主の前に情けない顔など晒さない。
――しかし、お嬢様が眠りに落ちている時くらいは、多少は許されるだろうか。そう思って、私はお嬢様を起こさないように、そっと白い頬に手を当てて閉じられた瞼を見詰めた。
言葉は発さなかった。お嬢様が起きてしまうのを恐れただけでなく、言葉にする事で私のこの想いが陳腐なものに成り下がるのを避けたかったからでもある。だから、私は心の中でお嬢様に語り掛ける。もう二度と紡ぐ事の出来ない言葉を、伝えないまま、胸の奥深くに仕舞い込んでしまった滾る恋情を、言葉に変えてお嬢様に語る。決して返事が返って来ないと解っていても、決して繋がり合う事が出来ないと解っていても、私は語っている。
嗚呼、涙が出そうになってしまう。これ以上お嬢様を見詰めていたら、私はきっと泣いてしまう。私は目尻を指で拭うと、今度こそお嬢様を起こそうと肩に手を当てた。その時に、再びお嬢様の唇が動いたので、一先ず私はお嬢様の肩を揺するのを先に見送り、今度はどんな言葉が飛び出るのだろうと待ち構えた。
「さく……や……」
息を呑む。心臓が一瞬跳ねあがり、その余韻を残して激しく脈打つ。私は目を見開いてお嬢様の寝顔を見詰めた。普段の怜悧な面影を今は隠して、無邪気な寝顔は私の心を揺さぶった。一度は収まった涙の奔流が、戻ってきてしまう。気を抜いたら直ぐにでも零れてしまいそうだ。――お嬢様は卑怯だと思った。
私がお嬢様に必要とされている事は解っている。霊夢とは別の意味で必要とされている事も解っている。だから、私はお嬢様に何を告げる事も出来ない。私は喉まで出かかってしまった言葉を無理やり押し込み、お嬢様の肩を軽く揺すった。間もなく、閉じられていた瞼が開き、紅の瞳が眠たげに私を見詰めた。
「おはようございます。今日は神社に行かれるんですから、起きて下さい」
「んー……紅茶は……?」
掛け布団を少しだけ下げて起きる手伝いをすると、お嬢様はそれをまた身体に持って行って、寝返りを打ってしまった。私は嘆息を一つ落として、呆れ気味に子供のようなお嬢様を見遣る。起きたくないないとでも云うように身じろいでいる姿はある種の愛嬌があるが、今は起きてくれないと困る。何より後で何で起こしてくれなかったのだ、と癇癪を受ける羽目になるのだから、此処で起きてくれないと私が大変な目を見る事になってしまう。
「用意してあります。目覚まし用に、何時もより砂糖は少なめですよ」
そう告げると、漸くお嬢様は寝台の上に身を起して瞼を擦った。そうして、僅かに開かれて、そこから差し込む太陽の光に顔を顰めると、吸血鬼にとっては最悪の天気ねとぼやいて着替えを促した。私は既に用意していたお嬢様のドレスを見せて、袖を通す。お嬢様はその間に紅茶を飲んでいた。紅魔館の裏に作られた畑で採れた紅茶の葉を、私がお嬢様好みの分量で、そして完璧に葉が開くまでの時間を計り、完璧な味で拵えてある紅茶だ。今日は中々の自信作だった。
「やっぱり、咲夜の淹れる紅茶が一番ね。霊夢の所でも緑茶を貰うけど、私には合わないようだから」
「有難うございます。今日のは自信作ですから、そう云って頂けると嬉しいです」
――でも、霊夢の名を出すのは今では無粋です。
そう云いたかったが、云えるはずもないので私は仕方なしに着替えを進めて行く。その内に、鼻唄を歌いながら紅茶を嗜んでいるお嬢様に一つ意地悪を思い付いた。私はそれを早速実行すべく、含んだ笑いを浮かべながらお嬢様を背中越しに呼ぶ。お嬢様は気分が良さそうに、それに応えた。
「お嬢様、意外と寝言が多いですね」
「え、あ……何か云ってたの?」
「よく聞き取れませんでしたので、内容は解りません」
「本当に? 嘘だったら止めなさいよ」
「本当に解らなかったので、大丈夫ですよ。ただ、凄く嬉しそうな顔をしてましたが、良い夢でも見てました?」
「ん、まあ、少しね。大切な人が出て来る夢よ。前に見た悪夢なんかじゃなくてね」
「そうですか」
「何か、やけに嬉しそうにするのね」
「私は何時も通りです」
私は小さな喜びを胸に仕舞って、お嬢様に気付かれないように微笑んだ。
そうして、背中の最後の留め具を付けて、着替えが終わった旨を知らせた。お嬢様は一言礼を云って、空になったティーカップを私に手渡して行って来るわ、と云った。私はお嬢様を見送る為に、かつ今の職場の一部となっている門の前に向かう為に、付き添って歩く。ティーカップは既に片付けていた。
「それじゃ、行って来るわ。留守の間よろしくね」
「はい。行ってらっしゃいませ、お嬢様」
「行ってらっしゃいませー、お嬢様」
私と美鈴に軽く手を振って、お嬢様は日傘を翳して蒼い空に向かって飛び立った。その後ろ姿が見えなくなるまで見詰めていた私だったが、やがてお嬢様の姿が完全に見えなくなると隣に居る美鈴と一緒に門の前に立った。暫くの間、私は紅魔館の門番兼メイド長をやる事になっている。だから、最近は毎日美鈴と長い時間を共にしていた。今では。以前よりも関係が近しくなったように思う。そしてそれが喜ばしいとも、思っている。
「そう云えば、近い内に大きい宴会をするみたいですけど、咲夜さんはまた手伝いに行くんですか?」
門の前に立って、二人して遠くの景色を眺めていたら、美鈴がそう云った。私は美鈴に向き直って、暫く考える。今回は、前回のように博麗神社に行く気にならなかった。それに、頼まれようと頼まれなくとも、お嬢様は霊夢に会いに行くだろう。つまりは結果的に手伝いをさせられる事になる。私は行く必要が無かったし、また特別行きたいとも思わなかった。それよりも、と心の中に呟いて、私は美鈴を見る。美鈴は不思議そうに黙り込んでいる私を見詰めた。
「行かないわ。此処で門番をしている方が、私にとっては大事な時間の気がするから」
前を向く。燦々と降り注ぐ陽光が、広い湖の湖面を輝かせている。水辺から少し離れた所に咲いた桜の花が、揺れる水面に漂って、春だと云う事を実感させた。ふと、一枚の花弁が私達の元に運ばれて来た。褪紅色の花弁が、風に踊らされて揺れる度に、背景の湖の光が目を射抜く。やがて、その花弁も一際強く吹いた風に乗って蒼穹に舞い上がった。
私は、それを見届けて美鈴を見遣る。そして、「貴方は?」と尋ねた。
「勿論、私も咲夜さんと同じです」
二人で微笑み合う。穏やかに流れ行く白い雲が、私達の上空を過ぎ、宛てのない行く先に向かって漂って行く。
私は美鈴に近寄った。そうして座らないかと持ち掛けた。少し戸惑った様子の美鈴だったが、やがてはいと頷いたので、私達は門の前に座った。肩が触れるくらいの位置。横を向いて見れば直ぐに美鈴の横顔が見える位置。
私達は春の空の下、そうして座りながら門番としての仕事に務めていた。
この平和を、今一度噛み締めながら。
レミリアと霊夢の感情、そして美鈴の感情と咲夜さんのレミリアを誰よりも愛しく想う感情。
咲夜さんがレミリアに感情を吐き出すことはもう二度と来ないのでしょうか?
これも綺麗に纏まっているのですが、私は咲夜さんがレミリアにその愛を受け入れられなくても
告白して、蹴りをつけてくれたほうが良かったかなぁ・・・と思ったりもしました。(苦笑)
でも、最悪の事態にならないで良かったです。
これから彼女らに幸多きことがあって欲しいですね。
美鈴は部下の鏡です、名前だけの登場だったパチェの諭す姿も見たかったな……
公式が~とか書くのは野暮でしょう、よかったです。
咲夜さんにはお嬢様への恋にきっちりけりをつけて
新しい恋に踏み出して欲しいと思いました。
個人的にはその恋の行く先に美鈴がいてくれると大満足なのですが。
破滅的な結末じゃなくて良かったー…レミ霊も咲レミも好きな自分としては一安心。
咲夜さんのけじめのつけ方には賛否両論あるようですが、自分はこのくらいで
いいんじゃないかと……あんまりあっさり美鈴に乗り換えられても興醒めですし。
惜しむらくは、前編がやや表現に凝りすぎて読みづらく感じたのと、紫の意図が
未消化のまま話が終わってしまった事で……というわけでこの評価で。
どうもすっきりとしない感じ。
というより美鈴もパチェもその他紅魔館のメンバーも、咲夜が主の恋人を殺そうとしたことを知っていたら絶対フォローなんかしなかったんだろうな、と。
その事実をレミリアが皆に言わなかったあたり、はじめから帰ってきてほしかったんでしょうね。
霊夢がいくらいいって言ったからって、咲夜の帰ってくる場所を残しているあたりレミリアの対応にも不審なところがある。恋人の生命の危険よりも従者との絆を優先しているところが読後にすっきりできない理由なんじゃないのかなと。
後編はどこか取って付けたような印象が拭えませんでした。
ですが、最後の「幻想ノ詩―十六夜の連―」でグッときたので80点。