冗談だと云って欲しかった。けれど彼女が紡ぐ声音に諧謔は微塵も見えなかった。
決して彼女が私に対して云った言葉が信じられなかった訳ではなく、単純にその言葉をこの耳に収めるのが生理的に受け付けられなかった。かと云って耳を塞ぐなんて事が出来るはずもなく、私は瞠目したまま残酷な温もりを胸に抱いている。彼女は涙に濡れた紅玉を私に向けて、細い瞳孔に寂寞を漂わせながら、震える声で言葉を紡ぐ。
続けないで、そう願う私の気持ちなど知る由もなく、容赦なく続けてしまう。
「ねえ、咲夜」
まるで、独言を連ねるように。
まるで、目の前が見えなくなったかのように。
私と云う存在はその場に限って、無意味に等しかった。
鋭い犬歯が月明かりを浴びて、鋭利な光へと変わって私に届く。桜色の小さな唇の両端には寂しげな笑みの形が象られて、白い光を浴びて更に白さを増す頬はその寂寞をより一層濃くさせた。何故、そのような顔をするのか、何故そのような目で私を見たのか、私は理解出来なかった。それこそ麻縄を噛み切る思いで事態を飲み込もうとしていた。
「私――」
――嗚呼、きっと彼女が紡ぐは別れの言葉。
無限を無限で無くす有限の刃。
手綱を手放された馬は見えもしない目的地を目指して走り狂うしかなく。主は一人、決して私の手が届かない遥かなる空へ、その中心に悠然と浮かぶ紅い満月を目指して翼を振るう。主を失った馬はどうすれば良いのか、私は知らない。ただ、その場に佇み続けるほど不幸の付き纏う行動は有りはしないのだろうと、それだけは明らかに理解する事が出来た。
――嗚呼、彼女はきっと誇らしげに。
彼女はきっと楽しげに。
彼女はきっと悲しげに。
刻薄なナイフの冷たさを以て、彼女の為に血潮を送る私の心蔵を貫くだろう。
せめて噴き出る鮮血を、全て彼女に飲んで貰えたら。
せめてこの命がそれで尽きるなら。
私に対する恩倖に、それ以上などは存在し得なかった。
――時計は廻る、世界は廻る。
その全てを止める力が有れば、良かったのに。
残酷な運命は私に目もくれず、廻る。
――「廻る運命、狂う月時計」
◆1.夜伽
私よりもずっと小さく、細い指が私の服越しに腹部をなぞる。擽られているかのようなむず痒い感覚は、快感とは違うが、それでも触られた箇所は段々と熱く、熱を孕んで行く。開け放たれた窓掛けは光を遮断する力を無くし、夜空に光る三日月の光は遠慮なく薄暗い室内の窓際だけを明るく染め上げていた。
「んっ……」
腹部をなぞっていた細い指が、私の着ているメイド服に手を掛けて、丁寧な手付きで脱がされた。胸を覆う下着を残して、上半身の服が脱がされると、少し冷たい空気が直に触れる。先刻触れられて既に熱を持ち始めている腹部に触れた冷気は微かな快感を私にもたらして、身を震わせた。
その反応に気を良くしたのか、私の肩に手を置いて抑え付けてくる小柄な少女は、鋭い犬歯を唇の端に覗かせて嫣然と微笑んだ。紅の瞳がそれと共に細められて、私は羞恥を少しでも紛らわす為にふい、と目を逸らす。その先に、また白く輝く三日月が見えた。霧のような雲が徐々にその姿を隠し掛けていたが、それを茫然と眺める暇は私には無い。
「どうしたの? 目、逸らすなんて」
「……解ってて云っているでしょう。お嬢様」
肩を押さえ付けていた手を今度は私の頬に宛がって、無理やり視線を合わせるお嬢様は悪巧みを成功させて嬉しがる幼い子供のような稚気を含んだ笑みを湛えながら、その瞳に私を収めていた。それが更に羞恥を煽り、耐え難くなってしまったから、せめて目線だけは有らぬ方向に投げ出して、頬に伝わる冷たい手の感触を受けても尚熱い頬を恥じた。
お嬢様は「解るのね」と楽しそうに云いながら、私の頬に手を宛がったまま顔を近付ける。その所為で、視界の端にしか見えなかったお嬢様の顔は直ぐに私の視界を埋め尽くしてしまって、それと時を同じくして唇に伝わる柔らかな感触と、やはり冷たい感覚は、殊更に私の頭に血を上らせた。真赤になっているのが、云われなくとも自身で解った。
「恥ずかしそうにする貴方、可愛いんだもの」
「そんな事……」
「無い? ふふ、謙遜も過ぎれば侮辱になるのよ」
「ぁっ……」
触れるだけの短い口付を交わしたお嬢様は一度顔を上げてそう云ったかと思うと、私に何かを云わせる暇を与える事なく標準ほどしかないだろう私の胸に顔を埋めた。途端に擽ったさのような感覚は増して、思わず身を捩りたくなってしまうが、私の下に敷かれる純白のシーツを力の限り握り締めて堪えた。
薄目を開けて顔を下に向けると、蒼銀の髪の毛が動いている。その動きに呼応するようにして胸に伝わる暖かな唾液と、艶めかしい舌の感触とが、擽ったさを次第に確かな快楽へと変貌させて行った。口から洩れる甘い吐息も徐々に荒くなり、シーツを握り締める力もそれに比例して強くなり、破けてしまうのではと、場違いな危惧を感じていた。
「ふっ……ん、ゃ……あ……」
お嬢様は私が与えられる快感に反応する度に、一度上目で私の目を見上げる。それによって羞恥が煽られると共に、どう云う訳か感度が上がってしまう。そう云った性質を、私よりも理解しているお嬢様は胸から顔を上げると何処か恍惚とした瞳で私を見詰めた。冷徹なようで、何よりも暖かく感じられる瞳は、優渥な光を湛えているようだった。
「……」
私を見つめ続けるお嬢様の背後に備えられた窓から覗く、大きな三日月が神々しい輝きを放っている。それが後光のようにお嬢様の背中に降り注いでいる為に、その背中から生えるのが悪魔のような翼だったとしても、お嬢様の姿は天使のように見受けられた。ただ、自分は悪魔だと示唆するように、唇から覗く真白な犬歯はやはり輝いている。
汚れの一点も見付からない白が、月明かりを浴びて殊更に白く光る。私はそれを見る度に一種の畏怖と、崇高にも似た感情を覚える。そしてまた、私だけが知っているその牙の鋭さや、与える痛みなどを思い出す度に誰にとも付かない優越を覚える。鋭利に尖った、命を吸い取る牙は恐ろしくも美しく、それでいて神聖だった。
「咲夜、次はどうして欲しいのかしら」
意地悪い笑みと、細められた赤い瞳が私の言葉を促す。それを云わせるのがお嬢様の愉しみなのか、それとも単に他者を従えている優越を得る為の独裁的な思考の所為か、考えても判然とした答えは一向に出て来る事は無く、元よりお嬢様の命令を拒否する権限などは存在しなかったから、私はお嬢様の視線に自分のを合わせると一思いに云い切った。
「私の血を、お飲み下さい」
そう云って、首筋に歯が立て易くなるように、私は首を捻って見せた。お嬢様はくすりと笑みを噛み殺して、「そうね、頂くわ」と云ってから私の首筋に柔らかな唇を押し付けた。私は直ぐに来るだろう微かな痛みに備えて、眼を瞑り、歯を噛み締める。そして予期した通りに皮膚を貫かれ、肉に牙が突き刺さる鋭い痛みは首筋を伝わって脳髄を刺激した。
思わず、首筋が反ってしまう。その痛みが、私が望んでいた物だと思うと痛覚は忽ちに麻痺し、それどころか快感が遣って来る。私の背中に回される細い腕は感触だけですら愛おしく、私も同じように腕をお嬢様の小さな背中に回す。途端に密着する身体の面積が増え、それに続いて快感が増したような気がした。
「ぁ……ん……ぅ……っ」
「……」
じゅる、形容するならばそんな音が、私の首筋から聞こえて来る。何かを吸い上げられて行く感覚はとても慣れる物では無かったが、確かに襲い来る快感はそんな瑣末な事は直ぐに忘却の彼方に押し流してしまって、後に残るのは私の生命を繋ぐ紅い血潮がお嬢様の喉を流れていると云う事実に対する、随喜だった。
飽くまで悠然と、お嬢様は沢山時間を掛けて血を啜る。その間の徒然に飽き飽きしたお嬢様の左手は、私の足の根元の方へと向けられていた。首筋から容赦なく与えられる快感と焦らされているかのように行為を進めない左手の指とが、頭の中を掻き回して正常な思考を失わせ、小さな背中に回していた腕にも力が入る。
最早月明かりに煌めくお嬢様の蒼銀の髪の毛以外を見る余裕を無くした私は、それでも何とか顔を首筋の方へと向けようとした。それでもやはり、間接の限界をただの人間が超えられるはずもなく、お嬢様がどのような表情をしているのかは私から見る事は出来なかったが、きっと私の被虐的な快楽に打ち震えている様を見て口元を歪めているのだろうと思った。心なしか楽しげに鳴った、じゅる、と云う音が静謐な室内に水滴を落としたかのように、広がって行く。
「おじょう……さま……っ……!」
身体の原動力とも云える血液を惜し気もなく提供しているからか、それとも痛みに混じる強烈な快楽に脳が融解してしまった所為なのか、どちらとも付かない曖昧な感覚を享受しながら、私は次第に視界が薄らいで、力を込めていたはずの腕の感覚が指先の方から徐々に無くなって行くのを朧気な意識の中に捉えていた。私と云う存在を保つ自我が次第に乖離して行くような――一種不快とも取れる感覚は、それでも私には心地よく感じられた。
お嬢様はそんな私の心中を汲み取ったのか、焦燥感ばかりを募らせる左手の動きを急激に変えて、長い爪が生え揃う指を下着の上から埋没させた。その劇的な変化が与える快楽は先刻の比較の対象にも成り得ず、私は背中を大きく反らして、苦しくなるくらいに首を伸ばしてその熾烈な快楽に耐えた。その時にはもう、私の視界に映っているのは大きく豪奢な寝台の天蓋と、それを薄明るく染め上げる霧のような月明かりだけで、思考を繋ぐのはお嬢様の体温のみだった。
「ふふ、ご馳走様。美味しかったわ」
――開いていたはずの瞼が急速に重くなっている。お嬢様の笑みを含んだ言葉は壁を一枚隔てているかのように聞き取り難い。休む間もなく仕事をし続けている時よりも激しい倦怠感は、瞼の下降を阻む事を許さず、お嬢様の表情をこの目に収めようとする私の意思に反して次第に閉じて行く。
私の感覚器官と、脳を繋ぐ神経の束は一本ずつ断ち切れて、最後の一本が確かに私の脳へと伝授した感覚を残し、私の意識は足を懸崖から踏み外したかのように、冥々たる穴の底へと落ちて消えて行った。口内には生暖かな血の味だけが広がっていて、お嬢様が最後に何をしたのかを刹那の瞬間に私に悟らせた。
◆2.夢想連歌 ―邂逅の句―
残酷な光を湛えている。
明らかな畏怖を秘めている。
容赦の無い差別と嫌悪の視線が私を射抜く。
それら全ては蔑みの一点に収束されて、言葉と云う弾丸は心を砕く。
流れる血は涙と同義。感じる痛みは瓦解の予兆。
小さな手の平に握られた銀時計をかちりと鳴らすと、より一層冷たくなった眼差しが傷口を凍らせる。
止まった投石を避け、抜けられない眼差しから目を逸らし、歪む時空に浮かんだ紅の月に向かって手を伸ばし、届かない事を知りながら、それでも手を伸ばして狂った時の中を走り抜ける。亀裂が覆う世界の中を、宛てのない目的地に向かって一心不乱に走り抜け、割れた世界の外、辿り付いたのは私が存在していた世界のように窓の少ない大仰な屋敷の門の前だった。その途端に、今まで時を刻む音を鳴らさなかった銀時計が再び秒針を廻し、それに続いて分針を廻し、時を紡ぐ。
感覚を取り戻した身体は酷く冷たかった。しかし、その寒冷を感じる暇も無いままに、横たわる身体に力は入らず、柔らかな草の茂みに抱かれながら暖を求めた。暗雲広がる低い空に、目指した月は一向見えず、眇然たる私の存在を掻き消そうと厚い雲が俯せになった私の背中に圧し掛かっている。小さく脆い銀時計は雨に降られて悲しく廻っている。それでも時は刻まれる。私の身体は氷水に浸けられたかのように熱を失い形を失くし、崩れた身体はもう元には戻らない。
「結界が破られたと思って来てみたら」
何時からか、ざあ、と雨が降り注いでいた。
強い雨を身体に受けていると、水溜りを踏む足音が遠く聞こえ、近くに聞こえ、最後には耳元に聞こえた。視界の端に清潔な靴が泥に汚れているのが判然と映っている。長いドレスの裾が微かに薄汚れている。私は全身が汚れている。雨は全てを洗い流す事なく、地面の泥を跳ね除けて、私がそうされていた時のように飛礫を頬に叩き付ける。
――嗚呼、どうしようもなく痛過ぎて。その雨粒はナイフの切っ先のように冷たく鋭く突き刺さる。
「死に損ないの食料が捨てられてるわ」
ざっ、と雨が降り注ぐ。背中に刺さる雨粒が消え、足元だけに刺さっている。誰かの膝が見えた。膝を抱えて私の顔を横から見ている瞳が見えた。私はその瞳に、目指していた月を見出した。彼女の瞳は宝石のように輝かしく、血肉を切り裂いた刃物のように艶めかしく、恐ろしく。なんて冷たく、なんて無機質なのだろう。それを見ていると、今まで味わった事のない感情の萌芽が心の奥底から芽吹いて行くように思えた。降り注ぐ紅雨を切り裂くその眼に、私は初めて他人に対して畏怖の念を催した。
――嗚呼、どうしようもなく寒過ぎて。翳された傘の下はまるで極寒の大地に身を横たえている心地だった。
「ねえ、貴方。悪魔は嫌い?」
驟雨のような激しい雨の中、玲瓏と響いて私に届くその声音は何故そんなにも温かいのかと、最初は驚いた。けれどもそれは、今まで氷点下を下回る言葉しか知らなかった私が、零度すらも暖かく感じられていたのに他ならなく、臆病で虚弱で脆弱な私は彼女とは全く違った、今にも消えそうな――それこそ虫の死に際の鳴き声にさえ劣る儚い声音で「いいえ」と云った。手の中から聞こえていた時計の音が、何処かに行ってしまったかのように聞こえなくなっていた。
「そう――」
無様に地に臥す私に、彼女は寂寥と猜疑と微かな嬉々を湛えると、紅の目を細めて小さく可憐な唇に歪曲を描いた。その時に鋭く尖った歯が姿を覗かせた。ばさりと云う音と共に彼女の背中から蝙蝠のような翼が姿を露わにした。目を見開いて、その全貌をこの目に収め、私の意識は糸を切られた操り人形のように途切れた。ただ、それでもしつこく付き纏う雨音の中に、もう一度だけ彼女の声を聞いた気がした。
それはまるで、一本の矢が一瞬間に鼓膜を射抜いたかのように唐突で、それでいて判然と伝わった。
「――私は、大っ嫌い」
誰にともなく、またどの物に対してでもなく、彼女の言葉は最大の自嘲であり、皮肉だったような気がした。冷たく刺さるその声は、刀身だけでなく柄でさえも刃で造られた刀が、私と、そして彼女自身をも貫いているかのようで、狂気で造られた凶器から伝わる熱は酷く熱く、酷く冷たく思えた事を、鮮明に記憶している。
世の中を憎み、妬み、憂い、蔑み、悲しんだ私は、私と想いを同じくする厭世的な者と生まれて初めての邂逅を果たした。或いはそれは、運命だったのかも知れない。
◆3.穽陥
私が覚醒した時、一番最初に目に入ったのは豪奢な寝台の豪奢な天蓋だった。心なしか、その天蓋が歪んで見える。昨夜の事を考えれば、あの次の日は必ず快調にはならないが、不思議とそれが嫌にならない。私は乱れたままの服装を正そうと、上体を起こして寝台から降りようとした。そこで、隣りにお嬢様が穏やかな寝息を立てているのに初めて気が付いた。お嬢様は下着のみを着けた恰好で、私の方を向きながら静かに寝息を立てている。こうして見ると、本当に幼い少女のようにしか見えないのに、普段は淑女のように振舞っているのだから、生きて来た歳月の差を思い知る。
私はお嬢様を起こさないように寝台から降りて、昨夜脱ぎ散らした洋服を手際よく着ると、開け放たれている窓掛けを閉めた。今日は太陽が燦々と光を降ろしている。お嬢様もあの陽に当たるのは流石に苦痛だろうから、薄暗くなった室内を一通り眺めてから、寝ているお嬢様に布団を掛け直して、私は部屋を出た。
「……あの夢、随分と久し振りに見たわね」
扉を後ろ手に閉めて、森閑とした廊下で私は一人呟いた。あの夢を見ると、決まってその内容を克明に覚えている。思い出したくはない記憶だけれど、深層に刻まれた記憶は良し悪しに関わらず鮮明な色を残したまま褪せる事はない。忘れるはずもない、私が紅魔館に辿り着いた日の記憶は、私が送ってきた人生の中でも決して忘れる事の出来ない記憶だ。けれど、あの夢を最後に見たのは思い出せないほど前だったから、妙に思った。
あの夢は大抵昨夜のようにお嬢様との儀式にも似た夜伽の日に見る。お嬢様は吸血鬼だ。その糧は一つだけに限られた訳ではないが、それでも本能に似たその欲望は満たさなければならなく、即ち吸血と云う行為を助ける為に私は時々お嬢様に呼ばれた日には自らの血を捧げる。決して苦ではない。むしろ私の血がお嬢様の役に立っていると云う事実は、今もある倦怠感や、行為に及ぶ時の痛みなどを差し置いて誇りに思える。いや、愛おしく思えるのだろう。
「……」
あの夢――あの夢は、私の在り方を支える為に今も尚私に過去を見せる。人々の蔑みの視線が網のように私を取り巻く中で、向けられるのは石や罵声ばかりで、生まれた時から持っていた力を恨んでいない時などは存在しなかった。私が生まれた時に、母は既に他界していた。それからどうやって生きてたのか、私は覚えていない。覚えると云う生物の無意識的な機能が、私の脆弱な精神を守る為に働かなかったのか、それとも私が意識的にその記憶を削除したのか、それは定かではないが、少なくとも思い出して気持ちの良い記憶ではないのだと、解っていた。
――私は、人で在りながら人では無かった。
母の形見の銀時計を止めるだけで現実世界の時が止まる事を知った時、それでも私は自分が人間だと思っていた。少しだけ他人とは違うだけで、根本的な部分は他人と何も変わらないのだから、そう思っても不思議ではない。しかし、飽くまで主観的で自己保身ばかりを考えているその考えは他人にとっては理解し難い物だったに違いない。人々は私が人として明らかに異端な能力を持っていると知った時、私の名を呼ばなくなった。
私の能力が他人に広まった時から私の名前は〝化け物〟〝悪魔〟〝魔女〟など、殆ど記号としてしか機能しない単語になった。それらは決まって一様の視線と共に吐かれる。或る者は私を腫物を扱う時のような憐憫を湛えた視線で見て、或る者は嫌悪と蔑みを籠めた形相で睨み付け、石を投げられるのは当たり前だった。その度に、幼かった私は自己を守る為に能力を使ってその場から逃げた。だが、最終的にはそれが更なる畏怖を生み、恐怖を孕ませ、私を孤独にする結果にしか成り得なかった。それに長く耐え続ける術があるはずもなく、私は或る日を境に力を暴走させた。
そこまでの経緯がどう云うものであったのかは、ただ一人の当事者である私にすら判然としない。
ただ、〝もう嫌だ〟と強く願い、銀時計を握り締めた時に私を取り巻く世界が歪み、爆ぜた気がする。そうして現れたのは、亀裂が所々に走った半球型のドームのような空間で、酷く歪で不安定な形をしているその空間を、無我夢中に走り続けていたら、かつての紅魔館に辿り着いたのだった。一向に止まない雨が、音を立てている日だった。
「あ、咲夜さん! おはようございます!」
と、思案に暮れていた私の耳に威勢の良い挨拶が飛び込んできた。疲れ気味の私にはその大きな声が羨ましくも憎らしいものにも成り得るのだが、挨拶をした当の本人にそれを知る由がある訳もなく、彼女はご機嫌に笑顔を保ったまま私の元に小走りで近寄って来た。薄暗い廊下の中にも、色褪せない艶やかな紅の髪の毛は、お嬢様とは一風違った趣を醸し出している。彼女が足を進める度に揺れる長髪の髪の毛はさながら紅い水の潺湲のように波打っていた。
「おはよう。朝から元気良いわね」
「そりゃもう、門番は体力が資本ですから!」
「その割には負けが多いようだけど?」
「う……つ、次こそはですよ、次こそは!」
「そう、期待してるわ。パチュリ―様にも伝えて置くから、頑張りなさい」
からかうように云うと、彼女――美鈴は「うぅ、重圧が……」などと嘆いた。実際、あの黒白の魔法使いを簡単に止められるなどとは誰もが思っていない為、美鈴が門番としての仕事を満足にこなせないだろう事は紅魔館に居る全員が知っている事だから強くは咎めていないが、美鈴自身、満足行く仕事を達成出来ていないのが気に掛かるのか、あの魔法使いに門を突破される度に沈鬱な表情を見せる。訓練を惜しまない美鈴の性質は、私にとって眩しいものだった。
美鈴は自分の持つ力を伸ばそうと日々の鍛錬を欠かさない。実際、私が紅魔館に来た時から彼女を何時も見ていたが、その実力は鍛錬の結果を裏切らずに研ぎ澄まされているようだった。惜しむべくは、美鈴と同じようにあの黒白の魔法使いも日々の研究を欠かさず、良い成果を出している事で、現状では実力の差はいたちごっこが続いている状態だ。そんな彼女達と違って、私は自分の生まれ持つ力を好いていない。それどころか、私を取り巻いていた大多数の人間がそうしていたように、私自身、自分の能力に畏怖嫌厭を感じずには居られなかった。
だから私は必要な時以外に時間を止める能力を使わない。この忌避されるべき能力は、忌避されるべき戦いの場と、私が忠誠を誓うお嬢様の為にだけ使うと決めている。例えばそれは、お嬢様を守る時だとか、お嬢様の身辺を整える為の効率を良くする為など、そう云った場合だ。但し、それでも自身の休息の時に使うと、私はどうしようもなく情けなくなるが。
つまりは日常を便利にする為にこの能力を使うなどとは、到底考えられない事であり、考えたくもない事だった。仮に私がこの能力を私利私欲の為に乱用したなら、遠い昔の内に私の精神は破壊されているだろう。それほどまでに、私はこの能力に好意を持てていない。出来る事なら捨ててしまいたいとも思うし、それが出来ないから腹が立っている。結局のところ、私は私が持っているこの能力と上手く折り合いを付けて付き合って行かなくてはならないのだけど、芳しくはない。
だからこそ、そう云った懸念を持ち得ない美鈴に羨望を覚える。ただ強く在りたいと願って腕を磨く美鈴が眩しくて、私はその影に隠れる醜さを浮き彫りにしてしまい、彼女に目を向けられない。
「大体あの黒白は――って、咲夜さん?」
不意に思い出されたように私の耳が美鈴の声を聞き取った。どうやら茫然としていたらしく、思慮に溺れていた私の頭は美鈴の話を謹聴していなかったらしい。その様が余りに酷いものだったのか、美鈴は何時も自分を破って門を突破して行く魔法使いの愚痴を止めて「大丈夫ですか?」と云ってから、その碧眼の瞳一杯に心配の光を湛えて、俯いていた私の顔を下から覗き込んでいた。途端に、現実に引き戻された私は思慮の海から抜け出した。
「ん、ちょっと考え事。……それで、何の話だったかしら」
「私の話は大した事じゃないから良いんですけど、お疲れですか?」
私が取り繕う意味は然して無かったようだった。自分の話していた事はどうでも良いようで、美鈴は愚痴の続きを口にせず、私を心配した眼差しを向ける。それが申し訳なく、そして恥ずかしく、私は「何でもないのよ」と云って歩く速度を速めた。美鈴は怪訝な表情をしながらも、更に追究するような事もせずに私に付いて歩いた。
若干の気まずさが漂う空気の中で、私はそれを振り払うような明るい話題を見付ける事も出来ずにただ黙然と歩いているだけだったが、美鈴は何かを思い出したのか突然先刻の威勢の良い声音を取り戻して言葉を発した。
「あ、そう云えば紅白の巫女から手紙が来てましたよ」
「手紙?」
美鈴が云った言葉に、日々を怠慢に過ごしている紅白の巫女服を着ている女の姿が頭に浮かぶ。それと同時に、手紙なんて殊勝な物を出す気概があの巫女にあったのだと些細な驚きを感じつつ、私は美鈴に話の続きをするように促した。美鈴は物憂い表情を浮かべていた私を本気で心配してくれていたようで、手紙の内容を嬉々としながら話し始めた。その結果、私はその話を聞かされる今の今まで忘れかけていた行事の事を思い出した。
「何でも、今日の晩に行う宴会の用意が著しくないから手伝いに来てくれ、だそうですよ。全く……自分の仕事を事もあろうに紅魔館のメイド長である咲夜さんの手を煩わせようとするなんて、無礼にも程がありますよね。ただでさえ咲夜さんは多忙な身なのに、暇を持て余してる怠慢巫女が手伝いを要求するなんて迷惑千万です。大体あの巫女は――」
何故か事の要約から逸れていきなり霊夢を批判し始めた美鈴は、止まる事のなさそうな懸河の弁を存分に振いながら憤慨だと云わんばかりに頬を膨らませていた。何もそこまで云わなくても良さそうなものだと思ったが、此処でそんな事を云ったら更に美鈴に火が付いてしまいそうに思えたので、結局私は手伝いに行くか行かないかの二択をどうするか、考え始めていた。いや、自白するとこの時既に、私の中で結論は出ていたのかも知れなかった。
屋敷の仕事はこなさなければならないのは当たり前だけれど、今日一日くらいは他に任しても大丈夫だと思うし、私一人が居なくなった所で大した支障も出ない――とは云えないが、あの妖精達も良く云い聞かせれば仕事をこなせるだろう。その為に最近は以前にも増して教育を強化したのだ。何より、宴会の場が博麗神社に定着している為にその準備を毎回行っている霊夢は、実際辟易していると思ったし、偶には手伝いに行くのも礼儀と云うものだった。
加えて、お嬢様が夕方まで寝ているのは確実、それによって私が紅魔館に留まる一番重要な意味も失われる。それに、次の宴会も心待ちにしていたお嬢様の為に手伝いをするのも良いと思える事が出来た。
――あの夢を見た後は私の能力を使う仕事を余りしたくなくなる。そう結論を付けた私は、未だ勢いの衰えない弁舌を流暢に滑らしている美鈴の言葉の間隙を見切って、割り込んだ。
「まあ、偶には行った方が良いかも知れないわね」
「え? い、行くんですか?」
驚いたように目を瞬かせる美鈴は、比較的真剣になっているだろう私の表情を見て殊更に驚いているようだった。美鈴の確認に、私は僅かに口元を綻ばせながら頷いて見せた。
「で、でもですね、慣れない仕事をいきなりするにはメイド長の仕事は咲夜さん以外には荷が重いと云うか、いえ、何も駄目だって云ってる訳じゃないんですけど、下手な事をしてメイド長の名が万が一汚されてしまうのも好ましくないと云いますか……」
「……実を云うとね、屋敷の仕事をするには疲れが溜まってて、少しだけ休みが欲しいなって思ってたの」
美鈴には、その言葉だけが決め手だったらしく、少しだけ視線を足元に落とした私を見ると、先刻の不承不承した態度は何処へ行ったのか、一変してやる気に満ち溢れた表情になると「私にお任せ下さい!」と云った。何だか美鈴を騙しているようで後ろめたい気持ちがあったが、少し疲弊しているのは嘘では無く本当の事だし、今朝起きた時から貧血で頭がぼんやりとしていたから、休みが欲しいと云うのも紛れもない本音だった。
「咲夜さんは元々働き過ぎな所があったし、今日ぐらいはゆっくりと宴会の準備をして来て下さい。その代りに私が仕事の面倒をしっかりと見ておきますから! 勿論、門番の仕事も全力でやります!」
そう云って、美鈴はやる気に満ち満ちた背中を向けて、一度振り返って片目を瞑って見せてから長い廊下を駆けて行った。その昂然とした態度に、先刻感じていた後ろめたさを吹き飛ばされて、私は快く慰安をくれた美鈴の背中に小さく謝辞の言葉を呟くと、何を疑うでもなく私の為に唯々として仕事を引き受けてくれる美鈴に、再び羨望の念を抱いた。
美鈴は素直だ。それでいて純粋で、裏表がない。私がそれにどれだけ助けられているのかは到底計り知れない。紅魔館に来るまでは絶えず人の目に怯え、どうする事も出来ずに打ちのめされていて、時折体裁を気にしてか私を庇う人も私の傍を離れる時には罵言を残して行った。幾度と繰り返されたその負の循環は、私の心を荒らすのに充分過ぎる痛みを持っていて、何時しか私は誰の事も信頼出来ない猜疑的な人間になっていた。
だからこそ、美鈴の性格は柔らかく私を包み込んでくれる。私もそれを心地よく思って、身を任せられる。紅魔館に来て暫く経ってから、一番最初に心を開いたのも、美鈴だったと記憶していた。
「ありがとう、美鈴」
既に見えなくなった彼女に向って、もう一度礼を述べる。そうして、私は玄関の方へと足を向けた。今から行くには早過ぎるかも知れないが、今も畳に臥してお茶を飲み、煎餅を齧っているだろう職務怠慢な巫女には良い刺激になるだろうから、急に訪問してやるのも悪くない。それで手伝いを早めに終わらせて、後は美鈴の好意を無下にしないように存分に休ませて貰おう。その情景を頭の中に思い浮かべて、私はあの夢の所為で重くなっていた足に微々たる軽快さを取り戻し、参拝客が全然来ない寂れた神社へと赴くのだった。
◆4.深淵
紅魔館の門を出て空に飛び上がると、そこから一望できる幻想郷の木々が春の色へと徐々に染まっているのが確認出来たが、季節はまだ三月だからか冬の面影が色濃く根付いている。紅魔館周辺の静謐な雰囲気が広がる野原と雑木林も、季節に沿った彩りの花の蕾だけを咲かせているばかりで、美しい花を目に掛けられるようになるにはもう少しの時間が必要なようだった。氷精が潜む湖の水面に桜の花弁が揺れるのもそう遠くない話だろう。
髪を乱れさせる冷やかな風は、暖かな風に変わる時が楽しみに思えた。
博麗神社に着くまでに要した時間は数えるのにも及ばないほど短い時間だった。もしかしたら、眼下に流れる眺望が時間の経過を私に忘れさせたのかも知れない。
麗らかな春の陽気と、冬の寒冷が混ざった空気を全身で感じながら神社の境内に降り立った私は、早速本殿の縁側に腰掛けている、紅白の巫女服を着て、呑気に片手に湯呑を持ちつつぼんやりと空を見上げている霊夢を見届けると、近くまで歩み寄った。意外な事に、霊夢は私がかなり近くの位置に接近するまで私の存在に気付かなかった。まるで、自分を取り巻く物全てが蚊帳の外にでもあるかのように、私だけでなく他の何をも眼中の外に置いているかのようだった。
「来てあげたわよ」
そう云うと、目の前で呆けている職務怠慢な巫女は漸く私の来訪に気付いたのか、未だぼんやりとして覚束ない視線を私に向けた。色彩の薄くなったように思われる黒曜石のような瞳は、普段の霊夢ではないように感じられる。片手に持っている湯呑の中のお茶も、随分と余っているようだったが湯気は立っておらず、長らくの間放置されていた事を示している。私をその瞳に収めた後にもまだ茫然としているようだったから、取り敢えず私は霊夢の隣に腰掛けた。
「あー……、そう云えば呼んだっけ」
「随分な言い草ね。手伝いが欲しいのは貴方でしょうに」
今の今まで手伝いを頼んだ事など忘れてしまったかのような言い草に、不審と共に不快な感情が湧き上がる。かと云って別段怒る気にもならず、物憂い気な表情を崩す事なく、未だ黄昏ている霊夢を余所に一つ嘆息を零した。それから暫くの間静寂が包む沈黙が私達の間に流れて、春とも冬とも付かないが、確かに冷たい方が勝る微風に抱かれながら心地の良い静かな空気を存分に味わっていた私だったが、唐突に発せられた霊夢の言葉に風情を堪能していた情操は損なわれた。霊夢は、冷め切っている湯呑に口を付けて直ぐ様渋い顔をしてから、相変わらず呆けた調子で言葉を紡いだ。
「別に手伝いは要らなかったのよね」
「……は?」
思いも寄らない一言に、一瞬霊夢が何を云っているのか分からなくなる。だと云うのに当の本人はと云えば、何か悟りを開いてしまった人のようにぼんやりと空を見上げているだけで、特に必要もなく呼ばれた私にとっては一向に要領を得ない。疑念に満ちた私の咄嗟に出た呟きにも、霊夢は何ら干渉する事もなく、飽くまで自分の調子を崩さないようにしているのか、それとも既にずれている調子を尋常のものと勘違いしているのか、曖昧な様子のままだった。
それから二の句が繋がれたのは大分時間が経ってからの事だった。
「別に手伝いが必要なほど忙しくもないのよ」
「……それは私を馬鹿にしているのかしら」
先刻云った事を再び繰り返して、霊夢は怪訝な表情を浮かべている私を横目に見遣ると、はは、と気のない微笑を浮かべた。何処か寂寥を纏う淋しげな笑みは、隣りに確かに座っているはずなのにその存在を希薄なものにしていた。
本当にどうしたのだろうか。そんな事を思う。特に用事もなく私を呼び出し、訪れてみたら要領を得ない事ばかりを口走る。こちらが訝しむ素振りを見せても飄々としたままで、これまた要領を得ない。話し相手が欲しかったのならわざわざ私を呼ばなくとも紅魔館に訪れる手癖の悪い厄介な魔法使いを呼べば良いものだ。何故こうして私が手紙を受け取ったのか、一向に分からない。再び口を噤んだ霊夢に、怪訝な視線を送るのにも飽きて、私は彼女と同じに空を見上げた。薄い霧のような雲が、蒼い空に白を掛けている。太陽の日差しが眼に痛かった。
「何だか、一人で何かをする気にもなれなくて」
ぼんやりと空を眺めていた私に、霊夢はそう云った。隣を見遣ると、湯呑を両手で包む中に視線を注いでいる霊夢の姿がある。私はこれと云って返事をする必要も見出せず、霊夢がまた何事かを云うだろうと思って黙っていた。
視線を向ける先には境内に植えられた八重桜が寂寥漂う梢に薄い褪紅色の蕾を吹かしている光景がある。私は曖昧な季節の間も色濃く浮かぶこの境内が嫌いではなかった。少し前に行った宴会の模様が、朧げながら頭の中に思い起こされる。寒々しい空気の中で、星々の広がる空の下に宴会の会場を照らす篝火に淡く浮かぶ、まだ蕾すら芽吹かせていない寂しい桜の梢は、今見ている物よりも殊更に幻想的だった。
「あーあ、こんなの私じゃないみたい」
湯呑を腰掛けている縁側に置いて、そう云いながら霊夢は自分の腕を支えに、身体の体重を後方に向け、空を仰いだ。微かな自嘲の響きを湛えたその呟きが気になって、また隣を見ると肩を露出して脇腹を惜し気もなく曝け出している珍しい巫女服がある。霊夢は、誰にともなく、自分自身に愚痴るように独り言を連ねて行く。私は黙然とそれを拝聴した。
「何と云うか、胸に穴が空いたって云うの? そんな感じ。何をしてても面白みが無くて、すぐ飽きちゃうしお茶の味もよく分からないの。宴会の準備なんて当然手に付かないから、何となくあんたを呼んでみたりして、暇を潰せないかと思ったんだけど、やっぱりダメ。そもそも退屈って訳じゃないみたいなのよね。思う所が別にあると云うか、とにかく身体は確かに此処にあるんだけど精神は別の所にあるみたいで、やっぱり何をする気にもならない」
我ながら意味不明だわ、と最後に付け加えて、霊夢はまた淋しげな笑みを見せた。私は何となく自分が此処に呼ばれた理由を理解したが、どうやらそれが霊夢の悩みを解決するには及ばなかったらしく、それは彼女が見せている淋しげな笑みを見るとより顕著になるようだった。得体の知れない悩みに掛ける言葉を、私は見付ける事が出来なかったから、「役不足で悪かったわね」と多少の皮肉を込めて云った。霊夢は例の笑みを浮かべるばかりで、他に何もしない。
「あんた、こんな気持ちになった事ある?」
と、思えば唐突に問いを浴びせ掛けられる。勿論私は返す言葉を持ち得ない。霊夢が語る悩みに陥った事は実際なかったし、生きて来た中で培った知識の中に検索を掛けて見ても該当する項目が見付からない。結果、私は「解る訳ないじゃない」としか云えず、そんな冷淡な言葉を云った事に対する後悔も湧かなかった。ただ、あの能天気な霊夢がこうして得体の知れない懊悩に苛まれている事実を珍しい事だと思って、それが可笑しくて口元を緩めた。
「まあ、そうよねぇ。私だって解らないんだし、あんたに解る訳ないわよね」
「……」
私の答えを聞いて云われた事は、少なからず私を不快にさせた。まるで自分が格下に見られたようで、腹が立った。霊夢の言葉が意図的な挑発か、それとも仕様がないと云う意味を湛えられて云われた事なのか、私には分からなかったが、とにかく気分を害された私は何か云い返して遣ろうと思って、返す言葉を考える。まず、人間が〝胸に穴が空いたよう〟なんて云う場合について考えると、意外にもあっさりと云うべき言葉が見付かった。
但し、この巫女に限ってそんな事はないだろうとは思ったけれど。
「……恋、とか」
「……恋、ねぇ」
何だか言葉にするのも恥ずかしく思える単語だった。私は決まりが悪くなって、冬空の下の淋しげな境内の空間を何とも無しに見遣る。その無機質な光景を見ていると、少しだけ波打った心も忽ちに静けさを取り戻した。対して、私が云った言葉に、気のない返事をしつつもその可能性があるのではないかと黙考している霊夢は、人差し指を顎に当てたまま何やら難しい顔をしている。もしや思い当たる節があるのではないかとも思ったが、直ぐに杞憂だと思い直した。
何時も異変が起きる度に妖怪を蹴散らす博麗の巫女に、恋愛などと云う感情は尻尾を巻いて逃げ出すだろう。年頃の少女だとしてもこれほど恋愛の似合わない者はそうそう居ないのではないかと、私は心の内でしたり顔をした。
「うー、改めて云われると、そんな気がしなくもない気がして来たわ」
「……まさか、本気で云ってるの? 誰かに恋してる、だなんて」
「何よ、まさか私には恋愛なんて似合わないとか考えてたんじゃないでしょうね」
「相変わらず勘の鋭い事」
霊夢の反応は凡そ私の予想の範疇外に位置するものだった。適当に云ってみただけの考えなしの言葉がまさか的中するなんて、霊夢に劣らず私も結構勘が鋭いのかも知れない。――霊夢の反応は驚くには驚いたが、そこまで驚きはしなかった。霊夢が想いを懸ける人に大した興味も無かったし、私の知る人ではないのかも知れないのだから――と云うよりも男性の知り合いが少な過ぎる――気に掛からないのも当然だった。
隣でうんうん唸っている霊夢は、本当に恋をしていると私に思わせる姿で、先刻よりも難しくなった顔で頻りに百面相を作っていた。何か思い付いたのか、はっとなった顔。それを慌てて振り払おうと眼を瞑って頭を振る姿。吹っ切れたのかと思えばまた難しい顔をする。その循環が暫くの間続いた為に、私はとうとう耐え切れずに質問をする事にした。
「そんなに悩むんだったら、云ってみたら? 好きかも知れない人の名前。案外すっきりするかも知れないわよ」
「……うー、ちょっと待って。いざとなると恥ずかしいわ。と云うか人選を間違えた気が今更して来たわ。いやいやでも私がそんな……って有り得るから恥ずかしいのよね。うー……」
一人で何やら云っている霊夢は放置して、嘆息混じりに境内の中にある桜の木に目を向ける。逞しい幹は結構な年月を生きているらしく、幾星霜を越えて来たその木は、決して折れる事のない強さがあるように感じられた。その上に網羅する梢の数は数えるのも億劫になるほどに生えていて、歪な衣を纏うかのようにぽつぽつと吹く蕾の数々は皆一様の色をしている。幻想郷に相応しい幻想的な風景だと思った。以前の私は純粋に桜の綺麗な姿を見て楽しむ余裕など持ち合わせてはいなかったから、余計にその眺めが尊い物に思える。広い意味で、此処に来て良かったと再認識した。
霊夢はまだ一人で唸っている。時折、「そうかも知れない」などと聞こえて来ては「まさか」とそれを打ち消す声が聞こえて来る。客人を差し置いて何時まで煩悶する気なのだろうかと若干の苛立ちを覚えていると、唐突に霊夢の呟きが止まった。見ると、何かを決意したように、また何かに気付いたように、首を縦に振っている。漸く話し始める気になったのかと、今度は「そうよ」とか「認めるわ」とか云っている霊夢の横顔を私は眺め始めた。
「咲夜、私気付いたかも知れない」
「そんなこれから戦地に赴くような顔をされても困るわ」
真剣が服を着たような表情をする霊夢、対して対応に困る私。霊夢は暫く物思いに耽っていたが、それが終わると不意に「お茶を入れて来るわ」と云って家の中に入ると台所の方へ姿を消した。そして直ぐに食器の擦れる小気味良い音などが聞こえてきた。お湯を沸かす音をしている辺り、まだ暫くの時間を要するのだろう。
再びもたらされた徒然を持て余す私は、一時の退屈凌ぎに桜を見る事くらいしか思い付かない。仕様がないので、霊夢がお茶を淹れて来るのを待ちつつ、霊夢が想いを寄せる相手は誰なのだろうと考え始めた。真っ先に浮かぶのは私がただ一人だけ知る男性の姿のみだったが。
森近霖之助――有り得なくもないかも知れない。ただ、彼と霊夢の関係の詳細を知らない私は断言する事が出来ない。確かな根拠が無いからには納得は出来ないので、次なる人物を想像する。そこで壁に行き詰った。男性の知り合いなど他に居ないではないか。とするとやはり、怪しい店を構える主なのかと考えるが、どうにも腑に落ちない。
――どうせ想像なら、と思って仮に霊夢が好きだと云う人が女性だとする。そうしたら霊夢の恋慕の対象には誰が成り得るだろうか。そう仮定すると、思いの外頭の中には多くの人物の名が浮かび上がってきた。
まず一番最初に頭に思い浮かべたのは、紅魔館の大図書館に頻繁に襲撃を掛ける黒白の魔法使いならぬ魔砲使いの姿。成程、親密さで云えば有り得そうだ。けれど、霊夢と魔理沙の間柄を傍目から見ていると、どうしてもそう云った想いを寄せる相手とは思えない。愛する、と云うよりは仲の良い親友に見える。とても二人が仲良さそうに手を繋いだり、あわよくばそれ以上の行為を行っている所が想像出来ない。と云うより、想像する事が躊躇われた。
ならば、と今度は掴み所のない隙間妖怪を思い浮かべる。それこそ想像し難かった。あの二人は性質の悪い姉と、からかわれる妹の関係にしか見えないし、何より霊夢が時々あの妖怪に対して本気で腹を立てている事があるから違うと思った。――理由は霊夢が愛好する煎餅が知らない内に盗まれたと云う至極下らないものだったが、怒る理由も霊夢らしいと思う。何だかんだと云って、あの二人には今の関係が馴染んでいるようにも見受けられる。
その次は小さな鬼の姿が思い付いたが、やはり性質の悪い妹にしか見えなかった。年の項で云えば遥かに年上なのだが、その素振りや、酒の飲み過ぎを霊夢から注意されている辺り妹のようにしか見えない。
「解るはずないわよね……」
一通り考えたが、一向に思い当たる人物が居なかった為、思考するのにも疲れたから貧血気味な身体を横たえて何処までも広がる蒼穹を見上げた。そうしたら、唐突に、本当に唐突に選択肢の中にも入れていなかった人物の名が頭に浮かんだ。そう云えば、と前回の宴会の光景が思い出される。そして、云い知れない不安が胸の中に芽吹くのを感じた。
――まさか、それこそ有り得るはずがない。半ば自分に云い聞かせるようにして心中に呟く。すると、胸の底に芽吹いて、前回の宴会の記憶を糧に急激な成長を遂げている小さな萌芽は忽ち巨大な木へと姿を変えていた。
レミリア・スカーレット。私が仕える主であり、生涯の忠誠を誓った相手。その人物を、霊夢が好いているなどとは考えたくもない。ましてや、お嬢様ももしかしたなら霊夢の事を好いているなどとは、思考の中から一切合財を排除したい心持だった。しかし、そう思えば思うほど逆に不安が募るばかりで不快になる。例えば、前回の宴会の席でお嬢様と霊夢は何をしていただろうか。あの時は酔っているのだろう、軽い戯れだろうと思っていた。けれど、霊夢に好きな人が居ると云う事実を仄めかされてしまえば、後は嫌な方向に考えが傾いていくばかりだった。
前回の宴会の席で、お嬢様はやたらと霊夢に付き纏っていた。紅魔館から持って来たワインの瓶を片手に、赤い液体が注がれたグラスを片手に。霊夢の肩に腕を回して酒を勧めたり、それを拒否する霊夢に軽い癇癪を起したり、見ていて微笑ましい姿ではあったが、もしもあれが酔いの勢いで無かったら、と思うと背筋が凍る。心なしか頬を赤らめて鬱陶しそうにしていた霊夢が、満更でもないような嬉しくも困った表情を浮かべていた訳が酔いの所為で無かったら、と思うと今度は憎悪が湧き出る。そんな事は有り得ない。首を振って考えていた事を払拭すると、私は空を見上げた。――何時の間にか、寝転がる私を上から見下ろしている霊夢の姿が在った。
「今のあんた、凄く難しい顔をしてたけど」
「……少し、考え事よ」
手に持った盆に乗せられた湯呑を手渡しながら、霊夢はそう云った。そうしてまた縁側に腰を掛けると、先刻のように両手で湯呑を包んでその中に視線を落とした。私が持つ湯呑と、霊夢が持つ湯呑からは緑茶の良い香りと、それを孕む白い湯気が陽に照らされている。何故か半鐘を打つように鳴る心臓に気付かない振りをしながら、私は湯呑のお茶を一口啜り、直ぐに顔を顰めた。紅茶に慣れている私には、緑茶の味の趣がまだ少し理解出来ない。
「それで、好きな人が誰だか解ったの?」
お茶を一口、二口と乾いた喉に通して潤いを得た私はそう切り出した。
先刻とは余りにも状況が違っている。心の何処かで有り得ないと思っていても、その更に深層ではもしかしたらと云う考えが捨て切れない私は、その不安を即刻拭い去る為にも霊夢の好きな人について知る必要があった。早く、私が持つ考えを否定してくれる、私の見当違いの人物の名を云って欲しい。それが全てだった。そうして、万に一つ霊夢の口からお嬢様の名前が出された時には、自分自身何をするのか解らなかった。それについて自分を追究して見たくもなかった。
「……」
霊夢は直ぐには語らなかった。それどころか私に教えるのかどうかも最初から怪しい。飽くまで私は可能性として恋をしているのではないかと推しただけで、更にはどうせならその名前を云えと提案しただけで、強制はしていない。しかし、今は強制的にでもそれを知らなければならない気がした。でないと私は、一人悶々と物思いに耽る毎日を送る事になる。良し悪しにしろ明確な返答を聞いて置かなければ気が済まなかった。
いや、良し悪しにしろ、と云うのには語弊が生じるかも知れない。もしも悪い結果が私にもたらされるのであれば、私は今気になっている事を教えられないと云う事よりも煩悶するに違いない。
「……さっき」
「ん?」
「さっき、〝人選を間違えたかも知れない〟って云ったでしょ」
正直な話、私は今まで霊夢が話していた内容について多くを覚えていない。事の大まかな部分だけを押さえていただけで、細部に至るまでを記憶していない。それは勿論、霊夢が語っていた内容が殆ど勝手な自己語りだったからに他ならないが――今になって霊夢が掘り起こした話の内容が、私の胸の奥底に悠然と聳える木に酷く活力を与えた気がした。無論、その結果私の心に不穏な空気が生まれるのは必然で、それ故に心臓の鼓動は動揺を隠し切れていなかった。
「あれ、今日の手伝いに呼んだ人の人選を誤った、って意味なの。……解る?」
「……さあ。それだけじゃ解らないわ」
漠然と漂う不安の形が、突然明瞭になる。聳える木から落ちる葉が、答えの一部を映している。私が霊夢に寄越した返答は、自己保身に彩られていた。霊夢が気に懸ける人の、選択肢が絞られる。内心では既に霊夢が云わんとしている内容が解っていて、その内の選択肢が根拠も無しに確定される。それをより濃くしたのが、次なる霊夢の言葉だった。
「変な話だけど、誰かを好きになるって事がどんなものなのか解らないのよ。でも、もしもその好きになるって事が私の考えているものなら、私の好きな人って男の人じゃなくて女の人なの。……人じゃないけど」
「……私は別に、そう云うのに対して偏見は持ってないわ」
それだと助かるわ、と云って、霊夢は話の腰を元に戻した。私にとって、それが良い方向に進み得るものであるのか、それとも永劫知らなければ良かったと思えるものか、判然とした分別は付かない。けれど、縁側の隣で告白を続ける霊夢はもう止めようと思っても止まらないように窺えた。元より、それを止める勇気が私には無かった。
出来る事ならこの場から逃げ出したいのと、最後までこの告白を聞き届けたいと云う思いとで、異なる意見の挟撃は絶え間なく私を苛んでいる。その圧力に潰されてしまうのは時間の問題だと思わざるを得なかった。
「最初は迷惑な奴だとしか思ってなかったけど――」
霊夢はそう言葉を始めた。その瞬間に私の不安は最高潮に達し、聳える木から舞う葉が私の元に届いてしまった。必死に逃避していた答えが私に纏わり付いて離れなくなってしまった。もう、私にはどうする事も出来ない。
春の陽気は慄くほどに冷やかに感じられた。
「――レミリアが、好きかも知れない」
私は、心の内で叫んでいた。
密度のない怒りに、得体の知れない身が慄く恐怖に。
そうして、その時に気が付いた。私がお嬢様に呼ばれ、血を捧げる時に感じていた愛おしさや嬉しさも、全ては霊夢と同じ感情を持っている故に感じていたのだと。拠り所の無かった私の心を繋ぎ止め、身寄りの無かった私に居場所を与え、理由の無かった存在に意味を教え、忘れてしまった喜怒哀楽を思い出させたお嬢様の事を、私は誰よりも愛していたのだと。だからこそ、霊夢のその告白は私の胸を鋸で抉ったかのような苦悶を与え、それでいて漠然とした使命感に焦燥を与えた。私は錯綜する脳内に落ち着きを取り戻せないまま、霊夢に沈黙を返す事しか出来なかった。
――瀟洒な従者と謳われる私は、今この瞬間は触れれば忽ち瓦解してしまいそうなくらいに脆く、弱く出来ていた。
◆5.奈落
私が帰る道中、紅魔館を出発して見た景色は全く目に入って来なかった。私の瞳に映る物は無く、網膜には常に霊夢のあの淋しげな笑顔が張り付いて剥がれなくなっている。そうして次は、聞こえもしない霊夢の告白が私の頭の中に木霊する。その度に、私はいっそナイフで自分を斬り付ければ少しは痛みが和らぐのではないかと思えるほどの苦悶を感じるのだ。底のない沼に段々と足が沈んで行く恐怖を、裸の心に感じるのだ。
――あの話をしてから、霊夢はすっきりしたと云って境内の掃除を始めた。霊夢が重い腰を上げたのだから、勿論私も手伝わなければならない。最初からそのつもりで来たのだから、別段嫌ではないはずだった。けれど、霊夢の告白を聞かされてからの私は、まるで魂が身体から抜けてしまったかのように空虚な人間になっていた。何をするにもやる気が起きず、気付けば箒を持ったまま境内の真中で茫然としていた。霊夢に心配をされたりもした。
掃除が終わった後には宴会の場に出す料理を作る事になった。霊夢の料理の腕は中々に大したものがある。手慣れた物で、次々と作業をこなしながら私に指示を与える姿は、何だか格好良く思えたが、その時の私にはそのような感嘆も湧き上がる余地が無かった。食材を切って欲しいと云われ、それを行っている最中に何度指を斬り付けかけたか分からない。とにかく、指を斬ってしまう寸前の段階で踏み止まるの繰り返しだった。一度は本当に指に包丁を当ててしまって、今でも白い包帯が生々しく赤色に染まっている。けれども、不思議と痛みは毛ほども感じなかった。
それから幾らかの取り留めのない雑談に興じてから、私は博麗神社を後にした。雑談に興じていた時の私は、驚くほどに何時も通りだったのを覚えている。魔理沙が最近、森の茸に中てられて寝込んだから、アリスが介抱に行っただとか、萃香が家の酒を勝手に飲むだとか、そんな下らない話題が上った時には笑顔を見せる事も出来た。だけども、心の内はひたすらに焦燥が焦燥を呼び、不安が喚起されて叫喚したい衝動に苛まれていた。
――霊夢は先刻悩んでいた気色も見せず、気楽そうに笑っているばかりだった。それが何故か、癪に障った。
「あ、咲夜さん! お帰りなさいです!」
気付くと、私は既に紅魔館の門の前に降り立っていた。道中の記憶は殆ど残っていない。ただ色のない景色が線になって流れていたのは朧げながら覚えている。私は自分の外界に対する注意がどれだけ散漫していたのか、また自分の世界にどれだけの集中力を見せていたのかを今一度見直すと、笑顔で走り寄って来る美鈴に笑い掛けた。その笑顔が果たして本当に笑顔だったのかは、少しだけ中央に寄せられた美鈴の形の良い眉が全てを物語っている。
しかし、今の私にそれを気にする余裕など無かった。私は何かを云わんとする美鈴を制して、無言で紅魔館の門を潜り、玄関を踏み付けた。薄暗い、陰気とも思える明りに出迎えられて、私は閉まる扉の間から僅かに差し込む薄暮の光を背中に感じつつ、またそれが途切れるのを感じつつ、お嬢様の寝室に向かった。途中、何度か他のメイド達に挨拶をされたが、それに何かを返す気力も無かった。私はただ、黙々と薄暗い悪魔の屋敷を歩き続けた。
お嬢様の寝室に到着するのに大して時間は掛からなかった。私は他と比べると明らかに豪奢な装飾が施された大きな扉の前に立つと、扉を二度、拳で叩いた。返答が来ないのは解っている。私の血を飲んだ翌日には、お嬢様は必ず日が完全に隠れるまで眼を覚まさない。しかし、今日は日が暮れる前に起こして欲しいと直々の依頼があった。その理由は、云うまでもなく今晩博麗神社で宴会が開催されるからだろう。〝博麗〟の単語に不快を感じながらも、私は扉の向こうから応対の言葉が返ってくると云う期待を諦めて、扉を開こうと取っ手に触れた。
「入りなさい」
すると、私が扉を開けるよりも早く扉の向こう側から掠れた声がした。聞き間違えるはずがない、お嬢様の声だ。何故こんな時間に目を覚ましているのかと、少し不思議に思う所はあったが、今日は偶々早くに目が覚めたのだろうと思い、特に何かを危惧する訳でもなく扉を開いた。――天蓋付きの豪奢な寝台の上で、お嬢様が座っている。赤々と肝を冷やすような熱を孕んだ瞳を細め、小さな唇の両端に〝あの〟淋しげな笑みを象りながら、座っていた。
私は心臓が跳ね上がるような心持になった。そうして、このまま扉を閉めて紅魔館を飛び出してしまいたいと思った。お嬢様の唇に象られている寂寞と、その瞳に宿る光は、私が今日見てきた物と同一だった。無意識の内に警鐘が私の頭の中に鳴り響き、それでもそれを聞き付けない身体は前へと進む。体中に氷水を浴びせ掛けられたかのように、私の芯は凍えている。踏み出す足は震えてしまって覚束なかった。
頭の中に鳴り響き、身体を統率しようとその音色を至る所に張り巡らせるこの警鐘は、紛れもなく、かつての私が持っていた防衛本能だった。一度は失えたと思える事が出来た、無用の能力だった。
「失礼、します」
一言の断りを入れて、私はお嬢様の近くまで歩み寄る。寝巻きを着たままだったので、着替えを出さなければ、と思い出して、今度はクローゼットの方に進路を変える。そこまで辿り着くと、洋服の区別が全く付かなかった。どれも同じに見える。色が少し違うだけで、部屋着も、普段着も、寝巻も、全て一様の物に見えた。私は狂ってしまった目でお嬢様に着せるべき洋服を見出す事が出来ず、直感を頼りに一着を引き摺り出す。どうやら正解のようだった。
「ねえ、咲夜」
私がお嬢様の前に来て、何時ものように着替えを手伝うと、その途中にお嬢様は唐突に私の名を呼んだ。何もおかしくはない、ただの雑談である事は明白だった。何時もと同じではないか。私はこう云う時間を楽しみにして、お嬢様の部屋に赴くときは何時だって心が躍るような思いだったではないか。それなのに、お嬢様の酷く落ち着いた声音は私に不安しか与えてはくれず――そんな私を顧みる事もなく、お嬢様は一人で話し始めた。
「貴方はどうやって紅魔館に来たのかしら」
小さく白い背中の向こうからお嬢様の声が聞こえる。黒い翼は時折小さく動いている。洋服の袖を華奢な腕に通すと、今度は背中の留め具を付ける。この時に翼が邪魔にならないようにしなければならない。お嬢様は洋服が翼に引っ掛かったりするのを嫌う。主が嫌う事をするメイドなど、紅魔館に居てはならない。
――私はお嬢様の問いに応え得る返答の内容を考え出すのに、恐ろしく時間を使った気がした。そしてまた、それは答えたくないと思う私の抵抗の表れに他ならなかった。
「人間に迫害されて、気付けば此処に居ました。以前、お話した通りですよ」
「貴方は同じ人間に受け入れられなかったのね」
「そうですね。受け入れられようとも思いませんでした」
「嘘よ。人は独りでは生きられない生物じゃない。独りになると直ぐに死ぬ」
「本当です。何をしても無駄なのだと、解って居ましたから」
「何をしても意味は無いから、何もしなかったのね」
「何をしても意味が無かったから、何もしないのが正しかったんです」
「誰も正解を教えてはくれなかったのに?」
「私がここに来れたのだから、紛れもない正解だったのだと思います」
そこで丁度、お嬢様の着替えが済んだ。同時にこれ以上同じ話題を続ける意味は無くなった。続けたいと思うはずもなかった。お嬢様は寝台から立ち上がると、部屋に置いてある椅子に腰を掛けた。受け皿に乗せられた中身の無いティーカップが乗っている机が、隣りにある。二三冊積み上げられた本は、ティーカップを翳らせていた。
お嬢様は続ける。先刻と寸分違わない表情をしたまま、怪しく言葉を紡ぐ。
「私、夢を見たのよ。ずっと昔の、それこそ今まで忘れていた過去の夢」
だからこんなに早く目が覚めたの、とお嬢様は付け加えて、肘を肘掛に乗せて手を支えにそこに頭を乗せた。私はお嬢様の前に立ち尽くしながら、続けられるだろう言葉を茫然と待つしかなかった。内心では、過去を掘り起こされた時点でこの部屋を飛び出したい気持だった。そうして何故そんな分かり切った事を再び聞いて来るのか、私には解りかねた。けれど、今お嬢様が話そうとしているのが私ですら知らないお嬢様自身の過去であるならば、私に過去を問うた意味は必ずあるのだろうと思った。そしてそれが喜ばしくないものであるとも、一方で思っていた。
「紅い色ばかり――私の過去の夢には紅ばかりが広がっていた」
紅玉のように美しい明眸が徒に細められる。唇には歪みが生じて、死を象徴するかのような牙が怪しく光っている。私は口を挟むと云う馬鹿な真似もせず、黙然とお嬢様の言葉に耳を傾ける。お嬢様は更に続けた。
「それから――」
椅子の肘掛がみしりと軋んだ。空のティーカップがかたかたと音を立てている。お嬢様はそこで言葉を区切って、鋭利な犬歯を軽く唇に突き立てる。白くなったその柔らかな肉が、過去の記憶に対する悲しみ、或いは恐怖に耐えている様を彷彿とさせる。お嬢様が何を云おうとしているのかは解らない。しかし、その内容が決して幸福に彩られているものではないと云う事は解り切っている事だった。そして過去の痛みが現在の自分を苛めていると云う点が、私とお嬢様とを引き合わせた一つの要因なのではないかと、私は常々考えていた。お嬢様は時折、今のような表情をする事があったから。
「それから、あの人が灰と化して消えて、自分の悲鳴と、あの子の悲鳴――大勢の人間の罵言、振り翳される白木の杭、化け物を見るような目をして突き付けられる十字架、不快な臭い、浴びせ掛けられる冷たい水――」
私は、お嬢様が語った〝あの人〟が誰なのかを知り得ない。部分的に語られるお嬢様の過去の全容を知る事も叶わない。ただ。お嬢様が過去に対して感じている悲しみや怒りはよく解る。そしてそれが私のそれよりも凄惨なものだったと云う事も。
「私は、淋しかった。必死に自分の事を説明しても耳を傾けない人間達、それどころか聞く耳も持たずに襲い掛かってくる人間も居た。あの人も死んで、あの子も狂って、独りになった私は誰かに受け入れられたかったのに」
お嬢様が小さく呟く。屈辱だとも、訴えるように聞こえたその言葉は、例の笑みに象られていた。
今なら私には判然と解る。私が選んだ道は正解などではなく、また不正解でもなく、数ある答えを選択すると云う行為全てから逃げる、逃走の手段だったのだ。お嬢様は闘争の選択をした。逃げた私に対して闘う事を選び取った。そして、その結果にどうなったか――それはお嬢様が幻想郷に居る時点で全てを物語っている。もしもお嬢様の存在が人間達に受け入れられたのなら、わざわざ幻想郷に引越そうなどとは到底考えないだろう。
お嬢様はそれを語らなかった。ただ俯いて、体その物で云おうとしていた事を私に伝えていた。そして、私はそれを確かに理解した。お嬢様が感じた不安、恐怖、怒り、悲しみ――それら全てをこの身に刻み付けた。
「――でも、そんな私が受け入れられたのよ」
涙に濡れた声が、微かな力を以て薄暗い室内の大気を震わせた。同時にその震動が私の身体の表面から内部へと侵入してきて、瞬間の動揺を私にもたらした。その僅かな心の乱れさえ、私は押し殺す事が出来ない。指先に滲む真赤な血液は、今再び熱を取り戻し、傷口にその熱を伝導させている。その先の爪は、ともすれば手の平の肉を突き破ってしまうのではないかと思えるほどに食い込んでいた。その痛痒は次第に全身へと伝染している。
「鬼だと石を投げられて、翼があると虐げられて、牙があると恐れられ、目が赤いと罵られ、十字架を突き付けられた事もあればいきなり殺されそうにもなった私が、何もしていないのに受け入れられたのよ。努力なんてした覚えはないわ。ただ私は此処に来ただけなのに、ただそれだけの事なのに、私は受け入れられたのよ」
お嬢様は紅玉に潤いを与えて、椅子から降り立つ。見掛けに見合った、涙を必死に堪えるその姿に、私は釘付けになった。お嬢様がこんなにも露骨に悲しみを体現した事は私の経験の中で一度もない。
今まで忘れていた記憶は、今の彩りに溢れた記憶に打ち消されていたのだから、その反動はとてつもないものだったのだろう。私は微かに嗚咽を上げ始めているお嬢様の前に立つと、跪いて眼線を合わせた。私がするべきなのは、お嬢様に安心を与える事だ。肌で感じている得体の知れない、私の存在を脅かす恐怖を払拭する事ではない。今は私の為に私が何かをするべきではないのだ。主に対する想いの形を見せなければならないのだ。
「でも、時々どうしようもなく不安になる。此処の存在が幻想であるように、私が体験している事も全て幻想なんじゃないか、って。受け入れられたのは解っているのに、まだ淋しいの」
どうして――そう云って、お嬢様は私の胸に顔を埋めた。程なくして聞こえて来る泣き声を耳にして、私はお嬢様の蒼銀の髪の毛を指で梳く。母親が子にするように、優しく、柔らかい髪の毛を梳かして行く。
――不安の萌芽は自身でその重量を支える事が出来ないくらいに何時の間にか膨大な成長を遂げていた。後少しの刺激で、この逞しい巨木は無残に崩れ堕ちるだろう。自身が培ってしまった重みに苛まれ、渦巻く豪雨に晒されて、腐った根は幹を支えるほどの堅固さを失い、緑が吹く葉達は一枚残さず散らされて、蕭条として倒れるのだろう。それは〝完全〟が瓦解を迎えて〝不完全〟に成り下がるのと、どちらが醜いものだろうか。少なくとも私は、後者だと思う。
お嬢様は、嗚咽によって途切れる言葉を、それでも無理に繋ぎ合わせて紡ぎ出す。その一文字一文字が、刃と化して私の足を刺し、腕を刺し、四肢を潰して内臓を掻き出し、何一つ残らない中に未だ血潮を全身に送る心の蔵だけを残して、嬲る。空虚な身体に残る痛覚は既に無く、それでも刺されるだろう止めは何より恐ろしい。
そして、私は震える唇で、血の味がする唇で、嘆願するのだ。
「ねえ、咲夜」
――それ以上は、云わないで下さい。
その嘆願は勿論聞き遂げられるはずもなく、お嬢様は云ってしまった。狂気の満月よりも妖艶な瞳で私を惑わし、どんな恫喝にも勝る恐怖を孕んだ言句を以て、私を構成する分子の一つ一つを魅了し、破壊する。次々に崩れて行く自身を見ながら、私は漠然と大悟した。――嗚呼、私は壊れてしまったのだと。
「私……霊夢が、好き……」
夕日が彩っていた空には既に、紅い月が佇んでいる。
◆6.亀裂
至る所に煌々と燃えている篝火が騒がしい境内の中を照らし上げ、そこで騒ぎ散らす妖怪たちと、小数の人間の姿を浮かび上がらせている。飲み比べをする為に或る者は瓢箪を垂直にして酒を大量に流し込み、或る者は焼酎を瓶ごと傾けている。そしてまた、騒がしい喧噪の外には割と落ち着いた者達が慎ましやかにお猪口に注がれた焼酎を飲んでいた。主に幻想郷の中で割と常識人と云われる者達が、その中心だった。
既に博麗神社の境内の中に居る総数は数えるのも億劫に思えるほど、妖怪と人間とで溢れ返っているように見えた。だから、私は敢えてあそこに誰が居るだの、こちらに誰が居るだのと、不毛な思考は排除してしまっていた。ただ、何時までも私の視線を掴んで離さない光景は、否が応にも存在し得る。私はその微笑ましく、憎らしく、恐ろしいとも思える光景を光の籠らない冷淡な瞳で見遣っているのだろう。堪らず、手に持っていたお猪口の酒を一気に飲んだ。
熱いお湯が喉を通ったかのような感覚が、何もかもが荒んだ私の体には気持ち良く感じられた。単純な熱を含んだ酒は、胃の中に落ちて私の身体に程よい倦怠感を与え始めている。心なしか、冷え切った心とは相反して身体は火照っているようだった。――私の視線の先には、飲み比べをする妖怪達とそれを囃し立てる者達との集落でもなく、慎ましやかに悪酔いしない程度の酒を仰ぎながら、自らが仕える主に向かって、或いは敬愛する神に向かって、嘆息を零している者達との集落でもなく、そのどちらからも外れた場所で静かに雑談を交わしながら、一方は何時も飲んでいる血のような赤いワインを美味しそうに、一方は慣れない味がする同じワインを少しずつ飲んでいる、お嬢様と霊夢の所にあった。
二人は平常ならば必要ではないほどに身を寄せ合って、意識しているのか、それとも無意識の内なのか、酔いの所為だけではない明らかな赤みを頬に差しながら、何事かを話していた。その話しの内容は到底私に届く事はなく、私に聞こえるのは宴会の騒がしい喧騒のみだった。詰まる所、私はこの瞳のみで、二人を観察しているに過ぎなかった。しかし、聴覚に頼らずとも、淡い想いを向け合っている二人の間にどんな会話が成されているのかは自然と解ってしまった。
けれど、それを形にして頭の中に反芻する事は私には到底出来得なかった。今の私は、首の皮一枚で繋がっている状態で、それでも尚その薄皮を断ち切る為に刀を宛がわれている状態に在る。少しでも余計な動きをすれば忽ちこの首は落ち、私は絶望の中、生暖かな血の海に沈んで思考を失うだろう。そうしてしまえば、亡霊と化した私が何をするのか。それを考えると背筋が凍り付く思いになった。
肌寒い夜気は肌に心地よく、火照った身体には丁度良い冷たさが風の中にある。揺れる篝火が照らしている宴会会場はその勢いを寸分足りとも衰えさせる事なく、漆黒広がる空へと劈くように、喧騒を響かせていた。そんな中、飲み比べをする集団の中から一人、ふらふらと覚束ない足取りで私の元に歩み寄って来る一人の姿があった。神社の縁側に腰を掛けていた私は、その人物の姿をこの目に認めると、辟易とも、安堵とも取れない不思議な感覚を覚えた。
――顔の両側に落ちる髪の毛は三つ編みに、背中に流す腰まで達した紅の髪を夜風に靡かせながら、美鈴は微醺を含んだ酔眼を笑顔の形に象りながら、私の元に遣って来た。
「咲夜さん、どうしたんですか。こんな所で一人で飲むより私と飲みましょう!」
「……貴方、結構酔ってるわね」
「全然酔ってなんかないですよぅ。まだまだ序の口ですから!」
美鈴は私の指摘に、酔った者の百人がそう返す答えを私にくれて、けたけたと無邪気に笑いながら片手に持った焼酎の瓶を揺らして見せた。中に入っている酒がその拍子に微かな水音を奏でる。仕様がないので、私は無言でお猪口を美鈴に向かって差し出した。どちらにしろ飲まされるのなら、先に諦めていた方が良い。何より、未だ視界の中に時折飛び込む二人の姿を完全に忘れる為に、このまま飲み続けて爛酔に陥るのも悪くはない。むしろ、私はそれを望んでいる。
「流石咲夜さん! じゃんじゃん飲んで下さいね!」
私がお猪口を差し出したのを見て、美鈴は心底嬉しそうにそう云った。そうして焼酎を私のお猪口の中に注ぎ、自分が持っているお猪口にも注ぎ、直ぐに飲み干した。その光景を見ていると、今の美鈴にはお猪口程度の大きさでは些か小さ過ぎると思った。その心配を表すように、美鈴は空になったお猪口に再び焼酎を注ぎ、また喉に流し込んでいた。私も、その盛大な飲み方に感化されてしまったのか、一思いに焼酎を飲み干すと美鈴に促されるがままに、お代りを注いで貰った。まだ、視線の先には二人の姿が時折飛び込んでくる。この程度の酒量では全く以て足りなかった。
「それにしても、此処の宴会は何時も何時も騒がしいですねぇ」
ふと、美鈴は私の隣に腰掛けながらそう云った。騒がしい中の一因には美鈴も含まれているのだが、私は敢えてそれを指摘しなかった。指摘する必要性も認められなかった。指摘する気力も元より無かった。ただ、そうねと返すと、美鈴は突然私に向き直って、お猪口に残った酒を飲み下すと急に真面目な顔付きになって、ともすれば睥睨するように私を見遣った。その意図が測りかねた私は、平常の美鈴らしからぬその行いを、茫然としながら見詰めていた。
「……咲夜さん」
少し低くなった声音は、この騒々しい賑わいの中には不釣り合いだったが、その所為で殊更明瞭に私に届いた。美鈴は私がどうしたのと云うまで、真面目な顔付きを崩さなかった。けれど、私がそう云った後には却って心配の光を瞳に湛えて、下から見上げるように私を見た。それが何故だか恥ずかしく、また情けなく思えて、私は堪らず視線を在らぬ方向に向けてお猪口の中の酒を仰いだ。直接的でない冷やかさが、その酒の中には秘められている。
「何かあったんですか? 夕方だって手伝いから帰って来たら元気が無かったし、今の宴会だって何時もならもっと楽しそうにしてるじゃないですか。何だか、何時もの咲夜さんじゃありませんよ」
急に落差が生まれた美鈴の雰囲気は、何処か私を圧倒した。誰もが気付くだろう適格な指摘は、美鈴によって初めて言葉にされる事によって、鋭利さを増したように思えた。私自身、自分が変に思われるだろう事は百も承知だった。けれど、誰に対してもそれを指摘するなと言外に体現していた私に、敢えて指摘する者も今の今まで居なかった。だからこそ、私は一人此処で佇む事によって、僅かな平穏をこの身に、この心に得られたのだ。
しかし、その平穏は美鈴によって実に卒然と、破壊されてしまった。
「……何でもないわ」
「何でもなくないです!」
当たり障りのない事を云ったつもりだった。他人を心配する時に、その相手が私のような事、もしくはそれに近しい行為――つまり、暗に拒絶する態度を取れば、大抵は困却して、果てには放って置くしかなくなる。今私が云った言葉には、そう云う算段が少なからず含まれていた。しかし、紅 美鈴は違った。私の拒絶に対し、反発した。それこそ普段では有り得ない行動を取って見せた。凡そ私には予想も出来ず理解も追い付かない行動だった。
「……咲夜さん」
「……」
美鈴はか細い声でもう一度私を呼んだ。俯いた顔に表情は見えず、ただ心持ち落ちた声のトーンが、彼女が今どんな表情をしているのかを連想させる。美鈴の手は、堅く拳を作り縁側の板の上で震えていた。
私は美鈴の呼び掛けに対する適切な処置を知り得なかった。どうすれば美鈴は安心するのだろう、どうすれば私を置いてこの場から立ち去ってくれるのだろう、どうすれば私が一人になるのに納得してくれるだろう、そんな最低な考えばかりが遍満する中で、臆病な私はそのどれをも選び取る事が出来ずにいた。したがって、私に出来るのは沈黙と云う名の回答だった。最も卑怯で、最も逃避的な、私の深層に未だ眠り続けていた無意識の防衛手段だった。
「……私は、咲夜さんの力になれませんか……?」
静かに紡がれた言葉は、不意に熱いものを私の中に込み上げさせた。その時に初めて顔を上げた美鈴の瞳には一杯に涙が溜まっている。その慇懃たる様は、つい先刻考えていた、最低な考えを持っていた私を自ら突き殺したくなるくらいの真率な態度だった。それでいて、私にはその様が剣呑に見えた。私の答えようによっては、美鈴はもう二度と私に対して深い関わりを持たなくなるかも知れない。今私の選択する内容によって、私と美鈴との関係は大きく変わるように思えた。
流れる沈黙に喧騒が紛れ込み、揺れる篝火の炎に照らされて殊更に潤みを増す美鈴の瞳は、嘆願の光を湛えながら私に向けられている。紅の月が見下ろす境内の中、私はその場に到底似付かない空気に呑まれまいと必死に抵抗していた。けれど、今更笑って有耶無耶に出来るほど今の空気は軽くない。もしも私が、悄然としている様を押し隠していたならこの空気が私に纏わり付く事は無かっただろう。美鈴も特別私を気に掛けるような事はしなかっただろう。この余りにも重い空気を創り出してしまった原因は、私が感情を制御出来なかった失態に帰着する。
最早、私は答えを強制されているも同然だった。美鈴の為に、私は私を守る事よりも優先して美鈴を助けなければならない位置にいた。私は努めて美鈴の望む答えを返さなければならなかった。
私は一の句を紡ごうと口を半ばまで開く。美鈴の瞳からなるべく眼を逸らさないように視線を固定しながら、弁解にも似た言葉の羅列を寄越すべく、舌を口内で動かす。しかし、その時に突然吹いた冷たい夜気を含んだ風が、不意に私の視線を美鈴から逸らさせた。それは全くの偶然だった。その偶然を運命だと置き換えると、私は知らぬ間にその刻薄な運命に蹂躙されていたのだろう。――逸れた私の視線は、滑り込むようにして霊夢とお嬢様が居る一角へと吸い込まれていた。
「……あ……」
そんな、意味など何一つ含まない虚しい呟きが半ばまで開いた私の唇から出たかと思うと、私の頭の中は自分でも驚くほどに冷めて行くようだった。僅かな酔いも、私が見た先の光景が氷水と化して私に降り掛かり、瞬く間に酔いを醒まさせてしまった。私は手に持っていたお猪口を膝の上に落とし、美鈴に何か云うはずだった思考も放擲して、立ち上がった。――私が見た先には、お嬢様が正にその瞬間に、霊夢に口付けようとしている光景があり、不幸にも私はその一部始終を全て見てしまった。その唇が霊夢のそれに触れる所までをも、見てしまったのだ。
それは一秒が有るか無いか、それですらも疑わしいほどの一瞬間の出来事だった。それでも、その余韻は確かに残っていて、驚いたように目を見開いて耳まで赤く染めている霊夢と、悪戯を成功させた子供のように意地悪い笑みを浮かべたお嬢様とが、その光景を見ている私には憎悪しか与えてくれない微笑を互いに送った後、二人は今度は申し合わせたかのように合意の上の口付けを交わしていた。恐らくは私以外の誰もが見なかった光景。もたらされた不幸は、瞬時に私の心を抉り、大きな穴を残しては更にその奥底まで掘り進めようと、鶴嘴用い、凶悪な勢いを以て穴の底を打ち付けていた。
「咲夜さん……?」
美鈴の声が、近くから聞こえるようで遠い彼方から聞こえるように、私に届く。しかし、その呼び掛けが何を意味しているのか、何を求めているのか、それですら判然とした理解の追い付かない私は彼女に何事も返す事が出来ず、依然と見てはいけない、けれど私の目を離さない二人を見詰めていた。私が正気に返ったのは、二人が長い口付けを交わし合って、羞恥に頬を染めながら、再びはにかみ混じりの雑談を開始した頃だった。
「……ごめんなさい」
「……え?」
かちりと音が鳴った、気がした。
美鈴は驚きと悲しみを五分に分けた表情を浮かべながら、眼を見開いていた。そうしてその後は瞬き一つする事なく、私の瞳を見詰めていた。私が逃げ出した時に、決まってそこにある無機質な視線が、私を射ている。全ての音はかちりと云う小さな音の波紋に沿って消えて行った。何もかもが静寂に包まれて、何もかもが色を失ったように思える中で、私は先刻とは似ても似つかぬ、寂寞のみが漂う空虚な宴会の会場を眺めていた。――この世界は私が壊れてしまった状態を具現している。罅だらけの自分を守る為に、何もかもから自分を守る打算の元にこの世界は生まれたのだ。平常の自分では成し得ない力の暴走――ただ、そこにある世界がまだ壊れていないだけの世界。私はその世界の中に立ち上がった。
冷たい夜風すらも無くなって、酒の温かみは疾うに消え失せて、私はそれでも胸から込み上げて来る熱い物を感じずには居られなかった。忽ちその熱い物は私の目尻から零れ落ち、物音一つさえ立たない静謐な世界に、一滴の波紋と音とを木霊させる。歪む視界に何かを捉える事も出来ず、私はただ自分が望むままに宴会場を真一文字に横切って、境内の入口の長い石造りの階段を文字通り飛び降りた。その時ばかりは、冷たい風をその身に感じる事が出来た。
ふわ、と静かに大地に降り立って、私は近くの木の根元に吸い寄せられるように近寄って、そこに倒れるようにして腰を落とした。茂る草の柔らかな座布団に受け止められながら、輝きさえも止まってしまった星々と、紅の月を見上げる。木の梢が成す網の間からは、その断片がちらほらと窺えるのみで夜空の全貌を見渡す事は叶わなかった。音が立たないのはそのままに、密やかに私の喉から聞こえる嗚咽の音は、殊更頭の中に醜く響いた。時の止まった世界で、一人逃げ出すように佇む私は、まるで自分が醜穢の極みに達してしまったのではないかと思えるほどだった。
どうしようもなく醜く、どうしようもなく狡猾で、どうしようもなく臆病な私は、一人此処で瞼を泣き腫らすしか自分を守る手立てを持たない。その現実が重く圧し掛かって来るようで、止めどなく私の頬を伝う透明な雫は、更にその勢いを増して顎から落ちた。私が見ている世界は、両手に覆われてしまって何も映してはいない。
――その時。
「今晩は。月の冴える良い夜ね」
声が、聞こえた。
◆7.隙間
口説き文句のような言葉を徒に向けた女は、私が気付く前に、私が知る前に、そこに居た。私の直ぐ前、先刻の宴会の中で飽きる事もなく酒を飲み続けていた爛れた様を影も残さず消し去って、他人を小馬鹿にしたような食えない笑みを浮かべながら、必要もない傘を翳して私を見下ろしていた。
私は少なからずと云わず、大いに驚いた。何故時間が止まった私の世界にこうして立っているのか、もしもこの世界に来れたとしても、私に何故会いに来たのか。それら全てが判然とせず、私は涙を拭うのも忘れて茫然と目の前の人物を見上げた。
黄金の河を思わせる長い金の髪を月明かりに煌めかせ、髪の毛とは変わった趣を放つ金の瞳を細め、境目に潜む妖怪、八雲 紫は妖艶な微笑を湛えて、私を悠然と見下ろしている。手に持つ傘の所為で遮られた月明かりは私の元に届く事はなく、余計に暗くなった視界の中でもその姿は宵の色彩に後れを取る事など無く、むしろ闇の中に浮かび上がるように、判然と私の前に立っていた。まるで、全てを見透かしたような怪しい笑みを、崩す事もなく。
「あら、貴方にとっては良い夜では無かったのかしら」
「……」
私は彼女の言葉に対して何事も返さなかった。その態度が、何もかも知り尽くしているのだと言外に語っているその態度が、不愉快に感じられた。自己の領域に忍び込まれた事に対する嫌悪感、生理的な相対する不快――それらが、一度に押し寄せては私に混沌を与える。彼女は、沈黙を保つ私にくすりと笑って見せてから、諧謔を交えたような軽い調子で、一人言葉を続けた。
「沈黙は好きじゃないわ。何か云って下さいな、悩みに悩む、瀟洒な従者さん」
次は紛れもなくからかわれているのだと、私にも理解出来た。先刻よりも判然とした不快感が、私の中に勢力を広げる。しかし、此処で争う気にも到底なれず、私を一人にしてくれさえすれば良いと、「何をしに来たの」と冷淡な口調で述べた。彼女は、気分を害する様子も見せず、「特に何も」と云って、再びくすりと微笑んだ。
その微笑みが酷く癪に障る。神経を直に撫でられているような、おぞましい感覚を覚える。私はこの女の前で、全裸の身体を嬲られている錯覚すら覚え始めていた。剥き出しの心を遠慮なく触られる恐怖を覚えていた。
「貴方が時間を止めれば、止まった時間と平行して進む貴方の時間とに境界が生まれる。私はその境界を弄って、時間を止めた理由を聞きに来ただけよ。此処に来て見れば、案の定貴方は泣いているじゃない」
「関係も無ければ動機も薄い。私が話す理由が無いわ。直ぐに帰って」
「あら冷たい。人の親切を無下にするものじゃないわ。人間は独りが寂しいのでしょう?」
「私を普通の人間と一緒にしないで。悩みなんか、一人で解決出来る」
「嘘ばっかり」
彼女は一向に私の元を離れようとしなかった。ともすれば私が理由を教えない限り、ずっと此処に居座る料簡のようにも見えた。しかし、それでも私は彼女に涙を流す理由も、時を止めた理由も教えるつもりは毫も無かった。しつこく迫って来ても、最終的には無視を通そうと決めていた。けれどその一方で、人間は独りを寂しく思うと云う彼女の言い分も、的を射ていると認めざるを得なかった。私は、独りに恐怖したからこそ、此処に逃げて来たのだ。
「――ねえ、貴方。私が何で此処に来たのか解る?」
彼女は唐突にそう云った。見上げると、細くなった金の瞳が月と見紛うほどに輝いている。但し、唇が描く醜悪な歪曲は、微かな恐怖を私に与えた。自分で云ったはずの事をわざわざ私にもう一度尋ねているのも、何か私にとって良くない事を示唆しているのだと思った。私はただ、「貴方がさっき云ったでしょう」とだけ云って、後は押し黙った。彼女は、更に目を細め、更に唇の両端を吊り上げて、今度は明らかな侮辱の態度を表しながら、流暢に語り出した。
「人にも妖怪にも隙間が生じるわ。他人と擦れ違って生じる隙間、抉じ開けられる隙間、或いは自ら開く隙間――隙間の種類は種々様々で到底数え切れないけれど、誰もがその隙間を持っているのは貴方にも解るでしょう」
返事を求めるように向けられる金色の瞳に、視線のみの返事を返すと、満足したように彼女は再び語り出す。肩に掛けた傘を時折回して見せて、月明かりの下で一人円舞を踊る彼女は、嬉々として、語る。
「先刻、或る一つの隙間が閉じた。私が入る余地すらも無くして、完全に隙間は閉ざされた。それと同時に、或る隙間が開かれた。私が介入する余地なんて有り余るほどに有る隙間が開いた。――さあ、誰の隙間でしょうか?」
私はあからさまに目を見開いた。やはり目の前の女は全てを知っていたのだ。そこに猜疑を入れる余地すらもない。そうして何が云いたいのかはまだ私には解らなかったが、相変わらず人を嘗めて掛かった態度で、くすりと失笑すらも漏らすその姿に、私の中で憎悪の念が湧き上がる。露骨に放たれる私の殺気に気付いたのか、女は傘で身を隠すと、くるりと一度回って見せて、次の瞬間には姿を消した。と思えば今度は私の斜め後ろで、くすりと云う笑い声が聞こえた。
「正解は、前者がとある館の吸血鬼と、騒がしい宴会が行われる神社の巫女。……後者は――ふふ、その殺気だけで答えになるわ。貴方の隙間は、地割れを起こしたみたいに豪快に割れてるわねぇ」
「……そんな下らない事を云う為に此処に来たのかしら」
振り返った私を嘲笑い、彼女はまたくるりと回る。すると、今度はまた先刻の彼女の立ち位置から声が聞こえる。何処までも人を小馬鹿にした態度は、際限もなく私を苛めて、この身に宿る憎悪の念に養分を与えている。私は懐に手を伸ばし、冷たい輝きを放つナイフを手に取った。外界に姿を現した白刃は、紅の月光を受けて、殊更に怪しい輝きを放っている。私の殺意を具現したかのような、憎しみの光は血のような紅色だった。
「勿論。私は他人の隙間を見るのが楽しみなのよ」
今まで見て来た中で、一番醜悪な笑みを浮かべた女に向かって、私は既に月光に照らされる白刃を投げていた。空気を裂き、私が放つ殺気を身に纏って、凶刃は一直線に女の喉元を目掛けて迫る。しかし、尖った刃の先端がその細く白い首に当たる刹那の瞬間に、女の姿はそこから忽然と消え、また後ろで生物が動く気配がした。首だけを捻って後ろを見遣ると、そこには不愉快な微笑を崩さない女の笑顔がある。私の視界は真赤に染まったようだった。
「貴方の怒りは誰に向いてるの? 私だと思うなら、それは逃避。――ほら、今もあの二人は止まった時の中で、幸せそうに微笑み合っているわよ。向けるべき矛先はそこにあるんじゃないかしら?」
「……うるさいっ!」
また、中空に白刃が煌めく。狂気を孕んだ凶器が、殺気を纏って皮を裂き、肉を破ろうと風を切る。かつ、と云う音と共に、ナイフはあの女の後ろに佇んでいた木の幹に突き刺さった。あの女は、忽然と姿を消して私の後ろに立っている。視界の赤が、更に濃くなり、私は指の間に挟んだナイフを、五六本ばかり薙ぐようにして放る。空中で扇状に広がったナイフ達は、私に手応えを与える事もなく、夜の深い闇の中に姿を消した。遠く、からん、と空虚な音が鳴った。
「嫉妬の炎に焦がされて、落ちた穴の底に光は無くて――それでも貴方は這い上がらない。足を掛ける対象が目の前にあるのに、敢えてそれから目を逸らす。だから、暗い穴の底の中で泣いている。独りで、泣いているのね」
「黙れ!」
時が止まっているこの世界で、更に時を止める事など出来ようはずもなく、私は遮二無二にナイフをあの女に向かって投げ続ける。しかし、それは時折薄暗い不気味な隙間の中に吸い込まれ、そして殆どは空を切るばかりで本来の用途をこなす事も出来ないでいた。ナイフを投げる回数に比例して、私の中の憎悪が膨張し、それが私の心を押し潰そうと体積を増して行く。狭い部屋の中に膨らみ続けるその憎しみの風船は、その部屋の隅で膝を抱える私を容赦なく潰そうと、膨らむのを止めなかった。それだから、次第に余裕が無くなって行く私は目が熱くなるのを感じていた。
「自分の想いを伝えられないのは、人間に虐げられた後遺症? でないと貴方が此処に居る訳ないものね」
「……うるさい……!」
一本のナイフが地面に平行して飛んで行く。
その時には、既に女の姿はそこには無い。
「それとも、二人の間に入れないと云う諦念の所為?」
「うるさいっ……!」
私は理解していた。時が止まった空間で、そこに入られてしまえば私がこの妖怪に勝つ術など無いのだと。それでも、深く抉られた心の報復に、私は白刃を投げ続ける。そこに意味が無かろうと、何もしないで諸手を挙げるのは私が耐えられない。溢れる怒りをナイフに込めて発散しなければ、私は自らに与えた重量に押し潰されてしまう。私は再び、ナイフを手に取り、渾身の力を込めて、必殺の殺意を込めて、投げ付けた。
「……ぅ、く……ッ……!」
けれど、それもとうとうあの女に届く事はなく、岩に当って散ってしまった。高い音を奏でて、私の持つ最後のナイフは地面に散乱し、打つ手が無くなった私はその場に崩れ落ちた。もう限界だった。散々痛め付けられた心は、これ以上の刺激に耐え得る事は出来ず、武器を無くした身体は立っている事もままならず。ただ、私を嘲るような笑みが含まれた声が、後方でも側面でもなく、私の直ぐ前から聞こえた。やはりそれは、私を揶揄する言葉を紡ぐ声だった。
「どちらにしても、貴方が臆病なのに変わりは無いわね」
くすりと、冷然たる笑みを最後に、私を嘲る女は冷やかに私を見下した。どうする事も出来ず、喉からせり出してくる嗚咽を必死に飲み込んで、私は握った拳を震わせる。最早、激する力も残ってはいない。私は此処で、何も出来ずに佇むばかりだった。女は、それからこう続けた。
「私は貴方を泣かせる為に此処に来たのではないのよ。どちらかと云うと、背中を後押ししに来たの」
「助けなんて……っ、要らない……っ」
ざり、と地面に着いた手が砂利と擦れる音が闇夜に響く。無機質な沈黙だけが支配する止まった時の中で、私は尚も続ける女を睨む。既に歪んでしまっている視界では、一寸の気迫すら出せていないだろう事は容易に解った。けれど、この女を前に無抵抗で居続けるなどと云う事は、どんな打擲よりも、どんな折檻よりも辛い事のように思えた。私は力を持たない殺気ばかりを放ちながら、裏面では私など独りでは生きられない子犬のように弱々しい姿をしているのだと考えた。
「貴方が泣いてるのは想い人を盗られたからでしょう」
「盗られたなんて、云わない。最初からそうなる運命だった」
「だったらその激情をどう処理するの? 溜め込んでいては、きっと貴方は直ぐに壊れるわよ」
「そうなったら、その時だわ。私はもう壊れても良い」
「嘘ね。詭弁ね。どうしようもなく逃避的で何もかもから目を逸らしてる。貴方が幻想郷に遣って来たのは何故? 以前居た世界が貴方を受け入れなかったからでしょう。居場所を無くした者は、即ち存在を亡くした者となり、生きる居場所が消えてしまえば幻想郷に来る。人間に愛されなかった貴方は、その苦しみからも目を背けているわ」
「じゃあ、幻想郷の居場所を亡くした私はどうすれば良いの? もう私は紅魔館に戻れないわ。戻れたとしても以前のように振舞う事なんて出来るはずがないわ。だったら、私は何処へ行けば良いの。私が戻る場所は、何処にも無い」
「だから、私が助けてあげる。切欠を与えてあげる。その切欠をどう使うか、そして使った後にどうなるかは、貴方が決めなさい。結果の善し悪しは解らない。だからこそ試す価値があるのは思わない? どうせ何も出来ないなら賭け事に嵌って見るのも悪くはないでしょう。特に、今の貴方のような空虚で希薄な存在には」
「……」
そう云って、紫は不敵に微笑んだ。その笑みに、水を渇仰する者が、夢にまで見た潤いを与えられるが如く、そしてまたそこに毒が入っているかも知れないと疑う者の如く、私に正体の知れない随喜に猜疑を交えたような複雑な感情を芽生えさせた。紫は、再び微笑む。言外にどうすると云う問いを含ませて、私の返事を促している。元より私は首肯するしか無かった。水はおろか微かな泥水さえも与えられず、地に這い蹲るばかりの私が生きるには、悪魔の手とも、天使の手とも知れない紫の手を握るしか無いのだと、明瞭に認識していた。
紫はまた微笑む。薄い桜色の唇を吊り上げて、私を破壊するかのような恐ろしい視線を以て、貫く。その矛先が網膜を越えて脳髄に突き刺さった時、私の正常な思考は失われていたのかも知れなかった。
揺れる篝火は止まったままに、私が見る視界が深紅に染まって行くのを、私は朧気な思考の中に感じていた。
◆8.狂刃
神社の入口に至るまでの長い石造りの階段を上り終えると、相変わらずの騒々しさが私を出迎えた。何人かはもう酔い潰れたと見えて、地に伏して寝息を立てている。その周りを見ると、私の予想は正しいらしく、空になった燗徳利が何本か散乱していた。その光景を見てから、再び宴会の中心を横切って行く。途中、誰かに声を掛けられた気がしたが、それも無視して私は自分が先刻座っていた母屋の縁側の方へ足を向けた。
「あ……」
そこに赴く途中に、視線を地面の上に落としながら重々しい足取りで歩いている美鈴に会った。彼女は私を見付けると直ぐに睫毛から降りる悲しそうな影を瞳の上に落して、特に何かを云う訳でもなく私の隣を通って何処かに行った。突然美鈴との距離が開けた事に気付いた私は、それでも何ら思う所もなく、ただ黙然と歩を進めた。
事の細かい所まで考える余裕など、今の私には無い。それでも何故か冷静さを保つ思考は、視界の中に入る光景などを理解する能力だけは残しているようで、私が目的の場所に到着するのに支障は出なかった。視界の中は、赤の絵具を水に浸したような、気持ちの悪い色に覆われている。
縁側に付くと、まだ中身が大分残っている焼酎の瓶が栓を開けた状態のまま二つのお猪口の隣に立っていた。私はその隣に腰を掛けると、直ぐに例の一角に目を向ける。そこには相変わらず二人が楽しそうに談笑を交わしている。私は興奮しているようで何処までも冷静な頭の中に、その光景を入れながら暫くの間憮然としながら佇んでいた。時折紅の月に目を向けると、その輪郭が解らなくなっていた。紅い月光は視界の赤に掻き消されて、微塵も認められない。それが今の私にある異常なのだと、直ぐに解した。そうして私は、思考を放擲して二人を眺めていた。
やがてお嬢様が立ち上がった。霊夢は座っている。お嬢様が二言三言何かを云って、その場を後にした。二人が座っていた場所にある酒瓶が全て空になっていたから、恐らくは追加を持ってくる料簡なのだろう。私はお嬢様が視界の中から消えたのを確認すると、おもむろに立ち上がり、ゆっくりと霊夢が独座している場所まで歩いて行った。
霊夢は直ぐに私の存在に気付いた。しかし、見た目だけは普通の私にある、確かな異常に気付く事はなく、微醺を含んだ酔眼で私を見ると、僅かに頬を綻ばせた。そこにあるのは例の淋しげな笑みではなく、心底今を楽しんでいる幸福に満ちた表情だった。私は視界が更に染まるのを感じた。そうして、時間はあるかと尋ねた。霊夢は不思議そうに黒い瞳を丸くさせながら、直ぐに済むなら良いけど、と云った。私は付いて来てと云って、相手の了解も確かめずに暗い雑木林の中に入った。博麗神社を取り囲む雑木林は結構な広さを持っている。夜の闇の中に、宴会会場からの乏しい光が僅かに差し込むだけの空間は、とても好んで入るような場所には見えなかったが、今の私に此処は必要だった。
幾らか歩いた後、私は足を止めた。地面に茂る草がその拍子に音を立てる。それから間もなくして霊夢が足を止めた音がした。同時にどうしたの、と問い掛ける声も聞こえた。宴会の喧騒は夢の中から聞こえる現の音のように、遠くから聞こえるだけになっている。私は霊夢の問いに答える事もなく、また後ろを振り返る事もなく、肌身離さず持ち歩いている銀時計をかちりと鳴らした。先刻と違って、その音の波紋は起こらなかった。ただ、私の足元を中心に何かが構築されて行った。草木を飲み込み、闇夜を切り裂き、所々に亀裂の入った白い壁が私の周りに広がって行く。昔、私が逃げ出した時と同じように。何かの箍が外れてしまったのだ。以前とは違う理由によって。
「咲夜! 何なのよ、これは!」
後ろから霊夢の叫び声。しかしそれも広がる空間に飲み込まれて行った。私はまだ振り返らず、ただ白い壁が天を覆うように這って行くのを茫然と眺めていた。私達が、先刻まで居た世界から完全に隔離されて、白い壁が星々の煌めく夜空を覆い隠し、冴える紅の光を降ろす月を隠した時に、漸く私は後ろを振り返る。但し、視線は足元に落ちていた。今霊夢の姿を見てしまったら、身体が勝手な行動を起こしそうだった為に、私は自分の足元を見詰め続けていた。
静かだった。先刻の世を疎んで疎隔したこの空間は、どんなに微かな音でさえ聞き取る事が出来そうなほどに静かだった。霊夢が私に近寄って来る足音も、瞬時に理解した。その時には既に、私の手の内に握られていた短いナイフがその進行を妨げていた。霊夢の狼狽する声が聞こえる。理不尽な現象に巻き込まれた事に対する憤慨が私の鼓膜を叩く。不愉快な声音が心を揺さぶる。私はやはり黙ったまま、微動だにしなかった。
「私と闘いなさい。ごっことは云わない。殺し合うのよ」
「……本気で云ってるの?」
「貴方が居る場所が何処なのか、それを考えれば納得出来るでしょう」
ナイフを掲げる。霊夢が退く音がする。私はまだ前を見ない。
「……どう云う訳で」
「貴方が……貴方が云う事じゃない」
空を切り裂き、霊夢に向かってナイフが飛来する。何の意図もない刃が、彼女に当たるはずもなく、霊夢は淡々とした口調で言葉を吐く。まだ臨戦態勢は作っていないようだった。
「闘うなら――殺し合うなら、理由が必要よ。せめてそれを云いなさい」
「理由が必要なら、今直ぐに作ってあげる。身を守る為には、仕様が無いんだから」
前を向く。手にナイフを持ち、霊夢に向かって突進する。逆手に持った短剣を、左脇腹から右脇腹を裂くように一文字に薙ぐ。霊夢は顔色を変えて後ろに飛び退いたが、紅白の巫女服には斜めに裂け目が走っていた。霊夢はまだ武器を取り出さなかった。或いは持っていないのかも知れない。宴会の最中にけし掛けた闘いに万全の準備をしている方がおかしいのだから、それも当たり前だった。しかし私はもう止まらない。この腕を、この足を、止める術を遠く忘れてしまったのだ。幻想郷の規律などは、あの女と相対した時に置き去りにしてしまったのだ。
「悪いけど、私は闘わない。納得が出来ないわ」
「納得なんてしなくてもいいわ。ただ、不本意なまま貴方が死ぬだけ」
「……」
霊夢はそれから何も云わなかった。都合が良い。これから殺す人間が流暢に話しているなどと云うよりは実に都合が良い。私は地に着く足に力を込めて、一気に、爆発させるように、霊夢に向かう。片手に持ったナイフを投げ付け、それを霊夢が避ける。着地した場所に進路を変えて、更にナイフを投げ付ける。舌打ちが聞こえたかと思うと。霊夢は首を出来る限り反らして紙一重でそれを躱した。汗が、白い頬の上を伝っている。それが顎を伝って落ちるのを確認出来るほど、今の私の頭は冴えている。沸騰する感情の中で、殺意だけは冷たく在る。
「抵抗しないのかしら? このまま死んでも良いの? 幸せの真最中だったのに」
「……! あんた、まさか――」
途中で句を切って――否、強制的に断ち切られたのだ。私のナイフが頬を掠めたから。今度は頬に、赤い筋が伝った。肌理細やかな頬の皮膚に、赤い線が走る。そこから滴る血液が殊更に私の頭を沸騰させた。視界の赤は、霊夢だけを映して他を映さなくなり、私は自分が狂っているのだと客観的に判じた。その時に私の頭の中を過ぎる声があった。あの女が、去り際に残して行った言葉が一瞬間の内に私の中に木霊した。
――理性と本能の境界を弄ってあげたわ。これで何をするのにも躊躇いが生じる事はないでしょう。存分に、自分が思うままの行動を起こして来なさい。例えそれがどんな結果に繋がろうとも、一時の休息には成り得るだろうから。
思い出してもその意味を今になって理解出来るほど、頭が冷めていない。ただ思うままに行動をしているのだと、その事実だけを理解した頭が酷く痛む。これが正しいのかと諫める声が何処かでしても、それに耳を貸す事が出来ない。その所為で更に頭が痛む。理性が本能と混じり合い、衝動的な怒りが殺人と云う目的を遂行する為に爆発しているのだ。その爆炎に身を焦がされれば、その爆風に四肢を引き千切られれば、私に抗う術など残ってはいない。ただ、単純な動機を以て自動的に動くこの身体に身を委ねる事によって得られる結果は、確かに私に安寧の休息を与えるのだと思った。
「死んで、頂戴」
その呟きは遥か後方に置いてきた。私はそれを云ったのと同時、或いはそれよりも先に、爆風に成す術もなく吹き飛ばされるが如く、駆けていた。視界の真中に霊夢の姿がある。此方を見詰めたまま、微動だにしない霊夢の姿がある。そのあの女よりも細い喉元に、冷たく光る刃を突き刺し、或いは今も生きている証を刻んでいる心臓に突き刺し、或いはその眼球の奥にある脳味噌に突き刺したなら、忽ち霊夢は動けなくなるだろう。真赤な液体で白刃を汚し、傷口から滔々と流れ出る血液の水溜りの上にその身を横たえるだろう。私は今、それを望んでいる。あの女も云った。「躊躇いが生じる事はない」と。私はこの手に握られている狂気の刃を霊夢に突き立てるだけで良いのだ。
――やがて、距離が、零になった。
「……」
「……」
刺したはずだった。刺そうと思ったはずだった。霊夢に対して湧き上がる殺意はもう押し殺す事が可能なほどに弱々しくはない。衝動に突き動かされるが如く、私の行動に歯止めは利かないはずだった。利くべきではなかった。
――けれど、零の距離は、零では無かった。
霊夢の咽喉の手前、そこに距離が存在しているのかどうか疑わしいが、確かに僅かな隙間があった。切っ先はその場で止まり、小刻みに震えている。他ならぬ私の手が、そこでナイフを止めていた。霊夢は顔色一つ変えずに、死の恐怖に抗おうとする様子すら見せずに、私を見詰めている。ナイフと咽喉の関係と同じように、眼と鼻の先にある霊夢の顔を構成する一つ一つの要素が全て私に集中しているように思えた。慄然すら感じるほどのその無機質さは、この場を圧倒しているのは確かに私であるはずなのに、大いなる脅威を感じさせた。驚いているのは私一人だった。
「何で」
霊夢が口を開く。無機質な表情と共に。無機質な声音と共に。
「殺さないの?」
声にならない悲鳴が、私の中に響き渡る。
その呟きが、私の心を無慈悲に裂いた。
◆9.瓦解
私は無意味な努力に心血を注いでいた。震える白刃の切っ先を目の前の咽喉に突き刺そうと、渾身の力を腕に込めているはずだった。しかし、幾ら力を込めようと、ナイフの切っ先は弱々しく震えるばかりで一向に動こうとはしなかった。冷たい汗が背中を伝い、額には玉のような汗が滲み、逸る心臓は大太鼓を打つように鼓動を刻み、それでもナイフはその位置にある。それでも霊夢は眉一つ動かさない。何でと叫びたかった。矛盾する思考と行動のずれが、空虚な心の隙間に冷たい風を吹かす。煽られて、煽られても尚、苦しむばかりで何も出来ない自分の無力さに嫌気が差した。
「――レミリアが」
無機質な光を湛えている瞳を伏せて、霊夢は自分の喉元に突き付けられている白刃の煌めきの上に視線を落とした。そうして紡がれた人の名がお嬢様のものだったのは、必然的な事だっただろう。私は激する事もなく、未だ震えている手と切っ先とを、眺めていた。何て滑稽な光景だろう。何よりも私が滑稽で、不様だ。この世界が開けた時点で、私は自分が何をするべきか決めていたはずなのに、こうして霊夢の声に耳を傾けているだなんて、笑いの種にもなりはしない。自身への嘲笑よりも先に、私は己への憤りを感じていた。涙さえ出て来そうな、憤りを感じていた。
「あんたに、感謝していたわ」
「……」
その言葉の中に含められた意味は、到底私の理解が及ぶ範疇に無かった。お嬢様が私に感謝している。そう教えられた事実だけで、私は頭の中が混濁して、何かに打ち震える頭が静けさを取り戻すようだった。お嬢様に感謝しているのは私の方だ。私の何もかもに救済を与えてくれたお陰で、私は生きている。お嬢様が居なかったら、私は疾くの昔に物云わぬ屍になっていただろう。私の肉体をそうさせなかったのは、全てお嬢様の恩倖に由来している。だからこそ、私は自分への憤りを抑える事が出来ないのだ。心の内で、自分の本当の考えを否定し続けているのだ。
「あんたはね、レミリアの救いになってたのよ」
多くを語らない霊夢は、しかし多くを私の前で語った。私の経験が霊夢の言葉を修飾し、飾られた言句が理解を促す。お嬢様が何よりも残酷な光を湛える刃を私の胸に突き立てた日、私はどんな話を聞いた? 世界に愛されず、人間に愛されず、結界の中で暮らさなければならず、人間が住まう世界の中に、その存在を希薄にした末に行き着いたのがこの幻想郷。私と同じ――否、私よりも辛辣な、過去。私が幻想郷に越す前の紅魔館に行き着いた時、お嬢様は云った。
〝私は、大っ嫌い〟
悪魔と云う存在が忌避されるべきものとして扱われる。生まれ落ちた存在が必要のないものとして扱われる。それがどれだけ辛い事だったのか。久遠の時の中で迫害され続ける事の恐ろしさ。それに比べれば刹那にすら満たない歳月を生きて来た私にとっては、恐ろしいまでの永遠。受け入れてくれる人間も居ず、孤独の中で彼女は何を思っただろう。私の想像も付かないような過酷な環境の中で、何をしていたのだろう。その中で現れた私と云う人間が、どんな影響を及ぼしていたのか、今なら解る気がした。メイドとして雇われて、仕事をこなす内に向けてくれるようになった本当の笑顔。それが持つ価値がどれだけ莫大なものだったか、私はあの過去を聞いた時に知って置くべきだった。
――目先の現実に囚われるべきでは無かったのだ。
――けれど、もう。
ぎり、と頭の中を侵食するような不協和音が木霊した。
鎖の解き放たれた猛獣は止まる術を知らない。殊にその獣が餓えていたのなら、空腹を癒す為に奔走するだろう。そうして漸く見付けた一匹の獲物をそのまま逃すだなんて、到底有り得る事ではない。有り得るべきではない。私は最早、その腹を空かせた猛獣の存在と同義だった。但し、腹は満たされている。憎しみと云う穢れたものに、満たされている。私の手の先で震える凶器の刃は、獲物の喉元に掛けた牙だ。震える顎に力を入れて、細い骨を砕き、柔らかな肉を噛み千切り、滴る血潮で渇きを潤さなければ、この腹の中に蟠った憎悪は中和されない。元より、最初から解っていた事だ。
――もう、止まれない。
「……」
私は切っ先を下げた。白い咽喉と白刃に間が生じ、霊夢が柔らかく微笑んだ。霊夢は恐らく、私が不毛な行動を起こそうとしているのだと解ってくれた、と思っているだろう。けれど、私の内面に渦巻く憎悪の塊は、最早砕く事の出来ない代物と化していた。霊夢が安心できる理由などは何処にもない。私は距離を取った白刃を、今度は決して躊躇う事が出来ないような速度を付けて、霊夢の喉元に目掛けて突き出した。刹那の暇すら、必要としない速さを以て。
私の視界に映る、霊夢の目が見開くのが異常な遅さに感じた。同時に私が突き出したナイフもその進行を遅めていた。私はこの刹那の瞬間に、後悔と、達成感とを同時に感じていた。決してこの刃が振り抜かれた後、私は喜ぶような気分にはなれないだろう。冷静に事を見極めれば、お嬢様が大切に思っていた霊夢が私の手によって殺されれば、私の居場所は無くなるだろう。それでも、私は心の空虚を少しでも満たしたかった。この針玉が胃を貫くような憎しみを吐き出したかった。
全ては私ではなく、霊夢を選んだお嬢様の所為――そんな虚しい言訳を心の内に呟いた。
今、一つの命が幻想郷を離れる。夢現の中に存在した命の花が摘まれてしまう。他の誰でもない霊夢の命が、余りにも簡単に、失われる。幻想郷の秩序を保つ、神聖なる巫女がその生涯を終える。そして私は購えない大罪をこの身に刻む。
白刃の煌めきが、その喉元に、接触した。
私はその微細なる感覚ですら全身で感じられた。薄い皮を破った感触が小さな痺れとなって、指先から腕へと衝撃を伝播した。柔らかい肉が僅かに裂かれる音を、脳髄に叩き込まれたかのように聞き取った。
――そして、それに次ぐ、余りにも強大過ぎる衝撃は、殊更に私を脅かした。
一本の燃え盛るような紅を放つ巨大な槍が、私が持っていた白刃を粉々に砕き、のみならず私達を取り巻く罅だらけの滑稽な空間が、弾けるようにして消えていた。それは、巨大な力の干渉。私では到底及ばない力が、単純に私の創り出した空間を壊したと云う、ただそれだけの事。一瞬にして白い世界は夜の闇の中に包み込まれて、私達を取り巻くのは鬱蒼と茂る雑木林の木々のみになった。遠く、宴会の喧騒が棚引いてくる。私は茫然自失のまま、槍が放たれた場所に目を向けた。
怒りに震える紅の瞳が、忍従の思いで唇を噛む白い牙が、威嚇するように開いた黒い翼が、全て私に向いていた。レミリア・スカーレット。私が仕える主の姿が、そこにある。
「十六夜……咲夜……!」
比較的離れた場所にも関わらず、歯軋りの音が聞こえてきそうな表情で私を睨み付けたお嬢様は、忌々しげに私の名前を吐き捨ててから、首元を押さえて地面に座る霊夢の姿に目を向けると、忽ち眼光に心配気な光を湛えて、霊夢に駆け寄った。霊夢は血が滴る傷口を押えながら、大丈夫と云っている。お嬢様はその傷口を見せなさい、と云って、半ば強制的に傷口を隠す手を退かした。そこには痛々しい切傷が、克明に刻まれている。流れる血液が白い部分の巫女服を汚していた。
そして、お嬢様は、まるで目の前に居る私に見せ付けるように、霊夢の首元に唇を当てて、流れる血を喉に流し込み始めた。霊夢は小さく身じろいで、履いている袴を握り締める。私は、戦意も殺意も全てがことごとく消えるのを自分の中に認めると、一歩後ずさった。異常だった精神は何時の間にか理性と本能との均衡を取り戻していて、今更になって自身の狂悖した行動が信じられなくなった。何故、私は霊夢を殺そうとしたのだろう、と後の祭りになった自責の念が私を苛めている。
やがてお嬢様は霊夢の首元から唇を離して、立ち上がった。同時に霊夢も立ち上がる。紅の月明かりが木々の梢の合間を縫って、私達に降り注ぐ。その中で見たお嬢様の瞳は今にも爆発しそうな怒りを秘めていて、私はそれを直視する事が出来ずに目を逸らす。お嬢様の後ろで私を見ていた霊夢は、憐憫の視線を注いでいた。それが逆に私を追い詰めて、この月明かりの届かない地面へと視線を落とさせる要素の一つとなっていた。
「貴方……何をしたのか解っているわね?」
「……はい」
憤怒を表す瞳を裏切って、不気味なくらいに冷静なお嬢様の声は、私を震え上がらせるには充分過ぎる恫喝を孕んでいた。スカートの裾を握り締めて、私はやっとの思いで返事をする。肯定する以外に選択肢などはない。私は暗澹たる暗窖へと落ちて行くしかないのだ。終わりのない奈落の果てへ、独りのままで。それでも、落下を促す重力に抗いたかった。私は今の居場所が無くなったら生きて行けない。いや、生きては、いけないのだから。
「だったら、もう二度と私の前に姿を現わせないで。今日限りで、紅魔館は貴方を必要としない」
「レミリア、私は大丈夫だから、そこまで云わなくても良いじゃない」
「霊夢は黙ってて。これは私に仕えていたメイドと主の問題。貴方の出る幕ではないわ」
霊夢が言葉を飲み込む。お嬢様は私を睨んでいる。冷たい夜気を含んだ風が、私の髪の毛を揺らす。私は言葉を発する事が出来なかった。弁解の余地などは何処にもなく、それどころか私がした事はお嬢様にとって、他に比較する罪など無いほどの、極刑に処しても尚許せないほどの罪状だっただろう。それを犯した私に、言葉を発する権利などはない。そして言葉を失くした者は、もう紅魔館に居られない。そんな事は、解り切っている。
でも――それでも、最後に一度だけ私の名を、お嬢様が与えてくれたこの名を呼んでくれさえすれば、何の心残りも無くなる気がした。居場所を失くした私にもう生きる意味はない。せめて、私の名を呼んでくれ、そう願った。
「早く此処から立ち去りなさい。貴方にもう用は無いわ」
冷然とお嬢様は云い放つ。私は返事をする気力すら失って、それでも尚お嬢様が最後に私の名を呼んでくれるかも知れないとその場に佇む。しかし、一向に動き出さない私を見て、お嬢様は忌々しげな溜息を吐くと、霊夢の手を取って宴会の会場の方へと歩き出した。堪らず、私はお嬢様を引き留めようと、冷たい空気を肺腑に染み渡らせる。このままで別れるなどとは、余りにも残酷過ぎる。微塵の慈悲すら無くしては、私は死んでも死に切れない。私が〝十六夜 咲夜〟としてこの生を終えるには、最後にお嬢様の声が必要だった。例えそこに、如何なる感情が含まれていなかろうとも。
「お嬢様――」
「さようなら、人間」
私の声を遮って紡がれる言の〝刃〟は余りにも刻薄な輝きを以て、私を貫いた。あの日、霊夢が好きだと云う告白を聞かされた時よりも、二人の想いが通じ合う瞬間を目の当たりにした時よりも残酷な刃が私を貫いた。紅の光に照らされた刃はまるで血に塗れているようで――その瞳は、私に有無を云わさぬようで、私の脆い世界を無残に、瀟洒と謳われた時の面影を寸毫も残さずに、破壊し、灰燼へと変貌させた。
他の何をも映す事の出来なくなった私の眼は、白んだ空に浮かんだ、彼女の瞳のような月が、既に山の稜線に沈もうとしている所だけを、縋るような思いで見詰め続けていた。
しかしクオリティ高いなぁ。