阿礼乙女の朝は早い。
朝起きて、布団をたたみ、顔を洗って寝ぼけたままで朝食を摂る。
今日は鮎の塩焼きでした。
里の漁師が釣ってきたのでしょうか。
その朝食の間に、侍女の群れが私の髪を梳いたり身繕いをする。
「昨日貴女当番だったじゃない」
「何よ、あんただって今日の当番じゃないでしょ」
「盆でたまたま開いてたのよ」
「私だって同じじゃない」
「なにをー」
「やるかー」
うるさい。
ご飯時くらい静かにしなさい。
普段ならば父上が叱ってくれるところ、今日はなにやら朝から忙しいとのこと。
なので、侍女を止める者はいない。
誰か、誰か助けてください。
報酬は稗田家直伝の福神漬けでどうでしょうか。
結局、身繕いは自分でやり直しました。
各人の好みが入り乱れて、私が混沌の塊となったためです。
記憶に残すわけにはいかない。
怒涛の勢いで朝は過ぎ去り、お仕事の時間となりました。
仕事といっても、書物に眼を通すだけ。
勉学というわけでもなく、単に新しい記憶を増やすためのものです。
どこぞの蔵を虫干しした際に、新しい治水工事の要綱が出てきたらしいです。
そのあたりは上白沢さんの管轄ではないかと思うけど、記録を残すという点では確かに私なのでしょう。
上白沢さんは歴史を見るので、数字やら何やらの資料を用いるのは難しいのでしょう。
たぶんそんな理由で、机の前には紙の束が山のように積まれていました。
見るだけでも、やる気がなくなってきます。
私自身は、こんなことを好き好んでやっているわけではないのです。
祖先の阿礼乙女はどうだか知りませんが、私には面白みのないお仕事です。
私を動かすのは使命感のような何か。
一つ目、治水工事計画の概要
二つ目、作業員の名簿
三つ目、予算案
四つ目……
・
・
・
特に不審な点はなく、ただの工事計画書でした。
お昼ご飯の前には終了。
量が多かっただけで、面倒なことは何もなく。
持ち主に返す書面は丁寧にたたみ、読了のカゴに入れておく。
このほかには急ぎの用もなく、昼食までの時間もあまりない。
お天道様は南に高く、時間は中途半端。
「ふぅ」
思わず息を漏らす。
誰も見てないことを確認して、足を崩した。
少し、暑い。
盆を過ぎて、立秋を通り過ぎて。
それでも一向に夏はその勢いを弱めない。
体が弱い私にはつらい季節。
やっぱり私は春か秋の過ごしやすい季節が好きです。
でも夏も冬も嫌いじゃないです。
加減を考えてくれれば。
そんなこんなで、昼食の時間でございます。
未だに父上は帰っていないようで、侍女集団との食事になりました。
素麺。
だから、食事の時くらい静かにしなさいよ侍女ども。
あーんとかいらない。
さもないといわく付きの物置に封印しますよ。
もしくは博麗神社への奉公。
静かになりましたね。
いいことです。
午後になりました。
今日の仕事は治水工事のものだけだったようで、やることもありません。
里に出てもいいのですが、この陽気だと行き倒れになりそうなのでやめておきます。
大事になったうえに父上に叱られるのがオチ。
上白沢さんには箱入りと言われますが、時々箱から出ないと腐りますよ?
出ても日持ちしませんが。
ところで私事です。
最近、先代の手記を読むことが多くなってきました。
先ほどのような記録に関しては、私は一度見た以上忘れることはほとんどありません。
でも、あくまで覚えるだけなので理解していることではないのです。
知識人でもなし、理解能力はあくまで人並みなのです。
何度も何度も読んで噛み砕く。
おっと、話が逸れました。
『記録』は私の中に留めることはできても、『記憶』は違う。
私自身のことは、文字通り瞬く間に忘れていく。
ここもまた人並み。
特に先代がどのような人物であるかに興味はなく、単なる記憶の補完行為。
私自身も手記を書いてはいるものの、先代や先々代ほどマメではなく。
むしろ最近はさぼりすぎです。
頭突き級ですね。
勘弁してください。
さておき。
手記によれば先代は、阿礼乙女の中でもかなり早くに亡くなっています。
もともとが短命であるのに、さらに短命。
記録では十歳程度だという。
閻魔が用意した肉体で生まれてくる『私たち』は、零歳のころからこの姿。
一般の寿命から考えると、私たちのものは成長分を除いた分なのかもしれません。
後は老いる分とか。
永遠亭の薬師によると、老いると記憶力が落ちるらしいです。
阿礼乙女の能力に関係があるのかはわからないけど、いずれの乙女も老いたという記述はありません。
もし、阿礼乙女の能力が棄てられるとしたら、私も人並みの寿命になるのかもしれません。
「まぁ、考えても詮無いことですけどね」
私は手記を閉じ、棚に戻す。
先代の書記は四冊。
今読み終えたのは三冊目。
三冊とも、差し障りもなく、手記といっても記録をつけているようなものでした。
まるで年表を埋めていくような。
この分だと、四冊目も変わらないでしょう。
人事ですが、同時に自分のことでもあるので予想がつきます。
先代といっても転生前の話ですからね。
忘れてるだけで。
こんなこと言うと、時々健忘症みたいに扱われるのでやめてください。
百年前のことなんか覚えてますか?
……覚えてる人型はいそうですね。
無駄に。
もうだいぶ日が傾いてきました。
幻想郷は朱に染められて、そろそろ人外の方々の時間です。
人間でも、夜から活動を始める方もいらっしゃいますが。
主に酒場とか。
私は規則正しく生きるので、夜は普通に眠ります。
ただでさえ体が弱いのに、自分から体調を崩すこともないですから。
「阿求さまー。夕食ができましたよー」
侍女Aの声がする。
もうそんな時間でしたか。
机いっぱいに広げられた物を片付けて、居間に早々に馳せ参ずることに。
しまうのは後にして、とりあえずまとめることにしました。
がさがさ。
ごそごそ。
実は、手記のほかにも色々広げていたのです。
それもついでにお片づけ。
とんとんと、書をそろえようとして
「……あれ?」
どこから落ちたのか、一つの便箋が床に。
真っ白なソレは、表にも裏にも何もなし。
ただ、見覚えがある。
まぁ何処にでもあるような封筒だし、見覚えならいくらでもあるのかも。
ふむ。
「あーきゅーさーまー!」
「あーはいはい、いま行きます」
少なくとも、急ぎのものではないでしょう。
私は卓の上にそれを置いて、居間に足を向けた。
夕食は、父上がいたから静かに過ごすことができました。
首まではいかないまでも、父上はマジメに蔵に封印するので、侍女軍団は戦々恐々としています。
やーいやーい。
そのまま湯浴みを済ませて、いざ寝るかというときに思い出しました。
あの、白い封筒がまだ卓の上に。
すっかり忘れていました。
父上がいたなら、聞いてみたほうがよかったかもしれません。
大事なものかもしれませんし。
眠気有利の様相であれ、一応目を通したほうがいいのかも。
封筒の中にあったのは三枚。
一枚はただのお礼状。
どうやら、手紙の送り主は何かをしようとして里の者数名の力を借りたらしい。
その代表が、手紙の送り先なのでしょう。
何をしたのかは手紙に記されていなかったのでよくわかりません。
しかしここまで出来るとなると、手紙の主も相当な権力者か、もしくは人望ある人物だったのかもしれません。
ここで一枚目終了。
二枚目は……成果の報告を頼むという内容でした。
ここでも何をしたのかはわからず。
送り主は強気でもあったようです。
すごい命令口調。
これはかなりの加虐趣味か、女王様か、ガキ大将ですね。
文面の様子からみても、ガキ大将がしっくりきます。
愛される人柄であることがにじみ出ています。
じわじわーと。
さてと、最後の三枚目。
蝋燭の灯りだけなので、目が痛いです。
さっさと読んでしまいましょう。
ぺらり。
……
………
…………
………………………………これは。
恋文でした。
甘酸っぱいとかそういうところではなく。
一生懸命考えましたって感じの……。
何かみてはいけないものを見たような、気がします。
しかも、前二枚との落差でさらに健気さが強調されてしまった!
なんで私が赤面しているのでしょうか。
私が書いたわけでもないのに……。
もう重要文書でもなんでもないので、さっさと折り畳む。
そして最後、送り主の名前を見てまた驚いた。
『稗田阿弥』
驚愕というより、呆然のほうが多分近い。
まさかこんな名前が出てくるとは思っていませんでした。
他人事ではなく、私。
正確に言えば、一つ前の私の恋文。
短命すぎた『私』は、何を思ってこれを書いたのか。
わからない、自分のことなのにわからない。
頭の中が螺旋にかき混ぜられたような、混濁とした考えがめぐる。
落ち着け、私。
……どの私?
ああもうダメだ。
こんなときは無理やりにでも寝るにかぎります!
おやすみ!
眼を開けると、天井が見えた。
もう朝……にしてはまだ部屋全体が暗い。
夜が明けきってないようです。
……何故か眼が覚めてしまったようで。
仕方なし、起きることにしますか。
でも……体が動きません。
手も足も、視線さえも動かせない。
金縛りでしょうか。
それにしては、セットであるはずの怨霊の姿がない。
代わりに、視界の端に人影がちらほら。
何かぼそぼそと囁く声と、すすり泣く声。
ああ、怨霊はこれからだったんですね。
来るなら来なさい。
幻想郷縁起にその姿、余すところなく記してあげましょう。
「あまりにも、…………寿命でした」
「……の事を」
え?
部分的に聞き取れないけれど、寿命という言葉だけははっきりと聞こえた。
なにを、言っているの?
だって、今私は周りの誰かを見て、声を聞いている。
もし幽霊となっているのなら、私が動けないのは何故?
おかしい。
だって、迎えの死神も居ないのに。
白い布を持った老婆が近づいてくる。
頭がぐちゃぐちゃにかき混ぜられる。
待って、何もわからない。
視界が、真っ白になって。
私は、死ぬの?
まだ、あいつに私は――
「さようなら、八代目」
「阿求様。阿求様」
布団と、覆いかぶさるようにしていた侍女を跳ね飛ばした。
悲鳴を上げながら襖に激突しても、そんなことは眼中になし。
今の夢は、一体。
体がじっとりと、嫌な感じの汗に濡れている。
眠っていたはずなのに、息が荒い。
悪夢、というべきなのかわからないけれど。
夢というにはあまりにも、生々しく。
視界が真っ白になって。
最後に浮かんだ少年の顔が脳裏に焼きついている。
「あっ……きゅー……さま……」
「あ、ごめんなさい」
声の震えはともかく、応対ができるくらいには冷静でいるようだ。
我ながら、ちょっと驚く。
しかし、どうやったらあんなに面白ポーズでこけることができるのだろうか。
不思議なので、眼に焼き付けておいた。
ご希望とあらば、なんとか絵にしてみせましょう。
「もう……当主様はお待ちです」
「はいはい、すぐいきます」
身支度も雑なままに、私は居間に向かう。
「……阿求」
「どうしましたか、父上」
「いや……せめて髪くらいは整えてだな……」
「それどころではありませんでしたので」
「そうか……」
父上のいぶかしむような言葉よりも、私には思うところあり。
かつてない勢いと行儀の悪さで、朝食を平らげる。
私のただならぬ様子に、父上も侍女も言葉を無くしている。
「ご馳走様です」
「あぁ……」
食後のお茶までも、間断なく飲み干す。
冷たい麦茶でなければ火傷をしていた。
「父上」
「何だ」
「八代目の記録は家に残っておりますか?」
「八代目というと、阿弥か」
「どうですか」
「……残っていない」
「……やはり、そうですか」
予想はしていたことだ。
阿礼乙女の転生周期は百年程度であり、残された手記は当代の主観のもの。
自身の感情は遺せても、どんな人物像だったかまではわからない。
見るもの全てを記憶する私たちは、自らを見ることはできない。
だから、私たちは『自分』を記憶できない。
すぐに、忘れてしまう。
そして『私たち』は短命にして現世を去る。
短い生は、簡単に人々の記憶から風化する。
結果として、前の私は誰の中にも残らない。
唯一、転生した自分を除いては。
私が覚えていないなら、もうどこにもソレはない。
「阿求、もしかしたらだが」
「何でしょうか」
「上白沢殿なら知っているかもしれない」
上白沢慧音。
私も寺子屋で何度かお世話になり、頭突きも幾度となくお見舞いされたハクタクの獣人。
歴史を操る知識人。
「あくまで可能性でしかないが、彼女ならば」
「……わかりました。行ってみます。では」
「待て、阿求」
また、父上が呼び止める。
気分がささくれ立つのを感じながら、それでも応える。
「なんですか」
「外に出かけるのだろう?」
「そうですが、何か問題でも?」
「いやな……」
父上は、私を指差してこう言った。
「せめて寝巻きから着替えたらどうだ……?」
珍しく、私は駆けた。
いつもの着物ではなく、もっと動きやすい着流し。
いつもなら、侍女が薬やら日傘やらを持ってついてくるところ。
侍女が「私が行く! 私が行く!」と揉めている間に飛び出したのだ。
待っていられない。
私は短命なだけで、いつも病弱でいるわけではない。
走れないわけではない。
苦しいけど。
それでも、運動不足には他ならないわけで。
目的地があまり離れていなかったのは、幸運だった。
里の中の、小さな寺子屋。
「……とりあえず、水でも飲む?」
「いただきます……」
さほど走ったつもりもないのに、胸が締まる。
鼓動が、私の中で跳ね回る。
走るなんて、こんなに苦しいことだっただろうか?
それさえも忘れていた。
いただいた水を少しずつ喉に流して、呼吸を整える。
「ふぅ……」
「落ち着いたか?」
「……はい、一応は」
「よかった。それで、今日は何用かな?」
私は、事の顛末を話す。
包み隠さず、手紙も見せた。
恥よりも、焦りの方が先に経つ。
何で焦っているのか、私もよくわからない。
判りそうな気もするけど、何かがつっかえているような、そんな感じがする。
「つまり、稗田阿弥について知りたいと?」
「知りたいっていうか、特徴さえ判ればそれでいいのです」
「御阿礼の子は何をしたのかは少しくらい残っているかもしれないが、本人はどうだかな」
慧音さんは、そう言いながら書架を漁る。
私の使うような綴りの本とは違い、慧音さんの家にあるものは巻物。
『稗田阿弥』だけでおおよその時代がつかめたのか、何本か選んできた。
一人に任せるわけにもいかず、私もそれを手に取った。
予想していた通り、簡単に稗田阿弥は現れない。
「……無いな」
慧音さんの作業速度は速い。
私が一つ読む間に、慧音さんは三つ。
ほとんどの巻物を慧音さんが読んだことになる。
一度読んだことがあるのか、それとも自分の手で書いたものなのか。
それなら納得はできる。
私は初見。
「何かをした、ということから探してみたが、この時期に大きな事件や改革は起きていないな」
「些事や悪戯が、記録に残ることもありませんからね」
「出生時期の記録しかないか……こんなに前じゃ、もう生きてる人間はいないな」
生きている、人間はいない
その言葉が、私の内を抉る。
私の転生には百年単位で時間がかかる。
幾ら長寿な人間であっても、次の私までは生きられない。
当たり前のことだし、先に自分も考えた。
それを、改めて突きつけられたような気がして。
「大丈夫か?」
「……はい」
「結局、稗田阿弥についてはわからずじまいか」
「まぁ、もとより可能性に賭けただけですから」
そう、私の問題を他人に頼ったことが間違いだ。
簡単に礼を済ませ、後日改めて伺うことにした。
外には、侍女の気配がある。
これ以上待たせるのも悪いから、そろそろ出て行こう。
「待て、阿求」
「……なんですか」
「今夜、もう一度私のとこに来なさい」
「何故ですか? まだ文書があるとでも?」
「いいや、そうじゃない」
慧音さんはもったいぶるように、言葉を確にしない。
「私も、うまくいくかはわからんが一つ考え付いたことがある」
「……それは?」
「害はないと思うが、成功するかはわからん。だから、その時話すことにする」
「煮え切らない言い方ですね」
「これも可能性だからな」
ではまた今夜、と言って慧音さんは私を見送った。
今夜、何か特別なことでも起こるのだろうか?
皆目、見当がつかない。
「今夜、何があるか知ってる?」
侍女に尋ねてみても、首を傾げるばかり。
家に着いて、父上に聞いてみても言わずもがな。
実際に、行ってみる他なさそう。
そして夜も更けて、月が昇る頃。
流石に、もう夜は薄着ではいられない。
着込むほどではないにしろ、その冷気は体にじわりと染み込んでくる。
空には分厚い雲が張り出し、今にも雨が降り出しそう。
慧音さんは、こんな日に一体何をしようというのだろうか。
時々、雲の裂け目からのぞく月の光だけが道を照らす。
侍女は居ない。
あるのは頼りない月と、不吉な風の音ばかり。
収穫を待つ、頭を垂れた稲が囁き声を上げる。
私は、慧音さんが待つ場所へと急いだ。
慧音さんの家は、里の外れにある。
付かず離れず、小高い丘の上。
中から灯りが漏れている。
私は、ほとんど躊躇も逡巡もなしに戸をあけた。
「ごめんください」
慧音さんの家は、かなり質素だと思う。
寺子屋のような書架があるだけで、あとは生活に必要な物だけ。
多分、食生活も普通よりは質素なはず。
予想だけど。
「待っていたぞ、御阿礼の子」
そこにいたのは、慧音さんであって慧音さんではなかった。
いや、慧音さんなんだけど。
頭に角を生やし、獣のような尾を生やし。
振り返る口からは小さいものながら、牙も覗いている。
ああ、今日は満月だったのか。
夜にはほとんど出かけることもないし、この姿を見ることもいつ以来だろうか。
「今日の満月は気分がいい」
「はぁ」
曇ってるのに?
慧音さんは確か、満月の夜には仕事を一気に片付けるために不機嫌になる。
幻想郷縁起にも、私自身がそう書いた。
仕事が少なかったのかもしれない。
間違っても、満月で獣の血が濃くなったから、私を食べたくなったとかそういうことは無いと思う。
あったら全力で逃げる。
追いつかれるだろうけど。
「さて、早速本題に入ろうか」
改めて、慧音さんは私に向き直る。
眼が怖い、眼が怖い。
見透かすような、真っ赤な眼。
「お前は誰だ?」
「何を」
「誰だと聞いている」
「……稗田、阿求です」
「違うな」
「え?」
「お前は、阿求じゃないよ」
意味が、またわからない。
質問の意図と、間違いとされた私の名前と。
転生を繰り返して、今の私は間違いなく稗田阿求。
慧音さんは、一体、何を?
「稗田阿求である以前に、阿礼乙女という意味ですか?」
「それも違う」
「焦らさないでください! 私は――」
「今のお前は稗田阿求でも、阿礼乙女そのものでもない」
「だから……!」
興奮する私をよそに、平坦な声のままで、慧音さんは言った。
「お前は阿弥だ。今のお前は稗田阿弥だよ」
余計に、意味がわからなかった。
本当に慧音さんは、何が言いたいのだろう。
阿礼乙女だと言うなら、その意味はわかる。
転生に転生を繰り返し、それは元を正せば全て同じ『私』になる。
でも今の個人は、間違いなく稗田阿求であり稗田阿弥ではない。
先にも、後にも阿求は私一人。
「さすがに、意味がわからないみたいだな」
「そ、それはそうですよ! 私は阿求なんですから!」
「そういきり立つな。ちゃんと説明してやる」
「お前の体と思考は確かに阿求のものだ。そこはお前の言うとおり」
「でも性格と、その行動力は阿求のものではないんだ」
「おかしいだろ? お前はいつも傍観する立ち位置にいたんだ。今のように、自分のことだからと駆け回ることはしなかった」
「あとはまぁ、私の能力なんだがな」
「見える歴史が全く違うんだ。昼も思ったんだが、今ならはっきりと見える」
慧音さんは筆と紙を取り出し、さらさらと何かを書き出した。
私は、それをじっと見つめる。
薄暗くて、何を書いているかはわからない。
待つこと数分。
慧音さんはそれを私に差し出した。
「どうだ? 阿弥よ。私はお前に会ったことは無いが、このくらいなら見えた」
内容は、生前の私がやったこと。
意見箱の設置だったり、里の子供と連れ立って野山を駆け巡ったり、それで共々叱られたり。
どこにでもありふれた、人の日常。
でも、ところどころに出てくる名前とか、待ち合わせの目印とか。
父上、母上にも内緒に書いた手紙とか。
死ぬ前に見た彼の名前、とか。
「これ……!」
「どうだ、阿求では絶対に思い出せないだろ?」
「彼は……」
「…………普通に結婚して、普通に老いて、普通に亡くなったよ。孫の孫くらいになるかもしれないが、血筋は絶えてない」
「そう……」
「里の中の酒屋だ。知っているだろう?」
「うん」
良かった。
何故かわからない。
むしろ未練たらたらだったのに、そんな感情が溢れてとまらない。
それを自分の中だけにとどめることができずに、雫が頬を流れた。
救われたわけじゃない。
彼が死後、天に逝ったのか地に堕ちたのかもわからない。
でも、彼が幸せに死んだことだけがとても嬉しかった。
まぁ、同時に失恋にもなるけれど。
ここに、私と慧音さんしかいなくてよかった。
体裁も気にせずわんわん泣くことができたし、慧音さんが私を抱きしめてくれていたから。
「お世話になりました」
「ん。また何かあれば訪ねてくるといい。今度はゆっくりお茶でもしよう」
「ナンパですか?」
「さもありなん」
結局、慧音さんのお宅にお泊りでした。
あの後泣き疲れた私は、いつの間にか寝てしまっていたようです。
侍女が何人か、様子を見に来たそうですが追い返したとかなんとか。
昨日までの心のもやもやというか、突っかかるものはもはやありません。
絶好調です。
かつてない私。
朝露に濡れた道には、まだ農夫の方もいません。
行きと同じように、帰りの道も私一人。
かろうじて眼の腫れも引いたので、会っても大丈夫です。
道すがら、慧音さんが言っていたことを思い出しました。
「実はだな、私の能力は今回ほとんど役に立っていないんだ」
「え?! だって、慧音さんの能力で私が阿弥になったんじゃないんですか?!」
「私の能力は実際に歴史をどうこうするより、洗脳とかに近いんだ」
慧音さん曰く、相手の精神に干渉することが能力のおおまかなところらしいです。
例えば、永夜異変の時に妖怪から里を隠したように。
“はじめから里がなかった”歴史を相手に押し付けるようです。
それもスキマさん等の高位妖怪には効かないようで、万能ではないと言っていました。
私の場合には夢を見たせいか、阿弥の方に意識が引っ張られていたようです。
「それに暗示をかけて、思い出すように促した。
あの紙に書いたのは、その時の阿求……阿弥から見えた歴史の一端に過ぎないよ」
って慧音さんが言ってました。
全ては私次第だったとか。
そんなことは聞いてません。
……言われたら、もっと動揺しましたけど。
ちなみに阿弥の印象は、女傑気風だったようです。
私とは全然違う……。
とぼとぼと歩く途中、里の中に入ると人の動きがようやっと見えました。
互いに挨拶をしながら、朝帰りの理由を父上に説明する手立てを考えます。
……侍女が様子を見に来たのですから、説明することもないのでしょうか?
ええい、当たって砕けろです。
まだ阿弥の性格が残っている気がしますが、この際それでもいいです。
それも、私なのですから。
「阿求様、おはようございます!」
「おはようござい……あら?」
威勢のいい小僧さんが居たのは、慧音さんが言っていた酒屋。
百年以上前の私が恋焦がれた人の家。
まだ未練があるのか、胸に小骨がたったような気がする。
前の私のことは、もう誰も覚えていない。
不思議そうな顔をする小僧さんに手を振って、私は今度こそ帰路に着いた。
「えぇー、此度は大変ご迷惑をおかけいたしました」
「泊まるときは連絡くらいしろ」
そこですか。
朝食は慧音さんの家でおにぎりをいただいたので、遠慮。
私は昨晩のことを説明、解決したことを父上に説明。
解決したといっても、自分のことで大騒ぎしてただけなので、あのその。
「ところでな、昨日また蔵を見たんだが」
「またですか」
「先代に当てられた弔文がいくつか出てきた」
「え」
「今日の仕事はいいから、これを読んだらどうだ?」
それはもうごっそりと。
軽く山ができるほどの量でした。
見たくないなぁ……!
読みたいけど……!
全部阿弥宛てのところをみると、これは。
「いえ、遠慮しておきます」
「……解決したからか?」
「それもありますけど」
がさごそと、大量の慶弔文を抱えて部屋に戻る。
父上は不思議な顔をしていましたが、私としては至極当然のことでした。
「ふぅ」
部屋の卓に、抱えた手紙を置く。
本当に、山のように手紙が積まれている。
今の私が終わったところで、こんなことになるかはわかりません。
死神に渡す渡し銭よりも、間違いなく誇りに思えることでしょう。
そしてこれは前の私が、これくらい慕われていたということなんでしょう。
ならば、読むのは私ではなく。
次の満月に、彼女に読ませることにしよう。
阿弥の届かなかった恋文ではなく、これはちゃんと、届いているのだから。
「やっぱり手紙は、宛て先の人が読むべきですからね」
了
朝起きて、布団をたたみ、顔を洗って寝ぼけたままで朝食を摂る。
今日は鮎の塩焼きでした。
里の漁師が釣ってきたのでしょうか。
その朝食の間に、侍女の群れが私の髪を梳いたり身繕いをする。
「昨日貴女当番だったじゃない」
「何よ、あんただって今日の当番じゃないでしょ」
「盆でたまたま開いてたのよ」
「私だって同じじゃない」
「なにをー」
「やるかー」
うるさい。
ご飯時くらい静かにしなさい。
普段ならば父上が叱ってくれるところ、今日はなにやら朝から忙しいとのこと。
なので、侍女を止める者はいない。
誰か、誰か助けてください。
報酬は稗田家直伝の福神漬けでどうでしょうか。
結局、身繕いは自分でやり直しました。
各人の好みが入り乱れて、私が混沌の塊となったためです。
記憶に残すわけにはいかない。
怒涛の勢いで朝は過ぎ去り、お仕事の時間となりました。
仕事といっても、書物に眼を通すだけ。
勉学というわけでもなく、単に新しい記憶を増やすためのものです。
どこぞの蔵を虫干しした際に、新しい治水工事の要綱が出てきたらしいです。
そのあたりは上白沢さんの管轄ではないかと思うけど、記録を残すという点では確かに私なのでしょう。
上白沢さんは歴史を見るので、数字やら何やらの資料を用いるのは難しいのでしょう。
たぶんそんな理由で、机の前には紙の束が山のように積まれていました。
見るだけでも、やる気がなくなってきます。
私自身は、こんなことを好き好んでやっているわけではないのです。
祖先の阿礼乙女はどうだか知りませんが、私には面白みのないお仕事です。
私を動かすのは使命感のような何か。
一つ目、治水工事計画の概要
二つ目、作業員の名簿
三つ目、予算案
四つ目……
・
・
・
特に不審な点はなく、ただの工事計画書でした。
お昼ご飯の前には終了。
量が多かっただけで、面倒なことは何もなく。
持ち主に返す書面は丁寧にたたみ、読了のカゴに入れておく。
このほかには急ぎの用もなく、昼食までの時間もあまりない。
お天道様は南に高く、時間は中途半端。
「ふぅ」
思わず息を漏らす。
誰も見てないことを確認して、足を崩した。
少し、暑い。
盆を過ぎて、立秋を通り過ぎて。
それでも一向に夏はその勢いを弱めない。
体が弱い私にはつらい季節。
やっぱり私は春か秋の過ごしやすい季節が好きです。
でも夏も冬も嫌いじゃないです。
加減を考えてくれれば。
そんなこんなで、昼食の時間でございます。
未だに父上は帰っていないようで、侍女集団との食事になりました。
素麺。
だから、食事の時くらい静かにしなさいよ侍女ども。
あーんとかいらない。
さもないといわく付きの物置に封印しますよ。
もしくは博麗神社への奉公。
静かになりましたね。
いいことです。
午後になりました。
今日の仕事は治水工事のものだけだったようで、やることもありません。
里に出てもいいのですが、この陽気だと行き倒れになりそうなのでやめておきます。
大事になったうえに父上に叱られるのがオチ。
上白沢さんには箱入りと言われますが、時々箱から出ないと腐りますよ?
出ても日持ちしませんが。
ところで私事です。
最近、先代の手記を読むことが多くなってきました。
先ほどのような記録に関しては、私は一度見た以上忘れることはほとんどありません。
でも、あくまで覚えるだけなので理解していることではないのです。
知識人でもなし、理解能力はあくまで人並みなのです。
何度も何度も読んで噛み砕く。
おっと、話が逸れました。
『記録』は私の中に留めることはできても、『記憶』は違う。
私自身のことは、文字通り瞬く間に忘れていく。
ここもまた人並み。
特に先代がどのような人物であるかに興味はなく、単なる記憶の補完行為。
私自身も手記を書いてはいるものの、先代や先々代ほどマメではなく。
むしろ最近はさぼりすぎです。
頭突き級ですね。
勘弁してください。
さておき。
手記によれば先代は、阿礼乙女の中でもかなり早くに亡くなっています。
もともとが短命であるのに、さらに短命。
記録では十歳程度だという。
閻魔が用意した肉体で生まれてくる『私たち』は、零歳のころからこの姿。
一般の寿命から考えると、私たちのものは成長分を除いた分なのかもしれません。
後は老いる分とか。
永遠亭の薬師によると、老いると記憶力が落ちるらしいです。
阿礼乙女の能力に関係があるのかはわからないけど、いずれの乙女も老いたという記述はありません。
もし、阿礼乙女の能力が棄てられるとしたら、私も人並みの寿命になるのかもしれません。
「まぁ、考えても詮無いことですけどね」
私は手記を閉じ、棚に戻す。
先代の書記は四冊。
今読み終えたのは三冊目。
三冊とも、差し障りもなく、手記といっても記録をつけているようなものでした。
まるで年表を埋めていくような。
この分だと、四冊目も変わらないでしょう。
人事ですが、同時に自分のことでもあるので予想がつきます。
先代といっても転生前の話ですからね。
忘れてるだけで。
こんなこと言うと、時々健忘症みたいに扱われるのでやめてください。
百年前のことなんか覚えてますか?
……覚えてる人型はいそうですね。
無駄に。
もうだいぶ日が傾いてきました。
幻想郷は朱に染められて、そろそろ人外の方々の時間です。
人間でも、夜から活動を始める方もいらっしゃいますが。
主に酒場とか。
私は規則正しく生きるので、夜は普通に眠ります。
ただでさえ体が弱いのに、自分から体調を崩すこともないですから。
「阿求さまー。夕食ができましたよー」
侍女Aの声がする。
もうそんな時間でしたか。
机いっぱいに広げられた物を片付けて、居間に早々に馳せ参ずることに。
しまうのは後にして、とりあえずまとめることにしました。
がさがさ。
ごそごそ。
実は、手記のほかにも色々広げていたのです。
それもついでにお片づけ。
とんとんと、書をそろえようとして
「……あれ?」
どこから落ちたのか、一つの便箋が床に。
真っ白なソレは、表にも裏にも何もなし。
ただ、見覚えがある。
まぁ何処にでもあるような封筒だし、見覚えならいくらでもあるのかも。
ふむ。
「あーきゅーさーまー!」
「あーはいはい、いま行きます」
少なくとも、急ぎのものではないでしょう。
私は卓の上にそれを置いて、居間に足を向けた。
夕食は、父上がいたから静かに過ごすことができました。
首まではいかないまでも、父上はマジメに蔵に封印するので、侍女軍団は戦々恐々としています。
やーいやーい。
そのまま湯浴みを済ませて、いざ寝るかというときに思い出しました。
あの、白い封筒がまだ卓の上に。
すっかり忘れていました。
父上がいたなら、聞いてみたほうがよかったかもしれません。
大事なものかもしれませんし。
眠気有利の様相であれ、一応目を通したほうがいいのかも。
封筒の中にあったのは三枚。
一枚はただのお礼状。
どうやら、手紙の送り主は何かをしようとして里の者数名の力を借りたらしい。
その代表が、手紙の送り先なのでしょう。
何をしたのかは手紙に記されていなかったのでよくわかりません。
しかしここまで出来るとなると、手紙の主も相当な権力者か、もしくは人望ある人物だったのかもしれません。
ここで一枚目終了。
二枚目は……成果の報告を頼むという内容でした。
ここでも何をしたのかはわからず。
送り主は強気でもあったようです。
すごい命令口調。
これはかなりの加虐趣味か、女王様か、ガキ大将ですね。
文面の様子からみても、ガキ大将がしっくりきます。
愛される人柄であることがにじみ出ています。
じわじわーと。
さてと、最後の三枚目。
蝋燭の灯りだけなので、目が痛いです。
さっさと読んでしまいましょう。
ぺらり。
……
………
…………
………………………………これは。
恋文でした。
甘酸っぱいとかそういうところではなく。
一生懸命考えましたって感じの……。
何かみてはいけないものを見たような、気がします。
しかも、前二枚との落差でさらに健気さが強調されてしまった!
なんで私が赤面しているのでしょうか。
私が書いたわけでもないのに……。
もう重要文書でもなんでもないので、さっさと折り畳む。
そして最後、送り主の名前を見てまた驚いた。
『稗田阿弥』
驚愕というより、呆然のほうが多分近い。
まさかこんな名前が出てくるとは思っていませんでした。
他人事ではなく、私。
正確に言えば、一つ前の私の恋文。
短命すぎた『私』は、何を思ってこれを書いたのか。
わからない、自分のことなのにわからない。
頭の中が螺旋にかき混ぜられたような、混濁とした考えがめぐる。
落ち着け、私。
……どの私?
ああもうダメだ。
こんなときは無理やりにでも寝るにかぎります!
おやすみ!
眼を開けると、天井が見えた。
もう朝……にしてはまだ部屋全体が暗い。
夜が明けきってないようです。
……何故か眼が覚めてしまったようで。
仕方なし、起きることにしますか。
でも……体が動きません。
手も足も、視線さえも動かせない。
金縛りでしょうか。
それにしては、セットであるはずの怨霊の姿がない。
代わりに、視界の端に人影がちらほら。
何かぼそぼそと囁く声と、すすり泣く声。
ああ、怨霊はこれからだったんですね。
来るなら来なさい。
幻想郷縁起にその姿、余すところなく記してあげましょう。
「あまりにも、…………寿命でした」
「……の事を」
え?
部分的に聞き取れないけれど、寿命という言葉だけははっきりと聞こえた。
なにを、言っているの?
だって、今私は周りの誰かを見て、声を聞いている。
もし幽霊となっているのなら、私が動けないのは何故?
おかしい。
だって、迎えの死神も居ないのに。
白い布を持った老婆が近づいてくる。
頭がぐちゃぐちゃにかき混ぜられる。
待って、何もわからない。
視界が、真っ白になって。
私は、死ぬの?
まだ、あいつに私は――
「さようなら、八代目」
「阿求様。阿求様」
布団と、覆いかぶさるようにしていた侍女を跳ね飛ばした。
悲鳴を上げながら襖に激突しても、そんなことは眼中になし。
今の夢は、一体。
体がじっとりと、嫌な感じの汗に濡れている。
眠っていたはずなのに、息が荒い。
悪夢、というべきなのかわからないけれど。
夢というにはあまりにも、生々しく。
視界が真っ白になって。
最後に浮かんだ少年の顔が脳裏に焼きついている。
「あっ……きゅー……さま……」
「あ、ごめんなさい」
声の震えはともかく、応対ができるくらいには冷静でいるようだ。
我ながら、ちょっと驚く。
しかし、どうやったらあんなに面白ポーズでこけることができるのだろうか。
不思議なので、眼に焼き付けておいた。
ご希望とあらば、なんとか絵にしてみせましょう。
「もう……当主様はお待ちです」
「はいはい、すぐいきます」
身支度も雑なままに、私は居間に向かう。
「……阿求」
「どうしましたか、父上」
「いや……せめて髪くらいは整えてだな……」
「それどころではありませんでしたので」
「そうか……」
父上のいぶかしむような言葉よりも、私には思うところあり。
かつてない勢いと行儀の悪さで、朝食を平らげる。
私のただならぬ様子に、父上も侍女も言葉を無くしている。
「ご馳走様です」
「あぁ……」
食後のお茶までも、間断なく飲み干す。
冷たい麦茶でなければ火傷をしていた。
「父上」
「何だ」
「八代目の記録は家に残っておりますか?」
「八代目というと、阿弥か」
「どうですか」
「……残っていない」
「……やはり、そうですか」
予想はしていたことだ。
阿礼乙女の転生周期は百年程度であり、残された手記は当代の主観のもの。
自身の感情は遺せても、どんな人物像だったかまではわからない。
見るもの全てを記憶する私たちは、自らを見ることはできない。
だから、私たちは『自分』を記憶できない。
すぐに、忘れてしまう。
そして『私たち』は短命にして現世を去る。
短い生は、簡単に人々の記憶から風化する。
結果として、前の私は誰の中にも残らない。
唯一、転生した自分を除いては。
私が覚えていないなら、もうどこにもソレはない。
「阿求、もしかしたらだが」
「何でしょうか」
「上白沢殿なら知っているかもしれない」
上白沢慧音。
私も寺子屋で何度かお世話になり、頭突きも幾度となくお見舞いされたハクタクの獣人。
歴史を操る知識人。
「あくまで可能性でしかないが、彼女ならば」
「……わかりました。行ってみます。では」
「待て、阿求」
また、父上が呼び止める。
気分がささくれ立つのを感じながら、それでも応える。
「なんですか」
「外に出かけるのだろう?」
「そうですが、何か問題でも?」
「いやな……」
父上は、私を指差してこう言った。
「せめて寝巻きから着替えたらどうだ……?」
珍しく、私は駆けた。
いつもの着物ではなく、もっと動きやすい着流し。
いつもなら、侍女が薬やら日傘やらを持ってついてくるところ。
侍女が「私が行く! 私が行く!」と揉めている間に飛び出したのだ。
待っていられない。
私は短命なだけで、いつも病弱でいるわけではない。
走れないわけではない。
苦しいけど。
それでも、運動不足には他ならないわけで。
目的地があまり離れていなかったのは、幸運だった。
里の中の、小さな寺子屋。
「……とりあえず、水でも飲む?」
「いただきます……」
さほど走ったつもりもないのに、胸が締まる。
鼓動が、私の中で跳ね回る。
走るなんて、こんなに苦しいことだっただろうか?
それさえも忘れていた。
いただいた水を少しずつ喉に流して、呼吸を整える。
「ふぅ……」
「落ち着いたか?」
「……はい、一応は」
「よかった。それで、今日は何用かな?」
私は、事の顛末を話す。
包み隠さず、手紙も見せた。
恥よりも、焦りの方が先に経つ。
何で焦っているのか、私もよくわからない。
判りそうな気もするけど、何かがつっかえているような、そんな感じがする。
「つまり、稗田阿弥について知りたいと?」
「知りたいっていうか、特徴さえ判ればそれでいいのです」
「御阿礼の子は何をしたのかは少しくらい残っているかもしれないが、本人はどうだかな」
慧音さんは、そう言いながら書架を漁る。
私の使うような綴りの本とは違い、慧音さんの家にあるものは巻物。
『稗田阿弥』だけでおおよその時代がつかめたのか、何本か選んできた。
一人に任せるわけにもいかず、私もそれを手に取った。
予想していた通り、簡単に稗田阿弥は現れない。
「……無いな」
慧音さんの作業速度は速い。
私が一つ読む間に、慧音さんは三つ。
ほとんどの巻物を慧音さんが読んだことになる。
一度読んだことがあるのか、それとも自分の手で書いたものなのか。
それなら納得はできる。
私は初見。
「何かをした、ということから探してみたが、この時期に大きな事件や改革は起きていないな」
「些事や悪戯が、記録に残ることもありませんからね」
「出生時期の記録しかないか……こんなに前じゃ、もう生きてる人間はいないな」
生きている、人間はいない
その言葉が、私の内を抉る。
私の転生には百年単位で時間がかかる。
幾ら長寿な人間であっても、次の私までは生きられない。
当たり前のことだし、先に自分も考えた。
それを、改めて突きつけられたような気がして。
「大丈夫か?」
「……はい」
「結局、稗田阿弥についてはわからずじまいか」
「まぁ、もとより可能性に賭けただけですから」
そう、私の問題を他人に頼ったことが間違いだ。
簡単に礼を済ませ、後日改めて伺うことにした。
外には、侍女の気配がある。
これ以上待たせるのも悪いから、そろそろ出て行こう。
「待て、阿求」
「……なんですか」
「今夜、もう一度私のとこに来なさい」
「何故ですか? まだ文書があるとでも?」
「いいや、そうじゃない」
慧音さんはもったいぶるように、言葉を確にしない。
「私も、うまくいくかはわからんが一つ考え付いたことがある」
「……それは?」
「害はないと思うが、成功するかはわからん。だから、その時話すことにする」
「煮え切らない言い方ですね」
「これも可能性だからな」
ではまた今夜、と言って慧音さんは私を見送った。
今夜、何か特別なことでも起こるのだろうか?
皆目、見当がつかない。
「今夜、何があるか知ってる?」
侍女に尋ねてみても、首を傾げるばかり。
家に着いて、父上に聞いてみても言わずもがな。
実際に、行ってみる他なさそう。
そして夜も更けて、月が昇る頃。
流石に、もう夜は薄着ではいられない。
着込むほどではないにしろ、その冷気は体にじわりと染み込んでくる。
空には分厚い雲が張り出し、今にも雨が降り出しそう。
慧音さんは、こんな日に一体何をしようというのだろうか。
時々、雲の裂け目からのぞく月の光だけが道を照らす。
侍女は居ない。
あるのは頼りない月と、不吉な風の音ばかり。
収穫を待つ、頭を垂れた稲が囁き声を上げる。
私は、慧音さんが待つ場所へと急いだ。
慧音さんの家は、里の外れにある。
付かず離れず、小高い丘の上。
中から灯りが漏れている。
私は、ほとんど躊躇も逡巡もなしに戸をあけた。
「ごめんください」
慧音さんの家は、かなり質素だと思う。
寺子屋のような書架があるだけで、あとは生活に必要な物だけ。
多分、食生活も普通よりは質素なはず。
予想だけど。
「待っていたぞ、御阿礼の子」
そこにいたのは、慧音さんであって慧音さんではなかった。
いや、慧音さんなんだけど。
頭に角を生やし、獣のような尾を生やし。
振り返る口からは小さいものながら、牙も覗いている。
ああ、今日は満月だったのか。
夜にはほとんど出かけることもないし、この姿を見ることもいつ以来だろうか。
「今日の満月は気分がいい」
「はぁ」
曇ってるのに?
慧音さんは確か、満月の夜には仕事を一気に片付けるために不機嫌になる。
幻想郷縁起にも、私自身がそう書いた。
仕事が少なかったのかもしれない。
間違っても、満月で獣の血が濃くなったから、私を食べたくなったとかそういうことは無いと思う。
あったら全力で逃げる。
追いつかれるだろうけど。
「さて、早速本題に入ろうか」
改めて、慧音さんは私に向き直る。
眼が怖い、眼が怖い。
見透かすような、真っ赤な眼。
「お前は誰だ?」
「何を」
「誰だと聞いている」
「……稗田、阿求です」
「違うな」
「え?」
「お前は、阿求じゃないよ」
意味が、またわからない。
質問の意図と、間違いとされた私の名前と。
転生を繰り返して、今の私は間違いなく稗田阿求。
慧音さんは、一体、何を?
「稗田阿求である以前に、阿礼乙女という意味ですか?」
「それも違う」
「焦らさないでください! 私は――」
「今のお前は稗田阿求でも、阿礼乙女そのものでもない」
「だから……!」
興奮する私をよそに、平坦な声のままで、慧音さんは言った。
「お前は阿弥だ。今のお前は稗田阿弥だよ」
余計に、意味がわからなかった。
本当に慧音さんは、何が言いたいのだろう。
阿礼乙女だと言うなら、その意味はわかる。
転生に転生を繰り返し、それは元を正せば全て同じ『私』になる。
でも今の個人は、間違いなく稗田阿求であり稗田阿弥ではない。
先にも、後にも阿求は私一人。
「さすがに、意味がわからないみたいだな」
「そ、それはそうですよ! 私は阿求なんですから!」
「そういきり立つな。ちゃんと説明してやる」
「お前の体と思考は確かに阿求のものだ。そこはお前の言うとおり」
「でも性格と、その行動力は阿求のものではないんだ」
「おかしいだろ? お前はいつも傍観する立ち位置にいたんだ。今のように、自分のことだからと駆け回ることはしなかった」
「あとはまぁ、私の能力なんだがな」
「見える歴史が全く違うんだ。昼も思ったんだが、今ならはっきりと見える」
慧音さんは筆と紙を取り出し、さらさらと何かを書き出した。
私は、それをじっと見つめる。
薄暗くて、何を書いているかはわからない。
待つこと数分。
慧音さんはそれを私に差し出した。
「どうだ? 阿弥よ。私はお前に会ったことは無いが、このくらいなら見えた」
内容は、生前の私がやったこと。
意見箱の設置だったり、里の子供と連れ立って野山を駆け巡ったり、それで共々叱られたり。
どこにでもありふれた、人の日常。
でも、ところどころに出てくる名前とか、待ち合わせの目印とか。
父上、母上にも内緒に書いた手紙とか。
死ぬ前に見た彼の名前、とか。
「これ……!」
「どうだ、阿求では絶対に思い出せないだろ?」
「彼は……」
「…………普通に結婚して、普通に老いて、普通に亡くなったよ。孫の孫くらいになるかもしれないが、血筋は絶えてない」
「そう……」
「里の中の酒屋だ。知っているだろう?」
「うん」
良かった。
何故かわからない。
むしろ未練たらたらだったのに、そんな感情が溢れてとまらない。
それを自分の中だけにとどめることができずに、雫が頬を流れた。
救われたわけじゃない。
彼が死後、天に逝ったのか地に堕ちたのかもわからない。
でも、彼が幸せに死んだことだけがとても嬉しかった。
まぁ、同時に失恋にもなるけれど。
ここに、私と慧音さんしかいなくてよかった。
体裁も気にせずわんわん泣くことができたし、慧音さんが私を抱きしめてくれていたから。
「お世話になりました」
「ん。また何かあれば訪ねてくるといい。今度はゆっくりお茶でもしよう」
「ナンパですか?」
「さもありなん」
結局、慧音さんのお宅にお泊りでした。
あの後泣き疲れた私は、いつの間にか寝てしまっていたようです。
侍女が何人か、様子を見に来たそうですが追い返したとかなんとか。
昨日までの心のもやもやというか、突っかかるものはもはやありません。
絶好調です。
かつてない私。
朝露に濡れた道には、まだ農夫の方もいません。
行きと同じように、帰りの道も私一人。
かろうじて眼の腫れも引いたので、会っても大丈夫です。
道すがら、慧音さんが言っていたことを思い出しました。
「実はだな、私の能力は今回ほとんど役に立っていないんだ」
「え?! だって、慧音さんの能力で私が阿弥になったんじゃないんですか?!」
「私の能力は実際に歴史をどうこうするより、洗脳とかに近いんだ」
慧音さん曰く、相手の精神に干渉することが能力のおおまかなところらしいです。
例えば、永夜異変の時に妖怪から里を隠したように。
“はじめから里がなかった”歴史を相手に押し付けるようです。
それもスキマさん等の高位妖怪には効かないようで、万能ではないと言っていました。
私の場合には夢を見たせいか、阿弥の方に意識が引っ張られていたようです。
「それに暗示をかけて、思い出すように促した。
あの紙に書いたのは、その時の阿求……阿弥から見えた歴史の一端に過ぎないよ」
って慧音さんが言ってました。
全ては私次第だったとか。
そんなことは聞いてません。
……言われたら、もっと動揺しましたけど。
ちなみに阿弥の印象は、女傑気風だったようです。
私とは全然違う……。
とぼとぼと歩く途中、里の中に入ると人の動きがようやっと見えました。
互いに挨拶をしながら、朝帰りの理由を父上に説明する手立てを考えます。
……侍女が様子を見に来たのですから、説明することもないのでしょうか?
ええい、当たって砕けろです。
まだ阿弥の性格が残っている気がしますが、この際それでもいいです。
それも、私なのですから。
「阿求様、おはようございます!」
「おはようござい……あら?」
威勢のいい小僧さんが居たのは、慧音さんが言っていた酒屋。
百年以上前の私が恋焦がれた人の家。
まだ未練があるのか、胸に小骨がたったような気がする。
前の私のことは、もう誰も覚えていない。
不思議そうな顔をする小僧さんに手を振って、私は今度こそ帰路に着いた。
「えぇー、此度は大変ご迷惑をおかけいたしました」
「泊まるときは連絡くらいしろ」
そこですか。
朝食は慧音さんの家でおにぎりをいただいたので、遠慮。
私は昨晩のことを説明、解決したことを父上に説明。
解決したといっても、自分のことで大騒ぎしてただけなので、あのその。
「ところでな、昨日また蔵を見たんだが」
「またですか」
「先代に当てられた弔文がいくつか出てきた」
「え」
「今日の仕事はいいから、これを読んだらどうだ?」
それはもうごっそりと。
軽く山ができるほどの量でした。
見たくないなぁ……!
読みたいけど……!
全部阿弥宛てのところをみると、これは。
「いえ、遠慮しておきます」
「……解決したからか?」
「それもありますけど」
がさごそと、大量の慶弔文を抱えて部屋に戻る。
父上は不思議な顔をしていましたが、私としては至極当然のことでした。
「ふぅ」
部屋の卓に、抱えた手紙を置く。
本当に、山のように手紙が積まれている。
今の私が終わったところで、こんなことになるかはわかりません。
死神に渡す渡し銭よりも、間違いなく誇りに思えることでしょう。
そしてこれは前の私が、これくらい慕われていたということなんでしょう。
ならば、読むのは私ではなく。
次の満月に、彼女に読ませることにしよう。
阿弥の届かなかった恋文ではなく、これはちゃんと、届いているのだから。
「やっぱり手紙は、宛て先の人が読むべきですからね」
了
実は苦労人なんだよね・・・