【雨】[あめ]
①空から振ってくる水滴。大気中の水蒸気が高所で気温冷却により凝結し水滴となって落ちてくるもの。また、それが降る天候。雨天。
「―がやむ」「―に煙る」「恵みの―」「曇のち―」
②(雨のように)絶え間なく降りそそぐもの。
「涙の―」「弾丸の―」
(複合語をつくる場合「あま」「さめ」となることがある。
「あまぐ(雨具)」「あまぐも(雨雲)」「はるさめ(春雨)」など)
雨天外出
目で文字を追うと、自然とその情景が頭に浮かんで消えていった。文字を読む速さと相まって、僕の頭の中では一つの日常が描かれていく。
それは本という物が引き起こしてくれる、一つの奇跡だと思う。言葉にしてしまえば数秒で終わってしまう事も、本の中では何ページにも及ぶ文字で書かれている。これを読む事で、僕はようやく本の中へと意識を飛ばすことが出来るのだ。
それはどれほど素晴らしい事なのだろうか。自分は一人、静かに過ごしやすい場所で読書をする。たったそれだけで、僕は己の見聞を広める事が出来るのだ。本の作者によっては物語の緊迫感さえも感じ、あたかもその場に自分が居るような錯覚さえも起こす。
素晴らしい。やはり読書は素晴らしい。
「……ふぅ……」
思考が訳の分からぬ方向へと飛んでしまったのにようやく気付き、手元の本を閉じた。一応しおりを挟んではみたものの、恐らくそこまで内容を覚えていない。読書をするのはいい事だが、読み過ぎて内容が頭に入らなくなったら本末転倒だ。
本を何時もの勘定台に置いて一息つくと、すぐさま雨の音が耳に入った。普段なら読書をしていても気付く筈なのだが……余程熱中していたのだろう、開きっぱなしの窓から響く重低音は、土砂降りのそれだ。窓の周りも、少しだけではあるが雨水で濡れてしまっていた。
急いで席を立ち、窓を閉め、濡れた商品を勘定台の上へと避難させる。重い腰を上げた時、割と大きな音がしたのは気のせいだと思いたい。
「……こんなとこかな……」
呟き、ため息を吐く。このところ晴れ間続きで、こんな大雨なんて予想もしていなかった。暑さを凌ぐために窓を開けていたというのに、これでは失敗もいいとこだ。
今日はもう店仕舞いにしよう……そう思い、最後に店の扉に手を伸ばした。木製のざらついた感触を感じると同時に、ふと、その隙間からのぞく外の光景に目を奪われた。
まるでバケツをひっくり返したかのような土砂降りの中、何か輝くものを見た気がした。
閉めかけた扉を開き、外へ出る。屋根が広いため、雨に濡れる事はない。
ざあざあと激しい雨音が僕の聴覚を満たしていく。雨粒が地面へと落ちる度に、微かな光を反射する。
雨はまだ降り止む気配がない。視界の端に映る屋根の切れ目から、他のそれよりも大きな水滴がピチャピチャと音を立てて落下していく。その奥で奏でられている雨の交響曲と相まって、僕の視覚と聴覚は、不思議な感覚に囚われていた。
しばらくその光景を見ていると、だんだん頭の中の重力の法則がぐにゃりとひしゃげてきて、僕は今どこに居るのか分からなくなってくる。雨は上から下へと落ちているはずなのに、まるで濁流が流れる川のほとりに居るかのような、奇妙な錯覚を呼び起こした。
湿った風が頬を撫でる。
生温くなった森の匂いが鼻をくすぐる。
めまぐるしい変化を続ける水溜り。
「あっ……」
一瞬、その中に光が見えた。思わず足が動く。服が濡れるのにも構わず、僕は雨粒の瀑布へと身を投じた。
瞬時に襲ってくるのは、まるで僕を押し潰さんばかりに降る雨あられ。だがそれも、残暑のお陰で冷たく感じる事はなかった。
一歩一歩、足を進めて行く。その度に、規則正しい雨音の中にノイズが混じる。ビチャビチャと汚らしい音が、この場を穢す。それが自分の奏でる音色だと思うと不快になる。それが仕方のない事だとしても、一度起こった胸のむかつきは治まりそうになかった。
次第に視界が滲んでいく。眼鏡に水滴が付いたのだと気付いたが、それを取る気にはならなかった。
世界が変わった。刻一刻と変わり続ける世界が、急激な変化を遂げたのだ。
僕は歓喜した。出来ることならば声を上げてでもその喜びを表現したかったが、それでは足音の二の舞になってしまう。それだけは避けなければならない。
歩みを止め、その場で一人呆けたかのように立ち尽くす。どこへ視線を向けても、水のカーテンが視界を覆う。歪んだ曲線を描きながら、それは地面へと落ちていった。
そこでふと視線が止まる。薄明かりの中で何かが――酷く小さな黒い影が幾つも見えた。
それらは瞬く間に増えていき、その輪郭も次第にはっきりとしたものへと変わっていった。あるものは細長い魚となって、飛沫の上がる水面をすいすいと滑るように泳いでいく。またあるものは、楕円の形をした虫となり、音を立てて動き回る。
水のコーラスに変化が起きた。場面が変わったのだと、僕は何となく理解した。
虫が変化を遂げる。みるみると身体が大きくなり、その種類も豊富となっていく。甲羅のようなものに覆われていくもの。段々と鋭い突起が生えてくるもの。虫は着々とその数を増やし続けていた。
魚が進化していく。つるつるの表面が消え、身体中びっしりと鱗に覆われていった。その一つ一つが光を反射し、遊泳する姿を一層美しいものへと変えていく。ピシャッ……という激しい水飛沫が上がり、魚の一匹が空高く飛んだ。
思わずその美しさに見惚れてしまった。いや、見惚れたのはその外見だけじゃない。確りとした己の存在感に……まるで『ここに居るぞ』と言わんばかりの生命の咆哮を聞いた気がした。力強いその姿が余りに眩しくて……他の全てが劣って見えてしまった。しかしその考えも直ぐに変わる。
優劣なんてものはない……僕の周りで蠢くもの全てが、そう言った。音を立てて激しく動き回るそれらは、確りと生命の咆哮を上げているのだ。決して、この魚一匹だけが上げているのではない。
素晴らしい。本の中でしか見なかった『進化』が、そこにはあった。全ての生物が自由に生き、互いに持ちつ持たれつの関係を続ける世界が、目の前にあった。
ありとあらゆる形状が、ありとあらゆる生命が、僕の周りで生まれては消えていく。綺麗なものは一つもなく、どれも皆例外なく歪な形へと進化を遂げる。
不快感はない。その代わり、僕の中にあったのは高揚感だった。まるで童心にかえったかのような胸の高鳴りが、僕を満たしていた。
どれぐらいそうして居たのだろうか。日常よりも遥かに速く変わっていくそれら――いや、徐々に人間の形となっていく"彼ら"を、僕は飽きることなく眺め続けていた。
しかし不意に全てのものが動きを止めた。思わず首を傾げる。何が起こったのか、全く分からなかったからだ。
そんな僕を置いて、"彼ら"は再びせわしなく動き始める。その動きは今まで以上に速く、全てを目で追うのは不可能だった。
一体何が……? まるで僕の疑問に答えるかのように、暗闇の中からゆっくりと"それ"が姿を現そうとしていた。"彼ら"の動きはますます速くなる。だが"それ"の姿を見て、僕の疑問は更に深まる事になる。
"それ"は小さな人形の大群だった。まだ歪な形から抜け出せない"彼ら"と違い、"それ"は皆、統一されたかのように同じ外見をしている。ただその素材は様々だった。
鉄の人形、銅の人形、木の人形、陶器の人形、紙の人形、藁の人形……素材の数は多過ぎて、全ては把握し切れない。顔に当たる部分には、まるで子供の落書きのような顔が描き殴られていた。
水面に波紋を描きながら前進する"それ"。"彼ら"は恐れるかのように次第に"それ"から離れていき、何時の間にか僕の周りに居るのは"それ"だけになってしまった。
"それ"は成長した。落書きのような顔からしっかりした顔付きになり、身長も伸び始めた。数も増え始め、気付けば"彼ら"よりもその数を増やしていた。
紙の人形は頭までびしょびしょ濡れてしまい、やがてぱしゃりと水面に倒れて消えてしまった。
木や藁の人形は水分を吸っていく自身の重さに耐えながらも、ゆっくりゆっくりと歩みを進めた。
鉄や銅の人形は動きも澱みなく、着実に数を増やしていた。歩調はぴったり合い、その外見も相まって、見る者に一層無機質な印象を抱かせる。
そんな大群の中に埋もれながら、ひっそりと生きているものがあった。"彼ら"だ。目を凝らさなければ見付ける事も出来なかっただろう。それほどひっそりと――まるで擬態するかのようにして――人形達の間で歩みを進めていた。
人形の大行進。均整のとれた律動が、まるで行進曲のようにこの場を満たしていく。旋律は段々と大きくなり、それと共に単調なものへと変わっていった。
鉄や銅の人形はどんどん数を増やしていた。歩く密度が高まり、ガシャリ、ガシャリという耳障りな音があたりに満ちる。力尽きた人形が倒れると、たちまちその上に他の人形がつまづき、将棋倒しになっては踏みつけられていった。藁の人形は踏み潰され、引きちぎられていつの間にか全滅していた。
木の人形は水に侵されて腐りかけている。歩みもどこかぎこちなく、藁の人形の二の舞になるのは時間の問題だった。
突然ごっ、という音がして赤い光があちこちできらめいた。傍目から見れば確かに綺麗な光景だったかもしれない。だがそれを見て、僕は胸騒ぎを覚えた。
人形達が火を使うようになったのだ。たちまちあちらこちらで火の手が上がり、燃えやすい人形達を苦しめていった。灰色の煙が上がり、無数の人形達がそこから逃げ出していった。
……逃げ出した人形達は"彼ら"だった。もうすっかり他の人形達と見分けがつかなくなった"彼ら"。その身体を構成する素材は……真黒な何か。いつの間にか、"彼ら"はどこまでも"それ"に近い姿へと進化を遂げていたのだ。
その事実に感動する暇さえも、僕には与えられなかった。大きな火の手が人形達の間で上がったからだ。そちらへと視線を向けて……僕は己が目を疑った。弱っていた木の人形を他の人形達が襲い始めたのだ。多くなり過ぎた鉄や銅の人形達は、邪魔な木の人形を踏み付け、火を焚いた。灰になった場所へは新たな人形が足を踏み締め、着々とその領土を増やしていく。
逃げ惑う人形。追い続ける人形。かつて生命の唄を謳歌していた海は、今や地獄絵と化していた。無数の人形達が押し合い圧し合いして無様な姿を晒し、火に照らされた人形達はこの上もなく不気味な表情を浮かべていた。
「……駄目だ……」
余りの醜態に目を覆いたくなった。生命が生まれ、進化し続けた美しさは消えてしまい、破滅の道を辿る人形劇へと取って代わってしまった。いけない。これでは皆が死んでしまう。
人形を止めようとして、勝手に足が動き出した。バシャ、と水を踏む音がした。ずっと立ち続けた所為なのか、足はやけに重い。しかしそんなのを気にしている暇はない。更に足が進む。止めなければ。何時しかそんな使命感に駆られていた。
歩みが走りへと変わった。身体に張り付く衣服が気持ち悪い。視界はぼんやりとしたままだ。水分を含んだ服の重さも相まって、あっという間に息が上がってしまう。それでも走ることだけは止めなかった。何時まで走っても辿り着かない。焦燥感が心を埋め尽くす。心のどこかで絶対に追いつけないと誰かが言う。そんな事は最初から分かっていた。
不意に感じたのは浮遊感だった。足がもつれたのだと気付くと同時に、僕の身体は泥沼に叩きつけられた。立ち上がる気力は……もう無かった。
分かっていた。止める事なんて出来やしない。僕は観客に過ぎず、彼らの物語に介入する事なんて出来ない。何時だって僕は傍観者だった。そうあるべきなのだと思っていた。
けど本心はどうなのだろうか? 少し気に食わない展開になっただけで、必死になって止めようとしている。結局僕は自分の心を偽って、傍観者になりきっていたに過ぎなかった。話を聞くだけじゃなくて、本を読むだけじゃなくて、本当は……。
急激に頭が冷えていく。あれほど五月蝿かった人形達の足音はもう聞こえない。
ゆっくりと上体を起こしていく。身体の節々が痛んだ。こんな雨の中を走ったのは何年ぶりだろう? 転んだのは何十年ぶりだろう? 暗い泥水の中で、青白い顔をした男が自嘲の笑みを浮かべていた。
突然、パシャリと音がした。さっと顔を上げて音のした方へと視線を向け、僕は驚愕に目を見開いた。
人形が居た。鉄でも銅でもない、木で出来た人形と……"彼ら"。さっきと違い、その数は数えられる程度しか居ない。人形達は互いに、戸惑うかのように注意深く辺りを見回していた。その仕草が余りにも自然過ぎて、思わず笑ってしまった。この人形達が無事である事が嬉しくて堪らなかった。
先に立ち直ったのは"彼ら"だった。"彼ら"は木の人形達を置いて、皆バラバラになって消えていった。それに釣られるかのように、木の人形達も歩み始める。かつての進行とは比べ物にならないほど倦怠なものだったが、それでもその足は確りと大地を踏み締めていた。
暗闇の世界に光が差した。まるで希望が具現化したかのような神秘的な光景が目の前に広がる。光は目も眩むばかりに強くなり、やがて何も見えなくなった。
「風邪……ひいたかな……」
霖之助は一人、そう呟いた。
部屋の中には良く分からない物が乱雑に、所狭しと置かれていた。どれも皆、霖之助が使えそうだと思い込んだ物ばかりである。本棚に押し込められた蔵書や額に入れて飾られている絵画。隅に置かれた壺からは生えている数十本の刀剣の柄。机の上にある小さな部品達は、布団の中の主人がいずれ自分たちを組み立ててくれる事を心待ちにしていた。
あの後目が覚めると、霖之助は自分の悲惨な現状に目をとめた。着ていた衣服は絞れるほどに雨水を含み、泥だらけで汚れていたからだ。そして何よりも、そんな状態で一夜明かしてしまったという事実に驚いた。普段の彼なら間違いなくそんな失態はしないだろう。
やはり半妖といえども風邪は引くらしく、着替える時など無駄に時間が掛かってしまっていた。無論、着替えた後に濡れた服を干す気力などある訳もない。仕方なく干すのは止めて、水に浸けてから床に就くことにしたのだった。
しかし布団に入っただけで倦怠感が取れるはずもなく、霖之助は久しく感じていなかった風邪の症状に苦しみ……同時に楽しんでいた。こんな風になってしまったのはちゃんとした原因があるのだ。そしてそれが確かなものならば……昨夜見た"あれ"は、夢ではなかったという事に他ならない。
この事を誰かに話せば、きっと笑われてしまうに違いない。『そんなの幻だ』という一言で済まされてしまうだろう。だが、霖之助は確りとそれを見たのだ。誰がなんと言おうと、彼はその事実を曲げようとはしないだろう。
霖之助は目を閉じて昨夜の光景を思い出す。脳裏に焼きついたそれは、いとも簡単に思い出すことが出来た。脳内で再生される光景に嘆息しつつも、時が経つにつれて色褪せてくるであろうという事に変わりはない。その事を考えると、彼は少し気が重くなった。
「もっと……外に出よう……」
こうして想像するのは容易である。しかし本当に美しいものというのは、実際に目で見てこそ意味があるのかもしれない。
目を閉じたまま、霖之助はそう思った。それで昨夜のような光景が目の当たりに出来るのならば、決して無駄ではないだろう。
次第に眠気が彼を襲う。それに抗う事無く、彼は夢の濁流にその身を投じた。
その後、幻想郷のあちこちで店主の姿を見かける事になるのは、また別のお話である。
①空から振ってくる水滴。大気中の水蒸気が高所で気温冷却により凝結し水滴となって落ちてくるもの。また、それが降る天候。雨天。
「―がやむ」「―に煙る」「恵みの―」「曇のち―」
②(雨のように)絶え間なく降りそそぐもの。
「涙の―」「弾丸の―」
(複合語をつくる場合「あま」「さめ」となることがある。
「あまぐ(雨具)」「あまぐも(雨雲)」「はるさめ(春雨)」など)
雨天外出
目で文字を追うと、自然とその情景が頭に浮かんで消えていった。文字を読む速さと相まって、僕の頭の中では一つの日常が描かれていく。
それは本という物が引き起こしてくれる、一つの奇跡だと思う。言葉にしてしまえば数秒で終わってしまう事も、本の中では何ページにも及ぶ文字で書かれている。これを読む事で、僕はようやく本の中へと意識を飛ばすことが出来るのだ。
それはどれほど素晴らしい事なのだろうか。自分は一人、静かに過ごしやすい場所で読書をする。たったそれだけで、僕は己の見聞を広める事が出来るのだ。本の作者によっては物語の緊迫感さえも感じ、あたかもその場に自分が居るような錯覚さえも起こす。
素晴らしい。やはり読書は素晴らしい。
「……ふぅ……」
思考が訳の分からぬ方向へと飛んでしまったのにようやく気付き、手元の本を閉じた。一応しおりを挟んではみたものの、恐らくそこまで内容を覚えていない。読書をするのはいい事だが、読み過ぎて内容が頭に入らなくなったら本末転倒だ。
本を何時もの勘定台に置いて一息つくと、すぐさま雨の音が耳に入った。普段なら読書をしていても気付く筈なのだが……余程熱中していたのだろう、開きっぱなしの窓から響く重低音は、土砂降りのそれだ。窓の周りも、少しだけではあるが雨水で濡れてしまっていた。
急いで席を立ち、窓を閉め、濡れた商品を勘定台の上へと避難させる。重い腰を上げた時、割と大きな音がしたのは気のせいだと思いたい。
「……こんなとこかな……」
呟き、ため息を吐く。このところ晴れ間続きで、こんな大雨なんて予想もしていなかった。暑さを凌ぐために窓を開けていたというのに、これでは失敗もいいとこだ。
今日はもう店仕舞いにしよう……そう思い、最後に店の扉に手を伸ばした。木製のざらついた感触を感じると同時に、ふと、その隙間からのぞく外の光景に目を奪われた。
まるでバケツをひっくり返したかのような土砂降りの中、何か輝くものを見た気がした。
閉めかけた扉を開き、外へ出る。屋根が広いため、雨に濡れる事はない。
ざあざあと激しい雨音が僕の聴覚を満たしていく。雨粒が地面へと落ちる度に、微かな光を反射する。
雨はまだ降り止む気配がない。視界の端に映る屋根の切れ目から、他のそれよりも大きな水滴がピチャピチャと音を立てて落下していく。その奥で奏でられている雨の交響曲と相まって、僕の視覚と聴覚は、不思議な感覚に囚われていた。
しばらくその光景を見ていると、だんだん頭の中の重力の法則がぐにゃりとひしゃげてきて、僕は今どこに居るのか分からなくなってくる。雨は上から下へと落ちているはずなのに、まるで濁流が流れる川のほとりに居るかのような、奇妙な錯覚を呼び起こした。
湿った風が頬を撫でる。
生温くなった森の匂いが鼻をくすぐる。
めまぐるしい変化を続ける水溜り。
「あっ……」
一瞬、その中に光が見えた。思わず足が動く。服が濡れるのにも構わず、僕は雨粒の瀑布へと身を投じた。
瞬時に襲ってくるのは、まるで僕を押し潰さんばかりに降る雨あられ。だがそれも、残暑のお陰で冷たく感じる事はなかった。
一歩一歩、足を進めて行く。その度に、規則正しい雨音の中にノイズが混じる。ビチャビチャと汚らしい音が、この場を穢す。それが自分の奏でる音色だと思うと不快になる。それが仕方のない事だとしても、一度起こった胸のむかつきは治まりそうになかった。
次第に視界が滲んでいく。眼鏡に水滴が付いたのだと気付いたが、それを取る気にはならなかった。
世界が変わった。刻一刻と変わり続ける世界が、急激な変化を遂げたのだ。
僕は歓喜した。出来ることならば声を上げてでもその喜びを表現したかったが、それでは足音の二の舞になってしまう。それだけは避けなければならない。
歩みを止め、その場で一人呆けたかのように立ち尽くす。どこへ視線を向けても、水のカーテンが視界を覆う。歪んだ曲線を描きながら、それは地面へと落ちていった。
そこでふと視線が止まる。薄明かりの中で何かが――酷く小さな黒い影が幾つも見えた。
それらは瞬く間に増えていき、その輪郭も次第にはっきりとしたものへと変わっていった。あるものは細長い魚となって、飛沫の上がる水面をすいすいと滑るように泳いでいく。またあるものは、楕円の形をした虫となり、音を立てて動き回る。
水のコーラスに変化が起きた。場面が変わったのだと、僕は何となく理解した。
虫が変化を遂げる。みるみると身体が大きくなり、その種類も豊富となっていく。甲羅のようなものに覆われていくもの。段々と鋭い突起が生えてくるもの。虫は着々とその数を増やし続けていた。
魚が進化していく。つるつるの表面が消え、身体中びっしりと鱗に覆われていった。その一つ一つが光を反射し、遊泳する姿を一層美しいものへと変えていく。ピシャッ……という激しい水飛沫が上がり、魚の一匹が空高く飛んだ。
思わずその美しさに見惚れてしまった。いや、見惚れたのはその外見だけじゃない。確りとした己の存在感に……まるで『ここに居るぞ』と言わんばかりの生命の咆哮を聞いた気がした。力強いその姿が余りに眩しくて……他の全てが劣って見えてしまった。しかしその考えも直ぐに変わる。
優劣なんてものはない……僕の周りで蠢くもの全てが、そう言った。音を立てて激しく動き回るそれらは、確りと生命の咆哮を上げているのだ。決して、この魚一匹だけが上げているのではない。
素晴らしい。本の中でしか見なかった『進化』が、そこにはあった。全ての生物が自由に生き、互いに持ちつ持たれつの関係を続ける世界が、目の前にあった。
ありとあらゆる形状が、ありとあらゆる生命が、僕の周りで生まれては消えていく。綺麗なものは一つもなく、どれも皆例外なく歪な形へと進化を遂げる。
不快感はない。その代わり、僕の中にあったのは高揚感だった。まるで童心にかえったかのような胸の高鳴りが、僕を満たしていた。
どれぐらいそうして居たのだろうか。日常よりも遥かに速く変わっていくそれら――いや、徐々に人間の形となっていく"彼ら"を、僕は飽きることなく眺め続けていた。
しかし不意に全てのものが動きを止めた。思わず首を傾げる。何が起こったのか、全く分からなかったからだ。
そんな僕を置いて、"彼ら"は再びせわしなく動き始める。その動きは今まで以上に速く、全てを目で追うのは不可能だった。
一体何が……? まるで僕の疑問に答えるかのように、暗闇の中からゆっくりと"それ"が姿を現そうとしていた。"彼ら"の動きはますます速くなる。だが"それ"の姿を見て、僕の疑問は更に深まる事になる。
"それ"は小さな人形の大群だった。まだ歪な形から抜け出せない"彼ら"と違い、"それ"は皆、統一されたかのように同じ外見をしている。ただその素材は様々だった。
鉄の人形、銅の人形、木の人形、陶器の人形、紙の人形、藁の人形……素材の数は多過ぎて、全ては把握し切れない。顔に当たる部分には、まるで子供の落書きのような顔が描き殴られていた。
水面に波紋を描きながら前進する"それ"。"彼ら"は恐れるかのように次第に"それ"から離れていき、何時の間にか僕の周りに居るのは"それ"だけになってしまった。
"それ"は成長した。落書きのような顔からしっかりした顔付きになり、身長も伸び始めた。数も増え始め、気付けば"彼ら"よりもその数を増やしていた。
紙の人形は頭までびしょびしょ濡れてしまい、やがてぱしゃりと水面に倒れて消えてしまった。
木や藁の人形は水分を吸っていく自身の重さに耐えながらも、ゆっくりゆっくりと歩みを進めた。
鉄や銅の人形は動きも澱みなく、着実に数を増やしていた。歩調はぴったり合い、その外見も相まって、見る者に一層無機質な印象を抱かせる。
そんな大群の中に埋もれながら、ひっそりと生きているものがあった。"彼ら"だ。目を凝らさなければ見付ける事も出来なかっただろう。それほどひっそりと――まるで擬態するかのようにして――人形達の間で歩みを進めていた。
人形の大行進。均整のとれた律動が、まるで行進曲のようにこの場を満たしていく。旋律は段々と大きくなり、それと共に単調なものへと変わっていった。
鉄や銅の人形はどんどん数を増やしていた。歩く密度が高まり、ガシャリ、ガシャリという耳障りな音があたりに満ちる。力尽きた人形が倒れると、たちまちその上に他の人形がつまづき、将棋倒しになっては踏みつけられていった。藁の人形は踏み潰され、引きちぎられていつの間にか全滅していた。
木の人形は水に侵されて腐りかけている。歩みもどこかぎこちなく、藁の人形の二の舞になるのは時間の問題だった。
突然ごっ、という音がして赤い光があちこちできらめいた。傍目から見れば確かに綺麗な光景だったかもしれない。だがそれを見て、僕は胸騒ぎを覚えた。
人形達が火を使うようになったのだ。たちまちあちらこちらで火の手が上がり、燃えやすい人形達を苦しめていった。灰色の煙が上がり、無数の人形達がそこから逃げ出していった。
……逃げ出した人形達は"彼ら"だった。もうすっかり他の人形達と見分けがつかなくなった"彼ら"。その身体を構成する素材は……真黒な何か。いつの間にか、"彼ら"はどこまでも"それ"に近い姿へと進化を遂げていたのだ。
その事実に感動する暇さえも、僕には与えられなかった。大きな火の手が人形達の間で上がったからだ。そちらへと視線を向けて……僕は己が目を疑った。弱っていた木の人形を他の人形達が襲い始めたのだ。多くなり過ぎた鉄や銅の人形達は、邪魔な木の人形を踏み付け、火を焚いた。灰になった場所へは新たな人形が足を踏み締め、着々とその領土を増やしていく。
逃げ惑う人形。追い続ける人形。かつて生命の唄を謳歌していた海は、今や地獄絵と化していた。無数の人形達が押し合い圧し合いして無様な姿を晒し、火に照らされた人形達はこの上もなく不気味な表情を浮かべていた。
「……駄目だ……」
余りの醜態に目を覆いたくなった。生命が生まれ、進化し続けた美しさは消えてしまい、破滅の道を辿る人形劇へと取って代わってしまった。いけない。これでは皆が死んでしまう。
人形を止めようとして、勝手に足が動き出した。バシャ、と水を踏む音がした。ずっと立ち続けた所為なのか、足はやけに重い。しかしそんなのを気にしている暇はない。更に足が進む。止めなければ。何時しかそんな使命感に駆られていた。
歩みが走りへと変わった。身体に張り付く衣服が気持ち悪い。視界はぼんやりとしたままだ。水分を含んだ服の重さも相まって、あっという間に息が上がってしまう。それでも走ることだけは止めなかった。何時まで走っても辿り着かない。焦燥感が心を埋め尽くす。心のどこかで絶対に追いつけないと誰かが言う。そんな事は最初から分かっていた。
不意に感じたのは浮遊感だった。足がもつれたのだと気付くと同時に、僕の身体は泥沼に叩きつけられた。立ち上がる気力は……もう無かった。
分かっていた。止める事なんて出来やしない。僕は観客に過ぎず、彼らの物語に介入する事なんて出来ない。何時だって僕は傍観者だった。そうあるべきなのだと思っていた。
けど本心はどうなのだろうか? 少し気に食わない展開になっただけで、必死になって止めようとしている。結局僕は自分の心を偽って、傍観者になりきっていたに過ぎなかった。話を聞くだけじゃなくて、本を読むだけじゃなくて、本当は……。
急激に頭が冷えていく。あれほど五月蝿かった人形達の足音はもう聞こえない。
ゆっくりと上体を起こしていく。身体の節々が痛んだ。こんな雨の中を走ったのは何年ぶりだろう? 転んだのは何十年ぶりだろう? 暗い泥水の中で、青白い顔をした男が自嘲の笑みを浮かべていた。
突然、パシャリと音がした。さっと顔を上げて音のした方へと視線を向け、僕は驚愕に目を見開いた。
人形が居た。鉄でも銅でもない、木で出来た人形と……"彼ら"。さっきと違い、その数は数えられる程度しか居ない。人形達は互いに、戸惑うかのように注意深く辺りを見回していた。その仕草が余りにも自然過ぎて、思わず笑ってしまった。この人形達が無事である事が嬉しくて堪らなかった。
先に立ち直ったのは"彼ら"だった。"彼ら"は木の人形達を置いて、皆バラバラになって消えていった。それに釣られるかのように、木の人形達も歩み始める。かつての進行とは比べ物にならないほど倦怠なものだったが、それでもその足は確りと大地を踏み締めていた。
暗闇の世界に光が差した。まるで希望が具現化したかのような神秘的な光景が目の前に広がる。光は目も眩むばかりに強くなり、やがて何も見えなくなった。
「風邪……ひいたかな……」
霖之助は一人、そう呟いた。
部屋の中には良く分からない物が乱雑に、所狭しと置かれていた。どれも皆、霖之助が使えそうだと思い込んだ物ばかりである。本棚に押し込められた蔵書や額に入れて飾られている絵画。隅に置かれた壺からは生えている数十本の刀剣の柄。机の上にある小さな部品達は、布団の中の主人がいずれ自分たちを組み立ててくれる事を心待ちにしていた。
あの後目が覚めると、霖之助は自分の悲惨な現状に目をとめた。着ていた衣服は絞れるほどに雨水を含み、泥だらけで汚れていたからだ。そして何よりも、そんな状態で一夜明かしてしまったという事実に驚いた。普段の彼なら間違いなくそんな失態はしないだろう。
やはり半妖といえども風邪は引くらしく、着替える時など無駄に時間が掛かってしまっていた。無論、着替えた後に濡れた服を干す気力などある訳もない。仕方なく干すのは止めて、水に浸けてから床に就くことにしたのだった。
しかし布団に入っただけで倦怠感が取れるはずもなく、霖之助は久しく感じていなかった風邪の症状に苦しみ……同時に楽しんでいた。こんな風になってしまったのはちゃんとした原因があるのだ。そしてそれが確かなものならば……昨夜見た"あれ"は、夢ではなかったという事に他ならない。
この事を誰かに話せば、きっと笑われてしまうに違いない。『そんなの幻だ』という一言で済まされてしまうだろう。だが、霖之助は確りとそれを見たのだ。誰がなんと言おうと、彼はその事実を曲げようとはしないだろう。
霖之助は目を閉じて昨夜の光景を思い出す。脳裏に焼きついたそれは、いとも簡単に思い出すことが出来た。脳内で再生される光景に嘆息しつつも、時が経つにつれて色褪せてくるであろうという事に変わりはない。その事を考えると、彼は少し気が重くなった。
「もっと……外に出よう……」
こうして想像するのは容易である。しかし本当に美しいものというのは、実際に目で見てこそ意味があるのかもしれない。
目を閉じたまま、霖之助はそう思った。それで昨夜のような光景が目の当たりに出来るのならば、決して無駄ではないだろう。
次第に眠気が彼を襲う。それに抗う事無く、彼は夢の濁流にその身を投じた。
その後、幻想郷のあちこちで店主の姿を見かける事になるのは、また別のお話である。