彼女との出会いは衝撃的だった。
お互いの第一印象は似たようなものだっただろう。
私にとって彼女は侵入者であり、
彼女にとって私は行く手を阻む障害、
つまりはどちらにとっても邪魔者というわけだ。
そして私は彼女に敗北する。
その時に、私の中で彼女は――どちらかといえば嫌いな存在となっていたはずだった。
しかしいつからだろう。
私は侵入者であるはずの彼女の姿を目で追うようになっていた。
理由は何だろう。
考えても答えは出ず、かといって誰に聞くこともできない。
何十冊も本を読んでみても答えは載っていなかった。
けれども。
ある時、その答えは至極あっさりと、私の前に現れた。
鬼の力によって引き起こされた宴会で、ふとした切っ掛けで隣り合わせとなった彼女が私に笑いかける。
その笑顔を見て私は気づいたのだ。
私はいつからか――いや、おそらくは初めて彼女と会ったその時から――輝くような彼女の笑顔の虜となっていたことに。
◇ 彼女と彼女の事情 ◇
「ネズミが一匹……」
「はい? 今、何か仰いましたか?」
「図書館にネズミが潜り込んでいるわ。黒白の性悪ネズミ」
「……ああ、なるほど」
では、と一礼して咲夜は姿を消した。
ほどなくして遠くから弾幕ごっこらしき音が聞こえてくる。パチュリーはページをめくる手を止めた。
「今日のネコ度は何点かしら」
魔法による爆発音。ナイフの弾かれる音。どちらかというと前者の方が多い。いつも通り魔理沙は最初から全力で飛ばしているらしい。
最近の戦績は……記憶を辿ると魔理沙に分があるようだった。
結果、相当な数の蔵書が持ち去られている――と言っても、この膨大な蔵書を誇る魔法図書館からすればわずかな数ではある。
しかし吸血鬼の館に人間が侵入して物を持ち去っていくという事実に変わりはなく、友人であるレミリア ・ スカーレットはそれを快く思っていなかった。
その彼女の怒りの捌け口がどこへ向けられるか。それはパチュリーにもわからない。わかっているのは、それが自分に向けられる可能性があることだけ。
「放っておくのも限界、か……そろそろお仕置きが必要ね。ネズミにも、ネコにも」
読みかけの本を置いてパチュリーはゆっくりと立ち上がった。どちらにしろこんな状況では落ち着いて本を読むこともできやしない。
耳を澄ませすと音はこちらに近づいてきている。
やはり咲夜一人では魔理沙を止めることは難しいようだ。
「本気でやれば貴方の方が強いでしょうに。……本当に困ったネコ」
とはいえ、少しの不注意が致命傷に繋がる人間相手では勝手が違うのかもしれない。それが幻想郷で数少ない『人間の知り合い』であればなおさら。
仕方ない。
愛用の魔道書を携えて、風を纏って飛び上がる。
「――げ」
「パチュリー様!?」
目の前には飛び込んでくる二人の少女。
魔理沙は自分が劣勢に立たされたことを知って、咲夜は味方であるはずのパチュリーの目に不穏なものを見て、それぞれ体を強ばらせた。
「図書館では静かにするものよ」
予め詠唱を終えていたスペルを開放する。
その瞬間、直下より吹き上がった風に自由を奪われた魔理沙と咲夜は抵抗する間もなく地面に叩きつけられた。
「……くそっ、油断したぜ」
「どうして私まで……」
仲良く折り重なって倒れている二人にパチュリーは短く告げた。
「お仕置きよ」
魔理沙が何か抗議の声を上げたかもしれない。
しかしそれを気にすることなくパチュリーはスペルを開放。魔理沙と咲夜は再び風に巻き上げられるのだった。
風を起こすスペルを使えば細かな塵や埃も舞い上げてしまうのは当然のこと。パチュリーがそのことに気がついたのは息苦しさを覚えてからだった。
慌ててスペルを解除する。こんなミスを犯すなんて――レミリアの気質を考えたせいで少し焦ったのかもしれない。らしくない失態にパチュリーはため息を吐いた。
「ケホッ……それにしても、少しやりすぎたかしら?」
「まったくですわ」
「あら、無事だったのね」
魔理沙を抱えた咲夜は「もちろんですわ」と答えた。
「お嬢様に鍛えられていますから」
それもそうか。吸血鬼の魔力に比べればこんなものは子供だましに等しい。
思えば悲鳴を上げていたのは魔理沙だけだったような気もする。
“お仕置き”と宣告したパチュリーにとって咲夜の態度は面白くないものではあったが、そこは彼女自身のミスでもある。それよりも黒白ネズミの処遇について考えることにした。
「そいつはどこか適当な部屋に放り込んでおいて。……怪我の手当くらいはしてあげなさい」
「わかりました」
咲夜は一礼し、魔理沙と共に消えた。
さて。改めて辺りを見回すと風で散らばってしまった書物が助けを求めていた。
それらを集めて、選別しながら机に乗せていく。書棚に入っている物に被害はないが、さっきまで読んでいた分はそうもいかなかったらしい。
「別に来るなとは言わないけれど……こうやって後片付けをする者の身にもなってほしいわね……あら?」
読み終わった分を書棚に戻そうとしたのだが、背伸びをしてもあと一センチ届かない。パチュリーは指先で本を持ちながらぴょんぴょん跳んでみる。それでもやっぱり届かない。姿勢が不安定になったせいで狙いが定まらないのだ。
むきゅう。
仕方なく魔法で、ほんの少しだけ風に乗ってジャンプ。
先ほどよりも高く跳んだおかげで無事に書棚に本を収めることができた。
――貸してみろよ。これくらい楽勝だぜ!
いつか見た魔理沙の幻が私の手から本を取ってジャンプ。私の届かなかった場所に楽々と本を収めてしまった。
身長は自分とそう変わらないはずの魔理沙に大きな差を見せつけられた気がして、そこから小さな口論になった。
それ以来だ。こうして人目のない時には魔法を使わず自分の手で本を片付けるようになったのは。
「……まだまだね」
回想の中の自分と同じように、パチュリーの口からため息が漏れた。
パチュリーは別に魔理沙のことを嫌っているわけではない。
あの悪癖さえなければ、この閉鎖された空間に新しい風を運んでくれる彼女の存在はパチュリーにとって……そう、十分に好意に値するものだ。
重ねて言うが、あの悪癖さえなければ。
「なんて言えばわかってくれるのかしらね……」
椅子に腰掛けてパチュリーは考える。
返却期限を決めてみるとか?
これば駄目だろう。返却期限を忘れるのが関の山だ。
自分で取りに行くとか?
止めよう。森に生えている茸の胞子なんか吸い込んだらそれこそ命取りだ。
それなら……。
ふとパチュリーの頭に妙案が浮かんだ。
「そうね。いっそのことここに住まわせてしまうとか………………何考えてるのかしら私」
むきゅう。
パチュリーは力なく机に突っ伏した。
こんな事を考えるなんて疲れているのだろうか。一瞬、自分の正気を疑ってしまった。
「パチュリー様」
「――きゃっ!?」
視界が反転する。足を滑らせたパチュリーは可愛らしい悲鳴を上げながら椅子ごと床に転がる……前に咲夜によって受け止められていた。
「申し訳ありません。まさかそんなに驚かれるとは思っていなかったもので……大丈夫ですか?」
「……大丈夫よ」
不機嫌そうに言ってパチュリーは立ち上がった。
まさかさっきのアレも見られていたんじゃないだろうか。そう思うと少しだけ鼓動が速くなった。
「あら、いつもより顔色が良いみたいですわ」
「……どうでもいいわよそんなこと。それより捕まえたネズミはどうしたの?」
「傷の手当ても終わってすっかり落ち着いていますわ。道具は取り上げてありますから危険はないと思います」
「そう。本の整理も終わったし、顔でも見に行こうかしら」
「はい、仰せのままに」
「よおパチュリー。先にご馳走になってるぜ」
ケーキを頬張る魔理沙を見て、パチュリーは暫し天井を見上げた。
「……どうしてこうなるのかしら?」
「適当な部屋に放り込んでおけ、とのことでしたので」
「だからって――」
何も私の部屋に運ぶことはないでしょうに。パチュリーは口には出さずに睨んだ。
しかし咲夜はどこ吹く風。
「用があればお申し付けください」
それだけ言って部屋からいなくなってしまった。
こういう時、咲夜は卑怯だと思う。
都合が悪くなるとすぐに姿を消すからだ。しかも時間と空間を操るから絶対に捕まえることはできない。で、結局こっちが根負けして許してやろうかという気になると、どこからともなく現れるのだ。
「どうしたんだ? いらないならこのケーキ、私が貰ってもいいか?」
「……駄目よ」
脳の活動に糖分は欠かせないんだから。何か違うような気がする。まあいいか。自分でもよくわからない言い訳を頭の中で並べながらパチュリーは席に着いた。
ケーキを食べ終えた魔理沙はその様子を何をするでもなくじっと見ていた。何も言わず、ただじっと。
パチュリーにとって、その魔理沙の行動はあまり良いものではなかった。
特に、さっきまであれやこれやと考え事をしていたパチュリーにとっては。
「……何?」
「別にもう一つくらいケーキが欲しいなあとかそういう事じゃないぜ?」
と言いつつケーキを見つめる魔理沙。
なんだ。魔理沙が見ていたのは私じゃなくてこっちか。
パチュリーはケーキに視線を移しながら思った。少しだけ、落胆している自分がいる。
「咲夜。ケーキをもう一つお願い」
言い終わると同時に、空だった魔理沙の皿に一切れのショートケーキが現れる。
とりあえずはこれでいい。幸せそうな顔でケーキを食べる魔理沙を見てパチュリーは思った。物を食べている様子をじっくり観察されては、せっかくのケーキの味もよくわからないだろうから。
しかし、ある意味では腹立たしいことではある。
なぜならこの瞬間、『パチュリー<ケーキ』という図式が成立してしまったのだから。
そう思うと何だか一切れのケーキが憎らしく思えてきた。
おのれ、いったいどうしてくれようか。
フォークを握る手に力が入る。
まずはこのフォーク、その白い肌に突き立ててやろうか。それとも赤いイチゴから先に……。
「……くくっ」
フォークを振りかざそうとしたパチュリーは――そこで初めて魔理沙が笑っていることに気がついた。同じく自分のしようとしていることにも。
途端に恥ずかしくなって、魔理沙の視線から隠れるようにうつむいてしまう。
どうしよう。変な奴だと思われただろうか。まあそこは自覚しているから構わない。けど。それより何より――嫌われたりはしないだろうか。
「誰も知らないパチュリーの一面を見た気がするぜ」
パチュリーの心配をよそに魔理沙はけらけらと笑う。嫌われるよりはマシなのだが、面と向かって笑われるのも恥ずかしいし面白くない。
これ以上ボロを出す前にとっとと本題に移ろう。
そう決心したパチュリーはゆっくりと、しかし無駄のない動きでケーキを平らげると改めて話を切り出した。
「さっきからずいぶん寛いでいるけれど、貴方がここにいる理由はわかっているのかしら?」
「もちろんだぜ」
「自分がどういう立場にいるかも?」
「ああ」
こともなく言い放つ魔理に、パチュリーは少なからず衝撃を受けた。
囚われの身にあってなおこの自然体を保てるとは――逃げ出せるだけの余力と算段があるのか、それとも私がそこまでするはずがないと見くびっているのか。
目つきが険しくなっているのが自分でもわかった。
それでも魔理沙は自然体を崩さない。
面白い。その余裕面がどこまで保つのか試してあげようじゃない。
――いや、やめよう。
パチュリーは軽く頭を振って、頭に浮かんだ嫌な考えを追い払った。
魔理沙は私が何かするとは微塵も思っていないのだ。疑う心がないから恐れる必要もない。堂々としたものだ。
それに比べて私はどうだろう。道具を取り上げ戦う術を奪って、その上でまだ力を行使しようとしている。まあ、今までにされてきたことを考えれば妥当と言えるかもしれないけれど、そんなもの私はお断りだ。自分で自分を貶めるような行為は私の信条に反する。
「……それなら、私の言いたいこともわかるわね?」
「そのつもりだぜ」
「そう。それならいいわ。……貴方が本を持ち出す事についてはもう何も言わないことにする。だから借りた物はきちんと返しに来なさい。そうでなければ、貴方のそれは蒐集ではなく強盗と同義よ」
「……わかったよ」
帽子を目深に被るような仕草をして――帽子を脱いでいたことを思い出したのだろう、魔理沙は真っ赤になってうつむいた。
いったいどうしたのだろう。気になったパチュリーは魔理沙の顔を覗き込む。失礼なことだとはわかっているのだが……理性が好奇心に負けてしまったというところか。
「――や、ちょっと、そういうことするなって!」
「貴方が隠すから気になるんじゃない」
必死になって顔を隠そうとする魔理沙の手を掴む。普通ならここで振り解かれてしまうだろうが、そこはそれ。魔法の力で一時的に身体能力を向上させて、魔理沙の抵抗を力尽くで排除する――。
「……貴方、泣いているの?」
「わ、悪いかよ!」
恥ずかしさと悔しさと――嬉しさ、だろうか。そんなものが入り交じった目で睨まれて、パチュリーはふと我に返った。
私は何をやっているのだろう。
今の私を動かしているのは好奇心ではない。もっと別の何か。
けれどそれは心地よいもの。その証拠に、いつもより早い心臓の鼓動さえ私を不快にさせないのだから。
とはいえ、だ。
「……困ったわ」
魔理沙の手を離しながらパチュリーは呟いた。
「何がだよ」そう目で問いかける魔理沙を安心させるように微笑みかける。
「どうしたら貴方は泣きやんでくれるのかしら?」
「……だ、だから……そういうのをやめろって」
今の彼女は、弱々しい、何の力も持たない少女そのもの。これがあの霧雨魔理沙だろうかと、パチュリーは思った。
「どうして貴方は泣くの?」
「……慣れてないんだよ、誰かから優しくされるのには――ああ、何言ってるんだ私は!」
ああ、そうか。
癇癪を起こしたように叫ぶ姿に、パチュリーは魔理沙が心の内に抱える孤独を見たような気がした。
聞けば魔理沙は魔法の森に一人で住んでいるという。本来ならまだまだ親に甘えていたいはずなのに、それすら許されない。人外の者の住まう森で、彼女はたった一人で生きているのだ。友人であるレミリアや、たくさんの本に囲まれて暮らしている自分と違い、たった一人で。
明るく振る舞う魔理沙の姿は、それを悟られまいとする意識の表れなのかもしれない。
――だとするならば、それはなんて悲しい姿だろう。
パチュリーはそっと席を立つ。
そして魔理沙を優しく抱き寄せた。
「泣きたいなら好きなだけ泣きなさい。貴方がいいって言うまでこうしていてあげるから」
パチュリーの腕の中で、魔理沙は小さく体を震わせた。
初めは微かだった嗚咽が次第に大きくなり――やがて扉の外にまで聞こえるほどになっていく。
それはパチュリーの心を大きく揺さぶった。
いつしかその目からも大粒の涙がこぼれ落ちる。
二人は抱き合ったまま、疲れ果てて眠ってしまうまで、泣き続けた。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
さらさらと。
髪を揺らす風とは別のものが髪を撫でる。暖かくて、優しい、誰かの手。
その手に導かれるように、魔理沙はゆっくりと目を覚ました。
「おはよう。お目覚めの気分はいかが?」
「あー……膝枕ってのもいいもんだな――っていつの間にお前のベッドに移動したんだ? 確か……」
そこまで言いかけて、自分が何をしていたのかを思い出したのだろう。魔理沙は帽子で赤くなった顔を隠そうとした。が、それは自分の手元に無いことも思い出した。
「あら、パチュリー様には見せたでしょう? 私には見せてくれないのかしら?」
「そういうわけじゃないんだけどさ。……なんて言うかな、恥ずかしいものは誰が相手でも恥ずかしいのであって、それがお――ぉ?」
「お前」と言おうとした魔理沙の唇を人差し指が押さえる。
「駄目よ、そんな呼び方。二人きりの時はきちんと名前で呼んで」
「……わかったよ。咲夜が相手でも恥ずかしいものは恥ずかしいんだ」
「よくできました」
咲夜は微笑んで魔理沙の髪を撫でる。
魔理沙はくすぐったそうに身をよじるが、不快そうな顔はしていない。むしろ、照れている自分の顔を見られまいとしているようだった。
しかし、やがてそれも諦めたのか、抵抗することなくされるがままになっている――いや、余計なリアクションをしないことこそが、唯一の抵抗と言えるかもしれない。
それからしばらくして。
起き上がった魔理沙は「ごめん」と言った。目は伏せられたまま、咲夜の顔を見ていない。
咲夜は驚いたような表情を見せたが、すぐに元の微笑みを浮かべて、聞いた。
「どうして謝るの?」
「咲夜がそんなに傷つくなんて思わなかった」
「おかしな事を言うのね。私は別に傷ついてなんて……」
「嘘を言うなよ」
魔理沙の真っ直ぐな目に見つめられて、咲夜は言葉に詰まった。
「嘘なんて言っていない」そう口に出してしまえば、それだけですむはずなのに、声が出なかった。
「私が咲夜だったら……やっぱり悲しい」
魔理沙の目にはいつしか涙が浮かんでいた。
その目を見て、咲夜は思った。
もしかしたら魔理沙は気づいたのかもしれない。二人が抱き合って泣いていたあの時、扉の向こう側に自分がいたことに。
初めは単なる好奇心だった。
魔理沙に二つめのケーキを運んだ時、いつもと違うパチュリーの様子を見て、ふと思ってしまったのだ。
普段は無口で必要以上のことは喋らないパチュリー様がどんな顔をするのだろう。慌てたり、顔を真っ赤にして照れたりするのだろうか、と。
その様子を想像しながら咲夜は一度厨房に戻る。後片付けを終えて扉の前に戻り、そっと中を窺った咲夜の目に飛び込んできたものは――抱き合う魔理沙とパチュリーの姿。
計画とは違う光景に、咲夜は頭の中が真っ白になった。何も考えられなくなって……気がつけば自分の部屋で泣いていた。
「……そうね。正直な話、少し妬けたわ」
「……うん。だから、ごめん」
涙をこぼしながら謝る魔理沙を抱き寄せる。
謝るのは私の方。辛い役目を背負わせてしまった上に、私のくだらない好奇心のせいでせっかくの計画を台無しにしてしまうところだった。本当なら謝るくらいでは全然足りない。
けれど、魔理沙はそれを良しとしないだろう。魔理沙はそういう娘だ。
だから咲夜は――奇しくもパチュリーと同じように、魔理沙が泣きやむまでずっとそうしていた。
十六夜咲夜は知っていた。
自分はレミリア ・ スカーレットの所有物だということを。
霧雨魔理沙は知っていた。
自分の力ではレミリア ・ スカーレットを倒せないことを。
二人は互いの思いが同じだと知りながら、それが決して叶わないものであることも理解していた。
吸血鬼は自分の所有物に手を出されることを酷く嫌う。
紅魔館の外には幻想郷一の俊足を自負する新聞記者の烏天狗がいた。
彼女に見つかったが最後、逃げることはできない。いや、例え逃げきれたとしても同じこと。あることないことおもしろおかしく書き立てられるだろう。花の異変以来、少しは大人しくなったと聞いているが、どこまで信用していいかわからない。確信もなしに危ない橋を渡ることはできなかった。
故に、咲夜と魔理沙が二人きりでいられる場所は、紅魔館――それもレミリアが眠りについている間しかなかったのだ。
二人は思った。
どうにかしてこの状況を打破できないだろうか、と。
蒐集癖が災いして、魔理沙は紅魔館では疎まれている存在だ。すでに彼女が現れたというだけで警備体制が強化される始末――それが二人の関係を形作ったのだから皮肉なものだが。
咲夜はその立場上、魔理沙を庇うことはできない。できることといえば、せいぜいが追い払うふりをして、適当に勝ったり負けたりを繰り返すことくらい。
しかしそれも長くは続かないだろう。
なぜなら、最近のレミリアの不機嫌そうな顔を見て、咲夜は魔理沙の身に危険が迫っていることを知っていたから。
機嫌の悪いレミリアは何をするかわからない。
いつだったか、長雨続きでストレスの溜まっていた彼女が、戯れに妖精のメイドを捻り潰す場面に遭遇したことがある。
軽く撫でられただけで妖精が物言わぬ肉片に変わる様を見て、咲夜は身が凍りつくような恐怖を味わったものだ。
あるとき咲夜は提案した。
パチュリーを味方につけられないだろうか、と。
彼女は表面上では魔理沙のことを嫌っている風を装っているが、それは『借りる』と称して魔法図書館の本を盗んでいくからだ。しかし実際は外からの来訪者に少なからず影響を受けていることは間違いない。
それは、鬼が開いた宴会に――その力の正体が判明した後でさえ、定期的に通っていることや、人目を気にしながら本を自分の手で書棚に戻していることからも明らかだった。
そしてレミリアは体面を重んじるところがある。
貴族の誇り、とでもいうのだろうか。しかし、それは絶対ではない。
魔理沙に関して言うならば、直接の被害を受けているのはレミリアではなく友人であるパチュリーだ。レミリア自身、魔法図書館の本が何冊無くなろうと大した問題ではない。館に入り込み、持ち去る者がいることが気に入らないだけだ。
その被害者であるパチュリーが魔理沙を許すと言うなら、レミリアもそれに対して文句をつけるような事はないだろう。
それは日頃の二人のやり取りを見ていれば想像がつく。少なくとも、他の手段をとるよりは遙かに現実的な選択だと言えた。
思わぬ事故はあったものの、大筋では計画通りに事は運び、パチュリーの許しを得た魔理沙は大手を振って紅魔館の門を潜ることができるようになった。
最悪の事態さえ覚悟していた二人にとって、これは喜ぶべき事だろう。
だから今は、悲しみや後悔よりも、素直に喜びたい――何より、泣いている魔理沙を見ることが辛かった。
「確かに私は傷ついたかもしれないけれど、それは貴方も同じでしょう?」
腕の中で、魔理沙が震えるのがわかった。
魔理沙だって同じなのだ。悪意はなかったにせよ、結果的にパチュリーを……悪く言えば騙して、利用したことになるのだから。
「……ごめんなさい。私も悪かったわ。もっと貴方のことを考えるべきだった」
何かを言おうとした魔理沙の先を取って、咲夜は続ける。
「――だから、謝るのはこれでおしまい。さ、涙を拭いて。遅くなってしまったけど、お茶の時間にしましょう」
「ね?」優しく微笑みかけると、魔理沙は少しの間うつむいて、それからごしごしと涙を拭った。
「うん、わかった。それじゃとびっきりの紅茶を頼むぜ?」
「ええ、わかったわ」
顔を上げた魔理沙はいつもと同じ、輝くような笑顔を見せた。
咲夜もそれに負けないくらいの笑顔を返す。
その日の咲夜はいつもより優しくて、
その日の魔理沙はいつもより照れ屋で、少しだけ泣き虫だった。
◆ 彼女と彼女の裏事情 ◆
ノックもなく、突然ドアが開く。
目の前に集中していたせいかドアの向こう側に注意を向けることを忘れていた。慌てて振り返った拍子に椅子から転げ落ちそうになり、椅子にしがみつく。
そこには百年来の付き合いである魔法使いが立っていた。
「レミィも意外と悪趣味ね。従者の私生活を覗き見するなんて」
「……ぅ……いや、あれよあれ。咲夜は私のものだから悪い虫がつかないように見張って……ね?」
パチュリーはにこにこと笑っている。
何とか言い訳しようとしたものの、結局やっていることは覗きと変わりない。どうにかひねり出した言葉は、やっぱり覗きを肯定しているものだった。
「そう? そのわりには元気のない羽よね」
「……パチェってたまに意地悪だ」
さらに追い打ちを掛けられて、レミリアは自覚できるほどに羽がしおれるのを感じた。
そりゃあショックかと聞かれれば首を縦に振るしかない。
自分が絶対だと思っていた咲夜が、まさかあの魔法使いとあんなに仲が良くなっているなんて思いもしなかったからだ。
初めは殺してやろうかとも思った。私怨に動かされて殺すのはまずいとしても、弾幕ごっこにだって不慮の事故はつきものだ。そうと見せかけて葬ることはいくらでもできる。
だから、二人が何やら計画していて、その結果がこういう事になるのなら……本当に殺してしまおうと思っていた。
でもやめた。
幸せそうな咲夜の顔を見た途端にやる気が萎えてしまった。
そうして悶々とした時間を、しかし二人の姿から目を離すこともできずに過ごしていたのだ。
「それで、レミィはどうしたいの?」
「……わかってて聞くかな、そういうこと」
つまらなそうに指先で水晶玉を弾く。覗き――もとい監視のために使われていた水晶玉はその役目を終えてバラバラに砕け散った。
「それならいいわ。まあ、私としては概ね満足できる結果かしら。出来の悪い妹もできたことだし、しばらくは楽しい生活が送れそうよ」
パチュリーは、あふ、と小さなあくびを一つ。それからなぜかレミリアのベッドに潜り込む。
「それじゃ、私は今日ここで寝るから。……ほら、今ならパチェお姉ちゃんが一緒に寝てあげるわよ?」
そう言ってポンポンと、一人で使うには大きなマクラを叩く。
「誰が『お姉ちゃん』だ。私の方が年上じゃない」
愚痴をこぼすレミリアの耳に、静かな寝息が聞こえてくる。
どうやら本当に眠ってしまったらしい。
(ああもう。そうやっていっつも子供扱いして……!)
うがーっ。
声を出したらパチュリーが起きてしまうのでポーズだけ取ってみた。
鏡には映らなかった。映ったら大変なことになりそうだった。
何かどっと疲れた。
「……寝よ」
結局パチェの思い通りになるのか。
がっくりと肩を落として、レミリアはもぞもぞとベッドに潜り込むのだった。
言われてみれば最初に加減した理由が分からなかった。
こういった意表を突かれる文章は大好きです。
でも前半で気付く要素あったかなあ……私が見つけられなかっただけですか?
まったく魔理沙はモテモテです
アリスー!はやくきてきれーっ!!
このカップリングを読むのも久しぶり。
そして何とも面白い作品ですね。
最初の書き出しで「あ、これ咲夜さんとのカップリングかな?」と思いましたが
次でパチュリーの話から始まったので「ん? ああ、パチュリーか」と思って読んでましたが
見事に裏をかかれました。(苦笑)
いあはや、とても楽しめました。
感情の動きとか、うまっ。 めいっぱい楽しめました。
こんな感覚は久しぶりでとても驚いています。
あと、見事に思惑通りミスリーディンしてしまい、
悔しくも嬉しい感じです(笑)
咲夜と魔理沙は仲は悪くないように見えますし…十分ありじゃないでしょうか、押忍。
…しかしフェイントにはすっかり騙されました、こういうのは読んでて楽しいです。