「ったくも~! 全然定時で終わらないじゃない! 永琳の嘘吐き!」
タイムカードを切りながら、輝夜が愚痴った。タイムカードに記された時間は、輝夜の言う通り定時を随分と過ぎていた。いわゆる残業という奴である。
「まあまあ。妹紅さんはまだ帰るお客様の相手をしているわけですし……」
宥めるように優曇華が言った。そう、閉店してからも客の送迎がメインである妹紅は仕事が残っている。輝夜たちが着替えをし、タイムカードを切り、仕事の愚痴を零している間も、妹紅は働いているのである。
「妹紅なんてどうでもいいのよ! アイツは馬車馬の如く働かせとけばいいのよ! それより私が超過勤務してるってことが問題なのよ!」
しかしそれは火に油を注ぐ結果となった。その剣幕に、優曇華が「はあ」とか「へえ」などと溜息のような返事をし、スゴスゴと引き下がった。
「ちょっと、てゐ」
「ん? 何?」
「今日の姫様、妙に荒れてるけど、何かあったの?」
何事か叫び、地団太を踏む輝夜の様子を盗み見て、優曇華は鼻唄を口ずさみタイムカードを記しているてゐにそっと耳打ちする。輝夜の癇癪がこちらにむかないように、あくまでそっと。
「ん? ほら、ここんとこずっと姫様を指名してるお得意さんがいるでしょう? あれよ、あれ」
てゐが答えた。優曇華も心当たりがあったのか、納得したように頷いた。
「ああ、アレか……」
輝夜は苛々していた。その原因は目の前で腕を組み、優雅に足を組んで座る客にあった。
その客は連日、昼過ぎにやって来て輝夜を指名して注文をしていた。
今日も、同じ時間にやって来て、同じ席に座ると、同じように優雅に足を組み、いつもと同じ一見優しげに見える笑みを浮かべて、いつもと同じケーキセットを注文した。そうして……
「お茶がこぼれてしまったわ。すぐに綺麗にしてくださらない?」
そして風見幽香は、いつもと同じく意地悪なことを言うのであった。
「少々お待ちください。ただいまお拭きいたします」
こめかみに青筋、顔に引き攣った営業スマイルを浮かべ、輝夜が震え声で言った。頭は下げなかった。随分と自制しているのは言うまでもない。というのも、ここ数日、同じような展開で何度も煮え湯を飲まされ続けていたからである。
「幽香のクレームに対して輝夜が切れる」、「幽香が輝夜の揚げ足を取り、言葉尻を捕ら、そして結局輝夜は言い負かされて、馬鹿にされる」という屈辱的なループを、輝夜が散々味わっていたからである。だから癪ではあるが、幽香に打って出るよりも、従順なフリをしておこうと考えたのである。
しかしそんな珍しい輝夜の接客にもかかわらず、否、だからこそ一層、幽香はより楽しそうに笑う。その笑みがどこか酷薄そうに見えるのは、決して間違いではないのだろう。
「何を言っているの? 私は直ぐに、と言ったのですよ?」
輝夜の言葉に、幽香は不思議そうな顔をして、まるで輝夜の言葉が理解できないとでもいうように小首を傾げ、さも馬鹿にしたように慇懃無礼に言った。輝夜の額に浮かぶ青筋が一本増えたが、それでも輝夜は耐えた。
「ですから、ただいま布巾をお持ちしますので……」
何とかその屈辱に耐えて、輝夜は丁寧に定められた文言を繰り返す。対して幽香も再び小首を傾げる。
「それじゃあ直ぐじゃないでしょう?」
「……じゃあどうしろって言うのよ?」
意味あり気なことをしつこく言う幽香に、輝夜の我慢があっという間に限界に達した。木接客にあるまじきドスの効いた低い声を、幽香にぶつける。
噴火寸前の輝夜に、幽香は満足そうに頷いて、花も恥じ入るような可憐な笑みを浮かべた。そして相変わらずとんでもないことを、あっさりと言った。
「舐めて綺麗にしなさい」
「……はっ、はぁっ?」
しばしの沈黙の後、顔をしかめて輝夜が頓狂な声をあげた。最早いつもの輝夜に戻っている。しかし幽香は気にした様子もない。むしろ楽しそうですらある。反抗的な方がいぢめ甲斐があるということなのだろう。
「聞こえなかったのかしら? 靴を舐めろ、とそう言ったのよ?」
「何で私がアンタの靴を舐めないといけないのよ!」
癇癪を爆発させた輝夜に、幽香は悠然と微笑み、
「それは貴女がここの店員さんで、私がお客様だからよ。お客様は神様なんでしょう?」
そう言ったのだった。
結局この後、暴れ出しそうな輝夜に代わって優曇華が幽香の対応に出た。もちろん、同じように苛められたのは言うまでもない。
「全くアイツ何様なのかしら! 私は客に足を舐めさせるのが仕事だってこと、分かってないのかしら?」
「そりゃお客様でしょ」
憤慨する輝夜の言葉に、てゐがボソリと呟いた。
「……いえ、姫様……そもそも足を舐めたり舐めさせたりするのは、飲食店の店員のする仕事じゃないと思いますが……」
恐る恐る優曇華が言った。落ち着きのないその様子は、輝夜の癇癪が自分に向かないか気が気でないようだ。
「しかもあーいうややこしい奴が来た時に限って、永琳は助けに来ないんだから!」
優曇華の願いが通じたのか、輝夜の怒りの矛先はここにいない永琳に向かっていった。
「そう言われればそうですねえ。何だかややこしそうな客が来た時って、師匠の姿を見ませんねえ」
一先ず自分が責められることはないと分かり安心したのか、少し余裕を見せて優曇華が首を傾げる。
「案外、何処かで困ってる姿を見て、ほくそえんでるのかもしれんねえ」
正にそんな笑みを浮かべ、てゐが――実は強ち外れていない事を――言った。
「まさか。貴女じゃあるまいし」
優曇華が聞き流した。実は自分が最も真実に近づいていると思わないてゐも、「そうね」と言って笑った。
「ああっ! 思い出しただけで、また腹が立ってきたわ!」
そんなペットたちの和やかな会話など知ったことではないと、丁寧に梳られた黒髪に手をやりグシャグシャと掻き毟ると、輝夜がまたいきり立つ。
「まあまあ、姫様。商売繁盛なんだから、いいじゃないですか」
そんな輝夜を落ち着かせようと、優曇華が言う。しかし今度は余計なことだったらしい。その言葉を聞いて、輝夜がキッと優曇華を睨んだ。「ヒッ」と小さく悲鳴を上げ、優曇華が体を強張らせる。
「何が商売繁盛よ! 別に商売しないと生きていけないわけじゃなし、どうして私たちが働かなくちゃならないのよ! それに商売が繁盛したからって、私たちに何か得があるわけ! ご飯が豪華になった? お給料もらった?」
「す、すいません! すいません! ……って、あれ? そういえば、何にも貰ってませんね? ……ってことは……私たちタダ働きってことですか!」
輝夜の勢いに怯えたように作り物の耳を押さえていた優曇華が、未だ手に持つタイムカードを見て、悲鳴を上げた。
「何を今更……」
てゐが呆れたように鼻を鳴らす。そして先程就業時間を刻印したばかりのタイムカードをヒラヒラと振った。
「そう言う事よ! 何でかしらないけれど、私たちは永琳の掌の上で踊らされていただけなのよ! 最初は面白いかなぁとか思ってた自分が腹立たしいわ! ああっ! もう我慢できない! 永琳の所に行くわよ!」
そう言うや否や、輝夜はドシドシとはしたない足音を立て、一人永遠亭の奥目指して突進していく。
「しかし、姫様。師匠の所へいって、何をするつもりですか?」
オロオロと輝夜の後を追いながら、優曇華がその背中に尋ねる。それに間髪入れず首だけ振り向いて、輝夜が叫んだ。
「永琳の真意を問いただすに決ってるでしょう! それで納得できても、納得できなくても、こんな仕事止めてやるわ! 私は普通の姫様に戻ります!」
「……普通の姫様ってなんだろうね」
そんなことを言いながら、てゐも優曇華の横に並んで輝夜を追いかける。
「永琳は今何処にいるの!」
振り返ることなく輝夜が付き従う二人に尋ねる。「分からないで動いてたんだ」と、てゐが優曇華にだけ聞こえるように呟いた。
「今の時間でしたら、師匠は今日の店舗データをまとめるからって、奥のラボにおられると思います」
優曇華が答える。輝夜は頷いた。
「ならこの先で間違いないのね!」
じゃじゃ馬のように荒々しい音を立て、永琳がラボとして使っている座敷の前までやって来ると、輝夜は一切躊躇することなく乱暴な音を立てて襖を開けた。
「ちょっと永琳!」
しかし、その叫びは空しく響いただけだった。そこにその叫びを聞くべき者はいなかった。
「いないじゃない!」
永琳がラボとして使っている座敷には、あちこちに医療器具やら、様々な書類やら、色とりどり千差万別の薬草やらが整然と並べられていた。それらは丁寧に整理されているのだが、有象無象が膨大な量で座敷を埋めるさまは、人にどこか雑然とした印象を与える。輝夜は書類の束や、乾燥させた薬草の並べられた机の下を覗き込んだり、本棚と本棚の間を見、あげく壁と薬草棚の隙間まで覗き込むと、さも永琳がいないことがお前のせいであると言わんばかりに優曇華を睨んだ。
「そのようですね。……け、けど、営業が終わると師匠はいつもこの部屋で仕事をされてたじゃないですか! それは姫様もご存知でしょう?」
輝夜の視線に、優曇華は相変わらず怯えたように身を竦ませるが、震える拳で胸元を押さえ、何とかそう反論を絞り出した。
「……確かにそうだけれど、現にここに永琳がいないのは事実じゃない!」
少しの間言葉に詰まった輝夜だったが、見てみろと言うように両手を広げて、主の不在を示した。そんなことをしなくとも、優曇華にも今の輝夜の捜索を見ていれば、永琳の姿がないことは明白なのである。そこで二人の言葉は平行線を辿る。それはどこにも交点を持たないかに思えた。
「……否、お師匠様はまだいるみたいだよ」
その推測をてゐの声が否定する。てゐは輝夜も優曇華も気がつかない間に座敷の隅で屈み、何かを見ていた。
二人の視線がてゐに集まる。
「どういうこと!」
輝夜が鋭く問うた。その問いにてゐは答えず、黙って自分が屈んでいた床の一部を指差す。
「こ、これはっ!」
優曇華が怯えたように声を上げた。
「……血ね。しかもまだ新しい」
輝夜は先ほどまでのてゐがそうしていたように屈みこみ、ねっとりと赤い染みに指を浸して確認した。
それは確かに血であった。ほんのわずか数滴程度であったが、それは紛れもなく血液に違いなく、またまだ乾ききっていなかった。その血の跡は、永琳の書き物机から少し離れた所から等間隔で点々と続き、乾燥させた薬草を陳列している棚の前で途切れていた。そしてそこには三人の気を引いたものがあった。
「どうしてこの血痕、棚の下にあるんでしょう?」
優曇華が一つの赤い染みを指差して言った。その血痕は不思議なことに丁度棚の下にその半身を隠していた。
素直にその謎に首を捻る優曇華に、てゐから深呼吸にも似た長い溜息が漏れる。
「何よ? 貴女は不思議じゃないってわけ?」
その呆れ切ったような溜息に、優曇華がムッとした顔でてゐに詰め寄る。てゐは優曇華の鼻先に人差し指を立てると、メトロノームのように左右に振る。
「こんなのは初歩の問題だよ、鈴仙君。血痕が棚の下敷きになっているという事は、この棚は血痕が出来てから、この場所に置かれたという事。それはつまり……」
そこまで言って、てゐは言葉を切ると、件の薬草棚のあちこちを弄り始めた。
「つまりどういうことよ?」
そのままその行為に没頭するてゐに業を煮やし、優曇華が言葉の先を急き立てる。
「……んっ。ちょっと待って。多分、この辺だと思ったんだけど……あれ、見当たらないなぁ。おっかしいなぁ」
そんなことを言いながら、てゐが屈んだり伸び上がったり、棚の周りをグルグルと回ったりしながら説明する。
「えーっと、つまりね、血痕の上に棚があるってことは、この棚は動くようになってて、血痕がついた時、この棚は此処にはなかったんじゃないかって言いたいのよ。で、それってつまり……」
「あーっ! こらっ! ウサギ二人、早く何とかなさい! 私は疲れてきちゃったわよ!」
二人のウサギが話す中、退屈そうにしながら、怒りをもてあましていた輝夜がついに癇癪をぶちまける。永琳がいないと分かってから、輝夜はすることもないので、優曇華とてゐが何かを調べている間もぼうっと突っ立っているだけだった。それにもとうとう飽きてきたらしい。そして優曇華が宥めるように何かを言っているのを無視して、てゐが何事かを調べている棚にもたれ掛った。
「全く永琳は何処に行ったってのよ……おおおおおおおっ!」
輝夜が薬草棚の端に体を持たせかけた、正にその時である。輝夜の体重を支えきれなかったかのように、薬草棚が壁の方に向かって倒れていった。否、それは蝶番で止められた押し戸のように壁もろとも、座敷の本来であれば開くはずのない方向に向かって開いていったのである。
「……つまり隠し戸があるんじゃないかって思ったわけよ」
「……成程」
突然開いた戸の向こうでしとどに体を床に打ちつけて身悶えている輝夜を見ながら、てゐが呟き、優曇華が納得した。
「ちょっと! ここで人が痛がってるのに、無視するってのはどういう了見よ!」
意外と元気な怪我人に、二人のウサギは示し合わせたように肩をすくめ、小馬鹿にしたように鼻から息を漏らした。
「それだけ叫べる元気があれば大丈夫ですよ」
「だって姫様、死なないじゃん」
「……あんたらって奴はぁぁ……」
二匹のペットの暴言に、輝夜の肩が震え、硬く握り締めた拳で床を叩いた。てゐが怒り心頭に達し、ギリギリと歯軋りする輝夜の肩を軽く叩いた。
「さっ、姫様。行きましょう。お師匠様はきっとこの先です。血の痕も階段に続いているみたいだし」
「ちょ、ちょっと!」
それだけ言ってサッサと先を行くてゐに、輝夜が慌てて立ち上がろうとする。
「さ、姫様。お立ち下さい。私たちも参りましょう」
すかさず優曇華が輝夜の手を取り立ち上がらせると、甲斐甲斐しく服の裾についた埃を払う。怒りの矛先を失った輝夜が、「ああ」とか「うん」とか生返事をして、バツが悪そうに後頭を掻くと、優曇華の後についてポッカリと口を開けた秘密の通路を進んでいく。
薬草棚の後ろの壁に開いた穴。それは直ぐに急勾配の階段へと続いていた。足元と僅かに眼前を照らす程度の薄明かりに照らされた其処は、まるで地の底まで続くのではないかと思われた。
「しっかし永琳の奴、一体何時の間にこんなものを造ったのかしら?」
自分たちの足音が反響する中を、三人は慎重に階段を下りていく。頭の後ろで両手を組み、気負った様子もないてゐが鼻唄混じりに輝夜に答える。
「そりゃ最初っからでしょ? お師匠様が此処に来た時に造ったってのが、一番自然」
「それでもワザワザ秘密の通路まで造って、そこまで隠しておきたいものなんてあるんでしょうか? それも私たちに、ですよ?」
納得がいかないのか優曇華が口元をすぼませ眉根を寄せ、腕を組んだ。おかげでバランスを崩し、階段を踏み外しそうになる。
「っととと! 何やってんのよ、全く……」
「……す、すいません、姫」
目の前で急に背丈が縮んだ優曇華に驚いた輝夜が付け耳を掴んで転びそうになった優曇華の体を引っ張り上げた。耳の具合を確かめながら、優曇華が頬を染め礼を言う。
「誰でも秘密の一つや二つ抱えてるもんでしょ? それが大きいか小さいかの違い」
照れて頭をかく優曇華を呆れたように見上げ、てゐがさも当然というように答えた。そしてチラリと足元の遥か下に視線を遣り続ける。
「それももう直ぐ分かるみたいだけれど、ね。さてはて何がでることやら」
少しずつ足元の光へと近づいていく。後ろの二人にも、その光はハッキリと見えていた。
「……ただ、大蛇なのは間違いんだろうけどね」
ただてゐの呟きは、反響する足音にかき消され、二人の耳に届くことはなかった。
「……なっ! こ、これはっ!」
「……研究、……所? ……いや、これは」
「へぇ。コイツはすごいや。何が凄いのか、さっぱり分からないところなんか、特に」
地の奥深く辿り着いた三人は、三者三様の驚きの声を上げた。
其処は広い円形の空間で、天井は遥か頭上の高みの薄闇に溶けいている。その空間の中央に、天の薄闇を支えるようにして聳え立つ巨大な一本の円柱――月の超電脳であるオモイカネの本体――があった。あたりはあちらこちらに灯された蛍火のような弱々しい薄緑の光にぼんやりと照らしだされていた。まるで此処だけが現実から切り離されたような、たとえるならば誰かの見る夢の中のような、そんな現実感を欠いた場所だった。そんな不安定な場所にありながら、確固として存在感を誇示している巨大な柱を囲み、無数の輝きがあった。
三人の視線が、その輝きの中に捕らえられる。
「これは、私!?」
「わ、私もいますよ、姫様!?」
「おっ、私もいるなぁ」
輝きの中には、三人の姿があった。サディスティックな笑みを浮べ接客をする輝夜の姿。客の頭を踏みにじり高笑いする輝夜の姿。様々な輝夜の姿が、薄緑の光の中に浮んでいた。 そしてその隙間を埋めるようにして、客に注文されたメニューを客自身にぶちまけて平謝りしている優曇華の姿や、客から顔を背けてほくそ笑んでいるてゐの姿があった。
そして極めつけは……
「ああっ!? あれは華馬鹿じゃないの!」
そう、先程まで輝夜が激怒していた華馬鹿こと風見幽香に小馬鹿にされている輝夜の姿があった。
「見てたのなら助けてくれても良かったじゃないの!」
画面の中で引きつった笑みを浮かべる自分の顔と、得意気に微笑み足を組みかえている幽香の姿に、輝夜の鎮火していた怒りの火種が再び勢い良く燃え上がってていた。だからこそその画像の意味するものに、輝夜は気がつかなかった。その意味に気がついた優曇華とてゐが顔を見合わせる。
「……見ていたのに助けなかったということは、助ける暇がなかったってことか……」
不安そうな優曇華の声に、
「……ワザと助けなかったのか」
てゐが淡々と続けた。
「でも何故……」
「それを隠しているのが、この謎の空間ってわけなんじゃない?」
優曇華の問いに、これも淡々とてゐが答える。その言葉が終わるかどうかという時だった。「カツン」と硬質の足音が、空間を反響した。三人が音のした方向に目を向ける。
「……そう。とうとうここまでやってきてしまったのね」
其処には三人が捜し求めていた人物の姿があった。八意永琳が、悲しげな笑みで立っていた。
「……師匠。鼻血が……」
「……のぼせたのかな?」
優曇華とてゐが、永琳を見て呟いた。
「二人とも空気を読みなさい」
鼻に詰めた詰め物を手で隠し、永琳が答えた。
「これは一体どういうこと! 永琳、説明しなさい!」
そんな空気を読まない二匹のペットに引きずられることなく、輝夜が片手を広げ辺りに浮ぶ仮想ディスプレイを示し、声を荒げる。その声に含まれる批難の響きに、永琳が悲しそうに、あるいは自嘲気味に笑う。それは壊れた人形を想像させる。
「御覧になったとおりですよ、姫。ようこそ、私の城へ」
そうして右手を胸に当て、慇懃に一礼した。
そんな永琳の振る舞いに輝夜が愕然とする。輝夜は自分の言葉をきっと否定すると、そう信じていた。そう望んでいた。しかし永琳は否定しなかった。それは輝夜にとって、裏切るよりも彼女の心を切り裂く。
「ど、どうしてなの、永琳!? どうしてこんな馬鹿なことを!?」
輝夜の声が反響し、空間を震わせる。その振動は永琳の体を伝わり、喉を震わせる。永琳はほっそりした手で口元の笑みを隠した。
「馬鹿なこと? フフッ、確かに貴女から見れば愚かなことに見えるでしょうね。ですが私にとっては違う! 姫のお姿は行住坐臥、その全てが堪らなく愛おしいのですよ。貴女がいるだけで、この世界は美しく色づき、輝きだすのです!」
永琳が自分の煩悩を声にする。それは理性の作用を抑え、感情を迸らせる。口調は抑揚を持ち、熱を帯び、狂気を孕む。
「じゃあどうして私のも」
「あっ、私のも」
その興奮に水を差すように、優曇華が恐る恐ると手を上げた。ついでとばかりにてゐも尋ねる。
「ついでです」
興奮の最中にありながら一時ヒートアップする展開を中断し、永琳は酷く冷めた声で即答した。
「つ、ついでっ!? それは幾らなんでもあんまりです、師匠」
優曇華が何故か悲しそうな表情をした。どんなことであれ、蔑ろにされたくないらしい。
「あら、それじゃつまみ食いのほうが良かったかしら?」
永琳が小首を傾げ、言い直す。
「何かどっちでもいいって感じね」
さもありなんとばかりに、てゐが頷いた。
「ううっ……酷いです」
力なく付け耳を伏せ、優曇華が項垂れた。
悲しそうな優曇華を一瞥すると、この話はここで終わりだというように、永琳が手を打った。乾いた小さな音は空間に反響し、優曇華の嘆きの声も、輝夜の苛立ちの声も、てゐの戯言も、全てを封じた。死んだような静寂が戻る。
「……さて、このコレクションを見られたからには、ただで帰すわけにはいかなくなりました」
何時もと変わらぬ落ち着いた声で、永琳が言う。だがその言葉に、三人を見るその視線に、千のナイフを束ねたような剣呑さが込められていた。言葉が、視線が、三人の体を突き刺し、抉り、バラバラにする。
「……い、一体、何を考えているの!?」
久方ぶりに感じる永琳の“本気”に、主である輝夜ですら気圧され身を引く。優曇華が肩をひそめ、てゐが我知らず全身に緊張を漲らせる。それを見て永琳が極刑を宣告する裁判官のように、冷酷に冷静に言葉を紡ぐ。
「貴女たちには、今日見たものを『忘れて』いただく」
実験動物かあるいは路傍の虫けらを見るような、氷の視線。それを無理にでも振り払おうと、輝夜が虚勢の鎧を着る。
「……ふ、フンっ! 私に薬が効くとでも思ってるのかしら」
だが空間に反響する声は、その震えを何倍にも増幅する。その振動に、永琳が嬉しそうに瞳を細めた。それはまるで獲物を前にした蛇が微笑むよう。
「薬が効かずとも、記憶を弄ることなど、私にとって造作もないことなのですよ、姫? そしてその手段も、ウフフ、私の胸算用一つ」
薄青い唇を真赤な舌で湿らせる。全身を這い回る永琳の湿った視線から身を守るように、輝夜が肩を抱く。
こんな時の永琳の恐ろしさを良く知る優曇華が、輝夜にすがりついた。
「……ど、どうしましょう姫様。師匠のあの目、マジですよ。このままじゃ私たち、時折今日のことを思い出して頭痛に苦しんだりするようになっちゃいますよぉ。宇宙が落ちてくるとか、おはようございましたとか言い出すようになるんですよぉ」
優曇華は半べそをかいて、輝夜の裾に取りすがる。輝夜は怯えるペットの方をチラリと窺う。そこで自分を頼りにする、涙で潤んだ赤い瞳とぶつかった。輝夜の頬を冷たい汗の雫が一筋流れる。微かに息を吐くと、輝夜は緩々と首を振った。そして優曇華の細い肩に手を置き、いつもの我侭で高慢で人の事情など一切考慮しない断定口調で、力強く簡潔に命じた。
「優曇華。あのデータ、全部消しちゃいなさい。もしくはオモイカネを壊しちゃいなさい」
「ひ、姫様っ! し、しかし、あのデータは!」
輝夜の命令に優曇華がハッとして顔を上げる。たとえ自分の師匠が自分を窮地に追い込んだ張本人であったとしても、公然と手を上げることは憚れるのだろう。そんな不安そうな優曇華の様子に、輝夜は発破をかけるように声を上げる。怒ることで、自らの怯えを隠そうとするように。
「あんた、頭にこないの!? 私たちの姿をずっと撮られてたのよ! あんなところやこんなところまで、どこぞの駄天狗なんかよりもハッキリバッチリとよ! 悔しくないの!」
「……そ、それはそうですけど」
しぶしぶと優曇華も頷くが、まだ煮え切らないようにモジモジする。頼りないペットの姿に、輝夜が顔を近づけ、声を張り、赤い瞳を曇らせる怯えを吹き飛ばそうとする。ついでに気合を注入するかのように全力で優曇華の肩を揺さ振った。
「ならばつべこべ言わず、私の言うとおりにしなさい! それにあのデータを何とかしないと、ここにいる全員、今日のことを忘れられなくなるわよ?」
ガクガクと揺さ振られながら、優曇華は見た。強がる輝夜の顔に浮ぶ引きつった笑いを。その泣き笑いのような珍妙な表情に、優曇華は輝夜が強がる理由を知った。だが知ったところでこの状況が好転するわけでもない。ただ優曇華にできることは、輝夜のその心に報いるためには、ただ苦虫を噛み潰したような顔で頷くことだけであった。
「……ううっ、確かに。このままだと何されるか分かったもんじゃないですし……けれど、私なんかがオモイカネをどうにかできるとは限りませんよ?」
「何とかしなさい。永琳は私が何とかするから。それからてゐ、アンタも優曇華と一緒にあの胸糞悪いデータの方を何とかなさい」
「御意に」
切り捨てるように命じると、輝夜の瞳は既に優曇華たちを見ていなかった。硬質の音を響かせて、一歩踏み出した自らの従者に全神経を集中させていた。
「さて、輝夜。打ち合わせは終わりましたか?」
口元に薄く笑みを貼り付けて、永琳が尋ねる。
「ええ。全会一致で、永琳のデータをぶっ壊してここから逃げることに決定したわ」
輝夜が虚勢を張る。永琳がフッと息を漏らした。
「できるものならばやってごらんなさい。オモイカネを破壊できれば貴女たちの勝ち。ここから出て行く。破壊できねば私の勝ち。貴女たちはこの部屋のことを忘れ、明日からも労働に励む、と。条件は以上ね」
そう言うと、永琳はゆっくりと腕を上げ、地を断つように素早く振り下ろした。その手には二枚のスペルカードが構えられている。
「言われずともそのつもりよっ! ついでに私たちが勝ったら、今日までの給料分、ご飯を豪勢にしてもらうわよ!」
輝夜が天を穿てと腕を振り上げ、スペルカードを掲げる。
「天呪 『アポロ13』!」
「神宝 『ブリリアントドラゴンバレッタ』!」
二人の声が重なり、スペルカードに封じられた力が一瞬にして解放される。
夢幻の弾幕が輝夜の周りに渦を巻く。輝夜が掲げた手指を奇妙に曲げる。その形が模すものは、牙を剥いた龍の顎。その動きに合わせ、弾幕の渦は輝夜の頭上を登り一つの奔流となり、そして巨大な弾幕龍と化す。輝夜の腕が永琳へと突き出され、拳を握る。顎が閉じる。呼応し、弾幕で形作られた龍が咆哮を上げたように身を捩った。
対して永琳はゆっくりと腕を頭上に上げただけ。穏やかな表情で天と地を指すその姿は、かつての聖人を髣髴とさせる。展開された幾重もの弾幕は、永琳を中心に旋回し、正確な軌道で放たれる。
龍を象る夢幻の弾幕流が、円陣を組む弾幕壁へと流れ込む。弾幕は相殺され、辺りに全てを根こそぐ暴風の如き衝撃と昼のような閃光を撒き散らす。
「今よ!」
「合点承知!」
涙を拭った優曇華の瞳が赤く不気味に輝く。てゐがどこからともなく身の丈程の巨大な杵を取り出すと、軽々と肩に担いだ。
二人は閃光と衝撃を掻い潜り、一目散に部屋の中心部のオモイカネへと奔る。
優曇華がオモイカネの裏側へ滑り込み、片手の人差し指を眉間に当てる。自分の指とオモイカネの姿が優曇華の瞳の中で重なる。
対しててゐは壁面を駆け上がり、優曇華の狙撃ポイントと輝夜たちの弾幕勝負を頂点とした正三角形を形作るように位置をとる。
二人は位置に着くと、声をかけることなく、視線すら交わすことなく、ただ軽く頷いた。それだけで十分だった。二人が同時にスペルカードを準備する。百戦練磨の戦友が持つコンビネーション故に成せる業である。
「幻惑 『花冠視線(クラウンヴィジョン)』!」
優曇華の瞳が血の色に輝く。その視線は眼前に浮かび上がった半透明のスペルカードを潜り、赤く輝く無数の円陣となり一直線にオモイカネに突き進む。
優曇華が構えると同時にてゐもスペルカードを眼前に取り出す。そしてスペルカード目がけて思いっきり上段に振りかぶった杵を振り下ろした。
「兎符 『開運大紋』! そいやさぁ!」
杵に打たれたスペルカードは光の塊となって飛散する。それは一見してタンポポの綿毛を連想させる。しかしその正体は無数の弾幕を固めたもの。何かに触れれば、風を受ければ、綿毛の如く辺りに弾幕を撒き散らす。
二つのスペルカードがオモイカネを襲う。その二つとも、直撃すればオモイカネがどれ程頑丈に造られていようとも、ひとたまりもなく破壊するだけの威力を持つ。
だがそれは直撃した場合の話である。
「嘘っ! 何で!」
「スペカが消えた!」
直撃を確信した二人に驚愕が走る。そう、二人の放った弾幕は、オモイカネの直前で、文字通り雲散霧消してしまったのである。
「秘術 『天文密葬法』」
弾幕合戦の轟音の響く中、二人はハッキリと永琳の呟きを聞いた。
二人に背を向けたまま、二人に向けられた手の中で一枚のスペルカードが輝いていた。それは数多ある八意永琳の切り札の一つ。ありとあらゆる害なすものを封印し、無力化する秘術中の秘術である。
ゆっくりとまるで空間から染み出してくるように、幾つもの磨かれた真っ白な球体が姿を現す。それは永琳の意志を受け、防御対象に向けられるスペルカードを無力化する深秘の宝珠である。
続けて、永琳は突き出した手をクルリと回す。其処には二枚目のスペルカードが握られている。
「『操神 オモイカネディバイス』」
その言霊に応え、純白の宝珠が発光する。まるで意志持つように複雑な軌道を描き空間を飛翔し、そして呆然とする優曇華とてゐへと弾幕を纏い襲いかかる。
「ちょっとぉぉぉぉ! こんなの聞いてないよぉぉぉ!」
四方八方と動き回る宝珠と、その宝珠から放たれる弾幕から、目一杯腕を振って足を上げ、優曇華が悲鳴を上げて逃げ惑う。そのすぐ後ろを宝珠から放たれた弾幕が、乾いた音を立てて追い立てる。
「ちぃっ! チョロチョロと目障りな!」
スペルカードを発動できず、てゐが果敢に通常弾と杵を使って宝珠を破壊しようとするが、高速で移動する宝珠の動きに翻弄されるばかり。
「オモイカネに害なすものは全て打ち消され、反撃を受ける。貴女たちにオモイカネを破壊することはできない」
背後で始まる弾幕勝負にもならない狂乱に、永琳は僅かも目を向けない。目を向ける必要がないのだろう。それは輝夜との弾幕勝負から目を離せない、というわけでもないらしい。
「旗色が悪そうですわね、輝夜?」
三枚のスペルカードを操り、それでも永琳は笑みを浮かべる余裕を持っていた。
「まだまだよ! こっちはやっと調子が出てきたところってなもんよ!」
対して答えた輝夜は引き攣った笑みを浮かべている。強がる程度の余裕しか残っていないのだろう。しかしそれも戦況を見れば致し方のないことだろう。てゐと優曇華は言うに及ばず、奮戦している輝夜も果敢にスペルカードを発動させるが、その悉くが永琳の弾幕を破ることができないのだから。
龍は斃れ、御鉢は砕け、衣は最早襤褸と成り果てた。手にもつ玉の枝になる弾幕も、既に残り僅かとなっていた。
対して永琳の持つスペルカードは、そのどれもが未だに破られることなく力を示している。
二色の弾幕は精密な計算の元に軌道を巡り、宝珠は封印の秘術を行使し、さらに不埒なウサギたちを追い立てている。
永琳は熟知していたのだ。フラッグを奪取されることはないのであれば、持久戦に持ち込めば自分の勝利が毫も揺るがないということを。
「姫。姫もお気づきなのでしょう? 貴女では私に勝てないということに」
玉の枝からもぎ取られた弾幕雨を余裕の表情で打ち払い、永琳が困りきったような溜息が漏れた。どこか出来の悪い生徒に手を焼く教師の風情である。
「今、大人しくしていただければ、姫だけは優しく扱ってあげますわ」
「それじゃあ私が降参します、師匠おおおぉぉぉぉぉぉ!」
弾幕に追いかけられあっちこっちと駆け回っていてそんな余裕などないはずの優曇華が、永琳の言葉を耳さとく聞きつけて、壁を走りながら必死に手を上げて振り回す。
そんな弟子を一瞥し、永琳は優しげな笑みを浮かべる。
「お前たちは降参してもお仕置きです」
あっさりと言った。一片の憐憫も温情もなかった。
「そんなあぁぁぁぁぁぁ!」
優曇華の悲鳴が弾幕が壁を穿つ音を圧し、辺りに虚しく響いた。しかし弟子のことはそれで終わりとばかりに、永琳は戦意を失いつつある輝夜の瞳に視線を合わせた。
「さあ、姫。どうなさいますか? 降参を聞くのはこれ一度切りです。降参すれば優しくお仕置きしてさしあげます。降参なされなければ、少し痛い目を見ていただいてから、酷いお仕置きが待っています。さあ、この状況を見ても、まだ抵抗なさいますか?」
永琳の声も表情も、何ら普段と変わらない。ただその瞳だけが何時もと違っていた。薄ら笑うように僅かに細められた瞳は、どんよりと澱んだ欲望に染まっている。
やんわりとした脅迫。ただそれは慈悲ともいえる。三人がかりでも、一歩も引かぬ相手にどうやって勝てるというのだろう。だが輝夜は何も言わなかった。俯いた表情は、前髪に隠れて窺い知ることはできない。
「さあ、輝夜! 返答や如何に! さあ! さあ! さあ! さあ!!」
永琳の声が一際高く響いた。珍しく声を荒げた永琳に、輝夜の肩がビクリと反応した。
「……ん……ない……」
そしておもむろに輝夜が何事かを口にした。しかしその声は囁きよりなお小さい。だが輝夜が言葉を発したというだけで、永琳は満足だった。口元をサディスティックな笑みに歪める。
「輝夜。何を言っているのか分かりません。何か言いたいことがあるのなら、しっかりと顔を上げ、相手の顔を見て、はっきりと言いなさいと、そう教えたでしょう?」
永琳が優しく諭した。しかしその言葉と浮んだ笑みとのアンバラスさが、どこまでも不気味さを醸しだす。それは甘い香りで獲物を誘う食虫植物を連想させる。その言に乗れば最後、後はただただ敗北しかまっていない。だが輝夜は、永琳の言に従った。両手を胸の前で硬く握り、ゆっくりと顔を上げる。
「……あうぅぅ……ごめんなざぁい……」
泣いていた。何時もの凛とした姿の面影すらなく、恥も外聞もなく、まるで幼子のように泣いていた。上げた顔は涙と鼻水でグシャグシャになっている。
刹那、永琳が顔を背け、口元と鼻を手で覆った。にやける口元を隠し、鼻血を噴出さないようにするためである。
「……ごめんなざいぃぃ……ごうざんずるぅ…・・・ごうざんずるがらぁ……」
輝夜はしゃくりあげながら、着物の袖で涙を拭う。そのまま緊張の糸が切れたのか、怯えたように顔を覆いしゃがみこんでしまった。ただ嗚咽だけが聞こえる。
体を震わせ、全身から悲しみを漂わせる輝夜の姿に、永琳の瞳の中で幼き日の輝夜の姿と重なる。
悪戯を叱られた時。授業をサボった時。屋敷を抜け出して月市街に遊びに行って迷子になった時。それらの全ての時間が重なる。
不意に永琳の瞳から曇りが失せ、優しげな輝きが戻った。ゆっくりと、怯えさせないように輝夜の側に立つ。
「分かりました、姫。ですからどうか泣き止んでください。ね、顔をあげて」
そう言って永琳が輝夜の髪を優しく撫でる。それでも心の中で「ずっとそうされていますと、私の理性と血液がもたなくなりますから」と続けていた。当然、声には出さない。
「……う、うん」
輝夜がコクコクと頷き、顔を上げた。そしてまるで永琳に捧げるように、胸元で握っていた手を開いて見せた。
そこには一枚のスペルカードがあった。
「新難題 『エイジャの赤石』」
「!?」
呟いた輝夜の声に反応し、スペルカードが赤い宝石へと変わる。その宝石は一際、眩しく妖しく煌めいた。その光を見るや、考えるよりも早く永琳は体を大きく反らした。その判断は正しかった。先程まで永琳の頭部があったと思しき場所を、血よりも赤い光の柱が過ぎ去った。咄嗟に動かなければ、永琳の頭部に直撃していたことは間違いない。
「……やってくれますね、輝夜」
輝夜が二撃目を放つ前に、永琳は素早く輝夜の腕を捻り上げた。少し遅れて赤い光が遥か頭上の天井を突き破る音が、辺りを振るわせる。
「……惜しかったわねぇ。一発大逆転だと思ったんだけど」
輝夜の手から滑り落ちた赤い宝石は、床に落ち乾いた音を立て、スペルカードへと戻ってしまった。それを見て、澄ました顔で輝夜が芝居がかった仕草で肩をすくめた。
「もう降参はできませんよ? 酷いお仕置きは決定です」
そう言った自分の言葉に触発され、一足早く頭の中で「お仕置き」を始めた永琳の顔に、妄想で押し出されたような不気味な笑みが浮んだ。
「おひょおおおぉぉぉ!」
輝夜の一撃で壊れた天井の一部と、オモイカネの弾幕を、優曇華が奇声をあげてクネクネと奇妙に体を曲げて回避する姿など、既に認識すらしていないようである。
「……そう、なら仕方ないわね」
溜息と共にそう言うと、輝夜はスッと永琳に体をよせ、自由な方の腕を永琳の首に回す。そして唇を永琳の頬によせ、嫣然と微笑んだ。
「酷いのが決定なら、少しでも楽しみたいものね」
「あら、色仕掛けかしら、輝夜? そんなのはもう効きませんよ。もちろん、手加減もいたしませんわ」
そう言いながら、永琳も輝夜の体を抱き寄せ、耳元に囁きかけた。その言葉とは裏腹に輝夜の髪を撫でる様は壊れ物を扱うよう。
輝夜が小さく笑った。その吐息が、永琳の頬をくすぐる。
「ねえ、永琳。忘れる前に教えてくれるかしら。あそこにあるもの、あれには私の姿が入っているのよね?」
まるで閨の睦言のような囁きに、永琳が陶然として答える。
「ええ、輝夜。あそこにあるもの、そのほとんどが貴女のお姿を記録したものですわ。ただ貴女を中心として、他の者の姿も記録されていたりしますけれど」
うっとりした表情で永琳の肩に頭を預け、輝夜がおかしそうに言う。
「それじゃあ私と永琳の、あんな姿やこんな姿も入っているのかしら?」
「ええ。そんな姿すらも」
永琳が妖しく笑み、輝夜の髪を愛おしそうに撫でた。
「ふふっ。そんな面白いものを忘れるなんて、何だかもったいないわねぇ。朴念仁の蓬莱人が見たら、きっと顔を真っ赤にして卒倒するか、口煩く私を罵倒するでしょうねぇ」
輝夜は気だるげに言った。そして悩ましげな表情で永琳を上目づかいに見る。
「そうでしょうね。自分の姿をそこに見たら、蓬莱の薬を飲んだ者とて、恥ずかしさのあまり死んでしまうかもしれませんわね」
冗談めかしてウィンクする永琳に、クスクスと輝夜が艶笑を浮かべる。
「あら? 妹紅とのあんなこともこんなこともバッチリ写されてるのかしら?」
「もちろんですわ。そんな姿までバッチリ」
「でもどうして?」
媚びるように小首を傾げた輝夜に、永琳がうっとりと蕩けるように微笑んだ。
「嫉妬こそ最高の媚薬だからですわ、輝夜」
そんな会話が続いている間、ウサギたちはどうしていたかというと……
「ぬおおぉぉぉぉぉ!! グレイズだけで一億点んんんんっっっっ!」
逃げれば逃げるほど集まり、かわせばかわす程激しくなる宝珠の弾幕の中を、優曇華は妙な気合の叫びを上げて逃げ回っていた。襲われ始めた時は怯えていたが、ここまでくると脳内物質が溢れ始めたのか、真赤な目を血走らせ、地を駆け、壁を走り、その広い空間を縦横無尽に疾走し、只管に弾幕をかわしていた。
「喚いていないで、アンタもこいつらを何とかしなさい!」
対しててゐは冷静に宝珠相手に杵を振り下ろしていた。しかし矢張りその速度と機動についていけない。何時のまにやら相手の弾幕を削り、身を守るのが精一杯となっていた。そのてゐがふと頭上を見上げた。その視線の先は、先程輝夜が穿った穴がポッカリと開いている。その虚に何を見つけたのか、弾幕合戦の最中であることも忘れたように、ずっと底を見上げたまま、てゐは小さく呟いた。
「……鈴仙。スペルカードの準備を。一発で決められるような、派手なヤツよ」
それは特殊な波長で発せられた言葉。普通の人や妖怪では、それは何の音にすら聞こえないだろう。ただ走り回る優曇華にはだけは、どれだけの騒音の中でも聞き分けることのできる、特殊な波長である。
「へえっ! それってどういうことよぉぉぉ!」
「今は説明している暇はないわ。ただ私の言うとおりにして」
「分かったわよおおおぉぉぉぉぉぉ! やあぁぁぁっっってやるわぁぁぁぁぁぁ」
走ることで精一杯な優曇華はそう叫ぶしかなかった。そしてただ言われたとおりに、スペルカードの準備を始めた。
てゐが弾幕を掻い潜りながら、恋人のように濃密に抱き合う輝夜と永琳の姿を見つめる。それはまるで何かが起こることを待つような、そしてそのタイミングを見逃さないとするような、そんな視線だった。
「……ですってよ。聞こえたぁ! 妹紅!」
ギュッと永琳の背中を抱きしめると、それまでの妖艶な声は何処へやら、輝夜は頭上に向かって声を張り上げた。
その言葉に永琳が呆れたように笑う。
「ああ、輝夜。そんなことをしても、私は騙され……」
永琳はそれが輝夜の芝居、負けを認めない悪足掻きに過ぎないと考えていた。しかし、その悪足掻きに答える、ありえないはずの声があった。
「ああ。ボソボソだからハッキリ聞こえたわけじゃないが、どうやらここでその変態をぶっ飛ばさないと、私は恥ずかしさで死んでしまうらしいな」
「何!」
驚いて頭上を見上げた永琳の視線の先には、ここにいるはずのない人物の姿があった。
瞳に激しい怒りの炎を宿し、丈の短いナース服の裾を翻した、藤原妹紅の姿がそこあった。
妹紅の全身から滾る怒りのオーラに、永琳が臨戦態勢をとろうとする。が……
「は、離しなさい、輝夜!」
「あらぁ? 何処に行く気かしら、永琳? さぁ、一緒に楽しみましょうよぉ? 焼け死ぬのもたまに良いものよ。癖になっちゃうくらいに」
しっかりと抱きつき、まとわりつき、輝夜が永琳の動きを妨げる。わざとらしく鼻にかかった甘い声をだして、輝夜がしてやったりと笑った。
「あの一撃……あれは私を狙ったわけじゃなく……」
永琳の瞳に何かに気がついたような光が射した。そして直ぐに苦虫を噛み潰したような顔になる。その表情は声高に「どうしてそんなことに気がつかなかったのか」と、自らを罵っていた。
「そう。あれは天井に穴を開けるため。外に弾幕を見せるため。弾幕を見れば、残業あがりの堅物の朴念仁が、何が起こったのか頼みもしないのに確認にノコノコくると踏んだわけ。まあ穴に入るかどうかとか、潜らずに大声あげたりするかもしれなかったから、そこからは賭けだったのだけれど、何とか勝ったみたいね。それともこの幸運は、てゐのおかげなのかしらね」
輝夜が得意気に語り、彼方でこちらの様子を窺っていた自らのペットの方を見た。てゐは何も言わず、腕を突き出しグッと親指を立てただけでその視線に答えた。
「くっ! この手を離しなさい!」
「つれないわねぇ。さっきまであんなに私を求めてくれてたのにぃ」
永琳が慌てて輝夜を強く押しやるが、輝夜はベッタリと抱きついて一向に離れない。そうして頭上を見上げて、妹紅に向かって叫ぶ。
「さぁ! 遠慮はいらないわ! 全力できなさい!」
その声に応え、妹紅がゆっくりと瞼を閉じた。ゆっくりと懐からスペルカードを取り出す。
妹紅が瞼を開ける。揉み合う二人を見下ろし、スペルカードを眼前に翳す。
「……言われずとも、そのつもりだ」
怒りを込めた妹紅の声に、スペルカードが燃え上がる。爆発するように炎は燃え広がり、妹紅の体を包み込む。やがて地獄の炎もかくやと燃え盛る炎が翻り、辺りに漂う薄闇を薙ぎ払う。そこには炎で形作られた鳳凰の翼を背負う、白髪の白衣の天使の姿があった。
「……全弾あの世へ持っていけ」
ゆっくりと片手を水平に振る。幾つもの燃え盛る火球が出現する。それは万物を灰燼に帰す、不二の業火を無理矢理に封じたもの。触れればたちどころに熱と衝撃で全てを破壊する、脅威の弾幕。
逆巻く業火を内部に宿した弾幕を眼前に、打ち砕くべき者たちを眼下に、妹紅は高らかに言霊を唱える。
「蓬莱 『凱風快晴……』」
腕を頭上に。そして満身の怒りを込めて、腕を振り下ろした。
「『フ・ジ・ヤ・マ……ヴォルケイノぉぉぉぉぉぉぉぉ!』」
轟音。そして衝撃。
妹紅の放った火球は輝夜と永琳へと一直線に襲い掛かり、触れるや否や周囲を巻き込み大爆発を起こした。それは次なる火球を爆発させる。爆発が爆発を誘い、辺り一面を炎の海に変える。
熱と衝撃、そして舞い上がる爆煙が晴れると、そこには爆発で抉り取られた地面しか残っていなかった。輝夜と永琳はの灰すら残っていなかった。
粉塵が晴れるや、てゐが鋭く周囲に目を向ける。術者である永琳とのリンクが一時的に切れた宝珠は動きが鈍り、先程まであたりを覆っていた秘術の気配が薄れている。今が逆転の時と見たてゐが、白衣の鳳凰に向かって叫ぶ。
「妹紅! ついでにそこら辺に浮んでる変な珠も!」
「応っ!」
妹紅が翼を羽ばたかせる。抜け落ちた羽根は炎となり、動きの鈍った宝珠を悉く打ち砕く。
「鈴仙! 今よ!」
「わ、分かったわ!」
杵を振るい宝珠を破壊するてゐの声に、優曇華が腰を落とし、両手を合わせ銃身を模し狙いをつける。そして優曇華がスペルカードを用意しようとしたその時、爆心地から悲痛な叫び声が響いた。
「止めなさい、優曇華! スペルカードを仕舞うのよ! 貴女にはそのデータの価値が分からないの! そのデータはたとえこの世界と引き換えにしても惜しくない程の、それほど貴重なものなのよ!」
爆心地にはリザレクションを終えた永琳が、輝夜に羽交い絞めにされながらも、届かぬ腕を虚しく伸ばしていた。
「……し、しかし、師匠……」
どんな時でも取り乱すことのなかった永琳の悲痛な姿に、優曇華が構えた腕を下ろそうとする。
優曇華は迷っていた。たとえ自分たちを危機に陥れた張本人であっても、永琳は彼女の師匠なのである。
それだけではない。何時もは穏やかな永琳が、あれほど取り乱しても守りたいものが、オモイカネにある。
それは形や手段が認められないものであっても、思い出というものに違いはなかった。
輝夜と永琳の思い出を、自分が壊すことになる。無遠慮に、無慈悲に、無惨に。
それが月に全てを残して来た優曇華の決心を鈍らせる。
そんな迷いを見せた赤い瞳に、永琳を羽交い絞めにしていた輝夜が叫ぶ。
「やりなさい! やるのよ、鈴仙・優曇華院・イナバ! 永琳の弟子である貴女が、度し難く爛れた煩悩から永琳を開放するのよ! それが弟子として貴女の勤めよ!」
「……し、しかし、姫様。あれは、あれは貴方と師匠の時間なんですよ……」
今にも崩れ落ち、泣き出してしまいそうな声で優曇華が答える。しかし輝夜は、凄みのある笑みを浮かべた。それは輝夜がいつも浮かべている傲慢で高慢な高貴な笑み。
「そんなもの、私たちには売るほどあるじゃない。思い出? それが何? 私は気に入らないものは、我慢ができないのよ。それにね、それほど大切なものじゃないと、永琳の煩悩を正すことも出来ないじゃない。だから貴方がやるのよ、優曇華! 師匠が道を踏み外せば、それを正すのは弟子の仕事でしょう!」
そして輝夜は冗談めかして続けた。
「それに思い出が大切というのなら、なおさら今日のことを忘れるわけにはいかないじゃない?」
輝夜の言葉に、優曇華は瞼を閉じた。そしてゆっくりと眼を開ける。透き通る赤い瞳が、迷いを断ち切り、決意に輝いていた。それは己の成すべきことを悟った者がもつ、力強い輝き。
「分かりました……一先ず悩むのは後回しですね。今日の事を忘れてしまっては、後悔もなにもあったものじゃない。そういうことなのですね、姫様?」
片膝を立て、ゆっくりと腕を構え、片目を閉じた。そしてオモイカネの本体へと狙いを定める。長く息を吸い、そしておもむろに息を止める。
「……私は師匠を撃たない。その煩悩だけを撃ち抜く!」
指先にスペルカードが現れ、それが無数の砲弾に変わる。その弾頭は全てオモイカネに向けられている。
「幻爆 『近眼花火(マインドスターマイン)』!」
優曇華の視覚に写しだされた赤いレティクルに狙いを合わせ、スペルを発動させる。
「止め、止めなさい……、止めて……」
永琳の腕が虚しく宙を掻く。それはけして優曇華に届くことはない。
そして優曇華は引き金を引いた。
「シュュュュュュトォォォォォォォォォォォ!!」
「止めてぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!」
優曇華の弾丸がオモイカネを打ち抜き炸裂した音と、永琳の断末魔にも似た悲鳴が共鳴し、辺りに木霊し空間を満たした。
スペルの弾丸は命中すると炸裂し周囲に弾幕を撒き散らし、オモイカネを木っ端微塵に打ち砕いた。
「……ああっ……そん……な……」
目の前の光景が信じられないように、充血した瞳を命一杯広げたまま、永琳は打ちひしがれたように力なく倒れ込んだ。その瞳から涙が流れていることすら、永琳は気がつかない。
「……か、勝ったの? 私たち……師匠に勝ったの?」
「間一髪ってとこだけどね。勝ちには違いない」
延々と続いていた緊張が解けて、優曇華はホッと息を吐いた。その拍子に膝から力が抜け、ペタンと床に座り込んだ。そんな優曇華に親指などを立て、てゐは杵を肩に担ぎヤレヤレと言った顔で額の汗を拭う。
「……で、これがどういうことだったのかってこと、説明はあるんだろうな?」
妹紅は腕を組み、まだ納得がいかないというようなしかめっ面を浮かべ、永琳の側に佇む輝夜に尋ねていた。
「……ああ、後でたっぷり説明してあげるから、今はちょっと……休ませ……」
疲れ切った表情でうんさりしたように答えた輝夜だったが、言葉の途中で何かに気がつき、頭上を見上げた。そしてそこで言葉を失った。天を見上げたまま固まった輝夜に、永琳を除く全員が空を見上げた。そして同じように、目の前に広がる光景に息を飲んだ。
頭上からキラキラと輝く何かが、静かに降り注いでいたからである。
「……こいつは、まるで……」
「……光る雪だね……」
「……綺麗ですねぇ」
それは破壊されたオモイカネの破片である。月の物質で作られたオモイカネは蛍火のように瞬き、色ガラスのように夢幻に輝き、薄暗い空間に降り注いでいた。
「……永琳の煩悩が……浄化されていくわ……」
輝く欠片を掌にのせ、輝夜が呟いた。しばしその夢幻の光景に心を奪われていたが、ゆっくりと自分の足元で打ちひしがれている永琳を見下ろす。
「さて永琳。貴女の大切なデータはこれでなくなった。勝負は私たちの勝ちね」
勝者の優越も敗者への侮蔑もなく、輝夜はただ淡々と事実を告げた。ただ当の永琳の耳にはどうやら届かなかったらしい。輝夜の声に答えることなく、永琳は虚ろな瞳で降り積もるオモイカネの欠片を見て、何かに堪えるように呻いた。
「……ううっ。月の監視システムを作り変えてまで集めた私のコレクションが……」
「……ちょっ!? そんなことまでしてたの?」
「……相変わらず恐ろしい人だ……」
輝夜と優曇華が顔を引きつらせて、身を引いた。
跪き天を仰いでいた永琳は、その姿を保つ力すらなくなったようにゴロリと大の字に横たわった。全身にオモイカネの欠片を浴びながら、自嘲気味な笑みを浮べる。
「悠久にわたる私の努力と脳内物質の迸りと姫様キャッキャウフフの全てが水の泡……フフッ……私の負け……完敗ですよ、姫……さあ、私に止めを刺すなり、ご自由になさってください」
「……いや、永琳、殺してもしなないでしょうに」
輝夜は呆れたように顔の前で手を振り、
「……といいますか、悠久としか表現できないような時間単位で、そんなもの結晶させないでください」
優曇華はそんな風にツッコむしかできなかった。
「まあ、今日の騒動も、いい思い出になる日が来るよ。あそこにあった記憶と同じように。ね、鈴仙?」
悲しそうに自らの師匠を見ていた優曇華の腕に、てゐが飛びついた。まるで自分の内にあるものが見えているかのような澄んだ瞳に、優曇華が力強く頷いた。
「……そう、そうね。きっとそうですよ、師匠。思い出は色褪せず、今も師匠の心の内にあるんですよ。そして今日のことも、きっと」
言って優曇華は微笑んだ。それは優しさと強さを併せ持った笑みだった。その笑みは、少しだけ彼女の主や師匠に似ていた。
その隣で、
「あそこにあった画像みたいなのは、早い段階で色褪せて欲しいんだけどね」
と輝夜が呟いた。
「これっていい思い出なのかぁ?」
妹紅もそう呟き首を傾げたが、二人とも綺麗にこの場をまとめようとする空気を読んで、それ以上そのことを主張することはなかった。
そんなこんなの騒動があった次の日。
ナースカフェ「ウサギの病院」は、突然閉店した。
しかしさしたる混乱もなかった。ただし永遠亭には、である。そもそも店に来るためには、妖怪ウサギたちか妹紅の先導でもなければ、永遠亭まで辿り着くことすら難しい。その先導がなくなってしまえば、普通の人間が永遠亭に辿り着くことなどできない。おかげで竹林警備の任に戻った妹紅の仕事が当分の間多忙を極めることとなったのだが、それは永遠亭の住人にとってはどうでもよいことであった。
それはある日のいつもの永遠亭での事。ただいつもと違うことは、そこに輝夜の側に控えているべき永琳の姿が見えないということだけの、特になんでもない日の事である。
座敷にいるのは二人。しどけなく足を投げ出し、開け放した襖から庭を駆け回るてゐと妖怪ウサギたちの姿を観察する輝夜と、その側でどこかオドオドとした様子で畏まって正座する優曇華である。
「姫様。師匠、部屋から出てきません。……あの、その、大丈夫でしょうか? 昨日あんなことがあったから、寝込んでるんでしょうか? ……も、もしかしたら、声が無いので襖を開けてみたら、桟からブラブラとか!」
変な想像をして一人で頭を抱えて顔色を変える優曇華に、輝夜は呆れたような顔で面倒臭そうに答える。
「そんなのわかるわけないじゃない。それに昨日のことは永琳の自業自得でしょ? 首を吊りたきゃ吊ればいいわ。どうせ死ねない者の現実逃避でしかないんだから」
「し、しかし、とはいえ、あれは師匠のとても大事なものだったみたいですし」
どこか突き放したような輝夜の言に、優曇華が反発を覚えたように少し顔を曇らせた。ただ輝夜の機嫌を損ねないようにと、そろりそろりと言う。
輝夜は優曇華の言うことも尤もだと考えたらしく、一つ頷いた。そして妖怪ウサギたちのメチャクチャなダンスを見ながら言う。
「まあ、費やした悠久に等しい時間が無に帰したんだし、今日ぐらいはゆっくりしててもいいじゃない。それに……」
「それに?」
優曇華が尋ねた。顔は庭に向けたまま、輝夜は口元に笑みを浮かべた。
「私たちには使いきれないほどの時間があるんだもの。あの程度の記録なんか、あっという間に超えてしまうわよ。それこそオモイカネなんに収めきれないくらいの、ね」
優曇華は一瞬驚いたようにポカンと口を開けていたが、直ぐにコクコクと何度も頷いたのだった。
同日同刻。
薄暗い何処とも知れぬ部屋に、月の頭脳、八意永琳はいた。
永琳の前には、何時ぞやと同じように薄緑色に輝く仮想ディスプレイの海が広がっていた。そこに記録されている映像は、昨日まで営業していたナースカフェでの全記録に加え、何時も間に撮影していたのか、昨日の騒動の記録すらそこにあった。只管あちらこちらを駆け回る優曇華の姿や、果敢に杵を振るうてゐの姿、そして丈の短いナース服姿で颯爽と登場する妹紅の姿などがその中にあった。
そしてその前で、永琳は頬杖を突きウットリとした表情で拡大した一枚の画像に見入っていた。
「……はあぁ」
そしておもむろに溜息を吐く。
「……いい。いいわぁ、これ。これは今までで最高の作品ねぇ。……やっぱりこれ、壁紙にしときましょう」
そう一人ごちると、永琳はイソイソとコンソールを弄り始めた。
永琳の目の前のディスプレイ。そこには煌くオモイカネの破片の中で、凛とした表情で天を見上げる輝夜の姿があった。万華鏡のように瞬き煌く雪の中、毅然と顎を上げ優しげな瞳に少しの憂いを込めた輝夜の姿は儚さと力強さを併せ持ち、神々しくさえあった。
そう、今日、永琳が永遠亭に姿を見せなかったのは、この画像に時間を忘れて見入っていたらからである。恐らく放っておけば、何時まででもこの画像の前であれやこれやと妄想を逞しくしていたことであろう。それこそ永遠に。
その画像をオモイカネのメインディスプレイの壁紙に設定し終わると、そこで一応の満足がいったらしい、永琳は一つ満足そうに頷いた。
「……フフッ。抜かりはないわ。全てのデータ、そして新たなコレクションは全てオモイカネⅡにバックアップをとってあるのですから。あの程度の演技でコレクションが増えるのならば、安いものよ。さぁて、次はどんなのをコレクションしようかしらん」
そう言って永琳は嗤う。まるで煩悩地獄に住む魔王のように。
そう、昨日破壊されたオモイカネの中に収められた全てのデータ、特にコレクションの類は、全てもう一つのオモイカネ――オモイカネⅡ――にバックアップを取られていたのである。最初から最後まで永琳の掌の上で踊らされていたことを、輝夜たちは知らない。そしてこれからも知ることもないだろう。
「……ウフ……ウフフフ……フフフッ、アッハハハハハ」
己の妄想の城で、主たる永琳の哄笑が響き渡る。それはまるで次の煩悩地獄の始まりを告げる鐘の音にも似ていた。
前編でも書きましたが、名前ぐらいは(ry しかも一箇所だけではないようですね。
推敲忘れか純粋に知らないだけなのか。どっちにしろ減点要素だとは思いますが。
あとスペカ名は 符名「カード名」 だから『』の場所変えたほうが良いのでは?
内容だけなら70点つけたいんですけど……と言っときます。
ご馳走様でした
えーりんが崩れるのも、たまにはいいな
あと、輝夜の足を舐めてたのは俺だと思う
勝手に出すなよ照れるぜ
ひめさまったら、結びのシーンでなんといううっかりさん。
(あ、評価点は匿名評価基準です)
隅っこで叫んでるうどんげが妙に可愛かったっす
いやはや面白い読み物でした
しかし妹紅とのアレやコレと言ってますが
この作品での輝夜は妹紅とどんな関係なんでしょうかね。というか二股?