「退屈だわ。何か面白い事は無いのかしら」
比那名居天子は呟いた。
ここは天界。生物が生きる為に本来必要とされる労苦の悉くが免除された世界。朝起きては酒を呑んで歌い、昼になっては桃を食んで踊り、そうして夜には桃を肴に酒を呑みながら眠くなるまで歌い踊る、そんな毎日が許された楽園。
けれども言い換えてみれば、それしか無いと言うだけ。そんな場所でもある。激しい喜びは要らない、その代わり深い絶望も無い、植物の心の様な人生を、そんな平穏な生活こそを目標とする様な人間にとっては、天界は正に理想郷とも言えるのだろう。
だが、実年齢はともかく肉体年齢は、そして、少々特殊な経緯によって天人となったが故に精神年齢も、若く、或いは幼いとすら言える天子にとって、自身の置かれているこの日々は退屈以外の何物でもなかった。
平らなのである。余りにも平らで、浮き沈みのない天人の生活。生活の苦労は無い。代わりに娯楽も殆ど無い。
そんな天界に於ける数少ない娯楽の一つに、定期的にお迎えに来る死神との戦い、というものがある。こればかりはそれこそ命が懸かっている為、普段の生活では決して味わえない緊張感と興奮を得る事が出来る。
が、そのお楽しみの提供者である死神すら、ここ最近は天子の顔を見た瞬間に溜め息一つ、そうして適当に二言三言を投げかけたら、後はさっさと帰ってしまう、と、そんな風になっていた。
自分の余りの強さに恐れをなして戦意を喪失してしまったに違いない。天子は無い胸を張る。私ってば最強ね。
絶対可憐、だから負けない。そんな自分を誇らしく思う彼女ではあったが、しかしそのせいで数少ない娯楽をすら娯楽として楽しめない有様に陥ってしまっている。お蔭でもう、本当にどうしようも無く、天界での暮らしが退屈なものとなっていた。
変わって、地上を覗いてみる。
そこでは妖怪達が何かしらの異変を起こし、それを巫女達が解決するという、そんな面白そうな遊びが度々に行われていた。そうした大規模な異変解決ごっこが無い時でも、ちょっとした弾幕ごっこなら日常茶飯事で繰り返されている。何て刺激的。何て羨ましい生活。
自分も昔はこんなだったのに。地上にいた頃は、友達と一緒に毎日遊んで。天子は溜め息をついた。
尤も、本当に自分の過去がその様なものであったのかともし問われたのならば、実際、天子ははっきりとした答えを持ち合わせてはいない。何せ、ずっと昔の話。それこそ何年も、何十年も、何百年も昔の話。はっきりとした思い出なんて言うものはもう全く、何一つ残ってはいなかった。
けれども、それでも尚、天子には自信が有った。根拠は無い。だが、心の奥底の方に確かな想い、かつて自分が地上での生活を愉しんでいたという感覚が残っていた。それは間違い無かった。
雲上に有る天界から濃い蒼色の空を眺め、天子は大の字になって倒れ込む。眠い訳ではない。だが、起きていても他にやる事も無いのだから仕方が無い。それにもしかすると、眼を閉じ眠りに落ちれば、夢の中で何か面白い体験の一つでも出来るかも知れない。
そんな、夢をすら娯楽の一つとして勘定しなければならない己が置かれた状況の貧困さに、自嘲気味な笑いまで浮かんできた。
「あーああ、退屈だなあ」
天子は溜め息と共にそう漏らした。
◆
“夏去りて”
「あーああ、退屈だなあ」
私は溜め息と共にそう漏らした。
眼が薄い膜でもかかったみたい、しょぼしょぼする。頭や耳も何だか、柔らかい綿でも詰み込まれてるかの様にはっきりしない。どうも私、ちょっと眠っていた様だ。
辺りを見回してみる。すぐ近くには川の流れ。川面から流れる風が運ぶ涼しげな空気。今日一番の高さまで登り、強い光を放つ太陽。その光を優しく遮る、緑を携えた沢山の木々。みんみんじーじーと、五月蝿い蝉達の声。
そうだ。ここは、比那名居のお屋敷から少し離れた森の中。川の畔、僅かに木々が開けて空を覗ける、ちょっとした広場の様になっている所。私のお気に入りの場所。
私は、そう、朝のお勉強が面倒になって、外で遊んで来るって、そう言っていつもの通り、ここに来たんだ。
尤も、遊びにって、そうは言って出たものの、実際、なぁんにもする事は無いんだけど。たった一人じゃあ、何をやっても面白くもないし。
比那名居のお屋敷は里から離れた山の麓に在り、滅多には家の者以外の人間と顔を合わせる事は無い。だから、里の子供と遊ぶ事も出来ない。まあ、例え顔を合わせたとして、畏れ多いからって、そう言って距離をとられるのが常なんだけど。
お屋敷にいる人間は、一部を除いて殆どが比那名居一族の者。要は近くから遠っくまで大人数の親戚縁者が寄り集まって暮らしてる訳なんだけれども、みんな大人ばかりで、子供は私だけ。兄弟姉妹も居ない。
そう、私には遊び友達なんて者が誰一人いないのだ。
勿論、大人相手に一緒に遊んでって、そう頼む事は出来る。
でも、お母様は私が生まれてすぐ、物心付く前に死んでしまってもう居ないし、遺されたお父様は比那名居の当主として仕事に忙しく、私に構ってられる時間なんて殆ど無い。まあ、仕方ない。
それ以外の大人達は、頼めば大概は相手をしてくれるけど、でも、大の大人が私みたいな子供に遠慮したり、て言うかはっきり言って怯えてたり、そんな様子が丸わかりなものだから遊んでいても楽しくない。まあ、立場とか力関係ってのがあるんだしね。これも仕方ない。
仕方ないから私は、こうして一人、お気に入りの場所で惰眠を貪る位しかする事が無いのだ。夏だって言うのに。何て勿体無い。
「おおーい」
蝉時雨に混じって、遠くから声が聞こえた。
「おおーっい」
声はおそらく、私にかけられているものだろう。他にはここ、誰も居ないし。
「おおーっい!」
声は次第に大きく、近くなってくる。でも、私は応えない。
「ぅおおーっい!」
だって私は、大居でも大飯でもない。私は、私の名前は。
「って返事くらいしろっての!」
瞬間、世界が上下に揺れた。それから暗くなっていく視界。さっき眼を覚ましたばっかりの私の意識は、またすぐに暗い所に落ちていって。
1.夏が来たりて
「ごめん。本っ当に、申し訳ない」
そう言って深く頭を下げる目の前の女の子。
「何度呼んでも返事が無いからつい。いや本当、思いっ切り軽く、力加減はした心算だったんだけど」
「返事って、それは返事も出来ませんよ」
後頭部をさすりながら私は応える。
「おおい、ではないんですから。私の名前は」
こぶは出来てない。でも、まだちょっとずきずきする。
「っと、こりゃ失礼」
私の言葉に反応して、また頭を垂れる女の子。
「ごめんね、地子」
さっき子供は私一人だけって言ったけど、そう言えばもう一人だけ居た。ほんの数日前から、比那名居のお屋敷に泊まっているこの子が。
彼女の名はシュテン。長かった梅雨も明けたある日、私の家にやって来た。はっきりと歳を聞いた訳ではないけど、背格好からして多分私と同じ位。十かそこらと言った所だろう。
彼女はお母さん、ううん、違うか、お母さんって言うにはかなり若いし、お姉さん、そう、お姉さんと二人だった。何でも以前は都の近くに住んでいたそうなのだが、訳あってそこを追われ、仲間達とも離れ離れになり、そうして二人だけになった後は、あちらこちらを旅して流れていると言う。うちにも、暫くの間世話になりたいと、そう言ってやって来たのだった。
二人が来た時、私は二つの事で驚いた。
一つは、比那名居のお屋敷に宿を頼むという、その行為自体。私が言うのもなんだけど、比那名居の家はいわゆる名家。それも、普通の名家ではない。地震除災を担う天人、大村守様からこの地の一帯を任されている名居の方々。その名居様に遣え、地震を鎮める要石を護る神官をしているのが、私達比那名居の一族なのだ。
それだけの格を持つ家、しかも一番近くの里からでも半日はかかる程に離れているというこの屋敷に、旅の者がわざわざに、何の臆面も無く宿を頼んでくる。それも一晩、ではなく、暫くの間、と。私は吃驚した。よくそれだけの事が言えるものだな、と。
でももっと驚いたのは、そんな何処の馬の骨とも知れない旅人の頼みを、お父様があっさりと受諾した、という事だった。それも蔵に押し込めたり使用人の雑居部屋に入れたり、ではなく、御客人用の立派な部屋を与えて。こんなの、普通に考えてちょっと有り得ない事だと思う。
彼女ら二人は泊めてもらうお礼と言って、掃除や荷物運び、その他色々なお屋敷内での仕事を手伝ってくれている。二人とも手際は良いし、それにとっても力持ち。初めの頃は不審の目を送っていたお屋敷の皆も、今では二人の存在を有り難く思っている。けれども、それにしたってお父様が用意した待遇は良過ぎると思う。
何でだろう。彼女達が異国の人だから、珍しいから、とか、そういう事なのかしら。
そう、二人は私達とは違う国の人だった。まあ、別に本人達がそういう風に言った訳ではないのだけど、でも私には判った。
だって先ず名前。シュテン、なんてそんな変な名前、他では全然聞いた事が無い。
次に見た目。髪や瞳の色が、私達の様な黒じゃない。シュテンの髪と瞳はもっと薄い、茶色か、亜麻色って感じ。お姉さんに至ってはもっと薄くて、殆ど金色の髪。しかも瞳は真っ赤。私達と全然違う。加えて、いっつも変な帽子を被っている。いや、帽子と言っても、布を無造作に巻きつけただけって感じで、やけに背高のっぽな見場の悪い物。それでもまあ、お姉さんのはまだ細いから良いものの、シュテンの被ってる物は横幅が異様に広く、高さもあるのだから非常に目立つ。彼女自身の背が低いから尚更だ。こんな変な格好、絶対にこの国の人のものじゃない。
でも、名前よりも見た目よりも、もっとはっきりと、彼女達が私達と違うって、それが判るものがあった。
それは、二人の纏っている空気の色。あ、色って言うか、まあ、空気の質と言うか、兎に角そんな感じのもの。
私達比那名居の人間は特別な力を持っており、里に住んでいる普通の人達とは違った空気の色を持つ。そうしてシュテン達二人は、そんな比那名居のものともまた違った、全く別の質を持つ空気を纏っていた。
だから私には判るのだ。彼女達は私達とは別の国の人間だって。
「何よ地子。じろじろと見て」
訝しむ風のシュテンの声。言われて何故か、急に恥ずかしくなって。
「へ。
や、あ、いえ、別に」
思わず妙に甲高い声で変な返事が出てしまった。うわ、格好悪い。
ま、と、兎に角。そうして比那名居の家に御客人として滞在する事になった二人。うちシュテンは、多分、歳が近いからって事だからだろう、こうして地子、地子って、よく私に声をかけてきて。
って。
「そう。地子って言いますよね。貴方は。私の事」
何処からともなくやって来た旅の人間が、お世話になってる家、それも名家の娘に対して、初対面の時からずっと、平気な顔で名前を呼び捨て。
これ、結構すごいなあって思う。ずいぶん気安いというか。度胸あるというか。異国の人って、皆こうなのかしら。そう言えば彼女、それからお姉さんも、お父様に対してだって敬語を使わないし。
「あれ。総領娘様って、そう呼んだ方が良かったかしら。家の人間に倣って」
「いえ。別に構いませんが。地子で」
そう。別に私は面白いなって思うだけで、失礼だな、不愉快だなとは思ってない。少しも。
と言うより本音を言えば、総領娘様なんて呼ばれるより、こっちの方がずっと良い。嫌いなのよ、総領娘様って言葉。これを聞くと、子供の私に向かって何も言えずに、ただ情け無い笑いを浮かべるしか出来ない大人達の顔が思い出されて。
「そう言やさ。総領娘って、一番上の娘って意味だよね。
居たっけ。地子に弟とか妹。見た事ないんだけど」
「居ませんよ。比那名居本家の子は、私一人ですから」
私自身に余りそういった意識は無いのだが、どうもお父様や周りの大人達が言うには、私は歴代比那名居の人間の中でも特に大きな力を持って生まれた、らしい。さっきも言った、人の空気の色を見る事、それも、本当なら素質を持った者がそれなりの修行を積んで、って、そうしなければ出来ない様な特殊な事なのだそうだ。私から言わせれば、別に、普通に見れば普通に判る事だと思うんだけど。
まあ兎も角、そんな私を見て周りは、尊敬の念と期待、それから多分、少しの畏れを持って、一人娘である私をわざわざ、比那名居の跡取り娘、総領娘って、そう呼ぶのだ。地子って、名前で呼ばれる事なんて殆ど無い。
いや、そりゃまあ勿論、お父様は呼ぶわよ。私の事。地子って。
でも大概はその前後に、総領娘なんだから、とか、総領娘として、とか、結局は総領娘って単語が付いて回る。正直、鬱陶しくて仕方ない。
ま、どうでも良いんだけどね。そんな事は。言っても仕方ない事だし。だから一々口に出しても言わないし。こうして心の中で愚痴るだけ。それより。
「何か御用ですか、シュテンさん」
「御用って言うか、まあ、御用も無いんだけど。散歩してたら見かけたんで、それで声かけただけだし。
ってかさ。シュテンさんって、どうも堅苦しいなあ。私は客分、あんたはお屋敷のお嬢様。さん付けもしなくたって」
「そうはまいりません」
お屋敷のお嬢様だからよ。だから御客人相手に上品に、おしとやかに振る舞うのよ。何せ総領娘様なんだし。
「ま、いっか。ああそれより、お腹すいたなあ」
そう言って手を当てたシュテンのお腹から、もの凄い勢いで虫の音が聞こえてきた。いや、ちょっとは隠そうよ、女の子なんだし。もしくは恥ずかしがろうよ、少しは。あと話題が急転換し過ぎ。いきなりそれまで話の流れを切って、何の脈絡も無く。
まあ、それだけお腹が空いて仕方ないって事なんだろうけど。だったら。
「お屋敷に戻りましょう。そこで昼食に」
「うにゃ。良いよ、ここで」
ここでって。お弁当か何かを持って来てるって、そんな風でもないんだけど。シュテンが携えてるのは、いつも肌身離さず持ってる瓢箪、それだけ。
不思議に思う私の前で、シュテンは履物を脱ぎ、そうして裸足になって川の流れへと足を踏み入れる。
「地子は適当な枝やら何やらを集めといて。あ、湿ってるのは駄目よ」
ああ。何だか判ってきた。シュテンが何をする心算か。でも彼女、釣り竿だの何だのの、道具の一つ持たないで、どうやって。
「ってふぇ」
私の口から変な音が漏れた。
や、だって、吃驚したんだもん。だから思わず。
私の目の前、て言うか足元に、突然、お魚が現れた。結構大き目の鮎。それが、びちびちと身をよじらせて水を飛ばしてくる。
「よっ」
シュテンの声が聞こえた。その直後。
「わひゃ」
私はまたもや変な声を出してしまった。鮎が二匹に増えている。
て言うか。
「す、ごい」
思わず感嘆の声が漏れる。うん凄い。素直に凄い。
川の流れに両足を突き立てているシュテンが、水面を掠める様に、それこそ文字通り目にも止まらぬ速さで腕を振るう。その度に私の目の前、どんどんと鮎が積まれていく。
何の道具も使わず、素手でこんな。
本当に凄い。流石は異国の人だ。
◆
「やー、食った食った」
言ってシュテンは満足げにお腹を叩いた。そりゃそうよね。二十本以上は食べてたもん、鮎の串焼き。それもあっと言う間。同じ時間で私、二本しか食べられてないし。魚の取り方もそうだけど、食べっぷりもまた豪快で凄いなあ。
凄いと言えば、そう、魚を焼く為に火をつける、その方法も凄かった。火打ちも何も持って来てはいないのだし、どうやって火を起こすのだろうと見ていれば、何と彼女、くいと一つ、瓢箪に口をつけ、それから勢い良く火を噴き出したのだ。吃驚して危うく、私を腰を抜かす所だった。
そう言えば以前、お祭りにやって来た芸人さんが同じような事をしたのを見た記憶が有る。そっか、シュテンって、旅の芸人さんだったのか。
食事を終えると今度は、瓢箪を口につけて逆しまにし、ごくごくと美味しそうに音を立ててお酒を呑んでいる。またこれ、子供なのに随分と。
いや、そりゃまあ、子供がお酒を呑んじゃいけないって、そんな決まりは無いけどさ。て言うか、私も儀式や宴の時は呑むし。でもそれは少量。小さい内からあんまり沢山呑むと身体に良くないって、そうお父様に言われてるから。
そもそもそれ以前、正直言えば、私、お酒って好きじゃないし。変な臭いがするし、苦いし、呑んだ後は気持ち悪くなるし。まるでお薬みたい。何で大人はこんな物を、あんな美味しそうに呑めるんだろう。ある意味、凄いと思う。
ま、こんな事、口に出しては言わないけどさ。子供だなって、そう思われるのも癪だし。
「いやあ、鮎を肴に酒を呑むと、こう、夏だなあって感じがして良いわねえ。串焼きだけじゃなくて背越しも出来りゃ尚良かったけど、ま、あんまり繊細な料理ってのも得意じゃないしねえ」
上機嫌な赤ら顔で豪快に笑って、素直に夏の楽しさを謳うシュテン。
でも、私は。
「ん。どうかしたの、地子」
ほんの少しに暗さを見せた私の気持ち。それが面に出てしまっていたのだろうか。シュテンが私の顔を覗き込んできた。
「まだ食べ足りないの。だったらもっと捕ってきて」
「いえ、そうではなくて。その。
シュテンさんは夏が好きなんだなあって、そう思いまして」
「好きだよ。夏に呑む酒は美味いし」
秋の酒も冬の酒も、それに春の酒も美味いけどね。言ってシュテンは笑う。
「て言うかさ、地子は夏、好きじゃないの」
私は。私はそう、好きか嫌いかと問われれば。
「余り、好きではないのかもかも知れませんね」
「そっかあ。地子は暑いの苦手なんだ。日にも焼けちゃうしね。綺麗な白い肌してんのに」
「あ、いえ、そうではなくて。
夏の暑さや、日の光、それ自体はとても素敵で、良いものだなって思うんですが」
夏。一年の中で最も暑く、眩しい季節。
その熱と光は、言うなれば生命の放つ尊い輝きそのもの。それが一番に強く、激しく動く季節。それが夏。
けれども。
空を見上げる。正午を過ぎたお日様は、先ほど見た時よりもほんの僅かだけ、でも確実に、西に向かって落ちてきている。
そう、一番の高さまで登り詰めてしまったものは、もうその後に落ちていく以外の道を持たないのだ。夏という季節も、また。
「どれだけ熱く、強く輝いても、それには必ず終わりがやって来る。やがては秋に落ちゆき、そうして冬に埋もれる。
夏になると私、そんな事が頭に浮かんじゃって、それがどうにも切なくて。だから夏ってあんまり、好きじゃないんです」
「ふうん」
一声だけを発して、そうしてシュテンは黙り込む。
川のせせらぎと蝉の声が聞こえる中、二人とも押し黙ったまま。
って。
いやちょっと、やだ、何この空気。ちょっとやだ、こういう、変に湿った暗い感じ。
「そうだ、シュテンさん」
私は大袈裟に手を叩き、わざとらしい位の明るく元気な声を出して言った。
「明日のお昼、ここで待っていてもらえませんか。ちょっと、面白いものをお見せしたいので」
「ああ、良いよ。面白いものか。それは楽しみだね」
明るい笑顔を返してくれたシュテン。
さて、と。今日は彼女に驚かされっぱなし、ここでそのままっていうのも少々腹に据えかねる。だから明日は、私がシュテンを驚かしてやろう。
楽しみにしててね、シュテン。きっと、絶対に吃驚するから。
◆
「お待たせしました」
「ん。んんう、ああ」
私の声に反応して、目をこすりながらゆっくりと起き上がるシュテン。
「ごめんなさい。随分と長い時間を待たせてしまったみたいで」
「んにゃ。そうでもない、と思うよ。多分。着いてすぐ寝ちゃったから、どれくらい経ったかとかさっぱりだし」
そう言って、んんっと身体を伸ばす。
「て言うかさ。今更ながらに思ったんだけど、別にここで待ち合わせなくても屋敷から一緒に出て来れば良かったんじゃないのかしら」
シュテンの言う事はもっとも。でも今回は、彼女を驚かす為の、その準備をするのに一人の方が身軽で都合が良かったから、それで先に一人で行ってもらったのだ。
「ま、それはそれとして。
地子、あんたが昨日言ってた面白い物って、もしかして」
そう言ってシュテンは、私が持って来た細長い木箱を指す。
「この気配、まさか、それ」
彼女の顔から笑みが薄れ、代わりに険しさの色が出てくる。うんうん。いい反応、いい反応。
「そうです。これが」
そうして私は木箱の封を解き、わざとらしく、勿体つけてゆっくりと、その蓋を開いた。
少しずつ姿を見せるのは、一振りの剣。
「これは」
「緋想の剣か!」
私の言葉を遮ってシュテンが大声を上げた。その声、その顔、はっきりと驚愕の色が現れてて、それはしてやったり、とっても喜ばしいのだけど。
正直、驚いたのは私もだった。彼女がこの剣を知っているという、その事に。
この剣。大概の祭祀用の物と同じく、普通の人が持っても大根一つまともに切れない、単なる飾りみたいな剣なんだけど。
これ実は、天界の道具なのである。名居様を通じて、天人である大村守様が比那名居一族に授けて下さった神宝なのである。
「地子。あんた、これ、こんなの、子供が外に持ち出して、部外者に簡単に見せて良い物でもないだろうに」
シュテンが緋想の剣を知っていたのには驚いたけど、それはそれで都合が良いのかも知れない。目を丸くしてる彼女の顔を見てると、そんな風に思えてきた。これの価値を知っている方が当然、驚きも大きくなる訳なんだし。
「大丈夫ですよ。私これ、ちょっとだけですけど扱う事、出来ますし」
緋想の剣は天界の道具。本来は天人しか使う事は出来ない。地上人で扱えるのは比那名居本家筋の人間のみ。それもお父様の様に長い間修行を積んだ様な人だけだ。
でも私は、生まれ持ったと言う大きな力のお蔭だろう、僅かに、ではあるが、ちゃんとした修行もしていないのにこの剣を使えるのである。自分でも判る。これは本当に、とても凄い事なんだって。
そうして鼻を高くして胸を張る私に向かって、けれどもシュテンは、そうじゃない、と、険しい顔で首を振った。
「使えるかどうかなんて聞いてない。持ち出して良いのかって、そう言ってるの」
「だから大丈夫ですって。実際これ、こうして持ち出すの、今回が初めてではないんですし」
そう。これが初めてではない。今迄にも何回も、私はこの剣を持ち出しては振り回している。
勿論、真正面から触らせてくれって、そう頼んでもお父様がうんと肯く筈もないから、黙って、勝手に持ち出しているのだが。
でも緋想の剣はお父様の部屋、祭壇に祀られていて、そこから木箱ごと持ち出してるのだから、当然お父様が気付いてない筈が無い。て言うか実際、これを持って歩いてる所、振り回してる所、何度も家の人間に見られている。でも、誰も何も言わない。見て見ぬ振り。
それはつまり、黙認って事でしょ。別に何しても構わないって、そういう事だから何も言わないんでしょ。
だから私がこれを持ち出しても、別に何の問題も無い。大丈夫なのよ。
「いいですか。見てて下さいね」
緋想の剣は物を斬る剣ではない。人の纏う空気を斬る剣なのである。
詳しい仕組みはよく知らない。一応、ちゃんと教わってはいるんだけど、お勉強は面倒だからって、あんまり聞いてなかったし。
でも取りあえずの使い方は判る。私は両手で柄を握り、そうして力を込める。途端、剣から噴き出す緋色の煙。
この緋色の煙は、人の持つ空気が剣の力によって、誰にでも見える位にはっきりとした形を持たされた物。実は今朝、剣を持ち出した後、下準備として予めお屋敷の人間から空気を集めて溜めておいたのだ。
どんどんと噴き出てくる煙は天に昇ってゆき、やがて緋色の小さな雲を形作る。これで準備は完了。ここまでやったのは今日が初めてだけど、うん、巧くいった。流石、私ってば天才ね。
後は、緋想の剣を大地に突き立てれば。
「何考えてんだ!」
剣先を下に構え、今にも地面に突き刺そうとしていた私の手を、シュテンの大きな声が止めた。
「そんな事して、どうなるか判って」
「判ってますよ。地震が起きるんですよね」
天の気を以って大地を揺るがす。これが緋想の剣の、ううん、もっと正確に言えば、緋想の剣を持った比那名居の力。天災をすら意のままとするこの力、これはもう人のものじゃない。神様にだって届く位の力なんじゃないかって、そんな風に思えて興奮して、胸の鼓動が速くなる。
「判ってるって、地子、こんな所で地震なんか起こしたら、ここら一帯、下手したらあんたの家だって土砂に」
「大丈夫ですってば。大丈夫」
そう、大丈夫。
ここまでやって、でも大人達は誰一人、私に何も言いはしない。大人が何も言わないって事は、つまりはそれはやっても良いんだって、そういう事なんでしょ。
だから大丈夫。大丈夫なのよ。
「いきますよ」
私は緋想の剣を大地に突き刺した。
それとほぼ同時。
「いい加減っ」
シュテンがその拳を大地に叩きつけた。
どくん、と、まるで生き物の様、大地が大きく脈を打った。
「あれ」
でも、それだけ。
そこから先は何も起こらない。ほんの一瞬目を醒ましただけで、大地は再び眠りについてしまったみたいだ。
「あら。失敗、してしまったみたいですね」
そう言って私は笑う。仕方ないか。これだけの事、初めてでそうそう、巧くもいかないか。
けれども。
「いいや。大成功だったよ」
地面に突き刺した拳をゆっくりと引き抜きながら、シュテンはそう言って首を振った。
「本気の拳骨なんて、ったく、一体どれ位ぶりか」
言いながらゆっくりと肩を回す。ようく見ると彼女の額、うっすらと汗がにじんでいた。少しだけど息も上がっているみたい。初めてだ、シュテンのこんな姿を見るの。
「どういう事ですか」
言葉の意味が判らずに首を傾げる私に向かって、シュテンはゆっくりと歩み寄りながら言った。
「あんたが萃めた緋想の気は、局地的な大地震を起こすには充分な量と力とを持って大地に注ぎ込まれた。
私の気を打ち込んで相殺しなければ、きっと今頃は」
相殺したって。それってつまり、シュテンは拳骨一発で、私の起こした地震を止めちゃったって、そういう事?
「凄い。凄いです、シュテンさん!」
悔しくはなかった。むしろ、嬉しかった。とても。本当にとても。
だってシュテンは、私と同じなのだ。私と同じ、とてつもなく大きな力を持った子供。彼女ならきっと、私の事を全て、判ってくれるに違いない。彼女ならきっと、私の初めての。
目の前まで迫って来たシュテンに、興奮を抑えきれぬまま私は声をかけた。
「ねえ、シュテンさん。私と」
言葉は、そこで途切れた。
軽く、そして乾いた音。ほんの僅かに揺れる視界。何が起こったのか、一瞬、理解できなかった。
少し遅れて、ゆっくりと頬に感じられてくる熱さ。そうして気付いた。
私、叩かれたんだ。シュテンに。
「謝って、下さい」
最初に出たのはそんな言葉。小さな声、少し震えている。鼻の奥がからじわりと出てくる湿った感触、それを抑えようとしたせいだ。
「やだね」
シュテンは頷かない。
「何で、ですか。昨日は、ぶった時、謝ったじゃ、ないですか」
言葉の所々が吐く息によって遮られる。何度も呼吸をして、何とか心を落ち着かせようとする。
「昨日は私が悪かった。だから謝った。
だけどね。今のは地子が悪い。もし私が止めなかったら、多くの命が無駄に失われたんだ。あんただって無事では済まなかった。だから」
「謝って下さいっ」
シュテンの言葉を遮る。難しい話は聞きたくない。聞いてられる程、今の私、余裕が無い。
「嫌だ」
「謝りなさいっ」
語気が強くなる。もう完全に、隠す事も出来ない位に、はっきりと湿った色を含んだ声。
「謝るのは地子の方だ」
「謝れっ!」
ほっぺはもう全然、痛くない。でも駄目。鼻の奥が、目と目の間が、きん、と細く鋭い痛みに強張る。眼にも鼻にも、湿った物が出てきそうになる。
私は我慢する。泣いたら負けだって、そんな気がするんだ。絶対に泣くもんか。
「ったく」
シュテンは頭に手を当てて大きく息を吐いた。
「比那名居の奴等め。特別な子だからと変な気の使い方をするもんだから、こうしてひねくれた餓鬼が出来るんだ」
「餓鬼じゃない! 私はもう十を超えてるんだ、餓鬼なんかじゃないっ」
涙声に加え、上唇に冷たい感触。鼻からの。
でも、まだ涙は出てない。私は、泣いてはいない。
「年齢なんか関係ないね。人に構ってもらえないからって、気を引く為に他者を巻き込んだ自傷行為をするなんてそんな」
乾いた音が、また鳴った。今度途切れたのは、シュテンの言葉。
掌が痛い。頭で考えるより先に、私の掌はシュテンの左頬を叩いていた。
難しい言葉はよく判らない。でも、彼女の言ってる事は絶対間違ってる。こいつに、私の何が判るって言うんだ。構ってもらえないからって、構ってもらいたいからって、そんなんじゃ絶対ない。
頬を流れ落ちる小さな涙。くそう、私、何でこんな事で、こんな奴のせいで、こんな!
「図星突かれて怒ったか」
目の前が真っ赤になった気がした。今度ははっきりと自分の意思で、開いた手の甲をシュテンの右頬に叩き付けた。思いっ切りに。
けれどシュテンは動じない。眉一つ動かさない。しっかりと強く眼を見開いて、そうして私を睨んでくる。
くそう。何でこいつはこんなに強いのよ。何でこんなに確かでいられるのよ!
不意に、額に冷たい感触がした。空を見上げる。
いつの間にか、私が作り上げた緋色の雲は黒く、そうして大きくなっていた。
「気質を使い果たした緋色の雲は、単なる水分の塊になる。もうすぐここらで、ごく局地的な大雨が降るよ」
シュテンの言葉を聞いて私は、すうっと大きく息を吸った。そうして、ゆっくりと吐き出す。
こいつはさっき、私を餓鬼って言った。でもね、そうじゃない。私はもう、子供じゃない。
「帰りますよ」
そう言って手を差し出す。
これが子供なら、もう知らないって、そうして彼女を放っておいて一人で帰ってしまうだろう。でも、私はそんな事はしない。大雨が降るって言うのなら、川の傍であるこんな所、いつまでも居たら危険だからだ。
だから私は、まだ彼女を許した訳じゃないけれど、それでも手を差し伸べてやったんだ。
それなのに。
「話はまだ終わっちゃないだろう」
シュテンはそれを握らなかった。
「地子が自分の非を認めて詫びを入れる。それまで私は、てこでもここを動きゃしないよ」
っこいつ。
人の事を餓鬼扱いしておいて、自分の方がよっぽど餓鬼じゃないか。
「なに意地を張ってるんですか。大雨が降ったら川が氾濫して、ここは水に呑まれるかも知れない。いつまでも居たら危ないんですよっ」
「知った事か」
馬鹿だ。こいつ、凄い馬鹿だ。信じられない。巫山戯るな。
「これは私と地子の勝負だ。地子が逃げるっていうのなら好きにすれば良いさ。でもね、私はあんたが謝るまで、例え天が崩れようと川が溢れようと大地が割れようと、絶対にここから動かない」
「ああ、そうですか!」
巫山戯るな。そんな脅しみたいなこと言って、そうしたら私が謝るとでも思ってるのか。
いいよ、もう。勝手にしな。ずっと動かないって言うんなら、一晩中でもそこに居るがいいさ。増水だけじゃない。夜になればもしかしたら、獣だって妖怪だって出て来るかも知れないのにね。でも、そんなの私が知るもんか。
「さようなら」
シュテンなんか川に呑まれてしまえ。獣に襲われてしまえ。妖怪に攫われてしまえっ!
◆
「あのう、すみません」
雨が屋根を叩く。まるで怒っているみたい、天井が叩き破れるんじゃないかって怖くなる程の音。外はもう、とっくに真っ暗。
私は夕餉の後、シュテンとお姉さんが与えられてる部屋に行った。
暗い部屋の中では一人、お姉さんが座って、小さな紙の上に盛られた塩を摘みながらお酒を呑んでいた。
「シュテンは、居ないんですか」
「居ないね。そう言えば」
お姉さんは応えた。
って、妹が居ないって言うのにこんな、平気な顔でお酒なんか呑んでて。意外だ。この人、結構冷たいんだ。
「心配じゃないんですか」
「別に」
「もしかしたら」
そこで私は、一瞬躊躇って言葉を切った。
「外に、居るのかも。それでも?」
「それでも心配じゃないね」
「こんな酷い雨なのに?」
「こんな酷い雨だけどね。まあ、大丈夫でしょ」
「そんな、いくら何でもそれでは」
「って言うかさあ」
私の言葉に割り込む様にして、お姉さんは細めた目で私を見つめてきた。
「あんた達、昼間一緒に外へ行ったんじゃなかったの」
そう言われてはもう、私は黙るしかなかった。
「喧嘩でもしたか」
「いえ、違います」
いや、やっぱり黙ってられなかった。だってあれ、喧嘩なんかじゃない。
喧嘩両成敗って言葉がある。喧嘩をする人はどっちも悪いんだって。という事はつまり、片方だけが悪くて片方は悪くないのなら、それは喧嘩ではないって事だ。
昼間のは、あれは、悪かったのは。
「失礼しました」
そう言って私は部屋を後にしようとする。
「有難うね。心配してくれて」
不意に、背後から優しい声が聞こえた。
「別に。比那名居の総領娘として、御客人の身にもしもの事があったのなら家の名が傷付くな、と、そう思っただけです」
背中を見せたまま、私はそう応えた。
◆
お屋敷の人間全員に聞いて回った。けれどもやはり、シュテンを見た者は誰も居なかった。
本気でまだ帰って来てないんだ、あの馬鹿。信じられない。
くそう。
私は屋敷を出た。
門番の居る正門にはいかない。裏門も同じく。雨でぐちゃぐちゃになっている庭を走る。目の前に迫る背の高い白い塀。私は右足で地面を蹴って跳ぶ。
「よっ」
掛け声と共に、左足の下に意識を集中させる。
次の瞬間、何もない空間を蹴って、私の身体はもう一段高く跳ぶ。
いつも通りに、簡単あっさりと塀を飛び越える。こんな物、私の前じゃ何の意味も持たないわ。
外は真っ暗。その上、降り続ける強い雨。どっちがどっちかも判らない。それでも私は走り出した。闇の中、多分こっちだろうって、そんな不確かな見当だけを頼りに。
馬鹿な事をしてるなあって、そんな自覚は有った。でも仕方ないじゃない。私が、私が行かなきゃ。
両足の下に力を込める。普通の人ならまともに歩けもしない様な夜の豪雨の中、ほんの僅かに身体を浮かせ、滑る様にして私は走る。
あの馬鹿め。本当、何て巫山戯た迄の頑固。見つけたら兎に角、先ずは一発、拳骨で叩いてやって、それから。
(ほお。こんな所、こんな雨の夜に)
突然に聞こえた声が、私の思考と脚とを止めた。シュテンじゃない。屋敷の誰でもない。初めて聞く声。酷くしゃがれた、聞いててとても心がざらざらしてくる嫌な声。
「その気の質。もしやお前、比那名居の子か」
森の中から姿を現したそいつは、最初、蓑を着けた人間の様にも見えて。でも、とても大きい。お屋敷を護る屈強な兵達の誰よりも。それに、身体だけじゃなく腕も脚も、どこもが毛に覆われてまるで猿か何か。何より、その纏った空気の色。こいつは。
「これは面白い」
気味悪い声で笑いながらゆっくりと上げられる毛むくじゃらの顔。真ん中には大きな目玉一つ。比喩でも何でもない、本当に耳まで裂けた大きな口。豪雨にあって消える事もなく宙に浮いてる幾つもの火の玉が、真っ暗な闇の中から奴の醜悪な姿を照らし出していた。
何て事、こんな。妖怪だ、こいつ!
妖怪を見るのは初めてじゃない。比那名居の一族は特別な力を持ってるから、稀にではあるけど妖怪退治なんかを頼まれる事もあるし、逆に向こうの方から私達を襲って来る事もある。
そうしてその度に、お父様や兵達が奴等をやっつけるのを見てきた。妖怪なんて、特に恐れるものでもないと思ってきた。
でも、今は私一人。
「あっ、はっ」
あんたなんかやっつけてやる。そう言った心算だった。でも私の口から聞こえてきたのは、ただただ空気の漏れる音だけ。
「比那名居の奴等に復讐する機会を伺ってこの地に来たが、何とも運が良い」
言いながらじわじわと近付いて来る。そうか、こいつ、以前にお父様達にやられて、その仕返しに。
「お前を捕らえて人質とすれば、これ簡単に彼奴等を」
元々大して離れてもない。何をする間も無くもう、そいつは私のすぐ前に立っていた。この雨の中で、獣くさい臭いがはっきりと感じられる程に。
それでも私の身体は、未だ固まったまま。
どうすれば良いかは判ってる。比那名居の力で要石を呼び出すんだ。要石は地震を治めるだけでなく、魔を退ける力も持っている。それを呼び出して、そうして思いっ切り叩きつければ良いんだ。そうすればこんな奴、一発で。
「あう、あ、あああ」
判ってる。判ってるのに。意識を集中させなきゃいけないのに。
でも駄目。
初めてなのよ! 一人で妖怪に遭遇したのなんて。こんな間近に迫られたのも!
自分でもはっきり判る。身体が震えて言う事を聞かない。雨に濡れた寒さのせいだけじゃない。
がちがち音を鳴らす歯を、何とか抑えようと、ぐっと力を込めて噛み締めようとするけど、でも駄目。
駄目だ。私、何も出来ない、動けない。このままじゃって、判ってるのに、判ってるのにでも、このままじゃっ!
「そう脅えるな。すぐには喰ったりもせぬ」
下卑た笑い声。ゆっくりと伸ばされる大きな腕。もう私には、目を閉じるしか出来なくて。
真っ暗になった世界の中で。
でも、妖怪の手が私に触れる事はなかった。
大きな音がした。その直後、獣の様な奴の叫び声。それから、少し離れた所でまた大きな音。
何事か。私はゆっくりと目を開いた。
目の前に居た筈の妖怪は、少し離れた大きな木の根元、腹と背中をおさえながら膝を地についていた。
代わりに私の目の前に居たのは。
「ったく」
暗くて、雨が強くて、だからよく見えない。でも間違い無い。
シュテンだ。
「肝心な時に役に立たない。お陰で、まったくもう」
シュテンの言ってる意味は判らない。と言うより、声そのものがちょっと、巧く聞き取れなくなってる気がする。
雨の音が五月蝿いから。でも、それだけじゃなくて。
「こんな所に、まさか、何故」
狼狽した風の妖怪の声。知ってるの? こいつ、シュテンの事。
「いや、そんな事より。
何故邪魔をするか。我ら妖の者が人を襲うはこれ道理であろうにっ」
「そうね。でも私達、今はこの子の家で世話になってるの。その恩義を放る訳にはいかない」
妖怪の吼え声に、けれどもシュテンの言葉は少しも揺るぎをみせない。
「それにねえ」
言いながら一歩、シュテンは足を前に踏み出した。
「攫って喰うと言うのならまだしも、人質に、と、その根性が何より気に喰わない」
シュテンが頭の帽子に手をかけて、そうして。
駄目だ。よく見えない。暗いせい。強い雨のせい。でも、それだけじゃなくて。
「往ね。この木っ端が」
もう何も見えない。音だけが何とか。
強い力の籠もったシュテンの声。すぐ後、遠くに離れて行く妖怪の足音。
それが精一杯。私の意識は。
◆
「よ。目、覚めたみたいね」
声が聞こえた。私のすぐ側で。耳を澄ます。雨の音は聞こえない。代わりに、小鳥の囀る声が遠くから。
ゆっくりと顔を右に向ける。
「もう昼過ぎよ。寝坊助ねえ」
晴れやかに笑うシュテンの顔がそこには在った。
横になったまま、顔だけを動かして周囲を見回す。私の部屋だ、ここ。そうして私の身体は、お布団の中に在って。
そっか。私あの後、気を失っちゃったのね。
まあ、当然か。あんな雨の中をずぶ濡れになって走れば、そりゃ風邪の一つ位もひくわよね。
シュテンが来てくれたあの時、それまで張ってた緊張の糸が切れちゃって、それでそのまま。
そんな事を考えていたら、ふと気付いた。右手に感じる、柔らかくて温かな。
「手、握っててくれたのね」
呟いた私の言葉に、シュテンは少しはにかんだ様な顔を見せた。
「って言うか、握って離してくれなかったのは地子の方なんだけどね」
かあっと熱くなった。聞いた途端。私の頭、顔全部。慌てて右手を離して引っ込める。風邪だから。うん、風邪だからね、熱も出るっ。
身体ごと左側、シュテンとは反対に転がる。そんな私の背中に、ちょっと改まった感じの声が聞こえてきた。
「地子。あんたの望みを言いなさい」
って、はい?
「何よ。何をいきなり」
背を向けたまま私は応える。
「自分の方が悪かったからって、だからお詫びとして願いを聞いてくれるって、そういう事なのかしら」
私、シュテンに先ず最初に言わなきゃいけない言葉、二つ有る。それなのにまた、こんな事を言っちゃって。シュテンのせいよ。シュテンがいきなり、変な事を言うから。
「昨日の事に関しては、もう一度言う、地子が悪い。それは翻さない。もしまた今度、あんたが同じ事をやろうとして、そうして周りの人間が誰もそれを止めようとしなければ、その時はまた私が、あんたをひっぱたいて止める」
そこまで言って、でもそれとはまた別に、と、シュテンは小さく咳払いをした。
「私は昨日、絶対にあの場を動かないって、そう言った。けれどもそれを破ってしまった」
「それは、でも」
私は寝転がったままシュテンの方に向き直った。彼女が動いたのは、私を助ける為だと言うのに。
「理由はどうあれ勝負は勝負。そうして勝負に負けた以上は、相手の望みを一つ、叶えてやらなきゃいけない。
でなきゃ私達の誇りに傷がつく」
シュテンの国の風習なのかな、それ。何て馬鹿馬鹿しい、でも、何て誠実な。
「だからほら、地子の望みを言って」
願い事か。どうしよう。
いや、ううん。願いは決まってる。たった一つ。もっと早くに言う心算、だったんだけど。
「私と」
言葉が止まる。ちょっと恥ずかしいし、それに怖い。昨日あれだけの事があったのにって、そう思われるかも知れない。
でも、それでも。
「私と、友達になって下さい」
ああ、言っちゃった。
て言うか私、順序が滅茶苦茶だ。本当は今、この場で、先に言わなきゃいけない言葉が二つ有るって言うのに。今の言葉は、その二つの後って、そう思ってたのに。
ああもう。シュテンが望みを言えなんて言うから、つい、先に。
「友達って、困ったわね」
ずきりときた。今の言葉。
うん、判ってた。そう言われるんじゃあないかって、そうは思ってた。覚悟はしてた。
でもやっぱり、実際にシュテンが言ったのを聞くと、駄目だ、本当に辛い。
私は布団で顔を隠して。
「もうとっくに、友達の心算だったんだけどね。私としては」
って、え、それって。
「別のにしてくんないかな。完了済みのと重複するってのも困るし」
「そ、それだったら」
私は慌てて身を起こした。
「これからもずっと、友達でいて下さいっ」
別に慌てる必要なんか無かった。全然。それでも、どうしても、早く言わなくちゃって、早く言いたいって。そんな私の言葉に。
「判ったわ。その望み、叶えてあげる」
笑顔で肯いてくれた。
嬉しかった、とっても。
でも同時に少し、恥ずかしさと後ろめたい気持ちも出てきた。本当は先に言わなくちゃならなかった言葉二つを置いたまま、こんな、自分に都合の良い事ばかり。
ううん。今からでも遅くない。言わなきゃ、彼女に。
「ねえ」
「ん。何、地子」
私は大きく息を吸い、そうしてゆっくりと吐き出す。
それから。
「昨日はごめんなさい」
それと。
「助けてくれてありがとう。シュテン」
◆
ねえ、地子。
なあに、シュテン。
あんたさあ、もうちょっと、我侭になった方が良いわ。
我侭って。何で。
大きな家の跡取り娘としてさ、色々堅苦しくしなきゃいけないってのはそりゃあるだろうけど、でもそれで言いたい事、やりたい事の色々を我慢してさ、それじゃあ大変でしょうに。
ん。よく判らないわ。
ほら、地震と同じよ。
要石の力でずうっと地震を抑え続けていると、いざそれが失われた時、溜まりに溜まった大地の力が爆発して壊滅的な大地震が起こる。それだったら普段からちょくちょく、小さな地震で大地の力を発散させてさ、そうした方が結局は被害が少なくなる。
それと同じ事。
む。判った様な判らない様な。でも、うん。
あ。やり過ぎは駄目よ。こないだみたいな。
判ってるわ。
でも。
でも?
もしそうなっても、シュテンがまた止めてくれるのよね。
その前に起こすなとゆう。
判ってるって。でも。ね。
ああ、そうね。
その時はまた、私が地子をひっぱたいて止めてあげる。約束よ。
うん。約束ね、シュテン。
◆
風邪が完治したその日から、シュテンと私は毎日、朝から晩まで二人して遊んだ。
ある時は、私のお気に入りのあの場所で、あの川で遊んだ。
川まではかけっこ、着いたら今度は捕った魚の数で勝負。シュテンはどちらも強くて、私は一度も勝てなかった。負けるのは悔しいけど、でも、とっても楽しかった。いっぱい動いてぺこぺこになったお腹で、焼いたお魚を食べた。美味しかった。今迄に食べたどんな御馳走よりも、ずっと。
雨が降って外に出られない時は、シュテンは色々な話を私に聞かせてくれた。私が行った事も聞いた事も無い様な土地の話、そこで起きた出来事、出会った人々。時には戦いも。様々な術を使う妖怪や、策を巡らせ襲ってくる人間を相手に、お姉さんや昔の仲間達と一緒に大立ち回り。そんな話は、今迄に読んだどんな物語よりもずっと、私の心を弾ませてくれた。
ある日の夜には、二人で近くの小高い丘を登った。手の上で弾ませる火の玉で道を照らしながら、シュテンはどんどんと登っていく。私の脚じゃ着いて行くのも大変で。でもそんな私を見ると、シュテンは笑顔で手を差し伸べてきて、そうして引っ張っていってくれた。
丘の上にまで登り切るとシュテンは、手の中に在った火の玉を夜空に投げた。僅かの静寂の後、大きな音と共に空に光の花が咲いた。その美しさと言ったら、私の知ってるどんなものでもまるで比べられない様な、それ程のものだった。
私はシュテンが大好きだった。彼女と一緒の時間が、本当に楽しくて仕方がなかった。いつまでもずっと、彼女と居たかった。
だからあの日、私はシュテンに言ったんだ。
◆
「ねえシュテン。うちの子にならない?」
「へ」
私の言葉に流石の彼女も虚を突かれたんだろう。ちょっぴり間抜けで、でもとっても可愛らしい顔と声とを私に返してきた。
お気に入りのあの場所で、全身びしょ濡れになるのも構わずに二人して川で遊んで、やがて日も暮れてきて、もうそろそろ帰ろうか、そうシュテンが言って来たその時に、私は切り出したんだ。
「行くあても帰る場所も無くずっと旅を続けるなんて、そんなの大変でしょう。
だからね、シュテンとお姉さん、二人して比那名居の子にならないかって、そう言ってるの」
「いや。私等が比那名居のって、それは、その。ほら」
シュテンは困った顔で言葉を濁す。あ、もしかして。
「シュテンが持ってる力の事を気にしてるのかしら。それなら大丈夫よ」
普通の人の家だったら、そりゃもしかしたら、怖いとか、危険とか、そう思われてしまうかも知れない。
でも比那名居の家はそんな事を気にしたりはしない。だって、私達だって使えるんだから。普通じゃない力。
「拳骨一発で地震を止めるなんて、そんなの、むしろ大歓迎なくらいだわ」
興奮気味でそんな事を話す私に、シュテンは何も言わずに笑顔だけを返してきた。
それを見て私は嬉しくなった。シュテンも喜んでくれてるって。夕日に紅く染められた世界の中で、私は彼女の両手を持って何度も何度も飛び跳ねた。
◆
◆
あの時の私は、自分の考えた方法がとっても素晴らしいものなんだって、そう思ってた。今迄どんな賢者や聖人君子だって、ここまで素敵な考えは思いついた事も無かったに違いない、と。これで皆が、いつまでもずっと、ずうっと幸せに暮らしていける様になる。そう信じて疑わなかった。
私は、幼心地に有頂天となっていた。
だから、気付かなかったのだ。シュテンの見せた曖昧な微笑の意味していたものを。
そして。
沈む夕日が照らし出す二人の影を蝉達の鳴き声が包み込む。けれどもそれは、命の強さを激しく歌う様なものではなく、遠くから静かに響くひぐらしの音。
私は気付いていなかった。いつの間にか、でも確実に、夏の終わりが迫ってきているという事にも。
◆
2.夏去りて
その日の朝、急に部屋へとやって来たお父様の少し困った顔を見て、私の心は何とも言えない不安で一杯になった。
前の晩、私はお父様に、シュテン達を比那名居の人間として迎え入れてはどうかと、そう話をしていた。
お父様も絶対に賛成してくれる。当然の様に私はそう思っていた。けれどもお父様は、ほんの僅か眉間に皺を寄せ、たった一言、早く寝なさい、と、それだけを言って後ろを向いてしまった。
そうして今朝、今日は何をして遊ぼうかって、私の部屋でシュテンと二人そんな話をしていたら、突然にお父様がやって来たのだ。それも、何だか難しい顔をして。
何だろう。もしかしてお父様は、何かとても恐ろしい事を言い出そうとしているんじゃないだろうか。私は怖くなって、ぐっとシュテンの手を握った。
「私の部屋に来なさい、地子。先程、突然に名居様がいらっしゃったのだ」
それ聞いて安心した。緊張が解けて身体から力が抜けていく。何だ、そういう事か。
「ちょっと待っててね、シュテン」
私は、シュテンの手を離した。
◆
名居様は人の身でありながら、天人である大村守様からこの地に於ける地震除災の一切を直接に任されているという凄い方だ。私達比那名居はその部下、という事になるんだけど、名居様と一緒に住んでいるとか、全くの同じ場所で仕事をしているとか、そういう訳でもない。
名居様のお屋敷はここからまた少し離れた池の畔に在り、人を遣っての連絡こそは頻繁に行われても、こうして直接にお会いする事はそうそう多くもない。一月か二月に一度、といった具合だ。そうしてその場合も、基本的に足を運ぶのは比那名居の人間の方で、こうして名居の当主様がうちまで来るという事は滅多に無い。それもお一人、事前に何の連絡も無しに。
確かにこれ、お父様が変な顔をするのも当然だわ。
それにしても、と思う。
私とお父様の前、何だかとても嬉しそうな顔を見せている名居様。この方、何だか、ううむ。
以前、二ヶ月ほど前に名居様のお屋敷でお会いした時は、凄く失礼な話だけど、でも正直、もうこの夏は乗り切れないだろうなって、そんな感じだった。付き添いが居なければもう一人で立ち上がる事も出来ない。そんなご様子だった。
それなのに、よ。こうして今目の前に居る名居様は、何だかとってもお若い。背筋は真っ直ぐ、顔に皺は刻まれているけど、それでもお父様よりはちょっと年上だなって、そう思える程度。本当はもっと、ずっとご高齢の筈なのに。髪の毛だってそう、真っ白だった筈が見事真っ黒に。
って、ううん、よく見るとこれ、真っ黒とも違う様な。
うん、違う。青いよ、これ。青色の髪。
あんまりにも見た目が違い過ぎるものだから、もしかしたら代替わりでもなさったのかって、一瞬そうも思ったくらい。
でも名居様の纏ってらっしゃる空気の色、それは以前と同じだったから、確かにこの方は私の知ってる名居の当主様だって、それは判った。
ただ、その空気にしても、色こそは変わらないのだけど、でも何だろう、言葉にしにくいけど、その、ううむ。
「おうほう。そんなにじぃと見られると、流石にちょっと照れてしまうのう」
突然に名居様が私に向かって声をかけてきた。
「失礼であるぞ、地子」
「も、申し訳ございません」
慌てて目を逸らしたけど、別に構わないと、そう言って名居様は笑う。
「まあ、気になるのは当然であろうの。何せ、あれだけよぼよぼだった年寄りが、ほれ、こんな見た目では」
「あ、いえ。見た目と言いますか」
思わず口にしてしまったそんな言葉に、ほう、と、嬉しそうに眉を動かし、そうして名居様は問うてきた。
「見た目ではない、とすると」
「あ、いえ、その。
名居様の、その、空気が、何と言うか、あの、以前にお会いした時と、ええと」
参ったなあ。私、何だかとても失礼で恥ずかしい子になっちゃってる気がする。
でも、何と言えば良いんだろう。こう、何か、名居様の空気、光ってて、清々しくて、神々しくて。
って、そう、それだ!
「名居様の空気が、何かとても神々しく感じられまして、それで」
私の答えを聞いて名居様は、大きく、そしてゆっくりと何度も手を叩いた。
「その歳でそこまで読めるか。大したもの。流石は比那名居の総領娘であるな」
名居様が私を褒めて下さった。それはとても嬉しかった。けれども。
名居様はとても高い身分の方で、それなのにとても優しくて、私みたいな子にもこうして、まるでお祖父ちゃんの様に接してくれて。だから私は名居様の事が大好きで。それでも。
何故だか、どうしても、総領娘という言葉が痛かった。
名居様だけではない。屋敷の皆が私の事を総領娘と呼ぶ度に、その言葉がまるで小さな針の様、ちくちくと心に突き刺さってくる。最近、そんな風に感じる様になっていた。
前はこんなんじゃなかった。総長娘って言葉、前から好きではなかったけど、でもそれは当然の言葉、気にしても仕方ないって、そう思えてたのに。
いつ頃からだろう、こんなの。私、少し我侭になってしまってるのかも知れない。
「素晴らしき才。それでこそ、この話を持ってきた甲斐もあるというもの」
そう言って未だ手を叩いてらっしゃる名居様に向かって、恐れながら、そうお父様が切り出した。
「そろそろ、宜しいでしょうか。本日は一体、どういった御用件で」
「ん。おお、すまんすまん」
こほんと咳一つ、真面目な顔になって名居様は仰る。
「先ずは一つ、謝らねばならん事がある。連絡が遅れた、その事をな」
「と、仰いますと」
「うむ。一月ほど前の話になるのだが、私は」
お父様の問いに、名居様は。
「死んでしまったのだよ。実は」
あっけからんと言い放って、そうして悪戯っぽく舌を見せた。
◆
「シュテンっ、シュテンシュテンっ!」
「ちょっ、何よ何」
行儀が悪いとか何だとか、そんな事は気にしない。してらんない。全速力で私は廊下を走り、そうしてシュテンの待つ部屋に飛び込んだ。
「やったよシュテン!」
「地子、何、ちょっと!」
思わず抱きついてしまった。驚いた顔で巧く口も回らないシュテン。ごめん、吃驚させちゃって。でもね、でもねでもねっ!
「名居様死んで、天国で、私達、やったよ、凄いよ!」
「や、ちょっと。判らないって、落ち着きなさいって」
落ち着けって、うん、それは判る、落ちかなきゃ、そりゃ、でも、ええい、落ち着いてらんないってこんなの!
「やったよシュテンっ、私達、天人になれるんだよ!」
一月前、名居様は人としてその生涯を終えられた。けれども同時に、神霊、つまりは神様として生まれ変わったのだという。
「くたびれた年寄を、死後も休ませずにまだこき使う。まあ、そういう話だのう、要は」
冗談っぽく仰って名居様は笑ってたけど、でも私みたいな子供にも判る。とても、これは本当にとても、凄い事なんだって。
神様になった名居様は仰った。比那名居にはこれからも共に働いて欲しいと、そうしてその為には、天地に分かれたままでは仕事もしにくいからと、そうして。
「私達比那名居の人間も天人になって、天界に住める事になったのよ!」
すごい、すごいすごい! 信じられない、信じられない信じられないっ!
「ああ、なるほど。名居が神霊って、あの時の異様な神気はそれか」
「え? 何、シュテン。何か」
「や。こっちの話。
それより、そっか。天人になるんだ、地子。おめでとう」
って、シュテンってば何、他人事みたいに。
「シュテンもよ。シュテンも天人」
「私が? 天人?」
「そうよ。言ったじゃない。シュテンもお姉さんも比那名居の子になるんだから、当然、一緒に天界に行くのよ。
天界かあ。きっと素晴らしい所なんだろうなあ」
天界って言ったら、一面お花畑、飢えも、暑さも寒さも無く、毎日踊ったり歌ったり、そんな素敵な所なのよね。そうしてそこに住む天人は不老不死で。
そう、だから私とシュテンは、これで本当にずっと、永遠に一緒で居られる様になったんだ。
シュテンをうちの子にする、そう決めたその次の日に、こうして天人になれるって話がやって来て。信じられない。世の中って凄い、素敵、素晴らしいっ!
「ちょっといいかしら」
有頂天になっている私の頭上を、いつの間にか部屋の口に立っていたお姉さんの声が飛び越した。
「あ、お姉さん。実は」
「ああ、ごめんね、地子ちゃん」
お姉さんにも早く教えてあげよう。そう思って駆け寄った私の口を遮り、そうしてシュテンに声をかける。
「お呼びだよ。比那名居と、それから名居の」
「ん、ああ」
どこか気の無い風の返事をして、それからシュテンは私を見る。
「地子はここで待ってて」
「うん、判った。待ってるから、早く戻って来てね」
シュテンは小さく笑って、けれども言葉は何も返さず、そうしてお姉さんと一緒に私の部屋を後にした。
◆
「いやあ、それにしても」
閉められた戸の向こうから聞こえてくる。これは、名居様の声。
シュテンは待っててって、そう言った。私は判ったって、そう応えた。でも。
何故なんだろう。笑っていた筈のシュテンの顔が、何故だかとても寂しそうに見えて。
私とシュテンは天人になる。もうこれから先、怖い事も悲しい事も何一つ無くなる。それなのに。
不安を感じたんだ。ほんの少しだけ、だけど。大丈夫、絶対に大丈夫だって、そうは思ってるけど。
私は待っていられなかった。ほんの僅かの不安を完全に消し去る為に。もう、すぐ目の前にある幸福の未来を確かなものとする為に。
気を静める。小さく、そうして薄く。誰にも気づかれない様に。
「比那名居の驚く顔を見たくてわざわざ何も知らせず急に訪ねたというのに。
いやまさか、私の方が驚かされる事になるとは」
楽しそうな名居様の声。って言うか、連絡も無しで突然にいらっしゃったのって、そんな理由だったんだ。本当、面白い方だなあ。
「話に聞く事こそ多けれど、こうして実際お目にかかるのは初めてですからなあ」
名居様の話す先は、内容からして当然お父様じゃないし、とするとシュテン達。知り合いなのかしら。ああ、でも、初めてって言ってるからそれは違うか。
「何せ我等人の間に流れる話では、貴女方は遥かに昔、大江山に於いて、と、そうなっておりますもので」
「ああ、確かにそうね」
シュテンの応える声。って、シュテンってば名居様にまでそんな口を。相手は神様なのに。
「あの時人間共の姦計に嵌り、我等大江山、悉く皆殺し。
には、まあ、ならずに何とか生き延びたけど、でも一族は皆散り散り。私等もこうして二人、当て所も無い旅を、ってね」
「にしても、まあ」
溜息交じりのお姉さんの声。
「この家に来た時もそうだったけどさ、やっぱりばれるねえ、どうも」
「いやいや、それはそうでしょう」
お姉さんの言葉を笑って受ける名居様。
「頭には布を巻いただけ、霊気も出力こそは抑えてあるものの質はそのまま。僅かでも術の心得が有る者ならば誰でも気付きます。
しかし、何故またこんな。貴女方の力なら、見た目も気質も人そのものに変える事など造作も無いでしょうに」
「それは駄目だ。そこまでやったらもう、それは完全に己を偽って見せる事となってしまう。我等は決して嘘は吐かない。
この格好だって最大限の譲歩、本当は嫌だったけど、シュテンがどうしてもと言うから」
恨めしそうに言うお姉さんに、仕方ないよ、と、シュテンの声。
「私等が頭も霊気も丸出しで歩き回ったら、人間や妖怪達に要らぬ混乱を撒き散らしかねない。最低限、正体を隠す努力はしなきゃ」
「でもあんた、こないだ追っ払ったっていう木っ端妖怪に、一目で正体見破られたとか言ってなかったっけ」
「いや、まあ」
「普通の人間は普通の人間で、見た目が怪しいってまともに相手してもらえないし」
「いや、まあ、その」
「ってかさ、もうこれ言うの何度目か忘れたけど、一本ずつに巻けばまだましだろうに、あんた横着して二本いっぺんに巻いて、お蔭で異様に横幅広くて目立つし。そりゃ誰だって怪しむわよ」
「いや、まあ、その、でも面倒だし」
話の内容、完全には理解できないけど、でもとりあえず、あの格好は異国の風習なんかではなくてシュテンの趣味だったって、それは判った。うん、お姉さんの言う通り。シュテンの頭の、凄く変。怪しい。でもまあ、慣れると可愛いって気もしてくるけど。
「普通の人間は、里は駄目」
あ、お父様の声。何だろう、ちょっと疲れた感じのする。
「それがこの家に来た理由ですか」
「うん、そう。こうなったらむしろ、はっきりと私等の事が判る、そんな人間の所に行った方が都合良いかなあ、って」
あと大きい家の方が美味い飯も出るし。そう笑うシュテン。
「ま、そもそもはこの近くに以前拠点にしてた山が在って、そこに行く心算だったんだけどね」
今度はお姉さんが話し出す。
「そこには私等の子分だった天狗が居るんだけど、大江山壊滅の報を聞いてどうも、これで山は自分達の物だって、そう思い込んでたみたいでね。私とシュテンが山に行ったらさ、もう、すっごい嫌な顔されて。
仕方ないから山に戻るのは諦めて、先ずは近くの里を当たったけど駄目。で、それからここらで一番に力有る人間の家、名居の家に行こうと思ったんだけど、強い神気を感じたんでこれはちょっと遠慮した方が良いかな、と。まあ、そういう訳でここに厄介になる事にしたんだ」
なるほど、さっきシュテンが言ってたのってこの事か。二人が比那名居の家に来たのも名居様が神様になったのも、どちらも約一ヶ月前。
と、ここまで考えて、ちょっとだけ怖くなった。
もし一月前、名居様が神様にならなかったら。シュテン達は名居様のお屋敷でお世話になる事になって、私とは出会う事も無かったかも知れなかったんだ。
もしシュテンと出会えていなかったのなら。今の私には、そんな事、想像も出来なかった。て言うかしたくもないし、する必要も無い。だって実際、私達はこうして出会えて、そしてこれからもずっと、永遠に一緒なのだから。
「申し訳ございません」
全くの突然に、お父様がそんな事を言い出した。何それ、いきなり。意味が判らない。
「どうした。何を一体、いきなり」
謝罪の相手は名居様。私と同じで、何も分ってない感じ、不思議そうな声を返す。
「名居様に何の連絡もせず、勝手にこの様な者達を屋敷に」
「ああ、その事か。
それは仕方ない、と言うより当然の判断であろう。この方達を相手に事を荒立てるほうがよっぽどの愚策。害意さえ無いのであれば、素直に求めに応じるのが一番。私だって、同じ立場ならそうする」
と言うより、是非ともお迎えして一緒に酒を呑んでみたい。豪快に名居様は笑う。流石、心が広いなあ。神様になられるだけはある。それに比べてお父様は心が狭い。この様な者って、言い方が酷い。私の友達なのに、シュテンは。
「そうそう。世話になってる立場の私が言えたもんでもないけどさ、あんたの判断、良い判断だったよ」
名居様に続いてシュテンが口を挟む。
「私と地子に監視を付けてた。それも含めてね」
シュテンの言った言葉。意味が判らなかった。
かんし。何それ。どういう。
「やはり気付いていましたか。もし気を悪くした様でしたら」
「うにゃ。そうでなくて。
大事な娘を私なんかと本当に二人っきりだなんて、そうはさせらんないってのは人の親として当然だからね。良い判断だと思うよ。皮肉じゃなく、本気で。
ま、尤も、肝心の監視役が今一つ役に立たなかったってのは難だったけどね。地子が緋想の剣を使おうとしても出て来やしないし、夜中、大雨って悪条件が重なったとは言え、あの子を見失って結果、木っ端妖怪に遭遇させてしまったし」
「後者については言い訳のし様も有りません。が、前者については、ぎりぎりまであの子の行動には干渉しないよう、そう言い付けておりましたので」
言うねえ。僅かに非難の色を込めてる様にも聞こえるシュテンの声。
「ま、でも確かに。並程度の術者じゃ私は勿論、緋想の剣を持った地子だって、とてもじゃないけどどうしようもないからね。仕方ないと言えば、まあ、仕方ないか」
かんし。私とシュテンに、監視。
どういう事なの、それ。私が勝手に緋想の剣を持ち出したから、それで? でもだったら、それなら、お父様が直接私に文句を言えば良いだけの話じゃない。なのに、何も言わず黙って監視をつけてって、しかもシュテンにまで!
「何にせよ、娘の命を救って下さった、その事には心の底から感謝しています。
それなのにこうした、非常に心苦しいのですが」
「ああ、判ってる。みなまで言わなくて良いさ」
お父様の言葉を遮ってお姉さんが言った。
「ここまでの長居になるとは、正直、私等も思ってなかったんだし。ねえ、シュテン」
意味が判らなかった。て言うかよく聞こえなかった。今のお姉さんの言葉。うん、聞こえてない、私は聞いてない。何も。
「自分が望んだ訳でも無いのに、不相応な迄の大きな力を持って生まれてしまった子供。
あんたさ、伊吹の山に、生まれ故郷に居た頃の自分を、あの子に重ねて見てたのかい?」
「さあ、どうだかね。
ま、私の我侭に付き合ってもらった、それは事実だし、申し訳ないと思ってる」
「構わないさ、それは」
シュテンとお姉さんの遣り取り。全然聞こえない。私の心臓、もの凄い速さになってる。息が苦しい。そのせいで聞こえない。
さっきの言葉、聞いてない筈なのに、聞こえなかった筈なのに、何故かどうしても思い出してしまう。そうしてその意味を考えてしまう。そうすると心臓、どんどん、どんどん速くなる。
怖い。泣きそうな位、叫び出したくなる位。ダイジョブ、大丈夫って、何度も自分に声をかける。私とシュテンは、これからもずうっと。
だから落ち着いて。気を静めて。大丈夫だから。絶対、シュテンは。
「本当に世話になった。今日の内にでも――」
シュテンの言葉が途切れた。目を丸くして固まってる。シュテンだけじゃない。お姉さんも、名居様も、そうしてお父様も、皆一様に同じ場所を見つめて固まってる。
その視線の先には。
「何よ、これ、何が、何で、ねえ、何なのよ!」
もう我慢できなかった。黙ってなんか居られなかった。シュテンが言おうとした言葉、それを最後まで聞いてしまうなんて、そんなの絶対に許せなかった。
「地子、あんたいつの間に。まさか今の全部聞いて」
慌てた様子のシュテンは、でもすぐにその顔の上、平静と軽い笑いとを整えて見せて。
「や、凄いわね、地子。これだけの面々相手に、ここまで気を消して悟られないなんて、いやほんと」
「誤魔化さないでっ!」
私の声にシュテンは黙り込む。下手糞。知ってるよ、私。シュテン達の一族は嘘を吐けないんでしょ。それなのにそんな下手糞な話の逸らし方。私に気を使ってる心算なの? 巫山戯ないでよ、何で私を、私だけを放って!
「いい加減にしなさい、地子!」
ようやく正気に戻ったお父様が声を上げる。
「名居様の御前だというのに何と言う無礼。お前はそれでも比那名居の総領娘――」
「五月蝿いっ!!」
――何ていう事だろう。お父様に向かって、何て汚い言葉。
私はワタシに驚いた。
私の中、二つのわたしが出来ていた。こうして冷静に、客観的にこの場を眺める私と、そんな私の言う事も聞かず、爆発した感情の流れに呑まれたまま止まらないワタシ。
「総領娘、総領娘って、お父様はいつもそう! 比那名居の名を逃げ場にして、ワタシの事を正面から見ようとしない! すぐ逃げようとする!」
何て馬鹿げた、何て滅茶苦茶な屁理屈。まるで筋が通ってない。言いがかりも良いところ。こんなの、単なる子供の我侭じゃないか。
もうやめて。恥ずかしい。でもそんな私の言う事に、ワタシはまるで耳も貸さず。
「それは違う、地子、私は」
「違わないでしょ!? 怖いんでしょ、ワタシが! だからワタシが緋想の剣を持ち出しても何も言えなくて、黙って監視なんかつけてこそこそしてっ!
お父様は卑怯者よ、臆病者よ!
お父様なんてもう、お父様なんて――」
「いい加減にしなっ!」
大地が揺れた。
いや、ううん、違う。大地じゃない。揺れたのは空気。揺らしたのはシュテン。彼女の怒声。
一瞬で止まった。私では止められなかったワタシが。
余りの大きな声に驚いたから? 怖くなったから?
違う、そうじゃない。そんなんじゃない。
「自分の親に向かってそんな事、言うもんじゃあないよ」
酷く歪んだ顔。今にも泣きそうな位。初めて見る、こんなシュテンの表情。
やめて、そんな顔。何でシュテンがそんな。
私は下唇を噛む。強く、とても強く。痛い、すごく。でもそうしてないと私、シュテンの泣きそうな顔を見てると私、私まで、だから。
だから私は逃げ出した。下唇を噛んだまま。誰にも今のこの顔を見られぬ様、背中を向けて逃げ出したんだ。
◆
「よ。やっぱりここに居たね」
いつもと全く同じ。さっき迄の色んなの、あんなのはただの幻、一つだってほんとの事じゃない。そう思えてしまう程、いつも通りのシュテンの声。
それを、いつもと同じ場所で聞く私。でも。
「ここに居ればシュテン、絶対来てくれると思ったから」
心の内をそのまま私は口にする。
お屋敷近くの森の中、僅かに空の開けた川の畔。私のお気に入りの場所。
いつもの場所、いつものシュテンの声。でも私は、いつもの私ではいられなかった。まだ少し、震えの残ってる声。眼が、鼻が、とても痒い。そんな顔を何度も拭ったせいで、服の袖はもうぐしょぐしょ、じゃないや、それすら通り越して、もう固まっちゃって、がびがびになってしまってる。
「うわあ。またこれひっどい顔ね、地子」
眼は真っ赤、鼻の頭も真っ赤。そんな私の顔を覗き込んでおどけた声を上げる。私は顔を上げた。穏やかな笑顔のシュテン。その後ろには、開けた空に覗くお昼の明るい太陽。何でよ、何でシュテンもお日様も、こんな平気で笑ってられるのよ。
「ねえ、地子」
私の隣、腰を下ろしたシュテンが。
「人間ってのはね、そんなに強くないんだ」
唐突にそんな事を言い出した。何それいきなり。訳わかんない。
「自分より大きな力を前にして平気で普通でいられるって、中々そうもいかないもんなのよ。人間ってのは。
これは決して、良い悪いって話じゃない。どうしようもない、仕方のない事なの」
ああ、そうか。何となく判った。シュテンの言おうとしてる事。それは。
「あんたの父親だってそう」
お父様の事だ。やっぱり。
「地子の中に眠ってる力はね、恐らくあんたの父親よりも大きい。
自分より大きな力を秘めた娘への畏れ、それは確かに有ると思う。
そしてそれと同時、そんな力を持たされてしまった娘を不憫に思う、そんな気持ちだって」
シュテンは続ける。でも、私には。
「それに加えてね、親一人子一人、当然にある愛情、男親であるが故の、娘に上手く接する事の出来ないもどかしさ、更には比那名居当主としての責任、誇り。
あれがこうで、これがああで。色んなものが複雑に絡み合ってね、中々こう、上手く出来なくなってしまう。そんなものなのよ、人間ってのは。
だから、ね」
「許せって言うの、お父様を」
私には判らない。お父様の気持ちも、シュテンの難しい話も。全然。
「ま、この辺の事ばっかは、人にどうこう言われたからって、そう簡単に理屈で理解できるもんでもないのかも知らんね。
だから良いよ。今日は、今の事を心の中に置いてさえくれれば。でもきっと、いつか、地子も大きくなれば判る日も来るわ」
そう言ってシュテンは笑うけど、でも私には判らない。いつか判る日が来るって、そうも思えない。て言うか許せないのよ。だって。
「酷すぎる。監視を付けるなんてそんなの」
監視。何で監視を付けるのか。それは、信用が出来ないから。信じていないから。
私がお父様にそう思われる、それはもしかしたら、仕方のない事なのかも、と、そうも思わなくもない。何せ、緋想の剣を勝手に持ち出したりしてる位なのだから。
でも、何でシュテンにまで。これが一番許せない。お父様は私の友達を信じない。私の大切な人を侮辱している。それがどうしても許せなかった。
「それもね、仕方の無い事なのさ」
何それ。何でそんな事、簡単に言えるのよ。仕方ないって、そんな。
「さっき部屋であんたも聞いてただろうけどさ、これは本当に仕方ない、ううん、むしろ、人の親としては褒めてやったって良い位さ。娘を護る為、しっかりと手を打ってたって事なんだから」
「意味判らない。護るって何から、誰から」
「私から、さ」
ちょっと。ほんともう、全っ然わかんないよ。シュテンの言ってる事、もう滅茶苦茶。
「シュテンからって、何それ。訳わかんない。シュテンは私の」
「ごめん、地子」
私の言葉を遮ってシュテンは頭を下げた。何、いきなり。ああもう、言ってる事もやってる事も、本当に意味不明。
「騙した心算は無い。けれど、結果的に隠してしまっていたのは事実」
顔を上げ、私の眼を真っ直ぐに見つめ、そうしてシュテンは言った。
「私、人間じゃあないんだ」
ちょっと。まただ。また訳のわからない言葉。もう、いい加減勘弁して欲しい。
「だからね、あんたの父親が私を信用できず、私とあんたが一緒の時に万一の事が無いよう監視を付ける、それは当然の事なの」
だからね、訳、わかんないんだって。人間じゃないって。
「ごめんね、吃驚、したよね。ずっと黙ってて、ほんとごめん」
うん吃驚した。だって、人間じゃないって。
「最初から知ってたし。そんなの」
「はい?」
わあ、なんて間の抜けた顔と声。いかにも驚いてるって、そんな感じがありありと、まあ。
でも驚いてるのは私の方よ。とっくに判り切ってる事を、今更真面目な顔をして切り出してくるんだから。て言うかもしかして、今迄ばれてない心算だったのかしら。それはそれで凄い。
「知ってたって、私が人間じゃないって」
「うん。シュテン達って異国の人なんでしょ。見れば一目で判るわよ。私達と全然違うし」
そう。そんなのは一番最初に顔を見た時から判ってた。異国の人だって。それを今更。
「いや、違うって、そうじゃないって。
異国とかそうじゃなくて、種族が違うの、人間じゃないの」
「うん。だから、私達と違う国から来たんでしょ。私達とは違うんでしょ」
「いやだから、もう。
そうじゃなくてほら、そもそもが違うのよ。見せたでしょ、色んな不思議な力とか」
「うん、そうだね」
「でしょ。だから違うの。私達は人間じゃない」
「何言ってるのよ、不思議な力って言うなら私だって負けないし。だから同じでしょ」
「いやそれは、だから、まあ、その。
ったくもう。子供に説明するのって難しいわね」
「子供って、シュテンだって私と大して変わらないじゃない」
「だからね、その辺りが違うのよ。私これでもね、あんたの父さんや名居の爺さんよりもっとずっと年上なの、人間じゃないのっ」
「へえ、そうなんだ」
「そうなんだ、って、地子、ほんとに理解してる?」
「ううん。全然。さっぱり」
「うん。そうね。もうそろそろ、私も自分で言ってて何が何だか段々判らなくなってきた」
意外だ。シュテンって意外と頭、悪い。私の知らない色々な話をしてくれたし、お父様や名居様とも対等に話すし、だからすっごく頭が良いんだって、そう思ってたけど。意外に。
ああ、それとも、頭が良いから、なのかしら。色んな知識をたくさん持ってるせいで、それがごちゃごちゃになってるのかも知れない。
だってこれ、本当はとっても簡単な話なんだから。
「シュテンは私を友達って言ってくれたけど、あれ、嘘だったの?」
「んなわきゃない! 私達は嘘は嫌いなんだ。って言うか、いきなり何を」
ほら。やっぱりこれは、とっても簡単な話だ。
「シュテンは私の友達。それは嘘じゃないのよね」
「ああ、そうさ」
「だったら良いじゃない、それで。種族とか年齢とか力とか、そんな他の色々は別に、同じでも違ってても、どうでも」
そこまで言って、シュテンの反応を見てみる。
ああ、固まってる。口を半開きにしたまま。間抜けな顔ね。でも、ちょっと可愛い。
「ああ、うん。まあ、言われりゃそうね。そうかもね、確かに」
やれやれ、やっと理解してくれた。疲れるなあ、もう。
まあでも、こうしてシュテンが納得をしてくれたのなら、私も安心して言える。私とシュテンの間に、阻む物は何も無い。だから。
「一緒に天界へ行こう、シュテン」
けれどもシュテンは、頷いてはくれなかった。
「何でよ。シュテンと私は友達なのよ。だったら」
「地子の気持ちは嬉しいよ、凄く。でもね」
私の言葉を遮ってシュテンは続けた。
「天界の連中はそうは思ってくれない。私を受け入れてはくれない」
何よそれ。天界って、何、そんな心の狭い人達しか居ないっていうの。だったらいいよ。別に。
「それなら、シュテンが天界に行けないって言うんなら、私も地上に残る。天人なんか、ならない」
そんな私の言葉に、今度ははっきりと首を振って強い否定の意思を示すシュテン。
「それは駄目」
「駄目じゃない。ならない。天人なんか。シュテンと一緒じゃなきゃ」
「そんな我侭言わない」
「我侭になれって、私にそう言ったのシュテンじゃない」
「や、それは、そうだけど」
「だったら」
言いかけて止まった。ううん、止められた、私の言葉。シュテンの両手が私の肩に載せられる。すぐ近くに顔を寄せ、じいっと私の目の中を見つめてくる。
「地子。あんたの力はね、人の世に在るには余りに大き過ぎる力なの。
さっきも言ったけど、人の心はそれほど強くない。そしてそれ故、人の世はそんなに優しくない。
もしあんたがこのまま地上に留まれば、そう遠くない内、あんたは必ずや人の道から押し出され、そうして外道を歩まねばならなくなる」
ぐっと、肩の上の手に力が込められた。痛い、痛いよシュテン。
「だからね、地子。あんたは天道を往きなさい」
そんな事ない。私なら絶対大丈夫。だから。
そう言おうとして、でも言えなかった。
「お願いだよ、地子。私のせいで友達が辛い目に合う、そんなの、私には我慢できないんだ」
私も同じだった。私のせいで友達が悲しむ、そんなの、絶対に嫌だ。だから。
私の目の前に在る顔は、さっきお父様の部屋で見せたのと同じ、今にも泣き出しそうなそんな顔。それを見てしまったらもう、私は決意するしかなかった。
私は天人になる。天に向かう私の道は、ここでシュテンの道と別れる。
でも、それでも。
「偶には、偶にで良いから、天界に遊びに来てよね。シュテンくらい凄い力を持ってるんだったら、ちょっと天界まで遊びに来るくらい簡単でしょ。
だから、だから、ね」
もう多くは望まない。でも、これ位なら。そう思って言った。なのに。
なのに、シュテンは。
「天人ってのはね、本当は長い修行を経てやっとなれるものなの。けれども地子達はそうしたものをすっ飛ばして、例外中の例外で天人になる。そんな、言うなれば見習いみたいな天人の所に私が顔なんて出したら、私なんかと関係があると知れたなら、比那名居はまた地に下ろされるわ。だから」
「だったら。
天界で修行して、周りが文句も言えない位に立派な天人になれたら、そうしたら」
「長い期間がかかるよ。十年、二十年、いやもっと、百年だって」
「いくら長くても構わないわよ! 天人は不老不死なんでしょ? シュテンだって凄く長生きなんでしょ? だったら」
「確かにね。でも、私は兎も角、天人の不老不死って言うのは、実際の所、定期的に襲って来る死神と戦って」
「死神なんて百人来ようが千人来ようが関係ない、全部ぶっ飛ばしてやっつけてやるわよっ!」
何よ。さっきからシュテン、私がこれだけ言ってるのに、難しい話ばっかり並べて全然頷いてくれない。シュテンは私の事、好きじゃないの? 嫌いだから、もう会いたくないから、だから頷いてくれないの?
「そうね。今からどれ位の後になるか、曲がりなりにも地子が天人として天界で受け入れてもらえる様になって、死神にも負けず生き残っていて、そうなったら会いに行っても良いかも知れない。
だけど」
やっと私の言う事を聞いてくれた。そう思ったら。
何よ、だけどって。まだ何かあるって言うの。
「その時にはきっと、地子は私の事を忘れてしまっている」
何を、シュテンってば、ほんと、本当に、本っ当に、何を。
「何を巫山戯たこと言ってるのよ! 忘れる? 私が? シュテンを? ありえない! ありえない絶対!
百年千年万年経ったって、絶対の絶対、忘れやしないわよ。馬鹿にしないで!」
「そうじゃない。時間の問題じゃない」
もうこいつ、拳骨でも喰らわせてやろうか、いっそ噛み付いてでもやろうか。そんな勢いの私の前で、あくまで冷静を保ったままにシュテンは語る。
「さっきも言った通り、地子達は非常に特殊な過程を経て天人になる。それはつまり、地上人だった頃の自分を一度捨てて、新しく天人として生まれ変わるって事。そこには必ず、意識の断絶が生まれる。
前世の記憶を覚えてる。そんな人間、極々僅かの特殊な例外を除けば、まず存在しやしない。それと同じ事」
「でも、それは普通の人の話でしょ。私達比那名居の人間なら」
「あんたの父親みたいに、それなりに時を生きて修行も積んだ者なら、自分や一族の名前、かつて地上に居た頃の立場、それ位は覚えてるかも知れない。でもそれが精一杯」
「私は、私なら! お父様より私、大きな力を持ってるんでしょ? だったらっ」
「持ってるったって、本当に持ってるだけでしょ。修行をちゃんとやってないんだから、どれだけ大きな力が有るにしても今はまだ殆ど使えてない。それじゃ意味が無い。ってかそれ以前、ここまでの人生そのものが短過ぎるんだ。残念だけど、どうやっても」
ああああああああ、もうっ!
何でもう、何でこうさっきからさっきから、一々、ほんっと一々理屈ばっかり並べて、人の言う事にそれは駄目、それは駄目ってそればっか!
「気合よ気合! そんなの気合で何とかするわよ!」
「だから無理なんだって。いい加減、ちょっとは聞き分けなさいって」
シュテンが頭に手を当てる。言葉の端にはっきりと苛立ちの色が出てくる。怒ってるんだ、きっと。
でもその方が良い。冷たい、平らなままの声と態度で話を続けられるよりよっぽど。
て言うか、怒ってるのは私もだ。私の方がもっと、もぉっと腹立ってるんだから!
「あのさあ、めっちゃくちゃ身体鍛えてさ、もっの凄く頑丈な身体になった人間が居るとするでしょ。で、そいつの心臓に杭を刺して首を刎ねて、そうしたらどうなる? 死ぬでしょ? どんだけ気合入れても死ぬでしょ?
それと同じ。努力や根性で何とかなる次元の話じゃないの、これは」
「なるわよ、何とか! シュテン阿呆だから判らないだけで、実は絶対何とかなるんだ! 今決めた! 私が決めた! だから絶対っ!」
「ちょ、阿呆ゆうな阿呆て! ってかそんな滅茶苦茶な屁理屈並べる人間に阿呆とか言われたくないわよ!」
「ううん、阿呆だ、シュテンは! 今決めた! 決定! 大決定! シュテンの阿呆阿呆阿呆阿呆阿呆!」
「ああもうこれだから餓鬼は! て言うか阿呆って言う奴のが阿呆って、そんな事も知らないの!?」
「だったらシュテンも今言った。だから阿呆!」
「んのあっ!? な、って、ああでも地子の方が沢山に阿呆って言ったから、地子のが阿呆だ!」
「私五回くらいしか言ってないけどシュテンは十回位言った。だからシュテンのが阿呆!」
「嘘吐け! ってか地子は百回くらい言ってなかったっけ!?」
「じゃあシュテンは千回!」
「じゃあって何よ、じゃあって!」
「万回!」
「勝手に増やすなこら!
だったらねえ、地子、あんたは九千九百九十九無量大数九千九百九十きゅうぽら」
ぽらって何。聞いた事の無い数字の単位。一瞬そう思ったけど、それはそうじゃなくて。
いつの間にかシュテンのすぐ後ろ、お姉さんが立ってた。そうして右手で拳骨を作って、呆れた顔で溜息を吐いてた。拳の先から小さく煙が出てる。涙目で後頭部を押さえるシュテン。
「いつまで阿呆な真似してる気よ」
阿呆。その言葉を聞いた途端にシュテンの眼がきらりと光った。涙目から一転、勝ち誇った笑顔になって後ろを振り向く。
「言ったわね! これで勇ぎゃぶう」
言い切る前に顔面へとお姉さんの足がめり込んでた。凄い、あのシュテンを一発で黙らせるなんて。そっか、口喧嘩の時ってこうすれば良いのね。勉強になるわ。
「こっち、比那名居との話はついた。行くよ」
「んんう。ああ、うん」
鼻の頭に手を当て、また涙目で、でも落ち着きは取り戻したシュテンの声。
「で、土産は何を置いてく事になったのさ」
「要らないって。何も」
「そう。
まあ、それもそうかもね。緋想の剣を持ってる程の家だ、今の私等が出せる様な物じゃ、お宝とも思ってはもらえないか」
「て言うか、まあ」
そう言って、大袈裟な身振りで肩を竦めるお姉さん。
「これから天界に行くのに、私等からの贈り物も持っては昇れないからって」
「そっか。世知辛いねえ。仕方の無い話だけど」
大きく溜息一つ。それからシュテンはまたこっちを向いて、そうして。
「という訳よ。地子。ええと、あれだ、私もついかっとなって色々言い過ぎたわ。ごめん。
だから」
手を差し出した。仲直りの握手、その心算なんだろう。
目の前に真っ直ぐ伸ばされた手。いつも、いっつも握ってたシュテンの手。これからも、いつまでも、離しはしないと思ってたその手を、でも私は。
「やだ」
握らずにそっぽを向いた。やだね、絶対。今この場で仲直りだなんて。
「あ、のさあ。地子。もうこれでお別れなのよ。それなのにこんな、喧嘩したままだなんて。
だから、ね」
シュテンが小さく一歩を踏み出す。更に近くになるその手。それでも私は握らない。
喧嘩したままでお別れなんて、そうね、それは最悪だって私も思う。だから、だから私は。
「だから今、ここでは仲直り、しない。勝負はお預け。だってこれは、さよならじゃないんだから」
私は言う。シュテンの眼を真っ直ぐに見つめて。
「いい、シュテン。
もしあんたがね、色んな理由をつけてどうしても私に会いたくないって、そう言うんならもう、私の所に来なくて良い。その時は私の不戦勝って事になるだけだから。
それが嫌ならね、百年でも千年でも万年でも、いくら経ってでも良いから私の所に来なさい。そうして今日の続きをして、それでもしあんたが勝ったらね、してやっても良いわよ。仲直り」
シュテンは応えない。て言うかまた、半開きの口で固まってる。変な顔。間の抜けてる。
そうして黙ってしまったままのシュテンの後ろ、代わりにお姉さんが身体をよじらせ肩を振るわせる。
「いやいや、うん、これはこれは。
ああ、こいつは一本取られたわね、シュテン」
そんなお姉さんの呼びかけに、固まっていたシュテンも漸く、大きな、ほんっとに大きくて長い息を一つ、それから頭に手を当てて、これは参った、って。
「勝負って言われちゃこれ、一族の名に懸けて逃げる訳にはいかないわね」
そうして笑いながら、小指を立てて持ち上げる。私とシュテン、二人の顔の間に。
「約束よ、地子。この勝負の続きはいずれ、必ず」
「うん。約束」
今度こそは躊躇わず、私はそこに、自分の小指を絡めたんだ。
「じゃあ行くよ、シュテン」
そう言って背を向けようとしたお姉さんに向けて、ちょっと待ってと、そうシュテンは声をかけた。
「世話になった家に、贈り物の一つも置いていけないなんて、それは私等の沽券に関わる。ここは一つ」
そうして座り込んで、手で以って地面の上に文字を書く。
二つの文字。天。それから、子。
「てん、こ」
「ああ、それはそれで可愛いかも知れないけど」
そう笑いながら立ち上がり、シュテンは私に向かって言った。
「てんし。これは」
「てん、し」
「そう、てんし。
これが私からの贈り物。これから天の道を往く地子に贈る、新しい名前」
ちょっとまだ、うまく理解できなくて不思議な顔をしてる私に、シュテンは笑って、実は自分もって。
「大きくなったら名前を変える。よくある話よ、それは。
私のシュテンって名前だってね、実は故郷を離れてからつけたものなの。それ以前は違う名前だったんだから」
腰に両手を当て、眩しい笑顔で白い歯を見せてくる。
「あんたはこれから地上を離れ、そうして天界に行く。だから名前も、大地の子から天の子へ、地子から天子になる。
どう、素敵でしょ」
名前。私の新しい名前。天子。
私とシュテンは、これから違う道を歩く。もう、一緒には居られない。
でも。
これからはこの名前が、彼女のくれた贈り物が、ずっと私と一緒に居てくれる。そうしてそれはきっと、私とシュテン、二人の思い出と約束とを確かにそこへ宿す、そんな誓いの印として在ってくれるのだろう。
「ありがとう、シュテン」
私はなる。天子に、なるんだ。
「さあ、これで。行くね、私達」
そうしてお姉さんの所に歩み寄ったシュテンに、でも私は、待って、そう言って引き留める。一つ、あと一つだけ。
「名前、教えてよ。シュテンの昔の名前」
シュテンは知ってる。私の二つの名前。これ迄の私だった地子と、これからの私である天子とを。
でも私が知ってるシュテンの名前は一つだけ。それちょっと、不公平だもん。
思案顔でうんうんと唸るシュテン。それを見て、いい機会じゃないか、そうお姉さんが言う。
「シュテンってのはさ、大江山の頭領としての名前だろう。山を追われたあの日、シュテンは死んだんだ。人に伝わる話では、そうなってる。
だったらさ、あんたもその名前、この機会に生まれた時のものへと戻しちゃどうだい」
お姉さんの言葉に、そうかな、でも、と、まだ暫くはぶつぶつやってたシュテンは、けれどやがて。
「そうね、確かに。うん、それもそうだ」
手を組んで何度も頷いて見せた。
「よっしゃ」
シュテンは私の前に立つ。両手は握って腰に当て、足は大きく開き、背筋はぴしっと真っ直ぐ、にかっと開いた口に真っ白な歯を覗かせ、お昼の太陽から降り注ぐ強い輝きの中で、そうして大きな声で言ったんだ。
「よおく聞きなさい、比那名居天子っ! 我が名は伊吹の――」
強い風が奔った。彼女の頭を覆っていた布が、吹き飛ばされて開かれた空の向こうへと消えて行く。
風に舞う長い髪。日の光を受けて綺麗に輝く亜麻色。
そして、そこには――……。
◆
3.また、夏が来て
「あーああ、退屈だねえ」
私は溜め息と共にそう漏らした。
私が幻想郷に戻ってすぐの頃は良かった。いつの間にか幻想郷に住んでた月の賢者がまた自分達の都合だけで勝手に月を弄くって、それに怒った紫が霊夢達を連れて殴り込みかけたり、その暫く後には、六十年に一度しか出来ない花見を楽しんだり。
でも最近は、何も面白い事が起きない。
いや、別に、本当に何も無かったって訳でもない。去年の秋頃には、外の世界からやって来たとかいう神様が妖怪の山に神社を作り、それが原因で霊夢と一悶着起こしたりって、そんな事もあった。
でもまあそれは、言うなれば神社同士でのごく私的な諍いの訳で。実際紫も私も、それから山以外の妖怪の誰も、この件には手を出さなかった。それでも結局、今では問題なく収まってるみたいだしね。ま、新しい神様のせいで山の妖怪達が変に力をつけ過ぎちゃったら、それは紫も関与を考えるかも知れないけど、今の所はまだ特に問題も無く、様子見って感じ。
そもそもね、新しく山に来たって神様、聞いた話じゃどうも、諏訪湖に宿る神様らしいじゃないのさ。
妖怪の山とは神代の、富士山に頭を砕かれて背を低くする前の八ヶ岳。そうしてその妹である蓼科の山が砕かれた姉を見て、流した涙の溜まって出来たのが諏訪湖。
両者の関係は深い。諏訪湖の神様が妖怪の山で受け入れられる、そりゃある意味当然なのよ。霊夢が変に動いたりしなきゃ、そもそも騒ぎだって起こらなかったんじゃないかしら。
て言うかまあ、本音言うと私もその時、面白そうだからって山に入ろうとしたんだけどね。そうしたら天狗も河童も、すっごく困った顔して。だからやめた。
世知辛いわねえ、ほんと。ま、騒ぎが収まったらいつでも、と、そうフォローは入れてくれたから良いけどさ。
そう言えばその前、じゃなくて、後だったかしら、よく覚えてないけど確か、紫んとこの狐が私の所に来て、また月に攻め込むからああだとかこうだとか、そんな事を言ってきてた気もする。まあ、興味も無かったんで右耳から左耳、そのまま流してしまったからなあ。
それからちょっと後、紅魔館でパーティーがあって、あのお子様吸血鬼が霊夢達と一緒に月へ、ええと、もうそろそろ出発するんだっけ。いや、もう出発はしたんだったか。じゃなくて、帰って来てたかも、既に。
あれ。ええと、あれれ。
やっばいなあ。記憶があやふや。年は取りたくないもんだねえ。て言うか、呑み過ぎのせいかしら、もしかして。ううむ、これはちょっと、量は控えた方が良いかも。取りあえず、寝起きの酒は二十杯から十五杯に減らすか。来週から。
ま、それは兎も角。
「ほんと、退屈だわ」
私はまた呟いた。
「退屈って、のんびり出来る分には、あたいとしては有り難いけどね」
そう言って杯を傾ける今日の呑み相手。
彼女は今の幻想郷では珍しく、真っ直ぐで捻らない性格をしている。それが私の気には合って。こうして偶に、一緒に酒を呑む。
今日もこれ、散歩をしてたら川の畔、薄い霧の中で真っ昼間からぐうぐうと、だらしなく涎もたらして。で、私が近寄ったら急に飛び起きて、お酒の匂いを嗅いじゃあもう仕事は出来ない、とか言って。いやいや、端からしてないでしょ、仕事。
ま、そういう性格が気に入ってるんだけどね。一緒に居て面白い。
「やっぱりね。のんびりできるってぇのが一番よ。うん、ほんと」
「あんたは暢気ねえ。そんな立派な得物を持ってるって言うのにさ。泣いてるんじゃない、それ」
私は冗談めかして笑いながら、彼女の抱えている大きな鎌を指差す。
「いやこれは、そういう物じゃないし」
「そういう物じゃなきゃ、どういう物よ」
「演出さ。演出用の小道具みたいなもん。
ほら、一般的なあたいらのイメージって、大きな鎌を持ってって、そんな感じだろう。うちに来るお客さんも、当然そう思ってる。そう期待してる。
だからね、それを裏切らない為の演出の一環。言うなればサービス、サービス」
ああ、言われてみれば確かに、そういう話だった気がする。
「ま、昔はどうか知らないけど、今じゃあそれこそ、お迎え担当の子だって実際に使う事はまず無いし」
そこまで言って彼女は、そう言えば、と手を叩く。
「お迎えと言えば、一つ面白い話が」
人差し指を一本、上に向ける。
「これの、担当の子の話なんだけどさ」
「人差し指専門のお迎えかい。どれだけ閑職なんだか」
「いやいやそうでなくて、上、天界担当の子って事」
天界。ああ、天人を担当してるって事か。
「天人には基本、寿命が無いって言うか、寿命を無視するからね。普通の人間相手と違って、天人担当の子はただ死ぬのを待つだけじゃなく、実際天人を死に誘わなきゃいけないんだけど。その方法ってのは」
ああ確か、天人五衰の一つ、頭上華萎を仕掛けるんだったかしら。
「除草剤でも持ってくとか」
「いや、違うし」
「んじゃあ、その鎌でばっさりと」
「いや、そうでもなくて。
ま、精神を揺さぶるわけよ。あれやこれや相手の迷い、心の隙間を突付いてさ」
小難しくって自分にはとても出来ないけど。そう笑って彼女は続ける。
「とは言え、天人ってのはそもそも、悟った変人ばかりだからね。こっちが何言っても気にせずにずっと寝てたり、殺生これ何ぞや、とか何とかで逆にこっちへ問いを投げてきたり、酒や桃を振舞ってどんちゃん騒ぎを起こして有耶無耶にしたり、あの手この手でのらりくらりとかわしてくる訳だ」
「そりゃまた面白くもない」
もっとこう、真正面からがつんとぶつかり合った方が楽しいだろうに。
「面白いのはここから。
その、天人担当の子が言ってたんだけどさ。そうした変人揃いの天人の中、更に変わった、それこそ破天荒って言って良い位のが居るらしくって」
「と、言うと」
「その子、天人担当になってから長いから、その天人とも何度も顔を合わせてるんだけど。
毎度毎度、お迎えに行く度に、待ち構えてたかの様にどっか高い所から飛び降りて来てさ。でまあ、何かの術なんだろうけど、自分の腰の辺りにこう、文字を浮かび上がらせて、名前を表示して見せるんだって」
「そりゃまた、えらい自己顕示欲の強い」
「で、適当に二言三言を交わしたら、何処からともなくでっかい石を持ち出して。それをぶん回しながら襲って来るそうなのよ」
「そりゃ、また」
私は言葉を失った。それを見て、満足げに首を縦に振る呑み相手。
「吃驚したろう。あたいだって、これを聞いた時は驚いたさ。あたいら相手に、物理的に反撃してくる天人だなんて」
驚いた。確かにそうだ。それもある。けれど。
「その子もさ、今じゃもう完全に諦めちゃってて。何せまともに話一つ聞いてくれやしないんだ。もうこの頃は、取りあえず行くだけは行って、ちょっとだけ話したら、暴れられる前にさっさと放って帰って来てるそうよ。
まあでも、あたいとしてはむしろ、そういう面白い奴、興味あるんだけどね。あたいは船頭だけど、もしか機会が在ったなら相手してみたいなって」
「ああ、ごめん。ちょっと、その」
私は彼女の言葉を切って、そうして訊ねた。
天人としてあり得ない、余りにも俗っぽいその行動。それにちょっと、思い当たるものが有ったのだ。
「その天人、何て言う名前か、知ってるの」
「勿論。確か、ええと」
◆
もうそろそろボスが怖いから。そう言って彼女は去った。て言うか、そろそろどころかもう完全にアウトでしょ、これ。サボって居眠り、やっと起きたら今度は勤務時間中に酒盛り。彼女のボスならこの程度、当然お見通しだろうし。お説教確定ね。
彼女が居なくなって、私は周囲を見回す。川の畔、霧はもう見えない。代わりにほんの僅か、まばらに降ってくる雨。
空を見上げた。山の上の上のずーっと上、大きな雲。そうしてそれは、ちょっと見ただけでは判らない位、ほんのりと緋色に染まって。
ああ、やれやれ。これに気付かなかったなんて、ほんと、自分で自分が情けない。年のせい、いや、酒のせいか。量、減らさなきゃ。とりあえず、朝食時は五十杯から四十五杯までに減らして。来月から。
空を見上げ、雲を見つめ、そうして思い出す。
あの頃の事。
結局あの後まもなく、私等は紫との契約によって地底に潜る事になった。
それから永い時を経て、こうして私は地上に戻って来た訳なんだけれども。
戻って最初に、天界に行ってみようって、そんな気も無くはなかった。でも行かなかった。行けなかった。
あの子もきっと今頃は、立派な天人になってるに違いない。そんな所に私が今更に顔を出したって、むしろ迷惑になってしまうんじゃあないかって。
て言うより本音は、怖かったのよね、少し。あの子は絶対、私の事は忘れてる。それは仕方ない。で、立派な天人が、突然に天界へやって来た見ず知らずの奴に対してどんな態度を取るか。
そんなの簡単に予想できる。だから私は躊躇った。もう少し、もう少し様子を見てからって、そう自分を誤魔化しながら。
あーああ。こんなの、未だ地底に居るあいつが見たら、また怒るだろうな。あんたのその性格、我等一族に在って誠実さに欠けるって。うん、自覚は有るんだけどね。どうも。
あの子と別れた時もそうだった。もう会えない、会わないからって、情を切ろうとわざとに冷たく振舞おうとしたりもして。
嘘とまでは言わないけど、でもちょっぴりのほんとじゃないものをいくつも並べて、それを壁にして予想される怖いものから身を護ろうとして。
まあでも、若しかしたらそうしたあれこれ、杞憂だったのかも知れない。天を見上げて私は思った。
何て雑な気の萃め方。まだ大した大きさ、濃度でもないって言うのに、殆どが天気となって漏れてしまってる。こんな下手糞な雲を作って、一体何をする心算やら。
まあ、大体の予想はつくけど。
まったく。もうあれから、どれだけの時が経ったと思ってるのよ。進歩の無い子ねえ。
さっき聞いた話も鑑みるに、あの子、どうもあんまり、ちゃんとした天人には成れてない様だ。ま、当然か。大した修行もしてない小さな子供が突然に天界に行って、それでそうそう、まともにも成長できないか。あの子の性格なら尚更。
やれやれね。こんなんじゃきっと、天界でも腫れ物扱いにでもされてるかも知れない。困ったものだわ。
ここは一つ、私が。
あの子は確かに、普通の天人じゃあないのだろう。それでももう随分と永い時は経った。それでもまだ天界に居られてるって事は、曲がりなりにでもあの子が自分の立つ場所を確保できてるって、そういう事。それならもう、私が行っても。
ああ、でも。ふと思った。
今のこの幻想郷、例え私が動かなくっても、絶対に誰か、異変に気付いて、そうしてあの子を止めに行くだろう。それは霊夢か魔理沙か、はたまたそれ以外の誰かか。いずれにせよどいつも変人揃い。
そんな変人共だから、今の幻想郷に居る彼女等は、もしかしたらあの子とも、ちっとは気が合うんじゃなかろうか。そんな気もする。私が幻想郷に戻って来た、その時と同じ様に。
さてここ私、様子見、それでいった方が良いのかなあ。
そんな事を考えながら。
でも。
「やれやれ。取りあえず、第一関門は天狗って事になるのかしら」
私は大きく肩と腕とを回した。最近やること無くて、身体、なまってるからねえ。ちょっとは気合も入れなきゃ。
私が顔を出さなくても、多分、きっと、今の幻想郷なら上手くいく。
でも、それでもやっぱり、あの子の前に一番の最初に顔を出す、それは出来れば私でありたかった。約束を破るのも勝負に負けるのも、どちらも我等にとっては我慢のならない事だし、ね。
様子を見るってんなら、あの子の傍まで行って、そこで見守ってやれば良いんだし。
あの子は絶対、私の事は覚えてない。それは確実。そういう仕組みになってるんだから、それは仕方ない。期待もしない。
見た目もきっと、変わってるだろうな。あんな経緯で天人となったんだ。最初の内は見習いと言うか、完全な不老では居られなかっただろうし。それ以前、髪や目の色だって変化してるかも。
でも、その辺りの事は、まあどうでも良いさ。お互い、これから時間はたっぷりと有るんだ。だから。
それに、天人として余りにも無茶苦茶なこの行動。これはもしかしたら、はっきりとした記憶としてではなくても、心の奥底の何処かに、私と過ごした日々が僅かにでも残ってるから。そういう事なのじゃあないのかしら。
私としても、それを期待してあの子に新しい名前をあげたんだし、ね。
さてさて。それじゃあ。
私は久しぶりに山を登る事を決めた。古くの友人に、はじめましての挨拶をしに行く為に。
天地之道、極則反、盈則損。
ねえ、あんたあの日言ったよね。夏はいつか必ず終わる、だから好きじゃないんだって。
確かにその通り。夏の天辺に登りつめた命の輝きは、その後はもう、落ちて行くしか道も無い。
でもね。
秋に紅葉の散るのと共して地に落ち、やがては冬の白さの中に埋もれ、けれどもその底に在っても決してそれは失われる事は無く、いつかは雪も融け、春の生き返る世界の中で目を覚まして。
そうして、ほら。
夏はまた、やって来た。
天子の過去話・・・で、いいのかな? 天人になる前の話みたいだし。
スムーズに読むことができました。
こういう天子も良いですね。
最後の衣玖さんの天子に対する言葉も面白かったです。
天子に、萃香に、勇儀に、幸ある未来を願います。
彼女らには幸せが似合います
すいてんがこの調子で増えてったらいいなぁ
てん・・・てんs・・・てんこあいしてる!
話の長さが気にならずサクサク読めました。面白かったです
いい話だなー
いや、いい話でした。担当の死神苦労してるなあ……
というか過去話だというのにここまで東方キャラを登場させた手腕に感服。
話も面白いし、ケチのつけようがないねっ!!
世界を狙えるハイキックで鬼を黙らせる娘さんですね。わかります。
しかし天子さんはどんどん素敵なキャラになっていくなぁ。
勇儀も脇役ながら最後まですごいいい役回りだったと思います
>脳内地子ちゃんボイスは素手で怪人を悶絶させる最強女の子
つまり姫様の声がメロンパn(ry
登場人物全てが活き活きとしてていいなあ、特に天子ちゃん