夏が過ぎてゆく。
里から祭り囃子が聞こえてくる。梅雨が終わり、稲の腰が座るまで忙しかった人間たちの束の間の憩いだ。農事との関わりなど、外の世界では形骸化した夏の祭りも、この地においては密接に結びついている。
杯に注いだ酒を呷って萃香は息をつく。いつもは瓢箪から直飲みするのだが、たまにこうやって手間をかけるのも悪くない。
魚の背骨のように節くれだった丘陵が、人里の灯の背から立ち上がり、萃香の居る斜面までつづいている。かすれた雲に三日月が角を生やしている。風のかたちに凪ぐ水田は雲を通した夜明かりににぶく輝き、丘をはさんで景色に艶を持たせている。開きの干物みたいな眺めだと思い、我ながら酔っ払いの発想だと萃香は苦笑する。
峠道に沿って明かりが灯る。ぽつり、ぽつりと点いたり消えたりしながら移動していく。興奮した若い衆が無茶をやっているのだろう。こんな晩には、普段は危険な妖怪も人に道を譲る。怖れるからではない。松明を持って走り回る若者たちを暗がりから見つめる眼には、きっと常ならぬ好奇心が浮かんでいるだろう。
谷のふもとに溜まっていたぬるい風が、萃香の頬をなでて上っていく。眼を閉じると、昼間の光と熱が、砕けた硝子みたいにまぶたの裏に散らばる。
騙されたと思って覗いてごらんよ。
ささやいた娘の言葉は、今にして思えばまるで人を攫う妖怪の甘言のようだった。
娘、と名前も聞かずに呼ばわったのは萃香の意地だ。ずっと歳若いくせに人間はなりばかり大きくて、妖怪を見下すから。
村はずれの、小川が脆い土を割って落ち窪むほとりに、娘の両親が拓いた小さな畑があった。通うに不便で川べりの砂利だらけの土地しか与えられていなかったのは、何か訳があったのかもしれない。
川にさしかかるように、根の太い樟が斜めにそびえて、ぽっかりとその懐に開いたうろに顔を差し向けて、後ろ手に娘は招くのだ。
ほら、はよ。景色が逃げちゃうから。
萃香は呆れていた。初めて会った、しかも鬼に向かって、そんな親しげな態度をとることに。
そしていささか腹も立てていた。自分を恐れないことに。侮られていると。
娘を押しのけるように、うろを覗いた。
集落があった。娘の暮らす小さな村だ。日差しに焼けたような藁屋根に、鎮守の森がこんもりと被さり、水にうるむ稲田が段々に取り巻く。西の空へ駆け上がる峠の手前には小さく卒塔婆が並び立ち、切通しになって山肌へ切れ込む道のずっと向こうには海が、杯に注いだ酒のような格好で広がっていた。
何のこともない、古い樟は幹が腐り、突き通して穴が開きそこから向こうが見えるだけなのだ。
娘はそれを宝物と呼んだ。
ね、ぜんぶ、ぜーんぶ見えるんがの。
萃香の耳元で、彼女は息を弾ませる。うぶ毛が肌に触れて、萃香は、仲間の鬼や妖怪たちが人を喰らったことを話す、得意そうな顔を思い出す。
それはどこか哀しそうでもあった。人間は、存在が確かすぎるのだ。ねたましくなるくらいに。
樟の葉陰に二人座って、娘の持ってきた握り飯を分けてもらって食べた。お返しにと酒を勧めたが、娘は笑って首を振るばかりだった。
どのくらい昔のことだったろう。
太鼓の音が止む。萃香は、その身を横たえたまま、ふわりと舞い上がった。
木立の先端をかすめるように斜面を降りていくと、人の気配が夏の夜気に混じり出す。くぐもった笑い声だったり、子供のむずかる声だったり、それらは泡のようにはじけ、萃香の全身を柔らかく叩く。
――鬼っ子、そんがに急いで食べなくても、まらあるから。
どれだけ昔のことだったろう。夏の颪に乗って山々を旅していた萃香の会った娘の顔かたちは、かなりおぼろになっている。なのに、若鮎のように弾んだその声だけは、あざやかに耳の中で蘇る。
里の広場が見えてくる。踊りの輪がほぐれて、提灯をつるした露店の前にはたくさんの人がつめかけている。大きな銀杏の根元で老人が琵琶を弾く。人を呼び止めた黒装束が奇術を始める。おしろいを塗った子供が走り回る。
収穫の後の祭りなら、わらべ歌舞伎に大道芸、人も妖怪も交えての相撲大会と、演し物もさらに盛りだくさんとなるが、夏の宴はこれから夜更けにかけて、これといった大がかりな催しも無く、だんだんと人足が退いていくだけだ。それでも、今まさに広場の松明に薪が足される。再び太鼓が軽快に打ち鳴らされる。酒を酌み交わしたり踊ったり、人々は思い思いに残る暑気の下で過ごす。
空気が震えた。名も知らぬ、空を飛ぶ妖怪が萃香の頭上を駆け抜けていく。不器用な虫のようにジグザグの軌跡を描きながら、その眼は広場の明かりに釘付けだ。離れているとはいえ、鬼である萃香の気配に感づきもしない。やはり祭りの夜は、特別なのだ。
だから思い出すのだろうか。
「おっと」
先に人間に気づかれた。広場の隅で、浴衣姿で子供を抱いた母親が訝しげに見上げるのに、萃香は笑みを返してから、おもむろにその身を拡散させた。
疎密をあやつる能力。見上げる人間には、萃香の姿がいきなりかき消えたようにしか見えないだろう。
そのまま、霧のような姿でゆるゆると暗い森を抜けていく。さきほど向かい合っていた岩だらけの斜面に生える、古釘のように折れ曲がった丈の高い杉のてっぺんに、萃香はわだかまった。
大気に溶け込んだ身に響く、遠くなった人いきれ。萃香はそこに、自分のことを表す言葉を探しかけ、すぐにやめた。急いで姿を隠す必要などなかったのだ。
ここは、外の世界とは違うのだから。
背後の湿地から流れてくる冷えた風が草むらをかき分ける。月はすっかり雲に隠れた。
天地の底で秘密そのもののようにまたたく人の明かりを、包み込むようにして萃香は、自身の密度を薄める。
鬼が出たぞ。攫われるぞ。喰われるぞ。悪い子にしていると――。
そんな声はもう聞こえない。
――鬼っ子。
いつかの娘とは、ただ一度きりの交わりだった。夕刻、別れ際にねだられ、萃香は翌日また同じ場所で会うことを約束する。
その契りは、果たされなかった。
広がっていた萃香の知覚が、どこかで大きくかき混ぜられる。見当をつけたあたりを目指して意識を束ね、密度を高めていく。
湖へと続く葦の茂みの上を漂っていく。一面弾幕のようにあたりを圧していた蛙の鳴き声が、ふとした瞬間ぱたりと止んだ。
「こんちくしょーっ!」
大人の背丈ほどもある葦ががさりと分けられ、飛び出してきたのは湖のあたりで見かける妖精――青い服に透明の羽根を持つ氷精だ。
(おや、珍しい)
萃香は、声にならないつぶやきを漏らす。頬を紅潮させた氷精は萃香に気づきもせず、矢のように飛び上がり、高速で羽根を震わせながら腕を振る。生み出された拳大の氷の楔が、一散に吸い込まれたのは葦原を囲む潅木の茂み。そこで、金属をこすり合わせるような奇妙な音がした。
萃香は川霧の流れている上空に注意を向ける。氷精は自分の弾幕を飛ばした方ばかり見つめ、全く頭上に気を払っていない。
そこに、ぱくりと細長い口が開く。夜空より昏いその隙間から降り注いできたのは、たった今氷精の飛ばした氷のつぶてだ。
「い、いたたたたっ!」
氷精は身をよじって転げまわる。つぶては萃香の身にも穴を穿ち、葦の葉に柔らかくはじき返される。蛙がのどかに歌を再開する。
やがて、一度ぴくりと発光した隙間に白い指がかかり、ひょいと姿を現した美女が、空に腰をかけるよう格好で静止した。夜明かりを映す面立ちに、つややかな唇がにぃっと剣呑な笑みを浮かべた様は、彼女の生み出す隙間にそっくりだ。
「元気ねえ」
氷精はようやく立ち直り、目をしばたいてにらみつける。頬をひきつらせてぎこちない笑みを浮かべて、にっくき相手に気づかれないよう、そろりそろりと浮き上がっていき――。
「すきありっ!」
後ろ手に隠して膨らませていた氷の弾、およそ氷精の頭ほどあるそれをいきなり投げつけた。
中空の美女の動作は、優雅ですらあった。
「い、いたたたたたっ!」
全く同じ光景が繰り返される。届いたと見えた瞬間、氷弾は粉々に砕け散り、細かな破片になった後は重力に従ったのだ。
萃香は湿地に流れ込む川のたもとまで移動する。痛くも痒くもないとはいえ、霧になった体に何度も穴を開けられるのは愉快ではない。
体の前でくるくる回した日傘からひょいと顔を覗かせて、隙間の妖怪はゆるやかに宙を滑った。
「嬉しいわ。貴方のような子供が、子供らしく泣き喚ける場所。ここがそういう地であり続けることこそ、私の本懐なのだから」
「あたいは子供なんかじゃ、いたいいたい!」
「ふふふふ。これは貰っておくわね。哀しいくらい、奇麗で純な氷」
「ふ、ふん。これに懲りたら、二度とくるなー!」
たんこぶをつくった氷精の捨て台詞。飛び去るその背を見送りながら、薄まった萃香の漂う傍に下りてきた彼女の手に光るのは、小さな氷のかけら。それを首筋に当て、ほう、と息を吐いた横顔が引きつり、振り向いた瞳には怪訝な色が浮かんでいる。
「悪趣味ね。相変わらず」
一気に密度を高め姿を現し、萃香はひょいと着地した。
「あれ、気づいてなかったの。こりゃますます珍しいわ」
萃香を見つめる瞳が苦々しく引き絞られる。
「紫、一杯やる?」
突きつけられた瓢箪の前で、白い顔がゆっくり左右に振られた。
萃香は瓢箪の栓を抜く。
「じゃあ失礼して」
流し込んだ酒は、喉元で渦を巻き、苦い後味を残した。
******
朝の村を見せたいのだと、洞から見える日の出は特別なのだと、娘はまるで自分のことのように得意気だった。
「鬼と約束なんかして、もしも破ったら、どうなるかわかってるの。頭から丸呑みしちゃうよ?」
そうやって脅かしてみてもどこ吹く風、萃香はついに根負けする。指きりをして家へと戻る道すがら、娘は何度も振り返って大きく手を振った。
萃香は一晩を森で過ごした。何故かその夜は寝付けなかった。
夜が白み、洞のある樟のところまで行くと、娘はすぐにやってきた。
ところがである。萃香がどれだけ呼びかけても娘は返事をしないのだ。目の前まで近寄っても、肩に手を置いてみても、きょろきょろあたりを見回しているばかり。業を煮やした萃香が樟の枝を揺らしても、足元の石を蹴飛ばしても、そのたび不安げな目を向けるものの、結局所在無げにうつむいてしまう。
――鬼っ子。
ついに娘の方も、萃香に呼びかけ探しはじめる。もちろん萃香は答えるが、やはり娘が気づく様子はない。
ついに夜が明ける。村落の背後の稜線から長い影が伸びる。白ちゃけた光が田畑を照らして、萃香は苛立ちのあまり天を仰いで叫んだ。山が揺れ、木の葉が舞って、それでも娘は見当違いの方を向いている。
やがてあきらめたのか、肩を落として娘は自分の畑の草むしりを始める。その周りを飛び回って呼びかけても、もう娘は顔を上げようともしない。
昼前に空が翳り、雨が降り出した。娘は村へと戻っていき、萃香は一人取り残された。
雨は段々強くなる。風も吹いてきた。洞のある樟の枝の下で、萃香は娘の去った方を向いて、立ちつくしていた。
白く熱していた心が、冷えて沈んでゆく。そぼ濡れる自分の腕を、奇妙に新鮮な気分で萃香は眺めた。訳がわからない。裏切られた、という思いだけが水に浮く油のように宙ぶらりんになっている。
ひときわ強く風が吹き過ぎたとき、萃香は咆哮し、力任せな拳の一撃を樟の幹にたたきつけた――。
「過去を振り返るのは、人間の特権だわ。妖怪じゃない」
くすり、と意地の悪い笑みが聞こえたのを、萃香は気づかない振りをする。
「何も言ってないじゃない」
「何も言わないからよ」
瓢箪を傾けてねめつけても、畳んだ日傘から覗いた目はとっくに逸らされている。いらいらするほどゆっくりした手つきで、紫はその傘を開いた。
「雨が来るわね」
すっかり月の隠れた空を見上げ、紫はふわりと舞い上がった。追いかけて萃香が飛び上がると、里の明かりは随分つつましくなっている。
「祭りも終わりか」
「そうね」
「ずいぶんはしゃいでいたじゃん。やっぱりあんたでも、人の祭りは特別?」
「何のことかしら」
「夜中にこんなところまで出張ってきたり、子供の喧嘩を買ってみたりさ。ものぐさで高慢ちきな紫らしくもないじゃん?」
「やっぱり悪趣味ね、貴方」
後ろ手に開いた隙間に、紫は乱暴に半身を差し入れた。
「特別よ。特別に決まっているじゃない」
閉じる隙間に古い友人が最後に残したのは、どこかばつの悪そうにほころんだ口元だった。
低く流れてきた雲の中、萃香はふたたび身体を霧に変え密度を薄める。紫の言ったとおり、水の気配があたりに漂いはじめている。
ひときわ大きく、どおんどおんと太鼓が打ち鳴らされ、やがて静かになる。里の広場に組んだやぐらから、褌一丁にばちを持った男たちが降りてくる。食べ物を売る夜店が火の始末を始めている。眠り込んだ乳飲み子を背負い、同じく眠そうな年長の子の手を引いて、母親は家路につく。一方提灯の半ば消えた広場の端では、祭りの興奮冷めやらぬ男女が茣蓙を広げて集まり、短い歌を掛け合って盛り上がっている。それは拙くも率直な、恋の歌だ。
それらすべてを同時に萃香は見ていた。光と音とこぼれた声が身中にあふれ出すようで、天地のわからなくなるような感覚にとらわれ、萃香は急いで全身に号令をかける。暗く沈んだ竹林を、しめった風の吹く森の上をどんどん引き返し、ひと息にまとまった萃香がえいやと踏みしめた硬い地面は、妖怪の山へ続く切り立った断崖の上。
「ふう」
亀の甲羅に似た岩にぺたりと座り、瓢箪を腿ではさんで抱きかかえる。ちゃぷん、と酒が鳴り、知らず乾いた笑いがこぼれた。
「なんかつまみ、欲しいなあ」
能力を持て余しそうになったのは、久しぶりだった。
******
洞が空いて半ば朽ちた幹が、鬼の攻撃に耐え切れるわけがない。
拍子抜けするほどあっけなく、娘が宝物と呼んだ樟は根元から砕けて倒れ伏した。みるみる押し寄せる後悔に青ざめながらも、萃香はどこかさっぱりした気分だった。もとより娘を攫う気などなかったが、相手の宝物を壊したことで、自分の怒りと痛み分け、これ以上は許してやろう、などと考えていた。
斜めに叩きつける雨の下で娘の村は静まり返っている。樟の倒壊も、きっと嵐のせいにされるだろう。彼女の暮らす屋根がどれなのかわからないまま、萃香はその地を去った。
秋の間あちこち旅して、妖怪の山へと戻ってきたのは冬の初めだった。
それからほどなくして萃香は、村の娘とのあの奇妙な体験が、身近の妖怪や鬼たち相手にも起きていることに気がつく。目の前で話しかけても相手が気づかない、そんなことが何度もあった。
そこに至ってやっと、萃香は自分の身に備わった特別な力を自覚したのだ。
しばらくは夢中だった。他の鬼にはない力を持つことが得意でもあったし、思うように使いこなすには、何度も何度も繰り返し試してみる必要があった。身体を薄めている状態では声の出し方ひとつとっても違う。密度を逆に高めれば、熱や炎も生み出せる。自分の身体以外の、他者の気質のようなものまで萃められるようになったのは、何年も経ったあとのことだ。
悪戯も相当やった。かなり高位の妖怪たちでも、薄まった萃香に気づかないのだ。大天狗が厳重に隠していた古酒を、霧になって忍び込みあらかた呑みつくしてしまったこともある。
ただし悪戯にしても、ちょっとした腕試しの勝負に用いるにしても、相手に気づかれないままで力をふるい続けることは避けた。声を上げたり、それとなく気配を零したりして、自分がここに居ることを示した。正面からの腕力のぶつかり合いを好む鬼として、卑怯と思われたくなかったのもある。けれどそれ以上に萃香は、誰にも気づかれないままでいることが、無性に怖かったのだ。
それが何故かと自問したとき、いつかの娘のことを思い出した。
おそらくあのとき、無意識のうちに萃香は自らの密度を薄めていたのだ。妖怪の目すら欺けるのに、人間の娘に見つけられるわけがない。なのに勘違いをして、彼女の宝物を壊してしまった。
謝ろうと思った。はっきりした場所も覚えていないが、娘と会った村を探そうと思った。
妖怪の山を飛び出した。しかし折悪しく、人の世は動乱を迎えていた。あちこちで戦乱が起き、都では疫病が流行り、沢山の死人が出ていた。大気は行き場をなくした霊魂で満ち、人の気質や地脈は大いに乱れ、穢れと厄の吹き溜まりが至る所に出来ていた。鬼の感性は人の穢れに惹き付けられる。ほうぼうで方角を乱され、足止めされ、穢れを地の底へと流し、荒くれた人間や妖怪を退けて、萃香は彷徨った。
季節は春から夏へと流れた。ようやく、目指していた地に萃香はたどり着く。
よく晴れた午後だった。ここだ、という直感を得て萃香は薄めていた身体を萃めた。地霊の気配からそれと確信し、逆に萃香は当惑する。
目の前に広がる光景に、その直感以外に信じられる手がかりは何もなかったのだ。
家々も田畑も見えなかった。旺盛な夏草が、風に揺れているばかりだった。遮るものもなく山のふもとまで続く草原を、雲の影がゆっくり行き過ぎていく。
目を凝らせば家の土台石や、あぜ道の名残りは見つかるだろう。けれども、萃香はあえて探そうとはしなかった。あの娘はもういない。その事実だけで、ここへ来た目的は失われていた。
村に何が起きたのかはわからない。戦の跡らしきものが見当たらないのは救いだった。
遠く、空を切り取る山の稜線だけが、記憶にある通りだった。峠道の途中には荒れ果てた墓地が残り、はるか彼方に海が輝いている。
萃香の倒した樟らしい切り株が、枯草に埋もれていた。ささくれた木の肌は軽石のように乾いている。切り株の後ろから柿の若木が伸びて、娘と萃香が握り飯を食べたあたりに、一回り小さな木陰をつくっている。近くを流れていた川は崩れた土砂にせき止められ、緑に濁った小さな沼が出来ていた。
陽炎が揺れる。蝉の声が他のすべての音を占め出している。汗の流れるままに日なたに立ち、萃香は長いこと村のあった場所を見つめていた。
のちに知ったことだ。二度目に萃香が訪れるまでに、はじめて娘に会った日から、実に100年近い月日が流れていたのだった。
人の生きる尺度を知りながら、忘れていた。まあなんと取り返しがつかないほど呑気だったものか、と萃香は呆れる。思い出すたびに、呆れる。
――冷たい感触が頬にかかる。目を開き、萃香は天を見上げた。いつの間にか、粉のように細かい雨が風に舞い始めている。雲がきれぎれに流れ、月の光がわずかにこぼれる。この様子なら雨は、本降りにはならないだろう。
優しい夜だった。
ゆっくりと酒を喉に流し込む。まぶしい夏の草原が、瞼によぎる。
あれからまたどれだけの時間が流れ去ったことだろう。今は幻想郷の外に位置するあの村にも、大勢の人間が暮らしているのかもしれない。
ぶるりと背筋が震えた。言い知れぬ感情が胸元でわだかまり、どんどんふくらんでいく。ありえないことと知りながら、萃香は勘繰る。さっき身体を萃めたときに、どこかの誰かの、なまっちろい感情でも引っかけてきたんじゃないか。
足元の石を蹴り、萃香は昂然と飛び上がった。
「~~~~!」
声にならない叫びを上げて、渾身の力で手足を振り出す。勢いあまって生み出された炎の光弾が、手近の岩肌を抉る。飛び散った破片めがけ、萃香はタイミングを合わせて、思い切り拳を突き出した。岩の破片は粉々に砕け、その勢いのためか青白い火花を散らして、はるか足元の黒い森へと落ちていく。
「おいおい、物騒だな」
声は萃香の頭上から聞こえた。丈の長いスカートが影そのもののようにたなびく。
紫色の雲を背景に、箒に跨って浮かぶのは森に暮らす魔法使いだ。黒く鍔の広い帽子をとった彼女は、顔にかかった雨のしずくを手のひらでぬぐう。
「霧の雨が降る晩だね、人間」
にははと笑って元の岩場に腰を下ろす萃香に、「霧雨」魔理沙は口をとがらせた。
「あー? こちとらお前の流れ弾に危うく当たるところだったんだぞ」
「そりゃ、悪かったね。ねえ、酒のつまみになるようなもの、持ってない?」
「藪から棒になんだってんだ。……そっか萃香か。ちょうどいいか」
「何をぶつぶつ言ってるの。食べるものなくてもいいからつきあいなよー」
萃香は胡坐をかいた隣をばしばし叩く。宴会でばかり顔をあわせる相手だが、一度差し向かいで飲んでみたかった。いつも賑やかな彼女が、杯を傾けるときにたまに見せる静かな目つきが、気に入っていたから。静かに酌み交わすにはいい相手なのかもしれない。
「悪いが取り込み中だ。それで萃香――」帽子を被りなおした魔理沙の表情は闇にまぎれている。「どうせ暇だろ? ちょっと手伝えよ」
「なにを?」
「行きがかりで頼まれてな。祭りの後で、里の子供が一人、姿が見えなくなったらしい。お前の能力で探せないか?」
「お安い御用だね」
萃香は立ち上がり、大きく伸びをして――思わずため息をつく。
「なんだ、どうした?」
「迷子探しを鬼に頼むかね。よりにもよって」
帽子のつばを跳ね上げた人間の娘は、きょとんと目を丸くするばかりだった。
あまりに素直に引き受けた自分も、萃香は不思議でならない。鬼にとっての人間は、疎ましくなるほど魅力的だから、脅かしたり攫ったりするのが、一番気楽な付き合い方だから。
霧に姿を変えた萃香は、傍を飛ぶ魔理沙の頭を、子供をあやすように撫でてやる。とがった帽子の先端が揺れたが、もちろん魔理沙は気づかない。知れば面白くない顔をするだろう。せめてもの仕返しのつもりだった。
そして密度をどんどん薄めていく。意識の輪を広げて、感覚の針をむき出しにする。夜とそこに降る細かな雨が、萃香を構成する粒子ひとつひとつに沁み込むようだ。
里に近い森を松明の列が続く。先頭に立つのは、里の守護者を務める半獣の娘だ。子供を捜しているのだろう。そのあたりは任せて、萃香は意識の向きを変える。
子供の足ではそう遠くにはいかないはず。竹林の入り口、沢の岸辺、里の家々の裏手。低く薄く広がり、行きかう者たちの足音を拾う。
出来たばかりの頃の幻想郷を萃香は知っている。その頃に比べれば、妖怪が人を襲うことは滅多になくなっているが、祭りの興奮が彼らの本能に影響しないとも限らない。それに、幼子が一人うろついて安全な夜は、地上の何処にもないだろう。
(そういや男の子供なのか? 女か?)
魔理沙の気配はかなり離れている。面倒だが確かめようかと思ったところで、萃香は見つけた。
里から博麗神社へ続く獣道、そこから外れた林の中で光るものがある。
意識を向ける。古木が倒れて開けた、苔むしたゆるい斜面に、青絣の甚平を着た男の子がしゃがみこんでいた。手にしている細長い筒は万華鏡、遠目に反射したのはそれだろう。祭りの屋台で売られていたか、射的の景品だったものだろうか。
歳の頃4つ5つだろうか。女の子と見紛う長めにした髪を背でくくり、男の子は万華鏡を空のあちこちに向けて、一心に覗き込んでいる。手足を濡らす細かな雨も気にも留めず、不安げな様子もない。
姿を見せて声をかけようとして、萃香にはそれがなんとなくためらわれた。人攫いを生業とする鬼としての矜持だと思い込むが、本心はもっとせせこましいことを嫌がっている。
幸い、近くに他の妖怪の気配はない。少し離れて拡散する火弾を打ち上げれば、魔理沙なり里の守護者なりが気づくだろう。神社から見えれば、巫女も飛んでくるかもしれない。
萃香がそう考え、霧のままゆっくり移動しようとしたときだ。空の雲が割れて、久しぶりに三日月が全身を煌々と顕した。
「あれ? お姉ちゃん、だれ……?」
背後から聞こえた声に、萃香は耳――知覚を疑った。慌てて、自分の姿を見下ろしてみる。間違いなく密度は薄まったままだ。しかし、つややかに光る月明かりの下で、男の子の掲げた万華鏡の先端は、間違いなく萃香にあわせて動いている。
『見える……の?』
おそるおそる、子供に聞こえるように萃香は呼びかけてみる。
「あ! いなくなっちゃった」
男の子が小さく叫んだ。万華鏡を目から外し、きょろきょろあたりを見回す。
「どこ……? お姉ちゃん、どこなの……」
いきなり、その大きな瞳に涙が満ちる。なまじ声を聞かせたから、不安になってしまったのだろう。
『大丈夫、ここに居るから』
姿を見せてもよかったが、萃香には思いついたことがあった。
『そのまま、覗いていてごらん?』
子供はいそいそと筒を目に当てる。
「見えないよぅ」
ぐずりながら、向けた先を躍起になって振り回す。
『待って』
密度を少しだけ増して、萃香は空を駆け上がる。思ったとおり、再び月が低い雲に隠れようとしていた。
適当に火の弾を撒き散らしながら、雲をつき破る。散り散りになったかけらを残して雲は掻き消えた。
天蓋を蹴飛ばすようにして向きを変え、萃香は高速で地上へと戻る。
「あ、お姉ちゃん」
月の光が丸く照らす森の吹き抜けで、万華鏡をこちらへ向けた子供が、はしゃいだ声を上げる。
湖の上あたりで、光の軌跡が曲線をえがく。萃香の光弾に、魔理沙が気づいたのだろう。ほどなく彼女はここまでやってくるに違いない。
『ねえ、私はどんなふうに見えてるの?』
男の子の頭上で薄まったまま、萃香は尋ねた。月明かりに万華鏡が重なれば、姿が見える――。おかしな弱点もあったものだ。もしかして、特定の月齢の下だからなのかもしれない。気づく者は少なかろうが、あまり知られたいことでもなかった。
「お姉ちゃん、たくさん見える。いっぱいいるよ。お姉ちゃん……」
弾んでいた子供の声がいきなりしぼんで立ち消える。見れば、万華鏡を覗き込んだまま、その小さな体は立ちすくんでいる。
震える小さな唇が、つぶやいた。
「お姉ちゃん、大きな角……」
『あっ』
思わず実体化してしまう。姿はもう見られているんだから、どちらでも同じだと気づいたのは、姿を現したあとだ。ちみっこい萃香の見かけを怖がる者は、あまり居なかったから。
「お姉ちゃん、人じゃないんだね」
里の守護者は満月に角を生やす白沢のはずだが、子供はその姿を、おそらく知らないのだろう。
「……そうだよ」
「ぼくを、食べるの?」
地面に降り立った萃香は、男の子から少し離れて黙っていた。安心させてやる言葉は、喉元につかえて出てこなかった。もちろん、喰らう気も攫う気もない。ただどうしても、心がこわばって、動けなかった。
「こわいよ……こわいよ……」
男の子のふくよかな頬にせき止められた涙も、決壊寸前だ。履物をなくしたのか、はだしの小さな足は目に見えて震えている。その足が一歩、ずいと進んだ。
(え?)
萃香は心底驚いた。植えつけたばかりの苗木のように頼りなく震えながら、ぼろぼろ珠のような涙をこぼしながら、男の子は一歩一歩、萃香の方へ近づいてくるのだ。
生まれてこの方ついぞ味わったこともない緊張で、萃香の胸は激しく鼓動した。髪の毛一筋でも動かせば何かが崩れそうで、泣きながら近寄ってくる子供の顔から、鎖でつながれたように目が離せなかった。
男の子の背丈は、寄ってみれば萃香の肩くらいしかなかった。やがてその小さな指先が、萃香の服の裾を、遠慮がちに握る。
「こわいよぅ」
うつむいて、萃香の胸元に顔を埋めるようにして、男の子は本格的に泣き始める。しびれた足先に血の行き渡るようなむず痒さに、萃香は必死に耐え続けた。
やがて月はまた夜の帳にしまわれ、魔法使いを乗せた箒が、参道の石段を撫でて着地する。
些細な風にも霧雨は渦を巻いて降りかかる。肌の熱を奪っていくのが心地いい。
木々の間からか細い声が漏れてくる。それは膝に子を抱いた母親のささやきのようで、額をつき合わせた恋人たちのやり取りのようで。
いつまでも聞いていたいような、懐かしい思いを引き起こすのだ。
濡れた下草が足音を奪うことに、感謝しながら魔理沙は、箒をかついで近づいていった。
<了>
里から祭り囃子が聞こえてくる。梅雨が終わり、稲の腰が座るまで忙しかった人間たちの束の間の憩いだ。農事との関わりなど、外の世界では形骸化した夏の祭りも、この地においては密接に結びついている。
杯に注いだ酒を呷って萃香は息をつく。いつもは瓢箪から直飲みするのだが、たまにこうやって手間をかけるのも悪くない。
魚の背骨のように節くれだった丘陵が、人里の灯の背から立ち上がり、萃香の居る斜面までつづいている。かすれた雲に三日月が角を生やしている。風のかたちに凪ぐ水田は雲を通した夜明かりににぶく輝き、丘をはさんで景色に艶を持たせている。開きの干物みたいな眺めだと思い、我ながら酔っ払いの発想だと萃香は苦笑する。
峠道に沿って明かりが灯る。ぽつり、ぽつりと点いたり消えたりしながら移動していく。興奮した若い衆が無茶をやっているのだろう。こんな晩には、普段は危険な妖怪も人に道を譲る。怖れるからではない。松明を持って走り回る若者たちを暗がりから見つめる眼には、きっと常ならぬ好奇心が浮かんでいるだろう。
谷のふもとに溜まっていたぬるい風が、萃香の頬をなでて上っていく。眼を閉じると、昼間の光と熱が、砕けた硝子みたいにまぶたの裏に散らばる。
騙されたと思って覗いてごらんよ。
ささやいた娘の言葉は、今にして思えばまるで人を攫う妖怪の甘言のようだった。
娘、と名前も聞かずに呼ばわったのは萃香の意地だ。ずっと歳若いくせに人間はなりばかり大きくて、妖怪を見下すから。
村はずれの、小川が脆い土を割って落ち窪むほとりに、娘の両親が拓いた小さな畑があった。通うに不便で川べりの砂利だらけの土地しか与えられていなかったのは、何か訳があったのかもしれない。
川にさしかかるように、根の太い樟が斜めにそびえて、ぽっかりとその懐に開いたうろに顔を差し向けて、後ろ手に娘は招くのだ。
ほら、はよ。景色が逃げちゃうから。
萃香は呆れていた。初めて会った、しかも鬼に向かって、そんな親しげな態度をとることに。
そしていささか腹も立てていた。自分を恐れないことに。侮られていると。
娘を押しのけるように、うろを覗いた。
集落があった。娘の暮らす小さな村だ。日差しに焼けたような藁屋根に、鎮守の森がこんもりと被さり、水にうるむ稲田が段々に取り巻く。西の空へ駆け上がる峠の手前には小さく卒塔婆が並び立ち、切通しになって山肌へ切れ込む道のずっと向こうには海が、杯に注いだ酒のような格好で広がっていた。
何のこともない、古い樟は幹が腐り、突き通して穴が開きそこから向こうが見えるだけなのだ。
娘はそれを宝物と呼んだ。
ね、ぜんぶ、ぜーんぶ見えるんがの。
萃香の耳元で、彼女は息を弾ませる。うぶ毛が肌に触れて、萃香は、仲間の鬼や妖怪たちが人を喰らったことを話す、得意そうな顔を思い出す。
それはどこか哀しそうでもあった。人間は、存在が確かすぎるのだ。ねたましくなるくらいに。
樟の葉陰に二人座って、娘の持ってきた握り飯を分けてもらって食べた。お返しにと酒を勧めたが、娘は笑って首を振るばかりだった。
どのくらい昔のことだったろう。
太鼓の音が止む。萃香は、その身を横たえたまま、ふわりと舞い上がった。
木立の先端をかすめるように斜面を降りていくと、人の気配が夏の夜気に混じり出す。くぐもった笑い声だったり、子供のむずかる声だったり、それらは泡のようにはじけ、萃香の全身を柔らかく叩く。
――鬼っ子、そんがに急いで食べなくても、まらあるから。
どれだけ昔のことだったろう。夏の颪に乗って山々を旅していた萃香の会った娘の顔かたちは、かなりおぼろになっている。なのに、若鮎のように弾んだその声だけは、あざやかに耳の中で蘇る。
里の広場が見えてくる。踊りの輪がほぐれて、提灯をつるした露店の前にはたくさんの人がつめかけている。大きな銀杏の根元で老人が琵琶を弾く。人を呼び止めた黒装束が奇術を始める。おしろいを塗った子供が走り回る。
収穫の後の祭りなら、わらべ歌舞伎に大道芸、人も妖怪も交えての相撲大会と、演し物もさらに盛りだくさんとなるが、夏の宴はこれから夜更けにかけて、これといった大がかりな催しも無く、だんだんと人足が退いていくだけだ。それでも、今まさに広場の松明に薪が足される。再び太鼓が軽快に打ち鳴らされる。酒を酌み交わしたり踊ったり、人々は思い思いに残る暑気の下で過ごす。
空気が震えた。名も知らぬ、空を飛ぶ妖怪が萃香の頭上を駆け抜けていく。不器用な虫のようにジグザグの軌跡を描きながら、その眼は広場の明かりに釘付けだ。離れているとはいえ、鬼である萃香の気配に感づきもしない。やはり祭りの夜は、特別なのだ。
だから思い出すのだろうか。
「おっと」
先に人間に気づかれた。広場の隅で、浴衣姿で子供を抱いた母親が訝しげに見上げるのに、萃香は笑みを返してから、おもむろにその身を拡散させた。
疎密をあやつる能力。見上げる人間には、萃香の姿がいきなりかき消えたようにしか見えないだろう。
そのまま、霧のような姿でゆるゆると暗い森を抜けていく。さきほど向かい合っていた岩だらけの斜面に生える、古釘のように折れ曲がった丈の高い杉のてっぺんに、萃香はわだかまった。
大気に溶け込んだ身に響く、遠くなった人いきれ。萃香はそこに、自分のことを表す言葉を探しかけ、すぐにやめた。急いで姿を隠す必要などなかったのだ。
ここは、外の世界とは違うのだから。
背後の湿地から流れてくる冷えた風が草むらをかき分ける。月はすっかり雲に隠れた。
天地の底で秘密そのもののようにまたたく人の明かりを、包み込むようにして萃香は、自身の密度を薄める。
鬼が出たぞ。攫われるぞ。喰われるぞ。悪い子にしていると――。
そんな声はもう聞こえない。
――鬼っ子。
いつかの娘とは、ただ一度きりの交わりだった。夕刻、別れ際にねだられ、萃香は翌日また同じ場所で会うことを約束する。
その契りは、果たされなかった。
広がっていた萃香の知覚が、どこかで大きくかき混ぜられる。見当をつけたあたりを目指して意識を束ね、密度を高めていく。
湖へと続く葦の茂みの上を漂っていく。一面弾幕のようにあたりを圧していた蛙の鳴き声が、ふとした瞬間ぱたりと止んだ。
「こんちくしょーっ!」
大人の背丈ほどもある葦ががさりと分けられ、飛び出してきたのは湖のあたりで見かける妖精――青い服に透明の羽根を持つ氷精だ。
(おや、珍しい)
萃香は、声にならないつぶやきを漏らす。頬を紅潮させた氷精は萃香に気づきもせず、矢のように飛び上がり、高速で羽根を震わせながら腕を振る。生み出された拳大の氷の楔が、一散に吸い込まれたのは葦原を囲む潅木の茂み。そこで、金属をこすり合わせるような奇妙な音がした。
萃香は川霧の流れている上空に注意を向ける。氷精は自分の弾幕を飛ばした方ばかり見つめ、全く頭上に気を払っていない。
そこに、ぱくりと細長い口が開く。夜空より昏いその隙間から降り注いできたのは、たった今氷精の飛ばした氷のつぶてだ。
「い、いたたたたっ!」
氷精は身をよじって転げまわる。つぶては萃香の身にも穴を穿ち、葦の葉に柔らかくはじき返される。蛙がのどかに歌を再開する。
やがて、一度ぴくりと発光した隙間に白い指がかかり、ひょいと姿を現した美女が、空に腰をかけるよう格好で静止した。夜明かりを映す面立ちに、つややかな唇がにぃっと剣呑な笑みを浮かべた様は、彼女の生み出す隙間にそっくりだ。
「元気ねえ」
氷精はようやく立ち直り、目をしばたいてにらみつける。頬をひきつらせてぎこちない笑みを浮かべて、にっくき相手に気づかれないよう、そろりそろりと浮き上がっていき――。
「すきありっ!」
後ろ手に隠して膨らませていた氷の弾、およそ氷精の頭ほどあるそれをいきなり投げつけた。
中空の美女の動作は、優雅ですらあった。
「い、いたたたたたっ!」
全く同じ光景が繰り返される。届いたと見えた瞬間、氷弾は粉々に砕け散り、細かな破片になった後は重力に従ったのだ。
萃香は湿地に流れ込む川のたもとまで移動する。痛くも痒くもないとはいえ、霧になった体に何度も穴を開けられるのは愉快ではない。
体の前でくるくる回した日傘からひょいと顔を覗かせて、隙間の妖怪はゆるやかに宙を滑った。
「嬉しいわ。貴方のような子供が、子供らしく泣き喚ける場所。ここがそういう地であり続けることこそ、私の本懐なのだから」
「あたいは子供なんかじゃ、いたいいたい!」
「ふふふふ。これは貰っておくわね。哀しいくらい、奇麗で純な氷」
「ふ、ふん。これに懲りたら、二度とくるなー!」
たんこぶをつくった氷精の捨て台詞。飛び去るその背を見送りながら、薄まった萃香の漂う傍に下りてきた彼女の手に光るのは、小さな氷のかけら。それを首筋に当て、ほう、と息を吐いた横顔が引きつり、振り向いた瞳には怪訝な色が浮かんでいる。
「悪趣味ね。相変わらず」
一気に密度を高め姿を現し、萃香はひょいと着地した。
「あれ、気づいてなかったの。こりゃますます珍しいわ」
萃香を見つめる瞳が苦々しく引き絞られる。
「紫、一杯やる?」
突きつけられた瓢箪の前で、白い顔がゆっくり左右に振られた。
萃香は瓢箪の栓を抜く。
「じゃあ失礼して」
流し込んだ酒は、喉元で渦を巻き、苦い後味を残した。
******
朝の村を見せたいのだと、洞から見える日の出は特別なのだと、娘はまるで自分のことのように得意気だった。
「鬼と約束なんかして、もしも破ったら、どうなるかわかってるの。頭から丸呑みしちゃうよ?」
そうやって脅かしてみてもどこ吹く風、萃香はついに根負けする。指きりをして家へと戻る道すがら、娘は何度も振り返って大きく手を振った。
萃香は一晩を森で過ごした。何故かその夜は寝付けなかった。
夜が白み、洞のある樟のところまで行くと、娘はすぐにやってきた。
ところがである。萃香がどれだけ呼びかけても娘は返事をしないのだ。目の前まで近寄っても、肩に手を置いてみても、きょろきょろあたりを見回しているばかり。業を煮やした萃香が樟の枝を揺らしても、足元の石を蹴飛ばしても、そのたび不安げな目を向けるものの、結局所在無げにうつむいてしまう。
――鬼っ子。
ついに娘の方も、萃香に呼びかけ探しはじめる。もちろん萃香は答えるが、やはり娘が気づく様子はない。
ついに夜が明ける。村落の背後の稜線から長い影が伸びる。白ちゃけた光が田畑を照らして、萃香は苛立ちのあまり天を仰いで叫んだ。山が揺れ、木の葉が舞って、それでも娘は見当違いの方を向いている。
やがてあきらめたのか、肩を落として娘は自分の畑の草むしりを始める。その周りを飛び回って呼びかけても、もう娘は顔を上げようともしない。
昼前に空が翳り、雨が降り出した。娘は村へと戻っていき、萃香は一人取り残された。
雨は段々強くなる。風も吹いてきた。洞のある樟の枝の下で、萃香は娘の去った方を向いて、立ちつくしていた。
白く熱していた心が、冷えて沈んでゆく。そぼ濡れる自分の腕を、奇妙に新鮮な気分で萃香は眺めた。訳がわからない。裏切られた、という思いだけが水に浮く油のように宙ぶらりんになっている。
ひときわ強く風が吹き過ぎたとき、萃香は咆哮し、力任せな拳の一撃を樟の幹にたたきつけた――。
「過去を振り返るのは、人間の特権だわ。妖怪じゃない」
くすり、と意地の悪い笑みが聞こえたのを、萃香は気づかない振りをする。
「何も言ってないじゃない」
「何も言わないからよ」
瓢箪を傾けてねめつけても、畳んだ日傘から覗いた目はとっくに逸らされている。いらいらするほどゆっくりした手つきで、紫はその傘を開いた。
「雨が来るわね」
すっかり月の隠れた空を見上げ、紫はふわりと舞い上がった。追いかけて萃香が飛び上がると、里の明かりは随分つつましくなっている。
「祭りも終わりか」
「そうね」
「ずいぶんはしゃいでいたじゃん。やっぱりあんたでも、人の祭りは特別?」
「何のことかしら」
「夜中にこんなところまで出張ってきたり、子供の喧嘩を買ってみたりさ。ものぐさで高慢ちきな紫らしくもないじゃん?」
「やっぱり悪趣味ね、貴方」
後ろ手に開いた隙間に、紫は乱暴に半身を差し入れた。
「特別よ。特別に決まっているじゃない」
閉じる隙間に古い友人が最後に残したのは、どこかばつの悪そうにほころんだ口元だった。
低く流れてきた雲の中、萃香はふたたび身体を霧に変え密度を薄める。紫の言ったとおり、水の気配があたりに漂いはじめている。
ひときわ大きく、どおんどおんと太鼓が打ち鳴らされ、やがて静かになる。里の広場に組んだやぐらから、褌一丁にばちを持った男たちが降りてくる。食べ物を売る夜店が火の始末を始めている。眠り込んだ乳飲み子を背負い、同じく眠そうな年長の子の手を引いて、母親は家路につく。一方提灯の半ば消えた広場の端では、祭りの興奮冷めやらぬ男女が茣蓙を広げて集まり、短い歌を掛け合って盛り上がっている。それは拙くも率直な、恋の歌だ。
それらすべてを同時に萃香は見ていた。光と音とこぼれた声が身中にあふれ出すようで、天地のわからなくなるような感覚にとらわれ、萃香は急いで全身に号令をかける。暗く沈んだ竹林を、しめった風の吹く森の上をどんどん引き返し、ひと息にまとまった萃香がえいやと踏みしめた硬い地面は、妖怪の山へ続く切り立った断崖の上。
「ふう」
亀の甲羅に似た岩にぺたりと座り、瓢箪を腿ではさんで抱きかかえる。ちゃぷん、と酒が鳴り、知らず乾いた笑いがこぼれた。
「なんかつまみ、欲しいなあ」
能力を持て余しそうになったのは、久しぶりだった。
******
洞が空いて半ば朽ちた幹が、鬼の攻撃に耐え切れるわけがない。
拍子抜けするほどあっけなく、娘が宝物と呼んだ樟は根元から砕けて倒れ伏した。みるみる押し寄せる後悔に青ざめながらも、萃香はどこかさっぱりした気分だった。もとより娘を攫う気などなかったが、相手の宝物を壊したことで、自分の怒りと痛み分け、これ以上は許してやろう、などと考えていた。
斜めに叩きつける雨の下で娘の村は静まり返っている。樟の倒壊も、きっと嵐のせいにされるだろう。彼女の暮らす屋根がどれなのかわからないまま、萃香はその地を去った。
秋の間あちこち旅して、妖怪の山へと戻ってきたのは冬の初めだった。
それからほどなくして萃香は、村の娘とのあの奇妙な体験が、身近の妖怪や鬼たち相手にも起きていることに気がつく。目の前で話しかけても相手が気づかない、そんなことが何度もあった。
そこに至ってやっと、萃香は自分の身に備わった特別な力を自覚したのだ。
しばらくは夢中だった。他の鬼にはない力を持つことが得意でもあったし、思うように使いこなすには、何度も何度も繰り返し試してみる必要があった。身体を薄めている状態では声の出し方ひとつとっても違う。密度を逆に高めれば、熱や炎も生み出せる。自分の身体以外の、他者の気質のようなものまで萃められるようになったのは、何年も経ったあとのことだ。
悪戯も相当やった。かなり高位の妖怪たちでも、薄まった萃香に気づかないのだ。大天狗が厳重に隠していた古酒を、霧になって忍び込みあらかた呑みつくしてしまったこともある。
ただし悪戯にしても、ちょっとした腕試しの勝負に用いるにしても、相手に気づかれないままで力をふるい続けることは避けた。声を上げたり、それとなく気配を零したりして、自分がここに居ることを示した。正面からの腕力のぶつかり合いを好む鬼として、卑怯と思われたくなかったのもある。けれどそれ以上に萃香は、誰にも気づかれないままでいることが、無性に怖かったのだ。
それが何故かと自問したとき、いつかの娘のことを思い出した。
おそらくあのとき、無意識のうちに萃香は自らの密度を薄めていたのだ。妖怪の目すら欺けるのに、人間の娘に見つけられるわけがない。なのに勘違いをして、彼女の宝物を壊してしまった。
謝ろうと思った。はっきりした場所も覚えていないが、娘と会った村を探そうと思った。
妖怪の山を飛び出した。しかし折悪しく、人の世は動乱を迎えていた。あちこちで戦乱が起き、都では疫病が流行り、沢山の死人が出ていた。大気は行き場をなくした霊魂で満ち、人の気質や地脈は大いに乱れ、穢れと厄の吹き溜まりが至る所に出来ていた。鬼の感性は人の穢れに惹き付けられる。ほうぼうで方角を乱され、足止めされ、穢れを地の底へと流し、荒くれた人間や妖怪を退けて、萃香は彷徨った。
季節は春から夏へと流れた。ようやく、目指していた地に萃香はたどり着く。
よく晴れた午後だった。ここだ、という直感を得て萃香は薄めていた身体を萃めた。地霊の気配からそれと確信し、逆に萃香は当惑する。
目の前に広がる光景に、その直感以外に信じられる手がかりは何もなかったのだ。
家々も田畑も見えなかった。旺盛な夏草が、風に揺れているばかりだった。遮るものもなく山のふもとまで続く草原を、雲の影がゆっくり行き過ぎていく。
目を凝らせば家の土台石や、あぜ道の名残りは見つかるだろう。けれども、萃香はあえて探そうとはしなかった。あの娘はもういない。その事実だけで、ここへ来た目的は失われていた。
村に何が起きたのかはわからない。戦の跡らしきものが見当たらないのは救いだった。
遠く、空を切り取る山の稜線だけが、記憶にある通りだった。峠道の途中には荒れ果てた墓地が残り、はるか彼方に海が輝いている。
萃香の倒した樟らしい切り株が、枯草に埋もれていた。ささくれた木の肌は軽石のように乾いている。切り株の後ろから柿の若木が伸びて、娘と萃香が握り飯を食べたあたりに、一回り小さな木陰をつくっている。近くを流れていた川は崩れた土砂にせき止められ、緑に濁った小さな沼が出来ていた。
陽炎が揺れる。蝉の声が他のすべての音を占め出している。汗の流れるままに日なたに立ち、萃香は長いこと村のあった場所を見つめていた。
のちに知ったことだ。二度目に萃香が訪れるまでに、はじめて娘に会った日から、実に100年近い月日が流れていたのだった。
人の生きる尺度を知りながら、忘れていた。まあなんと取り返しがつかないほど呑気だったものか、と萃香は呆れる。思い出すたびに、呆れる。
――冷たい感触が頬にかかる。目を開き、萃香は天を見上げた。いつの間にか、粉のように細かい雨が風に舞い始めている。雲がきれぎれに流れ、月の光がわずかにこぼれる。この様子なら雨は、本降りにはならないだろう。
優しい夜だった。
ゆっくりと酒を喉に流し込む。まぶしい夏の草原が、瞼によぎる。
あれからまたどれだけの時間が流れ去ったことだろう。今は幻想郷の外に位置するあの村にも、大勢の人間が暮らしているのかもしれない。
ぶるりと背筋が震えた。言い知れぬ感情が胸元でわだかまり、どんどんふくらんでいく。ありえないことと知りながら、萃香は勘繰る。さっき身体を萃めたときに、どこかの誰かの、なまっちろい感情でも引っかけてきたんじゃないか。
足元の石を蹴り、萃香は昂然と飛び上がった。
「~~~~!」
声にならない叫びを上げて、渾身の力で手足を振り出す。勢いあまって生み出された炎の光弾が、手近の岩肌を抉る。飛び散った破片めがけ、萃香はタイミングを合わせて、思い切り拳を突き出した。岩の破片は粉々に砕け、その勢いのためか青白い火花を散らして、はるか足元の黒い森へと落ちていく。
「おいおい、物騒だな」
声は萃香の頭上から聞こえた。丈の長いスカートが影そのもののようにたなびく。
紫色の雲を背景に、箒に跨って浮かぶのは森に暮らす魔法使いだ。黒く鍔の広い帽子をとった彼女は、顔にかかった雨のしずくを手のひらでぬぐう。
「霧の雨が降る晩だね、人間」
にははと笑って元の岩場に腰を下ろす萃香に、「霧雨」魔理沙は口をとがらせた。
「あー? こちとらお前の流れ弾に危うく当たるところだったんだぞ」
「そりゃ、悪かったね。ねえ、酒のつまみになるようなもの、持ってない?」
「藪から棒になんだってんだ。……そっか萃香か。ちょうどいいか」
「何をぶつぶつ言ってるの。食べるものなくてもいいからつきあいなよー」
萃香は胡坐をかいた隣をばしばし叩く。宴会でばかり顔をあわせる相手だが、一度差し向かいで飲んでみたかった。いつも賑やかな彼女が、杯を傾けるときにたまに見せる静かな目つきが、気に入っていたから。静かに酌み交わすにはいい相手なのかもしれない。
「悪いが取り込み中だ。それで萃香――」帽子を被りなおした魔理沙の表情は闇にまぎれている。「どうせ暇だろ? ちょっと手伝えよ」
「なにを?」
「行きがかりで頼まれてな。祭りの後で、里の子供が一人、姿が見えなくなったらしい。お前の能力で探せないか?」
「お安い御用だね」
萃香は立ち上がり、大きく伸びをして――思わずため息をつく。
「なんだ、どうした?」
「迷子探しを鬼に頼むかね。よりにもよって」
帽子のつばを跳ね上げた人間の娘は、きょとんと目を丸くするばかりだった。
あまりに素直に引き受けた自分も、萃香は不思議でならない。鬼にとっての人間は、疎ましくなるほど魅力的だから、脅かしたり攫ったりするのが、一番気楽な付き合い方だから。
霧に姿を変えた萃香は、傍を飛ぶ魔理沙の頭を、子供をあやすように撫でてやる。とがった帽子の先端が揺れたが、もちろん魔理沙は気づかない。知れば面白くない顔をするだろう。せめてもの仕返しのつもりだった。
そして密度をどんどん薄めていく。意識の輪を広げて、感覚の針をむき出しにする。夜とそこに降る細かな雨が、萃香を構成する粒子ひとつひとつに沁み込むようだ。
里に近い森を松明の列が続く。先頭に立つのは、里の守護者を務める半獣の娘だ。子供を捜しているのだろう。そのあたりは任せて、萃香は意識の向きを変える。
子供の足ではそう遠くにはいかないはず。竹林の入り口、沢の岸辺、里の家々の裏手。低く薄く広がり、行きかう者たちの足音を拾う。
出来たばかりの頃の幻想郷を萃香は知っている。その頃に比べれば、妖怪が人を襲うことは滅多になくなっているが、祭りの興奮が彼らの本能に影響しないとも限らない。それに、幼子が一人うろついて安全な夜は、地上の何処にもないだろう。
(そういや男の子供なのか? 女か?)
魔理沙の気配はかなり離れている。面倒だが確かめようかと思ったところで、萃香は見つけた。
里から博麗神社へ続く獣道、そこから外れた林の中で光るものがある。
意識を向ける。古木が倒れて開けた、苔むしたゆるい斜面に、青絣の甚平を着た男の子がしゃがみこんでいた。手にしている細長い筒は万華鏡、遠目に反射したのはそれだろう。祭りの屋台で売られていたか、射的の景品だったものだろうか。
歳の頃4つ5つだろうか。女の子と見紛う長めにした髪を背でくくり、男の子は万華鏡を空のあちこちに向けて、一心に覗き込んでいる。手足を濡らす細かな雨も気にも留めず、不安げな様子もない。
姿を見せて声をかけようとして、萃香にはそれがなんとなくためらわれた。人攫いを生業とする鬼としての矜持だと思い込むが、本心はもっとせせこましいことを嫌がっている。
幸い、近くに他の妖怪の気配はない。少し離れて拡散する火弾を打ち上げれば、魔理沙なり里の守護者なりが気づくだろう。神社から見えれば、巫女も飛んでくるかもしれない。
萃香がそう考え、霧のままゆっくり移動しようとしたときだ。空の雲が割れて、久しぶりに三日月が全身を煌々と顕した。
「あれ? お姉ちゃん、だれ……?」
背後から聞こえた声に、萃香は耳――知覚を疑った。慌てて、自分の姿を見下ろしてみる。間違いなく密度は薄まったままだ。しかし、つややかに光る月明かりの下で、男の子の掲げた万華鏡の先端は、間違いなく萃香にあわせて動いている。
『見える……の?』
おそるおそる、子供に聞こえるように萃香は呼びかけてみる。
「あ! いなくなっちゃった」
男の子が小さく叫んだ。万華鏡を目から外し、きょろきょろあたりを見回す。
「どこ……? お姉ちゃん、どこなの……」
いきなり、その大きな瞳に涙が満ちる。なまじ声を聞かせたから、不安になってしまったのだろう。
『大丈夫、ここに居るから』
姿を見せてもよかったが、萃香には思いついたことがあった。
『そのまま、覗いていてごらん?』
子供はいそいそと筒を目に当てる。
「見えないよぅ」
ぐずりながら、向けた先を躍起になって振り回す。
『待って』
密度を少しだけ増して、萃香は空を駆け上がる。思ったとおり、再び月が低い雲に隠れようとしていた。
適当に火の弾を撒き散らしながら、雲をつき破る。散り散りになったかけらを残して雲は掻き消えた。
天蓋を蹴飛ばすようにして向きを変え、萃香は高速で地上へと戻る。
「あ、お姉ちゃん」
月の光が丸く照らす森の吹き抜けで、万華鏡をこちらへ向けた子供が、はしゃいだ声を上げる。
湖の上あたりで、光の軌跡が曲線をえがく。萃香の光弾に、魔理沙が気づいたのだろう。ほどなく彼女はここまでやってくるに違いない。
『ねえ、私はどんなふうに見えてるの?』
男の子の頭上で薄まったまま、萃香は尋ねた。月明かりに万華鏡が重なれば、姿が見える――。おかしな弱点もあったものだ。もしかして、特定の月齢の下だからなのかもしれない。気づく者は少なかろうが、あまり知られたいことでもなかった。
「お姉ちゃん、たくさん見える。いっぱいいるよ。お姉ちゃん……」
弾んでいた子供の声がいきなりしぼんで立ち消える。見れば、万華鏡を覗き込んだまま、その小さな体は立ちすくんでいる。
震える小さな唇が、つぶやいた。
「お姉ちゃん、大きな角……」
『あっ』
思わず実体化してしまう。姿はもう見られているんだから、どちらでも同じだと気づいたのは、姿を現したあとだ。ちみっこい萃香の見かけを怖がる者は、あまり居なかったから。
「お姉ちゃん、人じゃないんだね」
里の守護者は満月に角を生やす白沢のはずだが、子供はその姿を、おそらく知らないのだろう。
「……そうだよ」
「ぼくを、食べるの?」
地面に降り立った萃香は、男の子から少し離れて黙っていた。安心させてやる言葉は、喉元につかえて出てこなかった。もちろん、喰らう気も攫う気もない。ただどうしても、心がこわばって、動けなかった。
「こわいよ……こわいよ……」
男の子のふくよかな頬にせき止められた涙も、決壊寸前だ。履物をなくしたのか、はだしの小さな足は目に見えて震えている。その足が一歩、ずいと進んだ。
(え?)
萃香は心底驚いた。植えつけたばかりの苗木のように頼りなく震えながら、ぼろぼろ珠のような涙をこぼしながら、男の子は一歩一歩、萃香の方へ近づいてくるのだ。
生まれてこの方ついぞ味わったこともない緊張で、萃香の胸は激しく鼓動した。髪の毛一筋でも動かせば何かが崩れそうで、泣きながら近寄ってくる子供の顔から、鎖でつながれたように目が離せなかった。
男の子の背丈は、寄ってみれば萃香の肩くらいしかなかった。やがてその小さな指先が、萃香の服の裾を、遠慮がちに握る。
「こわいよぅ」
うつむいて、萃香の胸元に顔を埋めるようにして、男の子は本格的に泣き始める。しびれた足先に血の行き渡るようなむず痒さに、萃香は必死に耐え続けた。
やがて月はまた夜の帳にしまわれ、魔法使いを乗せた箒が、参道の石段を撫でて着地する。
些細な風にも霧雨は渦を巻いて降りかかる。肌の熱を奪っていくのが心地いい。
木々の間からか細い声が漏れてくる。それは膝に子を抱いた母親のささやきのようで、額をつき合わせた恋人たちのやり取りのようで。
いつまでも聞いていたいような、懐かしい思いを引き起こすのだ。
濡れた下草が足音を奪うことに、感謝しながら魔理沙は、箒をかついで近づいていった。
<了>
場面が目に浮かぶようでしたよ
夏の終わりに、やってくれるじゃん。
雰囲気に酔えた。
夏が終わるのが惜しくなってきました
夏が恋しい。
小さかった頃の地元の祭りでの興奮と、それが終わった後の物悲しさを思い出しました。
それに場面描写も素敵でした。(特に「湖の上あたりで、光の軌跡が曲線をえがく。」これにはもう溜息がでました)
なんとも素敵なSSを読ませていただきました。
感謝!