※少々電波です
十月の香霖堂。
「霖之助さん、いる!?」
玄関の戸が激しく叩かれる音で、森近霖之助は目を覚ました。
寝惚け眼でそちらに目をやる。小窓からは三角形の赤いものが見え隠れしていた。
彼は一瞬である程度の状況を察し、素早く眼鏡をかけ直す。急いで戸の鍵を開けてやると、壮絶な雨音とともに、店の中にぬれねずみになった霊夢が転がり込んできた。
「ああもう! 酷い目にあったわ。たまに買出しに行くと大体こう。いや、雨なんかどんなに降ってもいいけど、香霖堂の戸締りがしてあるなんて」
自分がずぶ濡れになったのは、天災ではなく人災のせいだと言いたいらしい。彼女は柿やぶどうの入ったバスケットをカウンターの上に放り出し、それから、何か拭くものがない? と霖之助に手を差し出した。
いつか梅雨の頃にもこんなことがあったなとぼんやり思い出しながら、彼は彼女にタオルを手渡す。
「借金取りか何かが来たのかと思ったよ。びっくりするから、あまり強くノックしないでくれ」
「だって、いくら叩いても反応がないんだもの。というか、借金取られる心当たりがあるのかしら?」
リボンをほどき、垂らした黒髪を両手で挟んで拭きながら霊夢は訊く。
「取る心当たりしかないな」
「じゃあ、なんで鍵を閉めていたのよ」
霖之助はカウンターに戻り、自分の席に腰掛けながら話す。
「こんな雨だし、もう今日はお客が来ないだろうと思ったからだ。君と魔理沙のどっちかが駆け込んで来るかもとは考えたが、お客ではないからな」
「予想までしてたくせに、酷いわね」
「酷くはない。だいいち僕は、今まで眠っていたんだ。戸締りして当然だろう」
「あ、そうだ。来たついでだから……。頼んでおいた冬服、出来てたらもらっていきたいんだけど」
ふと思いついたように話題を変えられ、霖之助は微妙な顔をする。
「……出来てるが。もうそれに着替えてしまうかい?」
「そうしたいわ」
小さく溜息をつきながら、彼は霊夢の新しい服を取りに行った。
奥の部屋で独りになる。雨戸を閉じておいたためにその部屋は暗かった。急に静かになって、彼には屋根を打つ雨音が恐ろしいほど大きく聞こえるようになる。
秋雨の時期であった。
ざんざん降りの雨と風のせいで、今日は、夕方に差しかかってすぐ店じまいをした。しかし、霊夢や魔理沙が雨宿りに来た時のことを考え、霖之助はあらかじめ奥の部屋ではなく店先で眠っていたのだった。
彼は棚の上に置いておいた厚手の巫女装束を手に取る。一度だけ軽く埃をはたき、なんとなしにそれを眺めた。
(また少し、大きくなったな……)
スカートの裾あげを解いた所には、まだくっきりと折り目がついている。上着の袖は短くなったので型紙からつくり直した。スカーフはよく汚れるので、黄色に青にと何度か交換してやった筈だ。
子供の成長は早い。しかも、霊夢はずっと同じような服を着続けているから、それがものさしとなって変化がわかりやすく感じられるのだろう、と霖之助は考える。
彼のような青年が、じっと女の子の服をながめている光景は少し異様だった。だが実年齢的には、彼は彼女の何倍もの時間を生きている。ある意味、父子以上の距離があると言えなくもない。
そんな風に霖之助が一人で感慨にふけっていると、店の方から抗議の声が聞こえてきた。
「ねえ、まだ? びしょびしょで気持ち悪いんだけど」
「ああ、すまない。服はこっちに置いておくから、身体を拭いたら上がっておいで」
我にかえる。そして霊夢とすれ違いに、霖之助は店先に戻った。
うるさい来客のせいですっかり目が覚めてしまった。彼は、彼女が奥で着替えている間、読みかけの気象学の本にまた目を通すことにした。
それは外の書物である。
学校で使われていた教材らしく、かなり平易な言葉でつづられていた。彼は、今降っている秋雨のことを、少し外の世界の視点から見てみようと思いつき、ここ数日その教科書を読んでいたのだった。
本の内容を全て理解するつもりはない。いや、出来る筈がない、と霖之助はいつも思っている。
小人閑居して不善をなす、という言葉がある。ただでさえこの雨なのだ。外へは出ようとしても出られず、好奇心はどんどん死滅していく。健全なフラストレーションを維持するためにも、内容を理解出来そうで出来ない本を読むのがちょうどいいだろう、と考えていた。
そして案の定、ページとして半分を過ぎたあたり――『気団』や『前線』だのといった用語が大まかに理解出来た所で、いつものように行き詰った。
例えば、日本列島の地名を挙げられ、「ここにこういう気団が訪れる」というカラフルな図説がなされても、そもそも幻想郷が日本のどこにあるのかわからないので、そうした情報には意味がなかった。天気が変わる仕組みも解説されていたが、原理だけが把握出来た所で、外の世界の人間が天候に対してどんな感情を抱いているのかは判らない。
つまり、幻想郷の人物が外の世界の本を読むと、こういう風に行き詰るということなのだろう。そもそも重要視している部分が違うように思えた。――目の付け所が違うというか。
では逆に、外の世界の人間が、幻想郷の書物や魔法使いの論文を読んだら一体どう感じるのか。それが今、彼が考えていることだった。
自分のように行き詰るのだろうか……。それとも彼らは、「なんて古い話題だ」と、たちどころに理解してしまうのだろうか?
霖之助には、そうは思えなかった。
これまでを顧みれば、(主に携帯電話のことだが)自分の持ち物の仕組みを理解出来ていないような連中しかいなかった。外の世界では、知識の深い人間と浅い人間の間に差がありすぎると考えるのが妥当だろう。道具の作り手と使い手は、大抵別人らしい。
やはり面白い――と思う。彼は、知らず口の端を歪めていた。
自分が外の世界に行ったら、知識の深い人間と浅い人間、どちらだとみなされるのだろう。
道具の作り手と使い手、どちらになるのだろう。
世界が広く、人口が多い……つまり人間の才能の種類が多いということは、それだけ様々な道具を生むことができ、それだけ一つの分野に関して掘り下げが進んでいるということなのだ。『長いものに巻かれよ』の『長いもの』の条件には、そういった規模の大きさも含まれている。
自分は、一体地下何メートルに居るのか、
外の世界の人間は、地下何メートルに居るのか。
こうした思考経路を辿るのが、このところの彼の日課になっていた。
「……」
「どうしたの? また悔しそうな顔して」
奥の部屋から、着替えを終えて出てきた霊夢が言う。
「ん、そんな顔をしていたかい」
「ううん、やっぱり、いつもの難しい顔だったわ」
言いながら、彼女はお茶を淹れるためにぱたぱたと台所へ入って行く。
大人か子供か判らない奴だなと霖之助は思うが、いちいち口にはしない。勘が鋭い人間というのは、こうもたやすく他人の考えていることを見抜いてしまうのだろうか。
霊夢が台所から声を放ってくる。
「仕立て直し、ありがとう。ぴったりだわ、これ」
「どういたしまして。でもツケだよ」
「雨、止まないわねえ。今何時?」
霖之助は本から視線を外し、売り物の壁かけ時計を見る。
「もう大体六時だ」
「うんよし、もう泊まっていくわね。食事は自分でつくるから、のんびりしてていいわよ」
そもそも霖之助さんはごはんいらないものね、と霊夢は言う。
「勝手にしたらいい。でも、食材の代金もツケだからな」
「ええと……、あら秋刀魚。蒲焼がいいかな?」
「さっき、何の本を読んでいたの?」
続く雨音の中、霊夢が箸の先をくわえながら霖之助に訊く。香霖堂は今度こそ店じまいをし、二人は奥の居間で卓を囲んでいた。
「天候に関する本だ。この秋雨がどう発生しているのか、外の世界の言い分を参照していたんだ」
「また、外の世界のことにお熱なのねえ」
いつもいつもわけのわからない本を読んで面白い? と訊いてから、霊夢は味噌汁をすする。
彼女はああは言ったが霖之助の食事もちゃんと用意していた。彼は霊夢お手製の蒲焼に手をつけながら答える。
「面白いとつまらないだけで、物事を判断するのはおかしいね。これは、そう……僕の副業、仕事みたいなものだから、面白いとつまらないの境界はないんだ。ほら、例えば、霊夢がいつも異変を解決しようと思うのは何故だい?」
「そんなの、考えたこともないわ?」
「つまり、そういうことだよ。やらずにはいられない、理由を忘れた、あるいは理由を考えるのをわざとやめた。それだけのことだ」
「ふうん……、何か段々卑屈になっていったけど。私は忘れてしまった方かしら。霖之助さんはどれ?」
「僕は、やらずにはいられない方だろう。ワーカホリック――というやつかもしれない」
「やっぱり、外にお熱なのね。わーかほりっくって片仮名でしょう?」
「そうだよ」
「――やっぱり、つまらないの」
そこで会話はしばらく打ち切られる。
ボーン、ボーン……と店先の壁かけ時計が夜の八時を刻んだ。
◆
食後、一時間くらい霖之助ととりとめのない会話をした後で、霊夢は居間で眠ってしまった。
彼は明かりを落とし、一旦はその横に布団を敷きかけたが、なんとなく添い寝は気がひけたので、部屋の隅の揺り椅子で眠ることにした。
背もたれに身体をあずけ、瞼を閉じる。
大雨が降り続いている。龍は、香霖堂を押し流してしまうつもりなのだろうか。無論そんなことにはならないと彼は知っていたが、それにしても少し不安を抱かせられるほど雨足は強かった。
霖之助は、霊夢にはああ言ったが、雨を降らせているのは『気団』や『前線』ではなく、まして雲でもないと思っている。それらは雨を降らせる過程や道具の一つに過ぎず、実際にそれを動かすためには何者かの“意思”が必要なのだと考えていた。
その意思部分に当てはまるのが、龍をはじめとする神だ。
様々な天候や、空気の寒暖がもたらされることの全てには、彼らの意図が隠されている。豊穣を与えるに留まらず、無知な人間に何らかの教訓を伝えようとする親切な意思が存在するのである。
そうしたことを知らない、あるいはこれから忘れていくなど――外の世界の人間はさぞ辛いことだろう、と彼は思う。
皮肉ではない。
だが、精神論でもない。
例えば、雷によって身内の誰かが死んでしまった時、そのことを全て理不尽な事件だと処理してしまったら、後には何も残らないだろう。自分は絶対にこうならないようにしようと心がけ、広く平らな場所を歩くことを避けたり、電気を通し易いものを持たないようにするといった対策を講じない。
そこには『彼は雷で死んだが、自分は雷に撃たれる筈がない』と考える驕りがある。
無知な人間が油断をし、傲慢さを抱く……。駄目と駄目が加算されている。霖之助には、それ以上悪いものはないように思えるのだった。
理不尽なのは神ではない。理不尽が生まれるのは人間同士の間にであり、そしてそれは避けられないことだ。神はその対処方法を教えてくれているに過ぎない。
だがしかし、外の世界が『長いもの』であることもまた本当だろう。妖怪の多くは外の文化を馬鹿にするが、そうした罵倒を踏み潰して尚余りある力が外の世界にはあるだろうし、何より洗練された道具が豊富にある。
複雑だ、と思う。
自分は、外と内の両者の、良い所だけをかき集めたいと思っているのかもしれないと、霖之助は自己分析をする。
――良いところだけを。
――不理解は許せない。
そうしてつらつら考えているうちに、いつの間にか、彼は寝息をたてていた。
ところで、眠っているとも起きているともつかない状態では、色々な箍(たが)が外れ、思考の加速が起こる。今の彼はその状態にあった。
生死のそれと酷似したボーダーで……霖之助は、これらの思考をほんの数秒の間に終えていたのだ。
――そうして、やがて、彼の精神は夢の方角へ引っ張られていく。
◆
夢の中でも雨が降っていた。
霖之助は一人、神社の軒先にいて、賽銭箱の横に座っていた。
境内には誰もいない。
社務所にも人の気配はない。
彼の身体は小さな子供のものになっていたが、そのことに自分では気がついていない。
出ないとな、と彼は独り言を言う。
とりあえず、そのための『出入り口』は、この神社にあると誰かに聞いていた。
それを確かめにやってきたのだが、彼がそれだと思えるものは見当たらなかった。
今いる自分の位置は曖昧だ。
それに、出られたからといってあてはない。
つまり、どこから出、どこへ行きたいのかは判らない。
ただ漠然とした焦りだけがあって、鬱屈とした気分がいつまでも晴れないでいた。
「ここを出て、どこへ行きたいというのかしら」
視線を上げると、真正面に知らない少女が立っていた。
彼女はいきなりそこに現れたが、彼は特別驚かなかった。夢の中ではそれが普通のことだ。
「『ここ』? 僕は、ここという場所を出て行きたいのか」
「そう」
彼女は微笑む。
「ここは、なんという場所なんだろう。まさか、『ココ』というのが名前じゃないよね?」
「×××」
彼女は、自分の立っている場所の名前を言った。
ここはそういう名前だったのか、と霖之助は思う。自分の居る場所の名など、今まで意識したことがなかった。
それを知っているなんて。
彼は、目の前の少女が、自分を外へ連れ出してくれる存在だと直感する。
「ええ、出来るわ」
しかもどうやら、彼女は霖之助の考えていることを見透かしているらしい。
多分、心が一緒くたになっているからだ、と彼は予想する。
「なら、僕を、外へ連れて行ってくれないか。出口を探してみたんだけど、どうしても見つからないんだ」
「出来るのと、実際にそうするかは、関係ないこと。あんたが出たいと思うことと、本当に出られるかも、別のことよ」
「お願いだ」
「どうして出たいのかしら?」
「君にはわかっているだろう? わからないけど、出たいんだ」
彼女はこめかみに人差し指を当て、うーんと唸る。どこかで見たことのある仕草だと霖之助は思う。
しばし考えた後で、彼女はよし、といたずらっぽく笑った。
「うん、じゃあ、そこまで言うなら連れて行ってあげる。――ただしね」
「ただし?」
「帰ってきたら、外で見たことをみんな忘れてもらいます」
霖之助は淡々と頷く。
「わかった。じゃあ、帰らなければいいんだな」
彼女は微笑みを貼り付けたまま、誰かに壊された人形のように首を傾げる。
「それは無理。絶対に、帰りたくなるもの」
「どうして、忘れなくちゃならないんだ?」
「そこの境界を抜けて帰ってくると、全て忘れるようになっているからよ。私だって、帰って来る時には、外で見たことを忘れてしまうわ」
「それでもいい」
そうして二人は、×××を少しの間出て行くことにした。
霖之助は、自分はもうそこには戻らないだろうと予想していたが、少女と言い争いをしたくないので黙っていた。
大雨の中、二人で一つの番傘に入り、苔で滑りやすい神社の石段を慎重に下る。
最後の一段を下りた所で、森が途切れていた。そして今、二人の目の前には、白線が引かれたまっ平らな石の道がある。
いつもなら、石段を下りきっても、里に通じる獣道がまだ続いている筈だった。
「もしかして、もう外へ来たのかい?」
「境内を出たあたりで、来ていたわ。鳥居はおかあさんのおなかの出入り口だから」
「君のおかあさん?」
「みんなのおかあさん」
「じゃあ僕は、さっきそこから生まれたわけか」
「そう。でも戻るわ、吸い込まれて元のところへ」
少女は前を向いたまま答え、道路の端をすたすた歩いていく。彼女を雨にさらさないようにと、番傘を持った霖之助は慌ててそれに続く。
その道では誰ともすれ違わなかった。
激しい雨音に慣れ、それは静寂になった。
途中、道路の真ん中に狸の置物がぽつんと置かれていた。
また少し行くと、藪の中から、一つの車輪と椅子がくっついたようなものがのぞいていた。
それからも点々と、道路の上や、その両脇の森の中に、脈絡のないものたちが落ちていた。
『レンジ』、
『公衆電話』、
『冷蔵庫』、
『サーフボード』、
『タイヤ』、
『サッカーボール』、
『洗濯機』。
いずれも初めて見る物だったが、霖之助には、その名前と使い方がすべてわかった。
道すがら、少女にそれらの道具の名前を教えてみたが、彼女は話を聞いていない風だった。
「これからどこへ行くんだ?」
その問いかけでやっと少女はやっと霖之助の方を見た。
「海岸線」
「そこは、どんな場所なんだろう」
「私たちから見ると、大きな水たまり。でも、空から見ると、こちらが土だまり。境の場所よ。知っているくせに何故訊くの?」
「……」
彼は黙って彼女についていくことにする。
二人はそうしてしばらく歩いた。
やがて……いきなり森と道路が途絶える。『防波堤』が横一線に広がる場面に切り替わっていた。
角ばった背の低い石の壁の向こうには、雨雲だけが見える。
「ここ」
少女が呟く。
「水があるんじゃなかったのかい?」
「あの壁の上にのぼれば、わかるわ。見える」
霖之助は傘を少女に渡す。
強い風に少しよろけながら防波堤をよじのぼる。
――そこには、あらゆる文明と自然が排除された景色が広がっていた。
手前の方に砂地があるだけで、あとは、まったいらでなにもない。
いや、視界を上下二つに分かつ、緩やかにカーブを描く境界線だけがあった。
線の下側は、少女の言ったような水たまりなどには見えない。
確かに水ではある。だが明らかに、今自分の立っている土地よりも大きく広く見えた。
そこに、すさまじい音をたて、膨大な量の雨粒が今も吸収されていっている。
「海」
少女が呟く。
「どうして、ふくらまないんだ」
霖之助はしばらく絶句していたが、やっとそれだけ言った。
彼の背後で、一人で傘をさしている少女は答える。
「きっと水かさは上がっているの。でも、増え方がちいさすぎて、私たちにはわからないのよ」
「どこまでも、ずっと、水なのか?」
「ううん。向こうになにかあるかもしれないし、ないかもしれないわ。進む、方向、次第」
「……」
霖之助は足元を睨みつける。そして突然、身軽に砂浜へ飛び降りた。
「どうするつもり?」
いつの間にか防波堤の上に降り立った彼女は訊く。呟いている風なのに、この雨の中でもよく声が聞こえた。
「そんな“向こう”は、ないのと同じじゃないの」
霖之助の心を読みながら、彼女はまた訊く。
彼は答えない。
彼の心臓は激しく脈打っていた。
まばたきすることが面倒だった。
着物を脱ぎ捨てる間も惜しんで、彼は波打ち際へ駆け寄る。
しかし、どうやってか一瞬で彼の所まで追いついた少女が、その手を掴んで引き止めた。
「自分の力で辿りつけない場所は、空想だって言っているの」
彼の思考を見透かしながら、少女はもう一度言った。
しかし霖之助はその手も振りきり、すぐさま、生物の匂いが漂う水の中に飛び込んでいった。
遠くへ、遠くへ、と思いながら、羊水と似た、青緑色の混濁した液体の中を泳いだ。
しかし、少女は確か、鳥居の内側を母胎だと言っていた。
ならば、僕はまた帰ろうとしたのだ。
いや、既に帰って来てしまったのか。
水をかく気力が途端に失せた。
高波とうねりが訪れて彼をさらう――
……次の場面で、霖之助は仰向けに寝かされていた。
そこは、砂浜にある、材木でできたあばら家のような場所だった。
「だから、言ったでしょうに」
彼の傍らに体育座りした少女が、あきれたように言う。
どうやら自分は溺れたらしい、と霖之助は察する。どうやって助かったのだろう。
いや――助かった?
何が『助かった』なんだろう。
「ああ、死んじゃいたかったの? なら、余計なことをしたかしら」
心は読まれる。
「まさか」
だがそこだけは読み違いだ。
短く笑いが漏れる。自殺なんかするわけがない。
出来るはずがない。
遠くへ行きたかっただけだ。
ここから、彼女のそばから、離れたかったに過ぎない。
ここはとても居心地がいい。だが、それ以上はない。
新しいものは何も見えず。
知りたいことは判らない。
知っている者だけが、したり顔をして、あちらへ行くのはよせ、という。
彼女もその一人だった。
壁は二重。
一つめは抜けた。
だが二つめは、見えない形で存在していた。
そこで、少女が突然、あ、と脈絡なく顔を輝かせる。
「そうだ、ねえ、聞いて? あんたが沈んで、水から取り出そうとしたら……ふふ、ふ、どうなったと思う?」
霖之助は目を瞑ったまま言う。
「聞いてと言ったんだから……自分で話しなよ」
「じゃあ話します。――水圧っていうのかしら? そのせいで、開けた穴からね、ふふ、どばーって水が噴き出してきたの。私それで、はじめ、押し流されてしまって……」
「君が僕を助けたのか」
「他に誰がいるっていうのよ」
彼女はそこで、こらえきれなくなったようにころころと笑い出す。
「ああ、可笑しい」
傘を持たず、少女は、宙を飛ぶような足取りで小屋の外へ出る。
そして、雨の砂浜で、長い黒髪を扇のようになびかせながら、くるくると楽しそうに踊り出した。
両手をいっぱいに広げ、彼女は嬉しそうに微笑む。
濡れた砂に彼女の足跡が刻み付けられる。
点と線。
軽やかな動きに見惚れる。
指先にまで意識がかよった所作だ。
砂浜へ図形を刻むつもりだろうかと霖之助は観察したが、それは全く無秩序のようだった。
やがて少女は、ぱったりと砂の上に仰向けに倒れこむ。
彼女の長い髪が落ちる様子はとてもゆっくりとしていた。重力はどうしたのだろう。
霖之助はそこで、黙って小屋から外へ出る。肺で水を吸い込んだ筈だが、身体に支障はなかった。
寝そべっている少女の傍らに立つ。
目と目があう。
おもむろに、彼は少女の上に覆いかぶさった。
そして白くか細い首に手をかけ、ゆっくりと力をいれる。
途端に少女はものが言えなくなる。
だが、足掻かない。
声をあげようともしない。
彼女は穏やかに目を閉じる。
そして自分を殺そうとする彼の手に手を添えた。
『忘れても、いいのよ』
『君さえ――いなければ』
二つの音にならない言葉が交わされ。
そこで霖之助の夢は、終っていた。
◆
「あ、起きた?」
霖之助が目を覚ますと、目の前に霊夢の顔があった。
彼は半眼のまま挨拶する。
「……。おはよう」
「おはよう」
霊夢は珍しい昆虫でも観察するかのように彼の顔を覗き込んでいる。
だが、やがていきなり、自分の親指で霖之助の目の下を撫ぜた。
「なんだい……。起き抜けにいたずらはよしてくれよ」
霖之助は彼女の小さい手をやんわりと追い払う。
「いたずらじゃないけど」
手を離し、霊夢は無表情なまま、その親指をちろっと舐める。それから言う。
「あそうだ、顔洗ったら朝ごはんおねがいね。今朝は霖之助さんが当番でしょう?」
「いつ誰が当番になったんだ、全く……。お腹が空いたんなら、自分でつくればいい。僕はいらないよ」
「そう。じゃあもう帰るわ。雨もあがったし」
もう頭は切り替わってしまった、という風に霊夢は立ち上がり、踵を返す。
部屋の外へ歩いていく彼女を尻目に、霖之助は小さく溜息をつく。そして、急いで今見た夢の内容を反芻しようとした。
――だが、もう覚えていなかった。
起きるなり目の前で霊夢の顔を見たせいだろう。驚いて、より鮮明な映像が上書きされてしまっていた。
しかし、不思議な夢だった、とは覚えている。言語化出来ない印象だけが、身体の内側に残留していた。それを無理に解釈するなら、『わだかまり』という言葉がしっくり来るだろう。
しかし、どうせ……午後にはそれすら消えているに違いない。霖之助はあれこれ考えることを、その時はやめた。
そして窓の方を見やる。雨戸は全て開かれていた。もう日が昇って時間が経っているのだろう。窓についた雨露が、白色の日光を反射している。壁掛け時計を見ると、もう十時近い。
かなり寝坊していた。
そこでふと気づく。
何故霊夢は――自分の寝ている間に帰ってしまわなかったのだろう。
思い、霖之助はなんとなく訊く。
「ん……、やっぱり食べていくかい? 朝食」
霊夢は店先に降りる所で、靴を履きながら言う。
「ううん、いいわ? もう、うちで何つくるか決めてしまったし」
「早いな」
「だって、霖之助さん待ってたらお腹空いたんだもの」
「……すまない」
「ねえ、バスケットどこいったかしら。来た時果物入れておいたやつ。あー、ぶどう大丈夫かしら? ちょっと高かったんだけどなぁ……」
霊夢はきょろきょろしながら頭を抱え始める。
器用な奴だと思いながら、霖之助はカウンターへ出て台所を指差した。
「いくら雨だったからって、一晩でいたみやしないさ。――あっちにおいておいたよ」
聞くや、霊夢はぱたぱたと台所へ入っていく。そして、すぐにバスケットを抱えてにこにこしながら出てきた。
「じゃ、お邪魔したわ」
霖之助は頷く。
「ん、またおいで」
「なんか、そう言うと、おじいさんみたいよね」
彼は反論しようとしたが、それより先に霊夢は外へ飛び出してしまっていた。
元気な奴だ、と浮かせた腰を椅子へ戻しながら霖之助は呆れる。
ああいうのを天真爛漫というのだろう。無邪気で、飾り偽らない。しかも霊夢は、それに加えて頭の回転が恐ろしく速い。他人の思考速度など、きっと蝿が止まって見えるほどに違いない。
自分が子供の頃、あれほど自由に振舞えていただろうか、と霖之助は思う。
子供の頃――。
ちかりと、瞬間で消えたマッチの火のように、何かに触れた気がした。
即座に数秒黙考する。だが、その閃きは遠ざかって行ってしまいとらえられなかった。
きっと、それは……今しがた忘れた夢の内容と、繋がったに違いない。
今日は暇だ。明日もきっとそうだろう。
自分が幻想郷の外へ出るまでの間、香霖堂はそんな状態が続くに違いない。
――ならば今日は、見て忘れた夢を思い出すことに費やそうか。
それもいい、と彼は口の端を歪めて笑う。思い出したら、内容をあの手記にきっと書き留めてやろう。
霖之助はそう決め、その日も、眠ったように目を閉じて考え続けることにした。
◆
香霖堂を出た霊夢は、神社へ至る山道を歩いていた。
彼女は、ここへ来るまでずっと霖之助のことを考えていた。
あれは――少し様子がおかしかった、と思う。
うなされていたのだ。
(あの本のせいかしら?)
そもそも自分以外の人妖のことだ。無論はっきりとした理由などわからない。ただ、天気のことに関して書かれていたという外の世界の本、霊夢はあれがなんとなく気になっていた。
だが、思い過ごしかもしれないとも思う。そもそも彼が外の世界の物品に触れているのは日常茶飯事で、今日に限ったことではない。
ただなんとなく、引っかかるものがあった。
もし本当に、あの本が関わっているとすれば、あれは遠因にあたるのだろう。少なくとも霊夢には、『彼がうなされていたこと』と『天気の本』という項目に、直接的な関係が見出せなかった。
実際そのことに関してあまり深く思い悩む気はなかったが、敢えて考慮対象から切り捨ててしまうのも何かがおかしい、と彼女は思っていた。まして今は、霖之助が仕立て直してくれたこの冬服が――暖かい。
「うーん……」
「なにか、考え事?」
その時、背後から聞き覚えのある声がした。
脈絡なく鴉が、一羽だけ、ぎゃ、ぎゃ、と声を上げて飛び立つ。
霊夢は素早く半身で振り返る。するとそこには、叫ばずに声が届くか否か――という妙な距離をおき、ぽつんと誰かが立っていた。
「こんにゃくみたいよね……、お化け屋敷の」
「一体、だれがかしら」
現れた八雲紫は、頚椎を砕かれたアンティークドールのように首を傾げながら訊く。
霊夢は少しだけ驚いたが、彼女にあまり興味を持てなかったので、すぐにひらひらと手を振ってみせる。
「あんたしかいないでしょうに。――で、まあ、私はすごくお腹が空いているのよ」
「それだから?」
「さっさと帰って朝ご飯にしたいの! 用があるなら、あとにして」
霊夢は答えも聞かないで、さっさと踵を返す。だが本当は、食事云々はどうでも良かった。今彼女が問題としているのは別のことだ。
が――。
「泣いていた?」
その背に、不吉な声音が追いすがってきた。
霊夢は後ろからゆっくりと抱きすくめられる錯覚をする。だが彼女は表情を変えずに、その場で立ち止まった。
「誰が、泣いているの?」
そして知らないふりをして尋ね返す。
「もちろん、香霖堂の、あの人がよ」
「霖之助さんが? 何か悲しいことでもあったのかしら」
「ああ――大丈夫だったのね」
紫は勝手に何か納得している。それから頬に手を添え、目を細め、思索に身を沈めるようなポーズをとる。
「ああいう人は、時々見に行かなくてはなりません。ええ、あなたも、そうしているように」
「……」
「理路が攻撃的で、相対的に脆い、誰かが支えてあげなくてはいけない人。思考の方向が『こちらだ』と定まっている分、彼は、あなたより重度の飛躍症かもしれないもの。前みたいに、結界が弱められている訳ではないのに、いきなり貫いてきた。びっくりしたわよ、もう」
「だから――」
何が言いたいの? と霊夢は苛だちを隠そうともせず相手を睨む。
紫はそれを受け止めながら、相手を探るような目つきになる。
「彼はまた、香霖堂から、幻想郷を出そうになっていたの」
「……」
どういうことなのだろう……と、霊夢は頭の中を整理しながら、紫を見据える。
霖之助が外の世界に行きたがっていることには薄々気づいていた。
けれど……外の世界というのは、店先に居ながらにして行き来できてしまうような場所なのだろうか? それに、また、という言葉も引っかかる。霖之助は以前にも幻想郷から抜け出ようとしたことがあるということなのか。
否、そもそも、幻想郷からは……どうやったら出られるものなのだろう。
例えば、自分が結界を緩めるようなことをすれば、紫が飛んできて制止する筈だった。
そこでふと、霊夢は気づく。
揺り椅子でうなされていた彼。
外の世界の天気の本。
霊夢は訊いた。
「――その方法が、夢を通ることなのね?」
「そう、夢。それが唯一の抜け道」
紫は隠し立てせずに頷く。
「ところで霊夢、あなたが、香霖堂へいつも足を運ぶのは何故かしら?」
「なんとなくよ。強いて言えば、便利だから? ――というか、今の話と何の関係があるの」
霊夢は小動物っぽく小首を傾げる。
「ああ、無意識なのね」
「何が?」
「それは、監視、というのよ。あなたはきっと、香霖堂があの場所からなくなっていないか、時々確かめに行っているんだわ」
霊夢の問いかけを全く遮断しながら、紫は屈託なく微笑んだ。
「そんなの、どっちだって……」
霊夢は反論しようとして口ごもる。
監視?
そんなことを、私が?
しているのだとしたら――何故そんなことを。
紫は尚も言葉を続ける。
「きっと魔理沙も同じ。男の人は、いつも、絶対に他人に知られない所で、ずっと同じことを企んでいるから。あの人は特にそうかもしれない。主観が少し強壮過ぎる。だから、客観を取り入れるために、外の世界を目指すのだろうけど」
「……紫、霖之助さんに何をしたの」
ゆっくりと膨張し続ける不安にかられ、霊夢は訊く。
だが紫は、ゆるゆると首を横に振った。
「何もしていない。夢の中でただとおせんぼしただけ。幻想の生き物が外へ出たら――めちゃくちゃに壊れてしまうからね」
感謝なさい、と彼女は静かに両目を閉じる。
しかし次の時、少し顔をしかめた。
「でも、霊夢がいなかったら……、今頃あの人は、もう外の世界へ出てしまった後だったかもしれない」
「私が?」
「そう、貴方がいなかったら。私一人では、彼を食い止められなかったかもしれない」
「私は何もしていないわ? 本当かどうか知らないけど、夢の中へ入れるのなんて、あんただけでしょうに」
「――馬鹿ね。森近霖之助という人物の夢の中なのよ? 夢の中の博麗霊夢をつくる材料は、元から揃っている」
「それが霖之助さんを引き止めたっていうの?」
「助けたのよ」
そこで霊夢は、紫を正面から見据えて言う。
「霖之助さんの思っている私と、私の思う私は違うわ」
紫は目を瞑る。
「何をして、違う、というのかしら。誰かの主観の霊夢と本物の霊夢、確かに違うところはあるでしょう。でも、同じくらい共通項もある。あなたはそれをみんな切り捨ててしまおうというの? 全てが本物とは違うものだと、言い切れるのかしら」
「……」
「これは覚えておきなさい、霊夢。人のそばに居続けるということは、貴方自身を形づくるものが、少しづつ複製されて、その人の内側へ吸い取られていくのだということを」
それだけですわ、と言い、紫は踵を返す。もう彼女の中では会話は終ったらしく、霊夢に挨拶もせず去って行こうとする。
霊夢もその後姿を追おうとは思わなかった。
追う理由がない。いや、追いすがったところで、相手に何と質問したら良いのかわからない。
ただ、ぽつりと、呟きが漏れた。
――どうして。
もちろん、紫の言ったことが真実かは判らない。それに、彼のことを、親しい兄のような人と見ているのか、男の人として見ているのか、果ては、友達と見ているのかさえ判らない。
普段をかえりみれば、違う、と言える。身の回りの他の人物と霖之助は、一緒であると。同様に、興味があるわけでもなくないわけでもないと、普段ならば言えた。もし香霖堂がなくなってしまっても、いつも通りに過ごせる自信がある。
だが自分が、今現在、霖之助にそこに居て欲しいと思っていたのは確かなことだった。
つまり、心当たりがあった。
人の足枷になるのは嫌なのに。
自分は他人より自由に暮らせている。それは、紫風に言うなら、他人の材料を自分の中に取り入れず、自分の材料を相手に与えないようにしてきたからなのだろう。出会う人物の肩書きを平坦化してきたのだ。
だが霖之助に関しては、それが少し違った。
与えていたし――取り入れてもいたに違いなかった。
実際、通う場所といえば香霖堂しかない。
どうでもいい、と思い切れないでいる。
内側に存在するごく僅かな霖之助の材料。
それがこの上なく、不気味だった。
いつのまにそこにあったのか。
どのようにして取り入れたのか。
なぜ、受け入れていたのか。
どれ一つとして判らない。
何故、彼を切り離せないのだろう。
どうして私は……知らないところで彼を囲ってしまうのだろう。
思考に埋没して視覚に意識が向かなくなる。真っ暗な、脳髄の内側へ落ち込みそうになる。
しかし、その時、向こうを歩く紫のオブジェクトがくるりとこちらを振り返り、霊夢の意識を一瞬でそこに引っ張り寄せた。
「霊夢」
「なに」
紫は微笑む。
「でも、彼を好きにしても――いいのよ」
霊夢は黙っている。
「思うようになさい。それで、壁を貫いて来られないのなら、そこまでの男の人だってだけだもの」
それだけ言うと、紫はその場から本当に姿を消した。
見る者の意識の不連続を突いたように、ふっとそこから居なくなった。
紅葉で、燃えるような赤色に染まった山道に、霊夢は一人取り残される。
「――……」
銃声に驚いた獣のように目を見開いて、彼女はその場からしばらく動けなかった。
何かを考えることも出来ず、十秒以上もそうしていた。
だがやがて、ずるい、とだけは考えられるようになった。
ずるい、ずるい。
ずるいずるいずるいずるいずるい――。
彼女はその形容詞を、何故か、数え切れないほど何度も頭の中で反芻した。
なんで、自分の知りたいことを、あいつは何でも知っているのだろう。それがあいつにとって必要なさそうなことだというのに、自分には必要なのに、あいつしか知らない。そう思った。事実ばかりを見せ付けられて、紫の言いたかったことは何なのか、それも判らなくなっていた。――いやそれは、いつも一貫していなかった。
矛盾しかない。
けれど紫は識っている。
つい本当に地団駄を踏みたくなった。膝を上げる。
だが、落ち葉の敷き詰められた土の道は、昨晩の雨で泥に近くなっている。膝をゆっくりと降ろす。
一つ深呼吸。
そして霊夢は、突然くるりと踵を返す。
神社に向かう方を向くと、焼きついていた紫の微笑みは、頭の中からきれいさっぱりと消えた。
それと同時に霖之助の寝顔も、今はすっきりと消えた。
ふ、と溜息が漏れる。
「――まったく、あいつは、何が言いたかったのよ」
そう呟いて、彼女は全てのことにカタをつける。
負け惜しみではない。紫の方は多分、勝った負けたに興味などない。だからこそ誰とも本気で戦わない。なら自分だって気にする必要はないだろう。勝負事に、片一方だけが盛り上がることほどつまらないものはないのだから。
山道の坂の上を見つめて歩く。石段のたもとまで来ると、鳥居の所に人影が見えた。自分を待っているようだが、午前の逆光で誰だかはわからない。
魔理沙か、萃香か、レミリアか、咲夜か、妖夢か、アリスか、それとも他の誰かなのか――
「……。誰だっていいわね」
そう、用意する朝食が一人分増えるだけだ。けれど、二人よりたくさん来ているなら世話を焼く気はなかったし、もし、もう食事を済ませているなら食材は浮くだろう。
それだけのことだ、と思う。
いつもと何も変わらない。
転んだところで自分は飛べる。雨水に濡れ、紅い葉が張付いた石段は滑り易かったが、霊夢はそれを軽い足取りで上っていく。
――囲ったことは囲ったこと。
――囚われたひとは囚われたひと。
既にそこにある境界を今すぐ取り外すのは、きっと不可能なことなのだろうと霊夢は思う。
事の成り行きはカタツムリの歩みだ。
それが不連続な点だとしても、一続きの線と見間違うほどゆっくりとしか進捗させられない。
いきなりそこに何かを創る、そこにあった何かを突然滅ぼす。それは、自身の能力を越えた行いに思えた。
いつかは叶うかもしれないが、今は、出来ない。
なら、私の境界は、そこそこに動かしていこう。
霖之助の材料をいつか一掃するにせよ、いつまでもとっておくにせよ。
(了)
十月の香霖堂。
「霖之助さん、いる!?」
玄関の戸が激しく叩かれる音で、森近霖之助は目を覚ました。
寝惚け眼でそちらに目をやる。小窓からは三角形の赤いものが見え隠れしていた。
彼は一瞬である程度の状況を察し、素早く眼鏡をかけ直す。急いで戸の鍵を開けてやると、壮絶な雨音とともに、店の中にぬれねずみになった霊夢が転がり込んできた。
「ああもう! 酷い目にあったわ。たまに買出しに行くと大体こう。いや、雨なんかどんなに降ってもいいけど、香霖堂の戸締りがしてあるなんて」
自分がずぶ濡れになったのは、天災ではなく人災のせいだと言いたいらしい。彼女は柿やぶどうの入ったバスケットをカウンターの上に放り出し、それから、何か拭くものがない? と霖之助に手を差し出した。
いつか梅雨の頃にもこんなことがあったなとぼんやり思い出しながら、彼は彼女にタオルを手渡す。
「借金取りか何かが来たのかと思ったよ。びっくりするから、あまり強くノックしないでくれ」
「だって、いくら叩いても反応がないんだもの。というか、借金取られる心当たりがあるのかしら?」
リボンをほどき、垂らした黒髪を両手で挟んで拭きながら霊夢は訊く。
「取る心当たりしかないな」
「じゃあ、なんで鍵を閉めていたのよ」
霖之助はカウンターに戻り、自分の席に腰掛けながら話す。
「こんな雨だし、もう今日はお客が来ないだろうと思ったからだ。君と魔理沙のどっちかが駆け込んで来るかもとは考えたが、お客ではないからな」
「予想までしてたくせに、酷いわね」
「酷くはない。だいいち僕は、今まで眠っていたんだ。戸締りして当然だろう」
「あ、そうだ。来たついでだから……。頼んでおいた冬服、出来てたらもらっていきたいんだけど」
ふと思いついたように話題を変えられ、霖之助は微妙な顔をする。
「……出来てるが。もうそれに着替えてしまうかい?」
「そうしたいわ」
小さく溜息をつきながら、彼は霊夢の新しい服を取りに行った。
奥の部屋で独りになる。雨戸を閉じておいたためにその部屋は暗かった。急に静かになって、彼には屋根を打つ雨音が恐ろしいほど大きく聞こえるようになる。
秋雨の時期であった。
ざんざん降りの雨と風のせいで、今日は、夕方に差しかかってすぐ店じまいをした。しかし、霊夢や魔理沙が雨宿りに来た時のことを考え、霖之助はあらかじめ奥の部屋ではなく店先で眠っていたのだった。
彼は棚の上に置いておいた厚手の巫女装束を手に取る。一度だけ軽く埃をはたき、なんとなしにそれを眺めた。
(また少し、大きくなったな……)
スカートの裾あげを解いた所には、まだくっきりと折り目がついている。上着の袖は短くなったので型紙からつくり直した。スカーフはよく汚れるので、黄色に青にと何度か交換してやった筈だ。
子供の成長は早い。しかも、霊夢はずっと同じような服を着続けているから、それがものさしとなって変化がわかりやすく感じられるのだろう、と霖之助は考える。
彼のような青年が、じっと女の子の服をながめている光景は少し異様だった。だが実年齢的には、彼は彼女の何倍もの時間を生きている。ある意味、父子以上の距離があると言えなくもない。
そんな風に霖之助が一人で感慨にふけっていると、店の方から抗議の声が聞こえてきた。
「ねえ、まだ? びしょびしょで気持ち悪いんだけど」
「ああ、すまない。服はこっちに置いておくから、身体を拭いたら上がっておいで」
我にかえる。そして霊夢とすれ違いに、霖之助は店先に戻った。
うるさい来客のせいですっかり目が覚めてしまった。彼は、彼女が奥で着替えている間、読みかけの気象学の本にまた目を通すことにした。
それは外の書物である。
学校で使われていた教材らしく、かなり平易な言葉でつづられていた。彼は、今降っている秋雨のことを、少し外の世界の視点から見てみようと思いつき、ここ数日その教科書を読んでいたのだった。
本の内容を全て理解するつもりはない。いや、出来る筈がない、と霖之助はいつも思っている。
小人閑居して不善をなす、という言葉がある。ただでさえこの雨なのだ。外へは出ようとしても出られず、好奇心はどんどん死滅していく。健全なフラストレーションを維持するためにも、内容を理解出来そうで出来ない本を読むのがちょうどいいだろう、と考えていた。
そして案の定、ページとして半分を過ぎたあたり――『気団』や『前線』だのといった用語が大まかに理解出来た所で、いつものように行き詰った。
例えば、日本列島の地名を挙げられ、「ここにこういう気団が訪れる」というカラフルな図説がなされても、そもそも幻想郷が日本のどこにあるのかわからないので、そうした情報には意味がなかった。天気が変わる仕組みも解説されていたが、原理だけが把握出来た所で、外の世界の人間が天候に対してどんな感情を抱いているのかは判らない。
つまり、幻想郷の人物が外の世界の本を読むと、こういう風に行き詰るということなのだろう。そもそも重要視している部分が違うように思えた。――目の付け所が違うというか。
では逆に、外の世界の人間が、幻想郷の書物や魔法使いの論文を読んだら一体どう感じるのか。それが今、彼が考えていることだった。
自分のように行き詰るのだろうか……。それとも彼らは、「なんて古い話題だ」と、たちどころに理解してしまうのだろうか?
霖之助には、そうは思えなかった。
これまでを顧みれば、(主に携帯電話のことだが)自分の持ち物の仕組みを理解出来ていないような連中しかいなかった。外の世界では、知識の深い人間と浅い人間の間に差がありすぎると考えるのが妥当だろう。道具の作り手と使い手は、大抵別人らしい。
やはり面白い――と思う。彼は、知らず口の端を歪めていた。
自分が外の世界に行ったら、知識の深い人間と浅い人間、どちらだとみなされるのだろう。
道具の作り手と使い手、どちらになるのだろう。
世界が広く、人口が多い……つまり人間の才能の種類が多いということは、それだけ様々な道具を生むことができ、それだけ一つの分野に関して掘り下げが進んでいるということなのだ。『長いものに巻かれよ』の『長いもの』の条件には、そういった規模の大きさも含まれている。
自分は、一体地下何メートルに居るのか、
外の世界の人間は、地下何メートルに居るのか。
こうした思考経路を辿るのが、このところの彼の日課になっていた。
「……」
「どうしたの? また悔しそうな顔して」
奥の部屋から、着替えを終えて出てきた霊夢が言う。
「ん、そんな顔をしていたかい」
「ううん、やっぱり、いつもの難しい顔だったわ」
言いながら、彼女はお茶を淹れるためにぱたぱたと台所へ入って行く。
大人か子供か判らない奴だなと霖之助は思うが、いちいち口にはしない。勘が鋭い人間というのは、こうもたやすく他人の考えていることを見抜いてしまうのだろうか。
霊夢が台所から声を放ってくる。
「仕立て直し、ありがとう。ぴったりだわ、これ」
「どういたしまして。でもツケだよ」
「雨、止まないわねえ。今何時?」
霖之助は本から視線を外し、売り物の壁かけ時計を見る。
「もう大体六時だ」
「うんよし、もう泊まっていくわね。食事は自分でつくるから、のんびりしてていいわよ」
そもそも霖之助さんはごはんいらないものね、と霊夢は言う。
「勝手にしたらいい。でも、食材の代金もツケだからな」
「ええと……、あら秋刀魚。蒲焼がいいかな?」
「さっき、何の本を読んでいたの?」
続く雨音の中、霊夢が箸の先をくわえながら霖之助に訊く。香霖堂は今度こそ店じまいをし、二人は奥の居間で卓を囲んでいた。
「天候に関する本だ。この秋雨がどう発生しているのか、外の世界の言い分を参照していたんだ」
「また、外の世界のことにお熱なのねえ」
いつもいつもわけのわからない本を読んで面白い? と訊いてから、霊夢は味噌汁をすする。
彼女はああは言ったが霖之助の食事もちゃんと用意していた。彼は霊夢お手製の蒲焼に手をつけながら答える。
「面白いとつまらないだけで、物事を判断するのはおかしいね。これは、そう……僕の副業、仕事みたいなものだから、面白いとつまらないの境界はないんだ。ほら、例えば、霊夢がいつも異変を解決しようと思うのは何故だい?」
「そんなの、考えたこともないわ?」
「つまり、そういうことだよ。やらずにはいられない、理由を忘れた、あるいは理由を考えるのをわざとやめた。それだけのことだ」
「ふうん……、何か段々卑屈になっていったけど。私は忘れてしまった方かしら。霖之助さんはどれ?」
「僕は、やらずにはいられない方だろう。ワーカホリック――というやつかもしれない」
「やっぱり、外にお熱なのね。わーかほりっくって片仮名でしょう?」
「そうだよ」
「――やっぱり、つまらないの」
そこで会話はしばらく打ち切られる。
ボーン、ボーン……と店先の壁かけ時計が夜の八時を刻んだ。
◆
食後、一時間くらい霖之助ととりとめのない会話をした後で、霊夢は居間で眠ってしまった。
彼は明かりを落とし、一旦はその横に布団を敷きかけたが、なんとなく添い寝は気がひけたので、部屋の隅の揺り椅子で眠ることにした。
背もたれに身体をあずけ、瞼を閉じる。
大雨が降り続いている。龍は、香霖堂を押し流してしまうつもりなのだろうか。無論そんなことにはならないと彼は知っていたが、それにしても少し不安を抱かせられるほど雨足は強かった。
霖之助は、霊夢にはああ言ったが、雨を降らせているのは『気団』や『前線』ではなく、まして雲でもないと思っている。それらは雨を降らせる過程や道具の一つに過ぎず、実際にそれを動かすためには何者かの“意思”が必要なのだと考えていた。
その意思部分に当てはまるのが、龍をはじめとする神だ。
様々な天候や、空気の寒暖がもたらされることの全てには、彼らの意図が隠されている。豊穣を与えるに留まらず、無知な人間に何らかの教訓を伝えようとする親切な意思が存在するのである。
そうしたことを知らない、あるいはこれから忘れていくなど――外の世界の人間はさぞ辛いことだろう、と彼は思う。
皮肉ではない。
だが、精神論でもない。
例えば、雷によって身内の誰かが死んでしまった時、そのことを全て理不尽な事件だと処理してしまったら、後には何も残らないだろう。自分は絶対にこうならないようにしようと心がけ、広く平らな場所を歩くことを避けたり、電気を通し易いものを持たないようにするといった対策を講じない。
そこには『彼は雷で死んだが、自分は雷に撃たれる筈がない』と考える驕りがある。
無知な人間が油断をし、傲慢さを抱く……。駄目と駄目が加算されている。霖之助には、それ以上悪いものはないように思えるのだった。
理不尽なのは神ではない。理不尽が生まれるのは人間同士の間にであり、そしてそれは避けられないことだ。神はその対処方法を教えてくれているに過ぎない。
だがしかし、外の世界が『長いもの』であることもまた本当だろう。妖怪の多くは外の文化を馬鹿にするが、そうした罵倒を踏み潰して尚余りある力が外の世界にはあるだろうし、何より洗練された道具が豊富にある。
複雑だ、と思う。
自分は、外と内の両者の、良い所だけをかき集めたいと思っているのかもしれないと、霖之助は自己分析をする。
――良いところだけを。
――不理解は許せない。
そうしてつらつら考えているうちに、いつの間にか、彼は寝息をたてていた。
ところで、眠っているとも起きているともつかない状態では、色々な箍(たが)が外れ、思考の加速が起こる。今の彼はその状態にあった。
生死のそれと酷似したボーダーで……霖之助は、これらの思考をほんの数秒の間に終えていたのだ。
――そうして、やがて、彼の精神は夢の方角へ引っ張られていく。
◆
夢の中でも雨が降っていた。
霖之助は一人、神社の軒先にいて、賽銭箱の横に座っていた。
境内には誰もいない。
社務所にも人の気配はない。
彼の身体は小さな子供のものになっていたが、そのことに自分では気がついていない。
出ないとな、と彼は独り言を言う。
とりあえず、そのための『出入り口』は、この神社にあると誰かに聞いていた。
それを確かめにやってきたのだが、彼がそれだと思えるものは見当たらなかった。
今いる自分の位置は曖昧だ。
それに、出られたからといってあてはない。
つまり、どこから出、どこへ行きたいのかは判らない。
ただ漠然とした焦りだけがあって、鬱屈とした気分がいつまでも晴れないでいた。
「ここを出て、どこへ行きたいというのかしら」
視線を上げると、真正面に知らない少女が立っていた。
彼女はいきなりそこに現れたが、彼は特別驚かなかった。夢の中ではそれが普通のことだ。
「『ここ』? 僕は、ここという場所を出て行きたいのか」
「そう」
彼女は微笑む。
「ここは、なんという場所なんだろう。まさか、『ココ』というのが名前じゃないよね?」
「×××」
彼女は、自分の立っている場所の名前を言った。
ここはそういう名前だったのか、と霖之助は思う。自分の居る場所の名など、今まで意識したことがなかった。
それを知っているなんて。
彼は、目の前の少女が、自分を外へ連れ出してくれる存在だと直感する。
「ええ、出来るわ」
しかもどうやら、彼女は霖之助の考えていることを見透かしているらしい。
多分、心が一緒くたになっているからだ、と彼は予想する。
「なら、僕を、外へ連れて行ってくれないか。出口を探してみたんだけど、どうしても見つからないんだ」
「出来るのと、実際にそうするかは、関係ないこと。あんたが出たいと思うことと、本当に出られるかも、別のことよ」
「お願いだ」
「どうして出たいのかしら?」
「君にはわかっているだろう? わからないけど、出たいんだ」
彼女はこめかみに人差し指を当て、うーんと唸る。どこかで見たことのある仕草だと霖之助は思う。
しばし考えた後で、彼女はよし、といたずらっぽく笑った。
「うん、じゃあ、そこまで言うなら連れて行ってあげる。――ただしね」
「ただし?」
「帰ってきたら、外で見たことをみんな忘れてもらいます」
霖之助は淡々と頷く。
「わかった。じゃあ、帰らなければいいんだな」
彼女は微笑みを貼り付けたまま、誰かに壊された人形のように首を傾げる。
「それは無理。絶対に、帰りたくなるもの」
「どうして、忘れなくちゃならないんだ?」
「そこの境界を抜けて帰ってくると、全て忘れるようになっているからよ。私だって、帰って来る時には、外で見たことを忘れてしまうわ」
「それでもいい」
そうして二人は、×××を少しの間出て行くことにした。
霖之助は、自分はもうそこには戻らないだろうと予想していたが、少女と言い争いをしたくないので黙っていた。
大雨の中、二人で一つの番傘に入り、苔で滑りやすい神社の石段を慎重に下る。
最後の一段を下りた所で、森が途切れていた。そして今、二人の目の前には、白線が引かれたまっ平らな石の道がある。
いつもなら、石段を下りきっても、里に通じる獣道がまだ続いている筈だった。
「もしかして、もう外へ来たのかい?」
「境内を出たあたりで、来ていたわ。鳥居はおかあさんのおなかの出入り口だから」
「君のおかあさん?」
「みんなのおかあさん」
「じゃあ僕は、さっきそこから生まれたわけか」
「そう。でも戻るわ、吸い込まれて元のところへ」
少女は前を向いたまま答え、道路の端をすたすた歩いていく。彼女を雨にさらさないようにと、番傘を持った霖之助は慌ててそれに続く。
その道では誰ともすれ違わなかった。
激しい雨音に慣れ、それは静寂になった。
途中、道路の真ん中に狸の置物がぽつんと置かれていた。
また少し行くと、藪の中から、一つの車輪と椅子がくっついたようなものがのぞいていた。
それからも点々と、道路の上や、その両脇の森の中に、脈絡のないものたちが落ちていた。
『レンジ』、
『公衆電話』、
『冷蔵庫』、
『サーフボード』、
『タイヤ』、
『サッカーボール』、
『洗濯機』。
いずれも初めて見る物だったが、霖之助には、その名前と使い方がすべてわかった。
道すがら、少女にそれらの道具の名前を教えてみたが、彼女は話を聞いていない風だった。
「これからどこへ行くんだ?」
その問いかけでやっと少女はやっと霖之助の方を見た。
「海岸線」
「そこは、どんな場所なんだろう」
「私たちから見ると、大きな水たまり。でも、空から見ると、こちらが土だまり。境の場所よ。知っているくせに何故訊くの?」
「……」
彼は黙って彼女についていくことにする。
二人はそうしてしばらく歩いた。
やがて……いきなり森と道路が途絶える。『防波堤』が横一線に広がる場面に切り替わっていた。
角ばった背の低い石の壁の向こうには、雨雲だけが見える。
「ここ」
少女が呟く。
「水があるんじゃなかったのかい?」
「あの壁の上にのぼれば、わかるわ。見える」
霖之助は傘を少女に渡す。
強い風に少しよろけながら防波堤をよじのぼる。
――そこには、あらゆる文明と自然が排除された景色が広がっていた。
手前の方に砂地があるだけで、あとは、まったいらでなにもない。
いや、視界を上下二つに分かつ、緩やかにカーブを描く境界線だけがあった。
線の下側は、少女の言ったような水たまりなどには見えない。
確かに水ではある。だが明らかに、今自分の立っている土地よりも大きく広く見えた。
そこに、すさまじい音をたて、膨大な量の雨粒が今も吸収されていっている。
「海」
少女が呟く。
「どうして、ふくらまないんだ」
霖之助はしばらく絶句していたが、やっとそれだけ言った。
彼の背後で、一人で傘をさしている少女は答える。
「きっと水かさは上がっているの。でも、増え方がちいさすぎて、私たちにはわからないのよ」
「どこまでも、ずっと、水なのか?」
「ううん。向こうになにかあるかもしれないし、ないかもしれないわ。進む、方向、次第」
「……」
霖之助は足元を睨みつける。そして突然、身軽に砂浜へ飛び降りた。
「どうするつもり?」
いつの間にか防波堤の上に降り立った彼女は訊く。呟いている風なのに、この雨の中でもよく声が聞こえた。
「そんな“向こう”は、ないのと同じじゃないの」
霖之助の心を読みながら、彼女はまた訊く。
彼は答えない。
彼の心臓は激しく脈打っていた。
まばたきすることが面倒だった。
着物を脱ぎ捨てる間も惜しんで、彼は波打ち際へ駆け寄る。
しかし、どうやってか一瞬で彼の所まで追いついた少女が、その手を掴んで引き止めた。
「自分の力で辿りつけない場所は、空想だって言っているの」
彼の思考を見透かしながら、少女はもう一度言った。
しかし霖之助はその手も振りきり、すぐさま、生物の匂いが漂う水の中に飛び込んでいった。
遠くへ、遠くへ、と思いながら、羊水と似た、青緑色の混濁した液体の中を泳いだ。
しかし、少女は確か、鳥居の内側を母胎だと言っていた。
ならば、僕はまた帰ろうとしたのだ。
いや、既に帰って来てしまったのか。
水をかく気力が途端に失せた。
高波とうねりが訪れて彼をさらう――
……次の場面で、霖之助は仰向けに寝かされていた。
そこは、砂浜にある、材木でできたあばら家のような場所だった。
「だから、言ったでしょうに」
彼の傍らに体育座りした少女が、あきれたように言う。
どうやら自分は溺れたらしい、と霖之助は察する。どうやって助かったのだろう。
いや――助かった?
何が『助かった』なんだろう。
「ああ、死んじゃいたかったの? なら、余計なことをしたかしら」
心は読まれる。
「まさか」
だがそこだけは読み違いだ。
短く笑いが漏れる。自殺なんかするわけがない。
出来るはずがない。
遠くへ行きたかっただけだ。
ここから、彼女のそばから、離れたかったに過ぎない。
ここはとても居心地がいい。だが、それ以上はない。
新しいものは何も見えず。
知りたいことは判らない。
知っている者だけが、したり顔をして、あちらへ行くのはよせ、という。
彼女もその一人だった。
壁は二重。
一つめは抜けた。
だが二つめは、見えない形で存在していた。
そこで、少女が突然、あ、と脈絡なく顔を輝かせる。
「そうだ、ねえ、聞いて? あんたが沈んで、水から取り出そうとしたら……ふふ、ふ、どうなったと思う?」
霖之助は目を瞑ったまま言う。
「聞いてと言ったんだから……自分で話しなよ」
「じゃあ話します。――水圧っていうのかしら? そのせいで、開けた穴からね、ふふ、どばーって水が噴き出してきたの。私それで、はじめ、押し流されてしまって……」
「君が僕を助けたのか」
「他に誰がいるっていうのよ」
彼女はそこで、こらえきれなくなったようにころころと笑い出す。
「ああ、可笑しい」
傘を持たず、少女は、宙を飛ぶような足取りで小屋の外へ出る。
そして、雨の砂浜で、長い黒髪を扇のようになびかせながら、くるくると楽しそうに踊り出した。
両手をいっぱいに広げ、彼女は嬉しそうに微笑む。
濡れた砂に彼女の足跡が刻み付けられる。
点と線。
軽やかな動きに見惚れる。
指先にまで意識がかよった所作だ。
砂浜へ図形を刻むつもりだろうかと霖之助は観察したが、それは全く無秩序のようだった。
やがて少女は、ぱったりと砂の上に仰向けに倒れこむ。
彼女の長い髪が落ちる様子はとてもゆっくりとしていた。重力はどうしたのだろう。
霖之助はそこで、黙って小屋から外へ出る。肺で水を吸い込んだ筈だが、身体に支障はなかった。
寝そべっている少女の傍らに立つ。
目と目があう。
おもむろに、彼は少女の上に覆いかぶさった。
そして白くか細い首に手をかけ、ゆっくりと力をいれる。
途端に少女はものが言えなくなる。
だが、足掻かない。
声をあげようともしない。
彼女は穏やかに目を閉じる。
そして自分を殺そうとする彼の手に手を添えた。
『忘れても、いいのよ』
『君さえ――いなければ』
二つの音にならない言葉が交わされ。
そこで霖之助の夢は、終っていた。
◆
「あ、起きた?」
霖之助が目を覚ますと、目の前に霊夢の顔があった。
彼は半眼のまま挨拶する。
「……。おはよう」
「おはよう」
霊夢は珍しい昆虫でも観察するかのように彼の顔を覗き込んでいる。
だが、やがていきなり、自分の親指で霖之助の目の下を撫ぜた。
「なんだい……。起き抜けにいたずらはよしてくれよ」
霖之助は彼女の小さい手をやんわりと追い払う。
「いたずらじゃないけど」
手を離し、霊夢は無表情なまま、その親指をちろっと舐める。それから言う。
「あそうだ、顔洗ったら朝ごはんおねがいね。今朝は霖之助さんが当番でしょう?」
「いつ誰が当番になったんだ、全く……。お腹が空いたんなら、自分でつくればいい。僕はいらないよ」
「そう。じゃあもう帰るわ。雨もあがったし」
もう頭は切り替わってしまった、という風に霊夢は立ち上がり、踵を返す。
部屋の外へ歩いていく彼女を尻目に、霖之助は小さく溜息をつく。そして、急いで今見た夢の内容を反芻しようとした。
――だが、もう覚えていなかった。
起きるなり目の前で霊夢の顔を見たせいだろう。驚いて、より鮮明な映像が上書きされてしまっていた。
しかし、不思議な夢だった、とは覚えている。言語化出来ない印象だけが、身体の内側に残留していた。それを無理に解釈するなら、『わだかまり』という言葉がしっくり来るだろう。
しかし、どうせ……午後にはそれすら消えているに違いない。霖之助はあれこれ考えることを、その時はやめた。
そして窓の方を見やる。雨戸は全て開かれていた。もう日が昇って時間が経っているのだろう。窓についた雨露が、白色の日光を反射している。壁掛け時計を見ると、もう十時近い。
かなり寝坊していた。
そこでふと気づく。
何故霊夢は――自分の寝ている間に帰ってしまわなかったのだろう。
思い、霖之助はなんとなく訊く。
「ん……、やっぱり食べていくかい? 朝食」
霊夢は店先に降りる所で、靴を履きながら言う。
「ううん、いいわ? もう、うちで何つくるか決めてしまったし」
「早いな」
「だって、霖之助さん待ってたらお腹空いたんだもの」
「……すまない」
「ねえ、バスケットどこいったかしら。来た時果物入れておいたやつ。あー、ぶどう大丈夫かしら? ちょっと高かったんだけどなぁ……」
霊夢はきょろきょろしながら頭を抱え始める。
器用な奴だと思いながら、霖之助はカウンターへ出て台所を指差した。
「いくら雨だったからって、一晩でいたみやしないさ。――あっちにおいておいたよ」
聞くや、霊夢はぱたぱたと台所へ入っていく。そして、すぐにバスケットを抱えてにこにこしながら出てきた。
「じゃ、お邪魔したわ」
霖之助は頷く。
「ん、またおいで」
「なんか、そう言うと、おじいさんみたいよね」
彼は反論しようとしたが、それより先に霊夢は外へ飛び出してしまっていた。
元気な奴だ、と浮かせた腰を椅子へ戻しながら霖之助は呆れる。
ああいうのを天真爛漫というのだろう。無邪気で、飾り偽らない。しかも霊夢は、それに加えて頭の回転が恐ろしく速い。他人の思考速度など、きっと蝿が止まって見えるほどに違いない。
自分が子供の頃、あれほど自由に振舞えていただろうか、と霖之助は思う。
子供の頃――。
ちかりと、瞬間で消えたマッチの火のように、何かに触れた気がした。
即座に数秒黙考する。だが、その閃きは遠ざかって行ってしまいとらえられなかった。
きっと、それは……今しがた忘れた夢の内容と、繋がったに違いない。
今日は暇だ。明日もきっとそうだろう。
自分が幻想郷の外へ出るまでの間、香霖堂はそんな状態が続くに違いない。
――ならば今日は、見て忘れた夢を思い出すことに費やそうか。
それもいい、と彼は口の端を歪めて笑う。思い出したら、内容をあの手記にきっと書き留めてやろう。
霖之助はそう決め、その日も、眠ったように目を閉じて考え続けることにした。
◆
香霖堂を出た霊夢は、神社へ至る山道を歩いていた。
彼女は、ここへ来るまでずっと霖之助のことを考えていた。
あれは――少し様子がおかしかった、と思う。
うなされていたのだ。
(あの本のせいかしら?)
そもそも自分以外の人妖のことだ。無論はっきりとした理由などわからない。ただ、天気のことに関して書かれていたという外の世界の本、霊夢はあれがなんとなく気になっていた。
だが、思い過ごしかもしれないとも思う。そもそも彼が外の世界の物品に触れているのは日常茶飯事で、今日に限ったことではない。
ただなんとなく、引っかかるものがあった。
もし本当に、あの本が関わっているとすれば、あれは遠因にあたるのだろう。少なくとも霊夢には、『彼がうなされていたこと』と『天気の本』という項目に、直接的な関係が見出せなかった。
実際そのことに関してあまり深く思い悩む気はなかったが、敢えて考慮対象から切り捨ててしまうのも何かがおかしい、と彼女は思っていた。まして今は、霖之助が仕立て直してくれたこの冬服が――暖かい。
「うーん……」
「なにか、考え事?」
その時、背後から聞き覚えのある声がした。
脈絡なく鴉が、一羽だけ、ぎゃ、ぎゃ、と声を上げて飛び立つ。
霊夢は素早く半身で振り返る。するとそこには、叫ばずに声が届くか否か――という妙な距離をおき、ぽつんと誰かが立っていた。
「こんにゃくみたいよね……、お化け屋敷の」
「一体、だれがかしら」
現れた八雲紫は、頚椎を砕かれたアンティークドールのように首を傾げながら訊く。
霊夢は少しだけ驚いたが、彼女にあまり興味を持てなかったので、すぐにひらひらと手を振ってみせる。
「あんたしかいないでしょうに。――で、まあ、私はすごくお腹が空いているのよ」
「それだから?」
「さっさと帰って朝ご飯にしたいの! 用があるなら、あとにして」
霊夢は答えも聞かないで、さっさと踵を返す。だが本当は、食事云々はどうでも良かった。今彼女が問題としているのは別のことだ。
が――。
「泣いていた?」
その背に、不吉な声音が追いすがってきた。
霊夢は後ろからゆっくりと抱きすくめられる錯覚をする。だが彼女は表情を変えずに、その場で立ち止まった。
「誰が、泣いているの?」
そして知らないふりをして尋ね返す。
「もちろん、香霖堂の、あの人がよ」
「霖之助さんが? 何か悲しいことでもあったのかしら」
「ああ――大丈夫だったのね」
紫は勝手に何か納得している。それから頬に手を添え、目を細め、思索に身を沈めるようなポーズをとる。
「ああいう人は、時々見に行かなくてはなりません。ええ、あなたも、そうしているように」
「……」
「理路が攻撃的で、相対的に脆い、誰かが支えてあげなくてはいけない人。思考の方向が『こちらだ』と定まっている分、彼は、あなたより重度の飛躍症かもしれないもの。前みたいに、結界が弱められている訳ではないのに、いきなり貫いてきた。びっくりしたわよ、もう」
「だから――」
何が言いたいの? と霊夢は苛だちを隠そうともせず相手を睨む。
紫はそれを受け止めながら、相手を探るような目つきになる。
「彼はまた、香霖堂から、幻想郷を出そうになっていたの」
「……」
どういうことなのだろう……と、霊夢は頭の中を整理しながら、紫を見据える。
霖之助が外の世界に行きたがっていることには薄々気づいていた。
けれど……外の世界というのは、店先に居ながらにして行き来できてしまうような場所なのだろうか? それに、また、という言葉も引っかかる。霖之助は以前にも幻想郷から抜け出ようとしたことがあるということなのか。
否、そもそも、幻想郷からは……どうやったら出られるものなのだろう。
例えば、自分が結界を緩めるようなことをすれば、紫が飛んできて制止する筈だった。
そこでふと、霊夢は気づく。
揺り椅子でうなされていた彼。
外の世界の天気の本。
霊夢は訊いた。
「――その方法が、夢を通ることなのね?」
「そう、夢。それが唯一の抜け道」
紫は隠し立てせずに頷く。
「ところで霊夢、あなたが、香霖堂へいつも足を運ぶのは何故かしら?」
「なんとなくよ。強いて言えば、便利だから? ――というか、今の話と何の関係があるの」
霊夢は小動物っぽく小首を傾げる。
「ああ、無意識なのね」
「何が?」
「それは、監視、というのよ。あなたはきっと、香霖堂があの場所からなくなっていないか、時々確かめに行っているんだわ」
霊夢の問いかけを全く遮断しながら、紫は屈託なく微笑んだ。
「そんなの、どっちだって……」
霊夢は反論しようとして口ごもる。
監視?
そんなことを、私が?
しているのだとしたら――何故そんなことを。
紫は尚も言葉を続ける。
「きっと魔理沙も同じ。男の人は、いつも、絶対に他人に知られない所で、ずっと同じことを企んでいるから。あの人は特にそうかもしれない。主観が少し強壮過ぎる。だから、客観を取り入れるために、外の世界を目指すのだろうけど」
「……紫、霖之助さんに何をしたの」
ゆっくりと膨張し続ける不安にかられ、霊夢は訊く。
だが紫は、ゆるゆると首を横に振った。
「何もしていない。夢の中でただとおせんぼしただけ。幻想の生き物が外へ出たら――めちゃくちゃに壊れてしまうからね」
感謝なさい、と彼女は静かに両目を閉じる。
しかし次の時、少し顔をしかめた。
「でも、霊夢がいなかったら……、今頃あの人は、もう外の世界へ出てしまった後だったかもしれない」
「私が?」
「そう、貴方がいなかったら。私一人では、彼を食い止められなかったかもしれない」
「私は何もしていないわ? 本当かどうか知らないけど、夢の中へ入れるのなんて、あんただけでしょうに」
「――馬鹿ね。森近霖之助という人物の夢の中なのよ? 夢の中の博麗霊夢をつくる材料は、元から揃っている」
「それが霖之助さんを引き止めたっていうの?」
「助けたのよ」
そこで霊夢は、紫を正面から見据えて言う。
「霖之助さんの思っている私と、私の思う私は違うわ」
紫は目を瞑る。
「何をして、違う、というのかしら。誰かの主観の霊夢と本物の霊夢、確かに違うところはあるでしょう。でも、同じくらい共通項もある。あなたはそれをみんな切り捨ててしまおうというの? 全てが本物とは違うものだと、言い切れるのかしら」
「……」
「これは覚えておきなさい、霊夢。人のそばに居続けるということは、貴方自身を形づくるものが、少しづつ複製されて、その人の内側へ吸い取られていくのだということを」
それだけですわ、と言い、紫は踵を返す。もう彼女の中では会話は終ったらしく、霊夢に挨拶もせず去って行こうとする。
霊夢もその後姿を追おうとは思わなかった。
追う理由がない。いや、追いすがったところで、相手に何と質問したら良いのかわからない。
ただ、ぽつりと、呟きが漏れた。
――どうして。
もちろん、紫の言ったことが真実かは判らない。それに、彼のことを、親しい兄のような人と見ているのか、男の人として見ているのか、果ては、友達と見ているのかさえ判らない。
普段をかえりみれば、違う、と言える。身の回りの他の人物と霖之助は、一緒であると。同様に、興味があるわけでもなくないわけでもないと、普段ならば言えた。もし香霖堂がなくなってしまっても、いつも通りに過ごせる自信がある。
だが自分が、今現在、霖之助にそこに居て欲しいと思っていたのは確かなことだった。
つまり、心当たりがあった。
人の足枷になるのは嫌なのに。
自分は他人より自由に暮らせている。それは、紫風に言うなら、他人の材料を自分の中に取り入れず、自分の材料を相手に与えないようにしてきたからなのだろう。出会う人物の肩書きを平坦化してきたのだ。
だが霖之助に関しては、それが少し違った。
与えていたし――取り入れてもいたに違いなかった。
実際、通う場所といえば香霖堂しかない。
どうでもいい、と思い切れないでいる。
内側に存在するごく僅かな霖之助の材料。
それがこの上なく、不気味だった。
いつのまにそこにあったのか。
どのようにして取り入れたのか。
なぜ、受け入れていたのか。
どれ一つとして判らない。
何故、彼を切り離せないのだろう。
どうして私は……知らないところで彼を囲ってしまうのだろう。
思考に埋没して視覚に意識が向かなくなる。真っ暗な、脳髄の内側へ落ち込みそうになる。
しかし、その時、向こうを歩く紫のオブジェクトがくるりとこちらを振り返り、霊夢の意識を一瞬でそこに引っ張り寄せた。
「霊夢」
「なに」
紫は微笑む。
「でも、彼を好きにしても――いいのよ」
霊夢は黙っている。
「思うようになさい。それで、壁を貫いて来られないのなら、そこまでの男の人だってだけだもの」
それだけ言うと、紫はその場から本当に姿を消した。
見る者の意識の不連続を突いたように、ふっとそこから居なくなった。
紅葉で、燃えるような赤色に染まった山道に、霊夢は一人取り残される。
「――……」
銃声に驚いた獣のように目を見開いて、彼女はその場からしばらく動けなかった。
何かを考えることも出来ず、十秒以上もそうしていた。
だがやがて、ずるい、とだけは考えられるようになった。
ずるい、ずるい。
ずるいずるいずるいずるいずるい――。
彼女はその形容詞を、何故か、数え切れないほど何度も頭の中で反芻した。
なんで、自分の知りたいことを、あいつは何でも知っているのだろう。それがあいつにとって必要なさそうなことだというのに、自分には必要なのに、あいつしか知らない。そう思った。事実ばかりを見せ付けられて、紫の言いたかったことは何なのか、それも判らなくなっていた。――いやそれは、いつも一貫していなかった。
矛盾しかない。
けれど紫は識っている。
つい本当に地団駄を踏みたくなった。膝を上げる。
だが、落ち葉の敷き詰められた土の道は、昨晩の雨で泥に近くなっている。膝をゆっくりと降ろす。
一つ深呼吸。
そして霊夢は、突然くるりと踵を返す。
神社に向かう方を向くと、焼きついていた紫の微笑みは、頭の中からきれいさっぱりと消えた。
それと同時に霖之助の寝顔も、今はすっきりと消えた。
ふ、と溜息が漏れる。
「――まったく、あいつは、何が言いたかったのよ」
そう呟いて、彼女は全てのことにカタをつける。
負け惜しみではない。紫の方は多分、勝った負けたに興味などない。だからこそ誰とも本気で戦わない。なら自分だって気にする必要はないだろう。勝負事に、片一方だけが盛り上がることほどつまらないものはないのだから。
山道の坂の上を見つめて歩く。石段のたもとまで来ると、鳥居の所に人影が見えた。自分を待っているようだが、午前の逆光で誰だかはわからない。
魔理沙か、萃香か、レミリアか、咲夜か、妖夢か、アリスか、それとも他の誰かなのか――
「……。誰だっていいわね」
そう、用意する朝食が一人分増えるだけだ。けれど、二人よりたくさん来ているなら世話を焼く気はなかったし、もし、もう食事を済ませているなら食材は浮くだろう。
それだけのことだ、と思う。
いつもと何も変わらない。
転んだところで自分は飛べる。雨水に濡れ、紅い葉が張付いた石段は滑り易かったが、霊夢はそれを軽い足取りで上っていく。
――囲ったことは囲ったこと。
――囚われたひとは囚われたひと。
既にそこにある境界を今すぐ取り外すのは、きっと不可能なことなのだろうと霊夢は思う。
事の成り行きはカタツムリの歩みだ。
それが不連続な点だとしても、一続きの線と見間違うほどゆっくりとしか進捗させられない。
いきなりそこに何かを創る、そこにあった何かを突然滅ぼす。それは、自身の能力を越えた行いに思えた。
いつかは叶うかもしれないが、今は、出来ない。
なら、私の境界は、そこそこに動かしていこう。
霖之助の材料をいつか一掃するにせよ、いつまでもとっておくにせよ。
(了)
(また少し、大きくなったな……)って心の声が何かいやらしいぞ霖之助。衣服の製作にかこつけて身体の成長を逐一確認してる辺り脈ありそうじゃないか。
霊夢よ、紫よりいい女になって霖之助を惹きつければ外の世界に行かせなくて済むかもしれないぞ。
それにしても漂う微妙な胡散臭さがいかにも香霖堂っぽいな。雰囲気出てる。次も期待してます。
良作に出会えて嬉しや。
何より書かれる描写が大好きです。
次回作を楽しみにしています。
障害も未練も無くなったらすぐにでも外の世界に飛んでいきそうだなこの霖之助は。
所で紫は意識的に霖之助を求め霊夢は無意識的に霖之助を求めてるのかな
GJ!
純粋に話が面白いと思ったやつは久しぶりだ
いつか自分の中にある誰かの形を愛せたら霊夢の足は地に着くのかな
大人の階段昇る途中の霊夢と、大人な女である紫のかけひきがまた素晴らしい。
>遠くへ、遠くへ、と思いながら、羊水と似た、青緑色の混濁した液体の中を泳いだ。
海の向こうの憧れの場所。霖之助にとって、外の世界はさしずめニライカナイみたいなもんなんでしょうか?
面白かったです。次も期待してます。
思わず引き込まれました
文章に陶酔できた。
印象に残ったのは、夢の中の巫女?の「土だまり」とゆるやかに地に落ちる髪の表現。
salomeさんの紫は本当に胡散臭くてステキですわ。(何)
箇条書き風感想で申し訳ございません。では、読めたことに感謝と自作への期待を表して、
さようなら。
でもそしたら「海」は一体何を意味するんだろ?幻想そのもの?
非常に面白い電波でした、敬服
非常に楽しめました
何回も読みたくなる作品だ
現実で霊夢が霖之助の父性から自立しようとして紫を妬む話と
夢で霖之助が霊夢の母性からの脱出しようとして霊夢の複製を憎む話が対になっているようで面白かった。
お受け取りください つ[100]
夢の中の誰かを殺して、その夢が終わってしまったというのは、つまり……。む~、深いなぁ。
こういう話を読みやすく書けるというのはすごいと思います。
でも香霖堂だけは、特に用が無くとも、遊びに行ったり、晩御飯を食べに行ったりしてる
「霊夢が香霖堂に通い続ける理由」として凄く面白かったです
また読んでみるかな、東方香霖堂
この電波は面白い、また電波を書く事を切望する。
お美事です。
二つ言わせてくださいね?
「プロの犯行」
「ゆっくりしていってね!!!」
乙~。
>(また少し、大きくなったな……)
で首のしたの局所を想像したのは俺だけじゃないはず
の表現は秀逸でした。いきなり出てきたらびっくりするけど、認識してしまえばなぁんだ、と。
お化けどころか神や悪魔まで彷徨う幻想郷にお化け屋敷があるかはさておいて
理系と文系に人の考え方を分けて出したような印象
霖之助は森博嗣、霊夢と紫で京極夏彦が浮かんだ
ただそれらが融合してる感じはいまいちしなかったかなあ
まずは良作をありがとうございます。実に楽しめました。
salomeさんの作品からは、作り手自身の確固とした幻想郷像のようなものが垣間見える気がします。
内容が充実してて、情景や、それを取り巻く意味や概念など様々なものを推察することのできる、
文章という媒体の醍醐味に溢れていると思います。
ただその一方で、作品を書き進めながらも尚、東方世界や幻想郷という舞台がどういったものであるのかを
追求し続けているような貪欲さ(?)みたいなものも垣間見える気がします。
率直に言って、salomeさんがイメージしている幻想郷像と私の中の幻想郷像は、
本質的な部分は似ていても細部がかなり差異があるみたいですが、そういった違いの部分も含め、
読み解く楽しさを堪能できる作品だなあと感じました。次回作も楽しみにしています。
これからも作品を楽しみにしています。
大胆さと繊細さの境界。
大雨の香霖堂ってなんかいいですよね