※オリキャラメインであり、東方キャラもあまり出てきません。
※結構な自分解釈があります。
1.
文化祭も体育祭も終わったのだから、これからは気持ちを一年後の受験に切り替えて勉学に励むように。
そうお決まりの台詞を残し、生徒よりよほどやる気の感じられない今更夏バテ真っ盛りな担任教師は午後のホームルームをしめたのであった。
例年なら、そろそろ日差しは弱まり木々が色づき始めて、夏から秋への移り変わりを感じさせる時期だというのに、今年はまだまだ、夏が猛威を振るっていた。真昼の外は強い日差しには残暑が色濃く残っており、快晴の元に響く出遅れたアブラゼミの鳴き声が、暑さを一層際立たせていた。
のっそりとした動きで担任が教壇を降りたとほぼ同時に、教室は一気に喧嘩に包まれた。我先にと帰るもの、お八つを広げるもの、友人と雑談にふけるもの、暑さにぐったりしているもの。十人十色な様相ではあるが、流れる空気は明るく和やかである。俺は、そんな周囲を一瞥してから、ほとんど何も入ってない鞄を手に席を立とうとして。
「なぁなぁお前、今日暇か?」
悪友にそれを阻まれた。
終わったばかりの体育祭で真っ黒に焼けた顔に真っ白な歯を覗かせて、にやにやと笑う奴。いつものような悪巧みの相談だろうか。しかし、いつものようには乗り気にはなれない俺は、溜息をこれみよがしに一つしてから先を促した。
「で、何?」
「何だよテンション低いなぁお前。まさか、センセみたいにおっそい夏バテかぁ? いい若いもんが情けないのぅ」
ケラケラと快活に笑う黒い顔。自然、眉間に皺が寄った。いつもながら愛嬌がある奴の笑い声も、今日の俺には、わざと、イライラさせるようにやっているのではと思えてならない。しかしながら、友人のそんなたわいのない行動にそんなことを思う自分自身に、また、イライラがつのる。クロイモノが溜まる。溜まって、いく。
胸の内に溜まるクロイモノが外へと吹き出さないうちに、ぎりぎりで舌打ちをこらえた俺は席を立った。
「俺、暇じゃないから」
一瞬呆けた顔を見せた奴だったが、すぐにまた笑い顔に戻る。俺のいつも以上にぶっきらぼうな態度を、冗談だとでも思ったらしい。ほとほと鈍感な奴なのである。奴は、席から立ち上がる俺の肩をぽんと一つ叩き、またケラケラと笑いながら話を続けた。
「おぅすまんすまん。気に障ったなら謝るよ。な? だから、今日これから諏訪湖見にいかねぇ?」
「諏訪湖?」
奴の口から出た単語は、ある意味予想通りでもあり、予想外でもあった。
それは、今一番人々の関心をひいている単語であったからだ。
諏訪湖。
この国の真ん中あたりにある湖。俺たちの住む町からみえる湖。そして、なぜか数日前、一夜にして水がなくなり……完全に干上がってしまった湖。
何の変哲もなかった湖は、今、世界中の注目を浴びていた。テレビの中の専門家は、「温暖化が」だの「地下水が」だの難しい言葉を羅列していたが、実際のところは全く何もわかっていないらしい。連日様々な人がこの付近を訪れ、様々な報道がされていた。
「そうそう。一夜にして干上がった湖、まわりにはこんだけ人が住んでいるってーのに誰もその兆候も瞬間を見ていない、そのうえ原因不明ときたもんだ。じーちゃんは「神の怒りだ」なんて怯えてたけど、この情報科学社会でそりゃねぇよなぁ。なぁ、現代のミステリ、気になるだろ?」
拳を振り上げて熱弁をふるう奴。確かに、そのニュースには興味深いものがあるが、今の俺はそんなものには構っていられない事情があった。だから、燃え滾る情熱を振りまく奴をあっさり素通りして、手をひらひらとふるだけ振り返りもせずに教室のドアへ手をかけた。
「あー頑張れ。」
「むぅ。なんの手掛りも無いわけじゃないんだってばな、聞けよ。ほらさ、隣のクラスに東風谷って女子いただろ?」
そのまま帰ろうとしたのに、聞き覚えのある名前に動きを止めてしまった。その隙に、鞄を掴まれる。無意識に舌打ちがこぼれたが、奴には聞こえなかったようだった。
しかし……東風谷とは、東風谷早苗のことだろうか。彼女とは、同じ文化祭委員であったことで多少なりとも交流があった。長い緑の黒髪が印象的な彼女であったが、先日の文化祭が終わった後に急に転校してしまったと聞いた。委員で多少なりとも仲良くなれたのに残念だったのを覚えている。
「東風谷って、転校したっていわれてたけど、あれ、実は失踪なんじゃないかって噂を聞いたんだって。東風谷が転校したのと湖の干上がり、ほら、これが同じ日なんだよ。なんでかセンセらは、東風谷についてなんも教えてくんないしさぁ。こりゃなんかあるんじゃね?」
「・・・・・・偶然だろ。じゃあな」
少しだけ東風谷のことは気になったのだが、俺たちが考えることでもないだろう。そのまま無理やりに手を払い、乱暴に教室を後にする。
ちらと見れば、怒号を撒き散らし暴れる奴に、悪友仲間の残り2人が慌てて駆け寄るところであった。こちらの顔色を伺って、朝から近寄ってもこなかった奴らだ。もう俺の事情は知られているのであろうと思うと、何故だか、溜息がでた。
2.
「にーちゃん、ただーまー」
「ただいまだろ。帰んぞ」
「あーい」
カレンダーを見るならもうとっくに秋といってよいはずなのに、いまだ秋らしい秋の感じられない残暑厳しい炎天下の道を十数分歩き、帰りがけに小学校に寄り小学生の妹をひろう。家が住宅地から離れて建っているせいで、一緒に帰ることのできる友人のいない妹の送り迎えは母の仕事であったが、ここ数日からは俺の役目となっている。それが、俺が悪友の誘いに乗れない一つ目の理由なのである。
母が迎えに行っていた春・初夏は、気持ちのよい午後の散歩だったろうが、今はもう、ダメだ。何がダメって、暑すぎるのだ。暑さ衰えぬ炎天下で焼かれたアスファルトは、その上を歩く生物をじりじりと焼く。俺は焼肉じゃない。そもそも、俺が小学生のときは迎えに来てくれたのなんて具合の悪くなった2,3回だけであったというのに。過保護なんじゃないかとも思うのだが、昨今の治安を考えるにしょうがないだろう。だから俺は馬鹿正直に、今年七つになる妹を迎えにくる。
そんな未だ舌ったらずで平均身長に比べて明らかにちみっこい妹は、暢気に流行のアニメソングを鼻歌いながら、黄色い通学帽と真赤なランドセルを揺らして俺の隣を歩いていた。
「にーちゃん、あつい」
「奇遇だな。俺も暑い」
「にーちゃん、アイスー」
「俺はアイスじゃねえ」
「にーちゃん、アイス。アイスかって」
「金がねぇ」
「にーちゃん、にーちゃん」
「んだよ」
意味のないやり取りが続き、いい加減諦めより苛立ちが勝る。
不機嫌を前面に押し出した声で返事をし、ついでに怒号のひとつも浴びせてやろうかと思い立ち止まり振り返れば、思いもかけず、全く同じタイミングで妹も立ち止まっていた。そして、くりくり動く真っ黒い瞳で真摯に俺を見上げていた。
思わず息を呑んだ俺に、全く反撃できないタイミングで、妹がその小さな口を開き。
「……おかあさん、しぬの?」
大人たちが誰も発しない純粋なその言の葉に、脳味噌が揺さぶられたような衝撃を受けた。
母が、数日前に突然倒れ入院した。
原因はよくわからない。父や医者の先生方はもう知っているのかもしれないが、俺には知らされていないから。心配をかけないようにという気遣いなのかもしれないが、それこそ余計に勘繰ってしまうというのにだ。
母は、妹を産んだときにも産後の状態が悪かったことから大病を患ったことがあった。幸い、それは難しい手術が成功したおかげですっかり完治したし、それからはすっかり元気になり風邪をひくことすら稀だった。が、繋がりを感じずにはいられない。今度も同じような大病なのではないかと。あれは完治してはいなかったのではないかと。
そんなことをぐるぐると考えていた折に、予想もしなかった方向からの必殺パンチ。何か、上手いこと言えればいいのに、元来口下手であった俺には上手い言葉が見つからず。
「……知らねぇよ」
そう、そっぽを向くことしか思い浮かばなかった。
これが、俺が悪友の誘いに乗れない2つ目にして最大の理由である。
「あ」
それから、全くの無言で歩いていた俺たち兄妹間の静寂は、妹のそんな間抜けな声で破られた。
何かと問う前に、妹は、その場から全力で走り出していた。一瞬呆気に取られた俺は、もののみごとに出遅れてしまい。
「お、おい! 待て!」
一拍遅れてから、慌てて小さな背中を追いかけに駆け出すこととなった。
ああ見えて運動神経が良くすばしっこい妹は、路地や小道をちょろちょろと駆け抜けていく所為でなかなか捕まらない。どれどころか、これといった運動もしていないので、足にも体力も人並みかそれ以下しかない俺はついていくので精一杯である。
「っはぁ……は、あ……ったく、こんな糞暑いってのに」
余り整備されていない階段を駆け上がっていく妹。ここで行き止まりだろうと思い、足を止めて息を整える。この炎天下にこれだけノンストップで走り階段を駆け上れるのだから、ちびっこの体力とは侮れないものだ。
気がつけば住宅街を抜けた町外れ、大通りから少し入ったところにある木々の生い茂る小山の麓まで来てしまっていた。小山に続く階段の手前には石柱に何か彫ってあるようだが、あまりにもかすれてしまって完全には読み取れない。かろうじて読めるのは《 矢 》という漢字だけである。
「此処って……」
その漢字を見た瞬間、きっと、この上には寂れた神社があるのだと、根拠のない確信が胸を満たしていた。
小山に茂る森を分け入る階段をあがり、息が切れてきたところで、やっと色褪せた赤い鳥居が目に付いた。そのまま鳥居をくぐれば、目の前には森に囲まれた小さな神社。蝉の声の聞こえない神社は忘れさられたかの如くひっそりと静まり返っており、その中央、賽銭箱のある前に妹がいるのが見えた。
「おい」
「あー、にーちゃん」
社を見つめていた妹が、俺の声に気がついて何事も無かったかのように振り返る。
ちょっと殴りたくなった。
「あー、にーちゃん。じゃねぇよったく。何してんだよ」
「にーちゃんここは神社だよ。神社は神さまにおねがいする場所なんだよ」
「そうかよ。……にしてもお前、よくこんな神社知ってたな。」
小さな小さな神社だった。
管理者すらいないのか境内は雑草が生い茂っていたのだが、不思議と建物自体に荒れた様子はみつからない。廃墟ではないようだが、ここ数日は手入れをしていない。そんな雰囲気である。
「うん、前に遊んでたときにみつけたの。いつもはみこのおねーちゃんがおそうじしてるのに、今日はいないね。」
やはり、一応ここを管理する人はいるようだ。こんな小さな神社で巫女ときいて相当な婆さんを予想したのだが、おねーちゃんということは若いのだろう。こんなところでそんな若い女性が、一人で世俗から離れた生活をしているのだろうか。あまり想像できない。
「さ、帰んぞ」
「まって、もう少し神さまにおねがいする。神さま、おかーさんをなおしてって。いっぱいいっぱいたのめば、神さまがなおしてくれるでしょ?」
小さな手をぎゅっと合わせて真摯に祈り出す妹。その姿を見て俺は。
「あのなお前」
「神さまは奇跡なんておこさない」
自然にそんな言葉が口に出た。
振り返った妹が不思議そうな顔をしていたが、俺の顔はそれ以上に不思議そうな顔をしていると断定できる。何の思考も躊躇いもなく、すらりとでた言葉。自分で自分が発した言葉が理解できない。しかし、確かに、頭の片隅に何かが引っかかるのを感じた。そう、俺は。
「……どおして?」
きょとんと不思議そうな顔をしていた妹が、一転して泣きそうな顔になるのがかろうじて認識できた。
そして、叫び声が聞こえ、飛びかけていた意識が一気に引き戻される。
「みこのおねーさんも、いい子にして信じていれば、神さまはおねがいごとをかなえてくれるっていってたよ。わたしがわるい子だから? おさいせんをいれないわるい子だから?」
俺に否定された妹が、叫ぶ。
静まり返る神社に、甲高く幼い声が響き渡る。
「違う! 違くて、えっと、何だったかな……」
慌てて、頭の片隅の引っかかりを探した。あれはなんなのか、なんだったか。
晩夏・夕暮れ・神社・病気・神・祈り……そして、女性。
「……そう、そうだ」
『奇跡は、人間がおこすものだから』
ブラックアウト。
3.
その年も、夏が長く続いていた。
蝉の声はいつまでもやまず、日差しは一向に弱まらず、そして、母は死の淵を漂っていた。
父も祖母も祖父も毎日病院に赴き、大人たちは毎日暗い顔をつき合わせ、おれは家を追い出された。遊び道具に新しいボールを買い与えられたが、今の状況がわからないほど幼くもない。歳は十だっただろうか。しかしながら、精神的な部分で早熟だったおれは、陽気で暢気な友達と楽しく遊ぶ気分にもなれずにいた。おれは、友達のいる公園などを避けては毎日ふらふらと人気のない場所を歩き回っていた。
そんなとき見つけたのが、住宅地の外れに在る小山の頂にある小さな神社であった。
見つけてからは毎日通った。近くにある大きな神社より、ここの小さな神社の方が人のいないぶんだけ願いが神に聞こえやすいんじゃないかとおもって。毎日毎日、貯金箱のそこに残っていた一円玉を握って、母を治してくださいと祈り願うために通った。
そうして、三日目。おれは、毎日同じ場所に座り込む女性の存在に気がついたのだった。
「こんにちは」
光の加減で紫に光るショートの髪に干草で編み真赤な紅葉をつけたような髪飾りをのせ、深く紅いワンピースのようなものを着た、どこか浮世離れした雰囲気を感じるその女性。
母より若く、従姉よりは大人びたその女性は、毎日毎日、同じ場所‐神社の縁側‐に座り朱塗りの盃を手に空を見上げていた。少し淋しそうなその表情が気になって、とうとう声をかけたのが通い始めて七日目のこと。女性は、突然の見知らぬ子供からの挨拶に吃驚して狼狽した様子だったが、すぐに挨拶を返してくれた。
「こんにちは」
すぐに、私がみえるのかい? と頓珍漢な質問されたので、変な人だったかもと声をかけたことを少し後悔した。女性は怪訝な顔をするおれを見て、何かを呟いていたがあまり聞き取れなかった。ちょっけいでもないただのこどもが、とは聞こえたのだが、ぶつぶつ一人で呟いていて、やっぱり変な人だったかと後悔した。
しかし、そんなことを考えていた直後、女性はようやっと吃驚した表情を微笑みに変えてくれた。その微笑みがあまりにも優しくて、おれは、逃げるタイミングを失っていた。
「少年、どうして毎日此処に来るんだい?」
知ってたのかと今度はおれが驚くが、この小さな神社には参拝客も少ないのだろう。そんなところに、日参しているおれ。覚えられて当然だ。
女性は楽しそうに自分の隣に座るように勧め、おれも勧められるがままにそこに座った。そして、もう一度同じ問いを投げかける女性。しかし。祈りに頼るなんて女々しいことが知られたくなくて、自分の事情は話したくなかった。が、おれを優しく見つめる女性の真っ直ぐな瞳に射竦められると何故か逃げられなくなってしまい。渋々おれは、口を開くこととなった。
「おれは……」
母の病気のこと。大人たちの態度のこと。不満。不安。口を開いてしまえば堰を切ったように、包み隠さず話した。不思議と女性に話さずにはいられなかった。
時々言葉につまるのだが、女性はおれに先を促すことはせず、時々相槌を打ってはただおれを見つめている。盃からは、強く、祖父の酒の匂いがしていたが、女性自身からは祖父のような嫌な臭いは感じられない。それが、また、不思議だった。
一通りおれが話し終えると、女性は盃を満たす酒を一口含み。
「へぇそうかい。それで、少年はここで何をしているんだい?」
にっこりと笑い、そう一言。
ここまで話してたことが理解されてないような若干の苛立ちが沸き、信頼して話したことが聞き流されていたようで悲しみが胸を刺す。
「何って、神社って神さまにお願いするところだろ。かーさんの病気をなおしてくれって、神さまにお願いしてるんだよ」
だから、顔を背けて先ほどよりぶっきらぼうに返事をした。
しかし女性はそれに気がついた様子もなく、声に若干の淋しさを潜ませて、そのままおれではなく空を見上げて、ゆっくりと口を開く。
「少年、勘違いしているよ」
「かんちがい?」
「神さまは、奇跡をおこしたりはしないのさ」
一瞬の空白に風の流れる音が聞こえた。
女性はまだ、空から目を逸らさない。
そして。
「どうして! 神さまってのはえらくてすごいんだろ! だったら、かーさんの病気くらいなおしてくれたっていいじゃんか!」
女性に否定されたおれが、叫ぶ。
静まり返る神社に、甲高く幼い声が響き渡る。
「あぁ、奇跡は、人間がおこすものだからね」
しかし。女性はおれの叫びなどなかったかのように、また一口酒を口にして平然と答えた。
女性はまだ、空から目を離さない。
その、どこか人並みはずれた超然とした様子に、少し不思議というより不気味なものを感じ、ここにきてはじめて、おれは女性という存在に恐れを感じたのだ。
「どういう、いみ?」
腰が引けて、少し引きつった声。
それも全く意に介さぬように、なんとも普通な動作で、女性はようやく視線を空からおれに落としてくれた。その顔は、楽しげに笑っていた。
「例えば、少年、逆上がりはできるかい?」
また、突然に不思議な質問。まぁ、運動は苦手だがそれぐらいは出来る……はずだ。こくりと頷く。
女性は少し驚いたようだったが、また楽しげに笑う。そんな女性の表情に、なんだか馬鹿にされた気がしてむっとするのだが。女性は、まだ酒の多く残る盃を持つ手とは逆の手を持ち上げ、綺麗な指をくるくる回して言葉を続ける。
「んじゃ、少年が逆上がりが出来なくて、逆上がりが出来るようになりたいって神さまに願うとしよう。して、どんなに熱心に願ったとて、逆上がりをしない少年には逆上がりは出来ない」
意味はわかるが意図がわからない。おれは、怪訝な顔で女性を見上げのだが、女性は頷くと再び口を開いた。
「練習しない子は、出来るようになんてならないってことだよ」
「それくらいはわかるよ。でも、練習してもできないから神さまにお願いするんだろ」
「そうだね。そして、その練習が辛くなったときに神さまに願いに来るのだろう」
それはわかる。こくりと頷く。
そんなおれをみて、女性は満足気に、嬉しそうに、笑ってくれた。
「だから神さまは、願いを聞き遂げるよ。辛くて、諦めそうになった少年を、ちょっとだけ暖かくするんだよ。もう少し、勇気が沸き立つように。最後の一歩が踏み込めるように。神さまは手伝うことしか出来ないけど、そのほんの少しの後押しで、人間は何度も奇跡を起こしてきた。何度でも奇跡を起こせるんだよ」
そうやって、幼子に言い聞かせるようにゆっくりと優しげに話す女性の表情が、あまりにも綺麗で。生まれてこのかた、見たこともないほど綺麗で。
あまりの衝撃に、おれは、言葉を失ってしまったのである。
きっと、耳までかぁっと赤くなってしまっていたと思う。突然黙り込んだおれに、どうかしたのかい、とも言いたげに不思議そうに顔を覗き込んでくる女性を、直視することなど到底できない。おれは、わざと顔を逸らした。女性の言ったことは理解できた。けれど、恥ずかしくてなんだか悔しくて、わざと不機嫌な声で意地の悪い質問をする。
「……じゃあ、かーさんは。病気をなおして、ってたのんだら、神さまは何をしてくれるの?」
「病気に負けないように、そのお母さんを少し暖かくする。見守っている少年も、諦めないように暖かくするよ」
女性は間髪いれずに、当然のように答える。
言っていることは、子供騙しの精神論。けれど、女性のいうことは間違ってないという、不思議な信頼感が感じられた。それは、女性自身から感じられる何かであったし、この神社という場所から感じられる何かであったのかもしれない。大人たちが振りかざすあからさまな唯の気休めと違い、女性の言葉には、確かに心に響く何かがあったのだ。
しかし、考え込むおれの姿を勘違いしたのか、女性はまた酒を口に含み、淋しそうな表情に戻ってしまった。
「まぁ、信じてもらえないならしょうがないさね。神さまってのは、信じてもらえなきゃ力を揮えないものさ」
「信じる。だけど、神さまにだけは任せておけないね」
今度はおれが間髪いれずに、当然のように答える。
女性は驚いた表情でおれを見つめていた。今度は、きちんと、その顔を直視することができて安心した。だからおれはきっと、普段は家族にも友達にも絶対に見せない幼い表情で笑って、普段は絶対言わないような幼い言葉を、胸の中で咀嚼もせずに思いつくままに並べ立てることが出来た。
「おれもかーさんの神さまになる! かーさんが病気にやられないように、かーさんの手をにぎって暖かさを分けてあげる。そのかわり、おれがずっとかーさんに暖かさを分けてあげられるように、おれも神さまに暖かさを分けてもらう。神さまにも、かーさんに暖かさを分けにいってもらう。こうすりゃ、絶対にかーさんもあきらめたりできない。負けたりできないだろ!」
言い切ってから、流石にいうことが幼すぎたかなと若干の後悔に顔が赤くなった。
しかし、女性は、それまで盃持っていた手でおれの頭をくしゃと強く撫でて。
「そうだね、きっと」
そうふわりと優しく笑ったのだ。
しかし、おれの頭から手を離した女性は、今までと一転して驚くほど悲しげで切実な表情を浮かべる。
「その代わり、信じて、忘れないで。少年に暖かさを分けた神さまのことを。そして願いが叶ったら、少しだけ感謝して。ありがとうって。そうすれば、今度は少年から神さまに暖かさが伝わるから。神さまも、暖かくなれるから」
その言葉が、今までの女性の言葉とはうってかわって、余裕のない、どこか悲痛なものを感じさせられて。
だからおれは。
「……うん、約束する」
そう、頷くしかなかったのだ。
時刻はもう夕暮れだった。
そのままおれは軽く女性と別れの挨拶を交わし、手を振って神社を後にした。
境内では、おれと同い年ぐらいの女の子とおれより年上の女の子が、駆け足で帰るおれを見ていた気がした。
次の日から、おれは神社ではなく病院に通うこととなった。
おれを病院に連れて行かなかったのは、痩せこけた姿を息子に見られたくないという母の意志だったらしいが、そんなことは関係ない。家では暴れすぎて父に捕まり祖父母に捕まり、病院では時間外にもぐりこんで看護師のおねーさんに捕まった。けれど、毎日毎日諦めもせずに、母の手を握りにいった。母の手は悲しいほどに冷たかったが、その冷たい手を温めるほどに自分自身の手が暖かくなるようだった。心も体も暖かくて、いつまででも握り続けていられた。しまいには誰も彼も諦めて、母の病室まではフリーパスになったのもいい思い出だ。
そうこうしているうちに、難しい手術が決まり、なんとか成功して、母はみるみる健康になった。リハビリにも毎日付き合った。母が、父さんに妬かれちゃうわと冗談交じりで笑ったときには、人目も憚らずに母に抱きついた。そして退院の日には、家族全員で泣いた。
母は元気になった。
元気に笑う母と元気に泣く妹で、家の中は楽しい喧騒に満ちるようになった。嬉しかった。幸せだった。
だから俺は、もうカミサマに力を借りる必要がなかった。
手術が成功したときには神さまに祈っていたことを忘れ、母が帰ってきた頃には女性の存在も神社の存在も忘れ去っていた。
ほんの少しでも力を借りたことを忘れ、感謝もせずに、当たり前に幸福な日々を……
4.
「はじめまして」
そうして一年も近くすぎた頃。
友達の家に遊びにいく為に町外れをひた走る俺をそう呼び止めたのは、白いシャツに蛙のワンポイントのある紫のワンピースを着て、黄色い麦藁帽子を被った見慣れぬ少女であった。俺より四つか五つ年上に見える少女は、小山の森へと続く階段に腰掛けて、おれを見下ろしていた。
おれは、その階段がどこに続くものであったかすらも、忘れていた。
「はじめ、まして。ねーちゃん、誰?」
「ん、私? 神さま」
にっこりと、不思議なことをいう少女。
「はぁ」
にこにこと笑顔を崩さない少女になんといっていいものか分からず、おれはそのまま走り去ろうと決心した。変なものにはかかわらないのが一番なのだ。
季節は晩夏。さっきまで五月蝿いほど鳴いていた蝉の声は何故だか聞こえず、そのかわりに、どこからともなく蛙の鳴き声が低く響いていた。
「ねぇ、どうして約束やぶったの?」
背を向け駆け出そうとした俺に、そう、少女が声を投げかける。
その声は、さっきまでのにこにこした表情とは裏腹に冷え切って響いていて、おれは逃げようとしたことも忘れて身を竦ませることしかできない。
「私はあなたに力を貸した神じゃない。けれど、知っている。あの子が悲しんだこと」
「何、言ってんのか、全然わかんないんだけど……」
ようやくそれだけの言葉を搾り出す。
少女の言っていることは1ミリも理解できなかったが、彼女が怒っていることだけは理解できた。そしてその怒りが、おれに向けられていることも。少女のことは知らない。だから、怒られる筋合いもはいはずなのに。
げぇろげぇろと、蛙の鳴き声が、腹の底に低く響いていた。おれは蛙が嫌いだ。ぎょろっとした眼とどっちに跳ぶか予測不能な動きが、そしてこの不気味な鳴き声が嫌いなのだ。
「……そうやって、ニンゲンは忘れる。都合のいいときばかり頼り、神々とて妬み憎み……喜んで悲しむということを忘れる。そして遂には、その存在すら忘れていく」
少女は、感情のない声で言葉を紡いでいく。
金縛りにあったように動かない体に鞭をいれて、腹に気合を入れて無理やり体を階段の方、少女のほうに向ける。少女は立ち上がっていた。しかし、予想に反してその表情は、怒りではなく悲しみの色を映しており、何故だか、とても苦しくなった。
「結局、あなたも同じニンゲンだった。あの子が少し、期待してしまった、ただそれだけ」
少女は、まだ、感情のない声で言葉を紡いでいく。
おれは苦しくて苦しくて、声が出せない。目を逸らしたかったのに、少女の姿から目を放せない。
蛙はまだ、泣いていた。
「さようなら。私もあの子も、もう二度とあなたに会うことはないでしょうね。そう、もう二度と、あなたに視えることは」
麦藁帽子を深く被りなおし、今度は、少女がおれに背を向ける。
何か、ここで終わったらその何かが決定的になるのを感じて、追いすがろうと慌てて手と足を伸ばす。が、その途端、階段の上のほうから信じられないほどの突風が吹きぬけたのだ。再び目を開けたときには、予想通り、少女はもういなかった。蛙の鳴き声もせず、元通りに弱弱しい蝉の声があたりには響いていた。
階段はのぼれなかった。なぜだか、瞳には涙が溢れていた。
そして俺は、全てを忘れる。
4.
「にーちゃん、にーちゃん?」
はっと、唐突に意識が現実に戻った。
俺は、立ったまま呆然としていて、その脇では妹が不思議そうに俺を見ていた。
晩夏の夕暮れ、そして森の中の小さな神社。しかし、そ の 場 所 に は 誰 も い な い 。
未だ不思議そうな顔をしている妹をおいて、狭い境内を一周駆けてみるが、やはり誰もいない。人っ子一人どころか、猫も犬も、烏も蛇も蛙もいやしない。誰もいない神社を、俺は呆然と眺めた。いつかの縁側の脇に立ちつくして、俺はようやく、決定的な過ちを犯してしまっていたことに気がついた。
「にーちゃんってばぁ」
妹が俺の制服の裾をひく。
いつもなら皺になるから止めろと一喝するところだが、そんな気力も起こらず。妹如きの力で、ずるずるとひきずられていった。
そう、いつかの賽銭箱の前まで。
「一緒においのりしよ? そしたらかえろ?」
妹の声が空っぽの頭に響く。
俺は、制服のポケットから財布を引きずり出して、そして、いつかは握れなかった百円玉を放り投げた。そうして、手を合わせる。一心に、いつかのように祈る。願う。妹が何か騒ぐ声が聞こえた気がしたが気にならない。祈る。願う。
だけれど。
いつまでたっても、あのときの暖かさはよみがえってこなくて。
境内も俺も、そしてきっと母さんも。この晩夏に、冷え切ったままであった。
※結構な自分解釈があります。
1.
文化祭も体育祭も終わったのだから、これからは気持ちを一年後の受験に切り替えて勉学に励むように。
そうお決まりの台詞を残し、生徒よりよほどやる気の感じられない今更夏バテ真っ盛りな担任教師は午後のホームルームをしめたのであった。
例年なら、そろそろ日差しは弱まり木々が色づき始めて、夏から秋への移り変わりを感じさせる時期だというのに、今年はまだまだ、夏が猛威を振るっていた。真昼の外は強い日差しには残暑が色濃く残っており、快晴の元に響く出遅れたアブラゼミの鳴き声が、暑さを一層際立たせていた。
のっそりとした動きで担任が教壇を降りたとほぼ同時に、教室は一気に喧嘩に包まれた。我先にと帰るもの、お八つを広げるもの、友人と雑談にふけるもの、暑さにぐったりしているもの。十人十色な様相ではあるが、流れる空気は明るく和やかである。俺は、そんな周囲を一瞥してから、ほとんど何も入ってない鞄を手に席を立とうとして。
「なぁなぁお前、今日暇か?」
悪友にそれを阻まれた。
終わったばかりの体育祭で真っ黒に焼けた顔に真っ白な歯を覗かせて、にやにやと笑う奴。いつものような悪巧みの相談だろうか。しかし、いつものようには乗り気にはなれない俺は、溜息をこれみよがしに一つしてから先を促した。
「で、何?」
「何だよテンション低いなぁお前。まさか、センセみたいにおっそい夏バテかぁ? いい若いもんが情けないのぅ」
ケラケラと快活に笑う黒い顔。自然、眉間に皺が寄った。いつもながら愛嬌がある奴の笑い声も、今日の俺には、わざと、イライラさせるようにやっているのではと思えてならない。しかしながら、友人のそんなたわいのない行動にそんなことを思う自分自身に、また、イライラがつのる。クロイモノが溜まる。溜まって、いく。
胸の内に溜まるクロイモノが外へと吹き出さないうちに、ぎりぎりで舌打ちをこらえた俺は席を立った。
「俺、暇じゃないから」
一瞬呆けた顔を見せた奴だったが、すぐにまた笑い顔に戻る。俺のいつも以上にぶっきらぼうな態度を、冗談だとでも思ったらしい。ほとほと鈍感な奴なのである。奴は、席から立ち上がる俺の肩をぽんと一つ叩き、またケラケラと笑いながら話を続けた。
「おぅすまんすまん。気に障ったなら謝るよ。な? だから、今日これから諏訪湖見にいかねぇ?」
「諏訪湖?」
奴の口から出た単語は、ある意味予想通りでもあり、予想外でもあった。
それは、今一番人々の関心をひいている単語であったからだ。
諏訪湖。
この国の真ん中あたりにある湖。俺たちの住む町からみえる湖。そして、なぜか数日前、一夜にして水がなくなり……完全に干上がってしまった湖。
何の変哲もなかった湖は、今、世界中の注目を浴びていた。テレビの中の専門家は、「温暖化が」だの「地下水が」だの難しい言葉を羅列していたが、実際のところは全く何もわかっていないらしい。連日様々な人がこの付近を訪れ、様々な報道がされていた。
「そうそう。一夜にして干上がった湖、まわりにはこんだけ人が住んでいるってーのに誰もその兆候も瞬間を見ていない、そのうえ原因不明ときたもんだ。じーちゃんは「神の怒りだ」なんて怯えてたけど、この情報科学社会でそりゃねぇよなぁ。なぁ、現代のミステリ、気になるだろ?」
拳を振り上げて熱弁をふるう奴。確かに、そのニュースには興味深いものがあるが、今の俺はそんなものには構っていられない事情があった。だから、燃え滾る情熱を振りまく奴をあっさり素通りして、手をひらひらとふるだけ振り返りもせずに教室のドアへ手をかけた。
「あー頑張れ。」
「むぅ。なんの手掛りも無いわけじゃないんだってばな、聞けよ。ほらさ、隣のクラスに東風谷って女子いただろ?」
そのまま帰ろうとしたのに、聞き覚えのある名前に動きを止めてしまった。その隙に、鞄を掴まれる。無意識に舌打ちがこぼれたが、奴には聞こえなかったようだった。
しかし……東風谷とは、東風谷早苗のことだろうか。彼女とは、同じ文化祭委員であったことで多少なりとも交流があった。長い緑の黒髪が印象的な彼女であったが、先日の文化祭が終わった後に急に転校してしまったと聞いた。委員で多少なりとも仲良くなれたのに残念だったのを覚えている。
「東風谷って、転校したっていわれてたけど、あれ、実は失踪なんじゃないかって噂を聞いたんだって。東風谷が転校したのと湖の干上がり、ほら、これが同じ日なんだよ。なんでかセンセらは、東風谷についてなんも教えてくんないしさぁ。こりゃなんかあるんじゃね?」
「・・・・・・偶然だろ。じゃあな」
少しだけ東風谷のことは気になったのだが、俺たちが考えることでもないだろう。そのまま無理やりに手を払い、乱暴に教室を後にする。
ちらと見れば、怒号を撒き散らし暴れる奴に、悪友仲間の残り2人が慌てて駆け寄るところであった。こちらの顔色を伺って、朝から近寄ってもこなかった奴らだ。もう俺の事情は知られているのであろうと思うと、何故だか、溜息がでた。
2.
「にーちゃん、ただーまー」
「ただいまだろ。帰んぞ」
「あーい」
カレンダーを見るならもうとっくに秋といってよいはずなのに、いまだ秋らしい秋の感じられない残暑厳しい炎天下の道を十数分歩き、帰りがけに小学校に寄り小学生の妹をひろう。家が住宅地から離れて建っているせいで、一緒に帰ることのできる友人のいない妹の送り迎えは母の仕事であったが、ここ数日からは俺の役目となっている。それが、俺が悪友の誘いに乗れない一つ目の理由なのである。
母が迎えに行っていた春・初夏は、気持ちのよい午後の散歩だったろうが、今はもう、ダメだ。何がダメって、暑すぎるのだ。暑さ衰えぬ炎天下で焼かれたアスファルトは、その上を歩く生物をじりじりと焼く。俺は焼肉じゃない。そもそも、俺が小学生のときは迎えに来てくれたのなんて具合の悪くなった2,3回だけであったというのに。過保護なんじゃないかとも思うのだが、昨今の治安を考えるにしょうがないだろう。だから俺は馬鹿正直に、今年七つになる妹を迎えにくる。
そんな未だ舌ったらずで平均身長に比べて明らかにちみっこい妹は、暢気に流行のアニメソングを鼻歌いながら、黄色い通学帽と真赤なランドセルを揺らして俺の隣を歩いていた。
「にーちゃん、あつい」
「奇遇だな。俺も暑い」
「にーちゃん、アイスー」
「俺はアイスじゃねえ」
「にーちゃん、アイス。アイスかって」
「金がねぇ」
「にーちゃん、にーちゃん」
「んだよ」
意味のないやり取りが続き、いい加減諦めより苛立ちが勝る。
不機嫌を前面に押し出した声で返事をし、ついでに怒号のひとつも浴びせてやろうかと思い立ち止まり振り返れば、思いもかけず、全く同じタイミングで妹も立ち止まっていた。そして、くりくり動く真っ黒い瞳で真摯に俺を見上げていた。
思わず息を呑んだ俺に、全く反撃できないタイミングで、妹がその小さな口を開き。
「……おかあさん、しぬの?」
大人たちが誰も発しない純粋なその言の葉に、脳味噌が揺さぶられたような衝撃を受けた。
母が、数日前に突然倒れ入院した。
原因はよくわからない。父や医者の先生方はもう知っているのかもしれないが、俺には知らされていないから。心配をかけないようにという気遣いなのかもしれないが、それこそ余計に勘繰ってしまうというのにだ。
母は、妹を産んだときにも産後の状態が悪かったことから大病を患ったことがあった。幸い、それは難しい手術が成功したおかげですっかり完治したし、それからはすっかり元気になり風邪をひくことすら稀だった。が、繋がりを感じずにはいられない。今度も同じような大病なのではないかと。あれは完治してはいなかったのではないかと。
そんなことをぐるぐると考えていた折に、予想もしなかった方向からの必殺パンチ。何か、上手いこと言えればいいのに、元来口下手であった俺には上手い言葉が見つからず。
「……知らねぇよ」
そう、そっぽを向くことしか思い浮かばなかった。
これが、俺が悪友の誘いに乗れない2つ目にして最大の理由である。
「あ」
それから、全くの無言で歩いていた俺たち兄妹間の静寂は、妹のそんな間抜けな声で破られた。
何かと問う前に、妹は、その場から全力で走り出していた。一瞬呆気に取られた俺は、もののみごとに出遅れてしまい。
「お、おい! 待て!」
一拍遅れてから、慌てて小さな背中を追いかけに駆け出すこととなった。
ああ見えて運動神経が良くすばしっこい妹は、路地や小道をちょろちょろと駆け抜けていく所為でなかなか捕まらない。どれどころか、これといった運動もしていないので、足にも体力も人並みかそれ以下しかない俺はついていくので精一杯である。
「っはぁ……は、あ……ったく、こんな糞暑いってのに」
余り整備されていない階段を駆け上がっていく妹。ここで行き止まりだろうと思い、足を止めて息を整える。この炎天下にこれだけノンストップで走り階段を駆け上れるのだから、ちびっこの体力とは侮れないものだ。
気がつけば住宅街を抜けた町外れ、大通りから少し入ったところにある木々の生い茂る小山の麓まで来てしまっていた。小山に続く階段の手前には石柱に何か彫ってあるようだが、あまりにもかすれてしまって完全には読み取れない。かろうじて読めるのは《 矢 》という漢字だけである。
「此処って……」
その漢字を見た瞬間、きっと、この上には寂れた神社があるのだと、根拠のない確信が胸を満たしていた。
小山に茂る森を分け入る階段をあがり、息が切れてきたところで、やっと色褪せた赤い鳥居が目に付いた。そのまま鳥居をくぐれば、目の前には森に囲まれた小さな神社。蝉の声の聞こえない神社は忘れさられたかの如くひっそりと静まり返っており、その中央、賽銭箱のある前に妹がいるのが見えた。
「おい」
「あー、にーちゃん」
社を見つめていた妹が、俺の声に気がついて何事も無かったかのように振り返る。
ちょっと殴りたくなった。
「あー、にーちゃん。じゃねぇよったく。何してんだよ」
「にーちゃんここは神社だよ。神社は神さまにおねがいする場所なんだよ」
「そうかよ。……にしてもお前、よくこんな神社知ってたな。」
小さな小さな神社だった。
管理者すらいないのか境内は雑草が生い茂っていたのだが、不思議と建物自体に荒れた様子はみつからない。廃墟ではないようだが、ここ数日は手入れをしていない。そんな雰囲気である。
「うん、前に遊んでたときにみつけたの。いつもはみこのおねーちゃんがおそうじしてるのに、今日はいないね。」
やはり、一応ここを管理する人はいるようだ。こんな小さな神社で巫女ときいて相当な婆さんを予想したのだが、おねーちゃんということは若いのだろう。こんなところでそんな若い女性が、一人で世俗から離れた生活をしているのだろうか。あまり想像できない。
「さ、帰んぞ」
「まって、もう少し神さまにおねがいする。神さま、おかーさんをなおしてって。いっぱいいっぱいたのめば、神さまがなおしてくれるでしょ?」
小さな手をぎゅっと合わせて真摯に祈り出す妹。その姿を見て俺は。
「あのなお前」
「神さまは奇跡なんておこさない」
自然にそんな言葉が口に出た。
振り返った妹が不思議そうな顔をしていたが、俺の顔はそれ以上に不思議そうな顔をしていると断定できる。何の思考も躊躇いもなく、すらりとでた言葉。自分で自分が発した言葉が理解できない。しかし、確かに、頭の片隅に何かが引っかかるのを感じた。そう、俺は。
「……どおして?」
きょとんと不思議そうな顔をしていた妹が、一転して泣きそうな顔になるのがかろうじて認識できた。
そして、叫び声が聞こえ、飛びかけていた意識が一気に引き戻される。
「みこのおねーさんも、いい子にして信じていれば、神さまはおねがいごとをかなえてくれるっていってたよ。わたしがわるい子だから? おさいせんをいれないわるい子だから?」
俺に否定された妹が、叫ぶ。
静まり返る神社に、甲高く幼い声が響き渡る。
「違う! 違くて、えっと、何だったかな……」
慌てて、頭の片隅の引っかかりを探した。あれはなんなのか、なんだったか。
晩夏・夕暮れ・神社・病気・神・祈り……そして、女性。
「……そう、そうだ」
『奇跡は、人間がおこすものだから』
ブラックアウト。
3.
その年も、夏が長く続いていた。
蝉の声はいつまでもやまず、日差しは一向に弱まらず、そして、母は死の淵を漂っていた。
父も祖母も祖父も毎日病院に赴き、大人たちは毎日暗い顔をつき合わせ、おれは家を追い出された。遊び道具に新しいボールを買い与えられたが、今の状況がわからないほど幼くもない。歳は十だっただろうか。しかしながら、精神的な部分で早熟だったおれは、陽気で暢気な友達と楽しく遊ぶ気分にもなれずにいた。おれは、友達のいる公園などを避けては毎日ふらふらと人気のない場所を歩き回っていた。
そんなとき見つけたのが、住宅地の外れに在る小山の頂にある小さな神社であった。
見つけてからは毎日通った。近くにある大きな神社より、ここの小さな神社の方が人のいないぶんだけ願いが神に聞こえやすいんじゃないかとおもって。毎日毎日、貯金箱のそこに残っていた一円玉を握って、母を治してくださいと祈り願うために通った。
そうして、三日目。おれは、毎日同じ場所に座り込む女性の存在に気がついたのだった。
「こんにちは」
光の加減で紫に光るショートの髪に干草で編み真赤な紅葉をつけたような髪飾りをのせ、深く紅いワンピースのようなものを着た、どこか浮世離れした雰囲気を感じるその女性。
母より若く、従姉よりは大人びたその女性は、毎日毎日、同じ場所‐神社の縁側‐に座り朱塗りの盃を手に空を見上げていた。少し淋しそうなその表情が気になって、とうとう声をかけたのが通い始めて七日目のこと。女性は、突然の見知らぬ子供からの挨拶に吃驚して狼狽した様子だったが、すぐに挨拶を返してくれた。
「こんにちは」
すぐに、私がみえるのかい? と頓珍漢な質問されたので、変な人だったかもと声をかけたことを少し後悔した。女性は怪訝な顔をするおれを見て、何かを呟いていたがあまり聞き取れなかった。ちょっけいでもないただのこどもが、とは聞こえたのだが、ぶつぶつ一人で呟いていて、やっぱり変な人だったかと後悔した。
しかし、そんなことを考えていた直後、女性はようやっと吃驚した表情を微笑みに変えてくれた。その微笑みがあまりにも優しくて、おれは、逃げるタイミングを失っていた。
「少年、どうして毎日此処に来るんだい?」
知ってたのかと今度はおれが驚くが、この小さな神社には参拝客も少ないのだろう。そんなところに、日参しているおれ。覚えられて当然だ。
女性は楽しそうに自分の隣に座るように勧め、おれも勧められるがままにそこに座った。そして、もう一度同じ問いを投げかける女性。しかし。祈りに頼るなんて女々しいことが知られたくなくて、自分の事情は話したくなかった。が、おれを優しく見つめる女性の真っ直ぐな瞳に射竦められると何故か逃げられなくなってしまい。渋々おれは、口を開くこととなった。
「おれは……」
母の病気のこと。大人たちの態度のこと。不満。不安。口を開いてしまえば堰を切ったように、包み隠さず話した。不思議と女性に話さずにはいられなかった。
時々言葉につまるのだが、女性はおれに先を促すことはせず、時々相槌を打ってはただおれを見つめている。盃からは、強く、祖父の酒の匂いがしていたが、女性自身からは祖父のような嫌な臭いは感じられない。それが、また、不思議だった。
一通りおれが話し終えると、女性は盃を満たす酒を一口含み。
「へぇそうかい。それで、少年はここで何をしているんだい?」
にっこりと笑い、そう一言。
ここまで話してたことが理解されてないような若干の苛立ちが沸き、信頼して話したことが聞き流されていたようで悲しみが胸を刺す。
「何って、神社って神さまにお願いするところだろ。かーさんの病気をなおしてくれって、神さまにお願いしてるんだよ」
だから、顔を背けて先ほどよりぶっきらぼうに返事をした。
しかし女性はそれに気がついた様子もなく、声に若干の淋しさを潜ませて、そのままおれではなく空を見上げて、ゆっくりと口を開く。
「少年、勘違いしているよ」
「かんちがい?」
「神さまは、奇跡をおこしたりはしないのさ」
一瞬の空白に風の流れる音が聞こえた。
女性はまだ、空から目を逸らさない。
そして。
「どうして! 神さまってのはえらくてすごいんだろ! だったら、かーさんの病気くらいなおしてくれたっていいじゃんか!」
女性に否定されたおれが、叫ぶ。
静まり返る神社に、甲高く幼い声が響き渡る。
「あぁ、奇跡は、人間がおこすものだからね」
しかし。女性はおれの叫びなどなかったかのように、また一口酒を口にして平然と答えた。
女性はまだ、空から目を離さない。
その、どこか人並みはずれた超然とした様子に、少し不思議というより不気味なものを感じ、ここにきてはじめて、おれは女性という存在に恐れを感じたのだ。
「どういう、いみ?」
腰が引けて、少し引きつった声。
それも全く意に介さぬように、なんとも普通な動作で、女性はようやく視線を空からおれに落としてくれた。その顔は、楽しげに笑っていた。
「例えば、少年、逆上がりはできるかい?」
また、突然に不思議な質問。まぁ、運動は苦手だがそれぐらいは出来る……はずだ。こくりと頷く。
女性は少し驚いたようだったが、また楽しげに笑う。そんな女性の表情に、なんだか馬鹿にされた気がしてむっとするのだが。女性は、まだ酒の多く残る盃を持つ手とは逆の手を持ち上げ、綺麗な指をくるくる回して言葉を続ける。
「んじゃ、少年が逆上がりが出来なくて、逆上がりが出来るようになりたいって神さまに願うとしよう。して、どんなに熱心に願ったとて、逆上がりをしない少年には逆上がりは出来ない」
意味はわかるが意図がわからない。おれは、怪訝な顔で女性を見上げのだが、女性は頷くと再び口を開いた。
「練習しない子は、出来るようになんてならないってことだよ」
「それくらいはわかるよ。でも、練習してもできないから神さまにお願いするんだろ」
「そうだね。そして、その練習が辛くなったときに神さまに願いに来るのだろう」
それはわかる。こくりと頷く。
そんなおれをみて、女性は満足気に、嬉しそうに、笑ってくれた。
「だから神さまは、願いを聞き遂げるよ。辛くて、諦めそうになった少年を、ちょっとだけ暖かくするんだよ。もう少し、勇気が沸き立つように。最後の一歩が踏み込めるように。神さまは手伝うことしか出来ないけど、そのほんの少しの後押しで、人間は何度も奇跡を起こしてきた。何度でも奇跡を起こせるんだよ」
そうやって、幼子に言い聞かせるようにゆっくりと優しげに話す女性の表情が、あまりにも綺麗で。生まれてこのかた、見たこともないほど綺麗で。
あまりの衝撃に、おれは、言葉を失ってしまったのである。
きっと、耳までかぁっと赤くなってしまっていたと思う。突然黙り込んだおれに、どうかしたのかい、とも言いたげに不思議そうに顔を覗き込んでくる女性を、直視することなど到底できない。おれは、わざと顔を逸らした。女性の言ったことは理解できた。けれど、恥ずかしくてなんだか悔しくて、わざと不機嫌な声で意地の悪い質問をする。
「……じゃあ、かーさんは。病気をなおして、ってたのんだら、神さまは何をしてくれるの?」
「病気に負けないように、そのお母さんを少し暖かくする。見守っている少年も、諦めないように暖かくするよ」
女性は間髪いれずに、当然のように答える。
言っていることは、子供騙しの精神論。けれど、女性のいうことは間違ってないという、不思議な信頼感が感じられた。それは、女性自身から感じられる何かであったし、この神社という場所から感じられる何かであったのかもしれない。大人たちが振りかざすあからさまな唯の気休めと違い、女性の言葉には、確かに心に響く何かがあったのだ。
しかし、考え込むおれの姿を勘違いしたのか、女性はまた酒を口に含み、淋しそうな表情に戻ってしまった。
「まぁ、信じてもらえないならしょうがないさね。神さまってのは、信じてもらえなきゃ力を揮えないものさ」
「信じる。だけど、神さまにだけは任せておけないね」
今度はおれが間髪いれずに、当然のように答える。
女性は驚いた表情でおれを見つめていた。今度は、きちんと、その顔を直視することができて安心した。だからおれはきっと、普段は家族にも友達にも絶対に見せない幼い表情で笑って、普段は絶対言わないような幼い言葉を、胸の中で咀嚼もせずに思いつくままに並べ立てることが出来た。
「おれもかーさんの神さまになる! かーさんが病気にやられないように、かーさんの手をにぎって暖かさを分けてあげる。そのかわり、おれがずっとかーさんに暖かさを分けてあげられるように、おれも神さまに暖かさを分けてもらう。神さまにも、かーさんに暖かさを分けにいってもらう。こうすりゃ、絶対にかーさんもあきらめたりできない。負けたりできないだろ!」
言い切ってから、流石にいうことが幼すぎたかなと若干の後悔に顔が赤くなった。
しかし、女性は、それまで盃持っていた手でおれの頭をくしゃと強く撫でて。
「そうだね、きっと」
そうふわりと優しく笑ったのだ。
しかし、おれの頭から手を離した女性は、今までと一転して驚くほど悲しげで切実な表情を浮かべる。
「その代わり、信じて、忘れないで。少年に暖かさを分けた神さまのことを。そして願いが叶ったら、少しだけ感謝して。ありがとうって。そうすれば、今度は少年から神さまに暖かさが伝わるから。神さまも、暖かくなれるから」
その言葉が、今までの女性の言葉とはうってかわって、余裕のない、どこか悲痛なものを感じさせられて。
だからおれは。
「……うん、約束する」
そう、頷くしかなかったのだ。
時刻はもう夕暮れだった。
そのままおれは軽く女性と別れの挨拶を交わし、手を振って神社を後にした。
境内では、おれと同い年ぐらいの女の子とおれより年上の女の子が、駆け足で帰るおれを見ていた気がした。
次の日から、おれは神社ではなく病院に通うこととなった。
おれを病院に連れて行かなかったのは、痩せこけた姿を息子に見られたくないという母の意志だったらしいが、そんなことは関係ない。家では暴れすぎて父に捕まり祖父母に捕まり、病院では時間外にもぐりこんで看護師のおねーさんに捕まった。けれど、毎日毎日諦めもせずに、母の手を握りにいった。母の手は悲しいほどに冷たかったが、その冷たい手を温めるほどに自分自身の手が暖かくなるようだった。心も体も暖かくて、いつまででも握り続けていられた。しまいには誰も彼も諦めて、母の病室まではフリーパスになったのもいい思い出だ。
そうこうしているうちに、難しい手術が決まり、なんとか成功して、母はみるみる健康になった。リハビリにも毎日付き合った。母が、父さんに妬かれちゃうわと冗談交じりで笑ったときには、人目も憚らずに母に抱きついた。そして退院の日には、家族全員で泣いた。
母は元気になった。
元気に笑う母と元気に泣く妹で、家の中は楽しい喧騒に満ちるようになった。嬉しかった。幸せだった。
だから俺は、もうカミサマに力を借りる必要がなかった。
手術が成功したときには神さまに祈っていたことを忘れ、母が帰ってきた頃には女性の存在も神社の存在も忘れ去っていた。
ほんの少しでも力を借りたことを忘れ、感謝もせずに、当たり前に幸福な日々を……
4.
「はじめまして」
そうして一年も近くすぎた頃。
友達の家に遊びにいく為に町外れをひた走る俺をそう呼び止めたのは、白いシャツに蛙のワンポイントのある紫のワンピースを着て、黄色い麦藁帽子を被った見慣れぬ少女であった。俺より四つか五つ年上に見える少女は、小山の森へと続く階段に腰掛けて、おれを見下ろしていた。
おれは、その階段がどこに続くものであったかすらも、忘れていた。
「はじめ、まして。ねーちゃん、誰?」
「ん、私? 神さま」
にっこりと、不思議なことをいう少女。
「はぁ」
にこにこと笑顔を崩さない少女になんといっていいものか分からず、おれはそのまま走り去ろうと決心した。変なものにはかかわらないのが一番なのだ。
季節は晩夏。さっきまで五月蝿いほど鳴いていた蝉の声は何故だか聞こえず、そのかわりに、どこからともなく蛙の鳴き声が低く響いていた。
「ねぇ、どうして約束やぶったの?」
背を向け駆け出そうとした俺に、そう、少女が声を投げかける。
その声は、さっきまでのにこにこした表情とは裏腹に冷え切って響いていて、おれは逃げようとしたことも忘れて身を竦ませることしかできない。
「私はあなたに力を貸した神じゃない。けれど、知っている。あの子が悲しんだこと」
「何、言ってんのか、全然わかんないんだけど……」
ようやくそれだけの言葉を搾り出す。
少女の言っていることは1ミリも理解できなかったが、彼女が怒っていることだけは理解できた。そしてその怒りが、おれに向けられていることも。少女のことは知らない。だから、怒られる筋合いもはいはずなのに。
げぇろげぇろと、蛙の鳴き声が、腹の底に低く響いていた。おれは蛙が嫌いだ。ぎょろっとした眼とどっちに跳ぶか予測不能な動きが、そしてこの不気味な鳴き声が嫌いなのだ。
「……そうやって、ニンゲンは忘れる。都合のいいときばかり頼り、神々とて妬み憎み……喜んで悲しむということを忘れる。そして遂には、その存在すら忘れていく」
少女は、感情のない声で言葉を紡いでいく。
金縛りにあったように動かない体に鞭をいれて、腹に気合を入れて無理やり体を階段の方、少女のほうに向ける。少女は立ち上がっていた。しかし、予想に反してその表情は、怒りではなく悲しみの色を映しており、何故だか、とても苦しくなった。
「結局、あなたも同じニンゲンだった。あの子が少し、期待してしまった、ただそれだけ」
少女は、まだ、感情のない声で言葉を紡いでいく。
おれは苦しくて苦しくて、声が出せない。目を逸らしたかったのに、少女の姿から目を放せない。
蛙はまだ、泣いていた。
「さようなら。私もあの子も、もう二度とあなたに会うことはないでしょうね。そう、もう二度と、あなたに視えることは」
麦藁帽子を深く被りなおし、今度は、少女がおれに背を向ける。
何か、ここで終わったらその何かが決定的になるのを感じて、追いすがろうと慌てて手と足を伸ばす。が、その途端、階段の上のほうから信じられないほどの突風が吹きぬけたのだ。再び目を開けたときには、予想通り、少女はもういなかった。蛙の鳴き声もせず、元通りに弱弱しい蝉の声があたりには響いていた。
階段はのぼれなかった。なぜだか、瞳には涙が溢れていた。
そして俺は、全てを忘れる。
4.
「にーちゃん、にーちゃん?」
はっと、唐突に意識が現実に戻った。
俺は、立ったまま呆然としていて、その脇では妹が不思議そうに俺を見ていた。
晩夏の夕暮れ、そして森の中の小さな神社。しかし、そ の 場 所 に は 誰 も い な い 。
未だ不思議そうな顔をしている妹をおいて、狭い境内を一周駆けてみるが、やはり誰もいない。人っ子一人どころか、猫も犬も、烏も蛇も蛙もいやしない。誰もいない神社を、俺は呆然と眺めた。いつかの縁側の脇に立ちつくして、俺はようやく、決定的な過ちを犯してしまっていたことに気がついた。
「にーちゃんってばぁ」
妹が俺の制服の裾をひく。
いつもなら皺になるから止めろと一喝するところだが、そんな気力も起こらず。妹如きの力で、ずるずるとひきずられていった。
そう、いつかの賽銭箱の前まで。
「一緒においのりしよ? そしたらかえろ?」
妹の声が空っぽの頭に響く。
俺は、制服のポケットから財布を引きずり出して、そして、いつかは握れなかった百円玉を放り投げた。そうして、手を合わせる。一心に、いつかのように祈る。願う。妹が何か騒ぐ声が聞こえた気がしたが気にならない。祈る。願う。
だけれど。
いつまでたっても、あのときの暖かさはよみがえってこなくて。
境内も俺も、そしてきっと母さんも。この晩夏に、冷え切ったままであった。
東方っぽくないけど、良かったです
まだまだ充分信仰されている状態で、将来的に信仰がなくなると考えて外の世界を『捨てた』側なので、
人個人に期待をかけたり怒ったりというのはちと違和感がありました。
ですが、雰囲気は充分すぎるほど伝わって来たのでこの点で。
妄想がバンバン沸いてくる
もし神が存在するのなら、それは人を救ってはくれない。
存在する神は間違いを犯すから。
結局自分を救えるのは自分だけだ。
みたいな言葉を思い出した。
何所で読んだのかは忘れたけど