老剣士がその噂を聞いたのは、とある屋台でのことである。
ふらりと立ち寄ったそこで、酒を飲みながら店主と世間話をしていた時のこと。
――これは馴染みのお客さんから聞いた話なんですけどね。
いかにも『よくあること』といった感じで話し始めたので、彼はその噂を耳にした時に、思わず手にした杯を落としてしまった。
「大丈夫ですか、お客さん?」
特に気にした風もなく尋ねてくる店主に、彼は「どうやら酔いが回ったらしい」と適当に答えながら、非礼を詫び、代金を支払って店を後にした。
もちろん彼は酔ってなどいない。動揺して杯を落としたことは確かだが、適当な理由をつけて席を立っただけだ。
彼は初め、本当に酔っているように多少ふらつきながらゆっくりと歩いていた。
それが店から見えなくなると徐々に早足になり、早足から駆け足になり――しまいには風そのものとなって木々の間を駆け抜けて行く。
目指す先はただ一つ、冥界 ・ 白玉楼。
――今年の冬が長かったのは西行寺の姫が春を集めていたからだ、って話ですよ……。
頭の中で店主の言葉が繰り返される。
嫌な想像を振り払うように、彼は駆ける。
彼の名前は魂魄妖忌。
かつて西行寺家の御庭番を務めた男である――。
◇
妖忌が白玉楼へと続く長い石段にたどり着いたのは、屋台を後にしてから半日が過ぎた頃のことだった。
春の日差しを背にして妖忌は立ち止まる。感情に流されていたせいか、思ったよりも息が上がっていた。
最悪の事態を想定するなら、この先にはかつてないほどの熾烈な戦いが待ち受けているだろう。何より、彼の支えであった楼観剣も白楼剣も今は妖夢の手にある。己の不利は否めない。
だが、それがどうした。
彼の忠義は主の下を離れているとはいえ今も健在である。そのためならば命を投げ出すことも厭わない。
それは彼の望みであり、喜びでもある。
果ての見えないこの石段も、かつて、幅二百由旬と謳われた西行寺家の庭師を務めた妖忌にとって障害には成りえない――使命に燃える今の彼ならばなおさらである。
再び風となって妖忌は走り出した。
◇
「というわけなの。お願いできるかしら?」
マヨヒガの一室にて。
いつもと変わらない調子で事の次第を話し終えた幽々子はお茶を一口すすった。
対照的に、向かいに座る紫の顔は険しい。それどころか全身から苛立ちが滲み出ている。もしもここに妖夢がいたなら、気に当てられて卒倒していただろう。
「……貴方が」
そう言って、紫は口を閉じた。言いたいことは山ほどあるのに上手く言葉にできない。
自分にしては珍しく感情を抑えきれなくなっている。
ここで手をあげるのは簡単だ。そしておそらく幽々子も抵抗しないだろう――というより、むしろそれを望んで話を切り出したのかもしれない。
だとすれば、なおさらここで手をあげてやるものか。罰を望むの者への最高の罰は、それを与えないことなのだから。
紫の手の中で、幽々子の代わりに痛みを引き受けた湯飲みが砕け散る。
平手を打てば相手だけでなく、自分の手も心も痛むもの。それは罰を与える者に対する罰。破片の突き刺さる痛みで紫はどうにか自分を静めることができた。
「もういいわ。……結界を引き直すことはやってあげる」
「そう。ありがとう」
「でもね、幽々子」
「何?」
「しばらく家に来ないで」
紫は立ち上がり、逃げ込むようにスキマの中へ消える。
これ以上ここにいたら、間違いなく幽々子に手をあげていただろうから。
◇
ちょうど同じ頃。
長い長い階段の途中で妖忌はふと思った。
『そういえば、この界隈で鴉天狗の娘が新聞を発行していなかったか?』と。
鴉天狗――射命丸文は気紛れで号外を発行する。
その中になかっただろうか。主、西行寺幽々子が起こした異変について書かれた記事が。
……あった気がする。
ならば、自分はとんでもない勘違いをしていたのではないか?
酒を飲んでいたとはいえ、呆けの始まった老人でもあるまいに……幽々子様や妖夢に鉢合わせなくて良かった。
「さて、どうするか……」
立ち止まって考える。
ここまで来て妖夢に会わなかったということは、おそらく下界にでも降りているのだろう。
幽々子様の気配もない。
となれば、二人して何処かへ出かけていると考えるのが妥当か。
「……ふむ」
妖忌の頭には二つの選択肢があった。
つまり、進むか、戻るか。
少し迷ったあと、妖忌は石段を登り始めた。
勘違いとはいえせっかく戻ってきたのだ。せめて幽々子様の亡骸に花でも供えていこう。
そんなことを思いながら。
――しかし。
石段を登りきった妖忌の目に一面の桜が映った。
それは懐かしい、もう二度と見ることはできないと思っていた光景。
「妖忌?」
声をかけられて我に返った妖忌の元に、少女が駆け寄ってくる。
「何してるの? 早く行きましょう」
その少女は妖忌の記憶よりもいくらか幼く、触れた手には血の通った暖かさがあった。
手を引かれるまま走っていくうちに、妖忌は自分の体に変化が起こるのを感じていた。
髪は黒くなり、肌には若者特有の張りが戻っていく。顎にふれるが、やはり髭もなくなっていた。
そして何より背に負っていた が消えている。
(……背に負っていた? 何を?)
「妖忌、どうしたの?」
きょとんとした顔で少女がこちらを見ている。その顔を見ているうちに、頭の中で疑問がどんどん薄れていく。
「ああ……すまない。少し考えごとをしていた」
再び少女に手を引かれて走り出す。
何かがおかしいと思う。
しかし、何が?
自分は西行寺の庭師であり、自分の手を引いて走っているのは西行寺幽々子、つまりこの家の娘だ。
何もおかしいことなどない。何も……。
「着いたよ」
幽々子の声に足を止める。
立ち並ぶ桜のその奥にそれはあった。
樹齢数百年を越えると言われながら、未だに満開の花を咲かせ、人々を魅力し続ける桜。
「……きれいだよね」
妖忌は答えずに、ただ頷いて見せた。
しかし幽々子にとってはそれだけで十分だったのだろう。にっこりと笑った。
それから手を合わせて祈り始める。
妖忌もそれに倣う。
この桜の下には西行法師、つまり幽々子の父親が眠っているのだ。
そして、今日はその命日に当たる。
「……ねえ、妖忌」
袖を引かれて顔を向ける。何かを堪えるような目で幽々子が見上げていた。
「妖忌はどこにも行かないよね?」
どう答えるべきか妖忌は迷った。ここで幽々子を安心させられるような言葉があればいいのだが。自分にはそういった配慮がやや欠けている節がある。
慎重に言葉を選んで、妖忌は言った。
「自分は西行寺の庭師だ。務めは果たさなければならないし、第一ここを出たところで帰る場所もない」
「……それでもいいよ。……だから私を一人にしないで」
すがりついてくる幽々子を抱きとめる。幽々子は震えていた。
不安なのだろう。この年で父親を亡くし――
(む……?)
突然の目眩。ふらつきそうになった姿勢をどうにか整え、妖忌は心の中でほっとため息をついた。どうやら幽々子には気づかれなかったらしい。
それに、この力。あまり詳しくは知らないが“良くない力”であることは間違いないだろう。
幽々子はこの力のせいで多くの人間から拒絶されてきた。
今ではこの屋敷に自分以外の使用人の姿はない。
もしも自分がいなくなれば、幽々子は本当に一人になってしまう。
「わかっている。嬢を一人にはしない」
「……うん」
そう言って幽々子は妖忌から離れた。その姿は妖忌のよく知る、幽々子そのもの。そして自分の姿も。
妖忌は目を閉じる。この世界が誰の力によるものか、あるいは誰が望んだものなのか、それはわからない。
確かなことは一つだけ。ここは自分の居るべき世界ではない。
「夢幻とはいえ主に手をあげる無礼、お許しくだされ」
妖忌は腰に差した刀を抜き放ち、幽々子を斬る。
世界は崩れ、幽々子は霧となって消えていった。
◇
目を開くと、ちょうど石段を登り終えたところだった。
そして。
「久しぶりね、妖忌。少し痩せたんじゃない?」
「紫様……」
正直な話、あまり会いたくない妖怪がそこにいた。
「あら、紫“様”だなんてずいぶん他人行儀じゃない。もう西行寺の使用人でもないんだし、好きに呼んでくれて構わないわよ?」
「……調子のいいことを言うものだ」
以前、ならばと呼び捨てにしたところ、三日三晩生死の境をさまよったことがある。
満面の笑顔ですり寄ってくる紫を無視して妖忌は歩き始めた。
「冷たいわねー。少しは構ってくれてもいいじゃない」
「知らぬ。儂はただ、幽々子さまの墓前に花を供えに来ただけだ」
「あらそう」
それきり、紫は何も言わなかった。妖忌の隣に並んで歩いている。その目はどこを見ているのか、空に向けられたまま。
幽々子様の名を出しただけで黙ってしまうとは、妙なこともあるものだと、妖忌は思った。
「何かあったのか?」
「どうしてそう思うのかしら?」
「いや……」
紫に見つめられて、妖忌ははっきりとした答えを口にすることはできなかった。
今の紫が、西行寺幽々子の死んだあのときと同じ顔をしていたからだ。
「さっきから何? 人の顔をちらちらと盗み見して」
「……気のせいだろう」
言って、妖忌は歩調を早める。今の紫にどう接するべきか、わからなかった。
紫はしばらく疑問符を浮かべていたが、妖忌の心の内に気づいたらしく悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「それで、貴方の探しものは見つかったのかしら?」
わかっているくせに意地の悪い。
だがそれでこそか。妖忌は苦笑した。
「残念ながら、まだ見つかっては……いや、見つけはしたのか。しかし、儂の力不足のようでな」
「そうなの?」
紫は殊更驚いたような声をあげる。本当にわざとらしい。
それができるなら、今すぐにでもあれを――西行妖をこの手で打ち倒している。
しかし、それは叶わぬ夢。今の自分では、せいぜいが“西行妖を斬る”ことだけだろう。
それだけでは足りないのだ。
目指すものはその先にあるのだから。
◇
「すまんな。枝を一つもらうぞ」
言って、桜の枝を切り落とす。
妖忌はそれを持って紫の元に戻った。
「また桜? 貴方は毎年同じ物ねぇ」
「否定はせん。が、それは儂に限ったことではないと思うが?」
「そうだったかしら?」
紫は西行妖の根に酒瓶を置く。その隣に妖忌が桜の枝を。
見慣れた光景。ここしばらくの恒例行事となっている。
しかし、いつもならすぐに立ち去るはずの妖忌は、なぜか立ち尽くしたままだった。怪訝そうな顔をする紫に、妖忌はぽつりと言った。
「……紫様。儂は時に、ふと思うのです。法師は死の間際に何を思ったのだろうか。望み通り立派な桜の下で最期を迎えることができて、本当に満足だったのだろうか、と」
その目はじっと西行妖を見ている。もしくは、その奥にいる誰かを。
「儂は違うと思う。あの方は死の間際に思ったのではないか? 残してきた家族に会いたい。最期を看取ってもらいたいと。この桜はそんなあの方の亡骸を喰らい、さらに美しく、人々を魅了する花を咲かせるようになった。確かに、徳の高い人間を喰らえば妖怪は大きな力をつけることができる。だが、儂は……桜が娘を想う父親の心をも取り込んだからではないかと思うのです。人間がどうすることもできない力を持った妖怪が、“家族を想う”という、妖怪にとって理解しづらい心を取り込んだからではないかと」
桜の美しさに魅了された人間は桜に力を与え、結果、桜はさらに美しい花を付け、より多くの人間を魅了する。
数え切れないほどの人間の心を、魂を喰い、西行妖は限界を超えて力を蓄える。しかも西行妖が桜である以上、それを止めることはできない。
はち切れる寸前の巨大な火薬庫、と言えば分かり易いだろうか。そんなものに手を出す馬鹿はいない。弾けた力がどんな影響を及ぼすかわからないからだ。
故に、桜の持つ危険性に気づいた後も、人も妖怪も手を出すことができなかった。
「そこに幽々子様が現れた」
人を死に誘う能力を持った少女。本人が望むと望まざるとに関わらず力は年々強くなり、やがて力の及ぶ範囲は人という枠を超えていった。
「今にして思えば、幽々子様は桜に呼ばれたのかもしれない。その力をもって桜を封じる人柱となるために。そのために生を受け、あの忌まわしい力を授かったのではないか。……そう思えてならぬのです」
内心、妖忌は驚いていた。ここまで話すつもりはなかったし、これ以上話すつもりもなかった。
しかし、いつからか感情の歯止めが利かなくなっていた。
自分の意思とは関係なく口が勝手に動いて言葉を吐き出していく。
「何故だ? 何故、幽々子様がそのような目に遭わねばならない? あの方は今もこの桜の下で、たった一人で戦い続けている」
すがりつく幽々子の姿が鮮明に思い出される。
一人にしないと誓ったはずの自分は傍にいることさえできなかった。
そして幽々子は皆を救うために人柱となり永遠の眠りについた。
憎い。未だ幽々子を苦しめ続けるこの桜が。その桜を前にして何も出来ずにいる自分が。
「儂には……儂にはそれが我慢ならぬ!」
怒りに震える手が刀に伸びる。
「――いい加減にしなさい」
パン、と乾いた音。
頬に鋭い痛みを感じた妖忌は、体中の熱が抜けていくように感じた。
思わず膝をつく。
さっきの自分は明らかにおかしかった。いったい何があったのか。
考えても答えは出ない。妖忌は紫を見た。
「桜の妖気に当てられたのよ。今年は幽々子が封印を解こうとしたから、一時的に結界が弱まっていたのね。……とりあえずここから離れましょう」
◇
「もう大丈夫かしら?」
紫の隣を歩く妖忌は、微かに頷いただけで何も言わなかった。
いつも以上に無愛想な顔をしている。話しかけるなということだろうが……紫は肩をすくめた。
「それで、まだ諦めないの?」
「……諦めるとは何をだ」
決まっているでしょう?
言葉には出さず、紫は目で妖忌に答えた。
「諦めるつもりはない」
「無謀だと思わないの?」
妖忌は答えなかった。が、それが何より彼の心の内を語っていた。
結界の綻びから漏れ出した妖気に当てられただけで自制を失ってしまったのだ。紫にも予想外の出来事だったが、これでは実際に西行妖と対峙したときに正気を保っていられる可能性などないに等しい。
ただでさえ大きい両者の戦力差に加えて、不安材料だけが増えていく。
紫が無謀と言うのも無理はなかった。
しかし、それでも妖忌は、例えその先に死が待っていようと時期が来れば躊躇いなく刀を抜くだろう。
止める方法はたった一つ。至ってシンプルに、力ずくで。
「構えなさい」
妖夢なら「なぜ?」と問い返し、藍ならば紫の言うとおりに構えていただろう。
だが、妖忌のそれは違った。
剣士としての勘とでも言おうか。妖忌は刀を抜くより早く全力で飛び退いていた。
その影を追うようにスキマが開きあらゆる角度から光を撃ち出す。
対して妖忌は二本の刀を抜き、向かってくるそれらを切り払う。
「……何のつもりだ?」
「警告よ。西行妖は幽々子の力によっていずれ死ぬわ。それが千年先か、二千年先か……いつになるかは私にもわからないけれど、確定した未来であることは間違いない。今回の一件で西行妖はいくらかの力を蓄えてしまったわけだけど、それでもせいぜい寿命が百年程度伸びただけのこと。貴方にはわかっているはずよね?」
「無論だ」
「それなら、西行寺幽々子という亡霊が消滅することが、冥界にとってどんな影響をもたらすかもわかっているのね?」
妖忌の沈黙を、紫は肯定と見なした。
幽々子は西行寺の姫であると同時に冥界の管理者でもある。その幽々子が消えればどうなるか。少なくとも良い方向に転がるとは思えない。
とはいえ。
「……ま、正直な話、そんなことはどうでもいいの」
指を鳴らすと辺りを取り囲むように無数のスキマが開く。
「妖忌、一つ聞くわ。貴方にとってどちらが本物の西行寺幽々子?」
「どちら、とは?」
「決まってるじゃない。“昔”か“今”か、よ」
(……答えにくいことを聞くものだ)
昔と今、つまりは生前の幽々子か死後の幽々子か。
どちらも同じ西行寺幽々子であり、本来ならそこに違いはない。
しかし、西行妖を討ち、その封印を解くことは、現在の西行寺幽々子の消滅を意味する。
妖忌の行動の意味するところを紫も知っているはず。
ならば、その意思をはっきりと言葉で示せと、つまりはそういうことだ。
「儂は誓ったのだ。幽々子様を一人にはせぬと。必ず救い出してみせると。そのために、儂は今も刀を握っている」
「……そう」
妖忌は言葉で止められるような男ではない。答えは分かりきっていたのに、どうして辛いと感じるのだろう。ため息が漏れた。
「私は“昔”の幽々子のことはもうほとんど覚えていないの。ただ、自分の力を酷く嫌っていた、心の優しい娘だったことは覚えてる。でもね、妖忌。私は“今”の幽々子と長い時間を一緒に過ごしてきたわ。今さらそれをなかったことには出来ない。……別れがいつかは来るものだとしても、その時までは一緒にいたいのよ」
だから。
感情を押し殺し、紫は言う。
「邪魔をするなら、例え貴方であろうと排除させてもらうわ」
もう一度、指を鳴らす。
無数の光が妖忌めがけて降り注ぐ――
「……なぜ、殺さぬ?」
焼け野原となった中に妖忌は立っていた。微動だにしなかったからか、体には火傷一つ無い。ここまでくれば偶然などという言葉では片付けられない。紫が故意にそうしたのだろう。
「あら? もしかして死にたかったの?」
「そうではないが……」
殺すつもりがないのなら、先ほどの言葉の意味がわからない。自分は警告を無視した。
ならば、『排除』という言葉にはそういった意味があって然るべきだ。
紫はそんな妖忌を見て笑った。
「別に貴方のためじゃないわ。貴方が死ねば幽々子たちが悲しむでしょう?」
「むぅ……」
幽々子たちが悲しむ。だから殺さない。簡潔で分かり易い理由だった。
そこまで考えの及ばなかった妖忌には返す言葉もなかった。
「だからもう貴方を止めようとは思わない。好きにするといいわ」
「……すまぬ」
「ところで、妖忌」
「何だ?」
にやにや笑う紫を見て、妖忌はまた何かを忘れているのではないだろうかと思った。
それも大切な何かを。
「そろそろ来る頃だと思うけど」
誰が、と聞こうとした妖忌の耳に懐かしい声が聞こえてきた。
――無事ですか、紫さまー!
声の主は妖夢だった。
あれだけの閃光と爆音だ。何もなかったと思うはずがない。つまり、わざと見えるように撃ったのだ。
少し考えればわかりそうなものなのに。妖忌は頭を抱えたくなった。
「貴様という奴は……!」
睨みつけると紫は何か悪戯を思いついたような笑みを浮かべていた。
嫌な予感がする。身構える妖忌の頬に、ぽつりと滴が落ちた。
慌てて拭うと、赤く粘る液体が手に付いた。血だった。
見れば、いつの間にか刀が血に濡れている。
「きゃああぁっ――!?」
顔はふざけているが声は真剣そのもので、紫はその場でくるくる回りながら倒れた。服は裂け、血が滲んでいる。
そして傍には刀を手にした自分。
何だこの状況は。
これではまるで、八雲紫を斬ったのは自分だと言っているようではないか。
――紫さま!?
妖夢の声に焦りが混じる。
孫よ。真っ直ぐに生きるよう育てはしたが、相手によっては疑うことも必要なのだと覚えて欲しい。
(……さて、どうしたものか)
このままでは妖夢と鉢合わせてしまう。
久々に顔を合わせた祖父が主の友人を斬った場面に遭遇したら(濡れ衣だが)、妖夢はどう思うだろうか。
余計な誤解を避けるためなら姿を隠すべきだが、妖夢がどれ程腕を上げたか見てみたいという気持ちもある。
「そんな貴方にプレゼント♪」
差し出される黒頭巾。
「うむ、かたじけない」
受け取る妖忌。が、その表情は険しい。
「これは礼だ。遠慮なく受け取れ」
頭巾を被ると同時に両手でしっかりと刀を握り、振り下ろす。鈍い音。
変な悲鳴を上げて紫が倒れ、
「――紫さま!」
同時に妖夢が姿を現した。
あまりのタイミングの良さに妖忌は一瞬、二人が仕組んだことではないかと疑ってしまったほどだ。
「紫さまから離れろ……!」
しかしそれも杞憂に終わった。妖夢はごく人並みの判断を下したらしい。
楼観剣を抜き、構える。その顔には鬼気迫るものがあった。
(どうやら、良い出会いがあったようだな)
ごく最近――おそらくは先の異変の折りに。
異変を解決したのは年端もいかぬ少女達だったと聞く。彼女らに敗れたことで、妖夢の自身にも何らかの変化があったのだろう。
「聞かないのなら力尽くでどいてもらう!」
妖夢は一直線に駆ける。普通の妖怪ならいざ知らず、全力の妖夢は風よりも速い。瞬きするほどの間に二人の距離は零になった。
振り下ろされた楼観剣を受け止める。
力、速さ、気迫、どれをとっても申し分ない一撃。そして、打ち合った剣から伝わってくる純粋な怒り。自分ではない誰かのためにこうも怒れる者はそうはいないだろう。何より妖忌はそのことが嬉しかった。
「……強くなったな、妖夢。これからも精進するのだぞ」
「え?」
妖夢の剣先がわずかに鈍る。
その隙を突いて刀を弾き、妖忌は走り出した。妖夢が振り返る頃には、妖忌の姿はすでに視界から消えていた。
◇
「……むぅ、慣れぬことはするものではないな」
石段を駆け下りながら妖忌は血の滲む脇腹を押さえた。
頭の一つでも撫でてやろうと手を伸ばしたのだが、さて、自分にはそんなことをした記憶がなかった。どうすればよいかと逡巡した間に――おそらくは妖夢自身も気づいていないだろう――反射的に引き抜かれた白楼剣が脇腹を掠めていたのだ。
「だが……よい剣士に成長したな。本当に」
この喜びを胸に、今は腕を磨くとしよう。
いつかまた、三人で暮らせる日が来るまで。
老剣士は駆けるのみである――。
妖忌の話もっと読みたいなと思ってた矢先だったんでなおさらだったりw
次回も期待しています。
特に紫とのやり取りが面白かったです
こんな感じの性格なんだろうなぁ、と
自然に思えました
幽々子の過去って、結構重いんですよねぇ・・・
妖忌は生前の、紫は現在の幽々子に比べて少な過ぎに感じるというか、関心うすっ!(紫なんてほとんど覚えてないって・・・
やけにあっさり片一方を選んだような
もう少し妖忌と紫の、それぞれの幽々子への葛藤とか入れて欲しかった
というか妖忌が今の幽々子への想いがやけに薄く感じる理由にはならんし・・・
やっぱ心情の描写が足りなかった
妖忌がとてもかっこいいですね
倣うでは?