――アリス許すまじ。
嫌な予感はしていた。
博麗霊夢が持って生まれた鋭さなのか、巫女としての素養なのかはわからないが、嫌な予感の的中率は極めて高いと自負している。
アリスが食事会を開くと言い出したときに感じた不安は、私がアリスの家に向かっている途中に土砂降りとなって具現した。雨宿りできる場所を探そうと思ったが、ものの数秒で全身はずぶ濡れになり、その意味もなくなる。
食事会など慣れないことをするから雨が降るのだ。
理不尽な怒りを手土産に、私は川から上がったばかりの紅白の河童となってアリスの家へ強襲した。
「今日は布団を干しちゃいけない日だってことを身体を張って確かめてきたわ。他でもないアリスのために」
「……悪かったわよ。まさか今日に限って雨が降るなんて思わなかったもの。ほらそんな怖い顔しない。さ、入って。お菓子あげるから」
水を吸って重たくなったスカートの裾を絞ると滝のように水が落ち、玄関の中に水溜まりができた。
「ちょ、やめて、今タオル持ってくるから絞らないで」
「うー、冷たーい」
「着替えは……持ってきているわけないわよね。私の服を貸してあげるからそれで我慢して」
寝室に通され、クローゼットから取り出された服をアリスから受け取る。まあ、なんて、可愛らしい、服なのだろう。これを着ろってか。
黒いワンピースを基調とし、襟元から伸びたリボンが幾つも編み重なって胸元を装飾している。これなら胸の大きさによって魅力を損なうことは無いだろう。貧乳の多い幻想郷への素晴らしくかつ余計な配慮が、リボンと一緒に編み込まれている。短めのスカートに白い七段フリルのエプロンが眩しく輝き、首周りからスカートまで伸びたレースの縁取りがメイド服を思わせた。咲夜と魔理沙の服装を足して割ったような服。
「アリスって少女趣味よねぇ……」
「否定はしないわ」
「ま、着られるなら何でもいいけど」
濡れたままよりかは異世界の戦闘装束や楽園のメルヘン装束の方がよっぽど良い。
肌に張り付いていた巫女服を剥がすように脱ぎ捨てる。べちゃりと音を立てて床を湿らすのを見てアリスは眉をひそめた。文句の一つでも言われるかと思ったが、なぜか私を見るなり言葉を飲み込み、予想とは違ったことをおずおずと尋ねてきた。
「あの……霊夢って下着つけないの?」
「つけてるじゃない。あー下着もびちょびちょだ、アリス悪いけど下着も貸して」
「霊夢、それは下着じゃないわ。サラシと言うの。私は、その……こういうのしか持ってないけど」
と言って、アリスは胸元を軽くはだけさせ、白い肩に走るブラジャーの肩紐を私に見せた。
「じゃあいいや」
「ええッ!」
「そんなことよりさ、コレ、どうやって、着るの、よぉ、うぐぐ……ッ」
私の唯一知っている服の着方は、一番大きそうな穴にズボッと頭を突っ込み、ギュッと引っ張って、スポンと頭を出すものだ。しかしこの服には普遍的な着方は通用しないらしく、スカートに頭を捻り込むとウエストの関所がここは通さんと全力で行く手を阻む。
「もうなんて手のかかる子……ちょっと、ちょっと動かないで、無理に着ないで、おい無理に着るなってッ!」
みちみちと不穏な音を立てていたドレスを横から奪い取られる。
アリスが背中の紐を緩めると隠れていたファスナーが顔を出し、そこからぱっくりと蝉の抜け殻みたく縦に割れた。これをどうやって一人で着るのか理解不能である。
アリスに言われるがまま、手を広げたり万歳したりしているといつの間にかドレスが私の身を包んでいた。人形を扱う手際もさることながら、人間への着せ替えも職人の技。誰かで練習しているのかもしれない。
「うーん、それにしても見違えたわね。霊夢って……実は美人なのよね。大人しく座ってれば清楚な感じもするし。好きになっちゃいそう」
「何を言ってるのよ……」
むず痒くなるようなことを真顔で言い放ち、考え込むように顎に手をあてたアリスは、私の頭から爪先まで舐めるように見る。その目に仄かな熱を感じるのは気のせいだろうか。
嫌な予感がちらつき、気取られぬよう後退った。
「ちょっと、ちょっとこっち来て。髪の毛を弄らせて。ちょっとだから、ちょっと」
ちょっと怖い。
何かを言うまでもなく鏡台の前に座らされ、髪留めなどを外したまっさらな状態の髪をアリスが握る。鏡越しにちらりと見えた櫛を持つアリスの双眸は、喉が痛いと言っているのにも拘わらず体温計を肛門に突き刺そうとする永琳のそれに近いモノを感じた。
かなり怖い。
「霊夢って普段から手入れしてる?」
「特にしてないけど」
「……反則よね。よく見ればすっごい艶よ貴方の髪。櫛が抵抗なく滑っていく」
「巫女臭とかする?」
「うわッ、梳くとストレートになるわ! ふやけたパスタみたい」
もっと他に良い喩えがなかったのか。
しばらくアリスに撫でられ続ける。最後にカチューシャを乗せられ、これで人形ごっこが終わるだろうと思いきや、興が乗ってきたアリスは「化粧させて、ちょっと、ちょっとで良いから」と言い出した。新聞を勧誘する天狗と言い方がそっくりだったので、断ると面倒なことになると思い、好きにしてくれと言うと、嬉々とした表情で引き出しから化粧箱を持ってきた。
*
空は相変わらず薄暗く、まだ来ぬ魔理沙に恨みでもあるのか、大粒の雨を打ち続ける。
ああ、そういえば魔理沙は雨女だったか。また懲りずに天人の物品を盗みに行ったのだろう。私が濡れて、こんな服を着ているのも魔理沙のせいかもしれない。魔理沙許すまじ。
テーブルに頬杖を突いて窓の雨滴を数えていると、灰色の雲よりもなお黒い格好をした霧雨魔理沙が箒に跨って飛んでくるのが見えた。こんな雨の中でも色褪せることのない蜂蜜色の髪に、やたらと大きなとんがり帽子が乗せられ、白いリボンと白いエプロンが重たそうに雨風になびいている。傘は最初から差す気がないのだろう。馬鹿だった。
「きたきた」
「きっとアリスの期待しているような反応はないわよ」
「それはすぐにわかることよ。やることは、わかってるわね?」
私の後ろでしつこく髪の毛を弄り、匂いを嗅いだりしていたアリスは、魔理沙を出迎えに玄関へ向かう。
化粧を終えたアリスは賭けを持ち出してきた。魔理沙が私を見て照れたらアリスの勝ち、照れなければ私の勝ち。
なぜ魔理沙が私を見て照れるのか。アリス邸での一週間無料お食事券は頂いたも同然である。
ドアの向こうから聞こえる二人のやりとりを聞きながらほくそ笑む。
「まいったぜ、雨が降ってたんだから濡れるしかないよな」
「貴方馬鹿なの? なんで傘を差さないの? スカート絞らないでよ!」
「着替えくれよ」
「貴方の替えの服がすでに三着も残ってるわよ……いい加減貸した服返してよね……」
アリスも苦労してるんだなあ。魔理沙は私と違って色々面倒だからなあ。
などと彼女の心労を慮っているとドアが開いた。
「いつか返すって言ってるだ――あん?」
空飛ぶ水棲生物と化したずぶ濡れの魔理沙と目が合う。
アリスから言われていたのは『にっこりと微笑んで挨拶をすること』だけであった。
想像する。
『今日は霊夢のためにお賽銭を沢山持ってきたぜ』と風呂敷一杯のお賽銭を持ってきた魔理沙。じゃらじゃら景気の良い音が風呂敷からして思わず笑いが零れてしまう。むほ。
「まあ! いらっしゃい、素敵なお賽銭箱はそこ――って違、えと、いらっしゃい私の魔理沙ッ!」
神ですら恋に落ちるであろう必殺の笑顔。迸る巫女臭を和とするのなら、それを彩るこの服は洋。相反する二つが溶け合い、博麗霊夢という麗容を色付かせる。
辺境の森に建つ荒ら屋。そこへ突然吹き込んだ花風に、須臾だけ心を奪われる少女達。目の前の光景は、そんな一枚の絵画。
魔理沙の向こうにいるアリスの赤面がその神秘性と芸術性を物語っている。
「あ――あ……?」
帽子のつばから小さな雨を降らせ、魔理沙が凍る。
ああ、本当はわかっていた。すべってるんでしょ、私……。
この場に流れたのは花風ではなく気まずい空気だけだった。私はアリスを許さない。絶対に許さない。
「ぁ、こんちゎ……」
ちょこんと首から上だけを動かして挨拶する魔理沙の不思議な動作に、後ろにいたアリスが口を押さえて、小刻みに肩を震わせた。
私も予想を裏切る不可思議な魔理沙の反応に、クッと顔を背けて噴き出すのを堪える。お茶を含んでいたらアウトだった。
「お、おいアリス、私以外にも客がいたのか」
「さ、三人で食事するって……い、言ったじゃない、うぷッ」
「ああ、そうだが、てっきり……いや、霊夢かと」
草食動物が遙か遠くにいる肉食動物を気にするかのように、魔理沙は絶妙なチラ見をこの場でやってみせ、後ろに控えているアリスへ『どうしようどうしよう』と救援信号を送っていた。完全に私が博麗霊夢だと気付いていない態度。よしわかった、それはからかってくれということなのだろう。
席を立ち近付いていくと、魔理沙は赤い顔をして一歩下がり、アリスの胸にぶつかった。まるで逃げ遅れた草食動物。サバンナでは生き残れない。
ぐいぐい魔理沙を前に押し出そうと喜色満面のアリス。一方、おいやめろそこどけ殴るぞと半ば本気で目を吊り上げている魔理沙。こいつらは何をやっているんだ。
「ほら濡れてるわよ、早く着替えなきゃ。それに顔も赤いわ……風邪?」
魔理沙の濡れて冷たくなった手を取り、赤くなった頬に手を伸ばすと、魔理沙は勢いよく私の手を振り払った。
「うわわッ、そうだな、アリス着替えをくれッ! 風邪をひいたかもしれない!」
「……ぷッ、く」
ひくひくと肩を揺らし笑いを噛み殺していたアリスは、もう我慢できないと声を立てて笑い出した。
「な、なんだよ……」
「それ霊夢よ、あはははッ。魔理沙ったら可愛い反応するのね」
「……霊夢?」
赤い顔をした魔理沙がじろじろと顔をのぞき込んでくる。
「えー」とか「うー」とか口をもごもごさせていたが、暫くそのまま魔理沙と見つめ合っていると、魔理沙はぷいっと顔をそらしたのだった。耳まで赤くなっていた。
「き、着替えどこだっけ」
「こっちよ」
アリスは魔理沙の背中を押して寝室へと連れて行く。去り際にこちらを見てにやりと笑った。意味するところは、賭けは私の勝ちね、ってところか。
窓を見ると、そこにはいつもと代わり映えのしない自分の顔が水滴に濡れて映っていた。明確な違いは赤いリボンの代わりにつけられたクリーム色のカチューシャくらい。髪の毛の色が変わったわけでもなく、まして目や鼻が増えたわけでもないというのに、なぜ二人があんな反応するのかがよくわからない。ひょっとしたら自分の見ているものと、二人が見ているものは少し違うのかも知れない、などと思う。
やがて軽快なステップで戻ってきたアリスは私の顔を見るなり深刻な表情になる。
「大変よ。あんなに面白い反応をされるとは思わなかったわ。私の腹筋が割れるかも」
「デコボコの腹筋で大根おろしでも作って頂戴。で、私は何をすれば良いんだっけ? 負けると思ってなかったから聞き流してたわ」
「一つ、晩ご飯で『ふーふー、あーん』すること。二つ、飴玉を口移しする振りをすること。三つ、膝枕」
「なん……ですって……」
なんだ、その、果汁百パーセントの濃縮乙女は。
タチの悪い冗談ね。そうでしょ? え、違う? 本気? おいちょっと待て。
「よ、よお」
なんて最悪のタイミング。
魔理沙が不審な動きをしながら居間へ戻ってきてしまい、理不尽の変更を求める機会を逸してしまう。
「人をからかうなんて悪趣味な奴らだぜ、まったく」
「別にからかってたわけじゃないわよ。着替えが無かったからアリスに服を借りただけ」
「それにしては化粧までしてるじゃないか」
「それは私の戯れよ。ドレス……って程のモノじゃないけど、まぁそれなりにおめかしした方が良いと思って。どう、似合ってない?」
さあ……と魔理沙は肩をすくめてソファーへ腰掛けた。
まずいことになった。とてもまずいことになった。膝枕? ふーふーあーん? 馬鹿な。正気の沙汰ではない。アリスは少女趣味ならば何をしても許されていると思っているふしがある。乙女チックが許されるのは生後十五年までか、生後千年越えてからだ。千年越えたらフリフリの傘を持っていても許されるのが幻想郷。アリスはまだその資格を持っていない。
しかし賭けに負けた手前、そんな抗弁も虚しいだけだろう。もうどうにでもなれだ。
ソファーへ座ろうと移動すると、魔理沙は一人分以上二人分未満のスペースを空けて大袈裟に横へとずれた。怪訝な顔で魔理沙を見ると「な、なんだよ」と小さく鼻を鳴らして顔を逸らした。
なんか、こいつ可愛い、かもしれない。うーん……膝枕やってみようか。
「そうだアリス、耳掻きある?」
恐るべき洞察力で私の意図を正確に読み取ったアリスは、魔理沙に悟られないようにんまりと邪悪に笑って、小さな引き出しから白いフサフサのついた耳掻き棒を取り出し投げてよこした。それを受け取ってソファーへ腰をおろし、私はコテンと魔理沙の膝の上へ頭を落とした。
「のわッ!」
「耳掃除よろしく」
「なんで私が霊夢の耳穴を発掘しなきゃならないんだよ……」
「なによそれくらい良いじゃないの。はいこれ」
耳掻き棒を肩越しに差し出すと、魔理沙はそれを恐る恐る受け取った。
「こ、こういうのはやったことないんだぜ」
「優しくお願いね」
さて、ひとまずこれで膝枕はクリアだろう……と思ったが、はて、魔理沙に膝枕をしてもらうのか、それとも私が魔理沙を膝枕するのか、どちらだったろうか。
面倒なことに気付く。が、魔理沙の左手が頬に添えられて、私の思考はそこで止まった。耳の中へ、様子を窺うようにそろりそろりと耳掻き棒が入ってくる感触があった。
「ど、どうだ?」
「ん……いい」
外耳を優しく愛撫され、背中に言い知れぬ快感が電流となって走った。
耳掻きは命を差し出す行為に近い。ほんの少し魔理沙が力を入れて耳掻き棒を押し込めば、それは容易に鼓膜を破り、内耳を破壊してしまう。無防備な自分を明け渡すというのは途轍もなく怖いことだ。しかし、だからこそ、その接触が心地良くもある。
初めは強張っていた私の身体も徐々に弛緩していくのが感じられた。それと同時に、自分も少し緊張していたのだと気付いて可笑しくなった。目を瞑って魔理沙の寵愛を受ける。
大雑把な魔理沙の手先が、驚くほど繊細に私の耳を通して心をくすぐる。魔理沙の腿の上に置いてある頬が暖かくなる。
「……ん、ぁん」
「おい変な声出すなよ」
「だ、出してないわよ」
「ふ、ふふッ……良いんか? ここが良いんか?」
「……あ、あ、ああぁぁッ」
こちょこちょと優しく突かれて、全身の神経が喜悦の声をあげて蕩けだす。
やばい、涎が魔理沙のスカートに垂れてしまった。
「はぁ、ふぅ……魔理沙、上手ね……反対の耳もお願い」
「ふふ、しょうがない奴だぜ」
身体ごと逆へ向けると、魔理沙と目が合った。白い歯を見せて笑っている。自分も頬が緩んでいるのだろう。頬の筋肉が少しだけぴりぴりとした。
魔理沙の腿の上で頭を揺り動かし、一番柔らかいベストポジションを見つけて目を瞑ると、それを待っていたかのように耳の中に快楽棒が入ってきた。魔理沙の吐息が鼻をくすぐり、妙に甘い匂いにくらっとする。
「魔理沙って、良い匂いするのね」
「――ッ!」
「いたッ」
「へ、変なことを言うな、手元が狂うだろ!」
我が身のためにあまり変なことは言わない方が良いようだ。
チラリと目を開けると、それに気付いた魔理沙は耳掻きを中断して、私の目を瞑らせようと手で覆ってくる。目を瞑るが、すぐに目を開ける。するとまた手を止めて目を覆ってくる。目を開ける。目を瞑らされる。開ける。瞑らされる。
「なにじゃれ合ってるのよ。微笑ましいけど、見てるこっちが恥ずかしくなるわ」
アリスの言葉に私たちの動きがピタリと止まった。いかんいかん。何やってるんだ私は。
起き上がり、未だ硬直している魔理沙から耳掻き棒をむしり取った。
「今度は私がやってあげるわよ」
「え……いや、いや、いいって遠慮しておくって。十分聞こえるから」
「それじゃもっと十分聞こえるように掃除してあげる」
嫌がる魔理沙の頭を引き倒して腿の上に乗っけると、最初はばたばた抵抗し起き上がろうとしていたが、頭突きをくれてやるとぴくぴく痙攣して静かになった。アリスの方を見るとさり気なく親指を立てていたので、これで膝枕はクリアしたのだろう。私の手にかかれば膝枕とて敵ではない。
癖のある金色の髪の毛を掻き分けると小さな耳穴を発見。今宵の耳掻き棒は耳垢に飢えておるわ。
「お、おい、頼むから優しくしてくれよ」
「わかってるわよ、私のスーパーテクで昇天させてあげる」
「絶対変なことするなよ! 絶対だぞ! スーパーなテクはいらないからな!」
黙らっしゃい、と耳の中に耳垢駆除機をぶち込むと「ひぐッ」と声を洩らして、首の後ろを捕まれた子猫のように魔理沙は動かなくなった。
「大物を取り出してあげるから安心しなさい」
ガリゴリゴリ。
「おい霊夢! それは肉だ! にぎゅ! いだだだッ!」
「む……暗くて見えなかったわ」
「やっぱり止めておくぜ、私は日頃から掃除してるからさ……」
しかしそれでは「きゅー」とか言いながら涎を垂らして昇天しかけた私が納得できない。
「わかったわよ。掃除ではなく按摩だと思いなさい」
持ち上がりかけた頭を再度押さえつけ、魔理沙の外耳を耳掻き棒でカリカリと掻いてやると、魔理沙は妙に色っぽい声を出して大人しくなった。
それは先程までの自分と同じ何とも情けない姿。
強張っていた魔理沙の身体からだんだんと力が抜けていくのがわかる。
「気持ちいい?」
「……んー」
空いた手で魔理沙の金色の髪の毛を梳けば、ふわふわの綿毛が滑っていくように指先を抜ける。綺麗な髪ね、と無意識のうちに口から零れた。
本当に綺麗な髪だ。アリスのプラチナの髪よりも深い色合い。豊穣の大地に実る金色の稲穂。生命力に溢れる魔理沙に相応しい色。目を奪われる鮮やかさ。
「さて、私はそろそろ夕食の支度をするかな」
「手伝う?」
「もうほとんど上海達が済ませているわ。今日は鍋にしようと思って。一人じゃ鍋を囲んでも味気ないでしょ?」
「ああ、だから私達を」
台所へ向かうアリスが足を止めて「ぷっ」と吹きだした。
「ふふ。魔理沙の奴、寝てる」
* *
人形達が食卓の上で鍋を建造していく様子は圧巻と言えた。
食卓の真ん中に置かれた鍋の中へ、かつおや昆布などの幻想郷では割と高価な海の幸を豪快に投入して出汁を作り、手に手に携えた醤油や酒などの調味料を迷いなくぶち込み、色取り取りの野菜やキノコなどの森の幸、山の幸、豆腐に練り物、肉類を鍋の横に配置していく。お酒も各種取り揃えており、なにやら得体の知れないアリスの本気が垣間見えた。
今日は私の誕生日なの……と言い出しても不思議ではない。
「鍋奉行はアリスに任せるぜ、私は待ち奉行だからな。霊夢は灰汁取り専門のアク代官ってところか」
「やかまし」
女三人寄れば姦しいとは誰が言ったか。全くその通りである。
鍋と酒には魔力があり、人を饒舌にする。
魔法使いという種族は、どうも自分の知識や研究や武勇伝を自慢したくなるようだった。
例えば、アリスは自分の研究成果を自慢げに語る。
「最近は人形の視覚情報を私に返せるようになったのよ。自律人形に必要なのは視覚情報の処理だけど一歩前進したのは言うまでもないわ。でも二体以上の視覚情報は今の私の頭じゃ処理できないからあまり実戦には使えないのよね。まあ疑似神経回路の生成を考えてみてるけどね」
例えば、魔理沙は自分の妖怪退治の話を聞かせたがる。
「この前さ喧嘩している妖怪がいたんだぜ。しかも夜中、私の家の近くでだよ。『こんな夜更けに喧嘩すんな!』って言って叱ってやったよ。あん? もちろん二対一だったが楽勝だったぜ? 迷惑料としてそいつが着ていた変な服となかなか立派な団扇を頂いてやったよ。今では私のトレジャーだぜ」
それはただの追い剥ぎだ。
そんな益体のない会話で夜が過ぎていった。
「あつつ」
「慌てすぎよ。それともっと野菜も食べなさい。そんなキノコばっかり食べても大きくなるわけじゃないのよ」
「たまたまだぜ。箸を泳がせたらキノコばっかり引っ掛かるんだ」
「霊夢、野菜を食べさせてあげなさいよ」
「おいおい子供扱いするなよ……」
ちらちらとアリスに目配せされて昼の約束を思い出し、なかなかに考えられたシナリオだと感心する。ひょっとしたら、これをさせる為だけに雨の日を選んで夕食に呼び、私を着替えさせて魔理沙の動揺を誘い、"フーフー"をさせる為に鍋という熱い食べ物を用意したのだろうか。だとしたらとんでもない策士である。
煮えたぎる鍋の中で白い小島を作っていた豆腐を自分の器へ取り分ける。豆腐は野菜ではなかった。
軽く頭を振り、今度は白菜を取り分ける。
隣に座っている魔理沙へ横目を向けると、ビクリと身体が跳ねた。
白菜から汁がこぼれ落ちないように器ごと持ち上げ、魔理沙の目の前で「ふーふー」と息吹きかけると、魔理沙はそれの意味することを理解してお酒の入って赤くなっている顔を更に赤くした。
「お、おい、いいって、やめろよ」
吹きかける息で白菜が熱くなるかと思うくらいには、こっちだって恥ずかしい。かなり恥ずかしい。
さっさと食べろ。
「はい、あーん」
「よ、よせよ」
「……ぷ、あはははッ」
アリスといえば魔理沙の真っ赤になっている顔を見てけたけたと笑っている。
意外なことに笑い上戸だった。
「あーん」
「……やめてくれよ」
「あーんッ!」
「……うぅ……ぁ、あーん」
魔理沙よ、なぜ目を強く瞑る。なぜ、ぎゅっとスカートを掴む。なぜ、怯えるように小刻みに震える。
このシチュエーション。これではまるで私が……いや、邪推はすまい。
観念して開けた魔理沙の口は小さく、これではまだ十分に熱を有している白菜が、思わぬ所に接触する可能性があった。
あーん、と言いなが照準を定めて白菜を突き出す。しかし、光に照らされた白い歯と赤い舌が生々しいくらいによく見え、なぜかそれにドキリとしてしまい、その心臓の鼓動が指先に微かな感覚の齟齬をもたらし、箸から白菜がぽろり。
ああ白菜、お前はどこへゆくというのだ。
軟着陸したのは魔理沙の下唇。布団を物干し竿に干すように、ぺたりと白菜が引っ掛かった。
「ぼぁぁおおァァッ!」
「ごめ! はい水!」
「んぐんぐんぐッ!」
よく見れば酒である。
が、そんなことはお構いなしに魔理沙は口の中に酒を含み、下唇を噛むようにして酒に浸した。
「殺す気か!」
「いやホントごめん悪かったわよ。白菜の謀反なの。ちょっと見せて」
魔理沙の頬へ手をあてて親指で下唇をさすると、魔理沙は手を払って「良い! 治った!」と脅威の回復を披露して見せ、再び酒を呷った。
アリスは両手で口を押さえて涙を流していた。その手からはシュコーシュコーと空気が漏れ、指と指の間から白滝がにょろりと顔を出している。
ハイペースで酒を飲んでいた魔理沙は、やがてえっちらおっちら船を漕ぎ出し、テーブルの上へ突っ伏した。
「ちょっと魔理沙、こんなところで寝るんじゃないわよ。帰れなくなるわよ」
「あら、相変わらず雨は降り止まないし、とっくに泊まっていくのかと思っていたわ。上海達に布団も用意させたんだけど」
「悪いわね、なんか」
「別に良いわよ、楽しかったしねー」
アリスは相好を崩し、ふわふわとした口調で言った。
アルコールによって頬が朱に染まったアリスの顔を見て、変わったなあ、と思う。
私の記憶のアリスは、宴会に参加してもどこか遠慮がちに笑い、思い出したようにお酒を飲み、いつの間にか台所にやってきて人数分の肴を作っている、そんな印象しかない。気が利いているようでそうではなく、話を聞くと『味付けが気にくわない』ときたものだ。こうすればもっと美味しくなる、と宴会の最中に料理を教えられたこともある。
求められれば応えるし、無理難題さえ言わなければ大概のことに手を貸してくれる。基本的にアリスはお節介である。しかし、自分から何か行動を起こすとき、それはあくまで自分のためでしかなく、他人のために行動を起こすなんてことはほとんど無かったように思う。
「あんた変わったよね」
「貴方が変わらなすぎるのよ」
「今日みたいに食事を誘ったりするような性格じゃなかった」
「そうかしら」
「鍋だって本当はいつも一人寂しくやっていたんでしょ? この鍋かなり使い込まれているわよ」
「寂しくとは失礼ね。迷い人が複数人やって来たときに振る舞ってるくらいよ。私自身が鍋をするのは宴会以外ないわ」
「なんだ、本当は鍋を突きたかったんだ」
「さて、ね」
私の言葉にアリスは微苦笑した。
「そういう笑い方もしていなかったよね」
「霊夢こそ、そんなに人を見るような人だったかしら」
「勘よ、勘」
「貴方の勘がそう言っているなら、まあ……そうなのでしょうね。自分じゃよくわからないけど」
「へえ」
私の興味津々な視線に気付いて、アリスは肩にかかる毛先をくるくる弄り、一つ息を吐いて話し始める。
「うーん……心情の言語化は苦手なのよ」
それはわかる。心の内を言葉にするのは難しい。
「それに、言ってもたぶん霊夢にはわからないと思うのよね」
「なんでさ」
「だって貴方、基本的に他人に興味ないじゃない。私よりもね。だから私の心の内を説明してもきっと理解できない。ううん、理解はできても実感が伴わない。実感が伴わなければフィクションとしか思えないもの、こういうものはね」
「興味ないって……そんなことはないわよ?」
「それは自覚がないだけ。他人に興味が無いというのは、自分が他人からどう見られるかってことにも興味がないってこと。だから自分のこともよくわかってないのよ貴方は。いつもの貴方と、化粧をしていつもと違う服を着た貴方と、自分でその違いがよくわかってないのがその証拠。他にも、貴方の人妖問わない区別の仕方は率直に言って異質。平等に過ぎる。それは全知全能の神様の精神の域。全知全能の神様が平等だと言われているのは人間や妖怪に興味がないからよ。まあ全知全能の神様なんていないけどね」
「……うーん、馬鹿にされてる?」
「まさか。むしろ私はそれが貴方の美徳だと思うけどね。誰にも真似できない最高のものよ」
そう言ってアリスはからからと笑った。
自分が人で非ずと言われているような気分である。
「でも私はアリスを友人だと思ってるわよ。別に興味がないわけでもないし、その他大勢と同一視してるわけでもない」
「え、嘘……」
「なんで嘘なのよ」
憮然として言うと、アリスは一頻り驚いた後、嬉しそうに微笑んで「ありがとう」なんて言い出した。
そんなことでお礼を言われる筋合いはこれっぽちもない。
「えー……ってことは、変ね……。じゃあ霊夢って好きな人いる?」
「いないけど」
「むむむ、いつか好きな人ができると思う?」
「想像つかないわね」
「ならどんな人なら好きになるの」
「そうねー……賽銭を沢山入れてくれる人かな」
話しにオチをつけたつもりだったが、アリスは「おかしいなぁ」と言って考え込んでしまった。
どうも私は貧乏だと思われているふしがあり、「賽銭を入れていけ」というと「生活費を恵んでいけ」と捉えられることがある。全く酷い話である。
「いや別に生活に貧窮しているわけじゃ」
「ん? ああ、まあそれは、私は全然気にしないわよ」
「え、あ、うん、ありがと……ってだから違うって!」
「さって、そろそろ魔理沙を布団に運びましょうか。こんなところで寝られると片付けも出来ないし」
ダメだこいつ。絶対誤解している。友人宣言は早まったかもしれない。
そんなことを思いながら魔理沙を運ぶ。私が上半身、アリスが下半身を持ち、寝室に敷かれていた布団へ放り投げる。
「あ、寝間着あるから着替えさせておいて。私は片付けてしてくるわ」
「なんで私がそこまで……」
ぶつぶつ文句を言いながらも、私は魔理沙の前で両手を合わせから脱がしていくのだった。
妙に興奮したのは秘密である。
* * *
ふわふわ。
掌を覆う、やけに触り心地の良い感触。
手首から先を動かすと指の間を優しく何かに撫でられる。いつまでも浸していたい温い湯のような。
うっすらと目を開けると、カーテンの隙間から陽光が射していて、部屋の中が淡い色合いになっていた。胸元を見ると魔理沙の頭。
「――なんじゃこりゃッ」
欠伸をしながら周りを見ると、間違いなく自分の布団、自分の領域。であるから、これは魔理沙の越境行為だろう。
一見すれば、私が魔理沙の頭を掻き抱いて、抱き枕のようにして眠っていたようにも見える。
「くー」
私の寝間着の胸元を掴んで寝ている様子は乳飲み子のようだ。心臓がトクンと音を立てたのはありもしない母性を刺激されたからか。
昨日から魔理沙の寝顔ばかり見ている気がする。赤ん坊の寝顔は天使だと言うが、魔理沙にも何か通じるモノを感じた。
「……よく見ればこいつなかなか可愛いのよねぇ」
頬を突いてみると張りのある弾力が人差し指を押し返した。おおう、これは癖になる。何度も突くと流石に何か感じたようで、魔理沙はもぐもぐと何かを咀嚼するかのように口を動かした。
鼻を抓んでみる。暫くすると猫の繰り出すパンチのように右手を動かして私の手を払いのけた。反則的な可愛さだった。
微かに開いた魔理沙の唇から寝息が漏れる。耳掻きのときに感じた魔理沙の甘い吐息を思い出し、口元に顔を近づけてくんと鼻を鳴らしてみた。酒臭いだろうと思っていたが、なぜか甘い匂い。不思議でならない。
ひょっとしたら魔理沙の唇それ自体に何か味があるのではないだろうか。
熟れた果実のように色づいた桃色の口唇はどうだ、今がまさに収穫時だと言わんばかりの糖度ではないのか。
ごくりと喉が波打つ。
ちょっとくらいなら、ちょっとくらいなら、セーフだよね。どれ、いただきま――
「むにゅ……朝から何してるのよぉ……」
そいや! と首を捻って緊急回避。可動範囲の限界を超える危ない動きをして安全地帯へ。
しかし身体までは動かすことはできず、絡み合ったままの私達を見てアリスは動きを止めた。
「ほう、同衾ですか。それも人の家で」
「い、いつの間にか一緒の布団で寝てたのよ。こいつ寝相が悪すぎるわ」
「ふーん。で、なんでそんなイカれた方向に首が曲がってるの?」
「ね、寝違えたのよ……」
あ、そう。とあまり興味の無いような顔でアリスは起き上がり「朝食の支度してくるわ」と言って出て行った。危なかった。朝から何を考えていたんだ私は。実に危ないところだった。
ギリギリのセーフってところだったろう。今ほど自分の首に感謝をしたことはない。
「まったく、美味しそうな奴が悪い!」
とりあえず魔理沙のお腹に踵を落とし、私もアリスの後に続いた。
魔理沙は悪夢にうなされるように呻吟していた。
* * * * * * * *
穀雨の名残も消えた立夏。少しだけ肌寒かった空気に熱が帯び始め、境内は青々とした自然で賑わいを見せる。
日中の麗らかな陽光に、石畳の所々がきらきら光って応え、精一杯に薄暑を主張する。
刹那。神社の横に広がる林の中。木の下闇から清涼な風が吹き込んできて、生まれたての仄かな熱を浚っていった。
しかしその趨勢も、やがては風から熱へ傾き、吹けども吹けども拭えぬ暑さがやってくるだろう。
そんな夏の始まり。
おかしなことが二つ起きた。
一つ目。賽銭異変。
あの食事会の五日後から賽銭の量が劇的に増えた。
陽の高い間は、私は長閑やかな日差しの中でぐーすか瞑想しているので、来客があればすぐにわかる、はずだ。よほど深い瞑想でない限り。
そう考えると参拝客は夜中に来ていることになる。危険な真似をする馬鹿者が里にいたものだ。
とはいえ、
「うふふ」
笑いが止まらん。ありがたく貰っておいて問題はないだろう。
いついかなるときも我が博麗神社は信仰を募集しているのだ。もう守矢神社にあれこれ文句を言われることも無くなるだろうし、乗っ取り計画が再び立案されることも無くなるだろう。守矢の巫女に信仰の量を自慢する日がくるかもしれない。
なぜ急に賽銭の量が増えたのか、なんてことを考えるのは野暮ってものだ。
そんなことを考えると、
「はぁ……」
ほら言わんこっちゃない。浮かれ気分から少し熱の帯びた溜め息が押し出される。
はて、何の溜め息なのかは私にもよくわからない。胸焼けするような実体のない異物感が心臓付近に蟠っていた。
二つ目。氷精異変。
食事会をしてから丁度一週間が過ぎた日だった。
幻想郷で言う日常とは、些細な異変や事件などが織り込み済みのものである。草木も眠る丑三つ時に、ふと夥しい血痕を見つけたとしても、吸血鬼のお嬢様が散歩をしている最中におやつを食べたのか、くらいにしか思われない。それが致死量の血痕だったとしたら、蓬莱人同士の喧嘩でも起きたのかなぁ程度の認識だ。どちらも日常風景の域は出ないだろう。
と私は勝手に思っている。他の連中は知らないけど、私がそうなのだからたぶん同じだろう。きっと。
で。
「ひっく……ひっく……」
鳥居の陰で、チルノがベソをかいていた。
これを異変と呼ばずになんと呼ぶ。アリスの食事会ですら雨が降ったというのに、今度は石つぶてでも降ってくるのか。
あまり関わりたくない気持ちが半分、全く関わりたくない気持ちがもう半分。さてどうしようかと思案に暮れている間にも、息苦しそうに鼻水をすすり、嗚咽に喉を震わせて、チルノはびーびー泣き続ける。さすがにこんな状況を無視すれば、閻魔様があらゆる武装で身を固め、悔悟の棍棒をぶん回しながら飛んできて私をめっためたに殴打するだろう。
溜め息が転がった。妖精は扱いにくい。話を聞いてくれれば良いのだが。
「おーい、暑くて頭やられ……どうしたの、お腹空いたの?」
軽口を飛ばして元気づけてやろうかと思ったが、その泣き顔を見ると本気で泣いているようだったので、唾と一緒に飲み込んだ。
『暑ければ太陽を凍らせれば良いじゃない』と、追い縋る大妖精を振り切り、日輪の輝きを目掛けて飛んでいったチルノの面影はそこにはない。
私の声に気付いたチルノは慌てて目元をごしごしと拭った。
「ふんッ。なんでもないよ!」
「なんでもないならわざわざ神社で泣かないでよ」
「う、うるさい! 泣いてないってば!」
精一杯の虚勢ですといった微妙な剣幕で鼻息を荒くし、「バカ、アホ、頭パッパラパー」と貧弱な語彙で私を散々なじって、チルノはどこかへと飛んでいった。
鳥居の横には沢山の結晶が落ちていた。落涙の氷は儚く石畳に溶けて消えてゆく。もう少し優しい言葉をかければ良かったかもしれない。
が。まあ良しとしよう。僅かばかりの良心の呵責と引き替えに氷精異変を解決したのだ。チルノも元気になっただろう。
そう思っていた次の日、またもやチルノが鳥居の横で半ベソをかいているのを見つけてしまった。これはいよいよ何かある。
昨日のようにびーびー泣きこそしなかったものの、鳥居の陰で膝を抱え、時々思い出したようにこちらを覗いてくる。普段のチルノからは考えられない消極的な行動。
このまま知らんぷりし続けるのは、迷子の子供を見て見ぬ振りをするような居心地の悪さがある。だが、そもそも妖精に、特にチルノに手を差し伸べたところで昨日のように怒って逃げていくのは目に見えていた。
心の中で閻魔様に言い訳しつつ、放っておくことにした。
*
暇なのは構わない。暇を楽しむ方法を私は知っているからだ。
だというのに、暇を持て余していた。風に歌う木々のささめきも、気持ちよさそうに泳ぐ雲の競争も、遊んで欲しそうな顔で此方に伸びてくる影も、何一つ私の心に触れなかった。
何かを待つようにぼんやりと空を見ている時間が増えた。カラスが飛んでいるのを見ると落胆するようにもなった。竹箒を股に挟んでみたりもした。
奇行に走るほどに、こう……人恋しいのかと思ったり。「アリス来ないかなぁ」なんて白々しく呟いてみる。「魔理沙でも、良いけど」なんて言って恥ずかしくなる。
今では鳥居の横にお菓子を幾つか用意してチルノをもてなしていた。ただの酔狂だ。チルノはペロリと平らげた後『もっとくれ』という視線をこちらに向けてくるがそこまでしてあげる義理はない。
最初こそ隠れていたチルノは、いつしかそこらを飛び回るようになっていた。茂みに入って一人で何かしら暇を潰していたり、虫を見つけては冷凍実験などをしていたりして過ごしている。
いくら暇とはいえチルノと遊ぶ気にはならない。
なぜこういう時に限って魔理沙は来ないのか。賽銭の数を数えるにも飽きてきたというのに。
「ま、魔理沙!」
私の心を読んだかのようなタイミングで、不意にチルノが叫んだ。
空を見回す。背の高い木の陰から魔理沙が苦い顔をして飛び出し、チルノと私へ交互に目を向けた。
咄嗟に、私は魔理沙から視線を外しチルノに向けた。チルノは歯を剥き出しにして魔理沙を睨んでいた。
チルノの周囲に生み出される冴え冴えとした氷塊の弾幕。
「悪いなチルノ、今はお前と遊んでられないんだ」
魔理沙はチルノを一瞥すると方向転換して去っていこうする。
「待て、待てぇ!」
それを追いかけようとするチルノの声は尋常ではない。剥き出しの感情を声に乗せて魔理沙の背中を追っていく。
「どうしたって言うのよ二人とも!」
二人を追いかける。
チルノが魔理沙に追い付くはずはない。それはあいつだってわかっているだろうに、無駄と知りながら追いかけていく。
「捕まえたわこの腕白妖精!」
チルノのひんやりした首根っこを掴み上げて動きを制すると、ばたばた腕の中で暴れ始めた。
「離せ、離せぇ!」
「あーうるさいうるさい、いいから大人しくしなさい! どうせもう追いつかないわよ!」
「ぐッ」
チルノが睨む先は小さくなった魔理沙の背中。
魔理沙もチルノを気にしているのだろう、いつもに比べて逃げ足が格段に遅い。
「なんでそんな血相を変えて魔理沙を追いかけたのよ」
「……」
「ま、言いたくないなら良いけどさ。どうせあんたが弾幕勝負を持ちかけて返り討ちにされたってところじゃないの?」
「違う」
「なに、じゃあ魔理沙から一方的に仕掛けられたから、その復讐とか?」
「違う……」
「……ふう」
さっぱり要領を得ない。
「とりあえずあんたが魔理沙に腹を立ててるのはわかったわ。私から何か言ってあげるから――」
「違うッ!」
キッ! と見上げるように私の顔を睨んだチルノの顔は、すぐに眉が情けないほどに垂れ下がり、大粒の涙がぽろぽろと零れ氷の結晶となった。
事態についていけない。何が起きているのかもわからない。状況を把握できないまま「あーよしよし」と頭を撫でると、力一杯お腹にしがみつかれ、へその辺りが痛いくらいに冷たくなった。
が、そんなことよりも「魔理沙に、嫌われたぁ」というチルノのしゃくり上げた声が気にかかった。
* *
紅魔館の近くには、チルノの湖がある。
『チルノの』といっても、チルノの所有地ではなく、ただ彼女が毎日そこで遊んでいるというだけだ。
毎日遊んでいれば場所そのものに愛着が湧くのは自然と言える。愛着が湧けばこそ、そこに自分以外の者を侵入させたくない。分別のある大人ならば、それはただの我が儘として自制の心が働くが、しかしそこは妖精、自分の縄張りは絶対に譲れない。秘密基地と呼べるほど秘境ではないにしても、気心知れた友達だけで遊んでいる分には、そこはチルノにとっては大事な秘密基地なのだ。
だからこそ、時々そこを通って紅魔館へ行く魔法使いが邪魔臭かった。何となく、自分の聖域を汚されているような、そんな気分になった。
チルノが魔理沙に対して攻撃を仕掛けたのは、元々の好戦的な性格に加えそういう理由もあった。
そしてその結果、チルノは敗れに敗れた。
三桁近く黒星がついた頃だろうか、ようやくチルノは『魔理沙なら湖の上空を通っても良い』と思うようになった。勿論攻撃はする。攻撃するけども、まあ湖を通るくらいなら許しても良い。
数日前のことである。紅魔館へ向かう魔理沙を見つけたチルノは、いつも通り出撃した。もうそこに悪意も害意もなく、魔理沙との弾幕ごっこは、湖という公然の秘密基地を共有する仲間としての儀式のようなものだとチルノは思っていた。
だがその日、魔理沙はチルノを拒んだ。初めて拒絶した。
拒むくらいならばマスタースパークの一撃でもって自分を一蹴すれば良いだろう。チルノは弾幕を周囲に展開していく。しかし魔理沙は弾幕ごっこをする素振りを見せない。
チルノは撃つ。応戦するだろうと思った。
魔理沙は何もしなかった。避けようとしたのかもしれないし、最初から避ける気がなかったのかもしれない。チルノにはわからなかった。被弾し、痛みに呻く魔理沙に、チルノは言い知れぬ恐怖を感じていた。怒って欲しい。馬鹿にして欲しい。非力な弾幕だと笑ってくれてもいい。だからそんな、無視はやめてくれ。それはとても怖い。と。
「お前とは遊んでいられない」
「な、なによ……あたいが怖いの? ふ、ふんッ、だったらもう湖に来ないで欲しいものね!」
無論、本心ではない。子供が親に駄々を捏ねるときのように、何でも良いから魔理沙からの反応が欲しかった。
だから、魔理沙がチルノに背を向けて飛び去ろうとしたとき、チルノは恐慌した。
「待ってよ! ちょっと待って!」
ただ引き留めたかった。しかしその術をチルノは知らない。自分の知っている足止めは弾幕だけだ。
計算も思惑も何もない、ただの直線的な弾幕。それすらも魔理沙は避けずに被弾した。
まるで、チルノがそこにいるのに、そこにはいないかのような振る舞い。
チルノは知る。嫌うという行為の発露は無関心だと。
生まれて初めてチルノは必死に考えた。どうすれば魔理沙の目に自分が映るのだろうかと。そしてなぜ嫌われてしまったのだろうかと。
でも自分は考えるのは苦手だ。
魔理沙を探しに行こう。わけを聞こう。きっと博麗神社に来るはずだ。
* * *
チルノから聞いた話は断片的すぎて全く要領の得ないものだった。
幾分、私の脚色が混じっているが、筋の通る物語にしてチルノの最近の行動に説明をつけてみる。
「ふーん。妖精って難儀ね……と思ったけど、それは人間にも言えることか。かえって妖精の方が自分の感情に忠実な分わかりやすいわ」
「頭パッパラパーで何にも考えてないだけじゃないの」
「そうとも言えるけど、すぐに行動できることは凄いことよ。私にはできないし、貴方も異変の兆候に気付いてもできるだけ先延ばしにするでしょう」
「うッ」
久々の来客らしい来客はアリスだった。
会って早々「なんだアリスか」と言ってしまい、ひどくご立腹になってしまわれたので、先日のチルノと魔理沙の騒動について話すことで誤魔化した。
「仲直りできるお守りを売ったらさ、それから来なくなっちゃったし、もう仲直りしたかも」
「売るなそんないかがわしいお守り……。それで、チルノが魔理沙を気にしている理由はわかったけど、どうして魔理沙はチルノを避けてたの?」
「さあ、あれから魔理沙と話してないもの」
「あれからってあれから? 一度も話してないの? 意外ねぇ」
アリスの脇に里から買い入れてきた食料や日用品が大量においてあった。
時々里で買い出しをしてはこうやって神社へと寄っていく。
「ああ、お茶頂戴な、まとめ買いするのは疲れるのよね」
「荷物は全部人形が持ってる癖に」
「それでも疲れるのよ。ほらお茶請けなら沢山あるから。最近里に新しい和菓子屋ができて、そこ凄く評判良いのよ? 魔法使いなのに並んだんだから」
「ふーん、気付かなかったわ。あと魔法使いも並ぶのは当然よ」
さも苦労しましたといった口調だが、どうせ並んだのは人形だろう。
アリスは脇にある紙袋から大量の和菓子を取り出し私の膝の上へどさどさと置いた。メモ紙を持った人形が買い物をしている様子が目に浮かぶ。メモ紙には『全部くれ』と書かれていたことだろう。
饅頭、金鍔、銅鑼焼き、最中、羊羹、飴に金平糖。和菓子のオールスターを山積みにしたアリスは、私の顔を見てにやりと笑う。
「と、特選極上の雲仙茶で良いかしら? く……駄目よ霊夢、あれは私の秘蔵なのよ……、良質の茶葉のみ厳選した初摘みものだからきっと気に入るわ。だめだめ……こんなお菓子に釣られて出してたまるものですか……目を覚ましなさい霊夢、魔理沙に悪いじゃない」
「気持ちはわかるけど葛藤は心の中だけにしなさい。あ、お煎餅もあるんだった」
「それじゃ淹れてくるねッ」
きっと私の秘蔵のお茶が飲みたくてお菓子を買ってきたのだろう。
そこまでするのなら飲ませてあげるのも吝かでない。
「はい、お待たせ。食べよ食べよ」
「あら良い香りね。本当にいつものお茶と違うみたいだけど、どうしたのこれ、いつもは雑草みたいなお茶なのに」
「あ、あんた……」
「うそうそ。ほら、お萩もあるから落ち着いて。で、これどこから盗んできたのよ」
「ちゃんと里で買ったわよ! 最近お賽銭が増えてきたしねー」
「お賽銭……?」
アリスは『あり得ないそれはあり得ない』という顔をした後、脇で待機していた上海人形を手に取り「霊夢がおかしくなっちゃったわ」と話しかけ始めた。それを聞いた上海人形がアリスの膝の上で泣き出したので、その小賢しい人形をがしっと掴み上げて渾身の力で遠くへ放り投げてやった。
「ああッ! 上海!」
「私も信じられないけど、なぜか賽銭が増えてるのよね」
「なぜか……って、霊夢本気で言ってるの?」
アリスは目を丸くした。
「魔理沙しかいないじゃない」
「何を言ってるのよ、なんで魔理沙が」
「呆れたぁ。だって貴方が言ったんでしょ『賽銭を入れてくれる人を好きになる』って。魔理沙はあの時それを聞いていて真に受けたってことじゃない」
「待ちなさいって! だから何で魔理沙がそんなこと、そもそもそれはお酒の席の冗談でしょ!」
「いやだから、魔理沙は霊夢のことが好きだからでしょ? そして霊夢も魔理沙が好きでしょ?」
顔が火照っていくのがわかった。高熱を持った血液が顔中を駆け巡り、羞恥の信号を次々と真っ赤に点灯させていく。
抗弁しろ。こいつは頭がおかしいんだ。
言いたいことは山ほどあるのに舌がもつれる。金魚のように口をぱくぱくさせることしかできない。
「嘘、もしかしてまだ自覚ないの?」
「自覚って、なんのよ」
「基本的に貴方は公平だけど、例外的に魔理沙だけ贔屓してるじゃない。お茶は人より少しだけ多く淹れてるし、ご飯だって少し多く盛るし、ケーキは少し多く切り分けるし、半分に割った銅鑼焼きが片方だけ大きかったら、少しだけ悩んだ後に小さい方を魔理沙に渡すじゃない。他の人だと悩みもしないで小さい方を渡す癖に。それに私と魔理沙が並んでいたらまず魔理沙から目を向けるじゃない? それって好きだからでしょ。気付いてないの?」
「う、嘘よ! そんなわけない!」
「いや私も最初は"霊夢は魔理沙だけを友人に思っている"って思っていたから納得してたんだけどね、あの晩私に『アリスのことを友人だと思っている』って言ってくれたじゃない?」
「言ったけど……」
「私から見て、霊夢って友人に序列をつけるタイプには思えないのよね。だから魔理沙は友人以上の存在なんだろうって。だからこそ好きな人はいるかって聞いたんだけど、随分経ったしそろそろ自覚してるかと思ったわ」
「そんなわけないでしょ! なんで私が!」
そんなこと断じて認めな――
「キスしようとしてたくせに」
「み、みて、見て――ま、待て、あ、あ、あれは違……あれは違うのよッ! あれは魔理沙から良い匂いがしてたからッ!」
「酒臭いだけじゃないの。そういうのって好きな人だと良い匂いに感じるものなのよ」
なぜかじんわりと涙がみたいなのものが。感情が暴走している。
「違うもん……そんなんじゃないもん……」
「あー泣くな泣くな、うわぁ妖精よりもよっぽど難儀だわ……自分のことになると勘が悪くなるのかしら……それともただ単に気付かない振りをしているか……あるいは、うーん……過程の欠落ってやつかな」
口元に手をあてて真剣に考えるアリス。
「いや待てよ、そう、大体おかしいのよ貴方。なんで賽銭箱を見張ってなかったわけ? 毎日お賽銭が入っているなら見張っていれば良いじゃない」
「そ、それは……」
「本当は気付いているんでしょ。魔理沙が入れているって」
「し、しらない……」
「ウブねぇ、このこのぉ、うわほっぺ熱ッ!」
執拗に頬を突いてくるアリスの腕を取り関節を極める。「ごめん、関節技は駄目! ごめん!」と謝ってるがもう遅い。
「こうなったら今晩見張ってやるわよ! それで良いわよね!」
「ギブギブ! そんなのどうでも良いからギブ!」
* * * *
こそこそと隠れるような真似をして真相を探るなんてことは私の性に合わない。
これまで起きた異変だって正面からぶち当たり、立ちはだかる障害を神聖なる巫女のカリスマで以て粉々にし、我が儘の権化である異変の中心人物をけちょんけちょんに痛めつけてから、慈悲の心で許してきた。そう、それが博麗霊夢。幻想郷の住人共から畏敬と憧憬の念を一身に浴びる可憐な巫女だ。
ゆえに魔理沙のところへ飛んでいって「どういうつもり?」と余裕綽々の態度で睨んでやれば、魔理沙なら一発で震え上がりことの真相をゲロするだろう。万事解決だ。きっと彼女は顔を赤らめ、涙目になりながらこう言う。「私は霊夢のことが……」そこですかさず私が「良いのよ魔理沙、ほらこっち来て笑って頂戴、貴方には向日葵のような笑顔が似合ってるわ」と、すると魔理沙は子犬のようにやってきて待て落ち着け私は何を考えているアホか。
深呼吸をする。茂みの中は濃緑の匂いに満ちていて、桃色の妄想を別の色に塗り替えてくれた。アリスのせいだ。こんな下劣で低俗で淫猥な妄想をしてしまうのは。
しかし――、
確かに最近の私はおかしいかもしれない。白状すれば、賽銭を見る度に魔理沙の顔が頭にちらついていた。ふわふわとした髪の毛の感触が、無遠慮な態度が、負けず嫌いな気質が、隠れて努力する強がりな心根が、彼女のすべてが、私の中で熱を帯び、高温の溜め息となって出て行くのだ。
そんなわけのわからない気持ちを抱いたまま魔理沙のところへ行けるわけもなく、結局こうして月の夜に緑の暗闇から賽銭箱を監視しているのだった。あちこち蚊に血を吸われ、レミリアへの怒りの電圧がまた一段階上がる。
いつしか月も雲の影へ隠れて息を潜めた頃、境内を歩く人の気配。
(――来た!)
鳥居の下を潜る真っ黒い人影が見えた途端、心臓が早鐘を打つ。静寂を飲み込んだ闇の中に心臓の音が漏れていく。鼓動を止めようと右手で胸を押さえつける。
これは紛れもない、胸の高鳴りだ。あの人影が魔理沙であって欲しいという祈りに近いものだった。
魔理沙が、私の気を惹こうとしていて欲しいという、剥き出しの願望だった。くそ、アリスめ、本当に余計なことを言っていった。湧いて出る感情はどれをとっても……恋しているみたいではないか。
だからこそ、
(――魔理沙、じゃない……?)
失望が大きかった。
そもそも魔理沙なら空から来る。そんなことすら失念し、舞い上がっていた。
あの人影の大きさはどうだ。魔理沙よりも頭二つは大きいではないか。トンガリ帽子も被っていなければ、スカートですらない。見るからに男の人の体格。
私は参拝し終えて立ち去っていく男の人を呆然と見送り、暫くその場で固まっていた。耳元で蚊がぶんぶんと私を嘲笑っていた。
いつしか月も顔を出し、冷ややかな光を投げかける。茹だっていた頭には丁度良い。
覚束ない足取りで縁側へ向かう。なぜ、縁側へ? ここはよく魔理沙と並んでお茶を飲んでいた場所だ。今は用がないし、もうさっさと寝てしまいたい気分なのに。この数日、魔理沙がここに座ってないだけで、寂びた雰囲気が敷き詰められている。今はこんなところ見たくもないのに。ああ、そういえば今日アリスと座ったばかりだったか。なんて思ったらまた青筋立てるんだろうな。
私は冷たくなった縁側へ悄然と座っていた。本当に冷たい。冷たすぎて、頭がはっきりする。
一つ。
目を逸らしていたことに、一つ気付けた。
なぜチルノが叫んだとき、私は"咄嗟に"魔理沙からチルノへ目をやったのか。
あの時も今みたいに魔理沙のことを考えていた。そして魔理沙が現れたというのに、どうして魔理沙から視線を外したのだ。チルノの様子がどこか逼迫していた、というのは確かにあった。
でも本当は違う。そんな些細な理由ではない。
本当は、魔理沙の肌の露出がいつもより少なかったからだ。
本来、魔理沙の肌が見えるところに、布があったからだ。
ああ、なんて回りくどい。もう認めろ。私はあのとき。はっきりと見た――
――腕や足の至る所に包帯が巻かれた、傷だらけの魔理沙を。
負傷している魔理沙なんて割と見慣れているのに。目を逸らす必要なんてどこにもないのに。私はあの時、怪我をした魔理沙を見たくなかったという理由で見なかったことにした。
なぜそんなことをしたのか、自分の心の作用がわからない。アリスに言わせれば、きっと『それは魔理沙が好きだから』なんて理由にもならない理由を挙げて煙に巻くんだろう。でもそれが、一番納得してしまう気もする。アリスの言葉が、この胸の灼けつく症状に一番適した病名なのかもしれない。
抗うことに疲れた諦念のような。
あるがままを受容するような。
そして、どこか納得するような。
あらゆる感情が一つのものに収束しようとする。
恋慕?
未だ戸惑いを極めている私の中。
幾つもの誤魔化しで塗りたくられ、ときには見落とされ、何度も何度も否定され、そんな酷い目にあっても力強く産声を上げた感情。
まだ、そうと認めるには抵抗がある。だけど。だけどだ。アリスへの気持ちを友愛と呼ぶならば、魔理沙へのこの気持ちは一体何と呼べばいいのだろうか。
いい。呼び名など興味ない。後々に、これが恋だと思ったのなら、これを恋と名付ければいい。
今は、自分の感情を否定することをやめるだけだ。
大切にしよう。この想いも、想いの向かう相手も。
正直になろう。誤魔化しているだけで日が経つのはもうごめんだ。
やめさせよう。賽銭なんていらない。魔理沙と一緒に居た方が楽しいに決まってる。
助けに行こう。魔理沙はきっと――
――助けにって、なに?
体温が下がった。何を考えていたんだ私は。
ねえ魔理沙……あんた、なんで怪我なんてしてるの?
** ** ** ** ** ** ** **
「卑怯だよなぁ……ずるいよなぁ……反則だよなぁ……」
あの日の霊夢はそう、反則だ。綺麗になりすぎている。
しかもあの日に限って、妙なくらい私に優しかった。妙に反応が可愛かった。妙に私を意識していた。……と思うのは自意識過剰だろうか。
普段は見せてくれない心の内を、なぜかあの日だけ見せてくれた。
魔理沙はまた溜め息を重ねた。部屋の中の空気はとっく溜め息に塗り替えられている。
――霊夢の黒髪を羨んだことがあった。
自分のように癖がなく、風が吹けばさらさらと音を立てて揺れ、赤いリボンを付ければいつにもまして映える、雄大で深い黒。
その持ち主に自分の髪を撫でられながら「綺麗な髪ね」と言われ、嬉しくないわけがない。
一瞬で思考は蒸発し、為す術もなく霊夢の膝の上で寝たふりをした。
霊夢はずるい。今まで一度も誉めてくれなかった癖に、あの時に限ってあんなこと。
もっと早くに言ってくれれば、きっと霊夢の黒髪を羨むなんてことしなかった。
こんな癖だらけの髪でも、もっと早くに誇りになった。アリスに自慢だってしたかもしれない。帽子をもっと小さくして髪の毛をもっと遊ばせていたかもしれない。
魔理沙の心が劇的に変容していく。それを恋と呼ぶのを、魔理沙は厭わなかった。
*
時間を経ても消えることのない思慕の熱に焼かれること四日。
アリスの家から帰ってきてから魔理沙は、一日中自分のベッドの上を転がり続けた。まるで熱されたベッドの上で身悶えするかのように、右へ左へ身体を揺すり赤面しながら暴れ回る。神社へ行こうとして家を出た回数は数え切れない。しかし三秒で踵を返してベッドに戻り、再び人外言語を呻きながら転げ回るのだった。九十六時間で二キロ痩せても、眼に宿る恋の気焔は衰えを見せない。
(――今までどんな理由で霊夢に会いに行ってたっけなぁ。理由もなく会いに行ったら不審がられるぜ……)
それではこれまでの霧雨魔理沙は不審の塊だ。
大した凄いわけでもない妖怪退治の武勇伝を九割増しで語りに行ったことがある。キノコ料理を振る舞うと言って新種のキノコを毒味してもらったこともある。退屈という理由でお茶とお菓子をせびりに行ったことすらある。理由が無いから会いに行けない、なんてことは魔理沙には通用しないはずなのだが。
魔理沙本人もそれはわかっていた。わかってはいても、今や理由も無しに霊夢に会いに行くことは、たまらなく不自然なことだと思えたのだ。
とはいえ霊夢の顔が見たい。できることなら微笑みかけられたい。自分が会いに行くことで喜んで欲しい。
何度となく繰り返した思考を飽きもせず辿り直す。
また膝枕してもらいたい。髪を撫でて貰いたい。耳掻きも良いな。一緒に昼寝なんて最高じゃないか。いっそ寝食を共にしてみようか。控えめな夢想から始まり、果ては自分の名字を相手に明け渡し「霧雨霊夢」と呟いてベッドの上を猛烈なバタ足で泳ぐ。「博麗魔理沙」とささめき、掛け布団を吹き飛ばして元気に背泳をする。
こんなことを四日続けている。いい加減、恋い焦がれるのにも疲れた。精神衛生上にも良くないだろう。
またも魔理沙は、はあ、と溜め息を吐いた。分単位で零している。
(――どうすりゃいいんだ、まったく)
結局は、霊夢に好きになってもらいたい、の一言に尽きる。
思い出す。遠のいていく意識の中で、それでも最後まで聞いていたあの会話。
『霊夢って好きな人いる?』
『いない』
『どんな人なら好きになる?』
『賽銭を沢山入れてくれる人かな』
酒の席の冗談であることはわかっていた。わかっていたけれども、魔理沙にとってこの言葉は聞き流せないものだった。
三人で川の字になって寝ている深夜、こっそり起き出して、霊夢の温もりが消えたソファーへ縋るように身を寄せ、一人泣いたのはこの言葉のせいだ。軋む胸を掻き毟り、霊夢が寝ている布団に潜り込んでその温もりに身を浸し、安らぎを求めたのもこの言葉のせいだ。
それを酒の席の冗談で片付けられては、何のために魔理沙は声を殺して泣いたのか。霊夢にも自分と同じような胸の痛みを味わってもらわなければ不公平だ。
魔理沙の中で積み上がっていく恋の打算。必勝の方程式。
弾かれるようにベッドから飛び起きて、魔理沙は家を出た。
里へと続く空を飛ぶ。恋の計略の鍵は里にあった。
* *
里の中は新しい和菓子屋が翌日の開店を控えているらしく、俄に活気づいていた。
話を聞くと、店主がいい男だから、だとか。魔理沙にはどうでもよい話ではあったが、
(――新しい店……これは僥倖だぜ)
好都合だった。
魔理沙は開店準備をしている店へ入り、突然の闖入者に何事かと驚いている風の男に話しかけた。
「あんたがここの店主か?」
「はぁ……そうですが、どちら様でしょうか」
「通りすがりの魔法使いだぜ。ところでだ、あんた明日から商売を始めるそうだな」
「ええ、おかげさまで」
「困るんだよなー、そういうのを勝手に始められると。物事には順序ってのがあるだろ?」
「……と言うと?」
「これだよ、これ」
と言って魔理沙は人差し指と親指で輪っかを作り、胸の前でゆらゆらと揺らし意地悪そうな顔で笑った。
今にもショバ代を寄越せと言わんばかりのその態度に、男の顔が警戒の色を帯びる。しかし相手は魔法使いということもあってか、男は諦めた表情で息を吐いた。
「もしかして、魔法の森に住んでいる魔法使いというのは……」
「どうかな、住んでいるのは私だけではないからな」
「妖怪退治の依頼を勝手に請け負って勝手に報酬を持って行くという噂があるのは……」
「人聞きの悪い噂だが、恐らくは私のことだ」
「やはり、そうでしたか」
やはりとはなんだ。
「まだ右も左もわからないもので、魔法使いさんへのご挨拶が遅れてしまったようですね……こういうことには全く疎くて、幾らくらい包めば良いでしょうか」
「ほう、殊勝な心掛けだな。五銭で良いぜ」
「ご……たったそれだけで?」
「ああ、あんたまだ博麗神社へ参拝してないだろ? 商売を始めるって言う奴が信仰を蔑ろにするようじゃ、先は見えてるんじゃないか?」
魔理沙の言葉を聞いて、男が苦笑いをする。
「もしかして、最初から私を驚かせる気でした?」
「気のせいだぜ」
「しかし……参拝なのですが、行こうとは思っているんですけど道中に妖怪がいて、なかなかどうにも」
「だから私が来てやった」
「……もしかして」
「ああ、護衛をしてやるぜ」
あなたは人が悪い、と男はすっかり苦みの消えた笑いをした。
* * *
翌日、魔理沙は大盛況の和菓子屋を遠くから眺めて片頬笑んでいた。
参拝の陽報か、菓子の質か。或いは男の人となりが客を呼んだのか。客足は夕方になっても衰えず、男に会いに行ったのは薄暗くなってからだった。手には『当店は博麗神社を信仰しています』と書かれたイラスト入りの貼り紙。魔理沙の手作りである。
「魔法使いさんも来てくださったんですか。昨夜はありがとうございます。おかげさまで今日は大繁盛でしたよ」
「ああ、遠くから見てたぜ。ということでこれを貼っていく」
「それは……ふむ、なるほど貼り紙、ですか。どうぞどうぞ」
「え、いいの? そんなあっさり」
「勿論ですよ。なかなかに可愛らしい貼り紙ですし店の前が華やぐというものです」
商売人のお世辞に魔理沙は満更でもない様子で「まあな、私のセンスが滲み出てるだろ」などとのたまった。
ひらひら揺れる紙面上には邪悪な微笑みを宿した巫女の顔。まるで人食い悪鬼の凶相だ。
「ところで明日の準備が終わったあと参拝に行きたいと思っていたのですが、今日もお願いできますか?」
「お? 私は構わないが……毎日行く必要は無いんじゃないのか?」
「はは、こういうのは毎日行くから効果があるものなんですよ。家に神棚があれば毎朝拝むんですけどね」
数刻後、昨夜と同じように男を神社まで送り、魔理沙は境内から少し離れたところで待っていた。
程なくして男は戻り、二人で里への道を辿る。
神社と里を繋ぐ夜道を改めて見ると、なるほど昼間でも参拝しようなどとは考えたくもないような鬱蒼とした獣道だ。少し道を外れただけで、夏の暑さすら逃げ出す薄気味悪さがある。風で葉が擦れる音は森の歯軋りかと思う。
「里の人間達は妖怪に襲われたりするのか?」
「いえ、上白沢先生が里を護ってくださっているので中は安全です。でも里の外に出れば襲われることがあるんじゃないでしょうか」
「あるんじゃないでしょうかって、なんだか随分と曖昧だな」
「悪戯された人はいるんですけど、襲われたって人は里には少ないんですよ。襲われたら最期ですからね」
「なるほど」
妖怪に襲われて逃げ切れる人間は少ない。
「ここまでで良いです。もう里の入り口ですので」
「ああ」
男は律儀に頭を下げて、里へ続く薄闇へ溶けていった。
それを見送って、その場を立ち去ろうとしたときである。
「ちょっとそこの魔法使い」
魔理沙の頭上から鈴を転がしたような少女の声がした。僅かに剣呑な音素が混じっている。
「あん?」
「昨日といい今日といい、あんたすごーく邪魔よ。折角人間がこんな夜中に里から出てきたっていうのに」
「そいつは悪かったな。明日も明後日も邪魔する予定だが我慢してくれ」
「我慢できないからこうして出てきたわけじゃない」
ここで初めて魔理沙は上を見た。
いつかの終わらない夜の時に出会った夜雀に似た容貌の妖怪が、不機嫌そうな顔で見下ろしていた。
瞳が、鈍く輝いている。
「我慢できないから退治されに来たってわけか。お前の格好、いつぞやの夜雀に似ているが、そいつの親戚か何かか? だとしたら私の強さとか噂とか聞いたことがあると思うが」
「さあ、夜雀からは聞いたこと無いけど、割と有名よあんた。森の魔法使いって言えば私達の間では迷惑の代名詞」
「なるほど夜雀じゃなくて梟の類か。文句があるなら弾幕ごっこで話を聞いてやってもいいぜ」
魔理沙が飛び上がると、妖怪の少女はわたわたと手を振った。
「違う違う、弾幕ごっこじゃないよ――」
「なんだ?」
「――捕食だよ」
少女がにっこりと笑った。目が魔理沙ではなく、魔理沙の後ろにチラリと動いた。まるで後ろに何かがいるかのように。
直感である。魔理沙は身体を捻った。瞬間、魔理沙の腕を切り裂いてもう一人の妖怪が後ろから飛んできた。
地面へ落ちるように急降下し、箒から身体を半ば投げ出して無様に着地する。
「痛ッ……不意打ちは、ちょっと行儀が悪いんじゃないか? しかも二人がかりだなん……っておいおい三対一かよ」
すっぱり切れた傷口を服の上から押さえつけて止血する。服の内側に薬液を染みこませた生地が仕込んである。アリスは横着だと鼻で笑ったが、ほら見ろ役に立ったじゃないか。備えあれば憂い無しだ。この展開は憂いではあるが。
そんなことを思いながら忌々しげに見上げた先、似たような姿をした妖怪が二人加わっていた。一人は指先に付着している魔理沙の血を舐め取っていた。
「すごい、さすが魔法使い。よくわかったわね。良い勘してる」
「これは勝負じゃなくて私達の食事。でもそうね、確かに行儀が悪かったかも」
三人は頷き合い、口を揃えて同じ言葉を魔理沙へ言い放つ。いただきます。
魔理沙は地面を蹴る。星屑の魔法を無造作にばらまきながら最速でその場を離れようとする。
(――なんだ、これ)
魔理沙にとって、速さは自慢の一つである。梟など魔理沙の影も踏めないだろう。
しかし、それが、
(――出力が、上がらない?)
魔力が推進力へ化ける過程に、これまで感じたことのない強烈な違和があった。変換効率が普段のほぼ半分。ここ数日、全く身体を動かしてなかったからなのか。これでは距離を取ることすらできない。
未曾有の事態に困惑するも、今はそれどころではない。自分が早く動けないのなら相手を遅くしてやればいい。箒の尾から零れる魔力の残滓が星屑へと形を変え、宵闇の中を不規則に飛んでいく。それと同時に、更に大きな星形の魔法が魔理沙自身からも生み出され、三人の妖怪目掛けて襲いかかった。
直線ではなく。曲線でもなく。直線と曲線を組み合わせた捻くれた弾幕。
規則と不規則が縦横に織り交ぜられて、相手の動きを制限させる。それがマスタースパークへ繋げる魔理沙の戦法。なのだが、
(――なんで?)
やはり魔力の変換過程に致命的なまでの異常があった。
美しさも鮮やかさも、強さも何もあったものではない。杜撰で拙い、垂れ流すだけ。密度の低い魔法の残骸。
今の自分の状況を忘れてしまうほどに、それは衝撃だった。
側頭部を拳で殴られるまで思考が戻らなかった。いや、殴られ地面に叩き付けられても思考は焼き切れたままだった。ただ本能が危険を感じ、身体が痛みを嫌がって勝手に防御の態勢をとっただけだった。錯愕し、情けなく逃げ惑う。
霊夢が綺麗だと言ってくれた髪の毛が鋭い爪によって無惨に切られても、何もできなかった。泥と血に汚れた髪は、もう綺麗と言って貰えないだろう。
「ねえこいつ弱いよ? 別に三人もいらなかったんじゃない?」
「まさか魔法使いがこんなに弱いと思わなかったんだもん」
「弱い癖に人間の護衛なんかするからこうなるんだよー」
いつもの魔理沙なら、へらへら笑いながら三人の妖怪をねじ伏せることができただろう。そうするだけの実力が備わっている。妖怪退治は常に一対一というわけではない。多対一というケースも多く経験していた。
それゆえ、なぜ自分がこんな目に遭っているのか理解できなかった。
「それじゃ食べよっか」
「……待て」
「あれあれ? 命乞い?」
それでも、命の危機に頭が急加速で回り始めた。死にたくなんて無かった。
「お前ら、魔法使いを食ったことあるか? もしくは、お前らの知り合いで魔法使いを食ったことがある奴いるか?」
「さあ……いないんじゃないかな」
「だろうな。なんでいないか知ってるか?」
妖怪達は怪訝な顔で魔理沙を見た。
「正確には魔法使いを食った妖怪はいることはいる。が、食った奴は皆死んでる。だから食った経験のある奴がいないんだ」
「はぁ? 意味わかんないよ」
「お前ら魔法の森のキノコを全部食ったことあるか? 神経に異常を来し、幻覚を見せ、嘔吐が止まらない。正気を失い、自分を傷つけ、数日は気を失う。そんなキノコを私は全部食ってきた。いや、私だけじゃない、魔法使いってのはそういうのを食ってるんだよ」
嘘だけど。と魔理沙は胸の中で舌を出す。
「な、何が言いたいのよ……」
「わからない奴だな。この毒壺の身体を喰らう度胸があるのかってことだよ。お前ら私を食って無事でいられると思うのか?」
いざ飲もうと思うとスープが毒入りだと告げられた。三人が三人ともそんな顔をした。
「そういえば私の血を舐めた、ああ、お前だお前。顔色がどんどん悪くなっているように見えるが、どうなっても知らないぞ」
「うう……なんか、そう言えばお腹痛い……かも……」
「こ、こいつッ! 食べられないなら殺すだけよ!」
「ほう、私がいなくなったら里の人間は外に出てこないが?」
「うッ……ああ、もう!」
「早く帰ってそいつの腹を洗浄してやらないと死ぬかもな。酒をがぶ飲みしてれば中和されると思うぜ」
苦い顔をして慌てて飛び去る三人の妖怪の背を見ながら、震える息を吐いた。達者な口に感謝した。
それにしても、一体自分に何が起きたのだろう。
血の付いた箒の柄を袖で拭い「今日は徹夜だな」と呟いて魔理沙は飛ぶ。落ち着いた声音とは裏腹に、今にも泣き出しそうな顔だった。
* * * *
その翌日は最悪の一日だった。
実験器具が転がり、グリモワールが雑多に積み上げられ、鼻が曲がる程の異臭が漂う部屋の中。魔理沙は一睡もせずに朝日を迎えた。脳天気な明るさの太陽を憎々しげに睨むその表情を見るに、状況は良くないのだろうことが窺い知れる。
やることと言えば、あとは精々紅魔館の大図書館でめぼしい本を借りてくるくらいか。
まだあちこち痛む身体を引き摺って魔理沙は箒に跨った。チルノと出会ったのはその途中である。
弱っている姿など誰にも見せたくなかった。とりわけチルノにはそういう気持ちが強い。余裕も失っていた。ちっぽけな意地もあった。
気まぐれなチルノのことだ、弱い自分に価値を見いださないのではないか。そんな恐怖も少しばかりあった。
「くそ、嫌われただろうな」
酷い態度をとってしまった。無防備な身体に受けたチルノの冷たい弾幕よりも、チルノの金切り声の方がずっとずっと痛かった。
本当に最悪の一日だった。
結局、多分に願望が混じってはいるが、この症状は一時的なものだと結論づけた。
となれば回復するまで大人しく家に引き籠もるのが最良である。だがそういうわけにもいかないのが魔理沙の現状だった。
神社の信仰を増やし霊夢の喜ぶ顔を見るという思いは、自分でも驚くほど強いものだったらしく、諦めるという選択肢はなかった。
それに、このままおめおめと引き下がるほど、霧雨魔理沙は大人しくもない。
妖怪除けの香。霊夢印の魔除けの護符。山伏の杖。用途不明の陰陽玉。魔術武装にルーンの刻印。呪術原典。神具のレプリカ。ミニ八卦炉。錬丹の秘薬。光学式迷彩服にヤツデの葉。あと桃。
集めに集めた古今東西和洋中のコレクション……と河童の服や天狗の団扇。あと天人の食料。
魔理沙は可能な限りそれらを服に突っ込んで、里へと続く夜を飛ぶ。
* * * * *
それから数日経った。
妖怪除けの香のおかげであろう。一度たりとも妖怪に襲われはしなかった。
危険な橋を渡っているという自覚はあった。けれども賽銭箱を嬉し顔で覗く霊夢を、こっそり隠れて見たときの胸に込み上げてきた名状しがたい感情。霊夢が喜んでくれた、それが自分にとって至上の喜びに思えた。危険など、それを前にしては吹き飛んでしまう。
一度だけチルノに見つかったが、そのことについては努めて考えないようにしていた。
「魔法使いさん、これ女の子から預かってます」
何人かの里の人間――全員が和菓子屋から話を聞いた商売人仲間――を神社へ護衛した後、今日最後の客である和菓子屋の男に会いに行った時である。
男は不思議そうな顔をして氷漬けのお守りを魔理沙へ手渡した。
「昨晩、里まで送ってもらったあとすぐに女の子がやってきて、これを魔法使いさんに渡してくれと頼まれまして。凄いですねそれ、全然溶けないんですよ」
それは見覚えのある妖精の氷。強い意志の顕れのように毅然と凍っていた。
氷の中に目を凝らす。『縁結び』
何たる余計なお世話。大体こんなもの肌身離さず持っていたら、布越しでも凍傷してしまう。
魔理沙がお守りをぞんざいにリボンの裏へ仕舞い込んでいるのを見て、男はくすりと笑った。
「嬉しそうですね」
「は? ばかいえ、全然……いやまぁ、喧嘩みたいなことしちまったしな、気まずいだけだぜ」
「気まずいだけにしては凄く嬉しそうな顔をしていますよ」
「あーうるさいうるさい」
勿論嬉しかった。そしてそれ以上に申し訳なかった。謝るべきは自分のはずだ。
この数日、チルノはこっそり自分の後をつけて、毎晩里の人間と会っているのを目撃していたのだろう。あの短気な妖精が、魔理沙の背中を見ながら何日も思い煩い、そして男に仲直りの印を託したのだ。
申し訳ない。けど、やっぱり嬉しい。
魔理沙は堪えよう堪えようと笑みを噛み殺そうとしたが、抑えきれずに喜びを表情に零す。
「ははは、やっぱり嬉しそうですね。お守りは仲直りの印にってこと何ですね。なるほど、だから縁結び」
自分のことのように喜ぶ和菓子屋の店主は、得体の知れない骨董品や珍品を店に並べて悦に入っている店主とは違う、というのがここ数日毎晩のように会っている魔理沙の印象だった。商売人たるもの、愛想の良さは当然ながら、会話の上手さや気の使い方なども人並み以上にできなければならないのだろう。そう思わせるだけのものが男にはあった。
以前に聞いた「いい男」というのは、人となりのことだろう。博麗神社に参拝せずともこの男なら成功していたに違いない。
「そういえば、ここ最近ずっと気になっていたのですが……」
道中、男はおずおずと切り出した。
「その怪我は、喧嘩で?」
「怪我のこと……気付いていたのか」
「むしろそれで隠していたつもりだったことに驚きです。服飾にしてはその包帯は奇抜に過ぎる。化粧にしては青痣は革命的ですよ」
「聞くにしても今更過ぎるぜ」
「聞いちゃいけない雰囲気を醸していましたからね。でも今は随分と穏やかな感じが。そのお守りをもらったからかな、と思いまして。それに今日はきつい薬の匂いがしないので身体の調子も良くなったのかと」
薬の匂い? 傷薬は無臭の軟膏を使っているのだが――。
腸を撫でられるような気持ち悪さを感じた。箒の先に釣り下げたお香を見て舌打ちをする。
「くそ、引き返せ。今日はダメだ」
「どうしたんですか?」
「いいから早くしろ!」
四六時中お香の匂いを嗅いでいたので鼻が麻痺をしていた。
お香が切れたことに気付いていなかった。
「あははー、やっと頭の痛くなる悪臭が消えたみたいね」
そして気付いたときには遅かった。
梟の羽は羽毛によって覆われ、羽ばたくときの音を殺すことができる。
その姿を目視できたときには、梟の妖怪は男を目掛けて爪を奔らせていた。
男が小さく呻いた。爪が食い込んだのではなく、魔理沙が男を突き飛ばしたからだ。
爪は魔理沙の肩口を裂き、白いブラウスから噴き出た鮮血が冷たい月光を照り返していた。
「――逃げろ!」
魔理沙は男に向かって叫ぶ。まだ里を出て間もない。戻れば助かる。
男は腰を抜かして、傷ついた魔理沙と、楽しそうに笑う妖怪を交互に見るだけだった。恐怖に歪む顔にはいつもの愛想の良さなど微塵もない。
「絶対に逃がさないよー。久々の人肉だもーん」
妖怪の頑是無い笑顔は、子供が虫取りをするような無慈悲で無感傷なものだった。里へ続く道を塞ぎ、ホラもう逃げられないよ、と嬉しそうに目を細める。
最悪だった。この状況は完全に自分の落ち度だ。私が傷つくのは自業自得で構わないが、男を傷つけるわけにはいかない。それは私のプライドが許さない。
魔理沙はポケットから幾つもの丹を手当たり次第取り出して頬張る。食い合わせが悪いものもあるだろう。副作用があるものもあるだろう。知ったことではない。腹の奥に火が熾り、目がちかちかする。
「早く逃げろ!」
妖怪が男に襲いかかる。魔理沙は遮るように男の前に飛び込み、星屑の弾幕を展開する。
以前よりも少しだけ力強く、でもまだ頼りない。妖怪の接近を容易に許し力任せに吹き飛ばされ地面を転がる。傷口がまた広がり、腹が生暖かく湿る。
それでも男を逃がすため、背中で地面を舐めながら妖怪目掛けて魔法を撃ち込む。
微かな痛痒を与えられるかも疑わしい威力。しかし妖怪は咄嗟に飛び避け、男の目の前に道が出来た。
「走れ! 私が守るから!」
男は僅かに逡巡し、魔理沙を見、そして走った。
それは全く逆。神社の方向だった。
*** *** *** *** *** *** ***
夜の静けさが音を立てて消え去った。風が苛立ち、木々がざわめいていた。
こんな夜中に出歩く奴は食われても文句は言えまい、そう思えるほどに空気が五月蠅く、不穏に対流する。
月は薄情な光を投げかけ神社を覗く。まるでこれから起こることを楽しみにしているように。
嫌な予感――というやつだ。
的中率は極めて高いと自負しているが、外れて欲しいものでもある。魔理沙が怪我をしていることに気付いてしまった今となっては尚更だ。
「巫女、さん」
先程のショックが未だ抜けぬまま、縁側で酷薄そうな月と睨めっこしていると、ふらふらとした足取りの男が姿を現した。
頬を伝ってぽたりぽたりと地面に滴り落ちているのは、頭から流れ出ている血だ。私の姿が見えていないのか、きょろきょろと何かを探すように頭を振ると、その度に血の飛沫を薄闇に散らしている。
声が出なかった。声のかけ方がわからなかった。男の様子は壊れかけの玩具みたいで薄ら寒さすら感じる。人間が壊れかけている、そんな様子だった。
嫌な予感が、具体的な形へと姿を変えようとしていた。
「巫女、さん」
男は何もないところで躓き、受け身も取れずに転倒した。
「助けてく、ださい」
「ちょ、ちょっと……大丈夫?」
「助け、てください」
駆け寄って抱き起こす。止血しようとしたが手元に清潔な布などない。男の踵を引き摺りながら縁側まで運ぶ。動かすと痛みが走るのか、小さく呻きながら「助けてください助けてください」と繰り返す。意識が朦朧としているのは焦点の定まらない目を見ればわかった。いつ気を失ってもおかしくない。いや、いっそ気を失った方が楽なはずだ。にもかかわらず意識を手放すまいと必死にしがみついているように見えた。
戸棚から救急箱を取り出し、擦り傷や痣になっている部分に手当たり次第消毒薬をぶちまけ、脱脂綿で拭き取り包帯を巻いていく。鋭い切り傷のせいで出血は多いがそう酷い怪我ではない。心配なのは外傷ではなく身体の内側、脳の損傷だ。
「今助けるから喋らないで!」
「助けて……魔法使い、さんを、助けて」
手が止まった。聞き間違いかとも思った。
男は譫言のように同じことを繰り返す。魔法使いさんを助けて。魔法使いさんを助けて。
それはまるで呪詛の呟きのように。私の心を冷たい手で無遠慮に掻き混ぜ、沈殿している恐怖を引き摺りだした。
「ちょっと、待ってよ……そ、それって魔理沙のこと?」
「……殺される、かもしれない」
なぜ気付かなかった博麗霊夢。お前の目は節穴か。お前の頭には藁でも詰まっているのか。
考えればわかることだった。どうしてこんな夜中に里の人が参拝をしているのだ。こんなこと過去に一度たりとも無かったではないか。
魔理沙が賽銭を入れているんじゃない。魔理沙が賽銭を入れるよう働きかけているんだ。
そして、なぜ、男はこんなにも傷ついているのだ。簡単だ。魔理沙が、男を護衛しきれなかったからしか考えられないじゃないか。それがどんな切迫した状況なのか、もはや考えるまでもない。
「ど、どこよ? 魔理沙はどこなの?」
「助けて、ください……」
「助けるわよ! だからどこなの!」
「魔法使いさんを」
「わかったから早く言いなさい! 私が絶対に助けるから!」
「殺される、かも……」
男はとっくに意識を失っているのかもしれない。受け答えがもうめちゃくちゃだ。
男を引っ叩こうと手が振り上がった。勢いよく振り下ろした手は畳を打ち付けた。ぎりぎりのところで理性が働いてくれた。しかし子供の癇癪のような金切り声は止めることはできなかった。魔理沙はどこだ。どっちの方角にいるか教えろ。狂ったように同じことを繰り返す男に、狂ったように同じことを私は繰り返した。冷静などではいられなかった。
男の目が閉じる。
その間際。
「あっち……」
力無く指を指し、男はとうとう気絶し動かなくなった。
「あっちって……あんたが来た逆方向じゃない!」
外へ飛び出て方向を確認する。指差した方向は結界の外側だった。てんで出鱈目の方向だ。男に対して口汚く罵りの言葉をぶつける。
わかってる。最低なことをしていることは。それでもやり場のない激情をぶつける対象が何もなかった。きっと男は、ただ魔理沙の身を案じ、それだけの為に傷つきながらここに至る獣道を走ってきたのだろう。傷ついた身体を引き摺って私に助けと求めたのだろう。「助けてくれ」という言葉は傷ついた自分のことではなく、危険な目に遭っている魔理沙を助けてくれという意味なのだろう。
度し難い程のお人好しがいたものだ。
それでもだ。それでも私は男に罵声を浴びせたい思いが胸中で荒れ狂う。
「どこに行けば良いのよッ!」
神社の上を闇雲に旋回した。僅かな光も見逃すまいと目を凝らし、微かな物音も聞き逃すまいと耳をそばだて、しかし魔理沙の気配を微塵も感じ取れず、焦りのあまりにベソをかいた。
こんな時だけ勘の働かない自分を呪い殺したくなった。
もっと早くに気づけたはずなのに。魔理沙が怪我をしていたのを知っていたはずなのに。
邪魔臭い涙を拭う。人はどうしようもない場面に直面すると空を見上げてしまう。それは涙が出ないようにするためかもしれない。
空には、嘲笑うような月があった。そしてその中に――。
人はどうしようもない場面に直面すると空を見上げてしまう。それは、そこに救いの手を差し伸べてくれる存在があるかもしれないからだ。
自分勝手な連中が跋扈する幻想郷に、呆れるほどの世話焼きが、泣きたくなるほどのお人好しが、二人もいたことは奇跡としか言いようがなかった。
昼間、私が放り投げた上海人形が月の中に佇んでいた。
声なき咆吼、ウォークライ。上海人形は微弱な魔力を私へ飛ばす。
ついてこい、と。
その先に魔理沙がいるのだと確信して、私はそれを追っていく。
唇が震えていた。
ぐちゃぐちゃに掻き立てられた恐怖が背中に冷たく張り付いていた。
あの魔理沙が死ぬわけはない。殺しても死なないような活力の塊が、そこらの妖怪に襲われて命を落とすなんてことはあるはずがないんだ。
魔理沙がチルノを避けたのは、弱っていたからなんかじゃない。
魔理沙の逃げ足が遅かったのは、弱っていたからなんかじゃない。
きっと何が事情が……。
――気付いているんじゃないか博麗霊夢。そうだ、魔理沙は弱っている。
違う。魔理沙は弱くなんかならない。
魔理沙は努力家なんだ。自分では隠しているつもりだろうけど皆知っている。
捻くれてるけど真っ直ぐで。からかうとすぐムキになって。馬鹿で。お調子者で。単純で。不器用で。
――そんな弱っている魔理沙を見て見ぬ振りをして、自分のために賽銭を入れているのを内心で喜んでいた。
「ああああああぁぁぁぁッ!」
信仰心なんて本当はいらなかった。守矢神社への愚かしい見栄でしかなかった。
ただ魔理沙とお茶を飲んで、日向ぼっこしている毎日で良かった。時々妖怪退治の依頼を受けて、その報酬で慎ましく生きていくだけで私は良かった。
酒の席とは言えなんてくだらないことを言ったのだろう。この数日間の、魔理沙のいない生活の味気なさ。無味乾燥とした日常。
もし、魔理沙が死んで、こんな毎日が死ぬまで続いたら――。
カチカチと歯がなった。寒くて寒くて震えが止まらない。
やがて小く瞬く光が見えた。薄ぼんやりとした光は徐々に星形の輪郭をなぞっていく。それが魔理沙の魔法であると理性の部分で認めるも、しかし別の部分で否定する。見る影もないほどに、何もかもが違っていた。
速さも密度も間隔もキレも。精彩を欠くなんてものではなく、まるで別人の弾幕だった。
しかも妖怪は三人組になって魔理沙へ襲いかかっている。
目に見えなかった不安が、秒読みの絶望へと塗り替えられる。
きっと、賽銭が増え始めた日から魔理沙は今のように傷つき、戦っていたのだ。酒の席での私の発言を真に受け、弱った身体に鞭を打って、里の人達を妖怪から守っていたのだ。僅かの賽銭を入れて貰うためだけに。
馬鹿だから。単純だから。不器用だから。真っ直ぐだから。私がそれで喜ぶと信じて。
「魔理沙ッ!」
声の届く距離ではない。
魔理沙はミニ八卦路を取り出し魔力を込めるのに必死だった。
一瞬だけ、光が八卦路に凝縮されたあと、ぽすんと情けない音を立てて光は儚く霧散した。
私は見た。悔しそうな魔理沙の顔。厭らしく嗤う妖怪どもの顔。禍々しく煌めいた鋭い爪。魔理沙の頭部目掛けて振り下ろされる腕。
血飛沫を置き去りにして、魔理沙は闇の中へ落ちて、
「いやああああああッ!」
絶叫していた。喉から血が出るかと思った。
四肢を力無く投げ出して魔理沙が落ちていく。
この下は森か林か。沼地か池か。池ならば底は浅いのか。沼なら衝撃はどれくらいなのだ。木の枝に引っ掛かる可能性はどれくらいだ。
くだらない思考を漂白させる。可能性なんてない。普通に考えればわかる。馬鹿でもわかる。
この高さから落ちれば、死ぬ。
速く。魔理沙を受け止めるために、今よりもなお速く。間に合わないなんて嘘だ。助けられないなんて巫女じゃない。
魔理沙の帽子が主を見捨てたように空へ舞い、脇を通り過ぎた。裏切り者や敵だらけだった。味方など誰もいなかった。
重力の魔の手はこんなにも強く、真っ黒い地表は岩肌を剥き出しにして魔理沙を待っている。
そして空を飛ぶことしか能がない私は、こんなにも飛ぶのが遅かった。
――ああ、間に合わない。
意思とは関係なく涙が溢れた。一杯にまで伸ばした指先の感覚が消失した。魔理沙の明確な死の予感が脳裏を過ぎり、慟哭している自分の情けない姿が浮かんできた。
幽々子、映姫、永琳、蓬莱の薬。魔理沙の死後に、それでも魔理沙を救えるモノがあるだろうか。無理だ。誰も助けてはくれない。
「ああああぁぁぁぁッ!」
自分の口からは狂ったような声。もう地面が目と鼻の先だった。
もうどうしようもない。魔理沙の死を見るくらいなら、自分の目を潰してしまえと指先が引き攣った。
そうやって狂ってしまえばどれだけ楽だろう。それでも諦めきれずに目一杯指先を伸ばすのは、まだ奇跡を信じているからか。
――誰か魔理沙を助けてください。
刹那。魔理沙の身体が、僅か重力に逆らった。
がくりと揺れて落下速度が落ちる。指先に魔理沙の服が引っ掛かる。
「まりさ――ッ!」
魔理沙の身体に腕が絡みついていた。地面に潰されるよりも早く、抱き留めていた。
歯の根が合わなかった。もう動きたくなかった。呼吸するのも辛かった。
胸の中に魔理沙の命の質量が、確かにあった。
「ぐずッ……良、がっだ……」
魔理沙を強く抱きしめた。流れる涙が安堵のものに変わっていく。
魔理沙の額からは血が流れ、癖のある金色の髪を紅に染めている。白いブラウスと前掛けは赤黒く、黒い装束は至る所が切れていた。腕や足に巻かれた包帯からは血が滲んでいる。元々満身創痍だったのだろう。弱っていたのだろう。辛かったのだろう。
魔理沙がどれほどのことをしたというのか。ただ里の人を神社へ送り届けようとしただけではないか。なぜ血を流さなければならない。なぜ死ぬような目に遭わなければならない。なぜ。どうして。誰が悪い。どうしてこんな思いをしなければならない。
あらゆる感情が涙となって外に出て行くと、最後に残ったのは、妖怪への抑えきれない憎悪だけだった。
「―――、―る」
口から零れた怨嗟の声は誰のものなのか。
妖怪が人間を襲うのは自然なことだ。幻想郷では摂理と言ってもいい。私の目の届かない場所でなら、妖怪が人間を捕食しようが、嬲り殺そうが、どうでも良い。関知しようとも思わない。いつかアリスが言った、他人には興味がないからという言葉、その通りなのかもしれない。そうだ。私は人間にも妖怪にも興味などない。
しかし、だ。
今思った。今決めた。今誓った。
私の目の届かない場所で、魔理沙が妖怪に襲われ、その挙げ句に殺されたとしたら、私はその妖怪を――、
「殺して、やる」
幻想郷の果てに逃げたのなら、果てまで追って。外に逃げたのなら、結界を壊してでも追って。泣いて詫び、自殺したとしたら、血の池地獄の中まで追って、私はそいつを殺してしまおう。
魔理沙をこんな目に遭わせた奴らを見上げ、後悔した。その姿が網膜に焼き付いてしまった。
月光を浴びて紺色に輝いている長い髪。背中から生えている羽毛に覆われた羽。斑模様の黒と茶色の服。梟のような見たこともない妖怪達。
私はこれから一生、紺色の髪の毛を見る度に不快になるだろう。羽毛を見ると不機嫌になるだろう。斑模様の服を持っていたら焼き捨ててしまおう。梟避けの呪符を神社の周りに貼ろう。
気を失っている魔理沙を静かに横たえ、私は立ち上がった。自分がこれから何をするのかもわからない。ただ、あの梟みたいな妖怪の泣く声を聞くことでしか、この噛み締める奥歯の痛みが消えることはない気がする。
「ひッ……な、なによ……」
今更、自らの危機に気付いたのか。妖怪達は私を見て情けない声を洩らした。
救いがたい愚鈍さ。どうしようもない愚図。
その愚かさゆえ、魔理沙を傷つけて良い人間なのか悪い人間なのかも区別できないのだ。愚昧な頭で生き続けることは害悪でしかない。また懲りずに魔理沙を傷つけるだろう。
アア――ならば。私があれを消してしまった方が良い。
「そこ、動くな」
魔理沙を潰そうとした地面すら憎くらしく思う。
激しく蹴りつけて飛び立ったその時、魔理沙の背中の下から上海人形が飛び出て、私と妖怪の間を両手を広げて遮った。
「アリス、何のつもり?」
邪魔な上海人形を避けると、すぐに私の前へ移動して行く手を阻む。
そうこうしている間に妖怪達は逃げていった。
「ちょっと! 邪魔よ!」
うろちょろ目の前を飛んでいる上海人形を掴む。
ぽろり、と上海人形の右腕が落ちた。
よく見ると、左腕も千切れかけ、足は可動範囲を超えて折れ曲がり、胴体からは腸のように白い綿が飛び出ていた。
覚束ない足取りでやってきた男のことを思い出す。あんな状態で妖怪から逃げられるはずがない。
きっと……いや、間違いなく。アリスが上海人形を操ってあの男を守ったのだろう。大切な人形をここまでぼろぼろにしてまで。
そして魔理沙の急な減速もまた、上海人形が身を犠牲にして行った奇跡だったのだろう。
冷静さが戻ってくる。情けなさも込み上げてくる。目の奥が熱くなる。
「……ごめん」
ごめんね。
よくわからないけど、また涙が出てきた。
*
その後すぐに、アリスが息を切らせて飛んできて、魔理沙の傍らでめそめそ泣いている私にドロップキックをかまし「魔理沙は私の家で治療しておくから、貴方はさっさと戻って里の人の治療しなさい!」と指示を出した。
世界の終焉を迎えるように何をすればい良いのかわからず座り込んでいた私は、人形使いの人形になって盲目的にアリスの指示に従った。「大丈夫よ、魔理沙の傷は大したこと無いわ」という言葉が混線していた頭の神経を幾分か正常にしてくれた。
翌朝、意識を戻した男の人は、しきりに魔理沙の心配をしていたが、大事ないと話してやると安心て里へ帰っていった。
男を途中まで送ったその足で、すぐにアリスの家へ向かった。
勝手に居間へ入ると、ソファーに座って上海人形を縫っているアリスが顔だけ向けて「落ち着いた?」と迎えてくれた。魔理沙と上海人形の治療で徹夜明けなのだろう、目の下にはクマができている。
しかし穏やかな目だ。それだけで魔理沙の無事が確認できた。
「ごめん」
何を言って良いのかわからず、とりあえず絞り出せたのはその一言だった。
「別に謝ることはないわよ。魔理沙を助けたのは私の意思だしね」
「でも……」
「じゃあ、取り乱した貴方を見られたというのは貴重な経験だったわ。それでチャラにしてあげる」
「ごめん」
「それで、もう落ち着いたの?」
「なによ、最初から落ち着いてるわよ」
なんて軽口を言ってみる。軽口が言える程度には落ち着いたようだ、と自分で思った。
「よく言うわ。完ッ全にキレてたくせに。目が据わってるってどころの話じゃない、悪魔に取り憑かれて破壊衝動に飲み込まれたのかと思ったくらい。私怨による妖怪退治は、楽園の素敵な巫女の守備範囲ではないわ」
「う……」
巫女のくせに巫女のくせに、とアリスは言った。
「でも安心したわ。貴方の不自然なまでの公平さは、見てて危ういから」
「危うい?」
「目を離した隙にどこかに消えてしまうような……ふとした弾みでいなくなってしまうような……なんて言うんだろう。何事にも固執しないから、何の未練もなく消えてしまう。神社に妖怪が集まるのは、そんな杞憂を抱いて貴方の様子を見に来ているのかもね」
「そんなまさか」
「ま、心の機微に疎い貴方にはわからないことでしょうね」
まるで自分が聡いような言い方だ。少し前までは自分だって他人に無関心だったというのに。
「だから安心したの。少なくとも魔理沙がいれば貴方は消えてしまわない。このまま魔理沙が弱ったままだと……貴方はずっと魔理沙の側にいるのかしら」
「守られてる魔理沙なんて想像も付かないわよ。本人も納得なんてしないでしょうし……そういえば、なんで魔理沙は弱くなったのかな」
「魔法使いが……というよりは魔女が魔力を失う例ってのは幾つかある。その一つが涙を流すこと」
「泣くと弱くなるってこと?」
「いいえ、涙といっても色々よ。嬉し涙、悔し涙、怒りで涙を流すこともあれば欠伸して流すこともある。その中でも魔女は自分を否定する涙で魔力を失うの。多くは自分の研究や魔力そのものの否定が魔力の喪失に繋がるんだけど、魔理沙の場合は……まぁ、そのまんまよ。たぶん"符"の通りだわ」
恋符。
「涙を流したんでしょうね」
「うー……」
「誰かさんは応えてあげるのかしら? 応えてあげるんでしょうねぇ。号泣して魔理沙魔理沙って狼狽してたんだから」
「そ、そんなこと! そりゃ……まぁ、あのときは……」
「好きなんでしょ?」
「うー……」
「恩人である私に素直に言ってみなさい?」
「うぅー…………」
「本当は魔理沙のこと大好きなんでしょ? あんなことやこんなことしたいんでしょ?」
「うっさい! 違うわよッ! ただ……ずっと一緒にいたいと思っただけよ……」
魔理沙がいなくなる。そんな考えが頭を掠めたとき、私は全力でそれを拒絶した。
いなくなって欲しくない。ましてや、それが死別だなんて許されることではない。ただそれだけを強く思った。
「プロポーズ……やるわね」
「――ッ!」
今のアリスには何を言ってもからかわれるだけだった。
必死に話題転換を探し当てる。
「と、ところで! どうしてあんな良いタイミングで現れたのよ!」
「ぎくぅ」
「なにその擬態語。大体おかしいのよあの見計らったようなタイミング」
そう、まるで、どっかで一部始終を見ていたような――。
「あ……ああ! あんた、もしかして」
「……ふしゅー、ぷしゅー、ピー」
「口笛を吹いて誤魔化そうたってそうはいかないわよ。しかも吹けてないし。ちょっとこっち見なさい。あんた、私が……その、見てた?」
参拝客が魔理沙ではなくて、失意に沈む足取り。呆然と縁側に座り込んで、うっすらと涙を浮かべていた情けない姿。
「な、なんのことかしら?」
見ていやがったな……。
「い、良いじゃない! そのお陰で里の人間が守られて魔理沙の位置も教えられたんだから!」
「開き直ってんじゃないわよ……大体、最初からあんたが出てればあんなことはならなかったんじゃないの」
「上海を操って戦闘したまま飛ぶなんて限度があるわよ。しかも二人相手にするとなると尚更」
「強かったの?」
「ううん全然。上海の狭い視点での遠隔操作じゃなかったら三秒で撃退できる程度。だから正直なところ、魔理沙の様子を見たときは私も驚いたわ。一対一でもぎりぎりだったのに途中から一対三だもの。よく貴方が行くまで持ち堪えたものよ。ただ……」
少しだけアリスの顔が険しくなった。
「服用しすぎたみたいね」
「……やばい薬?」
「ええ……やばいわ。これ、魔理沙のポケットに入っていたんだけど」
と言って小さな丸薬を取り出した。毒々しい色を帯びている。
こんなもの飲んで魔理沙は戦っていたのか。
「魔理沙の内臓はね、もうずたずたよ」
「……そんな」
「これ消費期限切れてるわ」
「…………」
「間違いなく下痢ね」
その心配は別にいいや。
「ああそれと、これ貴方がチルノに売ったっていうお守り? 魔理沙の頭部が軽傷で済んだのはこの氷のおかげね。帽子のリボンの裏に潜ませてあったわ」
「うちって御利益あるのね……」
「縁結びが何を言うか。交通安全に書き換えなさい」
「そんなことより魔理沙の魔力って戻るの?」
「そうね、戻るわ」
アリスは飴玉を一つ取り出して私に放り投げた。
「これは?」
「貴方が約束を守れば、ね。それはこの前買った飴」
「どういう意味よ」
「さーて、私はそろそろ寝るわ。流石に疲れたもの」
うーんと伸びをしてアリスはソファーの上で横になった。
私の質問に答える気はないらしい。
「カラ、コロ、ほむ……レモン味」
すぐにアリスは規則的な寝息を立て始めた。
それと同時に慌ただしい音。蹴立てるようにドアが開けられ、頭に包帯を巻いた魔理沙が元気に飛び出してきた。
「大変だッ! 生きてる! 私生きてるぜ!」
いつも通りの元気な姿に、なぜか鼻の奥がツンとした。
らしくない。いつから私はこんなに泣き虫になったのか。レモンの酸味のせいだ。
「あ、霊夢、元気だったか?」
「それは私の台詞よ……死に損ない」
「お、おい、なんだよ、泣くなよ……」
「うるさい泣いてないわよ」
全身の力が抜けて、私はぺたんと尻を付いて座り込んでしまった。
「な、なぁほら、泣くなって」
「うるさい泣いてないってば」
魔理沙が近付いてきて私の目元を拭う。顔を見られるのが恥ずかしかった。少し薬品の匂いがする魔理沙のお腹に顔を埋めた。
魔理沙は驚いたように硬直していたが、少しすると私の頭を撫でた。頭を撫でられると、こんなにも安らぐとは知らなかった。
「これでおあいこだぜ」
「……何がよ」
「泣いた数」
何がおあいこだ。こうして涙が勝手に出るのはもう何度目かもわからない。
「……あんま心配かけないでよね」
「悪いな」
「本当は、賽銭なんていらないんだから」
「なんのことだ? 意味がわからないぜ」
この期に及んで魔理沙は誤魔化した。もう私がすべて知っていることを魔理沙も知っているだろう。
それでも誤魔化すのが魔理沙らしく、そして、それをからかうのが私らしい。
「アリスが言っていたけど、あんたのお腹は大変らしいわよ。変な薬のせいで」
「……道理でな」
「流動食しか食べちゃダメだってさ」
「そいつはきついぜ」
「でも、飴なら食べられるんじゃない?」
がばっと顔を上げ、唇を突き出す。
「あげゆ」
唇の間に飴玉。
魔理沙の顔が面白いように赤くなり、
――――ちゅ、と。
何か。
柔らかく。
「……え?」
「……霊夢の味がするぜ」
目の前に、はにかんで笑う魔理沙の赤い顔。膨らんだ頬からカラコロと音がする。
「か、返しなさいよ! 一個しかないの!」
「んーーーーッ!?」
魔理沙の唇の奥から、強引に飴玉を取り出してやった。
やっぱり魔理沙の唇は甘く、レモンの味がした。
上海人形はしっかりと私達の方を向き、アリスは顔を真っ赤にして寝続けていた。
<了>
嫌な予感はしていた。
博麗霊夢が持って生まれた鋭さなのか、巫女としての素養なのかはわからないが、嫌な予感の的中率は極めて高いと自負している。
アリスが食事会を開くと言い出したときに感じた不安は、私がアリスの家に向かっている途中に土砂降りとなって具現した。雨宿りできる場所を探そうと思ったが、ものの数秒で全身はずぶ濡れになり、その意味もなくなる。
食事会など慣れないことをするから雨が降るのだ。
理不尽な怒りを手土産に、私は川から上がったばかりの紅白の河童となってアリスの家へ強襲した。
「今日は布団を干しちゃいけない日だってことを身体を張って確かめてきたわ。他でもないアリスのために」
「……悪かったわよ。まさか今日に限って雨が降るなんて思わなかったもの。ほらそんな怖い顔しない。さ、入って。お菓子あげるから」
水を吸って重たくなったスカートの裾を絞ると滝のように水が落ち、玄関の中に水溜まりができた。
「ちょ、やめて、今タオル持ってくるから絞らないで」
「うー、冷たーい」
「着替えは……持ってきているわけないわよね。私の服を貸してあげるからそれで我慢して」
寝室に通され、クローゼットから取り出された服をアリスから受け取る。まあ、なんて、可愛らしい、服なのだろう。これを着ろってか。
黒いワンピースを基調とし、襟元から伸びたリボンが幾つも編み重なって胸元を装飾している。これなら胸の大きさによって魅力を損なうことは無いだろう。貧乳の多い幻想郷への素晴らしくかつ余計な配慮が、リボンと一緒に編み込まれている。短めのスカートに白い七段フリルのエプロンが眩しく輝き、首周りからスカートまで伸びたレースの縁取りがメイド服を思わせた。咲夜と魔理沙の服装を足して割ったような服。
「アリスって少女趣味よねぇ……」
「否定はしないわ」
「ま、着られるなら何でもいいけど」
濡れたままよりかは異世界の戦闘装束や楽園のメルヘン装束の方がよっぽど良い。
肌に張り付いていた巫女服を剥がすように脱ぎ捨てる。べちゃりと音を立てて床を湿らすのを見てアリスは眉をひそめた。文句の一つでも言われるかと思ったが、なぜか私を見るなり言葉を飲み込み、予想とは違ったことをおずおずと尋ねてきた。
「あの……霊夢って下着つけないの?」
「つけてるじゃない。あー下着もびちょびちょだ、アリス悪いけど下着も貸して」
「霊夢、それは下着じゃないわ。サラシと言うの。私は、その……こういうのしか持ってないけど」
と言って、アリスは胸元を軽くはだけさせ、白い肩に走るブラジャーの肩紐を私に見せた。
「じゃあいいや」
「ええッ!」
「そんなことよりさ、コレ、どうやって、着るの、よぉ、うぐぐ……ッ」
私の唯一知っている服の着方は、一番大きそうな穴にズボッと頭を突っ込み、ギュッと引っ張って、スポンと頭を出すものだ。しかしこの服には普遍的な着方は通用しないらしく、スカートに頭を捻り込むとウエストの関所がここは通さんと全力で行く手を阻む。
「もうなんて手のかかる子……ちょっと、ちょっと動かないで、無理に着ないで、おい無理に着るなってッ!」
みちみちと不穏な音を立てていたドレスを横から奪い取られる。
アリスが背中の紐を緩めると隠れていたファスナーが顔を出し、そこからぱっくりと蝉の抜け殻みたく縦に割れた。これをどうやって一人で着るのか理解不能である。
アリスに言われるがまま、手を広げたり万歳したりしているといつの間にかドレスが私の身を包んでいた。人形を扱う手際もさることながら、人間への着せ替えも職人の技。誰かで練習しているのかもしれない。
「うーん、それにしても見違えたわね。霊夢って……実は美人なのよね。大人しく座ってれば清楚な感じもするし。好きになっちゃいそう」
「何を言ってるのよ……」
むず痒くなるようなことを真顔で言い放ち、考え込むように顎に手をあてたアリスは、私の頭から爪先まで舐めるように見る。その目に仄かな熱を感じるのは気のせいだろうか。
嫌な予感がちらつき、気取られぬよう後退った。
「ちょっと、ちょっとこっち来て。髪の毛を弄らせて。ちょっとだから、ちょっと」
ちょっと怖い。
何かを言うまでもなく鏡台の前に座らされ、髪留めなどを外したまっさらな状態の髪をアリスが握る。鏡越しにちらりと見えた櫛を持つアリスの双眸は、喉が痛いと言っているのにも拘わらず体温計を肛門に突き刺そうとする永琳のそれに近いモノを感じた。
かなり怖い。
「霊夢って普段から手入れしてる?」
「特にしてないけど」
「……反則よね。よく見ればすっごい艶よ貴方の髪。櫛が抵抗なく滑っていく」
「巫女臭とかする?」
「うわッ、梳くとストレートになるわ! ふやけたパスタみたい」
もっと他に良い喩えがなかったのか。
しばらくアリスに撫でられ続ける。最後にカチューシャを乗せられ、これで人形ごっこが終わるだろうと思いきや、興が乗ってきたアリスは「化粧させて、ちょっと、ちょっとで良いから」と言い出した。新聞を勧誘する天狗と言い方がそっくりだったので、断ると面倒なことになると思い、好きにしてくれと言うと、嬉々とした表情で引き出しから化粧箱を持ってきた。
*
空は相変わらず薄暗く、まだ来ぬ魔理沙に恨みでもあるのか、大粒の雨を打ち続ける。
ああ、そういえば魔理沙は雨女だったか。また懲りずに天人の物品を盗みに行ったのだろう。私が濡れて、こんな服を着ているのも魔理沙のせいかもしれない。魔理沙許すまじ。
テーブルに頬杖を突いて窓の雨滴を数えていると、灰色の雲よりもなお黒い格好をした霧雨魔理沙が箒に跨って飛んでくるのが見えた。こんな雨の中でも色褪せることのない蜂蜜色の髪に、やたらと大きなとんがり帽子が乗せられ、白いリボンと白いエプロンが重たそうに雨風になびいている。傘は最初から差す気がないのだろう。馬鹿だった。
「きたきた」
「きっとアリスの期待しているような反応はないわよ」
「それはすぐにわかることよ。やることは、わかってるわね?」
私の後ろでしつこく髪の毛を弄り、匂いを嗅いだりしていたアリスは、魔理沙を出迎えに玄関へ向かう。
化粧を終えたアリスは賭けを持ち出してきた。魔理沙が私を見て照れたらアリスの勝ち、照れなければ私の勝ち。
なぜ魔理沙が私を見て照れるのか。アリス邸での一週間無料お食事券は頂いたも同然である。
ドアの向こうから聞こえる二人のやりとりを聞きながらほくそ笑む。
「まいったぜ、雨が降ってたんだから濡れるしかないよな」
「貴方馬鹿なの? なんで傘を差さないの? スカート絞らないでよ!」
「着替えくれよ」
「貴方の替えの服がすでに三着も残ってるわよ……いい加減貸した服返してよね……」
アリスも苦労してるんだなあ。魔理沙は私と違って色々面倒だからなあ。
などと彼女の心労を慮っているとドアが開いた。
「いつか返すって言ってるだ――あん?」
空飛ぶ水棲生物と化したずぶ濡れの魔理沙と目が合う。
アリスから言われていたのは『にっこりと微笑んで挨拶をすること』だけであった。
想像する。
『今日は霊夢のためにお賽銭を沢山持ってきたぜ』と風呂敷一杯のお賽銭を持ってきた魔理沙。じゃらじゃら景気の良い音が風呂敷からして思わず笑いが零れてしまう。むほ。
「まあ! いらっしゃい、素敵なお賽銭箱はそこ――って違、えと、いらっしゃい私の魔理沙ッ!」
神ですら恋に落ちるであろう必殺の笑顔。迸る巫女臭を和とするのなら、それを彩るこの服は洋。相反する二つが溶け合い、博麗霊夢という麗容を色付かせる。
辺境の森に建つ荒ら屋。そこへ突然吹き込んだ花風に、須臾だけ心を奪われる少女達。目の前の光景は、そんな一枚の絵画。
魔理沙の向こうにいるアリスの赤面がその神秘性と芸術性を物語っている。
「あ――あ……?」
帽子のつばから小さな雨を降らせ、魔理沙が凍る。
ああ、本当はわかっていた。すべってるんでしょ、私……。
この場に流れたのは花風ではなく気まずい空気だけだった。私はアリスを許さない。絶対に許さない。
「ぁ、こんちゎ……」
ちょこんと首から上だけを動かして挨拶する魔理沙の不思議な動作に、後ろにいたアリスが口を押さえて、小刻みに肩を震わせた。
私も予想を裏切る不可思議な魔理沙の反応に、クッと顔を背けて噴き出すのを堪える。お茶を含んでいたらアウトだった。
「お、おいアリス、私以外にも客がいたのか」
「さ、三人で食事するって……い、言ったじゃない、うぷッ」
「ああ、そうだが、てっきり……いや、霊夢かと」
草食動物が遙か遠くにいる肉食動物を気にするかのように、魔理沙は絶妙なチラ見をこの場でやってみせ、後ろに控えているアリスへ『どうしようどうしよう』と救援信号を送っていた。完全に私が博麗霊夢だと気付いていない態度。よしわかった、それはからかってくれということなのだろう。
席を立ち近付いていくと、魔理沙は赤い顔をして一歩下がり、アリスの胸にぶつかった。まるで逃げ遅れた草食動物。サバンナでは生き残れない。
ぐいぐい魔理沙を前に押し出そうと喜色満面のアリス。一方、おいやめろそこどけ殴るぞと半ば本気で目を吊り上げている魔理沙。こいつらは何をやっているんだ。
「ほら濡れてるわよ、早く着替えなきゃ。それに顔も赤いわ……風邪?」
魔理沙の濡れて冷たくなった手を取り、赤くなった頬に手を伸ばすと、魔理沙は勢いよく私の手を振り払った。
「うわわッ、そうだな、アリス着替えをくれッ! 風邪をひいたかもしれない!」
「……ぷッ、く」
ひくひくと肩を揺らし笑いを噛み殺していたアリスは、もう我慢できないと声を立てて笑い出した。
「な、なんだよ……」
「それ霊夢よ、あはははッ。魔理沙ったら可愛い反応するのね」
「……霊夢?」
赤い顔をした魔理沙がじろじろと顔をのぞき込んでくる。
「えー」とか「うー」とか口をもごもごさせていたが、暫くそのまま魔理沙と見つめ合っていると、魔理沙はぷいっと顔をそらしたのだった。耳まで赤くなっていた。
「き、着替えどこだっけ」
「こっちよ」
アリスは魔理沙の背中を押して寝室へと連れて行く。去り際にこちらを見てにやりと笑った。意味するところは、賭けは私の勝ちね、ってところか。
窓を見ると、そこにはいつもと代わり映えのしない自分の顔が水滴に濡れて映っていた。明確な違いは赤いリボンの代わりにつけられたクリーム色のカチューシャくらい。髪の毛の色が変わったわけでもなく、まして目や鼻が増えたわけでもないというのに、なぜ二人があんな反応するのかがよくわからない。ひょっとしたら自分の見ているものと、二人が見ているものは少し違うのかも知れない、などと思う。
やがて軽快なステップで戻ってきたアリスは私の顔を見るなり深刻な表情になる。
「大変よ。あんなに面白い反応をされるとは思わなかったわ。私の腹筋が割れるかも」
「デコボコの腹筋で大根おろしでも作って頂戴。で、私は何をすれば良いんだっけ? 負けると思ってなかったから聞き流してたわ」
「一つ、晩ご飯で『ふーふー、あーん』すること。二つ、飴玉を口移しする振りをすること。三つ、膝枕」
「なん……ですって……」
なんだ、その、果汁百パーセントの濃縮乙女は。
タチの悪い冗談ね。そうでしょ? え、違う? 本気? おいちょっと待て。
「よ、よお」
なんて最悪のタイミング。
魔理沙が不審な動きをしながら居間へ戻ってきてしまい、理不尽の変更を求める機会を逸してしまう。
「人をからかうなんて悪趣味な奴らだぜ、まったく」
「別にからかってたわけじゃないわよ。着替えが無かったからアリスに服を借りただけ」
「それにしては化粧までしてるじゃないか」
「それは私の戯れよ。ドレス……って程のモノじゃないけど、まぁそれなりにおめかしした方が良いと思って。どう、似合ってない?」
さあ……と魔理沙は肩をすくめてソファーへ腰掛けた。
まずいことになった。とてもまずいことになった。膝枕? ふーふーあーん? 馬鹿な。正気の沙汰ではない。アリスは少女趣味ならば何をしても許されていると思っているふしがある。乙女チックが許されるのは生後十五年までか、生後千年越えてからだ。千年越えたらフリフリの傘を持っていても許されるのが幻想郷。アリスはまだその資格を持っていない。
しかし賭けに負けた手前、そんな抗弁も虚しいだけだろう。もうどうにでもなれだ。
ソファーへ座ろうと移動すると、魔理沙は一人分以上二人分未満のスペースを空けて大袈裟に横へとずれた。怪訝な顔で魔理沙を見ると「な、なんだよ」と小さく鼻を鳴らして顔を逸らした。
なんか、こいつ可愛い、かもしれない。うーん……膝枕やってみようか。
「そうだアリス、耳掻きある?」
恐るべき洞察力で私の意図を正確に読み取ったアリスは、魔理沙に悟られないようにんまりと邪悪に笑って、小さな引き出しから白いフサフサのついた耳掻き棒を取り出し投げてよこした。それを受け取ってソファーへ腰をおろし、私はコテンと魔理沙の膝の上へ頭を落とした。
「のわッ!」
「耳掃除よろしく」
「なんで私が霊夢の耳穴を発掘しなきゃならないんだよ……」
「なによそれくらい良いじゃないの。はいこれ」
耳掻き棒を肩越しに差し出すと、魔理沙はそれを恐る恐る受け取った。
「こ、こういうのはやったことないんだぜ」
「優しくお願いね」
さて、ひとまずこれで膝枕はクリアだろう……と思ったが、はて、魔理沙に膝枕をしてもらうのか、それとも私が魔理沙を膝枕するのか、どちらだったろうか。
面倒なことに気付く。が、魔理沙の左手が頬に添えられて、私の思考はそこで止まった。耳の中へ、様子を窺うようにそろりそろりと耳掻き棒が入ってくる感触があった。
「ど、どうだ?」
「ん……いい」
外耳を優しく愛撫され、背中に言い知れぬ快感が電流となって走った。
耳掻きは命を差し出す行為に近い。ほんの少し魔理沙が力を入れて耳掻き棒を押し込めば、それは容易に鼓膜を破り、内耳を破壊してしまう。無防備な自分を明け渡すというのは途轍もなく怖いことだ。しかし、だからこそ、その接触が心地良くもある。
初めは強張っていた私の身体も徐々に弛緩していくのが感じられた。それと同時に、自分も少し緊張していたのだと気付いて可笑しくなった。目を瞑って魔理沙の寵愛を受ける。
大雑把な魔理沙の手先が、驚くほど繊細に私の耳を通して心をくすぐる。魔理沙の腿の上に置いてある頬が暖かくなる。
「……ん、ぁん」
「おい変な声出すなよ」
「だ、出してないわよ」
「ふ、ふふッ……良いんか? ここが良いんか?」
「……あ、あ、ああぁぁッ」
こちょこちょと優しく突かれて、全身の神経が喜悦の声をあげて蕩けだす。
やばい、涎が魔理沙のスカートに垂れてしまった。
「はぁ、ふぅ……魔理沙、上手ね……反対の耳もお願い」
「ふふ、しょうがない奴だぜ」
身体ごと逆へ向けると、魔理沙と目が合った。白い歯を見せて笑っている。自分も頬が緩んでいるのだろう。頬の筋肉が少しだけぴりぴりとした。
魔理沙の腿の上で頭を揺り動かし、一番柔らかいベストポジションを見つけて目を瞑ると、それを待っていたかのように耳の中に快楽棒が入ってきた。魔理沙の吐息が鼻をくすぐり、妙に甘い匂いにくらっとする。
「魔理沙って、良い匂いするのね」
「――ッ!」
「いたッ」
「へ、変なことを言うな、手元が狂うだろ!」
我が身のためにあまり変なことは言わない方が良いようだ。
チラリと目を開けると、それに気付いた魔理沙は耳掻きを中断して、私の目を瞑らせようと手で覆ってくる。目を瞑るが、すぐに目を開ける。するとまた手を止めて目を覆ってくる。目を開ける。目を瞑らされる。開ける。瞑らされる。
「なにじゃれ合ってるのよ。微笑ましいけど、見てるこっちが恥ずかしくなるわ」
アリスの言葉に私たちの動きがピタリと止まった。いかんいかん。何やってるんだ私は。
起き上がり、未だ硬直している魔理沙から耳掻き棒をむしり取った。
「今度は私がやってあげるわよ」
「え……いや、いや、いいって遠慮しておくって。十分聞こえるから」
「それじゃもっと十分聞こえるように掃除してあげる」
嫌がる魔理沙の頭を引き倒して腿の上に乗っけると、最初はばたばた抵抗し起き上がろうとしていたが、頭突きをくれてやるとぴくぴく痙攣して静かになった。アリスの方を見るとさり気なく親指を立てていたので、これで膝枕はクリアしたのだろう。私の手にかかれば膝枕とて敵ではない。
癖のある金色の髪の毛を掻き分けると小さな耳穴を発見。今宵の耳掻き棒は耳垢に飢えておるわ。
「お、おい、頼むから優しくしてくれよ」
「わかってるわよ、私のスーパーテクで昇天させてあげる」
「絶対変なことするなよ! 絶対だぞ! スーパーなテクはいらないからな!」
黙らっしゃい、と耳の中に耳垢駆除機をぶち込むと「ひぐッ」と声を洩らして、首の後ろを捕まれた子猫のように魔理沙は動かなくなった。
「大物を取り出してあげるから安心しなさい」
ガリゴリゴリ。
「おい霊夢! それは肉だ! にぎゅ! いだだだッ!」
「む……暗くて見えなかったわ」
「やっぱり止めておくぜ、私は日頃から掃除してるからさ……」
しかしそれでは「きゅー」とか言いながら涎を垂らして昇天しかけた私が納得できない。
「わかったわよ。掃除ではなく按摩だと思いなさい」
持ち上がりかけた頭を再度押さえつけ、魔理沙の外耳を耳掻き棒でカリカリと掻いてやると、魔理沙は妙に色っぽい声を出して大人しくなった。
それは先程までの自分と同じ何とも情けない姿。
強張っていた魔理沙の身体からだんだんと力が抜けていくのがわかる。
「気持ちいい?」
「……んー」
空いた手で魔理沙の金色の髪の毛を梳けば、ふわふわの綿毛が滑っていくように指先を抜ける。綺麗な髪ね、と無意識のうちに口から零れた。
本当に綺麗な髪だ。アリスのプラチナの髪よりも深い色合い。豊穣の大地に実る金色の稲穂。生命力に溢れる魔理沙に相応しい色。目を奪われる鮮やかさ。
「さて、私はそろそろ夕食の支度をするかな」
「手伝う?」
「もうほとんど上海達が済ませているわ。今日は鍋にしようと思って。一人じゃ鍋を囲んでも味気ないでしょ?」
「ああ、だから私達を」
台所へ向かうアリスが足を止めて「ぷっ」と吹きだした。
「ふふ。魔理沙の奴、寝てる」
* *
人形達が食卓の上で鍋を建造していく様子は圧巻と言えた。
食卓の真ん中に置かれた鍋の中へ、かつおや昆布などの幻想郷では割と高価な海の幸を豪快に投入して出汁を作り、手に手に携えた醤油や酒などの調味料を迷いなくぶち込み、色取り取りの野菜やキノコなどの森の幸、山の幸、豆腐に練り物、肉類を鍋の横に配置していく。お酒も各種取り揃えており、なにやら得体の知れないアリスの本気が垣間見えた。
今日は私の誕生日なの……と言い出しても不思議ではない。
「鍋奉行はアリスに任せるぜ、私は待ち奉行だからな。霊夢は灰汁取り専門のアク代官ってところか」
「やかまし」
女三人寄れば姦しいとは誰が言ったか。全くその通りである。
鍋と酒には魔力があり、人を饒舌にする。
魔法使いという種族は、どうも自分の知識や研究や武勇伝を自慢したくなるようだった。
例えば、アリスは自分の研究成果を自慢げに語る。
「最近は人形の視覚情報を私に返せるようになったのよ。自律人形に必要なのは視覚情報の処理だけど一歩前進したのは言うまでもないわ。でも二体以上の視覚情報は今の私の頭じゃ処理できないからあまり実戦には使えないのよね。まあ疑似神経回路の生成を考えてみてるけどね」
例えば、魔理沙は自分の妖怪退治の話を聞かせたがる。
「この前さ喧嘩している妖怪がいたんだぜ。しかも夜中、私の家の近くでだよ。『こんな夜更けに喧嘩すんな!』って言って叱ってやったよ。あん? もちろん二対一だったが楽勝だったぜ? 迷惑料としてそいつが着ていた変な服となかなか立派な団扇を頂いてやったよ。今では私のトレジャーだぜ」
それはただの追い剥ぎだ。
そんな益体のない会話で夜が過ぎていった。
「あつつ」
「慌てすぎよ。それともっと野菜も食べなさい。そんなキノコばっかり食べても大きくなるわけじゃないのよ」
「たまたまだぜ。箸を泳がせたらキノコばっかり引っ掛かるんだ」
「霊夢、野菜を食べさせてあげなさいよ」
「おいおい子供扱いするなよ……」
ちらちらとアリスに目配せされて昼の約束を思い出し、なかなかに考えられたシナリオだと感心する。ひょっとしたら、これをさせる為だけに雨の日を選んで夕食に呼び、私を着替えさせて魔理沙の動揺を誘い、"フーフー"をさせる為に鍋という熱い食べ物を用意したのだろうか。だとしたらとんでもない策士である。
煮えたぎる鍋の中で白い小島を作っていた豆腐を自分の器へ取り分ける。豆腐は野菜ではなかった。
軽く頭を振り、今度は白菜を取り分ける。
隣に座っている魔理沙へ横目を向けると、ビクリと身体が跳ねた。
白菜から汁がこぼれ落ちないように器ごと持ち上げ、魔理沙の目の前で「ふーふー」と息吹きかけると、魔理沙はそれの意味することを理解してお酒の入って赤くなっている顔を更に赤くした。
「お、おい、いいって、やめろよ」
吹きかける息で白菜が熱くなるかと思うくらいには、こっちだって恥ずかしい。かなり恥ずかしい。
さっさと食べろ。
「はい、あーん」
「よ、よせよ」
「……ぷ、あはははッ」
アリスといえば魔理沙の真っ赤になっている顔を見てけたけたと笑っている。
意外なことに笑い上戸だった。
「あーん」
「……やめてくれよ」
「あーんッ!」
「……うぅ……ぁ、あーん」
魔理沙よ、なぜ目を強く瞑る。なぜ、ぎゅっとスカートを掴む。なぜ、怯えるように小刻みに震える。
このシチュエーション。これではまるで私が……いや、邪推はすまい。
観念して開けた魔理沙の口は小さく、これではまだ十分に熱を有している白菜が、思わぬ所に接触する可能性があった。
あーん、と言いなが照準を定めて白菜を突き出す。しかし、光に照らされた白い歯と赤い舌が生々しいくらいによく見え、なぜかそれにドキリとしてしまい、その心臓の鼓動が指先に微かな感覚の齟齬をもたらし、箸から白菜がぽろり。
ああ白菜、お前はどこへゆくというのだ。
軟着陸したのは魔理沙の下唇。布団を物干し竿に干すように、ぺたりと白菜が引っ掛かった。
「ぼぁぁおおァァッ!」
「ごめ! はい水!」
「んぐんぐんぐッ!」
よく見れば酒である。
が、そんなことはお構いなしに魔理沙は口の中に酒を含み、下唇を噛むようにして酒に浸した。
「殺す気か!」
「いやホントごめん悪かったわよ。白菜の謀反なの。ちょっと見せて」
魔理沙の頬へ手をあてて親指で下唇をさすると、魔理沙は手を払って「良い! 治った!」と脅威の回復を披露して見せ、再び酒を呷った。
アリスは両手で口を押さえて涙を流していた。その手からはシュコーシュコーと空気が漏れ、指と指の間から白滝がにょろりと顔を出している。
ハイペースで酒を飲んでいた魔理沙は、やがてえっちらおっちら船を漕ぎ出し、テーブルの上へ突っ伏した。
「ちょっと魔理沙、こんなところで寝るんじゃないわよ。帰れなくなるわよ」
「あら、相変わらず雨は降り止まないし、とっくに泊まっていくのかと思っていたわ。上海達に布団も用意させたんだけど」
「悪いわね、なんか」
「別に良いわよ、楽しかったしねー」
アリスは相好を崩し、ふわふわとした口調で言った。
アルコールによって頬が朱に染まったアリスの顔を見て、変わったなあ、と思う。
私の記憶のアリスは、宴会に参加してもどこか遠慮がちに笑い、思い出したようにお酒を飲み、いつの間にか台所にやってきて人数分の肴を作っている、そんな印象しかない。気が利いているようでそうではなく、話を聞くと『味付けが気にくわない』ときたものだ。こうすればもっと美味しくなる、と宴会の最中に料理を教えられたこともある。
求められれば応えるし、無理難題さえ言わなければ大概のことに手を貸してくれる。基本的にアリスはお節介である。しかし、自分から何か行動を起こすとき、それはあくまで自分のためでしかなく、他人のために行動を起こすなんてことはほとんど無かったように思う。
「あんた変わったよね」
「貴方が変わらなすぎるのよ」
「今日みたいに食事を誘ったりするような性格じゃなかった」
「そうかしら」
「鍋だって本当はいつも一人寂しくやっていたんでしょ? この鍋かなり使い込まれているわよ」
「寂しくとは失礼ね。迷い人が複数人やって来たときに振る舞ってるくらいよ。私自身が鍋をするのは宴会以外ないわ」
「なんだ、本当は鍋を突きたかったんだ」
「さて、ね」
私の言葉にアリスは微苦笑した。
「そういう笑い方もしていなかったよね」
「霊夢こそ、そんなに人を見るような人だったかしら」
「勘よ、勘」
「貴方の勘がそう言っているなら、まあ……そうなのでしょうね。自分じゃよくわからないけど」
「へえ」
私の興味津々な視線に気付いて、アリスは肩にかかる毛先をくるくる弄り、一つ息を吐いて話し始める。
「うーん……心情の言語化は苦手なのよ」
それはわかる。心の内を言葉にするのは難しい。
「それに、言ってもたぶん霊夢にはわからないと思うのよね」
「なんでさ」
「だって貴方、基本的に他人に興味ないじゃない。私よりもね。だから私の心の内を説明してもきっと理解できない。ううん、理解はできても実感が伴わない。実感が伴わなければフィクションとしか思えないもの、こういうものはね」
「興味ないって……そんなことはないわよ?」
「それは自覚がないだけ。他人に興味が無いというのは、自分が他人からどう見られるかってことにも興味がないってこと。だから自分のこともよくわかってないのよ貴方は。いつもの貴方と、化粧をしていつもと違う服を着た貴方と、自分でその違いがよくわかってないのがその証拠。他にも、貴方の人妖問わない区別の仕方は率直に言って異質。平等に過ぎる。それは全知全能の神様の精神の域。全知全能の神様が平等だと言われているのは人間や妖怪に興味がないからよ。まあ全知全能の神様なんていないけどね」
「……うーん、馬鹿にされてる?」
「まさか。むしろ私はそれが貴方の美徳だと思うけどね。誰にも真似できない最高のものよ」
そう言ってアリスはからからと笑った。
自分が人で非ずと言われているような気分である。
「でも私はアリスを友人だと思ってるわよ。別に興味がないわけでもないし、その他大勢と同一視してるわけでもない」
「え、嘘……」
「なんで嘘なのよ」
憮然として言うと、アリスは一頻り驚いた後、嬉しそうに微笑んで「ありがとう」なんて言い出した。
そんなことでお礼を言われる筋合いはこれっぽちもない。
「えー……ってことは、変ね……。じゃあ霊夢って好きな人いる?」
「いないけど」
「むむむ、いつか好きな人ができると思う?」
「想像つかないわね」
「ならどんな人なら好きになるの」
「そうねー……賽銭を沢山入れてくれる人かな」
話しにオチをつけたつもりだったが、アリスは「おかしいなぁ」と言って考え込んでしまった。
どうも私は貧乏だと思われているふしがあり、「賽銭を入れていけ」というと「生活費を恵んでいけ」と捉えられることがある。全く酷い話である。
「いや別に生活に貧窮しているわけじゃ」
「ん? ああ、まあそれは、私は全然気にしないわよ」
「え、あ、うん、ありがと……ってだから違うって!」
「さって、そろそろ魔理沙を布団に運びましょうか。こんなところで寝られると片付けも出来ないし」
ダメだこいつ。絶対誤解している。友人宣言は早まったかもしれない。
そんなことを思いながら魔理沙を運ぶ。私が上半身、アリスが下半身を持ち、寝室に敷かれていた布団へ放り投げる。
「あ、寝間着あるから着替えさせておいて。私は片付けてしてくるわ」
「なんで私がそこまで……」
ぶつぶつ文句を言いながらも、私は魔理沙の前で両手を合わせから脱がしていくのだった。
妙に興奮したのは秘密である。
* * *
ふわふわ。
掌を覆う、やけに触り心地の良い感触。
手首から先を動かすと指の間を優しく何かに撫でられる。いつまでも浸していたい温い湯のような。
うっすらと目を開けると、カーテンの隙間から陽光が射していて、部屋の中が淡い色合いになっていた。胸元を見ると魔理沙の頭。
「――なんじゃこりゃッ」
欠伸をしながら周りを見ると、間違いなく自分の布団、自分の領域。であるから、これは魔理沙の越境行為だろう。
一見すれば、私が魔理沙の頭を掻き抱いて、抱き枕のようにして眠っていたようにも見える。
「くー」
私の寝間着の胸元を掴んで寝ている様子は乳飲み子のようだ。心臓がトクンと音を立てたのはありもしない母性を刺激されたからか。
昨日から魔理沙の寝顔ばかり見ている気がする。赤ん坊の寝顔は天使だと言うが、魔理沙にも何か通じるモノを感じた。
「……よく見ればこいつなかなか可愛いのよねぇ」
頬を突いてみると張りのある弾力が人差し指を押し返した。おおう、これは癖になる。何度も突くと流石に何か感じたようで、魔理沙はもぐもぐと何かを咀嚼するかのように口を動かした。
鼻を抓んでみる。暫くすると猫の繰り出すパンチのように右手を動かして私の手を払いのけた。反則的な可愛さだった。
微かに開いた魔理沙の唇から寝息が漏れる。耳掻きのときに感じた魔理沙の甘い吐息を思い出し、口元に顔を近づけてくんと鼻を鳴らしてみた。酒臭いだろうと思っていたが、なぜか甘い匂い。不思議でならない。
ひょっとしたら魔理沙の唇それ自体に何か味があるのではないだろうか。
熟れた果実のように色づいた桃色の口唇はどうだ、今がまさに収穫時だと言わんばかりの糖度ではないのか。
ごくりと喉が波打つ。
ちょっとくらいなら、ちょっとくらいなら、セーフだよね。どれ、いただきま――
「むにゅ……朝から何してるのよぉ……」
そいや! と首を捻って緊急回避。可動範囲の限界を超える危ない動きをして安全地帯へ。
しかし身体までは動かすことはできず、絡み合ったままの私達を見てアリスは動きを止めた。
「ほう、同衾ですか。それも人の家で」
「い、いつの間にか一緒の布団で寝てたのよ。こいつ寝相が悪すぎるわ」
「ふーん。で、なんでそんなイカれた方向に首が曲がってるの?」
「ね、寝違えたのよ……」
あ、そう。とあまり興味の無いような顔でアリスは起き上がり「朝食の支度してくるわ」と言って出て行った。危なかった。朝から何を考えていたんだ私は。実に危ないところだった。
ギリギリのセーフってところだったろう。今ほど自分の首に感謝をしたことはない。
「まったく、美味しそうな奴が悪い!」
とりあえず魔理沙のお腹に踵を落とし、私もアリスの後に続いた。
魔理沙は悪夢にうなされるように呻吟していた。
* * * * * * * *
穀雨の名残も消えた立夏。少しだけ肌寒かった空気に熱が帯び始め、境内は青々とした自然で賑わいを見せる。
日中の麗らかな陽光に、石畳の所々がきらきら光って応え、精一杯に薄暑を主張する。
刹那。神社の横に広がる林の中。木の下闇から清涼な風が吹き込んできて、生まれたての仄かな熱を浚っていった。
しかしその趨勢も、やがては風から熱へ傾き、吹けども吹けども拭えぬ暑さがやってくるだろう。
そんな夏の始まり。
おかしなことが二つ起きた。
一つ目。賽銭異変。
あの食事会の五日後から賽銭の量が劇的に増えた。
陽の高い間は、私は長閑やかな日差しの中でぐーすか瞑想しているので、来客があればすぐにわかる、はずだ。よほど深い瞑想でない限り。
そう考えると参拝客は夜中に来ていることになる。危険な真似をする馬鹿者が里にいたものだ。
とはいえ、
「うふふ」
笑いが止まらん。ありがたく貰っておいて問題はないだろう。
いついかなるときも我が博麗神社は信仰を募集しているのだ。もう守矢神社にあれこれ文句を言われることも無くなるだろうし、乗っ取り計画が再び立案されることも無くなるだろう。守矢の巫女に信仰の量を自慢する日がくるかもしれない。
なぜ急に賽銭の量が増えたのか、なんてことを考えるのは野暮ってものだ。
そんなことを考えると、
「はぁ……」
ほら言わんこっちゃない。浮かれ気分から少し熱の帯びた溜め息が押し出される。
はて、何の溜め息なのかは私にもよくわからない。胸焼けするような実体のない異物感が心臓付近に蟠っていた。
二つ目。氷精異変。
食事会をしてから丁度一週間が過ぎた日だった。
幻想郷で言う日常とは、些細な異変や事件などが織り込み済みのものである。草木も眠る丑三つ時に、ふと夥しい血痕を見つけたとしても、吸血鬼のお嬢様が散歩をしている最中におやつを食べたのか、くらいにしか思われない。それが致死量の血痕だったとしたら、蓬莱人同士の喧嘩でも起きたのかなぁ程度の認識だ。どちらも日常風景の域は出ないだろう。
と私は勝手に思っている。他の連中は知らないけど、私がそうなのだからたぶん同じだろう。きっと。
で。
「ひっく……ひっく……」
鳥居の陰で、チルノがベソをかいていた。
これを異変と呼ばずになんと呼ぶ。アリスの食事会ですら雨が降ったというのに、今度は石つぶてでも降ってくるのか。
あまり関わりたくない気持ちが半分、全く関わりたくない気持ちがもう半分。さてどうしようかと思案に暮れている間にも、息苦しそうに鼻水をすすり、嗚咽に喉を震わせて、チルノはびーびー泣き続ける。さすがにこんな状況を無視すれば、閻魔様があらゆる武装で身を固め、悔悟の棍棒をぶん回しながら飛んできて私をめっためたに殴打するだろう。
溜め息が転がった。妖精は扱いにくい。話を聞いてくれれば良いのだが。
「おーい、暑くて頭やられ……どうしたの、お腹空いたの?」
軽口を飛ばして元気づけてやろうかと思ったが、その泣き顔を見ると本気で泣いているようだったので、唾と一緒に飲み込んだ。
『暑ければ太陽を凍らせれば良いじゃない』と、追い縋る大妖精を振り切り、日輪の輝きを目掛けて飛んでいったチルノの面影はそこにはない。
私の声に気付いたチルノは慌てて目元をごしごしと拭った。
「ふんッ。なんでもないよ!」
「なんでもないならわざわざ神社で泣かないでよ」
「う、うるさい! 泣いてないってば!」
精一杯の虚勢ですといった微妙な剣幕で鼻息を荒くし、「バカ、アホ、頭パッパラパー」と貧弱な語彙で私を散々なじって、チルノはどこかへと飛んでいった。
鳥居の横には沢山の結晶が落ちていた。落涙の氷は儚く石畳に溶けて消えてゆく。もう少し優しい言葉をかければ良かったかもしれない。
が。まあ良しとしよう。僅かばかりの良心の呵責と引き替えに氷精異変を解決したのだ。チルノも元気になっただろう。
そう思っていた次の日、またもやチルノが鳥居の横で半ベソをかいているのを見つけてしまった。これはいよいよ何かある。
昨日のようにびーびー泣きこそしなかったものの、鳥居の陰で膝を抱え、時々思い出したようにこちらを覗いてくる。普段のチルノからは考えられない消極的な行動。
このまま知らんぷりし続けるのは、迷子の子供を見て見ぬ振りをするような居心地の悪さがある。だが、そもそも妖精に、特にチルノに手を差し伸べたところで昨日のように怒って逃げていくのは目に見えていた。
心の中で閻魔様に言い訳しつつ、放っておくことにした。
*
暇なのは構わない。暇を楽しむ方法を私は知っているからだ。
だというのに、暇を持て余していた。風に歌う木々のささめきも、気持ちよさそうに泳ぐ雲の競争も、遊んで欲しそうな顔で此方に伸びてくる影も、何一つ私の心に触れなかった。
何かを待つようにぼんやりと空を見ている時間が増えた。カラスが飛んでいるのを見ると落胆するようにもなった。竹箒を股に挟んでみたりもした。
奇行に走るほどに、こう……人恋しいのかと思ったり。「アリス来ないかなぁ」なんて白々しく呟いてみる。「魔理沙でも、良いけど」なんて言って恥ずかしくなる。
今では鳥居の横にお菓子を幾つか用意してチルノをもてなしていた。ただの酔狂だ。チルノはペロリと平らげた後『もっとくれ』という視線をこちらに向けてくるがそこまでしてあげる義理はない。
最初こそ隠れていたチルノは、いつしかそこらを飛び回るようになっていた。茂みに入って一人で何かしら暇を潰していたり、虫を見つけては冷凍実験などをしていたりして過ごしている。
いくら暇とはいえチルノと遊ぶ気にはならない。
なぜこういう時に限って魔理沙は来ないのか。賽銭の数を数えるにも飽きてきたというのに。
「ま、魔理沙!」
私の心を読んだかのようなタイミングで、不意にチルノが叫んだ。
空を見回す。背の高い木の陰から魔理沙が苦い顔をして飛び出し、チルノと私へ交互に目を向けた。
咄嗟に、私は魔理沙から視線を外しチルノに向けた。チルノは歯を剥き出しにして魔理沙を睨んでいた。
チルノの周囲に生み出される冴え冴えとした氷塊の弾幕。
「悪いなチルノ、今はお前と遊んでられないんだ」
魔理沙はチルノを一瞥すると方向転換して去っていこうする。
「待て、待てぇ!」
それを追いかけようとするチルノの声は尋常ではない。剥き出しの感情を声に乗せて魔理沙の背中を追っていく。
「どうしたって言うのよ二人とも!」
二人を追いかける。
チルノが魔理沙に追い付くはずはない。それはあいつだってわかっているだろうに、無駄と知りながら追いかけていく。
「捕まえたわこの腕白妖精!」
チルノのひんやりした首根っこを掴み上げて動きを制すると、ばたばた腕の中で暴れ始めた。
「離せ、離せぇ!」
「あーうるさいうるさい、いいから大人しくしなさい! どうせもう追いつかないわよ!」
「ぐッ」
チルノが睨む先は小さくなった魔理沙の背中。
魔理沙もチルノを気にしているのだろう、いつもに比べて逃げ足が格段に遅い。
「なんでそんな血相を変えて魔理沙を追いかけたのよ」
「……」
「ま、言いたくないなら良いけどさ。どうせあんたが弾幕勝負を持ちかけて返り討ちにされたってところじゃないの?」
「違う」
「なに、じゃあ魔理沙から一方的に仕掛けられたから、その復讐とか?」
「違う……」
「……ふう」
さっぱり要領を得ない。
「とりあえずあんたが魔理沙に腹を立ててるのはわかったわ。私から何か言ってあげるから――」
「違うッ!」
キッ! と見上げるように私の顔を睨んだチルノの顔は、すぐに眉が情けないほどに垂れ下がり、大粒の涙がぽろぽろと零れ氷の結晶となった。
事態についていけない。何が起きているのかもわからない。状況を把握できないまま「あーよしよし」と頭を撫でると、力一杯お腹にしがみつかれ、へその辺りが痛いくらいに冷たくなった。
が、そんなことよりも「魔理沙に、嫌われたぁ」というチルノのしゃくり上げた声が気にかかった。
* *
紅魔館の近くには、チルノの湖がある。
『チルノの』といっても、チルノの所有地ではなく、ただ彼女が毎日そこで遊んでいるというだけだ。
毎日遊んでいれば場所そのものに愛着が湧くのは自然と言える。愛着が湧けばこそ、そこに自分以外の者を侵入させたくない。分別のある大人ならば、それはただの我が儘として自制の心が働くが、しかしそこは妖精、自分の縄張りは絶対に譲れない。秘密基地と呼べるほど秘境ではないにしても、気心知れた友達だけで遊んでいる分には、そこはチルノにとっては大事な秘密基地なのだ。
だからこそ、時々そこを通って紅魔館へ行く魔法使いが邪魔臭かった。何となく、自分の聖域を汚されているような、そんな気分になった。
チルノが魔理沙に対して攻撃を仕掛けたのは、元々の好戦的な性格に加えそういう理由もあった。
そしてその結果、チルノは敗れに敗れた。
三桁近く黒星がついた頃だろうか、ようやくチルノは『魔理沙なら湖の上空を通っても良い』と思うようになった。勿論攻撃はする。攻撃するけども、まあ湖を通るくらいなら許しても良い。
数日前のことである。紅魔館へ向かう魔理沙を見つけたチルノは、いつも通り出撃した。もうそこに悪意も害意もなく、魔理沙との弾幕ごっこは、湖という公然の秘密基地を共有する仲間としての儀式のようなものだとチルノは思っていた。
だがその日、魔理沙はチルノを拒んだ。初めて拒絶した。
拒むくらいならばマスタースパークの一撃でもって自分を一蹴すれば良いだろう。チルノは弾幕を周囲に展開していく。しかし魔理沙は弾幕ごっこをする素振りを見せない。
チルノは撃つ。応戦するだろうと思った。
魔理沙は何もしなかった。避けようとしたのかもしれないし、最初から避ける気がなかったのかもしれない。チルノにはわからなかった。被弾し、痛みに呻く魔理沙に、チルノは言い知れぬ恐怖を感じていた。怒って欲しい。馬鹿にして欲しい。非力な弾幕だと笑ってくれてもいい。だからそんな、無視はやめてくれ。それはとても怖い。と。
「お前とは遊んでいられない」
「な、なによ……あたいが怖いの? ふ、ふんッ、だったらもう湖に来ないで欲しいものね!」
無論、本心ではない。子供が親に駄々を捏ねるときのように、何でも良いから魔理沙からの反応が欲しかった。
だから、魔理沙がチルノに背を向けて飛び去ろうとしたとき、チルノは恐慌した。
「待ってよ! ちょっと待って!」
ただ引き留めたかった。しかしその術をチルノは知らない。自分の知っている足止めは弾幕だけだ。
計算も思惑も何もない、ただの直線的な弾幕。それすらも魔理沙は避けずに被弾した。
まるで、チルノがそこにいるのに、そこにはいないかのような振る舞い。
チルノは知る。嫌うという行為の発露は無関心だと。
生まれて初めてチルノは必死に考えた。どうすれば魔理沙の目に自分が映るのだろうかと。そしてなぜ嫌われてしまったのだろうかと。
でも自分は考えるのは苦手だ。
魔理沙を探しに行こう。わけを聞こう。きっと博麗神社に来るはずだ。
* * *
チルノから聞いた話は断片的すぎて全く要領の得ないものだった。
幾分、私の脚色が混じっているが、筋の通る物語にしてチルノの最近の行動に説明をつけてみる。
「ふーん。妖精って難儀ね……と思ったけど、それは人間にも言えることか。かえって妖精の方が自分の感情に忠実な分わかりやすいわ」
「頭パッパラパーで何にも考えてないだけじゃないの」
「そうとも言えるけど、すぐに行動できることは凄いことよ。私にはできないし、貴方も異変の兆候に気付いてもできるだけ先延ばしにするでしょう」
「うッ」
久々の来客らしい来客はアリスだった。
会って早々「なんだアリスか」と言ってしまい、ひどくご立腹になってしまわれたので、先日のチルノと魔理沙の騒動について話すことで誤魔化した。
「仲直りできるお守りを売ったらさ、それから来なくなっちゃったし、もう仲直りしたかも」
「売るなそんないかがわしいお守り……。それで、チルノが魔理沙を気にしている理由はわかったけど、どうして魔理沙はチルノを避けてたの?」
「さあ、あれから魔理沙と話してないもの」
「あれからってあれから? 一度も話してないの? 意外ねぇ」
アリスの脇に里から買い入れてきた食料や日用品が大量においてあった。
時々里で買い出しをしてはこうやって神社へと寄っていく。
「ああ、お茶頂戴な、まとめ買いするのは疲れるのよね」
「荷物は全部人形が持ってる癖に」
「それでも疲れるのよ。ほらお茶請けなら沢山あるから。最近里に新しい和菓子屋ができて、そこ凄く評判良いのよ? 魔法使いなのに並んだんだから」
「ふーん、気付かなかったわ。あと魔法使いも並ぶのは当然よ」
さも苦労しましたといった口調だが、どうせ並んだのは人形だろう。
アリスは脇にある紙袋から大量の和菓子を取り出し私の膝の上へどさどさと置いた。メモ紙を持った人形が買い物をしている様子が目に浮かぶ。メモ紙には『全部くれ』と書かれていたことだろう。
饅頭、金鍔、銅鑼焼き、最中、羊羹、飴に金平糖。和菓子のオールスターを山積みにしたアリスは、私の顔を見てにやりと笑う。
「と、特選極上の雲仙茶で良いかしら? く……駄目よ霊夢、あれは私の秘蔵なのよ……、良質の茶葉のみ厳選した初摘みものだからきっと気に入るわ。だめだめ……こんなお菓子に釣られて出してたまるものですか……目を覚ましなさい霊夢、魔理沙に悪いじゃない」
「気持ちはわかるけど葛藤は心の中だけにしなさい。あ、お煎餅もあるんだった」
「それじゃ淹れてくるねッ」
きっと私の秘蔵のお茶が飲みたくてお菓子を買ってきたのだろう。
そこまでするのなら飲ませてあげるのも吝かでない。
「はい、お待たせ。食べよ食べよ」
「あら良い香りね。本当にいつものお茶と違うみたいだけど、どうしたのこれ、いつもは雑草みたいなお茶なのに」
「あ、あんた……」
「うそうそ。ほら、お萩もあるから落ち着いて。で、これどこから盗んできたのよ」
「ちゃんと里で買ったわよ! 最近お賽銭が増えてきたしねー」
「お賽銭……?」
アリスは『あり得ないそれはあり得ない』という顔をした後、脇で待機していた上海人形を手に取り「霊夢がおかしくなっちゃったわ」と話しかけ始めた。それを聞いた上海人形がアリスの膝の上で泣き出したので、その小賢しい人形をがしっと掴み上げて渾身の力で遠くへ放り投げてやった。
「ああッ! 上海!」
「私も信じられないけど、なぜか賽銭が増えてるのよね」
「なぜか……って、霊夢本気で言ってるの?」
アリスは目を丸くした。
「魔理沙しかいないじゃない」
「何を言ってるのよ、なんで魔理沙が」
「呆れたぁ。だって貴方が言ったんでしょ『賽銭を入れてくれる人を好きになる』って。魔理沙はあの時それを聞いていて真に受けたってことじゃない」
「待ちなさいって! だから何で魔理沙がそんなこと、そもそもそれはお酒の席の冗談でしょ!」
「いやだから、魔理沙は霊夢のことが好きだからでしょ? そして霊夢も魔理沙が好きでしょ?」
顔が火照っていくのがわかった。高熱を持った血液が顔中を駆け巡り、羞恥の信号を次々と真っ赤に点灯させていく。
抗弁しろ。こいつは頭がおかしいんだ。
言いたいことは山ほどあるのに舌がもつれる。金魚のように口をぱくぱくさせることしかできない。
「嘘、もしかしてまだ自覚ないの?」
「自覚って、なんのよ」
「基本的に貴方は公平だけど、例外的に魔理沙だけ贔屓してるじゃない。お茶は人より少しだけ多く淹れてるし、ご飯だって少し多く盛るし、ケーキは少し多く切り分けるし、半分に割った銅鑼焼きが片方だけ大きかったら、少しだけ悩んだ後に小さい方を魔理沙に渡すじゃない。他の人だと悩みもしないで小さい方を渡す癖に。それに私と魔理沙が並んでいたらまず魔理沙から目を向けるじゃない? それって好きだからでしょ。気付いてないの?」
「う、嘘よ! そんなわけない!」
「いや私も最初は"霊夢は魔理沙だけを友人に思っている"って思っていたから納得してたんだけどね、あの晩私に『アリスのことを友人だと思っている』って言ってくれたじゃない?」
「言ったけど……」
「私から見て、霊夢って友人に序列をつけるタイプには思えないのよね。だから魔理沙は友人以上の存在なんだろうって。だからこそ好きな人はいるかって聞いたんだけど、随分経ったしそろそろ自覚してるかと思ったわ」
「そんなわけないでしょ! なんで私が!」
そんなこと断じて認めな――
「キスしようとしてたくせに」
「み、みて、見て――ま、待て、あ、あ、あれは違……あれは違うのよッ! あれは魔理沙から良い匂いがしてたからッ!」
「酒臭いだけじゃないの。そういうのって好きな人だと良い匂いに感じるものなのよ」
なぜかじんわりと涙がみたいなのものが。感情が暴走している。
「違うもん……そんなんじゃないもん……」
「あー泣くな泣くな、うわぁ妖精よりもよっぽど難儀だわ……自分のことになると勘が悪くなるのかしら……それともただ単に気付かない振りをしているか……あるいは、うーん……過程の欠落ってやつかな」
口元に手をあてて真剣に考えるアリス。
「いや待てよ、そう、大体おかしいのよ貴方。なんで賽銭箱を見張ってなかったわけ? 毎日お賽銭が入っているなら見張っていれば良いじゃない」
「そ、それは……」
「本当は気付いているんでしょ。魔理沙が入れているって」
「し、しらない……」
「ウブねぇ、このこのぉ、うわほっぺ熱ッ!」
執拗に頬を突いてくるアリスの腕を取り関節を極める。「ごめん、関節技は駄目! ごめん!」と謝ってるがもう遅い。
「こうなったら今晩見張ってやるわよ! それで良いわよね!」
「ギブギブ! そんなのどうでも良いからギブ!」
* * * *
こそこそと隠れるような真似をして真相を探るなんてことは私の性に合わない。
これまで起きた異変だって正面からぶち当たり、立ちはだかる障害を神聖なる巫女のカリスマで以て粉々にし、我が儘の権化である異変の中心人物をけちょんけちょんに痛めつけてから、慈悲の心で許してきた。そう、それが博麗霊夢。幻想郷の住人共から畏敬と憧憬の念を一身に浴びる可憐な巫女だ。
ゆえに魔理沙のところへ飛んでいって「どういうつもり?」と余裕綽々の態度で睨んでやれば、魔理沙なら一発で震え上がりことの真相をゲロするだろう。万事解決だ。きっと彼女は顔を赤らめ、涙目になりながらこう言う。「私は霊夢のことが……」そこですかさず私が「良いのよ魔理沙、ほらこっち来て笑って頂戴、貴方には向日葵のような笑顔が似合ってるわ」と、すると魔理沙は子犬のようにやってきて待て落ち着け私は何を考えているアホか。
深呼吸をする。茂みの中は濃緑の匂いに満ちていて、桃色の妄想を別の色に塗り替えてくれた。アリスのせいだ。こんな下劣で低俗で淫猥な妄想をしてしまうのは。
しかし――、
確かに最近の私はおかしいかもしれない。白状すれば、賽銭を見る度に魔理沙の顔が頭にちらついていた。ふわふわとした髪の毛の感触が、無遠慮な態度が、負けず嫌いな気質が、隠れて努力する強がりな心根が、彼女のすべてが、私の中で熱を帯び、高温の溜め息となって出て行くのだ。
そんなわけのわからない気持ちを抱いたまま魔理沙のところへ行けるわけもなく、結局こうして月の夜に緑の暗闇から賽銭箱を監視しているのだった。あちこち蚊に血を吸われ、レミリアへの怒りの電圧がまた一段階上がる。
いつしか月も雲の影へ隠れて息を潜めた頃、境内を歩く人の気配。
(――来た!)
鳥居の下を潜る真っ黒い人影が見えた途端、心臓が早鐘を打つ。静寂を飲み込んだ闇の中に心臓の音が漏れていく。鼓動を止めようと右手で胸を押さえつける。
これは紛れもない、胸の高鳴りだ。あの人影が魔理沙であって欲しいという祈りに近いものだった。
魔理沙が、私の気を惹こうとしていて欲しいという、剥き出しの願望だった。くそ、アリスめ、本当に余計なことを言っていった。湧いて出る感情はどれをとっても……恋しているみたいではないか。
だからこそ、
(――魔理沙、じゃない……?)
失望が大きかった。
そもそも魔理沙なら空から来る。そんなことすら失念し、舞い上がっていた。
あの人影の大きさはどうだ。魔理沙よりも頭二つは大きいではないか。トンガリ帽子も被っていなければ、スカートですらない。見るからに男の人の体格。
私は参拝し終えて立ち去っていく男の人を呆然と見送り、暫くその場で固まっていた。耳元で蚊がぶんぶんと私を嘲笑っていた。
いつしか月も顔を出し、冷ややかな光を投げかける。茹だっていた頭には丁度良い。
覚束ない足取りで縁側へ向かう。なぜ、縁側へ? ここはよく魔理沙と並んでお茶を飲んでいた場所だ。今は用がないし、もうさっさと寝てしまいたい気分なのに。この数日、魔理沙がここに座ってないだけで、寂びた雰囲気が敷き詰められている。今はこんなところ見たくもないのに。ああ、そういえば今日アリスと座ったばかりだったか。なんて思ったらまた青筋立てるんだろうな。
私は冷たくなった縁側へ悄然と座っていた。本当に冷たい。冷たすぎて、頭がはっきりする。
一つ。
目を逸らしていたことに、一つ気付けた。
なぜチルノが叫んだとき、私は"咄嗟に"魔理沙からチルノへ目をやったのか。
あの時も今みたいに魔理沙のことを考えていた。そして魔理沙が現れたというのに、どうして魔理沙から視線を外したのだ。チルノの様子がどこか逼迫していた、というのは確かにあった。
でも本当は違う。そんな些細な理由ではない。
本当は、魔理沙の肌の露出がいつもより少なかったからだ。
本来、魔理沙の肌が見えるところに、布があったからだ。
ああ、なんて回りくどい。もう認めろ。私はあのとき。はっきりと見た――
――腕や足の至る所に包帯が巻かれた、傷だらけの魔理沙を。
負傷している魔理沙なんて割と見慣れているのに。目を逸らす必要なんてどこにもないのに。私はあの時、怪我をした魔理沙を見たくなかったという理由で見なかったことにした。
なぜそんなことをしたのか、自分の心の作用がわからない。アリスに言わせれば、きっと『それは魔理沙が好きだから』なんて理由にもならない理由を挙げて煙に巻くんだろう。でもそれが、一番納得してしまう気もする。アリスの言葉が、この胸の灼けつく症状に一番適した病名なのかもしれない。
抗うことに疲れた諦念のような。
あるがままを受容するような。
そして、どこか納得するような。
あらゆる感情が一つのものに収束しようとする。
恋慕?
未だ戸惑いを極めている私の中。
幾つもの誤魔化しで塗りたくられ、ときには見落とされ、何度も何度も否定され、そんな酷い目にあっても力強く産声を上げた感情。
まだ、そうと認めるには抵抗がある。だけど。だけどだ。アリスへの気持ちを友愛と呼ぶならば、魔理沙へのこの気持ちは一体何と呼べばいいのだろうか。
いい。呼び名など興味ない。後々に、これが恋だと思ったのなら、これを恋と名付ければいい。
今は、自分の感情を否定することをやめるだけだ。
大切にしよう。この想いも、想いの向かう相手も。
正直になろう。誤魔化しているだけで日が経つのはもうごめんだ。
やめさせよう。賽銭なんていらない。魔理沙と一緒に居た方が楽しいに決まってる。
助けに行こう。魔理沙はきっと――
――助けにって、なに?
体温が下がった。何を考えていたんだ私は。
ねえ魔理沙……あんた、なんで怪我なんてしてるの?
** ** ** ** ** ** ** **
「卑怯だよなぁ……ずるいよなぁ……反則だよなぁ……」
あの日の霊夢はそう、反則だ。綺麗になりすぎている。
しかもあの日に限って、妙なくらい私に優しかった。妙に反応が可愛かった。妙に私を意識していた。……と思うのは自意識過剰だろうか。
普段は見せてくれない心の内を、なぜかあの日だけ見せてくれた。
魔理沙はまた溜め息を重ねた。部屋の中の空気はとっく溜め息に塗り替えられている。
――霊夢の黒髪を羨んだことがあった。
自分のように癖がなく、風が吹けばさらさらと音を立てて揺れ、赤いリボンを付ければいつにもまして映える、雄大で深い黒。
その持ち主に自分の髪を撫でられながら「綺麗な髪ね」と言われ、嬉しくないわけがない。
一瞬で思考は蒸発し、為す術もなく霊夢の膝の上で寝たふりをした。
霊夢はずるい。今まで一度も誉めてくれなかった癖に、あの時に限ってあんなこと。
もっと早くに言ってくれれば、きっと霊夢の黒髪を羨むなんてことしなかった。
こんな癖だらけの髪でも、もっと早くに誇りになった。アリスに自慢だってしたかもしれない。帽子をもっと小さくして髪の毛をもっと遊ばせていたかもしれない。
魔理沙の心が劇的に変容していく。それを恋と呼ぶのを、魔理沙は厭わなかった。
*
時間を経ても消えることのない思慕の熱に焼かれること四日。
アリスの家から帰ってきてから魔理沙は、一日中自分のベッドの上を転がり続けた。まるで熱されたベッドの上で身悶えするかのように、右へ左へ身体を揺すり赤面しながら暴れ回る。神社へ行こうとして家を出た回数は数え切れない。しかし三秒で踵を返してベッドに戻り、再び人外言語を呻きながら転げ回るのだった。九十六時間で二キロ痩せても、眼に宿る恋の気焔は衰えを見せない。
(――今までどんな理由で霊夢に会いに行ってたっけなぁ。理由もなく会いに行ったら不審がられるぜ……)
それではこれまでの霧雨魔理沙は不審の塊だ。
大した凄いわけでもない妖怪退治の武勇伝を九割増しで語りに行ったことがある。キノコ料理を振る舞うと言って新種のキノコを毒味してもらったこともある。退屈という理由でお茶とお菓子をせびりに行ったことすらある。理由が無いから会いに行けない、なんてことは魔理沙には通用しないはずなのだが。
魔理沙本人もそれはわかっていた。わかってはいても、今や理由も無しに霊夢に会いに行くことは、たまらなく不自然なことだと思えたのだ。
とはいえ霊夢の顔が見たい。できることなら微笑みかけられたい。自分が会いに行くことで喜んで欲しい。
何度となく繰り返した思考を飽きもせず辿り直す。
また膝枕してもらいたい。髪を撫でて貰いたい。耳掻きも良いな。一緒に昼寝なんて最高じゃないか。いっそ寝食を共にしてみようか。控えめな夢想から始まり、果ては自分の名字を相手に明け渡し「霧雨霊夢」と呟いてベッドの上を猛烈なバタ足で泳ぐ。「博麗魔理沙」とささめき、掛け布団を吹き飛ばして元気に背泳をする。
こんなことを四日続けている。いい加減、恋い焦がれるのにも疲れた。精神衛生上にも良くないだろう。
またも魔理沙は、はあ、と溜め息を吐いた。分単位で零している。
(――どうすりゃいいんだ、まったく)
結局は、霊夢に好きになってもらいたい、の一言に尽きる。
思い出す。遠のいていく意識の中で、それでも最後まで聞いていたあの会話。
『霊夢って好きな人いる?』
『いない』
『どんな人なら好きになる?』
『賽銭を沢山入れてくれる人かな』
酒の席の冗談であることはわかっていた。わかっていたけれども、魔理沙にとってこの言葉は聞き流せないものだった。
三人で川の字になって寝ている深夜、こっそり起き出して、霊夢の温もりが消えたソファーへ縋るように身を寄せ、一人泣いたのはこの言葉のせいだ。軋む胸を掻き毟り、霊夢が寝ている布団に潜り込んでその温もりに身を浸し、安らぎを求めたのもこの言葉のせいだ。
それを酒の席の冗談で片付けられては、何のために魔理沙は声を殺して泣いたのか。霊夢にも自分と同じような胸の痛みを味わってもらわなければ不公平だ。
魔理沙の中で積み上がっていく恋の打算。必勝の方程式。
弾かれるようにベッドから飛び起きて、魔理沙は家を出た。
里へと続く空を飛ぶ。恋の計略の鍵は里にあった。
* *
里の中は新しい和菓子屋が翌日の開店を控えているらしく、俄に活気づいていた。
話を聞くと、店主がいい男だから、だとか。魔理沙にはどうでもよい話ではあったが、
(――新しい店……これは僥倖だぜ)
好都合だった。
魔理沙は開店準備をしている店へ入り、突然の闖入者に何事かと驚いている風の男に話しかけた。
「あんたがここの店主か?」
「はぁ……そうですが、どちら様でしょうか」
「通りすがりの魔法使いだぜ。ところでだ、あんた明日から商売を始めるそうだな」
「ええ、おかげさまで」
「困るんだよなー、そういうのを勝手に始められると。物事には順序ってのがあるだろ?」
「……と言うと?」
「これだよ、これ」
と言って魔理沙は人差し指と親指で輪っかを作り、胸の前でゆらゆらと揺らし意地悪そうな顔で笑った。
今にもショバ代を寄越せと言わんばかりのその態度に、男の顔が警戒の色を帯びる。しかし相手は魔法使いということもあってか、男は諦めた表情で息を吐いた。
「もしかして、魔法の森に住んでいる魔法使いというのは……」
「どうかな、住んでいるのは私だけではないからな」
「妖怪退治の依頼を勝手に請け負って勝手に報酬を持って行くという噂があるのは……」
「人聞きの悪い噂だが、恐らくは私のことだ」
「やはり、そうでしたか」
やはりとはなんだ。
「まだ右も左もわからないもので、魔法使いさんへのご挨拶が遅れてしまったようですね……こういうことには全く疎くて、幾らくらい包めば良いでしょうか」
「ほう、殊勝な心掛けだな。五銭で良いぜ」
「ご……たったそれだけで?」
「ああ、あんたまだ博麗神社へ参拝してないだろ? 商売を始めるって言う奴が信仰を蔑ろにするようじゃ、先は見えてるんじゃないか?」
魔理沙の言葉を聞いて、男が苦笑いをする。
「もしかして、最初から私を驚かせる気でした?」
「気のせいだぜ」
「しかし……参拝なのですが、行こうとは思っているんですけど道中に妖怪がいて、なかなかどうにも」
「だから私が来てやった」
「……もしかして」
「ああ、護衛をしてやるぜ」
あなたは人が悪い、と男はすっかり苦みの消えた笑いをした。
* * *
翌日、魔理沙は大盛況の和菓子屋を遠くから眺めて片頬笑んでいた。
参拝の陽報か、菓子の質か。或いは男の人となりが客を呼んだのか。客足は夕方になっても衰えず、男に会いに行ったのは薄暗くなってからだった。手には『当店は博麗神社を信仰しています』と書かれたイラスト入りの貼り紙。魔理沙の手作りである。
「魔法使いさんも来てくださったんですか。昨夜はありがとうございます。おかげさまで今日は大繁盛でしたよ」
「ああ、遠くから見てたぜ。ということでこれを貼っていく」
「それは……ふむ、なるほど貼り紙、ですか。どうぞどうぞ」
「え、いいの? そんなあっさり」
「勿論ですよ。なかなかに可愛らしい貼り紙ですし店の前が華やぐというものです」
商売人のお世辞に魔理沙は満更でもない様子で「まあな、私のセンスが滲み出てるだろ」などとのたまった。
ひらひら揺れる紙面上には邪悪な微笑みを宿した巫女の顔。まるで人食い悪鬼の凶相だ。
「ところで明日の準備が終わったあと参拝に行きたいと思っていたのですが、今日もお願いできますか?」
「お? 私は構わないが……毎日行く必要は無いんじゃないのか?」
「はは、こういうのは毎日行くから効果があるものなんですよ。家に神棚があれば毎朝拝むんですけどね」
数刻後、昨夜と同じように男を神社まで送り、魔理沙は境内から少し離れたところで待っていた。
程なくして男は戻り、二人で里への道を辿る。
神社と里を繋ぐ夜道を改めて見ると、なるほど昼間でも参拝しようなどとは考えたくもないような鬱蒼とした獣道だ。少し道を外れただけで、夏の暑さすら逃げ出す薄気味悪さがある。風で葉が擦れる音は森の歯軋りかと思う。
「里の人間達は妖怪に襲われたりするのか?」
「いえ、上白沢先生が里を護ってくださっているので中は安全です。でも里の外に出れば襲われることがあるんじゃないでしょうか」
「あるんじゃないでしょうかって、なんだか随分と曖昧だな」
「悪戯された人はいるんですけど、襲われたって人は里には少ないんですよ。襲われたら最期ですからね」
「なるほど」
妖怪に襲われて逃げ切れる人間は少ない。
「ここまでで良いです。もう里の入り口ですので」
「ああ」
男は律儀に頭を下げて、里へ続く薄闇へ溶けていった。
それを見送って、その場を立ち去ろうとしたときである。
「ちょっとそこの魔法使い」
魔理沙の頭上から鈴を転がしたような少女の声がした。僅かに剣呑な音素が混じっている。
「あん?」
「昨日といい今日といい、あんたすごーく邪魔よ。折角人間がこんな夜中に里から出てきたっていうのに」
「そいつは悪かったな。明日も明後日も邪魔する予定だが我慢してくれ」
「我慢できないからこうして出てきたわけじゃない」
ここで初めて魔理沙は上を見た。
いつかの終わらない夜の時に出会った夜雀に似た容貌の妖怪が、不機嫌そうな顔で見下ろしていた。
瞳が、鈍く輝いている。
「我慢できないから退治されに来たってわけか。お前の格好、いつぞやの夜雀に似ているが、そいつの親戚か何かか? だとしたら私の強さとか噂とか聞いたことがあると思うが」
「さあ、夜雀からは聞いたこと無いけど、割と有名よあんた。森の魔法使いって言えば私達の間では迷惑の代名詞」
「なるほど夜雀じゃなくて梟の類か。文句があるなら弾幕ごっこで話を聞いてやってもいいぜ」
魔理沙が飛び上がると、妖怪の少女はわたわたと手を振った。
「違う違う、弾幕ごっこじゃないよ――」
「なんだ?」
「――捕食だよ」
少女がにっこりと笑った。目が魔理沙ではなく、魔理沙の後ろにチラリと動いた。まるで後ろに何かがいるかのように。
直感である。魔理沙は身体を捻った。瞬間、魔理沙の腕を切り裂いてもう一人の妖怪が後ろから飛んできた。
地面へ落ちるように急降下し、箒から身体を半ば投げ出して無様に着地する。
「痛ッ……不意打ちは、ちょっと行儀が悪いんじゃないか? しかも二人がかりだなん……っておいおい三対一かよ」
すっぱり切れた傷口を服の上から押さえつけて止血する。服の内側に薬液を染みこませた生地が仕込んである。アリスは横着だと鼻で笑ったが、ほら見ろ役に立ったじゃないか。備えあれば憂い無しだ。この展開は憂いではあるが。
そんなことを思いながら忌々しげに見上げた先、似たような姿をした妖怪が二人加わっていた。一人は指先に付着している魔理沙の血を舐め取っていた。
「すごい、さすが魔法使い。よくわかったわね。良い勘してる」
「これは勝負じゃなくて私達の食事。でもそうね、確かに行儀が悪かったかも」
三人は頷き合い、口を揃えて同じ言葉を魔理沙へ言い放つ。いただきます。
魔理沙は地面を蹴る。星屑の魔法を無造作にばらまきながら最速でその場を離れようとする。
(――なんだ、これ)
魔理沙にとって、速さは自慢の一つである。梟など魔理沙の影も踏めないだろう。
しかし、それが、
(――出力が、上がらない?)
魔力が推進力へ化ける過程に、これまで感じたことのない強烈な違和があった。変換効率が普段のほぼ半分。ここ数日、全く身体を動かしてなかったからなのか。これでは距離を取ることすらできない。
未曾有の事態に困惑するも、今はそれどころではない。自分が早く動けないのなら相手を遅くしてやればいい。箒の尾から零れる魔力の残滓が星屑へと形を変え、宵闇の中を不規則に飛んでいく。それと同時に、更に大きな星形の魔法が魔理沙自身からも生み出され、三人の妖怪目掛けて襲いかかった。
直線ではなく。曲線でもなく。直線と曲線を組み合わせた捻くれた弾幕。
規則と不規則が縦横に織り交ぜられて、相手の動きを制限させる。それがマスタースパークへ繋げる魔理沙の戦法。なのだが、
(――なんで?)
やはり魔力の変換過程に致命的なまでの異常があった。
美しさも鮮やかさも、強さも何もあったものではない。杜撰で拙い、垂れ流すだけ。密度の低い魔法の残骸。
今の自分の状況を忘れてしまうほどに、それは衝撃だった。
側頭部を拳で殴られるまで思考が戻らなかった。いや、殴られ地面に叩き付けられても思考は焼き切れたままだった。ただ本能が危険を感じ、身体が痛みを嫌がって勝手に防御の態勢をとっただけだった。錯愕し、情けなく逃げ惑う。
霊夢が綺麗だと言ってくれた髪の毛が鋭い爪によって無惨に切られても、何もできなかった。泥と血に汚れた髪は、もう綺麗と言って貰えないだろう。
「ねえこいつ弱いよ? 別に三人もいらなかったんじゃない?」
「まさか魔法使いがこんなに弱いと思わなかったんだもん」
「弱い癖に人間の護衛なんかするからこうなるんだよー」
いつもの魔理沙なら、へらへら笑いながら三人の妖怪をねじ伏せることができただろう。そうするだけの実力が備わっている。妖怪退治は常に一対一というわけではない。多対一というケースも多く経験していた。
それゆえ、なぜ自分がこんな目に遭っているのか理解できなかった。
「それじゃ食べよっか」
「……待て」
「あれあれ? 命乞い?」
それでも、命の危機に頭が急加速で回り始めた。死にたくなんて無かった。
「お前ら、魔法使いを食ったことあるか? もしくは、お前らの知り合いで魔法使いを食ったことがある奴いるか?」
「さあ……いないんじゃないかな」
「だろうな。なんでいないか知ってるか?」
妖怪達は怪訝な顔で魔理沙を見た。
「正確には魔法使いを食った妖怪はいることはいる。が、食った奴は皆死んでる。だから食った経験のある奴がいないんだ」
「はぁ? 意味わかんないよ」
「お前ら魔法の森のキノコを全部食ったことあるか? 神経に異常を来し、幻覚を見せ、嘔吐が止まらない。正気を失い、自分を傷つけ、数日は気を失う。そんなキノコを私は全部食ってきた。いや、私だけじゃない、魔法使いってのはそういうのを食ってるんだよ」
嘘だけど。と魔理沙は胸の中で舌を出す。
「な、何が言いたいのよ……」
「わからない奴だな。この毒壺の身体を喰らう度胸があるのかってことだよ。お前ら私を食って無事でいられると思うのか?」
いざ飲もうと思うとスープが毒入りだと告げられた。三人が三人ともそんな顔をした。
「そういえば私の血を舐めた、ああ、お前だお前。顔色がどんどん悪くなっているように見えるが、どうなっても知らないぞ」
「うう……なんか、そう言えばお腹痛い……かも……」
「こ、こいつッ! 食べられないなら殺すだけよ!」
「ほう、私がいなくなったら里の人間は外に出てこないが?」
「うッ……ああ、もう!」
「早く帰ってそいつの腹を洗浄してやらないと死ぬかもな。酒をがぶ飲みしてれば中和されると思うぜ」
苦い顔をして慌てて飛び去る三人の妖怪の背を見ながら、震える息を吐いた。達者な口に感謝した。
それにしても、一体自分に何が起きたのだろう。
血の付いた箒の柄を袖で拭い「今日は徹夜だな」と呟いて魔理沙は飛ぶ。落ち着いた声音とは裏腹に、今にも泣き出しそうな顔だった。
* * * *
その翌日は最悪の一日だった。
実験器具が転がり、グリモワールが雑多に積み上げられ、鼻が曲がる程の異臭が漂う部屋の中。魔理沙は一睡もせずに朝日を迎えた。脳天気な明るさの太陽を憎々しげに睨むその表情を見るに、状況は良くないのだろうことが窺い知れる。
やることと言えば、あとは精々紅魔館の大図書館でめぼしい本を借りてくるくらいか。
まだあちこち痛む身体を引き摺って魔理沙は箒に跨った。チルノと出会ったのはその途中である。
弱っている姿など誰にも見せたくなかった。とりわけチルノにはそういう気持ちが強い。余裕も失っていた。ちっぽけな意地もあった。
気まぐれなチルノのことだ、弱い自分に価値を見いださないのではないか。そんな恐怖も少しばかりあった。
「くそ、嫌われただろうな」
酷い態度をとってしまった。無防備な身体に受けたチルノの冷たい弾幕よりも、チルノの金切り声の方がずっとずっと痛かった。
本当に最悪の一日だった。
結局、多分に願望が混じってはいるが、この症状は一時的なものだと結論づけた。
となれば回復するまで大人しく家に引き籠もるのが最良である。だがそういうわけにもいかないのが魔理沙の現状だった。
神社の信仰を増やし霊夢の喜ぶ顔を見るという思いは、自分でも驚くほど強いものだったらしく、諦めるという選択肢はなかった。
それに、このままおめおめと引き下がるほど、霧雨魔理沙は大人しくもない。
妖怪除けの香。霊夢印の魔除けの護符。山伏の杖。用途不明の陰陽玉。魔術武装にルーンの刻印。呪術原典。神具のレプリカ。ミニ八卦炉。錬丹の秘薬。光学式迷彩服にヤツデの葉。あと桃。
集めに集めた古今東西和洋中のコレクション……と河童の服や天狗の団扇。あと天人の食料。
魔理沙は可能な限りそれらを服に突っ込んで、里へと続く夜を飛ぶ。
* * * * *
それから数日経った。
妖怪除けの香のおかげであろう。一度たりとも妖怪に襲われはしなかった。
危険な橋を渡っているという自覚はあった。けれども賽銭箱を嬉し顔で覗く霊夢を、こっそり隠れて見たときの胸に込み上げてきた名状しがたい感情。霊夢が喜んでくれた、それが自分にとって至上の喜びに思えた。危険など、それを前にしては吹き飛んでしまう。
一度だけチルノに見つかったが、そのことについては努めて考えないようにしていた。
「魔法使いさん、これ女の子から預かってます」
何人かの里の人間――全員が和菓子屋から話を聞いた商売人仲間――を神社へ護衛した後、今日最後の客である和菓子屋の男に会いに行った時である。
男は不思議そうな顔をして氷漬けのお守りを魔理沙へ手渡した。
「昨晩、里まで送ってもらったあとすぐに女の子がやってきて、これを魔法使いさんに渡してくれと頼まれまして。凄いですねそれ、全然溶けないんですよ」
それは見覚えのある妖精の氷。強い意志の顕れのように毅然と凍っていた。
氷の中に目を凝らす。『縁結び』
何たる余計なお世話。大体こんなもの肌身離さず持っていたら、布越しでも凍傷してしまう。
魔理沙がお守りをぞんざいにリボンの裏へ仕舞い込んでいるのを見て、男はくすりと笑った。
「嬉しそうですね」
「は? ばかいえ、全然……いやまぁ、喧嘩みたいなことしちまったしな、気まずいだけだぜ」
「気まずいだけにしては凄く嬉しそうな顔をしていますよ」
「あーうるさいうるさい」
勿論嬉しかった。そしてそれ以上に申し訳なかった。謝るべきは自分のはずだ。
この数日、チルノはこっそり自分の後をつけて、毎晩里の人間と会っているのを目撃していたのだろう。あの短気な妖精が、魔理沙の背中を見ながら何日も思い煩い、そして男に仲直りの印を託したのだ。
申し訳ない。けど、やっぱり嬉しい。
魔理沙は堪えよう堪えようと笑みを噛み殺そうとしたが、抑えきれずに喜びを表情に零す。
「ははは、やっぱり嬉しそうですね。お守りは仲直りの印にってこと何ですね。なるほど、だから縁結び」
自分のことのように喜ぶ和菓子屋の店主は、得体の知れない骨董品や珍品を店に並べて悦に入っている店主とは違う、というのがここ数日毎晩のように会っている魔理沙の印象だった。商売人たるもの、愛想の良さは当然ながら、会話の上手さや気の使い方なども人並み以上にできなければならないのだろう。そう思わせるだけのものが男にはあった。
以前に聞いた「いい男」というのは、人となりのことだろう。博麗神社に参拝せずともこの男なら成功していたに違いない。
「そういえば、ここ最近ずっと気になっていたのですが……」
道中、男はおずおずと切り出した。
「その怪我は、喧嘩で?」
「怪我のこと……気付いていたのか」
「むしろそれで隠していたつもりだったことに驚きです。服飾にしてはその包帯は奇抜に過ぎる。化粧にしては青痣は革命的ですよ」
「聞くにしても今更過ぎるぜ」
「聞いちゃいけない雰囲気を醸していましたからね。でも今は随分と穏やかな感じが。そのお守りをもらったからかな、と思いまして。それに今日はきつい薬の匂いがしないので身体の調子も良くなったのかと」
薬の匂い? 傷薬は無臭の軟膏を使っているのだが――。
腸を撫でられるような気持ち悪さを感じた。箒の先に釣り下げたお香を見て舌打ちをする。
「くそ、引き返せ。今日はダメだ」
「どうしたんですか?」
「いいから早くしろ!」
四六時中お香の匂いを嗅いでいたので鼻が麻痺をしていた。
お香が切れたことに気付いていなかった。
「あははー、やっと頭の痛くなる悪臭が消えたみたいね」
そして気付いたときには遅かった。
梟の羽は羽毛によって覆われ、羽ばたくときの音を殺すことができる。
その姿を目視できたときには、梟の妖怪は男を目掛けて爪を奔らせていた。
男が小さく呻いた。爪が食い込んだのではなく、魔理沙が男を突き飛ばしたからだ。
爪は魔理沙の肩口を裂き、白いブラウスから噴き出た鮮血が冷たい月光を照り返していた。
「――逃げろ!」
魔理沙は男に向かって叫ぶ。まだ里を出て間もない。戻れば助かる。
男は腰を抜かして、傷ついた魔理沙と、楽しそうに笑う妖怪を交互に見るだけだった。恐怖に歪む顔にはいつもの愛想の良さなど微塵もない。
「絶対に逃がさないよー。久々の人肉だもーん」
妖怪の頑是無い笑顔は、子供が虫取りをするような無慈悲で無感傷なものだった。里へ続く道を塞ぎ、ホラもう逃げられないよ、と嬉しそうに目を細める。
最悪だった。この状況は完全に自分の落ち度だ。私が傷つくのは自業自得で構わないが、男を傷つけるわけにはいかない。それは私のプライドが許さない。
魔理沙はポケットから幾つもの丹を手当たり次第取り出して頬張る。食い合わせが悪いものもあるだろう。副作用があるものもあるだろう。知ったことではない。腹の奥に火が熾り、目がちかちかする。
「早く逃げろ!」
妖怪が男に襲いかかる。魔理沙は遮るように男の前に飛び込み、星屑の弾幕を展開する。
以前よりも少しだけ力強く、でもまだ頼りない。妖怪の接近を容易に許し力任せに吹き飛ばされ地面を転がる。傷口がまた広がり、腹が生暖かく湿る。
それでも男を逃がすため、背中で地面を舐めながら妖怪目掛けて魔法を撃ち込む。
微かな痛痒を与えられるかも疑わしい威力。しかし妖怪は咄嗟に飛び避け、男の目の前に道が出来た。
「走れ! 私が守るから!」
男は僅かに逡巡し、魔理沙を見、そして走った。
それは全く逆。神社の方向だった。
*** *** *** *** *** *** ***
夜の静けさが音を立てて消え去った。風が苛立ち、木々がざわめいていた。
こんな夜中に出歩く奴は食われても文句は言えまい、そう思えるほどに空気が五月蠅く、不穏に対流する。
月は薄情な光を投げかけ神社を覗く。まるでこれから起こることを楽しみにしているように。
嫌な予感――というやつだ。
的中率は極めて高いと自負しているが、外れて欲しいものでもある。魔理沙が怪我をしていることに気付いてしまった今となっては尚更だ。
「巫女、さん」
先程のショックが未だ抜けぬまま、縁側で酷薄そうな月と睨めっこしていると、ふらふらとした足取りの男が姿を現した。
頬を伝ってぽたりぽたりと地面に滴り落ちているのは、頭から流れ出ている血だ。私の姿が見えていないのか、きょろきょろと何かを探すように頭を振ると、その度に血の飛沫を薄闇に散らしている。
声が出なかった。声のかけ方がわからなかった。男の様子は壊れかけの玩具みたいで薄ら寒さすら感じる。人間が壊れかけている、そんな様子だった。
嫌な予感が、具体的な形へと姿を変えようとしていた。
「巫女、さん」
男は何もないところで躓き、受け身も取れずに転倒した。
「助けてく、ださい」
「ちょ、ちょっと……大丈夫?」
「助け、てください」
駆け寄って抱き起こす。止血しようとしたが手元に清潔な布などない。男の踵を引き摺りながら縁側まで運ぶ。動かすと痛みが走るのか、小さく呻きながら「助けてください助けてください」と繰り返す。意識が朦朧としているのは焦点の定まらない目を見ればわかった。いつ気を失ってもおかしくない。いや、いっそ気を失った方が楽なはずだ。にもかかわらず意識を手放すまいと必死にしがみついているように見えた。
戸棚から救急箱を取り出し、擦り傷や痣になっている部分に手当たり次第消毒薬をぶちまけ、脱脂綿で拭き取り包帯を巻いていく。鋭い切り傷のせいで出血は多いがそう酷い怪我ではない。心配なのは外傷ではなく身体の内側、脳の損傷だ。
「今助けるから喋らないで!」
「助けて……魔法使い、さんを、助けて」
手が止まった。聞き間違いかとも思った。
男は譫言のように同じことを繰り返す。魔法使いさんを助けて。魔法使いさんを助けて。
それはまるで呪詛の呟きのように。私の心を冷たい手で無遠慮に掻き混ぜ、沈殿している恐怖を引き摺りだした。
「ちょっと、待ってよ……そ、それって魔理沙のこと?」
「……殺される、かもしれない」
なぜ気付かなかった博麗霊夢。お前の目は節穴か。お前の頭には藁でも詰まっているのか。
考えればわかることだった。どうしてこんな夜中に里の人が参拝をしているのだ。こんなこと過去に一度たりとも無かったではないか。
魔理沙が賽銭を入れているんじゃない。魔理沙が賽銭を入れるよう働きかけているんだ。
そして、なぜ、男はこんなにも傷ついているのだ。簡単だ。魔理沙が、男を護衛しきれなかったからしか考えられないじゃないか。それがどんな切迫した状況なのか、もはや考えるまでもない。
「ど、どこよ? 魔理沙はどこなの?」
「助けて、ください……」
「助けるわよ! だからどこなの!」
「魔法使いさんを」
「わかったから早く言いなさい! 私が絶対に助けるから!」
「殺される、かも……」
男はとっくに意識を失っているのかもしれない。受け答えがもうめちゃくちゃだ。
男を引っ叩こうと手が振り上がった。勢いよく振り下ろした手は畳を打ち付けた。ぎりぎりのところで理性が働いてくれた。しかし子供の癇癪のような金切り声は止めることはできなかった。魔理沙はどこだ。どっちの方角にいるか教えろ。狂ったように同じことを繰り返す男に、狂ったように同じことを私は繰り返した。冷静などではいられなかった。
男の目が閉じる。
その間際。
「あっち……」
力無く指を指し、男はとうとう気絶し動かなくなった。
「あっちって……あんたが来た逆方向じゃない!」
外へ飛び出て方向を確認する。指差した方向は結界の外側だった。てんで出鱈目の方向だ。男に対して口汚く罵りの言葉をぶつける。
わかってる。最低なことをしていることは。それでもやり場のない激情をぶつける対象が何もなかった。きっと男は、ただ魔理沙の身を案じ、それだけの為に傷つきながらここに至る獣道を走ってきたのだろう。傷ついた身体を引き摺って私に助けと求めたのだろう。「助けてくれ」という言葉は傷ついた自分のことではなく、危険な目に遭っている魔理沙を助けてくれという意味なのだろう。
度し難い程のお人好しがいたものだ。
それでもだ。それでも私は男に罵声を浴びせたい思いが胸中で荒れ狂う。
「どこに行けば良いのよッ!」
神社の上を闇雲に旋回した。僅かな光も見逃すまいと目を凝らし、微かな物音も聞き逃すまいと耳をそばだて、しかし魔理沙の気配を微塵も感じ取れず、焦りのあまりにベソをかいた。
こんな時だけ勘の働かない自分を呪い殺したくなった。
もっと早くに気づけたはずなのに。魔理沙が怪我をしていたのを知っていたはずなのに。
邪魔臭い涙を拭う。人はどうしようもない場面に直面すると空を見上げてしまう。それは涙が出ないようにするためかもしれない。
空には、嘲笑うような月があった。そしてその中に――。
人はどうしようもない場面に直面すると空を見上げてしまう。それは、そこに救いの手を差し伸べてくれる存在があるかもしれないからだ。
自分勝手な連中が跋扈する幻想郷に、呆れるほどの世話焼きが、泣きたくなるほどのお人好しが、二人もいたことは奇跡としか言いようがなかった。
昼間、私が放り投げた上海人形が月の中に佇んでいた。
声なき咆吼、ウォークライ。上海人形は微弱な魔力を私へ飛ばす。
ついてこい、と。
その先に魔理沙がいるのだと確信して、私はそれを追っていく。
唇が震えていた。
ぐちゃぐちゃに掻き立てられた恐怖が背中に冷たく張り付いていた。
あの魔理沙が死ぬわけはない。殺しても死なないような活力の塊が、そこらの妖怪に襲われて命を落とすなんてことはあるはずがないんだ。
魔理沙がチルノを避けたのは、弱っていたからなんかじゃない。
魔理沙の逃げ足が遅かったのは、弱っていたからなんかじゃない。
きっと何が事情が……。
――気付いているんじゃないか博麗霊夢。そうだ、魔理沙は弱っている。
違う。魔理沙は弱くなんかならない。
魔理沙は努力家なんだ。自分では隠しているつもりだろうけど皆知っている。
捻くれてるけど真っ直ぐで。からかうとすぐムキになって。馬鹿で。お調子者で。単純で。不器用で。
――そんな弱っている魔理沙を見て見ぬ振りをして、自分のために賽銭を入れているのを内心で喜んでいた。
「ああああああぁぁぁぁッ!」
信仰心なんて本当はいらなかった。守矢神社への愚かしい見栄でしかなかった。
ただ魔理沙とお茶を飲んで、日向ぼっこしている毎日で良かった。時々妖怪退治の依頼を受けて、その報酬で慎ましく生きていくだけで私は良かった。
酒の席とは言えなんてくだらないことを言ったのだろう。この数日間の、魔理沙のいない生活の味気なさ。無味乾燥とした日常。
もし、魔理沙が死んで、こんな毎日が死ぬまで続いたら――。
カチカチと歯がなった。寒くて寒くて震えが止まらない。
やがて小く瞬く光が見えた。薄ぼんやりとした光は徐々に星形の輪郭をなぞっていく。それが魔理沙の魔法であると理性の部分で認めるも、しかし別の部分で否定する。見る影もないほどに、何もかもが違っていた。
速さも密度も間隔もキレも。精彩を欠くなんてものではなく、まるで別人の弾幕だった。
しかも妖怪は三人組になって魔理沙へ襲いかかっている。
目に見えなかった不安が、秒読みの絶望へと塗り替えられる。
きっと、賽銭が増え始めた日から魔理沙は今のように傷つき、戦っていたのだ。酒の席での私の発言を真に受け、弱った身体に鞭を打って、里の人達を妖怪から守っていたのだ。僅かの賽銭を入れて貰うためだけに。
馬鹿だから。単純だから。不器用だから。真っ直ぐだから。私がそれで喜ぶと信じて。
「魔理沙ッ!」
声の届く距離ではない。
魔理沙はミニ八卦路を取り出し魔力を込めるのに必死だった。
一瞬だけ、光が八卦路に凝縮されたあと、ぽすんと情けない音を立てて光は儚く霧散した。
私は見た。悔しそうな魔理沙の顔。厭らしく嗤う妖怪どもの顔。禍々しく煌めいた鋭い爪。魔理沙の頭部目掛けて振り下ろされる腕。
血飛沫を置き去りにして、魔理沙は闇の中へ落ちて、
「いやああああああッ!」
絶叫していた。喉から血が出るかと思った。
四肢を力無く投げ出して魔理沙が落ちていく。
この下は森か林か。沼地か池か。池ならば底は浅いのか。沼なら衝撃はどれくらいなのだ。木の枝に引っ掛かる可能性はどれくらいだ。
くだらない思考を漂白させる。可能性なんてない。普通に考えればわかる。馬鹿でもわかる。
この高さから落ちれば、死ぬ。
速く。魔理沙を受け止めるために、今よりもなお速く。間に合わないなんて嘘だ。助けられないなんて巫女じゃない。
魔理沙の帽子が主を見捨てたように空へ舞い、脇を通り過ぎた。裏切り者や敵だらけだった。味方など誰もいなかった。
重力の魔の手はこんなにも強く、真っ黒い地表は岩肌を剥き出しにして魔理沙を待っている。
そして空を飛ぶことしか能がない私は、こんなにも飛ぶのが遅かった。
――ああ、間に合わない。
意思とは関係なく涙が溢れた。一杯にまで伸ばした指先の感覚が消失した。魔理沙の明確な死の予感が脳裏を過ぎり、慟哭している自分の情けない姿が浮かんできた。
幽々子、映姫、永琳、蓬莱の薬。魔理沙の死後に、それでも魔理沙を救えるモノがあるだろうか。無理だ。誰も助けてはくれない。
「ああああぁぁぁぁッ!」
自分の口からは狂ったような声。もう地面が目と鼻の先だった。
もうどうしようもない。魔理沙の死を見るくらいなら、自分の目を潰してしまえと指先が引き攣った。
そうやって狂ってしまえばどれだけ楽だろう。それでも諦めきれずに目一杯指先を伸ばすのは、まだ奇跡を信じているからか。
――誰か魔理沙を助けてください。
刹那。魔理沙の身体が、僅か重力に逆らった。
がくりと揺れて落下速度が落ちる。指先に魔理沙の服が引っ掛かる。
「まりさ――ッ!」
魔理沙の身体に腕が絡みついていた。地面に潰されるよりも早く、抱き留めていた。
歯の根が合わなかった。もう動きたくなかった。呼吸するのも辛かった。
胸の中に魔理沙の命の質量が、確かにあった。
「ぐずッ……良、がっだ……」
魔理沙を強く抱きしめた。流れる涙が安堵のものに変わっていく。
魔理沙の額からは血が流れ、癖のある金色の髪を紅に染めている。白いブラウスと前掛けは赤黒く、黒い装束は至る所が切れていた。腕や足に巻かれた包帯からは血が滲んでいる。元々満身創痍だったのだろう。弱っていたのだろう。辛かったのだろう。
魔理沙がどれほどのことをしたというのか。ただ里の人を神社へ送り届けようとしただけではないか。なぜ血を流さなければならない。なぜ死ぬような目に遭わなければならない。なぜ。どうして。誰が悪い。どうしてこんな思いをしなければならない。
あらゆる感情が涙となって外に出て行くと、最後に残ったのは、妖怪への抑えきれない憎悪だけだった。
「―――、―る」
口から零れた怨嗟の声は誰のものなのか。
妖怪が人間を襲うのは自然なことだ。幻想郷では摂理と言ってもいい。私の目の届かない場所でなら、妖怪が人間を捕食しようが、嬲り殺そうが、どうでも良い。関知しようとも思わない。いつかアリスが言った、他人には興味がないからという言葉、その通りなのかもしれない。そうだ。私は人間にも妖怪にも興味などない。
しかし、だ。
今思った。今決めた。今誓った。
私の目の届かない場所で、魔理沙が妖怪に襲われ、その挙げ句に殺されたとしたら、私はその妖怪を――、
「殺して、やる」
幻想郷の果てに逃げたのなら、果てまで追って。外に逃げたのなら、結界を壊してでも追って。泣いて詫び、自殺したとしたら、血の池地獄の中まで追って、私はそいつを殺してしまおう。
魔理沙をこんな目に遭わせた奴らを見上げ、後悔した。その姿が網膜に焼き付いてしまった。
月光を浴びて紺色に輝いている長い髪。背中から生えている羽毛に覆われた羽。斑模様の黒と茶色の服。梟のような見たこともない妖怪達。
私はこれから一生、紺色の髪の毛を見る度に不快になるだろう。羽毛を見ると不機嫌になるだろう。斑模様の服を持っていたら焼き捨ててしまおう。梟避けの呪符を神社の周りに貼ろう。
気を失っている魔理沙を静かに横たえ、私は立ち上がった。自分がこれから何をするのかもわからない。ただ、あの梟みたいな妖怪の泣く声を聞くことでしか、この噛み締める奥歯の痛みが消えることはない気がする。
「ひッ……な、なによ……」
今更、自らの危機に気付いたのか。妖怪達は私を見て情けない声を洩らした。
救いがたい愚鈍さ。どうしようもない愚図。
その愚かさゆえ、魔理沙を傷つけて良い人間なのか悪い人間なのかも区別できないのだ。愚昧な頭で生き続けることは害悪でしかない。また懲りずに魔理沙を傷つけるだろう。
アア――ならば。私があれを消してしまった方が良い。
「そこ、動くな」
魔理沙を潰そうとした地面すら憎くらしく思う。
激しく蹴りつけて飛び立ったその時、魔理沙の背中の下から上海人形が飛び出て、私と妖怪の間を両手を広げて遮った。
「アリス、何のつもり?」
邪魔な上海人形を避けると、すぐに私の前へ移動して行く手を阻む。
そうこうしている間に妖怪達は逃げていった。
「ちょっと! 邪魔よ!」
うろちょろ目の前を飛んでいる上海人形を掴む。
ぽろり、と上海人形の右腕が落ちた。
よく見ると、左腕も千切れかけ、足は可動範囲を超えて折れ曲がり、胴体からは腸のように白い綿が飛び出ていた。
覚束ない足取りでやってきた男のことを思い出す。あんな状態で妖怪から逃げられるはずがない。
きっと……いや、間違いなく。アリスが上海人形を操ってあの男を守ったのだろう。大切な人形をここまでぼろぼろにしてまで。
そして魔理沙の急な減速もまた、上海人形が身を犠牲にして行った奇跡だったのだろう。
冷静さが戻ってくる。情けなさも込み上げてくる。目の奥が熱くなる。
「……ごめん」
ごめんね。
よくわからないけど、また涙が出てきた。
*
その後すぐに、アリスが息を切らせて飛んできて、魔理沙の傍らでめそめそ泣いている私にドロップキックをかまし「魔理沙は私の家で治療しておくから、貴方はさっさと戻って里の人の治療しなさい!」と指示を出した。
世界の終焉を迎えるように何をすればい良いのかわからず座り込んでいた私は、人形使いの人形になって盲目的にアリスの指示に従った。「大丈夫よ、魔理沙の傷は大したこと無いわ」という言葉が混線していた頭の神経を幾分か正常にしてくれた。
翌朝、意識を戻した男の人は、しきりに魔理沙の心配をしていたが、大事ないと話してやると安心て里へ帰っていった。
男を途中まで送ったその足で、すぐにアリスの家へ向かった。
勝手に居間へ入ると、ソファーに座って上海人形を縫っているアリスが顔だけ向けて「落ち着いた?」と迎えてくれた。魔理沙と上海人形の治療で徹夜明けなのだろう、目の下にはクマができている。
しかし穏やかな目だ。それだけで魔理沙の無事が確認できた。
「ごめん」
何を言って良いのかわからず、とりあえず絞り出せたのはその一言だった。
「別に謝ることはないわよ。魔理沙を助けたのは私の意思だしね」
「でも……」
「じゃあ、取り乱した貴方を見られたというのは貴重な経験だったわ。それでチャラにしてあげる」
「ごめん」
「それで、もう落ち着いたの?」
「なによ、最初から落ち着いてるわよ」
なんて軽口を言ってみる。軽口が言える程度には落ち着いたようだ、と自分で思った。
「よく言うわ。完ッ全にキレてたくせに。目が据わってるってどころの話じゃない、悪魔に取り憑かれて破壊衝動に飲み込まれたのかと思ったくらい。私怨による妖怪退治は、楽園の素敵な巫女の守備範囲ではないわ」
「う……」
巫女のくせに巫女のくせに、とアリスは言った。
「でも安心したわ。貴方の不自然なまでの公平さは、見てて危ういから」
「危うい?」
「目を離した隙にどこかに消えてしまうような……ふとした弾みでいなくなってしまうような……なんて言うんだろう。何事にも固執しないから、何の未練もなく消えてしまう。神社に妖怪が集まるのは、そんな杞憂を抱いて貴方の様子を見に来ているのかもね」
「そんなまさか」
「ま、心の機微に疎い貴方にはわからないことでしょうね」
まるで自分が聡いような言い方だ。少し前までは自分だって他人に無関心だったというのに。
「だから安心したの。少なくとも魔理沙がいれば貴方は消えてしまわない。このまま魔理沙が弱ったままだと……貴方はずっと魔理沙の側にいるのかしら」
「守られてる魔理沙なんて想像も付かないわよ。本人も納得なんてしないでしょうし……そういえば、なんで魔理沙は弱くなったのかな」
「魔法使いが……というよりは魔女が魔力を失う例ってのは幾つかある。その一つが涙を流すこと」
「泣くと弱くなるってこと?」
「いいえ、涙といっても色々よ。嬉し涙、悔し涙、怒りで涙を流すこともあれば欠伸して流すこともある。その中でも魔女は自分を否定する涙で魔力を失うの。多くは自分の研究や魔力そのものの否定が魔力の喪失に繋がるんだけど、魔理沙の場合は……まぁ、そのまんまよ。たぶん"符"の通りだわ」
恋符。
「涙を流したんでしょうね」
「うー……」
「誰かさんは応えてあげるのかしら? 応えてあげるんでしょうねぇ。号泣して魔理沙魔理沙って狼狽してたんだから」
「そ、そんなこと! そりゃ……まぁ、あのときは……」
「好きなんでしょ?」
「うー……」
「恩人である私に素直に言ってみなさい?」
「うぅー…………」
「本当は魔理沙のこと大好きなんでしょ? あんなことやこんなことしたいんでしょ?」
「うっさい! 違うわよッ! ただ……ずっと一緒にいたいと思っただけよ……」
魔理沙がいなくなる。そんな考えが頭を掠めたとき、私は全力でそれを拒絶した。
いなくなって欲しくない。ましてや、それが死別だなんて許されることではない。ただそれだけを強く思った。
「プロポーズ……やるわね」
「――ッ!」
今のアリスには何を言ってもからかわれるだけだった。
必死に話題転換を探し当てる。
「と、ところで! どうしてあんな良いタイミングで現れたのよ!」
「ぎくぅ」
「なにその擬態語。大体おかしいのよあの見計らったようなタイミング」
そう、まるで、どっかで一部始終を見ていたような――。
「あ……ああ! あんた、もしかして」
「……ふしゅー、ぷしゅー、ピー」
「口笛を吹いて誤魔化そうたってそうはいかないわよ。しかも吹けてないし。ちょっとこっち見なさい。あんた、私が……その、見てた?」
参拝客が魔理沙ではなくて、失意に沈む足取り。呆然と縁側に座り込んで、うっすらと涙を浮かべていた情けない姿。
「な、なんのことかしら?」
見ていやがったな……。
「い、良いじゃない! そのお陰で里の人間が守られて魔理沙の位置も教えられたんだから!」
「開き直ってんじゃないわよ……大体、最初からあんたが出てればあんなことはならなかったんじゃないの」
「上海を操って戦闘したまま飛ぶなんて限度があるわよ。しかも二人相手にするとなると尚更」
「強かったの?」
「ううん全然。上海の狭い視点での遠隔操作じゃなかったら三秒で撃退できる程度。だから正直なところ、魔理沙の様子を見たときは私も驚いたわ。一対一でもぎりぎりだったのに途中から一対三だもの。よく貴方が行くまで持ち堪えたものよ。ただ……」
少しだけアリスの顔が険しくなった。
「服用しすぎたみたいね」
「……やばい薬?」
「ええ……やばいわ。これ、魔理沙のポケットに入っていたんだけど」
と言って小さな丸薬を取り出した。毒々しい色を帯びている。
こんなもの飲んで魔理沙は戦っていたのか。
「魔理沙の内臓はね、もうずたずたよ」
「……そんな」
「これ消費期限切れてるわ」
「…………」
「間違いなく下痢ね」
その心配は別にいいや。
「ああそれと、これ貴方がチルノに売ったっていうお守り? 魔理沙の頭部が軽傷で済んだのはこの氷のおかげね。帽子のリボンの裏に潜ませてあったわ」
「うちって御利益あるのね……」
「縁結びが何を言うか。交通安全に書き換えなさい」
「そんなことより魔理沙の魔力って戻るの?」
「そうね、戻るわ」
アリスは飴玉を一つ取り出して私に放り投げた。
「これは?」
「貴方が約束を守れば、ね。それはこの前買った飴」
「どういう意味よ」
「さーて、私はそろそろ寝るわ。流石に疲れたもの」
うーんと伸びをしてアリスはソファーの上で横になった。
私の質問に答える気はないらしい。
「カラ、コロ、ほむ……レモン味」
すぐにアリスは規則的な寝息を立て始めた。
それと同時に慌ただしい音。蹴立てるようにドアが開けられ、頭に包帯を巻いた魔理沙が元気に飛び出してきた。
「大変だッ! 生きてる! 私生きてるぜ!」
いつも通りの元気な姿に、なぜか鼻の奥がツンとした。
らしくない。いつから私はこんなに泣き虫になったのか。レモンの酸味のせいだ。
「あ、霊夢、元気だったか?」
「それは私の台詞よ……死に損ない」
「お、おい、なんだよ、泣くなよ……」
「うるさい泣いてないわよ」
全身の力が抜けて、私はぺたんと尻を付いて座り込んでしまった。
「な、なぁほら、泣くなって」
「うるさい泣いてないってば」
魔理沙が近付いてきて私の目元を拭う。顔を見られるのが恥ずかしかった。少し薬品の匂いがする魔理沙のお腹に顔を埋めた。
魔理沙は驚いたように硬直していたが、少しすると私の頭を撫でた。頭を撫でられると、こんなにも安らぐとは知らなかった。
「これでおあいこだぜ」
「……何がよ」
「泣いた数」
何がおあいこだ。こうして涙が勝手に出るのはもう何度目かもわからない。
「……あんま心配かけないでよね」
「悪いな」
「本当は、賽銭なんていらないんだから」
「なんのことだ? 意味がわからないぜ」
この期に及んで魔理沙は誤魔化した。もう私がすべて知っていることを魔理沙も知っているだろう。
それでも誤魔化すのが魔理沙らしく、そして、それをからかうのが私らしい。
「アリスが言っていたけど、あんたのお腹は大変らしいわよ。変な薬のせいで」
「……道理でな」
「流動食しか食べちゃダメだってさ」
「そいつはきついぜ」
「でも、飴なら食べられるんじゃない?」
がばっと顔を上げ、唇を突き出す。
「あげゆ」
唇の間に飴玉。
魔理沙の顔が面白いように赤くなり、
――――ちゅ、と。
何か。
柔らかく。
「……え?」
「……霊夢の味がするぜ」
目の前に、はにかんで笑う魔理沙の赤い顔。膨らんだ頬からカラコロと音がする。
「か、返しなさいよ! 一個しかないの!」
「んーーーーッ!?」
魔理沙の唇の奥から、強引に飴玉を取り出してやった。
やっぱり魔理沙の唇は甘く、レモンの味がした。
上海人形はしっかりと私達の方を向き、アリスは顔を真っ赤にして寝続けていた。
<了>
霊夢と魔理沙の行動もより相手に対しての想いが伝わってきました。
冒頭の話も楽しかったですし。(笑)
面白かったですよ。
半分くらい読んだ時、みつばさんの本気モードを感じました!
半端ない構成力と、この話の完成度に評価をいたします
これからは、レモン味の飴を舐める度に、涙が「ほろり・・・」と流れてきそうです
次回作も期待
一応幻想郷では捕食が目的にしろ何にしろ戦うときは弾幕ごっこ(スペルカードルール)が原則です
相手が弾幕ごっこを否定し、自分もそれに同意したなら弾幕ごっこをする必要はありませんが
弾幕ごっこに挑まれたなら弾幕ごっこで勝負しなくてはならないのです
また、弾幕ごっこは原則1対1です
それを破れば幻想郷の管理者にぶっ潰されます
なのであの妖怪たちは1回目に魔理沙を襲った時点で、博麗霊夢か八雲かどちらかに潰されたはずです
でなければスペルカードルールなどという妖怪側に甚だ不利なルールが幻想郷のルールになるはずありませんから
守らなくてもいいルールを誰が守るというのか…
そこが一つ気になりました
アリマリが俺のジャスティスだったのに、レイマリもサイコーですね・・・ぐふっ
>半分に割った銅鑼焼きが片方だけ大きかったら、少しだけ悩んだ後に小さい方を魔理沙に渡すじゃない
この件が私的にツボでしたw
ギャグとシリアスを織り交ぜて、尚且つお互いが引き立つようになっている構成も見事ですね。
そして霊夢と魔理沙を遠く、と見せかけて近くから見守っているアリスもいい。
こういうアリスは初めて見た気がしますが、中々いいですね。劇中の彼女が変わった理由は、一体何なんでしょうね。
無理やりケチつけるとしたら、もうちょっとキャラの心理描写なりを匂わす形で表現していたら、最高だったかも。
いや、この辺はただ単に私の好みでしかないんですけどね。
あと誤字一箇所見つけたんで載せときますね。
>「魔理沙の内蔵はね、もうずたずたよ」
「内臓」かと。
アリスも霊夢も魔理沙もいいわー。
ごちそうさまでした。
でも、それ以上に濃密なレイマリが私の心をくすぐりました。素晴らしいです。
次回作を楽しみに待たざるを得ません。
クオリティ高須クリニック
私の中では、上の方と同じくマリアリ、そしてユカレイ派だったんですが
レイマリもひとつのジャスティスになりそうです。
これしか言えなくてすみませんです。
ジャスティスが決定しそう……
3人ともかわいすぎる
危うく萌え死ぬところだった…!
こいつぁ・・・やばいぜ・・・!!!
何かおかしいぞそれ
時々蒸し返す内容で悪いんだがスペルカードルール(正式名称;命名決闘法案)の内容通りであってはいるんだよ、上の人のも
でも確かこっちの記憶が正しければ低俗な妖怪は人を襲うとかってあったような気がするんだが
あと全員がスペカルールに賛同してるなら慧音が村を守ってることに説明が付かなくなるぞ
同じ理由で紅魔館の紅美鈴も
イタズラする妖精も(迷子にされてそのまま死ぬ可能性もある)
ただ今の段階でそういうことを言うのは公式からの情報が少なすぎるのでやめたほうがいいんですけどねえ
どうも泥沼スレになりかねないので
そもそもスペルカードルールを作った博麗っていうのが博麗霊夢なのか初代博麗なのかによってかなり変わるし・・・
できれば小説を書く方は一応本体付属のテキストと求聞録に目を通していただいたほうがいいかも知れませんね
そして自分も見直さなくてはのう
内容はすごく面白かったですw
折角だし、これでレモンキャンディでも作るかな
糖尿病になりそうだっぜ
最高ですた
スペルカードルールに1vs1なんて法則はないと思います。
例:プリズムリバー三姉妹、永夜沙での自機がペアである
>>49
確か霊夢はスペルカードルールの作成に係わっていたはず(東方wikiより)
誤字報告
×一体三→○一対三
でもなんだか砂糖がぶ飲みしたような感じの甘さというよりも、まさにレモンキャンディのようにしみじみと甘酸っぱく、染み込むような感じの甘さでした。
こう、ニヤニヤするよりも、もっとこう、少しずつ甘くなってくるような・・・
そして個人的にはチルノがこの話でお気に入りになってしまいましたね~・・・;
霊夢の後押しをしたり二人を見守ったりするアリスかわいいよアリス。
ごちそうさまでした。
さ、砂糖、溶かして、ひきょ・・・
・第三者がコメントにコメントを返す事
この禁止事項も読めないくらい日本語に不自由な人が増えたなあ。
適度にシリアスで適度にライト、糖分だけは過多。
軽口の叩き合いとか、アリスのポジションとか非常に好きです。
その認識が全て吹っ飛びました。
アリスがいいキャラすぎますねえw
素直に作者の描く幻想郷をもっと読みたいとおもいました。
特にアリスが何故かわっていったのか、気になりすぎるw
純愛というのはいいものですね。
おそらくそれが幻想であると思えるからこそ。
糖分の過剰摂取で脳味噌が沸騰してきた
それはそれとして誤りかと思われる部分がありましたので記述します。
中盤でアリスが霊夢に指摘しているシーンで
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半分に割った銅鑼焼きが片方だけ大きかったら、少しだけ悩んだ後に小さい方を魔理沙に渡すじゃない。
他の人だと悩みもしないで小さい方を渡す癖に。
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前者は大きい方になるのでしょうか。
霊夢とアリスに共通の「他人に興味がない」という設定を挙げながらも
それを百合にもっていくのは中々難しかったのではないかと思います
ただ、その無関心がなぜ、どのように変化していったのかを作中で
もっと丁寧に説明できると、より良かったのではと思います
時々出てくる乙女加減に悶えながらも、スッキリ読み進められました。
その中でも良き友人なアリスが好き。途中何回も転がり回ったのは6割方アリスのせい。
いやあ、乙女過ぎる魔理沙に悶えたw
あと銅鑼焼きの行で爆笑しました。結局小さい方あげるのかww
半分に割った銅鑼焼きが片方だけ大きかったら、少しだけ悩んだ後に小さい方を魔理沙に渡すじゃない。
他の人だと悩みもしないで小さい方を渡す癖に。
----------------------------------------------------------
これは別に誤りじゃないと思いますが。貧乏巫女的に。
いやしかし甘い。甘甘だぜ。
後書きが今ここに実現。相も変わらず霊夢が素晴らしい。クールなアリスが好きな
私には更に素晴らしい作品でした。触発されて投稿する事に決めました(いつ書き
終わるかは分かりませんが)。
なんにせよ、非常に楽しめました!グッジョブです
>19さん
設定との違いは作者の「ちょっと違うけど勘弁してください」という願望が混じってます。読んでくれる人への甘えです。
なので、公式設定周辺への突っ込みはもうごめんなさいと謝るしか。設定を活かしきれなかった私の力不足でした。
>86さん
そこは小さい方でお願いします。きっと霊夢はどら焼きが好きなんです。
>ぷらさん
ファン? いいえ大ファンです。そしてそれに気づく貴方も瑞っ子ですね! 是非今度語り合いたい。IRCでお待ちしておりm
ともかく秋山節、最高です。これを書くのに二度読み返し、1,2,3から好きな描写や文章を改悪して使いました。文体やテンポも最後の方のみですが意識して真似てます。近づきたいものです。
アリスの立ち位置や性格が、かっこいい女の子でした。
魔理沙の恋色具合が少女すぎる神。(言語が
霊夢かわいいよ霊夢。(久しぶりにそんな霊夢
GJです。
読み違え失礼しました。穴掘ってきます。
この二人には表裏一体運命共同体というイメージを持っていたので
やっぱり一緒にいてくれるとうれしいなあ
どこかの漫画の出典ですが、「平等なすべての人の中で、誰か一人を特別にすること、それが愛」ってのを地でいってますね
>強烈な違和があった。
感が抜けているような。
>言葉ぶつける。
をが抜けているような。
もうこれしかいえないです
個人的には、あれだけ暗躍しながら最後顔を赤くしてる初心なアリスが最高
アリスは覗くためだけに術を・・・
レイマリ甘いよレイマリ
いいぞもっとやれ
恋の話なのにわりとさばさばしたやり取りをしているのが幻想郷らしく感じたり。
>強烈な違和があった。
違和は違和でそのまま使いますし、これは誤字ではないでしょう
これを読んで俺もSSを書く決心がついたぜ、ありがとう。
そして霊夢が助けに行くシーンでは振り上げていましたが、上海のおかげで降ろすことが出来ました。
両断しなくてほんとによかった。作者さんありがとう。
ニヤニヤ
甘いけど何度でも味わいたいっ!
>両手を合わせから
合わせてから
100点だもの。
と叫びたくなるような伏線&糖分の多さにインスリンと食塩水in目が過剰分泌でした。
あぁ、レイマリに幸あれ
まさかこういうのも書く御方だったとは。
最高やあああああああああああ
前半部のような恋仲のいないほのぼの作品ももっと見てみたいですw
あなたの作品には有無を言わせず引き込む魅力がありますね~、相変わらず。
今後とものんびり期待してます!
私にとってのレイマリ像の完成形の一つがこんなところにあったなんて……
登場人物も全員活き活きしていて読んでいて楽しかったです。
今更ですが甘々なレイマリごちそうさまでした。
いやぁ、甘さもさることながら伏線の張り方と回収が巧くて良いですね
そしてチルノ株が急上昇中
くぅ、五臓六腑に染み渡るレイマリ。