Coolier - 新生・東方創想話

take out,hand out -Stardust Serenade-

2008/08/18 16:13:49
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 今週は流星群が来るらしい、と。不意に、そんな言葉が耳に入った。
 取り立てて興味がある訳でもなかったが、特に鮮明に聞こえたのは何故だろうか。
 咲夜は代金を払う手を僅かに止め、思案に耽った。


「……お嬢さん?」
「――あぁ、ごめんなさい。これで」
「毎度」


 振り返ってみたが、野菜のひしめく店内には誰も居なかった。
 先ほどまで居た客が話していたのか、店先を通りがかった村人が話していたのか。
 どちらにしろ、確かめる術はもうなかった。


「……今週、流星群が来るらしいですわね」
「さぁて、ソイツは知らねぇなぁ。こちとら、星が降るよりお天道様から日光が降る方がありがたいさね」


 それもそうですね、と挨拶をして店を後にした。
 ここ数日、日光は幾許も差し込んでいない。梅雨なのだからおかしくはないのだが、そんな時に流星群の話をわざわざ持ち出すのも妙な話だ、と咲夜は思った。
 それが今日なのか明日なのか知らないが、例年通りなら向こう一週間はずっと曇っていると見ていいだろう。そんな事、そこいらの子供だって知っている。
 だから流星群が来ようが来まいが、見られる訳はないのだ。途端に真面目に考えるのが馬鹿馬鹿しく思え、何に対するでもなく彼女は鼻で嗤った。









 蔦を編んで作られた椅子は、ギッと僅かに悲鳴を上げて咲夜の体重を受け止めた。
 砂糖をスプーンでかき混ぜる甲高い音が、薄暗い室内に染みていく。喫茶店の空気は、その暗さ故か、外よりも重い気がした。
 ――用事は戻れば山ほどある。しかし彼女は特に急ぎもしなかった。主は一人で出かけてしまったし、普段の雑務は済ませている。
 待っている用事とは、つまり役に立たないメイド達の後始末であった。ならば急いで帰る必要もない。一服済ませてから戻ったとて問題はないだろう。
 客人が要らぬ用事を増やさぬ限り、ここ最近彼女はずっと暇であるとさえ言えた。――主不在の館に、メイドは必要なのだろうか?
 幻想郷が入梅して十日ばかり経っただろうか。梅雨とは名ばかりの降雨量に、咲夜はむしろ苛立っていた。
 雨が降らない曇天。それはレミリアにとって、日中でも動き回る事の出来る最高の環境下だった。彼女は夜行性であるので、普段は相手があまり居ないのだ。
 故に、この時期は咲夜の心にさえ暗雲をもたらした。
 主は始終自分を放って神社へ遊びに行く。これではお付のメイドとしての顔が立たない、と彼女は憤っているのだ。
 紅魔館主としての尊厳、夜の王たる悪魔の化身が仮にも神の住まう社へ遊びに行くなど以ての外。
 その他諸々主への不満があったが、傍から見れば、彼女は主に放っておかれて拗ねているのだった。


「あや、貴女が一人でいるのは珍しいわね」
「……ん、天狗か。貴女こそ、人里で会うなんて珍しいんじゃないかしら?」
「私はちょっと聞き込みにね。あ、珈琲を一つ、濃い目で」


 マスターに声を掛けてから、文は断りもせずに向いに座った。
 今しばらくアンニュイな朝を過ごしたかった咲夜としては少々邪魔であったが、一人で居ると余計に気分がダウンしそうだったのは間違いない。
 もちろん相手はそんな事を考えてはいないだろうが、咲夜はその邂逅を是とした。


「んー、徹夜明けのこの一杯、効きますなぁ」
「あら、砂糖もミルクも、何もなしなの?」
「ふふ、この苦味こそがいいんじゃないの。まぁ、貴女はまだ若いから分からないかもしれないわねぇ」


 ピンと立てた人差し指をチチチと左右に振って、文は茶目っ気たっぷりに揶揄した。
 無論彼女に相手を愚弄する意図は全くなかったのだが、しかし咲夜は妙に黙り込んでしまった。
 大人の余裕を見せ付けているつもりなのか、目を閉じたまま口元に笑みを湛えていた文も、澱んだ空気を敏感に感じ取る。


「あれ? 何かまずい事でも言ったかしら?」


 普段ならもっとパンチの効いた皮肉を言ってもストレートに返してくる。
 彼女の意外な反応は、文に違和感を抱かせるに十分だった。


「……天狗から見ても、私は若輩者。なら、お嬢様からすれば、私はどれだけの価値があるのかしらね」


 咲夜はカップの珈琲に映る黒い自分を見つめながら訥々と言葉を紡いだ。
 端正な顔立ちから年齢以上に大人びて見られる彼女であったが、今の彼女は表情こそないものの、泣きじゃくる幼子のようにも見えた。
 事実彼女は泣いてなどいないし、深い事情など知り得ないが、それでも文は自分が見た咲夜の顔が見間違えではないと確信する。
 普段が普段なだけに忘れがちであるが、彼女はまだ二十歳にすら達していない少女なのだ。


「今の仕事が、嫌い?」
「何をバカな。私はメイドよ? 仕事に上下も貴賤もない。あるのは、ただの主従関係よ」


 咲夜はしかし、憎々しげに即答した。それは如何にも模範的な回答であったが、文にはその答えが彼女の心情とは酷く乖離しているように感ぜられた。
 恐らくそれは正解で――彼女はきっと本音と建前との板挟みになっているに違いなかった。
 咲夜はカップを僅かに傾け、湯気立つ熱い液体を舐めるように飲む。
 熱は喉を通って胸に広がり、気分こそ晴らさなかったものの、気持ちを少し落ち着けたようだった。
 ほぅ、と息を吐く彼女を見つめて、文は微笑を漏らした。


「……何かしら?」
「そんな顔もできるんだな、と思って。貴女はもっと素直になりなさい。笑顔は周囲にも自分にも活気をもたらすものよ」
「考えておくわ……悪かったわね、愚痴に付き合わせてしまって。そろそろ戻るわ」
「――あぁ、ちょっと待って下さい」


 立ち上がった咲夜を、カップの残りを一気に飲み干して追いかける。
 ようやく雨でも降り出したのか、もしくはそれすらも空間を操る能力なのか。
 陰鬱な彼女は周囲の空気さえ暗澹とさせて、文を顧みる。外の世界を背負い立つ彼女は逆光も相まって、影絵のようにも見えた。
 或いは、事実その時の彼女には、顔がなかったのかもしれない。


「今晩、お暇ですか?」
「……さぁ、暇かもしれないし、暇じゃないかもしれないわね。パチュリー様に聞いて下さる?」
「ハハ、分かりました。お暇を頂けるよう交渉しておきますので、出かける用意をしておいて下さい」


 それだけ言い残して、文は柔らかい雨の匂いが混じった風を纏って外へ飛び出した。
 チャリ、という硬質の金属音に振り返ると、カウンターの上には珈琲二人分の硬貨が踊っている。
 次第に速度を失い、回転する最後の硬貨が一際高い金属音と共に倒れるのを見届けてマスターは、またのご来店を、といつもと変わらぬ挨拶を口にするのだった。









 雨に濡れる紅魔館はモクモクと黒い煙を吐き出していた。発生源は御多分に漏れず大図書館である。
 一体何の実験に失敗したのか、紫色に身を包んだ図書館の主は眉をしかめて咳き込み、小悪魔や他のメイドは何をすればいいのか分からず右往左往していた。
 今ばかりは火災を未然に防いだ梅雨に感謝すべきだろうか。
 しかし粉塵立ち込める焦土の室内で焦げ跡の一つも濡れる事もなく聳える本の山を見て、咲夜は小さくない溜息を漏らすのであった。


「あぁ、咲夜。丁度いいところに」
「パチュリー様……今度は何を?」
「ここ最近ずっとジメジメしていたじゃない? それを晴らす実験をしていたのだけれど……ロイアルフレアが暴発してしまって」


 言い終えると同時に再び咳き込みだした賓客を右手で制し、咲夜は片付けに取り掛かった。
 メイド妖精は指示を出せば動くが、言われなければ何もせずにジッと見ているだけである。
 清掃と修理の作業をシミュレートして細分化し、矢継ぎ早に指示を出していく必要がある。
 とは言え、到底一日で終わる作業ではない。今日一杯は清掃しかできないだろう。修理は明日以降だ。
 とてもではないが、天狗と外出する暇などないな、と咲夜は嘆息した。
 そして、ふと気付く。――嘆息したという事は、自分はあの天狗と出かけたかったのだろうか、と。
 多少の心苦しさがあるのか、左手で口許を覆ったパチュリーも堆く積まれた山脈に手をかけた。
 そして咲夜はその手に自分の手を重ね、微笑みながら顔を左右に振るのだった。









 清掃の作業は困難を極めた。
 いくら本が無事とは言え、棚には何の魔術処理も施されていない。
 全ての本に魔法をかけるだけで手一杯だったのか、単にパチュリーの過失なのか。既に炭素の塊と化したその棚を処分する必要があった。
 未だ棚に入ったままの本があれば抜き出し、棚を砕き、外に捨てる。一部は燃料用の炭として利用できそうだったが、大部分は燃えるゴミならぬ燃えたゴミだった。
 淡々とその廃棄を指示する咲夜を見つめながら、パチュリーは積み出された本に腰掛けていた。


「この時期は……何故梅雨と言うのかしら」


 誰に問いかけた訳でもないが、その問いは実質咲夜に向けられていたと言っていいだろう。
 事実湿度の高い図書館内部では、小さいその声は彼女にしか届かなかったのか、答えを知りながら問いかけたような口調に、咲夜は知らずパチュリーに顔を向けていた。
 パチュリーの目は、まっすぐに咲夜の目を射抜く。まるで、心の奥底を見透かすように。


「……確か、梅の実がなる時期に降る雨だからだと記憶していますわ」
「違うわ」


 咲夜の答えは真実である。だが、それをしてパチュリーは否と断じた。
 彼女が求めたものは、自然界に生きた人の感性などではなかったのだ。


「梅雨はね、故人を偲ぶ時に流す涙に由来する。『梅』は『埋め』に通じる。この時期は水害が多くて、多くの死人が出たのよ」


 そこまで一気に言い切って、パチュリーは一息つく。普段あまり喋らない分、偶に喋ると体に障るのだろう。
 目を閉じ、大きく深呼吸してから、彼女は再び咲夜を見上げた。


「貴女は何を悼んで涙を流しているのかしらね?」


 咲夜の背後を、メイド妖精達が何事か話しながらパタパタと駆けていった。
 その声が、足音が、頭の中で反響する。周りの喧騒とは裏腹に、二人の間は無音だった。
 全身の感覚が麻痺している、と咲夜は思った。足が地に着いている感覚がしない。頬を撫でる風の流れも感じない。
 変化がないという事は、つまり永遠だ。咲夜は時間を操る者であり、その枷に囚われた事はついぞなかった。
 それが今は、無限回廊の中に取り込まれたかのようにこの空間から抜け出せないでいる。
 ――酷く、暑い。きっと湿度が高いせいだ。湿度が高くて酷く暑いから、嫌な汗が止まらない。
 その汗が頬を伝い、危うげに顎で震えて、やがて地面に落下したその微かな音で、咲夜の時間は漸く動き始めた。


「……わたしは、なみだ、など、ながして、いませんわ」


 口許が強張って、碌に言葉が紡げない。膝は笑いっぱなし、全身汗まみれ。
 誰がこの少女を見て瀟洒だなどと言おうか。彼女は悪事が見つかった子供そのものだった。
 その様子から目を背けるように、パチュリーは新しく目の前に積まれた本の頂から一冊を手に取り、そっぽを向いた。
 そして、開いた本の中に顔を突っ込むようにして読み始める。もっとも、実際に本を読んでいるかどうかは定かではない。
 直後に彼女は、僅かに悲哀を感じさせる声色で話し出したのだから。


「ねぇ――咲夜。思慕にしろ恋慕にしろ、貴女が抱いている感情は悪いものではない。
昨年の今頃の貴女は宇宙人どもの相手でレミィと一緒に行動していたし、一昨年はレミィが霧を出していた頃だったわね。
いつも貴女達は連れ立っていた。比翼の鳥、連理の枝とでも言うのかしら」
「……私からすれば、ですわ。私はお嬢様が居なければ……でも、お嬢様は、私が居なくても……」


 両腕で自分の肩を抱き、咲夜は震えた。
 そうしないと、悪寒に恐れ戦く自分が砕けてしまいそうだったから。
 愚かな自分が想像し得る、最悪の未来を幻視してしまいそうだったから。


「妖はあまり集団を好まない。大抵、一人で何でも出来るから。でも咲夜、貴女は人間よ。
人は群れるもの。大抵、一人で何も出来ないから。妖怪の住まう館で一人佇む貴女は、今まで寂しいとすら感ぜられなかったのかしらね」


 尚も言葉を紡ごうとして、パチュリーは体を折って咽出した。
 ふと見上げた室内に埃が舞う様子を見て取り、咲夜は咄嗟に図書館を広げた。埃の密度を少しでも下げる為である。
 ようやく収まったのか、一しきり咳き込んだパチュリーは肩で息をしながらも立ち上がった。


「えぇい、忌々しい喉め。この大事な時に」
「パチュリー様、今はお休み下さい。無理をしますとお体に……」
「今は無理をすべき時なのよ。咲夜、よく聞きなさい。
貴女達人間の生は短い。一世紀も生きられない貴女達に後悔などしている暇はない。
従者が主の行動に口を挟むのがおこがましいとでも思っているのか、それとも種族による寿命の違いか。
どちらにせよ、どうでもいい事だわ。貴女は貴女の生を全うすれば、それでいいのよ」


 そこまで普段に輪をかけて早口でまくし立てて、パチュリーは青白い顔をしてよろめいた。
 喋り続けていた様子を心配していたのか、近くで作業していた小悪魔が慌ててそれを支える。
 汗まみれで苦しそうに息を吐く客を床に横たえ、華奢な膝で枕を作り、息が落ち着いたのを見届けてから、小悪魔は微笑みながら咲夜を見上げた。


「パチュリー様、最近の咲夜さんの気分が優れない様子をずっと気に掛けられていて、天気を晴らす魔法をほぼ徹夜で作ってらしたんです」
「私の、為に……?」
「紅魔館のものは皆、咲夜さんの心配をしてます。それだけ、咲夜さんの事が好きなんです。――もちろん、私も」


 小悪魔はニコニコと、邪気を微塵も感じさせない笑顔を咲夜に向けた。
 その口から発せられた言葉はきっと真実で、故に咲夜は不覚にも目頭が熱くなるのを感じたのだ。
 思いがけない反応にしかし微笑みながら、小悪魔は噛み締めるように話し出した。


「先ほど、咲夜さんが帰る少し前、鴉天狗の新聞記者の方が尋ねてこられました。パチュリー様は咲夜さんの外出を容認されていたようですよ。
七時過ぎに迎えに来る、だそうです」
「でも、これでは……」


 咲夜は未だ凄惨たる室内を見回した。
 本棚はあらかた片付いたが、ガレキに本の撤去、焼け焦げたカーペットの処理に煤だらけで真っ黒になった電球の交換。
 今日中にやる事はまだまだ残っている。
 だが小悪魔はその惨状を見渡して、やはり微笑んだ。


「大丈夫です。片づけくらいなら私でも出来ます。それに――」
「私も、居るわ」


 いつの間に気が付いていたのか、小悪魔の膝に頭を預けたままパチュリーは口を挟んだ。
 そもそもパチュリー様が散らかしたんですよ、と小悪魔は苦笑混じりに茶々を入れたが、パチュリーは聞こえていない振りをした。


「私は紅魔館の問題を解決する役目を負っている。咲夜、貴女はとても仕事が出来る状態にないわ。今夜は暇を出すから、休みなさい」


 有無を言わせぬ、彼女にしては強い口調でパチュリーは告げた。
 彼女にしても、夜の読書をより一層充実させる紅茶が出ない事は非常に残念である。
 だが、優秀なメイドがこのまま居なくなることを考えれば、この程度の損失は大したデメリットではなかった。
 故にパチュリーは断じる。主不在の紅い館を守る為、そして、古き友人の為に。
 己の不甲斐ない失態、小悪魔の柔らかい笑顔、そして何より客人の「命令」に、咲夜は遂に出かけざるを得なくなったのであった。
 了承の意を伝えて尚も笑顔で追い出しにかかってくる小悪魔に苦笑しつつ、咲夜は軽い溜息と共に図書館の重い扉を閉じた。


「さて、これでお嬢様が帰ってきたら、咲夜さんが居ないとお騒ぎになりそうな気もしますが」
「いいのよ」


 そう言ってパチュリーは小悪魔の膝の上で頭をグリグリと動かし、ベストポジションを探る。
 結局真上を向いた状態が一番安定するのか、目を閉じ指を組んだ彼女は柔らかい微笑を湛えた。


「私は、紅魔館の問題を起こす役目も負っているのだから」









 良いから良いから、と天狗は言った。全然良くないとは思いながらも、雨上がりの宵闇を着いていく以外の選択肢が咲夜にはなかった。
 活気のなくなった人里を越え、暗い森を抜け、少しばかり水かさの増した渓流のほとりに辿り着く。
 秋になれば見事に紅葉するであろうその渓谷は、しかし逢魔が時の闇に包まれ、ブラインド越しの映像を見ているようですらあった。
 不安定だったのか、足を置いた岩が不意にグラリと揺れ、いくつかの石が小さな水音を立てる。
 夜目は利くつもりだったが、山を動き回る事に関しては天狗の右に出るものは居まい。それが夜なら尚更だ。
 一人先に進んでいく案内人に苛立ちを覚え始めた頃、当の本人が足を止め、手招きをした。
 周囲を深い木々に囲まれつつもポッカリと空に穴が開いたそこが、どうやらこの珍妙な夜の終着駅らしかった。


「……で、こんな人気のない所に連れ込んで、どうするつもりなのかしら?」
「フフフ、さて、どうしましょうか」
「拉致の現行犯ね。記者が記事のネタになるなんて、世の中はよく出来ているものですわ」
「せっかちな方です。――今日は、星を見ようと思いまして」


 今日は流星群があるのだと、どこかで聞いた事を天狗は繰り返した。
 甘い雨の匂いに包まれた店内の空気を思い出しながら、咲夜は嘆息した。
 星も何もない。頭上を見てみるがいい。地面があるのかと見紛う程の雨雲が天地を隔てているだろう。
 煌々とした星の瞬きも、冴え冴えとした月の光も、その壁を越える事は能わない。そんな事、もうずっと前から分かっている事だった。
 未練がましい光が途絶えて、山は完全に闇に包まれた。
 天狗や河童の住処にはきっと灯りがあるのだろうが、何の光も届かないここは山の中でもよほど寂れた所らしかった。
 期待というほどのものではなかったが、少なからず何らかを予期していた咲夜は裏切られたような心持ちで、背後の古木に寄りかかる。
 ――最近、腕組みと溜息が癖になっている気がする。
 ストレスが溜まっていると認めたくはないが、紛れもない現実がそこにあった。
 そんな咲夜の様子が見えているのかいないのか、文は軽々と岩の上を飛び回り、その姿は既に川の中ほどにあった。


「星はお嫌いですか?」
「嫌いではないわ。けれど、曇天の天体観測は嫌いね。見えないから」
「本当に、せっかちな方です」


 文は微かに笑った。それは無知を嗤う風でも無学を哂う風でもなく、強いて例えるなら、親が子供の我がままを聞いて苦笑する様に似ていた。
 事実そうであったのだろう。文はこの完全で瀟洒な若輩者に、ある種の母性本能すら感じていた。
 元々事情通の文である。若い身空でメイド長を務める彼女の心労は十分に知っていた。
 普段は隙を見せず余裕すら感じさせる彼女が、消極的とは言え相談してきたならば、ついつい構ってやりたくもなろうというものである。


「今日は星が見えないかどうか、そこでよく見ていて下さい」


 言い終えた時、文は既に挙動に入っていた。右手に持った扇を袈裟切りとは逆の要領で振り上げる。
 腰から頭上までの一メートルにも満たない程度の挙措で、ただそれだけで、彼女の行動は終了する。


 そして――それは正に、星を見る為の準備であった。


 背後から風が咲夜の脇をすり抜け、彼女の亜麻色の髪がその頬を撫でた。
 彼女はその風に驚く。激しさにではない。むしろ、眼前の光景との対照的な優しさにだ。
 咲夜が呆然とするのは、彼女が天狗が如何なる種族か、忘れていたからであろう。
 確かに彼女の主人や鬼などは見せ付けるように力を振るい、強者としてのイメージも濃い。
 それに比べると、普段の天狗にはそうしたイメージは似つかわしくない。
 だが、古来より恐れられてきた妖怪としての側面が、純然たる事実として彼女の目の前にあった。
 文を中心とした暴風の渦は遥か上空まで舞い上がり、頭上の壁を打ち払っていたのである。
 にも関わらず、どんな細工を施したのか、それともこれが風を操るという事なのか、咲夜は撫でる程度の風しか感じなかった。
 風は、あくまで彼女達の上でのみ吹き荒れていたのだ。


 今なお荒れ狂う頭上を、時を操る少女は時を忘れて見入っていた。
 不可能と信じたその壁は、今まさに砕けていくところだった。
 そして最後の一陣が吹き抜け――あぁ、海を前に、偉人は何を為しただろうか――空は、開かれた。
 ポッカリと開いた森の穴に、更にポッカリと開いた雲の孔。その先に望む満天の星空は、まるで万華鏡のようでもあった。
 万華鏡はクルクルとその絵を変えるものだ。
 だからその万華鏡も、次々に絵を変えていた。


「……流星群……」


 己が吐いた言葉を、きっと咲夜自身も気付けなかったに違いない。
 それほどその呟きは幽かなものだった。
 その様子を見て取り、文も満足気に空を見上げる。
 光は音もなく二人に降り注いだ。


 その時だった。
 流れ落ちる光の矢に、変化が生まれる。
 その光は直線的でもなく、速くもなければ連続性もない。そもそも、向きが逆だった。
 鈍く緑がかった緩慢な流れ星は、明滅しながらフラフラと空へと登っていく。
 その数は次第に増え、辺りは不思議な光に包まれていた。


「蛍ですね。――もう、そんな時期でしたか」


 光の群れは右へ左へ、風に揺られて波のようにたゆたっていた。
 消えては現れるその光は、まるで時間を止めて移動しているかのようでもあった。
 そんな蛍を、咲夜は美しいな、と感じた。
 それはきっと人には為し得ない光だろう。その天然のマジックに、彼女は完全に魅了されていたのだった。


「蛍が出ると、梅雨も漸く終わりですね。新聞が濡れなくて助かります」


 手頃な岩に腰掛け、文は大きく伸びをした。
 咲夜もそれに倣い、隣に座る事にする。
 見上げた空は、流れ落ちる流星群と舞い上がる蛍で埋め尽くされていた。
 それは、正に幻想的な光景であった。









 ――それから暫く。二人の間に言葉はなかった。
 語る必要がないのだ。どんな勢いのある感嘆の言葉も、美辞麗句を用いた比喩も、眼前の光景の前には色褪せてしまうに違いなかった。
 それでも、首に鈍い痛みを感じ始めた頃、咲夜はおずおずと言葉を発した。


「てっきり、何か諭されるのだとばかり、思っていたわ」


 その言葉が何を意味するのか、岩に横になっていた文は咄嗟には理解できなかった。
 目で問いかけてくる彼女に短い溜息を返しつつ、咲夜は苦笑した。


「お嬢様の事よ」
「あぁ――そうですね。何か言った方が良かったですかね」


 そう言って座り直し、文は再び大きく伸びをする。
 パタパタと背中の羽が揺れ、後ろの蛍が迷惑そうに左右に散っていった。
 大きく息を吐き、文は空を見上げた。


「流れ星って、今までに見た事がありますか?」
「一度や二度くらいなら、ね」
「どんな日に見えました?」


 妙な事を聞くものだ、と咲夜は訝しむ。
 流れ星が見られるのは――稀に普通の日でも見られるが――大抵は流星群が来た時と相場が決まっている。
 ならばどんな日かと言えば、流星群が近づいている晴天の日であろう。
 その答えを、天狗は笑って否定した。


「流れ星は、実はいつでも見られるんです。明るさに紛れて見えないだけで、こうした灯りのない場所ならどこだって見られるんですよ。
貴女の館は夜通し灯りが付いているから、分からないかもしれないですが」


 口許を歪ませて、彼女は悪戯っぽく笑った。


「でも、見えなくとも、確かにあります。そこに存在するんです」


 絆ってそんなものですよ、と彼女は最後に付け加えた。
 その口調は普段と何ら変わらず、だからその言葉は重く沈んでいた咲夜の心情に全く合わず――だからその言葉は、咲夜の心にスッと入り込んだ。


「絆、か」
「絆、です」


 咲夜の目の前で、一匹の蛍が弱々しい光を放ちながら滞空している。
 左手をかざすと、蛍はその指先に降り、一際強い光を放ち始めた。
 光の強さから見て、ゲンジボタルだろうか。彼女の目には、その蛍が他のどれよりも強く光っているように見えた。


「お嬢様は私を必要としていると思う?」
「さぁ……それは私には答えられません。貴女達の絆が答えを知っているでしょう」
「そう、そうね」


 微笑んだ咲夜の動きに驚いたのか、蛍は飛び立ってしまった。
 フワフワと昇っていく蛍を見つめ、咲夜は今日何度目かの短い溜息をついた。
 けれどそれは決して重苦しいものではなく、むしろ晴々としたものであった。


「あの答えだけれど」
「どれですか?」
「今の仕事が嫌いか、という問いの答えよ」
「あぁ」


 咲夜は文を顧みた。
 彼女はきっと年相応に笑っている。
 例えどんな闇の中に居たって分かる。その声が、その空気が、彼女の笑みを含んでいる。
 そして何より――


「大好きよ。メイド長というその地位こそが、形として表されたお嬢様と私との絆ですもの」


 輝く夜の中で、彼女は一際輝いていた。









「山に帰るんだから、わざわざウチまで来なくても良かったのに」


 紅魔館の裏門の前で、咲夜は呆れたように言った。


「いえいえ、貴女をお預かりした身ですから、責任をもってお返ししないと。狗同士、中々楽しかったですよ」


 そう言うと文は、トッと地面を蹴り宙に浮かんだ。


「狗同士?」
「貴女が悪魔の狗なら、私は天の狗ですよ。ただ、それだけです」


 紅魔館はいつにも増して明るく、そして騒がしい。
 もしかしたら、主が帰っているのかもしれない。
 咲夜は自分の職場を見上げて微笑み、やはり嘆息した。


「そう言えば貴女、昼から敬語になっていたけれど、三流紙面に私やお嬢様の名前が載るような事はないでしょうね?」
「いえいえ、まさかまさか」
「ふぅん? お山の天狗と言えど、紅魔館を相手取るには厳しいでしょうけれど、ね」


 今度は文が溜息をつく番だった。


「ハァ……分かった、分かりましたよ。――半日かけたネタがパーじゃない」
「今度珈琲でもご馳走するわよ。店屋物じゃなく、ウチのをね」
「珈琲に店屋物も何もあったものじゃないわ」


 苦笑いと共に、文は空を駆けていった。
 振り返ると、雲が薄くなったのか朧気に宙にぶら下がった月と、冷たい光に晒された紅魔館が浮かび上がっていた。
 窓辺に主のシルエットを認め、咲夜は歩き出す。自分の、居場所へ。
 その背中に、最後の流れ星が一つ、幕を閉じた。



(了)
今夏は満月や曇天のせいで流星群が見られませんでした。せめてSSの中でくらい……という衝動。
リグルさんも出したかったのですが、話に絡めさせられず、やむなく断念。

それでは、読んで頂きありがとうございました。
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コメント



0.840簡易評価
2.100ルル削除
そういえば、今年は残念でしたねぇ。雲間から見えた地域もあったようですが…

とても「静」かなお話だったと感じます。
あと、登場キャラのセリフや雰囲気が「らしく」って良かった。
5.90名前が無い程度の能力削除
>「……天狗から見ても、私は若輩者。なら、お嬢様からすれば、私はどれだけの価値があるのかしらね」
とありますが、文の方がレミリアよりも年上だったと思うのですが・・・。
意図していることが違ったり、勘違いでしたら申し訳ないです。
7.80からなくらな削除
なんか、最近良作ばっかですねぇ
とても良い作品だと思います
↑のルルさんと同じような感想になりますが、
キャラクターが「らしかった」と感じました