各種おことわり(多くてごめんなさい)
・ オリ設定やオリキャラ、果てはオリ勢力までわんさか出ます。
・ フィクションです。実在の人物・団体・事件・思想等とは一切関係はありません。
・ 以下の一次?設定を踏まえてお読みください。
「昔の虫の妖怪は鬼・天狗クラスだった(文花帖)」
「アポロ計画の実態は隠蔽されている(儚月抄)」
「これが舎密? 魔法を捨て(ry」
ではでは……
――――2008年某日、諏訪
今月の17日であの有名な『諏訪湖水消失事件』から丸一年である。
この事件と己の内にある奇妙な記憶とは、何か関連性を持っているのではないか――そう篠田健二は思っている。
篠田がまだ中学生だった頃だ。
あの日は珍しく早朝に目が覚めたので、諏訪湖の湖畔を散歩していた。日付は五月の二十日頃だったように思う。ただ、その記憶自体が全体的に糢糊としているから、あまりあてにはならないかもしれない。
湖畔を二十分ばかり、とぼとぼと歩いたときのことだった。
ほんの一瞬ではあるが、篠田は気を失ったのだ。
そして次に篠田が目を覚ましたとき――
――松本にいたんだ……
時計を確認したが、その間はわずかに数分ばかりだった。だというのに諏訪湖を散歩していた篠田は、忽然と松本城の門前へと飛ばされていたのである。
何が起きたのか、まるで分からなかった。当たり前だが、数分で移動できるような距離ではない。
神隠し――思わずそんな馬鹿げた言葉が思い浮かぶほどだった。
散歩に出かけただけだったからロクにお金も持っておらず、篠田は途方にくれて朝の松本の街をさまよい、そうして駅前の交番にたどりついたのだった。
それで佐山という名の初老の警官が篠田の応対に当たったのだが、彼としばしの間やり取りを交わしていたところ――
――今度は戻ったんだ
またしても一瞬で諏訪湖に移動したのだ。
やはり時間にして数分である。
白昼夢かと思った。
しかし後に確認してみたところ、あのとき応対にあたった佐山という警官は実在していた。そして当然、篠田は彼と面識などはなかった。
大体篠田はあの時点では、生まれてこの方一度も松本を訪れたことなどはなかったのだ。
――そういえば
あの日早朝の松本で、篠田は妙なものを目撃していた。
周知の通り、日本国内には何箇所か外国の空軍が駐留しているが、恐らくはそこのものと思われる戦闘機が上空を通過していったのだ。
それも一つや二つではない。いくつもの編隊が、である。
それが本当に戦闘機の類であったのかどうかは今となっては判然としないが、ただ思春期の少年にありがちなことで、当時の篠田は軍事兵器だの何だのには詳しかったから、少なくともそれに準ずる何かではあったのだと思う。
――しかし
篠田は政治のことなどはよく分からないが、市街地の上空を空軍機が通過するなどということがあるものなのだろうか?
よしんばそうしたことがあり得たとして――しかし後に調べてみたところ、その日そのような大規模な演習であるとか出動であるとかが為されたという記録は見付からなかった。
あれだけの数の戦闘機が出張っていたのだから、何かしらの記録があってしかるべきなはずなのである。
無論、全てが篠田の思い込みや勘違いの類であるという可能性の方がずっと高いということは、篠田自身も分かってはいるのだが――
「何なんだ、まったく……」
そろそろ暑さも収まりつつある諏訪の地を見やりながら、篠田はため息をついた。
―― 第一章 ~ シルクロードアリス ~ ――
――――199X年5月2日、中華人民共和国
東は山海関から西は嘉峪関へと至るこの長大な建造物が完成したのは、明王朝の頃なのだという。
無数の城と、関と呼ばれる要塞が連なった、かつての北方民族対策の要衝――万里の長城である。
刻限は夜、空には半分より少し欠けた弓張りの月が昇り、地はただの黒い影の連なりと化している。人工物のはずの長城の上には、しかし人の気配はまったくなく、まるで最初から自然の一部としてそこに存在していたかのように背景に溶け込んでいた。
その長城の柵の上に、一人の少女が所在なさそうにして座っていた。
豊かな髪は蜂蜜色。上半身を覆う衣服は肩の辺りで破けたふうになっていて、細く華奢な腕が夜気にさらされている。
その頭には、華奢な体躯とは不釣り合いな大きい二本の角――少女は名を伊吹萃香という。極東の国の、鬼と呼ばれる古い種族である。
両の手首、および背後で結わえられた髪には、無骨な感じの鉄鎖が下げられている。
左の鎖には黄色の丸、右の鎖には赤い三角、そして背面の鎖の先には青色をした四角形。それぞれ無、調和、不変を表している。
妖怪の山の内部には、河童や天狗たちにより穿たれた結界の穴がある。
萃香がそこから幻想郷を抜け出し、そこかしこを渡り歩くようになってからかれこれ数年ばかりになる。
それなりに多くの場所を巡ったが、その数年を通して萃香は――陽気な彼女にしては珍しく――かなり消沈していた。
外の世界にはもう、自分たちの居場所はなくなってしまっていた。
鬼に限ったことではない。
人ならざるモノへの畏怖心。
神たる存在に対する信仰心。
そして意志の力――即ち魔法の力。
そうしたものがどれもこれもことごとく、『だめ』になってしまっていたのだ。
今は科学が魔法を凌ぎ、金が信仰に取って代わり、自然への畏怖は数理と技術を持って退けられる――そうした時代であるらしく、また一度始まったこの流れは恐らくもう止まりはしないのだろう。
人と鬼との、いや人と幻想との仲は、もう違えてしまったのだ。
――分かっちゃいたんだけどなあ……
抱えた瓢箪から酒を呷る。
しかし瓢箪の中にいる酒虫の力も『こちら』ではうまく発揮されていないのだろうか、鬼の世界ではこんこんと湧き出ていた酒が、ここではほとんど湧き出てこないのだった。
仕方がないから、数滴ばかり滴った酒で口腔を潤す。どうにもしけた感じだ。
「ちぇ、肩身が狭いなあ……あんたもそういうクチ?」
萃香がたずねる。
「まあそんなところ」
別の誰かがそう答えた。
いつの間にかの萃香の隣――柵の上に小柄な人影が一つ立っていた。
萃香もかなり背の低い方ではあるが、その人物はそれよりさらに幾分か小さい。子どもなのだろう。
上半身はフードの付いた灰色のパーカー。そのフードは頭にかぶせられているが、それと夜の暗さとがあいまって顔の部分は影になって見えない。下半身はひざ辺りまで伸びたハーフパンツ。その生地の及ばないひざから下は、横縞模様のハイソックスで覆われている。
声から察するに女の子なのだろうが、服装はわりとボーイッシュな感じだ。
彼女もまた人外の存在であるのだろうと萃香は判じる。
「忘れられたのかい?」
と、萃香。
「追われているのよ」
「追われている? 誰に?」
「悪い奴ら。いっぱいいる」
「ほう――で、誰さ?」
少女は少しだけ考える仕草をする。
「アポロ・プログラムの亡霊達」
そして萃香の問いにそう答えた。
「それは――たしかに厄介だねえ。1970の件については又聞きでしか知らないけど――ひょっとしてソロモン神殿の地下発掘とかまだやってるのかなあ? ご大層なこった」
「貴女、日本の人?」
「人じゃあないが――まあ、あそこには長く住んでいるよ」
「日本ってあっちの方角であっているのかしら?」
「大まかに言うなら誤ってはいない。日本のどこに至るかは知らんが……あんたは欧州の出かな?」
「うん。日本に行くのは初めて」
少しだけ楽しそうな声。フードのせいで顔は見えないが、彼女は笑っているようだ。
そして萃香は彼女は観察する。観察は萃香の特技であり、趣味でもある。
「あんたは――『端末』か何か? 『本体』は別のところにいるね」
「あら、分かるの?」
「まあね。私ら鬼は強い奴には敏感なんだ――あんたの本体は相当面白そうだからね、本体は」
「ええ面白いわよ、きっと。私はまあ『四分の一』程度でしかないから、知識も力もあんまり大したことないけれど」
「存在の分割ねえ……どうしてわざわざそんなややこしい真似をするんだ?」
「本体はね、色々あってお屋敷の外には出られないの……」
二人の間に物憂げな空気が流れた。
「……寂しい?」
「別に。家族がいるから。だいたい生まれてこの方、一度だって本体は外に――いや、地上にすら出たことはないのよ。この先もきっとそうなんだから、いちいち寂しさだの不足感だの感じてたらやってらんないわ。そんな段階は、とっくに過ぎた」
子どもらしからぬ、どことなく老成した感じの口調で彼女は言った。
「地上に、ってことは地下の住まいか何か? ますます似たもんどうしだね」
やや自嘲気味に萃香は言う。パーカー姿の少女はそれには答えず――
「上弦の月って中途半端だわ」
と、独り言のように言った。
「満月になりゃ後は欠け逝くのみ。桜は満開になりゃ、散るばかり――完全なるは、衰亡の始まりを意味する。満たされているばかりが是ということもなく、ちょいとばかり欠けている方がかえって良いということはある」
それに対して萃香は――特に酒に酔っているわけでもないのに――酔っ払いのような口調で答えた。
「私も十六夜の月は好き。そこで何もかもが止まってしまえば、それはきっとさぞかし美しいに違いないわ。衰え逝く存在であるのに、決して衰えない――有限と無限の境界よ。そういうものは見てみたいわね」
「はて、この穢れた地上にそんなものがあるものか――」
「ないかもしれないね……現に貴女と私の時間はここまでなのさ」
そう言うと少女はふわりと浮かび上がった。
「日本はこっちだったね」
「日本のどこを目指す?」
「諏訪へ」
「そうかい……私は伊吹萃香ってんだ、あんたは?」
「私? 私は――」
少女は萃香に自身の名を告げる。
やっぱり大物だったじゃないか――それを聞いた萃香はそう思った。
「では、縁があったらまた会いましょう、萃香さん」
そう言うと、少女はそのまま極東の地を目指して飛び去っていった。
再び辺りは静まり、虫だの梟だのの声ばかりになる。
風は東へと吹いている。
「諏訪ねえ……ひと戦くるのかな?」
一人残された萃香は月を見上げ、呟いた。
その萃香の影が徐々にぼやけだし、その向こうの背景が透けて見えるようになる。
――疎鬼……
四肢、腹、胸――そして衣類も鎖も、もろともに紫色の霧と化し、疎らになっていく。
そのうち辺りはその紫の霧で濛々迷霧の様相を呈し、萃香はわずかに首から上だけになった。
――ふむ、私も行ってみようかね
諏訪――神寂びた古戦場。
――こいつは面白いことになりそうだ
その顔が楽しげに、しかしどことなく乾いた感じで笑い――伊吹萃香は大陸の夜に溶けた。
◇◆◇
――――199X年5月5日、東京
土木用の作業着などというものを着るのは初めての経験だったが、大変動きやすく、また着心地も良いので、東風谷早苗はそれを中々に気に入ったのだった。
ただ男性用しか用意されていなかったのかサイズがてんで合わず、また安全目的でかぶらされたヘルメットがどうにも重たく、煩わしかった。
早苗は今、地下にいる。
数日前、神社本庁からの呼び出しを受け東京を訪れた早苗は、こうして作業着とヘルメットを装着して地下に潜らされたのだった。
場所は練馬区、都営地下鉄12号線建設現場――
「まさかこんな場所に潜らされるとは思いませんでした……」
ため息混じりでそう呟く。
作業着に御幣というのも実に珍妙な組み合わせである。
「すまないね、東風谷くん」
同行者の男が早苗にわびた。神社本庁の人間で、まだ若い。名を高坂という。
「伊勢や出雲の方々はどうにも都合がつかなくて」
「学生にだって都合はあります……」
伊勢や出雲は東京から遠く、また関係者は何かと忙しい。
対して諏訪は特急を用いれば数時間ばかりで行き来できるうえ、早苗は学生の身で非常に『捕まえ』やすい。加えてそうした神社の宮司以上に強力な力を持っていることもあって、こうして何かにつけて本庁から呼出しをくらうのであった。
「私の連休が~……」
もともと早苗はこの連休は友人たちと出かける予定だったのだ。それが何の因果か地下鉄の建設現場送りである。
当然に暗く、日の光がまったく届かないから時効感覚がどんどん薄れてくる。
まばらに設置された電灯が照らし出すのは、作業用に組まれた鉄骨に、掘削機、固定しかけの地下鉄線路等の、無骨な鉄の塊たちである。
一部のマニアならば喜びそうではあるが、あいにく早苗は(立場はともかく)趣味等については普通の学生と変わらないから、辟易するばかりである。おまけに時おり水滴が首筋に落ちてきたり、足元をネズミが這っていったりするから堪らない。
「そうだ、代表から聞いておくように言われたことがあるんだ」
「何です?」
「『例の事件からだいぶ経つが、調子はどうか』って」
「……可もなく不可もなく、です」
「例の事件って何だい? 代表はかなり心配されていたようだったけど」
「それは……」
『あの事件』に関する記憶は、極力思い出したくなかった。
語るのも嫌だ。
だから多少強引にはぐらかす。
「呼び出しの理由は、何か見えないものが立ちふさがって作業にならない、でしたか?」
「……そうだね。こうあれだ、何もないのにまるでぬり壁でもいるみたいに前に進めない感じらしい」
高坂も何か察したらしく、追及はしなかった。
「お、第7工事区画――ここだね」
そう言って高坂が立ち止った。
――空気が……変わった?
時おり雫が滴る地下は、随分と空気が淀み、けっして居心地の良い空間だとは思えなかった。少なくとも、つい先ほどこの第七工事区画とやらに踏み入るまでは『そう』だったのだ。
しかし今は違う。
淀んでいた空気はいつの間にか冴え、どこか清冽ささえ帯びている。早苗の、風祝としての才が、それを敏感に捉えていた。
「何か見えるかい?」
高坂がたずねる。
「ええ。奥の方に……いらっしゃいます」
「『いらっしゃる』?」
隣りの高坂には見えていないようだったが、早苗にはその姿がくっきりと見えていた。
真っ白な、縄のような何かがとぐろを巻いて鎮座している。守矢神社の注連縄ほどに太く、また暗い地下だというのになぜかその姿は明瞭に浮かび上がって見えている。
「……高坂さん」
「何だい?」
「シャグジ――あるいはそれに類するような地名、この辺りにありましたっけ?」
「しゃぐじ? うーん、石神井という場所がすぐ近くにあるけど」
「分かりました、そこにお連れ致しましょう。どうやら紛れ込まれたようですし……」
そう言うと早苗はゆっくりと歩き出した。
その目線の先にいるもの――それはトンネルを塞ぐ、巨大な白い蛇だった。
◇◆◇
――――199X年5月8日、幻想郷
上白沢慧音が今日分の歴史の編集を終えて外に出てみると、すでに夕闇が空を覆っていた。
夕日は山に吸いつき、その沈みかけの太陽と反対の方角の空には、もう夜が降りつつある。
「んー……うんしょ」
かわいらしい声を上げて彼女は一伸びする。
彼女は長く生きてはいるが、傍から見るとその外見は小さな少女のそれでしかないので、何やら微笑ましい。
暗い茜の空には巣へと帰っていく鳥たちが点々としている。
農作業や狩猟で人里の外に出ていた者たちも、みな一様に足をそろえて帰ってくる頃合である。これ以降――夜の刻限に里の外に居座るのは危険が伴うからだ。
――まあ建前上は、ってことなんだけど
もちろん建前であるから慧音はそのことを口にしたりはしないのだが、実のところ現在の幻想郷は気が抜けてしまうほどに平和なのである。別に夜出歩いたからといって妖怪に食われるなどということは滅多にない。
勿論そういうことが全くないかと言えばそうでもないのだが、少なくとも人化するような一定レベルの知能を有した妖怪は、ほとんど人は食わないと言っていい。
例えば虫の王などはかなり人間に友好的であるし、人食いを自称する宵闇妖怪や夜雀にしても実際に食ったなどいう話はとうと聞かない(夜雀に至ってはつい先日まで里のヤツメウナギ屋で修業をしていたくらいである)。
人を食らうのは知恵浅い、人外の形質を色濃く残したようなモノたちだ。
得てしてそれらは禍々しい姿をしている。
しかしそれらにしても別に悪しきモノといったふうではなく、ただ生きるために食っているだけである。無用の殺生などは為さない(自然に生きるモノはそんな無駄なことはしないのである)。
こうした者に襲われ食われたとしても、それは残念ながら自業自得としか言いようがないだろう。
ただ、これらの人外の形質を有した妖怪たちに対する恐れの感情は、野生動物に対して抱くそれと大差がない。そして人型の妖怪はほとんど人を食わないから、こちらはさほど怖くはない。
それはあまり良くないことである。
妖怪を妖怪として恐れることをやめてしまっては、人と妖怪の危ういバランスの上に成り立つ現在の幻想郷は立ち行かなくなってしまうだろう。
人間を『食う』――これは半ばタブーと言って良い。幻想郷では人間という種は希少だ。
だが、人間を『襲う』――これはむしろ奨励されなければならないのだ。そうあらねば人は妖怪を恐れることをやめ、それがひいては幻想郷という場所の衰亡へと通じていくのだろう。
だから、襲われ、退治され、という昔ながらの人妖の関係は、形式的になったとはいえ今も残存しているし、またこれからも残していかなければならない。
そういう背景があるからこそ、慧音は歴史を――妖怪への畏怖の念を語り伝えていくことは重要だと考えていた。
――寺子屋とか……稗田家にもかけ合ってみようかな
あごに手をやり、そんなようなことを考えながら歩いた。
家へと急ぐ子どもたち、酒屋だの何だのを目指す大人たちや、里に馴染んだ友好的な妖怪たち――それらとすれ違いつつ、モダンさと牧歌的な雰囲気を兼ね備えた人里の道を行く。
「おお、慧音先生。お疲れ様です」
前から歩いてきた大柄な男が慧音に挨拶をした。
年の頃は不惑半ばほど、毛皮の胸当てをまとい、顎や口元には若干の不精ひげが見受けられる。
「彦左衛門か。猟の結果はどうでした?」
背に担いでいるのは猟銃――この彦左衛門という男は、猟師を生業としている。
「いやあ、今日はボウズですな。粘ってはみたんですが、宵闇の譲ちゃんが現れたんでそろそろ帰りどきかな、と思いましてね――」
「すたこらさっさか」
「すたこらさっさ、ですわ。もしかしたらあの譲ちゃんは警告を発してくれてるのかもしれませんな。ではでは」
彦左衛門はかっかと笑うと会釈をし、慧音に別れを告げた。
「うーす、慧音先生」
背後から別の声がしたので振り返ると、今度は大きなまさかりを担いだ男が立っていた。
樵を生業とする男で、名を六介という。歳は二十の半ばほどで、かなりの大酒呑みである。
「夜雀の譲ちゃんが屋台を始めたみたいですな。ヤツメ堂の旦那が仕込んだらしい」
「どうにも閑古鳥らしいけどね」
「お仲間の妖怪たちは結構通ってるみたいですよ。それよか先生、ちょいとばかり気がかりなことがあるんですが……」
「どうしました?」
「最近、妙に空木返しが多いんすよ」
空木返しというのは山怪の一種で、実際には倒れている木などないのに、めきめきと木の倒れる音のみがする現象のことをいう。天狗倒しともいうが、そう言うと天狗が怒るので幻想郷でその名称を用いるものは少ない。
「なんだかねえ、やな予感がしますぜ。太公望の旦那も湖の妖精がざわついてるって言ってましたし……」
神妙な顔をして六介は言う。山の一部ともいえる樹木を生活の糧としている身だから、そうしたことが殊のほか気になるのだろう。
「まあ、ただの気のせいでしょうがね。今は平和ですし……そいじゃ、お休みなさい」
そう言って笑うと、六介は彦左衛門が行ったのと同じ方へと歩いて行った。
と、今度はその方角から走って来る人影がある。
「夢太、こんな時間にどこに行く?」
「あ、どうもこんばんは先生。ライブですよ、ライブ」
十代後半といったところのまだ年若い男である。どことなく大陸風の衣装を身にまとっている。
「らいぶ?」
「プリズムリバー三姉妹の」
「騒霊か……」
三姉妹のライブに人間が参加する場合、大体は徒党を組んで行動し、腕っ節に頼りのある者がその案内役を務める場合が多い。妖怪に襲われては『こと』だからだ。
「護衛は?」
「藤原の姉さんが」
「妹紅――さんか。なら大丈夫ね」
夢太が言っているのは竹林のあばら家に住まう少女のことである。
竹林で道に迷い彼女に助けられたという人間はことのほか多い。やや近寄りがたい雰囲気をしてはいるが、実際に話をしてみると特に愛想が悪いということもなく――己の身の上についてはあまり語りたくないようだったが――、術師としての腕も確かだから巫女と並んで頼りになる人物であると言えるだろう。慧音も彼女のことは結構気に入っていた。
慧音自身は妹紅の生い立ちについてはある程度心当たりがあったのだが、当人が語りたがらないから詮索はしないことにしている。
「リリカファンクラブ会員№1の自分ですが、妹紅さんのファンクラブにも入ろうかなと思っております今日此の頃」
「どうでもいいわよ……って妹紅にファン倶楽部?」
――そんなものがあったのか……
すこぶる呑気な話である。
それだけ今の幻想郷が平和ということなのだろう。なにしろ人間がほいほいと騒霊のライブに出かけるくらいなのだから。
少し前ならば考えられなかったことである。
「先生も入ったらどうです? 妹紅さんのファンクラブ」
「へ? い、いや私はそういうのは――」
「おや、先生お顔が赤い」
「ゆ、夕陽のせいよ! と、ともかく気を付けるんだぞ。念のため耳栓を持って行きなさい。あと終わったらきちんと寄り道せずに帰ってくること」
「分かってますって……まったく、先生はうちの母ちゃんみたいなことを言う」
「ああ? 何か言ったか?」
「いえ、何も。ではでは~」
どことなく浮ついた感じの若者は、手を振りながら郷の出口の方へと走って行った。
「まったく……」
呆れ声でそう呟くと、慧音は再び歩き出した。
夕刻だけあって、方々の飯屋や酒場に明かりが灯っている。そこでは里の人々と一部の妖怪たちが一日の終わりを共にしているのだ。
妖怪が人里にお呼ばれし、人が妖怪の棲家へと招待される――これも一昔前ならば考えられなかったことだろう。
どれもこれも、そろそろ二度目の回帰を迎えようとしている博麗大結界の賜物である。
道行く人々と適当な挨拶を交わしつつしばらく行くと、目当ての店へとたどり着いた。
入り口には『やつめ』と銘打たれた暖簾がかかっている。
それをくぐると、酒の匂いや、醤油の香り、それに鰻を焼く煙の匂いなどが一斉に飛び込んできた。
「いらっしゃい。お、慧音先生」
額に鉢巻きを巻いた初老の男が威勢よく挨拶をした。
さほど広くない店内は結構にぎわっている。
「こんばんは、ヤツメ堂」
それに答えながら空いていたカウンターの席に腰かける。
ヤツメ堂というのはこの店の屋号なのだが、何となく慧音は主人のことをその屋号で呼んでいる。
「今日も歴史編集ですかい?」
「ええ、出来事は歴史としての残さなければいずれ忘れられていってしまいますから」
「忘れちゃならんことってのはありますからねえ。俺も鰻の焼き方を忘れたらただの役立たずの親爺ですわ」
「じゃあその鰻をもらおうか。あとは適当にお酒を。あまり強くないやつで」
慧音はそれほど酒に強い方ではない。
「かしこまりました」
そう言うと店主は酒の物色をしだした。
戌の刻の入り、人里にほど近い道――人の手はそれほど入っていないものの、何故か木々が均等に並んで並木のようになっている――の傍らに、一軒の屋台が提灯を出していた。
「屋台デビューから一週間、相も変わらず閑古鳥ね」
シンプルな赤暖簾をくぐりつつ、リグル・ナイトバグは店主への挨拶代わりにそんなことを言った。そして数個ばかり並んだ椅子に腰を下ろす。
すぐ目の前には八つ目鰻を焼くための金網が置いてある。
「私はそんな名前の鳥じゃありませんて」
「いや、比喩表現というもの」
屋台の客はリグル一人だけである。それもそのはずで、夜間ともなるとこの辺りはほとんど人間は通らないし、また夜行性の妖怪(と一部の夜行性の人間)は今が活動の時間帯となるから、こちらも屋台でのんびりしている暇などはないのである。
要するに営業場所と営業時間を間違えているとしか思えないのだが――
「もしも私が~♪ ヤツメウナギショップに勤めたら~♪」
浮かない顔のリグルとは対照的に、店主――ミスティア・ローレライは客足の少なさなど気にも留めていないようで、いつものように珍妙な歌を歌いだすのであった。
「こんな応対してやるぞっ!♪ いらっしゃい! なんにする?♪」
「鰻しかメニューないでしょうに……」
ちなみにこの歌は店主本人はサービスでやっているのだと言い張っているが、拒否することはできない。
「はよ、決めんか~い!♪」
「……鰻」
「まいどあり~。熱い戦い~~ヤツメウナギショーップ♪ ……ふう」
一通り歌い終えて満足したのか、ミスティアは悦に入った表情をした。
「……で、オーダーは何だったかしら?」
「鰻だっての」
一通り歌を聞かされげんなりしたのか、リグルは疲労感漂う表情をした。
ミスティアはどことなく危なっかしい手つきで鰻を焼くための炭を準備し始める。
「そういえば、ついさっきまでルーミアの奴が来ていたのよ」
「私とルーミアぐらいしか客いないんじゃないの?」
甘しょっぱい匂いの煙が立ち上る。ミスティアは炭をうちわでパタパタあおっている。
「でね、相変わらず何言ってるのかよく分からなかったんだけど、しばらく屋台は出すなって言われたのよ」
「なんでだろ?」
「分かんない。そうそう、リグル宛ての言伝もあったんだ」
「何よ? どうせルーミアのことだから、わけ分かんない内容だろうけど」
「たしかに分かんなかったわ。えっと、コセイシュの動向に注意しろ、って」
「え?」
――古生種だって?
なぜここでそんな言葉が出てくるのか。リグルは少し混乱した。
「コセイシュって何だろ?」
あごの辺りに人差し指を当て、ミスティアは首を傾げている。
古来、虫は極めて強力な力を有していた。
対象を傀儡に変えうる寄生能力、妖怪すら一刺しで殺めるほどの強力な毒性、強靭な環境適応力――そして蠱毒の果てに生まれる、強大な長。
大昔の虫や、それらが変じた妖怪の類は、天狗や鬼と並んで恐れられるほどの存在だった。
それがいつ頃のことであったのかは年若いリグルには分からないのだが、古生種というのはその頃の生き残り、あるいはそれに比肩する力を持った種のことを言う。
それに気を払うようにとルーミアは言っているのだろうが――その意図が分からない。
大体それらの虫たちはおおむね地底世界に送られてしまっていて、リグルによる統制の外にいるのだ。
「おまち~」
焼きあがった八つ目鰻がリグルの前に置かれる。
ルーミアは掴みどころのない性格をしているし、何を言っているのか分からないこともままあるが――反面、結構的を射たことを言う場合も多い。
それに今回はミスティアにも警告めいたものを発している。
――念のためヤマメさんに連絡を入れておくか……
供された八つ目鰻を口にしつつ、リグルは旧知の仲の妖怪の顔を思い浮かべた。
しばらく慧音は一人でちびちびやっていたのだが、そのうち知り合いが来店したので、席を移動していた。
「今は――花火の制作中でしたか?」
その人物に慧音は話しかける。
「そうよ。まあ制作っていっても私はアドバイスをするだけなんだけど」
紫色の髪。シンプルなフレームの眼鏡。幻想郷にしては珍しく、実験用の白衣を着こんでいる(居酒屋なのだから脱げば良いのに、と慧音は思っているのだが)。
名を朝倉理香子という。幻想郷には非常に稀な、科学者の類である。
魔法や呪術等の霊的技術体系の発達した幻想郷において科学というものが注目を浴びることは少ないが、素養に関係なく誰にでも使いこなせるという点で優れた理論体系なのではないかと慧音は思っている(その慧音自身、彼女のノートに書き連ねてある方程式だなんだといったことはほとんど理解できないでいるのだが)。
「星詠みの一家は科学に理解があって助かるわ」
星詠みの一家というのは里で長く続く花火職人の一族のことである。
所定の年中行事の折には見事な花火を上げるので、弟子入りを希望する者も多いのだと聞く。
「朝倉さん」
「ん?」
「近い将来寺子屋を開こうと思うんだが、そこで化学を教えるつもりはないか?」
寺子屋開設の趣旨やら目的やらを慧音は語った。
理香子は適当に相槌を打ちながらそれを聞いていたが、やがて――
「悪い話ではないけど、止めておいた方がいいと思うわ」
と言った。
「なぜです?」
「科学と幻想は、それ自体は矛盾するものではないのだけれど、こと人の内においては両立は難しいのよ。私だってそりゃあ魔法は使えるけどさ、でも化学を突き詰めようとしたら魔法はなかったことにしないと、どうにも立ち行かないのよ。人間の思考パターン上その二つの力を統一するのは非常に難しい。少なくとも外の人間は、科学を信奉しすぎて『うっかり』神を殺してしまったんじゃなかったかしら?」
「まあ……そうだが」
「私は自分がマイノリティであると自覚している。科学の力は、幻想郷には馴染まない。科学そのものは悪いものでも何でもないけど、それが影響力を持ってしまうのは場の特性上好ましくないの……残念ではあるけどねえ」
そう言うと理香子は猪口を呷った。
「山の妖怪たちは科学を用いると聞いたけど――」
「あれはね、言ってみれば幻想の科学よ。私が追及しているものとは少し質の違う力だわ……ところで先生」
「なんです?」
「どうも最近平和すぎる――ような気がしてならない。私は研究に専念できるからありがたいけど、どうにも妖怪たちがなまっていないかしら?」
今が平和に過ぎる、というのは事実だろうと慧音も思う。
無論、本気の暴力が肯定されるような状況は断固避けるべきであるし、また慧音自身さほど好戦的ではないからやはり争いは少ない方が良い。
それはそうなのだが、しかしこのままでは妖怪たちはどんどん戦う術を忘れていってしまうのではないかとも思う。そうなれば人々は妖怪を恐れることを止めて――
――そうじゃない。それ以前に
今、外部から何かが攻め入ってきたらどうなるのか?
今の、そしてこれからの幻想郷の妖怪たちは、しっかりと戦うことができるのかだろうか。
そう思ったら、途端に慧音は不安を覚えた。
◇◆◇
練馬駅から西武池袋線で数駅ほど下ると、石神井公園駅である。
そこからしばらく歩くと、駅名である石神井公園へと至る。
園内にある三宝寺池は、天然記念物の植物群落として、また善福寺や井の頭と並ぶ武蔵野の三大湧水として知られており、周辺は23区内とは思えないほどに豊かな自然を有している。
練馬区の民話集には次のような話が記されている。
昔、三宝寺の池で釣りをしようと思った人がいた。それでどこか腰を落ちつけられる場所はありはしないかと彼が探していたところ、ちょうどおあつらえ向きの巨木の根を発見したのだそうだ。
その釣り人は、これ幸いとそこに座り込んで釣りを始めた。
しかししばらくすると、どうにもその根が奇妙に動く。うねうねと動く。
さては地震いでもあったかと釣り人は立ち上がり、その根から離れたのだが――
「何とその根っこはでっかい蛇だったのでした」
団子をつまみながら、洩矢諏訪子は楽しそうに言った。
稲穂のような色の髪。鳥獣戯画のような模様の服。なんだか凄い帽子――たいへん特徴的な格好である。一方早苗は作業着を脱いで私服に戻っていた。
早苗と諏訪子は石神井公園内にある茶屋で一服している最中である。
茶屋からは三宝寺池の植物群がよく見える。青々と茂って、葉は少し池へと垂れている。
池の所々から顔をのぞかせる杭の上には、水鳥と、のどかに甲羅干しをする亀がいる。
「あいつは昔っからおっちょこちょいでねえ……何であんなとこに紛れ込んでたんだか」
早苗の髪飾りは簡易的な分社としての役割がある。
シャクジイという地名から分かる通り、先ほどの白蛇は諏訪子と同じ属性を持った一柱だったので、一時的にその髪飾りの中に『入って』もらい、この三宝寺の池へと送り届けたのだった。
ちなみに諏訪子の姿は当然周囲の人間には見えていない。早苗との会話は念話の類で行っている。
「さっきは何を話されていたんです?」
「ん? 照姫祭りに来い、って言われたの。早苗も一緒にって」
高坂は報告書の作成があるとのことで、代々木の神社本庁へと帰っていた。いわば現地解散のようなものである。
足をぶらぶらさせながら諏訪子がたずねる。
「昨日は千代田に呼ばれてたんでしょ? 何かあったの?」
早苗が東京を訪れたのは一昨日のことである。
「繋都新幹線の件です」
「ああ、あれか……あんなの造っても無駄だろうに」
「そう言ったのですが、なかなか聞き入れてもらえなくて……」
繋都新幹線構想とは、勾配等の地理的影響を受けない地下にリニアモーターカーを通し、京都・鎌倉・東京の三都を現在の東海道新幹線の数倍の速さで接続しようという試みのことである。
どうやら青木ヶ原一帯の磁石帯がネックとなって、実現にはかなりの時間がかかるとのことらしいが――
「貴船の気も、富士の気も、鎌倉の気も、全部年々弱まっているんです。今さら新しく人口気脈を増設したところで、千代田に運べる気の量なんてたかが知れています」
少し不機嫌そうに早苗は言った。
諏訪子は首をかしげている。
「どうして今さらそんなに躍起になってるんだろう? べつに既存の東海道だけで十分な気もするけど……あ、さては観光ばっかり力入れてたから普通路線はいい加減ガタが来ているのか――」
「土御門家から天文密奏があったのだそうです」
「陰陽寮頭の? 今は宮内庁の内務機関だったかしら?」
「ええ。それによると、そろそろ東海一帯にかけて大規模な地震が来る、のだそうで」
「大正の地震いで懲りたのかなあ――そもそもこんなとこに首都なんか造らなきゃいいのに」
地震が来ると分かっていても高層ビルを建てるのがこの国のお国柄である。
早苗と諏訪子の会話は、傍から聞いていると何やら浮世離れしているようにも思えるが、その実二人にとってそれは単なる世間話に過ぎない。各鉄道や道路路線が重要都市への気の運搬ルートを担っている――そんなことはこの国の宗教関係者にとっては常識である。
「さてと、一息ついたし帰ろうか?」
「山の手線やだなあ……」
ぼやく早苗。都市部から離れた場所で生活する者にとっては、山手線のあの乗車率は慣れないものがある(都市部の人間だって慣れはしないだろうが)。
「この時間ならそんなに混んでいないわよ」
仕方がない、といった表情で諏訪子は早苗の頭をなでた。
諏訪子も、その相方の神奈子も、よくこうやって早苗の頭をなでる。
早くに両親を亡くした早苗にとっては、それは結構大事なことなのだった。
池袋を経て、早苗は新宿から特急『あずさ』に乗り込んだ。
早苗の乗った車両は9号車、本庁の配慮で窓側のグリーン席である。連休中ということもあってか、車内は混んでいる。
諏訪子は髪飾りを経由して一足先に帰っていた。
早苗は車内で読みたいと思っていたものがあったから、気を利かせてくれたのだろう。
乗り込んでしばらくすると列車が動き出した。
大久保、東中野、中野と順に過ぎていき、少しずつ車両は23区の外へと向かっていく。
早苗はその都会の車窓風景をそれとなく見送った。
神霊、というものがある。
読んで字の如く、神の精神が形を持って結実したものということなのだが、諏訪子や神奈子はこの精神体を無限にコピーすることができる。
つまり、同時に二つところに存在することも不可能ではないということだ。
例えば先ほどまでここに諏訪子がいたが、そのとき同時に守矢の社殿の中にもまた諏訪子がいる――という状況もあり得たのである。ただし――
――昔の話だけれど……
今の神奈子や諏訪子には、早苗はそれを認めたくはなかったが、神霊を生み出すような神威はありはしなかった。信仰の力というものは、急速に失われつつあるのだ。
だからさっきまで早苗のそばにいたのは洩矢諏訪子本体ということである。
車両は吉祥寺を通過した。
すでに23区は後方である。
信濃国一宮、神位正一位――守矢神社は決して小さな神社ではない。しかしそれでも信仰はまるで集まらない。
二柱の力は弱まっていくばかりである。
筒粥神事も、御射山の御狩神事も、そしてかの奇祭御柱祭ですらも、早苗が生まれた頃にはもう執り行われなくなっていた。
魔法使いにとって重要なのは魔法の力。
妖怪や悪魔にとって重要なのは畏怖の力。
そして神においては信仰の力――しかしてそれら三つは根底の部分では繋がっている。
要するに肝要なのは『信じる力』ということなのだ。そして、それが弱まっている。確たる信仰や信念のようなものは持ちにくい時代であるのかもしれない。
信仰に関していうなら、人々の生活の中において信仰の占める割合がどんどん少なくなってきているというのもあるだろう。
物質レベルでの満足度が上がり、人はハレとケの境界を失ったのだという。
いつでも美味しいものが食べられる。いつでも素敵な服が着られる。いつも、ハレの日――しかし、ケの昨日があればこそ、ハレの明日もあるのだ。
暮らしの全てをハレで埋め尽くせばそこには実に無味乾燥な、物ばかりが飽和した日常が残るだけなのではないかと早苗は思う。
と、そこで早苗は友人の言葉を思い出して苦笑いを浮かべた。
『早苗は宗教者であって、宗教学者ではないんでしょう? だったらそんなこと考えても信仰心の邪魔になるだけだと思うわ。信仰というのは信じることであって、知ることでも理解することでもないのよ』
――そうだったね
早苗は鞄からその友人の手紙を取り出した。
友人、と言っても早苗はその顔はおろか、本名すら知らない。
文通の仲なのである(文章や言葉使い、手紙の装飾などを見るに女の子なのだろうし、当人もそう自分を紹介している)。
ペンネームはナンシーと名乗っているが、それが本名なのかは分からないしあまり重要なことでもない。早苗にとって彼女からの手紙が価値のあるものであるという点に、何ら影響はないのだ。
列車は八王子の駅を通過した。
そろそろ都会を離れ、山だの川だのが目立ってくる頃である。
封を解いて、薄いピンク色をした便箋を広げる。色のセレクトがどうにも女の子らしいと早苗は思う。
『My dear Sanae.
結構おひさしぶりかな?』
いつも通りの書き出しで、いつも通りの少し丸い文字で、手紙は始まっていた。
◇◆◇
「掃除の後のお茶は良いものです」
茶菓子を口にやりつつ、博麗の巫女はそんなどうでもいいことを呟いた。
掃除が終わった庭先では、袴姿の少女と空を飛ぶ不思議な亀が戯れている。現在の博麗の巫女は正確に言うならその少女――博麗霊夢なのだが、いかんせんまだ幼くおまけに修行嫌いでもあるので、今はまだ彼女がお目付け役として神社に残っているのだった。
巫女も今年で二十歳である。霊夢が一人前になったら、その時はお役目を彼女へと引き継ぎ、自身は人里へ還俗しようと考えていた。
「はあ、今日も平和……」
大結界の設立以来、幻想郷はこれといって憂慮すべき事柄もなく、また妖怪と人間の間柄もかなり良好で、争いめいたこともほとんど起こらないでいた。昨日と今日との間にはこれといって大きな差異もなく、安寧の日常がだらだらと続いている。
霊夢は早く異変解決をやってみたいと毎日のように言うのだが、その異変自体が起こらないのだからどうしようもない。
「ほんと、平和。ねえ、紫?」
「そうねえ。あまり良くないことよねえ」
彼女の後方の空間に奇妙なひずみが生じる。声はその中から響いている。
広がっていくひずみの向こうにはぎょろりとした無数の瞳がのぞいている。
そしてそこから古代紫色をしたドレスをまとい、ピンクの日傘を手にした少女が現れる。胡散臭い喋り口に胡散臭い風体――八雲紫である。
巫女は庭先と自室の間の障子をすっと閉じた。
「お茶が怖いですわ」
と、居間に降り立つ紫。
「では要りませんね」
笑顔で巫女が返す。
「む、お茶が怖くありませんわ」
「では要りませんよね」
「むむ……」
一通りよく分からないやり取りを終えると紫は座布団に腰を下ろした。すっと巫女が煎茶を供する。
「あんまりいい茶じゃないわねえ」
「出涸らしですから」
「これじゃあただの色付きのさ湯だわね。というわけでこれはお土産ですわ」
紫は抹茶の茶缶を一つちゃぶ台に置いた。
「祇園の茶屋の品ですわ。つじ……何だったっけ? 忘れてしまったわ。創業は大結界のできるちょっと前、萬延元年」
「それはちっとも『ちょっと前』ではない」
「久しぶりにちんたら走る東海道が見たくなってねえ。そうだ、京都行こうと洒落込んでみましたの……でもお茶よりパフェが美味しくて――」
「外の話は森近さんとなさって下さいな」
この少女はしゃべり出すと意外と長いので、巫女はそれを早々に打ち切るのだった。
「むう……ところで貴女はここ最近の状況をどう思う?」
ちゃぶ台に肘をつきながら唐突に紫が問う。
「平和なのは良いことです。人にとっても、妖怪にとっても」
「それだけ?」
試すような瞳で紫は巫女を見つめている。
「運動不足はいけませんね」
「そうね。平和の――平和すぎることの弊害が出始めているわ。このままでは人も妖怪も、いずれ駄目になってしまう」
そう言う紫の口調は少し険しく、また一抹の憂いを孕んだものだった。
「だから……ちょっと太平の眠りを覚まさせようかと思いまして」
紫が怪しく微笑んだ。いかにも何かを企んでいるといった風な胡散臭い笑みである。
「支配で夜も眠れず――何か呼び込むのですか?」
「駄洒落を言わないの……西洋の鬼。それもとびきり強力なのを。だからこそイニシエーションも大規模にやらなくてはいけません」
ただそれはいわば八雲紫の一つのポーズに過ぎない。
八雲紫ほど真摯に幻想郷のことを想っている者はいない――いい加減付き合いも長いのでそのことを巫女は良く承知していた。
無論それを口にしたりはしない。ポーズを取る者には合わせるのが幻想郷の流儀である。
「イニシエ――何です?」
「通過儀礼のことよ。具体的な事象の集積として共有されている世界観――それを学習してもらうためのね。あんただって外から新しく入ってきて面倒事を起こした奴を退治したことがあるでしょう? あれがそれ。その連中だって今じゃすっかりこっちの一員、みんな仲良く巫女に退治されましたとさ。めでたしめでたし」
真面目なのかおどけているのか判然としない口振りである。
「然るべき苦渋と苦難を、ということですか……で、誰が動く?」
「えっと、私と――」
「自作自演かい」
「仕方ないでしょ。幽々子には色々やってもらわないといけないし、他の連中は頼りないし……面倒だし幽香の阿呆でいいか」
その名を聞いたとたん、巫女は渋い顔をした。しかしすぐさま元の表情に戻る。
「しかし吸血鬼ねえ……あれは『現役』で恐れられている存在ではなかったかしら? あまり外のことは知らないのだけど」
「確かにそうね。教会にハンターギルド、それに特に厄介なのが『石工』……いまだに連中は吸血鬼や魔女を追い続けているわ。もっとも最近は『あの石』絡みでもっぱら魔女さんの方にご熱心のようだけれど」
「現役なのでしょう? どちらかの結界に阻まれるのでは?」
「一時的に構成式を書き換えるわ。すでに誘い込むための外観の偽装は完了しているしね……まあ、私の一存てわけにもいかないから、他の連中も説得しないといけないのだけど」
紫は心底面倒くさそうにため息をついた。
単独での行動や策謀、あるいは他人をかつぎ出したりといったことは紫の得意とするところではあったが、真っ向からの説得は逆に大の苦手なのである。
「第三段階までなら私の自由裁量なんだけどねえ……」
彼女は幻想郷を覆う結界に関して非常に強い影響力を持ってはいるが、さすがに全権委任的な扱いというわけではない。必要以上に結界を緩めたり、あるいはコードを変更したりといった際には、明治17年の結界騒動にかかわった他の賢者たちからの合意が必要となるのだった。
面倒なシステムではある。しかしそれはなくてはならない仕組みでもあった。
境界を操る能力――それは論理的創造と論理的破壊を司る極めて強力な権能だ。そして同時に余りにも危険すぎる能力でもある。そのことを紫は重々承知している。
ほしいままに、野放図に使用して良い類のものではない。目測を誤れば幻想郷自体が崩壊しかねない。このシステムは紫自身が設定した、一種の抑止力なのである。
「『あの石』というのは?」
「第五実体――賢者の石」
「お抱えの魔女、と言いましたね。その方も呼ぶのですか?」
「もちろん。これから起こる騒ぎの後、妖怪は確実に力を増すわ。でも人間にも相応の武器を与えなければ――」
「バランスが崩れる、と」
人と妖怪のパワーバランスこそが幻想郷を幻想郷たらしめているといっても過言ではないだろう。だからこそ、人妖いずれか一方のみがいたずらに力を増してしまうような事態は極力回避しなければならないのだ。
「魔法は人にも使いこなせますものね――それで私に何を?」
紫が巫女を見つめる。
妖怪でありながらどことなく人間に近いような、不思議な瞳。薄ら笑いで細められてばかりのその瞳は、しかし今は真剣な色を帯びていた。
「これから起こる騒ぎは間違いなくここ数十年で最大規模の異変になる。貴女は――何もしないで中立を貫いてちょうだい。この異変、解決は私たち妖怪が行う」
妖怪の賢者は、静かにそう宣誓した。
「中立、ですか?」
「そう。ちょっとした条約とルールを考えていてね、それで――批准してもらうには仲立ちの者が必要でしょう?」
「了解しました。私は何もしませんわ」
当たり前のようにそう言った巫女に対して紫は少し意外そうな顔を見せる。
「やけにあっさり言うけど良いのかしら? たぶん、人里が戦場になるわよ?」
「中立でいろといったのは貴女でしょうに……大丈夫。侵略に易々屈するほどこの地の人々はやわではない」
淡々とした口調でそう答えた後、巫女は茶を一すすりした。
紫が障子を開け庭先に出ると、少女は亀の甲羅の上ですやすや眠っていた。
そのまま境内へと歩いて行く。
博麗神社の境内からは幻想郷が一望できるようになっている。
連なる新緑の山々。その合間の窪地には人間の里。遠くには一際に高く屹立した妖怪の山が見える。
「紫様」
式神――八雲藍が現れる。何やら浮かない顔をしている。
「不測の事態が――いえ、紫様にとっては計算ずくのことなのかもしれませんが……」
おや、と紫は思う。
彼女の算段上、この時点で藍から何か報告が入ることはないはずなのだが――
「なあに? 『外』で何かあった?」
「件の魔女が教会に……」
藍は言いにくそうにしている。
嫌な予感がした。
外の世界において吸血鬼を追っている組織は三つある。
一つは在野のハンターたちをまとめるギルド。一つは教会。そしてもう一つが『石工(メイソン)』と呼ばれる組織である。紫の見込みでは教会やギルドは端から脅威ではなく、藍には専ら最も厄介な『石工』の監視を行わせていた。
「どうしたの? 教会が彼女に何か?」
「……聖痕を刻まれました。それも魔力逓減効果のある」
「え? うそ……だって、吸血鬼のお嬢さんは一緒だったんでしょう?」
紫が動揺したそぶりを見せる。
彼女がこうした動揺を表に出すことは非常に稀である――それだけ紫の立てた当初の計画に、狂いが生じたのだった。
「枢機卿団が聖槍の使用許可を――」
「……それでか。まったく、最悪なタイミングでやる気を出したということね」
聖者の血を浴びた破邪の聖具――妖魔の類とそうした名のある武器、あるいは謂れのある武器というのは極めて相性が悪い。『本物』を持ち出したとも思えないが、この場合重要なのは名や謂れであるから、真贋はさほど関係がない。
――不味いわね……
「今はどうなっている?」
「教会の追っ手はまいたようですが、転送のための魔力が足りないかと思われます。少なくともあの館に住まう面子の何人かは、向こう側に取り残されることになるかと」
「ううむ……」
完全に予想外の事態だった。
高速で思考を巡らす。
それによりこの先起こるであろう事態、それを打開するために必要な方策と要員――それらを計算する。
「参ったわね……『出迎え』が必要になるかしら?」
「紫様のお力で直接引き込むことはできないのですか?」
藍の言い分はもっともではある。
紫が適当にスキマを開いて彼女たちをこちら側に引きずり込んでしまえば、それでことは足りてしまうのである。しかし――
「私が好き勝手に引き込んで良いような雑魚だったらそうするわよ。死ぬ価値のない人間とかね。でも、あの館の連中はそれをするには強大すぎる――」
「紫様のお力なら、問題はないのではないですか?」
「もう、分かってないわねえ。まあ、余裕のある時なら宿題にするところだけど――これは能力の強さの問題ではないの。私の力はね、理も、それによりもたらされる既存の秩序も、そしてこの幻想郷を支える古き良き幾多の約束事も、何もかもを簡単に否定してしまえるのです――それはとても危険なこと」
理、約束、約款――そうしたことは幻想郷においてはとりわけ重要である。
「理を失った世界は荒廃する。現に今や外の世界は、人が人を殺してはいけない――そんな当たり前のことでさえ、当り前ではなくなりつつある。私はこの場所を、そういうふうにはしたくない。強い力を持つ者ほどしっかりと理を守らねばならないのよ。それは私にとっても、そしてこれより入ってくるあいつ等にとっても同じ。もちろん貴女もね」
「いまいちよく分かりません――」
藍は頭をひねっている。
「貴女が堰の前にいたとする」
「へ? 堰、ですか?」
「そう。川でも湖でもなんでもいい。大量の水をせき止めている堰がある。で、貴女の喉はからからに渇いていました」
紫はしばしばこうした例え話を用いて式を諭すことがある。
「目の前の堰に小さな穴が開いている。そこから僅かな量の水が流れている。貴女はそれを飲むわね?」
「飲む――でしょうね。あ! そういうことですか」
藍がぽんと手を打つ。やはり理解が早いと紫は思う。
「そう。そこで貴女はもっと水を飲みたいと言って、穴をちょっと広げた――」
「でも、まだ堰は大丈夫そうだ。ではもっと広げてしまおう。もっと水が欲しい――それではいけないのですね」
「それだけではないけど、まあ残りは宿題ね。というわけで計画に若干の変更を加える」
「仰せのままに」
「萃香は――たしか数年前に地下から姿をくらませていたわね」
「ええ。ですが幻想郷には――」
「いないわね。いたら必ず気が付く」
伊吹萃香はその強力さ、および能力の性質から存在を探知しやすいのだ。
「捜しますか」
「お願い。それと藍、これは貴女個人への質問なのだけど」
「何でしょう?」
「外の世界でも動ける奴、貴女は心当たりないかしら?」
先ほどの試算通りなら、結界の外で戦いが起きる可能性があった。
大半の妖怪は、結界の外部では上手く実力が発揮されない。そこには単なる力の度合いだけではなく特性や属性、あるいは適性といったものが関わってくるからだ。特に人間からの畏怖の感情により力が左右されるようなタイプの妖怪は、よほど恐れられた存在でなければ、これはほとんど力が出せないと言っていいだろう。
その点で萃香や藍は外の世界においては極めて有名である。さすがに現役で恐れられているとは言い難いかもしれないが、積み重ねられた伝承の重みは伊達ではない。
――あと幽香のバカはそもそも『どこにいようが』関係ないからいけるか
仲良しということではないが、腐れ縁的な付き合いの続いている傘仲間の顔を思い浮かべる。
――あ、そういえば事後処理も考えないといけないか……お説教やだなあ
ことの次第によっては知り合いの閻魔の力も借りなければならなくなるかもしれない。しかし日ごろの素行が素行なので、会えば確実かつ不可避的に説教をくらうことになるのだろう。
閻魔――四季映姫もまた、紫が己に課した抑止力の一端である。故に能力も性格も、すこぶる相性が悪く、紫は彼女のことを苦手としていた。
――嫌いな方ではないんだけどねえ……
職務や役割というものを前提としなければ話し上手で気さくな人物ではあるのだが、やはり説教のことを考えると憂鬱にならざるを得ない。
そしてしばらく考える仕草をしていた藍が口を開く。
「竹林に一人、腕の立つのがいます。前に一度やり合いましたがかなり『使う』。一応は人間だから外の世界とも相性は良いかと思います。鬼が跋扈していたころから妖怪退治をしていますし、故あって物凄くしぶとい――」
「故……『薬』かしら? いいわ。説得するなり担ぐなり、なんでもいいからそいつも動かしてくださいな」
「心得ました」
短くそう答えると、式の九尾は竹林の方角に向って飛び去って行った。
金色の残光が、まばらに浮かんだ白い雲を縫い飛んでいき、それが消えた後には晴れ渡った空がただ広がるばかりとなる。
五月の風は吹き抜けて、辺りの木々はさわさわと音を立てている。
どうにも穏やかである。
穏やか過ぎてどことなく頽然としてすらいる。
――耐えられる?
争いに満ちた外の世界の、紅い悪魔――今の、平和という名の堕落へと至る病に冒されつつある幻想郷にとって、それは間違いなく劇薬になる。
この劇薬はその症状を好転させ得るのか、それとも覿面に過ぎて何かが損なわれるのか――紫は前者だと信じている。
――ここに住まうモノたちはそこまでやわではないもの
「珍しく真面目な顔をしているじゃない」
背後から声をかけられる。
振り返ると賽銭箱の上に深緑の髪をした女性が座っていた。
どこか奇術師めいた服と帽子。三日月のあしらわれた矛らしき得物を携えている。その足先はゆらゆらと揺らいで形を成していない。
「ちょうど良かったわ――貴女にも頼みがあるの」
「頼み? 珍しいねえ」
妙に人間くさい口調で彼女――魅魔はそう言った。
◇◆◇
早苗がまだ小学生だった頃、カルト的な宗教団体がテロ事件を起こしたことがあった。
あらゆるメディアは、何かに取り憑かれたかのように連日連夜その事件を報道した。当然といえば当然だ。自然災害をも凌ぐ大量の死傷者が出たのだから。
そしてあの事件を境にもともと宗教というものから距離を置いていたこの国の世相は、より一層にそこから遠ざかったのだった。
――違う。そんな生やさしいものじゃない
早苗はその事件で深刻な痛手を負った。
事件そのものに巻き込まれたわけではない。ただ、心はずたずたにやられた。
信仰するという行為自体が半ばタブー視され始めたのだ。
大人たちがどうであったかは知らない。ただ、少なくとも子どもたちにとってはそうだった。
子どもは大人ほどはっきりとした宗教観を持ってはいない。無神と有神の合間にいるのが子どもというものなのだ。だから歴史や伝統などといったものは通じない。信仰すること自体が悪だとみなされたなら、それは信仰対象が神だろうが悪魔だろうが、均しく悪たり得る。
要するに早苗は頭のいかれた悪者として認定されたのだ。
そして一度そういうものを見つけた子どもは、残酷だ。
初めは無視から始まった。
誰に話しかけても答えが返ってこない。それまで普通に話していた友だちも、皆口を閉ざした。
次に身の回りのものがなくなり出した。内履きと外履きの両方がなくなって、家に帰れなくて途方に暮れたことがあった。
そのうち、いつも指を差されて笑われるようになった。
どこに行っても笑われる。勉強をしても笑われる。給食を食べても笑われる。息をしたって嘲られる。
――思い出すな……
移動。
トイレ。
呼吸。
何をやっても嘲笑の対象になる。どこにいても蔑視の目線から自由になれない。
掃除用具入れに閉じ込められたことがあった。暑い盛りだったから、結構あっけなく死にかけた。
――やめてってば
池に落とされる。
トイレに閉じ込められる。
机を傷付けられる。ランドセルを傷付けられる。
掃除の後のモップを顔に押し付けられたこともある。
埃や鉛筆の芯、砂粒や消しゴムの滓。
髪の毛に纏わりつく。服を汚す。口に押し入る。苦い。
――もう思い出したくないのに……
記憶というものはどうしてこうも制御が利かないのか。
忌むべき記憶などはすぐにでも消し去ってしまえば良いのに、なぜそういうものに限って己の脳髄は後生大事にそれをしまい込んでおくのか。
ちょっとしたきっかけで、どんどん記憶同士がリンクを開始して、それであれもこれも結局全部思い出してしまう。
お前は頭がおかしいんだ。
――ちがう……
お前は人殺しの仲間だ。
――ちがう……
神様なんて、いないよ。
――ちがう! かなこさまもすわこさまもいる! あんたたちに見えないだけよ!
「……っ!」
記憶が、時系列が、混乱する。
動悸。
いま自分は何処にいる。
いま自分は何時にいる。
東風谷早苗はもう小学生ではない。
あの時間は、終わっている。
過ぎ去ったものだ。過去だ。
そして、いまは今だ。
だから――
――落ち着け
どうやら手紙を読みながら朦朧としていたようだ。
列車はすでに山梨県を走っている。遠くに富士山が見えた。
「はあ……」
こういうときはいつだってそうだ。
小学校の頃の記憶――それを思い出すとき、早苗は『戻る』。ほんの一時ではあるが、確実に退行をする。
だから思い出さないようにはしているのだが、記憶を惹起させる要因などは日常のそこかしこに転がっているから、結局また思い出す。当時の感情までをもそっくりそのまま引きずり出されて、早苗は掻き乱される。
忘れるという行為は覚えるという行為よりもずっと難しい。
早苗を育ててくれた神様。
両親のいなかった早苗の頭を、優しくなでてくれた神様。
大好きだった神様。
あの日、それを否定された。
教室で、40人から一斉に――それで東風谷早苗は破綻した。
子どもにとっては教室というのは社会そのものだ。だからこそ、そこで齟齬をきたせば、あるいは違和を感じれば、日常はどこまでも、遥かなくらいに遠くまで、遠ざかる。
その後一年半ばかり、早苗は学校に行かずに暮らした。
初めの数ヶ月は家から出ることさえ出来なかった。再び己の信じるものを否定されるのが怖かったのだ。
その頃、二つの髪飾りをもらった。
家で学習する合間に東風谷家に伝わる秘術等についても学んだ。
今思えば、そうすることであの日に負った傷を癒していたのかもしれない。
ナンシーとの文通が始まったのもその頃だった。
多感な時期に友人がいないというのは余り好ましいことではないのだろう。その辺りを配慮した学校側から、文通を勧められたのだ。
いじめや病気、あるいはひきこもり――そういった様々な理由で学校に通えずにいる子どもたちの間での文通をとりもっているNPO団体があって、そこを通じて知り合ったのがナンシーだった。
彼女は恐らく早苗よりもずっと年齢を重ねているのだろう。中学生になってから当時の文章を読み返してみたら、そう感じた。
あまりに言葉が的確すぎたのだ。
当時は気が付かなかったが、あんな『効く』言葉を子どもが紡げるはずはない。
心理学、哲学、宗教学――その他あらゆる事柄にまつわる知識が、子ども向けに書かれた平易な文章のそこかしこに見て取れた。単に知っているというだけでは、あんな文章は書けないだろう。小学生だった早苗にも伝わるような言葉へと知識を置換するだけの深い理解がそこにはあったはずなのだ。
早苗が割と短い期間で不登校の状態から抜け出せたのは、二柱の存在は言うまでもないが、もう一つ、彼女との手紙のやり取りがあったからだった。
たぶんそれがなければ、復学にはもっと時間がかかっていただろうと思う。
彼女はカウンセラーか何かだったのだろうか? おそらく違う。
早苗が不登校から復帰した後もやり取りは続いていたし、だいたいもう二人のやり取りは件のNPO団体のもとからは離れて、普通の個人的な付き合いへと変じているのだ。カウンセラーとクランケのような関係は、ひとまずもう終わっている(早苗の心が完調なのかどうかは少々疑わしいが)。
今では長野オリンピックがどうしただの、香港返還がどうしただの、そういったとりとめのないやり取りを交わすだけなのである。
ともあれ、早苗は彼女とのやり取りをとても楽しみにしているのだった。
『最近は家族が外出することが多くてね、退屈している。だから早苗の手紙は結構楽しみよ。まあ行き来には時間がかかるし、仕方ないからまだ読んでいない本に手を出したけど』
彼女の家には家人の集めた大量の蔵書があるのだそうだ。
『でも、彼女は興味のないことについては呆れるくらいなんにも知らないの。ロケットを知らないんだよ? 信じられる? 私より本いっぱい読んでるのにさ。あとオーロラも知らないんだ。書斎派はこれだから困るよ。まあ、私が言えた事じゃないけどね』
彼女は引きこもり――なのだそうだ。
ただメンタル面に問題があるのではなく、身体の病気でやむなくそうしているだけらしい。
『そういえば、次のワールドカップはフランスだったかしら? 私、サッカーってやったことないんだけど、機会があったらやってみたいよね。面白そうだし。まあそれにはまず家から出なければならない……それが何より難しいんだけど』
彼女自身は、あまりその境遇を悩んではいないようだ。むしろ本を読む時間がいっぱいあって好都合と嘯いている。
『あ、読みだした本ていうのはダイアン・フォーチュンの伝奇小説よ。フォーチュンていうと内光教会の設立者って認識しかなかったけど、案外面白いわ。あとどうでもいいけど彼女は風の精霊シルフィードの研究でも有名らしいわね――家族がそう言ってた。でもさ、そのわりには高所恐怖症だったらしいよ。笑ってしまうよねえ』
彼女の紡ぐ手紙は、面白い文章と、かわいらしい文章と、感心させられる文章と、あと何を言っているのかさっぱり分からない文章で構成されている。
今のは分からない部分である。
どの辺りが笑ってしまうのか、早苗にはちっともだ。
そしておそらく向こうも分かると思って書いてはいない。そういういじわるな部分が彼女にはある。要するに分からないなら調べてね、ということなのだ。
思わず苦笑いを浮かべる。
読書家で皮肉屋な、深窓の令嬢――早苗はそんなイメージを勝手に抱いているのだった。
しばらくはいつも通りの内容が続いた。
『ところでさ――』
丸みを帯びていた文字が、少しだけ角張ったものになる。
『ここから先はちょっとばかり真面目な話なんだけどね、近々用事があって早苗のところに行くと思うのよ』
――え?
『少しばかり家族に問題が生じていてね――あ、家庭崩壊とかそういうんじゃないわよ? まあ書面で伝えるのが難しいことだから詳しいことは省くけど、貴女の力が必要になるかもしれないの』
――私の力?
『こっちで解決可能なことかもしれない。でも問題が私たちの手に余る状況にまで至る可能性も十分にあるの。もし私たちだけでことの解決が不可能になったらその時は、貴女の――ごめんね、住所で分かっちゃったの――風祝としての力を貸してほしい』
『第七十八代守矢神社神長官東風谷早苗様』
意外だった。
早苗のことを知られていることが、ではない。早苗がどこの誰なのかなどということは彼女の言うとおり住所から簡単に知れることだし、早苗は一応公人に分類される立場でもあるからそのことは意外でもなんでもない。
意外なのは、彼女が神長官――風祝としての早苗の力を求めているという点だ。
――どういうことだろう?
そして結辞とペンネームで手紙は締めくくられていた。
『With Love,
Una Nancy Owen』
◇◆◇
紫が博麗神社を訪れるその少し前のことである。
人里のとあるカフェにて紫は二人の人物と席を共にしていた。
「――というわけで、一時的に両の結界を緩めることにしましたの」
南瓜のタルトをオーダーした紫はそう言った。合わせの茶は香りの強い祁門紅茶。
このカフェは野菜を生かした菓子等を提供するという幻想郷の中では珍しい趣向を持っているため、老若男女人妖問わず人気がある。
店内には木材の持ち味をそのまま活かした調度品が並ぶ。里の大工や樵たちの合作である。
「しましたの、ってそれを私に言ってどうするのよ?」
一人が訝しげにたずねる。
ルビー色の、幾重かに層を成したローブのような服を着ている。やや薄みがかったウィスタリアの長髪は、頭頂の左部分で三日月を描くようにして結われている。
「大結界設立に関わった残りの面子、特に竜の代弁者――竜宮の長の説得をお願いしたい」
紫はお得意の両肘をついたポーズで彼女を見つめる。
「自分でやればいいじゃないのよ……」
困ったような口調で話しかけられた人物は言った。
「こっそり教えてあげましょう。私に信用は……一切無いのですよ」
「うん、知ってる」
「あとうっかり冬眠してたら時間のないことないこと。嫌になってしまうわ」
「それは貴女の自己責任でしょうに……」
女性は名を神綺という。
幻想郷とは別の、魔界と呼ばれる世界の創造主である。オーダーはフルーツがたくさん乗ったガレット。茶はスパイスのきいたニルギリのバリエーションティー。
「それに私、交渉事とか苦手だし……ああ、それで彼女を呼んだのね」
納得した表情をすると、神綺は最後の一人の方を見やった。
「ったく……人がせっかく隠居してたってのに」
その人物は、他の二人とは違ってひどく不機嫌そうにしていた。
喪服のような黒のワンピース。ウェーブしながら肩の辺りまで伸びた黒髪。その合間からは、兎族の耳が覗いている。
細い首には、人参をかたどったネックレスがかけられている。
「私は構想者であって構築者ではないのよ? 切れるカードが足りない。お固い連中が動くかどうか……」
もの凄く億劫そうにして、彼女――因幡てゐは言った。
オーダーはにんじんプリン。飲み物は、六年もの高麗人参の薬用茶。
「そこは直筆の二枚舌で――山の連中については山内の結界破りを見逃してやってるんだから何も言わないだろうし、地下は端から不可侵――だからまあ、最低でも竜との話が付けばそれでいい」
「それが一番骨が折れるんじゃないのよ。あそこまで行くだけで重労働ってものよ……セキュリティの必要解除レベルは?」
「第七段階まで。ロードの対象は大型洋館および地下図書施設一式、あと妖怪と魔法使いと名も無い悪魔が一体ずつ。それから――」
「ちょっと待って」
てゐが紫を制する。
「名も無い、と言ったわね。それは名も無いほど弱いということ? それとも名を封じなければならないような存在だったということかしら?」
「さあね。今は名無しであることには相違ないから、上手にごまかしてくださいな」
「勝手なことを言う……」
「後は吸血鬼の姉妹が二人。とりわけこの二人が物凄く強力で、故に『重い』」
「ねえねえ、紫」
神綺が疑問符を浮かべる。
「館とやらは必要なの? それがなければもう少し低い解除レベルでも――」
「吸血鬼のうち妹の方がね、これ館とセットで動かさないといけないのよ――館自体に能力の制御プログラムが組まれててね。面倒よねえ」
「それはこっちが言いたいよ……」
てゐのうんざりとした声。
「まあ、引き受けるけどさ――」
「あれ? 意外とすんなり」
「少し平和に過ぎるってのは同意だからよ。もちろん条件は付けるわ」
「何かしら?」
てゐは珍しく真面目な表情をしている。
「外部からの制御がなければ暴走するような、そんなヤバそうなものをあんたは呼び込もうとしているわけだ」
「ええ、そうね」
迷いの竹林が高草郡と呼ばれていた頃から、この素兎は生きている。
妖怪兎の最長老――そのどことなく老獪さを孕んだ瞳が、紫をじっと見ている。
「たぶんそれと同じくらいヤバいかもしれない奴が最近竹林に流れついてね。おまけに当人が自分の能力の危険性をいまいち認識してないってのがこれまた……そいつを含めた竹林の三人、いや折角だから藤原のも入れて四人にしようか。そいつらの身元を保障すること、これが条件」
「了解しましたわ。ただし、いずれ住民税はいただきますけど」
「私からも条件を付けて良いかしら?」
ガレットを手にしながら神綺が言う。
「何かしら?」
「こんど戦争しましょう」
「は? 戦争?」
かなり予想外の提案だった。
「そう。もちろん本気のじゃあないわよ? 実は最近すごく将来の楽しみな子が生まれてね。そっちの巫女さんのデビューも近そうだし、両世界の刺激にもなるだろうから――」
「まあいいけど……ただ、当代の巫女はまだ異変を経験していないのよ。然るべき試験といくつかの経験を積んだら、そのときね」
「それともう一つ」
「ん?」
「ここのお代は貴女持ちね」
そう言うとてゐと神綺はにこりと微笑んだ。
その翌日――
「で、引き受けるとは言ったものの――寒い。ウサギは寒いと死んでしまう」
そうてゐはぼやいたが、開いた口に次々雨滴が飛び込んでくるからすぐに閉じてしまった。
幻想郷上空、厚く巨大な雨雲の中をてゐと神綺は飛んでいる。目的地は紫の言う竜宮の長の居どころである。
高空なうえ辺りが水滴に満ちているから、四月だというのにやたらと冷える。
てゐの隣を飛ぶ神綺の髪は、今は水分をたっぷり吸ってしまい――
「……偏頭痛になりそう」
「そんなバランスの悪い結い方をするからよ」
そう言うてゐの髪もすっかり濡れそぼってしまっていた。
生来のウェーブはなりを潜めてまっすぐとして、額だの首だのに貼りついている。
「この辺で良いかしら?」
そう言うとてゐは懐から花火の筒のようなものを取り出した。
「なあに、それ?」
「不思議な不思議な、発煙筒」
「何に使うの?」
「まあ見ていなさい」
水滴を払いつつ点火、すると辺りに鮮やかな緋色の煙がまき散らされた。
「竜宮の使い釣り、よ」
てゐがずる賢い笑みを浮かべた。
もうもうと立ち込める煙には何か特殊な加工が施されているのか、水滴の群の中でも一定の密度を保ち続けている。
そのとき突然、雷光が周囲を駆け抜けた。
「あわわ、驚いた」
「貴女のその髪、避雷針になりそうよね」
「貴女の耳も立てればいけそうよ」
そんなどうでもいいやり取りを交わす二人の視界の彼方から、人影が一つ近寄って来た。まるで雲の中を泳ぐかのようにゆらゆらと動いている。
「おや? 天狗ではない。河童でもない。兎と……何かしら? 何にせよここまで上ってくるなんて珍しい」
黒雲の中を泳ぐ女性――その身を包むのは、美しい緋の衣。
「そこはかとなく緋色の雲を感知したと思ったんだけど……貴女たちの悪戯? いけませんよ、紛らわしいことをしては」
のんびりとした口調で永江衣玖は二人をたしなめた。
羽衣は水を吸わないのか、雨雲の中においてもひらひらとなびいている。
「ときに貴女方は?」
「私はてゐ、地上の因幡。こっちのは神綺――魔界神」
「およよ、別世界の神様ですか。幻想郷の方でもここまで登って来る方は少ないというのに」
衣玖は驚いた顔をした。構わずてゐは続ける。
「竜宮の長にちょっと用向きがあってね。ちなみにどっかの誰かが怠けてたせいで、割と急を要することなんだけれど、実はさる事情により結界を――」
「竜宮の使いたる貴女なら――」
てゐの言葉を遮るようにして神綺が言う。
それは今までとは打って変わった、静かな、しかし確かな威厳の含まれた声だった。
「言の葉の重畳はなくとも『読める』わね? 長のところへ通しなさい」
雷光を映す瞳は、槍のように鋭い。
別世界領域の最高神――彼女がそういう存在であるということを、改めててゐは認識する。
衣玖は観察するようにしばし無言で二人を見つめていたが、やがてどことなく触覚のような意匠の帽子を正すと――
「どうやらそうすべき空気のようですね。分かりました、こちらへどうぞ」
そう言ってほほ笑み、再び泳ぎだした。
「良かったわね、てゐちゃん」
その後を追いながらのんびりした口調で神綺が言う。すっかりいつもの調子に戻っている。
「ふん……人のセリフを切らないでほしいわ」
「ごめんごめん」
「というか普段からそれぐらい偉そうにしてれば箔も付くってもんでしょうに」
「肩が凝るからイヤよ。君臨すれども統治せず……政務と実務は夢子ちゃんの方が得意だしね」
そう言うと、神綺は大儀そうに肩を揉む仕草をした。
◇◆◇
夕方ごろ、列車は諏訪の駅へと到着した。
そこからオルゴール博物館だの何だのを横目に見つつ街路を抜けしばらく行くと、守矢山の山道へと至る。神社はその先である。
守矢神社は信仰の一側面として、山を御神体とする神奈備の形式をとっている。だからこの山道は、参道でもあるのだ。
ただ当の山道はそれなりに道路は整備されているものの、そこを行き来するバスは一時間に一本ほどしかない。鄙には良くあることだ。
そして間の悪いことに、早苗がそこへとさしかかったちょうどその時バスが発進し、早苗はものの見事に置いて行かれたのだった。
――むう
一人むくれた。
守矢神社までは、徒歩だと一時間ばかりかかる。
だからバスを待とうか、歩いて行こうか迷うところだったが、じっと待つのはそれはそれでくたびれそうだし歩くことにした。
しかし上り坂なうえに旅路の後でもある。二十分ばかり歩いて、すぐに疲れが出た。
そういえば今日一日で地下にもぐって、そこにいた神様を別の場所へ送り届けて、特急で東京から諏訪まで移動したのだ。それは疲れるだろうと今更のように思う。
それで仕方がないから二つ目辺りの停留所でバスを待つことにした。
その待合所は二本の柱に最低限の雨除けを乗せただけの簡素な代物だ。
腰を下ろした木製のベンチは背もたれもなく、また摩耗のせいか日差しのせいか、何とも白茶けている。
田舎のバス停である。
待ち人は早苗一人だけだ。
山道の途中にあって一種の高台のようになっているので、バス停からは諏訪の町並とその向こうの神湖が綺麗に見渡せる。一般には諏訪湖と称されるが、早苗や二柱は諏訪子と紛らわしいから神湖と呼んでいる。
かつてのこの地は諏訪子の――洩矢神の治める王国であったのだと聞く。
早苗はその辺りのことは詳しく知らされていないのだが、恐らくは神代の頃の大戦およびその戦後処理の結果、諏訪子にちなんだ名前を残した方が得策であるとの判断がなされたのだろう。
いずれにせよ、今となっては来し方の出来事である。
信州の山々に沈みゆく朱色の太陽は、凪いだ湖面に映り込んでいる。
二つの夕日。
それを受けた停留所の看板の影は、黒く、細長く、伸びている。
何とはなしにため息がもれた。
「眩しいねえ」
「わ!?」
一人たそがれていたところに突然声をかけられて、早苗は驚く。
待合所の柱のところにいつの間にか人が立っていた。
フードの付いた灰色のパーカー。ハーフパンツ。横縞模様のハイソックス。
逆光とフードでその顔はよく見えない。
「守矢神社って、こちらで合っているかしら?」
山道の先を指し示しながらその人物は言う。
背はかなり小さいし、声も高い。女の子なようだ。
「ええ、そうですよ」
「そうかい、それは良かった。結構道に迷ったのよ、ここに来るまで。なんか変なのに会ったしさ」
「あの、ひょっとして参拝ですか?」
「んー、まあそんなところかしら? 用事があるのよ、その神社に。時間は大丈夫かなあ」
守矢神社に門の類はない。だから参拝時間帯以外は立入禁止の鎖を渡している。
――ま、これも何かの縁よね
ちょっとくらい開けてしまっても構わないだろう。時間は少し遅いが、帰り道も自分が送り届ければいい。
何よりこんな小さな参拝客を無下にするのは抵抗感があった。
「あれ?」
そこで女の子は何かに気が付いたようだった。
早苗の方へと近寄って来る。それで、フードの中の少女の顔があらわになる。
――わあ
早苗は思わず息を呑む。
人形のような、という定型的な表現がこれほど似合う少女を早苗は初めて見た。
大きな瞳は、赤みのある茶色。
フードからはみ出た髪は眩い金色をして、諏訪の夕焼けとともに輝いている。
肌は黄昏の中においても、なお白い。
「お姉さん、ひょっとして守矢神社の人?」
「え? 何でわかったの?」
「えへへ、ひみつ」
人差し指を頬に添えて、いたずらっぽく女の子は言った。
のぞく八重歯がかわいらしい。
「時間はまだ大丈夫かな?」
「ええ、それは私が何とかするけど」
「じゃあさじゃあさ、案内してよ」
「40分ほどでバスが――」
「そんなに待ってはいられない。若人よ、歩きましょう疲れましょう」
結局勢いに負けて山道を歩くことになった。
日はどんどん沈んでいく。上り坂は億劫である。
女の子は紫外線アレルギーなのだそうだ。それでフードをかぶっていたらしい。
「珍しいっていうけど、日光なんて洞窟や深海にいるんでもなけりゃ大体の生物が浴びるものよ。いっぱい浴びればアレルギーになる。花粉症だってそうじゃない。それに珍しいっていうんなら水アレルギーとか青色アレルギーとか、そっちの方がよっぽど」
女の子は実に良く口が回った。楽しそうに、ぺらぺらと色んなことを喋る。
「ところで親御さんは?」
はしゃぎながら先を行く女の子にたずねてみる。子どもが一人、こんな時間に参拝というのも珍しい。
「……いないわ」
「いない?」
「今は遠くに行っている。だから貴女が誘拐犯みたく扱われる心配はないわよ」
フードはすでに外されて、有機物でできているのかどうかすら疑わしい美しい髪が、夕闇の山道に輝いている。
「早苗は学生さんよね?」
「ええ、そうよ」
「学校は楽しい?」
何だかコミュニケーションの苦手な父親が子どもに投げかけるような質問である。
「楽しいわよ。ちょっと昔は嫌なこともあったけど、今は楽しいよ」
「それは良かった」
女の子はころころと楽しそうに笑った。
「私にも壊す以外のことが出来たということね」
「壊す?」
「こっちのこと。しかし早苗はちょっと勘が鈍いなあ……そろそろ気付いてくれてもいいだろうに」
「気付く? 何を?」
「何だろうね。お、あれが守矢神社?」
夕暮れの山道の前方に、白石の鳥居が見える。
右手には巨大な、専女(とうめ)の欅と呼ばれるケヤキが屹立していて、それを中心として欝蒼とした社叢が周囲に広がっている。
鳥居の前には夜間立入禁止の札がかけられた鎖。その奥には少し傾斜のある石畳が敷かれていて、途中には縁結びの杉と呼ばれるスギが植わっている。
「鎖はまたいでね」
「はーい」
鳥居をくぐり、早苗と女の子は石畳の上を歩いて行く。
その先には、大注連縄の巻かれた神楽殿が鎮座していた。日中は、神奈子はここにいることが多い。もっとも今は時間が時間だから母屋でくつろいでいるのだろうが。
「三方切妻造り――ふんふん」
女の子が一人何かつぶやいた。
「天流水舎に幣拝殿、蛙石硯石――と、あれが葛井の池か」
「良く知ってるわね」
早苗は感心した。
何かの本で読んだのだろうか?
神楽殿の裏側へ回ると、そこが拝殿となっている。諏訪子の場合、ここにいることが多い。
そしてその拝殿の奥に、神奈子の御神体でもある守矢山がそびえている。
「ごめんね、あんまり多くないかもしれないけど」
そう言うと女の子は拝殿の賽銭箱に五百円玉を投げいれた。多くないと当人は言っているが、その実たいそう太っ腹だと早苗は思う。
一瞬、夕陽が硬貨に反射した。
二拝二拍。
その後一回礼をし、彼女は神楽殿の方へと歩いていった。
もう一度賽銭の音と、拍手の音がする。
「おかえり、早苗」
「あ、諏訪子様」
居住用の建物から諏訪子が出てくる。
「神奈子様は――」
「夕飯作ってるわ。それにしても――変わった子が来たわね」
そう言うと諏訪子は神楽殿の方へと目をやった。
参拝を終えた女の子が、こちらの方へてくてくと歩いてくる。そして彼女は――
「貴女がタケミナカタ様?」
――え?
実に自然に、『諏訪子に向かって』質問をしたのだった。
――見えているの?
「私は洩矢諏訪子。タケミナカタという神は、表向きの名前。ここの本当の神は私と八坂神奈子っていう性悪な奴よ」
「へえ、そうなんだ……あ、私はフランドール。フランドール・スカーレットよ。以後お見知り置きを」
そう言うと彼女――フランドールは諏訪子に向って拍手を打った。
「はて、妹の方は館から出られないと聞いたような」
「存在を分割してある。能力を行使するだけの力は、この体には伴っていないの」
「器用なことをするわね」
「あ、あの――」
早苗は先ほどからちっとも会話に付いていけないでいる。
「諏訪子様のことが見えるの?」
「見えるよ。ていうか早苗、本当に鈍い。まだ私が誰か気が付いていないの? そんなんじゃ、貴女の首に縄を巻くことはとても容易いわね」
「まあまあ、あんまり内の祝をいじめないでちょうだいな。早苗」
「な、なんでしょうか?」
「U.N.オーエンは彼女だよ」
「え?」
諏訪子が何を言っているのか、早苗はしばらく理解できなかった。
「ナンシーだよ~、早苗。手紙に書いておいたでしょ、近々遊びに行くよって」
フランドールがからから笑っている。
「ナンシー? え、だって――ナンシーはもっと」
「早苗、その子は人間じゃない。吸血鬼だ」
「吸血――鬼?」
「そういうこと。こう見えて早苗の三十倍ぐらいは生きているわよ。あと、今後はナンシーではなくフランと呼ぶことね」
そう言うと、フランドールはもう一回楽しそうに笑った。
(続く)
続きを楽しみにしてます。
後一番ゲットです!
現世(うつしよ)と幻想の昔語り…これからどの様に紡がれていくのでしょうか?
続きを心待ちにしております。
まったりとお待ちしています。
これからどうなっていくか実に楽しみです!
「うん、知ってる」
これはひどいw
しかし面白いな、所々意味不明な単語やら出てくるけどまぁ許容範囲内
ほとんどのオリジナルものってその辺が無駄に強くて東方味が薄くなるもんだけど
これくらいならアクセント程度に楽しめる、続きに期待
まさか吸血鬼異変を持ってくるとは思いませんでしたよ
あと、長編は矛盾や設定のズレが生じやすいので気を付けてください
そういう世界だと思って無事に楽しめました。
続きに期待してます。
古参の方でしょうか?旧作連中にも気合が入ってますね
フランドールは、本家だとこんなもんですよ(特に紅魔郷だと)
ですから、キャラが壊れているなんてものは、ないと思います
次回作も期待
相変わらずオリジナル要素・世界観満載なのに、なんだこの引き込まれるようなパゥワーは!
ついに「世界を創る程度の能力」が再び発動しましたか。
しかも今度は旧作キャラも登場!
前編というのと、時系列で混乱した(『未来百鬼夜行』の設定~とあったので、てっきりその後の
話かと思いきやずっと前の話なんですね)のでこの評価という事で……続きに超期待です!
誤字?
ご指摘ありがとうございます。修正しました。
>10の方
えっと、幻想郷側はともかく早苗さん側はこの後かなり暴走気味です……御容赦のほどを。できるだけ控え目にいきますので。
楽しみすぎて眠れません。
期待してますよ。あせらずにじっくりと完成させてください。
あずさに乗る早苗さんがすごく身近に感じるwww
世界観に引き込まれました。
前作もとても心躍らされたし。
今作ももうwktkしすぎでヤバイ、眠れないぐらいヤバイ。
これだからナンバー付きは読まない。と肝に銘じていたのに、ごんじりさんの名前見て即クリックだったorz
作者様の幻想世界はとても心地よいです。
他の方も仰ってますが焦ったりせず完全な作者様の世界を読ませて下さい。
自分としては特に引っ掛かる所もなかったし、このまま突っ走ってほしいっす。
次も期待!
こんなの書こうと思う時点で既にスゴイw
(評価は完結してからということで)
なんか私の言ってる事無茶苦茶ですけど、言いたいことは続きを楽しみにしてるということです。
ああ、この感覚を文章にして伝えられないのが悔しい!!
続編、期待してます。
オーエンか・・・ちょっと、アガサ・クリスティの本よんでくr(ry
これは面白い…!
旧作キャラ達のキャラが立っていて読みやすかったです
全部見てきます。
ここまで先の気になるssは久々に出会いました。
個人的にはフランドールが凄くいい感じでした。
おおお、フランが、早苗が、神騎様が活躍していて胸躍る展開!
すぐさま続きを読みに行かねば!そしてこの章だけで十分楽しませてただきました。