目次 初回:作品集53 1話 前回:作品集55 2話
目の前には懐かしい場景が浮かんでいた。
通り過ぎた過去。
その景観に懐古の念などという物を抱いた事に、苦笑染みた思いが浮かぶ。
これまで生きてきた長い時の中では、目の前の光景こそが常であり、今現在より遥かに見慣れた光景のはずなのだが。
薄暗く、淀んだ空気が満たす広大な空間。
チラチラと揺れるランプの灯火。
そして。床に、机に、棚に。
足の踏み場も無いほどに、無秩序にばら撒かれた本の群れ。
書架に納められる事も無く。積み上げられては塔を築く、幾千幾万もの書物。
今でこそ図書館などと呼ばれてはいるが、目の前の光景はそう認識するにはあまりにも乱雑すぎた。
書物が多数ありさえすれば図書館と呼ばれるのでは無い。
図書館とは知識の集積場。
蓄えられた情報を、保管、管理し、正しく取り出せてはじめてそう呼ぶ事ができる。
目の前に広がる書物の海。
打ち捨てられ、中には破れて二度と中の表記を読み取る事ができない本も多数ある。
その場景を適切に表現するならば、書の墓場とでも呼ぶべきだろうか。
(なぜ?)
ぼんやりと、霞みがかった意識で思い浮かんだのはその一言だった。
この光景はすでに過去のものとなったはずだ。
今の自分は、情報の有益性だけでは無く、書そのものにも価値を認め大切に扱うし、自分ではとても及びつかないレベルでの管理を行う人材もいる。
もう二度と見る事はないはずの光景。
(どこ?)
彼女は。
そう、彼女はどうしたのだろうか。
それまでの自分との決別のために。踏み出した事の無い一歩のために。
それなりに長く生きた時の中で、最大級の労力を用いて招いた彼女。
彼女はどこに――
そう思った瞬間だった。
ジジジと。
それは例えるなら羽虫のようなノイズ音。
あるいは壊れたラジオの様な。
耳障りな音と共に、周囲を囲うようにして無数の燐光が浮かぶ。
雷の様な青。
焔の如き赤。
陽光を思わせる黄。
様々な色の燐光が、まるで意思を持っているかの如く、周囲を飛び回る。
そして、それらはやがて目の前の一点に集まりだした。
(なに?)
幾多の色彩は、混じりあって、目の前で白い光の塊となる。
どこか、暖かな雰囲気を持つ白い光球。
目を凝らすと、中心には一冊の書物と思しき影。
その光は徐々に近づいてきた。
危険は感じなかった。
そっと両手を広げ、受け止めるようにして手を差し出す。
触れた瞬間感じたのはただ暖かな温もり。
(……なに?)
疑問を浮かべた瞬間、ゆっくりと光が消えていき、ぽとりと一冊の書物が手に落ちた。
残ったのは、古ぼけた黒皮表紙の本。
見知った書であった。
タイトルにそっと指を這わせる。
そこに記されたのは懐かしさと親しみを覚える題名。
かつての自分と、今の自分の境界。
大げさな言い方をすれば、運命を変えた一冊。
思い入れのある書の登場に、さしたる根拠も無く安堵する。
パラパラと適当にページを開いて流し見する。
文面全てを読む必要は無い。
もはや、何度無く読み返した物語。
二、三の単語からでもその周辺の内容はおろか、文章表現に至るまで思い起こすことができる。
パタパタと送られていくページが、ある一箇所で止まる。
現れたのは一枚の挿絵。
しゃがみ込んだ線の細い少女と、彼女に手を差し伸べる一人の女性の絵。
白黒の版画なのでこの絵からはわからないが、作中の描写によれば、その髪は夕焼けより赤い美しい紅。
優しそうな笑みを少女に向けている。
だが、その穏やかな笑みよりも、版画からすら感じる美しい髪よりも、なお印象的な箇所がある。
その女性の背。
そこには一対の蝙蝠の翼があった。
愛しげにそっと指でなでる。
――途端。
触れた指先からページに黒い染みのようなものが浮かんだ。
突然の事に一瞬の思考停止。
パチリ、パチリと妙な音を立てて、黒ずんでいく絵の中の二人。
鼻腔を突く異臭。
すぐに染みなどではなく、焼け焦げていっているのだと気づいた瞬間には遅かった。
ぼぅ、と音を立てて燃え出した愛しき書物。
赤々と炎があがる。
何事か、と疑念の声をあげる頃には、その炎は自分自身までもを飲み込んでいた。
視界が赤に染まる。
感じたのは熱さというよりは、焼かれるという触感。
皮膚が激痛と共に炭と化し、己が肉体が燃料として燃える恐怖。
炎が燃える。
咄嗟に、手の中の書物を投げ捨てる。
激しく地面に打ち付けられた書物は、一瞬で灰と化して砕け散った。
(あ……)
灰は瞬き一つほどの間で風に消える。
その事態に、置かれた現状すら忘れて、悔恨の念が浮かんだ。
だが、それも一瞬の事。
置かれた現状は、切ない想いに浸らせる暇を許さない。
炎が我が身を焼く。
その事実がただ襲ってくる。
(う……ぁ…あ……)
振り払おうと、右へ左へと身体を激しく揺らすが、燃え盛る炎へは微塵の効果も無く。
指先から黒炭と化して崩れていく我が身。
炎は足元から、床に散らばる書物の海へと燃え移る。
焔が猛る。
最早、身体を焼くに留まらず、己が世界、全てを焼き尽くす業火と化す。
(……ぐ……ぅ、うっ)
世界が燃える。
紅蓮の炎が焼き尽くす。
(ぁ…ぁ、あぁっ!!)
苦しい、とか。
そう考える余裕さえ無かった。
本能の命ずるままに身を捩り、吸う空気すらないままに腹の底から悲鳴を上げ――
「………っぁぁぁあああっ!!!!」
思いっきり声を上げながら、パチュリーは跳ね起きた。
呼気を荒げ、必死に脳に酸素を送る。
額をぬぐうと、手にはじっとりと妙にねばつく嫌な汗がついていた。
「夢見が悪いなんてもんじゃないわね……」
通り過ぎた過去と、身を焼かれる自分。
炎に包まれる魔女など、笑い話にもならない。
ドクドクと、心臓が破裂しそうなまでの勢いで鼓動を刻んでいる。
火照った肉体。
腕を触り、指まで這わせ。いつもどおりの様子の肉体に安堵する。
大丈夫、焼け落ちてなどいない。
「何なのよ一体……」
見回してみると、そこは自分の寝室であった。
身内からは、寝床に置くのはどうかと言われる幾多の書架。
心地よいインクの匂い。
身体が妙に重い。
夢見が悪かったせいかずいぶんと疲弊しているらしい。
先ほどの身を焼かれるイメージが脳裏にこびりつき、思考もままならない。
そして、胸中を占めるのは漠然とした不安感。
もやもやと肺の中に鉛でも入ったのかと思うほどにじっとりと重く感じる胸中。
鎖で心臓を縛り上げられているかの如き圧迫感。
噴出しそうなまでの焦燥感と共に、血流が早鐘を打つ。
誰かの声を聞きたい。
ふと思い浮かんだそんな願望。
ここまでそんな事を願ったのは生まれてこの方初めてかもしれない。
心細さ。
自分に、そんな感情がある事に軽く驚く。
「……小悪魔?」
真っ先に浮かんだのは、この館で最も近しい位置にいる己が使い魔。
夢の内容も影響しているかもしれない。
恐る、恐る呼びかける。
「小悪魔?」
もう一度名前を口にし、そこで、念話ではなく、ただ発声しているだけだと気づいた。
これでは枕元にでも立っていない限り通じるはずも無い。
寝ていたベットから降り、部屋の外に向かいながら、今度は離れていても通じるであろう念話で呼びかける。
だが、やはり返ってくる声は無い。
(返事が無い……? いえ、それよりも……)
普段であれば、ものの数秒で反応をよこすはずなのだが。
いや、返事が無いだけなら、さして問題ではないのだ。
胸中を占める漠然とした不安と焦燥。
しかしして、その片隅に、ぽっかりと空いた空白を感じる。
(存在その物を感じ取れないというのはどういう事……?)
返事はおろか、存在そのものの認識ができないとは。
彼女を使い魔としてから、それなりの年月が経っているがはじめての事だった。
不安が加速する。
使い魔である小悪魔。
彼女は自我を持ち、一存在として確立しているため、確かに念話を返せない状況になることはある。
だが、しかし。
存在そのものが認識できなくなるなんて事は本来ありえない。
自律存在といっても、あくまでもそのカテゴリーは使い魔。
存在そのものが消滅でもしない限り認識できなくなるなんて事はありえないはずなのだ。
起こりえない事態。
そして、先ほどの夢。
彼女に何か――それこそ、その存在そのものを脅かすような何かがあったのではないか。
そんな予測が浮かぶ。
(虫の知らせ……。この場合は予知夢といったほうが適切かしら。何かが起こっているとでもいうの……?)
事態の確認が必要だ、と判断する。
こんな密室では何もできまい。
まずはこの部屋を出なければ。
自分が想定しているよりずいぶんと精神的に堪えているのか。
妙に足取りがぐらついている。
傾く身体をどうにか制御し、部屋の入り口にたどり着いた。
扉に体重をかけて押し開く。
くぐればそこはすぐに図書館である。
天を突くほどの巨大な書架。
それらが立ち並ぶ巨大回廊が目の前に広がる。
一瞬のフラッシュバック。
先程の夢。無残に打ち捨てられた書物達が思い浮かぶが、目の前の光景では一冊一冊が丁寧に棚に収められている。
そんな何気ない事に安堵を覚える。
胸の中の異様な不安はまだ続いている。
ひんやりとした独特の空気が流れてきて、身体をなでていく。
妙に寒い。
普段とは空気が違う気がする。
そんな事を考えながら、一歩を踏み出すと、
「ひゃぅっ」
足の裏から伝わってきた冷たさに身震いした。
「そういえば靴はいてない……というか、え? あれ? なんで私、裸なのよ!?」
視線を下に向ければ、下着のみ。
自分でも嫌になるぐらい青白い手足が、頼りない白い布地から伸びている。
「あら、ゴム紐にほつれが……」
鋭い何かでも引っかけたのか、腰元の一部がほつれ、頼りなさが8割り増しぐらいになっている。
放って置けばそのうち切れるかもしれない。
「って、そうじゃない。気にしないと後でとんでもない事になりそうな気がするけど、今気にすべきはそうじゃないわ」
何故、半裸なのか。
ネグリジェだったりする事は多いが、普段の自分ならこんな素肌を晒すような事はしない。
眠りに着く前に。もしくは就寝中に何かあったのか?
疑問符を浮かべながら、わたわたと慌てて部屋の中に引き返す。
何か身を覆うものは無いかと視線を走らせ、
「私の服はどこいったのよ……」
衣服と呼べるものはどこにも無かった。
普段であれば、小悪魔がベットの傍に用意しておいてくれるはずなのだが。
一体何が、と我が身に起こった事態を想像せざるをえない。
眠りにつく前の事を思い出そうとするが、どうも頭の中に霞がかかったように記憶がはっきりしない。
しばしの間、黙考。
そして、ひとまずいいか、と結論に至る。
記憶の欠落はいささか不快感が残るが、まず今は胸中の尋常ならざる焦燥感の解決が先だろう。
さすがにこの姿のまま往来を歩くのは御免だが、隣接する図書館に関して言えば、そこはもはやパチュリーにとって私室のようなものである。
どこぞの白黒魔女をのぞけば、来訪者なぞそれこそ月に1,2人いるかどうかといったところ。
誰に見咎められるわけでもないし、いざとなれば身を隠す手段なぞいくらでもある。
とりあえず、同じく図書館に隣接する衣裳部屋までの移動に関しては問題あるまい。
事態の把握こそが優先事項だと判断する。
意を決して、再び扉を開いた。
再度、目の前に広がる広大な空間。
流れてきた冷ややかな空気が晒した素肌を撫で、ヘソの辺りにくすぐったいようなむず痒さを感じた。
(誰もいないわよね……?)
素早く視線を走らせ、無人である事を確認。
恐る恐るといった態で、一歩を踏み出した。
訪問者が滅多にいないとはいえ、思い出したように現れるのもまた事実。
こんな姿を見られるのはなんとしても避けたいところだ。
とりわけ、いつもいつも唐突に現れるあの白黒魔女。
この醜態を見られようものなら、どんなからかいを受けるかわかったもんじゃない。
(それだけは避けたいわ……)
あるいは呆れるだろうか? それとも案外純情なところもある彼女の事だ。おたおたと顔を真っ赤にして、慌てて出て行くかもしれない。
書架の影を、壁を這うようにして進む。
暗がりを見つけては、一時退避。
普段は使う機会の無い、対人感知の魔法をフル稼働させながら進む。
足を進める度に緊張のせいか、妙な汗が浮かんでくる。
(まったく、こんな事に気をとられている場合じゃないのに)
積もる焦りと不安。
夢見の悪さから来るものから見れば微々たるものとはいえ、目的がなかなか進まない事にいらだちを感じる。
「う……これは……」
衣裳部屋まで直線距離で20メートル強といったところか。
部屋への扉はすでに見えている。
しかし、目の前に障害が一つ。
(障害物の少ない吹き抜けの回廊……)
直進する場合、身を隠す場所がまったくないエリアを突っ切る必要がある。
隠れる場所が無いだけでなく、これまで通ってきたルートに比べ、格段に見通しがいい。
このルートを突き進んでいる最中、幾つかある図書館に入ってくる扉から訪問者があれば、一瞬とは言え、確実に見られる事となる。
迂回路が無いわけではないが、幾つか出入り口の傍を通るため、そのルートのほうがリスクが高い。
さて、どうするか。
図書館への訪問者は、月にせいぜい1人か2人。
パチュリーの知人だったり、お使いを頼まれた妖精メイドだったりと顔ぶれは様々だが、決して多くは無い。
今、このタイミングで飛び出し、向こうの扉をくぐるまで、およそ10秒あまり。
鉢合わせる可能性は、それこそ天文学的なまでに低い。
だが。
だが、しかし、だ。
いざ、見つかった時の事を想像する。
『……パチェ? 貴女そんな格好で何をしているのよ』
『レ、レミィ?』
『大丈夫。私達は何があろうと親友よ。ええ、紅き月に誓っても良い。例えたまたまそこの窓から鴉天狗の文屋が覗いていたとしても私達の友情は揺らぎはしない。だから大丈夫。……大丈夫よ?』
『大丈夫って何が!?』
『問題ないわ』
最近見る機会の無い、寛大で雄大な様相と、生温い視線を同時に向けてくる親友を幻視した。
(まぁ……いくら何でも、今日に限って誰かが来て鉢合わせるなんて事はないでしょ)
リスクはあるが、可能性は無視してかまわないレベルだと判断する。
額に浮かんでいた嫌な汗をぬぐってから、意を決して書架の影から勢い良く一歩目を踏み出し――
「!?」
同時に、感知の魔法に反応があって、急停止。
さらに一歩、たたらを踏みながらも、どうにか転倒を免れ、大慌てで書架の影に隠れる。
(なんてタイミングで……!?)
愚痴っても始まらない。
乱れる呼気を力ずくで押さえ込み、すいぶん前に戯れで覚えた光学迷彩の魔法で周囲の風景に溶け込む。
移動しながらだと効果はまるで無いが、物陰に隠れる分には十分に効果を発揮してくれるはずである。
問題は、ろくに実験していないため、まともに機能してくれるかだが……。
数秒後。
風を切る音と共にパチュリーの隠れている位置の遥か上方。天井すれすれを、高速で飛び行く影があった。
こちらを見向きもせず、一直線に飛んで行く。
あの様子だと、迷彩魔法を使うまでも無く、こちらに気づくような事は無かったかもしれない。
隠れながらでは、細部までは観察できないが、全体的に赤味の強い衣装と、背の虹色の煌きは見覚えがある。
(あれは妹様……?)
何故こんな所に、とは思わなかった。
図書館で顔を合わせる事は少ないが、小悪魔からこのところ頻繁に本を読むために訪れている事は聞いている。
「それにしては、ずいぶんと慌てた様子だったけど……」
光学迷彩を解除して、フランドールと思しき影が飛び去った方向を見つめる。
慌てた?
いや、違うか。と、はじめに抱いた印象を否定する。
例えるならそれは、今まさに遊びに出かける幼子のような空気。
とてもとても楽しい出来事へ向かっていく無邪気で、夢中な感情。
何かあったのだろうか?
パチュリーは疑問符を浮かべて、小首をかしげた。
その時。
――パタン。
少し離れた位置に、重量を感じさせない軽めの落下音。
長い年月の中で、何度と無く耳にした音でもあった。
音のしたほうを見れば、そこには、
「本……。妹様が落として行ったのかしら?」
タイミング的には一致する。
吹き抜け回廊のど真ん中に落ちてきた書物。
開かれたまま投げ出されているため、この位置からでもページが折れてしまっているのがわかる。
このまま放って置けば、閲覧が困難なレベルにまで紙面が傷んでしまうだろう。
(そのままにしておくのは忍びないわね)
再度、感知の魔法で周辺に気配が無い事を確認してから、打ち捨てられた書へと近づいていく。
物陰から出ることに、背中から脚にかけて妙なこそばゆさを感じるが、ひとまずは無視だ。
落ちた書を手に取った。
ページの折り目を正し、閉じてから誇りを払う。
「これは……」
見覚えのある書物だった。
つい先程、あの心地よいとは言い難い夢の中で邂逅した懐かしい一冊。
刻まれた題字に指を這わせる。
「……さすがに夢と違って、燃え出したりしないわよね」
そこに記されたタイトルは、
――悪魔のささやき――
と、あった。
▽
テーブルの上に花瓶が置いてある。
「……………………………ふむ」
紅魔館に幾つかある給湯室での出来事である。
咲夜は真剣な面持ちでそれを見つめていた。
中央が若干くびれた円柱形。背が低い一輪挿し用のものである。
あくまで飾る花がメインという事か。
主張の弱い、薄い空色をした、やや無骨なデザインのもの。
決して珍しいものではない。
探せば、それこそ陶磁器や硝子製品を扱う店で一山いくらでも売られているありふれた品であろう。
さて、では何故そんなものが、紅魔館のメイド長たる咲夜の興味を引いているかと言えば。
「……傾いてるわよね?」
さながらそれは地盤に沈下した斜塔の様。
わずか数度といった所だろうが、まっすぐ垂直に立っている様には見えない。
妙だ、と咲夜は判断する。
休憩室やメイド達の控え室など、来賓用ではなく、どちらかというと居住区画にさりげなく飾られる花を挿すためのものだが、昨日見た際には確かにまっすぐだったと思ったのだが。
いや、それだけなら別にいいのだ。
今現在、主観的には右におよそ4度ほど傾いている。
一度目を瞑って視界から消し、5秒ほど数えてから改めて観察すると、今度は左に3度ほど傾いていた。
咲夜は首を傾げた。
怪奇! 見るたびに角度の変わる花瓶っ!!
なんという特報。どこぞの王国に投稿すべきだろうか。
いや、まずは目的を果たすのが先か。
指をはじいて、花瓶にぶつけてみる。
磁器特有の、透明感のある音が一つ響いた。
「良い仕事してますねぇ…………じゃなくて」
硬質な音である。
少なくとも、右に左にとぐにゃぐにゃ曲がるような代物には出せない音だろう。
もう一度目を瞑って、改めて見やる。
今度はまっすぐになっていた。
「そう、それで良い」
つぶやいて、右手を花瓶に向ける。
その手に握られたのは、一輪の白百合。
先程、庭園を通った際に見つけ。ふと、この給湯室の花瓶が空になっていたのを思い出して摘んで来たものだ。
すでに水は汲んである。
花弁を痛めないよう、そっと挿そうとして、
「また、斜めに……」
視界が揺らいだと思った瞬間、花瓶の口は目測の位置からずれていた。
思いがけない事体に、思わずたたらを踏む。
「あ」
余計な力がこもったせいで、花の首を折ってしまった。
花弁は落ちなかったが、これでは確実にこの花の寿命を縮めてしまった事だろう。
目を閉じて、ゆっくりと深呼吸。
開くと、再び花瓶は垂直に戻っていた。
ごめんなさいね、と咲夜は花に詫びて、改めて丁寧に花瓶に立てる。
まったく、と妙に疲れた思いで溜息をついた。
吐いた呼気は妙にじっとりと湿度と熱量を持っている。
右へ、左へと。
優柔不断なのは好みではない。
まっすぐ立つなら、ずっとまっすぐ立ってればいいのに。
そう思う咲夜だが、そもそも花瓶が右へ左へと動くものだと捉えている事をおかしいと考えないあたり、彼女の思考力が現在、正常に働いていない事がうかがえる。
だが、それも無理の無い事。
この時咲夜は、すでに肉体的、精神的にもいろいろと限界な状態だった。
何しろ、特殊能力を用いて、本来24時間しかないはずの一日で、30時間以上もの労働を、何週間にもわたって連日で続けているのだ。
棒になった足。今ならナイフでもはじき返せるのではないかというほどに凝り固まった肩と背中の筋肉。
極度の疲労に平衡感覚が狂い、向ける視線の焦点は狂いっぱなし。
立っているだけで息切れを起こし、呼吸はすでに二酸化炭素というより疲労そのものを吐き出しているのはないかという様相。
むしろ、今この時、まがりなりにも活動している事実こそ脅威と言えた。
「……傾いているのは机のほうかしら」
とりあえず、脚を調べてみようと机にもぐり……しかし、どう調べていいか思いつかず、そのまま机の下で熟考する事になった。
後ろから、通りすがったメイドと思しき「ミニスカ!? 四つん這い!? エロス! 迸るほどのエロスゥゥッ!!」とか聞こえたが、何か妙なものでも見たのだろうか。
と、すればどんなものを見たのだろう。
さらに数十秒を机の下で熟考する咲夜。
どうでもいいことだが、テーブルの下って何か落ち着く感じがする。
狭くて、低い天井には安定感を覚える。
何とか作った貴重な休憩時間だが、このままここで過ごすのもいいかもしれない。
「そんな所で何をしてるんですか? 咲夜さん」
うつらうつらと、そのままテーブルの下で寝そうになった所で声が掛かった。
本日すでに何度か聞いた声だ。
咲夜は、のそのそとテーブルの下から這い出した。
「ちょっと調べ物をしてたのよ」
「テーブルの下で?」
「ええ、そこでしか出来ない事だったの」
「それはとても哲学的ですね」
黒を基調とした上品な司書服。
色素の薄い自分から見れば羨む事もある、夕焼けのような美しい紅のロングストレート。
そして背には一対の蝙蝠の翼。
この紅魔館の図書館の司書。
咲夜が知りイメージしている種族とは、別種らしい悪魔の眷属。
小悪魔と呼ばれる少女だった。
「あ、少女にカテゴリーしてくれるんですね。ありがとうございます、と言うべきでしょうか」
脳裏の言葉に返答をよこした事に驚いて、目をぱちくりさせる。
はて? 声に出していただろうか。
「その辺はスルーしておいてください」
そういって、にっこりと笑顔を浮かべた。
邪気の無い、見るものが見れば天使の様な、とでも形容されるかもしれない笑顔。
悪魔だけど。
「…………?」
その笑顔に言い知れようの無い違和感を感じた。
彼女との付き合いは決して短い物では無い。
仕事場の違いから顔を合わせる時間は多くは無いものの、出会う事の無い日もまた無いといっていい。
見慣れた、悪魔としてはどうなのかといつも思わせる邪気を感じさせない笑顔。
咲夜自身見習い、しかしいまだ再現できない童女のような素敵な笑顔。
そこに普段とは違う、何かを感じる。
(なにかしら?)
例えばこれが、万全の咲夜であったならば。
その聡明な頭脳はすぐさま違和感の正体に気づいたかもしれない。
だがしかし、すでに色々限界だった咲夜の思考速度は普段の見る影もない状態であった。
「?」
「どうかしましたか?」
「いえ、別に。大した事じゃないわ」
目の前に立っているのは、どう見ても彼女の同僚で、いたずら好きなくせに迷惑を嫌う変わり者の悪魔だ。
その物腰、口調は咲夜の良く知るものである。
笑顔に違和感があるから、どうだというのだ。
彼女である事には変わりないのだし、気にするほどの事ではあるまい、と頭を振った。
「それで、何故、テーブルの下で調べ物なんていうエンハンスメントな事になってたんですか?」
「え、えんは……? えーと、ね……。なんだかテーブルの上の花瓶が傾いててね。てっきりテーブルが傾いてるのかと思ったんだけど……」
「私には真っ直ぐ立っているようにしか見えませんが」
「そう? 右に20度ぐらい傾いている気がしない?」
「そんな傾いてたら、立っているとは言いませんよ?」
そうかもしれない。
「失礼ですが、咲夜さん。傾いているのは花瓶のほうではなく貴女の身体のほうです」
「その発想はなかった」
まったくもって逆転の発想とはこの事を言うのだろう。
「違うと思いますが……。まったく、だからさっき言ったじゃないですか。ちゃんと休憩を取ってくださいって」
そういえば、そんな事を言われていただろうか。
「ああ、もう化粧の上からでもわかるぐらい、そんな酷いクマなんか浮かべて……」
そっと、こちらの顔に向けて手が指し伸ばされる。
その顔に浮かぶ、童女のような微笑。
いつも見る、しかしいつもとは何かが違う笑み。
何が違うのだろう。
疑問符を浮かべる。
だが、しかし会話の内容は、先程出会った小悪魔と一致している。
やはり目の前の彼女は、1度目は厨房で、2度目はホールで出会った小悪魔に他ならないだろう。
そう判断する。
伸びてくる小悪魔の右手。
綺麗な指だなぁ、などと場違いに暢気な感想が浮かんだ。
書物管理といえば、それなりに指を酷使する職種かと思っていたのだが。
極力目立たないようにしているとはいえ、水仕事であかぎれの浮かぶ咲夜にはうらやましい限りであった。
そっと、左頬を撫でられ、髪を梳かれた。
女性特有のひんやりとした心地よい感触に、つい身をゆだねそうになる。
そこで、ずいぶんと小悪魔との距離が近い事に気づく。
文字通りに手を伸ばせば届く距離。
顔との距離はわずか数十センチメートル。
そんな近距離に、愛しげな微笑みと視線を向ける小悪魔の顔がある。
のぞきこむ真紅の瞳。
その瞳に張り付いたように視線が離れない。
(何かがおかしい)
違和感が加速する。
しかし、目と鼻の先にある真紅の瞳に見つめられていると、意識に霞がかかったように、思考できなくなる。
目の前に浮かぶ、無垢で、無邪気な――故に感情の読めない平坦な笑顔。
ドクン、と。心音が高鳴った。
小悪魔の顔がさらに近づく。
再び髪を梳かれ、
「まったく……」
目を閉じ、世話の焼ける妹分に呆れる姉のような溜息を一つ吐き、
「いけない仔……。お仕置きしちゃおうかしら」
開かれた瞳と共に聞こえてきた声は、まるで別人のような口調だった。
ゾクリ、と。
背筋に冷たい何かが走る。
そこには咲夜の知らない、妖艶な悪魔の微笑が浮かんでいた。
普段見る、童女のような無垢とは程遠い、艶やかな妖女の微笑み。
薄く開かれた赤い唇。向けられた流し目にゾクリとする。
(違う? 私の知る小悪魔とは別人……偽者!?)
咲夜の危機感に警鐘が鳴り響く。
振り払い、身を離さそうと力を込め――だが、しかし、どんどん距離を詰めてくる真紅の瞳から、目を離そうという思考が起きない。
いや、それどころかこのまま身を任せたいと、そんな願望が湧いてきて、思考が白亜に塗りつぶされる。
金縛りにあったように動かない体躯。
もうどうでもいい、と、低下していく思考力の中で、『魅了』という単語が浮かぶ。
対象者への催眠効果を持つ魔法。
咲夜の知る種族悪魔が好んで使う精神干渉。
小悪魔の顔が、もう息がかかるほどの距離にまで近づいている。
その距離がゼロになろうとする、その瞬間だった。
さながら、それは大砲の弾でも撃ち込まれたのではないかというほどの轟音だった。
鼓膜が破れかねないほどの破砕音と、身を揺るがすほどの音の衝撃。
(何事!?)
堕ちかけた意識を、長年培った戦闘技能者としての本能が上回る。
ままならない思考は相変わらずだったが、危機が迫った肉体は、意識からの命令を待たずとも反応した。
身を翻し、轟音の響いた方向へと身体を入れ替える。
「!?」
咲夜の目に飛び込んできたのは、無数の黒い影。
凄まじい速度で飛び来る弾丸。
否、目を凝らせばよくわかる。
それは粉々に砕かれた木の破片だった。
一体何事か、という思考は保留。
まずは回避が先だ。
身を捩って飛んできた破片をかわす。
時間を停止させる余裕も、ちょうど後ろにいるはずの小悪魔の事を気に掛ける余力も無かった。
直撃ルートを取っていた、幾つかを必死の思いで避ける。
拳大の塊が二個。左脇の下をくぐった。
右足を持ち上げ、低い弾道で飛び来た咲夜の頭ほどもある大きな塊をやり過ごす。
見落としていた針ほどの小さな破片が顔に向かって飛んできたのを、大慌てで屈み込んで避けた。
まばたき一つと、一呼吸分の時間。
本能の訴えるままに身体を動かし、どうにかして回避する。
飛んでくる破片を視認できなくなって、1秒と少し。
ようやく、端っこに除けられていた人間としてのまともな思考が返ってくる。
冷や汗、とはまさしく今かいているものを指すのだろう。
高速で飛び来る無数の瓦礫。
鳴り響いた破砕音への反応が、ほんのわずかでも遅れていたら、致命傷をもらっていてもおかしくはない。
磨いてきた戦闘技能に感謝しつつ、前方に眼を向ける。
飛び散った瓦礫片と、立ち上る塵煙。
そして、その向こう側には見知った極彩色の煌き。
「あれー? 開けるだけのつもりだったのに、なんでドカーンしちゃったのかなぁ」
紅い衣装に映える、金の糸とも称される綺麗な髪。
そして背中には、虹色の宝石の翼。
我が主の妹君にして、目下の所、最大の懸案事項であるフランドールである。
首を傾げ、不思議そうに手を握ったり、開いたりしている。
「妹様……?」
「ん? 咲夜だ。 どうしたの? こんなところで、そんな面白い格好して」
言われて、自分の格好を見てみれば、全力での回避運動と、警戒態勢のためにさながら猫のような、四肢を張り、地に這う様な低く構えた姿勢。
面白いと評されるのは不本意ではあるが、確かに日常、道端でこんな格好の人物とすれ違ったら、目を合わせようなんて気にはならないかもしれない。
ともあれ、ひとまず警戒態勢を解除。
改めて周囲を見回す。
足元には砂利と石。そして木材の破片が散らばっている。
前方。給湯室の入り口は、見るも無残な様相を呈している。
扉は周囲の壁ごと吹き飛び、酷い有様だ。
修復にかかる時間と手間をざっと試算してみて、目の前が真っ暗になるような気分になる。
「妹様……すでに何度も申し上げましたが、扉は壊すものではなく、開けるものです」
「閉じた扉は叩き潰すものだって聞いたよ?」
「どんだけ過激派なんですか、それは……」
「えー」
不満そうな声をあげるフランドールに思わず溜息をつく。
それにしても、と。
足元に散らばる残骸を見ながら、疑問符を浮かべる。
確かにフランドールはこれまでにも、散々扉を壊してきた実例がある。
だが、しかしそれはドアノブをねじ切ったり、蝶番ごと外れたりといった内容で、周辺の壁ごと吹き飛ばすような酷いものではなかったはずだ。
力のコントロールができていない?
これまで、その壊された扉のほぼすべてを修理してきた咲夜だからこそ抱く違和感。
「それより小悪魔見なかった?」
「……っ! そうだ、小悪魔!?」
問われて、思い出す。
自分の知る姿形で、自分の知らない笑顔を浮かべる小悪魔。
目の前の惨状も見逃す事はできないだろうが、まずはそちらを優先すべきか。
振り返り、すぐさま視線を走らせる。
だが、そこには無人の給湯室が広がっているだけだった。
いくらか瓦礫をかぶった机。
乗せられた花瓶は、運良く直撃しなかったのだろう。
首の折れかけた白い花が、倒れる事無く立っている。
見知った夕焼け色の髪の少女はどこにもいない。
つい先程まで、それこそ息がかかるほどの距離にいたといういうのに。
「どうしたの?」
「いえ……。今しがたまで、ここにいたのですが……。何やらいつもと……なんと言いますか、様子が違いまして……」
「ほんと!?」
再び向き直ると、そこには楽しげな笑みを浮かべ、瞳を輝かせるフランドール。
何故、喜ぶのか。
予想外のリアクションに、思わずたじろいでしまう。
「どんな感じ?」
言われて考える。
いつもと違う艶やかな妖女の笑み。
見つめられると動けなくなる真紅の瞳。
悪魔らしくない小悪魔が見せた、あの表情。
あれは、そう。
言葉にするならば、
「……悪魔。まさしく私がイメージする悪魔そのものでした」
「そっか! 悪魔か!」
その言葉を聞いて、一層笑みを強めるフランドール。
またも想定外のアクション。
嬉々とする要素がどこにあったのか、と考えてみるも、思い当たるものは一つとしてなかった。
「ならうまくいったのかな? 突然、消えたから、『壊れ』ちゃったのかと思ったんだけど」
ニコニコと今にも踊りだしてしまいそうなほどの楽しげなフランドールから、ポツリとこぼれてきた物騒な物言いに、戦慄にも似た何かが背筋を走った。
「一体何が……」
「んー、秘密?」
「先程の彼女の様子は、普段とあまりにも違い過ぎました。一体何が……いえ、『何を』したのですか?」
「うるさいなー、いいじゃん。そんなこと」
「妹様っ!」
何かがあった。
それは間違い無い。
では、一体何があったというのか。
人格の変貌。
パチュリーの実験。永遠亭の薬師の新薬。隙間妖怪の陰謀。
幻想郷で起きる異変の主な原因が一瞬で脳裏に浮かぶ。
どれもがありえそうで、どれもが違うような気もする。
「大した事じゃないよ? ただ、わたしは、わたしの願い事をかなえようというだけ」
「願い事?」
「それで、小悪魔はどこいったの?」
こちらの質問は無視して、質問が返ってくる。
追求すべきか、一瞬の逡巡。
元々気難しい気質のフランドールの事だ。
ここで、無理に聞き出そうとしても、プラスにはならない見込みが高いと判断する。
「妹様が入ってきたのと、同時に消える様にいなくなりました。まるで始めからここにはいなかったかのように」
「むぅ。なんで私の前からいなくなるかなぁ」
「それで、妹様。事情の説明をお願いしたいのですが」
「そのうちね。いないならここにはもう用は無いわ」
言って、そのまま踵を返すフランドール。
止める暇もあらばこそ。
こちらはにはまるで関心を示さず、飛び出していくフランドール。
追いかけようと、一歩を踏み出そうとして、
(また、世界が斜めに――!!)
足元の瓦礫に蹴躓く。
やはり疲労は深刻なようだ。
まともに立つ事もかなわぬ状態で、飛散した瓦礫をかわしきる離れ業をやってのけた時点で、この身は限界だったのだろう。
一歩目は、転がっていた木片に足を取られ、そのふらつきを支えようと踏ん張った二歩目は地面は捉えるものの、すでに正常とは言えない平衡感覚は、身体を真っ直ぐに立て直す事ができない。
近づいてくる床面。
散らばった、無数の瓦礫。
尖った木材や、石の欠片が目に入る。
この上に、倒れこむのは実に痛そうだなぁ、とか。危機を目前としながら、勤めて冷静にそんな思考が思い浮かんだ。
(顔に傷が付くのは嫌だな)
残った力を振り絞って、なんとか背中から落ちるように反転。
後は、瞳を閉じて、来るであろう激痛に備えて身を硬くする。
だが。
一秒が経ち、五秒が経過しても、痛みは襲ってこなかった。
ゆっくりと瞼を開く。
「大丈夫ですか? 咲夜さん」
そこには見知った童女のような微笑。
夕焼けを連想される紅のロングストレート。
「小悪魔……?」
落ち着いて状況を把握しなおす。
凶器的な瓦礫が散らばる床面に到達する前に、小悪魔に抱き上げられたらしい。
背中に感じる腕の感触。
まるでお姫様みたいだな、などと場違いな感想が浮かんだ。
ほっ、と溜息を一つ。
そして、再びえらく近い距離に現れた小悪魔の顔を観察する。
浮かぶのは、こちらを気遣うような心配顔。
そこにあるのは、先程、危機を感じた妖艶な悪魔ではなく、咲夜の知る小悪魔そのものであった。
朦朧とした意識で思う。
先程の、違和感を感じる小悪魔とのやり取りは、すべて夢だったのではないだろうか。
目の前にはいつもの小悪魔がいる。
それだけで十分じゃないか。
膝の下にも腕を回される感触。
そして、そのまま地面が遠ざかる。
お姫様、などと浮かんだのはあながち間違いではなかったらしい。
普段なら、気恥ずかしさから暴れだしそうな格好で抱え上げられても、腕の中って暖かいなぁとしか感想が浮かんでこなかった。
どこかに運ばれながら、つぶやく声が聞こえる。
「思考がずいぶん鈍化してますね。やはり心身共に限界ですか」
思考の鈍化。
指摘されて、停止しかけた意識をなんとか回転させる。
「……妹様が…探していたわ。一体何があったの?」
「おや? この状況で、そこまで意識がまわるんですか。さすがですね」
「貴女は、小悪魔……よね?」
「ええ、咲夜さんとお菓子の作り方で相談したり、悪戯で館の中を汚して怒られたりする小悪魔ですよ」
「先程の貴女は……?」
「あれも私です」
迷い無くきっぱりと言い切られる言葉。
どこに隠れていたのか、とか。
一体何があったのか、とか。
様々な疑問が浮かぶが、問いかけるだけの余力が無い。
「まぁ、姿形や『ここに在る』なんて事実、私には意味があるようで無いようなものですし。それに……あの子に会うにはまだ早すぎるんです」
言葉の意味を捉えようとして、しかし思考が追いついてこない。
意識がどんどん薄れていく。
「意識を失うにはまだ早いですよ」
どさり、とやわらかい何かの上に降ろされる。
素肌から感じるのは、清潔なシーツの心地よい感触。
ベッドの上だ、と判断する。
同時に湧き上がる違和感。
抱き上げられてから、わずか数十秒。
今のいままで居た、給湯室の近くに、それだけの時間で移動できるようなベッドのある部屋があっただろうか?
重い瞼をこじ開けて周囲を観察する。
すぐ傍らに見覚えのあるテーブルがあった。
上には薄い空色の花瓶に映える、一輪の首の折れた白百合。
間違いない、ここはまだあの給湯室だ。
しかし、ここにはベッドなぞ無かったはず。
なら、『此処』は一体どこなのだ?
「あの給湯室ですよ、間違いなく」
何故、ベッドが。
「貴女が休養の必要性を感じ『願った』から」
休養は必要だ。
だが、この身は紅魔館において、幾百のメイド達を束ねる身。
疲労で倒れるなど、無様な姿を晒すわけにはいかない。
「そう願うならば、誰もここには辿り着けません。誰にも見られる事はありません」
なら、このまま休んでも良いの?
「ええ。貴女には優雅で瀟洒な姿こそが相応しい。貴女は誰にも見られる事なく、誰の邪魔も受ける事なく、完全に回復するまでここで休む事ができる」
そう……。
「……でもちょっと待ってくださいね。低下した身体機能。ガチガチに凝り固まった筋肉。放置したままだと、疲労がうまく抜けませんから。ちょっと意識を覚醒させますよ」
消え行く意識で、その言葉が聞こえた瞬間。
普段の何百倍もの重量を感じていた瞼があっさりと開かれる。
目の前には小悪魔の微笑。
ベッドの横からのぞきこんでいるのではない。
仰向けになった自分の上に、またがるようにして上に乗っている。
脳裏に、先程見た妖艶な悪魔の微笑みが蘇る。
危機感が湧いてきて、なんとか抜け出そうとするも、押さえつけられているせいか身動きが取れない。
意識は戻ってきたものの、身体を動かすのは難しそうだった。
「ん? さっきの瓦礫。回避しきれていなかったみたいですね。頬から血が出てますよ」
右頬を撫でられる。
そして、針先で引っかかれた程度のわずかな痛み。
そういえば、顔に向かってきた見落としかけた小さな破片があった。
ギリギリで避けれたつもりだったのだが、掠めていたのか。
「さて、それじゃ、改めまして……」
小悪魔のひいた手の指先には、ぬぐった血が付着しているのが見えた。
それを。
つい、と。
下唇にはわせた。
その仕草にドキリとする。
「お仕置きの時間よ」
紅の塗られた唇が、そんな言葉を紡いだ。
▽
――首折れた白百合の花冠がポトリと落ちた。
ところで、頭の羽は忘れられているのか、分っていて描写しないのか。どちら?
1の方と同じくすっごく気になりますww
”妹気味”ってじゃあ妹じゃなかったらなんやねんと一瞬素で考えてしまいました。とりあえず、誤字です。
続きを楽しみに待ってますねw
ぶっちゃけ、覚えてる人いるのかなぁ、などと不安を抱えながらの投稿でしたが、待っていてくれた方もいらっしゃるとは・・・・・。
あれ・・・? なんだかディスプレイの文字がにじんで見えなく・・・・・・。
今話は、これまでの話よりなお、繋ぎとしての側面が強いので、あえて多くは語りません。
様々な要因が重なって、3話は遅れ遅れになってしまいましたが、次回はもっと早くお届けできる予定です。
今しばしお待ちください。
>■2008/08/14 23:28:51 さん
前者と後者の比率が、7:3ぐらいのでしょうか。
作品の序盤では、小悪魔主観だったため、そこまで細かい描写はいらんだろうなー、と意図的にはずし。
今話では、そのころの描写密度で癖がついてしまったのか、ぶっちゃけ忘れてました。
書き加える場合、これまでの話全部見直さなければならないため、08,8/16時点での誤字および一部の表現修正では直してませんが、近いうちに修正しようかと思います。
指摘THX。
>■2008/08/16 00:44:35 さん
前回、ものすごく恥ずかしい間違いが多かったので、誤字と誤表現には注意したつもりでしたが・・・・・・まだまだ甘かった orz
どうも見落とす部分は何度見直しても、決まって見落とすみたいでして。
指摘していただけるのは、非常に助かります。
指摘THX。