広い、広い場所。恐らくは海で、私は泳いでいた。
がむしゃらに泳ぎ続けていた。
何故泳いでいるのか……それは勿論、海豚に乗ってどんぶらこ、と波間をたゆたう幽々子様を追って、だ。
しかし、一向にその距離は詰まらない。
幽々子様、幽々子様。後生ですから、こちらを振り向いてください。
ああ、ほら、もう手が動かなくなってきましたよ。
このままじゃ私は、文字通り海の藻屑となってしまいます。
え? 大丈夫なんですか?
あ、本当だ。
どんなに広い海だって、凍ってしまえばただの地面ですもんね。
でも、これだと私も動けないですよ。
あれ? 幽々子様? 幽々子様ー?
「……なにそれ……」
布団の上で身を起こしていた私は、誰とも無しに呟いていた。
ぼんやりとした頭で周囲を見渡してみるが、直ぐにそれが無意味である事に気がつく。
真っ暗で、殆ど何も見えなかったからだ。
ええと……私は魂魄妖夢。
そしてここは、白玉楼の自室。
毎朝目覚める度に自己認識を行うような趣味は無いけど、それは先程までの不可解な情景が、未だ頭の中に残っていたから。
あれは多分……いや、間違いなく夢だろう。
夢とは、見たものの深層心理を表していると言うが、ならば私のこれは一体何を示していると言うのか。
ええと確か、水の出てくる夢は……。
「……!?」
その瞬間、私の意識は覚醒した。
跳ねるように飛び起きると、まず、身に着けている寝巻きの一部を触診にて確認。
続けて、敷布団の一部も同様に確かめる。
……セーフ。
「……ふぅ」
なお、何がセーフだったかは、絶対に言わないし言えない。それこそ墓場まで持っていく心積もりだ。
要するに、遠からず言う羽目になるという事だが、それでも私は現代の闘士であり続けたい。
「……にしても、何でこんなに暗いんだろ」
改めて身を起こした私は、ようやく室内の奇妙さに気が付く。
自分で言うのも何だが、私の体内時計はかなり正確だ。
だから、今が普段通りの起床時間……要するに、朝である事は間違いない。
なのに何故、未だに暗闇が辺りを包んでいるんだろうか?
いや、それだけじゃない。
私の記憶が確かならば、今は夏の真っ盛り。
昨晩もなかなか寝付けなかった程の、いわゆる熱帯夜だった筈だ。
しかし、今はどうだ。
涼しいを通り越して肌寒さまで感じているじゃないか。
さては嵐でも来たのかと一瞬思ったが、それにしては一切の物音が聞こえないというのも変な話だ。
……聞こえない?
「……」
咄嗟に立ち上がり、窓へと耳を傍立てる。
だが、何時も耳にするはずの、蝉の霊の鳴き声も、鳥の霊の歌声も、獣の霊の嘶きも、
外部の物音という物音の一切が、私の耳には入らなかった。
これはまさか……目に続いて耳も!?
「あー、あー、……あーあぁーはってっしーないぃー」
私は安堵とすると同時に、一つの後悔を得た。
無論、安堵とは、自身の聴覚が正常であると認識出来た事に対してであり、
後悔のほうはというと、奇を衒って発声練習から歌へと軌道修正した事に対してだったりする。
人間、慣れない事はするものじゃない。
「……ふぅ、誰も聞いてなくて良かった……ん?」
その時。
目覚めてから初となる、自分以外の何かが発した音が、私の耳へと届いていた。
それは窓の外……というより、窓そのものから発されているように聞こえる。
言うなれば、みしみし、という音だろうか。
気になった私は、窓に手をかけると、妙に重く感じられたそれを、力任せに開け放った。
その瞬間。
現実という名の波が豪快に私を襲っていた。
「どわああああぁぁぁぁぁ!!」
波というか、雪崩が。
「幽々子様! 幽々子様っ!! ゆーゆーこーさーまー!!!」
あれから数分後。
私は、無作法に大声を上げつつ、暗闇に包まれた邸内を歩き回っていた。
きっと通った跡は、水滴で酷いことになっているだろうけど、そんな事は気にしない。
どうせ掃除するのは私だ。
日ごろ、鈍感と称される事の多い私でも、物理的に雪崩に巻き込まれれば、事態は容易に推測出来る。
どこか肌寒いのも、今だ暗闇に包まれたままなのも、外からの物音の一切が聞こえなかったのも、
それらすべてが、白玉楼を埋め尽くすまでに降り積もった雪が原因だったのだ。
だが、あえて繰り返すが、今の季節はまさに夏真っ盛り。
常識的に考えて、雪など振る筈が無い……と思っていたのは過去の話。
今の私は、それが現実に起こりうる事を良く知っている。
しかもそれが、私にごく近しいある人物が、意図的に巻き起こす事が可能というのも。
故に私は、猛っていた。
雪に埋もれたせいで身体は未だにクールだが、心は燃え滾るほどにホット。
今日という今日ばかりは厳重に抗議しておかなければ、とても気が済みそうにない。
「幽々子様っ! 何処ですかっ!」
そして私は、居間へと続く襖を、力強く開け放った。
「……うわぁ……」
熱く燃えていた筈の私のハートは、現実という名の冷水を浴びせられ、あっけなく萎んでいた。
だって、その、暗闇のせいでただでさえ何か出そうな雰囲気なのに、本当に部屋の隅っこで、お化けが体育座りしてるんだもの……。
「……」
そのお化けは俗に言うところの亡霊。もっと俗に言えば西行寺幽々子様その人だった。
どうやら亡霊に相応しい舞台背景を得た事により、その存在感をより一層高められたらしい。
というか、薄ぼんやりと発光しないで下さい。怖いから。
「お、おはようございます幽々子様。そ、そんな所で何をなさってるんですか?」
「……」
返事は無い。
只者ではないが屍のようだ。
……じゃなくて、一体どうしてしまったんだろう。
いつものくだらない悪戯の時のように、薄笑みを浮かべて待ち構えていると思っただけに、
まさか暗く沈みきっているとは予想外だった。
続けるべき言葉が見当たらず呆然と立ち尽くしていると、
まるで今初めて私の存在に気がついたかのように、幽々子様がぐるりと首だけをこちらに向けてきた。
やっぱり、怖い。
「よーむ……ウチなぁ、気付いてもうたんや」
「は、はい?」
何故に関西弁ですか。
「どう頑張ったとこで、ウチみたいな腐った死体には、皆を不幸にする事しか出来へんねん。
そないな単純な事に気付くまで、ようけ無駄な時間を過ごしてもうたわ……ほんま、ウチってアホやなぁ……」
「確かにアホですね」
「……」
「い、いや、唐突にそんなシリアスな発言をされても返答に困るんですが」
「困る? ……ふふっ、私が妖夢を困らせるのなんて、日常茶飯事じゃない……」
「そ、それはまさにその通りですけど」
「否定してくれないのね……」
「……どないせいっちゅうねん」
伝染ったがな、しかし。
「ま、落ち込むのも飽きたからもう良いわ。で、何か用? もう朝餉の時間かしら?」
「軽っ! ……あ、いや、ええと、この真夏に雪に埋もれる白玉楼という奇妙な光景に関して、納得のいく説明を頂きたいのですが」
出来れば、少しくらいは謝罪も。
と、言いたいところだったが、やはり言えなかった。
「んもう、相変わらず察しの悪い子ねぇ。そんなだから、頭に雪が乗っかったままな事にも気付かないのよ。ぱっぱっ、と」
「……」
……泣かない。絶対に泣かない。泣くもんか。
私の涙腺は、この方にお仕えすると決めたあの日、その役目を終えたんだ。
さて。
幽々子様いわく、事は至って単純。
それは昨晩のこと。
身に付けたばかりの能力を存分に振るって、強引に雪見酒などを楽しまれていたところ、
『この雪って、どれくらい降らせられるのかしら~』等と、程よく酒精の回った頭で考えていたら、
そのまま眠ってしまい、気がつけばこうなっていたらしい。
……要するに、いくらでも降らせる事が出来るんだろう。それも無意識のうちに。
恐ろしく傍迷惑な能力を手に入れてしまったものだ。
幸いにも、力の及ぶ範囲はそう広いものでも無いらしく、せいぜいが白玉楼内に収まる程度だそうだが、
今の私にとっては、あまり慰めになるものでもない。
元々、私の行動範囲は、ほとんどが白玉楼内部だし、物理的に閉じ込められたという事実には何の変わりもなく、
現時点においても、自室が雪崩により半壊という、憂うべき直接的被害も生じている。
そして何よりも、今の状況では少々困る事がある。
いや、問題点は数限りなくあるし、どれも解決出来るとは思えないけど、その中でも取り上げざるを得ないものが一つ。
それは恐らく……いや、間違いなく幽々子様の逆鱗に触れるだろう。
だが、私は言わなければならない。
使命だとか矜持だとかそんな大層な理由じゃないし、意地を張っている訳でもない。
単に、後回しにすれば、もっと困る事になりそうだから……。
「……事情は大体分かりました。不本意ではありますが、もう起きてしまった事ですし、これ以上追求はしません」
「そうね。されても困るわ」
「ですが、その行為により、私から一つ、悲しい知らせをお伝えする必要が出来ました」
「……?」
「実は今、当家には一切の食料が無いんです。今朝一番で買出しに行く予定でしぶっ」
言い切るよりも早く、幽々子様の掌が、私の頬をしたたかに打った。
いや、それはもう、打つなどいう範疇ではない。
明確な殺意が込められた、まさに人を撲殺するための一撃に相違ない。
そうでなければ、三回転半しつつ壁に叩きつけられているという現状が説明出来ない。
そも、理解も出来ない。
「い、いきなりフック掌底を打ち込まないで下さいっ! 危うく首がもげる所でしたよ!?」
喜ぶべきか、悲しむべきか、理不尽な暴力には慣れっこの私は、瞬時に起き上がっては抗議の声を上げる。
「このお馬鹿っ! どうしてそんな大切な事を前もって言っておかないのよ!」
「無茶を仰らないで下さい! 何処の誰が、真夏の最中に雪で閉じ込められるだなんて思いますか!」
「一人くらいいるんじゃない?」
「……」
「……」
何故だろう。
そんな筈が無いのに、私にも心当たりがあるような気がしてならない。
これが俗に言う、既視感というものだろうか。
「そ、そういう問題じゃありません! 幽々子様の常識に私まで当てはめて考えないで下さい!」
「お堅いわねぇ。もう少し、思考に柔軟性を持たせないと、これから先、大変よ?」
「……堂々と次の犯行予告をするのは如何なものかと」
「どんな不測の事態にも対応してみせるのが貴方の役目でしょう?」
「物には限度ってものがありますっ!
って、よくよく考えてみたら、何だって私が食糧管理の件なんかで叱責されなければいけないんですか!?」
「え? だって……」
「もう一つの本職については、この際だから忘れます。
でも、今も昔も、私はこの白玉楼の庭師であるつもりです!
それが何故、食料の買出しまで私の義務になってしまっているのか、理解に苦しみます」
「あ、うん……それは……」
「専属の幽霊とやら、一度で良いから私の前に連れてきて下さいよ! 史書にまで嘘八百並べ立てて、それで良いんですか!?」
「あ、あれは別に、嘘を吐いた訳じゃなくて……ふ、不可抗力というか、その……」
おや。
珍しく口論で幽々子様を圧せている気がする。
……いやいや妖夢。
どこをどう取っても幽々子様に非があるこの状況で、圧し負けるほうが変だろう。
ともかく、ここは押しの一手しかないんだ。
「自らの暴政が原因で霊が逃げてしまう事の何処が不可抗力なんですか!
吸血鬼や宇宙人だってもっとまともに手綱を握ってますよ!」
「そ、そこまで言う?」
「言います。言わせて頂きます。
でなければ、アンケートの職業欄に二桁も役職を書き連ねている私の気が済みません」
「自覚してるんなら別に良いじゃないの」
「……」
それはまあ、私のほうも拒否した覚えは無いのは事実だ。
少しずつ仕事の穴埋めをしている内に、いつの間にかそれが日常になってしまったというのが本当の所だし。
「……ねぇ、妖夢。そんなに家事をするのは嫌?」
「え?」
「本当に嫌がっているのなら、私も真面目に考えてみるわ」
「え、あ、そ、その、そこまで嫌という訳では……」
上目遣いで恐々と聞いてくる幽々子様に、つい不明瞭な答えを返してしまう。
あれ、これはもしや……流れが逃げた?
「本当に? 無理して言ってない?」
「い、いえ、家事そのものは結構好きですから」
これは嘘じゃない。
掃除なんかは庭師の仕事の延長線上にあるようなものだし、炊事にしても手間暇かかる事は確かだが、
それを実に見事に平らげてくれる幽々子様の姿は、使った労力に匹敵するだけの満足感を与えてくれる。
ごく稀にだが『ああ、この駄目亡霊は私が面倒見てやらないと三日と持たないだろうな』等と、歪んだ喜びを覚えているのは秘密だ。
……はて、私はいったい、何が不満だったのだろう。
「私も妖夢が色々と頑張ってくれているのは、とても嬉しく思っているわ。
そして出来る事ならば、これからもそうであって欲しいと思っているの。駄目かしら?」
「……は、はいっ、今後も一層精進します!」
私は殆ど反射的に答えていた。
日ごろ、役立たずだの頼りないだの生きる負けフラグだのと貶されているだけに、
こうした言葉をかけられてしまうと、どうにも抗えないのだ。
「ふふっ、調教は順調ね……」
「……? 何か仰いましたか?」
「それよりも今は、この危機的状況を打破する手段を考えるべきではないかしら? って言ったのよ」
「え? ああ、そうですね。危機にした当人の台詞じゃない気がしますけど」
幽々子様と比べるものではないけれど、私だって食料が無いのは困る。
というか、本来は食事を必要としない筈の幽々子様と違い、人間である私は食事を取る以外に生きる術を持たない。
まあ、人間じゃない『私』は別なんだろうけど……それはまた別の問題だから置いておく。
ともかく、一刻も早くこの雪の牢獄から抜け出す必要がある。それは間違いない。
そしてその為に、今の私が取れる手段とは何か?
「……はあ、仕方ないか。少々時間を頂きますが、勘弁してくださいね」
「ディグダグるの?」
「問いかけるなら、私に分かる言語でお願いします」
「おほん……掘るの?」
「ええ、他に方法も無さそうですし」
生憎として私は、雪壁を一瞬で消し去るような秘術などは身に付けていないし、
こうして落ち込んでいたところを見るに、幽々子様にしても同様なのだろう。
となると、普通かつ地道に除雪するしかないというのが、私の結論だった。
「んー、そうね。不用意に大技なんか使っても効果があるとは思えないし、下手をすれば雪崩で全滅しかねないわ。
妖夢にしては賢明な判断だと思うわよ」
「そう、ですか」
すでに一度、雪崩を起こしてしまった事に関しては言わないでおく。
私にだってプライドはある。
「ただ、一つだけ問題があるわ」
「……?」
「格好よ、格好。貴方また、いつもの制服で仕事するつもりだったでしょう?」
「そうですけど……というか制服だったんですか、あれ」
さりげなく驚愕の事実を聞かされた気がするが、それは置いておくとして、
確かに私の普段の服装……緑のベストとスカートに蝶ネクタイというスタイルは、
雪かきに相応しいものかと問われれば、答えは否だろう。
でも、突然そんな事を言われても困る。
生憎として私は、他の仕事着など持ち合わせていないのだ。
「そこで私は、こんな事もあろうかと、妖夢in雪かき専用コスチュームを用意しておいたわ」
「待てや」
「二種類用意しておいたから、好きなほうを選びなさい。あ、決める前に見るのは駄目よ」
「待てっちゅーとんねん」
果たして、幽々子様は待ってはくれなかった。
亡霊らしからぬ素早い動作で襖を開け放つと、そこから二つの箱を引っ張り出したのだ。
……この準備の良さは一体何なんだ。
もしや大雪を降らせ始めた時点で、翌朝の私の行動まで予見していたのだろうか。
恐るべき推理力と悪知恵の無駄使いに、嘆息するより他無かった。
「さあ、今日のコスチュームはどっち?」
「いや、どっち? とか言われても……せめて、どんな衣装なのかくらい説明してくださいよ」
「その陳情は却下します」
「……」
ちょっと殺意が芽生えた。
「……と言いたいところだけど、流石に判断材料が皆無では厳しそうね。
仕方ないから、少しだけ教えてあげましょう。寛大な私に感謝しなさいね」
「……ありがとうございます」
芽生えた殺意が順調に育って行くのが分かる。
が、それを表に出すような愚は犯さない。
平均して、一日三回はあることだから、押さえ込む事に関しては慣れているし。
「ええと、右の箱に入っているのは、マフモ……げふんげふん。冬季の屋外作業向けの装備一式。
そして左の箱は、地味目な貴方もこれで夏の女神へと大変身。
機能性は据え置きながら露出度は格段に向上という、お値打ちもののお色気セットよ」
「……あのう、それ二択になってない気がするんですが」
「あら、そうかしら?」
毎度の事だが、私には幽々子様の意図が、まるっきり理解できなかった。
そう説明された上で、左の箱を選ぶとでも思っているんだろうか。
誰かさんじゃあるまいに、私には露出狂の気なんてこれっぽっちも無いし、
そんなものを着こなせるような自信も、悲しいことにまったく無い。
そもそもにして、私が今からやろうとしている事は、一人ファッションショーではなく、ただの雪かきなのだ。
将来的には多少の色気くらい欲しいとは思ってるけれど、今必要なのはどう考えても実用性だろう。
「嘘は仰ってませんよね……それなら右を選びます」
「そう……本当にそれで良いのね?」
「はい」
「ほんっとうに? 後になって、やっぱり左が良いと言っても、チェンジは不可よ?」
「一向に構いません」
私は迷い無く頷く。
大丈夫、このしつこい程の問いかけは、私を不安に陥れる為の話術に違いない。
左を選ぶ理由なんて存在しないんだから。
「……分かったわ。はい、どうぞ」
「どうも。それでは着替えてきますので」
箱を渡すときの幽々子様は、何故か不満顔だった。
そんなに左を選んで欲しかったんだろうか。
お色気担当が欲しいなら、自分で引き受ければ良いのに……。
そそくさと自室へ戻り、ずっしりと重い箱を開封する。
動物の皮をふんだんに使用したと思わしき薄茶色の作業着上下に、深めのフード付きのジャケット。
それに合わせた分厚いブーツなどが、ぎっしりと詰められていた。
どうやら、幽々子様の説明に嘘は無かったらしい。
自分の選択が正しかった事にかすかな満足感を覚えつつ、私は着替えを始める。
無論、窓側は一切視界には入れずに。
どちらかと言えば殺風景な部類に入る部屋だろうけど、それでも愛着が無いと言えば嘘になる。
それが主人の寝言一つで半壊の憂き目を見たなどとは、理解はしていても受け入れたく無かったからだ。
しかし、私の部屋だけならまだしも、白玉楼そのものは大丈夫なんだろうか。
何せこの、ナポレオンも泣いて謝るだろう豪雪だ。
無事役目は終えたものの、帰るべき家は倒壊していた。なんて素敵な結末も、あながち有り得ない話じゃない。
博麗神社くらいの規模ならともかく、この広大な屋敷を建て替える事なんて可能なんだろうか?
……まあ、その時は事の張本人に責任を取ってもらうしかないか。
もっさ、もっさ。
そんな擬音を発しつつ、相変わらず真っ暗なままの居間へと戻る。
というか、フードを被っているせいで、何もかもが暗く見えるから困る。
「お待たせしました。準備が出来ましたので、早速始めようと思います」
ちゃぶ台で頬杖を突いていた幽々子様へと、出立の挨拶を告げる。
もっとも、この居間を基点として掘り進めて行くつもりなので、意味はあんまり無いんだけど。
「……まあ、良いんだけどね」
「はい?」
「貴方が自ら決めた事に口出しするのも野暮かしら、って思ったのよ」
「……はあ」
相変わらず幽々子様の物言いは、理解するに困難なものがある。
せめて主語くらいは付与して頂けないものだろうか。
「気にしないで良いわ。こういう事は自ら気がついて初めて意味を成すものだものね」
「……凄く不吉な予感がするんですけど」
「そうでしょうねぇ」
不吉を裏付けるかの如き笑みを浮かべると、幽々子様は席を立った。
が、そのまま自室にでも戻るのかと思いきや、何故か私の背後でぴたりと立ち止まっている。
背後霊ってこういう物を指すんだろうか。
「あの、幽々子様?」
「ん? 始めるんじゃないの?」
「いや、そのつもりなんですが……何をしているんですか?」
「何もしてないし、これからもしないわよ」
「……」
まるで禅問答だ。
聞くだけ無駄、と理解した私は、大きく開け放たれたままの襖の前に立ち、
無銘だが代々白玉楼に伝わりし業物……と、付箋の貼ってあったスコップを、白き巨壁へと突き立てる。
さあ、永く空しい戦いの始まりだ。
「……ふぅ……ひぃ……」
「……」
「……よい、せっと……はぁ……ふぅ……」
「……」
「……ふぅ……んっ……ふひぃっ……」
「……」
除雪作業を開始して、おおよそ半刻が経過した。
望まずもこの作業に慣れている私は、今のところは順調に雪道を切り開けている。
無論、白玉楼の庭の広さを一番良く知っているのも私ゆえ、その道のりがまだまだ長い事は自覚している。
が、今気になっている事は、作業そのものに関してではない。
「……ふぅー……」
「……」
私から一間ほどの距離を維持し続けている背後霊について、だ。
何を考えているのか、幽々子様は最初から除雪作業に同行する気だったようだが、
手伝ってくれる訳でも無く、かといって横槍を入れて来る訳でもなく、ただ本当に後を付いてくるだけなのだ。
幽々子様らしい不可解な行動と言えばそれまでだが、流石に一言として話しかけてすら来ないのは怖いものがある。
作業そのものが単純極まりない事もあって、何となく幽々子様の行動意図を考えてみたりもした。
推測出来た理由は、およそ四つ。
一、自責の念もあって手伝う気で来たが、ツンデレ……ではなく、立場上自ら口に出せず、やむなく今に至る。
二、雪難の相が出ている私一人に任せるのを心もとなく思ったため、監視係として同行中。
三、実は既に白玉楼は倒壊秒読み段階であり、これは事実上の避難行為である。
四、水面下ならぬ雪面下にて、新たな悪戯、もしくは嫌がらせを模索中。わーにんぐ、わーにんぐ。
……うーん……。
まあ、恐らく幽々子様のことだから、一番だと思えば二番だろうし、二番だと思えば三番、三番なら四番、
全部正解だと思えば、新しく五番の線が浮上するに違いない。
結局のところ、考えても無駄という事なんだろう。
とは言え正直なところ、このまま無言で掘り進み続けるのは、私の精神的にいっぱいいっぱいだ。
そうなれば後は、直接尋ねてみるより他無い。
どんな返答であれ、沈黙に耐え続けるよりはましだろう。
「あのう幽「妖夢、手を止めなさい」
振り返ろうとした瞬間、幽々子様の鋭い制止の声が、私の言葉を遮った。
腹立たしいまでに後の先を取られた形だったが、この際それはどうでもいい。
気になるのは、幽々子様の表情が、みょんに硬い事だ。
「今、私の小粒な霊感センサーがびりりと反応したの」
「ええと、直感という事ですか?」
「お黙りなさい。私は大真面目に言っているのよ」
「……はあ」
真面目だから困っているという事に、この方は気がついているんだろうか。
「いい? 貴方が掘り進んでいるすぐ近く……そこに、何かがあるわ」
「何かって、何です?」
「……それは私にも分からないわ。そこまで精密なセンサーではないのよ。
でも……そうね。強いて言うなら、恐ろしくも愛嬌があり、図太いようでいて儚げで、
老成しているかと思えば子供っぽい、そんな何かかしら」
「めっさ具体的な上に矛盾だらけじゃないですか」
「それが事実なのよ。辛くとも悲しくとも、甘んじて受け入れなさい」
突っ込みを入れながらも、私はどこか奇妙な安心感を覚えていた。
こうした理解不能な発言を垂れ流す時の幽々子様ほど心強い存在を、私は他に知らない。
「……分かりました。用心して進みます」
だから私は、幽々子様の言う通りにする。
「あ、別に用心なんてしなくても良いわよ。むしろ、力強く突き進んじゃうべきね」
「……」
こ、心強い……と思う……。
むにょん。
例えるならば、そんな表現になるだろうか。
いつもの如く思考を停止した私が、幽々子様の言う通り、力強くスコップを突き立てた時の感触だった。
「え……」
雪の中に存在する筈がない……いや、して良いはずがない。そう思うほどに不可解かつ奇妙な感触に、思わず後ずさる。
その私の肩を、後ろにいた幽々子様が抱き止めてくれる。
と、同時に、私の後頭部は、感じ取っていた。
むにょん、とでも表現すべき感触を。
「ありゃま、これはこれは……」
幽々子様は私の肩越しに視線を送ると、どこか納得したように頷いている。
が、私のほうはそれどころではない。
「ゆ、ゆっ、ゆ、ゆゆっ」
「落ち着きなさい妖夢。ゆ、は二つで良いのよ。今のところ」
「今のところ!? ……じゃなくてっ、ゆっ、幽々子様っ、こ、これって……」
「……ええ。どうやら私の霊感センサーは、極めて優秀だったようね。照れるわ」
幽々子様の場違いな発言と同時に、私たちの眼前へと倒れこむ一つの人影。
波打った金髪だとか、今日も頑張っているパニエだとか、リボン付けすぎだとか、そんな視覚情報よりも、
先程の感触そのものが、その人物の正体を私へと知らせていた。
「ど、どどっ、どっ、どうしましょうゆゆさまっ! わ、私っ、紫様を殺害してしまいました!」
「だから冷静になりなさい。子が抜けているわよ。まあ、それはそれでありだから許すとして、
紫の胸筋……もとい、おっぱいは、そんなナマクラに貫けるほど弱いものじゃないわ。安心なさい」
「そ、そうですか、良かった……」
「むしろ、突き立てる前から死んでるわ」
「もっと酷いじゃないですかっ!!」
ああ、もう訳が分からない。
私はただ、白玉楼の未来のために雪かきをしていただけなのに、何故にこんな事になってしまったのだろう。
夢でもいい、この際だからドッキリでもいい。出て来い赤ヘルメット。
そう願いながら、倒れ伏したままの紫様へと視線を向けた。
倒れる際に半転したのか、私達へと顔を向けるように転がっている紫様。
その表情は実に安らかで、両手を胸の前で組んだその姿勢も相まって、まるで眠りについているだけのように思える。
……もしかして、本当に寝ているだけじゃないのか?
あの紫様のことだし、雪の中で冬眠してたって不自然では……。
「ふむん……脈拍無し、心の臓はお休み中。瞳孔は猫っぽく開帳、と」
しかし、紫様の顔を覗き込んでいた幽々子様の言葉が、否応なしに私へと真実を突きつける。
間違いない。やはり紫様は死んでいるんだ。
でも、それならば何故……。
「ゆ、幽々子様、どうしてそんなに冷静なんですか?」
「ほっほーう、妖夢は見苦しくも取り乱した私の姿が見たいというの?」
『まあ、随分と悪趣味なこと。幽々子の性癖が伝染したのかしらね』
……。
今、三人目の声が聞こえた気がする。
それも何故か、眼下からではなく、直接耳に響くかのように。
「それは困るわね。私の楽しみが一つ減ってしまうわ。
……それはそれとして、どしたの紫? こんな所で死んでたら風邪引いちゃうわよ」
『その順序は幽々子以外には不可能ね。
まあ、話せば長くなるんだけど、ご希望とあらば十文字程度に収めて説明しましょうか?』
「あら。それは実に現代的で趣に欠けるわね。でも、お願いするわ」
『ゆきのなかにいる、よ』
「お見事。そんな事だと思ったわ」
『それはそうでしょう。トラップを仕掛けておいた張本人だものね』
「人聞きの悪い。これは運命という名の不可抗力の皮を被った真実の物語よ」
『要するに、偶然ね。これにはぐうの音も出ないわ』
「……」
元よりこのお二人の会話は、聞いているだけで頭がグラグラしてくるというのに、
それが直接頭の中に響いてくるため、もはや正気を保っていられる自信が無くなってきた。
何故に死んでいるのに話せるのか、との突っ込みも、幽々子様の前では許されるものではないし、
そもそもどうして死んだのか、と問いかけたくとも、私に理解出来る言語で返ってくるとは思えない。
ああ、誰か助けてください。
それだけが、私の願いです。
『ほら、幽々子。放置プレイも良いけど、このままだと妖夢が知恵熱を通り越して噴火しそうよ』
「ん、そうね……妖夢、妖夢。私の顔を見なさい」
「え……ああ……点は見えても線は見えません、五十三万と出ています、無駄に寿命が半分になりました……」
「こらこら、電波を拾うんじゃありません。ぺちぺちぺち」
「あだ、あだ、あだっ、……う? 幽々子様?」
頬に鈍い痛みを感じると共に、何処かぼやけていた視界がクリアになって行く。
その先には、普段通りの微笑を浮かべる幽々子様と、合いも変わらず横たわったままの紫様の姿が映っていた。
……って。
「ゆ、ゆ、ゆゆっ、ゆー!」
「……妖夢。良い子だから、少しの間だけ大人しくしてて頂戴。いい?」
「あ、は、はい……」
「見ての通りだけど、不慮の事故で紫が死んじゃったみたいなの。それは分かる?」
「ええと、その、よく分かりませんが分かります」
「……で、妖夢も知ってるでしょうけど、コレは一般常識とか、そういう範疇では図りがたい、そういう妖怪なのよ」
『幽々子には言われたくは無いけどね』
「……はあ」
幽々子様は、私の顔を挟み込むように手を添えると、ゆっくりと言い含めるように言葉を紡ぐ。
……そうだ。
何故私は、ここまで取り乱していたんだろう。
紫様が理不尽極まりないな存在だなんて、最初から分かっていた事じゃないか。
「だから、こんな風に肉体が死を迎えたといっても、それは別に驚くような事でも無いの。
……ぶっちゃけて言っちゃうと、一日も経てばあっさりと復活するわ」
「……まるで蓬莱人ですね」
『流石にあの連中ほど不条理じゃないわよ。
まあ、肉体の死が存在の消失とイコールではないのは、許容され難い事でしょうけどね』
「私としては、霊体ですらない死者が普通に会話している事だけで、十分許容外の出来事なんですが……」
「それはまあ、ご都合主義という事で勘弁して頂戴」
『そういう事』
「どういう事なのやら……ともかく、別に騒ぎ立てるような大事では無いのですね?」
「その通りよ。それさえ分かっていれば大丈夫ね」
今更ながらに、自分がとんでもない方々と関わっている事に気付かされる。
一般常識とは何なのか、一度真剣に考えてみる必要があるかもしれない。
「じゃ、私は紫を部屋まで置いてくるわ。ちょっと待っててね」
『別に待たせる必要も無いじゃないの。どうせ貴方は何もしてないんでしょ?』
「ほほう……そんな酷い事を言うのは、どの口なのかしら」
『あ、駄目、駄目よ。止めて幽々子! 顔面から引き摺って運ばないでっ!
ああー! 折角決めた最高の死に様が見るも無残に! もうやり直しは要求出来ないのにー!』
「それなら別に雪の中に放置していっても、私は一向に構わないわよ?」
『そ、それも駄目っ! 私をリルガミンの遺産にしないでー!!』
「お生憎様、ここは冥界ですからね」
相変わらず訳の分からない会話を繰り広げつつ、幽々子様は紫様を引き摺って戻っていった。
細身とは言え、長身の紫様を運ぶのは、そう楽なことでも無い気がするけど、
あの軽やかな足取りからして問題は無さそうだ。
流石は、橋より重い物は持った事が無い。と言い張るだけの事はある。
……もしかして、橋でも行けるんじゃないか?
『妖夢、妖夢っ!』
「うわっ! 急に話しかけないで下さい!
……って、屋敷に行かれたんじゃなかったんですか?」
『まだ念話の有効範囲内なの。それよりも、貴方に一つ忠告しておきたい事があるの』
「はあ、何でしょうか」
『貴方、まだ作業を続けるつもりでしょう。でも、雪をただの水分の結晶体だと思っていては駄目よ。
これは全てに終わりを告げる白き使者。十分過ぎる程に心してかかりなさい』
雪に殺された方の言葉だけに、妙に説得力が感じられた。
でも、その忠告は、私にとっては余り意味がない。
「大丈夫です。私も二回ほど殺されかかってますから」
『そう……ならば、私から言うことはもう無いわ。じゃ、おやすみなさい』
「……寝られるのと同意義なんですね」
私の呟きに答えることなく、紫様の気配がぷつりと途絶えた。
既に死んでいる事が分かっているので、別段心配は要らない……というのも何か変な話だなぁ。
一人になった私は、黙々と除雪作業を続けていた。
幽々子様は戻るまで待てと言っていたが、実際のところ、いつ戻らるれのか分かったものではないし、
それこそ、紫様と遊んでいて、私の存在を忘却の彼方へと追いやってしまう可能性も捨てきれない。
それならば、気にせずに進めているほうが、精神衛生上良いと判断したからだ。
……が、とある事情により、その作業ペースは、開始当初のそれとは比べ物にならない遅さになってしまっていた。
それは勿論、幽々子様が見守って下さらないから……なんて可愛いらしい理由じゃない。
もっと分かりやすくて、なおかつ、自分の愚かさを否応無しに実感させてくれる、そんな理由だった。
嗚呼、何故私はあの時、もっと真剣に考えようとしなかったんだろう……。
「あちゅい……」
不覚にも舌がもつれた。
そう。それほどまでに暑かったというのが解答だ。
一面の雪に囲まれていたせいで失念していたが、今の季節は夏真っ盛り。
昨晩だって床に付く時分は、蒸し暑さで中々寝付けなかった程だ。
そんな時分なれば、当然ながら白玉楼の広大な庭に溜まった地熱は健在であり、
その熱気が、ある程度堀り進めた進んだ今になって、容赦なく襲いかかって来るのも、また道理だ。
……にも関わらず、雪そのものには一切の影響を与えている気がしないのは不思議だけど、
何せあの幽々子様が降らせた雪であるからして、理不尽であって当然だろう。うん。
更に問題なのは、保温効果抜群の私の服装だ。
今ならば分かる。
あの時の二択は、実は左が正解だったのだと。
今となってはどんな衣装だったのかも不明だが、ここは露出でも何でも存分にして、暑さに対抗するべきだったのだ。
それが分かっていた幽々子様は、考え直すようにと何度も言外に忠告して下さっていたのに、
最初の結論で満足してしまっていた私は、本当に救いようのない……。
……いや、違うだろう。
それなら最初から、暑くなるから薄着にしたほうが良い。とでも言って下されば事は済んだんじゃないか?
多分、教育の一環なんだろうけど、時と場合も考慮して欲しいと切に願う。
「ふかーーーーーーーーーーーーーっ!!」
思考する事により、頭の中まで暑くなってきた私は、耐え切れず叫び声を上げていた。
雪崩が起きようとも、そんなの知ったことか。
……ああ、そうだ。
こんな我慢大会のような服、いつまでも着ている必要なんて無い。
忌まわしい記憶と共に、さっさと脱ぎ捨ててしまおう。
女一匹、魂魄妖夢。
裸一貫で生きる事に躊躇いなど無い。
「ふんっ……ていっ! ほいっ! とぉりゃーーーっ!」
重苦しいジャケットを放り捨て、邪魔なブーツを蹴り飛ばし、厚ぼったいシャツとズボンも勢い良く脱ぎ去る。と、ついでに肌着も。
時間にして、恐らく二秒とかからなかったものと思う。
これぞ、とある方に教えていただいた秘奥義、瞬脱自在の法だ。
「ふぅー……快適だぁー……」
上はサラシ、下はドロワーズのみという、超の付く軽装となった私は、
久方振りに感じた、清涼なる空気の感触に、思わず恍惚のため息を漏らしていた。
暑さから開放されたというだけで、驚くくらい自分の気分が軽くなっているのが分かる。
ああ、生きてるって何て素晴らしいんだろう。
「よーし、やるぞぉー!」
心機一転。
装いも新たに、ナマクラに格下げになったスコップを、力強く雪面へと突き立てる。
先程までの重苦しさがまるで嘘のように、さくさくと掘り返されて行く雪。
自然、心に余裕の出来ていた私は、休まず手を動かしながらも、
なんともなしに、先程の幽々子様と紫様のやり取りを思い返していた。
あのお二人は本当に良く分からない。
あれで本当にお互い、意思の疎通が成り立っているんだろうか。
……いや、それが問題と成り得てない時点で、どうでも良い事なんだろう。
千年来の付き合って、そういう物なのかな。
正直、少し羨ましい。
いつかは私にも、そういう相手が出来るんだろうか?
そんな事をつらつらと考えつつ、スコップを振り下ろしたその時。
がこん。とでも言うべきか。
先程の奇妙かつ雅な感触とはうって変わり、硬質で殺伐とした音が響き、
それでいて、やはり雪かきには不釣合い極まりない感触が、スコップを通して私の全身に伝わっていた。
「………」
思わず手が止まる。
流石に二度目という事もあり、それほど動揺はしていない。
が、どうにも嫌な予感が拭えないのは何故なんだろう。
恐らくは、スコップを叩き付けた雪面。その奥のほうに、何やらぼんやりと輝くものが微かに見えているからだ。
しかも……紅く。
「まさか……」
見なかった事にするなら今のうちだ。
そんな心の声を押し殺しつつ、慎重に周辺の雪をかき出してみると、
然程の時間を要する事もなく、新たな発見が私の視界へと飛び込んで来ていた。
それは……何と言えば良いんだろう。
造形、質感、配色、どれを取ってみても人工的極まりないものなのに、
何故かそれを、自然に備わったものであると認識出来る。そんな感じだろうか。
……いや、もう有体に言ってしまおう。
雪の中から飛び出していたのは、萎れた兎の耳らしきものだったのだ。
「……なんでまた……」
それの正体を確信した私は、多少乱雑に雪を取り除きにかかる。
多分、一番最初に来た感情が、呆れだったからだろうか。
「……」
「……鈴仙……」
ごとり。
そんな音と共に、まるで先刻の紫様の再生映像のように、私の眼前へと倒れ伏す鈴仙。
一つ異なる点を挙げるとするならば、紅く爛々と輝いたままの瞳といい、苦悶に満ち満ちた表情といい、
不自然に強張った四肢といい、どこを取ってみても、余裕の欠片も感じられなかった事だろうか。
……いや、そもそも、死体に余裕があるほうがおかしいんじゃないか?
ならばこの鈴仙の死に様こそが常識的であり、先程の紫様のほうが不自然と見るのが正解だろう。
やはり死体とはこうでないと……。
……。
…………。
………………あれ?
「し、死んでるっ!? 私が殺したの!?」
当然ながら、返事は無かった。
いや、それどころか、鈴仙の存在そのものが希薄であるように感じられる。
これは……ヤバい。
「み、脈、脈を……」
息を一つ深く吐くと、先程の幽々子様に倣い、生命反応の確認に入る。
脈拍は……完全に冷え切っていて良く分からない。
というかこれ、身体そのものが凍ってしまっているんじゃないだろうか。
だとすると、心音を確かめても無意味?
「そ、そうだ、瞳孔っ」
この時、私はそれなりに冷静なつもりだったのだが、後で思えば、絵に描いたような間抜け振りを晒していたんだろう。
だって、うつ伏せに倒れていた鈴仙を力任せに裏返しては、その瞳を至近距離で覗き込んだのだから。
「……う……うぇっ……ヴぉぇー……」
直後、私は嘔吐していた。
今だに自分が、狂気の瞳に対しての抵抗力を持ち合わせていない事を、ものの見事に失念していたのだ。
僅かに残っていた理性で顔面直撃こそ避けたものの、ぐらぐらする視界ばかりは堪えられる訳もなく、
やむなく、鈴仙の顔面にしがみ付く様な体勢で雪面とお友達になっては、波が収まるのを待つ意外に術は無かった。
「よ、妖夢……? 貴方、何をしているの?」
「はうあっ!!!」
突然の頭上からの声に、今だ定まらない視界を、自分の顔ごと強引に引き上げる。
その先には、今見たものが信じられないとでも言いたげに、よろよろと後ずさる幽々子様の姿が見えた。
「ま、まさか、妖夢にそんな趣味があっただなんて……」
「ゆ、幽々子様?」
「私も色々やって来た身だから、そんなに偉そうな事は言えないわ……でも、でもね、妖夢。
物事には限度というものがあると思うの」
「……はい?」
「不純同性交遊くらいならともかく、殺害と強姦の合わせ技まで突っ走られると、いくら私でも擁護し切れないわ……」
「ちょ、ちょっと待って下さい! 殺害はともかくとして、強姦って何ですか!」
「……違うの?」
少し腹が立った。
ただでさえ訳の分からない状況なのに、何だってそんな謂れの無い中傷まで受けないといけないのか。
大体、何処をどう取れば強姦なんて単語が思い浮かび……。
……うん。
人気の無い場所で、ほぼ全裸に近い私が力任せに覆い被さっている様は、どう見ても強姦です。
本当にありがとうございました。
「い、いや、あの、その、この、どの……」
「どうせやるのなら、一言私に相談して欲しかったわ……そうしたら、もっと完全なやり方を教授してあげたのに……」
「さ、さり気なく凶悪な事を言わないで下さい! これは誤解! 不幸な誤解なんです!」
「ゴカイもウロコムシも無いわ! こうなったら私もリミッターを解除します! 覚悟なさい、妖夢!」
「何の!?」
それから何が起こったのかは、正直私も良く覚えていない。
分かった事と言えば、言葉って難しい。という、哲学的な結論が出たくらいだろうか。
「まったくもう……これだから危なっかしくて目を離せないのよ」
「……ごめんなさい」
今、私と幽々子様は、倒れ伏したままの鈴仙を挟み、やけに荒れた雪面へと正座しては向かい合っていた。
ちなみに、今の私の格好は、幽々子様の言うところの制服姿……要するに普段着だったりする。
気を利かせてくれたのか、一度屋敷に戻った際に、幽々子様が持ってきて下さったのを着替えたものだ。
……多分、これも予測済みだったんだろうなあ。
「で、何だってこの娘、こんな所に埋まってたのかしら」
「さあ……私が知りたいくらいですよ」
幸いというか、鈴仙は死んではいなかった。
だが、極度の低温症……というか、物理的に氷漬けになっている為、いわゆる仮死状態とやらに陥っているらしい。
確かに、本当に死んでいたならば、狂気の瞳も失われていた筈だから、それは事実だと思う。
まあ普通は仮死状態というだけでも大事なのかもしれないけど……今更そんな一般常識を持ち上げるような気力、私には無い。
「ふぅん、本当に?」
「なんですか、その疑いの眼差しは……」
「いえいえ。別に貴方達が、密やかに深夜の邂逅でも交わそうとしていたんじゃないか、なんて微塵も思ってないわよ」
「思いっきり口に出してるじゃないですか」
どうも先程から、幽々子様の思考の方向性が偏っている気がする。
そりゃ確かに鈴仙は、私の数少ない友人の一人ではあるけれど、それがどうして桃色な発想に繋がるんだろう。
私達、同性ですよ?
「別に性別なんてどうでも良いじゃない。どうしても気になるというのなら、紫に頼んで弄ってもらっても良いわよ?」
「あのう、私の人生を左右するような重大事を、サラリと言わないで欲しいんですが……」
しかも、心読まれてるし。
「ま、冗談は置いておくとして、少し推理してみましょうか」
「え?」
「この娘がこんな事になっている真相を、よ」
「……分かるんですか? そんなこと」
「分からないから推理するのよ」
違いない。違いないんだけど……私達、こんな事をしていて良いんだろうか。
除雪作業もまだ終わってないし、屋敷の中に死体が一つ、今ここに半死体が一つ転がっているという、混沌とした状況なのに……。
……まあ、いいや、どうでも。
というかもう、雪かきをしていた理由すら思い出せないし。
「さて、妖夢に質問よ。死亡推定時刻は分かる?」
「そうですね……多分、幽々子様が眠られていた時間の間。それも、丁度中間辺りかと」
「何故そう思うのかしら?」
「雪が降り始めるよりも先に凍死するのは不可能ですし、かといって完全に降り積もってから埋もれに行くというのも不自然です。
そうなると、その中間としか考えられませんから」
「大正解! ……と言いたいところだけど、ちょっと違うわね」
「え?」
自信があっただけに、少し驚きだった。
ならば一体、何時だと言うのだろう?
「多分、つい先刻よ。妖夢が穴掘りに励んでる最中じゃないかしら」
「へ……?」
何だそりゃ。
まさか本当に、埋もれた雪の中に自ら突っ込んで行って、その挙句氷付けになったとでも言うんだろうか?
それじゃまるっきり、正真正銘のアホの子じゃないか。
「分からない? この娘たぶん、白玉楼に不法侵入する気だったのよ」
「あ、いや、それは何となく分かりますけど、それがどうして、つい先程という事になるんですか?」
「言ったでしょ、私の能力はそう広い範囲には及ばないって。
だから白玉楼の外にいた者には、ここに雪が積もっている事なんて分からない。
勿論、深夜の内から来ていたなら別でしょうけどね」
もしも私が推測した通り、真夜中に現れたのだとしたら、雪が降っているのは嫌でも目に入るだろう。
そこに進入しておきながら、完全に降り積もるまで突っ立ち続け、その挙句氷付けに……。
……そんなの、夢遊病持ちでもない限り、到底有り得ない。
「ね? そうなると、降り積もった後としか考えられないでしょう?」
「その通りです……でも、それだとなおのこと変ですよ」
「何が?」
「屋敷が完全に埋もれてしまうほどの積雪ですよ? その中に自ら突っ込んでいって、それで身動き取れなくなるなんて……」
「まあ、余り頭の強い子とは思えないけど、流石にそれは無いでしょうね。
……でもね、もしも積雪に気付いていなかったのだとしたら?」
「それこそ有り得ません。まさか鈴仙が盲目だったとでも言うんですか?」
「言わないわ。でも、この娘には見えなかったのよ」
拙い。
そろそろ脳内のシングルコアCPUが白煙を上げそうだ。
元々私は、考え事には向いてない性質なのだ。
「……参りました。そろそろ正解を教えて下さい」
「仕方ないわね。……ねえ、妖夢。貴方、この子の持つ力について、詳しく理解してる?」
「え? ど、どうでしょう。狂気を操るとは即ち、波長を操る事と同義とか……そんな感じの説明を本人から聞きましたが」
「……まあ、簡単に言うと、この能力って結構凄かったりするのよ。
使い方によってはそれこそ、紫級の反則技まで可能なほどにね」
「そ、そうなんですか?」
「まあ、完全に自らの物としているかどうかは疑問だけど……とりあえず、自らの存在を完全に消し去る事くらいは出来る筈よ。
だから、斥候役にはうってつけなんでしょうね」
「はあ……」
「で、当然ながら今回の潜入にもその力を使った、と。……勿論、門の外から、ね」
「……あ!」
そこまで聞いたところで、私にもようやく全容が理解出来た。
ここ、白玉楼の門は、屋敷の規模に負ける事なく、かなり立派な造りをしている。
だから門の外からでは、中の様子はまったく伺えないのだ。
当然、中が雪で埋まっている事など露程も知らない鈴仙は、何の疑いもなく姿を消し……。
「そして、庭に入ったところで、一旦力を解いてみたら……」
「……そのまま動けなくなった、と」
「何のことは無い、紫とほとんど同じ死因ね」
「ゆきのなかにいる、ってそういう意味だったんですか……」
その際に、優雅なポーズを取る事に専念した紫様と、生きるべく必死にもがいた鈴仙のどちらが正しかったかは、私には分からない。
分かりたくもないし、分かるような機会が訪れぬようにと、切に思う。
「さ、謎も解けた事だし、作業を再開しましょうか」
「……あ、はい、作業するのは私だけですけど」
「むぅ、妖夢ってば最近一言多いわね。わざわざ貴方の身体を思って、お休みの時間を設けてあげたのに」
今のは一応、小休止だったんだろうか。
何故だか、身も心も休憩する前より疲れている気がしてならない。
大体にして、元々何もしていない幽々子様が、休息を取る意味があるのか甚だ疑問だ。
……あ。
「あの、幽々子様。これ、どうします?」
眼下に横たわったままの鈴仙を指差しつつ、問いかける。
……正直、私を無視して不法侵入を試みたのは気分が悪いけど、流石にそれだけの理由で永眠させるのは心苦しかった。
よくよく思えば、私と幽々子様には、不法侵入に加えて数え切れぬ件数の暴行を働いた過去がある訳だし。
「ん? ……ああ、そうねぇ、世が世なら拷問か縛り首でしょうけど……どれがお好み?」
「いやいや、今後の為にも平和的な裁きをされるべきかと。というか、して下さい」
「仕方ないわね、紫の隣にでも置いておくわ。冷凍物は自然解凍が一番ですものね」
「はあ、お願いします」
多分大丈夫だろう。
いざとなれば、所持している筈の大三元だとか緑一色だとかの薬でも飲ませておけば何とかなる。
……でも、目覚めた時はさぞかし驚くだろうなぁ。
何せ、隣に紫様の死体が転がってるんだから。
数多の苦境を乗り越え、それでも私の孤独な戦いは続く。
ただ掘り進むのみではなく、折を見ては邪魔な雪を運び出し、また、落盤を防ぐ為に周囲を押し固めながら進まなくてはならない。
故に、進行は亀のように遅く、開始から二刻は経過した今も、未だ終着点の見える気配は無い。
正攻法を選んだのは、本当に正しかったのだろうか?
一か八か、私の剣技と、幽々子様の霊力を同時に叩きつけ、雪の一掃を図るべきだったのではないか?
……いや、それは無いだろう。
仮にそれを実行していたならば、紫様や鈴仙を放送コードに引っかかる様に変貌させてしまったに違いない。
それどころか、他にもまだ、何かが埋まっている可能性すらあるのだから。
三度目の正直よりも、二度あることは三度あると考えたほうが、精神衛生上良いだろう。
他に侵入を試みそうな輩と言えば……。
「……うー……」
思い当たりが多すぎて、考える気が失せた。
どいつもこいつも、お約束の神様に寵愛を受けている連中だ。
それこそ、神様本人が埋まっていたところで、今更驚きはしない。
「……妖夢!? 妖夢じゃないか!」
「どわあああああああああああああ!!」
そう考えた矢先に、盛大な叫び声を上げてしまった。
何かあるなら掘った先、と思っていたのが仇となった形だ。
呼びかけらしきそれは、あろう事か私の足元から放っせられていたのだ。
「おい、聞こえてないのか!?」
「……聞こえてるから大声出さないで。雪崩が怖いから」
「いやいや、お前の叫び声のほうが、よっぽど大きかったぜ」
「誰のせいだと思ってるのよ……」
穢れ無き白き雪面に、まるで雨後のタケノコの如くにょっきりと突き出した黒い物体。
それが、声の主……魔理沙の帽子である事は、直ぐに理解できた。
ああ、確かに侵入と言えばこいつだろうな。
「あー、良かった……一時はどうなる事かと思ったぜ。やっぱり日ごろの行いだろうな」
「……その理論だと、今後の運命は悲惨でしょうね」
奇妙な事に、私は今の状況に安堵していた。
まだ何かある筈だ、と前もって予測していたのもそうだが、それが死体ではなかったのも理由の一つだろう。
こんな慣れ、嫌だなあ。
「しかし、この雪は一体何なんだ? 私の知らない間に、冥界は南半球に移動しちまったのか?」
「んー、まあ、それには大して深くも無い理由があるんだけど……。
それよりも私としては、お前がここに埋まっていた理由を聞きたいな」
「……」
痛いところを突かれた、とばかりに顔を伏せる魔理沙。
もっとも、雪面から顔だけが突き出ている状態では、何をやっても滑稽にしか見えないのだけど。
「私もまさか、こんな事になるなんて思ってなかったんだ……」
「……?」
「……いや、な。ちょいと用事があって来てみたら、この有様だろ。
で、まずは魔砲を使って分かりやすく障害を取り除こうと思ったんだ」
「……まさか、やったの?」
「いや、何せこれだけの雪量だろ? いくら私でも、完全に切り開ける自信は無かったし、
やりすぎて屋敷ごと吹っ飛ばすのも困る……じゃない、悪いと思ったんだ」
「訂正しても無駄だってば」
まあ、侵入すべき場所が崩壊してしまっては、魔理沙としても意味が無かったのだろう。
ここにいる時点で、盗み目的なのは明白な訳だし。
「諦めて引き返すのは癪に障るし、かといって地道に掘ったりするのは馬鹿のする事だ。
だから私は考えた。効率的に道を切り開く方法をな」
「……」
どうして私は、泥棒相手に馬鹿認定されないといけませんか?
これが俗に言う、説教強盗という奴ですか?
「で、だ。八卦炉の熱で溶かしながら進んでいこうと思ったんだが……ちょいと進んだ所で、これは駄目だと気が付いた」
「……参考までに聞くけど、その方法だと進行速度はどれくらい?」
「聞いて驚け……なんと時速3メートルだ」
「……」
確かに驚いた。
まさか魔理沙が、ここまで馬鹿だったとは。
そもそも、始めた瞬間に気付きそうなものだけど……多分、意地になっちゃったんだろうなぁ。
「しかも運の悪い事に、諦めて戻ろうとした瞬間に背後の雪が崩れ落ちたんだ」
「で、閉じ込められた、と」
掘り固めもせずに一直線に進めば、当然の帰結だろう。
少なくとも、雪に関しての心構えに関しては、魔理沙より私のほうが出来ている事が分かったが、
これっぽっちも嬉しくないのは何故だろうか。
「……私だって好きで閉じ込められた訳じゃない。ちょっと試してみただけでこんな事になるなんて、思ってなかったんだよ」
「この雪はただの水分の結晶体じゃない。全てに終わりを告げる白き使者だ。
それを甘く見たお前の自業自得と思うんだな」
紫様の受け売りを、そのまま口にする。
私だって、そんなに大層なものとは思ってないけど、一応これも不法侵入者だし、
効果があるかどうかは別として、少しくらい説教しておくべきだと思ったからだ。
……その程度の考えだったんだけど。
「……ひっく……そんな言い方って、無いだろ……」
「……え……」
「……怖かったんだぞ、本当に。身動き取れないから魔法も使えないし、身体は冷えて動かなくなってくるし、
それどころか、段々呼吸まで苦しくなって……」
「そ、そうなのか……」
今度こそ、本当に驚いた。
あろう事か、あの強気一辺倒の魔理沙が、隠しもせずに泣き言を漏らしているのだから。
……考えてみれば、当然なのかもしれない。
かの音速の魔法使いと言えども、その身体は普通の人間だ。
自然現象という分かり易くも抗いようの無い脅威に襲われれば、本音が出た所で何の不思議も無い。
いや……自然現象と呼んでいいのかな、これ。
「もう駄目なのか。私の人生はこんな馬鹿な形で幕を閉じるのか。そんな事も考えていたくらいだ。
だから、お前がいるって分かった時、本当に嬉しかったんだぜ」
「……」
「……でも、やっぱり考えが甘かったよな。
ここの番人でもあるお前が、私みたいな泥棒に慈悲を与える訳が無いもんな」
「え、ええと、それは時と場合によるというか……」
「……なら、今は?」
……どうしよう。マジで。
雰囲気に流されるな、と心の何処かが警告しているが、それを無視したくなるほどに、魔理沙の上目遣いは凶悪だ。
顔以外が雪に埋まっているという間抜けな光景でなければ、とうに私は陥落していたに違いない。
これが俗に言うところの、ギャップ萌えというやつだろうか。
「……」
「……妖夢……」
ああ、頼むから私を涙目で見上げないでほしい。
そんな風に見られたら、何を差し置いても助けてあげなければ、と思ってしまう。
全身も冷え切っている筈だから、風呂にでも入れてやって、暖かい飲み物でも用意してあげないと駄目だ。
こんな状況だし、そのまま泊めてやるのも良いかもしれない。
トラウマにもなりそうな一件だ。夜には一つの布団で互いの傷を舐め合うのも悪くは……。
「精神注入っ!」
「こめっ!?」
唐突に私の後頭部を襲った衝撃は、それまで夢想していた事を完全に消却させた。
それどころか、これまでの人生全てを忘れさせてくれそうな一撃だ。
このタイミングで出てくるのは……あの方しか居ない。
「貴方を洗脳するのには、道具も薬も必要無さそうね……本当、困ったものだわ」
「うう、幽々子様……」
振り返れば、背丈ほどもありそうな巨大な鈍器を担いだ幽々子様が、憮然として私達を見下ろしていた。
まさか、アレで殴ったのか?
私が従者体質でなかったら、また一つ死体が増えたところですよ?
あれ……でもあの鈍器、何処か見覚えが……。
「さてさて、またしても面白い物を掘り当ててしまったようね」
「え? あ、はぁ。面白くは無いですけど」
「ゆ、幽々子……」
何故か魔理沙は、狼狽していた。
先程までの懇願姿勢は何処へやら、動きもしない体を、必死に反転させようともがいている。
その行動の意味するところは、一体……?
「冥界へようこそ、霧雨魔理沙嬢。幻想郷程じゃないけど、大概のものは受け入れるわよ」
「そ、そうか……なら助けてくれるとありがたいな」
「そうかしら。用意周到な貴方が、本当に助けなんて必要としているとは思えないのだけど?」
「……あ、当たり前だ。誰にだって不測の事態はあるさ」
「なるほど……では、懐に沢山隠し持っている紅い茸は何かしら。
冷え切っている割には、随分と血色の良い顔よね?」
「……うー……」
「あ、あの、幽々子様、どういう事なんですか?」
「……少しは自分で考えなさいな、お馬鹿」
怒られた。
まあ、多分私が悪いんだろうから、少し真面目に考えてみよう。
……確かに、長時間雪に埋もれていたにしては、妙に魔理沙の顔色は良い。
鈴仙という前例を見ていたお陰で、その不自然さは一目瞭然だ。
すると……この懇願は嘘?
でも、ここでこんな嘘を吐いて、一体魔理沙に何の得が……。
……。
「……幽々子様」
「はい、魂魄君」
「変な呼び方しないで下さい。ええと、足元の地盤が妙に緩いので、きっちりと埋め直す必要がある気がします。
……という事で宜しいんでしょうか」
「んー……まあ正解という事にしておきましょうか」
「お、おいっ! 何だそりゃ!」
あくまでも推測だが……私の考えはこうだ。
多分魔理沙は、雪に対して何らかの防護策を講じている。
故に凍死したりはしないが、これ以上進む事が困難と感じたのも事実なんだろう。
で、そこに都合よく現れた私を、魔理沙は利用しようと考えた。
幽々子様ならともかく、未熟者の私なら上手く誘導出来ると思ったに違いない。
で、体よく自らの力を使わずに侵入に成功した後は、その本性を現し……。
「……くそっ、少しでも同情した私が馬鹿だった」
「ま、待て妖夢! お前、絶対に何か誤解してるぞ!?」
「うるさい。抗弁なら雪の下で存分に吐け。蛙の神様辺りが聞いてくれるかもしれないぞ」
「だ、だから違っ、そんなやり方は私のモットーに反す……もがっ」
雑音を発する物体を、無造作に雪で埋めて行く。
何故か、幽々子様も手伝ってくれている。
どうやら手にしていた鈍器は、巨大なスコップだったようだ。
準備の際に、選択肢の一つとして持ち出しては来たけど、実用性の面で諦めた代物だ。
そんな物体を軽々と操ってみせる幽々子様のお姿は、実に危険な美しさをかもし出していた。
「じゃ、好きなだけゆっくりしていってね。気が向いたら掘り出して上げるから」
「やっ、やめろ幽々子! これ以上罪を重ね……」
幽々子様の放った雪が、その最後の雑音を覆い隠す。
こうして、本日三人目の被害者が誕生した。
後に残されたのは、妙な満足感を覚えていた私と、何処か怪訝な表情をを浮かべている幽々子様のみ。
……本当にこれで良かったんだろうか?
「魔理沙の供述が本当なら、出口はもう目と鼻の先ね」
「あ、はい、そうなりますね」
ああ、そうだ。
入ってすぐに埋もれてしまったという事は、内側にいる私達から見れば、終着点が近いという意味になる。
そうすれば、このトンネル工事の本来の目的……ええと、何だったっけ。
……ああ、食料の買出しか。それを、ようやく行えるのだ。
その割に、幽々子様の表情が優れないのが気になるけど……。
「私も手伝うわ。ちゃっちゃと済ませてしまいましょう」
「ありがとうございます。……出来れば、もっと早くにその言葉を聴きたかったとは思いますが」
「お黙りなさい」
私と幽々子様は、黙々と最後の工程を堀り進めて行く。
……しかし、どこか空気が重く感じられるのは何故だろう。
あと少しで目的が達成されるというのに、どうしてこんな雰囲気になってしまっているのか……。
「幽々子様、朝食……もう昼食になりそうですけど、何か希望はありますか?」
「別に無いわ。お腹が空きすぎて、考える気力が沸かないの」
「……そう、ですか」
言葉通りに、空腹が原因であるとは思えなかった。
無論、表情からはまったく伺えないが、長年付き添った私には分かる。
何かが幽々子様の中で引っかかっているのだと。
……あ。
「妖夢? どうかしたの?」
「い、いえ、何でもありません」
その時私は、唐突に今朝方の光景を思い出した。
あの、暗闇の片隅で、膝を抱えている幽々子様の姿を。
冗談めかして……というか、本当に冗談としか思えなかったが、もしやあれは本当に落ち込んでいたのでは無いだろうか。
自分には、人を不幸にする事しか出来ない……それは聞き流すには余りにも重い言葉だ。
自在に雪を降らせる。
それが、幽々子様の新たに身につけられた能力だ。
だが、その力によって引き起こされたものは何か。
紫様は非業……でもない死を迎え、鈴仙は氷付けの憂き目に逢い、今また魔理沙も雪の下の住人となった。
そして私はというと、不必要な労働を強いられる羽目になり、その影響で幽々子様自身すら困っている始末だったりする。
……本当に、誰一人として幸福を得ていない。
白玉楼を雪で埋めてしまったあの時から、そう幽々子様は確信していたんだろうか。
だとすれば……余りにも悲しい事ではないか。
いや、こんなに大量に降らせなければ済んだのでは? と言えばそれまでだけど。
「……あ、あのっ、幽々子様」
「んー、何?」
「そ、その、私、結構雪かきって好きなんです。その、ほら、身体も精神も鍛えられそうですし」
「……? どうしたのよ、唐突に」
「す、済みません。何となく言いたかったんです」
「……変な妖夢」
……己の機知の貧相さに、嫌気がさす。
これでは、雰囲気を好転させるどころか、余計に重くしてしまうだけじゃないか。
「も、もうすぐ出口です。さあ、最後の一踏ん張りと行きましょう!」
「あ、妖夢。そんなに勢い良くしちゃ……」
無意識に失態を覆い隠そうとしていたのか、私は無駄に力強くスコップを突き入れる。
一瞬、強烈な手ごたえを感じた気がしたが、それはほんの刹那で霧散していた。
「のわっ!!!」
次の瞬間。
私は無様に転がっていた。
無論、今日の転倒数は軽く二桁に達していたが、今回のは妙に痛かった気がする。
本来あるべき雪のクッションが、何故か感じられなかったからだろう。
「……あれ?」
急ぎ体勢を整えると、改めて周囲を見渡す。
「最後の一振りがアレではねぇ……ま、妖夢らしいけど」
「……」
ようやく気付いた。
幽々子様が立っているのも、私が転がっていたのも、雪面ではなく石畳の上だった事に。
それが指し示す答えは一つ。
私は、成し遂げたんだ。
「……やったぁ……」
自然と歓喜の声が、口から漏れる。
やはり、これだけの難行。達成感が無いと言えば嘘だ。
そうだ。この雪穴は、魂魄トンネルと名付ける事にしよう。
『この穴を抜けんとするもの、一切の望みを捨てよ』なんてプレートでも張って、新しい観光名所に……。
……溶けるまでの命なんだよね、これ。
「んー……丁度、庭の範囲いっぱいに納まっていたようね」
「そうですね……」
私達は今、門の外から白玉楼を振り返る形となっていた。
開けっ放しにしておいた記憶は無いが……多分、私の最後の一撃で開いてしまったんだろう。
見上げれば、雲ひとつ無い空。
さんさんと照りつける日輪の光に、むせ返るような強烈な熱気。
耳を澄ますまでもなく、盛大に鳴り響く蝉の声。
一時の雪など、ただの幻想に過ぎない。
そう考えてしまうほど、ごく当たり前の夏の風景が、私の前に広がっていた。
……でも、凍死者三名。
「さ、行きましょう。せっかくだから、このまま外でお昼にするのも良さそうね」
なんとなく、戻りたくない、という意図が感じられる。
……まぁ、あの惨状を考えると、私もこのまま放棄したくなるけど。
「そうですね。とりあえず里まで……わぷっ!?」
極力、明るく返そうとしたその瞬間だった。
今日になって一体何回目のことだろう。
予期せぬ衝撃が、私の身体を襲っていたのだ。
それは、冷たく、重く、苦しく……。
「よ、妖夢! しっかりなさい!」
「だ、大丈夫です。今のところ……」
「今のところ!? ……って、人のネタを取るんじゃありません」
何だか良く分からない会話を交わしつつ、幽々子様に引っ張り上げられる。
どうやら私は、またしても雪に飲み込まれていたらしい。
……一度、厄神様にでも見てもらうべきだろうか。
「多分、吸い取りきれないでしょうねぇ」
「だから心を読まないで下さいってば……」
それにしても、この雪は何だろう。
積もっていた雪が、たまたま私目掛けて落ちてきたんだろうか?
……いや、それは変だ。
幽々子様の言う通り、降雪の範囲はきっかり白玉楼内部に納まっており、門には一粒たりとも雪は積もっていなかったからだ。
ならば一体……?
「ねぇ、何か聞こえない?」
「え? あ……確かに」
よく耳を澄ませば、蝉の声に混じって人の声のようなものが微かに届いてくる。
それも、何処かで聞いた事があるような、複数の声が。
「……上ね」
「はい」
私と幽々子様は、久方振りの飛行能力を用い、門の上へと飛び乗る。
眼前に広がっていたのは、まるで未使用のキャンバスのような、一面の白。
背の高い桜の枝が見え隠れしていなかったなら、ここが本当に白玉楼なのか、私でも確信が持てなかっただろう。
本当によくもまあ、ここまで降らせてしまったものだと思う。
「「あ」」
不意に、私と幽々子様の声が重なる。
視線の遥か先。
丁度、屋敷の真上辺りの所に、忙しなく動き回る二つの影があった。
「あははははははははは!!」
「げ、限界! 限界だから少し落ち着いて!」
「あはははははは!! あはははははははは!!」
「ち、チルノちゃん! それもう、無邪気を通り越して狂人! 色々な意味で危ないよっ!」
「エネルギーじゅうふん120%! 発射あっ!」
「じゅうふん、じゃなくてじゅうてん……ふんがっ」
それは、真夏の陽光が降り注ぐ中、何処かで見たような妖精たちが雪合戦に興じているという、何とも奇怪な光景だった。
いや、雪合戦というよりは、片方が一方的に雪の猛攻を食らっているだけにも見える。
……ん?
もしかして、さっき私に落ちてきた雪は、あれが原因か。
「まったく……何だってこんな日に限って、不法侵入者ばっかり現れるんだか……いや、こんな日だからか」
「……」
「ちょっと懲らしめ……もとい、注意してきますので、少々お待ち下さい」
「……お止めなさい」
「え?」
歩み寄らんとしていた私を、幽々子様が片手で制して来る。
これまでの侵入者への対応から考えて、そうするべきだと思ったんだけど……。
「別に悪巧みをしている訳でも無さそうだし、好きに遊ばせてあげましょう」
「はあ……」
幽々子様は、僅かに笑みを浮かべていた。
それは、悪巧みをしているときの嫌らしいものではなく、本心からの微笑だった。
……あ。
そうか、そういう事か。
「分かりました。放っておくことにします」
「宜しい。じゃ、改めて行きましょう。紫達の分も仕入れてこないとね」
「……死体なのに食べられるんですか?」
「それは私に対する挑戦と受け取って良いのかしら」
どうでも良い突っ込みを入れつつ、私と幽々子様は、顕界へと向けて飛び立つ。
背後からは、今だに嬌声とも悲鳴とも突かぬ声が届いていた。
……ちゃんといるじゃないか。
幽々子様が降らせた雪で、幸福になった者が。
ま、一人なのか二人なのかは分からないけどね。
「ねぇ、妖夢」
「はい、何ですか?」
道中。私の後ろを飛んでいた幽々子様が、不意に声をかけてきた。
別段重大事でもないのか、本当に気軽に。
だから私も、さして深く考えずに言葉を返した。
「当初から疑問だったんだけど……ううん、今更かしら」
「……途中で止められると余計不安です。最後まで仰ってください」
「うん。あのね」
……今は後悔している。
聞くべきではなかったのだ、と。
「最初から縦穴を掘れば、すぐに外に出られたんじゃないかしら」
「そういう事は、早く言って下さいよぉー!!」
がむしゃらに泳ぎ続けていた。
何故泳いでいるのか……それは勿論、海豚に乗ってどんぶらこ、と波間をたゆたう幽々子様を追って、だ。
しかし、一向にその距離は詰まらない。
幽々子様、幽々子様。後生ですから、こちらを振り向いてください。
ああ、ほら、もう手が動かなくなってきましたよ。
このままじゃ私は、文字通り海の藻屑となってしまいます。
え? 大丈夫なんですか?
あ、本当だ。
どんなに広い海だって、凍ってしまえばただの地面ですもんね。
でも、これだと私も動けないですよ。
あれ? 幽々子様? 幽々子様ー?
「……なにそれ……」
布団の上で身を起こしていた私は、誰とも無しに呟いていた。
ぼんやりとした頭で周囲を見渡してみるが、直ぐにそれが無意味である事に気がつく。
真っ暗で、殆ど何も見えなかったからだ。
ええと……私は魂魄妖夢。
そしてここは、白玉楼の自室。
毎朝目覚める度に自己認識を行うような趣味は無いけど、それは先程までの不可解な情景が、未だ頭の中に残っていたから。
あれは多分……いや、間違いなく夢だろう。
夢とは、見たものの深層心理を表していると言うが、ならば私のこれは一体何を示していると言うのか。
ええと確か、水の出てくる夢は……。
「……!?」
その瞬間、私の意識は覚醒した。
跳ねるように飛び起きると、まず、身に着けている寝巻きの一部を触診にて確認。
続けて、敷布団の一部も同様に確かめる。
……セーフ。
「……ふぅ」
なお、何がセーフだったかは、絶対に言わないし言えない。それこそ墓場まで持っていく心積もりだ。
要するに、遠からず言う羽目になるという事だが、それでも私は現代の闘士であり続けたい。
「……にしても、何でこんなに暗いんだろ」
改めて身を起こした私は、ようやく室内の奇妙さに気が付く。
自分で言うのも何だが、私の体内時計はかなり正確だ。
だから、今が普段通りの起床時間……要するに、朝である事は間違いない。
なのに何故、未だに暗闇が辺りを包んでいるんだろうか?
いや、それだけじゃない。
私の記憶が確かならば、今は夏の真っ盛り。
昨晩もなかなか寝付けなかった程の、いわゆる熱帯夜だった筈だ。
しかし、今はどうだ。
涼しいを通り越して肌寒さまで感じているじゃないか。
さては嵐でも来たのかと一瞬思ったが、それにしては一切の物音が聞こえないというのも変な話だ。
……聞こえない?
「……」
咄嗟に立ち上がり、窓へと耳を傍立てる。
だが、何時も耳にするはずの、蝉の霊の鳴き声も、鳥の霊の歌声も、獣の霊の嘶きも、
外部の物音という物音の一切が、私の耳には入らなかった。
これはまさか……目に続いて耳も!?
「あー、あー、……あーあぁーはってっしーないぃー」
私は安堵とすると同時に、一つの後悔を得た。
無論、安堵とは、自身の聴覚が正常であると認識出来た事に対してであり、
後悔のほうはというと、奇を衒って発声練習から歌へと軌道修正した事に対してだったりする。
人間、慣れない事はするものじゃない。
「……ふぅ、誰も聞いてなくて良かった……ん?」
その時。
目覚めてから初となる、自分以外の何かが発した音が、私の耳へと届いていた。
それは窓の外……というより、窓そのものから発されているように聞こえる。
言うなれば、みしみし、という音だろうか。
気になった私は、窓に手をかけると、妙に重く感じられたそれを、力任せに開け放った。
その瞬間。
現実という名の波が豪快に私を襲っていた。
「どわああああぁぁぁぁぁ!!」
波というか、雪崩が。
「幽々子様! 幽々子様っ!! ゆーゆーこーさーまー!!!」
あれから数分後。
私は、無作法に大声を上げつつ、暗闇に包まれた邸内を歩き回っていた。
きっと通った跡は、水滴で酷いことになっているだろうけど、そんな事は気にしない。
どうせ掃除するのは私だ。
日ごろ、鈍感と称される事の多い私でも、物理的に雪崩に巻き込まれれば、事態は容易に推測出来る。
どこか肌寒いのも、今だ暗闇に包まれたままなのも、外からの物音の一切が聞こえなかったのも、
それらすべてが、白玉楼を埋め尽くすまでに降り積もった雪が原因だったのだ。
だが、あえて繰り返すが、今の季節はまさに夏真っ盛り。
常識的に考えて、雪など振る筈が無い……と思っていたのは過去の話。
今の私は、それが現実に起こりうる事を良く知っている。
しかもそれが、私にごく近しいある人物が、意図的に巻き起こす事が可能というのも。
故に私は、猛っていた。
雪に埋もれたせいで身体は未だにクールだが、心は燃え滾るほどにホット。
今日という今日ばかりは厳重に抗議しておかなければ、とても気が済みそうにない。
「幽々子様っ! 何処ですかっ!」
そして私は、居間へと続く襖を、力強く開け放った。
「……うわぁ……」
熱く燃えていた筈の私のハートは、現実という名の冷水を浴びせられ、あっけなく萎んでいた。
だって、その、暗闇のせいでただでさえ何か出そうな雰囲気なのに、本当に部屋の隅っこで、お化けが体育座りしてるんだもの……。
「……」
そのお化けは俗に言うところの亡霊。もっと俗に言えば西行寺幽々子様その人だった。
どうやら亡霊に相応しい舞台背景を得た事により、その存在感をより一層高められたらしい。
というか、薄ぼんやりと発光しないで下さい。怖いから。
「お、おはようございます幽々子様。そ、そんな所で何をなさってるんですか?」
「……」
返事は無い。
只者ではないが屍のようだ。
……じゃなくて、一体どうしてしまったんだろう。
いつものくだらない悪戯の時のように、薄笑みを浮かべて待ち構えていると思っただけに、
まさか暗く沈みきっているとは予想外だった。
続けるべき言葉が見当たらず呆然と立ち尽くしていると、
まるで今初めて私の存在に気がついたかのように、幽々子様がぐるりと首だけをこちらに向けてきた。
やっぱり、怖い。
「よーむ……ウチなぁ、気付いてもうたんや」
「は、はい?」
何故に関西弁ですか。
「どう頑張ったとこで、ウチみたいな腐った死体には、皆を不幸にする事しか出来へんねん。
そないな単純な事に気付くまで、ようけ無駄な時間を過ごしてもうたわ……ほんま、ウチってアホやなぁ……」
「確かにアホですね」
「……」
「い、いや、唐突にそんなシリアスな発言をされても返答に困るんですが」
「困る? ……ふふっ、私が妖夢を困らせるのなんて、日常茶飯事じゃない……」
「そ、それはまさにその通りですけど」
「否定してくれないのね……」
「……どないせいっちゅうねん」
伝染ったがな、しかし。
「ま、落ち込むのも飽きたからもう良いわ。で、何か用? もう朝餉の時間かしら?」
「軽っ! ……あ、いや、ええと、この真夏に雪に埋もれる白玉楼という奇妙な光景に関して、納得のいく説明を頂きたいのですが」
出来れば、少しくらいは謝罪も。
と、言いたいところだったが、やはり言えなかった。
「んもう、相変わらず察しの悪い子ねぇ。そんなだから、頭に雪が乗っかったままな事にも気付かないのよ。ぱっぱっ、と」
「……」
……泣かない。絶対に泣かない。泣くもんか。
私の涙腺は、この方にお仕えすると決めたあの日、その役目を終えたんだ。
さて。
幽々子様いわく、事は至って単純。
それは昨晩のこと。
身に付けたばかりの能力を存分に振るって、強引に雪見酒などを楽しまれていたところ、
『この雪って、どれくらい降らせられるのかしら~』等と、程よく酒精の回った頭で考えていたら、
そのまま眠ってしまい、気がつけばこうなっていたらしい。
……要するに、いくらでも降らせる事が出来るんだろう。それも無意識のうちに。
恐ろしく傍迷惑な能力を手に入れてしまったものだ。
幸いにも、力の及ぶ範囲はそう広いものでも無いらしく、せいぜいが白玉楼内に収まる程度だそうだが、
今の私にとっては、あまり慰めになるものでもない。
元々、私の行動範囲は、ほとんどが白玉楼内部だし、物理的に閉じ込められたという事実には何の変わりもなく、
現時点においても、自室が雪崩により半壊という、憂うべき直接的被害も生じている。
そして何よりも、今の状況では少々困る事がある。
いや、問題点は数限りなくあるし、どれも解決出来るとは思えないけど、その中でも取り上げざるを得ないものが一つ。
それは恐らく……いや、間違いなく幽々子様の逆鱗に触れるだろう。
だが、私は言わなければならない。
使命だとか矜持だとかそんな大層な理由じゃないし、意地を張っている訳でもない。
単に、後回しにすれば、もっと困る事になりそうだから……。
「……事情は大体分かりました。不本意ではありますが、もう起きてしまった事ですし、これ以上追求はしません」
「そうね。されても困るわ」
「ですが、その行為により、私から一つ、悲しい知らせをお伝えする必要が出来ました」
「……?」
「実は今、当家には一切の食料が無いんです。今朝一番で買出しに行く予定でしぶっ」
言い切るよりも早く、幽々子様の掌が、私の頬をしたたかに打った。
いや、それはもう、打つなどいう範疇ではない。
明確な殺意が込められた、まさに人を撲殺するための一撃に相違ない。
そうでなければ、三回転半しつつ壁に叩きつけられているという現状が説明出来ない。
そも、理解も出来ない。
「い、いきなりフック掌底を打ち込まないで下さいっ! 危うく首がもげる所でしたよ!?」
喜ぶべきか、悲しむべきか、理不尽な暴力には慣れっこの私は、瞬時に起き上がっては抗議の声を上げる。
「このお馬鹿っ! どうしてそんな大切な事を前もって言っておかないのよ!」
「無茶を仰らないで下さい! 何処の誰が、真夏の最中に雪で閉じ込められるだなんて思いますか!」
「一人くらいいるんじゃない?」
「……」
「……」
何故だろう。
そんな筈が無いのに、私にも心当たりがあるような気がしてならない。
これが俗に言う、既視感というものだろうか。
「そ、そういう問題じゃありません! 幽々子様の常識に私まで当てはめて考えないで下さい!」
「お堅いわねぇ。もう少し、思考に柔軟性を持たせないと、これから先、大変よ?」
「……堂々と次の犯行予告をするのは如何なものかと」
「どんな不測の事態にも対応してみせるのが貴方の役目でしょう?」
「物には限度ってものがありますっ!
って、よくよく考えてみたら、何だって私が食糧管理の件なんかで叱責されなければいけないんですか!?」
「え? だって……」
「もう一つの本職については、この際だから忘れます。
でも、今も昔も、私はこの白玉楼の庭師であるつもりです!
それが何故、食料の買出しまで私の義務になってしまっているのか、理解に苦しみます」
「あ、うん……それは……」
「専属の幽霊とやら、一度で良いから私の前に連れてきて下さいよ! 史書にまで嘘八百並べ立てて、それで良いんですか!?」
「あ、あれは別に、嘘を吐いた訳じゃなくて……ふ、不可抗力というか、その……」
おや。
珍しく口論で幽々子様を圧せている気がする。
……いやいや妖夢。
どこをどう取っても幽々子様に非があるこの状況で、圧し負けるほうが変だろう。
ともかく、ここは押しの一手しかないんだ。
「自らの暴政が原因で霊が逃げてしまう事の何処が不可抗力なんですか!
吸血鬼や宇宙人だってもっとまともに手綱を握ってますよ!」
「そ、そこまで言う?」
「言います。言わせて頂きます。
でなければ、アンケートの職業欄に二桁も役職を書き連ねている私の気が済みません」
「自覚してるんなら別に良いじゃないの」
「……」
それはまあ、私のほうも拒否した覚えは無いのは事実だ。
少しずつ仕事の穴埋めをしている内に、いつの間にかそれが日常になってしまったというのが本当の所だし。
「……ねぇ、妖夢。そんなに家事をするのは嫌?」
「え?」
「本当に嫌がっているのなら、私も真面目に考えてみるわ」
「え、あ、そ、その、そこまで嫌という訳では……」
上目遣いで恐々と聞いてくる幽々子様に、つい不明瞭な答えを返してしまう。
あれ、これはもしや……流れが逃げた?
「本当に? 無理して言ってない?」
「い、いえ、家事そのものは結構好きですから」
これは嘘じゃない。
掃除なんかは庭師の仕事の延長線上にあるようなものだし、炊事にしても手間暇かかる事は確かだが、
それを実に見事に平らげてくれる幽々子様の姿は、使った労力に匹敵するだけの満足感を与えてくれる。
ごく稀にだが『ああ、この駄目亡霊は私が面倒見てやらないと三日と持たないだろうな』等と、歪んだ喜びを覚えているのは秘密だ。
……はて、私はいったい、何が不満だったのだろう。
「私も妖夢が色々と頑張ってくれているのは、とても嬉しく思っているわ。
そして出来る事ならば、これからもそうであって欲しいと思っているの。駄目かしら?」
「……は、はいっ、今後も一層精進します!」
私は殆ど反射的に答えていた。
日ごろ、役立たずだの頼りないだの生きる負けフラグだのと貶されているだけに、
こうした言葉をかけられてしまうと、どうにも抗えないのだ。
「ふふっ、調教は順調ね……」
「……? 何か仰いましたか?」
「それよりも今は、この危機的状況を打破する手段を考えるべきではないかしら? って言ったのよ」
「え? ああ、そうですね。危機にした当人の台詞じゃない気がしますけど」
幽々子様と比べるものではないけれど、私だって食料が無いのは困る。
というか、本来は食事を必要としない筈の幽々子様と違い、人間である私は食事を取る以外に生きる術を持たない。
まあ、人間じゃない『私』は別なんだろうけど……それはまた別の問題だから置いておく。
ともかく、一刻も早くこの雪の牢獄から抜け出す必要がある。それは間違いない。
そしてその為に、今の私が取れる手段とは何か?
「……はあ、仕方ないか。少々時間を頂きますが、勘弁してくださいね」
「ディグダグるの?」
「問いかけるなら、私に分かる言語でお願いします」
「おほん……掘るの?」
「ええ、他に方法も無さそうですし」
生憎として私は、雪壁を一瞬で消し去るような秘術などは身に付けていないし、
こうして落ち込んでいたところを見るに、幽々子様にしても同様なのだろう。
となると、普通かつ地道に除雪するしかないというのが、私の結論だった。
「んー、そうね。不用意に大技なんか使っても効果があるとは思えないし、下手をすれば雪崩で全滅しかねないわ。
妖夢にしては賢明な判断だと思うわよ」
「そう、ですか」
すでに一度、雪崩を起こしてしまった事に関しては言わないでおく。
私にだってプライドはある。
「ただ、一つだけ問題があるわ」
「……?」
「格好よ、格好。貴方また、いつもの制服で仕事するつもりだったでしょう?」
「そうですけど……というか制服だったんですか、あれ」
さりげなく驚愕の事実を聞かされた気がするが、それは置いておくとして、
確かに私の普段の服装……緑のベストとスカートに蝶ネクタイというスタイルは、
雪かきに相応しいものかと問われれば、答えは否だろう。
でも、突然そんな事を言われても困る。
生憎として私は、他の仕事着など持ち合わせていないのだ。
「そこで私は、こんな事もあろうかと、妖夢in雪かき専用コスチュームを用意しておいたわ」
「待てや」
「二種類用意しておいたから、好きなほうを選びなさい。あ、決める前に見るのは駄目よ」
「待てっちゅーとんねん」
果たして、幽々子様は待ってはくれなかった。
亡霊らしからぬ素早い動作で襖を開け放つと、そこから二つの箱を引っ張り出したのだ。
……この準備の良さは一体何なんだ。
もしや大雪を降らせ始めた時点で、翌朝の私の行動まで予見していたのだろうか。
恐るべき推理力と悪知恵の無駄使いに、嘆息するより他無かった。
「さあ、今日のコスチュームはどっち?」
「いや、どっち? とか言われても……せめて、どんな衣装なのかくらい説明してくださいよ」
「その陳情は却下します」
「……」
ちょっと殺意が芽生えた。
「……と言いたいところだけど、流石に判断材料が皆無では厳しそうね。
仕方ないから、少しだけ教えてあげましょう。寛大な私に感謝しなさいね」
「……ありがとうございます」
芽生えた殺意が順調に育って行くのが分かる。
が、それを表に出すような愚は犯さない。
平均して、一日三回はあることだから、押さえ込む事に関しては慣れているし。
「ええと、右の箱に入っているのは、マフモ……げふんげふん。冬季の屋外作業向けの装備一式。
そして左の箱は、地味目な貴方もこれで夏の女神へと大変身。
機能性は据え置きながら露出度は格段に向上という、お値打ちもののお色気セットよ」
「……あのう、それ二択になってない気がするんですが」
「あら、そうかしら?」
毎度の事だが、私には幽々子様の意図が、まるっきり理解できなかった。
そう説明された上で、左の箱を選ぶとでも思っているんだろうか。
誰かさんじゃあるまいに、私には露出狂の気なんてこれっぽっちも無いし、
そんなものを着こなせるような自信も、悲しいことにまったく無い。
そもそもにして、私が今からやろうとしている事は、一人ファッションショーではなく、ただの雪かきなのだ。
将来的には多少の色気くらい欲しいとは思ってるけれど、今必要なのはどう考えても実用性だろう。
「嘘は仰ってませんよね……それなら右を選びます」
「そう……本当にそれで良いのね?」
「はい」
「ほんっとうに? 後になって、やっぱり左が良いと言っても、チェンジは不可よ?」
「一向に構いません」
私は迷い無く頷く。
大丈夫、このしつこい程の問いかけは、私を不安に陥れる為の話術に違いない。
左を選ぶ理由なんて存在しないんだから。
「……分かったわ。はい、どうぞ」
「どうも。それでは着替えてきますので」
箱を渡すときの幽々子様は、何故か不満顔だった。
そんなに左を選んで欲しかったんだろうか。
お色気担当が欲しいなら、自分で引き受ければ良いのに……。
そそくさと自室へ戻り、ずっしりと重い箱を開封する。
動物の皮をふんだんに使用したと思わしき薄茶色の作業着上下に、深めのフード付きのジャケット。
それに合わせた分厚いブーツなどが、ぎっしりと詰められていた。
どうやら、幽々子様の説明に嘘は無かったらしい。
自分の選択が正しかった事にかすかな満足感を覚えつつ、私は着替えを始める。
無論、窓側は一切視界には入れずに。
どちらかと言えば殺風景な部類に入る部屋だろうけど、それでも愛着が無いと言えば嘘になる。
それが主人の寝言一つで半壊の憂き目を見たなどとは、理解はしていても受け入れたく無かったからだ。
しかし、私の部屋だけならまだしも、白玉楼そのものは大丈夫なんだろうか。
何せこの、ナポレオンも泣いて謝るだろう豪雪だ。
無事役目は終えたものの、帰るべき家は倒壊していた。なんて素敵な結末も、あながち有り得ない話じゃない。
博麗神社くらいの規模ならともかく、この広大な屋敷を建て替える事なんて可能なんだろうか?
……まあ、その時は事の張本人に責任を取ってもらうしかないか。
もっさ、もっさ。
そんな擬音を発しつつ、相変わらず真っ暗なままの居間へと戻る。
というか、フードを被っているせいで、何もかもが暗く見えるから困る。
「お待たせしました。準備が出来ましたので、早速始めようと思います」
ちゃぶ台で頬杖を突いていた幽々子様へと、出立の挨拶を告げる。
もっとも、この居間を基点として掘り進めて行くつもりなので、意味はあんまり無いんだけど。
「……まあ、良いんだけどね」
「はい?」
「貴方が自ら決めた事に口出しするのも野暮かしら、って思ったのよ」
「……はあ」
相変わらず幽々子様の物言いは、理解するに困難なものがある。
せめて主語くらいは付与して頂けないものだろうか。
「気にしないで良いわ。こういう事は自ら気がついて初めて意味を成すものだものね」
「……凄く不吉な予感がするんですけど」
「そうでしょうねぇ」
不吉を裏付けるかの如き笑みを浮かべると、幽々子様は席を立った。
が、そのまま自室にでも戻るのかと思いきや、何故か私の背後でぴたりと立ち止まっている。
背後霊ってこういう物を指すんだろうか。
「あの、幽々子様?」
「ん? 始めるんじゃないの?」
「いや、そのつもりなんですが……何をしているんですか?」
「何もしてないし、これからもしないわよ」
「……」
まるで禅問答だ。
聞くだけ無駄、と理解した私は、大きく開け放たれたままの襖の前に立ち、
無銘だが代々白玉楼に伝わりし業物……と、付箋の貼ってあったスコップを、白き巨壁へと突き立てる。
さあ、永く空しい戦いの始まりだ。
「……ふぅ……ひぃ……」
「……」
「……よい、せっと……はぁ……ふぅ……」
「……」
「……ふぅ……んっ……ふひぃっ……」
「……」
除雪作業を開始して、おおよそ半刻が経過した。
望まずもこの作業に慣れている私は、今のところは順調に雪道を切り開けている。
無論、白玉楼の庭の広さを一番良く知っているのも私ゆえ、その道のりがまだまだ長い事は自覚している。
が、今気になっている事は、作業そのものに関してではない。
「……ふぅー……」
「……」
私から一間ほどの距離を維持し続けている背後霊について、だ。
何を考えているのか、幽々子様は最初から除雪作業に同行する気だったようだが、
手伝ってくれる訳でも無く、かといって横槍を入れて来る訳でもなく、ただ本当に後を付いてくるだけなのだ。
幽々子様らしい不可解な行動と言えばそれまでだが、流石に一言として話しかけてすら来ないのは怖いものがある。
作業そのものが単純極まりない事もあって、何となく幽々子様の行動意図を考えてみたりもした。
推測出来た理由は、およそ四つ。
一、自責の念もあって手伝う気で来たが、ツンデレ……ではなく、立場上自ら口に出せず、やむなく今に至る。
二、雪難の相が出ている私一人に任せるのを心もとなく思ったため、監視係として同行中。
三、実は既に白玉楼は倒壊秒読み段階であり、これは事実上の避難行為である。
四、水面下ならぬ雪面下にて、新たな悪戯、もしくは嫌がらせを模索中。わーにんぐ、わーにんぐ。
……うーん……。
まあ、恐らく幽々子様のことだから、一番だと思えば二番だろうし、二番だと思えば三番、三番なら四番、
全部正解だと思えば、新しく五番の線が浮上するに違いない。
結局のところ、考えても無駄という事なんだろう。
とは言え正直なところ、このまま無言で掘り進み続けるのは、私の精神的にいっぱいいっぱいだ。
そうなれば後は、直接尋ねてみるより他無い。
どんな返答であれ、沈黙に耐え続けるよりはましだろう。
「あのう幽「妖夢、手を止めなさい」
振り返ろうとした瞬間、幽々子様の鋭い制止の声が、私の言葉を遮った。
腹立たしいまでに後の先を取られた形だったが、この際それはどうでもいい。
気になるのは、幽々子様の表情が、みょんに硬い事だ。
「今、私の小粒な霊感センサーがびりりと反応したの」
「ええと、直感という事ですか?」
「お黙りなさい。私は大真面目に言っているのよ」
「……はあ」
真面目だから困っているという事に、この方は気がついているんだろうか。
「いい? 貴方が掘り進んでいるすぐ近く……そこに、何かがあるわ」
「何かって、何です?」
「……それは私にも分からないわ。そこまで精密なセンサーではないのよ。
でも……そうね。強いて言うなら、恐ろしくも愛嬌があり、図太いようでいて儚げで、
老成しているかと思えば子供っぽい、そんな何かかしら」
「めっさ具体的な上に矛盾だらけじゃないですか」
「それが事実なのよ。辛くとも悲しくとも、甘んじて受け入れなさい」
突っ込みを入れながらも、私はどこか奇妙な安心感を覚えていた。
こうした理解不能な発言を垂れ流す時の幽々子様ほど心強い存在を、私は他に知らない。
「……分かりました。用心して進みます」
だから私は、幽々子様の言う通りにする。
「あ、別に用心なんてしなくても良いわよ。むしろ、力強く突き進んじゃうべきね」
「……」
こ、心強い……と思う……。
むにょん。
例えるならば、そんな表現になるだろうか。
いつもの如く思考を停止した私が、幽々子様の言う通り、力強くスコップを突き立てた時の感触だった。
「え……」
雪の中に存在する筈がない……いや、して良いはずがない。そう思うほどに不可解かつ奇妙な感触に、思わず後ずさる。
その私の肩を、後ろにいた幽々子様が抱き止めてくれる。
と、同時に、私の後頭部は、感じ取っていた。
むにょん、とでも表現すべき感触を。
「ありゃま、これはこれは……」
幽々子様は私の肩越しに視線を送ると、どこか納得したように頷いている。
が、私のほうはそれどころではない。
「ゆ、ゆっ、ゆ、ゆゆっ」
「落ち着きなさい妖夢。ゆ、は二つで良いのよ。今のところ」
「今のところ!? ……じゃなくてっ、ゆっ、幽々子様っ、こ、これって……」
「……ええ。どうやら私の霊感センサーは、極めて優秀だったようね。照れるわ」
幽々子様の場違いな発言と同時に、私たちの眼前へと倒れこむ一つの人影。
波打った金髪だとか、今日も頑張っているパニエだとか、リボン付けすぎだとか、そんな視覚情報よりも、
先程の感触そのものが、その人物の正体を私へと知らせていた。
「ど、どどっ、どっ、どうしましょうゆゆさまっ! わ、私っ、紫様を殺害してしまいました!」
「だから冷静になりなさい。子が抜けているわよ。まあ、それはそれでありだから許すとして、
紫の胸筋……もとい、おっぱいは、そんなナマクラに貫けるほど弱いものじゃないわ。安心なさい」
「そ、そうですか、良かった……」
「むしろ、突き立てる前から死んでるわ」
「もっと酷いじゃないですかっ!!」
ああ、もう訳が分からない。
私はただ、白玉楼の未来のために雪かきをしていただけなのに、何故にこんな事になってしまったのだろう。
夢でもいい、この際だからドッキリでもいい。出て来い赤ヘルメット。
そう願いながら、倒れ伏したままの紫様へと視線を向けた。
倒れる際に半転したのか、私達へと顔を向けるように転がっている紫様。
その表情は実に安らかで、両手を胸の前で組んだその姿勢も相まって、まるで眠りについているだけのように思える。
……もしかして、本当に寝ているだけじゃないのか?
あの紫様のことだし、雪の中で冬眠してたって不自然では……。
「ふむん……脈拍無し、心の臓はお休み中。瞳孔は猫っぽく開帳、と」
しかし、紫様の顔を覗き込んでいた幽々子様の言葉が、否応なしに私へと真実を突きつける。
間違いない。やはり紫様は死んでいるんだ。
でも、それならば何故……。
「ゆ、幽々子様、どうしてそんなに冷静なんですか?」
「ほっほーう、妖夢は見苦しくも取り乱した私の姿が見たいというの?」
『まあ、随分と悪趣味なこと。幽々子の性癖が伝染したのかしらね』
……。
今、三人目の声が聞こえた気がする。
それも何故か、眼下からではなく、直接耳に響くかのように。
「それは困るわね。私の楽しみが一つ減ってしまうわ。
……それはそれとして、どしたの紫? こんな所で死んでたら風邪引いちゃうわよ」
『その順序は幽々子以外には不可能ね。
まあ、話せば長くなるんだけど、ご希望とあらば十文字程度に収めて説明しましょうか?』
「あら。それは実に現代的で趣に欠けるわね。でも、お願いするわ」
『ゆきのなかにいる、よ』
「お見事。そんな事だと思ったわ」
『それはそうでしょう。トラップを仕掛けておいた張本人だものね』
「人聞きの悪い。これは運命という名の不可抗力の皮を被った真実の物語よ」
『要するに、偶然ね。これにはぐうの音も出ないわ』
「……」
元よりこのお二人の会話は、聞いているだけで頭がグラグラしてくるというのに、
それが直接頭の中に響いてくるため、もはや正気を保っていられる自信が無くなってきた。
何故に死んでいるのに話せるのか、との突っ込みも、幽々子様の前では許されるものではないし、
そもそもどうして死んだのか、と問いかけたくとも、私に理解出来る言語で返ってくるとは思えない。
ああ、誰か助けてください。
それだけが、私の願いです。
『ほら、幽々子。放置プレイも良いけど、このままだと妖夢が知恵熱を通り越して噴火しそうよ』
「ん、そうね……妖夢、妖夢。私の顔を見なさい」
「え……ああ……点は見えても線は見えません、五十三万と出ています、無駄に寿命が半分になりました……」
「こらこら、電波を拾うんじゃありません。ぺちぺちぺち」
「あだ、あだ、あだっ、……う? 幽々子様?」
頬に鈍い痛みを感じると共に、何処かぼやけていた視界がクリアになって行く。
その先には、普段通りの微笑を浮かべる幽々子様と、合いも変わらず横たわったままの紫様の姿が映っていた。
……って。
「ゆ、ゆ、ゆゆっ、ゆー!」
「……妖夢。良い子だから、少しの間だけ大人しくしてて頂戴。いい?」
「あ、は、はい……」
「見ての通りだけど、不慮の事故で紫が死んじゃったみたいなの。それは分かる?」
「ええと、その、よく分かりませんが分かります」
「……で、妖夢も知ってるでしょうけど、コレは一般常識とか、そういう範疇では図りがたい、そういう妖怪なのよ」
『幽々子には言われたくは無いけどね』
「……はあ」
幽々子様は、私の顔を挟み込むように手を添えると、ゆっくりと言い含めるように言葉を紡ぐ。
……そうだ。
何故私は、ここまで取り乱していたんだろう。
紫様が理不尽極まりないな存在だなんて、最初から分かっていた事じゃないか。
「だから、こんな風に肉体が死を迎えたといっても、それは別に驚くような事でも無いの。
……ぶっちゃけて言っちゃうと、一日も経てばあっさりと復活するわ」
「……まるで蓬莱人ですね」
『流石にあの連中ほど不条理じゃないわよ。
まあ、肉体の死が存在の消失とイコールではないのは、許容され難い事でしょうけどね』
「私としては、霊体ですらない死者が普通に会話している事だけで、十分許容外の出来事なんですが……」
「それはまあ、ご都合主義という事で勘弁して頂戴」
『そういう事』
「どういう事なのやら……ともかく、別に騒ぎ立てるような大事では無いのですね?」
「その通りよ。それさえ分かっていれば大丈夫ね」
今更ながらに、自分がとんでもない方々と関わっている事に気付かされる。
一般常識とは何なのか、一度真剣に考えてみる必要があるかもしれない。
「じゃ、私は紫を部屋まで置いてくるわ。ちょっと待っててね」
『別に待たせる必要も無いじゃないの。どうせ貴方は何もしてないんでしょ?』
「ほほう……そんな酷い事を言うのは、どの口なのかしら」
『あ、駄目、駄目よ。止めて幽々子! 顔面から引き摺って運ばないでっ!
ああー! 折角決めた最高の死に様が見るも無残に! もうやり直しは要求出来ないのにー!』
「それなら別に雪の中に放置していっても、私は一向に構わないわよ?」
『そ、それも駄目っ! 私をリルガミンの遺産にしないでー!!』
「お生憎様、ここは冥界ですからね」
相変わらず訳の分からない会話を繰り広げつつ、幽々子様は紫様を引き摺って戻っていった。
細身とは言え、長身の紫様を運ぶのは、そう楽なことでも無い気がするけど、
あの軽やかな足取りからして問題は無さそうだ。
流石は、橋より重い物は持った事が無い。と言い張るだけの事はある。
……もしかして、橋でも行けるんじゃないか?
『妖夢、妖夢っ!』
「うわっ! 急に話しかけないで下さい!
……って、屋敷に行かれたんじゃなかったんですか?」
『まだ念話の有効範囲内なの。それよりも、貴方に一つ忠告しておきたい事があるの』
「はあ、何でしょうか」
『貴方、まだ作業を続けるつもりでしょう。でも、雪をただの水分の結晶体だと思っていては駄目よ。
これは全てに終わりを告げる白き使者。十分過ぎる程に心してかかりなさい』
雪に殺された方の言葉だけに、妙に説得力が感じられた。
でも、その忠告は、私にとっては余り意味がない。
「大丈夫です。私も二回ほど殺されかかってますから」
『そう……ならば、私から言うことはもう無いわ。じゃ、おやすみなさい』
「……寝られるのと同意義なんですね」
私の呟きに答えることなく、紫様の気配がぷつりと途絶えた。
既に死んでいる事が分かっているので、別段心配は要らない……というのも何か変な話だなぁ。
一人になった私は、黙々と除雪作業を続けていた。
幽々子様は戻るまで待てと言っていたが、実際のところ、いつ戻らるれのか分かったものではないし、
それこそ、紫様と遊んでいて、私の存在を忘却の彼方へと追いやってしまう可能性も捨てきれない。
それならば、気にせずに進めているほうが、精神衛生上良いと判断したからだ。
……が、とある事情により、その作業ペースは、開始当初のそれとは比べ物にならない遅さになってしまっていた。
それは勿論、幽々子様が見守って下さらないから……なんて可愛いらしい理由じゃない。
もっと分かりやすくて、なおかつ、自分の愚かさを否応無しに実感させてくれる、そんな理由だった。
嗚呼、何故私はあの時、もっと真剣に考えようとしなかったんだろう……。
「あちゅい……」
不覚にも舌がもつれた。
そう。それほどまでに暑かったというのが解答だ。
一面の雪に囲まれていたせいで失念していたが、今の季節は夏真っ盛り。
昨晩だって床に付く時分は、蒸し暑さで中々寝付けなかった程だ。
そんな時分なれば、当然ながら白玉楼の広大な庭に溜まった地熱は健在であり、
その熱気が、ある程度堀り進めた進んだ今になって、容赦なく襲いかかって来るのも、また道理だ。
……にも関わらず、雪そのものには一切の影響を与えている気がしないのは不思議だけど、
何せあの幽々子様が降らせた雪であるからして、理不尽であって当然だろう。うん。
更に問題なのは、保温効果抜群の私の服装だ。
今ならば分かる。
あの時の二択は、実は左が正解だったのだと。
今となってはどんな衣装だったのかも不明だが、ここは露出でも何でも存分にして、暑さに対抗するべきだったのだ。
それが分かっていた幽々子様は、考え直すようにと何度も言外に忠告して下さっていたのに、
最初の結論で満足してしまっていた私は、本当に救いようのない……。
……いや、違うだろう。
それなら最初から、暑くなるから薄着にしたほうが良い。とでも言って下されば事は済んだんじゃないか?
多分、教育の一環なんだろうけど、時と場合も考慮して欲しいと切に願う。
「ふかーーーーーーーーーーーーーっ!!」
思考する事により、頭の中まで暑くなってきた私は、耐え切れず叫び声を上げていた。
雪崩が起きようとも、そんなの知ったことか。
……ああ、そうだ。
こんな我慢大会のような服、いつまでも着ている必要なんて無い。
忌まわしい記憶と共に、さっさと脱ぎ捨ててしまおう。
女一匹、魂魄妖夢。
裸一貫で生きる事に躊躇いなど無い。
「ふんっ……ていっ! ほいっ! とぉりゃーーーっ!」
重苦しいジャケットを放り捨て、邪魔なブーツを蹴り飛ばし、厚ぼったいシャツとズボンも勢い良く脱ぎ去る。と、ついでに肌着も。
時間にして、恐らく二秒とかからなかったものと思う。
これぞ、とある方に教えていただいた秘奥義、瞬脱自在の法だ。
「ふぅー……快適だぁー……」
上はサラシ、下はドロワーズのみという、超の付く軽装となった私は、
久方振りに感じた、清涼なる空気の感触に、思わず恍惚のため息を漏らしていた。
暑さから開放されたというだけで、驚くくらい自分の気分が軽くなっているのが分かる。
ああ、生きてるって何て素晴らしいんだろう。
「よーし、やるぞぉー!」
心機一転。
装いも新たに、ナマクラに格下げになったスコップを、力強く雪面へと突き立てる。
先程までの重苦しさがまるで嘘のように、さくさくと掘り返されて行く雪。
自然、心に余裕の出来ていた私は、休まず手を動かしながらも、
なんともなしに、先程の幽々子様と紫様のやり取りを思い返していた。
あのお二人は本当に良く分からない。
あれで本当にお互い、意思の疎通が成り立っているんだろうか。
……いや、それが問題と成り得てない時点で、どうでも良い事なんだろう。
千年来の付き合って、そういう物なのかな。
正直、少し羨ましい。
いつかは私にも、そういう相手が出来るんだろうか?
そんな事をつらつらと考えつつ、スコップを振り下ろしたその時。
がこん。とでも言うべきか。
先程の奇妙かつ雅な感触とはうって変わり、硬質で殺伐とした音が響き、
それでいて、やはり雪かきには不釣合い極まりない感触が、スコップを通して私の全身に伝わっていた。
「………」
思わず手が止まる。
流石に二度目という事もあり、それほど動揺はしていない。
が、どうにも嫌な予感が拭えないのは何故なんだろう。
恐らくは、スコップを叩き付けた雪面。その奥のほうに、何やらぼんやりと輝くものが微かに見えているからだ。
しかも……紅く。
「まさか……」
見なかった事にするなら今のうちだ。
そんな心の声を押し殺しつつ、慎重に周辺の雪をかき出してみると、
然程の時間を要する事もなく、新たな発見が私の視界へと飛び込んで来ていた。
それは……何と言えば良いんだろう。
造形、質感、配色、どれを取ってみても人工的極まりないものなのに、
何故かそれを、自然に備わったものであると認識出来る。そんな感じだろうか。
……いや、もう有体に言ってしまおう。
雪の中から飛び出していたのは、萎れた兎の耳らしきものだったのだ。
「……なんでまた……」
それの正体を確信した私は、多少乱雑に雪を取り除きにかかる。
多分、一番最初に来た感情が、呆れだったからだろうか。
「……」
「……鈴仙……」
ごとり。
そんな音と共に、まるで先刻の紫様の再生映像のように、私の眼前へと倒れ伏す鈴仙。
一つ異なる点を挙げるとするならば、紅く爛々と輝いたままの瞳といい、苦悶に満ち満ちた表情といい、
不自然に強張った四肢といい、どこを取ってみても、余裕の欠片も感じられなかった事だろうか。
……いや、そもそも、死体に余裕があるほうがおかしいんじゃないか?
ならばこの鈴仙の死に様こそが常識的であり、先程の紫様のほうが不自然と見るのが正解だろう。
やはり死体とはこうでないと……。
……。
…………。
………………あれ?
「し、死んでるっ!? 私が殺したの!?」
当然ながら、返事は無かった。
いや、それどころか、鈴仙の存在そのものが希薄であるように感じられる。
これは……ヤバい。
「み、脈、脈を……」
息を一つ深く吐くと、先程の幽々子様に倣い、生命反応の確認に入る。
脈拍は……完全に冷え切っていて良く分からない。
というかこれ、身体そのものが凍ってしまっているんじゃないだろうか。
だとすると、心音を確かめても無意味?
「そ、そうだ、瞳孔っ」
この時、私はそれなりに冷静なつもりだったのだが、後で思えば、絵に描いたような間抜け振りを晒していたんだろう。
だって、うつ伏せに倒れていた鈴仙を力任せに裏返しては、その瞳を至近距離で覗き込んだのだから。
「……う……うぇっ……ヴぉぇー……」
直後、私は嘔吐していた。
今だに自分が、狂気の瞳に対しての抵抗力を持ち合わせていない事を、ものの見事に失念していたのだ。
僅かに残っていた理性で顔面直撃こそ避けたものの、ぐらぐらする視界ばかりは堪えられる訳もなく、
やむなく、鈴仙の顔面にしがみ付く様な体勢で雪面とお友達になっては、波が収まるのを待つ意外に術は無かった。
「よ、妖夢……? 貴方、何をしているの?」
「はうあっ!!!」
突然の頭上からの声に、今だ定まらない視界を、自分の顔ごと強引に引き上げる。
その先には、今見たものが信じられないとでも言いたげに、よろよろと後ずさる幽々子様の姿が見えた。
「ま、まさか、妖夢にそんな趣味があっただなんて……」
「ゆ、幽々子様?」
「私も色々やって来た身だから、そんなに偉そうな事は言えないわ……でも、でもね、妖夢。
物事には限度というものがあると思うの」
「……はい?」
「不純同性交遊くらいならともかく、殺害と強姦の合わせ技まで突っ走られると、いくら私でも擁護し切れないわ……」
「ちょ、ちょっと待って下さい! 殺害はともかくとして、強姦って何ですか!」
「……違うの?」
少し腹が立った。
ただでさえ訳の分からない状況なのに、何だってそんな謂れの無い中傷まで受けないといけないのか。
大体、何処をどう取れば強姦なんて単語が思い浮かび……。
……うん。
人気の無い場所で、ほぼ全裸に近い私が力任せに覆い被さっている様は、どう見ても強姦です。
本当にありがとうございました。
「い、いや、あの、その、この、どの……」
「どうせやるのなら、一言私に相談して欲しかったわ……そうしたら、もっと完全なやり方を教授してあげたのに……」
「さ、さり気なく凶悪な事を言わないで下さい! これは誤解! 不幸な誤解なんです!」
「ゴカイもウロコムシも無いわ! こうなったら私もリミッターを解除します! 覚悟なさい、妖夢!」
「何の!?」
それから何が起こったのかは、正直私も良く覚えていない。
分かった事と言えば、言葉って難しい。という、哲学的な結論が出たくらいだろうか。
「まったくもう……これだから危なっかしくて目を離せないのよ」
「……ごめんなさい」
今、私と幽々子様は、倒れ伏したままの鈴仙を挟み、やけに荒れた雪面へと正座しては向かい合っていた。
ちなみに、今の私の格好は、幽々子様の言うところの制服姿……要するに普段着だったりする。
気を利かせてくれたのか、一度屋敷に戻った際に、幽々子様が持ってきて下さったのを着替えたものだ。
……多分、これも予測済みだったんだろうなあ。
「で、何だってこの娘、こんな所に埋まってたのかしら」
「さあ……私が知りたいくらいですよ」
幸いというか、鈴仙は死んではいなかった。
だが、極度の低温症……というか、物理的に氷漬けになっている為、いわゆる仮死状態とやらに陥っているらしい。
確かに、本当に死んでいたならば、狂気の瞳も失われていた筈だから、それは事実だと思う。
まあ普通は仮死状態というだけでも大事なのかもしれないけど……今更そんな一般常識を持ち上げるような気力、私には無い。
「ふぅん、本当に?」
「なんですか、その疑いの眼差しは……」
「いえいえ。別に貴方達が、密やかに深夜の邂逅でも交わそうとしていたんじゃないか、なんて微塵も思ってないわよ」
「思いっきり口に出してるじゃないですか」
どうも先程から、幽々子様の思考の方向性が偏っている気がする。
そりゃ確かに鈴仙は、私の数少ない友人の一人ではあるけれど、それがどうして桃色な発想に繋がるんだろう。
私達、同性ですよ?
「別に性別なんてどうでも良いじゃない。どうしても気になるというのなら、紫に頼んで弄ってもらっても良いわよ?」
「あのう、私の人生を左右するような重大事を、サラリと言わないで欲しいんですが……」
しかも、心読まれてるし。
「ま、冗談は置いておくとして、少し推理してみましょうか」
「え?」
「この娘がこんな事になっている真相を、よ」
「……分かるんですか? そんなこと」
「分からないから推理するのよ」
違いない。違いないんだけど……私達、こんな事をしていて良いんだろうか。
除雪作業もまだ終わってないし、屋敷の中に死体が一つ、今ここに半死体が一つ転がっているという、混沌とした状況なのに……。
……まあ、いいや、どうでも。
というかもう、雪かきをしていた理由すら思い出せないし。
「さて、妖夢に質問よ。死亡推定時刻は分かる?」
「そうですね……多分、幽々子様が眠られていた時間の間。それも、丁度中間辺りかと」
「何故そう思うのかしら?」
「雪が降り始めるよりも先に凍死するのは不可能ですし、かといって完全に降り積もってから埋もれに行くというのも不自然です。
そうなると、その中間としか考えられませんから」
「大正解! ……と言いたいところだけど、ちょっと違うわね」
「え?」
自信があっただけに、少し驚きだった。
ならば一体、何時だと言うのだろう?
「多分、つい先刻よ。妖夢が穴掘りに励んでる最中じゃないかしら」
「へ……?」
何だそりゃ。
まさか本当に、埋もれた雪の中に自ら突っ込んで行って、その挙句氷付けになったとでも言うんだろうか?
それじゃまるっきり、正真正銘のアホの子じゃないか。
「分からない? この娘たぶん、白玉楼に不法侵入する気だったのよ」
「あ、いや、それは何となく分かりますけど、それがどうして、つい先程という事になるんですか?」
「言ったでしょ、私の能力はそう広い範囲には及ばないって。
だから白玉楼の外にいた者には、ここに雪が積もっている事なんて分からない。
勿論、深夜の内から来ていたなら別でしょうけどね」
もしも私が推測した通り、真夜中に現れたのだとしたら、雪が降っているのは嫌でも目に入るだろう。
そこに進入しておきながら、完全に降り積もるまで突っ立ち続け、その挙句氷付けに……。
……そんなの、夢遊病持ちでもない限り、到底有り得ない。
「ね? そうなると、降り積もった後としか考えられないでしょう?」
「その通りです……でも、それだとなおのこと変ですよ」
「何が?」
「屋敷が完全に埋もれてしまうほどの積雪ですよ? その中に自ら突っ込んでいって、それで身動き取れなくなるなんて……」
「まあ、余り頭の強い子とは思えないけど、流石にそれは無いでしょうね。
……でもね、もしも積雪に気付いていなかったのだとしたら?」
「それこそ有り得ません。まさか鈴仙が盲目だったとでも言うんですか?」
「言わないわ。でも、この娘には見えなかったのよ」
拙い。
そろそろ脳内のシングルコアCPUが白煙を上げそうだ。
元々私は、考え事には向いてない性質なのだ。
「……参りました。そろそろ正解を教えて下さい」
「仕方ないわね。……ねえ、妖夢。貴方、この子の持つ力について、詳しく理解してる?」
「え? ど、どうでしょう。狂気を操るとは即ち、波長を操る事と同義とか……そんな感じの説明を本人から聞きましたが」
「……まあ、簡単に言うと、この能力って結構凄かったりするのよ。
使い方によってはそれこそ、紫級の反則技まで可能なほどにね」
「そ、そうなんですか?」
「まあ、完全に自らの物としているかどうかは疑問だけど……とりあえず、自らの存在を完全に消し去る事くらいは出来る筈よ。
だから、斥候役にはうってつけなんでしょうね」
「はあ……」
「で、当然ながら今回の潜入にもその力を使った、と。……勿論、門の外から、ね」
「……あ!」
そこまで聞いたところで、私にもようやく全容が理解出来た。
ここ、白玉楼の門は、屋敷の規模に負ける事なく、かなり立派な造りをしている。
だから門の外からでは、中の様子はまったく伺えないのだ。
当然、中が雪で埋まっている事など露程も知らない鈴仙は、何の疑いもなく姿を消し……。
「そして、庭に入ったところで、一旦力を解いてみたら……」
「……そのまま動けなくなった、と」
「何のことは無い、紫とほとんど同じ死因ね」
「ゆきのなかにいる、ってそういう意味だったんですか……」
その際に、優雅なポーズを取る事に専念した紫様と、生きるべく必死にもがいた鈴仙のどちらが正しかったかは、私には分からない。
分かりたくもないし、分かるような機会が訪れぬようにと、切に思う。
「さ、謎も解けた事だし、作業を再開しましょうか」
「……あ、はい、作業するのは私だけですけど」
「むぅ、妖夢ってば最近一言多いわね。わざわざ貴方の身体を思って、お休みの時間を設けてあげたのに」
今のは一応、小休止だったんだろうか。
何故だか、身も心も休憩する前より疲れている気がしてならない。
大体にして、元々何もしていない幽々子様が、休息を取る意味があるのか甚だ疑問だ。
……あ。
「あの、幽々子様。これ、どうします?」
眼下に横たわったままの鈴仙を指差しつつ、問いかける。
……正直、私を無視して不法侵入を試みたのは気分が悪いけど、流石にそれだけの理由で永眠させるのは心苦しかった。
よくよく思えば、私と幽々子様には、不法侵入に加えて数え切れぬ件数の暴行を働いた過去がある訳だし。
「ん? ……ああ、そうねぇ、世が世なら拷問か縛り首でしょうけど……どれがお好み?」
「いやいや、今後の為にも平和的な裁きをされるべきかと。というか、して下さい」
「仕方ないわね、紫の隣にでも置いておくわ。冷凍物は自然解凍が一番ですものね」
「はあ、お願いします」
多分大丈夫だろう。
いざとなれば、所持している筈の大三元だとか緑一色だとかの薬でも飲ませておけば何とかなる。
……でも、目覚めた時はさぞかし驚くだろうなぁ。
何せ、隣に紫様の死体が転がってるんだから。
数多の苦境を乗り越え、それでも私の孤独な戦いは続く。
ただ掘り進むのみではなく、折を見ては邪魔な雪を運び出し、また、落盤を防ぐ為に周囲を押し固めながら進まなくてはならない。
故に、進行は亀のように遅く、開始から二刻は経過した今も、未だ終着点の見える気配は無い。
正攻法を選んだのは、本当に正しかったのだろうか?
一か八か、私の剣技と、幽々子様の霊力を同時に叩きつけ、雪の一掃を図るべきだったのではないか?
……いや、それは無いだろう。
仮にそれを実行していたならば、紫様や鈴仙を放送コードに引っかかる様に変貌させてしまったに違いない。
それどころか、他にもまだ、何かが埋まっている可能性すらあるのだから。
三度目の正直よりも、二度あることは三度あると考えたほうが、精神衛生上良いだろう。
他に侵入を試みそうな輩と言えば……。
「……うー……」
思い当たりが多すぎて、考える気が失せた。
どいつもこいつも、お約束の神様に寵愛を受けている連中だ。
それこそ、神様本人が埋まっていたところで、今更驚きはしない。
「……妖夢!? 妖夢じゃないか!」
「どわあああああああああああああ!!」
そう考えた矢先に、盛大な叫び声を上げてしまった。
何かあるなら掘った先、と思っていたのが仇となった形だ。
呼びかけらしきそれは、あろう事か私の足元から放っせられていたのだ。
「おい、聞こえてないのか!?」
「……聞こえてるから大声出さないで。雪崩が怖いから」
「いやいや、お前の叫び声のほうが、よっぽど大きかったぜ」
「誰のせいだと思ってるのよ……」
穢れ無き白き雪面に、まるで雨後のタケノコの如くにょっきりと突き出した黒い物体。
それが、声の主……魔理沙の帽子である事は、直ぐに理解できた。
ああ、確かに侵入と言えばこいつだろうな。
「あー、良かった……一時はどうなる事かと思ったぜ。やっぱり日ごろの行いだろうな」
「……その理論だと、今後の運命は悲惨でしょうね」
奇妙な事に、私は今の状況に安堵していた。
まだ何かある筈だ、と前もって予測していたのもそうだが、それが死体ではなかったのも理由の一つだろう。
こんな慣れ、嫌だなあ。
「しかし、この雪は一体何なんだ? 私の知らない間に、冥界は南半球に移動しちまったのか?」
「んー、まあ、それには大して深くも無い理由があるんだけど……。
それよりも私としては、お前がここに埋まっていた理由を聞きたいな」
「……」
痛いところを突かれた、とばかりに顔を伏せる魔理沙。
もっとも、雪面から顔だけが突き出ている状態では、何をやっても滑稽にしか見えないのだけど。
「私もまさか、こんな事になるなんて思ってなかったんだ……」
「……?」
「……いや、な。ちょいと用事があって来てみたら、この有様だろ。
で、まずは魔砲を使って分かりやすく障害を取り除こうと思ったんだ」
「……まさか、やったの?」
「いや、何せこれだけの雪量だろ? いくら私でも、完全に切り開ける自信は無かったし、
やりすぎて屋敷ごと吹っ飛ばすのも困る……じゃない、悪いと思ったんだ」
「訂正しても無駄だってば」
まあ、侵入すべき場所が崩壊してしまっては、魔理沙としても意味が無かったのだろう。
ここにいる時点で、盗み目的なのは明白な訳だし。
「諦めて引き返すのは癪に障るし、かといって地道に掘ったりするのは馬鹿のする事だ。
だから私は考えた。効率的に道を切り開く方法をな」
「……」
どうして私は、泥棒相手に馬鹿認定されないといけませんか?
これが俗に言う、説教強盗という奴ですか?
「で、だ。八卦炉の熱で溶かしながら進んでいこうと思ったんだが……ちょいと進んだ所で、これは駄目だと気が付いた」
「……参考までに聞くけど、その方法だと進行速度はどれくらい?」
「聞いて驚け……なんと時速3メートルだ」
「……」
確かに驚いた。
まさか魔理沙が、ここまで馬鹿だったとは。
そもそも、始めた瞬間に気付きそうなものだけど……多分、意地になっちゃったんだろうなぁ。
「しかも運の悪い事に、諦めて戻ろうとした瞬間に背後の雪が崩れ落ちたんだ」
「で、閉じ込められた、と」
掘り固めもせずに一直線に進めば、当然の帰結だろう。
少なくとも、雪に関しての心構えに関しては、魔理沙より私のほうが出来ている事が分かったが、
これっぽっちも嬉しくないのは何故だろうか。
「……私だって好きで閉じ込められた訳じゃない。ちょっと試してみただけでこんな事になるなんて、思ってなかったんだよ」
「この雪はただの水分の結晶体じゃない。全てに終わりを告げる白き使者だ。
それを甘く見たお前の自業自得と思うんだな」
紫様の受け売りを、そのまま口にする。
私だって、そんなに大層なものとは思ってないけど、一応これも不法侵入者だし、
効果があるかどうかは別として、少しくらい説教しておくべきだと思ったからだ。
……その程度の考えだったんだけど。
「……ひっく……そんな言い方って、無いだろ……」
「……え……」
「……怖かったんだぞ、本当に。身動き取れないから魔法も使えないし、身体は冷えて動かなくなってくるし、
それどころか、段々呼吸まで苦しくなって……」
「そ、そうなのか……」
今度こそ、本当に驚いた。
あろう事か、あの強気一辺倒の魔理沙が、隠しもせずに泣き言を漏らしているのだから。
……考えてみれば、当然なのかもしれない。
かの音速の魔法使いと言えども、その身体は普通の人間だ。
自然現象という分かり易くも抗いようの無い脅威に襲われれば、本音が出た所で何の不思議も無い。
いや……自然現象と呼んでいいのかな、これ。
「もう駄目なのか。私の人生はこんな馬鹿な形で幕を閉じるのか。そんな事も考えていたくらいだ。
だから、お前がいるって分かった時、本当に嬉しかったんだぜ」
「……」
「……でも、やっぱり考えが甘かったよな。
ここの番人でもあるお前が、私みたいな泥棒に慈悲を与える訳が無いもんな」
「え、ええと、それは時と場合によるというか……」
「……なら、今は?」
……どうしよう。マジで。
雰囲気に流されるな、と心の何処かが警告しているが、それを無視したくなるほどに、魔理沙の上目遣いは凶悪だ。
顔以外が雪に埋まっているという間抜けな光景でなければ、とうに私は陥落していたに違いない。
これが俗に言うところの、ギャップ萌えというやつだろうか。
「……」
「……妖夢……」
ああ、頼むから私を涙目で見上げないでほしい。
そんな風に見られたら、何を差し置いても助けてあげなければ、と思ってしまう。
全身も冷え切っている筈だから、風呂にでも入れてやって、暖かい飲み物でも用意してあげないと駄目だ。
こんな状況だし、そのまま泊めてやるのも良いかもしれない。
トラウマにもなりそうな一件だ。夜には一つの布団で互いの傷を舐め合うのも悪くは……。
「精神注入っ!」
「こめっ!?」
唐突に私の後頭部を襲った衝撃は、それまで夢想していた事を完全に消却させた。
それどころか、これまでの人生全てを忘れさせてくれそうな一撃だ。
このタイミングで出てくるのは……あの方しか居ない。
「貴方を洗脳するのには、道具も薬も必要無さそうね……本当、困ったものだわ」
「うう、幽々子様……」
振り返れば、背丈ほどもありそうな巨大な鈍器を担いだ幽々子様が、憮然として私達を見下ろしていた。
まさか、アレで殴ったのか?
私が従者体質でなかったら、また一つ死体が増えたところですよ?
あれ……でもあの鈍器、何処か見覚えが……。
「さてさて、またしても面白い物を掘り当ててしまったようね」
「え? あ、はぁ。面白くは無いですけど」
「ゆ、幽々子……」
何故か魔理沙は、狼狽していた。
先程までの懇願姿勢は何処へやら、動きもしない体を、必死に反転させようともがいている。
その行動の意味するところは、一体……?
「冥界へようこそ、霧雨魔理沙嬢。幻想郷程じゃないけど、大概のものは受け入れるわよ」
「そ、そうか……なら助けてくれるとありがたいな」
「そうかしら。用意周到な貴方が、本当に助けなんて必要としているとは思えないのだけど?」
「……あ、当たり前だ。誰にだって不測の事態はあるさ」
「なるほど……では、懐に沢山隠し持っている紅い茸は何かしら。
冷え切っている割には、随分と血色の良い顔よね?」
「……うー……」
「あ、あの、幽々子様、どういう事なんですか?」
「……少しは自分で考えなさいな、お馬鹿」
怒られた。
まあ、多分私が悪いんだろうから、少し真面目に考えてみよう。
……確かに、長時間雪に埋もれていたにしては、妙に魔理沙の顔色は良い。
鈴仙という前例を見ていたお陰で、その不自然さは一目瞭然だ。
すると……この懇願は嘘?
でも、ここでこんな嘘を吐いて、一体魔理沙に何の得が……。
……。
「……幽々子様」
「はい、魂魄君」
「変な呼び方しないで下さい。ええと、足元の地盤が妙に緩いので、きっちりと埋め直す必要がある気がします。
……という事で宜しいんでしょうか」
「んー……まあ正解という事にしておきましょうか」
「お、おいっ! 何だそりゃ!」
あくまでも推測だが……私の考えはこうだ。
多分魔理沙は、雪に対して何らかの防護策を講じている。
故に凍死したりはしないが、これ以上進む事が困難と感じたのも事実なんだろう。
で、そこに都合よく現れた私を、魔理沙は利用しようと考えた。
幽々子様ならともかく、未熟者の私なら上手く誘導出来ると思ったに違いない。
で、体よく自らの力を使わずに侵入に成功した後は、その本性を現し……。
「……くそっ、少しでも同情した私が馬鹿だった」
「ま、待て妖夢! お前、絶対に何か誤解してるぞ!?」
「うるさい。抗弁なら雪の下で存分に吐け。蛙の神様辺りが聞いてくれるかもしれないぞ」
「だ、だから違っ、そんなやり方は私のモットーに反す……もがっ」
雑音を発する物体を、無造作に雪で埋めて行く。
何故か、幽々子様も手伝ってくれている。
どうやら手にしていた鈍器は、巨大なスコップだったようだ。
準備の際に、選択肢の一つとして持ち出しては来たけど、実用性の面で諦めた代物だ。
そんな物体を軽々と操ってみせる幽々子様のお姿は、実に危険な美しさをかもし出していた。
「じゃ、好きなだけゆっくりしていってね。気が向いたら掘り出して上げるから」
「やっ、やめろ幽々子! これ以上罪を重ね……」
幽々子様の放った雪が、その最後の雑音を覆い隠す。
こうして、本日三人目の被害者が誕生した。
後に残されたのは、妙な満足感を覚えていた私と、何処か怪訝な表情をを浮かべている幽々子様のみ。
……本当にこれで良かったんだろうか?
「魔理沙の供述が本当なら、出口はもう目と鼻の先ね」
「あ、はい、そうなりますね」
ああ、そうだ。
入ってすぐに埋もれてしまったという事は、内側にいる私達から見れば、終着点が近いという意味になる。
そうすれば、このトンネル工事の本来の目的……ええと、何だったっけ。
……ああ、食料の買出しか。それを、ようやく行えるのだ。
その割に、幽々子様の表情が優れないのが気になるけど……。
「私も手伝うわ。ちゃっちゃと済ませてしまいましょう」
「ありがとうございます。……出来れば、もっと早くにその言葉を聴きたかったとは思いますが」
「お黙りなさい」
私と幽々子様は、黙々と最後の工程を堀り進めて行く。
……しかし、どこか空気が重く感じられるのは何故だろう。
あと少しで目的が達成されるというのに、どうしてこんな雰囲気になってしまっているのか……。
「幽々子様、朝食……もう昼食になりそうですけど、何か希望はありますか?」
「別に無いわ。お腹が空きすぎて、考える気力が沸かないの」
「……そう、ですか」
言葉通りに、空腹が原因であるとは思えなかった。
無論、表情からはまったく伺えないが、長年付き添った私には分かる。
何かが幽々子様の中で引っかかっているのだと。
……あ。
「妖夢? どうかしたの?」
「い、いえ、何でもありません」
その時私は、唐突に今朝方の光景を思い出した。
あの、暗闇の片隅で、膝を抱えている幽々子様の姿を。
冗談めかして……というか、本当に冗談としか思えなかったが、もしやあれは本当に落ち込んでいたのでは無いだろうか。
自分には、人を不幸にする事しか出来ない……それは聞き流すには余りにも重い言葉だ。
自在に雪を降らせる。
それが、幽々子様の新たに身につけられた能力だ。
だが、その力によって引き起こされたものは何か。
紫様は非業……でもない死を迎え、鈴仙は氷付けの憂き目に逢い、今また魔理沙も雪の下の住人となった。
そして私はというと、不必要な労働を強いられる羽目になり、その影響で幽々子様自身すら困っている始末だったりする。
……本当に、誰一人として幸福を得ていない。
白玉楼を雪で埋めてしまったあの時から、そう幽々子様は確信していたんだろうか。
だとすれば……余りにも悲しい事ではないか。
いや、こんなに大量に降らせなければ済んだのでは? と言えばそれまでだけど。
「……あ、あのっ、幽々子様」
「んー、何?」
「そ、その、私、結構雪かきって好きなんです。その、ほら、身体も精神も鍛えられそうですし」
「……? どうしたのよ、唐突に」
「す、済みません。何となく言いたかったんです」
「……変な妖夢」
……己の機知の貧相さに、嫌気がさす。
これでは、雰囲気を好転させるどころか、余計に重くしてしまうだけじゃないか。
「も、もうすぐ出口です。さあ、最後の一踏ん張りと行きましょう!」
「あ、妖夢。そんなに勢い良くしちゃ……」
無意識に失態を覆い隠そうとしていたのか、私は無駄に力強くスコップを突き入れる。
一瞬、強烈な手ごたえを感じた気がしたが、それはほんの刹那で霧散していた。
「のわっ!!!」
次の瞬間。
私は無様に転がっていた。
無論、今日の転倒数は軽く二桁に達していたが、今回のは妙に痛かった気がする。
本来あるべき雪のクッションが、何故か感じられなかったからだろう。
「……あれ?」
急ぎ体勢を整えると、改めて周囲を見渡す。
「最後の一振りがアレではねぇ……ま、妖夢らしいけど」
「……」
ようやく気付いた。
幽々子様が立っているのも、私が転がっていたのも、雪面ではなく石畳の上だった事に。
それが指し示す答えは一つ。
私は、成し遂げたんだ。
「……やったぁ……」
自然と歓喜の声が、口から漏れる。
やはり、これだけの難行。達成感が無いと言えば嘘だ。
そうだ。この雪穴は、魂魄トンネルと名付ける事にしよう。
『この穴を抜けんとするもの、一切の望みを捨てよ』なんてプレートでも張って、新しい観光名所に……。
……溶けるまでの命なんだよね、これ。
「んー……丁度、庭の範囲いっぱいに納まっていたようね」
「そうですね……」
私達は今、門の外から白玉楼を振り返る形となっていた。
開けっ放しにしておいた記憶は無いが……多分、私の最後の一撃で開いてしまったんだろう。
見上げれば、雲ひとつ無い空。
さんさんと照りつける日輪の光に、むせ返るような強烈な熱気。
耳を澄ますまでもなく、盛大に鳴り響く蝉の声。
一時の雪など、ただの幻想に過ぎない。
そう考えてしまうほど、ごく当たり前の夏の風景が、私の前に広がっていた。
……でも、凍死者三名。
「さ、行きましょう。せっかくだから、このまま外でお昼にするのも良さそうね」
なんとなく、戻りたくない、という意図が感じられる。
……まぁ、あの惨状を考えると、私もこのまま放棄したくなるけど。
「そうですね。とりあえず里まで……わぷっ!?」
極力、明るく返そうとしたその瞬間だった。
今日になって一体何回目のことだろう。
予期せぬ衝撃が、私の身体を襲っていたのだ。
それは、冷たく、重く、苦しく……。
「よ、妖夢! しっかりなさい!」
「だ、大丈夫です。今のところ……」
「今のところ!? ……って、人のネタを取るんじゃありません」
何だか良く分からない会話を交わしつつ、幽々子様に引っ張り上げられる。
どうやら私は、またしても雪に飲み込まれていたらしい。
……一度、厄神様にでも見てもらうべきだろうか。
「多分、吸い取りきれないでしょうねぇ」
「だから心を読まないで下さいってば……」
それにしても、この雪は何だろう。
積もっていた雪が、たまたま私目掛けて落ちてきたんだろうか?
……いや、それは変だ。
幽々子様の言う通り、降雪の範囲はきっかり白玉楼内部に納まっており、門には一粒たりとも雪は積もっていなかったからだ。
ならば一体……?
「ねぇ、何か聞こえない?」
「え? あ……確かに」
よく耳を澄ませば、蝉の声に混じって人の声のようなものが微かに届いてくる。
それも、何処かで聞いた事があるような、複数の声が。
「……上ね」
「はい」
私と幽々子様は、久方振りの飛行能力を用い、門の上へと飛び乗る。
眼前に広がっていたのは、まるで未使用のキャンバスのような、一面の白。
背の高い桜の枝が見え隠れしていなかったなら、ここが本当に白玉楼なのか、私でも確信が持てなかっただろう。
本当によくもまあ、ここまで降らせてしまったものだと思う。
「「あ」」
不意に、私と幽々子様の声が重なる。
視線の遥か先。
丁度、屋敷の真上辺りの所に、忙しなく動き回る二つの影があった。
「あははははははははは!!」
「げ、限界! 限界だから少し落ち着いて!」
「あはははははは!! あはははははははは!!」
「ち、チルノちゃん! それもう、無邪気を通り越して狂人! 色々な意味で危ないよっ!」
「エネルギーじゅうふん120%! 発射あっ!」
「じゅうふん、じゃなくてじゅうてん……ふんがっ」
それは、真夏の陽光が降り注ぐ中、何処かで見たような妖精たちが雪合戦に興じているという、何とも奇怪な光景だった。
いや、雪合戦というよりは、片方が一方的に雪の猛攻を食らっているだけにも見える。
……ん?
もしかして、さっき私に落ちてきた雪は、あれが原因か。
「まったく……何だってこんな日に限って、不法侵入者ばっかり現れるんだか……いや、こんな日だからか」
「……」
「ちょっと懲らしめ……もとい、注意してきますので、少々お待ち下さい」
「……お止めなさい」
「え?」
歩み寄らんとしていた私を、幽々子様が片手で制して来る。
これまでの侵入者への対応から考えて、そうするべきだと思ったんだけど……。
「別に悪巧みをしている訳でも無さそうだし、好きに遊ばせてあげましょう」
「はあ……」
幽々子様は、僅かに笑みを浮かべていた。
それは、悪巧みをしているときの嫌らしいものではなく、本心からの微笑だった。
……あ。
そうか、そういう事か。
「分かりました。放っておくことにします」
「宜しい。じゃ、改めて行きましょう。紫達の分も仕入れてこないとね」
「……死体なのに食べられるんですか?」
「それは私に対する挑戦と受け取って良いのかしら」
どうでも良い突っ込みを入れつつ、私と幽々子様は、顕界へと向けて飛び立つ。
背後からは、今だに嬌声とも悲鳴とも突かぬ声が届いていた。
……ちゃんといるじゃないか。
幽々子様が降らせた雪で、幸福になった者が。
ま、一人なのか二人なのかは分からないけどね。
「ねぇ、妖夢」
「はい、何ですか?」
道中。私の後ろを飛んでいた幽々子様が、不意に声をかけてきた。
別段重大事でもないのか、本当に気軽に。
だから私も、さして深く考えずに言葉を返した。
「当初から疑問だったんだけど……ううん、今更かしら」
「……途中で止められると余計不安です。最後まで仰ってください」
「うん。あのね」
……今は後悔している。
聞くべきではなかったのだ、と。
「最初から縦穴を掘れば、すぐに外に出られたんじゃないかしら」
「そういう事は、早く言って下さいよぉー!!」
相変わらずのノリの良さで、さくさく読めました。多謝w
とまぁ、それだけだとアレなので……あれ、えぇと、なんだ、その……
ゆゆ様が可愛い!
全てにおいて、非の打ちどころがない作品に見えます
作品集31『従者たちの夏休み』
のほうにも行ってみますね
エテポンゲか!
相変わらず面白かったです。
ところで中の人の続k(ry
このオチは、なんというか大変妖夢らしいな、と(猪突猛進なだけに
小ネタも一杯で笑いましたー
妖夢の装備は「寒さ無効【大】、暑さ倍加【小】」ですね、分かります。
相変わらずなぐだぐだ幽冥組、楽しませていただきましたw
相変わらず、とても面白かったです。
紅白(ry 続き楽しみにしています。
待っておりましたとも!
ああ、あの作品の作者様でしたか。わーい。とりあえず頑張れ妖夢。
ディグダグるの辺りで、「ゆゆ様が胡蝶夢の舞を繰り返せば掘り進めないかなあ」とか思いました。
登場人物(?)の醸す雰囲気がとても好きです.
これからも楽しみにしてます.
自分のほうが後になるのでお邪魔してますになるのかなw
衰えの無い作品に安心して楽しませて頂きました。アレの続きも楽しみに待ってますね。
>「あー、あー、……あーあぁーはってっしーないぃー」
ちょ、D▲I都会w
中の人は瀟洒(後)、いつまでもいつまでも待ってますよ~。急いだり無理して産み落とすよりはクオリティ充実を希望します。
YDSさんの幽冥組は大好き(もちろんそれ以外も)なので、楽しく読ませてもらいました。
放置してるアレも楽しみにしてます!
楽しませていただきました