厄神様。
妖怪の山のあたりに住まう、奇妙な神様。
名は、鍵山雛という。
厄神というからには厄を、つまりは災いを司るわけである。
無論彼女も例に漏れず、厄をどうこうする能力を持っている。
具体的には、厄を溜め込む力を。
人が流した厄を、ただ溜め込むだけ力を。
人は言う。
彼女は善い神だと。
人に降りかかる災いを除く、人のための神だと。
果たして、それは本当だろうか。
人のための神、等と。
そんな存在があり得るのだろうか。
曲がりなりにも神と呼ばれるモノが、人のためになんて。
けれど、事実として彼女は厄を溜め込んでいる。
彼女が厄を取り払うからこそ、人は日々に幸福を感じる事が出来るのかもしれない。
例えるなら、お守りの様なものだろうか。
人は彼女を信じ、けれど縋る事はない。
そういう意味では、彼女は確かに人のためにあるのかもしれない。
或いは彼女は、狂っているのかもしれない。
膨張し続ける厄は、神であっても無害ではないだろう。
溜めて溜めて、溜め続けて。
彼女は壊れてしまったのかもしれない。
人のためで在ろうとするように見えるのは、神としての本性を失っているのかもしれない。
けれども、もしかしたら。
その狂っている姿こそが本性なのだとしたら。
これほど恐ろしい神はいないと、そう思う。
そも、厄とは何であるのか。
災い、不幸、害悪――つまりはそう言った、よろしくない物。
一言で言ってしまえば、そうなるだろう。
人に限らず、全てが生きていく上で歓迎されない代物だ。
誰しも、幸せを好むものであるのだから。
ならば、厄はただの一つとして必要とはされないのか。
自ら欲する者は、まずいないだろう。
けれど、不必要か、という問いがあれば。
私は間違いなく、否と答える。
不幸を喜ぶわけではない。
どんな者にも、幸せに生きて欲しいと思う。
だけど、それでも。
厄を忘れては欲しくないのだ。
幸せとは、それだけでは成り立たない。
人は不幸を知るからこそ、今自分が幸せである事を知るのだから。
ならば、人が厄を忘れたらどうなる。
人から不幸を奪う、その行為は。
人から幸せを奪う行為と同義ではないのか。
外には流さず。
ただ一つも還元する事はなく。
彼女は、厄を絡めとる。
果たして如何なる意味をもって厄を繰るというのか。
彼女の周りに立ちこめる、門外漢の私から見ても異常な濃度の厄。
あの厄には、如何なる意味が込められているというのか。
酷く不安になる。
人間は、慣れてしまう生き物だ。
人よりも長く生きる妖怪よりも、遙かに早く慣れてしまう。
彼女が厄を奪い続ければ。
人がその状況に慣れてしまえば。
そのうち人は、幸せである事に慣れてしまうだろう。
慣れとは、飽きだ。
幸せに飽きた人々は、何を求めるのか。
それが、本当に怖い。
もし、人々が暗い感情を好むようになってしまったら。
もし、人々が他者の不幸を悦ぶようになってしまったら。
後に待つのは、破滅でしかない。
だから私は思う。
人は、幸せになりすぎるべきではないと。
人の幸せを願う者としてあるまじき、矛盾した思いではあるけれど。
幸せに生きて欲しいから、不幸せを、厄を忘れないで欲しい。
彼女は。
人の厄を奪う神は。
厄を己の元に括り付け、決して離さぬ厄神は。
もしかしたら、正しく厄神なのかもしれない。
けれど、彼女が溜め込んだ厄は、既に処理する事が出来ない密度になっている。
いかなる者を持ってしても、あの厄を無に返す事は不可能だろう。
或いは、龍であればわからないが。
何よりも厄介なのが、彼女の能力は厄を溜め込むだけという事だ。
彼女の元へ集う厄は、そのままであり続ける。
例えそれが如何なる厄であっても、決して消えることなく残り続けてしまう。
厄は、自然に消えてくれはしない。
然るべき儀式を執り行い、祓わなければいけない。
祓い、流し、循環させなければ、厄は決して無くならない。
だというのに、彼女はその力をもって厄を還そうとはしない。
私には、彼女が如何なる心算であるのかわからない。
わからないこそ、怖い。
曲がりなりにも神と呼ばれる者が、人間に災いをもたらすかもしれない事が怖い。
そしてその災いが、幸せの向こう側にある事が何よりも怖い。
彼女は人間の味方ではない。
けれど、敵でもない。
神、とは、そういう存在なのだろう。
彼女の心を覗く事は出来ない。
何を思い厄を纏うのか、知る事は出来ない。
例えそれを垣間見る事が叶ったとして、理解出来る存在であるとも思えないが。
何にせよ、彼女を止める事は出来ない。
いずれ来る幸せの、その向こう側へ辿り着かない為に。
人には多くが求められるだろう。
そして、その多くを守る事は出来ないだろう。
人は弱い生き物だから、全ての辛い事に立ち向かう事は出来ないだろう。
それでも、幸せになって欲しいと願う。
幸せを求めず、幸せになれと私は思う。
酷く矛盾した、馬鹿げた願いだけど。
私は、人に願う。
全ての幻想郷に住まう者達に願う。
どうか、幸せであれと。
そして、厄の神に願う。
幸せを、幻想にしてしまわない事を。
幻想の中で幻想になってしまったものは、二度と戻る事はないのだから。
妖怪の山のあたりに住まう、奇妙な神様。
名は、鍵山雛という。
厄神というからには厄を、つまりは災いを司るわけである。
無論彼女も例に漏れず、厄をどうこうする能力を持っている。
具体的には、厄を溜め込む力を。
人が流した厄を、ただ溜め込むだけ力を。
人は言う。
彼女は善い神だと。
人に降りかかる災いを除く、人のための神だと。
果たして、それは本当だろうか。
人のための神、等と。
そんな存在があり得るのだろうか。
曲がりなりにも神と呼ばれるモノが、人のためになんて。
けれど、事実として彼女は厄を溜め込んでいる。
彼女が厄を取り払うからこそ、人は日々に幸福を感じる事が出来るのかもしれない。
例えるなら、お守りの様なものだろうか。
人は彼女を信じ、けれど縋る事はない。
そういう意味では、彼女は確かに人のためにあるのかもしれない。
或いは彼女は、狂っているのかもしれない。
膨張し続ける厄は、神であっても無害ではないだろう。
溜めて溜めて、溜め続けて。
彼女は壊れてしまったのかもしれない。
人のためで在ろうとするように見えるのは、神としての本性を失っているのかもしれない。
けれども、もしかしたら。
その狂っている姿こそが本性なのだとしたら。
これほど恐ろしい神はいないと、そう思う。
そも、厄とは何であるのか。
災い、不幸、害悪――つまりはそう言った、よろしくない物。
一言で言ってしまえば、そうなるだろう。
人に限らず、全てが生きていく上で歓迎されない代物だ。
誰しも、幸せを好むものであるのだから。
ならば、厄はただの一つとして必要とはされないのか。
自ら欲する者は、まずいないだろう。
けれど、不必要か、という問いがあれば。
私は間違いなく、否と答える。
不幸を喜ぶわけではない。
どんな者にも、幸せに生きて欲しいと思う。
だけど、それでも。
厄を忘れては欲しくないのだ。
幸せとは、それだけでは成り立たない。
人は不幸を知るからこそ、今自分が幸せである事を知るのだから。
ならば、人が厄を忘れたらどうなる。
人から不幸を奪う、その行為は。
人から幸せを奪う行為と同義ではないのか。
外には流さず。
ただ一つも還元する事はなく。
彼女は、厄を絡めとる。
果たして如何なる意味をもって厄を繰るというのか。
彼女の周りに立ちこめる、門外漢の私から見ても異常な濃度の厄。
あの厄には、如何なる意味が込められているというのか。
酷く不安になる。
人間は、慣れてしまう生き物だ。
人よりも長く生きる妖怪よりも、遙かに早く慣れてしまう。
彼女が厄を奪い続ければ。
人がその状況に慣れてしまえば。
そのうち人は、幸せである事に慣れてしまうだろう。
慣れとは、飽きだ。
幸せに飽きた人々は、何を求めるのか。
それが、本当に怖い。
もし、人々が暗い感情を好むようになってしまったら。
もし、人々が他者の不幸を悦ぶようになってしまったら。
後に待つのは、破滅でしかない。
だから私は思う。
人は、幸せになりすぎるべきではないと。
人の幸せを願う者としてあるまじき、矛盾した思いではあるけれど。
幸せに生きて欲しいから、不幸せを、厄を忘れないで欲しい。
彼女は。
人の厄を奪う神は。
厄を己の元に括り付け、決して離さぬ厄神は。
もしかしたら、正しく厄神なのかもしれない。
けれど、彼女が溜め込んだ厄は、既に処理する事が出来ない密度になっている。
いかなる者を持ってしても、あの厄を無に返す事は不可能だろう。
或いは、龍であればわからないが。
何よりも厄介なのが、彼女の能力は厄を溜め込むだけという事だ。
彼女の元へ集う厄は、そのままであり続ける。
例えそれが如何なる厄であっても、決して消えることなく残り続けてしまう。
厄は、自然に消えてくれはしない。
然るべき儀式を執り行い、祓わなければいけない。
祓い、流し、循環させなければ、厄は決して無くならない。
だというのに、彼女はその力をもって厄を還そうとはしない。
私には、彼女が如何なる心算であるのかわからない。
わからないこそ、怖い。
曲がりなりにも神と呼ばれる者が、人間に災いをもたらすかもしれない事が怖い。
そしてその災いが、幸せの向こう側にある事が何よりも怖い。
彼女は人間の味方ではない。
けれど、敵でもない。
神、とは、そういう存在なのだろう。
彼女の心を覗く事は出来ない。
何を思い厄を纏うのか、知る事は出来ない。
例えそれを垣間見る事が叶ったとして、理解出来る存在であるとも思えないが。
何にせよ、彼女を止める事は出来ない。
いずれ来る幸せの、その向こう側へ辿り着かない為に。
人には多くが求められるだろう。
そして、その多くを守る事は出来ないだろう。
人は弱い生き物だから、全ての辛い事に立ち向かう事は出来ないだろう。
それでも、幸せになって欲しいと願う。
幸せを求めず、幸せになれと私は思う。
酷く矛盾した、馬鹿げた願いだけど。
私は、人に願う。
全ての幻想郷に住まう者達に願う。
どうか、幸せであれと。
そして、厄の神に願う。
幸せを、幻想にしてしまわない事を。
幻想の中で幻想になってしまったものは、二度と戻る事はないのだから。
人間は、幸せな日常に飽きると、それの暇潰しとして何かをやろうとするのです
人の世から争いが無くならない、一つの理由がそれだと思います
上の慧音や紅妹のような暇潰しをすればいいのです
あとがきの里の人を男の人と読み間違えてあらぬことを想像してごめんなさい
と思って読み進んでいったら最後のけねもこにやられたw
人に対する神様としての雛の立ち位置ですか……
おもしろかたです
矛盾してるけど人より運が無い俺は幸せなのかな
この話と同じように「機械」という便利な物に慣れてるこっちの人間が幻想郷に行って
「機械」が無い不便さを味わったら「機械」の有り難味を知るんだろうなぁ