Coolier - 新生・東方創想話

森近の道具屋 終 浮遊者

2008/08/12 17:30:33
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今作は作品集57『森近の道具屋 月と狂気と半妖』の続きとなっております。









 鈴仙は髪を撫でるだけでなく、どこかそわそわしていた。手には落ち着きが見られず、耳は休みなく、プロペラのように動き回っている。まるで、何かに急いでいるようだった。何か忘れ物があるなら、不法侵入だろうが気にしない――それは魔理沙や霊夢か。魔理沙や霊夢の行動に慣れてしまっている自分に呆れつつも、鈴仙の礼儀正しさには感心していた。とはいえ、それは暗黙の了解だろう。彼が香霖堂まで三十メートルほどというとき、鈴仙の耳が陸に打ち上げられた魚のように跳ねた。瞬間、彼女がこちらを振り向いた。彼が肩の高さくらいで手を振ると、鈴仙はすぐに顔を反らしてしまった。特に大事な用ではないことが何となく読み取れたので、彼は足取りを変えることはなかった。彼は鈴仙の用を聞き終えたら、月面戦争について聞いてみようと考えていた。

 月の民はえらく長生きだ、と資料には記してあった。何百何千万、億の単位まで突入している者も少なくはないという。兎とはいえ、彼女も億以上の歳を重ねているのだろうか。

 人類誕生から約四百万年――億単位とは恐ろしい数値である。それでいて、月の民は人間を超越し得る頭脳を持つ。そんな生き物が何億年も生きているとしたら、その近代兵器とやらも相当な威力を持つに違いない。対象を一瞬で灰にしたり、幻想郷を壊滅させる砲台があったりしても不思議ではない。それは破壊兵器だけでなく、一瞬でどこへでも移動できるシステムや食事以外での栄養補給法もあったりするのかもしれない。妖怪の賢者である紫の実年齢は定かではないが、月の民に戦争を仕掛けて勝利するなどと、本気で考えていたのだろうか。

 確かに、彼女の能力は他の追随を許さない。

 虚実、生死、動静、明暗、男女――あらゆるものの境界を操る。その力は絶対的で、あらゆる生き物を圧倒する。幻想郷最古の妖怪であると推測され、その平和を確立しているのも彼女である。普段はどうしようもなく怠惰で捻くれているものの、誰よりも幻想郷全体のことを考えているのは他ならぬ八雲紫であることを知っているのは極僅かではないだろうか。

 そのような妖怪と知り合いである私は幸せである――と、資料には記してあった。

 彼自身、紫の知り合いであるか、と聞かれればイエスだ。改めて、彼女は偉大な存在なのだろうと認識した。

 落ち着きなく待っている人の元へ歩いていくのもどこか違和感を覚えつつも、彼は鈴仙の傍で足を止めた。それだというのに、彼女は用件を述べるどころか、こちらを振り向こうとさえしない。

「何か用でも?」

 彼は玄関の鍵を開けながら、何気なくそう言った。ドアノブの付け根に溜まる埃に顔をしかめつつ、自宅へと歩みを進めた。そんな身勝手な彼に嫌気が差したのか、鈴仙は彼の右腕を掴んで思い切り引き寄せた。バランスを崩しそうにやや彼女に寄りかかる姿勢になってしまい、瞬間的に突き飛ばされた。彼は地面に倒れ、腰を擦ると、鈴仙は一瞬だけ申し分けなさそうな表情を見せた。状況が理解できない彼を他所に、鈴仙は顔を熟したトマトのように赤くして声を張り上げた。

「い、いいいくらなんでもむ、無神経すぎますっ!」
「なんだ、いきなり。君も鎮静剤を服用したほうがいいんじゃないかな」

 鈴仙は悔しそうに口を噤むと、その場に小さく俯いてしまった。彼女の乱れように驚きつつ、彼はとりあえずカウンターの方へ招いた。お茶を差し出すと、鈴仙は少しだけ冷静さを取り戻したようだった。気のせいか、目の色が先程よりも赤い。

「それで、何か用かな?」
「し、白々しい方ですね……これですよ、これっ!」

 そう言うと、鈴仙は胸ポケットから四つ折にされた一枚の紙を取り出した。カウンターの上に叩きつけられたあと、彼は慎重にその紙を開いていった。

 ――貴女の艶やかな長い髪、妖美な身体、成熟した声、綺麗な言葉遣いに女神のような微笑……貴女のような女性に一目惚れしてしまうのも無理はありません。返事がどうであれ、もう一度お会いしたい。――森近霜之助

 これは鈴仙向けへの明らかな恋文だった。それなら、あの動揺の仕方も無理はない。恐らく、このような経験は初めてだったのだろう。この手紙を読み終えた後、彼は改めて鈴仙が丁寧な人物だと思い、加えてお茶目な一面も持ち合わせているのだなと感じた。彼は唸った後、恋文をカウンターの上に公開すると口を広げた。

「なるほどね。確かに、君みたいな女性なら一目惚れされても無理はないだろう」
「な、何でそんな他人事のような口が聞けるんですか!?」
「いや、僕も恋愛というのには疎くてね。まぁ、出来る限りの協力はしてあげるよ」
「協力って……本当、貴方は何を考えているんですか……」

 鈴仙に呆れられることに、彼は甚だ疑問を感じていた。そもそも、彼女がここへ相談しに来ることが間違いだったのだろう。鈴仙は憤慨しているのか心情を読み取らせようとしない表情のまま、暫らく黙り込んでしまった。どことなく気まずい雰囲気を感じながらも、彼は茶を啜って鈴仙の言葉を待った。

 それにしても、何故鈴仙はわざわざここへ報告をしに来たのだろう。彼女とは特に交友もなく、今日が初対面である。そんな人にわざわざ自分宛の恋文を公開しに来た理由は何なのだろう。数少ない男性の意見でも求めに来たのだろうか。

 俯きがちの鈴仙が顔を上げたのを見計らって、彼も同じく顔を合わせた。が、鈴仙は途端に顔を赤くして再び俯いた。このままでは話の進展がないことを察し、彼は口を開いた。勿論、月面戦争について、である。

「特に用がないなら、僕からのお願いがあるんだが」
「……お、お願いなんて聞きませんよ……これ、どうなんですかっ!?」

 再び、カウンターを叩きつける鈴仙。ここまで来ると、流石に彼も混乱してくる。彼は今一度恋文に目を通しながら彼女に対応する。

「一体何をそんなに騒いでいるんだい? 大したアドバイスをすることが出来ないのは悪いとは思っているけど、そこまで怒ることもないだろう? 早く霜之助さんに会いに行けばいいじゃないか。どこかで会ったんだろう? それとも、自分の記憶まで消してしまったとか」
「し、霜!? ち、ちょっと貸してくださいっ!」

 途端に顔を白く染め上げたかと思うと、乱暴な動きで恋文を奪い取る。恋文で顔を覆い、暫らく黙り込む。外で鳴く蝉がジージーと騒いでいる。店内には沈黙。彼は眉をひそめ、鈴仙は顔を覆う。あまりの沈黙に耐え切れず、彼は指先でカウンターを突く。

 突然、目の前が真っ赤に染まったかと思うと、鈴仙が目を真っ赤に充血させていた。気が付くと、彼女の手元にあった恋文は鈴仙の指先から先が吹き飛んでいた。手元に残った紙片を握り潰すと、彼女はにっこりと微笑んだ。その笑みを見た瞬間、背筋が凍った。

「ご迷惑をお掛けしました。『霖之助』さん」
「あ、あぁ……それじゃあ、頑張ってくれよ」

 鈴仙は波長の乱れた声でそう言うと、もう一度にこりと笑った。彼女の兎の耳がびくびくと痙攣し始め、何だか胸が痛んできた。

 てゐ――そう聞こえた刹那、彼女は残像を作ったかと思うと、その場から消えてしまった。胸の痛みも一気に消えた。嵐が去ったかのように、香霖堂は静まり返った。ただ、彼の疑問の溜息を除いては。ますます、彼女の考えていたことが分からない。

 まとめると、霜之助という人物から手紙を貰い、それをここへ報告しに来た。協力が得られないと聞き憤怒、最後にもう一度手紙を読み返して立ち去っていく。ここへ報告しに来た段階で既に疑問が残るのだが、百歩譲ってその疑問をないものとしても、消すに消せない疑問に衝突する。鈴仙のあの怒りようだ。あの程度で怒るような人柄には見えなかったが、もしかするとあれが本性なのかもしれない。

 よく、あいつは二重人格だの裏表があるだのという話を聞くが、彼自身、そのことについては何の気にも留めていない。裏表がなく、全てを平等に考える生き物など、通常は存在しない。生き物は自分よりも能力の低い対象を求め、優越に浸り、己という精神状態を保とうとする。何か悪いことがあろうとも「俺はあいつよりはマシだ」と暗示することで、自らを安定させる。長所短所は人それぞれなので、この場合は最も下に付く生き物を決定することが出来ない。

 例えば、とある男性が『この分野ではあいつに勝てる』と判断する。しかし、そのあいつはその男性に向かって『俺はあいつよりここが優れている』と判断する。そして、最終的には双方共に『俺はあいつよりも優れている』と、脳内で勝手に変換されてしまう。どこが優れているのか、と明確化せず、曖昧にすることでその効果を高めている。更に、そこに第三者の意見がないということも大きく起因している。自分を安定させる上で、その関係に優劣は存在することはない。が、結果的にあらゆる人物を自分以下だと誤認することも多い。そんな自意識過剰な輩はそうそういないだろうけれど。人生に望みがなくなって自殺するような人は時折現れるが、それは自分の長所を見つけられず、劣等感に押し潰されている場合が多いのではないだろうか。

 更に、裏表や二重人格について『まさかこんなことをするとは』だの『そんな風には見えなかった』と言うような発言は暗に、その人物との関わりが薄いことを示している。先程の鈴仙の態度に驚いたことはそのことを実に顕著に表している。関わりが浅く、彼女の性格を何一つ理解していなかった為だ。

 一年間毎日会話を続けるより、三日間共に寝泊りするほうがより親密になることが出来ると聞いたことがある。会話はいくらでも取り繕うことが出来たとしても、習い性や悪態などは私生活で必ず現れる。特に、野宿する場合にはそれが顕著に現れる。普段はあるはずの物がない焦りや苛立ち、不満などが爆発する。すると、その内面が見えてくる。日常の便利さが当たり前となって、相手に任せっきりにする者がほとんどだろう。その時に、いかにして自分のありのままを見せるか。その時の自分が、いかにして相手に映っているか。それが理解できれば、そこには確かな関係が約束されるだろう。

 一番付き合いが長いのは恐らく、魔理沙と霊夢だ。野宿こそないものの、彼女らとは何泊もした仲だ。半居候と言えるかもしれない。

 魔理沙は表面では活発で茶化すのが上手な少女である。が、彼女の本性は熱心な研究家でもある。その努力を知っているのは恐らく本人だけであろう。決して人前にはその姿を見せず、一人静かに研究に取り組む。典型的な表裏の違いだろう。

 霊夢は普段から気楽で面倒臭がりな少女である。彼女の本性は――。

 彼女の、博麗霊夢の本性だけはどうにも見破れない。誰に対しても平等でない人間は存在しない。何故なら、生き物は常に格下を探し回っているから――その考えに、彼女は唯一当てはまらない。逆に言えば、彼女にとって全ての生き物が格下、見下しの対象なのかもしれない。自分が常に正当化され、幻想郷の責任者でもある。誰一人として逆らえない。そんな彼女にとって、幻想郷全ての生き物が格下であることは間違いではないのかもしれない。

 それとも、彼女は見下すという概念すら知らないのかもしれない。優越感も、劣等感も、達成感も、挫折感もないのかもしれない。常に周りから浮いていて、決してその輪に滞在しようとはしない。彼女は裏表が存在しないのか、交友が浅いのか、どこにも属せない何かがあるのか。彼には分からない。

 ふと、彼は声をあげた。鈴仙に話を聞くことを忘れていた。頭を掻きながら、後悔の念に押される。お茶を飲み終え、この後どうしようか悩む。あわよくば、鈴仙や紫から話を聞きたい。が、そのどちらも今すぐに成せるものではない。

 不意に、腹の虫が鳴った。食事をすることを忘れるというのも末期だと思いつつ、彼は台所に立った。ここ一週間で魔理沙から受け取ったガラクタに目を見張る。一つだけ転がるカップ麺。種類は違えど、カップ麺は何度か口にしている。お湯を注いで暫らく待つだけで美味しい麺が頂ける。本当に、外の世界の発想力や技術力には感心する。ただ、それは裏を返せば面倒臭いの一言から始まったのではないだろうか。

 遠くの人と話せる電話。その発想も、起源は手紙でやり取りするのが面倒だからということだったのではないだろうか。その面倒をなくすため、そんな発想をしたのではないだろうか。学問でいえば、数学は面倒の一言で片付けられる。加減乗除と書くのは面倒だから+-×÷にし、平方根や円周率は√やπで済ませる。面倒臭いという発想はどこにでも現れる。それでいて、簡単や便利と称えられる物はその産物だというのだから面白いものである。本来は邪険に扱われる面倒臭いという一言。ただ、新しい発想にはその気持ちそのものも大事なのだろう。

 加薬を開け、ポットからお湯を注ぐ。立ちこもる湯気が蓋の裏側に水滴を産む。蓋を被せ、適当に本を乗せる。後は三分待つだけ。

 こんな便利さも悪くはない。外の世界ではあらゆる機能を搭載した式神が一人一台。意思のやり取りが出来る携帯電話、その場で運動出来るゲーム機。病気には最新の特効薬が施され、二点間をあっという間に移動できる乗り物の飛行機、新幹線。いずれも、狂人が偉人へと称えられると同時に生み出されてきた科学の粋でもある。

 ヒトはあらゆる生き物で、唯一学習する動物だ。だからこそ、ヒトは人間となることが出来たのだ。

 学習というものは学問を知ればいいというものではない。加減乗除を知ろうとも、漢字の書き取りを知ろうとも、社会の仕組みを知ろうとも、意味はない。知らなかったことを知り、尚且つ、それを忘れず記憶に留めること。それが学習である。一週間やそこらで忘れるような学習は学習ではない。覚えただけだ。

 ヒト以外の動物は学習をしない。いや、学習しようとしているのかもしれない。だが、彼らはすぐに記憶から消し去ってしまう。脳に収めておける情報の量には神と虫けらほどの差があるからだ。

 全ての生き物の最弱は妖精と聞くが、実際はどうだろう。空を飛ぶ力を有し、自然が消えない限りは永遠の命を持つ。肉体的な問題で考えればヒトが最弱なのかもしれない。一踏みで潰せるような蟻は自分の五十倍の重量を持ち上げることが出来る。人が持ち上げられる重量など、良くて自重の二、三倍程度だ。蜂のような羽音を出すハチドリは一秒間に八十回羽ばたく。ヒトが真似しようにも、大きく振れば五往復だって難しい。愛玩用としてその能力を退化させられた犬でさえ、嗅覚はヒトの一億倍までを感知し、聴覚は一部の超音波を聞き取ることが出来る。ヒトが鼻をひくつかせようとも、夕食の献立を当てるのが関の山だろう。耳を澄ませようとも、小さな声で話す陰口が聞こえる程度のいやらしいものだろう。丸腰の成人と大人の熊が一騎打ちを繰り広げればどうなるか。結果は考えずとも分かる。ヒトの肉体はあらゆる生物の中で最弱である。昆虫にさえも勝つことは出来ない。

 しかし、ヒトは考える力を持った。群れを成し、世間というまとまりを築き、人間となった。強大な敵にはその頭脳を用い、罠を張って有利な状況を作る。道を閉ざす壁があれば、別の道を探す。高い木に実る果実を採るために、棒を利用する。ヒトはそれを後世に受け継ぎ、学習させた。魚を採るには、外敵から身を守るには、洞窟以外で雨風を防ぐには――自然への対応を、その優秀な頭脳で解決した。

 だが、その優秀な頭脳は思いのほか裏目に出た。



 争いである。生存競争ではない。私益から生まれた欲望が、物欲を殺し合いへと発展させた。食料がないから隣村を襲う、金が欲しいから強奪する、自分に歯向かうから殺す――ヒトはその知性の代償を得た。勿論、それは傍目には好まれることではない。だから、苦肉の策として法を築き上げた。その法はやがて常識となり、迫害という概念を産んだ。そういった彼らは人間失格の男と同じく、人間からヒトとなり、狂人となった。未来のない、狂人に。

 それだけではない。世の中が便利になるにつれて、狂人や偉人が増えていくにつれて、その命とも言える知性を、元々虚弱な肉体を退化させつつある。考えるという力や適応能力を失っている。

 用紙に書き綴り、いちいち考えるのが面倒――だから電卓を生み出した。

 歩いて出かけるのが面倒、疲れる――だから乗用車や新幹線、飛行機を生み出した。

 自分で考えたり行動したりするのが面倒――だから今、外の世界ではロボットの生成が研究されている。

 その知性や学習能力を活用するのは大いに結構だ。それが人間の武器なのだから。だが、それらの殆どはヒトとしての能力を退化させることへの貢献物であるのかもしれない。偶には、人間を辞めてヒトに戻ってみれば、事の重大さに気が付くだろう。

 換気用の窓からの風が背中に吹き付けられ、彼の意識は脳内から抜け出した。手元にあるカップ麺に目を向け、小さく唸る。一体、どのくらい経ったのだろうか、と。

 ――チリンチリン。

 風鈴の音が香霖堂を潤す。魔理沙や霊夢がこちらへ顔を戻してきても不思議ではない。だが、魔理沙ではないようだ。ドアを突き破る勢いではない。ということは霊夢が来たのだろう。出来れば、昼食を済ませている状態が望ましい。

 途端に、冷えた感触が頬を舐めた。氷精や霊のような凍える寒さではなく、日陰に置かれる金属物のような冷たさ。ドアがキィ、と小さく鳴き、背後から女性が顔を覗かせた。きょろきょろしながら、こちらへ顔を向けた。

「……ここのご主人さん?」
「いらっしゃい――って、随分と縁起でもないな」

 これまた見たこともない人物だった。ピンク色の髪に所々にフリルの付いた白と蒼の衣服。形状は和服、外見は洋服といったところで、所々には桜の花が描かれている。そして、何より印象に残るのはその帽子。死人の着ける三角頭巾には赤い渦巻きが書かれている。扇子を右手に、バッと開いて自らの口元を覆い隠す。格調高さと妖艶さが漂い、紫と瓜二つの笑い方が特徴的だ。

 手元にあるカップ麺を物陰に隠し、話を続ける。

「それで、何か用でも?」
「いえいえ。ただ、妖夢がお世話になったものだから」

 妖夢――いつの日か、人魂灯の取引を行った相手だ。あの日は大雪に加えて大量の霊が棲みついていたものだから寒くて仕方がなかった。その腹いせに、彼女には屋根の雪を下ろしてもらったようなものだ。

 ところで、目の前の彼女は一体何をしに来たのか。妖夢の知り合いが、こんなところへ何用だろうか。

「冷やかしなら受けつけないよ」
「冷やかしてなんかないわ。冷やしているだけよ」

 そう言うと、彼女は子供のように手を振るって振袖をばたつかせた。舞い上がった埃の所為か、彼女は軽く咳き込んだ。確かに、今の香霖堂は何故かひんやりとしている。彼女もまた、冷気を操ったり出来るのだろうか。

 すると、彼女は暗闇の猫の瞳のように目を光らせ、ちらりとカウンターの奥を見つめた。視線をカウンターの奥へ置きながら、ふらふらとカウンターを回って彼のいる方へ向かう。カップ麺の匂いを嗅ぎつけたのかどうかは知らないが、どのような状況であれ、通常のお客さんの侵入は拒否したい。特に、カップ麺という珍しい食べ物があれば誰だって口にしたくなるはずだ。彼は仁王立ちになり、彼女の侵入を阻止しようとする。

「僕がお昼を終えてからにしてくれ」
「それじゃあ遅いのよ。ねぇ、この匂いは何なの?」
「知ってどうするというんだい? 言っておくが、あれは売り物じゃないぞ」
「少しだけよ、一口だけ。ね? いいでしょ?」

 と、何やら必死に懇願してくる。売り物ではないと言っているのに、彼女は融通を利かせない。確かに、他に昼食を用意できないわけではない。が、今更自分ひとりのために昼食を作るのも面倒だ。カップ麺を譲るわけにはいかない。

 が、彼女も彼女で譲ろうとしない。大人びた顔立ちからは想像の出来ないほど幼少な振る舞いで、彼の脇をくぐろうと試みる。いちいちそれを阻止するたび、だんだんと嫌気が差してきた。途端にくだらなくなってしまったのだ。

 道を開けると、彼女は両手を合わせて嬉しそうに台所へ駆け込んだ。カップ麺を前に匂いを確かめているものの、手を付けようとはしない。食い物に興味を失った犬である。

「これは何? いい匂いだけど、得体が知れないわ」
「それは好都合。そもそも、ここへは何をしに来たんだい?」
「食べ物を探しに来たのよ」

 食べ物を探しに来たとは買いに来たと言ってもいいのだろうか。それなら、随分前に貰ったカステラが未だ無事だったはずだ。この蒸し暑さの所為で生存状況は定かではないが、確認してみるのも無駄ではない。彼女が躊躇っている間に、彼は棚を漁ってカステラを取り出した。見たところ黴は生えておらず、外見はそう悪くない。夏は食中毒の季節というので安心は出来ないが、食べ物を探しに来たという答えにはなるはずだ。こちらに目を向けた彼女はトコトコと歩んできた。どうやら、カップ麺よりもカステラに興味を示したようだった。未知の食べ物より、見知っている食べ物の方が安心して美味しく食べられるといったところだろう。

 カウンターの上に箱ごと置くと、幽々子はなんの躊躇いもなく蓋を開け始めた。

「私甘党なのよ。よく分かっているじゃないご主人は」

 彼女の好みなど知ったことではないが、彼は適当に頷いておいた。カップ麺を開けると、醤油のような匂いが辺りを漂う。彼女は鼻をひくひくと動かしこちらをちらちら見るものの、その大きな口でカステラを呑み込んでいく。大蛇が人間を食らうように、カステラが塊のまま口内へ流れていく。どこか恐ろしい感じを覚えつつ、彼は箸をカップの中に飛び込ませた。



                        Ж



「……いやぁ、それにしても暑い」
「そう? そうでもないけど」
「そんなことより、お金を払ってくれないか」
「あら、あれは私に恵んでくれたんじゃなかったの?」
「妖夢がお世話になったところだぞ、ここは」

 それもそうね、と彼女はクスクスと笑い、彼に出されたお茶を口にする。こんな暑い日に好きで熱いお茶を飲むというのも随分と変わっている。いや、暑いときには熱いものを、というところだろうか。だが、寒いときには冷たいものを、とは聞いた事がない。何故だろうか。暑いときに熱いものを食べ、体の熱を外へ追い出すのなら、寒いときに冷たいものを食べれば体を温めようとするのではないだろうか。冬の時期、かき氷が売られていても問題はないと思うのだが。

 ふと、右手の甲に金属片のような冷たさと、マシュマロのような柔らかい感触を感じた。右手を見ると、彼よりも一回り小さな手がぺたりと密着していた。その手はまるで死人のように白く、冷たい。考えるまでもなく、その手は彼女のものだった。

「考え込むのが趣味かしら?」
「……どうしてそう思ったんだい?」
「左手で頬杖を付いて、視線は直立不動。時々乾いた唇を舐めたりして、瞬き一つ見せない……典型的な推考する人ね」

 言われてみれば、左手は頬に当てられ、考えていたときに何が映っていたかなんて覚えていない。唇は明らかに何かが乾いた跡があり、彼女の推測どおりだった。もう一度妖しげな笑みを浮かべると、彼女の左手は彼の右手を擦る。その手は雪のように白いと言うより、本当に、血の気のない死人の手のようで、彼はだんだんと気味が悪くなってきた。改めて顔色などを伺うと、どこか違和感を思わせる蒼白に満ちており、頭に被る帽子も――彼は心の中で、あぁ、そういうことか、と頷いた。

 彼の推測が正しければ、彼女は既に死人、いや、人ではなく、亡霊なのかもしれない。そうすれば、血の気のない白い肌も、頭の三角頭巾も合点が行く。彼女は腐敗しているゾンビのような醜い姿ではなく、その妖艶な笑み、美麗な体型と容姿はすれ違う人を振り向かせるほどだろう。そんな美貌を持ち合わせておきながら、既に死人であるとは本人も傍からも残念なことだろう。

 しかし、彼女は本当に死人なのか。死人だとすれば、何故こうして話すことが出来るのだろう。死人にくちなしとはどういうことだ。

 先程あげたように、ゾンビは屍が何者かによって意思を持たされた状態――一丁前に意思とは言うものの、彼らには食欲しかないのだが――を指す。肉体の死を、死と考えないのならば、彼らゾンビは死人ではない。立派な生き物だ。そういう意味では彼女も同じようなものだろう。肉体は死んでいても意思、即ち、魂や精神は立派に体内で生き続けている。輪廻転生で魂は行き続け、その肉体は言わば衣服。衣服が擦れ、破け、汚れ、やがて肉体としての機能を終える。そうして再び、輪廻を繰り返し、別の衣服を用意してもらう。そう考えれば、例え亡骸に魂が宿ろうとも、自然に魂が宿ろうとも、物質に魂が宿ろうとも、可笑しな話ではない。

 そもそも、死は善悪と同じく、人間が勝手に生み出した概念だ。機能しなくなった生き物のことを、人間は死と呼ぶ。要するに、機能しなくなったり、役に立たなくなったり、どうしようもなかったりすると、死人とされる。死ね、などという卑劣極まりない言葉の側面には役に立っていなかったり、どうしようもなかったりする相手に対して用いられる場合が多い。死とはそれほど身近な存在なのだ。下手をすれば、出産と同時にその新しい命を絶ってしまうことも少なくない。その瞬間、子どもは何の役にも立たない。将来を約束されたわけでもなく、他人に迷惑を掛けることもなく、愛くるしい笑顔で誰かを和ませるはずもなく、沈黙を維持したままそこへたたずむ。まるで、生まれながらにして、ただの固形物であったかのように。

 人間の言う死とは生物が物質へと成り下がることだ。放っておけば死体はやがて腐敗し、五臓六腑は微生物に食され、骨は土へ還る。人形のように、着せ替えをさせたり、話しかけたりしようとも、それは出来ない。死体とは、自分の成れの果てだからだ。いずれ自分はこうなるのだと自覚しつつも、それは本当の死を自覚しきれていない。死にたい、という人の首を絞めれば「殺すつもりか!」と怒鳴られる。その「殺すつもりか!」という一言の方が、より本当の死に近い。

 死は予測できないものだ。死んでしまえばその体験は語れないし、その体験すらも人それぞれだ。死ぬまで、死というものは何なのか分からない。自分が死ぬ、身内が死ぬ、誰かが死ぬ。一人称の死、二人称の死、三人称の死――それらは根本的にずれている。死とは全生物における、最初で最期の貴重な体験である。とはいえ、世の中には不老不死の魔女が存在するとかしないとか。

 ふと、右手に添えられた手がきゅっと締められる。意識を正すと、彼女が再び妖しげに微笑んでいた。

「今度は私のこと?」
「……よく分かるね」
「全身を舐め回すように見るんですもの、視姦よ。誰だって気が付くわよ」

 舐め回すようにといった揶揄に苦笑いしつつも、彼は彼女の洞察力に感心する。誰だって気が付くと言うが、そんなことはないだろう。何気なく誰かを見ることだってあるし、視線の先に偶然誰かがいることだってある。何か、もっと別な、決定的な何かがあるはずだと彼は踏んだ。が、自分の行動を思い返そうとしても記憶がない。

 すると、何かを確信したかのように、彼女は目を瞑って深呼吸を始めた。

「――まず、私の手先と三角頭巾。これで死人を連想させたみたいね。そこに重なる書物を見る限り、大方死の定義を考えていたところかしら。私を見ていたって言うのは嘘、主人の反応を見ただけ。苦笑いは何かを隠したり誤魔化したりする証拠よ。まぁ、初めての相手に、死人ですか? なんて訊けないものねぇ――どう? 合っているかしら?」

 彼は始めに、彼女の手先と顔の蒼白さに疑問を持ち、三角頭巾に目を付けた。彼女が指差した先には生、数式、結婚、神、霊……あらゆる種類の論説が薄く埃を被って積み重なっている。舐め回すという皮肉に彼は苦笑いしつつ、おまけに目を反らしてしまった。彼女の言う通りである――いや、違う。

「洞察力、推察力、観察眼に加えて、そこまで推論を躊躇いなく断定的に言える人はなかなかいない――けれど、一つ間違っていることがあるな」
「あら……意外。どこが違っていたのかしら」
「殆どは君の言うとおりだ。死の定義を考えていたし、誤魔化そうとしたのも事実だが――苦笑いは僕の癖だ」

 彼女はふと微笑むと、小さく頷いて彼の右指を弄り始めた。

「苦笑いは私生活では必要不可欠となってしまったからね。寧ろ、あの場合は視線を反らしたことに注目するべきだったんじゃないかな。視線を合わせると、心を透かされるような気分になるのは人間の心理だからね」
「そう……初対面の場合、相手のことは何も知らないから、視線を反らしつつ様子を伺おうとするのよ。特に、異性の場合は視線だけでなく体までも見ないようにすることが多いのよね。けど……そう、貴方は仮にも商人、誰とでも接するように出来ているのよね。ふふ、ここがもう少しお店っぽかったら私の勝ちだったのに」
「……最後の一言はどうにも頂けないな」

 苦笑い? と言われるより早く、彼は苦笑を浮かべていた。

 彼女は両手で彼の右手を弄り続けている。指の間を抓んでみたり、手の平の皺をなぞってみたり、指の関節を折り曲げてみたり。子どもらしい行動とは裏腹に、鋭い推理力に彼は感心していた。どこぞの生意気で高貴な身分とは大違いである。いつもの決まりきったお客でない日はやはり面白い。特に、こういった語り口を持った女性はなかなかいない。もう一度彼女の顔を見上げようとすると、衣服越しに冷たい感触が二の腕に通った。

「今日は暑いものね、ふふ」
「霊魂のような凍える寒さとは違って心地良い……けど」

 彼女はカウンターをふわりと乗り越え、椅子に座る彼の右の二の腕にしがみ付いた。彼は今一度苦笑いを見せると、彼女もそれに応えるようにして笑顔を見せた。

「そういうのは感心しないな」
「私といると涼しいで――む」

 ヴンと、比喩しにくい音と同時に、ぺたりと左手の甲に何かを感じた。彼女は辺りを見回し、彼の二の腕をがっちりと掴む。右側には彼女が両手を腕に絡ませている。これが彼女の能力だと仮定しても、左手に触れるのは生暖かい何者かの手のようだ。それでは、これは一体何なのか。

 続いて、地面から何かが這い出るような奇妙な音が響いた。

「こ、ん、に、ち、は」

 声を聞いた瞬間、二人は溜息を吐いた。なんだ、あいつか、と。声の方向は彼らの背後の台所から。声の主は紫。

「ちょっと幽々子、何があったのか知らないけど、霖之助さん迷惑がっているじゃない。放しなさいよ」
「あら、別に無理矢理ってわけじゃないわ。私といると涼しいもの、ね?」

 子ども染みた言動を見せ、彼に問いかける。適当に頷く彼。今は彼女の名前を確認していて少々頭の回転が遅れたのだ。幽々子、良い意味で変わった人物だと覚えておこうと、彼はその名と顔を引き出しにしまった。紫が彼女の名を知っているということは二人は知り合いということなのだろう。もしかすると、紫が幽々子の生と死の境界を弄っているから彼女がこうしてここにいるのだろうか。

 紫は台所の奥から現れ、その左手はスキマに突っ込まれていた。その手先は勿論彼の左手に向けられていて、今度はしっかりとその手を離さない。幽々子に対抗してのことなら、彼女は大きな勘違いをしている。彼と幽々子の間に何か特別な出来事があったわけではないし、今はたまたま誤解されやすい配置になっているだけだ。

 早く離れればよいというのに、幽々子は何を血迷ったのか、紫を挑発するような言動を取る。彼に頬を擦り付けたり、腕にぎゅっと抱きついてみたり。が、彼は何一つ動じない。紫はそんな姿に呆れたのか、幽々子と似たような扇子を取り出して一息吐いた。

「まぁ、貴方達がどんな関係を築こうとも文句は付けないけど。ただ、貴女が出かけるとは思わなかったわねぇ……普段は冥界に引き篭もっているのに」
「あら、どこぞのぐうたら生活を続ける妖怪より、ずっと有意義な時を過ごしているつもりだけど?」

 二人は互いに何かを押し殺したような笑顔で睨み合う。幽々子の肌の冷たさが、表情の冷たさを後押ししているように見える。しかし、二人は糸が切れたようにふっと微笑むと、まるでそれが合言葉やら挨拶やら決まり文句やらに見えて仕方がなかった。二人はどのような関係なのか、紫はここまで何をしに来たのか、彼はそれだけが気になって仕方がなかった。それでいて、幽々子は冥界に引き篭もっているという。既にそういった人物であることは承知しているが彼女はそこの住人なのだろうか。それでいて、妖夢とも関係を持っているという。妖夢は以前、人魂灯を回収しに来たりしたものだから――そうか、お嬢様とは幽々子のことだったのか。あんなにだらしのない少女が側近と考えると、幽々子との差にはより一層疑問が残る。この分なら、幽々子一人で何でもやってのけそうな感じでもあるのだが。

 左手に当てられる紫の手が引っ込み、紫は幽々子とは逆の空いている左肩に手を添えた。彼の体が身震いした。ちらりと紫を見ると、なにやらどこかで見たことのある構図だった。視線は窓の外にあるのだが、それはもっと遠くにあるような、見えない何かを見ようとしているかのような。不思議な感覚の正体は稗田の資料の挿絵だった。彼女の挿絵もまた、このようにどこか深みのある表情を見せていた。

 先程、紫の登場にはうんざりしたばかりだが、むしろ好機であることを思い出した。月の戦争について話してもらおうと思っていたばかりだというのに、もう忘れてしまっていた。御阿礼の能力が羨ましいと、彼はそこはかとなく思い込んでいた。ともかく、今を逃してしまっては紫が次にいつ来るか分からない。神出鬼没とはいえ、彼女が夜行方だということは資料で心得ている。今訊かないでいつ訊くというのだろうか。

「ところで、君は妖怪でいう賢者なんだろう?」
「あら、賢者なんて言われるのは久しぶりね」
「昔、月面戦争に行ったことがあるだろう? それで訊きたいことがあるんだが……」

 彼がそう言い終えると、当然のように紫は顔をしかめた。なんと答えればいいか、それに迷っているように。

 すると、突然幽々子が笑い出した。

「ざ、ん、ぱ、い、だったものねぇ、答えたくないのも無理はないでしょう?」
「何を――いえ、そう、そうよ。惨敗だったのよ。あまり覚えてもいないし、思い出したくもないわ」

 嫌な記憶でも掘り起こそうとするように、紫は溜息を吐いて背を向ける。その横顔がちらりと見えた瞬間、紫が小さくウインクした。彼が気味悪がっていると同時に、右肩で幽々子がクスクスと笑っていた。今の状況は幽々子が助け舟を出したということだろうか。とはいえ、拡張高い紫が惨敗よりも隠したがる事実とは一体何なのだろう。だが、彼女から聞き出すことは不可能だろうと彼は悟った。仮にも妖怪の賢者と称えられる八雲紫が、自分のような凡人を特別視するはずがない。この胡散臭さは他の人物と比べても群を抜いているが、稗田の資料は信憑性がある。兎にも角にも、月面戦争のことは忘れたほうが良いのかもしれない。

 突然、強風が店内に入り込んだ。そして、それとほぼ同時刻に幽々子だけでなく紫までもが彼に後ろから抱きついた。二人は悪戯に笑うと、ずっと玄関の方を見つめている。一体何がどうなっているのか理解できないが、紫に抱きつかれるのは困る。単純に暑いのだ。バタンと玄関が開いたかと思うと、魔理沙が息を切らし気味に突っ立っていた。彼の姿を見ると魔理沙は一瞬強張り、ずかずかと乗り込んできた。

「こ、香霖! な、何してるんだぜ!?」
「彼女はひんやりしていて気持ちいいからさっきからこの状態なんだが……こっちの方は理由が良く分からない」
「理由なんてどうでもいいんだぜ! おい! お前らどっか行け!」

 油蝉に負けじと声を張り上げ、ギャーギャーと騒ぐ魔理沙。彼の方へ走っていったかと思うと、カウンターに身を乗り出して紫に体当たりを仕掛ける――が、紫は冷静に目の前に指を引くと、魔理沙はそのままスキマの中へと吸い込まれ、玄関にぼてっと落とされた。ほほほ、と何の関係のない彼でさえ嫌気が差す笑い方に、魔理沙は悔しそうに地面を叩きつけていた。

 ふと、耳元で幽々子が紫に囁く声が聞こえた。

――何だか可哀想ね、ふふ
――なんだかんだいってまだ子ども、寧ろ可愛いくらいよ
――止めにしてあげなさいよ、お腹空いたし
――お腹空いたのはどうでもいいけどね

 そんな対話を終えた後、幽々子と紫の二人は彼の元からスッと離れた。紫はもう一度空に線を引いてスキマを造ると、その中に両足を入れ、幽々子も同じようにふわふわと宙を漂いながらスキマの中へ下半身を沈めた。

「それじゃあお二人さん、また今日の宴会で会いましょうね」
「ふふ、主人は感情が乏しすぎるのかしらねぇ……」

 紫と幽々子の二人はそう言い残すと、完全に隙間の中へと消えていってしまった。その際に見せた、二人が互いに背中を向け合わせた格好というか、姿勢というか、そういったものが非常に美しく見えた。互いの特徴的なあらゆる色彩がまるで一つの絵画のように見事な対比で、もう暫らく見つめていたら思わず惹き付けられる、いや、本当に吸い込まれそうな構図だった。笑い方や扇子、言動などの共通点もさることながら、互いに欠点を補い合うかのような嘘偽りのない美麗な情景だった。

「おい香霖!」

 若干恍惚としている彼に向かって、厳しい声が浴びせられた。魔理沙が顔を赤くして怒鳴り散らしているが、彼は何も思い当たる節がなく、ただただ首を傾げるばかりだった。汚れた服をはたくと、一目散に彼へ向かって駆け寄った。カウンターに上半身を乗せ、再びその騒々しい口を開く。

「どうしたんだ魔理沙。今度、鎮静剤でも買いに行こうか?」
「うるさいぜ! あの二人は何なんだ!?」
「何って、幽々子さんは列記としたお客で、紫は良く分からな……あぁ、しまった、御代を貰うのを忘れ――」
「じゃあ何であいつらは香霖に、その、あの……だ、抱きついたりなんか……」
「だから言っただろう。幽々子さんは温かい氷みたいな物で、紫は神出鬼没なんだよ」
「私という――がいるのに何でだぜ……。……やっぱり私じゃ駄目なのか……?」

 先程の威勢はどこへやら、声を震わせながらそう言うとそのままカウンターを乗り越えて彼の腰元へとしがみ付いた。何とも演技らしい泣き真似をした後、魔理沙は彼の胸元に顔を擦り付けた。

 また、厄介なことになってしまったと思いつつも、彼は観念していた。早朝の霊夢のこともあったが、魔理沙も彼女と同じようにまだ子どもだ。特に、彼は霧雨店で修行した身でもあり、魔理沙の面倒を見たことがあるくらいだ。霊夢と出会ったきっかけも魔理沙であるし、今のところ一番付き合いが長いのは魔理沙か、親父さんであろう。赤ん坊の魔理沙の面倒を見ていたと言ったら、すぐさま箒の先で突かれるに違いない。本人は勿論知っているであろうが、そんなプライバシーを無視した、記憶を蒸し返すような真似をするつもりはない。昔は手に乗るようなサイズだったのが、今では体当たりで彼を押し倒せるほどに成長している。やはり、生粋の人間は成長が早いのだなと思いつつ、彼は優しく魔理沙の髪を撫でた。



 魔理沙はすぐに顔を上げ、そのまま風呂に入ってしまった。一体何を考えていたのか、彼が知る余地はなかったが、魔理沙の所為で傍に置いてあった本のカバーが折り曲がっていることに彼は苦笑いしていた。魔理沙は自分の意識に関係なく、あらゆる物を損傷させるのだから恐ろしいものである。

 ところで、どこぞの生意気で高貴な吸血鬼には妹がいるらしい。以前は紅魔館の地下室に幽閉されていたが、今は館の中をうろついているということを天狗の新聞で見たことがある。その妹の名は忘れてしまったが、その能力だけは確かに脳裏に焼きついている。『ありとあらゆる物を破壊する程度の能力』。道具の名と用途を識別する彼の能力とは打って変わって、戦うためだけにあるかのような能力である。何でも破壊することが出来るため、その危険さゆえに幽閉されているらしい。が、それは何故だろう。そんなことを言ってしまっては、紫は幽閉どころか賞金首同然である。それとも、ありとあらゆる物には具現化されている物質だけではないのだろうか。例えば、人の喜びや悲しみなども破壊してしまうのであるとすれば、それは一大事である。

 だが、彼女の能力はあらゆる物と称されている。本当に抽象的なことをも破壊することが出来るのなら、あらゆる概念を破壊する程度の能力と言われているはずだ。となると、彼女は情緒不安定が、感情的になりやすいのか、狂気に満ちているかのいずれかだろう。破壊衝動というものは善悪の彼岸だ。破壊衝動を起こす際には善行だの悪行だの判断する能力は乏しい。どんな些細な事件であれ、感情であれ、言葉であれ、物を破壊するには、人を殺すには充分すぎる理由なのだ。

 以前起こった六十年周期の大結界異変の根源の一つである、外の世界での大幅な人口減少。一瞬にして人口を減らすには老いを待っていては日が沈むどころか季節が戻ってきてしまう。だから、人を殺したのだ。外の世界でどのような背景があったのかは知らないが、その人殺しに起因しているのは些細なことだったのだろう。狂人が溢れ、互いに殺しあったのか、月面戦争のように大規模な諍いがあったのか、疫病に冒されたのか……真相は謎なので、破壊衝動が関与しているとは言い切れないが。

 それにしても、今日は薬を飲まされてから妙に脳が疼く。狂人、半人半妖といった言葉にどうしても反応してしまう。思い当たる節は投薬実験だが、これは一種の副作用だろうと判断し、彼は勝手に合理化してしまった。

 ガラガラと浴室から音が響き、魔理沙が相変わらずの格好で来ると思いきや、バスタオルは胸元までしっかりと巻かれていたが、いつもと違ってそそくさと襖の陰に隠れていってしまった。このまま、ここへ居つくことがなくなるといいのだが。

 魔理沙は寝巻きに着替えることはなく、いつもの服で姿を現した。濡れた髪を拭きながら、水滴を垂らす。

「そうだよ香霖、誘いに来たんだよ」
「何が言いたいのかさっぱりだな。曖昧すぎる」
「宴会だよ宴会。たまには来てみないかって霊夢が言ってさ。私がお酌をしてやるぜ?」
「君のお酌は要らないが……そうだな、たまには行ってみようか」

 三日坊主という言葉がある。外を出歩くのは今日を含めて三日しか続かないかもしれない。運悪く、宴会も三日に一度行われる。今日を逃すと、次の参加は未来の自分が拒むかもしれない。それに、長らく酒には口を付けていない気もする。本来、人で込み合ったり騒がしかったりする場所は好みではないのだが、また何か違う発見があるかもしれない。彼が宴会に参加すると表明すると、魔理沙は時間を伝え、つまみ食いに行くと言って香霖堂を出て行ってしまった。

 今日は三人もの新しい人物に出会った。そのことで、また何か宴会に関する見方が変わるかもしれない。宴会の始まる時間まで、手付かずの本でも読もうと、先程折り曲げられた本を手に取った。窓の外はまだまだ明るいものの、東の空は紫色をした妖しげな色をしていた。宴会の幕開けは日没。これから夕方に差しかかろうとしている中、幽霊のような涼しい風が彼の髪を撫でた。



                 Ж



 人里を抜け、すっかり廃れた道を歩く。今朝から晴天だった所為か、上空には無数の星屑が散りばめられている。夜道を歩くのは久しぶりだったので、どうにも目のなれていない彼は時々何もないところでつまずいたり、掠れた道を探すのに目を細くしたりしていた。目の先には明かりの灯った博麗神社が見えるというのに、彼は終始辺りを警戒している。執拗に物音を立てたり、定期的に周囲に首を回してみたり。それは勿論、妖精たちの悪戯を防ぐためだ。こんな真夜中を一人でうろつけば間違いなく悪戯の対象になってしまう。その対策の警戒でつまずいてしまっては本末転倒であるのかもしれないが。

 博麗神社の石段を登ると、既にどんちゃん騒ぎが始まっていた。上空を飛び回ったり、屋根の上で空を眺めたり、ひたすら飲み比べをしていたり、既に酔い潰れていたりと、それぞれが自由気ままに夜宴を楽しんでいた。

 着いたはいいものの、どうすればいいのか、彼の悩みどころであった。誘っておいて放っておくとはご法度である。が、運よく入り口の傍で魔理沙が横になって倒れていたので、そちらへと向かった。

 魔理沙は頬を赤くして地べたの上に寝転がっている。髪は乱れ気味で、頬を朱色に染めている。それでいて、酒臭い。お酌の約束はどうなったんだ、と言うより前に、また面倒を見なければいけないということが何よりの不安であり、恐怖だった。つまみ食いで潰れるとはどういうことだ。魔理沙を揺らしてみるも、むにゃむにゃと呟くだけで目を覚ます気配はまったくない。魔理沙は暫らく放っておくことにして、彼は魔理沙の傍を発った。介抱してあげてもよいのだが、泥酔状態には見えないし、介抱の途中で目を覚まされて変な勘違いでもされれば骨折り損だ。触らぬ魔理沙に魔砲なし、である。顔見知りはいないだろうかと周囲を見回す。見知った顔はあるものの、誰もかれもがお忙しいようだった。ふぅ、と溜息を吐き、適当に歩き回る。周囲の視線が、自分に集まっているかのような錯覚に陥る。これだから、人の込み合う場所は苦手なのだ。

「あら? 珍しい顔じゃない」

 横から飛んできたのはレミリアだった。体も未発達な幼女がこんな宴会に参加しているのかと思うとなんだか変な気分に陥る。レミリアは静かに足を下ろすと、いつものように腕を組んだ。偉そうで生意気、いつものことだ。

「寂しいわねぇ、一人?」
「誘われて来てみれば放置。お酌すると言った魔理沙は寝ているし」
「それじゃあ、私がお酌してあげようかしら」
「君には色々と変なものを盛られそうだな」

 レミリアは悪戯に笑うと、彼に手招きをして縁側まで誘導した。縁側付近は表の方と違って騒々しくなく、まるで、音のみを緩和させるような結界が張られているようだった。縁側にはぽつんと、咲夜が月を眺めていた。レミリアの姿を見るとにっこりと、彼の姿を見るとぎろりと。特に何か思い当たる節はないが、彼女のそういった態度には慣れている。どうということはない。咲夜の傍にはお猪口と小さな酒瓶が二本。咲夜の頬が赤みを帯びている辺りからして、少しは口にしたのだろう。

 ふと、咲夜の隣で誰かが肩を預けていた。少し顔を移動させて見ると、金髪の赤い服を着た少女が、いや、幼女が気持ち良さそうにぐっすりと眠っているのだった。背後にはそれぞれの色が異なる七つの宝石と思しき物が付いた何かがある。杖の一種か、鞭か、マジックアイテムか。レミリアが咲夜の隣に腰掛けると、彼女は自分の横をバンバンと叩いた。その仕草は催促というよりも、捉え方によっては強制や脅迫にしか見えない。彼が腰を下ろすと、一段落付いたかのようにレミリアは溜息を吐き、夜空を彩る月を眺めた。満月――ではなく、今宵の月は十六夜だった。

「ところで、十六夜の月って、衰退の象徴みたいよねぇ……」
「お嬢様……それは私への嫌がらせですか?」
「私は満月ってあまり好きじゃないのよね。欠如も欠陥も欠落もない……そういうのって嫌いなのよ、完璧っていうのが。なんだか、この世の物じゃないみたいな気がして。欠点がなきゃ、共存なんて言葉はないし、貴女だって必要ないわよ」

 満月は嫌い――そんな言葉を、彼は初めて聞いた。一般は満月を十五夜と呼び、大袈裟に言えば崇めているようなものだ。季節が来ればお月見というイベントもあり、満月とは、人間にとって太陽と対を成している。それでいて、満月の日は誰しもが持っている狂気を増幅させる。ルナティック、即ち、狂人に変える。増幅とはいうものの、増加量も微々たるもので、殆どの生物にめまぐるしいほどの変異はないのだが。目の前にいる吸血鬼はその狂気を浴びやすいと言われているが、同時に驚異的な力を得るとも言われている。それを、レミリアの妹とやらが得たと考えると、身の毛がよだつ。とはいえ、今まで大丈夫だったのだから大丈夫だろう、多分。

 自己哲学を披露したレミリアは満足げにふふんと笑うと、彼にお猪口を渡した。そういえば、お酌をするとか言っていたな、と思いつつ、彼はお猪口を差し出した。ちょろちょろと、酒瓶は震えながら酒を酌む。どう見ても不慣れである。

「ふぅ……お酌っていうのも面白くないわね。ただ酒を入れればいいって思っていたけど、何か不快ね。奉仕しているみたいで」
「君から言い出しておいて『不愉快だ』、はないだろう。何でも上下関係を意識するのはよくないな」

 そう愚痴を零しつつも、彼はお猪口に口を付ける。特有の匂いが鼻を突く。口を通ると、僅かに喉が痛み、胸が熱くなる。久しぶりに飲んだ所為か、アルコールの濃度が強い所為か、一瞬だけ景色が歪んだような気がした。レミリアはお酌を汲むのに飽きたようで、相変わらず月を眺めているので、彼は自分で酒を注ぐ。尤も、彼女に任せていたらずぶ濡れにされるだろう。

 突如、ピッ、プッといった金管楽器の音が鼓膜を小突いた。これから何か一発芸のお披露目でもあるのだろうか。

「もうちんどん屋の出番? 時っていうのは本当に一瞬なのね」
「ちんどん屋?」
「結構有名じゃない、騒霊のプリズムリバー三姉妹。皆が盛り上がってきた頃に始まって、ライブが終ったら宴会も終了、いつもの流れよ。言わば、宴会の時報ね。それじゃあ咲夜、フランの面倒お願いするわ」

 そう言うと、レミリアは空を飛んで宴会のど真ん中に突っ込んでいった。咲夜はレミリアに返答する前に、彼へと声を掛けた。

「店主も行ってきたら?」
「いや、僕はああいう喧しいのは好きじゃないから」
「結構静かで心に響くライブよ。私も結構好きだし」

 酒で気分が大らかになる宴会で静かなライブというのもミスマッチのような気がするが、彼女の誘いに乗ってみるのも悪くはない。ところで、咲夜の隣で寝ている子どもはフランという名なのか。レミリアの親友か、同族か。レミリアの知り合いなら、あまり関わりたくもないが。彼が縁側の廊下から腰を上げると、座れと暗示するかのように立ち眩みが襲った。が、彼はそんなもの気にも留めずに縁側に背を向けた。

 夜を照らす十六夜が、一際強い光を放っていた。



「霖之助さん、あっちのゴミ拾ってきて」

 彼は痛む腰を押さえながら、霊夢に指示されたほうへと向かう。ゴミの殆どは酒瓶やお猪口で、中には外の世界の物であろう、プラスチック状の器や容器も散乱している。まったく、どうしてこんなことをしているのか分からないが、この宴会に来たことは間違いなく失敗だった。ライブは確かに良いものであったが、人生観が一変しましたなんてこともなく、待っていたのは宴会の後始末だけだ。博麗神社は意外と広く、これを毎日掃除している霊夢には感心するが、掃除に慣れていない彼にとってはこの上なく辛い。

 宴会の後とは実に寂しいもので、先程まであった騒々しさが嘘のようになる。酒瓶や瓢箪は全て空になり、もう何にも残ってはいない。宴会や祭りの終った空しさというのも、また感慨深い。酔いが回って騒ぎ立てるよりも、物事が終った静けさの方が彼にとっては心地良い。

 次々に、霊夢はゴミ拾いの指示を続ける。とはいえ、一番働いているのは霊夢本人であって、彼の二倍近くの速さで作業を終えている。魔理沙は未だに寝たきりだし、やはり、宴会に来て失敗だったかなと彼は溜息を吐いた。

 やっとのことで始末を終え、彼はひとまず魔理沙を抱えて神社の中へ連れ込んだ。すっかり酔いが回っているのか、いびきをかいて眠っている。四肢は人形のように力なく垂れ下がり、服を乱しておまけに土埃を被っている。霊夢と彼は彼魔理沙の服をはたき、畳の上に寝かせつけた。やはり、汚れた体で布団には入るなということか。このまま帰ろうかと思ったものの、暫らく休んでいったらどうかと霊夢に言われ、差し出されたお茶を啜った。二人で縁側に腰掛け、霊夢は宙を見つめながらお茶を啜る。

 彼の隣に映る彼女はとても神秘的なものだった。

 宴会で盛り上がった所為か、いつも結んであるはずのリボンが解け、その長い紙が廊下の上にへたり込んでいて、十六夜の月光を吸収するが如く異様な光沢を放っている。十六夜の月に照らされるのは髪だけでなく、その表情から肌まで、まるで、月明かりと一体化しているとさえ言ってもいいほどだった。この上なく謎の魅力を発する彼女に恍惚としていると、嘲笑いが聞こえた。

「なによ、じろじろ見て」
「あぁ、いや……済まない」

 彼は苦笑いと眼鏡を掛け直し、咄嗟に誤魔化してみた。

「――最近ね、何か変なのよ」
「変?」
「そ。無気力になったかと思ったら、狂ったみたいに何かに没頭して。特に、独りでいるときにね」

 それは思い悩んでいるのか、冗談めいているのか、何かを訴えているのか――彼には理解できなかった。

「そんなのは簡単じゃないか、独りでいなければいい」
「それじゃあ、霖之助さんの家で暮らしていい?」

 それは困る、と言うと、霊夢は笑いながらも儚げに、空虚な表情を見せた。

「独立っていうのは難しいわね」
「君はすっかり独立しているじゃないか」
「全然駄目よ。一人でいたって辛いだけだし、暇だし、面白くないし……自分一人じゃ何も出来でいないわよ」

 霊夢は何か勘違いをしているのかもしれない。誰の助けも受け付けず、何でもかんでも一人で解決する、抱え込む――そういうのは独立ではなく、ただの孤立だ。独立と言うものは自分自身を尊重しつつ、それが過度にならないようにすることだ。月が完全な形を維持し続けることが出来ないように、完全である生き物は存在しない。何の助力もなく、独立することなど不可能、いや、それら助力は縁の下の力持ちであり、独立する生き物の最低条件だ。

「そういうのは孤立って言うんだよ」
「そうかもね……でも寧ろ、孤立しなくちゃいけないのよ、私は」

 霊夢は自らの髪を撫で、湯飲みを傍に置く。

「どこにも属せないのよ、巫女っていうのは。親しくなりすぎれば情が宿るし、露骨に避ければ信用が薄まるし。――霖之助さんもそうよね? 近づきすぎず離れすぎず、そうでしょ?」
「その通り。特別な存在というのはどこでも苦労するものじゃないかな」
「そうね……でも、ふと思うのよね。どこにも属せないなら、とことん自我を通そうって。回りの意見なんて全部無視して、自分だけの思い通り生きて――変人になろうかなって」

 変人って言うと何か下劣な感じね、と笑い、空になった湯飲みをコツコツ弾く。

「変な人って言われて、それで偉大な人になるのよ。先代の巫女だってやってのけなかったような偉業をしてみせるのよ。どう? 素敵だと思わない?」

 偉業を成し遂げると言っているが、霊夢は既に博麗大結界を築き、同時にスペルカードルールを設け、更には数々の異変を全て鎮めている。霊夢のひとつ前の代なんて、異変は一つもなかったし、ただ悪行を働く妖怪を成敗していただけだ。彼女は幻想郷の歴史の有名どころでも、五本の指に入る人物であることは間違いないだろう。それだと言うのに、霊夢はまだ何にも満足していないように見える。これ以上、一体何をするというのか。地下都市でも築き上げるのか、はたまた冥界や天界への階段を設けるのか。彼女なら、それくらいのことをしても満足しそうではない。狂人となって、偉人となって、これ以上何を望むのか。神にでもなろうと言うのか――彼女なら笑って頷くかもしれない。

 霊夢は博麗の巫女として、今まで誰からも浮いてきたのだ。多少の差はあれど、それは誰しもに均一で、表裏がなく、友人と犬猿の間の付き合いを保ってきた。

「歴史を動かすのに、狂いは必要なのよ――ねぇ、霖之助さんも狂ってみない?」
「その一言だけ聞くと何かの犯行声明みたいだな」
「釣れないわ……」

 彼はもう自覚していた。自分は人間ではないことに。妖怪と人間の共存など、かつては夢のまた夢だった。そんな発言をすれば、狂人どころか相手の肩を持ったとみなされて酷い目に遭った。それが当然だったというのに、今では共存も受け入れられている。もう昔の人間は息絶え、今は妖怪との共存を目指す人々で溢れかえっている。昔の人妖の関わりを信じている者はそう多くはいないだろう。

 そんな中、彼は唯一と言ってもいい生き残りだ。それでいて、かつては概念すら存在しなかった半人半妖である。当時の人妖の睨み合いや憎しみ合いは彼が誰よりも良く知っている。どちらの要素を持っているがために、どちらにも属せない。孤立だった。

 歴史を生み出すのは狂人――その通りだ。

 彼がお茶を飲み終えると、霊夢は腰を上げてゆっくりと立ち上がった。

「今日はもう遅いし、泊まっていく?」
「そうだな……そうしよう」
「それじゃあ、今までのツケは全部チャラってことで」

 あぁ、やっぱり霊夢は変な奴だなぁ、と思いつつも、霖之助は苦笑を浮かべた。



                     Ж



 今朝は朝から大雨だった。それなのにも関わらず、魔理沙はわざわざずぶ濡れで店内に入り込んできた。まったく、暇つぶしに来たのならさっさと帰ってほしいものだ。僕だって毎日が暇なわけじゃないし、その格好で畳みに上がられた日には目も当てられない。霊夢は奥の部屋で、縁側の方向へずっと雨を眺めている。昨夜は大して大量の酒を飲まなかった為か、霊夢も僕もあれは軽い睡眠薬の代わりになったようだった。そしてどういう訳か、今朝は朝早くに目覚め、そのまま自宅へと戻ってきたのだが、霊夢がちょこちょことくっ付いてきたのだ。大した迷惑ではないが、やはり、お茶を飲みに来るというのはどこか図々しい気がする。

「そういや香霖、さっきから何書いてんだ?」
「日記だよ、日記」
「日記? 止めたんじゃなかったか?」

 今思い返せば、以前までの日記はただ単に一日の生活を書き並べた、いわゆる文字書きの練習同然だった。当然、三日坊主のように飽き飽きしてしまい、字の練習帳はどこかにしまってあるはずだ。

 だが、これはただの日記とは違う。というよりも、日記とは根本的にずれている。どちらかというと、自らの体験談を語る随想だ。要するに、僕は今小説を書いている。小説と言っても、昔の自分を題材にしたもの。阿求には日記を渡すと言ったが、あんなくだらないものを見せたって仕方がないと判断したのだ。それなら、小説でも書いて彼女に渡したほうがずっといい。

「まったく、変な奴だぜ」

 横目に見える霊夢が、クスリと笑っているのが見えた。霊夢はこれからも、孤立を続けるのだろう。それを考えると、昔の自分のこともなんだか軽く受け止められるようになっていた。幸い、昨日の薬が効いているのか、頭痛はなく、寧ろ、その記憶を綿のような柔らかい何かが抱擁しているようにも感じられた。

 僕も霊夢と同じように、孤立を続けるのだろうか。人間と妖怪の共存が可能になった今、どちらの輪に入ることも出来る。逆に、霊夢のようにどちらにも属せないと言い張ることも出来る。将来、自分がどうなるかなんて分からない。分かるはずもないし、分かりたくもない。ただ、今は自分の責を全うしよう。



 半人半妖として、歴史を刻むために。











                                                     了
71093-22287=48806字
計51194字

ど う も す み ま せ ん
十万字目標っていたのはどこのどいつだよ……俺の馬鹿……。
それ以前にプロットが不完全であるという最悪の状況だったため、どうも納得いかないんですよ。プロットがぼやけたままだと書くのが辛くなってくると聞いたことはありますが正にその通り……身を通して痛感。未熟者が立てるにはでかすぎる目標でした……結局半分かよ……。
そのことも起因しているのか、執筆中に限って電波受信やら題材になり得るフレーズに敏感になるものだから困ったものです。

一話からここまで書いて自分の感想を述べるとすると、第一に中途半端、第二にキャラの使い捨て、香霖堂分の不足。この三つは痛い。
こうやって読み返すと幽々子の存在意義はあったのかなかったのか、という疑問にぶち当たりますし。原作は本当に短くて会話が多い所為か、不思議な掛け合いが多いのですが……でも、原作はショートショートだからこそ栄えるんですよね。原作であの長編香霖堂小説が出来ても、それは香霖堂の雰囲気は出せないと思います。べ、別に香霖堂らしさを出せなかった言い訳j(ry

それはともかく、ここまで読んでくれた人に感謝、瀟洒、従者。
やっぱりコメントが欲しいなー、フリーレスでも。得点は一切いらん! って言い切れる勇気も技量もありませんがね。

余談

人によっては嫌悪を示すかもしれませんが、文章力やモチベーションだけなら偽朋が群を抜いているんですよね。単純に、自分はどろどろの人間関係が好きなのかなと思っていたら、偽朋執筆中は貪るように本を読んでいた時期だったんですよね。実は偽朋の題材もある程度抽出していたり。やっぱり、一流作家の本は見ていて勉強にもなるし面白いんですよね。本当に余計なお世話ですけど、お金に余裕があって暇な方は『黒冷水』っていう本読んでみるといいです。まぁ、「面白くなかったぞ! 俺の金返せ!」とか言われても責任は負いませんけど。
今はまた大量の本を購入したから実はもう次回作の見定めは出来ていたり。
次は偽朋で散々な目に遭った文霖で書こうかなと思ってます。
CO2
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コメント



0.2430簡易評価
4.100名前が無い程度の能力削除
この三作品、とても楽しく読ませていただきました。原作風味の感じがとても良かったです。
霖之助とキャラのかかわり合いがとても読みやすく面白かったです。
次回作楽しみにしています。ノシ
7.100煉獄削除
ただ一言で表すのなら面白かったです!
店での場面や鈴仙とのやりとりなど、その場面ごとに色々なことがあって。
紫と幽々子とのやりとりも面白かったですしリンノスケ(漢字で”りん”が出ないので)の考えも良かったです。
最後、彼の日記はどのような作品に仕上がるのでしょうね・・・。
10.90名前が無い程度の能力削除
なかなか味のある話でした 
11.100名前が無い程度の能力削除
面白かったです!!事在るごとにキバヤシ化する所と言い、最強匠の技フラグクラッシュと言いw
しんみりとニマニマと考察が交互にやってきて実に楽しませていただきました。
キャラの使い捨てと書かれていますが原作の桜の話でも似た事やってたし、私はやたらとフラグを折るのは
原作霖之助の味みたいなものかと;;またその朴念仁ぶりが愛しくもあったり。
月の話はもう少し見たかった気もしますが、この作品は霖之助の考察をニヤニヤ眺めて楽しむ香霖堂
的な話だし、ある程度は考察するけど最終的に分らない事は考えない霖之助の淡々とした思考が
表されていて、それが逆に良かったです。これから前作と併せてガッツリ熟読させて頂きます!
12.100名前が無い程度の能力削除
霖之助の思考が実に良いですな、興味深い
次回作も期待しています
16.90名前が無い程度の能力削除
淡々として、味のある作品ですな。

こーりんのこういう生き方には憧れる

頭悪く言えば、こーりん、そこを代われ。
20.100名前が無い程度の能力削除
霖之助の霖之助による霖之助のための世界考察も原作っぽくてよかったですが……

こーりんどんだけフラグクラッシャーなんだよ!
これもう一度最初から読み直すと選択肢とか出てきませんかね
25.70名前が無い程度の能力削除
面白かったです。
創想話の仕様だと、もう少し改行入れたほうが、個人的には読みやすいと思います。
ワイド型のディスプレイ使ってるせいもあるんですが、そこが非常に読みにくい。


後書きに突っかかるようで申し訳ないが、偽朋のあとにその組み合わせの作品は……ちょっと色々勘繰ってしまうな……。
29.無評価名前ガの兎削除
自虐はいらん、もっと読ませろ。

確かに1文が長く改行が無い、それで読みにくい。ってのはあるけどさ。
面白いのに自虐する必要があるのか。
フリーレスなのは後書きを読んだから、こうすれば もっと 面白い話が量産されたりするのかな なんて思ったり。
技量はあるよ!勇気も持っていいと思うよ!ご馳走様でした。
32.50名前が無い程度の能力削除
文章力あるし、原作の雰囲気も出せてるし、それでいてキャラクター独自の個性も出せてて、そのキャラ達が織り成すドラマも様々な面白味と要素があったと思います。
ただ、原作(香霖堂)からしてそうなんだけど、サプライズというか印象に残るようなインパクトのあるエピソードや場面もあったほうが個人的には良かったかな。
連作としての全体の出来に個人的な好みをプラスすると80~90点くらいなんですけど、目標文字数の約半分ということで、あえてこの点数とさせていただきます。
35.80名前が無い程度の能力削除
毎度のことながら一つの読み物としては面白かった。
一作目から追ってきて全体でどんな物語になるか期待していたので打ち切り?になり、ただ面白かっただけで終わったのが残念至極
指摘しようと思った点はあとがきで既に書いてあったので省略
39.100名前が無い程度の能力削除
面白かった。やっぱこの雰囲気が好きだ。
霖之助の考察がいいね。
44.100名前が無い程度の能力削除
10万文字とか自分にプレッシャー掛ける必要はなかったと思う
私は正直に小説としておもしろかったと言う
48.70名前が無い程度の能力削除
面白かったですよ
ただ他の人も言ってますが、改行がないので
少し読みづらいです

それと博麗大結界が作られたのは霊夢が生まれる前ですよ
55.80名前が無い程度の能力削除
おk。とりあえずこーりんころす

旗折り職人にもほどがある
57.100名前が無い程度の能力削除
こーりん!こーりん!
62.100名前が無い程度の能力削除
イイヨイイヨー
10万文字いかなかったのは残念だが、たのしかったです。
後、少女たちかなりデレてんのに…w