桜は葉桜。葉は緑。
生き物も死に物も、足元から猪口冷糖になって溶けていきそうな暑い日のこと。
私は、頼りなさ過ぎる鉄の風鈴の音を聞き流しながら座卓に突っ伏している。顔を横に向けて、薄暗い居間から、日照で馬鹿みたいに明るい外をずっと眺めていた。
参拝者はいつものようになく、高台にあるせいで境内は焼場の炉めいて暑い。何故私はここに居るんだろう? と疑問に感じてしまうのが毎年この時期だった。まあ離れないけれど。
ぐったりとして動けず、時間だけが過ぎていき、正午を回った頃だったろうか。背後のふすまが突然、すう――と開かれる。吃驚して振り返ると、そこに、何か白いものを大事そうに抱えた紫が物も言わずに立っていた。
「だから玄関から入って来なさいと――」
「無縁塚で泣いていたの」
しかし、彼女は私のことはおかまいなしといった風情で微笑んでみせ、持っているなにかをこちらに差し出すようにした。
文句を言いかけていた私は、彼女の腕の中のものを見る。
「……」
それは、まだ男か女かも判然としない赤ん坊だった。柔らかそうな布にくるまれて静かに眠っている。
「珍品ねぇ。で、わざわざあんたが連れてきたってことは……」
「無論、こちらの子ではないわ」
私は驚きを見せなかったと思う。
「あんたが引っ張り込んだのじゃないでしょうね」
「引っ張り込む、って何のことかよく判りませんけど」
紫はとぼけながら、何処からともなく、一見して外の世界のものと判る変な形の乳母車と、薄い封筒を出して畳に並べてみせた。それらごと置き去りにされていたということらしい。
――封筒に入っている手紙に興味はない。
私はまた訊いた。
「それで、私にどうしろっていうの?」
「ええ。消費期限って一日か二日くらいだと思うので、それまでに、ちゃんとした保存場所を探してもらおうかと」
彼女は何故か嬉々として答える。
「意味が、わからないんだけど……。そりゃ今の時期、消費期限なんか何でも短いでしょうけど」
「ほら、私も手伝いますし」
「手伝う手伝わないというか、あんたに視界に入って欲しくないのよ」
里にもね、と私は反射的に言い返した。
こいつが言っているのは、二日以内に私が里親を見つけてあげられなければ、この子を攫って行って食べてしまうということなのだろうとそこで気づいたのだ。
「というか、狐の方を寄越しなさい。あんたじゃちっとも話にならないわ」
「あの子にはほつれを探してもらっているの。何日か、かかるんじゃないかしら?」
――担当する仕事が逆だ、と思う。里に出入りし慣れているのはあの藍の方だろうし、昼にこいつが起きてくるのもおかしかった。
何故今回に限ってこういう分担なのだろう……と考えようとして、止した。こいつのために頭を使うのが癪だった。
そして『消費期限』というのは、赤ん坊を放置して生きていられる日数のことを指してもいるのだろうとふと気づく。妖怪は基本的に、食べるにあたって生きの良い人間が好きだからだ。
感じ慣れた不快を覚えながら私は訊く。
「こんな小さいのを食料に加えたって、仕方ないと思わない? 腹八分目にもならなそうじゃないの」
「赤ん坊はよく護られているので珍味らしく。しかもこれは、まだ里の人間ではない。でも、こちらに住むことになったら勿論食料にはしない。そして、私が見つけなければ、消えていた命」
予備軍なのよ、と彼女は貼り付けたような笑みを崩さず話す。
「まだ、死にたがっているのか、生きたがっているのか判らないでしょ? だからいちおう人質にして、様子を見ようと」
機運と人徳、と付け加える。
支離滅裂としているが、言いたいことは(多分)大体判った。
おそらく紫は、この赤ん坊が幻想郷に馴染むことが出来るかどうかを、ここで確かめるつもりなのだ。
こいつごときにそんな権利があるのか問いたくなったけれど……まあいいや。
あまり興味がない。そんな問答をしている間にも、時間は過ぎていってしまい、期限は迫って来る。あんまり遊びではないのだから、やると言ったらこいつはやるだろう。
「ああそう……」と嫌ったらしく答えて私は立ち上がる。紫から慎重に赤ん坊を受け取り、汗を拭いてやった。顔を覗き込んでみれば、幸い今は静かに眠っている。
何故私のところを選んで来たのかと改めて訊こうとして――止した。
そう問うことは、この赤ん坊を見捨てて責任を負いたくないと言っているのと変わりがないと思えたからだ。それに、無論あいつらなら協力してくれるだろうけど……この場合、魔理沙や霖之助さんや、咲夜の所へ赴く紫の姿は、ちょっと想像出来ない。
「ともかく、判ったわ。じゃあもう今から探しに行ってくる」
私は観念してそう答え、一旦赤ん坊を紫に渡すと、井戸へ濡れ布をつくりに出た。この炎天下を外出するのだ。何も気を使わなければ、私はいいが、最悪彼(彼女?)は死んでしまうだろう。
汲み上げた水で手ぬぐいを濡らしながら、しれっと背後に立っている紫に対し、私はそちらを見ずに訊いた。
「それで、あんたも来るのね」
「だから、お手伝いするって言ったじゃない。嫌?」
「常にあまりよろしくない」
嘆息する。
何故って、『ついて行かない』と約束させることに、こいつほど無意味な奴はいない。いや、紫がついて来るか否かはどうでもいいのだが、里の人が驚かないかが心配だった。
それに、一日や二日で里親が見つかるかどうかなんて全く見当がつかない。だから私は、期限が迫る頃になったら、スペル戦で紫をねじ伏せてしまうしかないなとすぐに考えた。
ああ、なんだろう、この……最初から追い詰められている感覚は。引き取り手がないだけならともかく、最悪、自分の負けでこの赤ん坊が食料になってしまったら、それ以上夢見の悪いものはないだろう。
それに、この子をいくら結界で囲ったところで、紫はまずそれを掻い潜ってくる。
思わず目頭を抑えたくなる。
一瞬にして憂鬱になったからだ。
つらつら思っていると、背後に立っている彼女がくすりと笑った。
「本当に追い詰められているのは、霊夢なんかじゃないというのに」
――私は結局後ろを振り返らなかったが、
何故か、微笑む紫の口元だけを、頭の中に思い浮かべていた。
◆
「井戸端か、カフェー」
歩いて獣道を下り、里の入り口に至ったときに、紫がぽつりと呟いた。
「ん?」
「貰い手の居そうなところに、決まってるでしょう。貴女、何も考えずにここまで来たの?」
「いや、考えてはいたけどねぇ」
しかし、子供――赤ん坊が欲しそうな人が何処にいるのかなんて、さっぱり見当もつかなかったのだ。
私がそう答えると、紫は、貴女本当に女なの? と訳のわからないことを訊いてきた。
「女の子にしか、見えないでしょうに」
「そんなの、どっちだっていいですわ」
私は彼女の言動の矛盾を受け流すことにしている。
「井戸端はなんとなく判るけど……なんでカフェー?」
この子には珈琲が好きになる予定でも組まれてるのかしら? と、私は腕の中の赤ん坊に目をやりながら訊いた。丸い瞳にまじまじと見つめ返される。
紫は私の問いに首を振る。
「様々あるでしょ。明るい内にテラスでお茶を楽しむばかりが、『カフェー』ではないわ」
「あー……」
そっちか……と思った。
確かに、夜間営業しかしないカフェーもあると聞く。そもそもお店が何処に建っているのか判らないし、繁盛しているのかも洋として知れないが、飲食以外に、何故か厚化粧の女給さんが接待してくれるお店があるらしいと聞いたことがある。
「んん、でも……それだって微妙のような」
「なにがどう?」
紫は獣の剥製みたく、目を見開いたまま小首を傾げる。
「確かに女の人は沢山いるでしょうけど……、それだけで?」
「ええ」
「本当にそれだけで?」
決まっているじゃないの、と、紫はますますとぼけたような変な顔をした。
他に何があるのだろうかという風に、全然疑問を抱いていなさそうな様子だった。
やがて東の長屋に至る。
赤錆びた手押しポンプがある水汲み場の庇(ひさし)の陰で、お母さん勢がたむろして話し込んでいた。彼女達はそれぞれ、長話に飽きた様子の子供に手を引っ張られては、話し相手と視線を合わせたままそれを無視し、元の位置に戻るを繰り返している。
その様子を、力の弱り果てた磁石同士みたいだなんて思いながら眺めていると、その中に知っている顔を見つけることが出来た。太っちょの女の人。この長屋の大家さんだ。
「おばさん、こんにちは」
私が声をかけると、大家さんはびっくりしたような機敏な動きでこちらを向き、
「あら霊夢ちゃん。こんにちは」
それから鷹揚そうに微笑んだ。ころころ顔を変えながら彼女は喋る。
「まあ、赤ちゃんなんか抱いてどうしたの? どっかから預かった子? それでそちらのお嬢さんはどなた?」
「これは知り合いの妖怪、当然お嬢さんなんて歳じゃないわ。こいつとで、この赤ん坊の里親を探しているの。外の子供らしくって」
私は考え考え伝える。この人は大抵訊きたいことを一気に尋ねてくるのでちょっと困る。
大家さんは「あら妖怪の方なのね? 初めまして」と紫に短く挨拶を交わしてから、私の方を向いて再び訊く。
「でもなんで里親探しなんかしてるの? 外の子なんだったら、外の世界に帰してあげればいいんじゃないの?」
よくわからないけど、霊夢ちゃんなら出来るんじゃなかったかしら、と大家さんは言う。
「それは、意味がないのです」
そこで、紫が話に割り込んできた。私は首を捻ってあいつの方を見る。
「その子供はどうやら、捨て子ですから。帰してあげることは出来ますが、赤ん坊な以上、外だろうと内だろうと条件は一緒ですし。――なので、外の世界で里親を探すか、こちらで探すか、誰かが考えて決めねばならなかったのです」
大家さんは首を傾げる。
「貴女がその子を見つけられたの? それで、こっちで里親探しをした方が良いと思われたのかしら?」
「そうですわ。単なる独断。それで、霊夢の方が里に顔が利くので、依頼しました」
協力も一応してますが、と面白そうに付け足す。
大家さんは何故か微笑んだ。
「変な妖怪さんねぇ」
「そうでしょうか?」
紫も微笑み返して訊くが、大家さんはそれ以上の詮索を止したようだ。
そう、確かに……生まれたばかりの赤ん坊が親に捨てられるということは、誰かに気づかれない限り、その世界から見放されたのと同じことだ。霖之助さん曰く“思い”のないものは、境界を越えてくる。きっとそういうことなのだろう。だから紫が言ったとおり、見つけた人間がその子の処遇を考えてやらねばならない。生かすにせよ殺すにせよ……だ。
まあ、でも、里親探しを手伝っているとはいえ、紫に人の情はないとも思う。結局喰うとか言っているし、上げて最悪、落とされるのだから、そっちの方が余程たちが悪いだろう。
けれど、期限が来たらこの子が食料になるという話は、里の人には黙っていようとも考えた。
そう急かしてしまったら、きっと無理をして里親に名乗り出る人が現れるだろうから。そんな引き取られ方は何か間違っていると思うし、それにまだ、紫を叩きのめすなり、その子を神社に引き取るなりという方法も現実的に残っている。
「そんなわけなのよ」
総括し、私は改めて大家さんに言った。
「この長屋に、貰い手になってくれそうな人って居ない?」
「ええ、ちょっと訊いてみるわね」
ちょっとは考えても良さそうなものなのだが、大家さんの判断は素早かった。
水汲み場のそばに居るお母さんたちの顔を見回してから、そこに居るみんなに首を振られ、目ぼしい人が居ないと判ると、小走りで長屋の中に入っていってしまう。きっと名簿か何かを確認しに行ったのだろう。
呆気に取られていると、腕の中の赤ん坊が突然泣き出した。いや、泣くのなんていつも突然なんだろうけど――
「わ、わ……どうしたらいいのこれ!?」
私は泡を食って紫の方を見た。
だが彼女は、澄み渡った皐月の空みたく爽やかに微笑んで言う。
「よくよく考えてみたら、霊夢に抱かれているのが不快だったことに、やっと気づいたんじゃないのかしら」
いっそ清々しいまでの役立たず……! というか不快ってなによ。
目を泳がせていると、別の女の人が赤ん坊を私の手からもぎ取って、「ともかく中に」と指示しながら早足で長屋に入って行ってしまう。天狗のような素早さだった。
私は一も二もなく慌ててそれに続く。
紫は、私の後をゆっくりとついて来るようだった。
「お腹が空いてたみたいだわ」
哺乳瓶を赤ん坊にくわえさせているおばさんが、微笑ましげに目を細めながら言った。
赤ん坊はすごい勢いで力強く粉ミルクを吸い込んでいく。お腹がはちきれないんだろうか……と心配になりながら見ていると、
「ピラルクーみたい。霊夢の顔」
そう紫が言った。
「なにそれ……」
「初乳を与えられていると、いいのですけどね」
しかし彼女は、首を捻る私をさくさくと無視する。
「そうなのよねぇ」
おばさんが心配げに言う。
「外の子って、なんだか抵抗力なさそうな感じがするものね」
だが紫は、小首を傾げる。
「ううん……それは実際、どちらとも判りませんけれど。親が、無駄に、滋養のあるものだけは口にしているでしょうし」
「……。へぇ、貴女なんだか、外の世界のことに詳しいみたいね?」
「ええ。先日まで、外で暮らしておりまして。つい最近越して来たばかりなのです」
紫は、相手が自分を知らないと思って、呼吸をするように嘘をついている。いや、まあ、まるっきり嘘という訳でもないのかもしれないけれど……。そう指摘して、おばさん達が紫の正体を知ることになれば、場の混乱を招くだろうと考え黙っていた。
それからしばらく、三人して食事中の赤ん坊をじっと眺めていた。
一心に哺乳瓶にかぶりつく彼(彼女?)を見ていると、その、私は何故かにやにやしてしまう。無意識にその温泉饅頭みたいなほっぺたに手を伸ばそうとして――ミルクが口から出ちゃうからやめてねと、おばさんに止められた。うわ、何で動いたんだろうこの手は……魔性のほっぺただ。
紫はと言えば、何もせずただぼんやりとそこに居るだけだった。赤ん坊を見てはいるが、他のことに思考を割いているように見えた。
やがておばさんが、ああそうだ、と何かに気づいたように声を上げた。
「霊夢ちゃん、赤ちゃん触ったことないでしょう」
「あるわよ。今日も触ったし」
「いやそういうことじゃなくって。扱いを知らないでしょって言ってるのよ」
「それは全然知らないわ?」
当たり前じゃない、と私が言うと、何故か溜息をつかれてしまった。紫はおばさんの横でにやにやしている。
結局その後、おしめの替え方やら何やら、一通りの手ほどきを受けることになってしまった。その途中で赤ん坊は男の子であることが判ったが、このことだけは、貰い手を探す前に確認すべきだったな……とそこそこ反省した。
その後、大家さんが部屋に入って来て、ここでは貰い手がつかないということを残念そうに教えてくれた。
「ごめんなさいね、お役に立てなくて」
「ううん、有難う」
そうそう簡単に見つかる訳はないと思っていたが……大家さんが少々落ち込んだ様子なのを見ていると、落胆が二倍に膨れそうだった。
「今日はそこそこ暇だから、ご近所にもあたってみるわ」
「ええ、是非、宜しくお願いいたします」
助かりますわ、と紫が不必要に愛想良く笑い、私達は長屋を後にした。
◆
夜になった。
長屋を回った後、裕福そうな人間の邸宅へも押し掛けたりしてみたが、それでもまだ探し方が足らないようだった。
それだから、霊夢は若干嫌そうにうかがえた(無理もないことである)が、結局、私たちは予定通りカフェーまで足を運ぶ事にした。
其処は、女性の店員に給仕させる程度の可愛いお店で、あからさまに色を売るようなことはしていないが、れっきとした風俗店である。
レトロともモダンともつかない、店の入り口をアーチ型にかたどったこぢんまりとした洋式建築が見えてきた。店の前には客を見送る華美な格好の二人の女給の姿があって、去って行く着流し姿の恰幅の良い男に向かってしなやかに手を振っている。
「ここなの?」
薄闇と雑踏の中、霊夢が目を擦りながら訊いてきた。
彼女から赤ん坊を預かりながら、私は答える。
「そう、ここ。お客のチップかお給金か判らないけれど、一人一人、普通の奥方より収入があるでしょう」
「お金があるからって……。それが子供を貰ってくれるかどうかと、関係あるかしら」
昼に会った地主のことを言っているのだろう。霊夢は明らかに訝っていた。
「さあ。それは、私にとっては、実際興味のないこと。尻込みしている内にこの子供が妖怪の食卓にのぼることになってしまうのも、全てが全て貴女のせい」
「興味ないって……。じゃああんた、何で私を手伝ってるのよ」
「気まぐれではありませんわ」
そう、そもそもこの世に気まぐれなどというものはないからだ。それは客観的な視点からの物言いでしかなく、主観としては、自覚していることのみが理由である、と決めてしまうことは奇怪(おか)しい。
私は店の中に入りかけた娘たちを呼び止めた。
「もし、そこのお嬢さん方」
「はい?」
振り向いてから、彼女たちは揃って変な顔をした。恐らく口調が奇怪しく聞こえている。私が妖怪だと判っていないのだろう。
しかし気にせずに続けた。
「唐突で申し訳ないのですが。店主の方に会わせていただけないかしら?」
「あら、女給募集の看板見てきたひと?」
彼女たちは上から下にじろじろと私を見た。しかし、腕の中の赤ん坊が気にされていないのが面白い。子供を抱えてやって来る希望者が多いのかもしれない。
「違うわよ」
そこで霊夢が口を挟んできた。
「そいつが抱えてる赤ん坊の、里親になってくれそうな人を探してるの」
「あら? 妖怪神社の巫女ちゃんじゃないの」
「妖怪神社ではない」
霊夢はむすくれながら答える。
だが女給達は、ころころと笑うばかりだ。
「知ってますわ。八坂様の分社には、お参りしたもの。霊夢ちゃんその時、寝てたけどね?」
「その日に限って本社は開店休業中だったのよ、きっと」
霊夢の減らず口に、何が可笑しいのかあははと黄色い声を上げると、女給の彼女は、まあともかく、と頬に手を当てながら云う。
「なんか野暮なことみたいね。今店長呼んで来てあげるから、ちょっと待ってなさいな」
「助かりますわ」
話の早い子たちだ、と思う。働く内に培ったケーススタディがあるのか、純粋に頭の回転が早いのか……。或いは、店主なら話をすぐに纏めてくれると、信頼しているのだろう。
彼女たちが引っ込んでから、一刻と待たずに店主の男が現れた。
「やあどうも、こんばんは。……って、あー」
彼は咥えていた煙草を口から外して、じろじろと私を眺めた。
「八雲紫さんじゃないすか。どうなさったので? 里親とかなんとか」
しかし半分納得のいったような顔だ。彼は、稗田家の纏めた資料を読んだことのある人間らしい。
里に入って以降、私の顔を知っている人間と知らない人間がいた。ただ、私の正体を知っている人間の反応は、過剰なものではなかった。それはひとえに、私が何を考えているのか判りづらいせいだと思われる。ことを構えたくないのだろう。それは正しい反応だ。私自身も、自分自身が何を考えているかなんてよく判らないのだから。
そう、それに、賢者――偉い人――だと他人から聞いたからと云って、それが真実であったとしても、無条件に敬うことは愚行だと私は思う。それは本人と実際に相対してから判断するのが適切だ。それに何より、こちらとしては、人間に退け腰になられたのでは『ちょっと里まで脚を伸ばして呑む』……といったことがやりにくくなるだろうから、基本的に尊敬されるのは面倒くさい。遠巻きにされながら一人で呑んだって楽しくは無い。
ってあれ? 敬遠されても嫌われても、遠巻きにされるのは変わりないような。
まあいいか。
つらつら考えてから、私は、私を煙たがっていそうでも、私を見て退け腰になっていそうでもない店主に微笑みかけた。
「こんばんは。――実は、この子供……」
かくかくしかじか伝えると、彼は視線を右上に遣りながら、また「あー」と言った。口癖なんだろうか。
「何か面倒くさいっすねえ。まあ、中上がってちょっと待っててもらえます? 脈ありそうな子に声かけてみますから」
「御手数おかけします」
私達二人を店の中に通してから、店主は丁寧に扉を閉める。それから、三段跳びのような足取りで、緋色のランプの明かりだけの薄暗い店内を突っ切って何処かへ行ってしまった。
少し疲れたらしい霊夢は、それを見送りながら、壁にもたれてずるずるとだらしなく床に座り込んだ。
女給達はちらちらとこちらを伺っていたが、誰もやって来ない。霊夢の顔は誰しも知っている筈だが、当然忙しいのだろう。
「こんな所に赤ん坊抱えて居るなんて、なんか変な感じよねぇ……」
霊夢が、ざわついているホールの様子を眺めながらぼんやりと言った。
「今にもゲシュタルト崩壊を起こしそうかしら」
「何かタルトが食べたくなってきた……メニューにないかしら? というかなに法界ですって?」
貴女は仏教徒じゃないでしょうに、と私は突っ込んでおく。
「まぁ、この場合に限って言えば、霊夢が井蛙(せいあ)だということ。実際、何も、不思議なことはないわ」
「……。私の歳で盛り場を知らなくたって、なんにも問題ないと思うけど」
それは否だと私は思う。年齢なんてどうでもいい。ありとあらゆることは、年齢の小さい内に経験してしまった方が良い。さもなければ、善いものと悪いものを自分なりに区別しておくことが出来ない。一つ一つを知る作業よりは、善いと悪い、必要と不必要を選り分ける作業の方が、きっと時間がかかるのだから。
だがそれ以上、私は何も喋らなかった。同じことを二度云うのは面倒くさい。
何より、店の中には退廃的な空気が漂っていたから、それに逆らうような幼稚な議論は止そうと思ったのだ。男も女もわざとゆっくり動いていて、耳に届いて来る会話は蜜色に視覚化出来た。霊夢も私もその気だるさに中てられたのか、口を動かすのが億劫になってしばらく黙っていた。
数分の後、店主が、色の白い可愛い子を連れてやってきた。
「まあ、お話は奥でどうぞ」
女給のプライベートを客に漏らしてやりたくはないのだろう。客席で話をさせる気はないらしく、彼は私達を奥の畳の部屋へと導いた。そして、「んじゃごゆっくり」と愛想良く微笑んでから出て行く。
正座した彼女は、楚々とした態度で名を名乗り、二十歳になると自己申告した。
「お仕事の邪魔してしまって、ごめんなさいね」
部屋の隅から図々しく座布団を引っ張り出して彼女に渡し、霊夢が訊く。
「店主さんから、みんな聞いているの?」
「ええ。外の世界からの、捨て子だとか」
「そうですわ」
私が答える。
それを確認してから、彼女は数秒何事か考えたようだった。それから、真剣な面持ちでまた問うて来る。
「紫さんは、外の世界とこちらを行き来出来るのですよね?」
「適度に」
私は軽く頷く。
「何故、外の世界で里親を探されなかったのですか」
「勿論、幻想郷での方が、彼が楽しく暮らせるだろうと考えた故ですわ」
ほら、のんべんだらりと、と私は笑って付け足す。霊夢は黙って片目を瞑ってこちらを伺っている。
「真っ白な赤ん坊に、何かを選択することは出来ません。なので、私のそこそこの判断力でよかれと思う方を選んであげた、それだけのことです」
「……」
「他に質問があるかしら?」
「いえ……」
「この子の性別とかも、どうでもいいと」
「はい。気にしません」
「教えておけば、男の子よ」
霊夢が言う。女給の娘は、そうなんですか、と呟いた。
面白い子だ。『何故外で探さないのか』と訊かれるとは思わなかった。どんな事情があるのか少し気になったが、黙っておくことにする。
「一応、事情を訊いてもいいかしら? なんで貰っても良いと思ってくれたの?」
そう、どうせ、霊夢が代わりに詮索してくれるから。
まだ決めた訳ではないのですが……と彼女はやや所在無さげに云う。
「夫が病にかかっているのです。それで、床に伏せていて……」
「ああ、心の、病気なのですね」
私が訊く。
「あ、え? あ、はい、そうですが……何故知ってらっしゃるのですか」
「ただの勘ですわ」
微笑み返しておく。
このような場所で働いている時点で……何かしらの事情持ちである可能性は大きいのだ。まして、動けなくなるような病状なら無理をしてでも竹林を越えようとする。そして宇宙人に治せない病気はおよそなく、精神を大元から治療出来るのは絶対的な時間しかない。
「それで、まだ子を持たれない内に、何故かは存じませんが、ご主人は潰れてしまった」
「……はい」
霊夢が剣呑な目でこちらを見ている。言葉の選び方を考えろと、その目が語っている。
だが気にする必要もない。
「だから、貴女は一人で、此処で働いている」
「……はい」
「そう。では、それでも子を持ちたいと思うのは何故?」
彼女は顔を上げて驚いた。
「――え?」
「経済的に不安定なのじゃなくて? もしそうなら、貴女は、この先この子を不幸せにするかもしれない。しかも、ご主人が何時元に戻られるのかも判らない。だから――どこかに、もっと、良い貰い手が居る可能性もある」
「……。貴女は、里親を探しに来られたのではないのですか?」
彼女がおそるおそる聞き返して来る。どうやら図星の様だ。ならば訊きたいことはひとつだった。
私はゆるくかぶりを振ってみせ、
「渇しても盗泉の水を飲まず。私が考えうる限り、この子自身にとって何が良い事なのか……ということです」
相手の瞳孔の動きを見つめながら云う。
「確かに今まで、一人として貰い手に名乗り出た方は居りませんでした……。喉から手が出てしまいそうなほど、貴女みたいな貰い手の存在は有難い。けれど、事情を聞いて、少し気が変わったのです」
霊夢が酷く驚いている。いや呆気に取られている。
「あんた、なに言って……」
「さて、何故なのかしら……まだ、答えてもらっておりません」
霊夢の言葉を遮断しながら私は訊く。
目の前の彼女は、おろおろと目を泳がせている。子猫みたいに。
「いないから欲しい……、この先出来ないだろうから欲しい……。それは、消極的理由、建前に過ぎないのじゃないかしら」
「紫?」
「苦しい状況を鑑みて、尚、欲しいと思うのならば……何か、その拠り所になる理由があるのではないかしら? それが、知りたいのです」
彼女は暗い洞穴みたいな目で、呆然と私の方を見ている。云われていることを感覚では理解していても、思考が追いついていない、そんな風情だった。ハングしているらしい。
そこで霊夢が、無言で私を部屋の外に引っ張り出した。
彼女は怖い顔で私を睨みつけた後で、黙って私から赤ん坊を預かり、部屋の中へ戻っていく。
私は、おそらく、微笑んでそれを見送った。
廊下に取り残された私は、部屋の中に戻ることは諦め、そこで二人が出てくるのを待つことにする。
十分ほどして、霊夢だけが部屋から出て来て、私の横をすり抜けるように店の外へ出て行った。
◆
二十三時をまわった頃、霊夢と紫は里を出た。
先を歩く霊夢の腕には、まだ赤ん坊が抱かれている。結局今日は、あれ以上、貰い手はおろか、脈のありそうな人物にも出会えなかった。
しかし、人里はとても狭い。二人は今日だけでほぼ全ての心当たりを回ってしまっており、明日また探しに来たとしても、それは殆ど無駄なことだろうと思われた。何より、午後からこんな夜中にかけて、霊夢が里のあちこちを飛び回っていたのだ。噂は相当広まっている筈だが、それでも里親に名乗り出る人物がいないということは、本当に子供を欲している人は、今は何処にもいないのかもしれなかった。
――あの女給の娘以外は。
神社へ至る獣道の入り口のあたりまで来て、霊夢が突然立ち止まったので、紫もそれにならって足を止めた。
霊夢は振り返ると、しっかりと視線を合わせてから、紫の頬を平手で打った。
紫は、張られた方の頬を片手でおさえる。
「冗談じゃない」
霊夢が押し殺した声で言う。
「あの人しか居なかったのに。どうしてあんなことを言ったの? 不幸な環境? そんなの、あんた只一人がそう思ったことだわ」
紫は頬を手でおさえたまま視線を伏せている。
「それともなに? この赤ん坊は最初っから食料にしてしまうつもりで、あんたは、私と里の人をからかって遊びたかっただけ?」
「……」
「何か言いなさい」
しかし紫は、口をつぐんだままである。
霊夢は込み上げて来る怒りを制御するために、きつく唇を噛む。だが、自分が何に怒っているのか判らない。いや、相手が理由を話そうとしないことそれ自体に、怒っていた。
紫に何かしら筋の通った目的があるのであっても、逆にただの遊びなのであっても、この赤ん坊が一歩死に――妖怪の食料になることに近づいたのは間違いないのだ。
紫はまだ黙っている。
「……もういい」
いや、霊夢は本音のところ、彼女の本心などはどうでも良かった。
ただ、人の命が軽んじられている状況に反吐が出そうだったのだ。
機運と人徳? そんなものを試す必要がどこにある。そして万一、紫が気まぐれに遊んでいるつもりなら、それこそ本当に許せない――そう思っていた。
「この子は暫く、神社で預かるわ」
それだけ言うと、霊夢は踵を返す。
そして思考を切り替える。
あの女給に、何日かかっても頼み込もうと彼女は考えた。
もし、その間に紫が子供を攫いに神社を訪れるのなら、それはそれで良かった。人間として返り討ちにするだけだ。結果的に突破されるとしても、出来るだけ結界を固くひいてくくっておかなければ……と思う。
挨拶をせずに二人は別れた。
紅白の衣装はやがて、ゆっくりと真っ暗な獣道に消えていく。
取り残された紫は、頬を抑えたまま、眠たげな表情でしばらくそこに佇んでいた。
それから四日が経った。
昨日まで毎晩カフェーに足を運び、件の女給と話しに行っていた霊夢だったが、彼女に「一人で考えさせてください」と言われてしまって目通りが叶わなくなり、また店長にそれとなく釘を刺され始めたので、今日明日は出入りを止すことにした。
それと併行して、赤ん坊がくたびれないよう散策程度に里親探しをしていたが、やはり希望者は名乗り出ていない。
おぶり紐をして里の辻を歩いたり、赤ん坊をあやしてみたり、おしめ替えをしたり……そんな一連の行動が段々板についていくのが霊夢自身にも判った。彼女は、おかしなもんよねと、暗くなった炊事場でミルクを温めながら、ぼんやりと呟いた。
紫はまだ、神社に現れていない。霊夢が平手を喰らわせたのが余程堪えたか、強くした結界が効いているのか、どちらかだろう。
里に行っても仕方がなかったので、その日は何もなく、霊夢はただ、赤ん坊とずっと神社で過ごした。魔理沙も来ず、萃香もレミリアも姿を見せず――とりあえず、彼女にとってうるさい連中が誰も来ない一日だった。
本当に生きているだけの日だったななどと、霊夢はやけに大げさなことを思った。勿論、大抵いつもそうなのだが、自分が赤ん坊の世話をしている様子をぼんやり思い返してみると、妙に「生きた」という言葉が意識された。
それが、良いのか、悪いのかという話ではないのだと思う。そもそも人間は最初は、生きるのに精一杯だったんだから……なんていう無理な自己弁護をする気も起きない。今日が充実していたのか? と聞かれたら、「どちらでもない」とはっきり答えられる自信が霊夢にはあった。
そんなことを考えながら、彼女は、同じ布団に赤ん坊を入れて床に就いた。
が、
三時間も眠った頃だろうか、横で突然夜泣きされたので、霊夢は文字通り飛び起き、耳をおさえて暫くの間悶絶した。
「……っ」
その後彼のおむつを確かめてみた。異常なし。そして、こんな時間にお腹を空かせるのもおかしい。単に、暑くて寝苦しくなったのだろうと霊夢はあたりをつける。
「はいはいよしよし、泣くな泣くな」
全身全霊で泣き喚く赤ん坊を抱きかかえて揺すってあげながら、彼女は彼の汗を拭いてやり、それから風にあたるために靴を持ってきて、縁側に出て座った。
鉄製の風鈴の、やや間延びした音が響く。
暖かくも冷たくもない風が、肌から気化熱を奪う。
夜空は晴れており、木々の梢の合間に、いつものように天の川が見える。
「ほら、何にも悲しいことなんかないのよー」
こんな時間に叩き起こされたというのに、あまり苛立たしく思えないことが、霊夢には不思議だった。勿論毎晩これが続いたらきっと嫌になってしまうのだろうが、今日はさほど面倒ではない。寝ている時に無理矢理起こされるというのは、普通、たった一度でも腹立たしいものではなかっただろうか?
「悪い夢でも見たの?」
霊夢は赤ん坊の顔を覗き込んで尋ねる。だが激しく泣くばかりで、彼が日本語を話す予兆は見えない。
一向に泣き止まなかった。
何がそんなに悲しいのだろう……と不思議に思う。
原因が夢だとすれば、余程苦痛を伴う夢だったのだろう。いや、夢の記憶というのは、目を覚ましてしまうと消去されてしまうようにつくられているのだから――何が悲しいのか判らないから、悲しいのだろう。きっとそうだな、と霊夢は思う。
私が彼だったならそうだ。
主観でしかないけれど。
歌でも歌ってあげるか、と彼女は思い立つ。笛で曲を吹いても良かったが、それでは腕から彼を落としてしまうのでやめておく。
それに、曲では歌詞がわからない。
今から歌って、効果のある歌なのかは判らない。
何故なら霊夢が歌おうとしている歌は、夢を違える歌だったからだ。
既に見た夢に効くのかしら? 悪い夢がもっと悪くなってしまわないかしら?
いや、そもそも、この歌に、そんなまじないみたいな意味があっただろうか――
詳しいことは何も知らない。自分がその歌を何故知っているのかも覚えてはいない。
でもまあ、何もしないよりは良いだろう。
呑気に楽観的にそう思い、ともあれ、霊夢は歌うことにした。
口ずさむ。
彼女は途中途中歌詞を忘れていた。虫食いになった古い手紙みたいにブランクがあって、そこは鼻歌で誤魔化した。
けれど音程は外さない。言葉に力がある歌だと考えた筈なのに、歌詞を忘れるなんて駄目だなと霊夢は思ったが、そこで自嘲したりしてしまってはもっと駄目だ。
目を閉じる。
祈祷する時を真似て――少し忘我してみる。お酒の力は借りないが、まあいいだろう。
覚醒と睡眠の境界線上に意識を固定させる。
そこに現れたいつもの境内を掃除して何もなくす。
残っていた桜の花びらもみんな捨てておく。
居間も掃く。棚の埃を払い、廊下も雑巾がけした。
お茶も、お茶菓子も用意した。
お客を迎える用意が出来た。
呼ぶ相手を見つけなくては。
無闇と高級なものを用意して、身構えさせてしまったら仕方がない。
お酒はしまっておいて、後から出してもてなすとしよう。
誰がいいか……、これを寝かしつけるには誰が適当なのか。
だが――
「呼べない」
それはすぐに判った。
全部用意してからそのことに気づくなんて……自分はどうかしてしまったんだろうか。
この子に限らず、他人の縁者を降ろせるのは巫女ではない。巫女が呼べるのは神様だけだ。
だというのに、どうして、呼ぼうとなんてしたのだろうか。
しかし、一人で深く考えるつもりはあまりなかった。そこで霊夢は、一気に意識を覚醒の方へ引っ張り戻した。
見れば、赤ん坊はもうすやすやと眠っていた。気づけば、歌は全て歌い終わっていた。
彼が歌で眠ったのか、風で眠ったのか、どちらなのかは判らなかった。
「知らない歌」
そう呟いたのは霊夢ではない。
真夜中だというのに日傘をさして、紫が彼女の目の前に立っていた。忘我している間にそこに訪れていたらしい。
霊夢は彼女の背後、結界がひいてあった筈の場所を見る。人の目には見えないそれは、強制的に縦一文字に破瓜させられており――注いでおいた霊力が、その傷口から経血のようにゆっくりと滴り落ちているのが判った。
ゆっくりと自分を見上げた霊夢に向かって紫は言う。
「そんな歌、何処で聞いたのかしら? 貴女が知っていて、私に知らないことがあるなんて、なんか歳取り損した気分」
霊夢はこんばんは、と挨拶してから、普段通りの口調で話す。
「損したと思った時が損なだけでしょ? ところで、私が巫女でなくイタコだったら、この子の両親を呼べたかしら」
「また唐突なのね……もしかして、神社で巫女をしているのに飽きちゃった?」
「だって、この歌のことは何も知らないもの。覚えていて、いわくありげだったから歌っただけ」
だから話を切り替えたのよ、と霊夢は言う。
話題にのぼった時点で切られても……と紫はぼやき、
「まあ、その子の両親は、普通より呼び易かったと思うわ」
見る? という風に、件の手紙を霊夢に差し出してみせた。捨てられていた子供と一緒にあったという手紙だ。
イタコは……それが依頼者の縁者なら、生きている人物でも口寄せ出来る。それが、より呼び易い状態にあるのだという。
「見ないけど」
霊夢は淡白に言い、手紙を紫に突っ返す。彼女は目を通したのだろう、手紙は封を切られていた。
「それが、あんたが、赤ん坊を外の世界に帰さなかった理由?」
紫は長い髪をなびかせて首を振る。
「そうでもありません」
「じゃあ、どうして?」
紫は何秒か黙っていた。だが、やがて少し視線を下げながらぽつりと言った。
笑っていたから、と。
「だから私が、出張ってみました」
「いつ……何処で、笑っていたの?」
「見つけたときに、その場でよ」
霊夢は驚いて、思わず眠っている赤ん坊の顔を覗き込んだ。
赤ん坊は、人間や動物の動きに反応してしか笑わないものだと、ここ数日の経験で知っていた。
紫は、この赤ん坊を無縁塚で拾ったと言っていたではないか。あそこには誰も居ないだろうし、何も住んでいない筈なのに。
あるとすれば、うち捨てられた外の世界の道具と、墓……それに、今は緑の葉をつけているであろう紫の桜、それだけだ。
「泣いていたって言ってなかったっけ? この子」
「笑った後に泣いたの。烏みたいに」
逆、と一文字で霊夢は突っ込んでおく。だが納得がいった。紫が近づいたからびっくりして泣いたのだろう。
紫は珍しく真顔で言葉を話す。
「泣くはずの状況で笑っているなんて、ゾロアスターのようだとも思ったけれど」
「何者なのよその人は……酸欠で死んじゃわなかったのね。というか、大方あんたの見えない所に浮遊霊でもいて、それを見ていたんじゃないの?」
「動いているものは、あの時何も居なかったわ」
「……ああ、そうなら、不思議だわ。普通だけど」
何を見て笑ったんだろう、と霊夢は思う。いや想像する。
結界を飛び越えてきた子供。
外からやって来て笑った。
幻想郷の外と内を考えてみる。
外の世界を知らない霊夢にとっては、どちらが良い、などと比べることは出来なかったが、外と内に大きな“差”があるらしいことは知っていた。ならば、もしかすれば……外の世界から訪れた彼の目には、あんな寂しい墓所の様子さえ、美しい情景に映ったのかもしれない。
そこで、紫が唐突に呟いた。
「結局……どうしてあげたらいいのか、判らなかったのね」
霊夢は横目に彼女を見たが、何も口にしない。
今回も判らなかった、と紫は自嘲気味に言う。今回もってなによ、と霊夢は訊くが、彼女はその問いには答えない。
「笑った時に、彼は幻想郷に居たいと意思を示した……でも、幻想郷には、その子の居られる適当な場所がなかった」
「そう主観で思ったから、あの人に向かって、あんな風に言ったってこと?」
「そう」
「嘘ばかり。――それこそ、建前でしょうに」
霊夢は少し呆れながら、視線をまた前に戻しつつ言う。
「え?」
紫は驚いた顔を彼女に向けた。
「あんたは単に、多分、あの人にこの子を渡したくないと思っただけよ」
「――……」
彼女はたっぷり一分程度、口だけで笑って凍りついた。霊夢が途中、「看板になったの?」と訊いたが、それさえ聞こえていない様子だった。
ようやく今、血を通わせたように動き出しながら、彼女はやや恨みがましく訊く。
「……そう気づいていた癖に、ぶったというのかしら」
「いや、今判ったのよ。この子と何日か過ごして、あんたの話を聞いて」
「……」
「あんたも私も勝手なもんよね。……もう、怒る資格なんか無くなったわ」
紫と同じこと考えていたんだもの、と霊夢は呟く。
どうやら霊夢も、自分の何処かに赤ん坊を占有してしまいたいという気持ちがあったことを、自覚しているようだった。
そういうことだったのか……と紫は思う。あんな風に、人間の娘を追い詰めるような言葉を口にしたのはひとえに、この赤ん坊に情が移っていたから、それだけのことだったのだ。
理由もわからない焦りにかられて、自分の所有物と錯覚したものを護ろうとした。
若い――いや歳甲斐もない、と思う。後先を考えていない辺りが本当にそうだ。一人しかいない里親候補を消してしまえば、あとは本当に、妖怪の食料にしてしまう他にない。
いや、食料になってもそれはそれで良いのだが、結局自分がそうなるように手引きしてしまったのでは、あるがまま受け入れたということにはならないだろう。
行き過ぎた干渉は、ことごとく、つまらないというのに――
今回に限って言えば、自分の判断力がなかった、としか評価のしようがない。
年寄りは、最後には、一歩退かなくてはいけないものだというのに……知らぬ間に、とんだ背伸びをしていたものだ。
分を弁えていなかった。紫は落ち込むでもなく、そう結論づけた。
「……やはり、どうやら、ぶたれ得だったようね」
頬杖をついて嘆息しながら、自分を戒めるために彼女は言った。
霊夢は小首を傾げる。
「ん?」
「たまには、馬鹿な巫女が正しいことを言うときもあるということ」
「正しさと、頭の良し悪しは違うのよ、よくわからないけど。というか私は、馬鹿じゃないけど」
「ええ、霊夢は馬鹿ではないわ」
一体どっちなのだか、と霊夢は複雑そうな苦笑を浮かべる。
だが紫は、それ以上何も答えず、黙って立ち上がった。
「攫っていこうとしないのかしら?」
まぁ邪魔するけど、と付け足しながら霊夢が訊くが、紫はそれを無視して言う。
「明日、あの娘、ここへ来るつもりだわ」
「誰が来るって?」
「危ない獣道を登って来させたくなかったら、里まで迎えに行ってあげなさいな」
紫は言うだけ言うと、闇夜に溶けて境内から去って行った。後には、結界につけられた大きな傷だけが残る。
律儀な奴、と霊夢は思う。何が律儀なのかはよく判らない。
それから、彼女は理解の嘆息を小さく漏らすと、眠った赤ん坊を抱えて寝床に戻っていった。
翌日。
霊夢が赤ん坊を抱いて里へ入りかけた時、メリー・ポピンズよろしく紫が空から降りてきた。
「あんた、寝ないの」
挨拶さえ省略しながら、霊夢は彼女に訊く。
「お見送りしたら眠るわ」
「あっそう」
霊夢はあの彼女が出てくるまで待つつもりはなかった。彼女がいつ出かけるつもりなのかが判らなかったし、何より、何となくだが、出来るだけ早々に赤ん坊を彼女に預けてしまった方が良いと考えていた。
紫は霊夢に微笑みかけながら、同感ですわ、と口に出して言う。霊夢はぼんやりとした表情のまま答えを返さなかった。
今は午前中で、夏至はとっくの昔に過ぎている。だというのに、強力な日差しはじりじりと里を焼いていた。反射光が強く、白色の建物を直視しづらい。ミンミンゼミの鳴き声は、聞く者に、夏は永遠に終ることはないのではないかという疑念を抱かせるほどに途切れることがない。
自然と二人の歩みも気だるく遅いものになる。だが霊夢は、果たして暑いことだけがその理由なのだろうか……と軽く自問していた。無論答えは、曖昧模糊として定まらない。
やがて、何日か前にも訪れた長屋の前で、霊夢達はあの女給の娘と出くわした。彼女は、店を出て神社に向かう中途だった。
「ああ、すれ違いにならないで良かった」
紫が満面の笑みを浮かべて言う。
「どうして……」
「勘ですわ」
彼女は言い、それからゆっくりと、深く頭を下げた。
申し訳ありませんでした、と深謝する。霊夢は片目を瞑って、黙ってそれを眺めている。
頭を下げられた彼女は、大慌てに慌てた。
「や、やめてください……謝られるようなことは、なにも」
「でもないわよ」
霊夢は容赦なく言う。ただ、細かい事情を説明する必要もない。当然それ以上、彼女は何も言わなかった。
紫はやがて頭を上げる。
「すっきりしたわ」
「私を、試されたんですね」
女給の彼女は訊く。
「ええ、そうですわ」
「でもないわよ」
紫が微笑んで答え、霊夢は興薄そうにそっぽを向きながらまた同じことを呟く。女給は少々混乱して、目を丸くして首を傾げた。
ともかく、と霊夢が仕切り直し、一度紫の方を伺ってから、彼女の前に赤ん坊を彼女に差し出すようにする。
「いいのよね?」
そして、相手の目を見て最後の確認をする。自分は散々説得をした身だ。もう色々なことを喋繰る必要はないだろう、と霊夢は思う。
「はい」
彼女は霊夢の瞳を確りと見返して、そう答えた。紫は開いた片目だけを細め、黙って彼女を見ている。
白い布にくるまれた赤ん坊が受け渡される。いや、今――引き取られた。
「……」
霊夢はなんとなく、相手にわからないように、瞳の動きだけで、空になった自分の腕を見下ろした。
女給の彼女は、黙って深々とお辞儀をする。
ぼんやりとしている霊夢を、紫が肘でつつく。
「何か言っておかないと、後悔しても知らないわ」
「ん……。その、元気でね」
元気でいられるようにするのは、母親ではなく、主に彼自身の仕事だろうと考えたので、霊夢はそう言った。
女給は、ありがとうございました、ときちんと謝辞を述べ、踵を返して二人の前から立ち去ろうとする。だが、何歩か歩いた所で、何かに気づいたように立ち止まった。
「あ――、紫さん」
「なんでしょう?」
「あの時の、ご質問ですけれど」
「はい」
女給の彼女は微笑んで言う。
「やっぱり、理由はありませんでした」
そうですか、とだけ紫は答え、微笑み返す。驚きはなかった。
寧ろ、その答えを、こんな数日で言葉に変えてしまうような迂闊な人間だったなら―― 子供を渡すつもりはなかった。
それではまた、と彼女はもう一度頭を下げ、今度こそ振り返らずに路地を歩き去って行った。
「負けたわねえ」
霊夢がぽつりと言った。
「なににかしら。或いは、なにでかしら?」
「あんたがそう思っている内の、どっちもよ」
そうね、と少し眠そうに短く紫は答えた。
やがて、子供の一団が長屋から出て来て、広場に散らばっていった。
大きいのも小さいのも、細いのも太いのも、男女も関係なく、七人ばかり。
霊夢と紫は、申し合わせたように視線を平行にして、そちらを見ていた。いつのまにか彼らは、誰が統制を取るでもなく四対三に分かれて一直線に並び、花いちもんめをやり始めた。
その様子を凝視している霊夢に向かって紫が訊く。
「まじりたい?」
霊夢はそれに答えず、関係のないことを訊き返す。
「ねえ――まじれると思う?」
紫は、誰がとは問わなかった。
「砂上の楼閣では、ないんじゃないかしら」
「なんだ……あんたやっぱり、あの歌を知っていたんじゃないの」
「あの歌って、どの歌かしら?」
霊夢は、少しだけ微笑んで答える。
「あんたの考えてる、その歌よ」
.
キャラ崩壊が全くなく、内容も素晴らしい
書き方も、とても読みやすかったです
霊夢が歌った曲は「童祭」でしょうかね
次回作も期待
この紫が持つ独特の妖しさはsalomeさんの作品ならではという気がします。
まるで緋想天の紫がそのままSSのなかに現れたようですた。
挙動一つ一つにどのような意味や目的が込められているのか、そして蓋を明けてみたときの意外な真情。
これだけ見事なキャラクター像を描き出している作品だからこその味わいと感じました。また次回作も期待しています。
それから文章に引き込まれる感覚もありましたね、よかったです。
文字数の割にすんなり読みきることも出来ました。
次作も期待しています。
女給はきっと赤ん坊を売ろうと考えていて、それを悟った紫はあんな行動に出たんだろうな、
と勝手に妄想していた自分はいろいろと酷い
妖怪 八雲 紫の姿をこの作品のおかげで見ることができ、紫のイメージがまたひとつ増えました
味のある作品、お見事です
素敵な紫さまありがとうございました。霊夢もイメージどおりで大変良かったです。
次も期待してます。
れいむちゃん……ゴク
どこで一人称が変わったのか少しわかりにくかったです
自分かかないので理由はわからないですが
でもとても素敵でした
読後にそう思わせる作品はすごい