北へ南へ東へ西へ。
私は永いこと、旅をしてきた。
全ては私の人生の全てを狂わせた憎たらしいあの野郎を、ぶち殺してやるために。
でも私はその実、ぶち殺すどころか何もしたくは無かったのかもしれない。
殺してしまえば、全てが終わる。
私の人生の意義が、目的が。
何のために生きているのかもわからなくなって。
私は、自分の仇に生かされている。
だけど、仇であるからには殺さねばならず。
ああ、思えばなんと矛盾した生き方なのだろう。
どこから、私の人生はどこから狂っていってしまったのだろう。
「あいつの、せいだ」
何故、何故私は尽きることの無い、この虚しい生を送っているのだろう。
「あいつの、せいだ」
だから私は、そんなことなんか忘れてしまえば、楽になれると思って。
何も悩まないように。
何も悩むことのなかった、あの頃に帰ろう。
せめて、記憶の中だけでも。
前に進むことの無くなった人間など、死んだも同じなのだから。
今は一体、朝なのか昼なのか夜なのか。
まず目を開ければ、ごつごつとした岩肌が目に入る。それは外から入ってくる日の光が反射して、てらてらと光っていた。
(ということは、朝か昼だな)
だが、日の光で判断できるのはそこまでだ。外に出て確認するために、のそり、と音が聞こえてきそうなほど緩慢な動作で身を起こす。
さて、この洞窟、人が暮らすにはものすごく不便である。
それが証拠に、ここから最寄の水辺までは獣も通らないような獣道を往かねばならず、人里など数里の彼方である。
ここにおいては、普通山の中によくいる獣よりも、物の怪の類に出会うほうが先であろう。
「だから、私は物の怪だ」
彼女はそう独り言を言った。心なしか唇の端を吊り上げ、しかし表情は暗く。
それで分かる。彼女は自分で自分を嘲っているのだと。
心を病んでいる者によくあること。心を病み、そんな自分が嫌になり、自分で自分を馬鹿にして、そうして更に病んでゆく。
彼女は洞窟の入り口付近まで出てくると、今この時が朝なのか昼なのかの判別がついたのであろう、また奥に引き篭もってしまった。
かれこれ、彼女のこのような生活は、二、三十年は続いている。
朝起きて、飯も食わず水すら飲まず、ずっと洞窟の中に引き篭もって。
誰かが彼女の生活をずっと見ていたならば、必ず言うだろう。
生ける屍と。
彼女は来る日も来る日も、薄暗く気味の悪い洞窟の中で横になって、鮮やかに彩られた在りし日々を夢想していた。
それは、母と共に、鮮やかな四季の花々を愛でたことであったり、父が愛蔵していた書物に落書きをして、拳骨をくらったことであったり。
それはそれは他愛も無い、しかし彼女にとっては決して失いたくは無い、いつまでも忘れずにいたい思い出だった。
彼女は、天涯孤独の身であったから、いつも思うことといえば家族のことだった。
決して、再び自分には手に入らない。だからこそ夢想するのである。
だが、その思い出は思い出ですらないのかもしれない。
なぜならそれは、彼女の都合のいいように美化された「妄想」にも等しいものであるからだ。
自分が楽しいように改変された都合の良い思い出は、生ける屍となった彼女にとっては、生きる糧という名の麻薬であった。
妹紅という名の「屍」は、ここ数十年来通りの朝か昼かを、この日も迎えた。
彼女はこの日もやはり、今現在が朝か昼かを確認するために、のそりと、横たわっていた死体が生を再び与えられ復活するように起き上がった。
眩しい、若干東に傾いた太陽が妹紅を照らす。どうやら今は、昼に近い朝といったところであるらしい。
と、彼女はいつもと変わらないはずのこの場所に、一つの異変があることに気がついた。
「衣、だ」
ここは、人どころか獣すらも滅多に立ち寄らない、ともすれば何かしらの妖の類に出くわそうかという場所だ。
そんな場所に、こんな物が。もう一度妹紅は呟く。
「女の、衣」
言葉を反芻することで、冷静に状況を判断しようとする。だが彼女は、この女の衣を見て、言い様も無いほどのある感情に囚われた。
懐かしい、と。
次の瞬間には、すでに妹紅の心中には、彼女によって美化された、彼女の鮮やかな、思い出という名の「妄想」が波のようになって押し寄せていた。
母は、艶やかな着物を好んだ。それに加えとにかく美人で有名な人で、聞いた話によると、宮中で母のことを噂に挙げぬ男はおらず、その美は、都には並ぶものが無いと評されるほどであったという。
妹紅ははらはらと涙を落とす。手に入れていたはずの幸福。在りし日の情景。それらが走馬灯のように、次々とフラッシュバックして行き、
ある一人の女の姿が浮かび上がった。
それはほんの刹那の間だったが、妹紅はその姿に、とめどなく溢れさせていた涙を一瞬のうちに止めてしまうほどの異様な違和感を覚えた。
もう一度、今度はじっくりと、疑念の心を持ちながら衣を見る。
どこかで、どこかで見た様な。
妹紅は、その異様な違和感の正体を探るべく、麻薬によって感傷に浸っていた脳に鞭打って、千年の過去の記憶を穿り返そうとした。
だがそれを拒否するように、溢れだして来るのは先程までと同様の、幸せな日々の走馬灯。
妹紅は暫くして、その記憶の詮索を放棄した。どうしても思い出すことが出来ないのならば、それはきっと取るに足らないことだったに違いない。
だのに、この嫌な感情は何だろうか。
どうしようもないほど腹立たしく、そして全てのものを跡形もなく壊してしまいたいほどの、この邪悪な感情は。
そして、何だろうか。この胸を締め付けられるような苦しみは。
妹紅は一つだけ、このえもいわれぬ感情の正体に心当たりがあった。
愛しい、と。
妹紅は、この感情がどういうものかというのは、知識の上では知っていた。
だが、この感情は、自分が愛するものにこそ抱く感情で、憎しみや殺意とともに抱く感情としては、あまりにも不似合いなものであった。
気付けば、彼女はまた涙を流していた。
それは、忘却の彼方にある愛しい人を思ってか、またはその人が思い出せない事からの悔しさの為か。
或いは、忘れたことを憎み恨んでしまうほど執着し、追い求めていた人間だったのか。
その日の彼女は本当に久しぶりに、純粋だった。
このいつもは思慮深い少女にしては、珍しく性急に事を運んだものである。
少なくとも、八意永琳はそう感じていた。
彼女は、その主人と共に幾星霜にも及ぶ時を過ごしてきた。互いは互いの何もかもを知っている。
「輝夜」
呼んでみても応答が無い。輝夜は、上の空の様子で星の瞬く夜空を見上げていた。
こんな時の彼女は、大概考え事をしているのである。
「輝夜」
今度は心もち大きな声で呼びかけた。
「ねえ、永琳」
輝夜は名前を呼ばれたことに対する応答ではなく、疑問をこちらに投げかけた。
「妹紅は、何故私のことを忘れてしまったのかしら?」
それは輝夜がここ数十年間、ずっと永琳に投げかける疑問だった。
何故かは、月の賢者たる永琳にも分からない。大体彼女は、その「妹紅」と呼ばれる人物に会ったことすらないのだ。会ったことすらない人間のことが分かるほど、月の賢者というのは万能には出来ていない。
だから永琳は、この疑問を投げかけられた時、最低限は主人の欲求に答えるべく、
「不死者ゆえ、何か思うところもあったのでしょう」
こう答えるようにしている。同じく不死者の自分が口にする言葉としては、あまりにも矛盾したものであるような気がするが。
「でもね、私ももう待てないのよ。私達にとっては数十年の月日なんて瞬きするよりも刹那の間だけれど、いい加減に待つのにも飽きてきちゃったわ」
しかし矛盾具合としては、その「妹紅」という人物とその主人の関係のほうが、余程矛盾に満ちているであろう。
妹紅は輝夜を復讐の対象として追っているらしい。そこらへんの事情は聞いたことがあるが、我が主人ながらなかなかに惨い所業であり、復讐の対象として設定されてしまうのにも、納得がいくものであった。
しかし面白いのは主人たる輝夜である。
「あれはあれで面白くて楽しみにしてたのに。いつ追いつかれるか殺されるかって」
彼女にとってみれば、不死身とはいえ自分を殺すかも知れない人間すらも娯楽の一つであったのだ。
「いつ気がつくかしらね。本当に心配だわ。とうとう今日は洞窟の前まで行ってお気に入りの衣までくれてやったのに。あの様子じゃあ、まだまだでしょうね」
妹紅の話をする時の輝夜は実に初々しい表情をする。まるで、少女が初恋の相手のことを親友に話す時のように。
輝夜は妹紅のことを娯楽呼ばわりしながら、その実、妹紅の事となると恋する少女の顔をする。
「ねえ、聞いてるの、永琳」
「さっぱり聞いてなかったわ」
いつもなら輝夜は、ここでぷりぷりしながら怒るのだが、今夜の彼女は違った。
「何か良い知恵はないかしら。月の頭脳として、八意思兼として」
「神話のようにはいかないわよ、輝夜。私があなたに、的確な助言を出来るとは思えない」
いまだ見ぬ初恋の人に恋焦がれる少女。
一方、自分はその少女の保護者。この件に関しては、自分は部外者に過ぎぬ。
保護者は、恋する、または因縁に立ち向かう少女らを温かい目で見守っているだけでいい。
「自分で何とかする事よ、輝夜。大事なのは、ね」
「・・・・そうね。いつまでも待ってても埒がいかないわ。私も踏ん切りがついた」
輝夜は不敵に、心なしか唇の端を吊り上げて笑う。
それで分かる。彼女は自分に絶対的な自信を持っているのだと。
「往くわよ。私の天照を――天岩戸から引き吊り出してやるわ」
最近、夜に魘されることが多くなったように感じる。
あの衣を見つけた日の夜からだ。
同時に、以前のように思い出に浸る事は出来なくなっていた。
代わりに沸きあがってくるのは、衣を見たときに感じたような、やり場の無い憎悪、そして恨み。
なんとなく、体の中の血が騒いでいるようにも感じる。
そういえば、長い時間をかけて会得した炎の術も、この洞窟にこもり始めてからは滅多に使う事はなくなっていた。
術の類は、会得する事は血反吐を吐くほど難しいものの、しばらく使う事がなくなれば、あっという間に失くすものである。
もうそんなものなどとうに忘れてしまっているかと思っていたが。最近は、何かに炎の渦を浴びせかけ、燃やし尽くしてやりたい衝動に駆られることもある。
「糞ったれがぁ・・・・」
呟いた言葉が洞窟の奥に向かっていって、こだまして自分に向かって返ってくる。
「・・・・ね」
こだまに混じって、自分とは別の言葉が聞こえてきたように感じた。
警戒して耳を澄ます。どうやら洞窟の入り口のほうから聞こえてくるようであった。
「・・・・なものね」
声がだんだんと近くなってくる。どうやら相手は、この洞窟に向かって語りかけ、そして向かってきている様子だ。
妹紅は、その声が近づいてくるたびに、幾つかの感情が沸々と湧きあがって来るのを感じていた。
憎しみ。
恨み。
怒り。
そしてこれらの感情に対する懐かしさ。
遂に声の主が、洞窟の入り口にまで到達する。
「下品なものね。元貴族の娘ともあろうものが、そんなはしたない言葉を口走るものじゃないわ」
「お前は」
月光に照らされ、ある種の妖艶さを帯びたその姿がはっきりと現れる。
間違いない。間違えるはずが無かった。
彼の者こそ、千年の宿敵。運命の人。
瞬時に炎を呼び出し、体に纏わせる。
「この日をどれだけ待ち焦がれてきた事か。こんなにあっさりいくなら、もっと早くにこうしておけば良かったわ」
思えば、何と馬鹿馬鹿しい数十年。
今この時この場所で、私と彼女が出会うことが運命であったなら。
どうやってそれに抗えと言うのであろう?
「ああ、私も――」
私は私の生を肯定しなければならない。
今まで生きてきたことは、無駄ではなかったのだと。
だから小難しいことは考えず、殺意が命じ、運命が掌で彼女を踊らすままに、
「会いたかったよ」
ぶち殺せばいい。
妹紅の生きがいが「輝夜への復讐」というのは、確かにそうなのでしょう。
孤独より辛いものはないですからね。
ケチつけるわけじゃありませんが、永琳は妹紅にあったことがありますよ