「空を飛びたくなった時はね、肩甲骨の力を抜くようにしてるの」
通りに面した窓には、絶え間なく雨が降りかかっている。カフェには、蓮子とメリー以外、ほとんど客はいなかった。
「そうすると、いくらか気分が収まるの。今すぐにでも飛ばなきゃ、という思いを鎮めてくれるわ。いつまでも浮ついた気分のままじゃ、日常に手がつかないからね」
蓮子はしゃべりながら、コップの底にわずかに残ったカフェオレを喉に流し込んだ。メリーは、テーブルの木目を模した模様に指を這わせている。
「ちょっと、メリー」
「心配しなくても、ちゃんと聞いてないわよ。だから無粋な突っ込みもしないわ。続けて」
メリーの縮れた金髪は、室内の湿度の高さを表すかのように、じっとりと重たげに揺れている。彼女は無心に、テーブルを這う自分の指に目を落としている。その青い目が、人でないもの、ガラス球か何かのように見えて、蓮子は胸が詰まった。奇妙な美しさだった。少し角度を変えてしまえば、消え去ってしまいそうな、その場限りの美しさだった。そんなメリーの表情を、今、とらえているのは自分だけだという自負と、この美しさを誰にも、当のメリーにすら伝えきれないもどかしさに、蓮子は身悶えしたくなる。
「梅雨ねえ」
メリーは顔を上げた。青い目は、人間の目に戻った。蓮子はため息をついた。張り詰めていた神経が緩んでいくのを感じる。
「手のひらがべとべとするわ」
「崩れてしまった」
「何が?」
メリーはコップに両手を添え、口元に運ぶ。上目使いで蓮子を見る。
「箱庭。私の箱庭」
「あら、大変。こんな天気だから?」
「そう。でも、こんな天気だからこそ出来上がったんだけど。壊れるのも早いけど、出来上がるのも一瞬だから」
「なあに、何の比喩」
メリーはコップをテーブルに置く。蓮子の手がメリーの手に伸びる。その動きを察知したメリーが反射的に手を引く。蓮子の指はメリーのブラウスの袖を捉える。
「あなたの」
「蓮子」
蓮子は、ブラウスにひっかけた自分の指からメリーの息遣いが伝わってきそうな気がした。指に力を入れて、メリーの手を引き寄せようとする。メリーは逆らわなかったが、諌めるような目で、じっと蓮子を見る。
それで、蓮子は我にかえった。
「ああ、ごめん」
蓮子が手を引っ込める。メリーは手をテーブルに投げ出したまま、引っ込めようとしない。
「出よう、メリー」
蓮子は照れ隠しに、椅子にかけていた黒の帽子を目深にかぶる。
しゃらんしゃらんと鈴の音に背中を押されて、二人はカフェを出た。だが、庇の下から動けないでいた。
「傘が……」
蓮子が恨めしげに傘立てを見る。カフェに入る時に傘立てに入れておいた傘が、ない。
「ないわね」
「ないっていうか、盗られたのよ。ああもう、腹立つなあ」
「つまらない、つまらない」
やり場のない苛立ちをもてあました蓮子の頭上に、傘が開く音がした。
「こんなことでいちいち不機嫌になったりして」
「あれ、メリー、あんた傘……」
「私、折り畳み傘だったのよ」
メリーは庇の下から外へ出た。雨が傘をたたく音がする。
たたたたたた
メリーから出るその音は、蓮子を心地よくさせる。
「おいで蓮子。ちょっと小さいけど」
そう言いながらも、メリーはもう歩きだしていた。蓮子は小走りでメリーの傘の下に駆け込む。メリーの言う通り、いくら小柄とはいえ、大学生二人が入るには折り畳み傘は小さすぎた。雨は、昼前にカフェに入った時よりも少し強くなっている。水溜りは増えている。車道に出るわけにもいかないので、全部は避けられない。二人の足はすぐに濡れてしまった。スカートの裾も水を吸って、重たい。ブラウスの肩もじんわりと湿ってくる。
小さな傘が、まるで二人だけの世界を守る境界線のように感じた。
「蓮子? 何ニヤニヤ笑ってるの」
「行く先考えてなかったなあ、って」
朝起きてから、さしあたって行くところもなかった。それで朝食と昼食を兼ねてカフェに行ったのだ。それから先のことはカフェで決めようとしていたのだが、妙な雰囲気になってさっさと出てしまったので、結局これからの予定は決まらずじまいだった。
「どうする。部屋に戻る?」
メリーが言う。どちらかというと、そちらへ話を持っていこうとするような口ぶりだ。
「うーん、そうだね」
「こういう時に部屋を片付けるのもいいかも」
「かもね」
「そのあとで、一日中ゴロゴロしてましょ」
「いいわね」
「どうしたの、気が乗らない返事ばかり」
「いやあ、うん」
蓮子は歯切れの悪い返事をする。
「今帰っても、やること決まってるだろうし……前から一度寄ってみたかったところがあったの。そこに行ってみない?」
「こんな雨の日に寄るようなところ。何かの店?」
「そう」
口から出まかせだ。そんな店はない。ただなんとなく、こんな雨の日にメリーとあてもなく外をぶらつくのも悪くない、そう思った。
学生街から離れると、まわりは畑が多くなり、建物もアパートや店ではなく、屋根瓦の一軒家が多くなる。カフェを出た時よりいくらか小振りになってきたとはいえ、もう一時間近く歩いている。濡れるのも気にならなくなっていた。メリーと蓮子は傘をかわるがわる持ち、振り回して遊んだりした。
「寄るところがあるなんて、嘘でしょ」
目の前をちらちらする髪の毛を指でかきわけながら、蓮子は答える。
「うん、嘘。嘘から真が出るかな、と思って」
「疲れたわ、休んでいきましょう」
メリーは道端のバス停を指差す。人が五、六人は入れそうな待合室があり、休むにはもってこいだった。今は無人だった。
二人が座るとベンチはすぐに水浸しになった。屋根と壁が雨を遮るこの空間は、生ぬるかった。蓮子は、濡れた自分の服から立ち上る匂いが、メリーのそれと混じり合っていくように感じて、気恥ずかしかった。
「雨、やまないね」
メリーは言う。濡れた髪の毛の先からしずくが落ちる。静かだった。時折二人の静寂を乱すように、車が目の前の道路を通ったりもしたが、すぐにまた沈黙が広がった。二人の言葉だけでなく、雨の音、空気の流れ、二人の息遣い、すべての音が、沈黙に吸い込まれていく。
何かひらひらしたものが蓮子の目をかすめる。反射的に瞬きをする。
それで、自分が眠っていたことに気づいた。
どれぐらい眠っていたのか、わからない。十分かもしれないし、一秒かもしれなかった。周囲の景色は変わっていない。メリーはさっきと同じように隣に座っている。
目をかすめたのは、蝶に似た何かだった気がする。懸命に記憶を手繰り寄せようとするが、沼の中に沈んでしまい、もう雑多な夢想と区別がつかなくなっている。ひらひらと舞う薄い羽だけが、かすかに記憶に残っている。
「いつになったら、やむのかしら」
蓮子が眠っていたのに気づいた風もなく、メリーは呟く。
「さあね。まあ、ここにいる間は濡れる心配はないから、いいけど」
「あの人も、ここに誘おうか」
「あの人って?」
メリーが指差した方向には、雨の中たたずむ大きな木があるだけで、蓮子には何も見えなかった。生い茂る緑の葉は、この雨のせいで、黒い、得体の知れないものに見える。
「ほら、あの墨染桜の下にいる人」
「私には、見えない」
蓮子はじわりと寒気が忍び寄ってくるのを感じた。見えない、という自分の言葉を、反芻する。
「いるじゃないの。女の子が、眠っている」
「いない」
「いるわよ」
メリーはバス停を飛び出して、木のもとへ向かう。蓮子は折り畳み傘をつかんで、後を追った。
「あんた何が見えてるの」
木の根元を見下ろすメリーに、傘を差しかける。メリーは、傘を握った蓮子の手に、自分の手を添える。
「私に触れれば、見えるわ」
メリーの手は、柔らかく、濡れていて、吸いつくようだった。蓮子は目眩を感じる。そして、少しずつ世界が変わっていくのを感じる。木の根元に、飾り気のない白い着物を身にまとった少女が横たわっている。雨に打たれた様子はまったくなかった。
少女の髪に、桜の花びらが落ちかかる。花びらは閉じられた瞼をなぞり、頬を伝い、唇の端にかかる。すると唇がかすかに開き、その隙間から桜色の舌が現れ、花びらをからめ取り、また戻っていった。
いつの間にか雨が降っていないことに、蓮子は気づく。頭上を仰ぐ。桜の花が咲いていた。空は曇天だったが、どことなく奇妙な、斑な色合いだった。ここがどこだかわからない。
少女は桜の木の根を枕に、眠っている。わずかに膨らんだ胸元は、静かに上下していた。
「この子、なんだか、この世のものとは思えないわね」
蓮子はしみじみとため息をつく。
「メリー、あなたいったいいつ結界を越え……」
少女の唇が動いた。蓮子は、言葉を止め、少女を凝視する。微笑んでいるようだった口の形が、歪になる。眉がひそめられる。
「して」
吐息のような呟きだった。目尻に涙が浮かんでいる。悲しげに唇を震わせ、うめくように言葉を紡ぎだす。
「……るして」
蓮子は、もっと近くで声を聞きたいと思う。前屈みになり、少女の髪に手を伸ばす。触れた途端、べっとりと水気が手に伝う。気づいた時には蓮子は樹皮に触れていた。
雨は依然として降り、少女は消え、頭上の桜はどこまでも緑だった。
「メリーすごいわ、今、越えたでしょう。いったいこの桜の木はなんなの……」
そう言ってメリーを振り返る。メリーはぼんやりと、魂の抜けたような顔をしていた。
「メリー?」
蓮子の呼びかけに応えず、メリーはその場に崩れる。
「ちょっと、メリー!」
「う……ん。大丈夫。ちょっと目眩がしただけ」
「もう、びっくりするじゃない。疲れたのね。ずいぶん歩いたし、雨にも濡れたし。帰ってあったかいシャワーでも浴びて、寝ようか」
「そうね、寝ましょう」
バス停まで戻る。メリーは蓮子に膝枕してもらった。
「本当、疲れたわ……」
「無理な結界破りするからよ」
「破ったつもりはないんだけれど。無理やり破らされた感じ。あの女の子ね、蓮子も見たでしょう。あの子って」
メリーは、大きな欠伸をした。
「あの子って……なんだろ、もう、頭が回らない」
「はいはい、話はあとで聞くから。バスも来たし、続きは部屋でね」
霧のようにけぶる雨の中、二つのライトが浮かび上がる。おぼろげにバスの形がわかる。
「あれに乗ろう」
「そうね。でもびしょびしょ。中にタオルとかないかしら。さすがにバスの人に悪いわ」
「まあ、なきゃないで仕方ないわよ。謝れば済む問題」
「そうかなあ」
バスは減速する。二人はベンチから立ち上がって、バスに近寄る。フロントガラスに降りかかる雨を、大きなワイパーが払っていた。運転手は、白髪のショートカットの少女だった。口を結んで、じっと前を見ている。
「歩ける?」
蓮子はメリーの手を引いて、バスに乗り込む。横の機械から出る整理券を二枚取り、一枚をメリーに渡す。蓮子はバスの中を見回した。ガラガラだった。ひとりだけいた。一番後ろの席に、和服を着た少女がいた。
蓮子はその場に立ちすくんだ。
三角布をまいた頭巾をかぶり、服も青く、装飾が多く施されているが、桜の木の下で眠っていた少女に間違いなかった。
少女は、目を半ば閉じ、口元に柔らかい笑みを浮かべ、うつむいていた。蓮子は少女の美しさに見とれてしまった。と同時に、踏み込んではいけない領域に不用意に踏み込んでしまった気がした。少女に近づけば近づくほど、自分という存在が空っぽになりそうだった。空になった器の中には、少女がまるごと入り込む。自分は少女と同じになる。
「向こうに誰かいた?」
少女の唇が動く。そして、目が開く。栗色の目が、蓮子を捉える。
「向こう……」
「たとえば、墨染桜の下とかに。誰かいなかったかしら」
蓮子よりも少し幼い声、表情だった。にもかかわらず、蓮子は彼女から得体の知れぬ圧迫感を受けた。樹齢何千年という大木を前にした時に感じる威圧感に似ている。
「ああ、そういえば、あなたがいたわ」
「私?」
少女はきょとんとして自分を指差す。
「そう。……え? あれは、あなたじゃないの」
「他人の空似かしら。私はずっとバスで眠っていたわ。妖夢に運転を任せっきりで」
「桜の子も、眠っていたわね。そういえば。あなた、夢遊病の気は?」
「失礼ね、人を病人みたいに」
「病人じゃないの?」
「死人よ。亡霊。もう、とっくに死んでるの」
「どうして?」
「覚えてないわ、どうやって死んだかなんて。亡霊になる前の記憶なんて、他人の記憶みたいなものよ。わかりっこないし、覗けたとしても理解できないわ」
「どうやって、じゃなくて、なぜ、のつもりで聞いたんだけど」
「なぜ、だなんてまるで自殺者に訊くような質問ね」
「そうね。ごめんなさい」
「謝ることはないわ。あなた、乗っていくんでしょう」
蓮子は自分でも気づかぬうちに、少女の隣に座ろうとしていた。
「うちに寄るわよね」
その栗色の目でじっと見据えられると、蓮子は何も逆らえない気がした。
「蓮子、ちょっと待って」
メリーの声で、我にかえった。
「何してるのメリー、乗るわよ」
メリーはまだバスの階段に足を乗せていなかった。首だけ出して、後ろの席を覗く。
「蓮子。いっぱいよ。次のバスにしましょう」
そう言って、乗ろうとしない。
「何言ってるの」
蓮子は立ち上がり、ドアのところまでいき、メリーの手首をつかむ。
「こんなにガラガラじゃないの」
メリーは、信じられないものでも見るかのように、蓮子を見つめる。腕を引っ張る。
「本気で言ってるの? 蓮子」
腕をひっぱるメリーの力には切実さがこもっていた。蓮子は、諦めてバスを降りた。ドアは閉まる。メリーはベンチに倒れこむようにして横になる。まだ疲れているのだ。蓮子は、動き始めたバスを振り返る。
横側の窓が開いていた。そこから、自称亡霊の少女が顔をのぞかせていた。
「あら、あなたどうして乗らないの? まあいいわ。あとで呼ぶから」
そう言って、蓮子に手を差し伸べる。蓮子は吸い寄せられるようにその手をつかんでいた。少女の手は、春の花びらのように柔らかいのに、冬の凍てついた鉄のように冷たかった。そこから赤や黄、青の、淡い色合いの蝶が生まれ、蓮子にまとわりつく。一羽が帽子に止まった。
蓮子はぼんやりと、遠ざかっていくバスを見送った。
「誰、あの子」
ベンチに横になったままのメリーが、不審そうに訊く。
「私もわからないけど。でも、さっきの桜の下で眠っていた子よね」
「そんなはずないわ」
「似ていたわよ」
「似ていた? どこが。さっきの子と全然違うじゃない。雰囲気も声も」
蓮子は首を傾げた。どうも、自分が見たものとメリーの見たものにずれがあるようだと、感じた。
二人は、そのあと少し休んでから、体に鞭打って、元来た道を歩いて引き返した。最後の方は、ほとんど蓮子がメリーを背負う形になった。アパートに戻ると、ベッドに倒れこみ、二人はそのまま泥のように眠った。
翌日の夕方、二人は大学構内のカフェでケーキをつついていた。昨日と違って今日はまったく雨が降っていない。じめじめとしているので、不快さの度合いはあまり変わっていない。
蓮子はあくびをして、肘をつき、スプーンでコーヒーを混ぜた。ほとんど飲んでしまい、底の方に少し残っているだけだった。
「元気ないわね、蓮子」
「そう? そうでもないけど。あなたこそ大丈夫なの。昨日は桜の幽霊のせいで、大変だったじゃない」
「ああ、あれはもういいみたい。一晩寝たら、なんてこともなかったわ」
「頑丈ねえ」
応えながら、蓮子はコーヒーを混ぜ続ける。スプーンがコップの内側に何度も当たる。
「やめなさいよ。耳障り」
「はーい」
蓮子はスプーンから手を離し、両手を頭の後ろに回し、椅子に凭れかかる。外のキャンバスの光景を眺める。オープンテラスで女子学生が数人集まってノートを広げている。上半身裸になった男子学生が、ボールを蹴り合っている。ぴったりと寄り添った男女が、紙コップを両手で支え、うつむいている。うつむき方がそっくりだった。その横をスーツを着た男女がぞろぞろと群れだって通っていく。その先には、企業説明会の看板が立っている。
「なんかだるいのよね。体に力が入らないのよね」
メリーに視線を戻すと、視線が正面から合った。ずっとメリーが自分を見ていたのだと、気づく。
「蓮子、今、ものすごく退屈そうだった」
「そう?」
「死ぬほど退屈そうだった」
「そうかな」
「その蝶、気づいてる?」
メリーは蓮子の帽子を指差す。帽子には、半透明に透き通った蝶がとまっている。あのバスに乗った少女から渡されたものだ。
「うん。でも、たいていの人には見えていないみたい」
「なにかの烙印みたい」
「なんのよ」
「知らない人の手をほいほい握ったりするからそうなるのよ」
「やっぱりあのせいかな。ちょっとね、体のきつさが尋常じゃないのよ。何かしたわけでもないのに、何もやりたくない」
「学生やってれば誰でもそんな気分になりそうだけど」
「それに似ているよ。限りなくそれに近いよ。でもね、なんか、そう、常軌を逸している感じ」
蓮子はそう言うと、残ったコーヒーを飲みほして、テーブルにばったりと倒れこんだ。頬をテーブルにつけて、両腕を投げ出す。ほとんど残骸と化したケーキをフォークでつつく。
「ちょっと。それはあまりにも見苦しいと思うわ」
「私もそう思う」
力が入らないのは、本当だった。こうしてメリーと話している間も、指先からどんどん力が流れだしていく。流れだす速度は、増していっている。加速度的に。川から滝へと変じるように。急速に、抜けていく。
「あ。あ、あ。メリー、メリーメリー」
「はいはい。なによ」
「これ、もう駄目かもしれない」
「なに」
「視界がぼやけてる。体も……動かない。唇にも力が、はいら」
視界が真っ暗になるのにそう時間はかからなかった。メリーの声は不思議とはっきりと聞こえる。頬に当たるテーブルの感触もリアルに感じる。それなのに、自分が体を持っているという実感だけが、すっぽりと抜けてしまっていた。メリーに背負われる辺りまではまだ意識があったが、それからは知覚する出来事の順列がばらばらだったり、現在の知覚と過去の知覚が混ざりあったりして、長い夢を見ているようだった。
醒めた時、目の前にあったのは少女の顔だった。青い頭巾に三角布。装飾の多い青い和服。
バスで見かけた少女だった。まるで当然のようにして、彼女は部屋にいた。
「お目覚めね。いい夢は見られた?」
「え、あ、うん」
室内に他人が入り込んでいることに驚くべきはずなのだが、相手があまりに普通に質問してきたので、蓮子も普通に返してしまった。
「蓮子!」
少女を押しのけるようにしてメリーが覆いかぶさってきた。
「よかった、このまま植物人間にでもなってしまうのかと思ったわ」
メリーは蓮子の胸にうずくまる。メリーの髪の毛が鼻にかかる。いつもより体臭が強い。
「メリー、私、どのくらい眠っていたの」
「三日三晩」
メリーの代わりに、隣の少女が答える。
おそらく、メリーはその間つきっきりで蓮子を看ていたのだろう。
「ごめんなさいね、私、勘違いしていたわ」
少女はにこにこと笑っている。
「死人なのにどうしてバスに乗らないんだろうと思って、死蝶をつけていたの。まさか生身の人間があの道を歩いているなんて思いもしなくて。体に悪いわ」
「はあ……」
「死蝶が吸い取っていた分のあなたの気は、これで全部戻したわ。お詫びと言ってはなんだけれど、これを差し上げます」
長方形の紙きれだった。墨染、と書かれている。駅の切符に酷似していた。幽々子はそれをサイドテーブルに置いた。
「冥界行きの片道切符。向こうで私に言えば帰りの切符も出してあげるから、興味があったらおいでなさい」
「あなたの名前は」
「西行寺幽々子。千年亡霊をやっているわ。あなたは?」
「宇佐見蓮子」
「そう。あなたも、面白い目をしているわね。幻想郷でも珍しい」
「目? 幻想郷?」
「自分の確固たる立ち位置が欲しいのね。子供の頃、迷子になったりしたことがあるでしょう。私もあるわ。あった気がするわ。昔のことだからよく覚えていないけれど。あなたと同じように、心細かったと思う。大事にしなさいね、決して狂うことのない、その目を」
幽々子が窓を開けると、そこにはバスが停まっていた。蓮子のアパートは三階だった。運転席には、白髪の少女がいる。バスは幽々子を乗せると、発進して、どこへともなく消えていった。
「行っちゃったね」
メリーは窓の外に顔を出しながら、言った。
「行ったわね」
蓮子はベッドから身を起こしながら答える。脱力感は跡形もなく消えていた。
「なんだったのかしら」
「わかんないわよ」
「その切符、本物?」
メリーは窓の外に顔を出したまま、尋ねる。蓮子はサイドテーブルの上の切符を見る。
「さあね。ところで、あの幽々子って人、いつからいたの」
「幽々子さんはね、私があなたを部屋に連れてきて看病していたら、夢の中から突然出て来たの」
「何それ」
「うたたねしていたのよ。私も徹夜はあまり得意じゃないから。そうしたら、悲しい夢を見てね。どんな夢だったかよく思い出せないのだけれど、とにかくあとに悲しさが尾を引くようなものだったわ。着物の女の子が泣いているの。年は私たちより少し下。最初は、桜の下で見た子だと思ったわ。女の子がぴた、と泣きやんだから、近づいて覗きこんでよく見ると、バスで見た子だったわ」
「だから、あれは同一人物だって」
「違うわよ。人間か人形か、死者か生者かってくらい違うわ」
「まあそういうことにしておくわ。それで?」
「その女の子がね、夢が覚めてもまだそこにいたのよ。さっきまで泣いていたのが嘘のように、朗らかな、というか能天気な顔をしてね。それで、眠っている蓮子を見て、彼女は言ったわ」
「なんて?」
「あ、間違えた、って」
蓮子は気の抜けたため息をつく。
「間違えて幽霊にとり殺されたら、かなわないわ」
「早めに間違いに気づいてもらって、よかったわね」
「まったくよ」
「でないと私も後を追わなくちゃいけなかったところよ」
「どうして」
「そうね、幽々子さんに頼んで、私にも死蝶つけてくださいって頼むのはどうかしら」
「いやいや。どうやって、じゃなくて、なんで? という意味でのどうして、よ」
「なんで? 当たり前じゃない。なんで蓮子がいない世界に私がいなきゃいけないの」
「そういう選択肢もあるんじゃない」
「ないわよ。蓮子はあるの?」
「想像できないから、考えないわ」
一拍置いて、蓮子は付け加える。
「メリーのいない世界なんて」
雨はやんだはずなのに、雫の落ちる音がやまない。
口が渇く。舌で口腔内をなぞると、ねばついた唾液が絡んできた。目を開ける。シーツの裏側と、自分の黒髪がまず視界を覆う。シーツをどけて、寝返りを打ち、天井をぼんやりと眺める。手を横に動かす。そこは、完全に体温が抜けきってはいなかった。しかしベッドから出てすぐ、というほど暖かくもなかった。
浴室からはシャワーの音がする。だが、それとは別に雫の音はある。
雨樋から、下の水たまりに雫が落ちている音だと、突然に理解できた。
浴室からメリーが出てきた。蓮子はそれを見て眉をしかめる。
「メリー、タオルぐらい巻きなさいよ」
「はしたない?」
タオルで体を拭きながら、メリーは尋ねる。
「そうよ、はしたない」
蓮子は気恥ずかしくなって目をそらした。メリーがつけこんでくる隙を与えたようで、しまったと思ったがもう遅かった。
メリーは含み笑いをして、ベッドにもぐりこんでくる。
「あるべき場所に、体温があるって、いいことでしょう、蓮子」
「はいはい、そうね」
「ああ、気持ちがいいわ。ここは天国ね」
「何よ、二度寝?」
「まだ一日は始まったばかりだわ。始まってすらいないかもしれないわ。だからそれまでは何も考えず、それから何かが始まっても何も考えず、結局ずっと何も考えない。死ぬまで考えない。頭が空っぽのまま転がり続けるの」
「とかなんとかいっても、もう十時過ぎてるんだけどね。あなたは一日中寝ていてもいいかもしれないけど、私は昼から論文の発表があるんだから。もう出発の準備をしないといけないわ」
起き上がって、簡単に身づくろいをしたあと、洗面所に向かう。鏡には寝ぼけ眼の自分の顔が映っている。眺めていて、あまり気持ちの良いものではない。隣の浴室のドア越しに、石鹸の香りが漂ってくる。メリーがさっきまで使っていた。膨れる想像を、蛇口をひねって、水を顔にたたきつけて振り払う。
寝室に戻ると、メリーはまだベッドに寝転がっていた。冥界行きの切符をかざして、眺めている。
「これ、どうやって使うのかしら」
「さあ。冥界行きってくらいだから死後の世界に行けるんじゃない? もし本当ならね」
「幽々子さん、嘘はつきそうにないわ」
「私もそう思う」
蓮子はうなずき、ブラインドを上げた。
ちぐはぐな空だった。空にはまっ白い雲や雨雲、夕日に焼けた雲が入り混じって浮かんでいた。雲の隙間からは青や黄色、黒の空が覗いている。
「なんだかこの空、気が狂ってるみたいね」
蓮子は空に見入りながら、呟く。黒の空からは月と星が見える。月と星から、現在の時間と場所を導き出す目を、蓮子は持っている。
「十時二十一分四十一秒」
「あら、朝なのにどうしてわかるの」
「色々な空があるでしょう。そのうちのひとつは夜みたいね」
不意に、空は一面の曇天になる。振り向くと、切符が床に落ちている。
「人が触ると、今みたいになるのかしら」
蓮子はそう言って、切符を拾い上げる。空模様に変化はない。メリーに渡す。するとまた、空が発狂し始めた。
「メリーじゃないと駄目みたい。それにしても、幻想的ねえ」
「幻想郷」
メリーの舌にその言葉が乗る。
「って、幽々子さんは言ってたわ。蓮子は聞いた?」
「少しね。メリーは詳しい話、教えてもらったの。その幻想郷っての」
「ええ。私たちの世界で忘れられたものが集まるところなんだって。常識と非常識の境界で線引きがされているらしいわ」
「あなたの目でどうにかならないものかしら」
「試みてみる価値はあるわ」
蓮子はうなずく。
不意に、今言わなければいけない気がした。
「メリー」
「なあに、蓮子」
「こんな幻想的な空の下で、こんな現実的な話をするのもどうかと思ったけど、やっぱり言うとしたら今しかないから、言うわ」
メリーは銃の照準を合わせるように、ぴたりと蓮子に視線を固定する。
「言ってよ、蓮子。ただでさえ幻想で溺れかけてるのに。あなたがつなぎとめなかったら、私、どこかへ行ってしまうわ」
「メリー、私、研究科に進むことにした」
メリーの返事が、一拍遅れる。
「そう」
「もう少し上の方、目指してみるんだ」
「そう。前から言っていたものね」
「出会って最初の頃、一度きりね」
その後は、怖くて、切り出せなかった。言えば、それが崩壊の糸口になりそうだった。
「いつ、アパートを出るの」
研究科は山奥に別棟を構え、少人数による厳しい生活管理を敷いている。昔の徒弟制度のようなものだ。住み込みが義務付けられている。
だから、メリーがそう聞くのは、自然な会話の流れだった。二人ともわかっていた。そして、二人とも、その言葉を相手に言わせることを、自分が言うことを、何よりも恐れていた。
「秋には試験があるけど、その合否がわかってからでも遅くないから、まあどんなに早くても半年は今のままね」
「じゃあ随分あとじゃない」
メリーは笑う。メリーに作り笑いをさせたことを、蓮子は悔やむ。胸が痛む。
「半年って、すぐ過ぎるものよ」
作り笑いをやめさせようと思い、あえて冷たい声を出す。
「そうね、あっという間だわ」
メリーの顔から笑みが消える。二人は互いの目の底を覗き込む。
「でも、今生の別れってわけでもなし。研究科も早ければ二年で終わる。その間だって休みが全然ないわけじゃないし、今みたいに会うことも簡単にできるわ」
「半年があっという間なら、二年もあっという間ね」
「そうよ。五年も十年もあっという間」
「五年たっても十年たっても、やっぱり私たち、こうして向かい合って、同じ部屋で、お茶でも飲みながら、話しているのかしら」
「多分ね」
そう蓮子は言ったものの、五年だとか十年だとかいう言葉だけが空回るばかりで、具体的な光景は浮かんでこなかった。
「大学卒業して、仕事に就くか結婚するかして、それでお互いの時間をやりくりして、こうして会って、それでやっぱり結界暴きをするのよ」
言葉で未来のイメージをつかもうとする。だが、魚の鱗のようにぬめぬめと滑り、確かな実像がつかめない。
「ねえ蓮子」
「なに」
「私たち、いつまでこうしていられるのかな」
窓から射し込む色とりどりの光に染まったメリーの目は、奇妙な光を放っていた。蓮子は思う。今は、今でしかない、それを未来へ持ち越すことはできない。そう考えると、だんだんと、何もかもどうでもよくなってきた。
「蓮子は、いつまで私といてくれるのかな」
「さあ」
「いつかは、離れ離れになっちゃうのかな」
「さあ」
「そんなの嫌」
不意に、メリーは涙声になる。
感傷的になるな。
蓮子は自分に言い聞かせる。
「絶対に嫌」
メリーは蓮子を睨みつける。まるで蓮子の後ろに、運命がいて、それに向かって戦いを挑むかのようだった。蓮子は冷静さを失わないように、努めて平静な声を出した。
「そんなの、その時の私たちが決めることでしょ。今の私たちがすることじゃない」
会話は唐突に途切れる。メリーはベッドに顔を伏せる。蓮子は冷蔵庫を開けて、中に入っているサイダーの瓶を開ける。二人とも、テレビを見る習慣がないので、部屋には空調の低い音だけが聞こえる。
サイダーを残り三分の一になるまで飲んで、冷蔵庫にしまう。スカートをはき、ブラウスを着て、ネクタイをつける。発表用の資料を鞄に詰める。帽子掛けにかかっている自分の帽子に手を伸ばす。
「本当に行くの」
メリーはベッドから体を起こし、蓮子に手を伸ばす。
「うん、時間が」
「蓮子」
蓮子は、扉に向けた視線を、おそるおそるベッドに戻す。メリーの青い目は、装飾的に輝いていた。彼女の人差し指と中指は、蓮子の肘にかかっていた。
行きたくない。
「行くに決まってるわ。さあ、あんたも朝風呂浴びたんなら、目は覚めてるでしょ。図書館にでも行ってきたらどう。それか、服でも買うとか」
逃げるようにして、部屋を出て行った。振り向かなかった。それなのに、ベッドの上でひとり、ぼんやりとして、蓮子の背中を見つめるメリーの姿が頭に焼き付いて離れなかった。
アスファルトの道路は、突然終わりを告げた。桜の少女を見つけたベンチから、さらに三十分歩き詰めだった。太陽は強烈に照り、二人は汗だくだった。梅雨は明けそうで明けない曖昧さで相変わらず蒸し暑く、気温だけが日々上昇していく。左右にはもう建物はほとんどなく、配送センターの工場や送電塔や、よくわからない建物がぽつぽつ立っている程度だった。
途切れた道路の先は、湿った雑草におおわれた原が広がっている。
「ほら、やっぱりね。こっちの方から、バスが来れるはずないのよ」
蓮子は心が躍った。メリーは財布に入れていた切符を手に取った。空が変わる。ちぐはぐな斑模様になる。白黒入り乱れた雲に、赤や黄、黒の空が広がっている。
今までにも何度か切符を手に取ったことはあったが、空が奇妙になるだけで、他に特に変わったことは起きなかった。冥界行きのあのバスに乗るためには、最初にバスを見た道路に行く必要があると、二人は結論づけた。
蓮子が研究科へ進むことを告げたあの日から、二人の間には何となく気まずい雰囲気が流れていたが、それでも、日々起きて、食事して、別々の授業に出て、また食事して、眠るという日常を、破綻なく過ごしていた。
あれからひと月経った。冥界行きの切符を使おうと言い出したのはメリーだった。論文発表の後始末で、毎晩遅くにしか部屋に帰らず、秘封倶楽部としての活動も怠っていた後ろめたさもあり、蓮子は即座に承諾した。
メリーが切符を持っているにも関わらず、空模様に変化が訪れる。
雲行きが怪しくなってきた。彩り豊かだった空の色が、灰一色となっていく。
涼しげな、水気をまとった風が肌を撫でたかと思うと、さあっと降り出した。
二人は走り出した。道の脇に大きな木があったので、その下に駆け込んだ。
「あら、墨染桜だわ」
メリーが言った。この前は、ここで少女の幻のようなものを見たのを、蓮子は思い出す。メリーがいまだに、あれは幽々子ではないと言い張るのが、蓮子には理解できない。
「前にも思ったけど、どうして春でもないのに桜なんてわかるの。しかもその種類まで」
「蓮子、図鑑って知ってる?」
メリーはそう言うと、樹皮を撫でた。頭上はむせかえるほどの緑に覆われているが、それでも雨を完全に遮断できるわけではない。葉の隙間を縫って振りかかってくる雨粒は、涼しさを呼び込んでくれる。
「ねえ蓮子」
どこからともなく音楽が聞こえてくる。それは雨粒が葉をたたく音に混じっている。区別が難しいが、それは誰かが楽器を弾いている音だ。
「なに、メリー」
「蓮子は研究者になるの? 物理学の」
急に具体的な話をされて、蓮子は戸惑った。てっきり、幽々子という不思議な少女や、狂った空や、幻想郷にあると言われる忘れ去られたものについて、話し出すと思ったのだ。
「そうよ。普通に就職するのも面倒だしね。勉強は楽しいわ」
「確かに面倒よね。あーあ、労働したくないなあ」
「それでメリーは? どうするの」
こんな話をメリーとするのは滅多にないことだった。単位が取れないとか、カフェに新作のケーキが入ったとか、夜暴走族がうるさいとかいう日常の話は欠かさずしている。終わりのないものであるかのように、話している。会話の流れが、時間の流れを推し進めるものに触れようとすると、蓮子もメリーも巧妙にそこを迂回した。二人の世界にひびが入るのを恐れた。
「私は、何もしたくない」
「それは駄目よ。答え方が反則」
「どうして」
「無理よ、それは」
「今がずっと繰り返せばいいのにね」
メリーは蓮子を見る。目の光が、作り物めいたものになる。
「そう、ね。私も、そう思う」
「思うでしょう? この先をどうするか考えるより、今この時を少しでも伸ばすことを考える方が、ずっと建設的よ」
「でも、時は戻せない」
「戻せなくても、止めることはできるかもしれないわ」
「箱庭みたいに?」
「幻想郷みたいに」
音楽が、ひときわ大きくなる。雨に混じって、ピアノや、バイオリンや、トランペットの音が聞こえてくる。
近くに楽団が来ているのだろうか。こんなところに来るならば、幽霊ばかりで構成されているに違いない。
路肩にバスが停まっている。二人は顔を見合わせる。窓が開き、幽々子が頭を突き出した。
「あら、お久しぶり。切符は忘れずに持ってきたかしら?」
バスが出発すると、すぐに、窓の外の流れる景色は見慣れぬものに変わっていった。
硝子に刻まれたひっかき傷のような無数の線が、横へ流れていく。
座席には蓮子とメリー、それに幽々子の他にも、座っているようだった。
ようだった、というのは、乗客たちはどうも幽霊らしく、不定型だったからだ。はっきりと人間の形をとっていることもあれば、動物になったり、岩石や植物になったり、透き通ったり、煙のように消えてしまったり、また現れたりしていて、同一人物なのか、かわるがわる乗り降りして乗客が入れ替わっているのか、今空席なのかどうかすら、あやふやだった。
楽しそうだった。だいたいふたり以上で行動しており、談笑が絶えなかった。彼らの会話は、蓮子には、言葉というよりは音の連なり、つまり音楽のように聞こえた。音とは、風がビルの間を吹き抜けたり、金属が打ち鳴らされたりする音であり、地響きに似たものや、木魚に似たものだった。
蓮子は、自分もメリーとそういう音を交換してみたくなった。メリーは通路を挟んだ窓側の席で、外を見ていた。蓮子はメリーの隣に座った。メリーは一心に、線を見ている。蓮子はメリーにゆっくりと体重をかける。彼女が何も言わないのをいいことに、ぐったりとよりかかる。
メリーの顔を間近で覗き込む。蓮子は背筋に震えが走る。メリーは完全に放心状態になっていた。両手を窓に添え、口は半開きで、瞳はまったく動いていなかった。機械的に瞬きが繰り返される。
青い目は、外の線の流れを忠実に映していた。蓮子はメリーの目を覗き込む。
「箱庭が、完成したのね」
思わずそう呟く。それが、この魔法のようなメリーの時空を壊す呪いの言葉であることを自覚していた。
蓮子は時々自分でもわからなくなる。
完全に動きを止めた、人形のようなメリーを永遠に鑑賞していたいと思うこともあるが、そうなると、今度は無性にメリーの声を聞きたくなる。ノイズ交じりの声で自分に話しかけて欲しいと思う。
メリーの瞳がきょときょとと動き出す。
「あ、蓮子。何? 私、夢中になってて」
「いいの」
「よくない。重い。どいて」
「いいの。この流れに見とれてたんでしょう? 私も見とれていた」
「これ、すごいよ。境界線が、ほとんど無限と言ってもいいくらいに引かれているの。というより、この流れすべてが、あらゆる境界線でできているかもしれない」
「あらゆる境界線? それって全事象ってこと」
「ううん。おそらく、事象そのものは何も入っていない。空っぽ。だけれどこの流れが、多分、この世界で起こるあらゆる事象を線引きして、分類して、解釈する」
「私たち、どこに向かっているんだろう」
「冥界よ」
答えを期待していなかった問いだったので、蓮子は驚いて振り向いた。幽々子が微笑みながら、手を差し出していた。
「はい、切符を拝見します」
「あ、はい。メリー、切符貸して。二人だけど、一枚でいいかしら」
「うーん、そうね。まあ、渡したのも招待したのも私だから、いいわ」
幽々子が切符に触れると、切符は青白い炎に包まれて、蝶に変わって、幽々子の指から飛び立った。見ると、車内には既に無数の蝶が舞っている。
「乗客、結構いるのね」
「ほぼ満席ね。もうすぐ終点だから、そこで降りる人が多いのよ」
「終点って」
「白玉楼。私たちの家」
流れの中に、ちらちらと、草木が見え隠れする。霧が晴れるように、山や川が見えてくる。前方に、空の果てまで続いているかのような長い階段が現れる。その果てに、かすかにだが、中華風の建物が見える。
「ひょっとして、あの階段登るの」
メリーは、否定してほしそうに幽々子を見る。
「死人だったら三日あれば登れるわ。けど、生きているなら、もう少しかかるかもね」
幽々子は、何でもないことのように言った。
バスは階段の前で止まった。ドアが開くと、バスの中の空気がどどっとそこへ流れ込んでいく。やはり、蓮子やメリーに見えないだけで、かなりの数、乗客はいたらしい。
蓮子、メリー、幽々子以外の乗客は、みな降りたようだった。というのも、運転手の白髪の少女が立ち上がり、バスから降りようとしていたからだった。少女は段を降りて、外へ出ようとする。その途中で立ち止まり、蓮子たちの方を見た。正確には、幽々子を見た。
「私は、いまだに、賛成できません。申し訳ありませんが」
「あら、あなたの意見は聞いていないわ」
にこにこと笑いながら、幽々子は残酷な言葉を放つ。白髪の少女はうつむき、拳を握りしめる。
「わかっています。ですが、やはり一般の人間を冥界に連れてくるなんて、余程のことがない限りやってはいけないことです。第一、その方々にとっても危険です。ここにいるということは。特にそちらの方は、結界に関わる能力を持っています。幽々子さま、いったい何をお考えなんですか。まさか、また」
「妖夢、あなたに二人の接待を命じるわ。たっぷりもてなしてね」
「幽々子さま……」
「心配しなくてもそんなに長居はさせないわよ」
「あら、私は長居するつもりで来たんだけれど」
ほっと安心しかけた妖夢は、慌ててメリーを見る。
「そうなの? メリー」
「そんな、今の話、聞いていなかったんですか」
「聞いていたわ。でも、人間何事も工夫が大事よ」
「そうよ。メリーさんは境界を見ることができるから、冥界の影響も上手にそらすことができるはずだわ」
「そちらの方は……」
「蓮子さんは時と場所を知ることができるから、冥界の支離滅裂さにも十分適応できるはずだわ」
蓮子は不安に感じた。今の幽々子は、明らかに言葉遊びをしているだけだ。実際に生身の人間が冥界でどういう影響を被るのか、はっきりと応えてはいない。
「そうですか……わかりました」
「わかればいいのよ」
幽々子は悠々と浮き、バスを降りる。蓮子は思わず、妖夢と呼ばれた少女に声をかけた。
「ねえ」
「は、はいっ、何かご用でしょうか」
うつむいていた頭を素早くあげ、蓮子の目を見る。そのあまりにまっすぐな視線に、蓮子はたじろいだ。
「うん、なんか、ごめんなさいね、無理やり押し入ったみたいで」
「あ、いいえ、そんなことないです。邪魔に思っているとか、そう言うのじゃないですから。私も、半分は人間ですから、久しぶりに人間の方を見て、ほっとしたのも事実ですし。なんだか安心できました。本当は、歓迎したいんです」
妖夢と話していると、最初の印象と違い、素直で、人懐っこい性格だとわかった。仕事に真面目に取り組み過ぎるので、一見愛想がないように見える。
「規則や義務というのは、厄介なものよね。守らなければならないんだけれど、それでも、時には気持ちを裏切るわ」
「何もっともらしくうなずいているのよ、蓮子。あなたいつも、気持ちに任せて規則を裏切り続けているくせに」
「わかってないわね、メリー。私はいつも、ギリギリのところでしっかり制度枠におさまっているのよ。安全なレールの上をひた走っているのよ」
「そうだったの、初めて知ったわ」
妖夢は、控えめにだが、声をあげて笑った。
「楽しそうですね、お二人は。うらやましいです。さあ、行きましょうか」
蓮子はうなずいて、バスを降りる。
幽々子が前に進まず、目の前の人物と向かい合ったまま、黙っている。
赤いリボンのついた帽子をかぶり、紫紺のドレスを着た少女が、傘を差し、浮かんでいた。何かに腰かけている。それは、空間の裂け目のようなものだった。裂け目の奥には無数の目が潜んでいた。
「紫、どうしたの? そんなに怖い顔をして」
幽々子が少女に話しかける。蓮子は、二人の間に流れる緊迫した、それでいて親密な空気を感じ、声をかけられなかった。
「怒っているの、紫」
「怒っていないわ。おもしろがっているのよ。これからあなたがどうするか、ね」
「嘘。そういう顔してないわ」
幽々子は浮き、紫と呼ばれた少女の目と鼻の先で止まる。
「千年も死んでいるとね、好奇心が旺盛になるの」
「そこまでして突き詰めるものでもないわ。玉手箱の中身なんて、何も入っていないのだから」
「あら、開ける直前が楽しいのよ。今は、どれが箱かもわからない状態」
紫は、目線を幽々子から、蓮子、さらに今バスを降りようとしているメリーへと移していく。
「その子たちに箱を探してもらうのね」
「きっと、いい箱が見つかるわ。優秀な生者だもの」
幽々子は振り返り、蓮子とメリーの手を取った。鳥肌が立つ。それほどに幽々子の手は冷たい。
「さあ、階段を上ったら御馳走よ。妖夢が作ってくれるわ。紫、あなたも食べていく?」
「私は遠慮しておくわ。今日は別の用事で来たのだし」
「用事って」
「今の件よ。話は終わっていないわ。はい、これ」
裂け目に手を入れ、一枚の紙きれを差しだす。
「是非曲直庁からの召喚状よ」
「どうしてあなたに託したのかしら」
「まったくだわ。私も眠ったりゴロゴロしたりするのに忙しいのに。まあ、あの閻魔さまのことだから私に説得して欲しかったんでしょうけど」
「紫に? 私を?」
「するつもりもないけど」
「そうね、されるつもりはないわ」
「もう帰って寝るわ。おやすみ」
「おやすみ、紫。いい夢を」
紫は裂け目に入っていく。最後に、首だけになったところで、ふと思い立ったように、蓮子とメリーを見る。
「初めまして。八雲紫と申します」
「あ、は、初めまして」
「初めまして」
蓮子が反応し、次にメリーが言う。今まで二人を無視して幽々子と話していたので、このまま無視で終わると思っていたところへの突然の挨拶だったので、蓮子は戸惑った。
「生きた人間が冥界に来ることは、最近までほとんどなかったのだけれど。増えてきたわね。でも、基本的にここはあなたたちを拒絶するようにできている。いくら幽々子が甘い顔をするといっても、急な事故には遭わないよう、気をつけなさい」
首だけになった紫は、蓮子とメリーのまわりをふわふわと漂う。裂け目は少しずつ紫を中へ飲み込んでいく。耳が、帽子が、豊かな金髪が、裂け目の中へ消えていく。額が消え、目が消え、鼻が消え、顎が消える。唇だけが残る。
唇が笑う。
最後に唇も消えて、後には何も残らなかった。
蓮子は頭を振り、目をこする。バスから降りる前辺りから、体がだるく、視界の四隅がぼやけていた。
「不思議な人ね」
メリーの呟きが聞こえる。
「そうでしょう。変わってるのよ、紫は。さあ、ご飯が待っているわ。運動よ運動」
幽々子はのんびりと言う。
蓮子は行く先を見上げる。
白玉楼の階段は、果てしがなかった。
私も見てみたかったorz
まだ話の本筋は分からないからこの点数だけど、今後に期待。
↓駄文返し
いろんなコスプレがいましたねぇ
文が一番多かったでしょうかね
このままだとまったりと普通の人間としての道を歩んでぼんやりと大人になっていくだろう蓮子とメリーの関係がこれからどうなっていくのかが気になります。
というより、何を見て何を思い出すのか。楽しみです。
続きをワクワクしながら待ってます。
ともかく続きだ