「あ」
まだ空も暗く大気も肌寒い頃から起床し、禊をし朝拝を終え、朝餉の支度に取り掛かっていた早苗は戸棚を開くと醤油の切れかかっていることを認めた。そういえばそうだった、と彼女はそのことを思い出す。
今、神社にある生活用品等ほぼ全ての物は、元居た世界から持ってきたものである。無くなってしまったのならば、それはこちらの世界で得る他、手段はない。
調味料は何処に売っているのだろうか、朝餉を終えて、もう少し明るくなったら外へ出掛けてみよう──そう考えながら、早苗は醤油を諦めて塩のみを手に取った。味を付けることには、それで十分なのである。
朝餉は茶碗一杯の米に、すまし汁、外で適当に見繕った山菜の漬し、と質素なものだった。
「いただきます」
卓袱台の前に背筋をすっと伸ばして正座し、早苗は胸の前で小さく両手を合わせ一言そう言うと、箸を持って独り食事を始めた。彼女は黙黙として箸を動かし続ける。茶碗と箸のぶつかる、艶のある高い音だけが部屋に響いていた。神奈子は何か用事があるか、早苗から呼びかけない限りは基本的に姿を現さないし、何より今の時刻ではまだ眠りについている。神社には早苗独りしか居ないも同然だった。
しかし、ふと早苗は箸を止めると部屋を見回した。一切の音が無くなる。幽かに、彼女は誰かの視線を感じたような気がしたが、勿論誰も居るはずがなかった。早苗は、今はもう掻き消えてしまった違和感に首を傾げると、食事を再開した。
◆
「いってきます」
返事など返ってくるはずもないし、無論それを理解した上で早苗はその言葉を告げて神社を出る。彼女は生来、礼儀作法を重んじる性格であった。
山の大地を踏む。草木には朝露が陽光に煌き、大気にはまだ十分に日の光が染み渡っておらず、仄かに冷たい。鳥の鳴き声も疎らで、閑閑としていた。
早苗は一度、瞳を閉じて深呼吸をした。ただそれだけで身体が清められていく心地のするほど、山の空気は澄んでおり、静謐は彼女の精神を満たし穏やかに、しかし鋭くした。
目蓋を上げると、彼女は地を蹴り宙へと身を放った。身体の一切から解き放たれるような感覚が彼女は好きだった。浮遊への目まぐるしさに心が躍った。手を翳し仰ぎ見た天空は一点の曇りもなく蒼蒼とし、太陽が燦然と輝いている。奇麗な秋晴れだった。
山を麓まで降り、そこから更に少し行くと、自然の色彩の鮮やかな中に一つ集落らしいところ、人間の里が見えてくる。物の売買がなされているところを考えると、他に目ぼしい場所も無かった。
早苗は、神社を発つ前までの彼女は何処へか、落ち着きの無さを、辺りを忙しなく見回すという行動に表しながら、里の前に足を着けた。彼女は幻想郷の地理の大体は把握していたが、何処も実際に立ち寄ったことは少なく人間の里へ来るのも、これが初めてである。早苗は僅かばかりに緊張していた。
「落ち着いていこうって決めたのに」
そんな独り言も漏らしつつ、相手はただの人間だと早苗は自らに言い聞かせる。なのに彼女の足はそこから一歩も進まない。彼女が何をそこまで躊躇うことがあるのかと言えば、それは緊張などは軽いもので、異国への恐怖でもなく、もっと別の理由があった。
里の方へ眼を向ける。そこは静かで、しかし確かな活気を彼女に感じさせた。遠く、子供たちのじゃれあっているのだろう、楽しげな笑い声を耳にして、早苗は唇を一文字に結ぶと歩き始めた。
家家の風景に視線を移しながら、彼女はゆっくりと里中を歩く。立ち並ぶ建築は、古くよりの日本らしい造りで、もう外の世界ではなかなか見られなくなったものだと早苗はある種の新鮮さを覚えた。彼女は職業柄、和を好むものだったので、眼に映る風景には何処か親しみやすさを感じた。
といって、本来の目的も忘れることはなく、何がしかの店と思わしき場所には彼女は必ず立ち寄った。何しろ、ほとんど手探りの状態なので、何処へ行けばいいのか分からない。かと言って、彼女は人に尋ねるのを躊躇った。八百屋で新鮮そうな野菜を眺めながら、スーパーマーケットが無いのは不便だなと彼女は思った。……
よろず屋の店主は気さくな人柄で豪胆な笑い方をし、客である早苗の方が驚いてしまうくらいだった。彼は彼女のことを『お嬢ちゃん』とそう呼んだものだが、それは彼が、早苗を他の人間と同じに見ていることに違いなく、むしろ彼女を不機嫌にした。
もちろん、早苗はその感情をあからさまにすることなく、今こうして用事を済ませ縦長な陶器の瓶に入った醤油を、愛用の、カエルを模した大きく可愛らしい刺繍の入ったバッグに入れ、里の外まで出てきたのだが、そこでようやく彼女は溜息を吐く。
「はあ」
里中ですれ違った人間は、時間が時間だからであろうか少なかったが、一度も見かけたことの無い早苗に気を向ける者は少なかった。誰もが彼女のことを只の人間としか見ていないのだ。それが、早苗の恐れていたことだった。もう一度、彼女は重い溜息を吐く。
複雑な心持で、早苗は静かな田舎道を歩いていた。端に咲く花には、冬が徐徐に忍び寄ってきているのを感じさせるように、枯れかけているものもいくつか見られる。それを視界の隅に入れつつ、しかし何処か遠くを見つめ早苗は歩いていた。
「所詮、人間」
突然聞こえてきた声に、物思いに耽っていた早苗はひどく驚き周囲を振り返ったが人の姿は見えず、何処からともなく頭の中に直接響くように聞こえてきたそれに彼女は一瞬戸惑い、しかしすぐに納得した。
「八坂様、ではありませんね。……洩矢様、でしょうか」
朗らかで何処か楽しげな口調。神らしからぬ神は、一度でも面識のある者にとっては印象的であった。
「あら。まだ覚えててくれたのね」
その神──諏訪子は意外そうな声を上げた。今は見えぬその姿形もそうであったと早苗は記憶しているが、彼女の声音は幼げで子供のように跳ねる息遣いをしており、早苗の今の気持ちとは裏腹のものであった。
「一応、神社の神様ですから」
こうして精神対話を出来ているのも、八坂様の恩恵程度だろうが信仰の復活により力を取り戻してきたためなのだろうと早苗は推測した。しかし、大した関係も持たない諏訪子がどうして干渉してきたのかは彼女には解らない。単なる暇つぶしかとも思えた。
「ふぅん」
諏訪子は、苦笑した。というのも、早苗が自らの存在を知りながら、どうして一つの神社に二つの神が居るのかをほとんど理解していないにも関わらず、そんなことを口にするからである。もはや完全に忘れ去られようが諏訪子にとってはどうでもいいことだが、それが彼女には妙に滑稽に思えるのだ。
「それで、どのような御用件でしょうか」
早苗は、あくまで冷静に諏訪子に対した。というより、早苗には明らかに諏訪子を退けようという意図が見られ、むしろ冷淡な態度であった。
「所詮、人間」
諏訪子の、そんな早苗の反応を楽しむかのような含み笑いの物言いに彼女は気を悪くしたように瞳を伏せる。
「どういう意味か、分かりかねます」
「ふふ、とぼけるの」
おどけた調子で諏訪子は続けた。
「悩み事があるんでしょ」
「わざわざ貴方様に聴いて頂くほどのことでもございません」
遠慮しているようでいてはっきりとした拒絶を示した早苗に、諏訪子は感心したように息を吐いた。その話題を嫌い、避けようとしているのが手に取るように解ったが、むしろそれを面白がった。
「人間扱いされて悔しい」
早苗が俯く。諏訪子の姿はここには無いが、それでも見られている気がして──実際、視えているのだろう──彼女は表情も感情も読まれるのを嫌った。
「貴方は、ここでは只の人間よ」
その言葉に、早苗は唇を噛んだ。
風祝として生まれた早苗は、生来より奇跡の秘術を操ることのできる己に誇りを持っていた。時が過ぎ変わり現人神として崇められることこそなかったものの、それでも元の世界では、自分は特別なのだという優越感と自尊心があった。しかし幻想郷は、この奇跡の世界は、奇跡を起こすことのできる彼女に対してむしろ残酷な仕打ちをした。というよりは、奇跡の世界だからこそ超常的な事象がありふれており、彼女を何も特別な存在でなくし只の人間へと貶めた。彼女が人里を前にして足を踏み入れることを躊躇った理由も、この世界の普通の人間と触れ合うことでそのことを真に認識してしまうのを恐れた為であった。
信仰は儚き人間の為に。現人神としての己は、早苗にとってある意味、もう一つの信仰の対象であった。それを失った今、彼女は不安定になり、あまりに世界に対して脆かった。
「私は──」
それでも認めたくなくて、彼女は必死に口を開いたが、そこから言葉は続かず開かれた唇は空しく震えるのみだった。
「現人神ですって。そんなの思い上がりね」
それを諏訪子は冷たくあしらう。早苗がその拳を固く握り締めるのを、彼女は満足げに視ていた。
「この世界で貴方に何が出来るの。風を怒らすことが出来る、か。雷雨を唸らすことが出来る、か。それは本当は貴方の力ではないし、秘術だって此処では大したことじゃあない」
「……怒りますよ」
微かに震える声で早苗は言った。しかし、諏訪子は聞き入れない。
「それで、人々は貴方を祭り上げてくれるかしら」
「あ、ぅ」
息苦しい、身体が熱い、うまく立っていられない……気持ち悪い。早苗は、視界が目まぐるしく回転しているかのような感覚にとらわれていた。悔しい。悔しいのだが、何も言い返すことが出来ない。神とは、人とは、己の価値とは。そんな言葉が、早苗の思考をぐるぐると回っていた。
「貴方は何がお望みなの」
分からない。信仰なのか、力なのか、安定なのか、或いはすべてなのか。この世界に何を求めていたのか。何かに恐怖していた、何かを期待していた。何にか、何をか、分からないのか逃げているだけなのか。様々の思いが、早苗を取り囲み、渦巻き、押し寄せていた。
「貴方は、何なの」
早苗はとうとう押し黙ってしまう。混沌とした感情に戸惑い、すべて投げ出してしまいたいという思いにすら駆られ、それらは鬱憤となり怒りとして吐き出されることをついには望んだ。
「洩矢様は何なのですか」
しかしそれでも、早苗はまだ冷静に振舞うことができた。不屈の信仰心によって、神に対する無礼を必死に抑えつけた。
「私のことをそう仰るのでしたら、もう誰にも信仰を受けていらっしゃらない洩矢様は、それでも神だというのですか」
諏訪子は、つい笑ってしまった。内心限界まで張っているくせ、それを意地で押さえつけ冷静さを欠かず、しかし鋭く噛み付いてくる早苗に、一種愛しささえ感じずにはいられなかった。
「あは。そうね。もう神様じゃあ、ないのかもね」
しかし、諏訪子はそう返した。そのあまりにも淡白な肯定に、早苗は拍子抜けしてしまう。いっそここで諏訪子がうろたえていたならば、まだ彼女の気持ちは晴れただろう。
「私はもう別に誰も彼にも忘れ去られようが、楽しく暮らせればそれで良いの」
そんなことは心底どうでもいいのだとでもいうように、極めて軽い口調で諏訪子は話す。
「だって、あれこれ難しいことを考えても仕様がないじゃない」
思考を放棄することは簡単で、しかも魅力的である。しかしそれは同時に、矛盾するようだが安易には受け入れがたいことで、もちろん早苗も理解はできるが納得はできなかった。
「そう、思わない」
分からない。彼女のことは何一つ、理解できない。
「私には、そうは思えません」
だから、早苗は彼女を拒否した。
「そう」
諏訪子は短くそれだけ答えた。そこにはそれまでとは違った感情が込められているような雰囲気があったが、早苗は気が付かなかった。
「別に、それならそれでいいの。貴方の自由よ」
声のトーンを若干高くして、晴れやかに諏訪子は言う。
「さあ、それで貴方はいったい何なの」
そしていよいよ早苗は、何も答えることが出来なくなっていた。……
◆
木木の葉は深紅と云うに相応しく色づいており、流れる川のせせらぎはさらさらという絹のような質感と時折水の跳ねる透明な音で聴く者の耳朶を打つ。未だ深く秋めいている妖怪の山の中を、早苗はゆっくりゆっくりと飛んでいた。
「言うだけ言って、それだけなんて」
もう、今日で何度目だろうか。早苗は溜息を吐いて、愚痴をこぼした────あの後、諏訪子は早苗がすっかり沈黙してしまったのをそれ以上問い詰めることなく、「もうお昼寝の時間になっちゃった」などと言って、その声を何処かへ掻き消してしまった。
身体の熱くなっていたのは涼しく乾いた秋の風が冷まし、早苗は頬を膨らませ文句を二、三、言える程度には落ち着いていた。あれも彼女にとっては、一度そう考えた通り、やはり単なる暇つぶしに過ぎないのかもしれない、冷静になって考えてみれば自分はまんまと洩矢様のお遊びに付き合わされてしまったいたのではないか、とそう早苗は己を恥じた。
しかし、彼女の言葉は確かに早苗の思い悩むところで、早苗は憂鬱な心持で昼過ぎの空を見上げた。朝にはあれほど奇麗に思えた蒼色も、今では悲しみと陰鬱を湛えているようにしか感じられなかった。
早苗はのろのろと、山の間を流れていく川の上空を飛んでいた。
「ちょいと、そこの」
「え、はい」
突如として投げかけられた誰のものとも分からない声に早苗は身体を留め、辺りを見回す。妖怪だろうか、と早苗は若干の緊張を瞳の鋭くなったのと、結ばれた唇とに表していた。彼女は自分自身が、彼女の考えているより、ずっと臆病になっていることには気づいていない。ややあって背後から聞こえた、水の大きく跳ねる音に早苗は驚き振り返り、そしてその正体を目にして張っていた肩を落とした。その少女は、川の中程に突き出た大岩の上に誇らしげに立っていた。
「えーと」
「やや、そう驚きなさるな。いくら私の姿が見えないからってー」
妙なことを言う、と早苗は思った。彼女の姿は、早苗には実にはっきりと見えている。
「河童の、にとり。でしたか」
「あ、あれ。なんで分かるのさ。私って、そんなに特徴的な声してたっけ」
河童少女にとりは素っ頓狂な声を上げて、大真面目な様子でそんなことを言う。わざとやっているのか、それともそういう遊びなのだろうか、とさえ早苗は考えた。
「あの、見えてますけど」
「ああ、なんと。あれから改良に改良を重ねた光学迷彩スーツなのに!」
どこが駄目なんだろうなどとぼやきつつ、腕を組んで唸りだすにとり。どうやら彼女は本気らしい、と早苗は呆れ顔を浮かべた──彼女にはどうにも、幻想郷の住人というものは感覚が一つ、二つずれているような気がしてならなかった。突拍子もない言動や飛躍しがちな思考、それでいて緊張感の欠片もない態度など、早苗は霊夢らと対峙したときからずっとそれを感じていた。無論、目の前の河童少女も例外であることなく、仕舞いには見える方がおかしいんだ、などという結論に辿り着いて何事もなかったかのように話を戻した。
「まあ、そんなことはどうでもよくってだ」
「その割には少々お悩みの様子でしたが」
どうでもいいというのはこちらの台詞だという思いを込めつつ、早苗は突っ込む。
「と言っても、大した話題なんて無くて、見かけたから声をかけてみたというだけなんだけど」
しかし、にとりはといえば全く意に介していない様子であったので、早苗はまともに会話することを諦めた。どうも気力を奪われる気がするのだ。
「でも、外に出てくるなんて珍しい」
「それではまるで私が引きこもりみたいじゃないですか」
「違うのか」
早苗は目を丸くして否定する。
「違います!」
「あ、そう。でも、なかなか外では見かけないし」
「外に出る必要がないだけです」
それだけで引きこもり扱いされていてはたまらない、と早苗は唇を尖らせた。そう、そもそも外に出る必要性が無いだけなのだ。例えば、今日のように何か理由がない限り、とここまで考えて彼女は急に諏訪子とのやりとりを思い出し瞳を伏せた。
「じゃあ、今日は何か理由があったわけだ」
「ええ、まあ」
明らかに早苗の声が沈んだ。にとりが、不思議そうに彼女の眼を見つめた。
「どうかしたかい」
「え。あ、はい。ちょっと、お醤油が切れてしまったので、それで」
早苗はふっと、憂い物思いから立ち返った。山の妖怪にまで悟られてしまうのではと仕様がないと思考を切り替える。しかし咄嗟に浮かべた苦笑いも、自身で分かってしまうほどに引きつっていた。
「ふーん。私は味噌派だなぁ」
「きゅうりにつけると」
「すごく美味しい!」
人が変わったような勢いで激しく同意を求めてくるにとりに、適当に相槌を打ちつつ、早苗は安堵の息を漏らした。深くは追求しない、にとりの暢気さが彼女には救いだった。それに、少しだけ幻想郷の住人への接し方が分かった気がした。
「では、私はもうこれくらいで」
それから他愛も無い会話もほどほどに。頃合を見計らって、早苗はこの場から立ち去ろうと試みた。
「ああ、うん。引き留めちゃったかな」
つい話し込んでしまったのに気づいて、にとりはやや恥ずかしげに帽子の縁を指で弄んだ。人間寄りの妖怪でありながら人見知りをする彼女には、こうして人間と話す機会も少なかった。
「そっちの神様にもよろしくね」
「ええ、分かりました」
そう言って軽く会釈をすると、早苗は飛んだ。後ろで、にとりが大仰に手を振っている。
「道中お気をつけて。人間のお嬢さん」
「え」
妙な呼び方に早苗が振り返ったときには、もう彼女の姿は何処にも見つけられなかった。水面に僅かながらに広がった波紋を暫らく眺めてから、早苗はその場を後にした。……
恐ろしいことだ、と早苗は仏頂面にそう思った。川上に往くにつれ、荒涼として隆盛を見せる岩肌が多くなり、ついには滝へ辿り着く。今、彼女はそれを見上げているが、切り立つ壁のごとき風格にはいつもいつも、つい圧倒されてしまう。何しろ、上がよく見えない。水飛沫で、やや霞がかっているように見えなくもない。
恐ろしいことだと彼女はまた思った。外の世界でもこれほどの自然というものはなかなか目にできないもので、その壮大さに感嘆とすらしてしまう。いい加減に首が疲労に痺れてきたので、早苗はずっと滝を見上げていた頭を元に戻し、手で軽く首の辺りを揉んだ。正面には、落下してきた水の叩き付けられるようにして起こる大きな白い飛沫が見られる。ここで禊をしたら痛いだろうな、と早苗は思った。滝の表層に時折突き出ている岩石も、日々削られ続けているのだ。
暫らく、彼女はそんなことばかり考えていて、そればかりでは仕様が無いので、その巨大な壁を昇ることにした。
とはいえ、彼女は宙を飛んでいる。勢いよく落ちてくる水に押し戻されてしまうような感覚に襲われることを除けば、上まで昇っていくことは何も難しいことなどない。彼女はひたすら無心に飛び続けていた。
何処まで来たのかはよく分からないが、もう結構な時間を飛んでいる気が、早苗にはした。上方を幾ら目を凝らして見ようと埒が明かないので、彼女はふいと立ち留まると何の考えもなく下方を見てしまった。……滝のざぁざぁという音が、やけに強く耳に響く。もうあの白い飛沫の塊も随分小さくなり、そこへ吸い込まれるかのように眼を引き付けられていた早苗は、不意に浮遊している身体の、落ちていきそうな感覚に襲われ背筋に寒気が走った。彼女は慌てて上方を向き直す。しかし、そこに映るのは高く蒼い空ではなく真っ黒な双眸だった。
「う、わぁ」
「おっと」
早苗は思わず間の抜けた声を上げて、それを押し退け或いは身を守るために、がむしゃらに両腕を振るった。手応えはなく回避されたのだという認識が、早苗の思考をむしろ冷静なものへ追いやっていく。とにかく何者であったのか視認しようと顔を上げたその先には、彼女を覗き込むような格好の射命丸文が居た。
「どうもどうも、早苗さん」
してやったりとでもいうような、いやらしい笑顔でその鴉天狗は言った。早苗はというと言葉にならない声を途切れ途切れに発し彼女に人差し指を向けながら、呆れかえったように口を開けていた。
「私が、どうかしましたか。面白い顔してますよ」
まるで知らぬ振りをして、文は何処からとも無く愛用のカメラを取り出すと早苗に向けた。そんな彼女の横暴な振る舞いに、早苗は顔を赤くして抗議する。
「お、驚かさないでください!」
「ああ、ちょっと、動かないでくださいよ。ぶれちゃうじゃないですか」
「そもそも撮らなくていいです」
強引に文のカメラを押し下げ、早苗は彼女と鼻を突き合わせる。
「あら、写真に写されるのはお嫌いでしたかしら」
「何の御用でしょうか」
早苗はもう文の茶化すような言葉に付き合わなかった。からかわれることは、彼女にとってはとても腹ただしいことであった。憮然とした表情を見せる早苗に、文は少しやりすぎたかと苦笑する。
「あれ、怒っちゃいましたか。偶然見かけたもので、つい」
「まあ、いいですけど」
早苗は半ば諦めるように息を吐く。目の前の天狗の捉えどころのないのを彼女は既に知っていたからだ。それでも、その表情までは直せていないあたりが文にむしろ可愛げを感じさせてしまっていることには、彼女は気づいていなかった。
「いやね、それに外で見かけるなんて珍しいなぁと」
「私は引きこもりじゃありません!」
勢いで言ってしまってから、早苗ははっとしたように口を噤む。しかしもちろん、目の前の天狗はそれを見逃してくれるほど甘くはなく、眼を光らせていた。
「私は別にそうは言ってませんが。何か、あるのですか」
眼は口ほどに物を言う。文は、これは良いネタになりそうですと言わんばかりに文花帖とペンを取り出すと早苗の言葉を待った。慌てて早苗は首を横に振る。
「やめてください、なんにもないですよ」
早苗は苦しげな愛想笑いを浮かべる。疑いの色を湛えた張り付くような文の眸を直視できずに、彼女は視線を泳がせた。意地の悪い鴉天狗はほうほうと笑む。
「信仰も増えると思うのですけどねぇ」
「貴方に記事を書かれたら、きっと逆効果です」
溜息を吐きながら、きっぱりと早苗は断った。
「それくらいで、いいと思うのだけど」
「え」
早苗は、最初は自らの聞き違えかと思った。しかし、文は早苗から顔を逸らし、何か考え事をするようにペンを顎に当て滝の方を見つめるのみで黙ってしまったことに、早苗は聞き違えではなかったのだと確信を抱く。その言葉にどのような意図が含まれていたのかは彼女には見当がつかない。ただ、目の前の妖怪に不気味さを感じ始めていた。
「そちらの神様は元気にしていますか」
「ええ」
早苗の返事は短い。そんなことであるから会話がすぐに途切れてしまう。舌の根が乾く。もう浮かべている微笑も、ぐちゃぐちゃだろうと彼女は思った。
「昨晩だって、宴会したばかりじゃない、ですか」
「ふふ、そうでしたか」
言葉の端々が、噛み合わせの悪い歯車のようにぎこちなかった。居心地の悪さに、早苗は文の方へ最早まともに眼を向けられていなかった。
「もう、往きますね」
だから、早苗は背を向けた。できるだけ声に平静を装い、自然に、逃げ出そうとした。
「何事にも、均衡というものがある」
そこへ独り言のような文の言葉が投げかけられる。早苗は肩を微かに震わせて立ち止まった。
「崩してしまうと、面倒よね」
どういう意味なのか──それを考える余裕すら早苗にはなかった。ただ、天狗の言葉がやけに抑揚なく聴こえるのみだった。
「さようなら」
「さよなら──道中お気をつけて。人間のお嬢さん」
早苗は、息を呑んだ。
「どういう意味ですか、それは」
つい声を荒げてしまうのを、彼女は抑えられなかった。そうでもしないと、何かに押し潰されてしまいそうで、怖かった。
「ただのお別れの挨拶でしょう」
早苗は沈黙してしまう。そうだ、その通り、それ以外に何があるというのか。例え、先刻全く同じ言葉を耳にしていたとしても、何の不自然も無い──。
「貴方は人間。そして、此処は、この山は、妖怪の山」
背中を、あの黒い眸が貫いている。人に似た人でない者が、妖怪が、そこに居る。
「お気をつけて」
文がそう言い終える前に、早苗は一度たりと振り向くこともせず逃げるように飛び去ってしまった。文はその姿が白く煙る滝の頂に消えるまで、見上げたまま動かなかった。
「ちょいと、からかいすぎたかしらね」
そして軽く笑った。……
◆
恐れていたものは、世界だった。
「はっ、はぁ、は、あっ」
早苗は膝に手を突き、石畳と面を合わせていた。どこをどのように飛んできたのかなど、覚えていない。ただ息の切れてしまうほどに苦しく、空を飛んでいたにも関わらず酷く苦しく、半狂乱に此処まで辿り着いたに違いなかった。
彼女の恐れていたものは、人間と成り果てた己を取り囲むこの世界だった。自らの無力に否応なく気付かされてしまう、この世界だった。妖怪が、人間の天敵が存在していることが怖かった。神の奇跡を以ってしても、未だそれらが脅威となり得ることが怖かった。人間が、神にすら反逆する人の子が怖かった。自らの存在を否定されるようで、嫌だった。それらのすべてが鬼で、早苗は夜行の中で怯え身を縮こめる童のようであった。神として生きてきた彼女は、人間として世界に対するに、あまりに未熟で無垢であった。
流れる汗が頬を伝い、石畳の上へ滴り落ちる。日は暮れ、もう伸びる影も長い、思っていた以上に時は過ぎていたようだ。早苗は、何かに救いを求めるように顔を上げた──静かな静かな守矢の神社が、そこに在る。彼女にとってこの世界で唯一つの、帰るべき場所であった。
「ただいま、戻りました」
そう言うだけで、早苗の心は徐々に安らいでいった。諏訪子のことに関して言えば正直帰ってきたくはなかったという気持ちはあったが、しかし此処だけは心を許し、肩肘を張らないで居られる場所だという安心感が確かにあった。社へ戻り、先の暗く静かな木造の廊下を何とはなしに眺めると、草履を脱ぎそこへ足を上げる。床も空気も冷涼としており、火照った身体には余計にそれが感じられた。
「八坂様」
彼女は其の名を口にした。何か思惑があったわけではない、彼女はただ気の狂いそうなほどの孤独から声を上げた。
「八坂様」
しかし、いつもなら呼び掛ければ現れるはずの神奈子が、今日に限ってうんともすんとも言わない。廊下は、彼女の声だけを小さく反響させた。
「いらっしゃらないの、かしら」
やや不安を覚え首を傾げながらも、早苗は買ってきた醤油を厨房の棚へ置き、奥の自室へ向かった。社の中はやはり、当然ではあるのだが静寂に包まれ、早苗の裸足に踏まれる床の、年季の入った木の軋む乾いた音のみがそこに響く。
社は、彼女が独りで住むには十分すぎるほど大きなものだった。由緒のあるもので、装飾は古く、厳めしい。しかし、それでも程無くして彼女は自室の扉の前まで辿り着いてしまう。そこまでにも何度か神奈子に呼びかけはしたが、やはり彼女が姿を現すことはなかった。
「一体何処で何をしていらっしゃるのだか」
呆れたように呟き、早苗は扉に手をかける。そのときは、何の気配も感じなかった。
「おかえり、早苗」
それなのに、不意に耳元に何者かの息が吹きかけられた。首筋に、冷たい指の這う感触。
「ひぅ──っ」
早苗は驚きに目を見開き、身震いする。尋常でない勢いで逃げるように振り返り──後頭部を思い切り、扉に打ちつけた。鈍い音が重く響く。
「ぁ、ぅう」
早苗は痛みに小さく呻くとそのまま頭を抱え、うずくまってしまった。
「あ、くっ、くはっ、あはっはっはっはっはははっ!」
その様を目の当たりにして、耐え切れないというように腹を抱えて笑うのが、彼女の一族の代々祀り上げてきた八坂の神、神奈子である。
「あはっ、ひぃ、う、んんっ、早苗ったら、面白いんだから、あはははっ!」
あまりの大笑いの為か目尻には薄らと涙を浮かべ、苦しげに眉根を寄せ必死に笑いを堪えようとするも尚も笑ってしまっている神奈子に、早苗は様々な意味で頭を抱えつつ精一杯恨めしげな眸を向けた。
「八坂様」
ひくい声で早苗は言った。
「ああ、う、うん、分かってる、分かってるわよ早苗。はあぁ、あー」
そこでやっと、神奈子は息を吐いて自らを落ち着かせたが、それでも顔の盛大に綻んでいるのまでは抑えることができないようであった。その顔には若干赤みすら差している。
早苗は悔しいような、恥ずかしいような気持ちであった。
「怒りますよ」
「あー、はいはい、ごめんなさいね。早苗ったら冗談がきかないんだから、もう」
そう言葉では言いながら、神奈子はまるで反省した様子を見せない。それどころか、早苗が悪いとでも言うような口ぶりで、早苗は呆れ唇を吊り上げた。
「八坂様がはしゃぎ過ぎているだけです、全く」
早苗は、神奈子と話しているとつい、神と信仰者というよりは、何かもっと人間らしい態度に陥ってしまうのを知っていた。それが八坂神奈子という神の、気が遠慮してしまうのを感じさせないざっくばらんな気質と友好的な性格であり、早苗もやはりそこに心の解けていくのを感じていた。彼女にとって、神奈子はこの世界で唯一と言えるような理解者であった。
「ふう」
そこで早苗はようやく立ち上がる。まだ少し、頭に響くような鈍痛は残っていた。
「それで、私を呼んでいたみたいだけど。何かあったの」
「あー。ええ、まあ」
ただ話したかっただけです、などと言ってはまたからかわれるに決まっている。だから早苗は言葉を濁しつつ、神奈子に背を向けて改めて扉に手をかけ、そうしたところで彼女は釘を刺すように言った。
「また何か悪いことをなさってきたら、本当に怒りますからね」
「ちっ」
神奈子の舌打ちは気にせずに、彼女は扉を開いて部屋に入った。室内はやはり質素であり、いくつかのマスコットと唯一洋風のベッドを除けば、それ以外は和造りで、おおよそ女の子らしからぬ間である。そのマスコットというのも蛙や蛇の幾分か可愛らしく造形されたものであり、神奈子曰く客観的に見ればかなり可笑しな空間ということである。
早苗はベッドに飛び込むようにして、うつ伏せに横たわった。彼女はもう、身体も心も疲弊していた。それだけで、ひょっとすると眠りに落ちてしまいそうな魔力を、彼女は感じていた。
「大変なんですよ。宴会の片付け」
「私、まだ早苗に何もしてないんだけど」
「それとは話が別です」
痛いところを突かれたとばかりに困った様子で苦笑を浮かべる神奈子を、彼女は言うほど怒っていないのだろう、気の無いような半開きの瞳で見つめていた。
「悩み事かい」
神奈子は、腕を組んで入り口の端に寄りかかった。
「いいえ」
言いつつ顔を背ける早苗の仕草がまるで子供のようで分かりやすく、彼女は目を細める。
「めでたそうな巫女と黒白いのに負けてから、ちょっと変だと思ってたけど今日はかなり変」
「そんなことありません」
「気づいてないと思ってたかしら」
早苗は抱き心地だけは良さそうな巨大な蛙の抱き枕を引き寄せた。
「そんなに悔しかったの」
「悪いですか」
早苗は拗ね返ったような口振りで、それを認めた。仕方ないとでも言うように、神奈子は肩をすくめる。
「別に」
「なら、放っておいてください」
「自分から呼んでおいて随分な物言いねぇ。私、一応あんたの神様なんだけど」
早苗がその視線を神奈子の方へ戻した。伏し目がちな表情に、神奈子は彼女の苦悩と疲れとを感じ取った。
「神様なら、私の悩みを消せますか」
その言葉には、不思議と真摯な響きがあった。
「時と場合と、内容によりけりかしらね」
それでも茶化すような物言いの神奈子に、早苗は僅かに苛立っていた。そして己の苛立っていることに気づくと、それが腹立たしかった。
「神様なら、何でも出来なければ駄目です」
「驚いた。早苗がそんな人の偏見を口にするなんて」
神を、人々を救い導く全知全能の存在などと思い込むのは、ヒトの、自身に都合の良い妄信の押し付けに過ぎないと神奈子は常に言っていた。人々の畏敬、感謝、依存心から生まれた神は、確かに人には成し得ぬ強大な力を有していたとしても、決して人間の欲望を満たす為の存在ではない。神でさえ、完全な存在などでは決して在りえない。時に押し付けがましささえ感じられる人間の態度が、神奈子はまったく好きでなかった。それを一番よく分かっているはずの早苗がそう言うということは、尋常ではないのだ。
「私は、何も出来ません」
しかしそれは裏を返せば、早苗の弱音なのだということに神奈子は気づいた。
「八坂様の力をお借りしてさえも、私はこの世界ではただの人間です」
早苗が淡々と語る間、神奈子は無表情に、押し黙って耳を彼女に傾けていた。
「私は風祝の立場にただ佇んでいるだけだったのでしょうか。現人神の名に自惚れていただけなのでしょうか。私は、何者なのでしょうか」
早苗が諏訪子から問われたことを神奈子に投げかけたことには、もちろん、神奈子がそれに答えてくれるのではないか、という意地の悪い期待がなかったわけではない。彼女は自身が、よほど人間的な逃避心理に陥っていることに気がついていなかった。
「それだけ、かしら」
しかし、それに対する神奈子の返答は彼女の期待とは正反対のもので、神奈子は溜息を吐くように冷たく彼女を突き放した。早苗の肩が一瞬揺れる。
「それで、ああそうだねとでも私が答えれば、あんたは満足なのかい」
「違い、ます」
早苗はその表情を枕に押し付け隠し、くぐもって感情の読み取りにくい声で言った。
「独りにさせてください」
早苗はひどく後悔していた。何をやっているのだろう。逃げても仕様がないのに、こんなにも人間の私は臆病だったのだろうか。きっとほら、八坂様も呆れ果ててしまわれているに違いない。
「ごめん、なさい」
「落ち着いたら、また呼びなさいな。私は早苗の、神様なんだから」
そして、神奈子の気配が其処から陽炎のように掻き消えたのを、早苗は感じた。彼女はやはり何処か冗談めかしていて、しかし優しい言葉に、早苗は独り、「ありがとうございます」と言わずにはいられない想いであった。
静寂の訪れると、早苗はそう望んでおきながら再び孤独な感覚が蘇るのを感じ、無意識に枕を抱く腕の力を強め身を縮めるようにした。
「わたしの、ばか」
ただ一言、怖い、と神奈子に言えなかったのは早苗の意地っ張りであったからであった。彼女の自尊心の高いのは勿論のことだが、やはり神奈子の前ではその傾向はより強く、なかなか素直に物を言えないことが彼女にはしばしば、ある。その為に、あのような答え難い、ただの愚痴をこぼしてしまったことに、早苗は自己嫌悪していた。
素直になりたい──現人神の東風谷早苗と、人間の東風谷早苗との間で、彼女は板ばさみだった。複雑に絡む思いが、彼女の中に重く在った。
そんなところへ、その声は聞こえてきた。
「辛そうね」
それはやはり、風のように突然だった。声が、聞こえてくる。何処か遠くから、幼い声が聞こえてくる。諏訪子は、言った。
「怯えているのね、可哀想に」
このとき、早苗はもう耐え切れなかった。
「貴方がそうさせているくせに、そんなことを仰るのですね」
「なんですって?」
「私が迷い、怯え、悩む姿がそんなにも可笑しいものですか」
誰の所為にもできないと解っているのに、しかし早苗はもう止めることが出来なかった。何処か楽しんでいるような雰囲気を言葉に纏わせた諏訪子に、烈しい怒りを感じずに居られなかった。
「困った子ね」
「こんなのって、あんまりです」
沈黙が、生れる。諏訪子はほとんど黙り込んでいた。
「私のこと、嫌いになっちゃったの」
暫らくあって、呟くような諏訪子の言葉に、早苗は答えなかった。……
◆
意識の徐々に覚醒していくのを、早苗は感じた。重い目蓋を辛そうに押し上げる。ぼんやりとした視界が、次第に明瞭になってくる。窓の外から注ぎ込む光が眼に沁みる、鳥のさえずりが聞こえてくる。もう、朝だ──昨日はあのまま寝てしまっていたのだ、と理解すると、早苗は静かに身体を起こした。
ややあって頭の締め付けられるような痛みに、彼女は眉を顰め額に手を当てる。それもそのはず、どれだけの時間寝ていたことだろうか。太陽の満足に昇らぬうちから起きているのが常の彼女にとっては、これほど寝過ごしてしまうということは今までになかった。
身体は気だるく、衣服には皺が刻まれている。きっと、長い髪の寝癖もひどいのだろうと考えると、既に気分は滅入ってしまっていた。
なんて苦しいのだろう、と早苗は感じた。まるで病のようだった。
「やっと起きたのね」
そこで唐突に、扉が開かれた。切れのよい、打つような音が鳴った。
「おはよう、早苗」
「八坂、様」
まるで彼女が起きるのを見計らっていたかのように部屋へ入ってきたのは、神奈子だった。突然のことに早苗はうまく頭が回らず、ついその眼を白黒させてしまっている。神奈子はそれに呆れたような表情を浮かべて、両手の甲を腰に当て彼女の目の前に仁王立ちとなった。
「早苗、おはよう」
「ええと、おはようございます」
仏頂面で繰り返す神奈子に、早苗は慌てて返事を返した。しかし、どうにも早苗は気恥ずかしい思いで、彼女と顔を合わせ辛かった。昨日の今日のことで、更にこの有様である。神職者として、あまりに申し訳が立たない。それでもあえて我侭を言うならば、もうあと少し、独りだけでいたかった。
「ん。さあ、行くわよ」
しかし、そんな早苗の憂鬱を知ってか知らずか神奈子は強引に彼女の手を取ると、引きずるようにして連れ出しにかかるのだった。これには早苗もただ驚くばかりで、為されるがままである。
「え、あの、何処へ」
「散歩よ、散歩!」
神奈子の様子は何処か楽しそうで、早苗の身体は半ば浮かんでいるかのようにぐいぐいと引っ張られていく。意識も肉体も、まだ完全には覚醒しきっておらず、曲がる曲がる廊下の目まぐるしさに、早苗はそれからまともに言葉を発することができなかった。
「ほら」
早苗の手を握り締めていた、神奈子の手が不意に離される。彼女が気づいたときには、そこは既に神社の外だった。小走りに来た早苗はやや息が上がっていて、ひとつ大きく息を吐いて視線を前方へ向ける。その眼下に広がる山の風景は陽光に照り返し、翳り、鮮明で、風は穏やかだった。昨日から、ほとんど何も変わらぬ光景がそこにあった。
「良い天気ね」
神奈子が噛み締めるように、言った。
「そう、ですね」
ぎこちなく早苗は答える。神奈子はこの気持ちの良い天気を存分に愉しむかのように両手を広げ、彼女に背を向けていた。早苗のものよりも一回り大きな、神奈子の背中。そこへ早苗が搾り出すように声を掛けようとしたのを遮るように、神奈子は再び彼女の手を取った。彼女ははっとなって、口を噤んだ。
「歩くわよ」
そうして二人は、岩肌を露呈し落ち葉の多い山道を踏みしめていく。……
静かな中に、落ち葉を踏む軽快な音が響く。神奈子と、彼女のあとを付き従うように早苗は歩いた。もう、神奈子の手は早苗に繋がれていない。ここまで来てしまえば早苗が拒否することもあるまい、と踏んだのだ。そして彼女は、様々な野花の咲いているのを、紅葉した葉の決して単色でないのを、それらが優しく風に揺られているのを──山の風景を愉しんでいた。
「……勝手です、八坂様は」
漸く早苗は、彼女らしく呟いた。彼女はほとんど息苦しささえ感じるほどに戸惑っていて、それが精一杯であった。迂闊に言葉を吐き出してしまうと、それらはすべて孤独な感傷に満ちた同情を求めるようなものになってしまうような心地がして、胸が詰まった。で、結局早苗はいつものように振舞うのだ。神奈子も、いつものように応えてくれるだろうから。
「何とな」
「ちょっと、急ですよ」
口笛を吹くときのような表情で、神奈子が振り向く。すると早苗はしきりに髪を指で梳くようにし、衣服の皺を気にしていた。神奈子の目が細められる。
「まあ、そんなことかい」
半円を描くように神奈子は早苗の後ろへ回り込むと、その長く伸びた髪にそっと手をかけた。早苗は内心はっとするような気持ちだった。
「早苗の髪は柔らかいから大したことないわ」
神奈子の指が自身の髪の間と間を通り抜けていく感覚を、早苗はくすぐったく思った。どうしてかは解らないが、どうにも頬のほんのり熱くなるのを感じていた。
「い、いいですっ、そこまでしていただかなくても」
気恥ずかしさからなのであろう、早苗は慌てて神奈子から逃れる。神奈子はそう、と悪戯っぽい笑みを浮かべて、彼女を見ていた。
「尼になるが良し」
「何を仰りますか」
身も蓋もないことを言う神奈子に、早苗は眉を困らせた。で、神奈子は暢気に笑うのだ。
そうして、ひとしきりして、また静かになる。神奈子の歩き出すのを待って、早苗はまた彼女のあとに続いた。早苗自身は無意識であったが、その視線は俯きがちになっていた。
さく、さく、と落ち葉の崩れる音がする。早苗の眸は、周りの風景よりは、しばしば神奈子の手へと向けられていた。手を離されてから、彼女は初めて神奈子の体温に気づいた。今の彼女には、その温かで大きな手のひらが、この上無く心強いもののように思われた。まして、此処は妖怪の山なのだと意識すればこそ、それは尚更であった。
「あの、八坂様」
「なんだい」
「いえ、その。やっぱりなんでも、ないです」
早苗の声はいよいよ尻すぼみとなっていった。ふぅん、とだけ答え、彼女の方を振り返ることもなく、見守るように沈黙する神奈子に、早苗は恐らく真っ赤になっているであろう己の頬を見られなかったことで安堵した。その御手を差し出して頂けたら、どんなに救われることか──早苗はそう思いつつも、そんなことを考える自分がまるで神奈子に甘える童子のように思われて、とてももどかしく感じた。
早苗は、そのジレンマにいつまでも戸惑っていた。神と人間という二つの立場からくる、相反する感情──彼女にはまったく経験したことのないものだった。しかも最早子どもでなく、しかし成熟しきったところもない少女の成長は、変に抑圧心を働かせ、逆に彼女を苦しめた。歩を進めるごとに、どこか深いところへ沈み込んでいくような錯覚を彼女は覚えた。手を伸ばしても、もう届かないと思った。仕舞いにどうしようもなくなって、得体のしれない気持ち悪さに口許を押さえた。足が次第に震えてくるのを、止められなかった。
だから、早苗は不意に頭のてっぺんに強く衝撃を受けたとき、夢から醒めたような心地になった。
「──あっ、つぅ!」
それは神奈子の拳骨だった。熱い感触が躯を撃ち抜いていくような感覚に、早苗は数瞬、茫然となっていたが、すぐにその唇は震えだした。
「な、何をするのですかっ!」
早苗は驚きと怒りとに見開かれた眼の目尻に僅かに涙を浮かべ、神奈子をきっと睨みつけた。神奈子はといえば、そんな彼女の視線を何事もなかったかのような飄々とした表情で流していた。
「だって早苗、歩くの遅いんだもの」
「だからって、理不尽です」
噛みつかんばかりの勢いで肩を怒らせる早苗は、むしろ晴れ晴れしく神奈子の眼には映った。感情のバネのようなもので、どこか吹っ切れたところがあったのかもしれない。
「ほら、いくわよ」
付き合っていると面倒になるので、神奈子は強引に早苗の手を引いて走りだした。無論のことながら、早苗はすぐうしろで何事かを喚いているが、気にも留めない。
かくして、その手は今一度繋がれた。よく晴れた秋空は、まだ綺麗だった。……
山の中腹、大蝦蟇の池まで到る頃には、神奈子も早苗もほとんど息を切らせていた。ここまで一思いに駆け抜けてきたのだから、当然のことではある。早苗には、とっくに何事か物申す威勢はなくなっていて、神奈子の手を強く握り返すと、無言のままに山を降ってきたのであった。
「は。もう、無理。ちょいと休憩」
疲れ切って惰性で同じ動作を繰り返すだけの脚を何とか止め、神奈子は身体を崩して膝に手を突こうとしたところで、繋いだ早苗の手のどうしても離れないだろうというのを知って諦めた。彼女は空いている方の手で額の汗を拭うと、その池を見た。もちろん、彼女には初めから目的地などはなかった。ただ、酷く疲れ果てたところにその涼しげな池を見ただけなのであった。
「気持ち良さそうね」
神奈子は草履を脱ぎ、スカートをたくしあげながら、そう言った。
「大蝦蟇が、居るそうですよ」
細い息に乗せて、搾り出すように早苗は呟く。神奈子は暫らくぶりに早苗の声を耳にする心地がした。
「大丈夫。私の方が偉いから」
そう返して神奈子は、──動けなかった。繋がれた早苗の手が、そうはさせてくれないのだ。
「あの、八坂様」
「うん」
そこで彼女らの間に、妙な沈黙が生まれた。早苗は俯いていて、神奈子はそんな彼女をじっと見つめていた。
「早苗」
「え。はい、そうですね」
早苗はそう答えるけれども、俯いたまま、やはり手を離そうとしない。
「手、繋いでたいの」
「そんなこと、ないです」
早苗はやや叫ぶようであった。しかし、それが白々しく感じられるほどに、早苗の様子は裏腹だった。これで意地を張っているつもりなのだろうかと、神奈子は苦笑して、その瞳を細めた。
「早苗、私のこと大好きだものね」
つい意地悪くしたくなって、神奈子はそんなことを言った。
「なっ、なにを──」
これにかっと頬を熱くして顔を上げたとき、早苗は神奈子に強く引き寄せられていて、はっと息を呑むころには神奈子と一緒に、池へと足を着けていた。
「え、きゃっ」
透明な水が小さく跳ねる。唐突に触れた水の冷たさに、早苗は短く悲鳴を上げた。そんな彼女の姿を見て、神奈子は笑って、
「気持ちいいわね」
と心底そうであるかのように、背筋を伸ばしながら言った。早苗も少し遅れて、しみじみと思うところがあるように、そうですねと呟くように答えた。その表情はやや茫然としたものだった。
「手、繋いでてあげる」
早苗は恥ずかしそうに、小さく短く声を上げた。そして、一種の気難しさと照れ隠しとを、軽く噛んだ紅色の薄い下唇と、伏せた瞳とに表した。それは思いがけず、憂いを帯びた艶のある、少女らしからぬ表情で、神奈子は驚きを禁じえなかった。
すり抜けるように、早苗の指がほどかれた。
「私、もうそんなに子どもじゃないです」
彼女はほとんど不意に、微笑を浮かべた。その大きな眸は静かに、むしろ寂しげな光を宿し黒黒としていた。神奈子はそれに、胸の奥に微かに焼けつくような苛立たしさを覚えた。
「私からしてみれば、まだまだ子どもさ」
「そんなの、勘違いです」
神奈子は声をひくくして、遮るように言った。
「ああ、そうかい。なら勝手にしておくれ」
彼女はそのまま大袈裟に肩をすくめ、するりと早苗に背を向けると、池に一つ突き出た大岩の上へ胡坐を掻くのだった。背後で不安そうに息が吐かれるのを、神奈子は聞き逃さなかった。
程無くして、こつんと己の背に早苗のそれが押しあてられるのを、神奈子は溜息の一つも吐きたい思いで迎えた。
「あの、八坂様」
「何さ」
わざとぶっきらぼうに神奈子は返した。
「怒ってらっしゃいますか」
「何に」
「その、昨日のこととか」
早苗は弱弱しく言った。その、ぶらりんな足はしきりに水を優しく叩いていた。
「怒ってる」
ちょっと考えるような間隔を置いて、神奈子は答えた。
「ごめんなさい」
「そうじゃないよ」
咎めるような神奈子の調子に、早苗は肩を揺らした。
「どうにもこうにも、あんたが一つも言ってくれないのに怒ってる」
水の音が、止んだ。
「信仰はせども信用はせず、かね」
「そんな。そんな悲しいことを、仰らないでください」
その早苗の言葉には、切な響きがあり、神奈子も心の何処か棘の刺さるのを感じたが仕様のないことと堪えた。神奈子とて、早苗の気難しさを理解していないわけではない。
「話してはくれないの」
「だって、きっと八坂様、笑っちゃいますよ」
早苗は自虐的な微笑を浮かべて言った。
「笑わないでいてあげる」
「そんなの、どうして約束できますか」
そうね、と神奈子は語を継ぐ。
「やっぱり信用されてないのね」
「ずるいです」
「信じられないの」
早苗の唇が震え、歪んだ。
「約束、ですよ」
「信じる者は救われる」
早苗はいよいよ耳の端まで熱くなり、鼓動の速く打つのを感じていた。彼女は思い切って、固く瞳を閉じるのであった。
「私は、怖いです」
風に掻き消されてしまうかのように細く、震える声だった。背にあずけられる重みのぐっと増したのが、神奈子には決して悪い気分ではなかった。
「神様気分でした」
ひくい声で早苗は続けた。
「この奇跡の世界へ来ることで、本当に神様になれるんじゃないかって、そう思っていました」
──しかし、そんな夢心地は皮肉にも人間によって醒まされた。そうして、彼女は己の中の”人間”を知る。それは途端に膨れ上がって、足掻く彼女をがんじがらめにした。そうして彼女は恐怖を知る。彼女は人間で、それらは妖怪だった。
「もう、私にはどうしていいかわからないのです」
その無知であるところが、悔しく苦しく恐ろしいのだろう、と神奈子は考えた。彼女はみんなわかっていたが、静かに耳を傾けていた。そして、一つ深く溜息を吐いた。
「馬鹿な子だ」
神奈子は呆れたように言った。
「早苗にとって、私はなんなの」
そんなことを神奈子が口にした。どうしてそんなことを言うのか、早苗は不思議に思った。
「えっと、八坂様は」
「八坂様です、なんて言ったら拳骨」
「あう」
さっそく封じられて、早苗は黙り込んでしまう。暫らく考えて、彼女は不意に直感するものがあったが、それにはやや頬を染めて、おずおずと口にするのだった。
「私の神様、ですか」
「そう」
満足そうに、神奈子は肯定した。そして、その小さな魂をなだめるように、おもむろに言葉を紡いだ。
「もし何かあったときには、私が貴方を守ってあげる」
申し訳なさそうな吐息を早苗は漏らした。明らかに彼女は遠慮と、そして気恥ずかしさとが、その胸の中に深く呼ばれているようであった。
「どうして、約束できますか」
彼女はみぎとひだりの手の指を絡めて、それをきつくしながら、またその言葉を口にした。
「信じてくれなきゃ、神様はどうしようもないわ」
「ずるいですよ、そんなの」
そんなことを言って、ずるいのは自分の方だと、早苗はわかっていた。暫らく彼女は、そうした意地の強いのと格闘していた。彼女の中で、もう答えなどは決まりきっていたのだが、どうしてもそれを素直に口にすることは難しいことのようであった。
「そんなに、私、甘えてしまって子どもみたいで、厭じゃないですか」
「今まで甘えてくれたことなんてあったかね」
「だからです」
それもそうか、と神奈子は可笑しく感じた。早苗は常に冷静でいて、態度を崩すことはあれど、神と信仰者という或る一定の距離は保ち続けてきたのである。神奈子はむしろ、そういった厳粛性は重視しなかった。
「きっと、絶対、笑っちゃいますよ」
「うん。じゃあ、甘えて」
早苗はもうどうしようもなく真っ赤になって、俯いた。ちょっとしてから、その唇はひらかれた。
「一つ、お願い事を叶えてください。それで信じます」
「言ってごらんなさい」
神奈子はちょっと、ひやっとしたものだったが、果たして早苗の口にしたのは、よっぽど子どもらしい或る我侭であった。
「手、繋いでください」
「──貴方がそう望むなら」
背中合わせに、二人の神と人は手と手を合わせた。帰りましょうか、という神奈子の言葉に、早苗はしずかに頷いた。……
◆
なぜ歩くのですか、と人は問うた。そこに道があるから、と神は答えた。
「飛べますよね、私達は」
「別にいいじゃない。私と長く一緒に居られて、嬉しいでしょ」
静かな山道を、神奈子と早苗は繋いだ手を揺らして歩いていた。やや傾き始めた日は、地面に、まばらな木の葉の影をより深く、そして彼女らの影を長くしている。風は快いほどで、秋の香りをほのかに乗せていた。
「行きにあれだけ足を動かしたでしょう。私は、もう疲れました」
「照れなくてよい、よい」
「冗談を言わないでください」
早苗は頬を紅くすると、突き放すように足をぐんぐんと速くしようとして、手を繋いでいることに気がついて、さらに頬を染めた。背に、意地悪く神奈子の笑っているような心地がして、機嫌の悪そうに下唇を噛んだ。彼女はすっかり、いつもの様子であった。
それはともかくも彼女が疲れているのは事実であった。池で休憩したとはいえ、帰路に足をつけた途端に、彼女は筋肉の疲労に張り、膝の痛むのを感じた。棒のような脚を、彼女はぎくしゃくと動かしていた。
「きっと考えすぎなのよ、早苗は」
硬い地表をたっと踏み鳴らし、足の痛ましいところへ、神奈子の暢気そうな声が呟かれた。静かな処に、それはよく響くように沁みこんだ。
「妖怪なんて、そんなに恐ろしいものじゃないわよ」
宴をともにすることを以て、神奈子は幻想郷の妖怪の、むしろ人間らしいところがあるのを知っていた。彼の生き物はむやみに人を襲ったりすることはない、と或る秩序がこの世界に築かれていることを、早苗が知らないだけなのであった。
「ご存知ないだけです。私、あの新聞記者にひどく脅かされましたもの」
早苗は身震いするように、あの黒黒と輝く二つの眸を思い出していた。思いもかけぬ悪戯に、神奈子は文のことを忌々しく思ったが、沈黙しては悪いだろうと考えて言葉を続けた。
「そういう奴なのよ。生意気に力があるからって、弱者には喧嘩を売ってるの」
「そうでしょうか」
早苗は、どこか納得しないように、不安そうな息を乗せて言った。風に揺られて木の葉の寄り合う、さらさらという音が聞かれた。
「私が居ても、恐ろしいかえ」
「まだ、すこし」
祈るような早苗の表情がうかがい知れて、神奈子は眼を細めた。
「そう、それも仕様がないね」
それでもいいよ、と彼女は語を継いだ。
「弱くてもいい、あんたは人間でいい」
「でも、私は」
振り返った早苗の唇に、神奈子の人差し指があてられた。
「そうでなかったら、早苗に神様なんて必要ないでしょ」
「あ、えっ、と」
不意を突かれたような、はっとした表情を早苗は一瞬見せ、そしてまたすぐに翻してしまう。
「そんなこと、ないです」
「そう。嬉しいわ」
神奈子は、早苗がそんな反応を見せるとき、胸の中に特別に温かいものを感じるのであった。
「すこしずつ知って、すこしずつ馴染んでいけばいい」
「はい」
ね、と念を押すようにすると、早苗はぎこちなく頷いた。
「そして、強くなっていけばいいわ」
「強く、なれるでしょうか」
「おや、随分情けないことを言うね」
早苗は振り向かず、不満な声を漏らした。
「ちょっと、言ってみただけです」
しかし、そこにわずかに寂しさの混在しているのを、神奈子は感じ取った。そこで彼女はいやらしい、或るからかうような微笑をその表情に映すのだ。
「もう、あんなろくに修行もしてないような麓の巫女なんかに負けないでね」
この言い方には早苗もむっと、眉根を寄せるものがあった。振り向いた彼女の眸の奥に、あのいつも暢気らしい様子の霊夢の姿が憎らしげに映っているのを、神奈子は見た。
「あれは、油断してただけですよ」
「あんなに落ち込んでたのは誰だったかしら」
「知りません、そんなの。八坂様、意地悪です」
早苗はつんと鼻を持ち上げて、また神奈子へ顔を向けず口を利かなかった。もちろんそれは、早苗の自信家であるところを最もよく知る神奈子の策略であったが、そこからすっかり何も喋らずに淡淡と歩いていくところを見て、彼女は苦笑いとなった。彼女とて足の疲労の激しいのは一緒であり、あえて早苗を歩かせたのは、ゆっくりと話をする時間が欲しかっただけである。彼女は早苗の頑固であるところをよく知っていたから、このままでは神社まで歩き続けるのだろうと、膝の痛みをひどく感じた。
「あの、早苗」
「なんですか」
早苗はかなり不機嫌そうに言ったものだったが、そうでもしないと彼女は頬の熱くなるのを誤魔化すことができなかった。力強い手の繋がれていることが、急に嬉しかったのだ。
「空、飛びましょう」
早苗は、歩きましょうと言ったのも彼女ではないか、と不思議に思って振り返った。そして、足を辛そうにしながら、気まずさを取り繕うような笑みを浮かべた神奈子と眼が合った瞬間、彼女はほとんどすべてを理解して、表情を柔らかくした。
「そんなことでは情けないですよ、八坂様」
「神様はねぇ、体力じゃないのよ」
一転して得意気になった早苗の言葉に少しばかり悔しい思いをして、神奈子は苦笑した。
「ほら、早く飛ぶ」
「あ、引っ張らないでください」
しかし、早苗の表情から影のなくなっていくのを認めて、神奈子はもう大丈夫だろう、と安堵の息を漏らした。世界の一切が変わらなくとも、彼女ひとりが変わってしまうのは骨の折れる大事だと、神奈子は呆れたような、しかし優しい眼をしていた。……
◆
明るくもなく、暗くもない、そしてまるで世界が眠っているかのような静けさを漂わせる夜明け前というものに、早苗はよく、或る居心地の良い孤独を感じた。己でさえ一切の静寂を破ることが躊躇われるような深遠な情緒を、そこに感じるのであった。
早苗は今朝早くから、大方を終え境内の掃除をしていた。暫らく、そんなふうにぼうっとしていたが、何とはなしにゆったりと竹箒を動かし始めるのだった。竹の、上擦れた甲高さで、しかし軽快な乾いた響きが霧散するように消えていく。きっとケガレの祓われるような神聖さを、早苗はそこへ見ていた。
その静かな朝は、そんなところへ初めは霧のように、そしておもむろに小粒な雨を降らせた。すぐに早苗は拝殿にかかる長大な覆屋の下に入り、雨を凌ぐことにした。彼女は溜息を一つ吐きながらも、雨粒の天から絶え間なく地に注ぐのを眺めていた。彼女は、雨が嫌いではなかった。物凄い速度で落ちてくるごく僅かの水滴が、地面に儚く砕け散り、軽やかで透明な音色を次々と響かせるのが、妙に心地よく耳朶を打つのであった。
早苗はふと、傍に誰かの居る気配を感じて目を丸くした。いつから居たのかと不思議に思って、視線だけを向けると、彼女のちょうど肩の高さくらいに風変わりな帽子が見えた。
「洩矢様」
早苗は思わず声を上げた。すこし、緊張していた。
「おはよう、早苗」
「おはようございます」
彼女の方を振り向くことなく、諏訪子は言った。そして、それきり二人は互いに雨ばかりを茫然と見つめていて、何も喋らずに居た。諏訪子の背丈の低いのと、幼く見えることもあって、まるで姉と妹のような奇妙な対比が、雨宿りする二人の姿にあった。
「もう、妖怪は怖くないの」
そして、まるで雨の一粒の落ちるように諏訪子が訊ねた。ほとんど不意であったので、早苗は一瞬戸惑った。
「──いいえ、怖いですよ」
「どうして」
早苗にはやはり、諏訪子の心が何処に在るのか、わかりかねた。ただ、からかっているだけとか、暇つぶしだけのようには、今となってどうにもそう思えなくなっていた。そうでなければ、こんなにも私に関わってこないはずだ、と早苗はそう考えた。
「人間ですから」
「そう」
諏訪子は何処か納得した様子であった。それがつまり、彼女の”答え”だったのだ。
「強いのね」
「私は、強くなんかないです」
「あんなに落ち込んでいたのに、今は奇麗な眼をしているわ」
早苗の方を見てもいないのに、諏訪子はそんなことを言った。早苗は、すこし恥ずかしかった。
「神奈子のおかげなのかしら」
「そう、ですね」
ふぅん、と短く諏訪子は返した。不機嫌そうに聞こえたのは、八坂様と洩矢様の仲が悪い為であろうか、と早苗は思った。彼女らの仲の悪い理由を、早苗はやはり知らなかった。彼女は神奈子に尋ねたこともあったが、神奈子は、性格が合わないのさ、と言うだけで、早苗もなんとなく、そうなのだろう、としか思っていなかった。
「もう戻りなさい」
突如として、諏訪子の小柄な足が躍り出て、石畳の上を滑った。繊細な雨が、瞬く間に彼女へと降り注いだ。
「この雨は、降り止まないだろうから」
空を見上げて、彼女は言った。雨粒が彼女の頬を打ち、ふっくらとした曲線の上を伝い、滴り落ちていく。彼女は目蓋を閉じて、それに任せていた。
「御身体が、冷えてしまわれますよ」
「雨、好きだから」
そう言うように、諏訪子は雨に打たれて、確かに気持ちの良さそうな様子であった。彼女の衣服に次々と斑点の作られていくのを、早苗はずっと見つめていた。
「私も、本殿に帰るわ」
バイバイ、と軽く手を振って諏訪子は奥へと歩き始めた。その背中に、小さな背中に、早苗は思わず言葉を投げかけた。
「洩矢様」
「うん」
小首を傾げるように、可愛らしい微笑で、諏訪子は振り返った。その眸は大きく、穢れのないようなところが子どもらしかったが、しかし深い色彩を宿していた。
「あの、嫌いになんて、なってませんから」
雨の所為であろうか、彼女の眸が微妙に揺れ動くのを早苗は見た。
「どうして」
「私が未熟なだけだったんです」
早苗は頬を薄く染めて、伏し目となった。長い睫毛の眸にかかるのが、彼女の憂いを示していた。
「どうか、お許しください」
そう言って、早苗は深深と頭を下げた。
諏訪子は暫らく、驚愕を微かにその表情へ浮かべそのまま佇んでいたが、ふと早苗の方へゆっくりと戻り始めた。少しずつ、小さな足の水を踏み鳴らす音が大きくなってくるごとに、早苗は心音の比例するように大きくなっていくのを感じていた。
音が止む。早苗は自らの髪に、細やかな指の通るのを感じた。
「いいよ、そんなの」
頭を撫ぜられている、と彼女が理解するには数瞬を要した。しっとりと雨に濡れた、冷たく小さな手のひらが妙に心地よく、しかし気恥ずかしくて、彼女は身を引くようにして諏訪子の手から逃れた。
「あーうー」
むくれたようになって諏訪子は不満の声を上げる。早苗は、彼女に神奈子と似通った何かを感じて、頬を紅くした。
「そんな、もう子どもじゃないんですから」
「関係ないよ」
背伸びをしてまで早苗の頭を撫でようとする諏訪子を、これまで関わりの薄かった早苗はその外見通りの子どもらしい仕草に、しかし意外性を見出して、戸惑いながら押し留めていた。彼女は何処か懐かしさを思い出していた。
「むかし」
その言葉はほとんど早苗の無意識に、口をついてでたようだった。
「遊んでいただいたこととか、ありましたか」
諏訪子ははっとしたようにそれまでの動きを止めた。そして、すこし早苗から離れると、
「いや、ないよ」
そう、抑揚無く答えた。
「そう、ですよね」
少し寂しく、早苗には聞こえた。忘れていた雨の音が、戻ってきた。
「ちょっと、懐かしいような気がして」
「おかしな早苗」
諏訪子は微笑した。早苗も、照れ笑いを浮かべた。
「それと、あともう一つ、ごめんなさい」
「どうしたの」
早苗はひどく後悔している様子であった。まるで覚えのないように、諏訪子は彼女を見る。何しろ諏訪子は、むしろ早苗を怒らせてしまったと思い込んでいたからだ。
「神様なんですか、などと酷いことを言ってしまって」
「ん。いいのよ、私のことなんて本当に誰も覚えてないし」
それを聴いて、事も無げに諏訪子は言った。それが、早苗には何故か悲しかった。
「私は、忘れません」
また滑稽なことを言う、と諏訪子は思った。彼女は覚えていないのだ、何もかも。諏訪子は、遠い真実の忘れ去られたことはどうでも良かったが、それが滑稽な歪みとなって現れることには、もどかしさを感じずには居られないのであった。
「だから、洩矢様は神様です」
「そう。まあ、勝手にして」
誰の神様なの、とは諏訪子は尋ねなかった。それはあまりに残酷な問いだったからだ。
「さ。もう、帰りましょう」
諏訪子はくるりと早苗に背を向けて言った。そうですね、と早苗も答えた。
「──今度、遊んでくれるかしら」
すこしはにかみながら、諏訪子はそんなことを言った。早苗は意外な言葉に驚きつつも、
「ええ。よろしければ、いつでも」
と答えた。彼女は、この幼いような、懐かしいような神に興味を抱きつつあった。
「うん。じゃあ、また」
「さよなら」
そして、二人は別れた。雨の中に、諏訪子の楽しそうに踊るように消えていくのを、早苗はずっと眺めていた。……
◆ 雨の中の神様たち ◆
「雨、雨、降れ、降れ、もっと降れ」
本殿の前、諏訪子は雨に打たれ喜び、歌っていた。両手を広げ、円を描くように、二つの美しい流曲線の脚が石畳の上を踊り、打ち鳴らす。それは雨と諏訪子の合唱のようであった。
「楽しそうだね、あんたは」
観客が、一人だけ居た。大きな蓮の葉を雨避けに持って、神奈子がその姿を見ていた。
「あら、神奈子。何か、御用」
歌うのをやめ、まるで邪魔をしないでとでも言うような不機嫌さを言葉の端に表して、諏訪子は言った。しかし、それもいつもの口の悪さであったから、神奈子は気にも留めなかった。
「遠く遠く離れていても、やはり我が子は愛しやなのかい」
諏訪子は黙って、無表情とも微笑とも取れない表情で神奈子を見た。早苗の、諏訪子に懐かしさを感じた所以は恐らく、彼女が早苗の遠い先祖であるためであったのだが、それを早苗だけは知らなかった。それがより、諏訪子と早苗の関係を滑稽にしていた。
「早苗にお節介を焼いたのは、あんたでしょう」
神奈子は溜息を吐くように、しかし咎めるような棘も無く言った。遅かれ早かれ、それは早苗にとって克服しなければならない試練であったからだ。
「今更、母親か祖母気取りかい」
諏訪子の眼が、ほんの僅かに細められた。
「あの子には、両親も、祖父母も居たじゃない」
そういう意味じゃない、と少しだけ唇を吊り上げる神奈子を制して、彼女は続けた。
「それに貴方も居たから、私の出る幕なんてほとんど無かった」
「それは、そうね」
諏訪子には責めるような口調、神奈子には罪悪感のあるような口調も、両者には一切無かった。彼女らはこと相互の利害関係に対して、そのような嘘らしい感情を持つことがなかった。
「つまり、早苗には隙が無かったの」
真実、諏訪子はごくたまに早苗と二、三、言葉を交わす程度であった。早苗の信仰する神は神奈子であったし、諏訪子のことを知る者も居ない、もちろん知ろうともしない。それによって、諏訪子が早苗を知ろうとする機会さえ失われた。
「でも、こっちの世界へやってきて、あの子は戸惑っていたわ」
現人神であった彼女に、人間らしい弱さが生まれた。悪く言うならば、諏訪子はそこへつけこみ、早苗とより深く関わろうとしたのである。そして、果たしてその企みは成功した。
「けど、あの子は私の子孫だから、なんて可愛く思ったわけじゃないわ」
神奈子の最初の問いへ、ようやく諏訪子は答えた。
「ただ、ちょっとした好奇心。そう、暇つぶしね」
「ふぅん、そうかい」
神奈子はつまらなさそうに相槌を打った。諏訪子の言葉が真実であるとは、思っていなかった。
「あの子、とっても面白いわ」
それとも自分自身で気が付いていないだけなのか──神奈子はそんなことを考えながら、無表情な眸で雨と諏訪子のことを見ていた。しかしそうであるならば、神奈子には矛盾を感じる点がいくつか無いでもなかった。
「あんたは、あわよくば早苗を私から奪い取ろうとも、していたでしょう」
神奈子がそう言うと、諏訪子は悪戯のばれたような眼をして笑った。
「うん、ちょっとね。たまには仕返ししてやるのも、どうかなぁって」
まったく悪びれた様子もなく、諏訪子は白状する。神奈子はまた一つ、大きな溜息を吐いた──それは神奈子を確信させるに十分なものだった。
「この雨、あんたが降らせたんでしょう」
諏訪子は一瞬、沈黙した。しかし、すぐに含み笑いを口許に表した。
「さあ、どうかしら」
「昨日まではあんなに晴れていたのに、不自然さね」
神奈子は、分かっているよとでも言いたそうな口振りであった。
「何か、不愉快なことでもあったかい」
「いいえ、何も」
しかし、諏訪子は全くそうであるかのように答えた。
「私は雨、好きよ」
「そうかい」
問い詰めても無駄だということが、神奈子にはよく解っていた。だから、彼女はもう興味を失っていた。
「あまり、面倒なことはやめてよね」
「そうね。もう、良いかな」
神奈子は、諏訪子が信じられないほど簡単に引き下がるので、心底怪訝そうな表情を浮かべて彼女を睨んだ。嘘だろう、とその眸に如実に語られていた。
「疑っているの」
いやらしい諏訪子の微笑に、神奈子は眼を逸らす。
「ちょっと、信じられない」
「ふふ、ご自由に」
諏訪子は、ご機嫌な様子で鼻歌を歌い始めていた。どうして、と神奈子は訊きたかったが、からかわれるだろうし、答えないだろうということも判っていたので、ただ訝しげに彼女を見つめるのみだった。
雨は、降り止まない。変わらず、それほど強くはない小粒の雨であったが、少し肌寒さを感じて神奈子は戻ることにした。さあさあという雨の打つ音が、嘲笑のように聞こえて不快だった。
「帰るよ」
「そう。さよなら」
どっと疲れたような重みを肩に感じて、神奈子はうんざりした。しかし、あまり深く考えることも好まないので、彼女はすぐに信仰のことを考え始めた。それでも、文になされた、己が妖怪の勢力均衡を崩壊させる恐れを孕んでいるということを思い出し、彼女はひくい声で唸った。……
独りとなって、諏訪子は雨の中、呟いた。嬉しそうに嬉しそうに、呟いた。
「きっと、良い暇つぶしのできただけ」
そして、また歌うのだった。
「──明日ハレの日、ケの昨日」
おわり
まだ空も暗く大気も肌寒い頃から起床し、禊をし朝拝を終え、朝餉の支度に取り掛かっていた早苗は戸棚を開くと醤油の切れかかっていることを認めた。そういえばそうだった、と彼女はそのことを思い出す。
今、神社にある生活用品等ほぼ全ての物は、元居た世界から持ってきたものである。無くなってしまったのならば、それはこちらの世界で得る他、手段はない。
調味料は何処に売っているのだろうか、朝餉を終えて、もう少し明るくなったら外へ出掛けてみよう──そう考えながら、早苗は醤油を諦めて塩のみを手に取った。味を付けることには、それで十分なのである。
朝餉は茶碗一杯の米に、すまし汁、外で適当に見繕った山菜の漬し、と質素なものだった。
「いただきます」
卓袱台の前に背筋をすっと伸ばして正座し、早苗は胸の前で小さく両手を合わせ一言そう言うと、箸を持って独り食事を始めた。彼女は黙黙として箸を動かし続ける。茶碗と箸のぶつかる、艶のある高い音だけが部屋に響いていた。神奈子は何か用事があるか、早苗から呼びかけない限りは基本的に姿を現さないし、何より今の時刻ではまだ眠りについている。神社には早苗独りしか居ないも同然だった。
しかし、ふと早苗は箸を止めると部屋を見回した。一切の音が無くなる。幽かに、彼女は誰かの視線を感じたような気がしたが、勿論誰も居るはずがなかった。早苗は、今はもう掻き消えてしまった違和感に首を傾げると、食事を再開した。
◆
「いってきます」
返事など返ってくるはずもないし、無論それを理解した上で早苗はその言葉を告げて神社を出る。彼女は生来、礼儀作法を重んじる性格であった。
山の大地を踏む。草木には朝露が陽光に煌き、大気にはまだ十分に日の光が染み渡っておらず、仄かに冷たい。鳥の鳴き声も疎らで、閑閑としていた。
早苗は一度、瞳を閉じて深呼吸をした。ただそれだけで身体が清められていく心地のするほど、山の空気は澄んでおり、静謐は彼女の精神を満たし穏やかに、しかし鋭くした。
目蓋を上げると、彼女は地を蹴り宙へと身を放った。身体の一切から解き放たれるような感覚が彼女は好きだった。浮遊への目まぐるしさに心が躍った。手を翳し仰ぎ見た天空は一点の曇りもなく蒼蒼とし、太陽が燦然と輝いている。奇麗な秋晴れだった。
山を麓まで降り、そこから更に少し行くと、自然の色彩の鮮やかな中に一つ集落らしいところ、人間の里が見えてくる。物の売買がなされているところを考えると、他に目ぼしい場所も無かった。
早苗は、神社を発つ前までの彼女は何処へか、落ち着きの無さを、辺りを忙しなく見回すという行動に表しながら、里の前に足を着けた。彼女は幻想郷の地理の大体は把握していたが、何処も実際に立ち寄ったことは少なく人間の里へ来るのも、これが初めてである。早苗は僅かばかりに緊張していた。
「落ち着いていこうって決めたのに」
そんな独り言も漏らしつつ、相手はただの人間だと早苗は自らに言い聞かせる。なのに彼女の足はそこから一歩も進まない。彼女が何をそこまで躊躇うことがあるのかと言えば、それは緊張などは軽いもので、異国への恐怖でもなく、もっと別の理由があった。
里の方へ眼を向ける。そこは静かで、しかし確かな活気を彼女に感じさせた。遠く、子供たちのじゃれあっているのだろう、楽しげな笑い声を耳にして、早苗は唇を一文字に結ぶと歩き始めた。
家家の風景に視線を移しながら、彼女はゆっくりと里中を歩く。立ち並ぶ建築は、古くよりの日本らしい造りで、もう外の世界ではなかなか見られなくなったものだと早苗はある種の新鮮さを覚えた。彼女は職業柄、和を好むものだったので、眼に映る風景には何処か親しみやすさを感じた。
といって、本来の目的も忘れることはなく、何がしかの店と思わしき場所には彼女は必ず立ち寄った。何しろ、ほとんど手探りの状態なので、何処へ行けばいいのか分からない。かと言って、彼女は人に尋ねるのを躊躇った。八百屋で新鮮そうな野菜を眺めながら、スーパーマーケットが無いのは不便だなと彼女は思った。……
よろず屋の店主は気さくな人柄で豪胆な笑い方をし、客である早苗の方が驚いてしまうくらいだった。彼は彼女のことを『お嬢ちゃん』とそう呼んだものだが、それは彼が、早苗を他の人間と同じに見ていることに違いなく、むしろ彼女を不機嫌にした。
もちろん、早苗はその感情をあからさまにすることなく、今こうして用事を済ませ縦長な陶器の瓶に入った醤油を、愛用の、カエルを模した大きく可愛らしい刺繍の入ったバッグに入れ、里の外まで出てきたのだが、そこでようやく彼女は溜息を吐く。
「はあ」
里中ですれ違った人間は、時間が時間だからであろうか少なかったが、一度も見かけたことの無い早苗に気を向ける者は少なかった。誰もが彼女のことを只の人間としか見ていないのだ。それが、早苗の恐れていたことだった。もう一度、彼女は重い溜息を吐く。
複雑な心持で、早苗は静かな田舎道を歩いていた。端に咲く花には、冬が徐徐に忍び寄ってきているのを感じさせるように、枯れかけているものもいくつか見られる。それを視界の隅に入れつつ、しかし何処か遠くを見つめ早苗は歩いていた。
「所詮、人間」
突然聞こえてきた声に、物思いに耽っていた早苗はひどく驚き周囲を振り返ったが人の姿は見えず、何処からともなく頭の中に直接響くように聞こえてきたそれに彼女は一瞬戸惑い、しかしすぐに納得した。
「八坂様、ではありませんね。……洩矢様、でしょうか」
朗らかで何処か楽しげな口調。神らしからぬ神は、一度でも面識のある者にとっては印象的であった。
「あら。まだ覚えててくれたのね」
その神──諏訪子は意外そうな声を上げた。今は見えぬその姿形もそうであったと早苗は記憶しているが、彼女の声音は幼げで子供のように跳ねる息遣いをしており、早苗の今の気持ちとは裏腹のものであった。
「一応、神社の神様ですから」
こうして精神対話を出来ているのも、八坂様の恩恵程度だろうが信仰の復活により力を取り戻してきたためなのだろうと早苗は推測した。しかし、大した関係も持たない諏訪子がどうして干渉してきたのかは彼女には解らない。単なる暇つぶしかとも思えた。
「ふぅん」
諏訪子は、苦笑した。というのも、早苗が自らの存在を知りながら、どうして一つの神社に二つの神が居るのかをほとんど理解していないにも関わらず、そんなことを口にするからである。もはや完全に忘れ去られようが諏訪子にとってはどうでもいいことだが、それが彼女には妙に滑稽に思えるのだ。
「それで、どのような御用件でしょうか」
早苗は、あくまで冷静に諏訪子に対した。というより、早苗には明らかに諏訪子を退けようという意図が見られ、むしろ冷淡な態度であった。
「所詮、人間」
諏訪子の、そんな早苗の反応を楽しむかのような含み笑いの物言いに彼女は気を悪くしたように瞳を伏せる。
「どういう意味か、分かりかねます」
「ふふ、とぼけるの」
おどけた調子で諏訪子は続けた。
「悩み事があるんでしょ」
「わざわざ貴方様に聴いて頂くほどのことでもございません」
遠慮しているようでいてはっきりとした拒絶を示した早苗に、諏訪子は感心したように息を吐いた。その話題を嫌い、避けようとしているのが手に取るように解ったが、むしろそれを面白がった。
「人間扱いされて悔しい」
早苗が俯く。諏訪子の姿はここには無いが、それでも見られている気がして──実際、視えているのだろう──彼女は表情も感情も読まれるのを嫌った。
「貴方は、ここでは只の人間よ」
その言葉に、早苗は唇を噛んだ。
風祝として生まれた早苗は、生来より奇跡の秘術を操ることのできる己に誇りを持っていた。時が過ぎ変わり現人神として崇められることこそなかったものの、それでも元の世界では、自分は特別なのだという優越感と自尊心があった。しかし幻想郷は、この奇跡の世界は、奇跡を起こすことのできる彼女に対してむしろ残酷な仕打ちをした。というよりは、奇跡の世界だからこそ超常的な事象がありふれており、彼女を何も特別な存在でなくし只の人間へと貶めた。彼女が人里を前にして足を踏み入れることを躊躇った理由も、この世界の普通の人間と触れ合うことでそのことを真に認識してしまうのを恐れた為であった。
信仰は儚き人間の為に。現人神としての己は、早苗にとってある意味、もう一つの信仰の対象であった。それを失った今、彼女は不安定になり、あまりに世界に対して脆かった。
「私は──」
それでも認めたくなくて、彼女は必死に口を開いたが、そこから言葉は続かず開かれた唇は空しく震えるのみだった。
「現人神ですって。そんなの思い上がりね」
それを諏訪子は冷たくあしらう。早苗がその拳を固く握り締めるのを、彼女は満足げに視ていた。
「この世界で貴方に何が出来るの。風を怒らすことが出来る、か。雷雨を唸らすことが出来る、か。それは本当は貴方の力ではないし、秘術だって此処では大したことじゃあない」
「……怒りますよ」
微かに震える声で早苗は言った。しかし、諏訪子は聞き入れない。
「それで、人々は貴方を祭り上げてくれるかしら」
「あ、ぅ」
息苦しい、身体が熱い、うまく立っていられない……気持ち悪い。早苗は、視界が目まぐるしく回転しているかのような感覚にとらわれていた。悔しい。悔しいのだが、何も言い返すことが出来ない。神とは、人とは、己の価値とは。そんな言葉が、早苗の思考をぐるぐると回っていた。
「貴方は何がお望みなの」
分からない。信仰なのか、力なのか、安定なのか、或いはすべてなのか。この世界に何を求めていたのか。何かに恐怖していた、何かを期待していた。何にか、何をか、分からないのか逃げているだけなのか。様々の思いが、早苗を取り囲み、渦巻き、押し寄せていた。
「貴方は、何なの」
早苗はとうとう押し黙ってしまう。混沌とした感情に戸惑い、すべて投げ出してしまいたいという思いにすら駆られ、それらは鬱憤となり怒りとして吐き出されることをついには望んだ。
「洩矢様は何なのですか」
しかしそれでも、早苗はまだ冷静に振舞うことができた。不屈の信仰心によって、神に対する無礼を必死に抑えつけた。
「私のことをそう仰るのでしたら、もう誰にも信仰を受けていらっしゃらない洩矢様は、それでも神だというのですか」
諏訪子は、つい笑ってしまった。内心限界まで張っているくせ、それを意地で押さえつけ冷静さを欠かず、しかし鋭く噛み付いてくる早苗に、一種愛しささえ感じずにはいられなかった。
「あは。そうね。もう神様じゃあ、ないのかもね」
しかし、諏訪子はそう返した。そのあまりにも淡白な肯定に、早苗は拍子抜けしてしまう。いっそここで諏訪子がうろたえていたならば、まだ彼女の気持ちは晴れただろう。
「私はもう別に誰も彼にも忘れ去られようが、楽しく暮らせればそれで良いの」
そんなことは心底どうでもいいのだとでもいうように、極めて軽い口調で諏訪子は話す。
「だって、あれこれ難しいことを考えても仕様がないじゃない」
思考を放棄することは簡単で、しかも魅力的である。しかしそれは同時に、矛盾するようだが安易には受け入れがたいことで、もちろん早苗も理解はできるが納得はできなかった。
「そう、思わない」
分からない。彼女のことは何一つ、理解できない。
「私には、そうは思えません」
だから、早苗は彼女を拒否した。
「そう」
諏訪子は短くそれだけ答えた。そこにはそれまでとは違った感情が込められているような雰囲気があったが、早苗は気が付かなかった。
「別に、それならそれでいいの。貴方の自由よ」
声のトーンを若干高くして、晴れやかに諏訪子は言う。
「さあ、それで貴方はいったい何なの」
そしていよいよ早苗は、何も答えることが出来なくなっていた。……
◆
木木の葉は深紅と云うに相応しく色づいており、流れる川のせせらぎはさらさらという絹のような質感と時折水の跳ねる透明な音で聴く者の耳朶を打つ。未だ深く秋めいている妖怪の山の中を、早苗はゆっくりゆっくりと飛んでいた。
「言うだけ言って、それだけなんて」
もう、今日で何度目だろうか。早苗は溜息を吐いて、愚痴をこぼした────あの後、諏訪子は早苗がすっかり沈黙してしまったのをそれ以上問い詰めることなく、「もうお昼寝の時間になっちゃった」などと言って、その声を何処かへ掻き消してしまった。
身体の熱くなっていたのは涼しく乾いた秋の風が冷まし、早苗は頬を膨らませ文句を二、三、言える程度には落ち着いていた。あれも彼女にとっては、一度そう考えた通り、やはり単なる暇つぶしに過ぎないのかもしれない、冷静になって考えてみれば自分はまんまと洩矢様のお遊びに付き合わされてしまったいたのではないか、とそう早苗は己を恥じた。
しかし、彼女の言葉は確かに早苗の思い悩むところで、早苗は憂鬱な心持で昼過ぎの空を見上げた。朝にはあれほど奇麗に思えた蒼色も、今では悲しみと陰鬱を湛えているようにしか感じられなかった。
早苗はのろのろと、山の間を流れていく川の上空を飛んでいた。
「ちょいと、そこの」
「え、はい」
突如として投げかけられた誰のものとも分からない声に早苗は身体を留め、辺りを見回す。妖怪だろうか、と早苗は若干の緊張を瞳の鋭くなったのと、結ばれた唇とに表していた。彼女は自分自身が、彼女の考えているより、ずっと臆病になっていることには気づいていない。ややあって背後から聞こえた、水の大きく跳ねる音に早苗は驚き振り返り、そしてその正体を目にして張っていた肩を落とした。その少女は、川の中程に突き出た大岩の上に誇らしげに立っていた。
「えーと」
「やや、そう驚きなさるな。いくら私の姿が見えないからってー」
妙なことを言う、と早苗は思った。彼女の姿は、早苗には実にはっきりと見えている。
「河童の、にとり。でしたか」
「あ、あれ。なんで分かるのさ。私って、そんなに特徴的な声してたっけ」
河童少女にとりは素っ頓狂な声を上げて、大真面目な様子でそんなことを言う。わざとやっているのか、それともそういう遊びなのだろうか、とさえ早苗は考えた。
「あの、見えてますけど」
「ああ、なんと。あれから改良に改良を重ねた光学迷彩スーツなのに!」
どこが駄目なんだろうなどとぼやきつつ、腕を組んで唸りだすにとり。どうやら彼女は本気らしい、と早苗は呆れ顔を浮かべた──彼女にはどうにも、幻想郷の住人というものは感覚が一つ、二つずれているような気がしてならなかった。突拍子もない言動や飛躍しがちな思考、それでいて緊張感の欠片もない態度など、早苗は霊夢らと対峙したときからずっとそれを感じていた。無論、目の前の河童少女も例外であることなく、仕舞いには見える方がおかしいんだ、などという結論に辿り着いて何事もなかったかのように話を戻した。
「まあ、そんなことはどうでもよくってだ」
「その割には少々お悩みの様子でしたが」
どうでもいいというのはこちらの台詞だという思いを込めつつ、早苗は突っ込む。
「と言っても、大した話題なんて無くて、見かけたから声をかけてみたというだけなんだけど」
しかし、にとりはといえば全く意に介していない様子であったので、早苗はまともに会話することを諦めた。どうも気力を奪われる気がするのだ。
「でも、外に出てくるなんて珍しい」
「それではまるで私が引きこもりみたいじゃないですか」
「違うのか」
早苗は目を丸くして否定する。
「違います!」
「あ、そう。でも、なかなか外では見かけないし」
「外に出る必要がないだけです」
それだけで引きこもり扱いされていてはたまらない、と早苗は唇を尖らせた。そう、そもそも外に出る必要性が無いだけなのだ。例えば、今日のように何か理由がない限り、とここまで考えて彼女は急に諏訪子とのやりとりを思い出し瞳を伏せた。
「じゃあ、今日は何か理由があったわけだ」
「ええ、まあ」
明らかに早苗の声が沈んだ。にとりが、不思議そうに彼女の眼を見つめた。
「どうかしたかい」
「え。あ、はい。ちょっと、お醤油が切れてしまったので、それで」
早苗はふっと、憂い物思いから立ち返った。山の妖怪にまで悟られてしまうのではと仕様がないと思考を切り替える。しかし咄嗟に浮かべた苦笑いも、自身で分かってしまうほどに引きつっていた。
「ふーん。私は味噌派だなぁ」
「きゅうりにつけると」
「すごく美味しい!」
人が変わったような勢いで激しく同意を求めてくるにとりに、適当に相槌を打ちつつ、早苗は安堵の息を漏らした。深くは追求しない、にとりの暢気さが彼女には救いだった。それに、少しだけ幻想郷の住人への接し方が分かった気がした。
「では、私はもうこれくらいで」
それから他愛も無い会話もほどほどに。頃合を見計らって、早苗はこの場から立ち去ろうと試みた。
「ああ、うん。引き留めちゃったかな」
つい話し込んでしまったのに気づいて、にとりはやや恥ずかしげに帽子の縁を指で弄んだ。人間寄りの妖怪でありながら人見知りをする彼女には、こうして人間と話す機会も少なかった。
「そっちの神様にもよろしくね」
「ええ、分かりました」
そう言って軽く会釈をすると、早苗は飛んだ。後ろで、にとりが大仰に手を振っている。
「道中お気をつけて。人間のお嬢さん」
「え」
妙な呼び方に早苗が振り返ったときには、もう彼女の姿は何処にも見つけられなかった。水面に僅かながらに広がった波紋を暫らく眺めてから、早苗はその場を後にした。……
恐ろしいことだ、と早苗は仏頂面にそう思った。川上に往くにつれ、荒涼として隆盛を見せる岩肌が多くなり、ついには滝へ辿り着く。今、彼女はそれを見上げているが、切り立つ壁のごとき風格にはいつもいつも、つい圧倒されてしまう。何しろ、上がよく見えない。水飛沫で、やや霞がかっているように見えなくもない。
恐ろしいことだと彼女はまた思った。外の世界でもこれほどの自然というものはなかなか目にできないもので、その壮大さに感嘆とすらしてしまう。いい加減に首が疲労に痺れてきたので、早苗はずっと滝を見上げていた頭を元に戻し、手で軽く首の辺りを揉んだ。正面には、落下してきた水の叩き付けられるようにして起こる大きな白い飛沫が見られる。ここで禊をしたら痛いだろうな、と早苗は思った。滝の表層に時折突き出ている岩石も、日々削られ続けているのだ。
暫らく、彼女はそんなことばかり考えていて、そればかりでは仕様が無いので、その巨大な壁を昇ることにした。
とはいえ、彼女は宙を飛んでいる。勢いよく落ちてくる水に押し戻されてしまうような感覚に襲われることを除けば、上まで昇っていくことは何も難しいことなどない。彼女はひたすら無心に飛び続けていた。
何処まで来たのかはよく分からないが、もう結構な時間を飛んでいる気が、早苗にはした。上方を幾ら目を凝らして見ようと埒が明かないので、彼女はふいと立ち留まると何の考えもなく下方を見てしまった。……滝のざぁざぁという音が、やけに強く耳に響く。もうあの白い飛沫の塊も随分小さくなり、そこへ吸い込まれるかのように眼を引き付けられていた早苗は、不意に浮遊している身体の、落ちていきそうな感覚に襲われ背筋に寒気が走った。彼女は慌てて上方を向き直す。しかし、そこに映るのは高く蒼い空ではなく真っ黒な双眸だった。
「う、わぁ」
「おっと」
早苗は思わず間の抜けた声を上げて、それを押し退け或いは身を守るために、がむしゃらに両腕を振るった。手応えはなく回避されたのだという認識が、早苗の思考をむしろ冷静なものへ追いやっていく。とにかく何者であったのか視認しようと顔を上げたその先には、彼女を覗き込むような格好の射命丸文が居た。
「どうもどうも、早苗さん」
してやったりとでもいうような、いやらしい笑顔でその鴉天狗は言った。早苗はというと言葉にならない声を途切れ途切れに発し彼女に人差し指を向けながら、呆れかえったように口を開けていた。
「私が、どうかしましたか。面白い顔してますよ」
まるで知らぬ振りをして、文は何処からとも無く愛用のカメラを取り出すと早苗に向けた。そんな彼女の横暴な振る舞いに、早苗は顔を赤くして抗議する。
「お、驚かさないでください!」
「ああ、ちょっと、動かないでくださいよ。ぶれちゃうじゃないですか」
「そもそも撮らなくていいです」
強引に文のカメラを押し下げ、早苗は彼女と鼻を突き合わせる。
「あら、写真に写されるのはお嫌いでしたかしら」
「何の御用でしょうか」
早苗はもう文の茶化すような言葉に付き合わなかった。からかわれることは、彼女にとってはとても腹ただしいことであった。憮然とした表情を見せる早苗に、文は少しやりすぎたかと苦笑する。
「あれ、怒っちゃいましたか。偶然見かけたもので、つい」
「まあ、いいですけど」
早苗は半ば諦めるように息を吐く。目の前の天狗の捉えどころのないのを彼女は既に知っていたからだ。それでも、その表情までは直せていないあたりが文にむしろ可愛げを感じさせてしまっていることには、彼女は気づいていなかった。
「いやね、それに外で見かけるなんて珍しいなぁと」
「私は引きこもりじゃありません!」
勢いで言ってしまってから、早苗ははっとしたように口を噤む。しかしもちろん、目の前の天狗はそれを見逃してくれるほど甘くはなく、眼を光らせていた。
「私は別にそうは言ってませんが。何か、あるのですか」
眼は口ほどに物を言う。文は、これは良いネタになりそうですと言わんばかりに文花帖とペンを取り出すと早苗の言葉を待った。慌てて早苗は首を横に振る。
「やめてください、なんにもないですよ」
早苗は苦しげな愛想笑いを浮かべる。疑いの色を湛えた張り付くような文の眸を直視できずに、彼女は視線を泳がせた。意地の悪い鴉天狗はほうほうと笑む。
「信仰も増えると思うのですけどねぇ」
「貴方に記事を書かれたら、きっと逆効果です」
溜息を吐きながら、きっぱりと早苗は断った。
「それくらいで、いいと思うのだけど」
「え」
早苗は、最初は自らの聞き違えかと思った。しかし、文は早苗から顔を逸らし、何か考え事をするようにペンを顎に当て滝の方を見つめるのみで黙ってしまったことに、早苗は聞き違えではなかったのだと確信を抱く。その言葉にどのような意図が含まれていたのかは彼女には見当がつかない。ただ、目の前の妖怪に不気味さを感じ始めていた。
「そちらの神様は元気にしていますか」
「ええ」
早苗の返事は短い。そんなことであるから会話がすぐに途切れてしまう。舌の根が乾く。もう浮かべている微笑も、ぐちゃぐちゃだろうと彼女は思った。
「昨晩だって、宴会したばかりじゃない、ですか」
「ふふ、そうでしたか」
言葉の端々が、噛み合わせの悪い歯車のようにぎこちなかった。居心地の悪さに、早苗は文の方へ最早まともに眼を向けられていなかった。
「もう、往きますね」
だから、早苗は背を向けた。できるだけ声に平静を装い、自然に、逃げ出そうとした。
「何事にも、均衡というものがある」
そこへ独り言のような文の言葉が投げかけられる。早苗は肩を微かに震わせて立ち止まった。
「崩してしまうと、面倒よね」
どういう意味なのか──それを考える余裕すら早苗にはなかった。ただ、天狗の言葉がやけに抑揚なく聴こえるのみだった。
「さようなら」
「さよなら──道中お気をつけて。人間のお嬢さん」
早苗は、息を呑んだ。
「どういう意味ですか、それは」
つい声を荒げてしまうのを、彼女は抑えられなかった。そうでもしないと、何かに押し潰されてしまいそうで、怖かった。
「ただのお別れの挨拶でしょう」
早苗は沈黙してしまう。そうだ、その通り、それ以外に何があるというのか。例え、先刻全く同じ言葉を耳にしていたとしても、何の不自然も無い──。
「貴方は人間。そして、此処は、この山は、妖怪の山」
背中を、あの黒い眸が貫いている。人に似た人でない者が、妖怪が、そこに居る。
「お気をつけて」
文がそう言い終える前に、早苗は一度たりと振り向くこともせず逃げるように飛び去ってしまった。文はその姿が白く煙る滝の頂に消えるまで、見上げたまま動かなかった。
「ちょいと、からかいすぎたかしらね」
そして軽く笑った。……
◆
恐れていたものは、世界だった。
「はっ、はぁ、は、あっ」
早苗は膝に手を突き、石畳と面を合わせていた。どこをどのように飛んできたのかなど、覚えていない。ただ息の切れてしまうほどに苦しく、空を飛んでいたにも関わらず酷く苦しく、半狂乱に此処まで辿り着いたに違いなかった。
彼女の恐れていたものは、人間と成り果てた己を取り囲むこの世界だった。自らの無力に否応なく気付かされてしまう、この世界だった。妖怪が、人間の天敵が存在していることが怖かった。神の奇跡を以ってしても、未だそれらが脅威となり得ることが怖かった。人間が、神にすら反逆する人の子が怖かった。自らの存在を否定されるようで、嫌だった。それらのすべてが鬼で、早苗は夜行の中で怯え身を縮こめる童のようであった。神として生きてきた彼女は、人間として世界に対するに、あまりに未熟で無垢であった。
流れる汗が頬を伝い、石畳の上へ滴り落ちる。日は暮れ、もう伸びる影も長い、思っていた以上に時は過ぎていたようだ。早苗は、何かに救いを求めるように顔を上げた──静かな静かな守矢の神社が、そこに在る。彼女にとってこの世界で唯一つの、帰るべき場所であった。
「ただいま、戻りました」
そう言うだけで、早苗の心は徐々に安らいでいった。諏訪子のことに関して言えば正直帰ってきたくはなかったという気持ちはあったが、しかし此処だけは心を許し、肩肘を張らないで居られる場所だという安心感が確かにあった。社へ戻り、先の暗く静かな木造の廊下を何とはなしに眺めると、草履を脱ぎそこへ足を上げる。床も空気も冷涼としており、火照った身体には余計にそれが感じられた。
「八坂様」
彼女は其の名を口にした。何か思惑があったわけではない、彼女はただ気の狂いそうなほどの孤独から声を上げた。
「八坂様」
しかし、いつもなら呼び掛ければ現れるはずの神奈子が、今日に限ってうんともすんとも言わない。廊下は、彼女の声だけを小さく反響させた。
「いらっしゃらないの、かしら」
やや不安を覚え首を傾げながらも、早苗は買ってきた醤油を厨房の棚へ置き、奥の自室へ向かった。社の中はやはり、当然ではあるのだが静寂に包まれ、早苗の裸足に踏まれる床の、年季の入った木の軋む乾いた音のみがそこに響く。
社は、彼女が独りで住むには十分すぎるほど大きなものだった。由緒のあるもので、装飾は古く、厳めしい。しかし、それでも程無くして彼女は自室の扉の前まで辿り着いてしまう。そこまでにも何度か神奈子に呼びかけはしたが、やはり彼女が姿を現すことはなかった。
「一体何処で何をしていらっしゃるのだか」
呆れたように呟き、早苗は扉に手をかける。そのときは、何の気配も感じなかった。
「おかえり、早苗」
それなのに、不意に耳元に何者かの息が吹きかけられた。首筋に、冷たい指の這う感触。
「ひぅ──っ」
早苗は驚きに目を見開き、身震いする。尋常でない勢いで逃げるように振り返り──後頭部を思い切り、扉に打ちつけた。鈍い音が重く響く。
「ぁ、ぅう」
早苗は痛みに小さく呻くとそのまま頭を抱え、うずくまってしまった。
「あ、くっ、くはっ、あはっはっはっはっはははっ!」
その様を目の当たりにして、耐え切れないというように腹を抱えて笑うのが、彼女の一族の代々祀り上げてきた八坂の神、神奈子である。
「あはっ、ひぃ、う、んんっ、早苗ったら、面白いんだから、あはははっ!」
あまりの大笑いの為か目尻には薄らと涙を浮かべ、苦しげに眉根を寄せ必死に笑いを堪えようとするも尚も笑ってしまっている神奈子に、早苗は様々な意味で頭を抱えつつ精一杯恨めしげな眸を向けた。
「八坂様」
ひくい声で早苗は言った。
「ああ、う、うん、分かってる、分かってるわよ早苗。はあぁ、あー」
そこでやっと、神奈子は息を吐いて自らを落ち着かせたが、それでも顔の盛大に綻んでいるのまでは抑えることができないようであった。その顔には若干赤みすら差している。
早苗は悔しいような、恥ずかしいような気持ちであった。
「怒りますよ」
「あー、はいはい、ごめんなさいね。早苗ったら冗談がきかないんだから、もう」
そう言葉では言いながら、神奈子はまるで反省した様子を見せない。それどころか、早苗が悪いとでも言うような口ぶりで、早苗は呆れ唇を吊り上げた。
「八坂様がはしゃぎ過ぎているだけです、全く」
早苗は、神奈子と話しているとつい、神と信仰者というよりは、何かもっと人間らしい態度に陥ってしまうのを知っていた。それが八坂神奈子という神の、気が遠慮してしまうのを感じさせないざっくばらんな気質と友好的な性格であり、早苗もやはりそこに心の解けていくのを感じていた。彼女にとって、神奈子はこの世界で唯一と言えるような理解者であった。
「ふう」
そこで早苗はようやく立ち上がる。まだ少し、頭に響くような鈍痛は残っていた。
「それで、私を呼んでいたみたいだけど。何かあったの」
「あー。ええ、まあ」
ただ話したかっただけです、などと言ってはまたからかわれるに決まっている。だから早苗は言葉を濁しつつ、神奈子に背を向けて改めて扉に手をかけ、そうしたところで彼女は釘を刺すように言った。
「また何か悪いことをなさってきたら、本当に怒りますからね」
「ちっ」
神奈子の舌打ちは気にせずに、彼女は扉を開いて部屋に入った。室内はやはり質素であり、いくつかのマスコットと唯一洋風のベッドを除けば、それ以外は和造りで、おおよそ女の子らしからぬ間である。そのマスコットというのも蛙や蛇の幾分か可愛らしく造形されたものであり、神奈子曰く客観的に見ればかなり可笑しな空間ということである。
早苗はベッドに飛び込むようにして、うつ伏せに横たわった。彼女はもう、身体も心も疲弊していた。それだけで、ひょっとすると眠りに落ちてしまいそうな魔力を、彼女は感じていた。
「大変なんですよ。宴会の片付け」
「私、まだ早苗に何もしてないんだけど」
「それとは話が別です」
痛いところを突かれたとばかりに困った様子で苦笑を浮かべる神奈子を、彼女は言うほど怒っていないのだろう、気の無いような半開きの瞳で見つめていた。
「悩み事かい」
神奈子は、腕を組んで入り口の端に寄りかかった。
「いいえ」
言いつつ顔を背ける早苗の仕草がまるで子供のようで分かりやすく、彼女は目を細める。
「めでたそうな巫女と黒白いのに負けてから、ちょっと変だと思ってたけど今日はかなり変」
「そんなことありません」
「気づいてないと思ってたかしら」
早苗は抱き心地だけは良さそうな巨大な蛙の抱き枕を引き寄せた。
「そんなに悔しかったの」
「悪いですか」
早苗は拗ね返ったような口振りで、それを認めた。仕方ないとでも言うように、神奈子は肩をすくめる。
「別に」
「なら、放っておいてください」
「自分から呼んでおいて随分な物言いねぇ。私、一応あんたの神様なんだけど」
早苗がその視線を神奈子の方へ戻した。伏し目がちな表情に、神奈子は彼女の苦悩と疲れとを感じ取った。
「神様なら、私の悩みを消せますか」
その言葉には、不思議と真摯な響きがあった。
「時と場合と、内容によりけりかしらね」
それでも茶化すような物言いの神奈子に、早苗は僅かに苛立っていた。そして己の苛立っていることに気づくと、それが腹立たしかった。
「神様なら、何でも出来なければ駄目です」
「驚いた。早苗がそんな人の偏見を口にするなんて」
神を、人々を救い導く全知全能の存在などと思い込むのは、ヒトの、自身に都合の良い妄信の押し付けに過ぎないと神奈子は常に言っていた。人々の畏敬、感謝、依存心から生まれた神は、確かに人には成し得ぬ強大な力を有していたとしても、決して人間の欲望を満たす為の存在ではない。神でさえ、完全な存在などでは決して在りえない。時に押し付けがましささえ感じられる人間の態度が、神奈子はまったく好きでなかった。それを一番よく分かっているはずの早苗がそう言うということは、尋常ではないのだ。
「私は、何も出来ません」
しかしそれは裏を返せば、早苗の弱音なのだということに神奈子は気づいた。
「八坂様の力をお借りしてさえも、私はこの世界ではただの人間です」
早苗が淡々と語る間、神奈子は無表情に、押し黙って耳を彼女に傾けていた。
「私は風祝の立場にただ佇んでいるだけだったのでしょうか。現人神の名に自惚れていただけなのでしょうか。私は、何者なのでしょうか」
早苗が諏訪子から問われたことを神奈子に投げかけたことには、もちろん、神奈子がそれに答えてくれるのではないか、という意地の悪い期待がなかったわけではない。彼女は自身が、よほど人間的な逃避心理に陥っていることに気がついていなかった。
「それだけ、かしら」
しかし、それに対する神奈子の返答は彼女の期待とは正反対のもので、神奈子は溜息を吐くように冷たく彼女を突き放した。早苗の肩が一瞬揺れる。
「それで、ああそうだねとでも私が答えれば、あんたは満足なのかい」
「違い、ます」
早苗はその表情を枕に押し付け隠し、くぐもって感情の読み取りにくい声で言った。
「独りにさせてください」
早苗はひどく後悔していた。何をやっているのだろう。逃げても仕様がないのに、こんなにも人間の私は臆病だったのだろうか。きっとほら、八坂様も呆れ果ててしまわれているに違いない。
「ごめん、なさい」
「落ち着いたら、また呼びなさいな。私は早苗の、神様なんだから」
そして、神奈子の気配が其処から陽炎のように掻き消えたのを、早苗は感じた。彼女はやはり何処か冗談めかしていて、しかし優しい言葉に、早苗は独り、「ありがとうございます」と言わずにはいられない想いであった。
静寂の訪れると、早苗はそう望んでおきながら再び孤独な感覚が蘇るのを感じ、無意識に枕を抱く腕の力を強め身を縮めるようにした。
「わたしの、ばか」
ただ一言、怖い、と神奈子に言えなかったのは早苗の意地っ張りであったからであった。彼女の自尊心の高いのは勿論のことだが、やはり神奈子の前ではその傾向はより強く、なかなか素直に物を言えないことが彼女にはしばしば、ある。その為に、あのような答え難い、ただの愚痴をこぼしてしまったことに、早苗は自己嫌悪していた。
素直になりたい──現人神の東風谷早苗と、人間の東風谷早苗との間で、彼女は板ばさみだった。複雑に絡む思いが、彼女の中に重く在った。
そんなところへ、その声は聞こえてきた。
「辛そうね」
それはやはり、風のように突然だった。声が、聞こえてくる。何処か遠くから、幼い声が聞こえてくる。諏訪子は、言った。
「怯えているのね、可哀想に」
このとき、早苗はもう耐え切れなかった。
「貴方がそうさせているくせに、そんなことを仰るのですね」
「なんですって?」
「私が迷い、怯え、悩む姿がそんなにも可笑しいものですか」
誰の所為にもできないと解っているのに、しかし早苗はもう止めることが出来なかった。何処か楽しんでいるような雰囲気を言葉に纏わせた諏訪子に、烈しい怒りを感じずに居られなかった。
「困った子ね」
「こんなのって、あんまりです」
沈黙が、生れる。諏訪子はほとんど黙り込んでいた。
「私のこと、嫌いになっちゃったの」
暫らくあって、呟くような諏訪子の言葉に、早苗は答えなかった。……
◆
意識の徐々に覚醒していくのを、早苗は感じた。重い目蓋を辛そうに押し上げる。ぼんやりとした視界が、次第に明瞭になってくる。窓の外から注ぎ込む光が眼に沁みる、鳥のさえずりが聞こえてくる。もう、朝だ──昨日はあのまま寝てしまっていたのだ、と理解すると、早苗は静かに身体を起こした。
ややあって頭の締め付けられるような痛みに、彼女は眉を顰め額に手を当てる。それもそのはず、どれだけの時間寝ていたことだろうか。太陽の満足に昇らぬうちから起きているのが常の彼女にとっては、これほど寝過ごしてしまうということは今までになかった。
身体は気だるく、衣服には皺が刻まれている。きっと、長い髪の寝癖もひどいのだろうと考えると、既に気分は滅入ってしまっていた。
なんて苦しいのだろう、と早苗は感じた。まるで病のようだった。
「やっと起きたのね」
そこで唐突に、扉が開かれた。切れのよい、打つような音が鳴った。
「おはよう、早苗」
「八坂、様」
まるで彼女が起きるのを見計らっていたかのように部屋へ入ってきたのは、神奈子だった。突然のことに早苗はうまく頭が回らず、ついその眼を白黒させてしまっている。神奈子はそれに呆れたような表情を浮かべて、両手の甲を腰に当て彼女の目の前に仁王立ちとなった。
「早苗、おはよう」
「ええと、おはようございます」
仏頂面で繰り返す神奈子に、早苗は慌てて返事を返した。しかし、どうにも早苗は気恥ずかしい思いで、彼女と顔を合わせ辛かった。昨日の今日のことで、更にこの有様である。神職者として、あまりに申し訳が立たない。それでもあえて我侭を言うならば、もうあと少し、独りだけでいたかった。
「ん。さあ、行くわよ」
しかし、そんな早苗の憂鬱を知ってか知らずか神奈子は強引に彼女の手を取ると、引きずるようにして連れ出しにかかるのだった。これには早苗もただ驚くばかりで、為されるがままである。
「え、あの、何処へ」
「散歩よ、散歩!」
神奈子の様子は何処か楽しそうで、早苗の身体は半ば浮かんでいるかのようにぐいぐいと引っ張られていく。意識も肉体も、まだ完全には覚醒しきっておらず、曲がる曲がる廊下の目まぐるしさに、早苗はそれからまともに言葉を発することができなかった。
「ほら」
早苗の手を握り締めていた、神奈子の手が不意に離される。彼女が気づいたときには、そこは既に神社の外だった。小走りに来た早苗はやや息が上がっていて、ひとつ大きく息を吐いて視線を前方へ向ける。その眼下に広がる山の風景は陽光に照り返し、翳り、鮮明で、風は穏やかだった。昨日から、ほとんど何も変わらぬ光景がそこにあった。
「良い天気ね」
神奈子が噛み締めるように、言った。
「そう、ですね」
ぎこちなく早苗は答える。神奈子はこの気持ちの良い天気を存分に愉しむかのように両手を広げ、彼女に背を向けていた。早苗のものよりも一回り大きな、神奈子の背中。そこへ早苗が搾り出すように声を掛けようとしたのを遮るように、神奈子は再び彼女の手を取った。彼女ははっとなって、口を噤んだ。
「歩くわよ」
そうして二人は、岩肌を露呈し落ち葉の多い山道を踏みしめていく。……
静かな中に、落ち葉を踏む軽快な音が響く。神奈子と、彼女のあとを付き従うように早苗は歩いた。もう、神奈子の手は早苗に繋がれていない。ここまで来てしまえば早苗が拒否することもあるまい、と踏んだのだ。そして彼女は、様々な野花の咲いているのを、紅葉した葉の決して単色でないのを、それらが優しく風に揺られているのを──山の風景を愉しんでいた。
「……勝手です、八坂様は」
漸く早苗は、彼女らしく呟いた。彼女はほとんど息苦しささえ感じるほどに戸惑っていて、それが精一杯であった。迂闊に言葉を吐き出してしまうと、それらはすべて孤独な感傷に満ちた同情を求めるようなものになってしまうような心地がして、胸が詰まった。で、結局早苗はいつものように振舞うのだ。神奈子も、いつものように応えてくれるだろうから。
「何とな」
「ちょっと、急ですよ」
口笛を吹くときのような表情で、神奈子が振り向く。すると早苗はしきりに髪を指で梳くようにし、衣服の皺を気にしていた。神奈子の目が細められる。
「まあ、そんなことかい」
半円を描くように神奈子は早苗の後ろへ回り込むと、その長く伸びた髪にそっと手をかけた。早苗は内心はっとするような気持ちだった。
「早苗の髪は柔らかいから大したことないわ」
神奈子の指が自身の髪の間と間を通り抜けていく感覚を、早苗はくすぐったく思った。どうしてかは解らないが、どうにも頬のほんのり熱くなるのを感じていた。
「い、いいですっ、そこまでしていただかなくても」
気恥ずかしさからなのであろう、早苗は慌てて神奈子から逃れる。神奈子はそう、と悪戯っぽい笑みを浮かべて、彼女を見ていた。
「尼になるが良し」
「何を仰りますか」
身も蓋もないことを言う神奈子に、早苗は眉を困らせた。で、神奈子は暢気に笑うのだ。
そうして、ひとしきりして、また静かになる。神奈子の歩き出すのを待って、早苗はまた彼女のあとに続いた。早苗自身は無意識であったが、その視線は俯きがちになっていた。
さく、さく、と落ち葉の崩れる音がする。早苗の眸は、周りの風景よりは、しばしば神奈子の手へと向けられていた。手を離されてから、彼女は初めて神奈子の体温に気づいた。今の彼女には、その温かで大きな手のひらが、この上無く心強いもののように思われた。まして、此処は妖怪の山なのだと意識すればこそ、それは尚更であった。
「あの、八坂様」
「なんだい」
「いえ、その。やっぱりなんでも、ないです」
早苗の声はいよいよ尻すぼみとなっていった。ふぅん、とだけ答え、彼女の方を振り返ることもなく、見守るように沈黙する神奈子に、早苗は恐らく真っ赤になっているであろう己の頬を見られなかったことで安堵した。その御手を差し出して頂けたら、どんなに救われることか──早苗はそう思いつつも、そんなことを考える自分がまるで神奈子に甘える童子のように思われて、とてももどかしく感じた。
早苗は、そのジレンマにいつまでも戸惑っていた。神と人間という二つの立場からくる、相反する感情──彼女にはまったく経験したことのないものだった。しかも最早子どもでなく、しかし成熟しきったところもない少女の成長は、変に抑圧心を働かせ、逆に彼女を苦しめた。歩を進めるごとに、どこか深いところへ沈み込んでいくような錯覚を彼女は覚えた。手を伸ばしても、もう届かないと思った。仕舞いにどうしようもなくなって、得体のしれない気持ち悪さに口許を押さえた。足が次第に震えてくるのを、止められなかった。
だから、早苗は不意に頭のてっぺんに強く衝撃を受けたとき、夢から醒めたような心地になった。
「──あっ、つぅ!」
それは神奈子の拳骨だった。熱い感触が躯を撃ち抜いていくような感覚に、早苗は数瞬、茫然となっていたが、すぐにその唇は震えだした。
「な、何をするのですかっ!」
早苗は驚きと怒りとに見開かれた眼の目尻に僅かに涙を浮かべ、神奈子をきっと睨みつけた。神奈子はといえば、そんな彼女の視線を何事もなかったかのような飄々とした表情で流していた。
「だって早苗、歩くの遅いんだもの」
「だからって、理不尽です」
噛みつかんばかりの勢いで肩を怒らせる早苗は、むしろ晴れ晴れしく神奈子の眼には映った。感情のバネのようなもので、どこか吹っ切れたところがあったのかもしれない。
「ほら、いくわよ」
付き合っていると面倒になるので、神奈子は強引に早苗の手を引いて走りだした。無論のことながら、早苗はすぐうしろで何事かを喚いているが、気にも留めない。
かくして、その手は今一度繋がれた。よく晴れた秋空は、まだ綺麗だった。……
山の中腹、大蝦蟇の池まで到る頃には、神奈子も早苗もほとんど息を切らせていた。ここまで一思いに駆け抜けてきたのだから、当然のことではある。早苗には、とっくに何事か物申す威勢はなくなっていて、神奈子の手を強く握り返すと、無言のままに山を降ってきたのであった。
「は。もう、無理。ちょいと休憩」
疲れ切って惰性で同じ動作を繰り返すだけの脚を何とか止め、神奈子は身体を崩して膝に手を突こうとしたところで、繋いだ早苗の手のどうしても離れないだろうというのを知って諦めた。彼女は空いている方の手で額の汗を拭うと、その池を見た。もちろん、彼女には初めから目的地などはなかった。ただ、酷く疲れ果てたところにその涼しげな池を見ただけなのであった。
「気持ち良さそうね」
神奈子は草履を脱ぎ、スカートをたくしあげながら、そう言った。
「大蝦蟇が、居るそうですよ」
細い息に乗せて、搾り出すように早苗は呟く。神奈子は暫らくぶりに早苗の声を耳にする心地がした。
「大丈夫。私の方が偉いから」
そう返して神奈子は、──動けなかった。繋がれた早苗の手が、そうはさせてくれないのだ。
「あの、八坂様」
「うん」
そこで彼女らの間に、妙な沈黙が生まれた。早苗は俯いていて、神奈子はそんな彼女をじっと見つめていた。
「早苗」
「え。はい、そうですね」
早苗はそう答えるけれども、俯いたまま、やはり手を離そうとしない。
「手、繋いでたいの」
「そんなこと、ないです」
早苗はやや叫ぶようであった。しかし、それが白々しく感じられるほどに、早苗の様子は裏腹だった。これで意地を張っているつもりなのだろうかと、神奈子は苦笑して、その瞳を細めた。
「早苗、私のこと大好きだものね」
つい意地悪くしたくなって、神奈子はそんなことを言った。
「なっ、なにを──」
これにかっと頬を熱くして顔を上げたとき、早苗は神奈子に強く引き寄せられていて、はっと息を呑むころには神奈子と一緒に、池へと足を着けていた。
「え、きゃっ」
透明な水が小さく跳ねる。唐突に触れた水の冷たさに、早苗は短く悲鳴を上げた。そんな彼女の姿を見て、神奈子は笑って、
「気持ちいいわね」
と心底そうであるかのように、背筋を伸ばしながら言った。早苗も少し遅れて、しみじみと思うところがあるように、そうですねと呟くように答えた。その表情はやや茫然としたものだった。
「手、繋いでてあげる」
早苗は恥ずかしそうに、小さく短く声を上げた。そして、一種の気難しさと照れ隠しとを、軽く噛んだ紅色の薄い下唇と、伏せた瞳とに表した。それは思いがけず、憂いを帯びた艶のある、少女らしからぬ表情で、神奈子は驚きを禁じえなかった。
すり抜けるように、早苗の指がほどかれた。
「私、もうそんなに子どもじゃないです」
彼女はほとんど不意に、微笑を浮かべた。その大きな眸は静かに、むしろ寂しげな光を宿し黒黒としていた。神奈子はそれに、胸の奥に微かに焼けつくような苛立たしさを覚えた。
「私からしてみれば、まだまだ子どもさ」
「そんなの、勘違いです」
神奈子は声をひくくして、遮るように言った。
「ああ、そうかい。なら勝手にしておくれ」
彼女はそのまま大袈裟に肩をすくめ、するりと早苗に背を向けると、池に一つ突き出た大岩の上へ胡坐を掻くのだった。背後で不安そうに息が吐かれるのを、神奈子は聞き逃さなかった。
程無くして、こつんと己の背に早苗のそれが押しあてられるのを、神奈子は溜息の一つも吐きたい思いで迎えた。
「あの、八坂様」
「何さ」
わざとぶっきらぼうに神奈子は返した。
「怒ってらっしゃいますか」
「何に」
「その、昨日のこととか」
早苗は弱弱しく言った。その、ぶらりんな足はしきりに水を優しく叩いていた。
「怒ってる」
ちょっと考えるような間隔を置いて、神奈子は答えた。
「ごめんなさい」
「そうじゃないよ」
咎めるような神奈子の調子に、早苗は肩を揺らした。
「どうにもこうにも、あんたが一つも言ってくれないのに怒ってる」
水の音が、止んだ。
「信仰はせども信用はせず、かね」
「そんな。そんな悲しいことを、仰らないでください」
その早苗の言葉には、切な響きがあり、神奈子も心の何処か棘の刺さるのを感じたが仕様のないことと堪えた。神奈子とて、早苗の気難しさを理解していないわけではない。
「話してはくれないの」
「だって、きっと八坂様、笑っちゃいますよ」
早苗は自虐的な微笑を浮かべて言った。
「笑わないでいてあげる」
「そんなの、どうして約束できますか」
そうね、と神奈子は語を継ぐ。
「やっぱり信用されてないのね」
「ずるいです」
「信じられないの」
早苗の唇が震え、歪んだ。
「約束、ですよ」
「信じる者は救われる」
早苗はいよいよ耳の端まで熱くなり、鼓動の速く打つのを感じていた。彼女は思い切って、固く瞳を閉じるのであった。
「私は、怖いです」
風に掻き消されてしまうかのように細く、震える声だった。背にあずけられる重みのぐっと増したのが、神奈子には決して悪い気分ではなかった。
「神様気分でした」
ひくい声で早苗は続けた。
「この奇跡の世界へ来ることで、本当に神様になれるんじゃないかって、そう思っていました」
──しかし、そんな夢心地は皮肉にも人間によって醒まされた。そうして、彼女は己の中の”人間”を知る。それは途端に膨れ上がって、足掻く彼女をがんじがらめにした。そうして彼女は恐怖を知る。彼女は人間で、それらは妖怪だった。
「もう、私にはどうしていいかわからないのです」
その無知であるところが、悔しく苦しく恐ろしいのだろう、と神奈子は考えた。彼女はみんなわかっていたが、静かに耳を傾けていた。そして、一つ深く溜息を吐いた。
「馬鹿な子だ」
神奈子は呆れたように言った。
「早苗にとって、私はなんなの」
そんなことを神奈子が口にした。どうしてそんなことを言うのか、早苗は不思議に思った。
「えっと、八坂様は」
「八坂様です、なんて言ったら拳骨」
「あう」
さっそく封じられて、早苗は黙り込んでしまう。暫らく考えて、彼女は不意に直感するものがあったが、それにはやや頬を染めて、おずおずと口にするのだった。
「私の神様、ですか」
「そう」
満足そうに、神奈子は肯定した。そして、その小さな魂をなだめるように、おもむろに言葉を紡いだ。
「もし何かあったときには、私が貴方を守ってあげる」
申し訳なさそうな吐息を早苗は漏らした。明らかに彼女は遠慮と、そして気恥ずかしさとが、その胸の中に深く呼ばれているようであった。
「どうして、約束できますか」
彼女はみぎとひだりの手の指を絡めて、それをきつくしながら、またその言葉を口にした。
「信じてくれなきゃ、神様はどうしようもないわ」
「ずるいですよ、そんなの」
そんなことを言って、ずるいのは自分の方だと、早苗はわかっていた。暫らく彼女は、そうした意地の強いのと格闘していた。彼女の中で、もう答えなどは決まりきっていたのだが、どうしてもそれを素直に口にすることは難しいことのようであった。
「そんなに、私、甘えてしまって子どもみたいで、厭じゃないですか」
「今まで甘えてくれたことなんてあったかね」
「だからです」
それもそうか、と神奈子は可笑しく感じた。早苗は常に冷静でいて、態度を崩すことはあれど、神と信仰者という或る一定の距離は保ち続けてきたのである。神奈子はむしろ、そういった厳粛性は重視しなかった。
「きっと、絶対、笑っちゃいますよ」
「うん。じゃあ、甘えて」
早苗はもうどうしようもなく真っ赤になって、俯いた。ちょっとしてから、その唇はひらかれた。
「一つ、お願い事を叶えてください。それで信じます」
「言ってごらんなさい」
神奈子はちょっと、ひやっとしたものだったが、果たして早苗の口にしたのは、よっぽど子どもらしい或る我侭であった。
「手、繋いでください」
「──貴方がそう望むなら」
背中合わせに、二人の神と人は手と手を合わせた。帰りましょうか、という神奈子の言葉に、早苗はしずかに頷いた。……
◆
なぜ歩くのですか、と人は問うた。そこに道があるから、と神は答えた。
「飛べますよね、私達は」
「別にいいじゃない。私と長く一緒に居られて、嬉しいでしょ」
静かな山道を、神奈子と早苗は繋いだ手を揺らして歩いていた。やや傾き始めた日は、地面に、まばらな木の葉の影をより深く、そして彼女らの影を長くしている。風は快いほどで、秋の香りをほのかに乗せていた。
「行きにあれだけ足を動かしたでしょう。私は、もう疲れました」
「照れなくてよい、よい」
「冗談を言わないでください」
早苗は頬を紅くすると、突き放すように足をぐんぐんと速くしようとして、手を繋いでいることに気がついて、さらに頬を染めた。背に、意地悪く神奈子の笑っているような心地がして、機嫌の悪そうに下唇を噛んだ。彼女はすっかり、いつもの様子であった。
それはともかくも彼女が疲れているのは事実であった。池で休憩したとはいえ、帰路に足をつけた途端に、彼女は筋肉の疲労に張り、膝の痛むのを感じた。棒のような脚を、彼女はぎくしゃくと動かしていた。
「きっと考えすぎなのよ、早苗は」
硬い地表をたっと踏み鳴らし、足の痛ましいところへ、神奈子の暢気そうな声が呟かれた。静かな処に、それはよく響くように沁みこんだ。
「妖怪なんて、そんなに恐ろしいものじゃないわよ」
宴をともにすることを以て、神奈子は幻想郷の妖怪の、むしろ人間らしいところがあるのを知っていた。彼の生き物はむやみに人を襲ったりすることはない、と或る秩序がこの世界に築かれていることを、早苗が知らないだけなのであった。
「ご存知ないだけです。私、あの新聞記者にひどく脅かされましたもの」
早苗は身震いするように、あの黒黒と輝く二つの眸を思い出していた。思いもかけぬ悪戯に、神奈子は文のことを忌々しく思ったが、沈黙しては悪いだろうと考えて言葉を続けた。
「そういう奴なのよ。生意気に力があるからって、弱者には喧嘩を売ってるの」
「そうでしょうか」
早苗は、どこか納得しないように、不安そうな息を乗せて言った。風に揺られて木の葉の寄り合う、さらさらという音が聞かれた。
「私が居ても、恐ろしいかえ」
「まだ、すこし」
祈るような早苗の表情がうかがい知れて、神奈子は眼を細めた。
「そう、それも仕様がないね」
それでもいいよ、と彼女は語を継いだ。
「弱くてもいい、あんたは人間でいい」
「でも、私は」
振り返った早苗の唇に、神奈子の人差し指があてられた。
「そうでなかったら、早苗に神様なんて必要ないでしょ」
「あ、えっ、と」
不意を突かれたような、はっとした表情を早苗は一瞬見せ、そしてまたすぐに翻してしまう。
「そんなこと、ないです」
「そう。嬉しいわ」
神奈子は、早苗がそんな反応を見せるとき、胸の中に特別に温かいものを感じるのであった。
「すこしずつ知って、すこしずつ馴染んでいけばいい」
「はい」
ね、と念を押すようにすると、早苗はぎこちなく頷いた。
「そして、強くなっていけばいいわ」
「強く、なれるでしょうか」
「おや、随分情けないことを言うね」
早苗は振り向かず、不満な声を漏らした。
「ちょっと、言ってみただけです」
しかし、そこにわずかに寂しさの混在しているのを、神奈子は感じ取った。そこで彼女はいやらしい、或るからかうような微笑をその表情に映すのだ。
「もう、あんなろくに修行もしてないような麓の巫女なんかに負けないでね」
この言い方には早苗もむっと、眉根を寄せるものがあった。振り向いた彼女の眸の奥に、あのいつも暢気らしい様子の霊夢の姿が憎らしげに映っているのを、神奈子は見た。
「あれは、油断してただけですよ」
「あんなに落ち込んでたのは誰だったかしら」
「知りません、そんなの。八坂様、意地悪です」
早苗はつんと鼻を持ち上げて、また神奈子へ顔を向けず口を利かなかった。もちろんそれは、早苗の自信家であるところを最もよく知る神奈子の策略であったが、そこからすっかり何も喋らずに淡淡と歩いていくところを見て、彼女は苦笑いとなった。彼女とて足の疲労の激しいのは一緒であり、あえて早苗を歩かせたのは、ゆっくりと話をする時間が欲しかっただけである。彼女は早苗の頑固であるところをよく知っていたから、このままでは神社まで歩き続けるのだろうと、膝の痛みをひどく感じた。
「あの、早苗」
「なんですか」
早苗はかなり不機嫌そうに言ったものだったが、そうでもしないと彼女は頬の熱くなるのを誤魔化すことができなかった。力強い手の繋がれていることが、急に嬉しかったのだ。
「空、飛びましょう」
早苗は、歩きましょうと言ったのも彼女ではないか、と不思議に思って振り返った。そして、足を辛そうにしながら、気まずさを取り繕うような笑みを浮かべた神奈子と眼が合った瞬間、彼女はほとんどすべてを理解して、表情を柔らかくした。
「そんなことでは情けないですよ、八坂様」
「神様はねぇ、体力じゃないのよ」
一転して得意気になった早苗の言葉に少しばかり悔しい思いをして、神奈子は苦笑した。
「ほら、早く飛ぶ」
「あ、引っ張らないでください」
しかし、早苗の表情から影のなくなっていくのを認めて、神奈子はもう大丈夫だろう、と安堵の息を漏らした。世界の一切が変わらなくとも、彼女ひとりが変わってしまうのは骨の折れる大事だと、神奈子は呆れたような、しかし優しい眼をしていた。……
◆
明るくもなく、暗くもない、そしてまるで世界が眠っているかのような静けさを漂わせる夜明け前というものに、早苗はよく、或る居心地の良い孤独を感じた。己でさえ一切の静寂を破ることが躊躇われるような深遠な情緒を、そこに感じるのであった。
早苗は今朝早くから、大方を終え境内の掃除をしていた。暫らく、そんなふうにぼうっとしていたが、何とはなしにゆったりと竹箒を動かし始めるのだった。竹の、上擦れた甲高さで、しかし軽快な乾いた響きが霧散するように消えていく。きっとケガレの祓われるような神聖さを、早苗はそこへ見ていた。
その静かな朝は、そんなところへ初めは霧のように、そしておもむろに小粒な雨を降らせた。すぐに早苗は拝殿にかかる長大な覆屋の下に入り、雨を凌ぐことにした。彼女は溜息を一つ吐きながらも、雨粒の天から絶え間なく地に注ぐのを眺めていた。彼女は、雨が嫌いではなかった。物凄い速度で落ちてくるごく僅かの水滴が、地面に儚く砕け散り、軽やかで透明な音色を次々と響かせるのが、妙に心地よく耳朶を打つのであった。
早苗はふと、傍に誰かの居る気配を感じて目を丸くした。いつから居たのかと不思議に思って、視線だけを向けると、彼女のちょうど肩の高さくらいに風変わりな帽子が見えた。
「洩矢様」
早苗は思わず声を上げた。すこし、緊張していた。
「おはよう、早苗」
「おはようございます」
彼女の方を振り向くことなく、諏訪子は言った。そして、それきり二人は互いに雨ばかりを茫然と見つめていて、何も喋らずに居た。諏訪子の背丈の低いのと、幼く見えることもあって、まるで姉と妹のような奇妙な対比が、雨宿りする二人の姿にあった。
「もう、妖怪は怖くないの」
そして、まるで雨の一粒の落ちるように諏訪子が訊ねた。ほとんど不意であったので、早苗は一瞬戸惑った。
「──いいえ、怖いですよ」
「どうして」
早苗にはやはり、諏訪子の心が何処に在るのか、わかりかねた。ただ、からかっているだけとか、暇つぶしだけのようには、今となってどうにもそう思えなくなっていた。そうでなければ、こんなにも私に関わってこないはずだ、と早苗はそう考えた。
「人間ですから」
「そう」
諏訪子は何処か納得した様子であった。それがつまり、彼女の”答え”だったのだ。
「強いのね」
「私は、強くなんかないです」
「あんなに落ち込んでいたのに、今は奇麗な眼をしているわ」
早苗の方を見てもいないのに、諏訪子はそんなことを言った。早苗は、すこし恥ずかしかった。
「神奈子のおかげなのかしら」
「そう、ですね」
ふぅん、と短く諏訪子は返した。不機嫌そうに聞こえたのは、八坂様と洩矢様の仲が悪い為であろうか、と早苗は思った。彼女らの仲の悪い理由を、早苗はやはり知らなかった。彼女は神奈子に尋ねたこともあったが、神奈子は、性格が合わないのさ、と言うだけで、早苗もなんとなく、そうなのだろう、としか思っていなかった。
「もう戻りなさい」
突如として、諏訪子の小柄な足が躍り出て、石畳の上を滑った。繊細な雨が、瞬く間に彼女へと降り注いだ。
「この雨は、降り止まないだろうから」
空を見上げて、彼女は言った。雨粒が彼女の頬を打ち、ふっくらとした曲線の上を伝い、滴り落ちていく。彼女は目蓋を閉じて、それに任せていた。
「御身体が、冷えてしまわれますよ」
「雨、好きだから」
そう言うように、諏訪子は雨に打たれて、確かに気持ちの良さそうな様子であった。彼女の衣服に次々と斑点の作られていくのを、早苗はずっと見つめていた。
「私も、本殿に帰るわ」
バイバイ、と軽く手を振って諏訪子は奥へと歩き始めた。その背中に、小さな背中に、早苗は思わず言葉を投げかけた。
「洩矢様」
「うん」
小首を傾げるように、可愛らしい微笑で、諏訪子は振り返った。その眸は大きく、穢れのないようなところが子どもらしかったが、しかし深い色彩を宿していた。
「あの、嫌いになんて、なってませんから」
雨の所為であろうか、彼女の眸が微妙に揺れ動くのを早苗は見た。
「どうして」
「私が未熟なだけだったんです」
早苗は頬を薄く染めて、伏し目となった。長い睫毛の眸にかかるのが、彼女の憂いを示していた。
「どうか、お許しください」
そう言って、早苗は深深と頭を下げた。
諏訪子は暫らく、驚愕を微かにその表情へ浮かべそのまま佇んでいたが、ふと早苗の方へゆっくりと戻り始めた。少しずつ、小さな足の水を踏み鳴らす音が大きくなってくるごとに、早苗は心音の比例するように大きくなっていくのを感じていた。
音が止む。早苗は自らの髪に、細やかな指の通るのを感じた。
「いいよ、そんなの」
頭を撫ぜられている、と彼女が理解するには数瞬を要した。しっとりと雨に濡れた、冷たく小さな手のひらが妙に心地よく、しかし気恥ずかしくて、彼女は身を引くようにして諏訪子の手から逃れた。
「あーうー」
むくれたようになって諏訪子は不満の声を上げる。早苗は、彼女に神奈子と似通った何かを感じて、頬を紅くした。
「そんな、もう子どもじゃないんですから」
「関係ないよ」
背伸びをしてまで早苗の頭を撫でようとする諏訪子を、これまで関わりの薄かった早苗はその外見通りの子どもらしい仕草に、しかし意外性を見出して、戸惑いながら押し留めていた。彼女は何処か懐かしさを思い出していた。
「むかし」
その言葉はほとんど早苗の無意識に、口をついてでたようだった。
「遊んでいただいたこととか、ありましたか」
諏訪子ははっとしたようにそれまでの動きを止めた。そして、すこし早苗から離れると、
「いや、ないよ」
そう、抑揚無く答えた。
「そう、ですよね」
少し寂しく、早苗には聞こえた。忘れていた雨の音が、戻ってきた。
「ちょっと、懐かしいような気がして」
「おかしな早苗」
諏訪子は微笑した。早苗も、照れ笑いを浮かべた。
「それと、あともう一つ、ごめんなさい」
「どうしたの」
早苗はひどく後悔している様子であった。まるで覚えのないように、諏訪子は彼女を見る。何しろ諏訪子は、むしろ早苗を怒らせてしまったと思い込んでいたからだ。
「神様なんですか、などと酷いことを言ってしまって」
「ん。いいのよ、私のことなんて本当に誰も覚えてないし」
それを聴いて、事も無げに諏訪子は言った。それが、早苗には何故か悲しかった。
「私は、忘れません」
また滑稽なことを言う、と諏訪子は思った。彼女は覚えていないのだ、何もかも。諏訪子は、遠い真実の忘れ去られたことはどうでも良かったが、それが滑稽な歪みとなって現れることには、もどかしさを感じずには居られないのであった。
「だから、洩矢様は神様です」
「そう。まあ、勝手にして」
誰の神様なの、とは諏訪子は尋ねなかった。それはあまりに残酷な問いだったからだ。
「さ。もう、帰りましょう」
諏訪子はくるりと早苗に背を向けて言った。そうですね、と早苗も答えた。
「──今度、遊んでくれるかしら」
すこしはにかみながら、諏訪子はそんなことを言った。早苗は意外な言葉に驚きつつも、
「ええ。よろしければ、いつでも」
と答えた。彼女は、この幼いような、懐かしいような神に興味を抱きつつあった。
「うん。じゃあ、また」
「さよなら」
そして、二人は別れた。雨の中に、諏訪子の楽しそうに踊るように消えていくのを、早苗はずっと眺めていた。……
◆ 雨の中の神様たち ◆
「雨、雨、降れ、降れ、もっと降れ」
本殿の前、諏訪子は雨に打たれ喜び、歌っていた。両手を広げ、円を描くように、二つの美しい流曲線の脚が石畳の上を踊り、打ち鳴らす。それは雨と諏訪子の合唱のようであった。
「楽しそうだね、あんたは」
観客が、一人だけ居た。大きな蓮の葉を雨避けに持って、神奈子がその姿を見ていた。
「あら、神奈子。何か、御用」
歌うのをやめ、まるで邪魔をしないでとでも言うような不機嫌さを言葉の端に表して、諏訪子は言った。しかし、それもいつもの口の悪さであったから、神奈子は気にも留めなかった。
「遠く遠く離れていても、やはり我が子は愛しやなのかい」
諏訪子は黙って、無表情とも微笑とも取れない表情で神奈子を見た。早苗の、諏訪子に懐かしさを感じた所以は恐らく、彼女が早苗の遠い先祖であるためであったのだが、それを早苗だけは知らなかった。それがより、諏訪子と早苗の関係を滑稽にしていた。
「早苗にお節介を焼いたのは、あんたでしょう」
神奈子は溜息を吐くように、しかし咎めるような棘も無く言った。遅かれ早かれ、それは早苗にとって克服しなければならない試練であったからだ。
「今更、母親か祖母気取りかい」
諏訪子の眼が、ほんの僅かに細められた。
「あの子には、両親も、祖父母も居たじゃない」
そういう意味じゃない、と少しだけ唇を吊り上げる神奈子を制して、彼女は続けた。
「それに貴方も居たから、私の出る幕なんてほとんど無かった」
「それは、そうね」
諏訪子には責めるような口調、神奈子には罪悪感のあるような口調も、両者には一切無かった。彼女らはこと相互の利害関係に対して、そのような嘘らしい感情を持つことがなかった。
「つまり、早苗には隙が無かったの」
真実、諏訪子はごくたまに早苗と二、三、言葉を交わす程度であった。早苗の信仰する神は神奈子であったし、諏訪子のことを知る者も居ない、もちろん知ろうともしない。それによって、諏訪子が早苗を知ろうとする機会さえ失われた。
「でも、こっちの世界へやってきて、あの子は戸惑っていたわ」
現人神であった彼女に、人間らしい弱さが生まれた。悪く言うならば、諏訪子はそこへつけこみ、早苗とより深く関わろうとしたのである。そして、果たしてその企みは成功した。
「けど、あの子は私の子孫だから、なんて可愛く思ったわけじゃないわ」
神奈子の最初の問いへ、ようやく諏訪子は答えた。
「ただ、ちょっとした好奇心。そう、暇つぶしね」
「ふぅん、そうかい」
神奈子はつまらなさそうに相槌を打った。諏訪子の言葉が真実であるとは、思っていなかった。
「あの子、とっても面白いわ」
それとも自分自身で気が付いていないだけなのか──神奈子はそんなことを考えながら、無表情な眸で雨と諏訪子のことを見ていた。しかしそうであるならば、神奈子には矛盾を感じる点がいくつか無いでもなかった。
「あんたは、あわよくば早苗を私から奪い取ろうとも、していたでしょう」
神奈子がそう言うと、諏訪子は悪戯のばれたような眼をして笑った。
「うん、ちょっとね。たまには仕返ししてやるのも、どうかなぁって」
まったく悪びれた様子もなく、諏訪子は白状する。神奈子はまた一つ、大きな溜息を吐いた──それは神奈子を確信させるに十分なものだった。
「この雨、あんたが降らせたんでしょう」
諏訪子は一瞬、沈黙した。しかし、すぐに含み笑いを口許に表した。
「さあ、どうかしら」
「昨日まではあんなに晴れていたのに、不自然さね」
神奈子は、分かっているよとでも言いたそうな口振りであった。
「何か、不愉快なことでもあったかい」
「いいえ、何も」
しかし、諏訪子は全くそうであるかのように答えた。
「私は雨、好きよ」
「そうかい」
問い詰めても無駄だということが、神奈子にはよく解っていた。だから、彼女はもう興味を失っていた。
「あまり、面倒なことはやめてよね」
「そうね。もう、良いかな」
神奈子は、諏訪子が信じられないほど簡単に引き下がるので、心底怪訝そうな表情を浮かべて彼女を睨んだ。嘘だろう、とその眸に如実に語られていた。
「疑っているの」
いやらしい諏訪子の微笑に、神奈子は眼を逸らす。
「ちょっと、信じられない」
「ふふ、ご自由に」
諏訪子は、ご機嫌な様子で鼻歌を歌い始めていた。どうして、と神奈子は訊きたかったが、からかわれるだろうし、答えないだろうということも判っていたので、ただ訝しげに彼女を見つめるのみだった。
雨は、降り止まない。変わらず、それほど強くはない小粒の雨であったが、少し肌寒さを感じて神奈子は戻ることにした。さあさあという雨の打つ音が、嘲笑のように聞こえて不快だった。
「帰るよ」
「そう。さよなら」
どっと疲れたような重みを肩に感じて、神奈子はうんざりした。しかし、あまり深く考えることも好まないので、彼女はすぐに信仰のことを考え始めた。それでも、文になされた、己が妖怪の勢力均衡を崩壊させる恐れを孕んでいるということを思い出し、彼女はひくい声で唸った。……
独りとなって、諏訪子は雨の中、呟いた。嬉しそうに嬉しそうに、呟いた。
「きっと、良い暇つぶしのできただけ」
そして、また歌うのだった。
「──明日ハレの日、ケの昨日」
おわり
それはともかく
いい神様達でした。特にケロちゃん!
>彼の生き物はむやみに人を襲ったりすることはない、と或る秩序がこの世界に築かれている
里などの一部の場所や者を抜かせばそうでもないですけどね
諏訪子さまがほんのり恐いのがいい味付け
仲良し守矢神社一家な作品が多い中で、こういう作品も新鮮でいいと思います。
>うん
うわっ、さらっと!
と思いましたが、もともと神奈子が諏訪子から奪ったのよね
続編期待