あれは、いつのころの話だったろう。
気がつくと目の前には闇夜を照らす提灯の明り、石畳の左右には屋台。日常から遠く離れた世界へと続く道を形づくる。
参道の奥には社、さらにその奥には、濃密な常闇。屋台の背には、迷いなくそそり立つ木々。その奥には、やはり闇。原始の、人の心を飲み込み埋め尽くすような、濃密な黒がわだかまる。
遠くに見える社の上には、冴え冴えと地上を照らす満月。
風が羽を渡るたび風車はカラカラと歌い、木々が風と戯れ遊ぶ。それだけが、そこにある賑やかさだった。
お祭り。
その言葉の響きだけで、気分が高揚する。それはまるで魔法のようだ。
その風景の中に、少女は立っていた。
実際に生活している家から少し距離があるが、少女は毎日のように神社に遊びに来ていた。自分の庭も同然の境内で、お祭りが行われるなんていう話はまったく聞いていない。自分をびっくりさせるために内緒にされていたのだろうか。
いや、分からないはずはない。特に理由もないが、そう確信していた。実際、歳に不相応な聡明さを持っているこの少女であれば、大人の隠し事などすぐに見抜いてしまうだろう。
少女は情景に呼び込まれるように、一歩、また一歩と歩みだした。
少女は、お祭りの日常から切り抜かれたような浮かれた雰囲気とざわめきが好きだった。
人の姿は見えず、声もない。ただ、ざわめく気配だけは感じらた。まるで見えない人がいるような感じがする。それは不思議ではあったが、恐怖ではなかった。周囲の気配は歓喜にあふれていて、お祭りに酔いしれる人々そのものだった。
姿はなくとも、人々は確かにそこにいた。自分とそう変わらない歳の子が、笑いながら傍らを走り去り、それを両親がゆっくりと追っていく様子が、寄り沿う男女の様子が、陽気な男たちが酒を片手に闊歩する様子が目に見えるようにはっきりと感覚できた。
しかし、見えない人々の方はというと、少女に気づくことなく過ぎ去っていく。
お祭りの風景はそこにあり続け、見えない人々は途切れることなく行き交い、めぐる。その中でたったひとり佇む少女は、まるで自分だけが置いて行かれるような、背筋が凍るような不安に襲われた。まるで、自分が透明になってしまったような気すらした。それは恐怖以外の何でもなかった。
ざわめきはただ静かに、そこにあり続ける。
自分だけが、そのざわめきの中にはなかった。
まったくの一人でいるより、はるかに孤独だった。声をかけても返事はなく、気づかれることもない。どうしようもない不安が周囲のざわめきを、心を穿つ針に変えた。カラカラ回る風車も、孤独を強調する風にしか聞こえない。お福も火男も狐様も、自分を無表情に見つめるだけ。提灯の明りでさえ、心もとない薄明りに思えた。
寂しくて、怖くて、少女は泣きそうだった。実際に目に涙を溜めて漏れそうになる嗚咽を必至に堪えていた。
帰りたいな。
そう思い振り返る。神社の出口は、ここからそう距離もない位置にあるはずだった。しかしそこにあるべき参道入り口の鳥居も階段も見当たらず、ただ屋台が並ぶ参道のみが延々と続いている。
「えっ?」
神社は少女にとって、家の庭のようなものだった。毎日のようにここで遊んでいたので目をつぶっていても歩くことができる気さえするほどに、馴れていた。それがどうしたことか、今自分がどの辺りにいるのか全く分からなかった。
いや、そうではなかった。
ここが神社のどのあたりであるかは、感覚が教えてくれる。しかし、目に見える風景が自分の感覚とは微妙にずれた姿でそこにあるようだった。
そもそもここは、本当に自分の知る神社なのだろうか。自分に問い直してみても、頭の中にある「ここは自分の知っている神社だ」という答えは揺らぎそうになかった。
なんでそんなに自身満々に答えが返ってくるのか。自分の思考に思わず恨みを感じ、文句を言いたい衝動に駆られたが、そんな場合ではないという気になった。少女は唐突に我にかえるかのように、夢から醒めるように、重大な事実に思い至り、全身が硬直する。
そう言えば…。
いつの間に、神社まで来たのか、なぜここに立っていたのか、記憶が一切なかった。それまで何をしていたのかも、咄嗟には思い出せなかった。
必死になって、きょうのことを思い出す。
確か、学校が終わって、いつもと同じように一人で帰る途中で、少し寄り道を…あれ、どこに行ったんだったっけ。あぁ、川原の方だ。
夕暮れに記憶が飛んだ。
今日の夕日はやけに赤くて、思わず見入っていたことは記憶にあった。
その後は?
目の前に、お祭りの光景。
その前は?
真っ赤な夕日。急に寂しくなって、家に帰ろうと思った。
今は、もう夜。
神社に足を運んだ記憶――なし。
入り口――どうやってここに来たのかも分からない。出口――ここから帰る方法は?
不安を振り切るように、月に背を向け参道の入り口に向かって歩き出した。神社は決して狭くはないが、さほど時間もかからずに外に出ることができる。
そのはずだった。
しかし、いつまで歩こうとも神社を抜けることはなかった。突き動かされるように、次第に速足になり最後には走り出していた。しかし、それでも左右の屋台は途切れることなく、そこから抜け出すことはできなかった。
姿なき人々のざわめきを感覚しつつ、少女は走り続けた。帰りたいがためというよりは、このにぎやかな孤独から逃れたいかのように。しかし、疲労よりも早く、先の見えない恐怖と、背後から迫り来る絶望が少女の足の運びを次第に遅くする。ついには足が動かなくなり、立ち止まってしまう。目には、再び涙があふれてきていた。
「…帰りたい」
少女が、そう呟いたときだった。
ガサッ
今にも泣き出しそうだった少女は、物音に反応して素早く振り向いた。自分が立てる物音以外で、耳から聞こえる物音がひどく新鮮で、無性に嬉しかった。またも涙は出番を失って引っ込む。
そこには、少女と大差のない年のころの子供がいた。頭を屋台の影から突き出して、こちらの様子をうかがっている。ぱっと見では男の子か女の子か区別がつかなかった。
それもそのはずで、顔には蛙のお面。
少女に見られたことを察したからか、お面の子供は、屋台の影にさっと身を隠す。
「あっ!」
少女は咄嗟に屋台の裏手まで走った。
子供は、屋台の裏を跳ねるように走っていく。どこか本物の蛙のような印象があった。
「ちょっと待ってよ!」
少女も慌てて後を追う。お面の子供の足は早かったが、少女も追いかけっこには自信があった。
三軒先の屋台の裏から参道に出て、そのまま参道を横切って向かいの屋台の脇を抜けて裏手へ走る。そのまま数件の屋台の後ろを走ったあとで屋台の周りを一周。再び参道に出て、風車の前を、お面の前を走り抜けた。参道の出口とは逆方向――神社に向かって走る。
「待ってったら!」
なかなか、追いつけない。お面の子供は、まるで重力など知らないと言っているかのように、軽快に跳ね回り走り回る。走っても走っても追いつけそうにない。見失わないようにするのが精一杯だった。
つかまえないと。
だんだん息が切れてきた。お面の子供は、再び屋台の脇に入るかと思いきや、屋台の中に飛び込んだ。少女が唖然としつつも追いついて中を除きこむ。射的の屋台だった。
「あ、あれかわいい」
上から二段目にあるぬいぐるみに、一瞬心奪われる。
「ひゃっ!」
その瞬間を狙ったかのように、お面の子供が射的の台を蹴り、カウンターに上る。 そのままカウンターも蹴って少女の脇を跳ねるように抜けていく。
ほんの少し未練を残しつつも、追いかけっこは続行された。
今更ながら気がついたが、追いかけているお面の子供は女の子の格好をしていた。再び神社の方向に向かって走りだしている。
――絶対につかまえなきゃ。
先程よりも背中が小さくなっている。機会は、まさに今しかないように思えた。
少女は、無意識に風の断片を集めると、自分の背を押すような追い風の突風を生み出した。背を押す確かな力を感じると、何のためらいもなく勢いに任せて地面を蹴る。
お面の子供は不穏な気配を感じ取ったのか、初めて少女の方を振り返る。――驚いたように硬直した。
少女が尋常ならざる勢いで空を飛んで追いかけてくれば、普通は驚くだろう。
少女は少女で、空中に放り出された後、方向こそ制御していたが、減速は一切せず、そのまま突っ込んでいく。
結果、二人はもつれ合うように石畳を転がり、どうにか停止する。
お面の子供は仰向けに倒れ、少女はその上に突っ伏している。
お面をした頭が起き上がろうとする。少女の方はピクリともしなかった。
「いつっ。え、ちょっと大丈夫!?」
よほどびっくりしたのか、今まで一言も声を発しなかったお面の子が、初めて恐る恐る声をかける。
「…えた」
「え?」
少女は、何事かをつぶやきながら、突っ伏していた顔を持ち上げる。
「やっと、つかまえた」
そこには、満面の笑み。
そして、いつの間に手にとったのか側頭に鬼の面を斜めにかぶっている。
「それに、やっと話しかけてくれた!」
「…あ! まさか、ピクリとも動かなかったのは演技!?」
返事の代わりに、ピースサインが向けられた。
どうやらまんまと作戦にひっかかったようだ。
しかし、よくよく見ると、あちこちに擦り傷をこさえている。痛むだろうに、そんなことは意にも介さず、見事に罠にはめたということらしい。
「くくっ、あはははははは」
最初、言葉もなかったが、実に愉快そうにお面を揺らし笑い声が上がる。
「負けたわ。つかまっちゃった」
その声が、心底楽しげだったので、再度右手でピースを作りつつ、つられたように少女も笑った。
ひとしきり笑うと、お面の子供は――声からすると、女の子のようだった――少女の下から這い出すと、立ち上がった。少女にも手を貸して、立ち上がらせてくれた。
「あ~あ、こんなにして」
とった手の肘のあたりに見ている方が痛くなるような、大きな擦り傷が出来ていた。
「大丈夫だよ」
という少女の声に取り合わず、ハンカチを取り出し傷口に巻きつける。
「平気だってば」
「服、汚したくないでしょ」
有無も言わさず。手早いもので、言い終わる前には巻き終えていた。
少女は、言葉とは裏腹に別段それを嫌がるわけではなく、むしろ嬉しそうに微笑みかえす。
「ありがとう」
「ん」
お面が満足気にうなずくと、不意に、きょろきょろとあたりを見回し、ある屋台に向き直る。
「林檎飴でも食べる?」
「こっちだよ、早苗」
お面の子が先に立って参道の奥に向かって歩き出す。その後ろを少女――早苗がついていく。手にはお面の子お手製の林檎飴。顔には若干の不機嫌。軽く眉間に皺を寄せていた。
「それで、あなたの名前は?」
「だ~か~ら~、見ての通り一介の蛙でございますよ」
「お面、とらないの?」
「コレが私の顔なんだって」
背丈はそんなに変わらないはずなのに、妙に落ち着いた答えが返ってくる。
その返答に早苗は頬を膨らませる。さっきから同じ問答延々繰り返しているのだが、返事がにべもない。
「むぅ~…分かった。とりあえず、お面はいいや」
早苗も流石に根負けして、とりあえず一部譲歩することにした。
「でも、せめて、ちゃんと名前は教えてよ! なんて呼べばいいか分かんないし、カエル、なんて呼びたくない」
「じゃぁ、好きに呼べばいいよ」
言葉はそっけないが、どこか温かさのある声だった。しかし、それ以上にからかい半分であることがありありと分かる声でもあった。
むくれていた早苗だが、いいことを思いついたという感じに、表情にぱっと花が咲く。
「じゃぁ、ケロちゃん」
「ぇ?」
「かわいいでしょ、ケロちゃん」
「…そーね」
今度の返事は完全無欠にそっけなかった。
「ケロちゃん! ほら、返事は?」
「はいはい」
すっかりご機嫌になって、走って『ケロちゃん』の横に並ぶ早苗に、苦笑まじりの返事を返す。まんざら悪い気もしないという感じだった。
「ねぇ、ケロちゃん」
「ん?」
「せっかくだから、お祭り、一緒に回らない?」
輪投げ
「これ、意外と難しい」
早苗が放り投げる輪は、一向に御柱に入る気配がない。
屋台に人はいなかったが、『ケロちゃん』曰く「お金はいらない。準備はセルフサービスで。後片付は不要」なので、勝手に輪を持ってきて遊んでいた。
手に持っている林檎飴も、店先にあった材料から『ケロちゃん』が作ったものだった。
「あ~あ、全部外れ」
ケロケロと笑いながら、『ケロちゃん』が輪を持ってくる。
「下手だなぁ。じゃあ、次私の番」
一方の『ケロちゃん』は、手に持った輪をひょいひょいと投げる。
「わぁ」
狙い済ましている風もなく、次々と御柱に輪を通していく。しかし――。
「ぁ、失敗」
輪は狙いの御柱を行き過ぎ、奥にある御柱の中ほどに命中――スッパリと切断した。
「え…。ケロちゃん、何投げてるの!?」
「鉄の輪」
「あぶないから! こっちを使って」
『ケロちゃん』は差し出された輪をじっと見つめると、ため息をついて輪を受け取る。
先程と違って、よくよく狙いを澄まして投げる。が、輪は明後日の方向に飛んでいった。
「ケロちゃんも下手じゃない」
くすくす笑いに、思わず頭を掻いた。
綿菓子
「あ、早苗も作ってみる?」
「うん!」
粗目を機械に入れると、蜘蛛のように糸を吐く。
早苗は提灯の明りに照らされ、きらめく甘い糸を絡め取っていく。
「きれいだよね」
食べるのも当然好きだったが、綿飴が作られるのを見ることも好きだった。
しかし――。
「ねぇ、お砂糖入れすぎじゃない?」
「ドーンと行かないとね、どーんと」
「え、ちょっ…もう無理だってば!」
どーんと行った結果、頭より一回り大きい綿飴が二つと、綿飴にまみれた『ケロちゃん』が出来上がった。大惨事を予測していた早苗は、巨大綿飴を持ってさっさと避難していて、難を逃れている。
「ちょっと~、一人で逃げるのずるくない?」
「だから言ったでしょ。入れすぎだって」
むくれる『ケロちゃん』は、自らに絡まった綿飴をちぎりとり、口元に放り込む。
ふわりと溶ける甘さに、思わず顔がほころんでいる。
早苗は、そんな現金な『ケロちゃん』を見て、思わず吹き出した。
金魚すくい
ただし、桶の中を泳いでいるのは、赤や金、時々黒の魚ではなかった。
「あれ? 金魚じゃない、みたいだけど…」
早苗は、桶の中をよく見るため傍らに屈んだ。そこにいたのは黒い、しっぽと不釣り合いな大きな頭、中には足が生えているものまでいた。
『ケロちゃん』は早苗から一歩下がった位置で、あらぬ方を見ている。
「おたまじゃくし、すくい? そんなの聞いたことないけど」
「いや、金魚ってうまくこうせいできな…」
「? 何か言った?」
「え、ああいや、珍しいね」
射的
「あ、さっきのところ」
追いかけっこの最中に一目惚れしたぬいぐるみが目に入る。
『ケロちゃん』が突入した屋台のようだった。一部の的をひっくり返していたはずなのに、既にきれいに整理されて並んでいた。
「あ、それで思い出した」
屋台を覗き込んでいた『ケロちゃん』が、早苗の方に向き直る。
「さっき、空飛んだでしょ。どうやったの?」
早苗は、きょとんとして『ケロちゃん』を見つめ返す。何のことを言われているのか、よく分かっていない様子だった。ふと理解の光が瞳に宿る。ちょっとした悪戯を思いついたように、でも少し翳りのある笑みが浮かんだ。
早苗は、何かを乗せるような格好で掌を差し出した。
「見える?」
『ケロちゃん』の目には、それがしっかりと見えた。しかし、そう言う代わりに早苗の掌にひょいと手を差し出し、『それ』を掬い取った。
「これのこと?」
早苗は、驚きとうれしさと感動、ほんの少し、悪戯が失敗して残念な気持ちが混ざったような、奇妙な泣き笑いのような表情になっている。
「ケロちゃんにも、見えるんだね。今まで、『本当に』見えた人に会ったことなかった」
そういって、早苗は両の手のひらで、何かを掬うようなしぐさをする。
「風が見えたのは、今まで私だけだったの」
掌の中には、確かに風が――より正確に言うならば風を起こす力があった。血筋が守り伝える、特殊な力だった。
「集めて、お願いすると風を起こしてくれるんだ」
早苗は自慢げに、嬉しそうに言った後で表情を曇らせる。
「でも、私のほかには誰にも見えないんだって。ここに確かにあるのに、嘘つきって言われたりするの。あんまりしつこく言うと、怒られたり、無視されたりするんだよ」
表情は晴れないまま、目が潤む。
「見えるって、言ってくれる人もいたんだけどね。それもやさしい嘘だった」
それは、視ることができるものと、できないものとの断絶。
集めた風が、早苗の複雑な心の揺れに敏感に反応するように、力が不安定に揺らぐ。不意に弾丸のように小さく収束されると早苗の手を離れ、射的の的を5つ同時に打ち落とす。
「お見事」
感心して、声を上げる『ケロちゃん』の方を向いた早苗の表情には、陰鬱さは感じられなかった。早苗は自分なりに悩んで、既に納得したことなのだろう。
「こういう使い方は、あんまりしちゃいけないんだけどね」
「へぇ。誰かに言われたの?」
早苗の言葉に感心したように、『ケロちゃん』は尋ねる。早苗には失礼な言い方であるが、『ケロちゃん』から見れば、人は力を持つと使いたい衝動に駆られる生き物だ。早苗がいくら聡明な少女だとしても、自ら自制を悟るには、早苗はまだ幼すぎるように感じる。
「うん。そう、言われたの。大事なことだからって。…あれ、誰にだったかな? え?」
早苗はしきりに首を傾げる。大切なことだと思っているのに、記憶が曖昧なことが気になって仕方がない様子だった。
「まぁ、誰に言われたにしても、とっても大事なことだと思うから、これからも守ってね」
まだ難しい顔をして悩んでいた早苗だが、表情を改めて力強く頷いた。
「うん」
「うむ、よろしい。それでは、一人10発ね」
『ケロちゃん』はそう言って、射的用の銃を差し出した。
早苗お気に入りのぬいぐるみは、難航不落の城塞だった。
すっかりお祭りを堪能して歩き回り、走り回ったせいですっかり足が痛くなってしまったので、『ケロちゃん』の案内で社まで行き、休憩することにした。
社のお賽銭箱の前の階段にストンと腰を下す。その横にケロちゃんも座り込む。屋台の並ぶ位置から少し離れた場所にあるため、お祭りの喧騒を見渡すことができた。社の周囲はその賑やかさとは対照的な静寂に包まれていた。
お祭りの中にいるのは楽しい。しかし、魅力はそれだけではないようで、お祭りの光景を喧騒の外から眺めると、まるで夢が形を持って、たゆたうようだった。
しばし、お祭りの幻想的とも言える風景に目を奪われていたが、早苗が静寂を破った。
「ねぇ、ケロちゃん」
「ん?」
「ここは、どこなの?」
「神社」
「…うん、知ってる。ここはきっと、私が知っている神社」
早苗は続ける。特にからかわれているとも邪険にされているとも思わなかった。思えなかったのだ。『ケロちゃん』の声には、そう感じさせない何かが含まれていた。早苗は独り言のように続ける。
「でもね、同じだけど違うのも分かるの」
周囲をゆっくりと見回しながら、早苗は自分に確認するようにゆっくりと言う。参道の出口までたどり着けなかったことも思い出し、一層の確信を込めてうなずく。
「うん、何かが違ってる」
『ケロちゃん』は、へぇ、と感嘆の言葉を呟き、早苗のほうに向き直った。
「これはね、むか~しむかしの神社の景色。誰もが忘れてしまった神社の記憶の中」
早苗には計り知れないほどの、いろいろな感情が込められた言葉だった。その風景に視線を移しまっすぐに見つめながら、囁くように話す。
「ケロちゃんは、昔のことを知っているの?」
「こう見えても、早苗よりずっとお姉さんなんだよ」
自分より年上であるということに関して、疑う気はなかった。そして、歳の差が桁違いであることも、何となく理解できた。
自慢げに胸を張っている姿を見ると、なんとなく自信がなくなってしまうが。
「ずっと、『ここ』に住んでいるの?」
「う~ん、そういうわけじゃないんだけどね」
いつの間に手にしたのか、金属製の環をもてあそびながら『ケロちゃん』は答える。どう答えていいか、迷っているような歯切れの悪い返事だった。
「でも、よく『ここ』に来るのは、本当かな」
シャラシャラ、という硬質な音が幽かに闇夜をわたっていく。
「お祭りがね、好きなの。好きだったの」
手元の金属の環は、いつの間にか3つに増えている。
「楽しかった。人と遊ぶことができるからこそのお祭りだったの」
金属環を一つ中に放り、それが落ちる前にもう一つ放り、落ちてきた環を取ると同時に反対の手に持つ環を宙に放る。お手玉の要領で金属環を操っている。
「わぁ、すごい!」
「でしょでしょ」
そんなことを続けながら、自慢気に胸を張る。『ケロちゃん』は尚も語り続ける。
「まだ、いろいろなものの境界が曖昧だったころから、続いてきた楽しい楽しい思い出たち」
ほんの少し寂しげに、微かに俯く。
「でもね。ながい、なが~い時間の中で人は少しずつ忘れていった」
「? 何を忘れたの?」
「本当のお祭り、信じる気持ち、私たちのこと。例えば、私たちと人とが、それほど違
いがなかったこととかね」
金属環を放っていた手を止める。宙にあった3つ目の金属環を右手に納めると、早苗のほうを向いた。
「そして、私自身も忘れられて、消えかけてる」
「え、消え…?」
そういうと、『ケロちゃん』はお面に手をかけ、額に上げた。
早苗が思わず息を飲む。
「みんなに忘れ去られて、私自身が私のことを忘れかけてるみたい。自分を保つことだけできなくなってきているの」
沈黙。
「びっくりした?」
からかう調子で話す口元が、悪戯心にきらめく瞳が。滲み、湖面か何かのように揺らいでいた。
「…それで、お面?」
やっとのことで、それだけの言葉を紡いだ早苗は、『ケロちゃん』の顔から視線を動かすことができなかった。
「まだ、力はあるのに、不甲斐ないよねぇ」
その呟きは、早苗に対しての言葉には思えなかった。お面を下げ、それを指さして早苗に言う。
「だから、これが今の私の顔」
お面の顔が、少し寂しげに映った。
「でも、さ。なんで忘れられちゃったの? そこにいる人を忘れるなんて…出来ないんじゃない?」
早苗の言葉は、どこか苦しげだった。自分の言葉を信じ切れないかのように。
「その言葉が、答を示してるよ、早苗」
早苗自身も気づいていないだろう、その様子を、『ケロちゃん』は気づかない振りで続ける。
人は、世代を重ねるごとに、不可思議に触れるだけの力を失っていった。文明の発展のおかげで人は力を持たずとも生活ができるようになっていったのだ。結果的には、『隠』の存在を完全に否定することができるまでになってしまっていた。『そこにあることを信じる気持ち』の上に立っていた存在は、ことごとく人間の目には見えなくなっていった。
「見えていれば、忘れられることはなかったのかもしれない。けど私は、誰にも見えない。見えなくなってしまった」
「誰にも? でも…」
「早苗の言ってた通りだよ。今では、目に見えないものを誰も信じてはくれない」
『ケロちゃん』の声は、淡々としてはいたが、枯れた泉のようにどこかひび割れを感じさせた。
「昔は仲間もいた。でも、みんな消えてしまって、私一人が残されてしまった」
「誰にも気づかれなくて、ひとりでずっと…」
――。
早苗の頬を滴が伝った。
嗚咽を漏らすでもなく、顔を歪めるでもなく、ただただ大粒の涙があふれだす。
お祭りの喧騒の中にありながら、そこにいる人々に気づかれることもなく。人々は自分を置いて過ぎ去っていくのみで、触れることすらかなわない。
どこまでも、華やかで。どこまでも哀しく。
永い、永すぎる時の中。
先に見た、お祭りの風景が、心情が、彼女の道筋と重なった気がした。
目の前にいる、少女の姿をした者は、どれほどの間そうしてきたのだろう。人のなかにどれほどの間一人で立ち尽くしてきたのだろう。
「早苗?」
突然涙を流しだした早苗に、びっくりしたように『ケロちゃん』が振り向いた。
「分からないけど、分かった気がするの。どんなに、寂しかったのか。私も、あのお祭りの中にいたときに、すごく寂しい気持ちになったの。痛いくらいに」
早苗は、胸の前で合わせた両手を、白くなるほど握り締めていた。
「それでも、自分の時には泣かなかったくせに」
『ケロちゃん』は早苗のやさしさに、思わず小さく笑う。
「でも、大丈夫だよ」
「?」
思いのほか強い早苗の言葉に、『ケロちゃん』は思わず体ごと早苗の方に向き直る。瞳は濡れていても、そこにすでに悲哀はなかった。
早苗は、ふわりと微笑を浮かべる。
「私は忘れたりしない、絶対に」
ごく自然な自信に満ちた、早苗の言葉。
勢い込むでもなく、むきになるでもない。当然のことを当然だというような、確信の力強さに『ケロちゃん』は、硬直したままピクリとも動けずにいた。
早苗は、気に留めずに続ける。
「私には、見えたんだもの。世界中のすべての人が忘れたとしても、私だけは絶対に忘れたりしない。どんなときも、ケロちゃん自身が自分を見失いそうなときでも、私だけは」
記憶の上に降り積もった記憶の霞の中、忘れかけていた太古の記憶が――その輪郭が次第に形を取り戻しつつあった。
「今日、初めて会ったけど、とても楽しかったの。こんなに楽しく遊んだのは、凄く久しぶり!」
それは早苗にとって嬉しいだけのものではなく、日常に落ちる暗い影を映している。
その原因が、風を操る能力を持つがためなのだとすれば、この疎外は子供だからある幼稚な感情のためだけではない。今の人、現代という時代からの隔絶に行き着く道の最中に等しかった。
どこまでを実感しているか、どこまでが事実かは分からない。しかし、今でも十分につらいであろう少女は、その事実を思ってもなお、眩いばかりの笑顔を浮かべた。
「また、遊ぼうね!」
『ケロちゃん』の心の中、何かがはじけた。
「ありがとう」
「ケロちゃん?」
不覚にも、嗚咽交じりの声となってしまった。しかし、こらえきることが出来なった。
時代の移り変わりとともに、人は変わっていく。人の寿命は短く、社会は変遷し、文明はとどまることなく進み続けた。そんな中で、人の心が変わらないほうが難しいということは、人を見続けてきた自分が一番良く知っていることだ。
そのため、忘れ去られていくことを、既に受け入れていたつもりだった。
自分自身を思い出の中だけの存在として留め置き、悠久の果てに思い出とともに消え去ることも厭いはしなかった。
しかし、現代から自ら遠ざかったことは、誤りだったかもしれない。
自分という存在と向き合ってくれる存在は、まだ消えていなかったのだから。
しかし、夢にも思わなかった。
自分の存在を認められ、ここに在ることを許される日が来ようとは。
『次』の約束を交わす日が来ようとは。
「ありがとう」
再び、そう呟いた。お面で隠しきれない細いあごから、一筋のしずくが落ちる。
「また、遊ぼうね。約束だよ」
神社の入り口に座する鳥居の下。
忘れ去られた神様に対する啓示のように、空が白み始めた。
「もうハレの日も終わって、日常の始まりを告げる朝日が昇る。お別れの時間かな」
「……また、会えるかな」
「今回みたいに迷子になればね」
「わかった、頑張って迷子になる」
「なに、それ」
ひとしきり、二人で笑った。
お別れではあったが、二人はまた会えることを確信して明るい表情でいた。毎日遊んでいる友達と、また明日と言って別れる時のように。
『ケロちゃん』は、なにやら取り出したものを早苗に渡した。
「これは?」
「髪飾り。早苗にあげる」
手の上には、蛙の形をした髪飾り。
「つけて」
『ケロちゃん』は無言で頷くと、早苗の手から髪飾りを取り、早苗の頭につけた。
「これでよし」
「ありがとう! ケロちゃんだと思って大事にするね。…ねぇ、ケロちゃん」
「なに?」
「私、絶対に忘れないからね」
早苗は精一杯の笑顔を浮かべる。
「うん」
『ケロちゃん』は、おもむろにお面を取る。顔には、目鼻立ちがおぼろげに見え、揺らいでいる。その顔が嬉しそうな、幸せそうな微笑を浮かべ、揺らぎは一瞬にして収まった。
「あ!」
「もうお面もいらない」
『ケロちゃん』は満面の笑みを早苗に向ける。
「ありがとう。私も早苗のこと忘れないから!」
『ケロちゃん』は、社の方に振り向き奥へと走り去る。
朝日が、神社を照らし出す。その光に溶かされるように屋台も提灯も人々の気配も、そして『ケロちゃん』も一瞬のうちに消えていった。
目の前には、早苗の良く知る神社があった。
「……そんなことが、あったんですよ。小さいときの話なんですけどね。その後、『ケロちゃん』とは会うこともなくてですね…」
誰に聞かれたわけでもないのに、そんな話をしながら、早苗は今でも大切につけている髪飾りに触れた。酔っぱらっていても、その感情に嘘偽りないことはだけは、誰の目にも明らかだった。
そんな話を傍で聞いていた神奈子は、じっとりと湿度を含んだ視線で諏訪子を睨め付けている。諏訪子は、梅雨時期並みに鬱陶しい視線を無視し、そ知らぬ顔で杯を傾けているが酒精とは別の要因でほんのり顔が赤かった。
早苗はそんな周囲の様子など目に入らないようで、「元気にしているといいんですが…」などと嘆息している。が、どこか演技がかっていた。
その言葉を受けて、神奈子の目線が一層湿度を増したようだ。
幻想郷の山の中。
守矢神社で催されている宴会の席にて。
さっさと酔っ払ってしまった早苗は、誰に聞かれるでもなく虚空に向けてそんな思い出話を語り始めていた。なんとなく、その話を聞いていた霊夢は、『ケロちゃん』と思しき相手に向かって物問いたげな視線を向けている。
諏訪子は、苦笑で返しておいた。霊夢は、それでも気になったらしく、諏訪子の横に腰を下ろす。
「で、早苗は本気で気づいてないの?」
「さぁ? でも、早苗はそんなに、お花畑な頭はしてないと思うよ」
多分、諏訪子を巻き込まないようにあえて気づいていないような素振りでいるのだろうが、残念ながら成果はないに等しかった。
「…それと」
霊夢は、見てはいけないものを見るように、こっそりと視線を送る。誤って直視してしまったらしく、背筋をぞくりと震わせて、反射的に視線を戻す。
「神奈子はどうしちゃったの!?」
声のトーンを数段落として、諏訪子に向かって悲鳴のような呟きを漏らす。
諏訪子のそばにいるだけで、じっとりとしていて、それでいて鋭い殺気を含んだ視線に肌が粟立つ霊夢だった。
「あはは…、神奈子は早苗を溺愛しているからね。いろいろ気になるんでしょ」
今回の話、諏訪子はもちろん話すことはないし、早苗も初めて人に話したことなので、当然神奈子は初めて聞くような話だった。
そのためか、まぁ色々と思うところや言いたいことがあるのだろう。直接言いに来ないところを見ると、まだ、自分でも感情の整理が付いていないと見えた。
まさか、諏訪子の髪飾りが気に入られていることに嫉妬しているとか、そんなことではない、という希望的観測が的中しているといいな、と諏訪子は思う。
そんな視線をとりあえずなかったことにして、諏訪子はその日に思いを馳せる。
早苗が語っていない、一幕を思い出していた。
「いいものを、見せてあげる」
嗚咽が収まると、『ケロちゃん』は早苗に言った。
早苗に知っていてほしいものがあった。それを教えることが、早苗を更なる孤独の道へと追いやってしまうかもしれないことを自覚はしていた。教えたいと思う気持ちが、『ケロちゃん』の我が儘に他ならないことも。
それ故の、僅かなためらいがあった。
それでも、この衝動に勝つことはできそうもなかった。
人が神と等しくなる儀式――祭儀を、早苗に伝えたい。
はるか昔に消え去った、もはや『ケロちゃん』の記憶にしかない人々の遺産。力を持った者のみに扱える力を、早苗に伝えたかった。
「いくよ」
――胸の前で手を合わせ、力を練り上げる。
このやさしい、強い少女ならば、力を使いこなし、誤った方向には使わないだろうという、確信があった。しかし、そんなことは自分をごまかすための言い訳に過ぎないことを自覚して、心の中で苦笑いを浮かべる。
――合わせた手を解き、力を解き放つ。
『ケロちゃん』は、早苗に対等を望んでいた。かつての人々と同じような。あるいは、それ以上に渇望しているのかもしれない。
――暗闇に、五芒の陣が浮かび上がる。
しかし、さすがにそれを押し付けることはできなかった。
だから『賭け』をすることにした。
――五芒の陣の各頂点に、更なる五芒の陣が展開。更なる力が放たれ、木々がざわめく。
『ケロちゃん』は、ただその祭儀を見せるだけ。それが賭けだった。
今まさに見せている儀式は、早苗がその要点を理解できれば確実に扱えるものであった。そして、この力を理解することは神社に伝わる秘術を扱う上での鍵を手に入れることにも等しかった。
早苗が、今目の当たりにした儀式を理解し、自分の力とするか否か、出来るか否かは早苗に託すことにしたのだ。
我ながら、ずるい方法だとは思う。
しかし、早苗ならば、と思わせる何かを持っている少女だった。
伝えるべき祭儀は、すべて終えた。
――溢れ出す力を、収束して空に放つ。
最後に一つ、純粋に早苗に見せたい景色を作り出した。
雨の日も、風の日も、その次に来るハレを思って乗り越える力を持ってほしい。そんな願いがあったのかもしれない。
――雨のごとく降り注ぐは、光の礫。激しく、緩やかに空から舞い降りてくる。
「わぁ」
力を解き放つ『ケロちゃん』自身も、眩いばかりの輝きを放っている。
「ケロちゃん、まるで神様みたい」
「うん」
早苗の、まばゆいばかりの笑顔と言葉で、ごく自然に覚悟が決まった。
そして、決まった瞬間に、それは覚悟でも何でもなくなった。
それが、自分のあるべき姿なのだ。
これからは、そうならねば――あの日の自分に戻らなければならない。
それが、神としてなすべきことだ。
諏訪子はその日のことを忘れたことはなかった。
諏訪子が賭け、望んだ結果として早苗は古の力を身につけ、同時に悪い予感も的中した。紆余曲折のうちに幻想郷に移ることにもなった。
それでも、早苗は思い出を慈しみ、髪飾りを大切にしてくれる。そんな単純なことが諏訪子にとっての全てだった。
自分の存在が許される証だった。
諏訪子は、ふらふらしつつも、嬉しそうに話している早苗を見つめた。
早苗が、『ケロちゃん』のことを忘れたことがないことを、諏訪子は知っていた。早苗の思いは途切れることなく感じることが出来たから。
その思いが、諏訪子を神様に留めていた。
あの日、確かに諏訪子は生まれ変わったのだ。
かつては、神を束ねた神である諏訪子は、一度神であることを放棄した。しかし、人間である早苗に救われ、その瞬間から諏訪子は再び神となった。
そして同時に、諏訪子は、信仰するようになったのだ。
東風谷早苗という力を持つだけの一人の少女を、諏訪子は心から信仰していた。
Eplogue ――あるいは守矢家の日常――
その夜、皆が寝静まった時間に、諏訪子は何か重苦しい雰囲気を感じて目を覚ます。なにやら濃密な妖気のようなものを感じ取った。何の恨みかは分からないが害意にあふれている。
よりによって、この神社に攻め入るとは運のない。諏訪子はそう心の中で呟き、物騒な笑みを浮かべる。人間相手の弾幕ごっこが好きだが、たまには全力で暴れるのも悪くはない。
まぁ、物を壊すと早苗が怖いので、ほどほどにはする気でいるが。
諏訪子は気配の主に向かって、密やかに移動する。気配の主は、一室から動いていないようだ。
「……し、 わ 、 た 、す 、…」
切れ切れの声が、聞こえてくる。延々と、同じ音律が響いてきている。同じことを延々と呟いているようだ。
諏訪子は、異常なものを感じて、部屋の入り口からそっと覗き込む。濃密な負の気配に意識が飲まれそうになる。
見えるのは、相手の背後。背負った注連縄が神々しさを感じさせる。
「ん? 注連縄?」
思わず声に出してしまい、慌てて口を閉じるがもう遅い。相手が勢い良く振り返る。
「訪子、私、諏…げ、諏訪子」
手に持っているのは、花びらが半分ほど毟られた花一輪。足元には、その残骸と思われる十を超える花々。すべて花びらが毟られた無残な姿をさらしている。
花の残骸の上では、注連縄を背負った主――神奈子が顔を真っ赤にしておろおろとしていた。
「…なにやってるの?」
状況を見ると、まぁ、なんとなく事態を読み取ることが出来るのだが、あの濃密な妖気を神奈子が放っていたのかと思うと、思考がこんがらがる。
ふと、今日の宴会の一件が頭を掠める。まさかという思いはあるが、他に思い当たるようなこともなかった。諏訪子も流石に、そこまでやきもちを焼かれるとは思っても見なかったが。
ついでに、何をやっているかの答えは明らかだった。
まず状況から考えて、花占いをしていたのだろう。しかし。
「普通に考えて、神様が花占いなんかするか?」
後半は、実際に声に出てしまった。
「な、なによ、別にいいでしょ!」
確かに、別にいいのだ。ただ、思考の混乱の一端が言葉に出てしまっただけなのだ。
しかし、別によくないことが、いくつかあった。
まず第一に、
「あ。あんまり大きな声出すと…」
「神奈子様、何事ですか!」
ヒョウッ――。
風を切る音とともに、早苗が現れる。風遁の逆回しで、その場に現れた早苗の視線は、神奈子の足元にロックオンされる。
よくないこと、その一。早苗に部屋を汚しているところを見られること。
「なんですか、これ」
「あ、え、いや、何でもないの」
「じゃ、お休み~」
「あ、諏訪子様、お休みなさい」
諏訪子はその場からさりげなく退く。
よくないこと、その二。花占いに使っていた花たち。
あの花々は、早苗が大事に育てているものだった。本数から考えて、一部だけを刈り取ってきたようなのでそれは救いだが、どちらにせよ、早苗に叱られることは間違いなかった。
諏訪子にとって不思議に思えるのは、神奈子のそういうところだった。早苗のことを溺愛している割に、何を大切にしているか、何に興味があるかといったことに疎いのだ。
なんにせよ、巻き添えを食わないためにも、撤退は絶対の措置だった。
われらが巫女殿は、時に神様など蹴散らすような力の持ち主なので、諏訪子といえども警戒を持って対処しなければならないのだった。
それ以上に、生活する上での実権は、早苗が握っていることだし。
案の定、先程の部屋からは早苗の怒気まじりの声が聞こえてくる。
「流石は我らが巫女殿。神奈子は、今夜一晩お説教かな」
その姿が思い浮かぶようで、諏訪子はくすくすと笑いながら、寝床に戻っていった。
気がつくと目の前には闇夜を照らす提灯の明り、石畳の左右には屋台。日常から遠く離れた世界へと続く道を形づくる。
参道の奥には社、さらにその奥には、濃密な常闇。屋台の背には、迷いなくそそり立つ木々。その奥には、やはり闇。原始の、人の心を飲み込み埋め尽くすような、濃密な黒がわだかまる。
遠くに見える社の上には、冴え冴えと地上を照らす満月。
風が羽を渡るたび風車はカラカラと歌い、木々が風と戯れ遊ぶ。それだけが、そこにある賑やかさだった。
お祭り。
その言葉の響きだけで、気分が高揚する。それはまるで魔法のようだ。
その風景の中に、少女は立っていた。
実際に生活している家から少し距離があるが、少女は毎日のように神社に遊びに来ていた。自分の庭も同然の境内で、お祭りが行われるなんていう話はまったく聞いていない。自分をびっくりさせるために内緒にされていたのだろうか。
いや、分からないはずはない。特に理由もないが、そう確信していた。実際、歳に不相応な聡明さを持っているこの少女であれば、大人の隠し事などすぐに見抜いてしまうだろう。
少女は情景に呼び込まれるように、一歩、また一歩と歩みだした。
少女は、お祭りの日常から切り抜かれたような浮かれた雰囲気とざわめきが好きだった。
人の姿は見えず、声もない。ただ、ざわめく気配だけは感じらた。まるで見えない人がいるような感じがする。それは不思議ではあったが、恐怖ではなかった。周囲の気配は歓喜にあふれていて、お祭りに酔いしれる人々そのものだった。
姿はなくとも、人々は確かにそこにいた。自分とそう変わらない歳の子が、笑いながら傍らを走り去り、それを両親がゆっくりと追っていく様子が、寄り沿う男女の様子が、陽気な男たちが酒を片手に闊歩する様子が目に見えるようにはっきりと感覚できた。
しかし、見えない人々の方はというと、少女に気づくことなく過ぎ去っていく。
お祭りの風景はそこにあり続け、見えない人々は途切れることなく行き交い、めぐる。その中でたったひとり佇む少女は、まるで自分だけが置いて行かれるような、背筋が凍るような不安に襲われた。まるで、自分が透明になってしまったような気すらした。それは恐怖以外の何でもなかった。
ざわめきはただ静かに、そこにあり続ける。
自分だけが、そのざわめきの中にはなかった。
まったくの一人でいるより、はるかに孤独だった。声をかけても返事はなく、気づかれることもない。どうしようもない不安が周囲のざわめきを、心を穿つ針に変えた。カラカラ回る風車も、孤独を強調する風にしか聞こえない。お福も火男も狐様も、自分を無表情に見つめるだけ。提灯の明りでさえ、心もとない薄明りに思えた。
寂しくて、怖くて、少女は泣きそうだった。実際に目に涙を溜めて漏れそうになる嗚咽を必至に堪えていた。
帰りたいな。
そう思い振り返る。神社の出口は、ここからそう距離もない位置にあるはずだった。しかしそこにあるべき参道入り口の鳥居も階段も見当たらず、ただ屋台が並ぶ参道のみが延々と続いている。
「えっ?」
神社は少女にとって、家の庭のようなものだった。毎日のようにここで遊んでいたので目をつぶっていても歩くことができる気さえするほどに、馴れていた。それがどうしたことか、今自分がどの辺りにいるのか全く分からなかった。
いや、そうではなかった。
ここが神社のどのあたりであるかは、感覚が教えてくれる。しかし、目に見える風景が自分の感覚とは微妙にずれた姿でそこにあるようだった。
そもそもここは、本当に自分の知る神社なのだろうか。自分に問い直してみても、頭の中にある「ここは自分の知っている神社だ」という答えは揺らぎそうになかった。
なんでそんなに自身満々に答えが返ってくるのか。自分の思考に思わず恨みを感じ、文句を言いたい衝動に駆られたが、そんな場合ではないという気になった。少女は唐突に我にかえるかのように、夢から醒めるように、重大な事実に思い至り、全身が硬直する。
そう言えば…。
いつの間に、神社まで来たのか、なぜここに立っていたのか、記憶が一切なかった。それまで何をしていたのかも、咄嗟には思い出せなかった。
必死になって、きょうのことを思い出す。
確か、学校が終わって、いつもと同じように一人で帰る途中で、少し寄り道を…あれ、どこに行ったんだったっけ。あぁ、川原の方だ。
夕暮れに記憶が飛んだ。
今日の夕日はやけに赤くて、思わず見入っていたことは記憶にあった。
その後は?
目の前に、お祭りの光景。
その前は?
真っ赤な夕日。急に寂しくなって、家に帰ろうと思った。
今は、もう夜。
神社に足を運んだ記憶――なし。
入り口――どうやってここに来たのかも分からない。出口――ここから帰る方法は?
不安を振り切るように、月に背を向け参道の入り口に向かって歩き出した。神社は決して狭くはないが、さほど時間もかからずに外に出ることができる。
そのはずだった。
しかし、いつまで歩こうとも神社を抜けることはなかった。突き動かされるように、次第に速足になり最後には走り出していた。しかし、それでも左右の屋台は途切れることなく、そこから抜け出すことはできなかった。
姿なき人々のざわめきを感覚しつつ、少女は走り続けた。帰りたいがためというよりは、このにぎやかな孤独から逃れたいかのように。しかし、疲労よりも早く、先の見えない恐怖と、背後から迫り来る絶望が少女の足の運びを次第に遅くする。ついには足が動かなくなり、立ち止まってしまう。目には、再び涙があふれてきていた。
「…帰りたい」
少女が、そう呟いたときだった。
ガサッ
今にも泣き出しそうだった少女は、物音に反応して素早く振り向いた。自分が立てる物音以外で、耳から聞こえる物音がひどく新鮮で、無性に嬉しかった。またも涙は出番を失って引っ込む。
そこには、少女と大差のない年のころの子供がいた。頭を屋台の影から突き出して、こちらの様子をうかがっている。ぱっと見では男の子か女の子か区別がつかなかった。
それもそのはずで、顔には蛙のお面。
少女に見られたことを察したからか、お面の子供は、屋台の影にさっと身を隠す。
「あっ!」
少女は咄嗟に屋台の裏手まで走った。
子供は、屋台の裏を跳ねるように走っていく。どこか本物の蛙のような印象があった。
「ちょっと待ってよ!」
少女も慌てて後を追う。お面の子供の足は早かったが、少女も追いかけっこには自信があった。
三軒先の屋台の裏から参道に出て、そのまま参道を横切って向かいの屋台の脇を抜けて裏手へ走る。そのまま数件の屋台の後ろを走ったあとで屋台の周りを一周。再び参道に出て、風車の前を、お面の前を走り抜けた。参道の出口とは逆方向――神社に向かって走る。
「待ってったら!」
なかなか、追いつけない。お面の子供は、まるで重力など知らないと言っているかのように、軽快に跳ね回り走り回る。走っても走っても追いつけそうにない。見失わないようにするのが精一杯だった。
つかまえないと。
だんだん息が切れてきた。お面の子供は、再び屋台の脇に入るかと思いきや、屋台の中に飛び込んだ。少女が唖然としつつも追いついて中を除きこむ。射的の屋台だった。
「あ、あれかわいい」
上から二段目にあるぬいぐるみに、一瞬心奪われる。
「ひゃっ!」
その瞬間を狙ったかのように、お面の子供が射的の台を蹴り、カウンターに上る。 そのままカウンターも蹴って少女の脇を跳ねるように抜けていく。
ほんの少し未練を残しつつも、追いかけっこは続行された。
今更ながら気がついたが、追いかけているお面の子供は女の子の格好をしていた。再び神社の方向に向かって走りだしている。
――絶対につかまえなきゃ。
先程よりも背中が小さくなっている。機会は、まさに今しかないように思えた。
少女は、無意識に風の断片を集めると、自分の背を押すような追い風の突風を生み出した。背を押す確かな力を感じると、何のためらいもなく勢いに任せて地面を蹴る。
お面の子供は不穏な気配を感じ取ったのか、初めて少女の方を振り返る。――驚いたように硬直した。
少女が尋常ならざる勢いで空を飛んで追いかけてくれば、普通は驚くだろう。
少女は少女で、空中に放り出された後、方向こそ制御していたが、減速は一切せず、そのまま突っ込んでいく。
結果、二人はもつれ合うように石畳を転がり、どうにか停止する。
お面の子供は仰向けに倒れ、少女はその上に突っ伏している。
お面をした頭が起き上がろうとする。少女の方はピクリともしなかった。
「いつっ。え、ちょっと大丈夫!?」
よほどびっくりしたのか、今まで一言も声を発しなかったお面の子が、初めて恐る恐る声をかける。
「…えた」
「え?」
少女は、何事かをつぶやきながら、突っ伏していた顔を持ち上げる。
「やっと、つかまえた」
そこには、満面の笑み。
そして、いつの間に手にとったのか側頭に鬼の面を斜めにかぶっている。
「それに、やっと話しかけてくれた!」
「…あ! まさか、ピクリとも動かなかったのは演技!?」
返事の代わりに、ピースサインが向けられた。
どうやらまんまと作戦にひっかかったようだ。
しかし、よくよく見ると、あちこちに擦り傷をこさえている。痛むだろうに、そんなことは意にも介さず、見事に罠にはめたということらしい。
「くくっ、あはははははは」
最初、言葉もなかったが、実に愉快そうにお面を揺らし笑い声が上がる。
「負けたわ。つかまっちゃった」
その声が、心底楽しげだったので、再度右手でピースを作りつつ、つられたように少女も笑った。
ひとしきり笑うと、お面の子供は――声からすると、女の子のようだった――少女の下から這い出すと、立ち上がった。少女にも手を貸して、立ち上がらせてくれた。
「あ~あ、こんなにして」
とった手の肘のあたりに見ている方が痛くなるような、大きな擦り傷が出来ていた。
「大丈夫だよ」
という少女の声に取り合わず、ハンカチを取り出し傷口に巻きつける。
「平気だってば」
「服、汚したくないでしょ」
有無も言わさず。手早いもので、言い終わる前には巻き終えていた。
少女は、言葉とは裏腹に別段それを嫌がるわけではなく、むしろ嬉しそうに微笑みかえす。
「ありがとう」
「ん」
お面が満足気にうなずくと、不意に、きょろきょろとあたりを見回し、ある屋台に向き直る。
「林檎飴でも食べる?」
「こっちだよ、早苗」
お面の子が先に立って参道の奥に向かって歩き出す。その後ろを少女――早苗がついていく。手にはお面の子お手製の林檎飴。顔には若干の不機嫌。軽く眉間に皺を寄せていた。
「それで、あなたの名前は?」
「だ~か~ら~、見ての通り一介の蛙でございますよ」
「お面、とらないの?」
「コレが私の顔なんだって」
背丈はそんなに変わらないはずなのに、妙に落ち着いた答えが返ってくる。
その返答に早苗は頬を膨らませる。さっきから同じ問答延々繰り返しているのだが、返事がにべもない。
「むぅ~…分かった。とりあえず、お面はいいや」
早苗も流石に根負けして、とりあえず一部譲歩することにした。
「でも、せめて、ちゃんと名前は教えてよ! なんて呼べばいいか分かんないし、カエル、なんて呼びたくない」
「じゃぁ、好きに呼べばいいよ」
言葉はそっけないが、どこか温かさのある声だった。しかし、それ以上にからかい半分であることがありありと分かる声でもあった。
むくれていた早苗だが、いいことを思いついたという感じに、表情にぱっと花が咲く。
「じゃぁ、ケロちゃん」
「ぇ?」
「かわいいでしょ、ケロちゃん」
「…そーね」
今度の返事は完全無欠にそっけなかった。
「ケロちゃん! ほら、返事は?」
「はいはい」
すっかりご機嫌になって、走って『ケロちゃん』の横に並ぶ早苗に、苦笑まじりの返事を返す。まんざら悪い気もしないという感じだった。
「ねぇ、ケロちゃん」
「ん?」
「せっかくだから、お祭り、一緒に回らない?」
輪投げ
「これ、意外と難しい」
早苗が放り投げる輪は、一向に御柱に入る気配がない。
屋台に人はいなかったが、『ケロちゃん』曰く「お金はいらない。準備はセルフサービスで。後片付は不要」なので、勝手に輪を持ってきて遊んでいた。
手に持っている林檎飴も、店先にあった材料から『ケロちゃん』が作ったものだった。
「あ~あ、全部外れ」
ケロケロと笑いながら、『ケロちゃん』が輪を持ってくる。
「下手だなぁ。じゃあ、次私の番」
一方の『ケロちゃん』は、手に持った輪をひょいひょいと投げる。
「わぁ」
狙い済ましている風もなく、次々と御柱に輪を通していく。しかし――。
「ぁ、失敗」
輪は狙いの御柱を行き過ぎ、奥にある御柱の中ほどに命中――スッパリと切断した。
「え…。ケロちゃん、何投げてるの!?」
「鉄の輪」
「あぶないから! こっちを使って」
『ケロちゃん』は差し出された輪をじっと見つめると、ため息をついて輪を受け取る。
先程と違って、よくよく狙いを澄まして投げる。が、輪は明後日の方向に飛んでいった。
「ケロちゃんも下手じゃない」
くすくす笑いに、思わず頭を掻いた。
綿菓子
「あ、早苗も作ってみる?」
「うん!」
粗目を機械に入れると、蜘蛛のように糸を吐く。
早苗は提灯の明りに照らされ、きらめく甘い糸を絡め取っていく。
「きれいだよね」
食べるのも当然好きだったが、綿飴が作られるのを見ることも好きだった。
しかし――。
「ねぇ、お砂糖入れすぎじゃない?」
「ドーンと行かないとね、どーんと」
「え、ちょっ…もう無理だってば!」
どーんと行った結果、頭より一回り大きい綿飴が二つと、綿飴にまみれた『ケロちゃん』が出来上がった。大惨事を予測していた早苗は、巨大綿飴を持ってさっさと避難していて、難を逃れている。
「ちょっと~、一人で逃げるのずるくない?」
「だから言ったでしょ。入れすぎだって」
むくれる『ケロちゃん』は、自らに絡まった綿飴をちぎりとり、口元に放り込む。
ふわりと溶ける甘さに、思わず顔がほころんでいる。
早苗は、そんな現金な『ケロちゃん』を見て、思わず吹き出した。
金魚すくい
ただし、桶の中を泳いでいるのは、赤や金、時々黒の魚ではなかった。
「あれ? 金魚じゃない、みたいだけど…」
早苗は、桶の中をよく見るため傍らに屈んだ。そこにいたのは黒い、しっぽと不釣り合いな大きな頭、中には足が生えているものまでいた。
『ケロちゃん』は早苗から一歩下がった位置で、あらぬ方を見ている。
「おたまじゃくし、すくい? そんなの聞いたことないけど」
「いや、金魚ってうまくこうせいできな…」
「? 何か言った?」
「え、ああいや、珍しいね」
射的
「あ、さっきのところ」
追いかけっこの最中に一目惚れしたぬいぐるみが目に入る。
『ケロちゃん』が突入した屋台のようだった。一部の的をひっくり返していたはずなのに、既にきれいに整理されて並んでいた。
「あ、それで思い出した」
屋台を覗き込んでいた『ケロちゃん』が、早苗の方に向き直る。
「さっき、空飛んだでしょ。どうやったの?」
早苗は、きょとんとして『ケロちゃん』を見つめ返す。何のことを言われているのか、よく分かっていない様子だった。ふと理解の光が瞳に宿る。ちょっとした悪戯を思いついたように、でも少し翳りのある笑みが浮かんだ。
早苗は、何かを乗せるような格好で掌を差し出した。
「見える?」
『ケロちゃん』の目には、それがしっかりと見えた。しかし、そう言う代わりに早苗の掌にひょいと手を差し出し、『それ』を掬い取った。
「これのこと?」
早苗は、驚きとうれしさと感動、ほんの少し、悪戯が失敗して残念な気持ちが混ざったような、奇妙な泣き笑いのような表情になっている。
「ケロちゃんにも、見えるんだね。今まで、『本当に』見えた人に会ったことなかった」
そういって、早苗は両の手のひらで、何かを掬うようなしぐさをする。
「風が見えたのは、今まで私だけだったの」
掌の中には、確かに風が――より正確に言うならば風を起こす力があった。血筋が守り伝える、特殊な力だった。
「集めて、お願いすると風を起こしてくれるんだ」
早苗は自慢げに、嬉しそうに言った後で表情を曇らせる。
「でも、私のほかには誰にも見えないんだって。ここに確かにあるのに、嘘つきって言われたりするの。あんまりしつこく言うと、怒られたり、無視されたりするんだよ」
表情は晴れないまま、目が潤む。
「見えるって、言ってくれる人もいたんだけどね。それもやさしい嘘だった」
それは、視ることができるものと、できないものとの断絶。
集めた風が、早苗の複雑な心の揺れに敏感に反応するように、力が不安定に揺らぐ。不意に弾丸のように小さく収束されると早苗の手を離れ、射的の的を5つ同時に打ち落とす。
「お見事」
感心して、声を上げる『ケロちゃん』の方を向いた早苗の表情には、陰鬱さは感じられなかった。早苗は自分なりに悩んで、既に納得したことなのだろう。
「こういう使い方は、あんまりしちゃいけないんだけどね」
「へぇ。誰かに言われたの?」
早苗の言葉に感心したように、『ケロちゃん』は尋ねる。早苗には失礼な言い方であるが、『ケロちゃん』から見れば、人は力を持つと使いたい衝動に駆られる生き物だ。早苗がいくら聡明な少女だとしても、自ら自制を悟るには、早苗はまだ幼すぎるように感じる。
「うん。そう、言われたの。大事なことだからって。…あれ、誰にだったかな? え?」
早苗はしきりに首を傾げる。大切なことだと思っているのに、記憶が曖昧なことが気になって仕方がない様子だった。
「まぁ、誰に言われたにしても、とっても大事なことだと思うから、これからも守ってね」
まだ難しい顔をして悩んでいた早苗だが、表情を改めて力強く頷いた。
「うん」
「うむ、よろしい。それでは、一人10発ね」
『ケロちゃん』はそう言って、射的用の銃を差し出した。
早苗お気に入りのぬいぐるみは、難航不落の城塞だった。
すっかりお祭りを堪能して歩き回り、走り回ったせいですっかり足が痛くなってしまったので、『ケロちゃん』の案内で社まで行き、休憩することにした。
社のお賽銭箱の前の階段にストンと腰を下す。その横にケロちゃんも座り込む。屋台の並ぶ位置から少し離れた場所にあるため、お祭りの喧騒を見渡すことができた。社の周囲はその賑やかさとは対照的な静寂に包まれていた。
お祭りの中にいるのは楽しい。しかし、魅力はそれだけではないようで、お祭りの光景を喧騒の外から眺めると、まるで夢が形を持って、たゆたうようだった。
しばし、お祭りの幻想的とも言える風景に目を奪われていたが、早苗が静寂を破った。
「ねぇ、ケロちゃん」
「ん?」
「ここは、どこなの?」
「神社」
「…うん、知ってる。ここはきっと、私が知っている神社」
早苗は続ける。特にからかわれているとも邪険にされているとも思わなかった。思えなかったのだ。『ケロちゃん』の声には、そう感じさせない何かが含まれていた。早苗は独り言のように続ける。
「でもね、同じだけど違うのも分かるの」
周囲をゆっくりと見回しながら、早苗は自分に確認するようにゆっくりと言う。参道の出口までたどり着けなかったことも思い出し、一層の確信を込めてうなずく。
「うん、何かが違ってる」
『ケロちゃん』は、へぇ、と感嘆の言葉を呟き、早苗のほうに向き直った。
「これはね、むか~しむかしの神社の景色。誰もが忘れてしまった神社の記憶の中」
早苗には計り知れないほどの、いろいろな感情が込められた言葉だった。その風景に視線を移しまっすぐに見つめながら、囁くように話す。
「ケロちゃんは、昔のことを知っているの?」
「こう見えても、早苗よりずっとお姉さんなんだよ」
自分より年上であるということに関して、疑う気はなかった。そして、歳の差が桁違いであることも、何となく理解できた。
自慢げに胸を張っている姿を見ると、なんとなく自信がなくなってしまうが。
「ずっと、『ここ』に住んでいるの?」
「う~ん、そういうわけじゃないんだけどね」
いつの間に手にしたのか、金属製の環をもてあそびながら『ケロちゃん』は答える。どう答えていいか、迷っているような歯切れの悪い返事だった。
「でも、よく『ここ』に来るのは、本当かな」
シャラシャラ、という硬質な音が幽かに闇夜をわたっていく。
「お祭りがね、好きなの。好きだったの」
手元の金属の環は、いつの間にか3つに増えている。
「楽しかった。人と遊ぶことができるからこそのお祭りだったの」
金属環を一つ中に放り、それが落ちる前にもう一つ放り、落ちてきた環を取ると同時に反対の手に持つ環を宙に放る。お手玉の要領で金属環を操っている。
「わぁ、すごい!」
「でしょでしょ」
そんなことを続けながら、自慢気に胸を張る。『ケロちゃん』は尚も語り続ける。
「まだ、いろいろなものの境界が曖昧だったころから、続いてきた楽しい楽しい思い出たち」
ほんの少し寂しげに、微かに俯く。
「でもね。ながい、なが~い時間の中で人は少しずつ忘れていった」
「? 何を忘れたの?」
「本当のお祭り、信じる気持ち、私たちのこと。例えば、私たちと人とが、それほど違
いがなかったこととかね」
金属環を放っていた手を止める。宙にあった3つ目の金属環を右手に納めると、早苗のほうを向いた。
「そして、私自身も忘れられて、消えかけてる」
「え、消え…?」
そういうと、『ケロちゃん』はお面に手をかけ、額に上げた。
早苗が思わず息を飲む。
「みんなに忘れ去られて、私自身が私のことを忘れかけてるみたい。自分を保つことだけできなくなってきているの」
沈黙。
「びっくりした?」
からかう調子で話す口元が、悪戯心にきらめく瞳が。滲み、湖面か何かのように揺らいでいた。
「…それで、お面?」
やっとのことで、それだけの言葉を紡いだ早苗は、『ケロちゃん』の顔から視線を動かすことができなかった。
「まだ、力はあるのに、不甲斐ないよねぇ」
その呟きは、早苗に対しての言葉には思えなかった。お面を下げ、それを指さして早苗に言う。
「だから、これが今の私の顔」
お面の顔が、少し寂しげに映った。
「でも、さ。なんで忘れられちゃったの? そこにいる人を忘れるなんて…出来ないんじゃない?」
早苗の言葉は、どこか苦しげだった。自分の言葉を信じ切れないかのように。
「その言葉が、答を示してるよ、早苗」
早苗自身も気づいていないだろう、その様子を、『ケロちゃん』は気づかない振りで続ける。
人は、世代を重ねるごとに、不可思議に触れるだけの力を失っていった。文明の発展のおかげで人は力を持たずとも生活ができるようになっていったのだ。結果的には、『隠』の存在を完全に否定することができるまでになってしまっていた。『そこにあることを信じる気持ち』の上に立っていた存在は、ことごとく人間の目には見えなくなっていった。
「見えていれば、忘れられることはなかったのかもしれない。けど私は、誰にも見えない。見えなくなってしまった」
「誰にも? でも…」
「早苗の言ってた通りだよ。今では、目に見えないものを誰も信じてはくれない」
『ケロちゃん』の声は、淡々としてはいたが、枯れた泉のようにどこかひび割れを感じさせた。
「昔は仲間もいた。でも、みんな消えてしまって、私一人が残されてしまった」
「誰にも気づかれなくて、ひとりでずっと…」
――。
早苗の頬を滴が伝った。
嗚咽を漏らすでもなく、顔を歪めるでもなく、ただただ大粒の涙があふれだす。
お祭りの喧騒の中にありながら、そこにいる人々に気づかれることもなく。人々は自分を置いて過ぎ去っていくのみで、触れることすらかなわない。
どこまでも、華やかで。どこまでも哀しく。
永い、永すぎる時の中。
先に見た、お祭りの風景が、心情が、彼女の道筋と重なった気がした。
目の前にいる、少女の姿をした者は、どれほどの間そうしてきたのだろう。人のなかにどれほどの間一人で立ち尽くしてきたのだろう。
「早苗?」
突然涙を流しだした早苗に、びっくりしたように『ケロちゃん』が振り向いた。
「分からないけど、分かった気がするの。どんなに、寂しかったのか。私も、あのお祭りの中にいたときに、すごく寂しい気持ちになったの。痛いくらいに」
早苗は、胸の前で合わせた両手を、白くなるほど握り締めていた。
「それでも、自分の時には泣かなかったくせに」
『ケロちゃん』は早苗のやさしさに、思わず小さく笑う。
「でも、大丈夫だよ」
「?」
思いのほか強い早苗の言葉に、『ケロちゃん』は思わず体ごと早苗の方に向き直る。瞳は濡れていても、そこにすでに悲哀はなかった。
早苗は、ふわりと微笑を浮かべる。
「私は忘れたりしない、絶対に」
ごく自然な自信に満ちた、早苗の言葉。
勢い込むでもなく、むきになるでもない。当然のことを当然だというような、確信の力強さに『ケロちゃん』は、硬直したままピクリとも動けずにいた。
早苗は、気に留めずに続ける。
「私には、見えたんだもの。世界中のすべての人が忘れたとしても、私だけは絶対に忘れたりしない。どんなときも、ケロちゃん自身が自分を見失いそうなときでも、私だけは」
記憶の上に降り積もった記憶の霞の中、忘れかけていた太古の記憶が――その輪郭が次第に形を取り戻しつつあった。
「今日、初めて会ったけど、とても楽しかったの。こんなに楽しく遊んだのは、凄く久しぶり!」
それは早苗にとって嬉しいだけのものではなく、日常に落ちる暗い影を映している。
その原因が、風を操る能力を持つがためなのだとすれば、この疎外は子供だからある幼稚な感情のためだけではない。今の人、現代という時代からの隔絶に行き着く道の最中に等しかった。
どこまでを実感しているか、どこまでが事実かは分からない。しかし、今でも十分につらいであろう少女は、その事実を思ってもなお、眩いばかりの笑顔を浮かべた。
「また、遊ぼうね!」
『ケロちゃん』の心の中、何かがはじけた。
「ありがとう」
「ケロちゃん?」
不覚にも、嗚咽交じりの声となってしまった。しかし、こらえきることが出来なった。
時代の移り変わりとともに、人は変わっていく。人の寿命は短く、社会は変遷し、文明はとどまることなく進み続けた。そんな中で、人の心が変わらないほうが難しいということは、人を見続けてきた自分が一番良く知っていることだ。
そのため、忘れ去られていくことを、既に受け入れていたつもりだった。
自分自身を思い出の中だけの存在として留め置き、悠久の果てに思い出とともに消え去ることも厭いはしなかった。
しかし、現代から自ら遠ざかったことは、誤りだったかもしれない。
自分という存在と向き合ってくれる存在は、まだ消えていなかったのだから。
しかし、夢にも思わなかった。
自分の存在を認められ、ここに在ることを許される日が来ようとは。
『次』の約束を交わす日が来ようとは。
「ありがとう」
再び、そう呟いた。お面で隠しきれない細いあごから、一筋のしずくが落ちる。
「また、遊ぼうね。約束だよ」
神社の入り口に座する鳥居の下。
忘れ去られた神様に対する啓示のように、空が白み始めた。
「もうハレの日も終わって、日常の始まりを告げる朝日が昇る。お別れの時間かな」
「……また、会えるかな」
「今回みたいに迷子になればね」
「わかった、頑張って迷子になる」
「なに、それ」
ひとしきり、二人で笑った。
お別れではあったが、二人はまた会えることを確信して明るい表情でいた。毎日遊んでいる友達と、また明日と言って別れる時のように。
『ケロちゃん』は、なにやら取り出したものを早苗に渡した。
「これは?」
「髪飾り。早苗にあげる」
手の上には、蛙の形をした髪飾り。
「つけて」
『ケロちゃん』は無言で頷くと、早苗の手から髪飾りを取り、早苗の頭につけた。
「これでよし」
「ありがとう! ケロちゃんだと思って大事にするね。…ねぇ、ケロちゃん」
「なに?」
「私、絶対に忘れないからね」
早苗は精一杯の笑顔を浮かべる。
「うん」
『ケロちゃん』は、おもむろにお面を取る。顔には、目鼻立ちがおぼろげに見え、揺らいでいる。その顔が嬉しそうな、幸せそうな微笑を浮かべ、揺らぎは一瞬にして収まった。
「あ!」
「もうお面もいらない」
『ケロちゃん』は満面の笑みを早苗に向ける。
「ありがとう。私も早苗のこと忘れないから!」
『ケロちゃん』は、社の方に振り向き奥へと走り去る。
朝日が、神社を照らし出す。その光に溶かされるように屋台も提灯も人々の気配も、そして『ケロちゃん』も一瞬のうちに消えていった。
目の前には、早苗の良く知る神社があった。
「……そんなことが、あったんですよ。小さいときの話なんですけどね。その後、『ケロちゃん』とは会うこともなくてですね…」
誰に聞かれたわけでもないのに、そんな話をしながら、早苗は今でも大切につけている髪飾りに触れた。酔っぱらっていても、その感情に嘘偽りないことはだけは、誰の目にも明らかだった。
そんな話を傍で聞いていた神奈子は、じっとりと湿度を含んだ視線で諏訪子を睨め付けている。諏訪子は、梅雨時期並みに鬱陶しい視線を無視し、そ知らぬ顔で杯を傾けているが酒精とは別の要因でほんのり顔が赤かった。
早苗はそんな周囲の様子など目に入らないようで、「元気にしているといいんですが…」などと嘆息している。が、どこか演技がかっていた。
その言葉を受けて、神奈子の目線が一層湿度を増したようだ。
幻想郷の山の中。
守矢神社で催されている宴会の席にて。
さっさと酔っ払ってしまった早苗は、誰に聞かれるでもなく虚空に向けてそんな思い出話を語り始めていた。なんとなく、その話を聞いていた霊夢は、『ケロちゃん』と思しき相手に向かって物問いたげな視線を向けている。
諏訪子は、苦笑で返しておいた。霊夢は、それでも気になったらしく、諏訪子の横に腰を下ろす。
「で、早苗は本気で気づいてないの?」
「さぁ? でも、早苗はそんなに、お花畑な頭はしてないと思うよ」
多分、諏訪子を巻き込まないようにあえて気づいていないような素振りでいるのだろうが、残念ながら成果はないに等しかった。
「…それと」
霊夢は、見てはいけないものを見るように、こっそりと視線を送る。誤って直視してしまったらしく、背筋をぞくりと震わせて、反射的に視線を戻す。
「神奈子はどうしちゃったの!?」
声のトーンを数段落として、諏訪子に向かって悲鳴のような呟きを漏らす。
諏訪子のそばにいるだけで、じっとりとしていて、それでいて鋭い殺気を含んだ視線に肌が粟立つ霊夢だった。
「あはは…、神奈子は早苗を溺愛しているからね。いろいろ気になるんでしょ」
今回の話、諏訪子はもちろん話すことはないし、早苗も初めて人に話したことなので、当然神奈子は初めて聞くような話だった。
そのためか、まぁ色々と思うところや言いたいことがあるのだろう。直接言いに来ないところを見ると、まだ、自分でも感情の整理が付いていないと見えた。
まさか、諏訪子の髪飾りが気に入られていることに嫉妬しているとか、そんなことではない、という希望的観測が的中しているといいな、と諏訪子は思う。
そんな視線をとりあえずなかったことにして、諏訪子はその日に思いを馳せる。
早苗が語っていない、一幕を思い出していた。
「いいものを、見せてあげる」
嗚咽が収まると、『ケロちゃん』は早苗に言った。
早苗に知っていてほしいものがあった。それを教えることが、早苗を更なる孤独の道へと追いやってしまうかもしれないことを自覚はしていた。教えたいと思う気持ちが、『ケロちゃん』の我が儘に他ならないことも。
それ故の、僅かなためらいがあった。
それでも、この衝動に勝つことはできそうもなかった。
人が神と等しくなる儀式――祭儀を、早苗に伝えたい。
はるか昔に消え去った、もはや『ケロちゃん』の記憶にしかない人々の遺産。力を持った者のみに扱える力を、早苗に伝えたかった。
「いくよ」
――胸の前で手を合わせ、力を練り上げる。
このやさしい、強い少女ならば、力を使いこなし、誤った方向には使わないだろうという、確信があった。しかし、そんなことは自分をごまかすための言い訳に過ぎないことを自覚して、心の中で苦笑いを浮かべる。
――合わせた手を解き、力を解き放つ。
『ケロちゃん』は、早苗に対等を望んでいた。かつての人々と同じような。あるいは、それ以上に渇望しているのかもしれない。
――暗闇に、五芒の陣が浮かび上がる。
しかし、さすがにそれを押し付けることはできなかった。
だから『賭け』をすることにした。
――五芒の陣の各頂点に、更なる五芒の陣が展開。更なる力が放たれ、木々がざわめく。
『ケロちゃん』は、ただその祭儀を見せるだけ。それが賭けだった。
今まさに見せている儀式は、早苗がその要点を理解できれば確実に扱えるものであった。そして、この力を理解することは神社に伝わる秘術を扱う上での鍵を手に入れることにも等しかった。
早苗が、今目の当たりにした儀式を理解し、自分の力とするか否か、出来るか否かは早苗に託すことにしたのだ。
我ながら、ずるい方法だとは思う。
しかし、早苗ならば、と思わせる何かを持っている少女だった。
伝えるべき祭儀は、すべて終えた。
――溢れ出す力を、収束して空に放つ。
最後に一つ、純粋に早苗に見せたい景色を作り出した。
雨の日も、風の日も、その次に来るハレを思って乗り越える力を持ってほしい。そんな願いがあったのかもしれない。
――雨のごとく降り注ぐは、光の礫。激しく、緩やかに空から舞い降りてくる。
「わぁ」
力を解き放つ『ケロちゃん』自身も、眩いばかりの輝きを放っている。
「ケロちゃん、まるで神様みたい」
「うん」
早苗の、まばゆいばかりの笑顔と言葉で、ごく自然に覚悟が決まった。
そして、決まった瞬間に、それは覚悟でも何でもなくなった。
それが、自分のあるべき姿なのだ。
これからは、そうならねば――あの日の自分に戻らなければならない。
それが、神としてなすべきことだ。
諏訪子はその日のことを忘れたことはなかった。
諏訪子が賭け、望んだ結果として早苗は古の力を身につけ、同時に悪い予感も的中した。紆余曲折のうちに幻想郷に移ることにもなった。
それでも、早苗は思い出を慈しみ、髪飾りを大切にしてくれる。そんな単純なことが諏訪子にとっての全てだった。
自分の存在が許される証だった。
諏訪子は、ふらふらしつつも、嬉しそうに話している早苗を見つめた。
早苗が、『ケロちゃん』のことを忘れたことがないことを、諏訪子は知っていた。早苗の思いは途切れることなく感じることが出来たから。
その思いが、諏訪子を神様に留めていた。
あの日、確かに諏訪子は生まれ変わったのだ。
かつては、神を束ねた神である諏訪子は、一度神であることを放棄した。しかし、人間である早苗に救われ、その瞬間から諏訪子は再び神となった。
そして同時に、諏訪子は、信仰するようになったのだ。
東風谷早苗という力を持つだけの一人の少女を、諏訪子は心から信仰していた。
Eplogue ――あるいは守矢家の日常――
その夜、皆が寝静まった時間に、諏訪子は何か重苦しい雰囲気を感じて目を覚ます。なにやら濃密な妖気のようなものを感じ取った。何の恨みかは分からないが害意にあふれている。
よりによって、この神社に攻め入るとは運のない。諏訪子はそう心の中で呟き、物騒な笑みを浮かべる。人間相手の弾幕ごっこが好きだが、たまには全力で暴れるのも悪くはない。
まぁ、物を壊すと早苗が怖いので、ほどほどにはする気でいるが。
諏訪子は気配の主に向かって、密やかに移動する。気配の主は、一室から動いていないようだ。
「……し、 わ 、 た 、す 、…」
切れ切れの声が、聞こえてくる。延々と、同じ音律が響いてきている。同じことを延々と呟いているようだ。
諏訪子は、異常なものを感じて、部屋の入り口からそっと覗き込む。濃密な負の気配に意識が飲まれそうになる。
見えるのは、相手の背後。背負った注連縄が神々しさを感じさせる。
「ん? 注連縄?」
思わず声に出してしまい、慌てて口を閉じるがもう遅い。相手が勢い良く振り返る。
「訪子、私、諏…げ、諏訪子」
手に持っているのは、花びらが半分ほど毟られた花一輪。足元には、その残骸と思われる十を超える花々。すべて花びらが毟られた無残な姿をさらしている。
花の残骸の上では、注連縄を背負った主――神奈子が顔を真っ赤にしておろおろとしていた。
「…なにやってるの?」
状況を見ると、まぁ、なんとなく事態を読み取ることが出来るのだが、あの濃密な妖気を神奈子が放っていたのかと思うと、思考がこんがらがる。
ふと、今日の宴会の一件が頭を掠める。まさかという思いはあるが、他に思い当たるようなこともなかった。諏訪子も流石に、そこまでやきもちを焼かれるとは思っても見なかったが。
ついでに、何をやっているかの答えは明らかだった。
まず状況から考えて、花占いをしていたのだろう。しかし。
「普通に考えて、神様が花占いなんかするか?」
後半は、実際に声に出てしまった。
「な、なによ、別にいいでしょ!」
確かに、別にいいのだ。ただ、思考の混乱の一端が言葉に出てしまっただけなのだ。
しかし、別によくないことが、いくつかあった。
まず第一に、
「あ。あんまり大きな声出すと…」
「神奈子様、何事ですか!」
ヒョウッ――。
風を切る音とともに、早苗が現れる。風遁の逆回しで、その場に現れた早苗の視線は、神奈子の足元にロックオンされる。
よくないこと、その一。早苗に部屋を汚しているところを見られること。
「なんですか、これ」
「あ、え、いや、何でもないの」
「じゃ、お休み~」
「あ、諏訪子様、お休みなさい」
諏訪子はその場からさりげなく退く。
よくないこと、その二。花占いに使っていた花たち。
あの花々は、早苗が大事に育てているものだった。本数から考えて、一部だけを刈り取ってきたようなのでそれは救いだが、どちらにせよ、早苗に叱られることは間違いなかった。
諏訪子にとって不思議に思えるのは、神奈子のそういうところだった。早苗のことを溺愛している割に、何を大切にしているか、何に興味があるかといったことに疎いのだ。
なんにせよ、巻き添えを食わないためにも、撤退は絶対の措置だった。
われらが巫女殿は、時に神様など蹴散らすような力の持ち主なので、諏訪子といえども警戒を持って対処しなければならないのだった。
それ以上に、生活する上での実権は、早苗が握っていることだし。
案の定、先程の部屋からは早苗の怒気まじりの声が聞こえてくる。
「流石は我らが巫女殿。神奈子は、今夜一晩お説教かな」
その姿が思い浮かぶようで、諏訪子はくすくすと笑いながら、寝床に戻っていった。
そしてこの作品は曲の雰囲気に良く合っていると思う。素敵です。
神と人間が一緒に遊ぶ・・・そんなお祭りに1回は行ってみたいですね。
フリーレス、失礼しました。
早苗さんも同じですかね。見ていて本当に楽しそうでした。
作中の、二人がまた遊ぼうという約束を交わす場面を読んで、どうしようもなく嬉しくなっていました。
読めてよかったと思います。
私、感動してしまいました。
エピローグもいい味出してますねw
早く神奈子サイドの話を書く作業に戻るんだ!
本当に感動しました。