今作は同作品集『森近の道具屋 日常の余韻』の続き物となっております。
朝日が東の空を照らす頃、一組の男女が廃れたベンチに腰掛けていた。
女性は男性の膝に頭を置いて安らかな表情を見せている。
本来ならまだ寝ているはずの時間帯を彼女が寝て過ごすことは当然でもあった。
傍から見れば、微笑と冷やかしの耐えない光景である。
が、彼はどこか顔をしかめていた。何か考え事をしているような、後悔の念を隠しきれないような。
決して、彼女のことを不快には思っていないことはその様子を見れば分かる。舌打ちをし、頭を掻き、溜息を吐く。
そんな様子がかれこれ十回ほどはループしている。それもそのはず、自分の低脳さに甚だうんざりしていたのだ。
わざわざご親切に『蚊を捕る線香』という名をしているのに、何故火をつければいいということに気が付かなかったのか。
あの時の自分は一体何を考えていたのだろう。
魔理沙への説明でその思考が吹き飛んでしまったのか、蚊との無意味な攻防で思考能力が低下してしまっていたのか。
くだらない弁解だった。彼は底知れぬ羞恥に、思わず顔を覆った。
眼鏡の下に手の平を通し、今一度、重い溜息を吐いた。
曙の光が薄らかに二人を照らした。丁度東に顔を向けていた彼は思わず顔を反らした。勿論、顔を覆ったまま。
腰元で蠢く彼女に気が付き、顔を覆う両手を外して彼女に振り返る。
欠伸より、その後に出る大きな吐息の方が彼女の眠気をよりよく伝えていた。
「まさか僕が枕側になるとは思いもしなかったな」
「まさか霖之助さんが受け入れてくれるとは思わなかったわ」
霊夢は不敵に微笑むと、体を預けていた彼の膝の上を離れ、滑り落ちるようにして地面に手を着いた。
ベンチに乗る両足を下ろし、ゆっくりと立ち上がる。
朝日に向かって大きく体を伸ばしていたが、目が眩んでしまったのか直ぐに体を仰け反らせた。
彼も霊夢のオウム返しをするように、大きく体を伸ばした。が、陽光に目を貫かれ、網膜に光が焼きついてしまった。
今の自分は実に恥ずかしい存在だと再認識し、落胆を通り越して自らを嘲笑いたくなる衝動を抑えた。
結局、人里まで足を運ばなかったものの、彼にとっては新しい発見でもあった。
今まで、外へ出歩くという行為そのものは目的を達成するための一環でしかなかった。
目的もなく外を出歩くなど、放浪者のようで嫌だったのだ。
だが、それは間違いだった。
外出という行為そのものを目的化し、その必要性を自身に説いてきた。目的以外のものには目もくれず、ひたすらその地へと足を進める。
今思い返せば、随分と損な生き方をしていたように思える。現に今朝、何気なく外を歩いてみればどうだ。
普段は目もくれないような可愛らしい花、夜明けを演出する小鳥のさえずり、自然の一角である優美な暁、曙。
どれもこれも、今まで気が付かなかった美しさである。こんな自然の美しさを忘れてしまうとは本当に情けない。
人里と妖怪の間に店を設ければ商売繁盛――そういった私益の念とは別に、無意識のうちに自然のあるこの地を選んだのかもしれない。
すぐ近くに大自然溢れる森があるというのに、これは非常に勿体無い話だった。
ただ、毒々しい化け茸やら刺々しい樹木やらが占領する魔法の森が美しい自然の神秘を諭してくれるとは到底思えないが。
霊夢は再び寒そうに体を震わせると、機械的でぎこちなく足を進めた。帰路を辿り、香霖堂まで足を戻す。
大した距離は歩いていない。ベンチのある場所から香霖堂がまっすぐに見える。
霊夢の足取りを気遣うように、霖之助は彼女に歩調を合わせた。
ゆっくりと遠慮がちに、霊夢が寄り添ってきた。
久しぶりに我が家『香霖堂』の外観を見た気がする。自分で言うのもなんだが、これは酷い。
優雅、清潔、衝撃――あらゆるものが欠けている。いや、別の意味で衝撃は充分かもしれないが。
これでは商売繁盛どころか、自分自身でさえ入るのを躊躇う。もし、こんな店が人里にあったら、彼は間違いなく他の店を当たる。
しかし、霊夢はのそのそとドアノブに手を掛けた。店内は掃除するのに、何故外の汚れは気にしないのだろう。
外見よりも中身が大切といった霊夢の心の反映だろうか。
それにしても、こんな家に住んでいるのかと思うと自分でもぞっとする。今日辺り、適当に改装でもしてみよう。
改装とまで言うと大袈裟になるだろうから、せめて見栄えだけでも良くしようと考え、彼は霊夢の後に続いた。
店内はまだ薄暗かった。日が顔を出したとはいえ、瞬間的に明るくなるわけではない。太陽が全身を露にする頃には周囲はすっかり明るくなっているだろう。
店内は相変わらず静かだった。靴を脱ぎ、床に上がる。ぺたぺたと、素足が畳みに吸い付く音がこだまする。
寝室へ戻ると、いつの間にか霊夢は魔理沙に寄生するようにぴったりと傍にくっ付いていた。
普段から軽装な巫女服を着ているだけあって寒さには強いと思っていたのだが、それはどうも見当違いだったようだ。
透き通った陽光が僅かに魔理沙の頬を照らしつけている。霊夢の寄生にも気付かず、むにゃむにゃと口元を緩ませながら和やかな表情で眠りについていた。
その様子を見る限り、彼女は蚊に悩まされていないようだった。途端に、痒みが体を襲った。
左腕を掻きながら、台所へと向かう。湯飲みに茶を淹れると、湯飲みがほんのりと温まる。
普段は視界に入るだけの台所の窓から顔を覗かせる。が、換気程度の役割しか持たない窓からの景色はお世辞にも美しいとはいえなかった。
やはり、幻惑と妖気に満ちた魔法の森は自然を超越してしまっているようにも思えた。
湯飲みを口に付ける度、吹き返す息が反射され、彼の眼鏡を曇らせる。
いちいち拭くのも面倒だと思ってみても、水蒸気の所為で眼鏡は濡れる。眼鏡外すと、ギィギィと廊下を歩く足音が響いた。
金色のくせっ毛に更なる癖を付けるのかと言いたくなるほどに魔理沙の髪は乱れていた。
顔を洗うどころか鏡も見ていないのだろう。はしたない。
「今日は早いじゃないか」
「……霊夢は何なんだ? おかげで目が覚めたぜ」
「いいから、顔を洗っておいで」
魔理沙は眠そうな表情で彼にウインクを決めた。
そんな表情でウインクを貰っても何とも思わないのだが彼の本心でもあった。どうせなら、もっと元気で活気溢れた表情で貰いたい。
ふと、魔理沙の様子を思い出す。何一つ変った様子なく、いつもと変わらぬ寝起きだった。魔理沙は吸血されていないのだろうか。
彼は全身二十七箇所を刺されるという前代未聞の被害を受けたというのに、魔理沙は無傷と考えるとなんだか腹立たしい。
吸血繋がりとしてレミリアが思い浮かばれる。
彼女はB型の血が好みだと聞くが、夏の子悪魔たちにも好みの血とはあるものなのだろうか。
自分自身の血液型も分からないというのに、魔理沙の血液型が分かるはずがない。
血は鉄の味がするものだが、魔理沙の血はどんな味をしているのだろうか。極端に苦味が強いのか、辛味が酷いのか。
流石に本人に確認を取ろうとは思わないが。
今朝は霊夢が朝食を作ってくれるようだった。何の気紛れかは知らないが、これで少しだけ楽が出来ることは間違いない。
しかし、着替えようとすれば魔理沙、人間失格に手を伸ばせば魔理沙、ガラクタを仕舞おうとすれば魔理沙。――ここまでされると、正直鬱陶しい。
これなら邪魔をされない台所で米でも炊いていたほうがずっと楽だっただろう。
太陽が完全に出た後、霊夢の朝食を頂いた。
霊夢の味噌汁の味が自分の物に似てきているなと思いつつ、香霖香霖と騒ぐ魔理沙に眉をひそめていた。
少しずつ、店内はいつもの蒸し暑さを取り戻していた。
もともと湿気の高いこの場所では他所よりも蒸し暑くなるのは自然の条理なのかもしれない。蝉の鳴き声がこの暑さに追い討ちを掛ける。
蝉の存在がなくなれば、気分的にはもう少し涼しくなるのではないかと考えていた。
食後、霊夢はすぐに帰ってしまった。掃除か、妖怪退治か。どういうわけか、食器は洗ってくれなかった。
始末が悪いというのは自分でも嫌気が差すので、適当に中途半端と霊夢への印象を再認識した。
時を同じくして、魔理沙も立ち上がった。
「君も帰るのかい?」
「あぁ、薬を一晩寝かせたからな。これ以上寝かせると失敗するかもしれないし」
魔法の知識なら魔理沙は他の追随を許さない。少なくとも、彼の知る限りでは。
彼が適当に相槌を打つと、彼女は急にニヤニヤ笑い出した。
「何だ、まだ帰らないでくれって?」
「まさか。研究熱心な君を邪魔するつもりはないよ」
魔理沙はどこか口惜しそうにして外へ出て行った。これでやっと、本に目を通せる。
結局、昨日の昼間からは一文字も目を通していない。とはいうものの、これは落ちを知るための何者かによる演出なのかもしれない。
同時に、魔理沙の持ってきたガラクタには二冊の本が混じっていた。題名は覚えていないが、どちらも厚めの本だった気がする。
カウンターの傍に置いてある椅子に腰を下ろし、ページを捲る。文字に目を走らせる。
瞬間、彼は暑さと言う観念を一時的に克服した。
――男はやがてモルヒネという薬無しでは生きられなくなる。
モルヒネとは高額ゆえ、男が何度も買えるような代物ではない。
結局、その薬局の女性と関係を持ち、その罪の重さに耐えられなくなる。暫らくして旧友が現れ、入院させられる。
そして、他人に狂人という肩書きを張られたことを悟り、自分は人間失格なのだと確信する。
落ちとして、この男は自殺してしまったように書かれている。一番特徴的なのが、この後書きが小説の落ちとなっていることだった。
最後には『私』がその男の知り合いに会いに行く。その知り合いは男は神様みたいに良い子だった、と話している。
堕落した故に狂人となった人間は迫害を受けるだけだ。その者が何かを生み出すなどあり得ない。
が、狂人となることは果たして本当に人間失格と同義なのだろうか。
男は人間ではなくなった。が、体の構造や機能はヒトとしての原型を保っている。
この男がヒトとして生きていく道はなかったのだろうか。そこまで言ってしまうと、最早ヒトではなくなってしまうのかもしれない。
ヒトは唯一理性を備える動物だ。世間で生きるためには、人間であるためには理性が必要不可欠だ。
食欲のままに物を食い、性欲のままに体を奮い、睡眠欲のままに生活を乱す――迫害どころか、殺されてしまうかもしれない。
そこまで到達してしまえば、それはもう人間でもヒトでもない。ヒトの皮を被った何かだ。
狂人は読んで字の如く、狂ってしまった人間を指す。それが一時的なものであるか、永遠の物であるかはそれぞれだろう。
が、文明の繁栄に狂人は不可欠だ。そして、彼らはいずれも発案者でもあり、一時的な狂人であった。それも当然だ。
電話のように、遠くの人間と自由に会話できる機会を作りたい――無理に決まっている、馬鹿も休み休み言え、現実を見ろ。
そんな言葉が返ってくるのは当然だったのだろう。
幻想郷では残念ながらその機能を拝むことは出来なかったが、それは外の世界では実現している。
狂人のレッテルを張られつつも、奇跡とも言える偉業を成し遂げたのだろう。夢が現実となったのだから。
狂人になるためには非難や称賛を与える世間の目が必要不可欠だ。
ここまでの仮定として、偉人となるためにはまず狂人になる必要があり、狂人になるためには世間に存在するヒト、一端の人間であることが絶対条件であるのではないだろうか。
ただ、人間失格の男は順番が逆だった。
人間でなくなった代わりに、狂人となったのだ。男は不幸にして、偉人への道を絶ってしまった。
その後にある未来を、彼は考えようにも考えられなかった。
読後感は非常に強かった。人間としての生き方をいろいろと考えさせられる一冊だったように思う。
外の文献は非常に素晴らしい。幻想郷とはまったく別の視点で様々な事柄を書き上げていく。
いつの日か、外の世界へと足を踏み入れてみたい。
気温への適応が切れる前に、彼は別の本を手に取った。
不夜城と表紙に書かれたその本は小さな辞書と同じくらいの厚さを誇っている。
妙に艶がある表紙を捲ると、物凄い量の字が目に飛び込んできて思わず苦笑いをしてしまった。
二段構成となっていて、文字量もページ数も半端ではない。が、それは好都合でもあった。その分、長続きするということだから。
眼鏡を拭き、改めて文字に目を向ける。
――チリンチリン。
風鈴の音が来客を伝えた。霊夢と魔理沙以外である確立はかなり高い。
彼女らも、十分もしないうちに用を終えるはずがない。
ドアの横から、ぴょこんと飛び出る――あれは耳だろうか。
「人様の家に勝手に入らない」
「まだ入ってないもん」
「開けるのも駄目よ」
「引いただけだもーん」
波長の整っていないような声と、子どもらしいやんちゃな声。言わずもがな、どちらも女性のものだった。
一人の女性がちょいっと顔を覗かせた。
地面すれすれまで伸びきっている藤色の髪や、赤く染まった瞳、何よりも頭部に付いている耳に驚いた。
後ろに彼女の後ろにも、大きな耳を持った少女がいる。長髪の女性と黒髪の少女の耳の形は違えど、どちらも兎の物であろう。
目が合うと、長髪の女性はそのまま固まってしまった。急に体が火照った。
適応が切れてしまった――と思ったのもつかの間、今度は疼痛が後頭部を襲った。
が、うずくまるほどひどいものではない。
「……いらっしゃい。何かお求めの品でも?」
長髪の女性の赤い瞳が徐々に薄まっているように見えたのと同時に、スッと疼痛が引いた。
女性は糸が切れたかのような笑みを見せ、再び外へ出て行ってしまった。
黒髪の少女はケラケラと笑っている。気味が悪い。
女性は何やら小さな木の箱を持ってきた。その中にお金でも入っているのか、それともそれと何かを交換しに来たのか。
女性の高身長っぷりはカウンターを挟んで立ってみるとより一層印象付いた。
サラサラとした藤色の長髪、淡く赤い瞳。上には白のワイシャツを身に付け、赤いネクタイが砕けて結んである。
下には亜麻色のミニスカート、赤茶のローファーはその長い髪と握手している。
少女の方はくせっ毛の短い黒髪、兎らしく目が赤い。首には人参の付いたネックレスと頭部には兎とは思えない垂れた耳。
子供用に作られた簡素なドレスを着ていて、あちこちにをきょろきょろと見回している。
果てさて、二人がこんな辺境へ訪れた理由は何なのか。彼自身、全く見当が付かない。
「単刀直入に言うとですね――被験者になってもらいます」
箱を開けると、蓋を付けた試験管が無数にあった。
それぞれには小さなテープが貼ってあり、小さなアルファベットがずらりと並んでいる。本当に単刀直入だった。
一体何をするのかは分からないが、少なくともメリットはないと判断した。やはり、玄関には冷やかしお断りと書いておこうか。
「被験者って……そういうのはもっと丈夫な人に頼んでくれたまえ」
「だいじょーぶ! 主人は顔も体も偏差値高いよっ」
少女はにこにこしながらカウンターに身を乗り出し、彼の腰を何度か叩く。
顔や体の偏差値など存在し得るのかどうか知ったことではないが、褒められていることは確かでもある。
煽てればどうにでもなると踏んだのだろうか。
「具体的な話をしてもらわないと、取引には応じないよ」
取引と言った瞬間、少女が目を光らせ、更に身を乗り出した。
が、長髪の彼女に襟を掴まれ、ひょいっとと持ち上げると、何ともわざとらしい抵抗の声と一緒に大人しくなってしまった。
彼女が少女を降ろすと、一つ溜息を吐いた。
「私の師匠の実験の一環です。師匠はどんな薬の知識を兼ね揃えているんです。重病難病を治す薬から、筋肉増強剤、人を殺す薬を作るのだって朝飯前です。過去には存在や製造法自体が禁忌である、禁断のの薬までも作り上げています」
「余計に意味が分からない。今更、何故僕なんかに?」
彼の台詞を無視するように、彼女は続けた。
「師匠はあらゆる生き物に効く薬を作られています。人間は勿論、妖怪、幽霊、鬼、爬虫類から昆虫まで、あらゆる生物に、またとない効果を発揮します。ですが……貴方はそのどれにも属してはいないと聞きました」
「……半人半妖ってことかい?」
「はい。貴方は妖怪と人間の掛かりやすい病気の両方に耐性を持つと聞きました。それはまた、毒や薬も同じことです。きっと、妖怪と人間の良い部分だけの耐性を見に付けているのでしょう。半人半妖は師匠も貴方しか知りえないと仰っていました。ですから、協力していただきたいのです……霖之助さん」
半人半妖を自分以外に知りえない――当然といえば当然だった。
人間と妖怪の交際――非常識だった。狂人だった。人間ではなく、ヒトだった。
本来、同種族以外では染色体の数が合わない。受精をする場合もあるが、染色体の関係で着床まで至らないために、通常妊娠はしない。
それが何らかの影響で捻れ、生まれたのが彼だった。
半人半妖――非常識とも、狂人とも、ヒトとも呼ばれない。
目に見える嫌がらせも、白い目の嘲笑も、あからさまな罵倒もない。
物を持てばそれが怪奇現象となり、人にぶつかれば空気の固形化と騒がれる。
半人半妖という概念がなかった。彼は存在すら出来なかった。
もし、暴力を受けていたら、軽蔑されていたら、罵られていたら――どれだけ楽だっただろう。
途端に、脳裏が疼いた。
存在すら忘れていた粒子が蠢き、萃まる。
激しい痛みが頭部を襲う。頭痛、そんな生易しいものではない。
まるで、鈍器で何度も何度も殴打されているような、頭部だけが破壊され、吹き飛んでしまうかのような。
両手で後頭部を押さえ、カウンターに思い切り額を打ち付けた。本来ならこぶが出来そうになるような痛みだったのだろう。
だが、微塵とも感触がない。全身の痛覚が頭部に萃まったかのようだ。そうだとすれば、これだけの痛みも頷ける。
「霖――さん? どう――し――」
彼女の声が聞こえる。が、それも途切れ途切れにしか聞こえない。
拡散した粒子が脳内の回路を固めている。音を判断する回路も当然塞がれていた。
互いを欲するようにして、小さな粒子が蠢く。
蠢動と共に、粒子の這いずる音がガリガリと脳内を浸食しているように思えた。脳内に穴を掘りながら、ガリガリと。
自分でも、理由が何なのか分からない。一体、何が原因なのか。
兎の狂気に当てられた? いつの間にか薬を盛られた? それとも、暑さの所為?
思考がだんだん鈍ってきた。いや、本当に鈍っているのか? 本当は研ぎ澄まされているんじゃないのか?
分からない。分からないという単語そのものの意味も、何となくしか思い出せない。
分からない。
誰かの声が、小さく聞こえる。誰の声だろうか。二人の声――今そこに、誰がいた?
誰かに、頬を掴まれた。何も見えない。
辺り一体に霧やモザイク、霞から涙まで、視界を遮るあらゆるものが結集しているようだった。
口内に、食道に、何かを感じた。
――意識が、飛んだ。
Ж
目前に、紅いスポットライトが二つ見えた。こそばゆい感覚が目の周囲を襲う。
スポットライトの奥には古びた天井が映っていた。急に、スポットライトが引いた。
「……大丈夫ですか?」
二つの紅いスポットライトの正体は彼女の大きな瞳だった。
長い髪がと思われる繊維質が足の上にあるのが何となく分かった。背中には畳みと思われる感触があった。
暑さも寒さも感じない。ただ、今の状況が理解できない。
「まったく、いきなり倒れないでよ。おかげで鈴仙にこき使われたんだから」
黒髪の少女が頬を膨らませ、胡坐を掻いて彼女の隣に座っていた。彼女の名は鈴仙と言うのか。
「具合はどうですか?」
「……全く問題ないよ。ただ、妙な違和感があるね……」
「鎮静剤と精神安定剤、プロプラノロールを投与しておきました。いずれも即効性に優れているので大丈夫だと思いますが……違和感があるのはプロプラノールの所為じゃないですかね」
「なんだい? その、プロペラノールというのは」
「プロプラです。簡単に言えば記憶を消す薬です。多分、私達と出会ってから今までの記憶がないでしょう。……思い出したら、また狂いそうだったんで」
確かに、彼女らの顔は覚えているものの、何を話したかは一切覚えていない。
だが……思い出したら、狂う? また? そんな出来事があったのだろうか。
「で、どうして君たちがここにいるんだい?」
彼女は苦笑を浮かべた後、説明を促してくれた。
要するに、師匠の被験者として協力してくれないか、とのこと。理由は良く分からないが、助けてもらった恩もある。
協力しないわけにはいかないだろう。
実験とやらはカウンターで行ってもらうことにした。どうも、そこにいないと落ち着かない。
長髪の女性の名は鈴仙、黒髪の少女はてゐと名乗った。
二人は師匠から既にその名前を聞いていたのか、彼が名乗る必要ななかった。
鈴仙は木箱から試験管を二本抜き取った。無色透明の粘液、炭酸を含んでいるような真っ黒な液体。
どうにも抵抗があったが、二人なら信用できる。てゐはヤカンを借り、水をいっぱい汲んで目の前に置かれるコップに注いだ。
重そうにヤカンをカウンターの上に置き、なにやら息を切らせていた。
彼が様子を見かねて椅子から立ち上がると、迷いなくその椅子に腰掛けた。鈴仙はてゐを注意したが、彼はなんとなく、てゐを庇った。
が、彼女のケラケラとういう笑い声を聞いた直後、どことなく後悔の念に押された。
慎重に、試験管の液体を一滴ずつ垂らし、持参してきたガラス棒で混ぜる。墨が薄まったような液体が目の前に現れた。
彼は一瞬躊躇いつつも、コップに口を付けた。匂いも味もなく、ドロドロしたあの液体の感じもなく、簡単に口に含むことが出来た。
「うわぁ……本当に飲んじゃったよ」
「ふぅ……どうして君はそういうことを言うかな」
てゐはニヤニヤと笑いながら、大きな耳をぴょこぴょこ動かした。
「今のは体を麻痺させる薬なんです。何か異常はありますか?」
鈴仙はそう言って、悪戯な様子で黒い液体を揺すって見せた。きっと、それが体を麻痺させる薬なのだろう。
体への異常は特に感じられない。彼が首を振ると、鈴仙は木箱に入っていた紙に印を付けた。
試験管のシールと同じく、嫌というほどアルファベットが並んでいて、何がなんだか分からない。
鈴仙は続いて、無色透明の粘着質の試験管を取り出し、先程の無色の液体を木箱へと戻した。
今度はその二種類を調合するようだった。となると、無色の液体は人間か妖怪に効く成分を含んでいるのだろう。
このドロドロした液体も同じく。てゐが椅子に立ち、コップに水を注ぐ。鈴仙が液体を垂らし、混ぜる。
「どうですか?」
直後、右指に電流が走ったようにピクリと跳ねた。
「ん……右手が少し痺れるかな」
右手を胸の辺りまで上げてその様子を見せる。
ぴくぴくと痙攣している様を見て、てゐがきゃっきゃと笑いながら右手を握り締めてくる。てゐの手が触れた瞬間、一際強い電流が走った。
鈴仙は適当に止めさせようとてゐに言い聞かせているが、両手はペンと試験管へ、目は紙へと配置してある。
今度は黒い薬の代わりに半透明の青い液体を混ぜ始めた。
「今度はなんだい?」
「嘘吐きには必要のない薬です」
鈴仙は冗談交じりに微笑むと、横からてゐの失笑が聞こえた。
振り向くと、わざとらしく腹を抱えながら鈴仙を指差して目に涙を浮かべている。
鈴仙は若干頬を赤くすると、仕方ないという風に苦笑いし、ぺこりと頭を下げた。てゐの笑い声に箔が掛かった。
綺麗な蒼色をした薬を一気に飲み干すと、症状は瞬く間に消えた。
要するに、症状が出ていなければ必要はないと言いたかったのだろう。
最後に飲んだのは粘着質の液体と黄緑色の液体を混ぜ合わせた物だった。
触覚が消える薬だったようで、確かに左腕の触覚は消えた。その際、てゐに思い切り蹴り飛ばされた。
その挙句「痛くないでしょ?」の一言。苦笑いしか出来なかった。
鈴仙は用紙の下方にある空欄へ何やら書き込んでいた。考察か何かを書き記しているのだろう。
てゐと同じく、ピコピコと動く耳が気になって仕方がない。
が、それ以上に気がかりなのはそれが本当に耳としての機能を持っているのかどうかだ。
今見る限りでは人間同様の耳がきちんと付いている。それなのに、頭についている兎の耳は何なのだろう。
こちらにも、鼓膜やら何やらが存在しているのだろうか。
ちょっとした好奇心。書き終えたタイミングを見計らい、そっと兎の耳に触れた。
「ふあぁっ!?」
ガリッと、嫌な音が鼓膜を引っ掻いた。彼は声を聞くと同時に手を離すと、背後でてゐが抱腹しながら転げまわっていた。
用紙をはみ出したボールペンがカウンターに綺麗な直線を描いていた。
同時に、ボールペンの軌跡には小さな窪みが残っていた。
「か、かか……か、勝手に触らないでくださいっ!」
「あぁ……いや、済まない。つい興味本位で」
ひどい感度だった。オジギソウに触れても反応しない程度だったというのに、彼女の耳は敏感すぎた。
それほど大事な器官であるのだと悟ったと同時に、彼女は目を潤ませながら大きく口を開いた。
「いいですか!? 兎が耳を失うって事は兎ではなくなるということなんですよ!? 月の兎の耳は波長を知るのに必要不可欠なんです!」
「い、いや……悪かった、悪かったよ。……それにしても、生真面目そうに見えてあんな声も出せるんだな……さっきの冗談といい――」
「――っ! か、からかうのは止めてくださいっ!」
可愛らしいところもあるんだな、と言う前に、鈴仙は顔を赤くしてそう叫ぶと、用紙と木箱を持ってそそくさと帰っていってしまった。
てゐは終始失笑を続けたまま、おぼつかない足取りで彼女の後を追いかけていった。
香霖堂の活気が一つ失われた。薬の実験は大体一時間ほど。百回近くは飲まされた気がする。おかげでお腹が苦しい。
外はだんだんと蒸し暑くなってくる頃合だった。
そういえば、鈴仙は説教の最中、自分は月の兎だと言っていた。
月の兎――興味深い。
その昔、まだ幻想郷が外の世界から隔離されていない頃、妖怪たちが月へと攻め込んだという話を聞いたことがある。
結果は妖怪たちの敗北に終わっているものの、それは歴史に名を刻む出来事だった。
鈴仙が月の兎だとしても、その戦争を体験しているほど長生きしているのだろうか。
月への侵攻が何年前の出来事かは分からないが、もし、鈴仙がその戦争を体験しているとしたら、それは非常に重要な人物である。
そして、何故ここにいるのかということも論点となってくる。これは非常に興味深い。
当時、月に攻め込むなどという発想も、狂乱として非難の目を浴びたことだろう。一体、誰が付きに攻め込もうなどと考えたのだろう。
そこはかとない好奇心が湧き上がってきた。知識欲が餌を求めている。
今朝、出歩くことの楽しみを知ったばかりだ。善は急げである。人里にある稗田家の屋敷には大量の資料が保管されていたはずだ。
ほとんどのものは一般公開され、誰でも閲覧可能である。その資料の中にはその戦争のことについての記述もあるはずだ。
何しろ、千年以上もの歴史や出来事を書き綴っているというのだから。
彼は早速表へ出た。日差しは強かったが、汗の吹き出るような暑さは感じられなかった。
周囲に広がる自然に目を向けることを忘れず、彼はゆっくりと人里への道を沿っていった。
人里は相変わらずの活気に溢れていた。幻想郷中の人間が集う場所なのだから、それも当然だった。
とはいえ、その活気の大多数は子ども達によるものだった。大人の姿は殆どなく、買い物か子どもたちの面倒を見ているかのどちらか。
立ち話をするには暑すぎるのだろう。
子どもの殆どは虫取り網を片手に、木陰で息を殺している。
樹木と一体化して見えにくいが、カブトムシだか蝉だかを捕まえようとしているのだろう。
男の子だけでなく、女の子もその輪に混じり、息を殺している。
里に入り、暫らく進んだところに屋敷はあった。塀の天辺からは綺麗に手入れを施されている松の木が見える。
門前に立つと、その広大さが手にとるように分かる。門はあらかじめ開放されていて、中庭には石の道や赤い睡蓮が浮く池が見える。
門の傍に立つ人に軽く会釈をすると、右手を中庭に向けて「どうぞ」と言ってくれた。
資料を見に来たと告げると、とりあえず玄関へ行くように指示された。
稗田家の屋敷に足を踏み入れるのはこれで二度目。どこか懐かしい雰囲気があった。地面は綺麗にならされていて、見ていて気分が良い。
庭師と思われる人が松の手入れを行っていたり、着物を着た女性が屋敷の廊下を歩いていたり。外壁などはただの張りぼてではないことは確かだった。
広大なのは敷地や門だけでなく、玄関も同じだった。入り口で立ち止まっていると、突然、がらがらとすべりの悪そうな引き戸が開いた。
目前よりも大分下に、紫色の髪をした少女が目を丸くして立っていた。御阿礼の子、九代目だった。
「……これは珍しいお客ですね」
「いや、ここの資料に目を通したいと思って来たんだが……」
「成る程、承知しました。ささ、お上がりください」
女性用と言うべき草履を綺麗に揃え、一段高い床に正座したかと思うと、これまた綺麗なお辞儀を見せてくれた。
こんな少女が綺麗な言葉を用い、加えて作法まで良いとなると、やはり、もう何かの芸当やお披露目のように思えてくる。
が、着物は堅苦しいというイメージより、お洒落なイメージが漂っている。
山吹色の着物には桃色の綺麗な花、頭にも同じデザインの花飾りを付けている。どこぞの生意気で高貴な身分とは大違いである。
ここまで丁重な敬語を使われてしまっては自分の使う安っぽい敬語など何の意味も持たない。開き直って、普段通りの口調で通した。
縁側の廊下は軋むことなく、丈夫で綺麗なものだった。障子も穴一つどころか傷一つない。
ぶすぶすと障子に指を突き刺す魔理沙の存在がなければ、香霖堂も綺麗な障子を揃えられることだろう。
やがて、一つの障子の前で少女は足を止めた。恐らく、この部屋に幻想郷の歴史を綴った書物が保管されているのだろう。
少女が障子を開けると、そこには沢山の本棚に星の数ほどの書物がしまわれてあった。
床に畳みはなく、その部屋は他の部屋よりも一回りも二回り広い。
ここまでの量となると、凄みよりも気味悪さや胡散臭さが先走りそうになる。ぺたりぺたりと、少女の足取りが聞こえる。
「ここに記してある書物は重要な出来事や異変についてのものです。貴方は何をお探しですか?」
「大分昔に行われた月との戦争について、かな」
「幻想月面戦争騒動……ですね。ふふ、古き良き思い出です」
「転生前のことはあまり覚えていないんじゃなかったのかい?」
無数の書物の中から、少女は何の迷いもなく書物を抜き取る。
「確かに、生前のことは事細かに覚えているわけではありません。ですが……あの出来事はなかなか印象深いのですよ。当時、私は阿一……でしたか。――どうぞ、幻想月面戦争に関する記述はこれに殆ど載っていると思います」
初代御阿礼の子が稗田阿一。九代目であるこの少女の名はそのまま『あきゅう』なのだろうか。
少女は分厚い本を三冊、彼に渡した。本を受け取った後、少女はこりこりと両肩を回した。
幻想と月、戦争の歴史と書かれた二冊の本。分厚い二冊の本を退け、三冊目の本へ目を向ける。
そこには大きな文字で『妖怪の賢者・八雲紫』と書かれ、八雲紫と思われる人物像が描かれていた。
確かに、彼女は幻想郷でも相当な古参妖怪だろう。だが、何故彼女が妖怪の賢者と称されているのだろうか。
彼女は、八雲紫はそれほどの偉大な仕事を成し遂げているのだろうか。
それなら、彼女のあの異様なで妖艶な雰囲気も、全てを見透かすような瞳も、考えの読めない不敵な笑みも何となく頷ける。
「――ああ、そうでした」
不意に、少女がそう言った。障子に半身を隠しながら、顔の左側を覗かせる。
「用が済んだら、隣の部屋へ来てもらえますか?」
「えっ? あ、あぁ……分かったよ」
紫のことで驚いているところへの追い討ちの効果は高かった。少女は紫のように不適な笑みを残すと、障子の影に消えてしまった。
椅子を置くスペースすらないようなので、彼は壁沿いの本棚に背中を預けた。改めて、ここの屋敷の清潔さに気がつく。
ぱらぱらとお手製の書物を捲ってゆく。目次に目を走らせ、彼はそれらしい頁へと目を配っていった。
――西暦一〇六八年、八雲紫が水面に映る満月の虚実の境界を弄り、月の世界へ繋げました。
当時、妖気や魔力が増徴していた妖怪達を率い、月へと攻め込みました。
結果は散々たるものでしたが、その行為は決して無駄ではなかったと思われます。
――当時、月面戦争を目論んだ八雲紫は周囲から多大な反感を買った。
その戦争で得た物は勝利でも宝でもなく、敗北のみだった。
結果論ではあるが、月面戦争はこの上ない愚考であり、その実行そのものは実に愚行でもあったのではないだろうか。
――幻想月面戦争騒動の一件。
周囲には自惚れている、狂気に触れた、などと言われていた。後に、本人はその通りだと言うものの、その背後には面白い噂もある。
――幻想郷のパワーバランスを保つため、妖怪減らしと称して戦争を始めた、と。
執筆者は順に、稗田阿爾、阿梧、阿七と記されている。どこか首を傾げたくなる名前だったが、そんなことは大したことではない。
そのほかにも、様々な資料が綴られていた。
それより以前から月人が幻想郷に住んでいたり、同じ頃には西行妖満開の最後であったり、博麗大結界の外側には紫の張った幻と実態の境界があったり。
いずれも、資料があまりにも膨大すぎて全てに目を通す自信も時間もなかったため、彼は一通り作業を中断した。
当初の目的であった、幻想月面戦争騒動については大方始末がついた。
が、それとは違う疑問は数珠繋ぎのように次々と現れ始めていた。
月面戦争を引き起こした本当の目的は? 彼女が妖怪の賢者と呼ばれる理由は?
――彼女の性格は苦手ではあるが、資料から読み取るよりはより確かな事実が聞けることだろう。
分厚い資料をぱたりと閉じると、風が僅かに送られてくる。気が付けば、障子越しに淡い光が浴びせられていた。
我が家に見られる埃はなく、綺麗な陽光だけが薄暗い部屋を照らしていた。
少女がどこからこれらの書物を取り出したかを懸命に思い出しつつも、彼は周囲の資料の名を手掛かりに、元々あったと思われる場所へ書物を戻した。
今度、霊夢や魔理沙に頼んで紫と話が出来るようにしてもらおうか。
彼女はそれなりに自分のことを好意に思っているようにも見受けられたし、冬季はストーブの燃料の取引を行うほどである。
面識がないどころか、それなりの友好関係を持っている。流石に全てを話してくれるとも思わないが、少しくらいは話を聞くことは出来るだろう。
障子を開け、来た道を辿る。いくら屋敷が広いとはいえ、迷子になるほど複雑な作りはしていない。
廊下に足を着くたび、その感触に心を奪われそうになる。あんなボロ屋ではなく、このような由緒正しき屋敷に住まうことが出来たらどれだけ幸せなことか。
そう思いつつ廊下を歩いていると、ふと思い出した。
今朝、我が家の掃除をしようと決心していたところではないか。
屋敷に住まうなんて夢よりも先に、自宅の掃除も出来ないようであれば豚に真珠である。
自分にないものを欲しがるのは人の性と思いつつも、彼は今度こそ胸にそれを留めた。
縁側の廊下の角を曲がると、トンと軽く何かにぶつかった。
彼に掛かる衝撃は殆どなかったものの、曲がり角の向こう側では尻餅をつくような物音が聞こえた。
わざわざ内側を歩いていたのが悪かったと思いつつも、彼は曲がり角に顔を覗かせた。
御阿礼の子がお尻を擦りながらこちらを睨んだ。
「あぁ、申し訳ない。……立てるかい?」
『あきゅう』と思しき少女はむすっとした表情を見せると、天井を見上げた。
「怪我を負わせた上に、約束を忘れるなんて考えられませんね」
抑揚のない声でそう言うと、少女は悪戯にふふっと笑みを零した。
約束――すっかり忘れていた。今日は色々と忙しい。家の掃除、紫から話を聞く、少女との約束。
今覚えるべきことはこの三つだ。
起き上がった少女は軽くお尻と着物をはたくと、愛くるしい笑顔を見せた後、彼の横を通り過ぎた。
どことなく、少女は砕けた性格なのかもしれない。どれほど素晴らしい能力の持ち主であろうと、子供であることに代わりはない。
その点では、どこぞの生意気で高貴な身分と同じであろう。
少女の笑みはこちらを催促するようなものだった。
彼が招かれたのは書斎と思われる座敷の部屋。一体、何を話すのだろうか。
部屋に入ると、少女は掛け軸を背にしてその場に正座をした。
彼はこういった経験は皆無であったが、少女とはそれなりの距離を置いて同じく正座をした。
正座という作法の一環のようなものなど縁のない彼にとって、この上ない違和感と苦痛に襲われた。
そんな様子を見かねた少女は正座を崩し、長座になった。
「どうぞ、無理に畏まる必要はありません。楽になさってください」
内心ではほっとしつつ、その場に胡坐を掻いた。が、胡坐を掻くのは無礼ではないだろうかと心配していた。
少女はすぐに正座になると、今一度頭を下げた。
「九代目御阿礼の子、稗田阿求でございます。以前は対面した程度なので、こちらの紹介が遅れてしまいましたね。森近霖之助さん」
予想通り、少女の名は阿求で間違いはなかった。
確かに、彼女との面識はあったものの、名前は聞いていなかった。少女が彼の名を知っているのは当然と言えば当然だった。
既に資料の一部として載っている以上、彼の名は覚えていて当然だろう。彼女の辞書に忘却という文字はないのだから。
「実は私、貴方に興味があるんです」
「随分と唐突な話だな」
適当に苦笑いを交えると、それに対応するが如く、阿求はクスクスと笑った。
「正確には半人半妖に興味があるといったほうがいいですかね」
てっきり勘違いをしていた彼を見透かすように、阿求はもう一度笑った。
「半人半妖……確かに、珍しい存在ではあるかもしれないね」
「珍しいということはそれだけ資料が少ないということです。貴方の体験談でも推測でも何でも構いません。そのために協力していただけないでしょうか? その分、こちらも何らかの条件を呑ませて頂きます」
脳がチリチリと疼く。その理由は彼には分からない。
体験談に近いものといえば、最近になって書き始めた日記がある。
自分の想いが綴られてあるだけあって、なかなか恥ずかしいものではあるが、別に何かが減るわけでもない。
稗田家の素晴らしい資料に貢献出来るなら、それだけで立派な名誉ではないだろうか。こちらが呑んで欲しい条件は何一つない。
「日記とか、そういうものでも構わないのかな?」
「日記はその人の体験だけでなく、想いや心の具現化でもあります。それは資料となんら変りありません。それでは、それをお貸し頂けないでしょうか? 出来れば、私が生きている間に」
「近いうちに、またここを訪れるよ」
阿求はもう一度頭を下げると、その場に立ち上がった。彼が帰ることを見越してのことだろう、玄関へと催促した。
先程、彼は帰ろうとして阿求と衝突した。その際、彼の行動を読み取ったのであろう。
彼を玄関まで送ると、阿求はもう一度深く頭を下げた。
腰痛にならないのだろうかと余計な心配をしつつも、彼は屋敷を後にした。
太陽はそれなりの高度を持ち、すっかり日照りが強くなっていた。が、自然と汗は掻かなかった。湿度の関係だろう。
屋敷を出ると外に人は殆どなく、変わりに周囲の家からは様々な匂いが飛び交っていた。それは今がお昼時だということを暗に告げていた。
遠目に、香霖堂が見える。意識してみると、ますます香霖堂の汚さが目立つ。
やはり、掃除をしなければ。そう決心し、彼は帰路を沿っていった。
遠目に、女性の姿が見える。目を凝らしてみると、女性の姿は鈴仙だった。
玄関の前に立ち尽くし、何度か自分の髪を撫でている。
何か忘れ物でもしたのだろうか。鈴仙の存在を疑問に思いつつも、ふと思い立った。
彼女は他ならぬ月の兎、月面戦争のことも知っているはずだ。ここは是非とも、話を聞いておきたい。
霖之助はそんな想いに頭を膨らませながら、彼女の元へと歩んでいった。
予告 香霖はフラグクラッシャー
伏線的なものがちらちら見えて、続編が楽しみですよ。
このことが物語の主軸となるのかな?
そして前回と同じく霊夢のヒロイン率が高い
いいぞもっとやれww
今回は人とのかかわりが若干少なめだな
そのうえフラクラ香霖と聞いては悶えずにはいられません。
次も楽しみにして待たせてもらいます。
次の作品も楽しみにしてます。
続き、待ってますw
propranololは脈拍と血圧を下げる薬で、このような効果は期待できません。副作用として記憶が不明瞭になる可能性のある薬剤は存在しますが、いずれにしてもpropranololではないです。
えーりんの手に掛かってなにやら変性を起こしてるのかも知れませんがwできれば脳に作用する薬のほうが説得力があるんじゃないかなぁw
×粘着質 ○粘性のあるor粘液性の