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雨が降っていた。
今日で一週間連続。まるで世界を洗い流してしまうかのように降り続くその雨に、止む気配は全く感じられない。静かに音色を響かせ続けるそれに溜め息を吐きつつ、私は自室を出た。
「全く……」
吸血鬼にとって、梅雨と呼ばれるこの時期はとても憂鬱だ。日差しは傘で防ぐ事が出来るけれど、流水の一種である雨の中は、例え傘を差していても歩き回る事が出来ないからだ。
幻想郷の――というより、日本という国の気候に嫌気が差しつつも、私は図書館へと向かう。お茶の準備を任せた咲夜よりも先に着ければ良いな、なんて事を考えながら歩いて行き……雨音では誤魔化せない廊下の静かさが耳に付いた。
紅く広い廊下には私以外の姿は無い。微かな雨音だけが聞こえるこの状況は、まるで古い過去の時代を彷彿とさせる。当然のようにメイド達の姿も無く、真っ直ぐに伸びる廊下は終わりのない迷宮の入り口のようだ。
とはいえ、メイド達が姿を消しているのには理由がある。
この紅魔館で働いているメイド達の大半は妖精であり、つまり自然の権化だ。そんな彼女達が雨の恩恵を黙って見ていられる訳が無く、あれよあれよという間にその全てが紅魔館から姿を消してしまっていた。
その結果、屋敷には咲夜や美鈴といった、私を主として認めている者達しか残っておらず……そこに妹達を含めても、屋敷に残っているのは十人程度といったところだろう。
これでは屋敷の中で騒ごうにも人数が足りな過ぎる。以前から頭を悩ませていた事態だけれど、でも、私は今すぐに対策を練ろうとは思っていなかった。
「……幻想郷にも馴染んだしね」
スペルカードというものを当たり前に使うようになったし、幻想郷の緩やかな空気や、人間達と馴れ合う事にも慣れた。その証拠に、今では血よりも紅茶を飲む回数の方が多くなってしまっている程だ。当然種族としての本能があるから、その比率が完全に紅茶へと傾く事はないけれど、それでも私はこんな生活を気に入っていた。
恐らくはそれが、博麗の巫女の――霊夢の力なのだろうと、そんな風に思う。
本来吸血鬼は人間を襲わねば生きられない存在だ。けれど、スペルカードルールによって人間と対等の勝負が出来る立場になってしまった今、人間はただの食料という扱いではなくなり、それ以上の価値を持つ存在になってしまった。
そしてそれは、他の妖怪達にとっても同じ事なのだ。だから彼等は人間を襲う事はあっても喰らう事は少なくなった。平和解決のルールが、結果的にその壁を取っ払ってしまったのだ。
それを日和ったと見るのか、落ち着いたと見るのかは解らない。
「でもまぁ……」
指先から蝙蝠を一匹生み出し、暗い廊下へと羽ばたかせながら思う。
「悪い事じゃあ、無いわよね」
過去。人間を襲い、襲われる事が当たり前だった時代には、こうやって一匹の蝙蝠を飛ばしておくのが癖になっていた。
例え人間に白木の杭を打たれようと、銀の銃弾を撃ち込まれようと、吸血鬼は蝙蝠の一匹が生きていれば復活を果たす事が出来る。そうすれば屋敷を護る事が出来て、妹を護る事が出来た。だから、吸血鬼として、姉として、私はいつもそうして予防策を取っていた。
どれだけ繁栄しようとも、夜の眷属は人間によって淘汰される――その事実を、嫌という程に知っていたから。
「……」
と、そんな事を考えながら歩いている内に、目的地である図書館へと辿り着いていた。
重く厳重に閉ざされた図書館の扉を少しだけ開き、湿気対策が何重にも何重にも施されて逆に乾燥し過ぎた為に今度は乾燥対策を始める羽目になったらしい図書館の中を覗くと、お茶用に用意されたテーブルを前に、ちょこんと椅子に腰掛けながら本を読むパチュリーの姿が見えた。
どうやらまだ咲夜は来ていないらしい。『先に着いた』というちょっとした事で心が弾むのを感じながら、私は図書館の扉を大きく開き、「やぁパチェ、遊びに来たよ」と告げようとし――
「お茶の準備が整いました。お嬢様」
目の前には咲夜が居て、テーブルには一瞬前まで無かったティーセット。
ちょっと悲しくなった。
■
「では、失礼致します」
その言葉を残して咲夜が図書館を去り、パチュリーと二人きりでのお茶会が始まる。廊下とは違ってこの図書館の中には雨音という耳障りな雑音は無くて、その静けさが心地良い。
私はカップの中で揺れる琥珀色の液体を眺めながら、咲夜は色々とお茶の知識を持っているな、なんてどうでも良い事を考える。今飲んでいるこのお茶は果物の香りがして、砂糖を入れていないのに、何故かほんのりと甘さを感じる。血液の甘美さにはほど遠いけれど、これはこれでとても美味しい。
と、パチュリーが読んでいた本から私へと視線を向け、
「……幸せそうね」
「そう見える?」
「そう見えるような顔をしているわ」
そう言って魔女が微笑む。何さ、そう言うパチェも同じような顔をしているよ。
「あら、そうかしら」
「ええ、そうよ。……で、パチェ。この雨、いい加減どうにかならないかしら」
「雨? ……ああ、まだ降っているのね」
確認しなくても解るのか、パチュリーはそう言って紅茶を一口。魔法使いは気質の変化に敏感だというから、天気がどうなっているのかすぐに把握する事が出来るのだろう。
とはいっても、感じるのと目にするのでは違いがある。ただ一口に『雨』といっても、霧雨から豪雨まで様々だ。だから私はここ一週間の具体的な天気と、美鈴予測による天気予報をパチュリーへと告げ、
「とまぁ、そんな感じでここ暫く雨みたいなのよ。だからどうにか出来ないかなぁって」
「そうだったの……って、あの子に天気予測が出来たなんて初耳だわ」
「私もよ。なんでも大気の『気』を見るって言ってたわ。天『気』は気質が変化したあとの結果だから、その前の大『気』を見るんだってさ。咲夜曰く、命中率は八割五分」
「へぇ。結構信じられる数値ね」
でも、完璧じゃないのが彼女らしい。そう言ってパチュリーは笑い、しかしすぐに思案顔になると、
「雨をどうにかする、か……。レミィも難しい事を言うわね」
雨雲を生み出すのなら兎も角、それを消し去るというのは問題が多くあるらしい。存在するものを消し去るというのは、確実にどこかでその皺寄せが生まれるものなのだという。
パチュリーは暫く無言で何かを考え続け……そして、何か思い付いたのか、背後にある空間にへと視線を向け、
「小悪魔」
「……なんですかー」
言葉と共に、魔女の視線の先に一人の少女が現れた。美鈴よりも深く暗い紅髪を持ち、私のそれと似たような翼を持った彼女は、少々面倒臭そうな視線をパチュリーに向け、
「現在私は図書館の湿気指数平均化運動の真っ最中なんです。余計な仕事は自分でやってください。――あ、レミリアさん、ごきげんうるわしゅう」
最後は私へと視線を向けて小悪魔が言う。そんな彼女に挨拶を返していると、パチュリーが紅茶を一口飲んでから、
「余計じゃないから貴女を呼んだの」
「じゃあ、その余計じゃない用件を簡潔にお願いします」
「以前レミィ用に準備した魔道書を持ってきて頂戴」
「あー、あれですか……」
そう言って小悪魔が地面に降り立ち、そして優雅な動きでパチュリーの紅茶へと手を伸ばし、それを一口飲んでから、「あ、美味しい」と小さく呟き、
「解りました。その代わり、後で私にもこのお茶を淹れてくれるよう、咲夜に言っておいてください」
「解ったわ」
「じゃあ、五分ぐらいで戻ります」
最後に付け合せのクッキーを口に放り込んで、小悪魔が音も無く姿を消した。その、昔から変わらない二人のやり取りに笑みが浮かぶのを感じつつ、私は友人へと問い掛ける。
「何か方法があるの?」
私の問いに、しかしパチュリーは少し自信なさげに、
「まぁ、あるにはあるのよ。でも、それを実行するかはレミィ次第」
「何故?」
「プライドの問題、と言った所かしら。実はね、『種族としての特性や能力を失わせる魔法』というものがあるの」
なにそれ、と言葉を返す私に、パチュリーは残り少なくなった紅茶を飲み干し、唇を軽く湿らせてから、
「小悪魔が持ってくる魔道書を読めば解ると思うけど……その魔道書を記した人物は、自分とは違う種族の相手に想いを寄せていたらしいの」
それは遠い遠い昔話。
かくも儚き、悲哀のお話。
「……まぁ、この日本という国では有り触れた話なのかもしれないけれど」
「そうなの?」
「ええ。昔から、この国では獣を妻として迎え入れた男性が多く居たらしいわ。初めは人間の姿をしているから気が付かないのだけれど、その正体が発覚すると、妻は獣の姿に戻って家を出てしまう。それに気付いた夫は、相手が獣だと解っても、再び戻ってきて欲しいと望んだ――と多くの書物に残されていたの。そして、中には獣との子供を育てた男性も居るくらいなのよ」
「……流石に嘘よね」
「嘘じゃないわ。この国の古い術式に陰陽道というものがあって、その代表的な術者の一人に安倍・晴明という人物が居るのだけれど……彼の母親は狐だったという話なの。確か、葛の葉、とか言ったかしら」
その狐も他の話と同じように姿を消し、そして残された父は子供を育て上げたのだという。
「でも、その魔道書を記した人物が生まれた国は、日本のような文化を持ってはいなかったらしいの」
日本では獣を妻に迎える者が多かったとしても、場所によっては人化した獣など醜いモンスターでしかなく、忌み嫌われる象徴だった。そんな中で愛を貫こうとしたのだから、その想いは並々ならぬものだったに違いない。
しかし、種族の壁というのは厚いものだ。例え外見が似ていたとしても、その中身は全く違う。解りやすく、そして一番大きな違いは卵生か否かだろうか。そういった意味では、子供を成す事すら難しい種族もある。更には寿命や食生活、果てには生活サイクルから求愛の仕方など、その違いは多い。
でも、その人物はその愛を貫く為に行動を起こした。自分の為に、そして後に自分と同じ想いを得るだろう者達の為に。
「で、その結果生み出されたのがその魔法なのよ」
例えばそれを人間に使えば、その存在は人間としての能力を失い、妖怪へと変化する。
例えばそれを妖怪に使えば、その存在は妖怪としての能力を失い、人間へと変化する。
「過去に読んだ限りだと、術者の力量次第では幽霊でさえ人間に変質させる事も可能だと書かれていたわ。レミィのように半分死んでいるともいえる種族にも対応出来るよう、呪文を組み上げた結果の成果なのでしょうね。……まぁ、仮初の肉体を魔力だけで創り上げる訳だから、相応の時間と魔力が必要になるみたいだけど」
「つまり……どういう事?」
「つまり、レミィが――吸血鬼である貴女が、例え一時的とはいえその力の全てを失っても良いというのなら、この雨の中を自由に外出出来る。とまぁそういう事ね」
「一時的って、元に戻せるの?」
私の言葉に、パチュリーは「戻せるわ」と頷き、
「結局は魔法だから、その効力を失わせるか、私の魔力が尽きるか……まぁ、様々な要因ですぐに元に戻るわ。もし今すぐに魔法を発動させた場合、三日が限度といった所かしら」
「なに、その具体的な数字」
「私の体調と、湿気と、精霊のテンションと……あと、その他諸々を計算すると、三日程度しか魔法を維持出来ないの。準備をしっかりと行って良いのなら話は別だけれど……その場合、準備が終わる頃には梅雨は明けているでしょうね」
しれっと魔女はそう言って、けれどすぐに真剣な表情を私へと向けると、
「でも、例え三日といえど、レミリア・スカーレットはただの人間になってしまう」
「だからプライドの問題、と言った訳ね」
「ええ、そういう事。あとは、紅魔館の防衛上の問題もあるけれど……まぁ、これはどうにかなるわね。解呪は一瞬で終わるから、咲夜にここへ連れて来て貰えば問題ないわ。というか、霊夢辺りが潰しに来ない限り、美鈴を越える事すら出来ないでしょうけれど」
「ウチの門番は優秀だからね」
まぁ、今頃くしゃみでもしていそうだけど。そんな風に思いながら、私はどうしようかと考えていく。
と、考え始めて気付いた。この瞬間、一瞬でも『人間になっても良いや』と思っている時点で、自分はかなり変わったんだな、と。
以前のレミリア・スカーレットならば、試しに人間になってみても良いかな、などと一瞬でも思う事は無かっただろう。だからパチュリーもその魔道書を仕舞いこんでいたに違いない。
でも、今は違う。妖怪が人間を襲い、人間が妖怪を討伐する、という状況自体が形式的なものに変化してしまっている今の幻想郷において、そういったプライドに囚われている必要は無いだろうと気付いているからだ。
だから、
「試しにやってみるわ。遠出をするつもりは無いし、危険は無いだろうから」
そう答えた私に、対する魔女は少し驚きを浮かべてから、すぐに柔らかく微笑んで、
「レミィも変わったわね」
「そうかしら――って、勘違いしないでよ? 私は別にプライドを捨てようと思っている訳じゃないわ。何事も経験してみないと、と思ったのよ」
幻想郷にやって来てからの私は、霊夢を初めとした色んな存在と出逢って、戦って、そして視野が大きく拡がった。この幻想郷では、例え吸血鬼であろうと特別では無いと、この身を持って知ったのだ。それなのに「私ったら最強ね!」なんて思い込んでいるようでは、湖にいる妖精と変わらない。
という事で、私、レミリア・スカーレットはちょっと人間になってみる事にしたのだった。
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パチェが魔女らしく魔法を唱えようとしている姿を見るのは久々だ。
そんな事を思いながら、私はテーブルを片付けて出来たスペースに立っていた。その正面にパチュリーが立ち、小悪魔が探し出してきた魔道書を広げている。彼女は深くゆっくりと呼吸を繰り返しながら魔道書へと目を通していき――そして、詠唱を始めていく。
「――人の形は偽りの形。偽りの形は人外の形。人外の形は人の形。零と無限を混合し、世界の形を読み解き記す。夢と現を配合し、目覚めの希望を叶えて示す。生と死とを融合し、現世の理(ことわり)黄泉へと還す」
最近ではスペルカードを使う事が多いから忘れかけていたけれど、パチュリーの詠唱は少しゆっくりだ。まるで歌の旋律のように響くそれが、少しずつ七色の魔力を帯びていく様は美しいの一言に尽きる。
そして、七色の旋律は七つの小さな魔方陣を創り上げ、それらは互いに共鳴し反響し増幅し合いながら一つに纏まり、その呪文に籠められた意味や想いを高めていく。
「――色を切り取り移し変え、その存在を組み替える。肉を切り取り移し変え、その限界を入れ替える。変化の理、断罪を断り、我求めるは可変の異なり」
詠唱が続くにつれ、魔法の対象者である私の周囲にも少し変化が起こっていた。パチュリーが創り上げる魔方陣と同じものが背後にも現れ、その間に挟みこまれる形となっているのだ。
そして――
「生まれ出でよ選択肢。失われたその可能性を解き放ち、新たな姿を顕現させよ!」
――魔法が完成する。
紡がれた言葉がその魔道書に籠められた意味を開放し、魔力で組み上げられた法則が世界の理を組み替える。そして、前後に生まれていた魔方陣が私の体へと近付き始め――二つのそれに挟み込まれたその瞬間、全身が裏返るような奇妙な感覚と、強烈な脱力感に襲われ、私は思わず片膝を付いた。
同時に、周囲にあった照明が消え失せてしまったかのように、急速に世界が暗さを増していく。一体何なのだろうかと思いながら軽く頭を振り、不快感を振り払いつつ立ち上がると、すぐ正面に魔道書を抱えたパチュリーがやって来ていた。
「気分はどうかしら」
「……暗い」
「え?」
「図書館が暗いわ。照明を落としてしまったの?」
目を向けた先。まるで光量が半分以下になってしまったかのように、図書館全体が暗く沈んでいる。さっきまではその奥までしっかりと見通す事が出来たというのに。
突然の状況に困惑する私に対し、パチュリーは少し苦笑しつつ、
「いえ、さっきのままよ」
「嘘。こんなに暗くは無かったわ」
そう食って掛かろうとする私へと、パチュリーは先ほどまで詠唱に使用していた魔道書を指で軽く突き、
「レミィ、今の貴女は人間になっているの。夜目の利く吸血鬼と違って、人間の視界というのはとても狭いものなのよ」
「あー……そういう事、か。つまり、これが咲夜や霊夢が見ている世界なのね」
「ええ、そうよ」
つまり照明が落とされた訳ではなく、元々この図書館はこの暗さだったという事だ。吸血鬼である私にとって、夜の暗さや闇の深さに対しての恐怖はないけれど……実際に夜目が聞かなくなってくると、これらに恐怖を感じてしまうのも解るような気がした。
「あれね、親しかった相手に突然裏切られたような気分ね」
それに、以前ならば図書館に保管されている魔道書の数々から魔力を感じる事が出来たのに、今ではそれを感じられない。当然、目の前に立つパチュリーからも魔女らしいオーラを感じられなかった。彼女はそう、なんだか病弱そうな少女にしか見えなくて――って、これはいつもの事か。
世界の暗さ、静けさ、気配……周囲の様々なものが興味深く見える中、取り敢えず椅子に腰掛け直して紅茶を飲むと、その美味しさは変わっていなかった。それに何か奇妙な嬉しさとくすぐったさを感じていると、不意に図書館の扉がノックされ、静かに扉が開き、
「失礼します。ケーキが焼き上がりましたのでお持ちしました」
と、しっかりと挨拶をして、小さなバスケットを持った咲夜がやって来た。彼女はそれをテーブルへと置くと、こちらをちらりと確認し、そして疑問符を浮かべ、
「……パチュリー様、お嬢様はどこに?」
ん? 咲夜は一体何を言っているんだろう。
「それと、この女の子は誰なのでしょうか」
「ちょっと、咲夜!」
「はい! って、あら?」
くるりくるりと、メイド姿が周囲を見回す。私は椅子から降りると、そんな彼女の正面に立ち、
「『お嬢様の声がしたのにそのお姿が見えません』、なんていうボケは認めないわよ!」
私の言葉に、咲夜がきょとんとした顔をした後、
「あの、貴女、どうして私の名前を……?」
駄目だ、埒が明かない。
「パチェ、説明!」
面白そうにくすくすと笑っていた魔女は、私の言葉に「はいはい」と答えてから、
「咲夜、彼女は……いえ、彼女がレミィよ」
「……パチュリー様、ご冗談はお止めください」
何だって?
「確かに彼女はお嬢様にそっくりですが、お嬢様は彼女のように健康的な肌をしておりませんし、髪の毛の色は茶色ではありません。それに彼女の目は青く、長い犬歯も見られません。あと、あの禍々しい魔力も感じられませんし……」
と、言いながら少しずつ不安になってきたのか、こちらの様子をちらちらと確認しながら咲夜が言う。しかし、最後の一言だけは断言するように告げた。
「それに、彼女には羽がありません」
「嘘」
思わず声が出て、私は普段の調子で背中にある羽を動かそうとして――普段なら動く筈の筋肉が動かないような、気持ちの悪い感触がして、軽く血の気が引くのを感じた。
一気に焦りが拡がるのを感じつつ、慌てて背中へと視線を向けると、そこには椅子やテーブルが見えるだけで肝心の羽が見当たらない。
焦りは止まらず、あわあわと背中を確認する私に、「レミィ」とパチュリーの声が掛かった。
「落ち着いて。……というより、実際に見てもらった方が良いか。咲夜、手鏡はあるかしら?」
「あ、はい、ここに」
咲夜から手鏡を受け取ると、魔女が何事かを呟き――次の瞬間、それを拡大したかのような巨大な鏡が正面に現れた。魔法って凄い。
「レミィ、貴女は今、吸血鬼としての力を全て失っている状態にあるの。つまり、ただの人間。闇を見通す眼は失われ、特徴として持っていた鋭く伸びた犬歯も、闇を切り裂く羽も、岩をも砕く腕力も、風を超える俊足も、霧化も犬化も蝙蝠化も出来ない」
「犬じゃなくて狼。でも、本当だわ」
だってそう、私の姿が鏡に映っているのだから。
「……私、こんな顔してたんだ」
それは感動にも似た感覚で。ぺたりぺたりと自分の顔に触れてみるその姿は、咲夜の言うように茶髪でちんちくりんな女の子だった。口の中を見てみると、犬歯も人間のそれと変わらない。紅いと言われてきた目は深い青色をしていて、睨みつけてみても迫力が無い。
でも――吸血鬼としての姿では無いにしろ――これがレミリア・スカーレットという存在の姿。思っていた以上に可愛らしいその姿に、ちょっと安心している自分がいた。
と、そうやって鏡と睨めっこを続けていると、珍しく困惑した表情をした咲夜が背後に立っている事に気付いた。私は鏡越しに彼女へと視線を向け(こんな事が出来る事にも感動しつつ)、
「パチェの魔法でこの姿になったのよ。ほら、雨だし、遊べないし」
「そうだったのですか……。先程は申し訳ありませんでした」
そう言って咲夜が深く頭を下げる。けれど、まだその表情には困惑の色が残っていた。
でも、今の自分の姿を見る限りそれも仕方ないかとは思う。血で汚れていない白いドレスを着るその姿は、どこをどう見ても普通の人間なのだから。
「でも、これで雨の中も大丈夫になったのよね?」
改めて確認するようにパチュリーへと問い掛けると、彼女は椅子に腰掛けてから、
「ええ、大丈夫よ。雨の中だろうと日光の中だろうと、今のレミィなら自由に活動出来るわ。……だけど、一つ忠告をしておかなきゃ」
「忠告?」
「ええ。何度も言うようだけれど、今のレミィはただの人間。運命を操る力も無い、ひ弱な存在なの。まぁ、弾幕ごっこぐらいなら出来るでしょうけれど、本気の勝負は出来ないと思った方が良いわ。何せ、その体にある魔力は吸血鬼だった頃の百分の一……いえ、もっと低いのだから」
「そ、そんなに低いの?」
いくらなんでもそれは弱くなり過ぎでは無いだろうか。そう思っての問い掛けに、しかしパチュリーはこちらを見据え、
「逆に聞くわ。吸血鬼は、人間の百倍程度の力しか持たないの?」
「そんな訳……って、そういう事か」
「そう。レミリア・スカーレットという吸血鬼の持つ力が強大だった分、今の貴女は本当に弱くなってしまっているの。だから、以前のスペルを扱う事が出来てもその威力は人間並みになってしまう」
それはつまり、圧倒的な力で相手を捻じ伏せる、という吸血鬼らしい戦いが出来ないという事だ。
「解った、肝に銘じておくわ。まぁ、戦う事は無いでしょうけれどね。……それじゃあ咲夜、ちょっと探検に行くよ」
「畏まりました、お嬢様」
そう答え、軽く頭を下げる咲夜を引き連れて、私は薄暗い図書館を後にした。
2
図書館の扉が咲夜によって開かれた瞬間、まるで待ち構えていたかのように、外に充満していた空気に抱き締められた。
強く感じる夏のにおい。そして全身に纏わり付いてくるような蒸し暑さに、私は廊下へと出ようとしていた足を思わず止め、
「……蒸し暑い」
人間というのは温度変化に弱いのか、息苦しさを感じるほどの暑さに思える。けれど咲夜は慣れたものなのか、静かに扉を閉めながら、
「梅雨時というのはそういったものですわ。それに、今日はまだ涼しい方です」
「嘘」
「嘘ではありません。本来なら、この時期はもっと蒸していますから」
そして梅雨が明ければ、夏という更に暑い季節がやって来る。いくら吸血鬼の体が温度変化に強いと言っても限度があるし、そりゃあ霧でも出して日光を遮りたくもなるというものだ。
「でも、まだ何か奇妙な感じが致しますね」
何が? という言葉と共に視線を上げれば、咲夜がこちらを見てた。どうやら表面上は普段の瀟洒さを取り戻しているけれど、まだ少し疑念が残っているらしい。
「いえ、疑っている、という訳ではないのですが……やはりこう、今のお嬢様からは普段の禍々しさが感じられませんので」
「そういえば、さっきもそんな事を言っていたね」
屋敷の裏手へと向けて歩き出しながら、図書館での会話を思い出す。私自身には自覚が無いけれど、人間である咲夜には何か感じられるものがあったのだろう。
「でも、その禍々しさが無くても私は私よ」
「はい、解っております。ですから今は、お嬢様がとても可愛らしく思えますわ」
うわぁ、突然何を言い出すこのメイド。そう思いながら咲夜を改めて見ると、そこには年上のお姉さんぜんとした優しい微笑みがあった。恐らくこれは庇護欲に目覚めた顔だ。間違いない。
吸血鬼――妖怪が持つ禍々しさというのは、彼等が人間を越えた存在だからこそ持つ気配やオーラのようなものだ。それは人間達に恐怖を生み出させ、恐れや畏怖を与える力となる。だからこそ妖怪は存在するだけで人々から恐れられるようになった。ビジュアル的な恐怖以上に、心の奥へと染み行って来る感覚が、人間達の弱い精神を揺さ振ってきたのだ。
けれど、今の私からはその禍々しさが、恐怖を感じさせるような気配が出ていないのだろう。まぁ、その気配があった所で今の咲夜には通じないのだろうけれど、それでもレミリア・スカーレットとしての威厳は保てた筈だ。図書館で「あの女の子は誰なのでしょうか」なんて質問を受ける事も無かっただろう。
咲夜からしてみれば、今の私は『小さな女の子』でしかないのだ。こうなってしまったが最後、主としての威厳が一気に下がってしまったに違いない。どうにかこれ以上彼女に甘く見られぬよう、私は胸を張ってずんずんと歩いていき――ふと、この体でも空を飛べるのだろうか、という疑問が湧いた。
今までは羽を動かし、全身を包むように魔力を形成する事で体を浮かせていた。けれど、今の私には肝心の羽が無い。それでも魔力の全てが消えて無くなっている訳ではない以上、恐らく空を飛ぶ事は出来るだろうと思えた。
「……うーんと」
足を止め、イメージする。
今は羽が無いけれど、それを動かし、全身を浮遊させるイメージ。
「んー」
「……」
「ん、んー」
「……」
「……」
「……」
「……この、このっ」
「あの……お嬢様?」
「ていっ、むんっ」
「……」
咲夜の目線で見れば、廊下の真ん中で急に立ち止まった女の子が、突然背中を丸めたり伸ばしたりしながら、一生懸命ぴょんぴょん飛び跳ねている様子が窺えるだろう。
しかし当の私本人からしてみれば、ありもしない羽を羽ばたかせて飛ぼうと懸命になっているので、今の自分がどんな醜態を曝しているのか気付けない。
そうして暫くの間、私は小さくぴょんこぴょんこと飛び跳ね続け……
「……やっぱり無理か……。って、あれ、咲夜?」
後ろを振り向いてみると、背後に仕えていた筈の咲夜が居ない。一体何処に行ったのだろうかと思った瞬間、外で何か物音がした。一体何だろうかと、見えてきた窓の一つに近付いていこうとして――背後に気配。見れば、何事も無かったかのような姿で咲夜が立っていた。
「すみませんお嬢様、不埒者を排除しておりました」
「不埒者?」
「はい。烏が一羽、屋敷の中へと入り込もうとしておりまして」
そう事も無げにいって、十六夜・咲夜は瀟洒に佇む。そのメイド服は一切雨に濡れておらず、外に出てきた事すら感じさせない。時間を止められる為か、彼女はそういった所も決して気を抜かないのだ。
私はそんな咲夜を褒めたあと、最後にもう一度ぴょこんと飛び跳ねて――やっぱり飛べなくて。肩が落ちるのを感じながら、再び廊下を歩き始めた。
■
雨の音を聞きながら、紅く伸びる長い廊下を歩いていく。交わしていく会話は普段通りの世間話で、でも眼に入る風景の違いからか、なんだか少し楽しくて。
そうして私達は屋敷の裏手へと進んで行き……不意にある事を思い付いた私は、廊下の真ん中で再び足を止めると、
「咲夜、ちょっと空間を拡げて」
「畏まりました。広さは如何致しましょう」
「一部屋分ぐらいで良いわ。ちょっと自分の力がどんなものか気になってきたの」
パチュリーに散々注意されたとは言えど、『流石にそこまで弱くなってはいないだろう』という思いが私の中にはあった。だからこそ、外に出る前に一度自身の状態を調べておこうと思ったのだ。
そうして咲夜が頷いた次の瞬間には、目の前に開けた空間が一つ出来上がっていた。解りやすく説明すれば『中』という文字の形に廊下が拡がったような感じだ。
私はその中央へと進み、「まずは、っと」進んで来た方向とは逆。玄関ホールへと続く廊下へと視線を向け――そこにある闇を射抜くように目を細め、必殺の槍を召喚する。
「――グングニル」
広げた掌の先。呼び声に答えて現れた真紅の神槍は、まるで普段と変わらぬ姿でそこにあった。それがいつもよりも神々しく感じるのは、今の自分が人間だからだろうか。複製したものとはいえ、元々は戦神が扱っていたものだし。そんな事を思いつつ、私はその柄を掴み、
「なんだ、大丈夫じゃな――って、重ッ!!」
瞬間、その重さに思わずグングニルを床に落としそうになった。両手を使えばどうにか持っている事は出来るものの、これを投げるのは無理がある。
「お、お嬢様、大丈夫ですか?」
「へ、平気よこのくらい。でも、グングニルはちょっと重いから無しね」
咄嗟に支えに入った咲夜の目線から逃げるように顔を逸らしながら、普段の要領でグングニルを送還し――かなりの魔力を消費している事に気が付いた。
例えば、普段グングニルを召喚する為に角砂糖一つ分の魔力を消費しているとしたら、今ので角砂糖十年分ほどの魔力を使ってしまったのだ。
「……自分でも良く解らない例えね」
とはいえ、それは私にとってかなりの衝撃で――けれど咲夜が居る手前それを表情に出す事は無く、私はそのまま次のスペルに移る事にした。
でも、このまま続けて魔力を消費すれば倒れてしまいかねない。流石にそれは恥ずかしいので、私は普段使用しているスペルカードを取り出しながら、心配げな表情で立っている咲夜へと向き直り、
「今からスペルカードを使ってみるわ。全力で行くから、全力で避けなさいね」
「畏まりました、お嬢様」
言葉と共に咲夜が距離を取る。暗い廊下の中であまり遠くに行かれてしまうと少し心細くなって来てしまうのだけれど、自分から全力で攻撃すると言ってしまった以上引き止められない。今後はもっと廊下の照明を増やそうと心に決めながら、右手に持つカードを発動させる鍵を読み上げた。
「レッド・マジック!」
宣言と共にカードに籠められたスペルが意味を持ち、弾幕という形を持って展開する。それはまるで世界を霧で満たすかのように、周囲を紅い弾幕で埋め尽くしていく――筈が、生まれ出た弾幕はあまりにもひ弱だった。
それはまるで本来存在しないイージモード。見ているこっちが『ごめんね』と謝りたくなってくるぐらい簡単に回避出来る弾の霧の中を、私の威厳を失わせまいと咲夜が必死に弾の濃い部分を選んでは回避していく。
そうして約百二十秒後、私と咲夜の間に残ったのは何とも言えない空気だけだった。嗚呼、弾幕と一緒にこんな空気も消え失せてしまえば良いのに。
「あ、あの、お嬢様、その……」
「……何も言わないで、咲夜。フォローされると逆に辛いわ」
スペルを放った瞬間、それに振り回されるかのような、自分の力を上手く引き出せないかのような違和感があった。それは吸血鬼レミリア・スカーレットが扱う為のスペルカードを人間が扱ったからこその違和感だったのだろう。
でも、これなら確かに吸血鬼だった頃の百分の一以下の力しかないのも頷ける。そして同時に、ここまでひ弱な存在に追い詰められ、殺されそうになってきたという事実になんとも言えない気持ちになる。
「人間って凄いわね……」
たったこれだけの力で、自分よりも遥かに強大な存在に立ち向かえるなんて。そこにある勇気や決意といったものは、妖怪の想像を超えている。
と、そんな事を思っていると、
「ああ、人間ってのは凄いもんだ」
何気なく呟いた言葉に返事が返ってきた。聞き覚えのあるその声に視線を向ければ、箒に跨った霧雨・魔理沙の笑顔があった。
彼女は振り向いた私へと視線を向けると、少し不思議そうな顔をしながら、
「――っと、すまん、レミリアだと思ってたんだが違ったようだ」
暗くて見間違えたみたいだ。そう呟いて、魔法使いが軽やかに着地する。そこに拡がる星々の煌めきに『ああ、魔理沙の魔法は人間の目から見るとこうも綺麗なものなのか』と感心していると、不思議そうな表情した彼女の顔が目の前に迫っていた。
「しっかし、レミリアに良く似てるな。なぁ咲夜、コイツは一体誰なんだ?」
「お嬢様よ」
「へぇ、遂に紅魔館の主人が変わったか」
冗談とも本気とも付かない様子で、魔法使いが小さく笑う。そんな彼女へと思わず蹴りを放つと、しかし彼女は軽々とそれを回避し、落ちそうになった帽子を押さえつつ、
「冗談だよ、お嬢様。魔法使いである私が、そこまで強い魔法に気が付かない訳がないだろ?」
「良く言うわ。十年そこらしか生きていない人間の癖に」
「知識は量より質だぜ」そう言って、普段は力任せの魔法しか使わない幼い魔法使いは帽子を被り直し、「でも、どうしてそんな姿になったんだ? パチュリーと喧嘩でもしたか?」
「まさか」
少々大仰に言ってから、パチェが用意した魔法について説明していく。
「ちょっと雨の中を歩いてみたくなったのよ。でも、吸血鬼の体じゃ外に出られない」
「だから魔法で細工をした訳か。面白い事をするもんだな」
納得と、そして少しの驚きを持って魔理沙が言う。そこにあるのは純粋な好奇心だろうか。本来強者である妖怪が、食料である人間になってみたという事への興味。
けれどそれは、狩られる側の思考に過ぎないと私は思う。人間は妖怪が自分と同じ位置に下がってきた事に何か特別な意味を求めるのかもしれないけれど、当の妖怪からしてみれば、それはただの暇つぶしにしか過ぎないのだから。
とはいえ、こういった状況にならなければ、そうした認識の違いに意識が向く事もなかった筈で、
「なんだか視野が拡がった気がするわ」
「そりゃあ良かった。まぁ、適度に楽しんでくれ」
箒に跨り、そして最後に私の頭を軽く撫でてから、魔法使いが空へと浮かぶ。まるでこちらを子供扱いするかのようなその行為に、何か文句の一つでも言ってやろうかと思ったけれど、意外に不快な感じがしなかったので止めておく事にした。……あとで咲夜にもやってもらおうか。
と、そんな事を思いながらいると、背後に仕えていた咲夜が一歩前へと出ながら、
「待ちなさい、魔理沙。暫くの間、部外者の図書館への出入りは禁止しているの」
優しさ半分、鋭さ半分で響いたその声に、動き出そうとしていた魔理沙の動きが止まり、
「おいおい、今更何でだよ」
「『図書館は現在湿気対策中なのよ。だからその最中に本の数が減ったり、その位置が大きく動いたりすると、調整をやっている小悪魔に負荷が掛かる。そうなると私への小言も増えるから、鼠は必ず捕まえて頂戴』」
と、図書館に籠る魔女のように少し早口で言ってから、
「――そうパチュリー様に仰せ付かっているのよ。だから、湿気対策が必要なくなるまで図書館には立ち入り禁止」
「けちー。去年までは大丈夫だったじゃないか」
「去年は去年。今年は今年よ。あとで紅茶を出してあげるから、それで我慢して」
こうして見ていると、咲夜がお姉さんで、魔理沙が妹みたいね。そう思いながら二人の様子を眺める私の前で、悪ふざけの好きな妹がにやりと笑い、
「……でも、そう言われると行きたくなるのが人情ってもんだろう?」
言葉と共に一気に高度を上げると、周囲に魔方陣を生み出し始めた。咲夜はその様子に「全く、困った子ね」と小さく漏らしてから、
「お嬢様、下がっていてください。魔理沙を止めてまいりますので」
その言葉に、「私も手伝おうか?」と告げようとした瞬間、彼女の姿が忽然と消え失せていた。そしてそれを把握した時には、上空に気配が二つ。
見れば、弾幕ごっこが始まっていた。
■
星の光を切り裂くように、銀のナイフが放たれる。
増えるナイフを潜り抜け、煌めく魔法が放たれる。
夜を見通せず、闇を感じ取れず、運命を視る事すら出来なくなった人間の瞳に映るその風景は、普段当たり前のようにやっていた弾幕ごっことはまるで違ったもののように思えた。
そもそも『弾幕ごっこ』という勝負自体、無駄に煌びやかなものだ。けれど私はそこまで輝かしい色の弾やスペルを使う事が無かった為か、本来目的とされた『美しさ』というものを見失っていたらしい。
暗い廊下の中で放たれる魔理沙の魔法はどこまでも美しく光り輝き、力強い。そして何より、魔理沙本人が弾幕ごっこを楽しんでいるように見えて、私は一人感心する。どんな異変にも自分から飛び込んでいくだけの実力がある訳だ。ここまで肝が据わっているのなら、相手かどれだけ強大な妖怪でも怖気づく事は無いのだろう。
だからだろうか。
「……咲夜」
私の咲夜が負けてしまうのではないかと、そんな事を思った。
紅霧異変の頃とは違い、咲夜の事は信用しているし信頼している。それでも、相手があの魔理沙となると分が悪いように思えて仕方が無い。その証拠に、次々と放たれる魔法と煌めく星々に、咲夜が次第に押され始めていた。
そろそろ何かスペルを使わなければ不味い。そう思いながら二人の戦いを見守る私とは対照的に、十六夜・咲夜は一切の焦りを見せていなかった。
それどころか瀟洒なメイドは小さく笑みを浮かべ――消えた。
刹那、魔理沙へと目掛けて複数のナイフが放たれた。密集しながら魔法使いに迫るそれはしかし一瞬の間にその進行方向を変化させ、不可思議な軌道を描きながら飛び回る。優位に立っていた筈の魔理沙はその不規則な動きに制空権を奪われ――その結果、時を止めながら様々な場所に移動し、十重二十重にナイフを放つ咲夜に対処し切れなくなっていく。
それはまるで、魔理沙の動きを咲夜が操っているかのようで。
操りドール。一瞬の間に繰り出されたその奇術のトリックに気付いた時には、既に魔理沙の手は詰んでいた。
「あ、」
と小さく声が上がる。それが私の上げたものなのか、魔理沙の上げたものなのかは解らない。けれど次の瞬間、魔法使いの正面に紅い目をした咲夜の姿があって、
「――」
一瞬、ほんの一瞬、そのナイフになら殺されても良いかもしれない、などと思ってしまうほど、それは恐ろしく美しいナイフ捌きで。
震えすら感じる刹那の後、勝負は決まっていた。
■
「その能力は反則だ」
「魔理沙の火力もね」
そう互いに文句を言いつつ笑い合うと、魔理沙は落としてしまっていた帽子を拾い上げ、それを軽く叩いてから頭に被り直した。そして「んじゃ、紅茶を楽しみに待つとするか」と苦笑交じりに呟いて、食堂の方へと少しフラフラしながら飛んでいく。
たくましいわね、と思いながらその後姿を見送り、そして背後へと視線を向ければ、そこには疲れた顔一つ見せていない銀髪の少女が立っていた。
「ねぇ、咲夜」
「なんでしょう、お嬢様」
周囲に散乱していた筈のナイフは、瞬きの一瞬で全て消え失せていた。例えこの体が吸血鬼のままだったとしても、咲夜がいつ時を止めたのか、もう判断する事は難しいだろう。それほどまでに彼女は完全なメイドになった。
その事実を再確認して――人間になっているからかもしれないけれど――少し、怖くなる。
彼女を『十六夜・咲夜』にしたのは、誰でもない自分だというのに。
「……私にも、あとで紅茶」
「はい、畏まりました」
柔らかく微笑んで、咲夜が軽く頭を下げる。『主を敬う』という視点で見ればその行為は減点なのだろうけれど、今の私にはその微笑みが何よりも嬉しく感じられたのだった。
3
そうして、紅魔館の裏手にあるテラスへとやって来た。
過去には密集する住宅地と巨人のようなビル群を臨むだけだったその場所は、今や深く鬱蒼とした森林と巨大な山々を眺める事の出来る場所へと変化している。その山々の中で一番背の高いのが妖怪の山で、その頂上は雨雲の上に隠れてしまうほどだった。
あれなら雷神すらも見下ろせそうね。そんな事を考えながら雨に沈む幻想郷を眺めていると、普段は気にする事の無い濃密な草木の匂いと濡れた土の香りに圧倒されそうになる。それは夜に感じるものよりも遥かに強い夏の気配で、まるで産まれて初めて外に出たかのような感覚がした。
蒸し暑さの中に奇妙な感慨深さを感じながら、私はゆっくりと裏庭へと続く短い階段へ近付いていく。
「お嬢様……」
背後から咲夜の心配げな声が聞こえて来る。私はそれに「大丈夫よ」と小さく答えてから、雨に濡れる手すりをそっと掴んだ。
「大丈夫、大丈夫。パチェの魔法なんだし、大丈夫……」
小さく呟きながら、ゆっくりと階段へと進んでいく。
そこに溜まった水を踏み、小さく水音が響き、しかしすぐに雨音に掻き消されていく。
「……良し」
気合を込める。
そう、怖がる必要なんて無い。直射日光に当たる訳でも、銀の弾丸に曝される訳でもないのだから。もし駄目だったとしても、動けなくなるだけ。だから大丈夫。大丈夫――!
「ッ!」
目を瞑り、飛び込んでいくかのように床を蹴る。
一瞬の浮遊感。
そして水溜りの中へと派手に音を立てながら着地して……思わず縮こまらせてしまっていた体をゆっくりと元に戻しながら、私はそっと目を開き、
「……なんとも、ない」
いつもなら体が重くなって動けなくなってしまう。それはまるで全身の関節が錆び付いていくように、自分の意思ではどうにも出来ない状態になってしまうのだ。
でも、それが無い。
様々な感情が湧き起こり、その結果真っ白になってしまった頭のまま私は顔を上げた。灰色の空の下、テンポ良く降り続ける雨が顔や腕を叩き、今まで知る事の無かった冷たい感触を残していく。
「……これが、雨」
人々に恵みをもたらし、そして時には牙を向くもの。
それに打たれる感覚。それは他の生き物が当たり前のように感じ、しかし吸血鬼だけは感じる事を許されなかったもの。それを思ったら、喜んで良いのか、悲しんで良いのか、怒れば良いのか……自分がどうすれば良いのか解らなくなってしまった。
でも、それでも、どうしようもなく心は震えて。
「……」
私は今、とても貴重な体験をしている。戻ったらパチュリーに感謝しなければならないと、そんな事を思いながらゆっくりと歩き出す。
これで雨の中でも自由に移動出来る。
どこにでも行ける。
どんな事も出来る。
そんな喜びで満ちている筈の心は、しかし遠い過去へと遡る。
「……」
沢山の仲間が居て、それなのに隠れるように暮らしていた日々を思い出す。
日光が怖かった。
銀の銃弾が怖かった。
降り続ける雨が怖かった。
そして何よりも人間が恐ろしかった。
雨の降る夜は特にそうだ。雨の中を進んでくる人間は臭いが消える。だから気付いた時にはもう遅いのだ。侵入を察知した時には逃げる事すら困難になる。目の前に迫った白木の杭に――磨き上げられた十字架に――清められた聖水に――銀の銃弾の詰まった銃口に、許しを求めた仲間を何人も見た。それは普段食料としている人間のような無様さで、高貴ぶっていた仲間達が命乞いをするのだ。何が吸血鬼だろう。何か夜の王だろう。命の危険に曝されてしまえば、その姿は人間と何も変わらないのだ。でも、そんな彼等を馬鹿にする事なんて出来なかった。だってそう、私だって殺されたくなかった。死にたくなかった。武器を手に迫り来る人間が、どんなものよりも恐ろしかったのだ。だから私は妹を連れて逃げ出して、人間達に見付からないように必死に姿を隠して――
「――嬢様! お嬢様!」
響いてきた咲夜の声に意識を向けると、いつの間にか森の方にまで歩いてきてしまっていた。どうやら思考に意識を取られすぎてしまったらしい。
そんな私へと、咲夜はとても心配げに、
「お嬢様、もう屋敷の中へとお戻りください。お風邪を召してしまわれますわ」
「……風邪なんて、私が引く訳ないじゃない」
「今のお嬢様は人間なのですから、その可能性はあります」
そう注意するように言う咲夜の手には大きな黒い傘と真っ白なタオルがあって、私はいつの間にか雨から切り離されていた。それを少し残念に思いながらも、真剣な表情でこちらを見つめてくる咲夜へと頷き、
「解ったわ。……全く、咲夜は心配性なんだから」
小さく愚痴を零しつつもタオルを受け取り、私は咲夜と共に歩き出す。
そして、まるで髪の毛の流す涙のように流れていく水をタオルで拭いながら、思う。
咲夜の心配や優しさは嬉しいけれど、そこまで心配させてしまう人間の弱さが少し悲しかった。もしこれで妖怪にでも襲われたら、なんの抵抗も出来ずに殺されてしまうのだろう。それが摂理だとは理解しているし、元の体に戻ったら当たり前のように私は血を求めるだろうけれど……でも、それでも、心を揺るがす何かがあった。
これも人間の弱さなのだろうか。それとも、本来自分が持ち合わせていたものなのだろうか。或いは、過去を思い出したが故のただの感傷なのだろうか。良く解らない。
沈み始めてしまった心を持ちながら、テラスへと続く階段を上る。そこで顔を隠すように髪の毛を拭きながら、傘を畳もうとしている咲夜へと声を放つ。
「咲夜、着替えの準備をしておいて。私は歩いて部屋に行くから、貴女はそこで待ってなさい」
「ですが……いえ、畏まりました、お嬢様」
何か言いたげな表情をしながらも、優秀なメイドの気配が消える。それに淋しさを感じながらも髪を拭いていき……その水気がある程度取れた所で、私は屋敷の中へと戻った。
そして、自室へと向かって独り歩いていく。
「……」
別に悲しむべき事じゃないのに、どうしてか悲しくなる。
私は吸血鬼で、この紅魔館の館主で、そして咲夜の主だ。それなのに今日は主らしい行いを何一つ出来ていない。それどころか、とんだ失態を曝してしまった。体が人間になっただけで、その内面までは変化していないのに――
「って、落ち着け私」
折角外で遊べるようになったというのに、ネガティブな事を考えていては意味が無いじゃないか。普段だって転ぶ時は転ぶし、そのくらいが何だって言うんだ。沈み込んでいないで、早く部屋に戻って着替えを済ませよう。
私は、この世界で生きているのだから。
と、そう思いながら視線を少し上げた時、紅く伸びる絨毯の一部に少し歪みがある事に気が付いた。
場所的には私がグングニルを出したりレッドマジックを発動させたりした所で、つまり咲夜と魔理沙が弾幕ごっこをした場所でもあるので、その時に絨毯に歪みが出来てしまったのかもしれない。結構激しい弾幕ごっこだったし。
取り敢えず、足で踏めば直るかな、なんて思いながらそれに近付いて――それが絨毯の歪みなどでは無い事に気が付いたのは、それを踏み付けた直後だった。
「ッ!」
馬鹿をやった、と思った時には全てが遅く。
これは絨毯の歪みなどではなく、咲夜が急ごしらえで創り上げた空間と空間の間に出来上がった小さなひずみだった。例えるなら、ピースの合わないパズルを無理やり組み上げたような感じだ。指定された形へと綺麗にはまり込む事が出来ず、隣にあるピースの上へと重なってしまったかように、二重に重なった空間が絨毯を歪ませているように見せていたのだ。
それは咲夜らしからぬミス。でも、多分、そこへ向ける筈の注意を奪ってしまったのはこの私自身で。そして、普段の私ならばすぐに抜け出す事が出来るだろうその歪みも、人間である今の状況では上手く対処する事が出来ない。
刹那、そのひずみを強制的に修復するかのように、拡げられていた空間が一気に収縮していく。それはまるで水を張った浴槽の栓を抜いたかのように、私が踏み付けている歪みへと向け、拡張された壁や窓、そして照明器具などが一気に流れ込んで来て――
■
痛みの中、ゆっくりと開いた視界の先に拡がっていたのは、何の情報も与えてくれない深い闇だった。
何かの間に挟まれているのか、体がぴくりとも動かせない。指先、足先、どこでも良いから動け、と力を籠めてみても、何の反応も返って来なかった。もしかしたら、歪みに巻き込まれた影響で四肢が千切れてしまったのかもしれない。
こんな事なら咲夜を先に行かせるんじゃなかった。パチェから釘を刺されていた以上、何か思う所があったとしても独りで行動するべきではなかったのだ。けれどここが自分の屋敷である以上、慢心があったに違いない。
「……」
呆気ないな、と思う。
とはいえ、そこに悲しみは感じなかった。例え私が吸血鬼のままだったとしても、何かの切っ掛けで日光に曝されればこの体は灰となる。つまり、死の危険性というのは常に存在しているのだ。それは普段から自覚し、覚悟している事だから、突然訪れたこの状況に対して取り乱す事はないし、嘆き悲しむ事もなかった。
でも、呆気ないな、とは思うのだ。
だから諦める事は出来ないし、このまま状況に身を任せようとも思わない。
ああ、そうだ。
五百年の締めくくりがこんな形だなんて、認められるか!
「……なんだ、案外元気じゃない」
と、不意にどこからか声がした。しかし周囲は闇に閉ざされたままで、声がどの方向から聞こえてきたのかすら解らない。頭の中に直接響いてきているかのようでもあるその声は、明らかな呆れの色を持ちながら、
「でもまぁ、壁に挟まれたぐらいで動けなくなるとはね」
五月蝿い。というか、誰よアンタ。
「解らないの? ――って、フランドールならすぐに解るだろうけど、今のあんたじゃ無理か。こんな状況初めてだしね」
そう呟いたあと、声の主はこちらをからかうように、
「で、本当に動けないわけ?」
動けるようなら苦労して無いわ。
「貧弱」
五月蝿い黙れ。
「あら、生意気な口を利くわね。助けてやらない事もないのに」
なんだって?
「私としては、あんたが死んだ所で問題は無いんだけど……でも、この状況はどうにもイレギュラーだからね。何か不都合が出たら面倒だし、助けてやるわ」
だから感謝しろ、と言わんばかりの勢いで響いてくる声に、何を言い返して良いのやら解らなくなる。なんていうか、こう、『この私が直々に助けてやるんだから感謝しやがれ』的なオーラを感じるというかなんというか。
一言でいえば、凄い苛々する。
しかし相手はそれに気付いていないのか、そもそも自覚が無いのか、或いは解ってやっているのか、高飛車な様子を変えぬまま、
「じゃあ、この壁を壊すよ」
こちらの了承も何も待たぬまま、突然背後から強い衝撃がやって来た。そして何か固いものを無理矢理引き剥がして行くような音と共に、暗かった闇に光が差し込んでくる。
私は痛む体をどうにか動かし、無造作に背後の壁(と思われるもの)を破壊し続ける存在へと視線を向けた。
「――」
そこに立っていたのは一人の少女だった。直視出来ぬほどに禍々しい気配を持つその少女は、顔に笑みを貼り付け、その細い腕を私へと伸ばし――
――不意に、光が溢れた。
突然白く染まった視界に思わず目を閉じ、そして恐る恐るそれを開くと、そこには見慣れた紅い廊下が拡がっていた。
「あ、れ?」
一体何が起こったのだろうか。周囲を見回すと背後には壊れた壁や家具、照明器具だったものが散乱していて、壁の向こうにある部屋との間に新しい通路を作っていた。恐らく私は、今見えている部屋と廊下の間の空間に挟みこまれていたのだろう。そしてその空間を突然現れた少女が壁ごと引き剥がしてくれた為に、私は外に出る事が出来たようだった。周囲に転がっている壊れた家具は、私と一緒に壁の間の空間に挟みこまれていた物の残骸に違いない。
と、そんな風に状況を判断していると、廊下の先から走ってくる咲夜の姿が見えて――同時に、ある事に気付く。
「……廊下が、暗くない」
そう、暗く沈んでいた筈の廊下が、何故だか今は遠くまで見渡せるようになっていた。それに視力も向上している気がするし、背中にも何か違和感があった。一体何だろうと視線を向けると、そこには一対の黒い羽。
ぱたぱた動く。
何か狐につままれたような気分になりつつ、試しに羽へと魔力を籠めてみると、あっさりと空を飛ぶ事が出来て、
「あれれ?」
一体どういう事なのか解らないけれど、パチェに掛けて貰った魔法が解けてしまっているらしい。それだけでも不思議だというのに、私を助けてくれようとしていた(と思う)少女の姿が見当たらない。残されているのは、彼女が強大な力を振るったという事実だけ。
そんな急転直下な状況に首を捻りつつ……でも、私の心には安堵があったのだった。
4
自身の失敗を悔いる咲夜をなだめたあと、着替えを済ませた私は図書館へと戻ってきていた。
そして、気恥ずかしさを感じながらも友人へと心からの感謝を告げると、本題へと入っていく。
「で、一体どういう事なのかしら」
暗くない図書館の中、魔道書を記していたパチュリーへと問い掛ける。
因みに私の体は元の吸血鬼に戻っていて、蝙蝠を生み出す事も、霧になる事も出来た。試しに出したグングニルは普段のように軽々と扱えて、試しにそれを投げてみると、勝負に負けたにも拘らず忍び込もうとしていた白黒鼠に綺麗に命中。体は本調子に戻っているといえるだろう。
パチュリーはペンを持っていた手を止め、そして掛けていた眼鏡を外すと、私の顔をじっと見て、
「……恐らく、私の魔力ではレミィの力を封じ切る事が出来なかったのでしょうね。でも、まさかたった数時間しか持たないとは思わなかったわ。……ごめんなさい、レミィ。どうやら私は、貴女の力を把握し切れていなかったようだわ」
「別に謝るような事じゃないよ。でも、パチェが判断ミスをするなんて珍しいね」
「レミィの強さについては、誰よりも知っているつもりだったんだけどね」
そう、パチェが小さく苦笑し、
「それでも、言い訳をさせて貰うなら……雨に打たれた事で、本来はそれを拒絶する吸血鬼の本能が反応してしまったのかもしれないわ。吸血鬼としての力を失わせたと言っても、それを完全に消滅させた訳では無く、ただ封じ込めただけだったのだから。
或いは、グングニルを召喚した際に、それの持つ魔力によって私の魔法が弱まってしまったのかもしれない。複製とはいえ、『貫く』なんて意味を持つ槍だもの。私の魔法に穴を開けたとしてもおかしくない。……何にせよ、失敗だったわ」
悔しげに魔女が言う。彼女は自分の魔法に自信を持っているから、余計にそれを感じてしまうのだろう。でも、私にはあれが失敗だったとは思えなかった。
例え短い時間だったとはいえ、人間であった時に体感した経験は素晴らしいものだった。自分が当たり前だと思っていた常識が世界の常識では無いと理解出来たし、人間の強さと、そしてその弱さにも思いを馳せる事が出来たのだから。……まぁ、少々感傷的にもなってしまったけれど、あれは仕方がなかったと諦める。心の奥底に染み付いた恐怖というのは、そう簡単には消えてくれないものだから。
「……で、残った謎が一つ」
私が馬鹿をやった後、助けてくれた少女は一体誰だったのか、という事だ。
……まぁ、予想は出来ているのだけれど。
ヒントはフォー・オブ・アカインド。或いは、録音した自分の声。
「……ねぇパチェ。もし私が人間になる前に蝙蝠を生み出していて、その一匹が戻らないままに人間になっていたら、一体どうなっていたかしら」
「妙な事を聞くわね。取り敢えず、実験をしてみなければ正確な事は言えないけれど……恐らく、その蝙蝠は私の魔法の影響を受けないでしょうね」
「何故、そう思うの?」
「吸血鬼というのはそういう生き物だからよ。例え蝙蝠の一匹、肉片の一片からでもレミィ達は体を再生させる事が出来る。言い換えれば、蝙蝠の一匹一匹……いえ、レミィを構成する細胞の一つ一つがレミリア・スカーレットに成り得る可能性を持っている」
そして、
「魔法を使って人間になった事が、もし『吸血鬼レミリア・スカーレットの死』として捉えられたとしたら、その蝙蝠はレミィ、貴方へと変化するでしょうね」
「じゃあパチェ、ここからは仮定の話ね。私が人間になっている間に、ある蝙蝠が私へと変化したとする。そのあと、私に掛けられた魔法が解けたら、その蝙蝠から私になった存在はどうなるかしら?」
「そうね……」
そう呟きつつ、パチュリーは紅茶を一口飲み、
「まず、レミィが『100』の力を持つ吸血鬼である、と定義して話を進めましょうか。そして蝙蝠を生み出す毎に『1』の力が失われて行き、ゼロになったら死んでしまうと仮定するわ。
今の話で行くと、レミィは既に蝙蝠を一匹生み出しているから、『99』の力を持っている事になるわね。その状況で今回のようにレミィが人間になると、吸血鬼としての力は私の魔法によって押さえ込まれ、ゼロになってしまう。つまり、残っていた『99』の力を全て失ってしまったようなものね。その結果、吸血鬼レミリアは死んだ事になり……その生存能力により、生み出されていた蝙蝠が吸血鬼レミリア・スカーレットとしての意思を持つ事になる。
この時点で、世界にレミィが二人存在する事になるわね。片方は人間レミリア。吸血鬼としての力はゼロ。そしてもう一人が吸血鬼レミリア。吸血鬼としての力は『1』ね。でも、人間レミリアは吸血鬼としての力を押さえ込まれているだけで、厳密には消滅させてしまっている訳じゃない。だから、人間レミリアが吸血鬼に戻った場合、その力は元の『99』に戻る事になるわ」
「すると、どうなるの?」
「恐らく、二人の吸血鬼レミリアが同時に存在した場合、『1』の力しか持たないレミィは元の蝙蝠に戻ってしまう筈よ。何せ、自分よりも生存確率の高い自分――『99』の力を持つレミリア・スカーレットが現れたのだから。……まぁ、私の予想はこんな感じかしら。レミィが試してくれない限り、断言は出来ないけれどね」
そうして再び紅茶を飲む友人に、私は笑みを向け、
「多分、パチェの予想通りだと思うわ」
つまり、私を助けた少女というのは、この図書館に来る前に気紛れに飛ばしたあの蝙蝠が変化した私自身だったのだ。
現に、あの時私を助けたレミリアはどこかへ消滅してしまっている。恐らく私が吸血鬼としての力を取り戻した瞬間に再び蝙蝠に戻り、そのまま一体化してしまったのだろう。
そりゃあ私が死んだ所で問題ないはずだ。何せあの時点で彼女が『レミリア・スカーレット』になっていたのだから。でも、魔法によって抑え付けられていた吸血鬼の力がどうなるか解らなかったから――つまりイレギュラーな状態だったから、彼女は私を助け出そうとしたのだろう。
だからそう、私は自分自身に助けられたという事だ。でも、何か癪なのは何故だろうと考えて……すぐに答えが出た。
私は、自分があんなにも傲慢だとは思っていなかったのだ。
「……これからは少し自重しなきゃね」
小さく呟き、取って置いて貰ってあったケーキを一口。その甘酸っぱさに幸せを感じながら、私はつくづくと呟く。
「でも本当、貴重な体験だったわ」
この吸血鬼としての体が一番に感じるけれど、人間の体も悪くなかった。
あとで妹にこの話をしてみるのも良いだろう。準備無しの状態でも私の力を抑える事が出来たのだ。準備さえしっかり行えば、あの子の力も抑える事が出来るに違いない。そうすればあの子を自由に外出させる事が出来て、一緒に外で遊びまわる事だって出来るのだ。
それはとても素敵な考えに思えて、私は自然と笑みを浮かべていた。
■
そうして、ふと、ある事を思い付く。
「ねぇ、パチェ」
「なに、レミィ」
「試しにパチェも吸血鬼になってみない? 新しい世界が見えるわよ」
「……遠慮しておくわ」
「喘息、治るかも」
「それは……。……で、でも、遠慮しておくわ」
明らかに迷ってからパチュリーが否定する。これは後一押しかもしれないけれど、でも、無理は言えないだろう。こいうものは自分から望むもので、強制するものじゃない。けど、死ぬまでに一度ぐらい吸血鬼になったって困る事は無いだろう。
そりゃあ人間に比べて弱点は多いけれど、妖怪が当たり前に跋扈するこの幻想郷の中では、あまり気にするほどの事じゃない。むしろフランドールが持つ力のような特殊な能力の方に問題があるのであって、その種族になったからこそ発生する問題は殆どないのだ。もしそこで問題が発生していたら、幻想郷はとっくに破綻しているだろう。何せ人間から妖怪、幽霊に鬼に宇宙人まで抱き込んでいるような場所なのだから。
だから、思う。私が人間になってみたように、何事も挑戦してみれば良いんじゃないかと。
私達の生きるこの世界は、こんなにも素晴らしいものなのだから。
end
咲夜は着いていないらしい
そんなに起伏の無い物語なのにこのわくわく感は一体!?
あと羽無しレミィが飛ぼうとしてがんばる姿に萌えたのは内緒。
着ていないで合ってたorz
(きていないじゃなくて、ついていないと読んでました)
仕掛けも意外で楽しめた。
そしてなによりレミリアがかわいかった!あたまなぜたい!
最初のあれが伏線だったなんて、これっぽっちも思わなかった。
そして、自分自身の行動に自重しようと考えるお嬢様可愛いよ。
何と言うかしっとりとした文章でいいなぁと思ってしまいました。
魔理沙吸血鬼化も期待するぜ。
後悪魔のささやきにそそのかされそうになってるパチュリーも。
15,23の方の勘違いを補足。
>咲夜は着ていないらしい
『ついていない』と読むのなら『着いていない』
『きていない』と読むのなら『来ていない』
どちらにしろ間違いです。
話の内容は独自の解釈も含めかなり良いと思いました。
レミリアの精神の変動によっては、短い間(死ぬか助け出されるか)ながら姉妹そろって狂ってるなんてなったりして(笑えない
≫33.
『きていない』の変換の中には『着ていない』もありますよー
駄目だったら消してください。
>>36
確かに読めるのですけど、その場合は『服を着る』などの『装着』の方の意味になってしまい『到着』の意味ではなくなってしまうのですよ。
面白い考察でした。ちょいと大人になるレミリャのペドさとカリスマ分の割合が最高でした。
ご指摘のありました箇所を修正致しました。
>>ご指摘をして下さった皆様
創想話の規約からは外れてしまいますが、大変参考になりました。有り難う御座います。
性格丸くなってきてるお嬢様かわいいよ。
宵闇むつきさんの作品はコンペ含め全て読んでます。
これからも頑張ってください!
確かに生まれつき力や才能に恵まれていると、それを失った時のことなんて考えもしませんよね。
レミリアのカリスマ度はまた上がったことでしょう。
ちょっとアンニュイな気分になって余韻とかがやばい。