この物語は過去作品、特に作品集51の『レミリア・スカーレット~誇り高き吸血姫が守った未来~』の設定を使っています。
また、この物語は独自設定や独自解釈が多々ありますのでご注意下さい。
悪魔の館、紅魔館。人々に恐れられ、恐怖の象徴として畏怖されていたことも今は昔。
まだ太陽が昇り始めて間もない早朝。慧音は使い慣れたいつもの愛用鞄に荷物を詰め、自室を後にする。
その鞄の中に詰められたモノは、彼女が寺小屋で子供達に授業を行う為に自ら作成した学習書等である。
すなわち、彼女がこれから向かう先は人里の寺小屋。そして、何をしに向かうかと問えば、子供達に授業を行いに行くのである。
早朝にこうして人里に向かい、寺小屋でいつものように子供達に授業を終え、昼過ぎには帰ってくる。
それが彼女、上白沢慧音がここ紅魔館に居候するようになってからの一つの生活サイクルであった。
昔ならば、人里の護り人である彼女がこうして人里を離れるなど考えられない事であったのだが、今は時代が移り変わった。
今や幻想郷には人にも妖怪にも一定のルールが存在している。その中の一つが妖怪達の人里への強襲の禁止だ。
以前のように、妖怪達が人里を襲う時代があったなど、寺小屋の生徒達は誰一人として信じないだろう。
一体何処の誰が好き好んで博麗の巫女や八雲の管理者を敵に回すだろうか。人里を襲うという事は、幻想郷の守護者を敵に回す事に他ならない。
だが、それだけの理由ならば、慧音は人里を離れる事を良しとすることは無かっただろう。
もしかしたら、幻想郷に入りたててルールを理解していない妖怪が存在するかもしれない。
もしくは、幻想郷の守護者達を敵に回す恐ろしさすら理解出来ない知性に欠いた妖怪も存在するかもしれない。
何事にもIFは存在する。そんな妖怪達の存在の可能性を考えれば、慧音は絶対に人里を離れられない存在なのだ。
ならば、何故彼女が今こうして人里を離れ、紅魔館での生活が出来るのか――その理由は単純なモノだ。
「あら、慧音。こんな眠気を誘うような時間に外出?年寄りは朝が早いと言うけれど」
「ああ、おはようレミリア。それと言っておくが、私はお前よりも遥かに年下だからな」
廊下を歩いている時、偶然顔を合わせた少女――レミリア・スカーレットの言葉に慧音は溜息をついて答える。
彼女の突っ込みにレミリアは『そうだったかしら』と興味なさ気に返し、小さく欠伸を一つ。どうやら彼女はこれから眠りに身を落とす予定らしい。
気だるそうにしている幼き紅魔館の主、レミリア・スカーレット。彼女こそが、慧音がここに暮らす事が出来る理由だった。
彼女は慧音が住む場所を探していると知った時、快く慧音に住居を手配した。
それは美鈴の家出騒動の時、慧音が美鈴に良くしてくれた事が理由なのだが、
そのレミリアの慧音への配慮はそれはそれは見事な手並みであり、慧音にとっては願っても無い待遇だった。
慧音が先述した人里を離れ難い理由を語った時、レミリアはすぐに慧音の悩みを消し払った。
彼女、慧音が人里から離れている時に妖怪が訪れても平気なように、
レミリアは従者の中でも知性の在り、古参かつ実力を持つ妖怪を人里に派遣した。
その妖怪は慧音よりも力を持つ者で、人里の護り人の代わりとしては充分お釣りが出るくらいの強者だった。
年老いてはいるものの、性格は温厚で柔和。現在では人里の人気者としてあちらこちらに引っ張りダコという状態である。
「お前と翁には感謝しているよ。
お前達のおかげで、私は人里の者達に迷惑をかけずに済んだのだからな」
「…何を突然言い出すかと思えば。そのくらい別に構わないわ。
それに、爺だって退屈凌ぎを探していたところだし、丁度良いのよ。今頃人里で楽しく過ごしてるのではなくて?
咲夜と美鈴のおかげで、最近本当に仕事が無いって嘆いてたものね。年寄りの冷や水って言葉を知らないのかしら」
「ふふっ、その台詞を翁が聞けば悲しむぞ。あれだけレミリアの力になりたいと張り切っておられるのだからな」
「…フン。老兵は死にゆく努力をする必要なんて無いのよ。
縁側でのんびりとお茶でも啜りながら消えゆく程度が丁度良いというのに。これ以上生き急いでどうするのかしらね」
悪態をつくレミリアだが、彼女の言葉に本心が篭もっていないことなど誰が見ても明らかだった。
どうやらこの館の主である彼女も、幼い頃からその成長を見届けられてきた忠義の士には頭が上がらないらしい。
そんな子供のような表情を見せるレミリアに、慧音は笑みを零しつつ、再び言葉を切り出す。
「それでは、私は人里に向かうとするよ。
昼頃には戻るが、何か用があれば寺小屋に…というか、お前は今から就寝だったな。必要ないか」
「そうね。そういうことは他の連中にでも告げておきなさい。
それじゃ慧音、良い夜を。ふぁ…」
再び小さな欠伸を一つ噛み締め、慧音に別れの挨拶を告げてレミリアはその場から立ち去ろうとする。
しかし、何かを思い出したように足を止め、再び慧音の方を振り返り、彼女に声をかける。
「慧音。貴女、今持ち合わせはどの程度あるかしら?」
「何だ、藪から棒に。先に言っておくが私の懐具合をお前達の財政事情と一緒くたにしてくれるなよ?
私の持ち合わせなど人里の人々とそう大して変わらん程度だ」
慧音の返答を受け、レミリアは『そう』と呟き、チラリと視線を横へと移す。
そこには館の調度品が置かれており、美しい女神像が館の荘厳さを醸し出す事に一役買って出ていた。
レミリアは視線をつつと女神像の額へと向ける。そこには、大きく光る宝石が一つ。
真紅に燃えるその色はまさしくスカーレットの屋敷に相応しく。ルビーだろうか、ガーネットだろうか、はたまた別の種か。
ただ、一つだけ言えるのは、その宝石は恐らく相当の値打ちものである事は誰の目にも明らかだった。
その宝石をレミリアはじっと見つめ、その様子を慧音は不思議そうに首を傾げる。
レミリアの奴、一体何を…そう慧音が考えていた次の瞬間、驚くべき光景が彼女の視界に強制的にねじ込まれた。
女神像をじっと見つめていたレミリアが突如、神速の如きスピードで跳躍し、女神像の額をその腕で凪いだのだ。
レミリアの狂爪が奔り、女神像は首から上が一瞬のうちに崩壊する。これが吸血鬼の力か。
その光景を見ていた慧音は驚きの余り言葉を失っていたものの、すぐに自分を取り戻し、慌ててレミリアに追求する。
「お、おいレミリア!?お前一体何を――」
だが、慧音が言葉を最後まで発することは無かった。
その理由は、レミリアの次の行動だった。女神像の首を吹き飛ばしたレミリアが、何か手に持っていたものを慧音に向けてポンと放り投げたからだ。
放物線を描いて飛翔する物体を、慧音は慌ててその手で受け止める。
そして、手に納めたとき、その物体の正体をようやく掴む事が出来た。それは、女神像の額についていた美しい宝石だった。
「…宝石?ちょ、ちょっと待てレミリア。突然こんなものを渡されても一体どうしろと…」
「酒を五、六本適当に見繕ってきて頂戴。種類は何でも構わないわ」
レミリアの言葉に、慧音は納得する。成る程、これは買い物をする為のお金代わりなのかと。
『それで足りないようなら、もうニ、三個用意するけど』とトンでもないことを言うレミリアに、慧音は呆れたように溜息をついて口を開く。
「これだけあれば、店中の酒を買い占めてもお釣りが出るだろうな。多過ぎるどころじゃないぞ」
「そんな事知らないわよ。人間の通貨なんて私は持ち歩かないし、人里で買い物だってしたことないもの。
別にそんなに量は要らないわ。とにかく人里にある普通の人間が飲むような酒を適当に買ってきて頂戴。
余った金は好きに使って貰って構わないわ。この前、フランの家庭教師を務めて貰った分の報酬代わりよ」
何でもないことのように言い放つレミリアに、慧音は言葉を失う。
数時間の家庭教師で、これだけのお金など貰えるなど、博麗の巫女が知れば泣いて羨ましがる話だろう。
そんな事を考えつつも、慧音は心の中に疑問を生じさせる。酒ならこの館にいくらでもある筈ではないか、と。
館の備蓄を切らすなど、あのメイド長の瀟洒な仕事ぶりからは考えられない事だ。
感じたままの疑問を口にする慧音に、レミリアは面倒くさそうに答える。
「館にある酒じゃ駄目なのよ。私は人里にある酒が欲しいの。
それに、今日は咲夜には頼めないのよ。咲夜は明日の準備で今日は手が離せないだろうから」
「明日の準備?明日は何かあるのか?」
慧音の質問にレミリアはククッと楽しそうに笑い、今度こそ慧音の前から去っていった。
『明日になれば分かるわよ』と、唯我独尊我侭姫は慧音にその一言だけを言い残して。
寺小屋の授業を終え、慧音はレミリアとの約束(一方的ではあったが)通り、酒屋で幾つか酒を見繕い、
紅魔館への帰路へとついた。片手には鞄、そしてもう片手に酒瓶の入った袋を持って。
ちなみに酒代で生じたお釣りは、親を失った孤児達が集っている家へ全額寄付した。
どのように使っても構わないというレミリアの言葉に甘えた形だが、自分の為に使わないところがいかにも彼女らしい。
大空をゆっくりと滑空し、湖を抜け、紅魔館の姿が見え始めた時、慧音はその身をゆっくりと降下させてゆく。
そして門前に降り立ち、長時間に飛行に疲れたのか、小さく一息をつく。
紅魔館から人里まではそこまで近い距離ではない。空を飛んでいるからとはいえ、疲労は少なからず蓄積されるものなのだ。
身体を包む薄い気怠さを振り払い、慧音は気を入れ直して紅魔館の門を潜る。
館の中に入った時に、ふとその門前に何か小さな違和感を感じたのだが、その正体を慧音は掴めなかった。
しかし、その違和感の正体を彼女はすぐに知る事になる。
自分の部屋に向かう最中、廊下でばったり出会った少女――紅魔館の門番長、紅美鈴の姿を捕えたからだ。
あちらも慧音の姿に気付いたのか、廊下の向こうから笑顔を零してパタパタと慧音の方へと小走りで近づいてくる。
その姿に慧音は『子犬みたいだな』と勝手な事を思いつつも、美鈴に言葉を紡ぐ。
「門前に何か違和感を感じたと思ったら、お前の姿が見当たらなかったんだな。
今日は門番の仕事は休みか?早朝、私が出かける時には門番の任についていたようだが」
「いえ、門番の仕事は今すぐ戻りますよ。現に先ほどまでは門前にずっと居ましたから。
ただ、私の背中で妹様が眠ってしまいまして。今は妹様を寝室へと運ばせて頂いたその帰りという訳なんです」
あはは、と苦笑する美鈴に、慧音は『相変わらずだな』とつられる様に笑みを零す。
どうやら仕事中であっても美鈴の傍に人が絶える事はないらしい。時にそれはレミリアだったり、時にそれはフランだったり。
しかし、それは彼女が皆に好かれている証。彼女を知る誰もが美鈴の傍にいたいと思うのだ。
彼女を知る誰もが彼女の笑顔を見たいと願うのだ。皆に愛される少女、それが彼女、紅美鈴なのだから。
そんな事を考える慧音を他所に、美鈴はふと慧音が持っていた酒瓶の存在へと気付く。そして中身を知るや、子供のようにパーッと笑顔が花開く。
「それって人里にある酒屋さんのお酒ですよねっ!
人里の西の外れの方にある酒屋さんのお爺さんが一人で作ってるお酒ですよねっ!」
「あ、ああ…そうだが、やけに詳しいな。もしかして、人里で生活している時に利用した事があったか?」
「えへへ、実は茶屋で働かせて貰ってる時、ちょこちょこと買いに行ってたり。
私、人里のお酒が大好きなんですよ。紅魔館にあるお酒も嫌いじゃないんですが、
その、少し私には勿体無さ過ぎる味でして。どちらかと言うと、やっぱりこっちの方が馴染み深いんです」
「成る程。そう言えば、美鈴は紅魔館の門番をする前…というより、幻想郷に来る以前は
人里で人間に紛れて生活をしていたんだったな。ならば、紅魔館のワインよりもこっちの方が舌に合うだろう」
『そうなんですよ~』と答えつつも、美鈴は視線を慧音の持つ酒瓶から外そうとはしない。
その様子に、慧音は苦笑せずにはいられなかった。美鈴は本当に感情がすぐ表情に出るんだな、と。
目はキラキラと輝かせ、尻尾があれば今頃ぶんぶんと力強く千切れんばかりに振っているだろう。
そんな美鈴を嗜める為に、慧音は寺小屋の生徒に指摘するような調子で美鈴に言葉を掛ける。
「…言っておくが、駄目だぞ。これはレミリアから頼まれたモノで、私物の酒ではないんだ。
どうしても飲みたければ、レミリアに直接頼む事だな」
「あうう…それは残念です。久々に人里のお酒が飲めるかとちょこっとだけ期待したんですが…」
「まあ、諦めるのはまだ早いだろう。
他ならぬお前の頼みなら、レミリアだって酒の一本や二本分けてくれると私は思うが。
それにもし駄目と言われたら、私がお前の代わりに明日もう一度人里に買いに行ってやるから安心しろ」
慧音の提案に、美鈴は『本当ですかっ!?』と目を輝かせながら慧音の両手をがしっと掴む。
先ほどまではガックリきていたかと思えば、今は再び小動物のように表情を輝かせている。
コロコロと表情の変わる少女に、慧音は思わず笑みを零さずにはいられなかった。本当に純真な娘だと。
それは慧音が初めて美鈴と出逢った時から何も変わっていない。妖怪のくせに誰よりも真っ直ぐで、
誰よりも純粋で、誰よりもお人好しで。そして、そんな彼女が本当に愛おしくて。可愛くて――
「…って、違ーーーーーーーーーーう!!!私はいつだって妹紅一筋だあああーー!!!!!!!!!!!!」
「ひ、ひえええええ!?け、慧音さん落ち着いて下さいいいいいい!!!!!!」
突如ガンガンと額を壁に打ち付けだした慧音を、美鈴は慌てて彼女の身体に抱きついて制止する。
どうやら慧音の中では絶対に越えてはいけない一線があり、先ほどの美鈴の表情に見惚れ、危うくそのラインを飛び越えそうになったらしい。
とりあえず、レミリアや咲夜達が川の向こうで優しい笑顔を浮かべながら、慧音に手招きしているところまで幻視したようだ。
「あ、危ないところだった…あやうく私まであいつ達の仲間入りをするところだった…」
「だ、大丈夫ですか…?とりあえず帽子をどうぞ」
壁に額を強く打ち付けていた際に落とした帽子を拾い上げ、美鈴は慧音に手渡しする。
額を真っ赤にしながらも、慧音は美鈴に一礼し、帽子を被り直した。どうやら何とかギリギリのところで帰ってくることが出来たようだ。
「せめてフラン…いや、アリスと同程度までだ。私はそれ以上は踏み込むつもりは無いぞ。
間違ってもレミリアや咲夜、パチュリーのレベルにだけは…私はあんな変態には…」
「えっと…け、慧音さん?」
「…ああ、すまん。どうやら少し取り乱してしまったらしい。
それでは私は酒をレミリアに届けてくるよ。この時間に起きているかどうかは分からんが」
現在の時刻は昼の一時を過ぎた辺りだろうか。
最近は色々あって昼夜逆転のような生活を送っていたが、吸血鬼であるレミリアは本来ならば
太陽の昇っている時間は大抵眠っているのが普通なので、この時間に起きている可能性は低いかもしれない。
しかしまあ、起きていなかったらそれはそれで構わない。夜にもう一度レミリアの元へ行けばいいだけのこと。
そう考え、レミリアの元へ向かおうとした慧音を美鈴が『あの』と呼び止める。振り返る慧音に、美鈴は笑顔で一つの申し出をした。
「もしよかったら、私にお酒を届けさせてくれませんか?
お嬢様にお酒を分けて頂けるようにお願いしに行くにも丁度良いですし」
「ふむ…私としては助かるが、頼めるか?」
「はいっ!慧音さんが人里から運んできたお酒は私が必ずや無事にお嬢様の元へ届けてみせますよ!」
ドンと胸を叩く美鈴に、慧音は思わず笑みを零さずにはいられなかった。
そして思うのだ。レミリア達がこの少女に惹かれずにはいられないのも仕方ないのかもしれないな、と。
このように爛漫に笑う少女だからこそ、皆は美鈴に構いたくなってしまうのだと。
「それでは申し訳ないが頼ませてもらおう。
…あと、勝手に酒を飲んだりするんじゃないぞ?ちゃんとレミリアの許可を取ってからにしろ」
「そ、そんなの当たり前ですよ!!お嬢様のお酒を勝手に飲むなんて考えただけで恐ろしい…
そんな真似してしまえば、私は今度こそ門番を首になっちゃいますよ!
ただでさえ一度紅魔館から逃げ出してしまって、色々とリーチが掛かっている訳ですし…」
それはないな。慧音は目の前で怯えまくる少女を見ながら心底そう思った。
恐らく、もし美鈴がそのような真似をしたら、レミリアは喜ぶに違いない。
レミリアならば『酒代の代わりは当然貴女が今夜支払ってくれるのよね?』とでも美鈴に言うに違いないと慧音は確信していた。
そして少なくとも酒代の十倍分は請求するに違いないのだ。どのようにとは言わない。言えない。削除される、色々と。
慧音は小さく息を吐き、美鈴の両肩を掴み、真剣な表情で彼女に語りかける。
「いいか、美鈴。レミリアの許可が出るまでは何があってもその酒に手を出すんじゃないぞ。
これはお前の為だ。お前の大切な何かを守る為に、私はお前に箴言しているんだ。いいか、絶対にだぞ」
「ふえ?え、えっと…よく分かりませんが、分かりました。
というか先ほども言いましたが、お嬢様のお酒には勝手に手出ししませんってば」
『もう』と笑う美鈴に、慧音は小さく溜息をついた。ああ、この娘は本当に何も分かっていないんだろうな、と。
だからこそ、あの変態達の魔の手から自分が色々と守ってやらねばと思うのだろう。
その時、慧音は何となくアリスの気持ちが分かったような気がした。この娘は本当に無防備が過ぎるのではないかと。
とりあえず、今日レミリアに美鈴が酒を貰えても貰えなくても、明日人里で彼女に酒を数本買ってきてあげよう。
慧音は心の中でそう決めたのだった。
夜の帳が降り、空が宵闇に包まれる時刻。
紅魔館の大浴場で入浴を終え、慧音は一人自室へ戻る為に長い廊下を歩いていた。
この屋敷に居候してもう一月はたっただろうか。かつては何処へ行くにも誰かの案内が必要だったこの屋敷も、
今となっては何処に何があるのかをしっかりと慧音は把握出来るようになっていた。
こうして自分の部屋への道を己で紡ぐ事が出来る事、それは即ち自分がそれだけ長い期間を紅魔館で過ごしているという証に他ならない。
本当、人生と言うものは何が起こるか分からないものだと慧音は心から思う。
一ヶ月近く前に起こった美鈴の家出事件。あれがなければ、きっと紅魔館の多くを知る事など無かっただろう。
紅魔館は悪魔の館。悪魔の館は人に害を為すもの。そしてその館の住人達は恐ろしい存在。
しかし、そんな自分の先入観など蓋を開けてみればなんと下らないことか。この場所はそのような恐ろしさとは無縁な場所なのだ。
我侭で変態なところはあるが、部下への想いに溢れ、何より己の欲望の為に他を犠牲にする事など良しとしない主。
そして、そんな主を心から慕う従者達。主、レミリアの為ならば己が命など欠片も惜しまない人々。
たった一月の暮らしではあるが、今の慧音にはそんな人々の気持ちが少しだけ分かるような気がした。
確かに暴走したり滅茶苦茶だったりする事はあるが、レミリアはそれだけの人物だ。
己が主として、全てを差し出して己が人生を彼女の為に尽くすに値する。余所者である慧音にすら、そう感じさせる程の存在なのだ。
冷血などではない。彼女の心は確かに温かい。レミリアは誰よりも誇り高く、そして誰よりも友を、家族を、そして部下を大切にする。
それが慧音のこの一ヶ月で上書きされた紅魔館の主、レミリア・スカーレットの人物像であった。
「…まあ、そんな姿も美鈴を追い回す姿で全部台無しなんだがな」
普段のレミリアの姿を思い出し、慧音は我慢出来ずに思わず小さく笑みを浮かべてしまう。
美鈴の事を愛する余り、己の欲望を丸裸にして彼女の事を追いまわすレミリア。美鈴を想い鼻血を流すレミリア。
その姿がどうしても彼女から威圧感だの孤高だの吸血鬼のステータスを根こそぎ奪ってしまう。
まあ、彼女の親友曰く『レミィはそれで構わない』だそうだが。まあ、彼女のカリスマが云々の話は別に構わない。
ただ、慧音は気になることがあった。それは、レミリアの美鈴に対する入れ込み方だ。
確かに美鈴は愛される人物だ。彼女の事は慧音も好ましく思っているし、愛されるに値する人物だと思う。
その証拠に、彼女は幻想郷で多くの人々に愛されている。それこそ、長い付き合いのフランや咲夜、
果ては最近まで全く付き合いの無かったアリスや自分。美鈴が万人に愛される人物であることに今更何の疑いも無い。
だが、レミリアだけは違う。彼女だけは場合が違うと慧音は思った。
はっきり言って、レミリアの美鈴に対する入れ込み具合は異常過ぎる。彼女の美鈴への愛情は尋常ではない。
同じ愛情でも、フランや咲夜が美鈴に向けるものならば納得は出来るのだ。
フランは美鈴に母性を求めているのは一目で分かったし、咲夜は一人の女性として美鈴を愛しているのだろう。
だが、レミリアは。レミリアだけは、何故かそれだけではないような気がしてならないのだ。
レミリアから美鈴に向けられたモノが確固とした愛情である事は確かに分かる。だが、その種類はと問われると首を捻らざるを得ない。
フランのように家族に向ける愛情だけでも、咲夜のように恋愛対象に向ける愛情だけでも、レミリアはきっとああはならない筈だ。
誇り高き吸血鬼であり、紅魔館の主である彼女が何故、ただの一妖怪である美鈴に惚れ込んだのか。
また、謎はそれだけではない。その愛される対象である娘、紅美鈴の正体もそうだ。
彼女は妖怪としては明らかに異様だ。人を騙し賺す事も無く、人間に害を与えた事もない。
心優しく、真っ直ぐで、そして些細な事に一喜一憂して。それは何処までも人間臭く、妖怪とは線を逸していて。
ここに来て一週間くらいの間は、慧音も美鈴は本当は人間なのではないかと考えたりしていたものだ。
だが、そんな慧音の考えを美鈴は簡単に一蹴してみせた。
それは彼女、紅美鈴がパチュリーの魔術によって卵に変えられた時の事。
彼女を孵化させる為に、慧音をはじめ、レミリアや咲夜といった紅魔館の面々で卵に向けて魔力を注入した。
その時に見せた美鈴の魔力の容量。五人がかりでようやく満たす事が出来た程の圧倒的な総量。
卵を孵す時、パチュリーは言った。卵が孵化される為の魔力は、元となった人物の魔力、妖力の容量に応じて必要量が決まると。
すなわち、美鈴の魔力のキャパシティーが並の妖怪などとは比べ物にならないということ。
パチュリーが告げた言葉が真実であると考えるならば、美鈴はかなりの大妖怪である筈なのだ。
それなのに、美鈴はそんな素振りを一度たりとも見せた事はない。
いつも感情を子供のようにコロコロと表に出し、人とお話したりするのが何より好きで、争い事をとことん嫌う。
そんな彼女の姿が、慧音にはどうしても自分の正体を隠す為の演戯だとは思えなかった。あれは間違いなくありのままの紅美鈴。
ならば、何故彼女は自分の力を隠すのか。それとも己の力に気付いていないだけなのか。
レミリアといい、美鈴といい、紅魔館には慧音のまだまだ知らない事が沢山ある。だが、もう少し時間を共に過ごしたなら…
「…過ごしたなら、何だと言うのだろうな」
己の思考に、慧音は軽く苦笑するしかなかった。
どうやら自分は己が思っている以上に紅魔館の人々に心を寄せてしまっているらしい。
ここに来て一ヶ月。レミリアと美鈴を中心に日々巻き起こるドタバタ騒ぎに巻き込まれているウチに、
どうやら自分はこの生活を、そしてこの紅魔館の人々を愛おしく思ってしまっているようだ。
ここに来て、慧音は沢山の新しい発見をした。レミリアの事、フランの事、パチュリーの事、咲夜の事、そして美鈴の事。
一度知ってしまえば、その欲求はどこまでも絶える事は無く。乾いた砂子が空から降り注ぐ雫を求めるように。
慧音はただ、純粋にもっと知りたいと願ってしまっているのだ。
もっとレミリアの事が知りたい。もっと美鈴の事が知りたい。もっと紅魔館の人々の事が知りたい。
そうすれば、きっとこの毎日はもっと楽しくなる筈だから。紅魔館の人々にもっと近づく事が出来る筈だから。
本当にどうしようもなく騒がしく、煩くも優しい世界の一員に、自分もきっと――
自分の部屋へと続く廊下の途中、慧音はふとその場に足を止めた。
別段足を止める理由があった訳ではない。それはきっと、本当にふとしたほんの気紛れ。
ただ、慧音は部屋へ戻る事無く足を止めることを選んだ。視線を目の前の扉、テラスへと続く道へと。
そして、慧音は足をその方向へと向けた。後々考えれば、理由なら色々あったのかもしれない。
夜風に当たりたかったから、窓越しではない星空が見たかったから、外の空気が吸いたかったから。
けれど、その時の慧音はどれも違うような気がした。ただ、行かなければならないと思ったのだ。
この先に足を踏み入れること、そうしなければならないと誰かに背中を押されているような気がして。
そう、後になって慧音は思うのだ。きっと、この夜空の下に自分が足を進めたのも、星の瞬きに身を委ねたのも。
――その全ては、きっと『運命』だったのだと。
扉を開け、テラスに出て、捕えた光景に慧音は息を呑んだ。
そこにはレミリアが居て。しかし、彼女の様子は普段の馬鹿なことばかり行っているような彼女ではなくて。
彼女は一人、椅子に腰掛けて酒を嗜んでいた。それは、普通に考えればただの何気ない光景で。
けれど、慧音はレミリアに何も言葉をかけることが出来なかった。レミリアが纏う空気が明らかに普段とは違っていたからだ。
今のレミリアは何処までも遠い存在で。それは夜空に瞬く星々のように。それは大空に掛かる虹のように。
触れてはいけない。触れてはならない。今、彼女を纏う世界を自分なんかが壊してはならない。
そのような事を慧音に思わせる程に、今のレミリアはまるで普段の彼女とは全くの別物であったのだ。
そんな空気を崩すように、レミリアは小さく息をついて苦笑し、慧音の方を向けて言葉を口にする。
「貴女はいつまでそこに突っ立っているつもりなのかしら?
さっさと扉を閉めてこちらに来なさい。大体、そんなところに居ても仕方ないでしょう」
「あ、ああ…」
レミリアの言葉に、慧音は呪縛からようやく解き放たれたように頷き、レミリアの方へと足を運ぶ。
慧音を見て苦笑するレミリアを見て、慧音はいつものレミリアだと洞察する。ならば、先ほどの彼女は一体なんだったのか。
声をかけられるまでのレミリアは、確かに普段の彼女とは違っていた。
神聖で近寄り難く、何よりこの世界を『視て』いなかったようにすら思える。訝しげな表情を浮かべる慧音を他所にレミリアは楽しそうに言葉を投げかける。
「パチェが戻って来るのをのんびり待っていたら、まさか来たのは貴女とはね。
こんな夜更けにわざわざこんな場所まで来るなんて、慧音もよっぽど暇人ね」
「暇人で悪かったな。お前こそ人の事は言えないだろうが。
人が買ってきた酒でパチュリーと二人、星見酒か。本当、良いご身分な事だ」
視線をテーブルに置かれた酒の方に向け、慧音はフンと呆れるように言い放つ。
彼女の視線の先には、昼間人里で買い、美鈴に渡した酒瓶が並べられていた。
そして、テーブルの上には酒の入ったグラスが一つ。レミリアの発言と、彼女の手に持ったグラスを見る限り、
恐らくこれはパチュリーの分の酒なのだろう。
「ふふ、何?もしかして貴女をここに呼ばなかったことを怒ってる訳?
いつもいつも固そうな頭ばかりしていると思えば、なかなか可愛いところもあるじゃない。
まあ、とりあえず席に座りなさい。このまま立ち話もなんでしょう?」
「私の言葉の何処をどう解釈すればそんな答えに辿り着くんだ。ったく…」
文句を言いながらも、慧音は空いた席へと腰を下ろす。
そんな慧音を楽しそうに見ながら、レミリアは再びグラスに口を着ける。少量を喉に通し、レミリアは慧音に告げる。
「少し待ってなさい。もう少ししたらパチェが貴女の分のグラスも持ってくる筈だから」
「…私がここを訪れるのを予知でもしていたのか?」
慧音の質問にレミリアは『さあ』と何か含んだような笑みを浮かべるだけだった。
もしかしたら、先ほどの驚いたような様子はブラフで、この場所に自分が訪れたのはレミリアの力によるものかもしれない。
む~っと少し悔しそうな表情を浮かべる慧音に、レミリアはククッと喉を鳴らして笑った。
そんな空気が疎ましかったのか、慧音は視線を酒瓶の方に向ける。その時、慧音はふとある事に気がついた。
卓上に並んでいる酒瓶の数と慧音の購入した酒瓶の数がどう数えても一致しないのだ。少しばかり減っている。
もしかしたらと考え、慧音はレミリアに尋ねかける。
「美鈴に酒を分けてあげたのか」
突然の慧音の言葉に、レミリアは一瞬目を丸くしたものの、
すぐに先ほどまでの表情に戻り、笑って返した。
「あんな子犬みたいにモノ欲しそうな表情をされてはね。勿論すぐに分けてあげたわよ。
それに他ならぬ可愛い美鈴の頼みだもの。ちょっとしたお願いにも応えてあげるのが主の器量ってものだわ」
「そうか。お前の事だから『酒が欲しければ私のいうコトを聞きなさい』とでも言うのかと思った」
「…慧音、貴女が私の事を普段どういう目で見ているのか良く分かった気がするわ。
というか、美鈴に酒を私の元へ運ばせたのはやっぱり貴女だったのね」
「ん。美鈴がお前に分けて貰えるように直接お願いしに行くからと頼まれてな。拙かったか?」
「拙くはないけど…驚いたわ。目を覚ましたら、すぐそこに居るんだもの。
両手一杯に酒瓶を抱えて、それこそ太陽みたいな眩しい微笑を浮かべて。
…本当に、驚いた。それこそ心臓に杭でも打たれたんじゃないかと思ったくらい」
『吸血鬼のお前が言うとそれはシャレにならないんじゃないか』と突っ込もうとした慧音だが、口を挟む事は出来なかった。
その時のレミリアの表情が、どうしようもなく優しくて。そして、どうしようもなく寂しそうで。
少なくとも、こんな表情を浮かべるレミリアを見たのは、紅魔館に来て初めてだった。
言葉に困っていた慧音だが、そんな彼女に救いの手を差し伸べるかのように、背後から扉を開く音が響いた。
慧音が振り返ると、そこにはパチュリーがグラスを二つ手に持ち、こつこつと二人の方へと足を進めていた。
「成る程ね。グラスをもう一つ用意して欲しいと言われたから何かと思えば」
「すまんな。もしかして二人きりの時間を邪魔してしまったか?」
冗談を言う慧音に『馬鹿ね』とパチュリーは小さく微笑み、慧音に持っていたグラスを渡す。
パチュリーからグラスを受け取る刹那、慧音は小さな違和感を感じた。言葉にならないほどの小さな。
そして、その違和感の原因が何なのかをすぐに突き止めた。――パチュリーが、慧音にグラスを渡した今もグラスを持っている事だ。
どうしてパチュリーがもう一つグラスを持つ必要があるのか。パチュリーの分なら既にテーブルに置かれているではないか。
そう考えながら、慧音は確認の意味も込めて視線をテーブルに向ける。
テーブルの上には確かに酒が注がれたグラスがあり、誰も座っていない椅子の前に置かれている。
しかし、そのグラスを気にする事も無く、パチュリーは空いた席に座る。その酒の注がれたグラスのある席ではなく、だ。
「なあ、二人とも。もしかしなくとも、私の他にも誰かあと一人ここに来るのか?」
慧音の疑問に、パチュリーとレミリアは互いに顔を見合わせて不思議そうな表情を浮かべる。
どうやら慧音の質問が理解できなかったらしい。その事に気付き、慧音は少しばかり噛み砕いて説明する。
「いや、そこに置かれている酒の入ったグラスが気になってな。
レミリアやパチュリー、そして私もグラスを既に持っているだろう?だから、その酒は一体誰のものかと」
慧音の質問の意図がようやく理解出来たらしく、レミリアは『そういうこと』と納得し、再びグラスに口をつける。
そして、酒を軽く口に含んだ後で、レミリアは微笑んで慧音に告げる。
「誰も来ないわよ。ここには私とパチェ、そして貴女だけ」
「しかし、ならばその酒は一体…」
「…これは家族の分よ。私やパチェ、フランの家族だった人の分のお酒。
この紅魔館に仕え、家族としても従者としても私達を支えてくれた、もう一人の大切な家族のね」
それは一体誰か。その人物は何処に居るのか。そのような事を、慧音は口に出来る筈も無かった。
何故なら分かってしまったから。遠くを見つめる愁いを帯びたレミリアの瞳が、何よりも一つの事実を物語っていたから。
――きっとその人物は、もうこの世には存在しないのだと。
「そうか…少しばかり無神経だった。すまない」
「馬鹿ね。何をそんな下らない事で謝っているのよ」
ククッとイジワルそうに笑うレミリアだが、慧音は相手にする事無く視線を酒の入ったグラスの方へと向ける。
その酒を喉にする人物は、もうこの世界には存在しない。その人物は、レミリアとパチュリーの従者であり、家族だったという。
グラスをじっと見つめながら、慧音は一人思う。それは果たして一体どのような人物だったのだろうか、と。
紅魔館に仕え、従者という立場でありながら、血のつながりの無い二人から家族と認められた程の人物。
ただ、先ほどのレミリアの口振りから一つだけ分かる事がある。その人物はきっと、レミリア達にとって本当に大切な人物だったのだろう。
亡くなった今もなお、レミリアにあのような表情を浮かべさせている事が、その何よりの証拠だ。
押し黙ったまま、その人物を心に想像する慧音に、レミリアはそんな彼女の表情を覗き込みながら楽しそうに尋ね掛ける。
「…気になる?私達の家族だった人が一体どんな人物だったのか」
「いや…それは…」
「レミィ、その尋ね方は少しイジワルよ。
そもそも慧音が興味を持つように嗾けたのは他ならぬ貴女でしょうに」
酒をグラスに注ぎながら口を挟むパチュリーに、レミリアは『そうだったかしら』とワザとらしく白を切る。
その二人の会話に、慧音は自分がからかわれたのだと言うコトを理解し、気にし過ぎた自分を嘲るように小さく息をついた。
パチュリーから渡された酒瓶を傾け、自分のグラスに酒を注いでゆく慧音を横目で見つつ、レミリアは再びグラスに口付ける。
どうやら今宵の彼女はいつにも増してハイペースで酒を嗜んでいるらしい。普段の彼女なら、もう少し緩やかにワインを楽しんでいるのだが。
慧音が酒をグラスに注ぎ終えるのと同時にレミリアはグラスから口を離し、慧音に囁くように口を開いた。
「…慧音、貴女は美鈴の事が好き?」
「はあっ!?お、お前、いきなり何を唐突に…」
「真面目な話よ。質問に答えて頂戴」
レミリアの方を見て、慧音は言葉に詰まる。彼女の瞳が何一つ混じり気の無い、真剣そのものだったからだ。
しばらく沈黙を保っていたが、やがて根負けしたように溜息を一つつき、慧音はレミリアに言葉を返す。
「…好きだ。無論、お前や咲夜のような意味での好きという意味ではないぞ。
あれだけ純粋で心優しい人間…いや、妖怪を一体誰が嫌いになれると言うんだ。
美鈴はきっと、そこに居るだけでみんなを元気にさせる…そんな魅力的な少女だと私は思う。
例えるなら太陽か、向日葵か…それが私の美鈴に対する印象と感情だ」
慧音の答えに満足したのか、レミリアは微笑を浮かべ、そっと瞳を閉じる。
そして、誰に対するでもなく、そっと語りかける。まるで古ぼけた己の記憶の一ページをゆっくりとその手で開いていくように。
「…紅美鈴が向日葵なら、あの娘は桜のような娘だったわ。
寛容と慈愛の心に溢れ、いつも優しい笑顔を浮かべて私達の傍で美しく佇んでいた。
まあ、言葉遊びで言うならば、桜よりもへレニウムやロウバイ辺りの方がぴったりなんでしょうけれどね」
少し遅れて慧音は気付く。
レミリアの言うあの娘というのが、彼女達の今は亡き家族の事を指しているのだという事に。
一度言葉を切り、レミリアはゆっくりと両の瞳を開く。それはまるで、過去と現在とを再びつなぎ直しているかのように。
見開かれた紅の瞳を慧音に向け、レミリアは悠然と微笑みを湛えて語りかける。
「今日という日ももうすぐ終わる。けれど、日付が変わるにはまだ幾分の猶予がある。
その残された幾許かの時を私に譲りなさい、上白沢慧音。そして今宵、貴女の創る幻想郷の歴史に一人の名を刻みなさい。
…貴女には聞く権利も義務もある筈よ。経緯はどうあれ、共に紅魔館で同じ時を過ごし、紅美鈴を好きだと言ってくれた貴女にはね」
その表情に、慧音は何も言葉を発する事が出来なかった。それは何処までも優しくて、それは何処までも寂しくて。
けれど、今の彼女には一つだけ分かることがある。きっと、今夜の事は歴史に刻むまでも無く、忘れられない時になりそうだと。
『どうしてそんなに震えているの?何か怖い事でもあったの?』
膝を抱え、一人身体を震わせる紅髪の少女に、黒髪の少女は尋ねかける。
それはまるで、鏡に映し出されたように二人は似ていて。異なるところは髪の色。ただ、それだけの違い。
言葉を投げかけられた紅髪の少女は、顔を上げる事無く言葉を紡ぐ。
『怖い。凄く怖い。貴女と一緒にずっと生きてきたけれど、こんなに怖いと感じたのは初めて。
こんな感情、私は知らない。今まで感じたことも無かった』
『何が怖いの?死ぬ事が怖いの?』
心配そうに顔を覗き込む黒髪の少女に、紅髪の少女はゆっくりと首を横に振って否定する。
死など怖くは無い。この身は既に死を経験した身。今更死は恐れる対象などではありはしない。
けれど、少女は強く恐怖を感じていた。怖いと、この感情から逃げ出してしまいたいと。
『…それじゃ、貴女は一体何を恐れているの?』
自分は一体何を恐れているのか。
死をも乗り越えた存在である筈の自分が、一体何に怯えているというのか。
ああ、そんな事は決まっている。全ては目の前の少女…彼女の死の間際を目に焼き付けた日から。
怖い。怖い。どうしようもなく怖い。私は今、こんなにも恐怖している。私は今、こんなにも――
悪魔の館、紅魔館。人々に恐れられ、恐怖の象徴として畏怖され続けている悪魔の住処。
その一室で、紅魔館現当主は人差し指と中指で一枚の書簡をヒラヒラとさせて何やら不満そうな表情を浮かべていた。
それこそ、いつ怒りの余り声を張り上げてもおかしくない程に彼女は不機嫌な様子を呈していたのだ。
「ねえ、パチェ。私はそろそろ八雲の馬鹿妖怪をぶん殴っても許されると思うのだけど」
「そんな事を唐突に訊ねられても返答に困るわね。
事情を知らない私には、レミィに対して頑張ってとしか言いようがないもの」
そんな怒りの捌け口を求めるように愚痴を零してくるレミリアに、
パチュリーは読んでいる本から視線を上げることもなく当たり障りの無い回答を告げるだけだった。
そんな親友の態度が幾分気に食わなかったのか、レミリアは更に不満そうな表情を浮かべて、指に挟んでいた手紙をパチュリーの方へと投げるように送った。
その手紙を受け取り、パチュリーは視線を書物からそちらの紙面へとそっと移す。
「…何やら物騒な言葉が沢山並べられてるわね、滅せよだの我が家族の憎しみだの復讐の時だの。
少し妬けてしまうわ。私に内緒で、こんなに愛情が込められた情熱的なラブレターを貰っていただなんて」
「それの何処に愛情が込められていると言うのよ何処に。
ったく…あれから二十年余りも経ってると言うのに、アイツの残した負の遺産は全然減らないじゃない。
直接紅魔館に乗り込んだ分と併せて数えれば、これで一体何回目だと思っているのよ」
「むしろ大きくなっていってるわね。最近一月に一度どころのペースじゃないものね。
まあ、『元』主様が手にかけた妖怪達の子供が成長したと考えれば、妥当な年数ではあったけれど」
レミリアの言葉に同意しつつ、再びパチュリーは書簡へと視線を落とす。
その書簡の内容はレミリアへの果たし状だった。書面に書かれているのは殺し合いを果たす日時の指定、
そしてレミリアを始めとした紅魔館の人々に対する憎悪の言葉の数々であった。
レミリアの様子から分かるように、実はこのような書簡が送られてくるのは一度や二度では無かった。
それこそ回数など覚えていない程、レミリアがうんざりしても仕方ない枚数が彼女の元に今まで届けられていたのだ。
果たし状を叩き付けられるだけならまだしも、時には徒党を組んで紅魔館に直接強襲する妖怪達もいた。
「本当、忌々しいわね…殺してもなおアイツの影に付き纏われているかと思うと吐き気がしそう」
「仕方ないわ。いくら八雲の管理者が元主様を葬り去ったとはいえ、紅魔館は未だに健在だもの。
家族や仲間を殺された人間や妖怪達にとっては、私達も元主様と何ら変わらないのよ。私達は彼等にとって憎悪の対象でしかない。
たとえ八雲の管理者が幻想郷の住人に何を説明したとしても、ね」
「フン…いいわ、八雲の妖怪に責任を追及するのは止めておいてあげる。
一応契約は守ってくれたみたいだし、ここから先は私達生き残った者の問題だものね」
パチュリーから戻ってきた手紙を高密度の魔力で消滅させながら、レミリアは溜息交じりで言葉を切った。
彼女達がこうして幻想郷の妖怪達に憎まれる理由、それは今からニ十数年も前の事に遡る。
当時、外の世界からこの幻想郷に転移してきた紅魔館の主であるレミリアの父は
部下達に幻想郷の妖怪や人間達を狩る事を命じた。それは、この世界に吸血鬼の恐怖と己が力を誇示する為。
あまりの非道な行いに異を唱えたレミリアと、この世界の管理者達の手によって、レミリアの父は討たれたものの、その傷痕は未だ癒える事はなかった。
八雲の妖怪との契約により、紅魔館の生き残りの人々が無実であると証明されたが、
彼等に家族を殺された者達の心がそう簡単に納得できる訳がない。彼等の心に紅魔館、ひいては主の娘である
現当主、レミリア・スカーレットに対して憎悪の炎が燃え上がるのも無理からぬことであった。
たった一月という短い期間で、幻想郷の住人達の心に限りない恐怖と絶望、そして憎しみの色を与えた
その代償はあまりにも大きなものだったのだ。例え、彼女達生き残りに何の罪も無いとは分かっていても、だ。
再び小さく溜息をつくレミリアに、パチュリーは本から視線を外し、彼女に向かって訊ねかける。
「それで、今回も行くの?」
「行くしかないでしょう。どうせ放置したところで、直接紅魔館に乗り込んでくるのは目に見えてるもの。
それなら事前にアポを取ってくれる分、こっちの方がマシと言うものよ。文面に並びたてられた愛の言葉は鬱陶しい事この上ないけれど」
「わざわざ決闘に乗ってあげるなんてレミィも律儀ね。
別に貴女が向かわなくても問題ないでしょうに。私が代わりに行ってあげましょうか?」
「冗談。パチェの力量は充分理解しているけれど、貴女は喘息があるでしょう。怖くて絶対に送り出せないわよ。
それにもしパチェに傷一つでも付けられたら、私はそいつを無事に帰してあげる自信がないわ」
うんざりとした表情を浮かべるレミリアだが、彼女の言葉がパチュリーを心配してのものだと言うことは痛いくらい本人に伝わっていた。
だからこそパチュリーはレミリアの言葉に何も意見を挟む事はなかった。
ただ、心の中で『それは私も同じなんだけどね』と本人に伝えられない本音を呟きながら。
太陽に変わり、月が世界を支配する刻。
闇に染まる大空を翔け、レミリアは一人果たし状に指定されていた場所へと向かっていた。
天狗にも劣らぬ速度で風を切りながら、レミリアは今日何度目かの溜息をつく。これで一体何度目の復讐劇なのだろうと。
彼女の父が生んだ悲劇は終わったが、その傷痕は彼女がしっかりと背負う事になってしまった。
しかし、その事でレミリアは父をこそ恨むものの、復讐を果たそうとする妖怪達のことを憎む事など出来なかった。
仕方が無いのだと心から思う。彼等の平和を、幸せな日々を蹂躙したのは他ならぬ紅魔館に棲む我々で。
家族や仲間の命を奪った者達が、『元凶である主達は死にました。私達は無罪です』などと言って誰が納得出来るだろう。
たとえその者達が非道に荷担していなかったなど、そんな事は関係が無いのだ。
紅魔館に棲んでいた、それだけで彼等にとっては憎悪の対象に過ぎない。それだけで憎むべき悪鬼達なのだ。
だから、彼等が未だに自分達に恨みを持つのは仕方が無い。その憎悪は甘んじて受け入れよう。
結局、自分達は何も出来なかったのだ。父の蛮行を知って、止める事が出来なかった。それは確かに自分達が背負うべき罪に他ならない。
けれど。それでもレミリアは思うのだ。一体このような事がいつまで続くのだろうかと。
ただの決闘なら構わない。相手がただ純粋にこの命を欲すると言うのなら、レミリアも喜んで相手の命を刈り取るだけだ。
だが、この決闘はレミリアのモノではない。相手は常に自分の向こうに今は亡き父を見ている。
娘である自分に奴の悪行を重ね、都合のいい復讐の対象としか視ていない。そんな殺し合いに一体何の意味があるのだろう。
この決闘は最早自分にとって決闘とも殺し合いとも呼べるものではない。何故ならそこに自分は存在しないのだから。
その答えに辿り着いたレミリアは、これまでの決闘で誰一人として命を奪う事はなかった。
戦闘不能にし、魔眼によって強力な暗示をかけて、相手に紅魔館の事を忘れさせる。そんな事の繰り返しだった。
しかし、どんなに決闘を繰り返しても、その数が尽きる事は無かった。むしろ増えている様子すらある。
だからこそレミリアは溜息をつかずにはいられないのだ。一体この負の連鎖はどこまで続くのだろうかと。
そして、この罪悪の鎖はいつの日か断ち切られるのだろうかと。最後に一つ息をつき、レミリアは地上へと舞い降りた。
「…来たな、レミリア・スカーレット」
「招待したのは貴女でしょう。呼ばれなきゃわざわざ足を運ぶ訳ないじゃない」
草原に降り立った己の前に立ち尽くす妖怪に対し、レミリアは軽口を叩きつつ相手を観察する。
目の前に立つは外見こそは二十歳に満たぬ少女だが、その妖力は一目でなかなかのものだと感じ取る事が出来る程に溢れている。
着ている服こそ人間と変わらないが、彼女が何の妖怪かを示すには充分なモノが頭と臀部についている。
長く美しい長髪の上にピンと張った二つの獣耳、そしてお尻の辺りから生えて風に棚引く二本の尻尾。
それこそが彼女が無謀にも吸血鬼と決闘するに相応の存在であることを証明していた。
「…化け猫ね、それも純血の黒猫。
妖怪や人間には数えられないくらいケンカを売られたけれど、妖獣とやるのは今回で二回目ね」
「そうだ!私は誇り高き凶兆の黒猫!お前達に家族を奪われた化け猫の生き残りだ!!」
予想通りの憎言に、レミリアは口を挟む事無く受け入れる。
戦う前に相手の憎悪の言葉を聞くこと、それはレミリアが己に課した一つの贖罪であった。
彼等の気持ちは痛いほどに分かる。しかし、彼等の望み通り、この首を渡すわけにはいかないからだ。
そして彼等の言葉を聞く度に、レミリアは己の無力さを知る。父の罪を背負う自分が出来る贖罪など、この程度しか出来ない事に。
「貴様に分かるか!?ただ一人生き残った私の気持ちが!!憎悪が!!あの日の絶望が!!
父と母は殺され、まだ人の姿に化ける事も出来ぬ程に幼い妹は死体すらその場に残されなかった!!
家に帰ればいつもの光景が待っていると思っていたのに…そこにあったのは家族の死体だけだったんだ!!」
身を切るような悲痛な叫びにも、レミリアは動じない。けれど、それは表面的な様子だけで。
その証に、彼女の拳は今にも割れんばかりに強く握られていた。堪えろと。堪えろと。悪役をしっかり貫けと。
たとえこの場で何を申し開いたとしても、聞き入れられる訳が無い。そして何より、今更己の罪を薄めようとも思わない。
彼女には資格がある。紅魔館の生き残りであり、その住人の責任を両肩に背負う現当主の自分を責める責任が。
たとえ己が荷担していなくとも、この身体にはあの男の血が流れているのだ。
この罪過だけは他の誰かに背負わせる事などさせはしない。たとえ同じくあの男の血を分けた愛する妹にも、だ。
「フン、返す言葉も無いか…別段今更謝罪など求めようとは思わないが。
そのような事に何の意味も無い。我が両親、我が妹の命を奪ったその罪は貴様の命で贖ってもらう」
「…忌々しいわ。本当に忌々しい」
鋭利な凶爪を構え、戦闘態勢を整える妖獣に視線を向けることも無く、顔を俯けたままレミリアは一人言葉を零す。
そして夜風の舞う空に溶かすように、ゆっくりとその身を浮上させる。夜の世界の覇者、その威厳を全ての存在に知らしめるかのように。
「ある者は目の前で我が子を嬲り殺しにされた。ある者は目の前で愛する妻を蹂躙され殺された。
ある者は目の前で友人を子供が玩具で遊ぶかのように手足をもがれ殺された。
…これが誇り高き吸血鬼の所業か。これが尊きブラド・ツェペシュの末裔たる我等の為すべき行いか」
その光景に妖獣は息を呑む事すら出来ずにいた。
先ほどとは比較にならないほどに膨れ上がっていく吸血鬼の妖力に、彼女は身動き一つ取る事が出来ないのだ。
その力のなんと強大な事か。青天井に跳ね上がるレミリアの魔力の胎動に対し、己のなんと儚き存在か。
それはまさしく絶対強者。そしてこの身に訪れる絶対的な死の契約。この身に待つは滅びの道のみ。其れほどまでに格が違い過ぎるのだ。
呼吸すら忘れ、その存在に圧倒される妖獣に、憂いを帯びた表情を浮かべて、レミリアは告げる。
「…貴女の言う通り、謝罪の言葉など不要。そんなものには何の意味も存在しない。
だから、私は私の出来る一番の償いを貴女にしてあげるだけ。
愚かな吸血鬼に大切な人々の未来を摘まれた貴女に、私が出来る唯一の事…」
「…償いだと…巫山戯るな!!貴様が何をしようと父も母も妹も返ってこない!!!
今更贖罪を謳うつもりなら、その首を今すぐ掻き切ってみせろ!!!!!!」
激昂して声を張り上げ、妖獣は地を蹴ってレミリアへと跳躍する。
その速度は神速、化け猫ならではの身の軽さを活かした並の妖怪では視界に映すことすらままならぬ領域。
相手が並の妖怪ならばその心臓に容易く彼女の凶爪が抉り込んでもおかしくはないレベルだった。…そう、相手が並の妖怪ならば。
「…なっ!?」
瞬間、妖獣の表情が驚きに凍る。
彼女の右腕がレミリアの胸部に到達せんとする刹那、レミリアが彼女のその手首を手で掴んだのだ。
否、掴んだという表現では誤解が生じる。ただ掴まれただけならば彼女の表情がここまで驚きに歪むはずもない。
そう、彼女は確信していた。己の腕が確実にレミリアの心の臓を貫いたと。
何故なら彼女が爪を身体に突き立てる瞬間まで、レミリアは微動だにすら反応していなかったのだから。
瞬きする間もない。刹那という表現ですら足りない。それほどの短い時間で、レミリアは彼女の凶爪を片手で止めてみせたのだ。
『気付けば腕を掴まれていた』。きっと、彼女の驚きの理由を噛み砕くなら、このように表現するのが一番なのかもしれない。
やがて妖獣の表情が驚愕から痛みに歪む。彼女の腕を握るレミリアの握力がグンと跳ね上がったからだ。それこそ、骨の軋む音が聞こえてもおかしくないほどに。
「ああああっ!!!」
レミリアの手を振りほどく為に、妖獣は大気を劈く咆哮と共に残る左腕で振り上げる。
だが、その腕が振り下ろされる事は許されない。掴まれた右腕をレミリアがあらん限りの力で上空へと引っ張ったからだ。
恐るべき力に振り回され、妖獣は身体を子供の玩具のように上空へと投げ出される。しかし腕は未だ吸血鬼からは解放されない。
平衡感覚を強制的に失わせた瞬間、レミリアはそのまま地面へ滑空し、勢いをつけたまま妖獣を大地に叩き付ける。
「がああっ!!!」
背中から当然受身も取る事無く、無慈悲に草原へ身体をめり込ませられた彼女だが、解放の時は未だ訪れない。
その腕は未だレミリアに握られたまま、彼女は強制的に身体を地べたから引き上げられる。
そして、休む間もなく再び地面へと打ち付けられる。悲鳴を上げる間もなく引き上げられ、再び。引き上げられ、再び。
もしこの光景を普通の者が見たならば何と無慈悲なと目を背けるだろう。レミリアの事を悪魔と罵る者もいるのかもしれない。
だが、それはあくまで普通の者が見ればだ。もし、戦闘に関して実力者が見たならば、恐らく声を上げてレミリアを賞賛するに違いない。
まずは、彼女の妖獣との戦い方。レミリアのとった戦闘方法は化け猫との戦いに際し、実に理に適っている。
化け猫の恐るべき点はその驚異的なスピードと全身のバネ、反射能力にある。
だが、レミリアはその点をたったの一度で全て潰してみせた。身体を接するどころか腕を掴み、距離をゼロに保ち、
化け猫からの反撃すら許さない。一度も戦ったことのない化け猫相手のセオリーを、彼女は己が戦闘センスでいとも簡単に見破ってみせたのだ。
そして、次に賞賛されるのは彼女の攻撃法。投げて身体を地面に叩き付けるという単純作業の繰り返しで、
見ている側からすれば惨たらしく感じるかもしれないが、実はこの方法はそれほど身体にダメージを残さない。
逆に彼女、吸血鬼が普通の攻撃に転じてしまえば、化け猫はひとたまりもないだろう。
下手をすればいとも簡単に身体に穴を開けてしまう程に。それほどのスペックの差が化け猫と吸血鬼には存在するのだ。
ましてやレミリアは過去数多の吸血鬼の中でも五指の指に入るほどの実力者。
最早、この二人の戦闘は戦いなどと表現出来るものではない。蟻と巨象、其れほどまでに実力の開きが存在するのだから。
妖獣が跳躍した瞬間からレミリアの元に辿り着く僅かな時間の中で、レミリアは攻略法と手加減法の二つを瞬時に選び取ってみせたのだ。
「うああ…」
地面に幾度と無く叩きつけられ、ボロボロにされ意識が朦朧としている妖獣から、レミリアはようやくその手で離した。
レミリアから解放されても、妖獣は身体を動かす事はない。あれだけ打ち付けられ、そのような事が出来る筈もないのだ。
相手の戦闘不能を確認して、レミリアは妖獣の首を掴み、己が顔の位置よりも高く持ち上げる。
最早抵抗すら出来ない妖獣に対し、長らく口を閉ざしていたレミリアはゆっくりと言葉を紡いでゆく。
「口はまだ動く?動くなら言葉を残しなさい。私に対して心ゆくまで憎悪の言葉を投げかけなさい。
貴女の叫びは私がしっかり己の心に刻んであげる。貴女の最後の言葉は、私がしっかりと受け止めてあげる。
…父が貴女に犯してしまった償う事も出来ぬ罪過は、私がしっかりと背負って生きてゆくから」
分かっている。何をしたとしても、償えないことくらい。何をしたとしても贖えないことくらい。
それだけの事を父はやったのだ。己の下らぬ欲望の為に、無辜の妖怪や人間達の幸せを踏みにじった。
たとえどれだけの反省の言葉を並べても、彼女の家族は返ってこない。生き返ったりなどしない。
だから、受け入れる。彼女達の憎言をその身に受け入れる。こうすることでしか、己が贖罪を果たす事など出来ないのだから。
妖獣からの憎しみで込められた罵倒を待つレミリアだが、一向に待てど彼女からの言葉は返って来ない。
もしや気絶してしまったのかと、視線を妖獣の方へ向けたレミリアだが、そこで彼女の表情は凍り付いてしまう。
何故なら見てしまったからだ。家族を失った者の、その悲しみを胸に宿した者が浮かべる本当の素顔を。
「返してよ…お父さんを、お母さんを…あの娘を返してよ…
私達が何をしたって言うのよ…私達はただ、家族一緒に幸せに暮らしていただけなのに…
それ以外、何も要らなかったのに…どうして私から大切な人を奪うのよ…」
泣いていた。先ほどまでの雄々しき狩人の表情は消え、少女はただ涙を零していた。
紡ぐ言葉はレミリアへの罵倒などではなかった。ただ、純粋に求めていた。返して欲しいと。あの幸せだった日々を返して欲しいと。
感情が煮え滾るのをレミリアは必死に抑制する。彼女の心に深い悲しみの波が押し寄せてゆく。
駄目だ、感情を吐露するな。妖獣にとって、この身は最後まで悪人であらねばならない。そうしなければ、救われないではないか。
家族を奪われ、幸せを奪われ、復讐心でしか今この場に奮い立たせる事を許されなかった彼女から、
憎む対象を奪ってしまっては、それはどうしようもなく許されない事で。そう、自分は最後まで彼女にとって憎むべき吸血鬼であらねばならないのだ。
涙する妖獣の言葉を聞き終え、レミリアは彼女の顔をそっと己が元へと引き寄せる。
彼女の瞳に己が紅の瞳を映し出し、ゆっくりと魔力を瞳に宿してゆく。其れは吸血鬼が持つ暗示の魔眼。
「…全てを忘れなさい。貴女にはまだ残された者として歩まねばならない未来がある。
今はただ、ゆっくりと眠りなさい…次に目を覚ました時、貴女は全ての悪夢から解放されている筈だから」
レミリアの瞳に支配され、やがて妖獣は力尽きるようにその意識を手離した。
彼女が眠りについたのを確認して、レミリアは妖獣をそっと地面へと横たわらせた。
「…嫌気が差すわね、己の偽善ぶりに。
こんな事をしても、この娘のような人々に幸せな時間なんて返ってこないというのに」
奥歯を噛み締め、レミリアは拳を握り締める。
このやり場の無い怒りとやるせなさは一体何処へ向ければいいと言うのか。誰でもいいから自分に教えて欲しかった。
魔眼にによる記憶の消去は決して救いになるとは思わない。むしろ、その者の家族との思い出を消す最低の行為だ。
けれど、その行為によって犠牲者が新たな一歩を踏み出せるのならば、その罪科は私が背負おう。
父の残した負の遺産、紅魔館への憎しみは私への憎しみ。たとえ一欠けらたりとも他の人々に背負わせはしない。
八雲の妖怪との契約を結び、親友や妹と共に生きる未来を選択した時にそう誓った。紅魔館の主として生きることを選んだその時に。
だから、堪えろ。怒りに、悲しみに、憤怒に、絶望に。この身に縛り付けられる憎悪という名の罪の鎖に。
いつの日か、憎しみの連鎖が断ち切れる日が訪れる。いつの日か、幻想郷の人々に分かってもらえる日が訪れる。
その時まで――その時とは一体何時だ。あとどれ程耐えればいい。あとどれ程愚かな父の罪をこの身に受ければいい。
こんなにも理不尽で、やるせなくて。そして何よりも先ほどの妖獣の涙。家族を想い一人泣く少女の姿。
あのような光景を自分はあと一体どれ程見れば許されるのか。其れ程の罪過を本当に自分一人で背負う事が出来るのか。
分かっている。これは絶対に許されないことだと。それでも、それでもレミリアは願ってしまう。
誰でもいい。
誰でもいいから私をこの憎しみの輪廻から解き放ってほしい。
誰でも構わないからあの男の呪縛から私を――
「…馬鹿馬鹿しい。他の誰かに救いを求めようとするなんて、ただ逃げてるだけじゃない。
私は一体いつからこんなに弱くなったのかしらね…こんな調子じゃパチェに笑われてしまうわ」
軽く自嘲気味な笑みを零し、レミリアは気を失った妖獣の周囲に人避けの魔術を組み上げる。
レミリアがその魔術を組み上げる理由は一つ。気絶した妖獣が他の人間や妖怪達に襲われないようにする為だ。
一日と持たない簡素な魔術だが、持続期間はそれくらいで構わない。少なくとも、この妖獣が目覚めるまで効果を保てば良いのだ。
魔術式を完成させ、レミリアは紅魔館へ戻る為に、その身を大空へ翻そうとしたその時だった。
「この娘はこのまま放っておいても構わないんですか?」
背後から聴こえた澄んだ声に、レミリアは驚きその方向を振り返る。
そこには、一人の美しき少女が笑顔で佇んでいた。闇夜の中でも分かるほどに美しき紅髪が特徴的で、その身に包むは外の世界、大陸の衣類か。
だが、レミリアの表情を驚きの色で染め上げた理由はそのような事ではない。彼女が近づいた『気配』が一切感じられなかったのだ。
現在のレミリアとその少女の距離は数値にして5メートルも無い。
それほどまでの距離への接近を、レミリアに感知される事も無く、少女はやってみせたのだ。
相変わらずニコニコと笑みを絶やさない少女に、レミリアは表情を驚きから疑心へと変えてゆく。お前は何者だ、と。
「不思議ね。人や妖怪の類の気配が近づいていた事を感じ取る事が出来なかったわ」
「あ、もしかして驚かせちゃいました?
ごめんなさい、別にそんなつもりじゃなかったんですが」
気に障ったと勘違いしたのか、その少女はレミリアにペコリと一つ小さく頭を下げる。
その少しばかりずれた反応に、レミリアは思わず緊張の糸を緩めてしまう。軽く息をつき、レミリアは先ほどの質問の答えを返す。
「放っておいても構わないように人避けの魔術を組んだのよ。
私より弱い者には姿すら見えないでしょうからね。何処ぞのスキマ妖怪辺りにでも見つからない限り、誰かに襲われることはないわ」
レミリアの説明に、その少女は『成る程』とポンと手のひらを叩いて納得する。
相変わらず気の抜けそうになる返事をする少女にレミリアは訝しげに視線を送りつつも、何故か自分の説明に違和感を感じていた。
それは本当に小さな違和感で、気にかけなければ流されてしまいそうな程の。果たして自分の説明の一体何処に違和感が…
「…それよりも貴女、一体何者?わざわざ私の前に出てくるなんて何か用でもあるのかしら。
まさかとは思うけれど、貴女も私に恨みを持っている妖怪か人間な訳?
気分的にも今日はさっさと帰ってゆっくりしたいんだけど…」
もし、そうならば仕方が無い。少しばかり付き合ってあげる。
己が意思を伝えるかのように、レミリアは右腕を顔の前まで掲げ、鋭い凶爪を伸ばして少女に威圧する。
レミリアとしては、その威圧に恐怖してもらい、何処へでもいいからそのまま逃げ去ってくれるのが一番理想だった。
先ほどの妖獣との遣り取りのせいで、気分的には最低だったし、何より自分で口にした通り、一刻も早く紅魔館に戻りたかった。
こうして平然を保っているように見えるレミリアだが、未だ心の中は苛立ちとやるせなさによる感情の波紋が激しく広がっていた。
もし、今戦ってしまえば相手を五体無事に返す程の冷静さを保てる自信が無い。それ程までに先ほどの妖獣の涙はレミリアの心を大きく揺さ振ってしまったのだ。
紅髪の少女を射殺すような視線で睨みつけるレミリアだが、その少女は恐るべき重圧の掛かった吸血鬼の視線を物ともせずに言ってのける。
「真逆。初めて会ったばかり、名前も知らない貴女をどうして私が恨まなければならないんですか。
まあ、用があるのは確かなんですが…」
その言葉に、レミリアは表情を更に険しくする。
彼女は自分の事を知らないと言った。それはつまり、父の悪行の被害者ではないということ。
それなのに、彼女は自分に用があると言う。この状況で一体何の用があると言うのか。
警戒を更に固め、己の魔力を再び戦闘形態へとシフトしてゆく。相手の狙いが分からない以上、気を緩める事は許されない。
表情を未だに変えない少女に対し、血も凍るほどの殺気を放つレミリア。普通の者ならばこの場に立つ事すらままならない程の圧倒的なプレッシャー。
そんなレミリアに、少女はクスリと微笑み、言葉を紡いだ。その言葉次第では一瞬で仕留める、そう心で決めたレミリアに対し、少女は――
「…実は大変お恥ずかしいお話なのですが、どうやら私、迷子になってしまったみたいで。
そこでお願いがあるのですが、今晩だけで構いませんから貴女のお家に泊めて頂けないでしょうか」
「…は?」
――とまあ、ある意味、本当にとんでもない事を平然と言ってのけた。
あまりに理解し難い言葉だった為か、レミリアは威厳も何もかも忘れてしまったかのようにポカンと呆けてしまった。
それこそ、先ほどまで心の中で渦巻いていたドロドロした負の感情を全て洗い流されてしまったかのように。
闇の支配する空の下、草原を撫でるように夜風が流れ行く世界。それが彼女、レミリア・スカーレットと後の親友との出会いであった。
「それでレミィは、あの娘をそのまま連れて帰ってきたという訳ね。
本当、紅魔館の主様の優しさを通り越したお人好しは幻想郷中に響き渡るわね」
「だって仕方ないじゃない!いくら駄目だって言ってもアイツ、人の話を少しも聞こうともしないんだもの!」
呆れるように溜息をつくパチュリーに、レミリアはガンガンと机をその手で叩き付けながら訴える。
結局、レミリアは紅髪の少女を紅魔館へと連れ帰る事を選択した。その理由は勿論、彼女がパチュリーに反論した通りである。
「どれだけ駄目だって言っても『お願いします』とか『このままじゃ私死んじゃいます』とか『死んだら貴女を恨みます』とか
『もしかしたら今夜私が枕元に立つかもしれません』とか『貴女は迷い人を簡単に切り捨てるほど狭量なんですね』とか
何度も何度も何度も何度も私に言ってくるのよ!?しかも紅魔館に飛び去ろうにも足元に抱きついて離れないし!
もう鬱陶しいを通り越してウザいを通り越して鬱陶しいったらありゃしない!!」
「落ち着いてレミィ。鬱陶しいが重複してしまっているわ」
「それだけ本当に鬱陶しかったのよ!!あーもう!本当に何なのよアイツは!!」
苛立たしげに頭を抑えるレミリアを横目で見ながらも、パチュリーは一人思う。
カタチはどうあれ、こんな風にレミィが自分の感情を表面に全て曝け出すのは本当に久しぶりの事だと。
特に最近のレミリアは溜息をついたり憂いた表情を浮かべたりと、気分的に滅入っていたようにパチュリーには見えていた。
だからこそ、パチュリーは密かに期待していた。
これはもしかするとレミリアの連れてきた少女が、彼女に対して良い方向に働いてくれるのではないか、と。
そんな二人の心を当然知る由も無く、部屋の扉が開き、そこから紅髪の少女が姿を現す。
湯上りなのだろうか、身体を上気させ、髪はしっとりと濡れていた。先ほどレミリアと出会った時のまま、
柔和な笑みを浮かべながら、その少女はレミリア達と向かい合うように、テーブルを挟み、その椅子に腰を下ろした。
「泊まらせて頂けるどころか、お風呂まで貸して頂いて本当にありがとうございます。
こんなに大きなお屋敷も初めてなんですが、あんなに立派なお風呂も初めてで凄く感動しちゃいました」
「フン、そんなの当然じゃない。この館は悪魔の棲む館、この私、レミリア・スカーレットの居城なのよ。
私が住む館に質素なんて何一つ許されないわ。この館にあるもの、その全てが一流と知りなさい」
「貴女はレミリアさんとおっしゃるんですか。スカーレット…一色に染まる鮮やかな緋色。素敵ですね。
豪華なお風呂、本当にありがとうございました、レミリアさん」
ペコリと頭を下げる少女に、レミリアは彼女から視線を外すようにして再びフンとそっぽを向く。
どうやら、自分の館が褒められた事が満更でもなかったらしい。けれど、素直に喜ぶのも嫌らしい。
親友は本当に気難しいお姫様である。そんなレミリアに代わり、パチュリーが少女に向かって口を開く。
「貴女がお風呂に入ってる間、大体の事の経緯はレミィから聞いたわ。
私はパチュリー、パチュリー・ノーレッジよ」
「パチュリーさんですか。よろしくお願いします」
「よろしく。早速で悪いのだけど、貴女から話を色々と聞かせて貰うわ。
悪いんだけど、貴女が本当にレミィの命を狙っていないと証明されている訳ではないから。
突っ込んだ質問もするかもしれないけれど、この館に泊まる為の手続きとでも考えて頂戴」
「はあ、全然構いませんが…レミリアさんは誰かに命を狙われたりしているんですか?」
「色々と事情があるのよ、色々とね」
質問を濁して返すパチュリーの言葉に、少女は首を傾げつつも、『分かりました』と返事を返した。
ただ、パチュリーの言葉にレミリアは納得していないのか『別に必要ないんだけど』と小さく呟いていたりした。
どうやら彼女は心配性な親友の配慮が、自分を過小評価されたように感じてしまったらしい。
そんなレミリアを気にすることも無く、パチュリーは再び少女に対し質問を投げかける。
「まずは貴女の名前を教えて頂戴。
一夜とはいえ、この紅魔館の住人となるのだから、名前を知らないと呼ぶのにも不便だわ」
「あ…すみません、自分の名前をお伝えする事を完全に忘れていました。
私は美鈴――虹美鈴と申します。どうかよろしくお願いいたします」
「ホンメーリン?八雲や博麗程ではないけれど、少し聞きなれない響きね。
文字はどのように書くの?」
テーブルの上に置かれていた適当な紙と羽ペンを拾い上げ、パチュリーは美鈴と名乗った少女に渡す。
受け取った紙に『虹美鈴』と達筆な文字を書き上げ、少女はその紙をパチュリーへと返した。
「…東洋ね。それもかなり大陸寄りの文字だわ。そういえば服装も外の世界のモノかしら。
もしかして貴女、幻想郷に入ってまだ日が浅い?」
「幻想郷って何ですか?」
少女の返答にパチュリーは目を丸くする。まさか、彼女はこの世界が何であるかも知らないのか。
ただ、パチュリーとは違い、レミリアは薄々とは感じていたのか、あまり驚きを見せる事は無かった。
少女の書いた名前をじっと見つめながら、今まで黙していたレミリアは久方ぶりに口を開く。
「貴女、どうしてあの場所に居たの?まずはそこを説明なさい」
「あの場所…と言いますと、レミリアさんがあの女性と戦っていた場所の事ですか?」
「そうよ。あの時、貴女は迷子になったと言った。
つまり、そこに辿り着くまでの過程がある筈でしょう。その部分を私は話せと言っているの」
レミリアに促され、少女は記憶の中のピースを一つ一つ拾いつなぎ合わせていくように、説明を始める。
少女の話をまとめると、こうだ。彼女は人里を転々と渡り歩いて過ごしていたという事。
今日も、いつものように山奥の人里に泊まり込み、宿で眠りについたという事。
そして、ふと目覚めれば人里は消え、見知らぬ森が広がっていたという事。如何するべきか迷ったが、
とりあえず人の気配がありそうな方向へと脚を進めてみたところ、レミリア達が居たのだという事。
少女が説明を終えたとき、レミリアは納得いかないのか眉を顰めて少女の方をじっと見つめていた。
「な、何でしょうか?」
「…別に。ただ、話の流れが少し上手すぎると思っただけ。
でも、その話が本当だとしたら、八雲の管理者や博麗の巫女に引き渡した方がこの娘の為なんじゃないの?」
「そうね。この娘の言葉が真実ならば、これはあの二人の管轄でしょうね。
美鈴、だったかしら。貴女はきっと外の世界から幻想郷に迷い込んでしまったみたいね。
もし、外の世界に戻りたいのなら、協力してあげるけれど」
「えっと…すみません、あの、イマイチお話がよく分からなくて。
先ほどからおっしゃってる幻想郷や管理者とかは一体何の事なんですか?」
話を全く理解出来ていない少女に、二人は小さく溜息をついた。
まあ、それも仕方の無い事なのだが。もし彼女が外の世界からこの場所に訪れたばかりなら、幻想郷の事を当然知る筈もない訳で。
パチュリーは視線をレミリアの方に向けるが、当然レミリアは目を合わせようともしない。
その様子にパチュリーは小さく溜息をついた。言葉にせずとも『面倒だから貴女が説明してあげて』というレミリアの意思が伝わってきたからだ。。
仕方ないと諦め、パチュリーは少女に淡々と説明をしてゆく。この幻想郷の事、この世界の仕組み、そして管理者である八雲の妖怪の存在。
一通りの説明を終え、パチュリーは軽く一息をついて、少女に先ほどの話を再び提示する。
「だから、貴女が元の世界…つまり、外の世界に帰ろうとするのなら、
八雲の妖怪か博麗の巫女の元へ行かなければならないの。勿論、このままこの世界で生きる道だってある。
私達はどちらでも構わないから、好きな方を選びなさい。元の世界に戻るなら、一応助力はしてあげる」
パチュリーの提示に、少女は少しばかり考える素振りを見せる。
軽くチラリとレミリアの方に視線を向け、そして答えが出たのか、少女は微笑を浮かべて言葉を紡ぐ。
「お言葉は凄く嬉しいのですが、私はこの世界で生きてみたいと思います。
向こうでは根無し草のように過ごしていましたから、何の未練もありませんし。
それに、この世界はどうやら凄く楽しそうな世界みたいですしね」
「そう。それでは元の世界に戻る協力はしなくても本当にいいのね?」
念を押すパチュリーの言葉に、少女はコクンと大きく頷いた。どうやら決意は固いらしい。
それを見て、レミリアは小さく嘆息をつき、楽しそうにお気楽な笑顔を浮かべる少女に一応口を挟む。
「この世界で生きていくのなら、それはそれで構わないけれど…明日から一体何処に住むつもりなのよ。
この辺の妖怪は縄張り意識が激しいから、余所者はなかなか受け入れて貰えないと思うわよ」
「えっと、その事なんですが…実はお願いがありまして」
ニコニコと微笑む少女に、レミリアは表情を引きつらせる。
その笑顔に、何故かは分からないが嫌な予感が全身を駆け巡ったからだ。そう、これは所謂既視感というもので。
そんなレミリアの様子に気付くこともなく、パチュリーが少女に『言ってみなさい』と言葉を促してゆく。
それを見てレミリアは久々に親友を思いっきりどつきたくなる心境に駆られた。余計な事を、そう心で呟きながら。
「私をこの館に住み込みのお仕事で雇って頂き『却下!!!』」
少女が言葉を言い終える前に、レミリアはダンと机を叩いて彼女のお願いをバッサリと叩き切った。
『えええ…』と困ったような表情を浮かべる少女に、レミリアは近寄る島も無いとばかりに追撃の言葉を放つ。
「却下も却下、大却下よ!!話にならないわ!何で貴女を私が雇わなきゃならないのよ!?
大体、今日貴女をここに泊めることだけでも最大の譲歩なのよ!?それなのによくもまあ、平然と…」
「落ち着いてレミィ。私にはレミィがどうして怒っているのかサッパリ分からないわ。
この娘が提示している条件が其れほど悪いものだとは私には思えないのだけれど。
別にタダ飯食らいの居候をさせてくれと言っている訳でも無し」
「そんな事言い出したら今すぐ摘み出してるわよ!
いい、パチェ。さっきも言ったと思うけれど、私はコイツが鬱陶しくて仕方が無いの!
さっきは全然人の話を聞こうともしないし、人の事を散々に言ってくれるし…」
むがー、と怒りを露にするレミリアを見て、パチュリーは一考する。
そして、クスと意味ありげに微笑み、少女の方へ向き直ってレミリアを無視するように訊ねかける。
「美鈴、貴女は給仕の仕事は出来るかしら?
掃除や料理、洗濯からお茶の用意といった辺りまで出来ると大変心強いのだけれど」
「ちょ、ちょっとパチェ!?何私を無視して話を進めようとしてるのよ!?」
「あ、その辺りは大得意です。ずっと人里を転々として過ごしてましたから」
少女の説明を、パチュリーは一言たりとも聞き逃さないようにしっかりと頭に入れてゆく。
その様子に、レミリアは再び嫌な予感が脳裏を過ぎる。まさか、まさかとは思うが私の親友はこの少女を。
「うん…問題ないわね。採用よ、美鈴」
「わっ、ありがとうございます!」
「や、やっぱりいいいい!!!!どうしてよパチェ!?私は駄目だってさっき言ったばかりじゃない!!
今すぐその合格を取り消しなさい!!早くそれを拾った場所に返してきなさい!!」
「拾ってきたのは他ならぬ貴女でしょう。残念だけど、この娘の採用は覆すつもりは無いわ」
「な、何でよおおお…パチェの裏切り者!貴女の事は親友だって思ってたのに!」
親友に裏切られ、若干涙目で訴えるレミリア。
どうやら先ほどまでのカリスマは何処かへ飛んでいってしまったらしい。
そんなレミリアにパチュリーは仕方ないと少女を雇った理由にかんして説明を始める。
「貴女も分かっていると思うけれど、この広大な紅魔館を維持するには魔法と貴女の部下だけじゃ大変なのよ。
魔法を使える者は私を含めても少ないし、今頑張ってくれてる部下達だって給仕は本職ではないわ。
それに館を綺麗に保つには、正式な給仕を雇う必要があるって前々から私はレミィに言っていたじゃない。
そんな時にこの娘がここに来てくれた。これは良い機会なのよ」
「だ、だったら別にその娘じゃなくても良いじゃない!もっと他の誰かを雇えば!
私が雇う従者はこんな頭が沸いてるような変なのじゃないわ!そう、理想は完全で瀟洒な姿。それこそ私に相応しい…」
「無理ね。一体何処の誰が好き好んでこの紅魔館で働いてくれると思っているのよ。
元主様が幻想郷で残した傷が未だ深いことくらい、貴女も痛いほど分かっているでしょう」
淡々と正論を並べ立てるパチュリーに、レミリアは返す言葉も無く『うぐぐ』と子供のように悔しそうな表情を浮かべる。
そんな彼女に止めを刺すように、パチュリーは一息ついて、最後の言葉を紡ぐ。
「私に紅魔館の管理一切を任せると言ったのはレミィ、貴女でしょう。
…まさか、紅魔館の主である貴女が個人的な感情に任せて優秀な人材を採用しない、なんて事はないわよね?」
「うぎぎ…わ、分かったわよ…分かったからそんなに虐めないで頂戴」
親友の正論尽くしに、渋々レミリアは折れることになる。
大きく息をつき、レミリアは顔を上げて、少女の方に視線を送る。その表情には先ほどまでの情けない色はもう見えない。
それはどこまでも威厳に満ちた姿で。紅魔館の主、誇り高き吸血鬼、レミリア・スカーレットがそこに在った。
「…虹美鈴。経緯がどうあれ、貴女は今日から紅魔館の従者として働いてもらう事になる。
我が従者とは、すなわち我が同胞であり、我が身体の一部である。貴女の命は、私のモノ。主の許可なくその命を勝手に失うことは許さない。
このレミリア・スカーレットの元で働く事を至上の誇りとし、我が元で存分にその腕を振るうがいい」
「…はい。この虹美鈴、必ずやレミリアさんのお力になってみせましょう」
肩膝をつき、レミリアに跪く少女に、レミリアはふっと表情を緩める。
そして席を立ち、コツコツと足音を立てて、部屋の扉の元へと歩いていく。そして、廊下へと続く部屋の扉を開けて…
「…鬱陶しいから、少しだけ鬱陶しいに訂正してあげるわ。
これから馬車馬のように扱き使ってあげるんだから、今日はせいぜいゆっくり休むことね」
少女の方を振り返ることも無く、そう言い残して室内から去って行った。
レミリアの言葉が理解できなかったのか、首を傾げる少女に、パチュリーは楽しそうに笑いながら口を開く。
「良かったわね。どうやらお姫様も貴女を少しは気にかけてくれていたみたいよ」
「そうなんですか?何というか、終始鬱陶しいと言われた記憶しかないんですが…」
「フフッ、それこそ本当に珍しい事なのよ。
もしかしたら、貴女が初めてかもしれないわね。初対面の相手にレミィがあれだけ素の自分を表に出したのは」
「う~ん…それは喜んでも良いところなんでしょうか」
頭に相変わらずの疑問符を浮かべる少女を他所に、パチュリーは楽しげに微笑むだけだった。
先ほどパチュリーが見たレミリアの表情、それは本当に久しぶりに見る彼女の本当の素顔だった。
だからこそ、期待せずには要られなかった。もしかしたら、この少女は大切な親友にとって重要な人物になるのではないか、と。
『ねえ。さっきの人間が貴女に話しかけたとき、どうして貴女の心臓は急に高鳴りだしたの?』
紅髪の少女の質問に、黒髪の少女は少し驚いたような表情を浮かべたものの、
照れ笑いを浮かべて質問に答える。その頬は少し赤らんでいるようにも見えた。
『それはね、あの人は私にとって特別な人だからだよ』
『特別な人間なの?私には別段強くも見えなかったし、魔力を感知する事すら出来なかったけれど』
素っ頓狂な事を言う紅髪の少女に、黒髪の少女はそういう意味じゃないよと優しく否定する。
首を傾げる少女に、彼女は微笑みながら言葉を紡ぐ。
『あの人はね、私だけの特別なの。その特別な理由は、私があの人に片想いしてるから』
『カタオモイ?片想いって何?』
その質問に、黒髪の少女はただ一言だけそっと呟いた。
この時、黒髪の少女の発した言葉の意味を、紅髪の少女は出来なかったけれど、その声は確かに少女の耳に。
『それはね、私があの人の事が好きってことなんだよ』
幻想郷に迷い込んだ少女、虹美鈴を紅魔館にメイドとして雇って一週間。
レミリアとパチュリーは部下の一人であり、レミリアが生まれる以前から紅魔館に仕えている
最も信頼を置く老臣の報告に耳を傾けていた。その内容は勿論、美鈴のこの一週間の仕事ぶりに関してである。
「…それでは、爺から見てもあの娘の仕事には何の問題も無かった訳ね」
「そういう事になりますな。早朝から深夜にかけてまで、それこそ大車輪のように娘は働いてますぞ。
というよりも、今や紅魔館の清掃や食事の用意等の雑用は全てあの娘一人でこなしております。
仕事も完璧、そして何よりも明るく活発で話していて気持ちが良い。
いやいや、実に素晴らしい娘ではありませぬか。流石はお嬢様が目をかけただけの事はありますわい」
「そ、そんなの当然でしょう!?何といっても私が直接目をかけた者なんですもの!
あの娘が優秀でない筈がないでしょう!」
「ですな。全く、お嬢様の慧眼には恐れ入りますぞ!がっはっは!!」
横から突き刺さるパチュリーの冷ややかな視線を堪えつつ、
レミリアは老臣に合わせるように乾いた笑みを浮かべていた。どうやら他の従者達にも美鈴の評判は上々らしい。
報告を終え、老臣が室内から出て行くのを確認して、レミリアは『はあ』と小さく溜息をついた。
「良かったわね、レミィ。貴女の慧眼はどうやら確かだったみたいよ」
「うう…お願いだから虐めないで、パチェ…今はちゃんと反省してるんだから」
謝罪する友人を見る事が出来て満足したのか、パチュリーはフッと笑みを零した。
そんなパチュリーを悔しそうに見つめるレミリアに、彼女は話題を元に戻して口を開く。
「美鈴はかなり優秀よ。物覚えも早いし、要領も良い。
あの娘はきっと、近い将来、この紅魔館にとって掛け替えのない人材になると私は思ってるわ」
「…それ程まで?パチェがあの娘に肩入れしてるのは何となく分かっているけれど。
けれど、もしそうなってくれれば嬉しい誤算だわ。優秀な人材が集ってくれるのは良いことだもの」
「そうね…正直、この紅魔館は多くのモノが不足しているわ。
特にソフトの問題が深刻ね。生き残った従者達は戦力を持たない者や年老いた者ばかりだもの。
何とか人材面の方をゆっくりと揃えていきたいものだけど…」
まだまだ山積みとなっている多くの問題に二人して溜息をつく。
どうやら紅魔館が以前のような、それこそレミリアの父が狂う以前のような輝きを取り戻すには、まだ時間が掛かりそうだ。
どうしたものかと頭を悩ませる二人だが、室内に響き渡るノックの音に顔を上げる。
少し間を置いて、部屋の扉がゆっくりと開かれた。そして、二人の視線の先、扉の向こうから
先ほどまで二人が話題に上げていた人物――虹美鈴が現れた。手に持つトレイに紅茶と茶菓子を載せて。
服装は一週間前とは違い、メイド服に包まれており、白を基調としたその服装が彼女の美しい紅髪を更に引立たせていた。
「失礼します。紅茶をお持ちしました」
「ありがとう、美鈴。そこに置いて頂戴」
パチュリーの言葉に、美鈴は笑顔を浮かべてトレイから紅茶を机の上へと移してゆく。
その光景を黙って眺めていたレミリアだが、ふとおかしな事に気づく。トレイの上には紅茶の入ったカップが三つも用意されていたのだ。
この場には自分とパチュリー以外の人物は存在しない。しかし、紅茶は何故か三杯も用意されている。
では、それは果たして一体誰のモノか――そんなレミリアの疑問を、目の前のメイドさんはトンでもない方法で解消してくれた。
「それでは…よっこいしょっと」
その光景に、レミリアは思わず目を丸くしてしまった。
二人に紅茶と茶菓子を用意し終えた美鈴は、なんと空いた席にそのまま腰を下ろしてしまったのだ。
勿論、余っていた紅茶は自分の前の机の上に。呆然とするレミリアに、美鈴は以前ニコニコといつもの笑みを浮かべたままだ。
どうやら色々と限界だったのか、レミリアはワナワナと震えながら、美鈴にそっと口を開く。
「…貴女、何してるの?」
「?仕事も一段落しましたし、休憩を取ろうかと。
それで、どうせ休むなら折角ですから、お二人とお茶を同席させて頂きたく思いまして」
「ど……」
「ど?」
「何処の世界に主の許可なく堂々とお茶に同席する従者が居ると言うのよーーーーー!!!!!!!!」
お嬢様大爆発。うがーと叫び、椅子から腰を上げてその怒りを全身で表現する。
そんなレミリアの怒りの理由が全く理解出来ていないのか、美鈴は不思議そうに首を傾けている。
ちなみにパチュリーは二人の会話に口を挟もうとはしなかった。何故ならそっちの方が面白そうだったからだ。
「だって、お茶は皆で飲んだ方が楽しいじゃないですか。
一人より二人、二人より三人。私は一人でお茶飲むより、レミリアさん達と一緒に飲んだほうが嬉しいです」
「確かにそうね…って、違う!!どうして行動の基準が貴女になってるのよ!?
百歩譲ってお茶に同席するとしても、ちゃんと私の許可を得てからにしなさい!!
何を堂々とそんな風に腰を下ろしてしまってるのよ!?普通ならこれだけで首にされてもおかしくないわよ!?」
「レミリアさんなら優しいから許してくれると思いまして。
それに私達、友達じゃないですか。一緒にお茶を飲むくらい普通の事ですから、許可要らないかなって」
「友達!?いつから私が貴女と友達になったというのよ!?貴女は私の従者、私は貴女の主様でしょう!?
それに以前から気になっていたんだけど、その『レミリアさん』って何よ!?
私の事を呼ぶなら『お嬢様』、もしくは『レミリア様』でしょう!?」
「ううん…でも、友達に『お嬢様』や『レミリア様』って呼ぶのは凄く変ですよ。凄く仰々しいです。
私としましてはレミリアさんが凄く好ましい呼び方なんですが…」
「だから友達じゃないって言ってるじゃない!!貴女の頭の中は空っぽなの!?
私は主で従者は貴女で!言わば私は雇う側、貴女は雇われる側なのよ!?もう少しその辺りを考えなさいよ!」
「頭空っぽの方が夢詰め込めるんですよね、分かります」
「一体私の話の何を理解したのよ!?このダラズがああ!!!!!
ちょっとパチェ、貴女もコイツに何とか言ってやりなさいよ…って何一人爆笑してるのよ!?」
パチュリーに助け舟を求めたレミリアだが、それは失敗に終わる。
何故なら彼女の言う通り、パチュリーは一人腹を抱えて楽しそうに笑っていたからだ。
勿論、レミリアの言い方は少々大袈裟で、パチュリーは必死に笑い声を押し殺そうと頑張ってはいたのだが。
「フフッ…ごめんなさい、レミィ。
お茶を同席するくらい構わないのではないかしら。私は別に気にしないわよ」
「そっちの話じゃないわよ!全くもう…とにかく、私の事はちゃんと『お嬢様』か『レミリア様』と呼びなさい。
そうしたら同席を認めてあげるわ」
「はあ…分かりました、お嬢様」
「だから何でそこで溜息を堂々とつくのよ!?このガッカリ駄目駄目ぽんこつメイド!!」
美鈴の天然ぶりに再び吼えるレミリア。実は彼女が美鈴をありのままの評価を出来ない理由がこれだったりする。
何というか、優秀である事は美鈴の働き振りから分かるのだが、如何せん彼女は自分の事を主とは思っていないらしい。
否、思ってはいるのだろうが、それよりも美鈴は友人としてレミリアに接しようとしてくるのだ。
そして、困った事に、それが何一つ悪気がないのだから性質が悪い。
だからレミリアは一人心に決意を固めていたりする。もし次にメイドを雇うとしたら、次は私が一から育て上げようと。
誇り高き吸血鬼に仕えるは完全で瀟洒なメイド。少なくとも、目の前に居る天然ぽけぽけ頭のような人物ではなく。
美鈴に伝えたい言葉を叩き付け、怒りを抑えるようにして紅茶を口に運ぶレミリア。
彼女の言葉が止まるのを確認して、パチュリーは美鈴に訊ねかける。
「ここに来て一週間経つけれど、紅魔館の生活には慣れたかしら?」
「ええ、今は毎日が楽しくて楽しくて仕方ありません。
お仕事は凄く遣り甲斐がありますし、館の皆さんは凄く優しい方ばかりですし。
これもレミ…じゃなくてお嬢様とパチュリーのお陰です。本当にありがとうございます」
「ゴホッ!!あふっ!!…ちょ、ちょっと待ちなさい!!貴女何普通にパチェを呼び捨てにしているのよ!?」
驚きの余り、咽ながら疑問を口にするレミリア。
どうやらマズイところに紅茶が入ってしまったのか、かなり苦しそうではある。
「私が許可したのよ、レミィ」
「どうしてよ!?」
「どうしてと問われても…私は別に敬称なんて気にしないし。別に何の問題もないでしょう。
常識の一線を越えない限り、本人の呼びやすい呼称で呼ばせてあげる方が合理的だわ。
私は紅魔館の主ではないし、他の従者達にも様付けは要らないって言ってるんだけどね」
パチュリーの口振りからして、どうやら他の従者達からは未だにパチュリー様と呼ばれているらしい。
まあ、この紅魔館の主であるレミリアの親友という立場であり、現在の紅魔館運営の指揮を執っているのだから当然と言えば当然なのだが。
どうやら親友が他の人間に呼び捨てにされるのが少し気に食わなかったらしく、
その部分に食いついたレミリアだったが、本人の許可済みでは仕方がない。何も反論する事無く、むすっとしたまま押し黙った。
そんな子供っぽい親友に苦笑しつつ、パチュリーは再び美鈴に言葉をかける。
「何か困った事があったりしたら、すぐに言って頂戴。
仕事の面や生活の面等でまだ色々とあるだろうと思うから」
「そうですね…そういえば、仕事の面で一つお伺いしたい事があるのですが、よろしいでしょうか」
美鈴の言葉に、パチュリーは紅茶に伸ばそうとしていた手を止め、『どうぞ』と質問を促した。
レミリアも不満気な表情を浮かべながらも、別段二人の会話に口を挟もうとすることはなかった。
「現在私は、この館の皆様の食事を調理する事も担当させて頂いているのですが、
その使用する食材に関してです。紅魔館の保存庫に置かれた食材は、全て館周辺から狩りや採集で集めているんですよね」
「そうよ。私やレミィが直接行っている訳ではないのだけど、他の家臣達が頑張ってくれているわ。
ただ、こうして集められる食材にも種類に限りがあるからね。何とかしないといけないとは思っているのだけど…」
「その事なんですが、この紅魔館から少し離れた場所に人里がありますよね。
そこから購入したりした方が良いのではないでしょうか。
確かに出費が嵩むかもしれませんが、食材や日用品を手に入れるには一番の方法だと私は思うんです」
美鈴の提案に、パチュリーは少しばかり表情を険しくして黙り込む。レミリアは依然何も口を挟まない。
二人が黙る理由が分からず、首を傾げる美鈴に、パチュリーは軽く息をついて、美鈴の質問に言葉を返す。
「…したくても出来ないのよ」
「やはりお金が無いからですか?
私が見るに、紅魔館はそれほど財政難に陥っているようには思えないのですが…」
「違うわ。お金というより、人間達の欲する財ならそれほど腐るほど持ち合わせているの。
ただ…私達、紅魔館の者と取引をしてくれる者なんて、この幻想郷に存在しないのよ」
やがて、ゆっくりとパチュリーは美鈴に事情を語り始めた。
この紅魔館が、レミリアの父がこの世界にもたらした悲劇を。そして、彼等が残した傷痕を。
今や、この世界にとって紅魔館の人間というだけで敵対対象なのだ。そんな者と一体誰が取引などするだろう。
だから、今の彼等は現状を受け入れるしかないのだ。新しい従者も雇えない、食材等も自分で集めるしかない。
全ての事情を聞き終えた時、美鈴は今までのような笑みを消し、凛とした表情で二人に口を開いた。
「…事情は分かりました。お嬢様、パチュリー、お二人にお願いがあります。
少しの間、紅魔館の館内に関する指揮を私に任せて頂けないでしょうか」
「…どういう事?」
美鈴の提言に気を惹かれたのか、レミリアが重い口を開いて彼女に訪ね返す。
それを受け、美鈴は意思の通った瞳でレミリアを見つめ、口を開く。
「まずは人里とのラインを創ろうと思っています。そして、加えてこの紅魔館の悪評の縮小。
…私、久々に頭にきました。こんなにも優しいお嬢様やパチュリー、そして館の皆さんが誤解を受けたまま、
世界に嫌われているなんて絶対に間違っています。このままじゃ絶対に駄目です。私が何とかしてみせます」
「それは嬉しいのだけど…これは凄く難しい事よ。
私とパチェがどれだけ頭を悩ませても解決法なんて一つも思い浮かばなかった。
…出来るの?貴女に」
「やってみせます。皆さんの…お嬢様の為に、必ず」
美鈴の決意を秘めたその表情に、レミリアは目を奪われてしまった。
それは何処までも強さを湛えた真っ直ぐで。そして何処までも安心感を与えてくれる大きさで。
例えるならそれは大木。レミリアが背中を預けてもビクともしないような、そんな安堵を与えてくれる強さ。
もしかした、彼女なら打開してくれるのかもしれない。彼女なら、何か起こしてくれるかもしれない。
そんな事を期待してしまう、惹き付けられる程、今の美鈴は真っ直ぐな表情を浮かべていたのだ。
フッと笑みを零し、レミリアは口を開く。元より存在しない博打だ。ならば、賭けてみよう。彼女が何をするのか、この目で見届ける為に。
「――虹美鈴、紅魔館の主として命じるわ。
この館の財、従者を好きに使って構わない。貴女の思うようにやってみなさい。
結果を恐れる必要はないわ。失敗しても構わない。それが紅魔館の為になると思ったなら、躊躇する事無く行動なさい」
「ありがとうございます、お嬢様。
では、早速準備の方に取り掛かりますので、失礼します」
恭しく一礼し、美鈴は机の上に置かれた飲み終えたカップをトレイに乗せて、室内から出ようとする。
しかし、彼女が扉に手をかけようとしたその時、背後から『待ちなさい』と、レミリアの声が掛かった。
再びレミリアの方を振り向く美鈴に、レミリアは視線を合わせることも無く、ぶっきらぼうに言葉を紡ぐ。
「…私の事も好きなように呼んでくれて構わないわ。『レミリア』でも『レミリアさん』でも好きなように呼びなさい。
その代わり、しっかり自分の為すべき仕事を果たしなさいよ」
フンと顔を背ける友人に、隣に座っていたパチュリーは優しく微笑んでいた。
その光景に、美鈴もまたつられる様に笑みを零し、レミリアにそっとお礼を告げる。『ありがとうございます、レミリア』と。
それから一夜明け、翌日の夕方。
先日とは明らかに異なる紅魔館の光景に、レミリアは驚きを通り越して笑う事しか出来なかった。
「えっと…パチェ、何かしらこの状況は」
「紅魔館に住み込みで働く新しいメイド達みたいよ。
ええっと、雇用の条件は給金、休日は無しだけど、食事とお茶と自由は保障と…へえ、美鈴もやるわね」
「そう、これは新しい紅魔館のメイド達なのね。
まさか一日で人が集るとは、美鈴の手腕には脱帽…と、言いたいところなのだけれど…」
美鈴から渡された紙面を読み上げるパチュリーに、レミリアは大きく溜息をついて言葉を紡いでゆく。
どうやら今の彼女は怒鳴る気力もないらしい。それほどまでに目の前に広がる光景に言葉を失しているのだ。
その光景…紅魔館の中央広間に集ったメイド達を見て、レミリアはぽつりと言葉を零した。
「…何でこんなに沢山の妖精をメイドに雇おうとあの娘は考えた訳?」
そう、実は紅魔館に住み込み希望で集った人員は全て妖精だったのだ。しかも数が半端ではない。
それこそ100をゆうに越えてしまう程だ。現在、広間では美鈴に指揮を任された家臣達が、
妖精達にメイド服を配っている最中だ。しばらくすれば、恐らく業務の説明が始まるのだろう。
「量を雇った理由は、妖精一人当たりに対する仕事量の問題でしょうね。
そもそも妖精が館の仕事を満足にこなせるとは思えないし…せいぜい自分の事だけで精一杯なのではないかしら。
だからこそ、住み込みで数を雇ったんでしょう。沢山居れば、一人当たりに仕事量のしわ寄せが来ることもない。
自分の事だけで精一杯でも、ここが自分の家になると考えれば、その事がプラスに転じるわ。
例えば身の回りの清掃が館の清掃へとつながるのだから」
「ううん…それだけの理由かしら。
しかし、妖精達はよくここで働くのを了解したわね。紅魔館を怖がったりしないのかしら」
「怖がる必要が無いのよ。妖精には死という概念が私達とは異なるもの。
彼女達は厳密には違うけれど『死』が存在しないわ。だから私達を恐れる理由が無いの。
そして妖精は人間の真似事を好む生物だわ。こんな立派なお屋敷という住居を与えられ、
食事や自由は保障されている…妖精にとって是ほどまでに好条件な取引はそうそう存在しないでしょうね」
ただ、きっと美鈴の狙いはもっと違うところにあるのだろうが。パチュリーは一人、その事を確信していた。
恐らく、妖精達を雇った狙いは二つ。紅魔館の実態を幻想郷中に流布することと、人々の警戒を薄めさせること。
妖精とは噂好きで情報が早い生き物だ。そんな妖精達をこのような大人数も集めてしまえば、
紅魔館の内部の様子など、いとも簡単に幻想郷中に広まるだろう。それは勿論、この館の恐怖を知らしめる為ではない。
この紅魔館は決して憎む対象でも、恐れる対象でもないという認識を多くの妖怪や人間に伝達する為だ。
無論、ネットワーク自体は妖精達だけなので、その効果はたかが知れると思われるかもしれないが、
妖精達はこの幻想郷の何処にでも存在する生き物だ。そして彼女達の噂話を好き好んで聞き耳立てる輩も決して少なくはない。
この効果が実際に形になるのは、きっとまだまだ先の事になるだろうが、決して無駄にはならない筈だ。
そして、次に重要なのが、妖精とはいえ紅魔館が外界との接点を結んでいるという事を強調すること。
この紅魔館が人々に畏怖される理由の一つに、閉鎖的で完全に閉じられてしまった世界というものがある。
誰も今の紅魔館を知らないから、接点を持てない。接点が無いから恐怖される。このままでは悪循環の繰り返しなのだ。
だからこそ、美鈴は閉じられた世界に妖精との接点を作ることで無理矢理穴をこじ開けた。
これもすぐには結果が出ないだろうが、必ずや将来において結果につながる為の必要な事なのだ。
「…ところで肝心の美鈴は何処へ行ったの?まだ今日はあの娘の姿を見かけていないのだけど」
「美鈴なら妖精を数人連れて人里に向かったわ。昨日言っていたように、人里とのラインを作りに行ったみたい。
妖精を連れて行ったのは人々の警戒心を解かせる為でしょうね。あと、買い物も済ませてくるって言ってたわ」
「まあ、確かに弱い妖精達が傍に居れば、人間達もあの娘を強い妖怪とは思わないでしょうけど。
…というか、あの娘の正体って何なのかしらね。人間ではないと思うのだけれど」
「拾ってきたレミィが知らないのに私が知るわけないでしょう。
まあ、貴女を見ても怖がったり逃げたりしなかった時点で人間ではないでしょうね」
「ん~…まあ、別に正体が何であろうが私は気にしないけれど。
それよりもあの娘、どうやって人里の人間達を説得するのかしら…並大抵の事では、受け入れてもらえないわよ。
下手をすれば博麗の巫女を呼ばれるかもしれないわ。その時の為に助けに行く準備をした方がいいのかしら」
「大丈夫でしょう。今代の巫女は先代と違ってやる気が微塵も感じられないし。
どうせレミィの知り合いだって分かったら、無罪放免でさっさと神社に帰るわよ。
それよりもレミィ、昨日はあんなことを言いながらしっかり美鈴の事を心配してるじゃない」
「…別に心配なんてしていないわよ。ただ、あのポンコツメイドが仕事を果たせなくて凹んだりして、
そのまま帰ってこなかったりするかもしれないじゃない。そんなのは寝覚めが悪いでしょう」
ブツブツと呟くレミリアに、パチュリーはクスリと微笑みを浮かべた。
何だかんだ言いながら、やっぱりレミリアは美鈴の事を心配しているらしい。本当に素直じゃないと思う。
「信じてあげなさいよ、レミィ。
…あの娘は、美鈴は必ずやってみせると言ったのよ。他ならぬ貴女の為に、ね」
そうだ。美鈴はレミリアに誓ってみせた。
絶対に何とかしてみせると。こんなのは間違っていると。彼女はそう言ってくれたのだ。
その言葉がレミリアは嬉しかった。紅魔館の外の人間だった彼女が、紅魔館の事を想って言葉を発してくれた。
そんな言葉を聞いたのは一体何時以来だろうか。恨み言でも、憎悪に駆られた言葉でもない、ただ紅魔館を肯定してくれたその言葉。
美鈴は怒ってくれたのだ。こんな事は間違っていると、ハッキリと言ってくれたのだ。
だから、パチュリーに言われるまでも無く分かっている。疑う事などするものか。
私は信じる。あの娘が…美鈴が、必ず人里の人々とのつながりの第一歩を作ってくれる事を。
――刹那、中央広間へつながる大扉が開かれ、二人は表情を緩めて笑みを零した。
「ね?私の言った通りでしょう。
美鈴はきっと、近い将来、この紅魔館にとって掛け替えのない人材になると私は思ってるって」
「…本当ね。全く、パチェの慧眼にはただただ敬服するばかりだわ」
大扉の向こうから現れた少女が、満面の笑顔で手を振っている姿を見て、二人は一際大きな笑みを零してしまう。
人里で買い込んだであろう沢山の食材が入った袋を、両手一杯に抱えているその少女――虹美鈴の姿があまりに微笑ましくて。
それから一ヶ月。紅魔館内の様子は以前までとは大きく変容を遂げていった。
大きく変わったのは、屋敷内に妖精達のざわめきが絶える事がなくなった事。
耳を澄ませばあちらこちらから妖精達の働く楽しそうな声が聞こえ、以前のような寂しさや静けさは完全に失われていた。
紅魔館内に妖精達専用の住居の改築、そして楽しく働けるような環境を作り出す為に、広大な紅魔館の一部を改装した。
勿論、その陣頭指揮を執ったのも妖精達を雇う事を決めた美鈴である。
無理のない程度に妖精達の要望を取り入れ、レミリアや古参の従者達に許可を得て、すぐに行動に移したのである。
その結果、使用されていなかった数多くの空き部屋が上手く整理され、妖精が棲む事により、
そのような現在は手を伸ばす事すら出来なかった部屋の掃除まで手が行き届くようになったのだ。
数多くの妖精メイドを雇うことで、古参の従者達との意見の衝突が起こるのではないかと、
パチュリーが若干心配したのだが、むしろ従者達は美鈴の判断と手腕を大いに褒め、賞賛していた。
どうやら、久々に誕生した新しい従者である美鈴は、長いこと紅魔館で働いてきた彼等にとって、孫娘のように可愛い存在らしい。
また、美鈴の立ち回りも見事だ。常に古参の従者達を敬い、時間が空いたりした時は、彼等のところへ遊びに行ったり共に酒を飲んだりしているらしい。
無論、それが彼女が意識した接待などではなく、単に好きで行っている事だと言うのは
誰が見ても明らかなのだが、逆にその点が他の従者達の心を強く掻き立てたようだ。
媚び諂う事も取り入ろうとすることもなく、ただ純粋に自分の事を慕ってくれる少女を、
そして何よりも紅魔館の事を第一に、レミリアの事を何より考えて行動する美鈴を皆可愛がるのは至極当たり前の事なのだ。
そんな彼女だからこそ、他の者達はレミリアとパチュリーが美鈴の立場を昇格させる事に何の文句も言わなかった。
それどころか、彼女の昇格を聞いて、他の者達は自分の事のように大喜びした程だ。
その日は紅魔館で宴となり、主役の美鈴を酔い潰させようと数多の者達が美鈴のグラスに酒を注ぎに注いだのはつい最近の事だ。
機転と判断力、そして何よりレミリアの為に尽くすその姿を認められ、
彼女はたった一月余りでただの拾われメイドから大きく出世する事になる。彼女の新しい役職の名はメイド長。
その名は妖精達メイドを束ねる長の意味で付けられた名称だが、実際の彼女の持つ権力はそれを遥かに凌駕する。
何故ならその役職を貰った美鈴に、パチュリーが紅魔館の管理一切を自由に出来る権限を譲渡したからだ。
その権限とはつまり、紅魔館の一切を任せられたという事。管財から雇用までといった、
レミリアの手を負わせるまでもないが、紅魔館を機能させるのには絶対に必要な仕事を任せられたという事だ。
人材不足により、パチュリーが臨時で行っていただけなのだが、どうやら彼女は本当はこの仕事がしたくなかったようだ。
美鈴に仕事を譲渡した時、パチュリーは嬉しそうに『これでようやく図書館に篭もれそうよ』と呟いていた。
すなわち、今の美鈴は実質紅魔館のナンバー2と言っても過言ではないのだ。
其れほどまでの地位と権限が今の彼女には与えられている。だが、そうだと言うのに…
「…貴女は何一つ変わらないわね」
「へ?何がですか?」
室内の掃除に現れた美鈴を横目で見ながら、レミリアはふぅと一つ息をつく。
つい最近人里で買ってきた新しい調度品を優しく磨いている美鈴は、レミリアの言葉にただ小さく首を傾げていた。
「だから、貴女は今の自分の立場を本当に理解しているのかと疑問に思っただけよ。
今の貴女は実質紅魔館の指揮権を持っているのよ。妖精メイドはおろか、他の従者達を飛び越え、
私に意見を聞く事無く紅魔館を好きに動かせる立場なの。それなのに、貴女は何一つ以前と変わらないし…」
「ん~…だって変わる必要ありませんし。そもそも私は誰かの上だとか下だとか考えてませんから。
ただ、他の人よりもこの仕事が自分に合っていた。だからその仕事を任せて頂いてるというだけですよ。
…あ、でも今の立場で二つほど良かったなと思うことはありますよ」
「良かった事?誰かに命令する事が簡単に出来る事とか?」
レミリアの言葉に、美鈴はふるふると小さく首を振る。
手に持っていた調度品を元の位置に戻し、手入れに使っていた布を折りたたみながら美鈴は微笑んで告げる。
「レミリアの為に以前よりもっともっと働く事が出来ること。
そしてレミリアの傍にもっともっと居る事が出来るようになったこと。これだけは本当に感謝ですね」
「――っ!!」
それは完全な不意打ちだった。
美鈴の言葉も、その笑顔も、何もかもがレミリアの胸の中を激しく動揺させたのだ。
それは嬉しかったのか、はたまた恥ずかしかったのか、もしくはその両方か。最早鏡を見なくても分かる。
それほどまでにレミリアは、自身の顔が熱を帯びてゆくのをハッキリと自覚してしまった。恐らく、今の自分の顔は真っ赤なのだろうと。
「…あれ?どうかしましたか、レミリア。
何だか顔が真っ赤ですけど…風邪でもひきました?」
「…あのね。こういう場合は空気を読むというか、もう少し考えて発言をしなさいよ。
あんな恥ずかしい台詞を臆面も無く吐いて、私をこんな状態にさせた張本人の台詞とは思えないわ」
「…あ、もしかして照れてるんですか?わあ~!レミリアったら可愛いですね。まるで女の子みたいです」
「だからもう少し考えて発言をしろと言ったばかりでしょうが!このヘッポコ駄目駄目メイド!
それに私は最初から女に決まってるでしょう!何その今まで女と見なしてなかったみたいな言い方は!?」
「いえいえ、勿論レミリアは女ですよ。ただ、女よりも『女の子』寄りなんだなって」
「なお悪いわ!!」
怒鳴り散らすレミリアを意に介することもなく、美鈴は微笑みながら次の調度品へと手を伸ばしていた。
出会ってから一ヶ月弱、レミリアと美鈴のこのような掛け合い漫才は紅魔館の日常の一つと化していた。
無論、二人とも本気で口論している訳ではないので(美鈴至っては口論している自覚すらないのだが)、
紅魔館の他の人々は二人を止めようとすらしない始末である。
特にパチュリーや妖精辺りはこれを楽しんでる節があるのだが、知らぬは本人ばかりなり。
実際のところ、レミリアが美鈴を怒鳴る事は一種のコミュニケートに他ならないのだが、
レミリアは絶対にその事を認めないだろう。今月何回目とも分からない大きな溜息をつき、レミリアは再び言葉を紡ぐ。
「もういいわ…とにかく貴女は確かに良くやってくれているもの。
この調子でしっかりとわた…いえ、紅魔館の為に励みなさい」
「勿論です。紅魔館の為、そして何よりレミリアの為に私はしっかりと頑張りますよ」
「…言い直さなくて結構よ。というか貴女、実はワザとやってるんじゃないでしょうね」
不満そうに睨みつけるレミリアだが、美鈴は相変わらずニコニコと笑顔で調度品を磨くばかりだ。
レミリアは軽く息を吐いて、視線を窓の外へと向ける。レミリアの場所からは太陽は見えないが、
空は夕焼けに染まり、闇が大空を支配する時間に近づいている事が分かる。
その光景を眺めながら、誰にでもなくレミリアはふと何かを思い出したように、ポツリと呟いた。
「そう言えば、この一ヶ月の間は一度もラブレターが来なかったわね…
どうしたのかしら。いつもなら週に一度は必ず来てた筈なのに」
「ラブレターですか?…酷いです、レミリア。極悪人です浮気者です不潔です。
私というものがありながら、他の女の子からそんなラブラブなアイテムを貰うつもりだったのですね」
「次にその面白くもない戯言を口にしてみなさい。その空っぽな頭にグングニルを迷う事無く突き刺してあげるから。
…そうじゃなくて、貰ってもちっとも嬉しくない恋文の方よ」
「と、言いますと?」
私、興味津々ですと言わんばかりに目を輝かせて追求する美鈴に、
レミリアは数秒前の己の迂闊さを少しだけ呪った。この少女の前でそんな事を呟けば、聞いてくるに決まってるではないか。
仕方ないと諦め、レミリアは美鈴に詳細を説明する。それは毎週のように彼女の元に届けられていた果たし状の事。
それは紅魔館に恨みを持つ者達から送られるモノで、その決闘が美鈴と初めて出会った時の事であったということ。
そして、その事が前当主が死んで二十年経った今もなお終わる事がないということ。
説明を終え、『分かった?』と美鈴に反応を求めるレミリアだが、ここで美鈴からトンでもない言葉が飛び出た。
「それなら私が貰ってましたよ?レミリア宛の果たし状ですよね。
あの恨みがどうこうだとか、憎しみがどうこうだとか、いつも同じような事が書かれてる内容の」
「……………は?」
美鈴の言っている事が理解できなかったのか、レミリアはそれこそ本当に間の抜けた声が喉から吹き出てしまった。
『何を言ってるんだお前は』とでも今にも言いそうなレミリアに、美鈴は笑顔を浮かべたままで言葉を続ける。
「確かに週一回くらいのペースで受け取ってますね。
三日前は妖怪さん、九日前は半妖さん、十七日前は人間さんからだったような」
「ちょ、ちょっと美鈴!?貴女どうしてその手紙を…いえ!そうじゃなくて!!
それよりも貴女、もしかして手紙をそのまま放置してた訳!?」
「人から届けられた手紙を放置なんて出来ませんよ。
でも、レミリアを直接向かわせる訳にはいかないですよ。どう考えてもあちらは貴女の命を狙ってるんですから。
だから、代わりに私が向かって」
「向かったの!?それでまさか貴女、その妖怪達を…」
殺したのか――そう言葉を続けようとしたところで、レミリアは止めた。
落ち着け。冷静に考えろ。この目の前にいる、いつもポケポケしたポンコツメイドに実力を備えた妖怪が倒せるのか。
それこそ、吸血鬼を殺そうとまで腕を磨いた妖怪達を、この目の前の駄目駄目メイドが。――うん、それ無理。
自問して答えを出すまでに約0.2秒。それほどまでの短時間で答えを出せるほど、美鈴が誰かと戦うなど考えられない。
強い、強くないの話ではない。それ以前に美鈴が誰かを傷つける姿など想像すら出来なかったのだ。
そんなレミリアの考えを見透かしたかのように、美鈴はクスリと微笑んで、彼女に告げる。
「話し合いで解決しましたよ。
確かに皆さん殺気だっていましたが、少しお話しするとレミリアが悪い訳じゃないと理解して下さいました」
「…嘘」
「本当です。というか、こんな事で嘘をついても仕方ないですし。
ですので、これからもそういう物騒な事は私が話し合いで解決してきますから。いいですよね?」
優しく微笑みながら告げる美鈴の言葉に、レミリアは何も言葉を返すことが出来なかった。
この少女は、こんなにも簡単に解決してみせたというのか。私が十数年と苦しみ抜いた、悩み抜いた憎しみの連鎖から解放してくれたというのか。
あれだけ救って欲しいと。あれだけ解き放たれたいと渇望した願いを、美鈴は叶えてくれたというのか。
誰にも背負わせたくないと一人で抱え込んでいた罪の十字を、あの男の娘としての贖うべき大罪を。
彼女は話し合いという平和裏な方法で、私の代わりに彼等の抱く憎しみを消し去ってくれたのだ。
己が胸中を言葉に出来ず、レミリアはただ拳を震わせた。分からない。今、自分はどんな表情を浮かべれば良いのだ。
そんなレミリアの心のウチを理解したのか、美鈴は優しい笑みを湛えたまま、そっと言葉を紡ぐ。
「…レミリアは何でも一人で抱え込もうとし過ぎなんですよ。
初めて出会った頃からそうでした。いつも我侭放題なくせに、肝心なところはいつも一人で責任を背負い込もうとする。
それじゃ、いつか必ず限界が来ちゃいますよ。人間も妖怪も、一人で持てる荷物には限度があるんですから」
「――そんな事」
無い、その言葉を最後まで続ける事が出来なかった。
刹那、大きな衝撃音が館中を襲い、紅魔館全体を大きく揺らしたからだ。
突然の地震に驚きの表情を浮かべるレミリアと美鈴だが、その地震の原因をすぐに察したレミリアは表情を険しくする。
戸惑う美鈴を置いて、レミリアは廊下へと続く扉へと走り、蹴破るようにその扉を強引に開いた。
そして美鈴の方を一度振り返り、切迫したような声で言葉をかける。
「美鈴、貴女は館中の妖精達を落ち着かせるように言い聞かせなさい!
それとそいつ等には絶対に地下の方へと向かわない事!美鈴、貴女も含めてよ!」
「あ…ま、待ってくださいレミリア!この地震は一体何が…」
美鈴の言葉に答える余裕も無く、レミリアはそのまま廊下へと駆け出して行った。
地下へと向かう最中、レミリアは強く己の唇を噛み締めた。それこそ、強く噛み過ぎて、唇から血が滴る程に。
美鈴と出会い、その日からあまりに自体が好転する事ばかりで忘れてしまっていた。否、忘れようとしていただけだ。
自分は美鈴に救ってもらう資格などありはしない。己の罪から逃げようとしても、そんなこと出来る訳がないのだ。
何故なら私は、実の大切な妹に対し、死してなお赦されない程の罪科を背負っているのだから。
その日の夜。時刻としては零時を少し回ったくらいだろうか。
地下へと続く階段を登り終え、事を終えたレミリアは一人自室へと足を運んでいた。
彼女の全身は数時間前に美鈴と話していた頃とは見違えるようにボロボロであり、彼女がこのような姿になるのは一体何時以来だろうか。
「――っ…フランったら、更に総魔力量が上がってきてるわね…
この調子じゃそろそろ私じゃ手に負えなくなるかもしれない…本当、我が妹ながら末恐ろしい才能だわ」
全身に奔る痛みを堪えつつ、レミリアは苦笑交じりで一人愚痴る。
彼女の服は血液塗れだが、身体には傷一つついていないのは吸血鬼の再生能力のおかげか。
しかし、それで身体の痛みが消えるという訳ではない。全身の苦痛と疲労に耐えながら、レミリアは自分の部屋の扉を開ける。
「…まあ、何となく予想はしていたけれど。まさかここまで堂々と居座られるとは思わなかったわ」
「おかえりなさい、レミリア。ご飯にします?お風呂にします?それとも…やだもう、レミリアってばおませさんですね」
「どうやら貴女、本当にグングニルをその空っぽな頭に突き刺されたいようね」
室内に備えられたお茶用のテーブル、その椅子にどっかりと腰を下ろして笑顔を浮かべる美鈴に、
レミリアは表情を一つ帰ることも無く軽く息をついた。どうやら、彼女がここに居るであろう事は何となく予想が出来ていたらしい。
まあそれも当然だろう。いきなり原因不明の地震が起き、紅魔館を激しく揺らしたのだ。
そして、その原因に紅魔館の主であるレミリアが気付いている様子だった。こうして、彼女がレミリアに話を聞こうとするのは当たり前なのだ。
そのまま美鈴と向かい合うように席に座るレミリアを、美鈴はじっと観察する。
無論、視線は彼女のボロボロになっている衣類だ。穴は開き、血液で汚れ、その場所を凝視するなという方が難しい。
「服、ボロボロですね。あの地震の後、何かあったんですか。
それこそまるで、誰かと殺し合いでもした後のようにすら見えますよ」
「殺し合いなんて物騒な言葉ね。平和主義の貴女らしくもない」
レミリアの返答に、美鈴はフッと表情を変える。
それはいつもニコニコと笑みを絶やさない美鈴からは想像も出来ない程の真剣な表情。
こんな美鈴をレミリアは一度だけ見たことがある。それは果たして何時だったか。
――そうだ、あの時だ。この世界での紅魔館の立場、人々に恐れ恨まれているという現状を説明した時の彼女も今のような表情を浮かべていた。
それに気付き、レミリアは納得する。成る程、今の美鈴は怒っているのだと。
一月の付き合いで分かった事だが、美鈴は怒りを余り表面に出さない。彼女は静かに怒るタイプなのだ。
そんな美鈴に苦笑を浮かべ、レミリアは美鈴から視線を逸らして宥めるように言葉をかける。
「…怖いわね。疲れている身体にその視線は少々堪えてしまうわ。
何に対して怒っているのかは分からないけれど、機嫌を直して貰えないかしら」
「どうしても自分からは話すつもりはないんですか。
今ならまだ許してあげようと思っていたんですが…仕方ありませんね」
「話が全然見えないわよ。とりあえず貴女が怒っていることくらいは分かるのだけど」
「ええ、私は今物凄く怒っています。
大切なご主人様が傷だらけになっているのに、事情の一つも話して貰えないんですからね」
「貴女は一体何処に目をつけているのよ。頭の中だけじゃなくて瞳の中も空っぽな訳?
装い自体はボロボロかもしれないけれど、身体には傷一つついてないじゃない。
吸血鬼の再生能力を舐めないで欲しいわね」
「…身体じゃないです。レミリアが傷ついているのは身体じゃなくて心の方です」
まるで胸のウチを読み取ったかのような言葉に一驚を喫し、レミリアは無意識のウチに顔を美鈴の方へと向けてしまった。
そこで彼女は言葉を失う。先ほどまでは静かに怒っていた美鈴が、今にも泣きそうな表情を浮かべていたからだ。
それは何処までも悲しみに満ち溢れて。動揺を隠せないレミリアに、美鈴は無理矢理押し出すかのように言葉を紡いでゆく。
「レミリア。数刻前も言いましたが、貴女はどうしてそうやって一人で何もかもを背負い込もうとするんですか。
…貴女に復讐を挑もうとする妖怪達の件もそうです。どうしてレミリアは誰にも頼ろうとしないんですか。
私やパチュリーはそんなに頼りになりませんか?私達では貴女の力になれないんですか?」
「そんな事無いわ…現に私は紅魔館の事を貴女達に頼りきってるじゃない。
貴女達は十二分に私の為に働いてくれているわ。これ以上を望むのは少し欲張りと言うものよ」
「…そうやってまた誤魔化すんですね」
正面から受けようとしないレミリアの言葉に、心の内に一つの決意を固め、
美鈴はレミリアから視線を逸らさず口を再び動かしてゆく。
「…先日、他の従者の方々とお酒を飲んでいたとき、その方が私にある一言を零しました。
『きっと貴女ならフランドール様も気に入って下さるに違いない』と。
その時、私はすぐにその方は誰ですかと聞き返したんですが、その名を零した方を含め従者の皆様は
誰一人として教えて下さいませんでした。ただ『忘れてくれ』と。まるで禁忌にでも触れてしまったかのように」
フランドール。その名が美鈴の口から零れた時、レミリアはカッと目を見開いた。
それこそ美鈴を睨みつけるかのように、今にも殺意が零れそうなほどの視線で。
だが、そんな視線を気にする事も無く、美鈴は淡々と説明を続けていく。
「別の話をします。私がこの館に雇われたとき、私に仕事の全てを教えてくれたのはパチュリーでした。
パチュリーは私に仕事の説明を始める前に、最初にある一つの事を絶対に遵守するように言いました」
メイド服に身を包み、初日の仕事を迎える美鈴に、パチュリーは必ず守るように言い聞かせた。
『この館の地下には決して足を踏み入れてはいけないわ。それだけは絶対に守って頂戴。
詳しい理由はまだ話せないけれど…いつかきっと、レミィが貴女に話してくれる日が訪れるだろうから』
その時のパチュリーの表情は、何故か自分の感情を必死に塞き止めているように見えて。それが美鈴には強く心に残って。
「パチュリーがそう言ったから、私は待つつもりでした。レミリアが私に話してくれるその時を。
…ですが、今日の事で事情が変わりました。紅魔館の地下から振動が生じた瞬間、貴女は初めて本当の素顔を私に見せた。
悲しみと、絶望と、怒りと…その時、悟りましたよ。レミリアの心の傷…常に自分ひとりで何でも背負い込もうとする
本当の理由は地下にある何かに関係してるのではないかと」
「…黙りなさい…」
「いいえ、黙りません。レミリアが話してくれるまでは絶対に私は退きません。
地下には一体何があるというのですか。そしてフランドールとは一体誰なのですか。今日の件とその人物は…」
「黙れっっっ!!!!!!!」
瞬間、二人を別つテーブルが粉々に粉砕されて宙を舞った。
激しい轟音と共に、美鈴は強い衝撃を背中に受ける。そして、その衝撃の正体を掴むまでには時間など必要としなかった。
先ほどまで椅子に座っていた己が身体は床へと叩きつけられ、その身体の上にレミリアが跨っていたからだ。
明かりの少ない暗闇に満ちた室内でも分かるほどに燃え盛る紅蓮の瞳は、どこまでも殺意を込めて美鈴を捕えて。
並みの者ならば余りに濃厚な殺気によって気を失してもおかしくはない、それほどまでにレミリアは美鈴に対して刃を差し向けていたのだ。
「戯けが…たった一月程、私の傍に居ただけで理解者気取りか。
お前に一体何が分かる。私が一体どんな想いでこの二十年を生きてきたか、お前に分かるものか!!
私が一体どんな気持ちであの娘を地下に閉じ込めているか、お前などに…お前如きに…」
「ええ、分かりませんよ。だってレミリアは何も私に話してくれないじゃないですか。
だからこそ理解しようと必死にもがくんですよ。こうして面と向かって訊ねているんですよ」
レミリアの殺気を物ともせず、美鈴は目を背ける事もせずに言い放つ。それは何という意志の強さか。
下手をすれば今この瞬間にでも彼女の首と胴体は別れを告げてもおかしくない状況なのだ。
だが、それを恐怖するどころか美鈴は頑としてレミリアを見つめ返し、しっかりと自分の言葉を突きつけている。
そんな美鈴に根負けしたのか、レミリアは自嘲するような笑みを浮かべ、そっと口を開く。
「…いいわ、聞かせてあげる。私の話に耳を傾け、そして蔑み絶望なさい。
貴女の主が一体どれ程の罪人であるかを知れば、そんな口も二度と叩けなくなるでしょうから」
レミリアの罪科。それは彼女の実の妹であり、誰よりも愛おしい家族へ向けた非情の判断。
それは今から二十年前に遡る。普通の妖怪にとっては一瞬とも思える時間でも、彼女にとっては久遠とも思える苦痛の日々。
八雲の管理者達が前主であるレミリアの父を殺し、生き残ったレミリア達はこの幻想郷で生きていく事を決めた。
自分達は愚かな父のように他を虐殺する事などありはしない。誇り高き吸血鬼に相応しき生き方をするのだと、心に誓って。
勿論それは自分一人ではない。親友であるパチュリー、生き残った従者達。
そして何よりも大切な妹、フランドール。長年の忌まわしき束縛から解放され、自由を手に入れた愛しい妹と共に生きていくのだ。
その頃のレミリアはそんな未来を何一つ疑おうとはしなかった。
これから先、どのような困難があってもパチュリー、そしてフランと一緒なら必ず乗り越えられると。
だが、そんな彼女の思い描いた未来は、たった一夜の出来事で脆くも崩れ落ちてしまった。
――破壊を司る悪魔、フランドール・スカーレット。その忌まわしき狂気の覚醒である。
いつものように屋敷内で過ごしていたフランが、突如狂ったように暴れだし、従者二人の命を奪ってしまったのだ。
駆けつけたレミリアとパチュリーが見たその光景は、地獄絵図そのものだった。
従者達の肢体は細切れにされ、最早原型を見出す事すら叶わず、その部屋中が夥しい血液に蹂躙されていた。
残劇の中心で、少女は独り狂気と愉悦に身を委ね、愉しそうに嗤っていた。その光景にレミリアを始め、その場の誰もが言葉を発する事が出来なかった。
抵抗するフランを押さえつけ、レミリアは他の従者達に妹に近づかないように指示を下した。これ以上の犠牲者を増やさない為である。
暴れるフランを気絶させ、レミリアとパチュリーはすぐに彼女が突如として気が触れた理由を探った。
そして、その答えはすぐに見つかることになる。彼女が生まれ持った力、万物を破壊する能力がもたらした悪夢。
数百年の年月を眠りの中で過ごしたフランにとって、その力はあまりに過分で制御出来ぬ力であった。
心身の成長と共にゆっくりとこの過分な能力を制御していたならば、恐らくこのような問題は起こらなかっただろう。
だが、フランにはそのような事は許されなかった。前主であり、実の父に拘束されて深い眠りに落とされ、
その力を流用されていたフランに、そのような自由は許されなかった。また、出来よう筈も無かったのだ。
身体の成長はそのままに、精神の成長は止められ、外見こそレミリアと変わらないが、その精神は幼いままで。
精神が未熟なフランは、己の破壊の力を制御する事が出来ないのだ。その壊れた精神バランスは狂気という名の最悪の形で外に表れる。
すぐに解決するような治癒法など存在しない。彼女が気を触れさせない為の方法はたった一つ。
これから先、彼女が眠り続けてきた数百年の年月を取り戻す事。すなわち、その長い年月をかけてゆっくりと破壊の力を制御してゆく事。
その答えに辿り着いた時、レミリアは絶望の余り何も考える事が出来なくなった。
何故ならその方法は、フランを他の従者達から隔離する事。すなわち、再びあの薄暗い地下に幽閉しなければならないという事だからだ。
今のまま、館内でフランを過ごさせる事は出来ない。もし何の対処もしなければ、次はもっと多くの従者達がフランに殺されてしまうかもしれない。
けれど、そんな事は絶対にさせたくない。妹を地下に閉じ込めてしまえば、自分はあの忌まわしき父親と何も変わらないではないか。
自分は一体何のために八雲の妖怪と契約を結び、生き延びたというのか。
従者の為、パチェの為、そして何よりも愛する妹の未来をこの手で紡ぐ為に生き延びたのではないのか。
だが他に方法はあるのか。このままではきっと同じ惨劇を繰り返す事になる。従者達を命の危険に晒す事になる。
ならば従者達を一旦別の場所に移住させるか。…否、この幻想郷の一体何処に紅魔館の人間を受け入れてくれる場所があろうか。
妹の自由、従者の命。その二つを天秤にかけて判断を下す事。
それが紅魔館の新しき主、レミリア・スカーレットに委ねられた最初の務めであった。
苦しみ、悩み、もがき、レミリアは紅魔館の主として苦汁の想いで一つの決断を下した。それが愛する妹、フランドールの地下への幽閉である。
それは本当に仕方の無い事。だからこそ、誰もレミリアを責める事はしなかった。無論、親友のパチュリーも含めて、だ。
だが、それはレミリアの心を更に追い込ませた。誰も責めないからこそ、彼女は自分自身を責めた。
己の無力さを嘆き、自身の無能さを恨み、妹への非道な処遇を吐き捨て、今目の前にある現実を呪った。
どうしてフランだけがこんな目に合わなければならないのかと。どうしてフランだけをこんな目に合わせているのかと。
愛する妹を地下へと幽閉したその日から、レミリアは心から笑う事を忘れた。
誰よりも妹を愛する姉の姿を殺し、紅魔館の主としてレミリアは在るようになった。そうしなければ、きっと自分を律せなかったから。
「地下に幽閉する事を決めたとき、あの娘にその事を伝えたわ…
その時、あの娘は私に何と言ったか分かる?こんな酷い決断をした愚姉にフランは何と言ったと思う?」
目覚めたフランは、己が犯した殺戮の事を憶えていなかった。それほどまでに彼女は狂気に振り回されたのだ。
レミリアは彼女が従者を二人殺めてしまった事を伝え、時間をかけてゆっくり制御してゆくしかない事を話した。
そして、地下への幽閉を。それを聞いたとき、フランは少しだけ悲しそうな表情を浮かべた後、レミリアに笑顔を向けて告げた。
『ごめんなさい、お姉様。沢山悲しい想いをさせちゃって、本当にごめんなさい』
妹の口から出たのは謝罪の言葉だった。恨む事も、憎む事もせず、フランはただレミリアの指示に従ったのだ。
これから再び数百年という長きに渡る年月を、地下室に幽閉しようとしているレミリアに向かって、
フランはごめんなさいと謝るだけだったのだ。それどころか、レミリアの事を最後まで気遣っていたのだ。
「どうしてフランが謝る必要があるのよ…あの娘は全然悪くないじゃない。
悪いのは全て私なのに…あの娘を救う事が出来ず、地下に幽閉する事しか出来ない私だと言うのに…」
「…レミリアは少しも悪くないじゃないですか。妹さんの事は貴女を含め、誰の手にも負えなかった。
貴女の判断は間違っていない筈です。だからこそパチュリーも他の人達も責めなかった。違いますか?」
「手に負えなかった…だから悪くない、なんて思える訳ないでしょう!?
私がしている事はあの男と何一つ変わらないのよ…紅魔館の為、他の従者の為なんて理由をつけて、
結局のところはフランを犠牲にしている…地下に幽閉して、以前までと一体何が違うと言うのよ…」
つまるところ、自分も愚かな父と何一つ変わらないのだ。
妹を幽閉し、自分は何一つ不自由なく紅魔館の主として安穏と過ごしている、そこに一体何の違いがあるだろう。
許せなかった。妹をこんな目に合わせている自分自身が。
認められなかった。妹に酷い決断を下した自分が、他の誰からも責められずに過ごしている日々が。
だからこそ、レミリアは自分自身を傷つけた。自分だけ傷つかずに生きていく事を拒み、縋りつくように贖罪を求めた。
紅魔館の人々に恨みを持つ妖怪や人間達の前に自ら立ち、彼等の罵倒や呪言を一身に受け入れた。
何て醜悪。吐き気がする。愚かな父に幸せを奪われた人々の悲しみを自分は理解しようとした訳ではない。
気付いてみれば何と言うことはなく、自分はただ利用したのだ。彼等の憎悪を、心を自分の都合の良いように。自分の心を安定させる為に。
彼等の恨みを受けていれば、多少は気が紛れたから。フランの苦しみを少しでも分かち合えたような気がしたから。
結局、自分は父よりも汚い存在なのだ。己を保つ為に、父の罪を利用した。己を保つ為に、その罪を形だけ背負ったのだから。
全てを吐き捨てるように言葉を紡ぎ、レミリアは嘲笑するように表情を歪め、美鈴を見つめる。
「これで分かったでしょう?私がどれだけ汚れ、蔑まれるべき存在であるかを。
何もかもを一人で抱え込む?そんなの当たり前じゃない。そうしないと、私は自分を保てなかったもの。
私は貴女やパチェに心配してもらうような、そんな上等な存在じゃないのよ。
何が誇り高き吸血鬼よ…何が紅魔館の主よ…笑わせるわ。結局私はアイツと何も変わらないじゃない…」
貴女は悪くないと言われる度、何かが剥がれ落ちていくような気がした。
貴女に罪は無いと言われる度、何かが薄れていくような気がした。
怖かった。ただ怖かった。自分の中で、フランへの仕打ちを正当化することが怖かった。
仕方がないのだと決め付け、いつしか自分はフランをその程度にしか扱わなくなるのではないかという事が怖かった。
自分は違うと。フランを道具としてしか扱わなかったアイツとは違うと何度も心の中で叫んで。だけど、それだけではこの恐怖は抑えられなくて。
だから逃げた。父の罪を一人で背負う事で、己の本当の罪から逃れようとした。
だけど、始めから分かっていたのだ。そんな事をしても何も変わらないのだと。
そんな事をしても、フランを自分が幽閉したという事は…彼女の自由を奪ったという事実は、何一つ変わらないのだから。
「それで良いんですか」
「…何ですって」
「今のままで本当に良いんですかと訊いているんです。
レミリアが自分を責めて、パチュリーは喜ぶんですか。他の従者さん達は喜ぶんですか。
そして何より、フランドールさんが喜ぶとでも思っているんですか。
もしそんな風に思っているんだとしたら…私、今から本気でレミリアを殴ります。全力で殴ってでも目を覚まさせてもらいます」
美鈴の言葉に、レミリアは唇を噛み締め、視線を彼女から逸らす。
分かっている。こんな事が何の解決にもならない事くらい。これがただの逃げである事くらい。
そんなこと、美鈴に言われるまでもなくレミリアは理解しているのだ。
「…じゃあどうすれば良いのよ。どうすればフランは幸せになれるのよ。私はあの娘に何をしてあげられるのよ。
教えてよ…私は一体どうすればいいの…お願いだから、教えて…」
それは、彼女が紅魔館の主になって初めての事だった。
主としての体裁も、吸血鬼としてのプライドも捨て、レミリアは美鈴の胸に縋りついた。
教えて欲しいと。助けて欲しいと。ただ一人の少女として、妹を想う一人の姉として、レミリアは美鈴を頼ったのだ。
今の彼女は果たしてどんなに小さく見えたことか。尊大な吸血鬼としての自分を捨て、ただただ助けを請うレミリアの肩はどれほどか細いものだっただろうか。
そんなレミリアを美鈴は優しく抱きしめ、一つの決意を固めてそっと言葉を紡ぐ。これ以上、大切な人を悲しませない為に。
「――レミリア、私を頼って下さい。たった一言、私に妹を救えと命じて下さい。
貴女が私を頼ってくれるなら、私は貴女を…そして貴女の妹を必ず救ってみせます。
貴女の為ならばたとえこの命を賭してでも、絶対に」
本当は求めていたのかもしれない。こうやって誰かが手を差し伸べてくれる事を。
美鈴の言葉が、美鈴の温もりが、嘘で塗り固められた心を溶かしてゆく。見せ掛けだけの強さを剥がし、本当の自分を曝け出してゆく。
最早、そこに紅魔館の主は存在しない。美鈴を強き抱きしめ、身体の震えを伝わらせるは少女の本当の姿。
誰よりも妹の事を愛し、それ故に自分を許すことが出来なかった吸血鬼の姫。
一人でこの紅魔館を守り抜き、全てをその幼き身体に一人背負った少女は、従者に声を押し殺すようにして伝えたのだ。
それは彼女がこの二十年誰にも漏らす事は無かった言葉。ただ一言、『助けて』と。
レミリアとパチュリーに連れられ、美鈴は紅魔館の地下へと足を踏み入れていた。
一体何処まで続くのかと思うほどの階段を下り続け、最下層に到達した美鈴の視界に入ったのは大きな魔法扉だった。
恐らく、内部からどれだけ強い力が加わっても開く事のないように、レミリアかパチュリーが強化と施錠を施しているのだろう。
その扉の前に立ち、レミリアは小さく呪文の詠唱を行う。彼女の言霊に呼応するかのように、扉は大きく音を立てて開いていった。
そして、室内の光景に美鈴は目を奪われた。室内の家具や調度品は見る影も無くボロボロで、壁に至っては大きな亀裂が幾つも走っていた。
だが、その中央に備えられたベッドだけは傷一つ無く、その上に少女は居た。
まるで眠れる森の美女のように眠りにつく少女――フランドール・スカーレット。フランは心地良さそうに身体を丸め、まるで子猫のようにベッドの上で睡眠についていた。
恐らく、狂気が発症し、力をレミリアとの戦闘で消耗してすぐに眠りについたのだろう。もしくはレミリアが気絶させたのか。
その少女を確認し、美鈴はレミリアとパチュリーに笑みを向ける。『何も心配は要らない』と。『自分に任せてくれ』と。
美鈴はベッドへと近づき、そっとフランの寝顔を覗き込んだ。成る程、外見はレミリアとよく似ているが、まだ幼さが残っている。
しかし、レミリアがあれだけ言うのも頷ける。それほどまでに魅力的な可愛さを秘めた寝顔であった。
美鈴は気を引き締める為に軽く息を吐き、少女を目覚めへと誘う為に、そっとフランの身体を揺すった。
ニ、三度揺らした頃だろうか、『んっ』と、小さな可愛らしい声を発し、フランは目蓋を擦りながらゆっくりと目を開く。
そして、目の前に居た初めて見る美鈴を視界に入れ、きょとんとした表情を浮かべて口を開いた。
「…貴女誰?どうしてここに居るの?ここはお姉様とパチュリーしか来る事が出来ない筈なのに」
「初めまして、フランドールさん。私は美鈴…虹美鈴と申します。
現在は紅魔館でメイド長を務めさせて頂いているのですが…まあ、そんな事は関係ないですね」
「この館の従者なの?だったら尚更どうして…あれ、お姉様にパチュリー」
美鈴の後方に居た二人に気付いたのか、フランは視線をキョロキョロとさせて不思議そうに首を傾げる。
現状を全く把握出来ていないフランに、美鈴は安心させるように微笑を浮かべ、顔をフランと同じ高さへと持っていく。
屈む様な姿勢で、美鈴はゆっくりと言葉を紡いでゆく。
「私がここに来た理由は、貴女をこの場所から解放する為。
貴女が狂気に魅入られる事が二度とないように、お姉さんが魔法をかけてあげます」
「この場所から解放…?私、またお姉様と一緒に暮らせるようになるの?」
「そう。貴女がまたレミリアやパチュリーと一緒に過ごせるように、私はここに来たんです。
だから、今から私が魔法をかけている間、少しだけ大人しくしてて下さいね。きっとすぐに済むと思いますから」
美鈴の言葉に、フランは驚きを隠せなかった。まさかそのような事を言われるとは思ってもいなかったからだ。
どうしていいのか分からず、フランは戸惑いながらも再び視線をレミリアの方へと向ける。
レミリアはフランに言葉こそ掛けなかったが、視線でしっかりと己の意思を伝えた。『信じてあげて』と。
そんなレミリアの想いが届いたのか、少し考えた後にフランはコクンと首を縦に振った。それを見て、美鈴は優しく微笑む。
準備の為か、美鈴は背筋を真っ直ぐ伸ばし直し、瞳を閉じ、両手を合わせて印を組んだ。
呪文の詠唱を始める刹那、背後からレミリアとパチュリーの声が掛かる。
「美鈴…妹を、頼んだわよ」
「美鈴、妹様を救ってあげて」
二人の声に、美鈴は力強く頷いて応えた。失敗など無い。絶対にフランドールを救ってみせると意思を込めて。
再び瞳を閉じ、美鈴は呪文の詠唱に入る。それはレミリア達にとっては聞き慣れぬ外の世界、大陸の呪言。
美鈴が言葉を紡ぎ始めた瞬間、レミリアとパチュリーは驚きの余り言葉を失った。美鈴の周囲に濃密度の魔力が次々と発生し、彼女の周囲が蒼白き光で包まれ始めたからだ。
二人が驚いた理由は、美鈴が呪文を唱えたからでも、魔力を発生させたからでもない。
彼女の生じさせたその魔力が、それこそ桁外れの量であったからだ。それは魔法使いとして一流のパチュリーはおろか、
吸血鬼であるレミリアすらも上回る程の魔力量。並みの妖怪や人間では触れることすら叶わぬ天蓋の領域。
やがて、美鈴はその蒼白き魔力の塊をゆっくりとフランへと遷してゆく。魔力は光と姿を変え、次々にフランの体内へと浸透してゆく。
その魔力の輸送は終わらない。一つ、また一つと美鈴の周囲に溢れていた魔力の塊は形を変え、フランへと送られてゆく。
その光景に、二人は目を奪われて視線を逸らす事が出来ない。
親鳥が子供に餌を与えるように、大切な我が娘に授乳をするかのように、美鈴は優しい光をフランへと注いでいった。
そして、最後に残った魔力の一塊を光に変え、フランに注入した刹那、美鈴は今まで閉じていた両瞳を開く。
あたかも狙っていた獲物を見つけた猛禽類のように鋭い視線を見せ、両手の結びを次々と組み替えていく。
まるで中空で裁縫をしているかのように器用に両手を動かし、最後とばかりに美鈴は両手を強く引き離した。
その瞬間、フランの胸部から激しい光が奔流し、室内に目を開く事すら難しい程の蒼白い光が溢れ返った。
レミリア達がようやく瞳を開く事が出来る程度に光が収まった時、全てが終了していた。軽く息をつき、美鈴はレミリアの方を振り返り、言葉を発する。
「…終わりましたよ、レミリア。
フランドールさんの狂気は、二度と表に出ないように、上から厳重に蓋を閉めさせて貰いました。
そうですね…私の傍から余程離れて生活を送らない限り、狂気が再発する事はないと思います」
レミリアに説明を終えた後、美鈴はフランの方を振り返り、優しい笑みを浮かべる。
呆然と目を丸くするフランに、美鈴は安心させるように話し掛ける。
「そういうことです、フランドールさん。今日から貴女はレミリアと一緒の生活に戻る事が出来ます」
「…本当に?本当には私はお姉様と一緒に過ごしてもいいの?」
「勿論です。これからの生活は私が従者として付き従いますので、
何かお困りの際は遠慮なく申して下さいね」
美鈴の言葉を聞き、フランの表情は驚きから喜びへと変わっていく。
そして、少女らしく満面の笑顔を浮かべて両手を上げて喜びを表現した。それを見て、美鈴はそっと身を後方に引いた。
自分の役目はここまでだと、これからはレミリアの役目だと。全身を躍動させて喜ぶフランは、慌ててレミリアの元へ駆け寄っていく。
そして、目を輝かせて、フランは興奮気味にレミリアへ言葉を紡いでゆく。
「ねえねえ!お姉様聞いた!?私、今日からまたお姉様と…」
一緒に過ごせる…そう続けようとしたフランだが、その言葉を最後まで発する事は出来なかった。
喜びを全身で表現し、レミリアに一生懸命に言葉を伝えようとしたフランを、レミリアが強く抱きしめたからだ。
「お姉様…?」
「ごめんなさい…今まで沢山つらい思いをさせて本当にごめんなさい…」
「…お姉様、泣いてるの?どうして謝ってるの?」
――この二十年間でレミリアが初めて見せた、本当の素顔。彼女が初めて見せた、その涙。
愛する妹を抱きしめ、涙を零して少女が漏らした言葉は謝罪。その謝罪の意味を、フランは少しも理解出来ずに首を傾げるばかりだ。
けれど、謝りたかった。そうしなければ、自分はこの娘の純粋な瞳を見つめる資格は無いと思ったから。
抱きしめたかった。こうやってフランをこの手で強く抱きしめてあげたかった。けれど、この二十年間、レミリアは一度もフランを抱きしめてあげる事はなかった。
一体どうして抱きしめられるだろう。この娘を地下へと幽閉する事を決めた私が、一体どうしてこの娘を抱きしめる事が出来ようか。
たとえそれしか術は無かったとしても、自分が愛するこの娘を地下へ閉じ込めた事実は変わらない。
たとえフランが自分の事を恨んでいなかったとしても、この決断を下した自分が自分自身を許せない。
それなのに、フランは今、喜んでくれている。私と一緒にもう一度過ごせる事を、こんなにも喜んでくれている。
私にはそんな風に思って貰う資格なんか無いのに。私にはこの娘の笑顔を向けて貰う資格なんか無いのに。
――都合の良い事だとは分かっている。今更こんな資格は無い事なんて分かっている。
けれど、もし許されるなら。もう一度、この娘の傍に居る事を、一緒に歩む事を許してもらえるなら。
私は今度こそこの手を離しはしない。プライドなんて必要ない。紅魔館の主なんて肩書きなんて必要ない。
ただ、フランの姉として…この娘の家族として、今度こそこの娘を私の傍から離れさせたりしない。つらい思いをさせたりしない。
それがきっとこれからの私のすべき事。美鈴が私に与えてくれた、本当の意味の贖罪の機会なのだから。
「お姉様、苦しいっ!苦しいよっ」
抱き合う二人を横目で見ながら、パチュリーは軽く息をつき、美鈴の傍へと足を進める。
ベッドの傍に立ち、パチュリーと同じように二人の方を笑顔で見つめていた美鈴の横に立ち並び、呆れるように言葉を紡ぐ。
「別に無理しなくても良いわよ。立っているのがやっとなんでしょう?」
「…やっぱり分かります?
実はもう、身体の中の魔力が空っぽで立っているのすら厳しい状態なんですよね」
パチュリーの言葉に、美鈴は苦笑を浮かべて肯定した。
そんないつもの彼女らしい台詞を聞き、パチュリーもまた笑みを零す。本当にこの娘は何も変わらないなと思いながら。
「そんなにつらいなら、そのまま倒れても良いのよ?幸い妹様のベッドは今夜は空きそうだもの」
「うーん…その魅力的な提案には心惹かれるのですが、遠慮しておきます。
私のご主人様のご希望は、完全で瀟洒なメイド長らしいので。お二人がご一緒のベッドで眠りにつかれるまでは
仕事に従事するのが完全で瀟洒というものでしょう?」
「少なくとも貴女にそれは無理ね。完全で瀟洒なメイドなんて貴女には一番ほど遠い存在だわ。
大体貴女にそんなことをレミィが期待している訳ないでしょうに」
「それは手厳しいですね。私ではレミリアの理想のメイドさんにはなれそうもありませんか…残念です。
それでは私はレミリアのお嫁さんでも目指すとしましょう。紅魔館での寿退社です」
「一生メイドとして扱き使われるのがオチね。永久就職って言葉を知ってる?」
それは初耳です、と冗談を返す美鈴に、パチュリーは苦笑を浮かべて小さく息をつく。
こんな冗談を交わさずともパチュリーは確信していた。美鈴は、レミリアにとってまさしく理想のメイドであったと。
否、それはメイドや従者という言葉では生温い。彼女こそ、レミリアの本当の理解者だったのだ。
この二十年間の彼女の苦しみを、美鈴は一人で解き放ってみせた。本当は自分がしなければならない事だった筈なのに。
「…心から感謝している反面、少しだけジェラシーも感じているのよ。貴女にはね」
「…そんなもの感じる必要なんてありませんよ。パチュリーは長い間、レミリアの心を支え続けたじゃないですか。
きっとパチュリーがいなければ、レミリアは私に会う前に心が潰れていた筈です。レミリアはパチュリーに感謝してますよ。
私はただ、自分に出来る事をやっただけです。普段行っているメイド長の仕事と何も変わりませんよ」
微笑む美鈴の言葉に、パチュリーは肯定も否定もすることはなかった。
ただ、もしそうだったなら嬉しく思う。大切な親友の為に、自分が少しでも力になれていたなら、と。
でも、それは口にしない。何故ならそれは美鈴から口にしてもらう事じゃないから。
何時の日かレミリアが過去を振り返るとき、その時の楽しみに取っておくべき事だろうから。
表情を緩ませ、パチュリーはそっと口を開く。最後に一つ、今更な質問を彼女に向けて。
「先ほど貴女が見せた高密度の魔力、あれは吸血鬼であるレミィの全魔力量すら上回る程だったわ。
そしてそんな天文的な魔力を妹様の狂気を抑える為に形を変え、あれ程までに精密な作業を貴女は行った。
魔力を治癒能力に流用するだけでは、妹様の狂気は抑えられない。その方法は既に私達が通っているもの。
だから、貴女はそれ以外にも何か特別な事を行った筈よ。その強大な魔力を何か…狂気を抑える事の出来るものに転換したか、はたまた狂気自体を操ったのか。
…さて、今更な質問になるけれど教えてくれるかしら。貴女は…虹美鈴は、一体何者なの?」
パチュリーの質問に、美鈴は答える事無く一度両瞳を閉じた。
虹美鈴の正体。それはレミリアやパチュリーが疑問を感じても追求をしなかったもの。そんなことをする必要性が無かったから。
けれど、今は違う。彼女はフランの狂気を抑えるという奇跡を自分達の目の前で行ってみせたのだ。
パチュリーの言う通り、美鈴はにわかには信じ難いほどの魔力を精密に操り、フランの狂気を封印せしめた。
そんな事は、ただの妖怪や人間には到底不可能だ。それどころか、魔法使いとして秀でたパチュリーや、吸血鬼であるレミリアにすら不可能な事。
では何故彼女は、虹美鈴はそんな奇跡を可能にしてみせたのか。パチュリーはただ純粋に興味が沸いたのだ。
もしかしたら、美鈴は自分達が思っている以上に天蓋の存在なのではないかと。
そんなパチュリーの期待に、美鈴は両瞳を開き、首を一度横に振って言葉を紡いだ。
「…私は美鈴、虹美鈴。紅魔館で働くか弱いただの一妖怪ですよ。
ただ少しだけ、他の皆さんより『気を扱う事』に長けているだけの、何処にでもいる普通の妖怪なんです」
美鈴からの返答を聞き、パチュリーはそれ以上追求するのを止めた。
その言葉を告げたときの美鈴の表情が、彼女の気を削がせたからだ。
それはまるで悲しみを堪えるような、そんな笑顔で。パチュリーはそんならしくない美鈴の表情を見たくはなかったから。
『そう』とだけパチュリーが言葉を返した刹那、美鈴はフッと気を失ったかのように身体を後方のベッドへとゆっくり沈ませた。
それは本当に静かに流れるように。それに気付いたパチュリーは、慌てて美鈴の顔を覗き込む。
「…やっぱり無理しない方が良いわよ。今日はゆっくり休みなさい」
「あは…すみません。やっぱり私に完全で瀟洒はちょっと無理みたいです」
「馬鹿ね、だからさっきも言ったでしょう。そんな事はレミィも期待してないって」
パチュリーの言葉に微笑み、美鈴はゆっくりと意識を闇へと落としてゆく。
美鈴が倒れたことに気付いたのか、彼女の傍にパチュリーだけではなくレミリアやフランも集ってゆく。
心配そうな表情を浮かべる二人を、パチュリーが事情を説明して宥める。魔力の使い過ぎだと。
人々に囲まれて、美鈴は眠りにつく。レミリア達を救う手助けが出来た事を、今はただ、その胸に誇りながら。
そして、この時の事をレミリア達は後悔する事になる。
どうして気付けなかったのか。どうして気付いてやれなかったのか。
そうすれば防げたのかもしれない。そうすれば止める事が出来たのかもしれない。
もしこの時何か手を打っていたならば、あのような悲劇は起こりはしなかったかもしれないのに。
美鈴の起こした奇跡の代償。それは、彼女達にとって果てなく重い代償であった。
『子供、寝たの?』
紅髪の少女の問いに、黒髪の少女は苦笑交じりで口を開く。
『うん、ようやく。本当、元気が有り過ぎて見てるこっちがハラハラしちゃう。
元気に育ってくれるのはいいんだけど、女の子なんだからもう少し大人しくてもよかったかな』
『貴女に似たんでしょ。外見といい性格といいそっくりじゃない』
『それは手厳しい。う~ん、まあ…否定は出来ないんだけどね』
クスリと微笑み、黒髪の少女は一度言葉を切り、そして紅髪の少女の方を見つめ直す。
何、と首を捻る少女に、彼女はゆっくりと言葉を紡いでゆく。
『…ありがとう。貴女のおかげで、私はこうしてあの娘と出会うことが出来た。
貴女があの時、私の命を救ってくれなければ、私はあの人と結ばれる事も娘を産むことも無かった』
『…何を今更。別にいいわよ、そんな事。
貴女も分かってるでしょ?私には私なりの計画があって、貴女の命を救ったの。
言わば自分の為だもの。私の目当てはたった一つ、貴女の身体』
『その言い方、何だか微妙に違う気がするよ…』
黒髪の少女の指摘の意味が理解出来なかったのか、
紅髪の少女はよく分からないといった不満気な表情を浮かべていた。
そんな子供のような表情を浮かべる紅髪の少女に、黒髪の少女は肩を寄せてそっと微笑んだ。
そして優しく口ずさむは子守唄。その唄は黒髪の少女が我が娘に何度も聞かせたモノ。
その唄を聴きながら、紅髪の少女は黒髪の少女に向かって、少し躊躇った後にゆっくり口を開く。
『…ねえ。貴女に聞きたい事があるんだけど…』
『何?』
『…家族って、どういう感じなの?』
唄を止め、優しく聞き返す黒髪の少女に、紅髪の少女は質問を投げかける。
それは、紅髪の少女には少しも理解出来ない事。出来ようがある筈も無かった事。
だけど、少女は知りたいと感じた。触れてみたいと感じた。
夜空に輝く星々に、どれだけ手を伸ばしても掴む事は出来ないように。
それが自分には、決して触れられない事だと理解していながら。
その問いに、黒髪の少女は優しく微笑んで、質問の答え代わりに、再び唄を口ずさむ。
何処までも心地よく、何処までも優しく響く黒髪の少女の歌声が、紅髪の少女の心にゆっくりと浸透してゆく。
彼女の歌声に耳を寄せ、紅髪の少女は誰にでもなく一人呟いた。ただ一言、『温かい』と。
地下室での出来事から三日。
紅魔館の空気はそれこそ二日前のお祭り騒ぎの余韻が未だに覚めやらぬ状態であった。
二日前の朝、フランの狂気が抑えられた事が古くからの従者達に伝えられ、彼等は盛大な歓喜をもってフランの地下室からの帰還を迎え入れた。
彼等もまた心から待っていたのだ。主、レミリアの妹君であり、無邪気で天真爛漫なフランドールが再び戻ってくる事を。
その日の夜は紅魔館の大広間にて、美鈴がメイド長に昇格した日以上の規模であるパーティーが開かれた。
従者達は飲めや騒げやの大盛り上がり。フランの事を知らない為、何のお祝いかイマイチ理解していない
妖精メイド達も他の従者達の熱気に当てられ、負けじとばかりに大騒ぎ。
彼等の中心にいるのは勿論、宴の主役であるフランドール。心から楽しそうな笑顔を浮かべ、従者達の間を休む間もなく引っ張りダコである。
そして、もう一人の影の主役である美鈴もまた多忙であった。料理や酒の追加でてんてこ舞いなところに、
従者達に捕まり、フランを救った英雄として胴上げされたり無理矢理酒を飲まされたりしていた。それを彼女は苦笑しながらも、楽しそうに受け入れていた。
そんな騒がしい光景を、レミリアやパチュリーは優しい笑顔を浮かべて見守る。
そのレミリアの浮かべる笑顔には、もう何処にも以前のような影は存在しない。それは心から今を楽しんでいる彼女の本当の笑顔。
最早紅魔館に今までのような悲壮感など存在しない。誰もが心から笑い、誰もが心から自由に生きる場所…それが紅魔館。
そう。この日こそが本当のスタートなのだ。皆が揃い、紅魔館が幻想郷で本当の一歩を踏み出した、記念すべき本当の。
そういう訳で、紅魔館の人々には未だに笑顔が絶えない。
従者から妖精メイドまで、誰もが今を楽しそうに過ごす日々。そんな風に笑える空気が、今の紅魔館には満ち溢れていた。
だから、現在のこの館において機嫌が悪い者など誰もいない…筈だったのだが。
「お茶をお持ちしましたよ。レミリア、パチュリー」
「…ありがとう。そこに置いて頂戴」
時間的には大体昼の三時を過ぎた辺りだろうか。
レミリアの部屋に運んできた美鈴に、レミリアは視線も向ける事無く指示をする。
ムスッとした表情を浮かべるレミリアを気にする事無く、美鈴はニコニコと笑顔を浮かべてレミリアの前に紅茶を用意する。
そんなレミリアの隣に座っていたパチュリーへも紅茶を一つ。そして、残る空席の前に一つ。恐らく自分の分だろうか。
紅茶を配り終え、再び室内に静寂が戻る。というか、重苦しい。空気が大変に重苦しい。
その理由は勿論、レミリアが一人何故か苛立っている為なのだが、そんなことは誰も気にしようとはしない。
美鈴は相変わらずニコニコと茶菓子の準備をしているし、パチュリーに至っては本から視線を上げようともしない。
そんな重苦しい空気を破壊するように、美鈴の頭の上から可愛らしい声が発せられた。
「ねえめーりん、私の分はないの?私もお菓子食べたいんだけど」
「フランの分もちゃんと用意してありますよ。フランは紅茶よりもジュースの方が好きでしたね」
美鈴の言葉にうんと力強く頷く少女、フランの声に、レミリアはカップを握る手の力を思わず強めてしまう。
どうやらレミリアの苛立ちの理由は美鈴に肩車され、彼女の頭の上に顎を乗せている実妹にあるらしい。
震える手を抑えつつカップを机に置き、レミリアはニコリと笑みを作ってフランに話し掛ける。
「ね、ねえフラン…?昨日から気になっていたのだけど、どうして貴女は美鈴の上に乗っているのかしら…?」
「ん?だって私はめーりんから離れちゃ駄目なんでしょ?だから私はめーりんと一緒に居るの」
レミリアの問いに、フランはさも当然のように答えを返してみせる。
どうやらフランは、先日彼女の狂気を美鈴が抑えた際に言った『私から余程離れなければ狂気は再発しない』という言葉を律儀に守っているらしい。
それは確かに良い事である筈なのだが、レミリアはどうしても現状が納得出来ずにいた。
フランが館に戻ってきて三日目、現在の光景が示す通り、フランは常に美鈴にベッタリなのだ。
何処に行くにも何をするにも美鈴の上に乗り、仲睦まじい光景が館内でどこでも何時でも目撃されるほどだ。
最初は『仕方がない』と割り切っていたレミリアだが、目の前でいつも二人にイチャつかれては堪ったものではない。
美鈴と話をしようにもフランが居るし、フランと会話しようにも美鈴が傍にいる。これではまるで自分が邪魔な存在のようではないか。
そんなイライラが積もり始め、気付けば現状という訳だ。フランの解答に頷き、相変わらず美鈴に視線を向けないままでレミリアは苛立たしげに口を開く。
「美鈴、本っっっっっっ当にフランは貴女から少しも離れちゃ駄目な訳?」
「嫌ですね、レミリアったら。そんな訳ないじゃないですか。それじゃ私、一人でお風呂もトイレも行けませんよ。
そうですね…大体半径10km以内程度に居て頂ければ大丈夫かと」
「広っ!!というかそれじゃ、今みたいにくっ付いて生活する意味が全然無いじゃない!?」
「そうですねー。私は再三何度もフランに『別にくっ付いてなくても構わないんですよ』と言ったんですけどね」
その言葉に、レミリアはキッと苛立ちを込めてフランを睨む。
どうやら美鈴の頭の上にまとわりついて生活をしているのは、強制ではなくフランがそうしたいからしているらしい。
悔しそうに見つめるレミリアは、こほんと小さく一つ咳払いをし、再び笑顔を作ってフランに話し掛ける。
「ねえ、フラン。美鈴も言っている通り、別に貴女はそんな風に美鈴にくっついて生活する必要ないのよ?」
「んー…でもめーりん、このままでも構わないって言ってくれたよ?
それにめーりんって凄く良い匂いがするから好き。私は今のままで良いかなあ」
「…っ!で、でもねフラン、美鈴はこの館のメイド長で忙しい身分なのよ?
そんな美鈴の仕事の邪魔をしてはいけないわ。遊び相手なら私がいくらでも代わりを務めてあげるから」
レミリアの説得に、フランは少し悩む素振りをみせる。どうやらフランも美鈴の迷惑になることだけは嫌らしい。
その様子に、説得の成功を確信し、心の中でガッツポーズを取るレミリア。平然を装ってはいるが、口元が緩んでいたりする。
悩んでいたフランだが、美鈴の耳元まで顔を下げ、少し悲しそうな表情で訊ねかける。
「めーりん、私邪魔?」
「全然邪魔じゃないですよ。私もフランとお話出来て楽しいですから」
そんなフランに眩いばかりの笑顔で答えてみせる美鈴。つられるように笑顔が花咲くフラン。対照的に表情が固まるレミリア。
再びイチャイチャと仲睦まじげに微笑みあう二人に、レミリアはワナワナと全身を震わせ始める。
なんかもう怒りとか怒りとか怒りとかが脳天を突き抜け、我慢の限界を超えてピリオドの向こうへ行ってしまったらしい。
「……よ」
「?何か言いましたか、レミリア」
ボソボソと呟くレミリアに対する美鈴の言葉。それがトドメとなった。
ブチンという何か極太な注連縄でも切れたかのような音が室内に響き渡り、狼が咆え猛るようにレミリアは美鈴に絶叫した。
「少しくらい空気を読むというコトを覚えなさいよこのヘッポコポンコツ駄目駄目メイドがーーーー!!!!!!!!」
「えええ…そこで私が怒られちゃうんですか?レミリア、八つ当たりは良くないです」
レミリアの怒りを買った理由がイマイチ理解出来ていない美鈴は、小さく首を傾げる。
また、その際に頭の上に乗っていたフランの顎がずれ落ち、美鈴の被っていたプリムと一緒に頭の上からコテンと落下したりしていた。
ずれ落ちそうになるフランを手で優しく支え直し、美鈴は困ったような笑みを浮かべながら、足を部屋の入り口の方へと向ける。
「どうやらレミリアは今、機嫌が大変悪いみたいなので一時撤退です。
その間にフランの分のジュースとお菓子を用意させて頂きますね。そうですね、私の部屋でお茶しましょうか」
「ホント?めーりんの部屋に行くのは初めてだから楽しみ~」
「ちょ、ちょっと待ちなさい美鈴!!私の話はこれから…」
レミリアの制止もそのままに、美鈴は扉を開き一礼をする。どうやらこの場は本当に逃げるつもりらしい。
そんな美鈴に、今まで口を閉ざしたまま傍観者に徹していたパチュリーだが、
ふと机の上に残された余っている紅茶に気付き、その事を美鈴に訊ねかける。
「ねえ美鈴、この紅茶は片付けなくても良いの?これは貴女の分なのではなくて?」
「あ、それはお客様の分です。館の外から感じ取れた気配から考えて、
恐らくもうすぐこの部屋に訪れると思いますので。それではレミリア、また後ほど」
「待てって言ってるでしょうが!いい加減にちゃんと人の話を聞きなさい、このガッカリメイド!!!」
主の言葉に耳を貸す事無く(実際は貸しているのだろうが、右から左にスルーしている)、
美鈴は笑顔のままでフランと共に部屋から去っていった。ゆっくりと部屋の扉が閉められ、それと同時にレミリアは盛大に大きな溜息を浮かべる。
「全くもう…人の気も知らないで。
本当、イライラするわね…今度キツイお仕置きをしてあげないと」
「落ち着きなさい、レミィ。
美鈴の言う通り、それはどう考えても八つ当たり以外の何物でもないでしょうに」
「八つ当たりじゃないわよ!これは主から従者への立派な教育の一環よ!
私からフランを奪おうとする美鈴への、いわば愛の鞭だわ」
レミリアの言葉に、パチュリーは一旦目を丸くして驚いたような表情を浮かべた。
そして、何かに思い当たったのか、その表情をすぐに何かを含んだような笑みに変え、軽く息をついてその場から腰を上げる。
そんな親友の表情に不満を覚えたのか、レミリアは睨むように彼女を見据えて口を開く。
「…何よ、パチェ。その腹立たしい笑顔は」
「別に。ただ、貴女も自分の気持ちになると大概鈍感なのねと思っただけよ。美鈴も苦労しそうだわ」
「何よそれ…ていうかパチェ、貴女何処に行くの?」
席から離れ、美鈴達と同じように部屋の外へ向かおうとしたパチュリーに、レミリアは眉を顰めて訊ねかける。
しかし、パチュリーはレミリアの方を振り返る事無く、足だけを止めて、彼女の質問に答える。
「さっき美鈴が言っていたでしょう。もうすぐこの部屋に客が来るって。
貴女の命を狙う訳でもなく、紅魔館を恐れる事無く客として訪れる存在…それは博麗の巫女以外考えられないでしょう」
「そういえば美鈴はそんな事を言ってたわね…だからといって、パチェが退席する必要はないでしょうに」
「いいのよ。だって私、博麗の巫女には何の興味も無いもの。私が居たところで会話が弾むとも思えないし」
その一言だけ言い残し、パチュリーはレミリアの部屋から今度こそ退室した。
気難しい友人に、レミリアは息をつく。長年の付き合いだが、未だに彼女の興味対象の尺度がレミリアには理解出来ずにいた。
拾ってきた美鈴にはこちらが驚くほどに興味を示したくせに、博麗の巫女には一ミリたりとも興味を示さない。
今度パチュリーに興味を抱く対象の共通点を聞いてみようか、などとレミリアは一人余計な事を考えていたりした。
そして、出て行ったパチュリーと入れ替わるように、再び部屋の扉が開く。
扉の向こうから姿を現したのは、紅白の巫女装束に身を包んだうら若き少女。年齢的には15に満たぬ程度であろうか。
笑顔を浮かべてレミリアに向かって軽く手を上げる少女に、レミリアは『そんな挨拶はいいから早く入れ』と視線で言葉を投げかける。
そんなレミリアに促されるままに、少女はレミリアの隣、美鈴が紅茶を残していた席に座り、楽しげに口を開く。
「久しぶりね。今回はニヶ月ぶりくらいかしら?」
「そんなの憶えてないわ。貴女は何時だって何の前触れも無く館に来るじゃない。
一週間毎日のように通ってたかと思えば、半年くらい何の音沙汰も無くなるし。
…というか、今更だけど博麗の巫女が吸血鬼の根城に遊びに来てるんじゃないわよ。大人しく神社に篭もってなさい」
「別に良いじゃない。アンタのところの紅茶は美味しいからね。時々ふと飲みたくなるのよ」
「紅魔館を茶屋か何かと勘違いしてるんじゃないでしょうね。今日からきっちり料金払ってもらおうかしら」
「何けち臭いこと言ってんのよ。自称誇り高き吸血鬼様が人間如きから金取ろうとしてんじゃないわよ、浅ましい」
嫌味に対し、相応の嫌味で返す少女にレミリアは呆れるように頭を抱えるしかなかった。
この少女とは、それこそ少女が生まれた時からの付き合いがあるのだが、
母親の影響かレミリアの事を微塵も怖がっていないのだ。それどころか、吸血鬼ということを忘れているのかとすら思えるほどに同等に接してくる。
それも偏に博麗の血筋と言えばそれまでなのだが、この十数年、未だにレミリアは何かが納得出来ずにいた。
レミリアとの口論に制し、紅茶に口をつける巫女だが、何かに驚いたように目を丸め、カップから口を外した。
「…気のせいかしら。紅茶が美味しくなってない?以前もかなり美味しいとは思っていたんだけど」
「実際に美味しくなってるのよ。最近、腕は良いけど頭が空っぽなポンコツメイドを雇ってね。
まあ、あの娘の出す紅茶や茶菓子、食事の味は私が保証してあげるわ。頭は空っぽな駄目駄目メイドだけど」
「へえ…この幻想郷に私や紫以外で紅魔館に近づくような馬鹿がまだ居たんだ。
そう言えば館内に妖精メイドが沢山居たけれど、あれも最近雇ったの?」
「そうよ。まあ、多少五月蝿いけれど自分の持ち場は掃除してるみたいだし助かってるわ」
「ふーん…紅魔館、少し見ないうちに随分変わったわね。明るくなったというか、騒がしくなったというか」
「全くよ。ここが本当に吸血鬼の棲む館と言えるのか、最近自分でも少し不安になってるところ」
苦笑交じりで話すレミリアだが、彼女の言葉が心からの言葉で無いことを、少女はあっさりと見抜いていた。
そして不思議に思う。紅魔館だけではなく、もしかしたらレミリア自身も少し変わったのではないかと。
以前の彼女はこんな風に軽く微笑むような人物ではなかった。笑うにしても、何処か引っかかるような、そんな違和感を覚えるような表情しか見られなかったのだが。
そんなレミリアの変化に首を傾げる少女に、レミリアはふと思い出したように言葉を投げかける。
「そういえば、貴女の母親はまだ生きてるの?最近は全然顔を見かけないけれど」
「母さん?母さんなら元気よ。むしろ何で引退したのか分からないくらい元気が有り余ってる感じ。
そんなに元気が残ってるなら、私の代わりに巫女の仕事をしてくれれば良いのにって思うわ」
「貴女は巫女の仕事を面倒がり過ぎるのよ。貴女の母親は見てて気持ち悪いくらい働いてたわよ。
まあ、貴女の母親のように鬱陶しいほど無意味にケンカを売られるのもゴメンだけど」
「母さんは母さん、私は私。私は巫女としての仕事なんて最低限しかしたくないの。
それに母さんのレミリアに対する態度は一種の愛情表現でしょ。母さんはアンタにベタ惚れだもんね」
「気持ち悪い戯言を言わないで頂戴。
本当、アイツが巫女を引退してくれたお陰でこうして美味しく紅茶が飲めるというものよ」
「素直じゃないわね、母さんもレミリアも」
少女の言葉に、レミリアはフンと視線を背ける。どうやら相手をするのも馬鹿らしくなったらしい。
彼女達の会話通り、レミリアと少女の母親――先代の博麗の巫女はそれはそれは仲が悪かった。
二人が最初に出会ったのが、今から約二十年前。レミリアの父親を殺す為に、彼女の母親が紅魔館に乗り込んできた時のこと。
その時はレミリアと八雲の妖怪が契約を結んだ為、レミリアと巫女が戦うことは無かったのだが、巫女はレミリアの事が大層気に食わなかったらしい。
幻想郷の平和を乱した大罪人でありながら、妹を、親友を、そして従者を守る為に己の命を簡単に捨てようとしたレミリア。
その姿が、妖怪退治を生業として過ごしてきた巫女である彼女の心の中に、消化しきれない靄を生み出したのだ。
それ以来、少女の母親とレミリアは事ある事に衝突を繰り返してきた。衝突と言うよりは、少女の母親が一方的にレミリアにケンカを売っていただけなのだが。
だが、それは裏を返せば少女の母親がレミリアを認めていた証拠だった。何度もぶつかる事で、レミリアという存在を受け入れようとしたのだ。
それはレミリアとて同じだった。数百年生きてきた中で、人間の身でありながらここまでレミリアにケンカを売ってきたのは彼女唯一人であった。
その実力はまだまだ到底レミリアには届かない。けれど、少女の母親は決して屈することは無かった。
何度負けても、何度敗北を舐めても、彼女は翌日にはケロリとしてレミリアに挑んできた。
その姿に、レミリアは気付けば彼女の存在を認めていた。博麗の巫女、そして人間である彼女の心の強さを。
…だが、まあそれはあくまで二人の心の中だけで。いがみ合ってる為、二人は絶対に口にしたりはしないのだが。
だからこそ、その娘である少女は一人呆れるように笑うのだ。本当に素直じゃない、と。
「ところで、まさかとは思うけれど、今日は紅茶を飲みに来ただけ…という訳ではないでしょうね」
「まさかも何も、最初に言ったじゃない。アンタのところの紅茶を時々飲みたくなるって」
「…本当に呆れた。紅茶なんか飲んでないでせっせと妖怪退治にでも精を出してなさいよ、この怠惰巫女」
「だから嫌だって言ってるでしょう、面倒だって。それに妖怪退治の仕事だって最近は滅多に入らないのよ。
二十年前に何処ぞの誰かさん達が、幻想郷で暴れ過ぎると紫が出てくるってことを証明しちゃったからね。
加えて引退するまで、頼まれてもいないのに母さんが悪さをする妖怪達を修行も兼ねて潰しまくってたし。
そんな訳で妖怪達も警戒してるのよ。おかげで楽が出来て嬉しいわ」
どうやらこの巫女は本当にトコトン仕事をするつもりがないらしい。
こんなことでいいのかとレミリアは他人事ながら心配していたりした。あの娘、教育間違ったんじゃないかと。
「私が言うのもアレだけど、博麗の巫女は近い将来絶対衰退するわね。断言してあげる」
「大丈夫よ。多分、私の次の巫女は母さんみたいに真面目な巫女だろうから。
子供は母親の背中を見て育つもの。そしてその娘の子供は私のようにやる気の無い巫女、と」
「母親の背中を見て育つなら、貴女はやる気に満ち溢れてないとおかしい筈だけど」
「反面教師として鑑みるのよ。少なくとも私はそうしてきたもの」
「やる事がないなら私が何か異変でも起こしてあげましょうか?
そうね…あの鬱陶しい太陽の光を消し去る為に、それこそ紅い霧で幻想郷中を覆うとか」
「冗談。そういう下らない計画は私が死んだ後の楽しみにとっておいて頂戴。
私は母さんみたいに吸血鬼を退治したり、お婆ちゃんみたいに悪霊や花妖怪、魔界の神退治なんて真っ平ゴメンなの。
ましてや私の知った奴が問題起こすなんて勘弁。私の代は何も無く無事平穏な幻想郷であってほしいのよ。
…そうね、私の死後なら好きなだけ異変でも何でも起こして構わないわよ?
そしてその後にその代の博麗の巫女を務めてる娘にでもブン殴られておきなさい。母さんみたいな娘だったら異変起こす前にケンカ売ってきそうだけど」
「心配しなくても博麗の巫女との付き合いは今代までよ。面倒ごとはもう沢山。
巫女と無駄なケンカするよりも紅茶を飲んで時間を過ごした方がよっぽど有意義だもの」
「同感。私も早く博麗の巫女なんか引退して、母さんみたいに毎日縁側で茶でも啜っていたいわ」
「引退しなくても毎日啜ってるくせに何を抜け抜けと」
「気分の問題よ。仕事の休憩時間に飲むお茶と、家でくつろいで飲むお茶は全然違うでしょう?」
「知らないわよ」
少女の言葉を一笑に付し、レミリアはカップに残っていた少ない紅茶を喉に通してゆく。
この巫女の母親がケンカ友達と表現するならば、その娘は話友達といったところか。
紅茶を飲み干し、カップを口から離したレミリアに、少女はふと思い出したように話題を提起する。
「さっき出した紫の名前で思い出したんだけど、確か一ヶ月くらい前かしら。
神社で掃き掃除してたら、突然紫がやって来てね」
「貴女が真面目に神社を清掃している事と、あの常時睡眠を貪る怠惰妖怪が外出している事。
この場合、私は一体どちらに驚けばいいのかしらね」
「うっさい、余計な茶々入れんな。それで何の用かと思ったら、人探しをしてるって言われたのよ。
ただ、紫の話す特徴に全く見覚えが無かったから、紫はすぐに帰って行っちゃったんだけど」
「人探しねえ…外界の神隠しの主犯なんて謳われてる隙間妖怪が人探しねえ」
巫女の話を、レミリアは興味なさ気になあなあの返事を返す。
まあ、あの最強の妖怪が式に頼らず自分の足で人探しをしてる事に、少々興味を引かれないでもないのだが、
真面目に耳を傾けるほどではないらしい。そんなレミリアを気にすることも無く、少女は言葉を続けてゆく。
「見つけたら私に報告するようにって言われたんだけど、レミリアは見てない?
まあ、紫みたいに年がら年中紅魔館に引き篭もってるアンタにはあまり期待してないんだけど」
「八雲の妖怪と同類項扱いしないで頂戴。私は日々この館の主として色々と多忙なのよ。
それに『見てない?』なんて言われても分かる訳ないでしょう。貴女そいつの特徴何も話してないじゃない」
「あれ?そうだっけ?それは悪かったわね。
ええと、そいつはつい最近、外界からこっちに入ってきたらしいのよね。と言っても一ヶ月以上前になるみたいだけど。
確か女で…髪が紅くて、ううん…名前は何て言ってたかしら」
興味を失したまま適当に相槌を打っていたレミリアだが、少女の口から語られた人物の特徴に、表情を変える。
つい最近幻想郷に現れ、女性で紅の髪。聞き覚えがあるどころの話ではない。その人物を自分は確実に知っているではないか。
いつの間にか、真剣に聞き入っているレミリアに気付く事無く、少女は思い出したのか、ポンと手のひらを叩いてその名を紡ぐ。
「確か美鈴って言う名前だったわね。虹美鈴、それが紫が探していたヤツの名前。
という訳でレミリアは心当たり…ある訳ないわよね。アンタが紅魔館の外を出歩いてると思えないし」
「…そうね、残念だけど私には皆目検討もつかないわね。
それよりも八雲の妖怪自らが出張ってる理由が気になるわね。そいつを探してる理由で何か言ってた?」
少女の口から予想通りの人物――美鈴の名前が出ても、レミリアは少しも慌てる事は無かった。
冷静に対処し、少女に対し探りを入れ始める。少女の口振りからして、八雲の妖怪は美鈴がこの世界にやって来た時から彼女の事を探していたらしい。
一体何故美鈴を八雲の妖怪が探しているのか。何の目的で美鈴に接触しようとしているのか。何故八雲の妖怪が美鈴を知っているのか。
その辺りの情報をを、目の前の少女から可能な限り探る事がまずは肝要。そう判断したレミリアだが、少女は軽く首を振って否定する。
「私にはそいつを探しているとしか教えて貰えなかったわ。
ただ、別れ際に紫から一つだけ忠告された事があるのよね。
まあ、私は最初からそいつを探すつもりはないし、会う予定も無いから関係ないんだけど」
「八雲の妖怪は貴女に何て言ってたの?」
「…『虹美鈴には近づくな。もし彼女に偶然会うことがあっても、決して戦うような真似だけは止めなさい。
あれは貴女の…いいえ、人間の手には負えぬ存在なのだから』、だって。
でも、今考えると、あの紫にそれだけ言わせるんだから、虹美鈴っていうのも相当な化け物みたいね」
厄介ごとだけは勘弁してもらいたいわ。そう締める少女の言葉は、最早レミリアの耳には届いていなかった。
彼女が思考するは美鈴と八雲の妖怪の関係。あの八雲の妖怪が、美鈴の実力を認めているという事。
先日、美鈴がフランを狂気から解放させたとき、確かに強大な魔力量をレミリアも感知した。
その容量はあまりにも凄まじいモノで、下手すればレミリアすら簡単に凌駕し得る程であった。
だが、その事をレミリアは深く考えようとはしなかった。否、する必要が無かった。
いくら強大な力を持っているとはいえ、美鈴がその力を戦闘に使用するところなど見たことが無かったからだ。
それに、美鈴は戦うことを嫌う節がある。そんなことをするよりは、お話したり従者としての仕事をしたりする方が楽しいと本人も以前言っていた記憶がある。
だから、レミリアも美鈴の潜在能力に関しては余り口出しするつもりは無かったのだが、
八雲の妖怪に捜索されているというのならば話は別だ。アレが動くという事は、それなりの理由があるということ。
ではその理由とは何か。…そんな事は決まっている。それは美鈴の力に関する事、ひいては美鈴の正体につながる事。
本来ならば、真っ先に考えるべきことだったのだ。何故、美鈴が紅魔館で働きたいと言い出したのか。
何故、美鈴が私達などに付き従っているのか。紅魔館で働く事が、彼女にとって何の利があるというのか。
しかし、レミリアはそんな詮索をすることも無く、毎日を過ごしてきた。美鈴の本心を調べようとはしなかった。
その理由――そんなのは決まっている。信じたいからだ。何時でも自分の力になってくれた美鈴をそんな目で見たくなかったからだ。
もしかしたら、美鈴は自分を利用しているのではないか。もしかしたら、美鈴は私を騙しているのではないか。
そのような下らない考えで、美鈴との関係にヒビを入れてしまうことが嫌だったのだ。
たとえ美鈴が何を隠していようが、私には関係ない。美鈴が私の従者で居てくれるなら、それで構わない。
それがレミリアの辿り着いた結論だったのだが、今回は場合が違う。あの八雲の妖怪が自ら美鈴を探しているというのだ。
今は見つかっていないが、何れこの紅魔館に八雲の妖怪がやってくるかもしれない。
もしその時が訪れた時、自分達は一体どうするべきか。美鈴を守るか、八雲の妖怪に差し出すか。
無論、今のままでもレミリアは迷わず前者を選び取るだろう。美鈴は何度も紅魔館を救ってくれた。
美鈴が何を言おうと、レミリアは頑として八雲の妖怪の前に立ち、美鈴を守る為に八雲の妖怪にその爪を立てるだろう。
だが、その時に余計な不純物を心に入れたくは無い。例え一パーセントでも美鈴を疑う気持ちが残ってしまえば、
それは即ちすぐに己の身体の動きへと伝わってしまう。だからこそ、レミリアは己の心の迷いを振り払ってしまいたかった。
その猜疑心を振り払う為に今自分が行うべき事、それは美鈴と向かい合って話をすること。
今まで目を逸らしていた、美鈴の本当の姿を知ろうとすること。彼女の全てを知ろうとすること。
「…レミリア?どうしたのよ、突然ボーっとしたりして。
何か変なモノでも拾い食いでもしたんじゃないでしょうね、気持ち悪い」
「…あのね、お願いだから貴女と一緒にしないで頂戴」
少女の軽口を溜息交じりで応対しつつも、レミリアの心は既に別の人物へと向けられていた。
美鈴の本当の心、本当の姿。美鈴と出会って一月余り。レミリアは今、どうしようもなく美鈴を求めていた。
彼女の事が知りたいと。彼女の本心が知りたいと。そしてそれ以上に恐れていた。美鈴の事を知ることで、今の関係が壊れてしまう事が。
それはまるで、初めての恋に身を焦がされている乙女のように。もっとも、その事をレミリアがこの時自覚する事は無かったが。
巫女が紅魔館から去り、日も暮れて日光に代わり闇夜が支配する時間。
夕食を終え、レミリアは一人自室のベッドの上に身を投げ出していた。考えるは、勿論美鈴の事。
あれから美鈴に何度か話しかけようとしたものの、結局レミリアは美鈴に声を掛けられずにいた。
理由ならば幾らでも後付出来る。美鈴の傍に常にフランが居て、深刻な話を切り出すには場が悪かったという事もあるし、
美鈴が館内の仕事で忙しく、なかなか捕まえられなかったとも言う事が出来る。だが――
「…言い訳よね」
所詮それは後付の理由に過ぎないのだ。美鈴と話をしようとすれば、方法など幾らでもあった。
美鈴を呼び止め、大事な話があるから一人で私の部屋に来るようにとでも言えば良い。それだけで充分だった筈だ。
けれど、レミリアにはその一歩が踏み出せなかった。どうしても、美鈴に声を掛けることが出来なかったのだ。
美鈴を呼び止めようとした時、何時だって美鈴はフランと共に居た。美鈴はフランに、あの優しい笑顔を惜しみなく向けていた。
それが何故か、レミリアの心に突き刺さった。無性に腹立たしく、それでいて何故かとても悲しくて。
レミリアは自分の心に去来しているその痛みの正体が掴めずにいた。今日の昼時だってそうだ。
美鈴がフランといつも一緒に居る事。たったそれだけなのに、何故かどうしようもなくイライラして。
結局、その苛立ちを直接美鈴へとぶつけてしまった。あの時は理解できなかったが、今なら美鈴やパチュリーが言っていた言葉の意味が理解出来る。
あれはただの八つ当たりで。自分の中で処理できない苛立ちを美鈴に直接叩きつけてしまっただけで。
では何故にこんなにも自分は苛立っているのだろうか。悩めば悩むほど分からなくなる思考の螺旋。
巫女の話で告げられた八雲の妖怪の件が、そんなレミリアの心を更に迷わせていた。
見えない心、見えない姿。彼女が八雲の妖怪に捜索されるその理由。その何もかもが今、レミリアの苦悩として押し寄せていたのだ。
「~~~!!何もかも全部美鈴が悪いのよ!!あのヘッポコメイド!!
何で私があんな奴の事でイチイチこんなに考え込まなきゃいけないのよ!!本当に苛立たしいわね!!」
「ええええ…やっぱり私が怒られるんですか?
酷いです、レミリア…そういう陰口は本人が居ない前で言うのが普通ですよ」
「居ないからこうして堂々と言ってるんでしょうが!!居ても言うけど!!
……で、貴女は何時から私の部屋に勝手に入ってきてるのかしら?誰が部屋に入って良いと許可したのかしら?」
枕に八つ当たりするのを止め、レミリアはじと目で声が聞こえた方向を睨みつける。
そこには先ほどまでは居なかった筈の美鈴が、しくしくとワザとらしく泣き真似をしていた。
レミリアの問いに、美鈴は不思議そうに首を傾げ、悪びれる事も無く、彼女の質問に答える。
「何時からも何も、ちゃんと私はノックしましたよ?」
「そう、ノックはしたの。それは気付かなかった私が悪かったわ。
…それで?私の入室を許可する声は聞こえたのかしら?私の記憶が正しければ、一度も入れとは言っていない筈だけど」
「嫌ですね、もう。私とレミリアの間にそんな他人行儀な事なんて必要ないじゃないですか。
あの日、レミリアは何もかも初心な私に優しくしてくれました…その時、私達は一線を越えた筈ですよ」
「成る程。それが貴女の辞世の句って事で良いのね。
安心なさい、墓石にはしっかりと私が刻んであげるわ。『ヘッポコ駄目駄目ポンコツガッカリメイド、ここに眠る』ってね」
「わあ~、普段レミリアが私に投げつける暴言のフルコースですね。墓石まで用意してくれるなんて、レミリアの愛情を感じます。
でも、私が死んだ時は是非紅魔館の近くに埋めて下さいね。私が死んでも遺体から妹様への治癒の効果は継続されますので。
そうですね…墓は湖の近くが良いです。あそこなら、見通しが良くて日当たりが良く、太陽が昇るところもバッチリ見えますし」
何を言っても堪えない美鈴に、レミリアは大きく溜息をついて『もういいわ』と言葉を結ぶ。
思い起こせば、何を言って脅したところで、美鈴が堪えるはずもないのだ。
何せ彼女はレミリアの殺気を正面から受けても、平然としていた程に肝が据わっている女性なのだ。
まさに今、自分のしている事は暖簾に壁押し程度の効果しかないのだから。
「部屋に勝手に入ってきた事は不問にしてあげる。ノックされながら返事をしなかった私にも非はあるし。
それで、何の用かしら?こんな時間に私の部屋に来たということは、それなりの用があるんでしょう」
「勿論ですよ。私にとってはとてもとても大事な用です」
そう告げながら、美鈴は笑顔を浮かべたままで、胸の前に両手で抱え込んでいたモノをレミリアに見せる。
その時、レミリアはようやく美鈴が何かを腕の中に沢山抱え込んでいた事に気付き、そちらに視線を向けた。
「…酒瓶?」
「そうです。人里の酒屋さんで買い込んで来たお酒です。
今夜はレミリアと沢山飲もうと思いまして。…きっと、レミリアは私に色々と訊きたい事があるでしょうし」
美鈴の少し困ったような笑顔に、レミリアは彼女の配慮を理解した。
どうやら美鈴は自分が彼女に話があることに気付いているらしい。だからこそ、こうして自分から話し易い環境を作ってくれたのだ。
もしかしたら、巫女が来た際に彼女はもう既に気づいていたのかもしれない。
恐らく、少女の口から自分の事が話しに上がるであろう事に。だからこそ、あの場は自分の不機嫌を理由に退室したのではないか。
あの場に居ては、恐らく少女が美鈴の正体に気付くだろうから。それはレミリアの推測に過ぎない。
けれど、何故かレミリアはその推理が当たっているような気がしてならなかった。
フッと表情を緩め、レミリアはベッドから腰を上げて、椅子に座った。それに合わせるように、美鈴もまたレミリアに向かい合う形で椅子へと腰を下ろす。
彼女が抱えてきた酒瓶は六本。その全てが机の上に並べられ、美鈴は楽しそうにその封を切ってゆく。
「わざわざ人里から買ってきたの?酒なら館の酒蔵庫にワインがいくらでも残ってたでしょうに」
「ワインも悪くないんですが、私はやっぱり人里のお酒が好きなんですよ。
外の世界ではずっと人里を転々として暮らしてましたからね。私にワインは味が少し上品過ぎます」
用意したグラスに酒を注ぎ、美鈴はレミリアに渡す。
そして、自分の分も注ぎ、酒瓶から手を離したところで、美鈴はレミリアに言葉を紡ぐ。
「さて…何からお話しましょうか。とりあえずレミリアの質問に私が答える、という形で構いませんか?
本当はレミリアと久しぶりの二人っきりですから、本当はそんな話題よりも甘い時間を過ごしてみたいのですが」
「そうね…私も美鈴との久しぶりの二人きりだもの。
日頃の鬱憤を全てぶつけてしまいたい衝動に駆られて仕方が無いのだけど…まずは乾杯しましょうか。
二人きりの夜だもの。これくらいの雰囲気作りも悪くはないでしょう?」
「良いですね。それでは何に乾杯しましょうか。我等が忠誠を誓う愛しき吸血姫にでもしておきますか?」
「結構よ。…それじゃ、ここはオーソドックスにいきましょうか。
我等が故郷、紅魔館に住まう全ての者に祝福を」
「ふふっ、我等が紅魔館に乾杯」
かつんと互いにグラスを合わせ、二人はそっと酒に口付ける。
容易に喉を通していく美鈴とは対照的に、レミリアは少しばかり酒の味に戸惑っていた。
それも仕方の無い事だ。レミリアが口にする酒は殆どがワインで、人里の酒を口にするのは初めてなのだから。
「…飲みにくいわ。味も喉越しも微妙。貴女、よくこんなモノを簡単に飲めるわね」
「そうですね。確かに慣れないうちは飲みにくく感じるかもしれませんね。
でも…私はこの味が大好きです。人間の手で造られた、沢山の人々が好んで飲むこのお酒が。
誰の為に用意された訳でもない、多くの人が共に笑いあい、楽しむ為に造られたお酒…そんなお酒が私は大好きなんですよ」
「本当、変わってるわね…まあ、それは今更な事なんだけど」
レミリアは再び酒を軽く喉に通してゆく。相変わらず慣れない味だが、一口目ほどではない。
アルコールをゆっくりと身に染込ませ、グラスから口を離しながら、レミリアは美鈴に本題を投げかける。
「今日、博麗の巫女に教えてもらったわ。
八雲の妖怪…この幻想郷の管理人が、貴女の事を探していると」
「そうですか。やはりあの方が博麗の巫女さんでしたか。
人間にしては考えられないくらいの気を感じ取りましたので、何となくそうじゃないかとは思ってましたが」
「…八雲の妖怪が探していた事は驚かないのね。それより貴女、博麗の巫女を知っているの?」
「知ってるも何も、初めて出会った日にレミリアとパチュリーが私に教えてくれたんじゃないですか。
私が元の世界に戻るには、博麗の巫女の力が必要だって。その話から、そうじゃないかなと思いまして」
そうだったかしらと記憶を辿るレミリアに、そうですよと美鈴は苦笑を浮かべる。
たった一月程度前の事、けれどそれは遥か昔の事のようで。レミリアにとって、この一月はそれ程の濃い時間であった。
「そうですね…まずは八雲の妖怪、でしたか。その方の事をお話しましょう。
ハッキリ言ってしまいますと、私はその方と面識はありません。外の世界でも幻想郷でも、会った事も会話した事もありません。
ですが、その方が幻想郷の管理人という役割を果たす方ならば、私を探しているという事に驚く事もありません」
「おかしな話ね。それならどうして八雲の妖怪は貴女を探しているのか…その理由、聞きましょうか」
「簡単な事です。私がこの世界…いいえ、外の世界において、誰からも疎まれる厄介者だったからですよ」
厄介者。それはレミリアが美鈴に抱くイメージとはまさしく一番掛離れたモノであった。
この少女は誰からも愛されようとし、そして必然的に愛される、そんな少女ではないか。
この紅魔館において、彼女を嫌う人間など存在しない。誰も彼もが彼女を愛おしく思っているではないか。
眉を顰めるレミリアに、美鈴は少しだけ言葉を止め、軽く酒を喉に通した。それはまるで自分自身を無理矢理奮い立たせているようで。
「…順を追って説明しましょう。まずは私の身体の事です。
ご存知の通り、私は妖怪です。ですが、レミリア達のような純粋な存在ではありません」
「半妖ということ?でも、半妖など別段珍しいものでもないでしょう」
「そうですね。妖怪と人間の間に子宝が生まれることは、確かに言うほど珍しくはないですね。
ですが、残念。私は半妖という訳ではありませんよ」
「回りくどいわ。先に結論を教えなさい」
急かすレミリアに、美鈴は仕方ありませんねと優しく微笑む。
そして、彼女は胸に手をあて、瞳を閉じる。それは胸の奥から言葉を紡いでいるようで。押し出しているようで。
「――正解は、身体と心の不純です。
私の身体は人間のモノ。ですが、心と記憶は妖怪のモノ。
人間の身体を利用し、魂の容器として好き勝手に扱っている醜い妖怪――それが私、虹美鈴の正体です」
彼女の吐露、それはレミリアが待ち望んでいた彼女の素顔。彼女が教えてくれた、本当の姿。
美鈴の告げた言葉の一言一句を、レミリアは動揺を表に出す事無く頭の中で分析してゆく。
驚かない訳が無い。だが、今は子供のように驚いて美鈴を困らせる事を求められている訳ではない。
これは自分が望んだ事だ。美鈴の本当の姿に触れること、それが自分の望みだった筈だ。
ならば受け入れろ。彼女の心の吐露を全て受け入れろ。それが今、己の為すべき事なのだから。
「説明が不足しているわね。それでは何も分からないのと同じだわ。
何を怖がっているのかは知らないけれど、さっさと胸の中のモノを吐き出してしまいなさい。
別に貴女の正体が何であったところで、私がポンコツメイドなんか怖がる訳ないでしょう」
「そうですね。レミリアは優しいですから」
「…馬鹿、余計な事は言わなくていいわ。いいから早く話しなさい」
フンと顔を逸らすレミリアに、美鈴はクスリと小さく微笑んだ。
いつも通りの、何一つ変わらないレミリアの言動。それは美鈴にとって、何よりも嬉しいものであった。
だからこそ、彼女に応えたい。自分の事を、レミリアに知ってもらいたい。それが美鈴の揺れる事のない今の気持ちであった。
「…私はとある妖怪として、この世に生を受けました。
その妖怪はとても特殊な種族で、生まれながらにして数々の決まりが課せられる種族なんです」
「決まりとは?」
「住まう場所から、司るもの。自分の為すべきことから、崇められる事象。
私達の種族は生まれながらにして知性を得、枷を背負い、万物とは線を逸して生きることを定められでいるんです」
「…ちょっと待ちなさい。貴女、もしかして八百万の神や神霊とかそういう類の生き物なの?」
「そうですね、そのように考えて貰った方が早いかもしれません。
レミリア、自慢して良いですよ。貴女は神様をメイドとして扱き使ってるんですから」
「常時頭が沸いてるポンコツ神なんて使役したところで何の自慢にもならないわよ。馬鹿馬鹿しい。
それよりも話を続けなさい。貴女が神だとしたら、何の神様に当たるのよ。厄神や貧乏神の類じゃないでしょうね」
冗談めかして告げたレミリアだが、美鈴から返答はすぐに帰って来なかった。
不思議に思い、逸らしていた視線を美鈴の方に向け、レミリアは己の発言を悔いた。
その時浮かべていた美鈴の笑顔は、まるで必死で悲しみを堪えているようで。それは本当にどうしようもなく寂しそうな笑顔だった。
それはレミリアの言葉に傷ついたからなどでは無い。レミリアの呈した話題こそが、彼女の心の傷の奥底に触れるものであったからだ。
静けさに包まれた空気を打ち消すように、美鈴は言葉を続ける。
「私は何も無かったんですよ、レミリア。生まれながらの知性も、司る事象も、為すべき事も。
他の者達とは違い、私は何一つ縛られる事なくその種族の赤子として生まれてしまったんです」
「…別におかしなことではないでしょう。いくら神とて、初めは何も持たずに生を受ける者だっているわ」
「そうですね。そうなんですが…私達の種族に『それ』は絶対に許されないんです。
枷も知性も無く、物事に縛られる事から解放されることは、私達には認められない。
…まあ、厳しい種族だったんですね。普通なら、絶対にありえない筈なのに、私はその絶対を突き破って生まれてきてしまいました」
話に耳を傾けつつ、レミリアは己の持てる知識を総動員して思考する。
神という生物に今まで出会ったことはない。しかし知識としては知っている。
万物に宿る神々、人々に信仰される神々、伝記に残る異能の神々、その種類は幾多幾様だ。
だが、レミリアの記憶の中に、美鈴の話と整合する神など存在しない。そもそも、何故美鈴は神でありながら、司るモノが存在しないのか。
神とは司るモノが存在してこそ神となる、少なくともレミリアはそう認識してた。
モノに宿るにしても、人に奉られるにしても、神は必ず己の確固とした一つの事象を持ちうる筈だ。
しかし、美鈴は何も持ちえずに神として生まれたと言うのだ。それでは神として成り立っていないではないか。
それは神としての境界線を越えてしまった存在。そう、美鈴の事を一言で表すならばそれは――
「――異端。私はその種族の中でそう認識されました。
まあ、仕方が無い事なんですけどね。本当に私の存在は異常なんですよ」
「それで、貴女はどうしたの?…違うわね、どう『された』の?」
予感はあった。確かなモノではなかったが、そうではないかという予感はあったのだ。
美鈴は言った。自分は誰からも疎まれる厄介者だったと。それは今、そのまま美鈴の説明に当てはまるではないか。
美鈴の異端は、その種族にとっては絶対に許されないと。絶対に認められないと。彼女はそう言ったのだ。
それはこの紅魔館にも当てはまったではないか。思い出せ、実の妹に行った自分の決断を。
もし、自分がその立場だったならば、美鈴の異端が絶対に許されないと判断したならば、どういう決断を下すのだ。
そんな事は嫌になる程分かっているではないか。
「…封ぜられました。痛みを感じる間もなく、私は他の仲間達に処理されました。
私の肉体は失われ、魂を大地に留められ、転生する事がないよう厳重に封印されました。
そうですね…私は一度死んだ訳ですから、神よりも神霊、悪霊の類の方が近いのかもしれませんね」
分かっていた。きっとそうであろう事くらい、分かっていたのだ。
それこそがレミリアがこの二十年感じていた恐怖。もし、フランが実の妹ではなかったら自分は一体どうしていただろう。
愛する妹であるが故、大切な家族であるが故に自分はフランを幽閉するだけという手段を選んだ。
だが、もしも。もしもフランが実の妹でも家族でもなく、ただの一介の従者であったなら。
他の従者の命を奪ったフランを、自分は生かしておいただろうか。…否、断じて否。
恐らく自分は殺した筈だ。他の従者達の為に、少しでもリスクを減らす為に、異端たるフランの命をこの手で。
だからこそ、レミリアは美鈴に何も言えなかった。怒りを感じるよりも、自分の立場に置き換えてしまったから。
そんなレミリアの心を汲み取ったのか、美鈴は微笑み、小さく首を横に振ってレミリアに告げる。
「大丈夫ですよ、レミリア。これは本当に仕方が無かったことなんです。
私はその事に怒っていませんし、今は気にもしていませんから」
「気にしてない、ですって…?貴女、馬鹿じゃないの!?
どんな理由があるとはいえ、貴女は自分の命を奪われたのよ!?もっと憤りなさいよ!恨み言の一つでも言いなさいよ!」
「そうですね。もし私がずっとあのまま封じられていたままだったなら、どうして私だけがと
恨み言の一つでも言いたかったんですが…今の私に他者を責める資格なんかないんですよ」
その刹那、美鈴の表情から初めて笑みが途絶えた。
己の奥底にある感情を押し殺すかのように俯き、レミリアから視線を逸らして、美鈴はゆっくりと言葉を紡いでゆく。
その姿にレミリアは何処か既視感を感じていた。この姿を、自分は確かに知っている。
「…生まれながらにすぐ殺された私ですが、最初はその事に何の感傷もありませんでした。
また、何も感じようがありませんでした。私は他の人とは違い、生まれながらに智を与えられなかった赤子だったのですから。
魂を大地に封ぜられ、私は死後与えられた悠久の時を、ただ無機物のように享受していたんです。
ですが、やはり異端だったんしょうね…私の精神は、死後において成長を始めていたんです」
幾度の春、幾多の夏、幾層の秋、幾年の冬を越え、過ぎ行く遥かな時を彼女は一人大地の中で過ごしてきた。
身体は失われても、彼女の意識は消えず、肉体は失われても、彼女の心は今もここに。
幾年の時を越え、やがて彼女が封じられた地は河となり、砂地となり、草原となり。
そして、気付いた時にはその土地の上に人間の村が作られていた。河のせせらぎの音が、人々の笑い声に。
人間という智を携えた種族の生活音が、美鈴の鎮魂歌へと変わっていったのだ。
「最初は彼等の過ごす光景を眺めていただけなんです。
人々が笑いあって過ごす毎日を、私はただ何を考えるでもなくじっと見つめていました」
それはただ移ろいゆく光景を眺めるだけで。
その行動の意味も、自分の興味も何も考える事無く、ただただ見つめるだけの日々。
「…そして、気がついたら、私は考えるようになっていました。
ああ、人間が笑った。どうしてあの人は笑っているんだろう。ああ、人間が泣いた。どうしてあの人は泣いているんだろう。
何かを食べている。あれはどんな味がするんだろう。誰かがケンカをしてる。どうしてぶつかり合ったりするんだろう。
そんな人間にとっては些細な行動の意味を考えては、答えに悩み、再び別の光景を見ては無意味に考え込む…その繰り返しでした」
そして、そんな日常の繰り返しの果てに、美鈴の心に一つの感情が萌芽することになる。
楽しそうに笑う人々。賑やかで温かい空気に包まれた喧騒。気付いた時には、美鈴の心の中でどうしようもない程に抑えられない感情が芽生えてしまったのだ。
その感情の名は羨望。羨ましいと、自分もあの中に入ってみたいと美鈴は願ってしまった。
生まれながらに何一つ与えられず、他者との触れ合いも温もりも知らず、大地に封ぜられた美鈴が願った事。
もし叶うならば、もう一度生を歩んでみたい。そして、あの空気に触れてみたい。それが彼女の心に生まれた衝動だった。
「…そんな時でした。村人の一人で、多くの人々に慕われていた心優しい村娘が急な病で倒れたんです。
まるで私が願ったからそうなったかのような、本当に都合の良いタイミングで」
その病は、当時の村人達では決して治せないような、そんな難病であった。
突然の不幸に、村中の誰もが悲しみ、この不幸を嘆いた。何故この娘がこんな目にあわなければならないのかと。
時というモノは残酷で、一日、また一日と容赦なく時を刻み続け、それに応じるかのように娘の容態はどんどん悪化していった。
けれど、その娘は気丈で。お見舞いに来た人々に決してつらそうな表情は見せず、いつも笑顔で迎えていた。
『大丈夫ですよ』と。『私は全然元気ですよ』と。まるでお見舞いに来る人々の方を逆に元気付けているようで。
強くあろうとする娘を見ては、人々は誰一人例外なく涙を流した。そんな人々の悲しむ顔を見たとき、それが一番娘がつらそうな表情を浮かべていた。
やがて、とうとう娘にも限界が訪れる。意識が無くなり、最早彼女は死を待つだけの容態に陥ったのだ。
その光景を眺めていた美鈴だが、彼女の心の中に一つの考えが浮かんだ。これはチャンスなのではないか、と。
そう、それは美鈴にとって大きな機会であったのだ。彼女が再び、この世に生を受ける為の大きな。
少女の暗転した意識の中に入り込み、美鈴は彼女に話しかけた。そして、一つの契約を持ち出したのだ。
『ねえ、貴女はもうすぐ死んじゃうの?』
『…誰ですか?私に話しかけてくる人は。暗くてもう何も見えないんです』
『誰でもいいじゃない。私には名前なんて無いもの。形だって存在しない。
それより貴女、私と契約しなさい。もし契約を飲んでくれたら、貴女の命を助けてあげる。まだ死にたくでしょう?』
『…助かるんですか?私はまだ生きていられるんですか?』
『勿論。ただ、私の願いを聞いて貰えれば、という条件付き。
もう一度聞くわ。死にたくないでしょう?まだ生きていたいでしょう?もし取引に応じてくれたなら、貴女に命をあげる。
貴女が本来天寿を全うした筈の時間。死まで、それだけの猶予を貴女に与えてあげる』
『…死にたくないです。私、まだまだ生きていたいです。死にたくないんです…』
『分かったわ。これで契約は成立。
私から貴女へのお願い。それは唯一つ――』
もう一度生を受ける為に。何一つ形の無い己の精神を、身体を安定させる為に。
少女の魂に、美鈴は心を溶けさせていく。形無き己の意識を、少女と同化させ、一つの存在へと変えてゆく。
そう、それが美鈴から少女への契約の代償。命を救う為に彼女に要求した一つの願い。
「『約束の時が訪れたとき、肉体を私に譲渡すること』。それが私が少女に要求した契約です。
その結果、私は再びこの世界に形あるモノとして存在することが許されました」
「…不可能だわ。いくら魂だけの存在だったとはいえ、ただの人間に貴女の容量を受け入れられる訳が無い。
下手をすれば身体が数秒と持たずに強大な魔力に対し拒否反応を起こす筈よ」
「そうですね…本来ならそうなっても決しておかしくは無かったのですが、その娘には才能があったんです。
人間として生まれた少女の身体は、私の魔力に馴染む事に成功し、
日常生活程度は何の支障も無く送れるようになりました。ただ、やはり幾らか反動は生じてしまいましたが」
そう言って、美鈴は頭につけていたプリムをそっと外し、レミリアに微笑みかける。
その代償の一つが、真紅に染まった美しい長髪。村人の少女の髪は普通の黒髪だったのだが、
月日を重ねていく内に、その髪はどんどん紅へと染まっていった。それは、美鈴がとった対処方の一つ。
身体だけでは美鈴の魔力を抑えられない為、その魔力を美鈴は己の髪へと流動させたのだ。
魔力の貯蔵庫としての役割を髪に課し、極力身体への負担を減らした結果。それが美鈴の紅の髪であった。
「身体に生じた変化はその程度でしょうか。それ程までに少女の身体は才能を秘めていたんです。
そして、私はその日から少女の心の中に魂を移して生活を始めました。
意識は少女に主導権を渡して、私は彼女の身体にゆっくりと己の魔力を馴染ませ暴走しないように
制御し続け、約束の時が来るまで彼女の中で過ごし続けたんです」
そして、その日から幾年の月日が流れた約束の時。
少女が天寿を全うしたその時、美鈴は少女の身体の主導権を約束通り貰い受け、その身体を己のモノとしたのだ。
全てはその時の為に。長き準備期間は己が身体を譲り受けるその時の為に。
「つまり、今はその身体こそ人間のモノだけれど、心は完全に美鈴のモノって訳ね」
「少し違います。身体は人間である少女『美鈴』のモノで、心は彼女の形を借りた私のモノなんです」
美鈴の言葉に、レミリアは目を見開く。
それはつまり、美鈴という名前は彼女のモノではなく――
「そうです。美鈴という名前は、その村人である少女の名前なんです。
当然です。私には名前なんてありませんでしたし、この世に生を受けているのは他ならぬ美鈴だったのですから。
私は美鈴として生きていく事を決め、彼女と意識を入れ替えたその日からも美鈴の名前を名乗るようにしました。
心の方もそうです。私の性格や生き方、人間性、その全ての雛形は美鈴のモノ。全ての原型は美鈴なんです。
人としての生き方を知らなかった私は、美鈴が生を閉じるまでの間、彼女をずっと観察してきましたからね」
「それじゃ、虹というファミリーネームも?」
「…虹は彼女のファミリーネームではないんです。
虹は私の二つ名。他の同胞達から呼ばれていたその名を、ただそのまま利用していただけです。
一つは人間社会に溶け込む時、ファミリーネームが無いと不便な時が多々あるから。
そしてもう一つは、己への戒めの意味を込めて。私が自身の罪を忘れない為に」
「虹、ねえ…貴女がお仲間からそう呼ばれる理由は何故?」
答えを求めるレミリアに、美鈴はそっと右手を前に差し出し、手のひらを真上へと向ける。
そして、軽く魔力を放出し、その魔力を精巧に練り上げ、大きな風船のように膨らんだ気弾を宙へと放つ。
美鈴の手から離れた気弾は、ゆっくりと重力に反して空へと舞い上がり、天井に辿り着いたところで破裂して霧散した。
「これは美鈴が生まれ持っていた能力――『気を使う程度の能力』です。
その名の通り、空気や大気、気圧や鬱気といった気に関する全ての事象を操る事が出来ます。
この能力を自分自身が持っていることに、美鈴は最後まで気づいてはいませんでしたが」
「気を操る…人間が持つにしては重すぎる能力ね。
でも、それで合点がいったわ。貴女がどうしてフランの狂気を治す事が出来たのかが」
「そうです。私は美鈴のこの能力を使ってフランの『狂気』を封じ込めました。
人の心や精神にも作用出来るこの能力は、使い方によっては劇薬にもなりかねない恐ろしい能力なんです。
この能力は応用が利き過ぎる。他人の殺気を奪う事によって戦意喪失に追い込むことも出来れば、
己の気配を消し去って気付かれることもなく近づき、その首を刎ねる事だって出来るんです。
レミリアの言う通り、人間が持ちうるには過分過ぎる力でしょう」
美鈴の説明に、レミリアは成る程ねと理解を示した。
何故、初めて美鈴と自分が出会ったあの日、美鈴の接近に気がつくことが出来なかったのか。
レミリアの命を狙ってくる妖怪達が、どうして美鈴との話し合いで納得して帰っていたのか。
その全ての理由は、彼女の持つ能力一つで解決出来てしまうのだ。
確かにその能力は人間が持つには大き過ぎる。無論、それは世界を滅ぼしてしまうような力ではない。
だが、その応用力の高さと汎用性においては、人間の身でもその能力一つで妖怪と渡り合えてしまうだろう。
それほどまでに、厄介かつ人間が持つには過分な能力なのだ。
「美鈴の能力は分かったわ。けれど、それは私の質問の答えにはなってない気がするのだけれど」
レミリアの言葉を待っていたように、美鈴は両瞳を閉じ、意識を己が拳へと集中する。
グラスの上に拳を作り、美鈴は小さく魔力を手へとかける。そして蒼白い光が美鈴の拳を包んでゆく。
光の放出が収まり、美鈴はそっと握りこんだ拳を開く。そして、美鈴の手のひらからグラスの中に零れ落ちるモノに、レミリアは表情を驚きに変えた。
「…氷?」
「氷だけではありません。魔力を練り、集中する事で私は魔力を七つの属性へと変化させることが出来ます。
その属性は七色…炎牢の赤、耀光の橙、神雷の黄、豪風の緑、凍寒の青、遥土の藍、そして妖闇の紫。
これが私の持つ本当の能力…『七色を操る程度の能力』です。
この力を使い、私は生き延びる為に何人もの同胞を屠りました。それが私の虹という二つ名の由来です」
美鈴の能力に、レミリアは先ほどよりも驚きを見せる事はなかった。
何故なら、彼女の親友の能力と美鈴の能力が酷似していたからだ。魔力の形を変え、属性を付属し流用する。
それはレミリアの親友、パチュリーの七曜を操る程度の能力と同型の使役と考えてまず間違いない筈だ。
その能力は確かに厄介だが、気を使う程度の能力ほどではない。むしろオーソドックスな分、その能力より後者の方が余程性質の悪い能力と言えるだろう。
美鈴の話でレミリアが気に止まったのは、能力よりも彼女の力の行使だ。
先ほど、美鈴は生きる為に何人もの同胞を屠ったと言った。あの美鈴が、他の存在を殺したというのだ。
その姿が全く想像出来ないレミリアの心のウチを読み取ったのか、美鈴はクスリと小さく苦笑し、言葉を続けてゆく。
「私が美鈴の中に宿って百年ほど過ぎたくらいでしょうか。
私を封印した他の同胞達が、とうとう気付いてしまったんです。大地の下から、私の魂が消えてしまった事に。
無論、そのまま私の存在を放置しておく訳がありません。すぐに追っ手が差し向けられ、何人もの同胞が
私の前に立ち塞がりました。私を殺し、再び地の底に封印する為に」
グラスを手に取り、美鈴は残り少なくなっていた酒を口内に仕舞いこむ。
それは忌まわしき過去を振り払おうとしているのか、それとも己の感情を押し殺そうとしているのか。
酒を飲み干し、残るは氷だけとなったグラスをカラカラと音を立てながら、美鈴は独り言を紡いでいるかのように呟いた。
「…私はただ、死にたくなかったんです。まだ死ねなかったんです。
己の生に執着し、人間の身体を利用し、多くの同胞を手に掛けた生き汚い妖…それが私、虹美鈴の正体です」
「…よく分かったわ。
それで、貴女は私にどういう言葉をかけられると思っていたのかしら」
「…レミリア」
「貴女の話を聞いて、私が貴女を蔑むとでも思っていたの?
人間を利用した事、同属を殺した事、その事を私が嫌悪するとでも思っていたの?」
瞳を閉じ、まるで罵倒の言葉でも待つかのような美鈴の姿が、レミリアは気に食わなかった。
イライラする。どうしようもなく腹立たしい。フランではないけれど、正直気が狂いそうになるほどに。
美鈴と話をすれば、この苛立ちは解消されると思っていた。彼女の正体を知れば、この腹立たしさは消えると思っていた。
だが、結果はどうだ。今の自分はこんなにも目の前の少女に対して苛立っていて。結局、苛立ちの原因は美鈴の正体がどうのこうのでは無かったのだ。
では一体何がこんなにも苛立たしいか。そんな事は決まっているではないか。
美鈴が自分に対し、己の本当の姿を語ることを怖がっていた事。それが何より自分にとって苛立たしい事なのだ。
「ねえ、美鈴。私、今凄く怒ってるわ。
それこそ貴女の返答次第では、我慢出来ずに殴ってしまいそう。それこそ、全力でね」
その言葉は、あの日美鈴が自分を救ってくれた時の言葉。
自分一人を責め、卑下する自分に、美鈴は心から怒っていた。あの時は分からなかったが、今はあの時の美鈴の気持ちがよく分かる。
美鈴は今、自分を責めている。己の存在を汚れたモノとみなし、自分にどんな言葉を投げかけられてもおかしくないと思っている。
その事が、レミリアは許せなかった。巫山戯るな。こんな美鈴が見たくて自分は彼女の話を聞いた訳ではない。
成る程、確かに堪えるものだ。自分でも驚くぐらい今、心が激昂している。感情の調律が整えられない。
――ああ、こんなにも深く心を苛立たせるものなのか。自分の大切な人が、己を責めるところを眺めているのは。
軽く息を吐き、レミリアは美鈴を睨みつけ、言葉を紡ぐ。これ以上、こんな下らない苛立ちに付き合ってなんかいられないから。
「…美鈴、よく憶えておきなさい。
次に私の目の前で自分を卑下したり責めたりしたら、貴女の事を私は絶対に許さないわ。
貴女の命は私のモノ。その主の所有物に勝手に傷をつけるような真似は、万死に値する大罪だと心得なさい」
「レミリア…ですが、私は…」
美鈴が何かを反論しようとした瞬間、それがレミリアの限界だった。
そもそもこれまでよく持った方なのだ。フランと美鈴との事で、理由が見えないイライラが募っていたところに、
博麗の巫女が持ってきた話のせいで、頭が更に混濁し、挙句の果てには美鈴のこの姿だ。
ぶちん、そんな音が聴こえてきそうな程にレミリアは表情を引きつらせ、そして本日二度目の絶叫。
「うっさいわね!!つべこべ言わずに貴女は私の言う事にただ首を縦に振っていればいいのよ、このポンコツ!!
同族を殺しただとか、身体が人間だとか、それが一体なんだっていうのよ馬鹿馬鹿しい!!イチイチ小さいのよ悩みが!!
身体が人間!?だったら私やフランに時々その血を吸わせなさいよ!!食費節約で結構な事じゃない!
同族を殺した!?こっちは父親殺してるわよ!!自分の為に迷う事無く殺したわよ!!八雲の妖怪使ってまで完膚なきまでに殺し尽くしたわよ!
大体ね、アンタみたいな頭空っぽな奴が苦悩したところで何の解決にもならないのよ!
だったら無駄な事考えてないでいつものように馬鹿みたいにポケポケ笑ってなさいよ!
アンタが暗い顔してるとこっちがイライラするのよ!!アンタは何も考えずにただ私の為に笑ってなさい!!分かった!?」
今まで溜まっていた鬱憤を全てぶつけるように、レミリアは机を叩いて美鈴に強く捲し立てる。
それこそ館中に響き渡ったのではないかと言う程に力を込められた怒声を正面から受け、
美鈴はただただ呆然とした表情を浮かべ、レミリアの方をじっと見つめていた。
そんな美鈴の表情に気付き、レミリアはしまったとばかりに表情を歪め、バツが悪そうに言葉を付け加えてゆく。
「とにかく私が言いたいのは、貴女が何であれ紅魔館で働く分には関係ないし、そもそも…」
「レミリア」
「…何よ、まだウジウジ反論する気?いい加減にしないと、本気で貴女を殴り飛ば…」
名前を呼ばれ、視線を彼方へと逸らしていたレミリアは渋々と彼女の方へ向け直す。
そして、美鈴を視界に入れた途端、レミリアは口を閉ざしてしまう。それはまるで、放つべき言葉がすっぽりと抜け落ちてしまったかのように。
何故彼女が言葉を失ってしまったのか。そんな事は決まっている。
レミリアの視線の先にあるモノ、美鈴の浮かべる笑顔に完全に心奪われてしまったからだ。
「――ありがとうございます。私、レミリアに出会えて本当に良かったです」
それは何処までも美しく、そして何処までも魅力的で。
外面だけの艶美さだけでは決して引き出せない、彼女の中に内包された全ての美しさを表に出したような微笑み。
その笑顔を見て、レミリアは先ほどまで胸の中に溜まっていた鬱憤がすっと消えてゆくのを感じた。
たった一言。美鈴からたった一言を貰っただけで、あれだけ溜まっていた苛立ちが雲散してしまったのだ。
苛立ちが消えた今だからこそ、レミリアは理解する事が出来た。この少女が何を怯えていたのかを。
きっと美鈴は自分と同じなのだ。己の全てを語ることで、今形成されている自分との関係が壊れてしまう事を心から恐れていたのだ。
馬鹿らしい事だとは思う。お互い何をそんな下らない事に怯えているのかと思う。
けれど、仕方が無い事なのだ。今ある関係が壊れてしまう事を怯えるほどに、レミリアの中で美鈴の存在は大きなモノとなってしまったのだから。
決して失いたくない。決して手離したくない。誰よりも傍に居てほしいと願う。誰よりも強く手を握っていて欲しいと願う。
――ああ、そういうことか。今ならばパチュリーが一体何に呆れていたのか、ようやく分かった。
フランと一緒に居る美鈴を見たとき、私は自分が美鈴に嫉妬していると思っていた。大切な妹を独占する馬鹿メイドが羨ましいと。
けれど、それは全くの逆で。自分が本当に嫉妬していたのは、他ならぬ実の妹で。
そうだ、自分はあの時間違いなくフランに嫉妬していたのだ。あの時私は、心の奥底でこう叫んだ筈だ。
私の従者を、私の美鈴を、独り占めしないでくれと。美鈴は他の誰でもない、私だけのモノなのだからと。
「レミリア?どうしたました?」
「…本当、馬鹿よね。パチェの言う通り、私も大概鈍感だわ」
「え?」
首を傾げる美鈴を他所に、レミリアは一人思わず呆れるように笑みを零してしまう。
気付いてしまえば、その気持ちの正体は至極簡単で。どうして今まで気付かなかったのかが不思議なくらいで。
その気持ちは一体何時から芽生えていたのだろう。
それは美鈴がフランの相手をし始めた時?それは美鈴がフランを助けてくれた時?
否、それはきっと、もっともっとずっと前。夜風舞う草原で、レミリアの前に彼女が初めて姿を見せたあの日から。
きっと自分は、誰よりも惹かれていたのだろう。きっと自分は、誰よりも心奪われていたのだろう。
本当、嫌になる。まさか自分がこうして誰かに心奪われる日が来るなんて微塵も思っていなかった。
今、自分の胸にある感情。それは何よりも単純な気持ち。その想いを言葉にするのなら、それはきっと――
「レミリアは馬鹿なんですか?私に普段いつも馬鹿馬鹿言ってるのに、自分の方が馬鹿だったんですか?」
「~~~!!!!本当に空気が読めないわね、このヘッポコ駄目駄目メイド!!!
大体誰が馬鹿よ!?言うに事欠いて、主に向かって馬鹿なんて言う従者が一体何処に居るっていうのよ!?」
「えええ…だって今、レミリアが自分で自分の事を馬鹿だって言ったんじゃないですか」
「うるさいわね!自分で言うのは良いけど、人に言われると凄く腹立たしいのよ!!」
その気持ちは、絶対に言葉にしてなんかあげない。先に言葉にしてしまえば、何だか負けたような気がするから。
彼女にこの想いを告げるのは、もう少し素直になる事が出来た時。
こんな風に意地を張ることもなく、もっと彼女に対して優しくなれたなら、その時はきっと伝えようと思う。
私の心を救ってくれたヘッポコメイドに、何一つ着飾ることの無い、私の本当の気持ちを。
「…少なくとも今は絶対嫌よ。何だか負けたようで癪だもの」
「レミリア、さっきからずっと独り言ばかりで話が全然分かりません。
何だか会話のキャッチボールが出来てないようで寂しいです…
こんなに寂しい想いをさせるなんて、レミリアは人でなしです。鬼です。まさに鬼畜の所業です」
「吸血鬼に向かって貴女は一体何を当たり前な事を。
はぁ…本当、あれこれ考えて損したわ。貴女の素性も大したこと無かったし。何の為にあんなに心配したんだか」
「心配してくれたんですか?」
「してないわよ!貴女は私の話の一体何を聞いてるのよ!?」
「レミリア、さっきから何だか言ってる事が支離滅裂の滅茶苦茶です」
美鈴を一喝し、レミリアはグラスを口元に運び、残り少なくなっていた酒を一気に飲み干した。
最初はあれほど抵抗を覚えていた酒の味だが、今は別段何を感じる事も無くスッと喉を通す事が出来た。
それはただ単に味に慣れたからだけという理由ではないだろう。レミリアの胸の中の閊えが美鈴と会話する事で取れたこと、それが何より大きかった。
空になったグラスから口を離し、机上に置いて、レミリアは小さく一息つき、口を開く。
「…それじゃ、貴女が八雲の妖怪に探されている理由は貴女の正体にある訳ね。
そして、貴女の正体は何処ぞの貧乏神か厄神。それで間違いないわね?」
「む~…貧乏神や厄神というところが少々納得いきませんが、大体合ってます。
私の存在は幻想郷を管理する者から見れば厄でしかありませんから。いわば無意味な爆弾を抱え込んだようなモノ。
もし捕まってしまえば、十中八九その妖怪に私は殺されるでしょうね」
「心配しなくてもそんな事私がさせないわよ。
いくらポンコツで役に立たないとはいえ、一応私の大切な従者だもの。八雲の妖怪には一切手出しさせないわ」
「わっ…レミリアに大切って言われちゃいました。これはもしやプロポーズですか?」
「…こんなにも月が紅いから、今度は本気で殺すわよ?」
「今夜は月なんて出てませんけど」
舌打ちをするレミリアに微笑みかけ、美鈴は酒瓶を手に取り、空になったレミリアのグラスと自分のグラスに酒を注いでゆく。
再び一杯に満たされたグラスの中、揺れる水面を見つめ、レミリアは一人思う。こんな時間は悪くない、と。
美鈴と二人、こうして酒を酌み交わし、他愛も無い話に花を咲かせる。こんな時間は、数ヶ月前の自分からは考えられなかった事。
以前は酒を楽しむ余裕すら無かったというのに、今ではこうして味だけでなく空気すら楽しめるようになっている。
分かっている。それもこれも、全ては目の前の少女が私に与えてくれたモノ。心が限界だった私を、美鈴が手を差し伸べて私の手を掴んでくれたからだ。
こんな時間が永遠に続けばいい。今、レミリアは心からそう強く願う。
自分が居て、フランが居て、パチェが居て、沢山の従者が居て、そして私の傍には必ず美鈴の笑顔がある。
そんな騒がしくも、優しい時がいつまでも続けばいい。否、続かせてみせる。守り抜いてみせる。
それは誇り高き吸血鬼の願いにしては瑣末なモノだけれど、何よりも強く純粋な願い。純粋な想い。
グラスの水面を揺らし、レミリアはポツリと美鈴に訊ね掛ける。それは、大した意味を成さない何気ない質問。
「…ねえ、美鈴。貴女が私の前に現れたのは、本当に偶然かしら」
「さあ、どうでしょう。少なくとも、私は偶然だなんて思ってませんけど。
私はレミリアに出会うべくして出会った。初めてレミリアの姿を見たとき、その時から私はレミリアに心奪われました。
私が今まで生き長らえてきたこと…その全ては貴女に出会う為だったと私は考えてますよ」
「そう…奇遇ね。私もそう思っていたところよ。
ちなみに美鈴、そんな二人の出会いを一言で端的に表すならば、何と言うか知ってる?」
レミリアの問いに微笑み、美鈴は一言だけレミリアにそっと呟いて、グラスにそっと口付ける。
彼女の答えに満足したのか、レミリアもまたグラスを口に運び、酒を喉にゆっくりと通してゆく。
美鈴の紡いだ解答は何処までもレミリアが望んでいた解答と同一で。
考えていた事が同じだった…そんな些細な事で心に喜びを感じる自分自身が、何だか気恥ずかしくて。
『――運命、でしょうか』
美鈴の導き出した解答を心に、レミリアは酒に身体を委ね、再び願うのだ。
こんな時間がいつまでも続けばいいと。こんな優しい日々が何処までも続けばいいと。
そんな些細な願いをレミリアはまるで年端もいかぬ少女のように、誰よりも強く強く願うのだ。
そう、レミリアは信じていた。
こんな日々が、何時までも続く事を。美鈴が何時までも自分の傍で微笑んでくれている未来を。
けれど、出会いが運命だったならば、別れもまた運命。
その時は確実に、レミリア達の元へと迫っていた。その事を知る由も無く、レミリア達は幸せな日々を享受してゆく。
そして、二人が酒を酌み交わしたあの夜から半年の時が流れたある日。
その時は何の前触れも無く訪れる事になる。二人を別つ、運命の刻のカウントダウン。
『お姉様っ、大変だよっ!!めーりんが!!めーりんがっ!!』
誇り高き吸血姫は誰よりも強く願う。
こんな幸せな時間が、いつまでも続けばいいと。
これはもうレミリア株が3倍くらいまで上昇したね。
後半に行ってきます。
ぐいぐいと引き込まれてしまいました。
時間の都合ですぐに後編が読めないのが悔しい限り…。
優しく温かく変態で。
これから後編に行ってきます。
色々想像して楽しめました。後編いってきます。
これから後半に行ってきます!
みんな大絶賛じゃないですかw(変態的な意味で)
前半、後半 一気に読ませて頂きましたよ^^
感想は後半に書かせていただきますね。
後半行って来ます。
総評は後編と合わせたいと思いますので、とりあえず簡単な感想だけをば
悪霊に花妖怪に魔界神って事はおばあちゃんって…
最高ですよ!