昔々、あるところに一人の精霊がおりました。
透き通るような白い肌、髪は輝く金、真っ黒な翼を持ち、真っ黒な衣を纏った、それはそれは美しい女の精霊でした。
彼女の姿を一目見ようと多くの者が出かけていきました。
しかし、生きて帰った者は数えるほどしかいませんでした。
なぜなら――
◆
「痛っ……もう少し優しくしろよな」
「僕としては優しくしているつもりなんだけどね」
魔理沙の脚に包帯を巻き終えて、霖之助は手についた血を拭った。
全身傷だらけで店に転がり込んできたときにはどうなることかと思ったが、この分なら明日には動けるようになるだろう。
「いったい何があったんだい?」
「……紫に助けられた」
魔理沙はこれ以上答える気はない、というふうに背中を向けた。
負けず嫌いの魔理沙のことだ。きっと今日の敗戦の記憶は墓の中にまで持って行くのだろう。
とはいえ、魔理沙自身はそれほど強いわけではない。
魔法使いであることを除けばどこにでもいる普通の少女。その彼女を他の少女たちと分けるものは何か。
魔法だろうか? それともミニ八卦路だろうか?
答えは否だ。どれほど強力な力を持っていても魔理沙が人間であることにかわりはない。例え格下の妖怪相手でも一撃をもらってしまえば全てが御破算になってしまう。
その中で培った危険を嗅ぎ取る感覚。
それがあるからこそ、魔理沙はこの幻想郷で生きていられるのだと霖之助は思っている。
それにしても。霖之助は治療道具を片付けながら思った。
魔理沙ほどの使い手がこうもやられるとは相手は誰だったのだろう。
紫に助けられたなら彼女ではないし、そもそも魔理沙の知り合いならばここまで酷いことにはならないはずだ。
だとすれば未知の妖怪か、それとも幻想郷の外から入り込んできた何者かだろうか?
「……ま、君が教えてくれない以上、全ては僕の想像の域を出ないわけだけど。夜も更けたし、今日は泊まっていくといい。僕は隣で寝ることにするよ……じゃ、おやすみ」
そう言って灯りを消した瞬間、霖之助は魔理沙の叫び声を聞いた。
◆
なぜなら――彼女の住み処は深い闇の中だったから。
星の光さえも差し込まない、夜の闇の最も深いところに彼女はいました。
彼女に会うためにはそこへ行かなければなりません。彼女は光を嫌うから、松明の一つさえ持って行くことはできません。
そして彼女を取り巻く闇の中には、そんな人間たちを餌にする妖怪たちがいたのです。
◆
「あー、死ぬかと思ったわ」
「……まったく暢気なもんだね。私が助けに入らなかったらどうなっていたことか」
「そりゃもちろん――」
「死んでいたね。間違いなく」
事も無げに言って、藍は霊夢の首根っこから手を離した。
霊夢は慌てることなく石畳の上に着地する。襟元が伸びてしまったような気もするが、細かいことはこの際どうでもよかった。
自分の未熟を指摘された霊夢は不機嫌そうに頬を膨らませる。
「はいはい。どうせ私は修行も真面目にやらないぐーたら巫女ですよ」
「そういうことを言ってるんじゃない。あれが力押しでどうにかなるものじゃないってことはわかってるはずだろう?」
「……まあね。それよりそっちは大丈夫なの?」
「おや? お前さんが他人の心配とは珍しい」
藍は笑っているが、実際には深手を負っているはずだった。
霊夢は見たのだ。あの闇の中で、自分を庇った藍の体を何かが貫くのを。
妖怪の中でも最高位に位置する九尾の狐の結界を易々と貫いたそれが、もしも自分に向かってきていたら……藍の言うとおり死んでいたかもしれない。
「まあ気にすることはないさ。これでも体は丈夫な方でね。ただ――」
ふと、藍が真顔に戻る。
「私の心配をするなら霧雨の心配でもしてやることだな。お前は私が助けたが、あいつがどうなったかはわからない。運が良ければ生きているだろうが……様子を見に行くかい?」
霊夢は動けなかった。
前に出そうとした足は地面に張り付いたまま動かない。
「……やめとくわ。その方がいい気がする」
「賢い選択だ。これに懲りたら少しは考えて行動することだね」
藍はそう言って宵闇の空に身を躍らせた。
日が完全に落ちたとき、霊夢の姿は部屋の中にあった。
薪を積み、火を焚き、その近くにうずくまっていた。
あれが光の近くに来ないことを感じ取っていたからだ。
◆
彼女は心の優しい妖怪でした。
そのために彼女はいつも心を痛めていました。
毎日のように人間たちは彼女に会いにやって来ます。そしてそのほとんどが、彼女の姿を見ることなく妖怪たちに喰われてしまうのです。
彼女は悲しみました。しかし、一方ではこれも摂理なのだと理解していました。
昼は人間の、夜は妖怪の世界。
彼女の居場所が夜の闇の最も深い場所であるなら、人間たちは妖怪の世界に足を踏み入れているのです。
◆
「ただいま戻りました」
「お帰りなさい、藍。霊夢の様子はどうだったの?」
「少しは堪えたみたいですね。ま、一芝居打ったせいもありますが……しばらく夜道を歩こうとはしないでしょう」
「そう。霊夢には良い薬ね」
紫にとっても予想外ではあったが、今回の一件で霊夢は自分の力の特異性を改めて認識したことだろう。いかに幻想郷の規律を司る博麗とはいえ、触れてはいけないものもあるのだ。
「しかし、自分で触れない封印というのはどうかと思いますが」
「いいのよあれで。封印を施すのは私の役目。下手に弄られて取り返しが付かなくなるよりましだと思わない?」
「……それもそうですね」
そもそも本人に触れるようにした日には、彼女自身が真っ先に封印を破ろうとするかもしれない。いや、きっとそうするだろう。藍はそう思った。
と、月の光がかげる。
「紫様」
「ええ。幻想郷にはどこよりも深い夜が必要だけれど、度を超えてはいけないわ」
藍は紫の傍らに立つ。
二人はそのまま隙間の中へ消えていった。
◆
どれくらいの時がたったでしょうか。
ついに心の痛みに耐えきれなくなった彼女は、自分の体も、力も、全てが煩わしいと思うようになりました。
けれども彼女は精霊です。それも夜の闇を起源とする精霊。死ぬことも消えることもできるはずがありません。
彼女は次第に心を閉ざすようになりました。
◆
隙間を通り、紫と藍は深い闇の底に降り立った。
わずかな光さえ存在しない、静寂に包まれた空間。人間の目では一寸先のものでさえ見ることはできないだろう。夜目の利く妖怪でさえどこまで見通せるか怪しいものだ。
「ここに来るのも久しぶりね。藍、露払いは任せるわ」
「承知しました」
藍が印を組むと二人を守る結界が現れた。ほぼ同時に闇の向こうから飛んできた何かが結界に激突するが、それは結界を貫けずに砕け散った。
「無駄だよ。さっきのは巫女を逃がすためにわざと破らせたんだからね。それとも、いつぞやのように叩き伏せられたいか?」
藍は牙を剥き、笑う。
それだけで闇の向こうから怯えるような気配が伝わってきた。
「はいそこまで。枝葉と戯れて力を無駄遣いするのは止めなさい。それより彼女を見つけたわ。行くわよ」
「承知しました」
藍を従えて紫は歩く。
もう誰も二人に手を出そうとはしなかった。
◆
ある時、彼女の元を二人の妖怪が訪れます。
二人は強く、闇の中に住まう妖怪たちを打ち倒し、彼女もその圧倒的な力の前に敗れ去りました。
地に這いつくばりながら彼女は言いました。
なぜこんな事をするのか、私は誰にも迷惑をかけたくないのに、と。
妖怪は哀れむように言いました。
貴方に真実を見せてあげる、と。
すると、瞬く間に闇が消え去りました。
そこにあったものは……夥しい数の骨と、二人の妖怪と――彼女だけでした。
それを見て彼女は全てを悟りました。
闇の中には彼女以外の妖怪などいなかったのです。
人間を魅了し、襲っていたのは、彼女自身だったのです。
◆
「そろそろ来てくれる頃だと思っていたわ」
一段と濃さを増した、息苦しささえ覚える闇の中に彼女はいた。
二人に近づくと彼女は申し訳なさそうに、ほどけてしまったリボンを差し出した。
霊夢が触れたのだろう。リボンに施した封印は完全に解かれていた。
「……ほんと、才能だけは誰にも負けてないわね」
「そうね」
「まったく」
三人の口からため息が漏れた。
「さっきはごめんなさい。突然のことだったから上手く力を抑えられなくて」
「藍のことなら気にしなくていいわ。あれくらいでどうにかなるような鍛え方はしていないから」
「……どうして紫様が答えるのでしょう?」
「何を言うの。こういうのは主人が答えるものよ。それとも何? 文句でもあるの?」
「いいえありません。ありませんから早く封印を行ってください。真面目な話、時間に余裕がありません」
「……だんだん生意気になってくるわね。誰の影響かしら?」
藍は何も言わない。言っても話が長引くだけだ。
だから「紫様のせいですよ」と目で伝えておくにとどめた。
紫はリボンに改めて封印を施し、彼女の髪に巻いてゆく。
最後に結べば完成というところで紫は手を止めた。
「一つ聞いていいかしら?」
「ええ」
「……貴方は今のままでいたいと思わないの?」
紫の問いに、彼女は少しの間、考えたようだった。
「封印されている時、私は夢を見ているの」
「夢?」
「そこでは私は人間の子供みたいに幼くなって毎日を過ごしているわ……もちろん妖怪だから人を襲うし、その度に巫女や魔法使いに懲らしめられるけど、それでも毎日がとても楽しいの。だから私は後悔していないし、貴方に感謝しているわ」
そう言って笑う彼女の顔は、あの無邪気な笑顔とよく似ていた。
「それを聞いて安心したわ」
紫はリボンを結び、封印を完成させる。
辺りを覆っていた闇が薄れて幻想郷が夜を取り戻すと、紫の足下には穏やかな寝息を立てる少女の姿があった。
◆
全てを知って絶望する彼女に妖怪は言いました。
貴方の力を貸して欲しい、と。
彼女は一も二もなく妖怪の申し出を受けました。
力も知能も退化して、体つきまで子供のようになってしまうという話でしたが、元よりそう願っていた彼女に断る理由はありませんでした。
しかし、力を貸して欲しいと言われても彼女にはどうすればいいかわかりません。
困った顔をする彼女に、妖怪は一本のリボンを模した札を見せました。
これを髪に巻くことで彼女の力は封印され、封印されたその力を、妖怪たちの世界を守るために使うのだそうです。
その名を、幻想郷といいました。
◆
「この話はこれで終わりだ。……さて、今日はここまでにしようか。遊びに行ってもいいが、日が落ちるまでに帰ってきなさい」
読み終えた本を閉じて藍は立ち上がろうとした。
「藍さま。その妖怪は今どうしているんですか?」
いつもならすぐにでも遊びに行ってしまう橙から質問をされるとは、珍しいこともあるものだ。
藍は浮かせかけた腰を下ろした。
「さて、どうしているんだろうね。橙はどう思うかな?」
「えーと……きっと楽しく過ごしてると思います」
「間違ってますか?」と目で問いかけられて、藍は思わず笑みをこぼした。
「よくできました――おや?」
橙の頭を撫でてやると、まだ日も高いのに空を飛ぶ黒い塊が目に入った。
藍の視線を追った橙がそれを見てぱっと顔を輝かせる。
「ルーミアだ! 藍さま、行ってきまーす!」
言うが早いか橙は屋敷を飛び出していった。
「おーい、ルーミア! 遊ぼうよー!」
「いいよー」
提案一秒、了承一秒。二人はすぐに弾幕ごっこを始める。
藍はその様子をしばらくの間、眺めていた。
「楽しく過ごしている、か……うん、私もそう思うよ」
――ルーミアは今日も笑顔である。
透き通るような白い肌、髪は輝く金、真っ黒な翼を持ち、真っ黒な衣を纏った、それはそれは美しい女の精霊でした。
彼女の姿を一目見ようと多くの者が出かけていきました。
しかし、生きて帰った者は数えるほどしかいませんでした。
なぜなら――
◆
「痛っ……もう少し優しくしろよな」
「僕としては優しくしているつもりなんだけどね」
魔理沙の脚に包帯を巻き終えて、霖之助は手についた血を拭った。
全身傷だらけで店に転がり込んできたときにはどうなることかと思ったが、この分なら明日には動けるようになるだろう。
「いったい何があったんだい?」
「……紫に助けられた」
魔理沙はこれ以上答える気はない、というふうに背中を向けた。
負けず嫌いの魔理沙のことだ。きっと今日の敗戦の記憶は墓の中にまで持って行くのだろう。
とはいえ、魔理沙自身はそれほど強いわけではない。
魔法使いであることを除けばどこにでもいる普通の少女。その彼女を他の少女たちと分けるものは何か。
魔法だろうか? それともミニ八卦路だろうか?
答えは否だ。どれほど強力な力を持っていても魔理沙が人間であることにかわりはない。例え格下の妖怪相手でも一撃をもらってしまえば全てが御破算になってしまう。
その中で培った危険を嗅ぎ取る感覚。
それがあるからこそ、魔理沙はこの幻想郷で生きていられるのだと霖之助は思っている。
それにしても。霖之助は治療道具を片付けながら思った。
魔理沙ほどの使い手がこうもやられるとは相手は誰だったのだろう。
紫に助けられたなら彼女ではないし、そもそも魔理沙の知り合いならばここまで酷いことにはならないはずだ。
だとすれば未知の妖怪か、それとも幻想郷の外から入り込んできた何者かだろうか?
「……ま、君が教えてくれない以上、全ては僕の想像の域を出ないわけだけど。夜も更けたし、今日は泊まっていくといい。僕は隣で寝ることにするよ……じゃ、おやすみ」
そう言って灯りを消した瞬間、霖之助は魔理沙の叫び声を聞いた。
◆
なぜなら――彼女の住み処は深い闇の中だったから。
星の光さえも差し込まない、夜の闇の最も深いところに彼女はいました。
彼女に会うためにはそこへ行かなければなりません。彼女は光を嫌うから、松明の一つさえ持って行くことはできません。
そして彼女を取り巻く闇の中には、そんな人間たちを餌にする妖怪たちがいたのです。
◆
「あー、死ぬかと思ったわ」
「……まったく暢気なもんだね。私が助けに入らなかったらどうなっていたことか」
「そりゃもちろん――」
「死んでいたね。間違いなく」
事も無げに言って、藍は霊夢の首根っこから手を離した。
霊夢は慌てることなく石畳の上に着地する。襟元が伸びてしまったような気もするが、細かいことはこの際どうでもよかった。
自分の未熟を指摘された霊夢は不機嫌そうに頬を膨らませる。
「はいはい。どうせ私は修行も真面目にやらないぐーたら巫女ですよ」
「そういうことを言ってるんじゃない。あれが力押しでどうにかなるものじゃないってことはわかってるはずだろう?」
「……まあね。それよりそっちは大丈夫なの?」
「おや? お前さんが他人の心配とは珍しい」
藍は笑っているが、実際には深手を負っているはずだった。
霊夢は見たのだ。あの闇の中で、自分を庇った藍の体を何かが貫くのを。
妖怪の中でも最高位に位置する九尾の狐の結界を易々と貫いたそれが、もしも自分に向かってきていたら……藍の言うとおり死んでいたかもしれない。
「まあ気にすることはないさ。これでも体は丈夫な方でね。ただ――」
ふと、藍が真顔に戻る。
「私の心配をするなら霧雨の心配でもしてやることだな。お前は私が助けたが、あいつがどうなったかはわからない。運が良ければ生きているだろうが……様子を見に行くかい?」
霊夢は動けなかった。
前に出そうとした足は地面に張り付いたまま動かない。
「……やめとくわ。その方がいい気がする」
「賢い選択だ。これに懲りたら少しは考えて行動することだね」
藍はそう言って宵闇の空に身を躍らせた。
日が完全に落ちたとき、霊夢の姿は部屋の中にあった。
薪を積み、火を焚き、その近くにうずくまっていた。
あれが光の近くに来ないことを感じ取っていたからだ。
◆
彼女は心の優しい妖怪でした。
そのために彼女はいつも心を痛めていました。
毎日のように人間たちは彼女に会いにやって来ます。そしてそのほとんどが、彼女の姿を見ることなく妖怪たちに喰われてしまうのです。
彼女は悲しみました。しかし、一方ではこれも摂理なのだと理解していました。
昼は人間の、夜は妖怪の世界。
彼女の居場所が夜の闇の最も深い場所であるなら、人間たちは妖怪の世界に足を踏み入れているのです。
◆
「ただいま戻りました」
「お帰りなさい、藍。霊夢の様子はどうだったの?」
「少しは堪えたみたいですね。ま、一芝居打ったせいもありますが……しばらく夜道を歩こうとはしないでしょう」
「そう。霊夢には良い薬ね」
紫にとっても予想外ではあったが、今回の一件で霊夢は自分の力の特異性を改めて認識したことだろう。いかに幻想郷の規律を司る博麗とはいえ、触れてはいけないものもあるのだ。
「しかし、自分で触れない封印というのはどうかと思いますが」
「いいのよあれで。封印を施すのは私の役目。下手に弄られて取り返しが付かなくなるよりましだと思わない?」
「……それもそうですね」
そもそも本人に触れるようにした日には、彼女自身が真っ先に封印を破ろうとするかもしれない。いや、きっとそうするだろう。藍はそう思った。
と、月の光がかげる。
「紫様」
「ええ。幻想郷にはどこよりも深い夜が必要だけれど、度を超えてはいけないわ」
藍は紫の傍らに立つ。
二人はそのまま隙間の中へ消えていった。
◆
どれくらいの時がたったでしょうか。
ついに心の痛みに耐えきれなくなった彼女は、自分の体も、力も、全てが煩わしいと思うようになりました。
けれども彼女は精霊です。それも夜の闇を起源とする精霊。死ぬことも消えることもできるはずがありません。
彼女は次第に心を閉ざすようになりました。
◆
隙間を通り、紫と藍は深い闇の底に降り立った。
わずかな光さえ存在しない、静寂に包まれた空間。人間の目では一寸先のものでさえ見ることはできないだろう。夜目の利く妖怪でさえどこまで見通せるか怪しいものだ。
「ここに来るのも久しぶりね。藍、露払いは任せるわ」
「承知しました」
藍が印を組むと二人を守る結界が現れた。ほぼ同時に闇の向こうから飛んできた何かが結界に激突するが、それは結界を貫けずに砕け散った。
「無駄だよ。さっきのは巫女を逃がすためにわざと破らせたんだからね。それとも、いつぞやのように叩き伏せられたいか?」
藍は牙を剥き、笑う。
それだけで闇の向こうから怯えるような気配が伝わってきた。
「はいそこまで。枝葉と戯れて力を無駄遣いするのは止めなさい。それより彼女を見つけたわ。行くわよ」
「承知しました」
藍を従えて紫は歩く。
もう誰も二人に手を出そうとはしなかった。
◆
ある時、彼女の元を二人の妖怪が訪れます。
二人は強く、闇の中に住まう妖怪たちを打ち倒し、彼女もその圧倒的な力の前に敗れ去りました。
地に這いつくばりながら彼女は言いました。
なぜこんな事をするのか、私は誰にも迷惑をかけたくないのに、と。
妖怪は哀れむように言いました。
貴方に真実を見せてあげる、と。
すると、瞬く間に闇が消え去りました。
そこにあったものは……夥しい数の骨と、二人の妖怪と――彼女だけでした。
それを見て彼女は全てを悟りました。
闇の中には彼女以外の妖怪などいなかったのです。
人間を魅了し、襲っていたのは、彼女自身だったのです。
◆
「そろそろ来てくれる頃だと思っていたわ」
一段と濃さを増した、息苦しささえ覚える闇の中に彼女はいた。
二人に近づくと彼女は申し訳なさそうに、ほどけてしまったリボンを差し出した。
霊夢が触れたのだろう。リボンに施した封印は完全に解かれていた。
「……ほんと、才能だけは誰にも負けてないわね」
「そうね」
「まったく」
三人の口からため息が漏れた。
「さっきはごめんなさい。突然のことだったから上手く力を抑えられなくて」
「藍のことなら気にしなくていいわ。あれくらいでどうにかなるような鍛え方はしていないから」
「……どうして紫様が答えるのでしょう?」
「何を言うの。こういうのは主人が答えるものよ。それとも何? 文句でもあるの?」
「いいえありません。ありませんから早く封印を行ってください。真面目な話、時間に余裕がありません」
「……だんだん生意気になってくるわね。誰の影響かしら?」
藍は何も言わない。言っても話が長引くだけだ。
だから「紫様のせいですよ」と目で伝えておくにとどめた。
紫はリボンに改めて封印を施し、彼女の髪に巻いてゆく。
最後に結べば完成というところで紫は手を止めた。
「一つ聞いていいかしら?」
「ええ」
「……貴方は今のままでいたいと思わないの?」
紫の問いに、彼女は少しの間、考えたようだった。
「封印されている時、私は夢を見ているの」
「夢?」
「そこでは私は人間の子供みたいに幼くなって毎日を過ごしているわ……もちろん妖怪だから人を襲うし、その度に巫女や魔法使いに懲らしめられるけど、それでも毎日がとても楽しいの。だから私は後悔していないし、貴方に感謝しているわ」
そう言って笑う彼女の顔は、あの無邪気な笑顔とよく似ていた。
「それを聞いて安心したわ」
紫はリボンを結び、封印を完成させる。
辺りを覆っていた闇が薄れて幻想郷が夜を取り戻すと、紫の足下には穏やかな寝息を立てる少女の姿があった。
◆
全てを知って絶望する彼女に妖怪は言いました。
貴方の力を貸して欲しい、と。
彼女は一も二もなく妖怪の申し出を受けました。
力も知能も退化して、体つきまで子供のようになってしまうという話でしたが、元よりそう願っていた彼女に断る理由はありませんでした。
しかし、力を貸して欲しいと言われても彼女にはどうすればいいかわかりません。
困った顔をする彼女に、妖怪は一本のリボンを模した札を見せました。
これを髪に巻くことで彼女の力は封印され、封印されたその力を、妖怪たちの世界を守るために使うのだそうです。
その名を、幻想郷といいました。
◆
「この話はこれで終わりだ。……さて、今日はここまでにしようか。遊びに行ってもいいが、日が落ちるまでに帰ってきなさい」
読み終えた本を閉じて藍は立ち上がろうとした。
「藍さま。その妖怪は今どうしているんですか?」
いつもならすぐにでも遊びに行ってしまう橙から質問をされるとは、珍しいこともあるものだ。
藍は浮かせかけた腰を下ろした。
「さて、どうしているんだろうね。橙はどう思うかな?」
「えーと……きっと楽しく過ごしてると思います」
「間違ってますか?」と目で問いかけられて、藍は思わず笑みをこぼした。
「よくできました――おや?」
橙の頭を撫でてやると、まだ日も高いのに空を飛ぶ黒い塊が目に入った。
藍の視線を追った橙がそれを見てぱっと顔を輝かせる。
「ルーミアだ! 藍さま、行ってきまーす!」
言うが早いか橙は屋敷を飛び出していった。
「おーい、ルーミア! 遊ぼうよー!」
「いいよー」
提案一秒、了承一秒。二人はすぐに弾幕ごっこを始める。
藍はその様子をしばらくの間、眺めていた。
「楽しく過ごしている、か……うん、私もそう思うよ」
――ルーミアは今日も笑顔である。
リボン系の話はたくさんあるので目新しい要素は無いけど、綺麗な話でした。
>主人公二人がちと不憫な扱いですが、・・・
こういう描写好きです。
確かに目新しい要素は無いと思われそうですが、霊夢や魔理沙が退治出来ない強さで彼女たちが解決できない話というのは充分目新しいかと。
>主人公二人がちと不憫な扱いですが、まあご容赦を。
最近は儚月抄漫画でも主人公たちが力及ばない描写がありますしかまわないと思いますよ。
むしろ幻想郷内とはいえ、巫女を殺せないという不文律を無視して弾幕を使わない存在との争いなら人に勝ち目はないですし、そこで勝ててしまっては霊夢も魔理沙も人間の範疇を超えちゃって人ならざるものになってしまいますから、そっちのほうが個人的にはシックリきませんしね。
こういうシリアス設定では彼女たちにはやっぱり「人間」であってほしいですから。