※色々酷い話です。
※ベースボールは好きですか?
「風が吹けば桶屋が儲かる――風が吹くと、砂埃が立ち、それが目に入って盲人が増える。すると彼らが食い扶持を稼ぐため三味線が多く必要になる。
そうなると需要拡大に応えるべく、三味線の原材料の皮を剥ぐため猫が乱獲される。すると、天敵の不在により鼠が鼠算式に幅を利かす。
そうしたなら、増えすぎたが故に飢える彼らの雑食は、純然な植物繊維たる桶にまで食指を伸ばす。
すると、女房に財布を握られる亭主がこれ幸いと、『おい、新しい桶を買ってくるから金くれよ』と小金をせしめる。
そして、新品を買うより安く付く修理を桶屋に依頼し、なけなしの残金で賭場へ繰り出す。
桶屋は利の薄い仕事を数こなして、まあ儲かると。つまり何がどうなってどうなるか分からないという意味だな。
何? 鼠が桶を齧るのは齧歯類の習性で、最後の亭主云々はもはや諺と関係ない? 細かい事を気にしては器が小さいと思われるぞ。
そんな事より、この諺が成立したのは江戸の頃であるが、当時の風俗を実によく表しているとは思わないか?
今の時代、盲人といえば大体が針灸の道を歩むものだが、江戸の盲人は三味線を弾いても銭を稼ぐ事ができたのだ。
そいつらの首領は検校と呼ばれ、そこら辺の武家なんかよりずっといい暮らしをしていたのだぞ。
どうだ? 興味が沸いただろう?
ほら、そんなに遠慮する事はない。貴女の頭の中は元禄文化に対する期待で溢れんばかりなのだろう。私には分かる。
ん? 歴史の授業に興味はない?
またまた、照れ隠しは不要だぞ。江戸に興味惹かれない脳味噌ある生物など存在する筈が無いのだから。
私の生徒も最初は嫌がっていたが、すぐにその魅力に取り付かれ、今や由井正雪の乱で涙を零し、生類憐みの令で涎を垂らす立派な江戸フリークだ。
何、苦しいのは最初だけだ、すぐ気持ちよくなる。
優しくしてあげるから。こっちに来なさい。さあ来るんだ。ほら来いって!」
――上白沢塾の取材にて
これはいかん――八雲藍は思った。
三味線屋許すまじ。桶屋の影でちゃっかり儲けてんじゃねえよ。
そもそもである、猫より皮を剥ぐなどという狼藉、正に狂人の沙汰なり。
貴様らは魔女狩り後の欧羅巴よろしく、黒死病で悶えながら死んでしまえばいいのだ。
話は半刻ほど前に遡る。人里を買い物の為に訪れた藍は、寺子屋の前でしゃがんで何やらぶつくさ呟いている女性を見つけた。
当然、藍としては無視して通り過ぎるつもりであったのだが、陰鬱なその人影は藍を睨むと突然駆け寄って来て、二の腕をぐわしと掴んだのだ。
「無視するんじゃねえよ! 知り合いだろう!?
なら、『そんなに落ち込んでどうされたのですか? 私でよろしければ相談に乗りますよ』って声をかけるのが人情だろうが!
そんな舐めた真似するなら、貴様の歴史弄って珍走団風に改名するぞ! コラ!」
「痛い! 痛いって! 分かったから! 話聞くから! だからその手を離して!」
凄い握力だった。服の下がひりひりする。きっと腕には赤い手形がはっきりくっきり残っているに違いない。
少し涙目の藍を寺子屋前の椅子に座らせると、その女性――上白沢慧音は悪鬼の如き形相で語り始めた。
「分かるか? あのビッチ天狗め。散々期待させるだけさせておいて、興味ないとか抜かしやがった」
どす黒い雰囲気を醸し出しながら、鴉天狗の新聞記者に対する恨み節を延々と吐き続ける上白沢女史。
対する藍は正直どうでも良かったので、つい先ほどそこの豆腐屋で買った油揚げをはむはむしながら、今日の夕飯は何にするかなとか考えていた。
「くそ! 天狗といえば、江戸をリアルタイムに体感した種族のはず。江戸史に一言持っているに違いないと踏んだのだが」
「やはりあぶらげは新鮮な物に限る。今晩はあぶらげの刺身だ。それを肴に野球中継を見ながらビールをキューっと。うん、実に堪らんね」
「所詮、長く生きているだけの脳足りんよ。彼奴に公事方御定書の味わいが理解できるかなど、期待するだけ無駄だった」
あ~。こいつ周りの音が聞こえてねえや。
普段の立ち振る舞いが知的なだけに、人の目も憚らず自分の世界に没頭する知識人の姿は貴重と言えば貴重なのかも知れない。
だが藍にとっては、やっぱりどうでも良かったので引き続き油揚げをはむはむすることにした。
しかしである。油揚げを一つ食べ終え、少しお腹が膨れた藍はある事に気付いた。
「慧音殿? おーい慧音殿?」
ぺちぺちと油揚げで慧音の頬を叩く藍。頬が赤味を増してきた頃になって、慧音はようやくそれに気付く。
「藍殿、私は真剣な話をしているのだ。話も聞かず、私の顔に植物性食用油を塗りたくるのは止めてくれ。
でないと、歴史を弄くって、誰もが貴女の事をDQNネームでしか呼ばなくなる様にせざるを得なくなる」
希空と書いて『のあ』とか。600歳で神託を受けた偏屈で無垢な老人もきっと驚いているだろう。
星の亜米利加読みを『あっぷる』と勘違いしているお母さんは、きっと幼年の頃テレビジョンで見たリンゴ・スターの刷り込みから逃れ得なかったのだと思う。
八雲藍(やくも・いんでぃごぶるぅ)の呼び名を受け入れるには流石に抵抗があったので、大人しく藍は謝っておいた。
「すまない慧音どの。悪気は無いんだ。むしろ感謝して欲しい。
あぶらげの植物油は化粧水として最適なんだ。この前紫様に用意した化粧水も実はこれだったりする。
紫様は白金ナノコロイドが云々の高級化粧水を使っている御積もりだが、なあに、それっぽいラベルさえ貼っときゃ分かりゃしない。
まあ、そんなどうでもいい事は置いておいて、慧音殿一つ教えて頂きたい。鴉天狗が人里を出たのはいつ頃だろうか?」
「貴女の主人が聞けば卒倒しそうだな。まあいい、あの阿呆鴉が帰りやがったのは確か八時の鐘が鳴ったすぐ後だ」
「八時だと!?」
藍は絶句した。今現在太陽は南天にあり、正午の鐘が鳴らされんとする時刻である。
「帰る際の彼女の速度はどの位だったか分かるか?」
「脱兎の勢いといった風だった。頭も尻も軽い分、憎々しいが飛ぶ速度だけは速い」
藍の顔がますます険しくなる。
「こうしてはおれん」
やおら真剣な表情を作った藍は、早口で捲し立てた。
「慧音殿、済まないが、のっぴきならない急用ができたので、私はここを去らないといけない。
江戸の話はまた今度じっくり話し合おう。なに、こう見えて私も歴史には造詣が深いんだ。
特に人形浄瑠璃? とか凄く詳しいから、きっと慧音殿も満足な語り合いが出来ると思う。
曾根崎心中で近松門左衛門が起死回生のサヨナラホームスチールを決めるシーンとかもう感動ものだよね。
それと、これは私からの気持ちだ。色々苦労はあるだろうが元気出してくれ。ではまたいつか会おう!」
慧音の四角い帽子の上に乗せられた油揚げは藍の優しさである。
「……江戸に野球は無い」
慧音が呟いた頃には、藍は既に空の点であった。
「実に由々しい」
天狗とは最も風に近い妖怪である。力在る天狗なら、それは風神と呼んで差し支えない。
そして、今朝方、慧音の元より逃走した射命丸文という天狗はそう呼べるだけの実力を持つと藍は認識している。
その彼女が“脱兎の如く”飛んだというのだ。
それがどれ程の速度であったか想像も付かないが、一つ分かることがある。
風神がそれほどの速度で飛ぶとあれば従う風の数も膨大な物となる。
すなわち、正しい意味で“風が吹いた”と呼べるのだ。
この事実を理論に照らし合わせると――
藍の顔が悔しそうに歪む。
「何故気付く事が出来なかった?」
藍の脳裏に浮かぶは、泣き叫ぶ愛しい式。そして下卑た笑いを浮かべ彼女に迫る三味線職人の姿。
貴様! その鋏を何に使うつもりだ!
藍は今すぐにでも駆けつけ三味線職人を八つ裂きにしてやりたい気持ちだった。
しかし藍は、今は耐える時だと理解している。
風が吹いた時刻より四時間が経過。既に桶屋が儲かってしまっている可能性が高いのだ。
――ならば、どうすればいい?
万物の境界を司る偉大な主が聞けば笑って答えるに違いない。
そう、因果を逆転させればよいのだ!
覆水盆に返らずなど誰が決めた!
藍の目には己がなすべき事のはっきりとした輪郭が映っている。
まずは桶屋が儲かった事実を無かった事にするのだ。
「桶屋誅すべし!」
藍は咆哮する。それは最強の妖獣金毛九尾が久方ぶりに見せた剥き出しの野生であった。
「ふふーふ。パカラン、パカラン」
店内がどこか黴臭いのは、魔法の森というジメジメした立地だけが原因ではないだろう。
乱雑にガラクタの類――或いは店主が商品と言い張る物体が山積みされた異質な空間。香霖堂である。
「はいよー、シルバー。ひひーん!」
閑静な立地ゆえに静寂を保つ店内。聞こえるは男の愉悦に満ちた声のみ。
香霖堂の店主、森近霖之助は馬に跨っていた。
勿論、家畜を道具屋の中で飼ったりすれば、商品を食べられたり、糞尿を引っ掛けられたりで大変である。
畜舎と商店の積極的コラボレイトを斬新と評する人はいたとしても、それを好意的に解釈してくれる人は残念ながら皆無であろう。
客足が遠のいたえんがちょ香霖堂。膨れ上がる餌代、出納簿は真っ赤。久々の団体客は白防護服の保健所職員で、置土産はバイオハザードの黄色い張り紙。
消毒液に塗れた霖之助は、幻想郷を突如襲ったレベル4の新種病原体が、愛馬と香霖堂の不衛生な環境によってもたらされた事実に愕然とする。
病魔の手にかかり次々と斃れゆく弾幕少女たち。霖之助は体温の残滓すら失ってしまった魔理沙の躯を前に力無く膝を付いた。
背後には親友の死に怒りを露にする巫女の姿が。
……ああ霊夢、その左手の出刃包丁は何だい? 僕だって被害者なのに。酷いじゃないか。
最後の最後で霊夢と視聴者に喧嘩を売って、僅かばかりの同情もなく滅多刺しにされる霖之助。R-18な惨劇に大地が赤く染まる……。
……なーんてB級パニックホラーみたいな未来は幸いにも訪れそうにない。良かった良かった。
彼が跨るは粘土製の馬である。
等身大の精巧な物であり、その隣では製造工程を同じとする等身大兵士の人形が真っ直ぐ前を向いている。
パカランパカランという規則正しいリズムで霖之助が尻を前後に振る度、馬の人形はカタカタと揺れた。
その表情は粘土であるから、霖之助の乗馬技術に反応を示す事は勿論無い。
いや、もし示したなら、それはかなりホラーな話だが。しかしそうで無くとも十分不気味な光景ではあった。
分別ある筈の大人がはいよー、シルバー、である。
折角インフルエンザがアウトブレイクな未来を回避したというのに、彼は残念な今現在をどうにかする良識に欠ける。
この光景を見る人が十人居たなら、九人はドン引きして彼との今後の関係を考え直し。一人は、気の毒に思って小銭の一枚でも恵んでくれるかもしれない。
摩訶不思議な霖之助ワールドが展開されている香霖堂。彼の額の健康的な汗が、何故か今は空しい。
――ガラガラガラ。
香霖堂の現状など露知らず、訪れたのは黄色い救急車ならぬ黄色い女性。八雲藍である。
案の定、彼女は視界に飛び込んできたあんまりな光景に目を丸くして固まった。
数分前、藍は桶屋をぼっこぼこにすると意気込んだ。ここまではいい。
しかし、幻想郷では桶の専門店など存在しないのだ。江戸の様な超循環型社会ならともかく、幻想郷のような狭い土地ではどう考えても採算が合わないからである。
あれこれ考えた藍は、とりあえず手近な道具屋である香霖堂を訪ねる事にしたのだが、扉を開けた途端この光景である。
人目も憚らず童心に帰る霖之助。藍はそれを咎める事をしないが、出来れば真っ昼間の店内でそれを発露するのは止めて欲しかった。
大人の品格を備えた霖之助像がガラガラ崩壊していく音を聞きながら、藍は目の前で腰を振る半妖の青年を、ただただ見つめるしかなかったのだ。
一方の霖之助は、扉の音より数テンポ遅れて、やっと腰の動きを止めた。
ギギギと音が鳴りそうな、ぎこちない首の回転で扉に顔を向ける霖之助。彼の顔面には、そこだけ時間が止まってしまったかの様に童心の喜色が不気味に張り付いている。
目が合う両者。気まずい沈黙。
霖之助は、コホンと咳払いを一つ付くと、よっこいしょと馬から降り立ち、満面の営業スマイルを藍へ向けた。
「いらっしゃいませ。幻想郷で最も珍奇に溢れた道具屋香霖堂へようこそ。当店は貴女の好奇心を歓迎します」
この男、さっきまでの痴態をなかった事にするつもりである。
歴史食いの半獣が胸焼けを起こす様な過去がそんな簡単に無かった事になる筈が無い。事実、藍の心にはトラウマのレベルで腰を振る霖之助の映像が刻まれた。
しかし。事が余りに重大だと、顧みるのが憚れるのもまた事実。
故に、ああ、と曖昧な返事を返した藍も先の映像を見なかった事にした。無論、霖之助の名誉の為ではなく彼女の精神衛生上の為である。
二人が選択した大人の処世術。
不都合な物から目を逸らして生きるなんて、これだから大人は汚いんだと思春期な少年がいたなら喚くだろうか。
だがリトルボーイ。いずれ君も分かる。君が盗んだバイクで走り出したその理由は、とりあえず社会のせいにしとけば色々楽チンなんだ。
世の中大事なのは筋とか正義よりも、波風立てないための合理なんだって事に気付ければ君も立派な大人さ。
藍は己が何百年も昔に失ってしまった青臭い輝きを懐かしんで苦笑した。そして、冷静でドス黒い大人な目で改めて店内を見回す。
馬と目が合った。
「……兵馬桶」
藍の呟きに霖之助が目を輝かす。
「流石だね、兵馬俑が一目で分かるなんて。素晴らしい造形だろう? 古代の遺物の中でも最も格が高い物の一つだと僕は思っているよ」
一足飛びに藍の側に駆け寄り、唾が飛ぶ位まで顔を近づけ、愛馬の自慢を始める霖之助。
その喜色満面な表情は、新しいオモチャを友に自慢する少年のそれである。
まったく。この男ときたら、童心の過去を無かった事にしようと自分から提案しておいて、未だ童心を引き摺っているのだから世話が無い。
「中華を史上初めて統一し、長城の建設でその名を知られる偉大な皇帝の生涯最後の大事業。
彼の陵墓にはこの馬や兵士の様な精巧な埴輪が何百と副葬されたのだよ。
僕は運が良かった、たまたま訪れた魔理沙の家でこれを見つける事が出来たのだから。
一応ではあるが骨董を扱う者として、これだけの逸品と出会えるのは、大変幸せな事だからね。
譲ってくれと頼んだら魔理沙は渋い顔をしていたけれど、ツケの清算を条件に持ち出したらあっさり了承してくれたよ。
……まあ、ここだけの話。これには、ツケを清算しても、そのツケの何倍もの御釣りが残るくらいの凄い価値があるんだけれど。
魔理沙には内緒だよ」
満面の笑みで人差し指を唇の前に置く霖之助。どうでもいいがウインクは勘弁して欲しい、お茶目だと思っているのは本人だけである。
ほら、その証拠に藍のこめかみには青筋が浮かんでいるではないか。
いや、藍が苛立っているのは霖之助の不躾な茶目っ気が直接の原因ではないのだが、火に油を注いだ副因である事は間違いない。
「そうか……桶か……」
搾り出すような、おぞましいとすら思えるような低音。
確かな殺気を孕んだ藍の声を聞き、霖之助は頭の上に疑問符を浮かべる。
「あれ? 何か気に障る事を言ったかな? もしそうなら謝るよ。
ただ、少し気になっている事があってね、もしそれが原因なら誤解を解いておかないといけないと思う。
もしかして、君は兵馬“俑”の表記を兵馬“桶”と思い込んでいるんじゃないかな。
そして、これを俑と呼ぶ僕に腹を立てたと。
でも、桶の音読みは“とう”や”つう”で、俑(よう)とは一致しない。
確かに俑の部分を桶と文に記す人が相当数いることは確かだけど、それは明らかな誤りだよ」
「知っている。俑の字が表すは人形(ヒトガタ)。本来の意味を問うなら、庶民的な木製容器を指す桶とは似ても似つかない。
……しかし、例えばだ。私が貴様を呼ぶ、“貴様”という言葉。字面を見ての通り元は敬称だった。
だが、私が貴様を“貴様”と呼ぶとき、そこに敬意はあるか? 私が貴様の事を尊ぶに足る男だと見做している様に思うか?」
藍は霖之助の胸倉を乱暴に掴む。
「すなわち、言葉は時代と共に変化する! 誤りが真実に姿を変える!
最早、俑は独自性を保てず、桶は人形の意味を得た!
ならば私は貴様の事をこう呼ぼう。兵馬桶を扱う貴様にこの呼称を当てよう。
――桶屋!
そう今より貴様は桶屋だ。私は自信を持ってそれを宣言しよう。
さあ、覚悟しろ桶屋。不当に得た利益に断罪が下される時が来たのだ!」
藍は怒鳴り付けと共に掴んでいた胸倉を投げ飛ばす。呆気にとられ、なす術も無く床に転がる霖之助。
その彼に跨り、所謂マウントポジションに移行した藍の憤怒。
ここに至って霖之助は、己がいつの間にか地雷を踏んでいて、しかもそれは致命的な殺傷力を持つ事実をようやく知った。
――ガラガラガラ。
「あ~。香霖いるか。やっぱりあれ返せ。
アリスがすげー怒っててな。あの泥人形のどこがいいのかさっぱり理解できないが、返さないと私の家に火を付けるとか言ってるんだぜ。
私としては物置で埃被ってるよりも、然るべきルートで流通させるのが道具の為だと思うんだがな」
お前が言うな――彼女の家の惨状を知る者が聞けば誰もがそう言うであろう。
箒片手に香霖堂を訪れた彼女こそ、アリス宅より無断で拝借した兵馬俑を、剛毅にも即日転売してのけて尚悪びれる事なき天晴れな精神構造の持ち主。
そう、普通の白黒魔法使い。或いは盗賊鼠小僧ならぬ強盗鼠少女、霧雨魔理沙その人である。
「香霖? いないのか?」
いないなら、無駄足させた対価に適当な物を頂いていくぜ、と店内を見渡す魔理沙は、なにやら物音がする一角を覗き込んだ。
彼女が見たのは、横たわる霖之助と、その上に覆いかぶさる藍の姿。
「なっ!? なな――!?」
思わず顔を両手で覆った魔理沙の顔は真っ赤。何か言おうとして、でも言葉が出なくて口がパクパクしている。
なるほど、がさつに見えてその実大変に純情。乙女は初夜まで純潔を守るべしと、古風とは言わないがそういう考えを持った彼女である。間違い無く状況を誤解している。
実際の霖之助はリアルに生命の危機を感じている最中であり、圧し掛かる美人のたおやかな双丘に疚しい思いを抱く余裕などあるはずが無い。
しかし事の次第を何も知らぬ魔理沙の乙女フィルターを通過した目に映る彼は、これより男女の行為に勤しまんとする変態に他ならないのだ。
「この! 破廉恥野郎!」
興奮で半ば涙目になった魔理沙が取り出すはミニ八卦炉。小さくても乙女の必殺兵器。それは淫楽に身をやつす二人に真っ直ぐ向けられた。
そして、次の瞬間、死んでしまえと一切の逡巡もなく放たれる虹色の奔流。
恋符マスタースパーク。弾幕とはパワーなり、その哲学の完成形たる恋色魔砲。
弾幕じゃ無いじゃんとか言う無粋な声は勿論彼女には聞こえない。乙女とはダブルスタンダードを使いこなす賢い生き物なのだ。
このスペルに接する機会が多い紅魔の門番などは、これの名に恋の一字が使われている事に釈然としない思いを持っている。
しかし、それは彼女が未熟故このスペルの表面しか見ていないからである。
破壊力に特化した光芒は、しかし間違いなく魔理沙にとっての恋そのものなのだ。
然り。彼女の恋はひたすら一途。周りの目も想い人の気持ちですら無視して邁進する、猪突で不器用な慕情。
想い人に己の全てを受け止めて貰いたいという純真。このスペルには彼女の乙女としての矜持が精一杯に詰まっている。
だから、光線の灼熱が店内の珍品を次々炭に変えても仕方がないである。
彼らは言わば、恋路の邪魔をしてしまったのだ、蹴られるが当然。ちなみに馬も一緒に炭になった。残念ながら魔理沙の家も炭になるかもしれない。
でも、一途な恋心の結末である。何を後悔する事があろうか!
そして二人に迫り来る極太レーザー。
藍は迷わず、その白くて細い指で霖之助の首根っこを掴み、彼を魔砲の方に向けた。
「ちょ! 何をする気グボハッ!」
今の霖之助は盾である。肉体的に劣る彼を矢面に立たせるのは人道に悖るという意見もあるかもしれないが、レディーファーストだし問題無し。藍は笑顔でそう答えた。
ビバ女尊男卑。楽園の真理。
まるで中世欧羅巴のナイトが如き献身が出来て彼も本望であろう。藍は満足げに頷く。
なんならサーの称号をあげてもいい。八雲聖騎士団盾持ち団員モリチカ・サーリンノスケ。
最後のケをクに換えると何か露西亜人っぽいとか至極どうでもいい事を考えていた藍は、そんなに暢気に構えている場合で無い事にやっと気付いた。
霖之助は思ったより耐久力に乏しく、魔砲の火力が衰える前に彼が限界を迎えてしまいそうなのである。
彼は所詮コンスタンティノープル止まりの男であった。エルサレムの事など夢のまた夢。
うむむと唸る藍の、その手にふと触れたある物。それを見た藍は、己の脳内で打開策が閃いた音を聞いた。
それは木製の棒であり、初めて握るとは思えぬ程しっとり手に馴染む。
中にコルクの仕込まれた意匠は見た目以上の軽さをそれに与え、素晴らしいスイングスピードを保証した。
棒の中ほどには崩したデザインのアルファベットがマジックペンで書かれている。
二度のホームランキング。30-30。600本塁打クラブ。藍が握るは偉大なスラッガーのサインバットであったのだ。
すっくと立ち上がった藍はスペルを切る。
「……密打『サミー・ソーサの秘薬』」
覚醒する体中の筋肉。リミットが外れた肉体が生み出すパワーはきっと自身の想像を遥かに超えるものであろう。
確かな体の変化に快楽すら感じながら藍はバットを垂直に構える。彼女が立つは道具屋の古びた床であるが、今、藍にはバッターボックスの白いラインが確かに見えた。
ヒト成長ホルモン、或いはHGHと呼ばれるそれやステロイドは、平凡な選手をスター選手に変え、スター選手を歴史に残る選手に変えるという。
ならば、彼のスラッガーの66号ホ-マーは穢れたものであったのだろうか? 価値の無いものであったのであろうか?
確かに世のちびっこ達の夢を裏切った罪は重い。しかし! しかしである! 彼がドミニカの英雄である事実には変わりあるまい!
ならば、私はその誇りに敬意を表し、最高のフルスイングをここに体現して見せようではないか!
強靭な意志を胸に秘めた藍の視線の先で霖之助がついに燃え尽きる。
一対一。ストライクorホームラン。ついに決戦の時が来た。
マウンドには豪腕乙女霧雨魔理沙。放つ球種は恋色フォーシーム。小賢しい変化など全て擲ち、ただただ素晴らしい球威によって打者を抑え込む剛速球の極み。
相手に不足無し! 対峙する九尾の即席スラッガーはバットを振った。
藍の目にはマスタースパークの軌道がくっきりと見えている、そして、それを打ち返さんと体全体が完璧なバランスを保ちバットを操作している。
そう、これこそ凡庸な打者とスーパースターの格の違い。薬物による筋量増加以上に大切な要素。
すなわち、ボールをバットの真芯でジャストミートする能力。あまりに単純で明白な答えでありながら、僅か0コンマ5秒間の攻防でそれを達成するは余りに至難。
故に彼らは一流と呼ばれるのだ。
そして藍の強振は確信を伴っている。バットに白球がめり込む様を、その瞳で以って捉える事が出来ると確信しているのだ。
マヨヒガが誇る完璧超人は、ことバッティングに関しても初打席から一流であった。
かくして藍の目論見通り、ついにバットが魔砲とインパクトする。
グリップを握り締める藍が最初に感じたのは強烈な圧力であった。そう、このマスタースパークの重さは魔理沙の乙女心の重さ。決して軽々しく扱える物では無い。
このままではバットは音を上げ、ついには粉砕されてしまうかもしれない。
しかし藍は慌てない。魔理沙の乙女心がそうであるように、バットに宿るスラッガーの矜持もまた易々と折れるものでないと知っているからである。
力強く大地を踏みしめる藍の足、肝心要は下半身。お手本にしたい程の美しいフォロースルーを描き、ついにバットが振り抜かれた!
打ち返され軌道を百八十度反転させる魔砲。勝利の女神は藍に微笑んだのだ!
魔理沙を襲う猛烈なピッチャー返し、或いは無軌道な恋心のしっぺ返し。
信じられない様に瞳を見開いた魔理沙は、しかし甘んじて魔砲の直撃を受け入れた。
それは単に魔砲の反抗になす術も無かっただけか、そうでないのなら、きっと潔さをよしとする清々しい敗者の誇りであったのだろう。
「ありえないんだぜぇーーーー!」
……残念ながら前者であったようだ。
もし後者であったならちょっといい話っぽくなったのに至極残念である。彼女はリュウグウノツカイに弟子入りして空気の読み方を教わるべきだ。
文句なしの場外ホームランにドップラーエフェクトを響かせて大空に消える魔理沙。星の魔法使いは、ついに本当のお星様になってしまいましたとさ。合掌。
青空に残るマスタースパークの残り火は、さしずめ天に昇る虹の様な幻想的美しさで、その光景をやり遂げた凄くいい顔で眺める藍。
きっと彼女には壊滅した香霖堂なんて見えていないのだろう。
当然、チリチリパーマの黒人に本日付でジョブチェンジした霖之助の姿など瞳に映る筈が無い。
だって、過去は振り返らない。辛い事も悔しい事も不都合な事も全部胸に仕舞って強くなる。それが乙女だもの。
そうだろうと藍は蒼穹に消えた好敵手に向かって呟く。
この敗北で魔理沙もまた一つ強くなるだろう。恋とは直球のみにあらず、変化球を交えた駆け引きもまた恋なり。それを学んだのだから。
彼女が邪恋『実りやすいマスタースパーク』を開発するのはこの数日後。結局直球だが、しかし何とも彼女らしい結論ではないか。
ひと時勝利の余韻に浸った藍は、微笑んでいた表情を引き締めた。本来の目的を忘れてはならないのだ。
まず為す事として“桶屋”森近霖之助に対する天誅を下した。
そして、次に為すべき事であった紅魔館公認の“鼠”霧雨魔理沙退治を図らずも同時に達成する事が出来た。
ならば次に誅すべきは“三味線屋”である。愛する式を助ける為の正念場となろう。
決意を胸に藍は大空へ飛び立った。
「……なるほどね。宴に私たちの演奏が欲しいと」
柔らかな初夏の風が細い金の髪を揺らす。寂々たる森の中で少しばかり開けた、そう丁度奏楽の練習にお誂え向きのその場所で彼女は切り株に腰掛けていた。
「あ、あの。やっぱり、駄目ですか……?」
懇願する様に目の前の女性を見る少女はスキマ妖怪の式の式――橙である。
彼女を見上げる形の少し影ある金髪女性――ルナサ・プリズムリバーは橙の不安を感じ取ったのだろう、無表情から微笑みに顔つきを変え、橙の問いに答えた。
「まさか。丁度スケジュールは空いているし、何より貴女たちの大切な思い出の1ページを私たちの旋律で彩れるなら、それは演奏家として最高の栄誉だわ」
「え? じゃあ……」
「ええ。貴女の依頼、喜んで引き受けさせてもらうわ」
「ありがとうございます! やったー。きっと藍様喜ぶぞー!」
ぴょんぴょんと小躍りする橙をルナサは穏やかに見守っている。
発端は八雲紫の一言であった。曰く『藍を労う宴会を開きましょう』と。
それを聞いた橙は少々意外に思ったが、主の主たる彼女は軽薄に見えてその実、大変家族愛に篤い事を知っていたので、諸手を上げてその提案に賛成した。
会場は白玉楼。参加者は八雲一家と冥界の姫、そしてその従者だけのこぢんまりとした宴。
しかし、料理と酒と演出にはこだわった、ちょっぴり贅沢な宴。
その計画を成功させる為に東奔西走する橙は、会場を音で飾ってもらう依頼を携え、幽霊楽団を訪ねたのだ。
承諾したルナサとしても、腕を買われ、それで乞われたのだから悪い気はしない。
どういう曲目にするか、妹たちと相談しないといけないな。そういった事をルナサが考え出した頃だった。
彼女の視界に入った、大空より勢い良く迫る飛行物体。
「あら? 貴女の主のお出ましね」
「え? あっ! 本当だ! 藍様ぁー!」
両手を振る橙の前方10mほどの地点に藍は着地した。
微笑ましい再会劇になると、即興のラプソディーを頭の中で奏でていたルナサは、しかし何か違和感を覚えた。
「あれ? 藍様……だよね?」
橙もその違和を感じ取ったようで、戸惑いの表情を浮かべる。
ルナサの目に映る藍は、普段の賢人八雲藍ではない。
鈍器を片手に殺気に満ちた視線を振り撒く彼女は、まるで狂気に囚われてしまった夜叉の様で。
「……下がっていなさい」
只ならぬ藍の雰囲気を感じ取ったルナサは、右手で橙が彼女に近づくのを制し、切り株から立ち上がった。
「いつもの貴女らしくない。何かあったの?」
藍はその問いには答えず、と言うよりおそらく最初から聞こえていない彼女は、獣の如くルナサを怒鳴りつけた。
「ついに見つけたぞ……三味線屋。橙に対する暴虐三昧、その身を以って償ってもらおう!」
「三味線? 私はバイオリニストなんだけど……まあ、絃楽を奏する者の意味としてなら三味線屋の呼び名もあながち間違いじゃないかもしれないわね。
でも、それはいいとしても、その後が意味不明。説明して貰える?」
「昔の偉い人が言いました。猫と美人は何をしても許される。つまり猫を虐める下衆野郎はぶっ殺されてしまえという事だ!」
いや、訳分からんし。余りに飛躍しすぎた論理に眉をひそめる美人ルナサ・プリズムリバー。
「藍様違うの! 私は虐められてなんてないよ。ルナサさんにはお願いを聞いてもらっていただけ!」
「ああ! 可哀想な橙! 三味線屋の姦計に嵌ってしまったのか。
だが騙されてはいけない、其奴はお前を太らせて食べてしまおうという腹積もりなのだ!」
「藍様!? どうしちゃったの?」
橙の悲痛な叫びも今の藍には聞こえない。
その様子を見てルナサは悟る。もはや衝突は不可避であると。
腹を括ったルナサは、静かな闘志を胸に足を踏み出した。闘志を燃え上がらせる藍もルナサに呼応するよう歩を進める。
状況を理解できていない橙を尻目に、鋭い視線で結ばれた二人。じりじりと間合いを詰めるその表情は真剣そのもの。
ルナサの手に握られるは神弦と謳われし名器。ストラディヴァリウス。対峙する藍の手にはホームラン王のサインバット。
更に詰まる二人の距離。
そして、ついにルナサの頭がミートポイントに達し、藍はフルスイングを開始する。
しかし、その表情に少しの戸惑いが混じった。驚きがもたらした戸惑いである。
藍が驚いたその理由。それは、藍がバットを振るうよりも早くルナサがバイオリンを振るい始めたからであった。
ルナサに躊躇はない。
一挺で豪邸が建つと言われる名器を、何故彼女はここまで潔くスイングできるのか?
それは彼女の一見静かな瞳の奥で熱く燃え滾る炎が教えてくれた。
彼女はアバンギャルドを解するエンターティナー。観客を沸かす一瞬に人生を捧げる不退転の闘士。
一期一会のパフォーマンスに死力を尽くす事こそ彼女の矜持。
その哲学は徹底している。
ある時、彼女は妹たちと、とある新興金属楽団のライヴを見物した事があった。
技術的には拙いところが多々あるものの、若者しか持ち得ない彼らの熱意は、ルナサに好感を抱かせた。
しかし、彼女の菩薩のように穏やかな美貌はある時点を境に一転したのだ。
それはボーカル兼ギターの長髪の男が手に持つギターをアンプに叩き付けたその時である。
(ギターを破壊した……。ここまでは良い、これからがパフォーマーとしての腕の見せ所だ)
期待で満ちたルナサの目。しかし、彼は新たなギターを受け取ると、あろう事か何事も無かったように演奏を始めたのだ。
ルナサは激昂した。
「貴様らにはアバンギャル度が足りん! 恥と思え!」
ルナサは咆哮した。そして羅刹の如き形相で、どす黒い殺気を纏いながら、ずかずかとステージに上がる。
そもそもである。予備のギターを用意してあったと言う事は、あのギターブレイクは最初から織り込み済みだったという事である。
その小賢しさがルナサは気に入らない。あのようなプレイは行き当たりばったりでこそ輝くもの。そしてその後のアドリブに神を降ろすが一流なり!
「いやいやルナ姉、その理論はおかしい」
「そうよ姉さん。お客さんも何事かって思いっきりこっち見てるわ。さあ落ち着いて、そしてお家に帰りましょ」
ルナサはエンターティナーとして一流の境地に至ってない妹たちを口惜しく思いながら、両の手を以って彼女らの頭を掴む。
「痛いルナ姉。痛いって!」
「姉さん! 何をする気!」
無言でルナサは左右のアンプを見やる。
――そして。
ルナサは裂帛の気合と共に妹たちを両のアンプに叩き付けた。
ずっぽり首までアンプにめり込んだ妹たち。ぷすぷすと立ち上る黒煙が近代芸術の様な光景にシュールさを加えた。
美術館に展示されていても遜色なし! 傑作を完成させ、自信に満ちた顔つきのルナサは観客に向かい手を振る。
あくまで己はエンターティナー。語りたい事はパフォーマンスで語る。会場中の視線を力に変えたルナサ渾身のシスターブレイクであった。
そのパフォーマンスのアバンギャルドさに会場のボルテージが最高潮に達したのは言うまでもない。
意外性。重要なのはそれである。シンジラレナーイと誰もが口を揃える突飛な発想。
それこそ大衆が求める感動であり、エンターティナーの血と肉である。
故に、今ルナサが握るストラディバリウスの存在にも何ら不可解な点は無い。
アタッシュケース一杯の福沢諭吉翁ですら釣り合わぬバイオリンを鈍器として扱うなど誰が想像できようか。
ルナサには驚愕に身を震わせる観衆の姿が見えている。その中にちらほら見える知り合いの演奏家たちは、まるで気狂いでも見るかのような目で己を見ていた。
しかしルナサは動じない。彼らは所詮、伝統を墨守するしか能の無い化石よ。同じ楽を扱う者として嘆かわしい!
だが、まだ遅くは無い。前衛的とは何か。その双眸でしかと見届けよ! そして目覚めるがよい!
パイオニアとしての自負を胸に、ルナサは理想的なスイング軌道を藍の頭に向けて描き続ける。
ルナサにとって少し残念なのは、実際の観衆は猫と狐の二人しかいない事。だが、観衆の多寡でパフォーマンスのクオリティを落とすなど二流のすること。
むしろ少ない観衆であるからこそ、心に深く残るようなパフォーマンスをしなければならない、その責務がある!
芸術的な抛物線を経てストラディヴァリウスがついに藍の脳天を捉える。
粉々に砕ける神弦。しかしルナサは満足げであった。
そして遅れる事一瞬、藍のバットがルナサの頭に直撃する。鈍い衝突音。橙の目にはクロスカウンターの様にも見えた。
勝利したのは式を思う溺愛か、エンターティナーとしての誇りか。
……ぐらり。
膝を付いたのはルナサであった。一方の藍は頭に出血があるものの両の足でしっかり大地を踏みしめている。
先に一撃を決めたのはルナサの筈であった。その体勢は十分であり、体重の乗った素晴らしいレベルスイングであった。
しかし、では何が彼女を敗北せしめたと言うのだろうか?
それは偏に鈍器の性能差であった。
藍の持つホームランキングのバットはバットとしては最高位の格を持つが、それでもルナサの神弦の格には劣る。
しかし、鈍器としての性能で評価した場合、神弦には致命的な欠点があった。
すなわち、鈍器には不要な中空である。
中空が在る故にルナサの素晴らしきスイングも、その衝撃が満足に届く事は無かったのだ。
一方のバットは白球を打ち返す為に進化した道具であり、鈍器として非常に洗練されている。
たかが白球と侮る事なかれ。豪腕投手が放つ白球は、例えば運悪くそこに鳩が飛んで来たならそれを十分破壊せしめる威力を持つ。
その白球を強く遠く打ち返す為の鈍器なのだ。弱いはずが無い!
事実この対決では神弦の装飾美にバットの機能美が勝る事が実証されたのだ。
敗者となったルナサ、しかし、その表情は驚くほど穏やかで、まるで、この敗北が彼女の願ったものであったかのようである。
いや、それはきっと、その通りなのだろう。
そう、彼女はアバンギャルドを解するエンターティナー。滑稽な道化こそ求める姿の究極。
観客には最大限のサプライズを、しかし、独りよがりになってはいけない。
何といっても観衆あってのエンターティナー、必要なら自ら舞台より転げ落ちるのも覚悟の上。たとえそれで嘲笑されようとも。
「……私はこの地球上で一番の幸せ者です。
あなたが思いっきり振りぬいてくれたから、最高のパフォーマンスにできた。感謝するわ」
訥々と語るルナサ。最後で普段の彼女が絶対見せないような眩しい笑顔を藍に送り。そして静かに意識を手放した。
「……三味線屋」
藍は悟る。彼女は完全なる悪そのものであったが、その悪の哲学にも矜持があり、彼女はそれを最後まで潔く貫いたのだと。
「貴様が敵でなければ……三味線屋などでなければ……」
沈痛な面持ちの藍は、倒れるルナサの胸の上にバイオリンの破片をそっと置いてやる。そして、その小さな手をぎゅっと握った。
「三味線屋、貴様の犠牲は決して無駄にしない。私は必ず正義を達成する。
草葉の陰から見守っていてくれ。……そして、来世では友として会おう!」
固く誓う藍。それを見つめる橙は何が何だか分っていない。
「あの? 藍様?」
「橙……止めるな。女にはやらねばならぬ時がある。そして今がその時だ。
必ず帰る。だから……待っていてくれ」
きらりと涙を一雫残して藍は飛び去る。残された橙はやはり何が何だか分っていない顔だった。当然である。
幕を閉じた三味線屋との激闘。藍はまた一つ心に悲しみを負ったが、しかしそれは彼女を支える強さとなるだろう。
状況は暫定的ではあるが、愛しき式の安全が確保された。
しかし、根本的な解決にはまだ至っていない。根源を誅して初めて解決は成るのだ。
故に次に滅すべき“盲人”を探して藍は大空を飛ぶ。尊敬すべき宿敵との誓いを胸にして。
森の上をまで飛んでいた藍は、地上に何か不思議な物を見つけた。
それは黒くて大きい球で、単純に興味引かれた藍はそれの近くに降り立つ。そして、果たして何であろうかと黒球に近寄った。
「わはー。あなたは食べてもいい人間?」
「まさか、私を食べるなんてとんでもない。幻想郷の損失だぞ。
何と言っても私は、立てば芍薬,座れば牡丹な超絶美人。
もしくは立てばアルバート・アインシュタイン。座ればスティーブン・ホーキングなエクセレント頭脳。
或いは立てばピート・ローズ。座ればジョニー・ベンチな最強マルチ弾幕妖狐八雲藍だからな」
おお、喋った。一瞬心の中で藍はそう驚いたが、そういえば、こんな妖怪もいたなと記憶の引き出しを開ける。
確かルーミアとかいう名前の弱小妖怪だ。特に珍しい物でもなくて、ちょっぴりがっかりした藍である。
なので、ルーミアの問いには適当に答えておいた。戦闘に移行しそうな雰囲気だったので、すでに左手にはバットが握られている。
「ヤクモラン? 聞いたことあるような気がするけどどうでもいいか。
それより、今時ビッグレッドマシンって、あなたは懐古主義者なのかー? ならやっぱり食べていい人類なのだー」
ビッグレッドマシンとは70年代最強球団シンシナティ・レッズの事である。何のこっちゃという人は“昔は良かった”の典型的パターンだと考えてくれて差し支えない。
ルーミアが纏う闇がやおら質量を増したかと思うと、その黒い球は藍目掛けて勢い良く突っ込んで来た。
しかし、藍は冷静にバットのグリップを握りなおす。
「レッズの輝かしい過去の栄光を侮辱した貴様をケン・グリフィー親子に成り代わり制裁する! 大空の彼方まで飛んでいくがいい!」
藍のホームラン宣言。その言葉の端から感じる棘は、やっぱり彼女もかの球団を蔑ろにしているらしい事が感じられたが、果たして本人は気付いているのか。
ともかく死球の軌道で藍に向かうルーミアの黒球と、それを打ち返そうとする藍のバットという構図が成立した。
スイングのタイミングを計る藍。
しかしルーミアの黒球はその藍の予想と大きく異なる変化を見せた。
ストライクゾーン左側にたっぷり3mは外れたスライダー変化を以って、丁度そこに生えていた大樹に激突したのだ。
はらりはらりと舞い落ちる葉っぱ達が衝撃の大きさを物語る。
「うぐ……痛いよう……」
どうやら顔面を強打したらしいルーミアはめそめそと泣き出してしまった。
「もしかしてお前、周りが見えていないのか?」
そういえば、新聞でそんな記事を読んだ覚えがある。すっかり毒気を抜かれてしまった藍はやれやれとバットを下ろした。
図らずも“盲人”を発見だが、弱々しく涙を流している少女をバットで吹き飛ばすのは流石に憚られる。
それに、何よりこの光景は宜しくない。
何も知らぬ人が見れば、藍は年端も行かない少女をバットで虐めて悦に入る危ない女だ。ルーミアの姿は闇で見えないが、それでも分かる奴は分かる。天狗とか。
幻想郷一のクールビューティーを自負する藍としては、そんな不名誉な三面記事を認める訳にはいかない。可及的速やかな挽回が求められた。
まあ、しかし子供の扱いには慣れた藍である。
「よしよしよしよし。いい物をあげるから、泣いちゃだめだぞ」
子供の心を捉えるのは甘言と飴だという事くらい心得ている。今の猫撫で声の藍なら、赤靴の幼女を異人さんより早くかどわかすのも易いだろう。
「……うん? ……いいもの?」
「そうだ、いい物だ。今用意するから少し待ってくれな」
そう言って、道士服の裾を振る藍。
そこよりまろび出たのは数多くの道具。指先程度の大きさの宝石貴金属や、藍の背丈ほどもある大きい家具類まで大小様々である。
実は先程香霖堂を訪れた際に目ぼしい物を見繕い、こっそり拝借してきたのだ。
「……あんな物で幸せが訪れるなら、私は今頃こんなに苦労していない。……これくらいの役得認めてくれてもいいだろ?」
マヨヒガの物を持っていくと幸せになれるなどという噂は、果たして誰が流したのか。
ともかく、お陰で最近は勝手に物を持っていく輩が多くて困る。だから今のマヨヒガの閑散振りは酷いのだ。
忽然と姿を消した炬燵に泣きそうに、でも気丈に振舞おうとする愛しい式の姿。藍は泣いた。
だから、これは窃盗などでは断じて無い。正義の発露なのだ。魔理沙と一緒にするな、奴の万引きテクには愛が無い。
そう愛だ。全ては愛が為。愛しき橙よ。今年の冬はもう寒い思いはさせない、一緒に炬燵で丸くなろうな。
その笑顔の為なら私は修羅にだって羅刹にだってなれると、藍は空を仰ぎ決意を固める。
ブンブンと振った袖からずどんと音を立て最後に出現したのは漆塗りの見るからに上等そうな炬燵。
あまりに大きな音が鳴ったものだから、ルーミアは驚いて腰を抜かした。
ペチペチと高級感溢れる炬燵の表面を軽く叩きながら、そりゃ、貰うなら高い物から貰うだろと全く悪びれない藍。
ああ、何たる事。荒んだ生活は彼女から慎ましさという美徳を奪った。盗ったと言わず貰ったである。これでは死ぬまで借りるぜのアイツとどっこいどっこいではないか。
でも藍が賢いのは誰にも見つからないように掠め取ったところ。現行犯で捕まらなかったなら、後はしらばっくれていればいい。
『ほら、ウチの自慢の炬燵なんですよ。漆の艶めき具合がいい感じでしょう?
え? お宅のおこたが盗まれて、しかもこれと同じデザインだった?
はあ、それはご愁傷様です。え? 盗まれた炬燵とこの炬燵の傷の位置が同じ? 偶然ってあるんですねぇ。おほほほほ。
え? 実は炬燵の足に名前が? おほほほほ……。
偶然って言ってんだろうが!
あんまりしつこいならブディストでがりがり髪の毛削った上、貴様の店に狐狗狸さんを召喚するぞ。このセクハラ眼鏡!』
完璧な計画だと藍は自画自賛する。
一日三回の育毛剤と風呂場でのマッサージで必死に保とうとしている頭頂部の平穏を質に取ったのだ。
毛根の太さも、毎晩ケタケタ笑い声を上げるポルターガイストとお友達になれる腹の太さも不足している彼は、きっと引き攣った笑顔で誤解だったと謝罪してくれるだろう。
それなら、こっちも鬼ではない。菓子折りの一つで勘弁してやろうではないか。
己の聖女の如き慈悲深さにすっかり気分を良くした藍は、今日の戦利品を見遣った。
それにしても、凄い量だ。これが全て袖の中に収まっていたと言っても誰も信じないだろう。
流石は狐。どこぞの時止めメイド程では無いにしても、奇術は得意なのだ。スペルカードでイリュージョンするだけの事はある。
物理的容量的におかしいとか言う指摘も何のその。この袖の下は色々特別なのだ。
天敵を退治する為に、爆弾で地球をリセットしようとした前科持ち欠陥構造青狸の腹ポケットも斯くやといった具合である。
「あれが猫だと? 巫山戯るな」
ノイズに律儀に反応する藍。ドスの利いた低音にルーミアはビビッている。
猫マエストロ藍の審査は厳しいのだ。一に愛らしさ、二に愛らしさ、三四が愛らしさで、五が愛らしさ。
その点ウチの橙は完璧ではないか。大きく頷いた藍は、そこでようやくルーミアの存在を思い出した。
「……どれどれ」
いかんいかんと、山積みの道具を掻き分け、藍が拾い上げた物。
それはサンバイザーと双眼鏡を組み合わせた様な形状の黒い金属塊で、奇抜な眼鏡と呼んで良さそうだった。
藍の知識によると、星の力を借りて闇を見通す程度の能力を持ち。弱点はカメラのフラッシュ。
名称は暗視ゴーグルというらしい。
藍は再び己の慈悲深さに感じ入った。これを香霖堂から持ち出したのはどう考えても善意ではないか。
店主がこれを興味本位で扱ったりしたなら、魔理沙の無駄に眩しい弾幕を見て彼の脆弱な網膜が焼き切れる未来は火を見るより明らかである。
そんな危機から救ってやっただけでなく、不要になった道具をリユースして哀れな少女に笑顔を取り戻そうというのだ。
藍は今年度のロベルト・クレメンテ賞受賞を確信して、会場に着て行くスーツの組み合わせをあれこれ想像する。
しかし、聡明な藍である。妄想で本来の目的を一瞬忘れたさっきの轍は踏まない。
見た目は惚れ惚れする程の笑顔を装い、ルーミアの頭に手探りでゴーグルを被せた。
「うわ? 何をするのかー?」
びっくりの声を上げるルーミア。突然頭に変なものがくっ付いたのだから、当然の反応である。
「安心しろ。空前絶後のサプライズをお前に届けよう」
藍はパチンとゴーグルのスイッチを倒した。ぶいーんと蚊の羽音のような駆動音。
「ふえ?」
ルーミアの視界。そこで起こった信じられない変化。僅かずつ鮮明になる白黒の輪郭。
それは微風に葉を揺らす木々であり、悠然と佇む巨岩の影であり、狐目の美人であった。
「見える……見えるよ!」
ルーミアには夜しか無かった。纏う真っ黒闇のせいである。
しかし、彼女の目に広がるこの光景。それは二つしか色が無かったが間違いなく日光降り注ぐ昼色であったのだ。
「凄い! 見える、でも眩しくない!」
喜びを爆発させるルーミア。誰にも言わなかったし、自分でもそうだとは思っていなかったが、やはり心のどこかで太陽への憧憬があった。
そして、それが満たされて初めて知った新世界は、想像以上に美しかった。
「ありがとう。ありがとう! あなたは実はいい人なのだ。食べるなんて言ってごめんね」
ルーミアは藍の手を握りブンブンと上下に振っている。喜びを爆発させているのだ。
「なあに、構わないさ。その笑顔を大切にするんだぞ」
「うん! これ、大事にするのだ」
笑顔で別れを告げたルーミアはふよふよと森の奥へ消えていった。今度は木にぶつかる事もなく。
それを見送った藍は満足そうであった。武力で制圧するのみが正義にあらず。時には慈悲の心が最も有用である事もあるのだ。
事実、“盲人”の少女は笑って盲目を捨てたではないか。
藍は少しばかり気障に微笑み、地面に転がる大量の道具類を再び袖に納めると、大地を蹴り上げた。
次の標的は“砂埃”。王手まで後一歩という重要なプロセスである。
――さて、砂埃であるが、これが中々に難しい。
砂地が露出している土地なら確かにどこでも砂埃は立つのだが、藍が探すのはそういうものでは無い。
もっと能動的に砂埃を立てている場所であったり人物であったり。ともかく藍が干渉して無かった事にできるような砂埃である。
果たしてその様なものはあっただろうかと思案する藍。しかしふらふらと妖怪の山あたりまで飛んできた辺りで藍はついにそれを見つける。
緑色と土色のフィールドを。砂埃舞うダイヤモンドを。
ズザァー!
その様な音が立ち、朦朦と砂埃が舞っていた。交錯したのは鋭いスライディングと白球。
「アウト!」
一塁塁審の宣言が高らかに響き渡る。
安心したように額の汗を拭う秋静葉。
打者を内野ゴロで討ち取り本日二十六個目のアウトを計上した彼女は、草野球チーム『オータムス』のエースである。
そう、ここは野球場で、彼女達がプレイしているのは見ての通り野球である。
妖怪の山の岸壁をごっそり削り取って作られた豪快な球場は、山の暇な妖怪や神様の娯楽施設であり、その歴史は幻想郷の球場で最も古い。
年に一度開催される草野球大会はトトカルチョ的な意味で大変な盛り上がりを見せる。
さて、場面は九回裏二死走者二塁でオータムスの一点リード。
一発が出ればサヨナラの最高に盛り上がるシーンである。
しかし、それにも関わらず、球審の鍵山雛の表情は冴えない。
(ジーザス! 安定性0の静葉が何で今日に限って絶好調なのよ! このままじゃ今月の食卓は白飯をおかずに白飯を食べる破目になってしまうわ。)
マスク越しの静葉に厄を飛ばす雛。オータムスの負けに今月の食費の殆どをつぎ込んでいるのだ。なんとしても負けて貰わないと困る。
この場面で左バッターボックスに入ったのは『キューカンバーズ』八番遊撃の河城にとりである。
(チッ!)
露骨に舌打ちをする雛。
通算打率が二割以下、得点圏ともなれば一割を切る守備の人に起死回生のタイムリーを期待するのは酷な話であった。
(大体あんた達が不甲斐無さ過ぎなのよ。何よノーヒットって?
厄をばら撒いて守備のエラーを誘ってやったり、コースぎりぎりのストライクをボールに判定してやったりしてるのに、どうして打てないかな!)
審判として色々アウトである。そもそも主審自ら賭けに参加している時点でモラルもへったくれも無い。
しかし、妖怪の山きっての猫かぶりとして有名な雛が、ここまで顔を歪ませる程に今日の静葉は冴え渡っていた。
四球と野手の失策で出塁こそ許したものの、スコアのRもHも0のまま。
つまり、あとアウト一つでノーヒットノーラン達成である。そして、それは恐らく確実な事に思えた。
打席に立つにとりは重圧のせいでガタガタと目で見て分かる程に震えているのだから。
精神を集中させる様に静葉は帽子を被り直した。キッと目に力が入る。その視線に射抜かれてにとりはぶるりと震えた。
静葉は第一球を投げる。内角を抉るストレートが音を立ててバッテリーを組む秋穣子のミットに突き刺さった。
「ストライク!(シット! さっきのは打てるでしょ! このヘタレ河童が!)」
反応すら出来なかったにとりは今にも泣き出しそうである。いや既に薄っすらと涙が浮かんでいる。
(無理だよぅ。こんな大事で場面で打つなんて私には出来ないよぅ……)
にとりの体はガチガチに固まってまともにバットを振れるのかすら疑わしい。自慢の光学迷彩で姿を消して逃げ出してしまいたい気分だった。
しかし、それは出来ない。チームメイトの河童達は期待に満ちた瞳でこちらを見ているのだから。
(目を瞑って思いっきり振ろう。きっと当たらないけど、でも見逃しよりはいいよね。そしたら皆、仕方ないって言ってくれるよね?)
にとりの決意。勝ち目の無い戦いに、それを分かって赴く一兵卒の悲壮な覚悟であった。
――しかし
「にとり、代打だ。お疲れ様」
少女を戦場より救い出す天の声。
君の手は銃を握るためにあるんじゃない、皆を喜ばせる発明品を作る為にあるんだ。
そう言わんとする様な眩しい笑顔。
始めて見る顔だった。しかしにとりは、この人なら自分に出来ない事をきっとやってくれる。そう思った。
「後は任せろ」
その金髪の美しい女性は本塁打王のサインバットを左手に持ち、右バッターボックスに入った。
「主審。バッター河城にとりに代わり八雲藍だ。問題無いな?」
「ちょっと! あんた誰よ? ってか登録メンバーじゃないじゃん。駄目だってこんなの!」
「五月蝿い稔子。スポーツに国境は無いって格言も知らないの? 藍さんでしたっけ、勿論問題なしですわ」
抗議の声を上げる穣子を軽くあしらい、大歓迎といった声で藍の代打を認めた雛。
「おかしいってそれ! てかあんた稔子で発音しただろ! 謝れこのやろう!」
穣子がぎゃあぎゃあ騒ぐが、雛は完全に無視して高らかに告げた。
「プレイボール!」
静葉の目に映るは長身の狐のスラッガー。
――面白い。
そう静葉は思った。ノーヒッターまであと一人、ここに至って最後の障壁との対戦である。
只者ではない、それは構えを見れば分かる。
しかし、己も今日は絶好調。負ける気はしない。ゆっくり腕を振り上げ、必殺の球を投げ込むのだ。
「……魔球『狂いの落葉』」
スリークウォーターから放たれたボールの速度は100km/hに満たない。
観客席から見ればそれは唯のスローボールに思えるだろう。
しかし藍の驚異的な動体視力はその正体を看破した。
(拳球!?)
ナックルボール。河童達が二十六のアウトを費やしてなお攻略できなかった究極の魔球である。
それは無回転がもたらす奇跡。
投げた本人にさえ制御できない無軌道無秩序な変化は、正に微風に舞う落ち葉の如し。
揺れるとも消えるとも表現される変化球の中の変化球に立ち向かう手段を、果たして藍は持ちえるのか?
いや、幻想郷最高級の数学脳を持つ彼女である。既に策は組み上がったのだろう。その表情からは余裕すら伺える。
藍は笑顔のまま右足を大きく上げる。観衆のどよめき。
一本足打法。
軸足に乗った体重と反動の衝撃が恐るべき長打力を生む剛の打法である。
しかし、その打法は細身のスピードスターが四十の本塁打を放つ為の諸刃ではなかったか。
二塁に走者がいる現状と、対するが初見の魔球である事を鑑みれば、アベレージヒッティングに徹する事こそ最上ではなかったのか。
だが、藍の表情には一点の曇りも無い。藍は自信を持ってこの手法を選択したのだ。
それは何故か?
簡単な事であった。観客席を埋め尽くす彼らは何故ここにいる? 藍に何を期待する?
ホームランを! 劇的な代打逆転サヨナラ本塁打を求めているのだ!
奇跡を信じて疑わない名も知らぬ野球少年の笑顔。それに応えてこそ真のスーパースターと言えるのだ!
大地を踏み下ろす右足。
藍は渾身の力を以ってバットを振った。それこそ空気との摩擦で発火するのではと思わせる程の素晴らしいスピードで。
しかし、流石は魔球ナックル。
その常識外れの落差により、藍のバットは白球の10cm上を通過する。
――空振り。
しかし、藍の目はまだ死んでいない。これからが本当の勝負だと物語っている。
そう、何と彼女はほぼ確実なツーストライクをここから挽回すると言うのだ。
さあ球場よ、震撼せよ!
「うわぁー。手がすべったぁー」
快いまでの棒読みであった。潔く真正面に伸ばされた藍のフォロースルー。
持ち主の手を離れたバットは静葉の額目掛けて勢い良く空を切る。その様、敵艦船の土手っ腹を突き破らんとする艦対艦ミサイルの如し。
グォオォン!
激突音と脳が揺れる感覚。
静葉は己の視界が黒く染まるのを見た。そして、それが最後の映像だった。
泡を吹いて倒れこむ静葉の後頭部に、衝突後ゆらゆら宙を舞っていたバットが重力に従い駄目押しの一撃を加える。
その惨状を見る野球少年の唖然とした表情。
ズボンの上に落としたコカコーラが、主にジッパー周辺でのっぴきならない事態になっている事にすら彼は気付けない。
その少年に藍は笑顔で手を振る。喰うか喰われるか、隙を見せれば喉を食い破られる大人の勝負の厳しさをきっと少年は学んだだろう。
そう、ベースボールとは夢だけでやっていける程易い世界では無いのだ。
「ストライク!
なお、オータムスの投手が“不幸な事故”により再起不能となり、リリーフの投手もいないので、大会規約に則って没収試合を宣言します。
つまり、キューカンバーズの勝利です!」
朗々と宣言する雛。その言葉の端からは喜悦が隠し様の無いまでに滲み出している。
歓声を上げてベンチから飛び出し、喜びを爆発させるのはキューカンバーズのメンバー。にとりなど感極まってぼろぼろと涙を零している。
それを見て穏やかに微笑む藍。
野球とは九回二十七個のアウトで構成され、一つのアウトにはストライク三つの価値がある。
すなわちそれが意味するは、ワンストライクからなら幾ら大振りしてもバッターの敗北にならないのだ。
そのルールの隙を突く事こそ藍が選んだ戦略である。
「ちょっと! ちょっと! “不幸な事故”って思いっきり投げつけてたじゃない! あんなの反則よ!」
「そうっすよ。反則っすよ。あんたは反則行為でキューカンバーズの負けを宣言するべきっす」
雛に猛抗議するのは穣子と、先ほどまで観客席で試合を観戦していた犬走椛である。
椛は下された不可解な判定に義憤を燃やして観客席から飛び降りてきたのだ。真偽はともかく椛はそう言っている。
「はあ? 主審の判断に文句言うつもり?」
対する雛はまったく悪びれる様を見せない。
「この! 私は知っているんすよ。あんたがキューカンバーズに結構な掛け金をつぎ込んでいる事を。試合中もキューカンバーズに有利な判定ばっかりしてた事も」
「何ですって! 雛、あんたが駄目な神様だって事は前から知ってたけど、まさかそこまで腐ってるなんて。大会運営委員会に告発してやる!」
「告発ぅ? 勝手にやればぁ。大体私が偏った判定ばっかりしてた証拠とかないし。賭けの事も名義は別人になってるから大会規約には何ら抵触しないのよ」
「あんたは最低っす!」
怒れる椛の手は背の大刀に伸びかかっている。しかし雛は人を食った態度を改めることは無い。
いよいよ堪忍袋がはち切れるに至った椛は、ついに自慢の大刀を抜き放った。
「もういい。力ずくであんたが悪いってこと分からせてやるっす!」
「審判に手を上げる気? 白狼天狗って分別もままならない種族なのかしら。まあ見た目がシベリアンハスキーっぽいし頭は悪そうね」
火に油を注ぐ様に椛を侮辱した雛はマスクを取り去った。顔つきこそ微笑であるが、傍目にも分かる程に不機嫌が滲み出し、纏う厄はいつでも椛を攻撃できる状態にある。
「え? ちょっと暴力はだめだって」
乱闘沙汰になりそうな雰囲気に、穣子は焦って二人を制止しようとする。雛へ敵視を向けている場合ではないと穣子は空気を読んだ。
しかし、睨み合う二人は穣子をまるで空気の様に扱い、ますます雰囲気は剣呑になっていく。
完全に無視された穣子が己の無力さに本気で泣き出しそうになった頃、この状況を収拾せんと、第四者の玉を転がすような声が発せられた。
「あやややや。球場で刃傷沙汰とは感心しませんねぇ。そう思いません? 椛さん」
椛は急に体が冷えたのが分かった。冷静な感情を無理やり呼び起こされたのだ。冷や汗が体を伝う。
「賭けは私の勝ちに終わったのだから、潔く食事を奢ってもらえると思っていたのに、お姉さんがっかりです」
心底残念そうな彼女の手には八手の団扇が握られている。
それを見て椛は己の未熟さを悔いる。そう椛は声の主である先輩天狗――射命丸文と試合を観戦していたのだ。
そこで賭けたのは一週間の食事。
野球賭博の敗北が宣言されたとき、ぶっちゃけ義憤とかはどうでも良かった。これから一週間の己の悲惨な食事事情を憂い、思わず飛び出してしまったのだ。
しかし、審判に抗議して試合結果を覆そうなど、そんな身勝手を射命丸文という天狗は赦すはずが無いのだ。
椛は文ほど性質の悪い人妖を他に知らない。
天狗社会の幹部になるべき実力を持ちながら、煩わしい事を嫌うため要領よく平天狗の地位を保ちつつ、ちゃっかりそれなりの権力は確保している魔性の女である。
その柔和な笑顔の奥に潜む残虐性を椛はよく心得ていた。
「あ……文さん。ご……ごめんなさい。賭けは勿論文さんの勝ちです。も……もう文句言ったりしません、だから痛いのはやめて――」
椛が言い終わるのを待たず、文は椛の謝罪に興味など無いかの様に団扇を振るった。
思わず椛は目を瞑り、来るべき激痛に身構える。
しかし、文が起こした風は椛の銀髪を数本はらりと切り落としたに留まった。
「だったら最初からこんな事しない。後先考えないのはあなたの悪い癖よ。食事二週間で勘弁してあげるから、次から気をつけなさい」
「文さん?」
一瞬、何を言われたのか理解できず、きょとんとしていた椛であったが、己が赦されたのだと知ると涙を流し文に抱きついた。
「文さん。ごめんなさい、ごめんなさい。私、駄目な子っすから。でも文さんは赦してくれて。うれしいっす。ずっと付いていくっす!」
「こらこら泣かない。もう子供じゃないんだから」
そう言いながらも文は椛をぎゅっと抱きしめる。二人の間には強い絆が見えた。それを穏やかに眺める一柱の神様。鍵山雛である。
「美しいわね……まるで本当の姉妹の様じゃない」
雛からすれば自ら手を下す事無く厄介ごとが解決した上、正直自分でも強引かなぁと思っていた判定が、成り行きで肯定されたので万々歳であった。
一方、本当の姉妹は、一柱は未だピッチャーマウンドで白目を剥き、もう一柱は完全に空気になっていた。
目を背けたくなる不憫さであった。だから誰も彼女たちを見ていない。その現状に穣子は涙を流す。しかし空気だから見えなかった。不憫である。
「さて、じゃあヒーローインタビューと参りますか」
「今日は朝に散々な目に遭ったから、新聞記者はお休みじゃなかったんすか?」
「こんなおいしいネタを逃す道理は無いわよ。政治経済が理解できないお子様もスポーツ欄とテレビ欄だけは見るわ、そうでしょ椛」
「文さん、それは私を馬鹿にしすぎっすよ。詰め将棋のコーナーも見てるっす」
「その発言は、寧ろ私は阿呆ですって宣言してるわね」
雨降って地固まる。和解し絆をより深い物にした天狗娘二人は本日のMVPの姿を探していた。
八雲藍。常識外れのバッティングによりチームに勝利をもたらした、キューカンバーズのヒーローである。
見晴らしのよい球場内、目当ての人影は簡単に見つかった。
彼女は今キューカンバーズのメンバーに囲まれサインをねだられているらしい。
いやな顔一つせず、丁寧にサインを書いていくその姿は、プロのあるべき姿を映しているようであった。
丁度今キャップにサインを書いてもらっている河城にとりは、何故かほっぺを紅く染め、惚けた様に藍の顔を見ている。
「うわぁ……あの子そっちの気があるのかしら。椛も気を付けなさいよ」
「そう言えば、この前、任務中に雨でびちょぬれになった事があったんですけど、その時の詰め所に帰った私を見る目がやらしかった気がするっす。
しつこく着替えろって言い寄ってきて。ちょっと付き合い考えた方がいいかも知れないっすね」
にとりには可哀想だがセクハラとは言った者勝ちの因果な呪文である。そこに当事者の善意は考慮されない。
ネタに困った先輩天狗の手によって、適当な推論が文々。新聞の三面を飾らない事を願おう。モラルに疎い彼女の新聞ではあまり期待できないかもしれないが。
「あっ! 空いたみたいっすよ」
「ええ、この隙を逃がさないわよ」
一瞬途切れた人の波を天狗の目は逃さない。その間隙目掛けて疾走優美、高下駄滑らせ幻想郷最速のスライディング。
「藍さん、この度の劇的な決勝打おめでとうございます。何か一言お願いします」
停止はクールに、ばしっと突きつけた万年筆はマイクの代わり。
「おやおやこれは風……いや文々。新聞の。
……そうだな。彼女がナックルを投げたあの時既に勝負は決まっていた。私は一刻も早く試合を終息させようとしていたのだから。
ナックルは絶対的な決め球だが、やはりその持ち味を最大限生かすには、直球に加えカーブ、スライダーでもストライクをとれる技術が必要ではないだろうか」
「ふむふむ」
文は文花帖にメモを取りつつ、これをどう飾ってお涙頂戴の美談に仕立て上げるか考えている。面白くないと誰も新聞なんか読んでくれない。
そんな事は露知らず、バットを弄りながら藍は丁寧に質問に答えている。少なくともそう見えた。
「――どうもありがとう御座いました。お陰でいい記事が書けそうです」
「それは良かった、新聞が完成したなら是非見せてくれ。完成できたならな……」
最後まで紳士的な態度を崩さずにインタビューを終えた藍。別れの握手もした。
穏やかに文を見つめる藍の瞳。しかし、なんだろう? 文は何とも言えない悪寒をこの瞬間感じた。
藍の知的な瞳。美しく澄んだ迷い無き瞳。しかし文はその深淵に確かに狂気を見た。
野球の試合中、野球場でバットを持つのは野球選手である。では野球の試合以外でバットを持つのは?
……そう、人はそれを暴徒と呼ぶのだ。
何の脈絡も無く放たれたフルスイングを文が躱せたのは天性の反射神経のお陰であり、僥倖であった。
「ちょっと!? 何のつもり? 喧嘩売ってるの?」
新聞記者としての丁寧な物腰から、天狗の射命丸に戻った文は藍に怒りの声を向ける。
「黙れ“風”! 貴様を誅す為私はここまで来た! あらゆる艱難辛苦を乗り越えて!
諸悪の根源である貴様を滅し、初めて忌まわしき不幸の連鎖は断たれるのだ! 神妙に罰を受けよ!」
文の声など気にも留めず、怒髪天を衝く勢いの藍はブンブンとバットを振り回す。
確かに己に向けられた強い憎しみ。まったく覚えが無い文であるが、尋常ならざる事態であることは理解できた。
「文さん!」
「椛、刀を納めなさい、あなたの敵う相手じゃないわ。それに彼女の目的はどうやら私。……逃げるから、付いてきちゃ駄目よ!」
大刀を振りかざして割って入ろうとする椛を制し、藍と距離を取る文。
とりあえず、観衆一杯のボールパークで騒ぎの当事者になるのは避けたかったので、文はそのまま地面を蹴り空へ飛び立った。
残るは衝撃波のみ、既に米粒大まで小さくなった文を椛はただ眺める事しか出来ない。付いて行くも何も、椛の速度では文の後を追うことすら出来ないのだ。
「敵前逃亡だと! 卑怯者め、士道不覚悟は切腹しろ!」
しかし、藍もまた化け物であった、文のそれに匹敵するとまではいかないが、椛が一瞬所在を見失う程の途轍もない速力で彼女も飛び立ち、文を追いかけ始めたのだ。
数瞬の後には既に視界から消えてしまった二人の姿に、椛はとんでもない事が起こる予感を漠然と感じていた。
今までのらりくらりと生きてきた文である。
スキマ妖怪の反則的な能力も持たず、フラワーマスターの圧倒的な妖力も、鬼の理不尽な豪腕も持っていない文は、強者であっても最強では無いことを自覚していた。
それ故、同等以上の相手と本気で殴り合う様な事態は、口先を以って出来うる限り回避するのが彼女の主義。
もし、それが不可避と分かったなら自慢の足の出番である。最速の退き口。華麗なる撤退戦に訴えるのだ。
卑怯と罵られようが相手の手の届かない所まで逃げてしまえばこちらの物。白星も付かないが敗北を喫する事も無い。
実際、そうやって千年もの時を飄々と過ごしてきたのだ。
それ故に文は困惑している。
己を追う妖狐の実力を値踏みした文は、おおよそ同等の戦力を持つと評価した。
そして紳士的な弾幕戦が望めない現状を鑑みれば逃げの一手を打つのが平素の文である。本気の足を以ってすれば地平の彼方に置き去りにするのも容易い。
しかし、文はそれをすることが出来なかった。
「……まったく、冗談じゃないわよ」
苛立った様に髪を掻き揚げ、そう吐き捨てた文の視線の先は妖狐。
その金色の瞳にはぞっとする様な怨恨。形相は鬼気迫る。
視線を正面に戻した文は思う。たとえ、この場を逃げ切っても、藍は諦めず追って来るのではないかと。それこそ何時間でも何日でも、文を殴り倒すまで。
心安らぐ場所であるはずのマイホームに昼夜問わず訪れる九尾の闖入者。そしてその度繰り返されるバイオレンス鬼ごっこ。
睡眠不足と心労ですっかり憔悴してしまった己の顔を想像して、文は頭を振った。
「実際に付き纏われるのって、こんなに気分が悪いのね。初めて知ったわ」
次の新聞ではストーカー撲滅キャンペーンを張ろうと、いつに無く社会派な決意をした文は、執筆の平穏を取り戻す為この状況を打開する策を模索するのであった。
「……大体、この状況は面白くないわね」
追いかけられているのが己で無ければと文は思う。
知的で知られる八雲の式突然の乱心である。間違いなく面白いではないか。だからこそ残念なのだ。
折角のスクープなのに己が当事者では意味が無い。文責記者自ら一面を飾るなど文のジャーナリズム精神に反する。
どうすれば一番美味しい結果に持ち込めるか文の脳内では数々の想定に則ったシミュレーションが行われている。
そして、その結果――
「二番煎じになるけど、これが鉄板でしょうね」
結論を下した文は針路を上方に取った。目指すは山の神社である。
守矢神社。
文はかつて博麗霊夢に対して成功させた作戦。すなわちトラブルは他人に押し付けるに限るという傍迷惑な計略を実行する為この地に降り立った。
これは、暴力の矛先を別の場所に向かわせるだけでなく、後でそのトラブルを取材すれば一本記事が書けてしまう一石二鳥の策である。
神社の石畳には緑なす黒髪が美しい少女の姿。訪問者に気付いた彼女は掃除を中断し、文の方に歩み寄った。
「何か御用ですか? しかし生憎、八坂様も洩矢様もお留守です」
厄介事が来た。彼女――東風谷早苗の目ははっきりそう物語っている。突撃パパラッチ射命丸文の評判はここでもあまり芳しくない。
「構いませんよ。今日は貴女に用があって来たのです」
しかし、流石は強心臓で知られる文である。北極点で吹くブリザードの様に冷ややかな視線を浴びても涼しい顔であった。
「早苗さん。お願いがあります!」
「お願い?……ですか?」
ばっと勢い良く頭を垂れる文。天狗が他人に頭を下げる珍しい光景に早苗は不思議そうな顔をする。
「あなたが頭を下げるなんて、よっぽどの事なんでしょう、話くらいは聞きましょうか」
「ありがとうございます!」
ぱぁっと顔を輝かせ文は用件を述べた。
「実は、理由は分からないのですが、今、私はバットを持った暴徒に追われているのです。助けてください」
同情を誘うような声色の後、文は皓歯を覗かせキラキラという擬音が似合いそうな笑顔を駄目押しとばかりに早苗へ向けた。
ブン屋必殺の0円スマイル。
その意味深長な笑顔は、心に少し疚しいところがあるおじ様方を何人もイチコロにしてきた必殺技である。
射命丸文がこの戦法を取り入れて以来、洗剤や野球券の大幅な削減に成功した事実がこの技の破壊力を物語っている。全ての新聞勧誘員垂涎の勧誘テクなのだ。
「嫌です。ご自分で蒔かれた種なら、自分でどうにかしてください。あと喧嘩なら他所でしてくださいね」
きっと適当な捏造記事が暴徒とやらの逆鱗に触れたのだろうというのが早苗の予想である。にべも無く断られた。
どうやら、必殺の0円スマイルは倦怠な夜に飽きた殿方にこそ効果抜群だが、同性に対してはさほど成果を期待できないらしい。
改善の要あり。文は相手が女性でも思わず契約書に判子を押してしまう方策を左脳で考える。
一方、右脳では追われる理由は分からないと言っているのに、自業自得扱いした早苗に対してかなりむっとしていた。
(私、そんなに信用ないのかな)
今まで自覚は無かったが、どうやらそうらしいと気付いた文である。握る団扇に力が入り、心が黒い物で染まっていく。
目の前の人間。その綺麗な顔面を、例えば天狗の力で思いっきり蹴り抜いたならどうなるだろうか。そんな考えすら過ぎった。
ふるふると文は頭を振り脳内の不穏な考えを霧散させる。ここで逆上しては全てが台無しだと理解できる程度に彼女は賢い。
そもそも文の側にも非はある。
取引とは互いの提示する条件が等価以上で初めて成立する経済学。トラブルの解決と只のスマイルでは釣り合いが取れないのは明白であった。
理解した文はカードを切る。交渉台の向こうでは迷惑そうな顔をする風祝。
宜しい。取引とは戦争であるなら、己は自慢の舌先三寸を以って、フェアトレードの大義名分に包まれた狡猾さを炸裂させよう。
付け込める隙には容赦なく付け込む非情で徹底したビジネスを展開して見せよう。
にやりと笑顔を見せる文。それが余りにも不敵で、胡乱な目で彼女を見ていた早苗でさえ思わず素敵と思ってしまった程だ。
それが分かった文は自信満々という風に早苗を見据える。難攻不落の要塞。それを落とす為文は第一声を切り出した。
「聞きましたよ。何でもあなたは自信を失っていると」
過去を抉らんとする文の容赦ない一撃。早苗の顔が曇る。
現人神。かつて己がそう呼ばれ崇められた時代を早苗は思い出す。
その頃の彼女は正に他と一線を画す存在であった。
神社では奇跡を起こす風祝として信者から崇拝され、学園では容姿端麗、頭脳明晰、運動能力抜群と三拍子揃ったアイドルだった。
今になっては何と傲慢だったのだろうと思うが、その当時は世界で己こそ最も高尚な人間だと思っていたのだ。
しかし、幻想郷。この地で博麗霊夢、霧雨魔理沙の両名よりもたらされた完膚無き敗北は、早苗の自信を粉々に打ち砕いた。
“普通の人間”――早苗はそれを受け入れるしかなかったのだ。
泣きそうな顔で俯いてしまった早苗の肩を文は掴む。
「見返してやるんです!」
その紅い瞳を真っ直ぐ早苗に向ける文。その真剣さに、まるで心の奥が見透かされる気がして早苗は思わず目を逸らした。
「見返すって、どうやって……私には彼女たちに敵う物なんか何一つ……」
「そんな事ありません。実はあなたも気付いている筈です。あなたにしか出来ないことを。誰にも真似できないその才能を。
……次の文々。新聞で特集を組みます。見出しは『幻想郷に新星現る。カリスマファッションリーダー東風谷早苗』」
「ファッション……リーダー?」
早苗の俯き加減は相変わらずだが、そのどんよりした目が一瞬輝いたのを文の慧眼は見逃さなかった。
落として持ち上げる作戦成功。よっしゃ釣れたと心の中でガッツポーズを作る文。
しかし、ここで表情に出してしまっては早苗に訝しげに思われる。真剣な面持ちのまま文は捲し立てた。
「我が文々。新聞が大人気のお洒落なカフェー。そこに集うは最先端を解す素養ある若者たちです。
彼らを啓蒙するのです! 幻想郷に新しい風を! 革命を起こすのです!
機能美という免罪符の上で胡坐をかいている連中にはっきりダサイと言ってやりましょう!
スマートな色彩とスタイリッシュなデザインからなる、徹底したモダニズムこそファッションの至高だと高らかに宣言しましょう!
幻想郷の常識を塗り替える疾風怒濤(シュトルム・ウント・ドランク)。その中心にいるのは、早苗さん。あなたです!」
「私が……幻想郷を変える?」
ファッション。確かに盲点であった。
しかし、早苗は幻想郷より百年進んだ装飾美を知っている。これは間違いなくアドバンテージである。
そして、何より早苗は己のファッションセンスにかなりの自信があった。
それこそ、古着屋のいやにフレンドリーな店員の勧める服を、センス無いと面罵できるくらいに。
かつての学友達も、『早苗さんのファッションは何て言うか、とっても個性的だよね。金色とか私にはとても真似できない』と手放しで絶賛してくれた。
神社の仕事があるので断念したが、デザイナーを生業とするのも悪くないと考えていたくらいである。今になって振り返ると勿体無い事をした。
世界の東風谷になれたのは間違い無いと自分でも思うからだ。
しかし、一度潰えたその夢が、幻想の地で再び花開くなら……それはどんなに甘美な事だろうか……
早苗はそれを想像し目を瞑った。
里に構えた豪奢なブティック。
その前にブレーキの音もクールに停車した黒塗りのリムジンは、この日の為にスキマ妖怪経由で手に入れた特別製だ。
カシャリと扉が開き、姿を現したのは、屈強な黒人ボディガードに囲まれた東風谷早苗その人である。
絶滅危惧種の毛皮を惜しむ事無くふんだんに使用したコートに、キンピカのサングラスのコーディネートは真のセレブの証左。
一歩地面に足を着けた途端、四方八方より殺到するは天狗のパパラッチ達。引っ切り無しに光るカメラのフラッシュ。
「東風谷さん。この度立ち上げられました、新ブランド『HAHURI』について一言お願いします!」
突きつけられる無数のマイクをやんわり制し、颯爽とブティックに向かい歩みだす早苗。
しかし、おやっと足を止めると、視界の端に映った何とか言う鴉天狗に声をかけた。
「あら? 浮かない顔しているわね。どうせまた他の天狗にスクープを先に越されたのでしょう。
まあ、あなたには少しばかり借りもありますし、特別に単独インタビューに応じて差し上げても宜しくてよ。
これで明日の文々。新聞はバカ売れ間違いないですわね。オッホッホ」
下賎の者にも優しく接する早苗のセレブっぷりに鴉天狗は感涙した。
十重二十重と早苗を囲む群集も早苗の神々しいセレブオーラを直視できず、モーゼの海割りよろしくブティックへの道を開ける。
玄関で早苗を待っていたのは博麗霊夢、霧雨魔理沙の両名。彼女らの瀟洒な服飾は無論早苗自らの手によるデザインである。
「早苗様。新ブランド発足おめでとう御座います」
満面の笑みで花束を渡す霊夢。受け取った早苗はありがとうと霊夢の頭を撫でた。
嬉しそうに頬を赤らめる霊夢の横で、何やらもじもじしている魔理沙に早苗は気付く。
理由を尋ねるなんて野暮な事はしない。このセレブアイには全てお見通しだもの。
「その星のネックレスはあなたのアイデアかしら?」
魔理沙のハイセンスな服装の中にあって少し浮いている首周りのキラキラ。
「あ、早苗様、これは、えっと」
わたわたする弟子を可愛いと思いつつ、やはり早苗は魔理沙の頭を撫でた。
「分かってるわ。私に褒めて欲しかったのよね。今回は少し勇み足だったけれども、あなたの前向きな気持ちは私にとって嬉しいことだわ」
そういって早苗が取り出すは24金製五芒星のネックレス。それをそっと星のネックレスと入れ替えてやる。
すると、魔理沙の首元がピカピカ輝き、何ともゴージャスな雰囲気を醸し出しているではないか。
奇跡を目の当たりにして驚きの声を上げる観衆。
「あ……さ、早苗様ありがとうございます。こんなに優しくて才能に溢れれてて美しい御方を私は他に知りません」
心酔した瞳で早苗を見つめる魔理沙。それに早苗は満足そうに微笑むのだった。
パシン! パシン!
「お~い。早苗さ~ん。戻って来~い」
実にいい音を立てて繰り返される文の往復ビンタであったが、当の早苗は恍惚とした表情でドリームワールドに絶賛移住中である。
お多福風邪のように両の頬っぺたを腫らし、あまつさえ半開きの口から涎が垂れているその顔は女の子として大変デンジャー。
ああ、早苗さん、まだ遅くはない。夢の中の年商10億円企業よりも、もっと守るべき物が貴女にはあるはずだ。
しかし、早苗は一向にこっち側に戻ってくる気配を見せない、だって現実は辛いもん。なら皆がちやほやしてくれる妄想世界の方がいいじゃん。
早苗が抱える想像以上のストレスを知って、立ち木の影でこっそり様子を伺っていた神奈子は泣いた。
そんなことは露知らず、と言うか興味が無い文は気付けに一発スペルでもぶち込もうかと検討し始め、数枚のカードを胸ポケットから取り出す。
「何? 霊夢が独立!? あの女、可愛がってやった恩を忘れやがって! って、あれ? ここどこ?」
どうやら妄想世界でも儘ならない事はあるようだ。雷に撃たれた様に早苗は飛び上がり、ようやく現実に帰還した。
きょろきょろと辺りを見渡す早苗を見て幻想風靡をポケットに仕舞った文の表情は、何故か残念そうである。
「ふう……酷い目に遭いました。霊夢さんがあんなに黒い腹を持っていたとは……」
少し落ち着きを取り戻したらしい早苗は文に向き合う。勝ち気な瞳だった。その自信に満ちた表情は、おそらく幻想郷に来る以前の本来の彼女なのだろう。
「宋襄の仁の故事ですね。無用な情けをかけてはいけないのです。
そもそも支店長なんか任せたのが間違いでした。
実際お店を開いた暁には、倉庫に湧いたゴキブリを蝿叩きで潰す仕事を霊夢さんに回しましょう。
カリスマファッションリーダー東風谷早苗は同じ轍を踏まないのです。
さて、文さん早速始めましょうか。カリスマブランドHAHURIが幻想郷を席巻する記念すべき第一歩です。
感謝してくださいね。私ほどのデザイナーの宣伝を専属で任されるなんて大変な栄誉なのですから。
あら? そういえば追われているんでしたっけ。
仕方ありませんね。記念すべき初日にけちが付くのも本意で在りませんし、その暴徒な方は私が奇跡のセレブウイングで魅了して差し上げましょう」
残念。早苗さんは未だ妄想に片足を突っ込んだままでした。
文としては早苗が何を言っているか理解できないので、曖昧にそうですねと返す他ない。
しかし、トラブルを押し付ける目的が達成された事は何と無く分かったので、とりあえず早苗と一緒に喜んでおいた。初夏の神社に響く奇妙な万歳三唱。
訳も分からず両手を上げたり下げたりしながら、しかし文は状況が動くその時を待っている。
そしてそれは程なくして訪れた。上空に感じるどす黒い殺気に塗れた気配。
「……来ましたか」
勢いを殺す事もせず、砂利を弾き飛ばして着地した藍を背後に文は呟く。
「……早苗さん、お願いします」
「私にお任せなさい」
藍と距離を開くようにして前進した文と対照的に、早苗は怯む様子も見せず藍に近づいていく。
「あらあら狐さん。そんなに険しい顔してどうしたの?
葡萄に背が届かなかったのがそんなに悔しかった? なら安心なさい、貴女の負け惜しみ通り、その葡萄はとっても酸っぱいから。
でも、大丈夫。天才カリスマファッションデザイナー風祝である私、東風谷早苗の手に掛かれば、そんな酸っぱい顔もクリーミィな笑顔に早変わり。
だから同志になりましょ。歓迎してあげるわ。将来的には幹部も夢じゃないかも!」
「風祝? そうか貴様も風か……」
「そう、私は風。幻想郷を変革する奇跡の新風。天狗なんかと一緒にしないで。だって早苗は神の子、不思議な子。それで、どうかしら、面接だけでも受けてみない?」
「断る。私にとって風は誅すべき絶対悪。甘言に惑わされる事などあり得ぬ!」
「……勿体無いわね」
真っ直ぐ早苗へバットを向け敵意を露にする藍に、早苗は肩を竦め袖から数枚のスペルを取り出した。ちなみに立ち木の陰の神奈子はあたふたしている。
「奇跡、開海、準備。大判振る舞いよ!」
光を放つスペルカード。割れる海は開幕を告げる緞帳で。客星はスポットライト。そして星は綺羅綺羅と舞台を彩る。
弾幕戦の切り札となる符を、戦闘とは一切関係ない演出の為に三つも消費し、神社は劇場へと見事な変貌を遂げた。
しかし、これだけの大技の後にも関わらず早苗は余裕の表情すら浮かべている。いや、自信があるからこそ、演出などと言う戯れに力を割く事が出来るのであろう。
二人の看板役者が悠然と構える舞台に、遠く聞こえた山鳥の囀りは開演のベルに他ならない。
早苗は大仰に天を仰ぎ、朗々たるメゾソプラノを白昼の星空に響かせた。
「嗚呼、嗚呼! 愚かなる賢者よ。いみじくも掴んだその名声をどうして自ら棄てる真似をするの?
貴女は信じるだけでいい。ファナティックにHAHURIブランドを信奉するだけでいい。
たったそれだけで、貴女たちは神の前に特別の恵みを授かる。至上の輝きを纏い、喜びを共有すらできる。
それは妬みも争いも無いユートピア。現代に蘇るエデンの園。それこそファッションが至る究極だというのに」
「否。ファッションとは他力にも馴れ合いにもあらず。
乙女が身命と唯一無二のプライドを賭し抜き放つ刀。青き隣の芝を燃やし尽くさんとする情念の極熱。
汝が主張はファッションにあらずファッショなり。その選民思想こそ唾棄すべき。
そもそも、ブランド(brand)とは咎人に押印されし灼熱の落款。
汝が尚も外れた道を進むのであれば、いずれ醜き烙印が汝を叫喚地獄の深淵に突き落とすであろう!」
「烙印なんて怖くない。だって、それも個性でしょ。
昔の罪人は額に刺青を入れられたわ。大衆に蔑まれ、唾を吐き掛けられる為にね。
でも、今じゃ背中の昇り竜をあんなに誇らしげに見せびらかすじゃない!
タトゥ、ピアス、インプラント、スプリットタン。みんな違ってみんないい!」
「嗚呼! 何たる平行線! 汝は汝を囚う狭い監房を全てと思い込み、頑愚にも守護しようと言うのだな!
汝は哀れな御玉杓子、無垢ゆえの傲慢を世界は拒絶しよう。
嗚呼、しかし我は捨て置けぬ。罪が程の慈悲深さ故に。汝は井戸の外の荒寥を知るべきだ。厳しき日照りを知るべきだ」
「ご親切にどうも。でも、私は間違ってなんかいない。
みんながみんなクラシックを勧めるわ。ハイドン、 マーラー、シューベルト。
でもね、この際はっきり言うわよ。退屈!
アルマーニに蝶ネクタイ。レディスアンドジェントルメン。コンダクターには惜しみない拍手を。
でも一体何が楽しいの? そんな倨傲に私は与しない。
それより、噎せ返るほどのカナビスの香りに包まれて、四つ打ちの電子音で体を揺らす方がよっぽど有意義だわ!
だってそうでしょ!? 私は私の信じる新たな風になる。衆愚の悉くを靡かせて、再び神となる!」
「……二人ともノリノリじゃない」
いつの間にか二人が上演し始めた台本無しの歌劇のおかげで、文はその舞台から立ち木まで、気付かれずに遠ざかれた。
どうやら向けられていた矛先が完全に逸れたらしい事を確認し、ほっと一息つく。
木の影では、半分顔を覗かせた神奈子が、何に感動したのか分らないが二人のミュージカルに涙していたので、とりあえず文は、ちーすと軽く挨拶。
後で取材に来ますのでと言い残すと、面倒が起こる前に抜き足差し足、疾走風靡。最速の逃げ足は伊達じゃ無い。目指すは麓の駆け込み神社。
「何たる事! 我と汝は漸近線、未来永劫交じり得ぬ運命であったか。ならば汝が焼き捨てた最後通牒も必定なり。
宜しい。もはや我は我の正義たる宿命に何ら疑いを挟まぬ。我が天罰を振りかざす時、無残にも雌雄は決しよう。
さあ、剣を抜きたまえ! 今や賽は振られたのだから!」
「剣を抜く必要は無いわ。私自身が抜き身のショテル。金剛石も一刀両断する優美な湾曲よ。
果たして貴女に、立ち向かう勇気があって? ルビコンは大荒れ、精強な一個大隊すら藻屑と消える。
アルプス越えも勿論無謀よ。だって私は風祝。風と奇跡がお友達。指を鳴らせば吹雪だって起きるわ」
観客一人の退場にも構わずに舞台は進行し、ついにクライマックスが訪れる。
藍の手には、共に数多の闘争を勝ち抜いてきた、全幅の信頼を寄せる相棒。
早苗の手には、彼女が現人神たる究極の証左。奇跡を起こす一枚の符。
睨み合う両者。その表情は最早尋常のもので無い。明日の曙光が為に剣を血に染めるグラディエーターのそれである。
客星が一際明るく輝いた。それが合図。
「奇跡!『神の風』!」
吹き荒れる疾風。雄雄しくもきらびやかな神威の発露は、迫る不敬を悉く排斥し、中心の早苗に近づく事すらさせない。
正に鉄壁の牙城であった……のだが?
「あれ?」
キョトンと首を傾げる早苗。想定外の事態に彼女は弱い。
しかし、彼女が驚くのも無理は無い。荒ぶ風を物ともせず、藍は早苗の手前まで駆け寄り、既にバットをスイングし始めているのだ。
突破など不可能と思われた防衛線が何故敢え無く崩れ去ってしまったのか? 早苗は気付いていないが、その理由は彼女自身にあった。
すなわち、いまだ稼動し続ける演出の為のスペルである。早苗は変な見栄を張ったせいで4つのスペルを同時発動という無茶をしていた事になるのだ。
どばどば溢れるドーパミンのお陰で、彼女は何でも出来る気分になっている。しかし、所詮人の身であるから、肉体的な限界というのはやはり存在した。
それを失念したが為に『神の風』は真価を発揮する事が出来なかったのだ。
側頭部に迫り来るバット。しかしポカンと口を開いた早苗にはどうもすることが出来ない。ちなみに神奈子はオロオロしている。肝心なところで役に立たない神様だ。
そして、ついにスイングはインパクトを迎える。哀れ、ついに早苗は散るか!?
しかし、彼女は一体誰であったか? そう彼女は奇跡を起こす風祝。故に奇跡が起こるは必然!
さあ、今ここに奇跡の“風が吹いた!”
山肌に反響するような破壊音。藍は渾身の力でバットを振り抜いた。ラインドライブでライトフェンスを越える素晴らしい手ごたえだった。しかしその藍の表情は驚愕。
彼女の目に映るはコルクの破片、先が無くなってしまったグリップ。無残にへし折られ粉々になってしまった相棒の姿!
早苗の奇跡。すなわち、本塁打王の矜持すら上回る神憑り的石頭!
『早苗さんは、何と言いますか、妙に頑固な所がありまして。お友達のお話を素直に聞ける柔軟な頭を持って欲しいなと先生は思います』
フラッシュバックする記憶。バットを破砕する積極的防衛で致命的ダメージは逃れたものの、やはり衝撃は強かったらしく、早苗の脳は揺れた。
夕日の教室。そっぽを向いた少女の名札は2年1組こちやさなえ。隣のちゃちなパイプ椅子には困惑顔の母親。そう、確かこれは小学校の三者面談だ。
頭の痛みと、穿り出された幼きトラウマのせいで顔を歪める早苗。
一方の藍は非業の死を迎えた相棒の亡骸を前に、呆然としていた。しかし一筋の涙を零すと、怒号と共に早苗に殴りかかったのだ。
もはや体面など顧みぬ感情的な一撃。なぜならこれは復讐なのだから。妖獣の怪力によって早苗の柔らかな頬が破壊されようとしていた。
しかし、彼女を救う第二の奇跡! 申し訳程度に残っていた『神の風』の残滓。だが、かのスペルに銘打たれた奇跡は確かにこの瞬間発現した。
ぶわりと舞い上がる砂埃。奇跡の“風”が起こした“砂埃”である。それは藍の目測を誤らせ、彼女の拳に空を切らせた。
信じられないといった表情の藍。そして奇跡は三度起こる!
「余計なお世話だ! お前に何が分かる偽善教師め!」
ドン! そんな異様に低く、大きな衝撃音。
藍の鳩尾にめり込むは早苗の石頭。その足は力強く大地を踏みしめ、蓄積されている莫大な運動エネルギーが見えるようであった。
ロケットの如き推力で撃ち出された闘牛式チャージング。
体重差100ポンドの担任教諭を一撃KOで病院送りにして以来、ずっと封印してきた必殺技が感情の爆発によって再び発現されたのだ。
一瞬の静寂。瞬きの間に藍の体は宙に浮き、そして、もたらされた規格外の衝撃は彼女を砲弾の勢いで弾き飛ばした。
みるみる神社から遠ざかり、点となり何処かへ消えた藍の姿。
「はあはあ……ってあれ? 私何してたんだっけ?」
ずきずき痛む頭を押さえる早苗。脳を揺らした衝撃と爆発したトラウマは彼女の妄想を完全に霧散させた。
早苗は久方ぶりの現実世界に眩しそうに目を細める。
「……早苗」
「八坂様?」
振り返った早苗はこの場にいないと思っていた人物の出現に少しばかり驚く。しかし、それ以上に神奈子の表情に驚いていた。
立ち木の影からおずおずと出てきた神奈子は今にも泣きそうだった。そして座り込み、早苗の足を縋る様に抱きしめると、本格的に泣き出してしまったのだ。
「ごめんね。ごめんね。私たちのせいで辛い目にあわせて。ごめんね。ごめんね」
早苗は悟る。剛毅なように見えて、その実、大変に心優しい神様である。
幻想郷で早苗が傷ついた分だけ、また神奈子も自責の念にさいなまれ、その繊細な心に傷を負っているのだ。
「……八坂様。私は大丈夫です。
確かに今の私は色んな事で不安定になる事もあります。でもそれは、新しい文化にまだ慣れていないだけ、時が解決してくれます。
だから、八坂様が気に病む事は無いのです。だって私は神の子、奇跡の子。最後は笑う強い女の子ですから」
「さなえ……ぐすん……」
顔をぐちゃぐちゃにして涙を流す神奈子の頭を撫でながら、これじゃどっちが大人か分からないなと早苗は苦笑した。
しかし、あれ程まで憂悶に囚われていた心が、今はほんのりと暖かく、少し気持ちが楽になったのが分かる。
儘ならない異界幻想郷。しかし、早苗はこの地で強く生きていく事に自信が持てそうだった。
雲で覆われた空に、しかし彼女は確かに晴れ間を見たのだから。
滝の近く。その小屋は人目を憚る様にひっそりとそこに佇んでいた。
雑多な工具や半分ほど分解された機械の類で、足の踏み場も無いほどに散らかった室内は、仮にも少女を名乗る者の住居として相応しくない印象を与える。
その室内の端に方に誂えられた作業机。そこに座り左手に持った小さな金属片を一心不乱に弄くる河童のエンジニア――河城にとりである。
設計図に従い精緻な加工がなされた金属の部品を、機械として完成させる為に一つ一つ組んでいる最中なのだ。
完全手作りの為、その作業には熟練の精密な所作が求められる。
にとりの右手には小振りなプラスドライバー。左手五本と右手三本の指で部品を押さえ、残った親指と中指で器用にドライバーを回す。
しかし、よくよく見れば、回せば回した分だけ部品に深く埋まる筈の螺子は、どういう訳か穴の入り口で停滞し続けていた。
無意味な工程をたっぷり一分程繰り返して、にとりはやっとその事に気付く。
道理。逆巻きの螺子をいつもの感覚で右に捻じ込んだところで、それが本分を果たす事はあるまい。
にとりは苦笑し、組みかけの機械を机の上に置いた。
トンという硬質な音の後、カシャリという軽い音を立てて機械はバラバラの部品に姿を戻す。
数十分の作業が水泡に帰したが、にとりは残念がる様子もなく、頭の後ろで手を組み背もたれに体重を預けた。
「おかしくなってるよね、私……」
誰に言うでもなく呟く。その頬はほんのり熱を帯び赤くなっていた。
熱を持っているのは頬だけでは無いとにとりは思う。頭の中。むしろ一番熱にやられているのはここに違いないと思うのだ。
視界の端。壁にかけられた野球のユニフォームと帽子。
黒マジックで書かれた達筆が目に入ってにとりの心臓はバクンと揺れた。
思わず胸に当てた掌に響く心音は、平素のそれより幾許か速いテンポを驚くほどの力強さを以って刻んでいる。
深呼吸。気を落ち着かせようとするが体は言う事を聞かず更に昂ぶる。カーっと顔が赤らんだのが分かった。
妖怪として生を受け、決して短くない時を過ごしてきたにとりであるが、この様な感情を抱いたのは始めてであった。
しかし知識としては知っている。
「……恋」
色恋沙汰にうつつを抜かす暇があれば、機械を弄る。それがにとりであったし、少しばかり人見知りの気もあり、今まで恋などという感情とは無縁であった。
しかし、心を締め付ける切なさに似た痛み。病的とも言える感情。それは経験の無いにとりにも、これこそが恋なのだと理解させるに十分だった。
「こういう時、どうすればいいんだろう……」
胸に当てた手をそのままににとりは困惑する。
憧れの妖狐の元へ馳せ、この想い伝える――それが最良なのだろうか? 少なくともにとりはそうしたい。
だが、それは容易ではない。まず、にとりは彼女の居場所など知らないのだ。
いや、しかし彼女を探し出すだけなら不可能ではないだろう。山には天狗の情報ネットワークがある。頼って大丈夫そうな知り合いもいる。
問題はその後だ。よしんば彼女の居場所を突き止め、溢れ出る慕情を告白したとて、果たして彼女がその想いに応える事はあるだろうか?
にとりは思う。おそらく否であろうと。
彼女は妖狐、にとりは河童。共に人型をとるが、種として根本で異なる両者である。
そして、何より二人は女同士。にとりが性別を同じくする彼女に恋患うのは、他人に頓着しない生来の気質に因ると説明できるかもしれない。
しかし、彼女はそうではない。普通の恋愛観を持ち、同性とは親友以上にはなり得ない。そういう女性のはずだ。
ならば、この想いが成就する事はありえない。きっと気持ち悪い子だと蔑まされてしまう。
――諦めるしかないのだろうか?
にとりは己が胸を両の腕で抱きしめる。その様はまるで、肺腑で暴れる激情を押さえつけようとしているようで……。
忘れてしまえばいい。恋だなんて忘れてしまえばいいのだ。そして何事もなかったように明日からはいつもの私に戻るんだ。にとりの知性はそう諭す。
全く正論であるから、にとりはその声に従おうとする。しかし、頑迷な恋心はそう簡単に大人しくなるものではない。
妖狐の凛々しい横顔が頭を過ぎって、再びにとりの心臓は高鳴った。
これでは堂々巡りの袋小路ではないか。にとりは自嘲し大きく溜め息をつく。
気分転換の為、ちょっと外の風に当たってこよう。そう思いにとりが椅子から立ち上がったその時だった。
――ズドン!
外から音がした。そう、何か重い物が落下してきたような。
落石だろうか? にとりはそう考えた。山に構える住居であるからそれほど珍しい現象ではない。
とりあえず確認してみようとにとりは扉を開ける。
しかし、そこでにとりが見たのは全く以って予想していなかった光景であった。
「……王子様」
思わず呟く。あの音は落石なんかじゃなかった。もっと素敵なものだった。
ぺたりと地面に張り付き、ぐったりしている彼女。出血で所々赤くなっているが、それでも絢爛たる九尾の輝きは損なわれる事なく。
にとりがあれ程恋焦がれた白馬の王子様、八雲藍。守矢神社より重力直行便でにとり宅に舞い降りたのであった。
これは運命ではないか。ぼんやりにとりは思う。何と無く目の前の光景を理解し切れていないのだ。
しかし、はっとこの光景が紛れもない現実であると気付いたにとりは急にあたふたし始めた。
(あっ? やだ私、服も作業着のままだし、そうだお化粧もしないと、でもあんまり待たせちゃだめだし。
えっと、そうそう、デートするなら、どうしたら楽しんでもらえるんだろ?
そういえばレーザーディスクが……ってあれは壊れてた。どうしよどうしよ。急がないと詰まらない女だと思われちゃう!)
やはり夢が唐突に現実となったので心の準備が出来ていなかったのだろう、今のにとりは混乱の極みにある。
しかし、少し冷静に藍を見れば彼女が今何を欲しているか察する事ができるだろう。つまりドクドクと現在進行形で彼女は血を流している訳で、必要なのは怪我の手当てだ。
にとりの献身的な治療に藍は好感を抱くだろう。それをきっかけに相思相愛へと至るかは全く別の話だが、友人関係に発展する可能性はかなり高いと言えた。
それならば、例え慕情を胸の内に隠しての付き合いであっても、とりあえずにとりは気持ちを納得させる事ができるのではないだろうか?
それを悟ったのか、にとりは家の中に駆け込み、何かを探し始めた。
そして再び扉から出てきた彼女の手には大きな四角い物体が。にとりはそれを抱え藍の側に近づく。
「ほら、これ野球盤。ちょっと自信作なんだ、何と言っても今までの常識を覆す3D設計。
唯一の欠点は三振かホームランにしかならない事と、ボールの銀球がすぐどっかに行っちゃう事。でもきっと楽しいよ。一緒に遊ぼうよ」
ああ、にとりよ。テンパってるのは分かるが、違う。色々と間違っている。
そこはレトロな昭和ホビー(改)を見せ付ける場面じゃ無い。必要なのは包帯だ。
「救……急箱を……」
「え? キューカンバー? ああ、そうだよね。お客様にお茶もお茶請けも出さないなんて。ごめんね気が利かなくて。すぐ持ってくるね」
ああ、違うんだにとり。そのナチュラルなおもてなしは彼女が五体満足である時分に日を改めてあげてくれ。
そもそもキュウと聞いて胡瓜を連想し、そこから茶菓子を連想できるのは河童だけだ。普通の人妖は胡瓜を甘味と認識しない。
しかし、そんな事にまで気が回らないにとりは再び家の中に戻る。その様は瀕死の藍に果たして見えただろうか。
お茶の準備。にとりはそれをするため炊事場にやって来た。
にとりは美味しいお茶の淹れ方など知らない。興味が無いからである。
だが、この時ばかりは、その技術がない己を恨みがましく思った。しかし、逡巡している時間はない。ともかく最善を尽くさねばならないのが今なのだ。
にとりは外界の技術を参考に作った冷蔵庫の扉を勢いよく開け放つ。
10℃前後の冷気を一年通して保つ自慢の装置。その中には規則正しく並べられた緑色のペットボトル。
幻想郷入りより数ヶ月。河童社会に前代未聞の衝撃を与えた炭酸飲料である。
今では、山の洞窟に工場が建造され、完全オートメーション管理の下、外界とほぼ同質の製品を安定して供給できるまでになっている。
河童の未来を賭けた一大プロジェクトであった。
にとりも技師として参加したので、冷蔵庫を開けるたび感慨深い思いを抱くのだが、今はそんな事を考えている場合ではない。
ペットボトルを手前から二本引き抜くと、次は一段下の扉を開け放つ。
そこには鮨詰めにされた瓜科植物。野菜室と銘打たれてはいるが、実際は胡瓜の独壇場である。緑黄色の入り込む隙など一分もありはしない。
ギネス認定世界で最も栄養の無い野菜が中心という、半ば断食に近い食生活は人間から見れば苦行であるが、河童たる彼女には当然の事なのだろう。
残念なのは河童でない殆どの生き物にとって胡瓜はご馳走になりえぬ事実を彼女がすっかり失念している事である。
ああ、少し視線を横にずらせば、参加賞の紅白饅頭が。さらに少し上には、今最も必要とされる赤十字の白い箱が鎮座しているというのに。
しかし、にとりは気付かない。いや気付けないのだ。だって彼女は恋する乙女、故に盲目。想い人を慮れるだけの経験も器用さも足りてはいないのだから。
「やっぱり麦味噌かな? それともマヨネーズ? ケチャップは通すぎるかな?」
数本の胡瓜を厳選したにとりは、引き続き調味料の選定に入った。
繰り返すが、今必要なのは救急箱であり、メロン味とのたまい手に取ったハチミツ瓶などではない。
しかし、誰が彼女を咎められようか?
どうすれば藍に気に入ってもらえるか。それを必死で考える彼女は、正に憧れの先輩との初デートで着て行く服を選ぶ乙女なのだ。
その余りに切ない輝きを礼賛する者はあれど、醜態と断ずる者など存在しよう筈が無い。
盆の上に味噌壷と胡瓜、そして緑の炭酸飲料を載せたにとりは急ぎ藍の元へ向かう。
「ど、どうかなぁ。口に合うといいんだけど」
ペットボトルを藍の手に握らせるにとり。自分も残った一本を手に取り蓋を開けた。
「珍しいものだし、きっと気に入ってくれると思うんだけど……。あっ! そうだ胡瓜食べる。
品種改良を続けて、味、食感、色艶、生産性全てが最高の胡瓜だと思う。しかも無農薬にこだわった特別製で、農場も土から――」
にとりの折角の薀蓄だが、生憎、藍は出血がさらに酷くなり、そろそろ意識が消えかかっているので聞こえるはずがない。しかしにとりにはそんな事気付けない。
一生懸命の話にも反応が無い藍に、実は嫌われているんじゃないかと、にとりの心にちょっぴり不安が頭をもたげる。
しかし、黙って話を聞いてくれているという事は、案外好かれているのかも? そんな感じでにとりの心を支配するのは少々不安定ながらも幸せと言ってよい感情である。
何も話してくれないのはきっと照れているから、もうちょっと頑張ればきっと笑顔を見せてくれる――そう信じてにとりは藍に言葉を送り続けた。
それは美しい乙女の純真。にとりはこの時間がずっと続けばいいのにとすら思った。
しかし、残酷にも終焉の時は万物に必ず訪れる。それはこの儚い恋心も例外では無い。
最初ににとりが感じたのは異臭である。そしてプスプスと何かが燃えるような音。
気付いた時には全てが遅かった。
ああ、恋は盲目、藍に喜んでもらいたいと思うが為、にとりはその他の事にまったく頭が回らなかったのだ。
例えば、野球盤に搭載された不安定な燃料電池であるとか。
轟音と火柱、そして途轍もない爆風。
にとりは思わずお盆で覆い隠した顔を恐る恐る覗かせる。
しかし、既にそこには憧れの妖狐の姿は無く……。
果たして何が起きたかにとりは知っている。あれだけの爆発であったにも拘らずにとりが無傷なのは藍が防壁となったからだ。
その結果、藍は胡瓜やペットボトルと一緒に何処かへ吹き飛んでしまったのだ。
ぷすぷすと黒煙を上げる野球盤の残骸を前にへたり込んだにとりは、初恋のあまりに呆気ない結末を悟る。
ぽとりぽとりと零れる涙。
それを自覚すると更に感情が抑えられなくなって、ついに、にとりは堰を切ったように慟哭した。
「……ああ、そうだ、実は理屈の上では分かっていたんだ」
にとりは、ぽつりぽつりと言葉を吐き出す。
彼女は結局、吊り橋の上の王子様。
それを己が勝手に勘違いした振りして、盛大に橋から転げ落ちただけ。
でも、しょうがないじゃない。だって女の子なら誰だって一度は宝塚のプリンセスに憧れるものだもの。
河城にとりの初恋、でも結末は無様な川流れ。
しかし、彼女はそれを誇っていい。だって、ほろ苦い失恋は乙女の財産なのだから。
(……ん? ここは? ……私は……確か吹き飛ばされて……)
ゆっくりと藍の視界に光が戻る。河童の工房で爆発に巻き込まれたのだという事を朧げながら藍は覚えていた。
どうやらかなり吹き飛ばされてしまった様で、湿っぽい空気と咲き乱れる彼岸花が特徴的なこの土地は藍にとって見慣れない風景である。
(あれ? 声が出ない)
声帯でもいかれたのだろうか? しかし特に体に痛みは感じない。
訝しげに思った藍はとりあえず喉に触れてみようと思い、そこで驚愕の事実を知ることになる。
(あれ? 手が無い。て言うか足も、なんか白いし、……もしかしてこれって?)
今の藍の姿は白くて丸く、さしずめ巨大なマシュマロ。
そう、彼女は幽霊となってしまったのだ。よもや野球盤が死因で臨終を迎えるとは、賢人たる彼女も予想だにしていなかったであろう。
(いやいや。そんなの認められん。私にはまだまだやり残した事が沢山ある)
まさかの涅槃入りにはびっくりした藍であるが、あまり危機感はなさそうである。普段より世の道理を舐めて掛かっている主の影響だろうか。
何にしろ、幽霊に似つかわしくないポジティブシンキングで藍は復活の手段を探し始めた。
耳を澄ますと、ベンベンという弦の音。それは彼岸花の藪の向こうより聞こえてくる。
誰かいるのだろうかと、ふよふよそちらへ向かった藍の目の前に広がったのは広大な流水。遠く水平が見えるそれは三途の川である。
弦の音を辿る様に、川伝いを移動していくと、川岸に係留された木造の舟を見つけた。
その上には、三味線を引きつつ何やら唄う死神の姿。弦の音はここからのものであったのだ。
曼珠沙華より尚紅い鮮紅を二つに分けた髪。確か小野塚小町とかいう名前だったと藍は記憶していた。
初対面でもないし、何か知恵を貸してくれるかもしれないと藍は期待して彼女の舟に近づく。
「♪~はんしーん、たいがぁーす。っておや? お客さんかい」
三味線の演奏を中止し、小町は白色の客に興味を向ける。
(ほら、私だ。貴様が紫様にぼこられた時、一緒に貴様をぼこす黄金色で華麗な回転体を見ただろう? あれが私だ。分るよな?)
「ん? そんなに震えてどうしたね? 緊張しているのかい?」
残念ながら、たとえ死神相手でも幽霊の言葉は通じないようだ。どうしたものかと藍の表情が曇る。いや、外見では分らないが。
「あんた珍しい幽霊だねぇ。動物霊みたいだけど中々見たこと無いタイプだよ。
ん? どうして分かるかって、あたいくらい経験豊富だと、ちょっとした形の違いで大体見当がつくんだ。
えーと、名前はなんて言ったっけ……あんたが何だったか知ってるんだけど、度忘れしちゃったよ。
まあ、でも安心しなさいな、すぐ思い出すから」
ほう、さすが死神。怠け者だと罵られていても、その慧眼は本物であったかと藍は感心する。同時に一縷の希望が見えた。
見知った狐であると気付いてくれたなら、人情味溢れる彼女の事、言葉が通じずとも便宜を図ってくれるかも知れない。
期待感で一杯の藍を前にしばらく唸っていた小町であるが、程なくして合点がいったようにポンと手を叩くと、藍に向かい言い放った。
「そうそう思い出した。あんたあれだ。猫熊だろう?」
ジャイアントパンダ。白と黒の珍奇な毛並みが自慢で、子供たちのアイドル。レッドデータブック推薦の一匹である。
狐との共通点は哺乳類であることくらい。小町の長い死神勤務は、しかし全くもって身が入っていなかった事が改めて証明された。
(ファッキュ! この無能が。少しでも期待した私が馬鹿だった! よりによってパンダだと? 貴様どこを見て言っている。
いや猫の字がついているのはちょっと嬉しいが、でも駄目だ駄目だ。私は誇り高い妖狐なんだぞ!)
藍の必死の抗議である。しかし悲しいかな。今の藍はどれだけ怒りを露にしても、フルフルと震えるマシュマロにしか見えない。
「え? 笹はやっぱり雲南省産に限る? あはは、パンダって実はグルメなんだねぇ。
小町さんはどこの笹が好きですかって? ははは、ごめん、あたい笹とか食べないから分かんないや」
(そんなの私も分かんねえよ!)
だいたいお前誰としゃべってるんだ? 電波か? 電波受信してるのかという藍の突っ込みなど知らず、小町は彼女にしか聞こえない猫熊の幽霊と談笑を続ける。
「へー? 死んだからからカミングアウトするけど、実は笹なんかより肉が好き? うはぁ。そいつぁ隠してて正解だわ。子供の夢ぶち壊しだもん」
現世へ復活するにあたって小町が全く役に立たない事を悟り藍は苦虫を噛み潰したような顔をする。もちろん外見では分からないが。
いっそ彼女の上司である四季映姫に縋ろうか。多分彼女なら幽霊の声も聞こえるだろう。
そこまで考えて藍は否定する。
(いや駄目だ。あの女は無駄な正義感と、六法全書のみを盲信する化石脳、そしてお役所仕事の三重苦を履行する事だけが生き甲斐のワーカホリック。
浄玻璃の鏡で散々恥ずかしい過去を観察されたあげく、規則ですからと何の面白みも無い言葉で地獄行きを宣告されるに決まっている)
ならば藍が頼れるのは幻想の境界たる主のみ。起こさなければ何日でも眠りこけている怠惰な主だけに期待は薄いが、今は信じる他ない。
「んんん? どうしたね? なんか暗い顔してないかい?」
この女、変なところで鋭い。びくりと藍の体が震える。
「ああ、なるほど、不安なんだね。分かるよ分かる。うん。よし、じゃあお姉さんがあんたを勇気付ける為に歌を歌ってあげよう」
小町はべんべんと調子を整えるように三味線の弦を揺らす。
「作曲どっかの誰か、作詞・アレンジ・ボーカル小野塚小町で『私を裁判に連れてって』」
そして、彼女らしい、力強くよく通る歌声が三途に響いた。
「♪~私を裁判所へ連れて行って、♪~あの傍聴人の中に連れて行って。
♪~集音マイクと隠しカメラを買ってくれたら、♪~もう捕まったって構わない。
♪~目一杯“被告人”(好きな幽霊の名前を入れてね)を応援したい! ♪~有罪になったらがっかりだけど。
♪~でも起訴、控訴、上告で地獄行き。♪~それが裁判だもの」
流暢なアメリカンイングリッシュで歌い上げる小町。
バイリンガルだったとは誰もがビックリの新事実だが、ヴァンパイアですら日本語を解する幻想郷。思ったほど就職は有利にならないらしい。
べんべんという五音音階とオールドポップスのコラボレーション。
藍は西洋系の言語に精通している訳では無いので、単語の端から歌詞の内容を伺うしかないのだが、どうやら碌な歌詞でない事は容易に想像できた。
(って言うかお前、勇気付ける為とか、ぶっちゃけどうでも良くて、単に歌いたかっただけだろ)
ぷるぷると体を震わす藍の不機嫌を他所に、小町は実に気持ち良さそうに歌詞を口ずさんでいる。そして、四番が終わったところでやっと独唱を完結とした。
「どうだった? え? 小町さんならビルボードでトップも狙える? いやぁ照れるなあ」
(自惚れも甚だしい。貴様は一生駅前の広場で上ずった青春を寂しく掻き鳴らすのがお似合いだ)
毒づく藍など知らずに、小町は大変に上機嫌である。やっぱり歌は心じゃん? とか偉そうに講釈まで垂れ始めている。
しかし、突然、それこそ何の前触れもなく小町は俯き、顔を曇らせた。
何だこいつは。躁鬱病の気もあるのかと訝しがる藍に、ぽつりぽつりと小町は言葉を紡いだ。
「……仕事はいいのかって? ……そうだよね」
もはや快活なあの小町ではない。悲しみに拉げる一人の乙女である。
「頑張らなきゃとは思うんだけど……なかなか難しくてね。ああ、勿論言い訳だって分かってるさ。
でも、四季様はこんなあたいにも目をかけて下さっている。このままじゃ駄目なんだね……」
藍は戸惑いで、とりあえず体を震わす事しかできない。
「え? 小町さんは実はできる子だって僕は知ってます。だからそんな顔しないで下さいって?
……ありがとう。……はは、死神のあたいが幽霊に慰められるなんてね。でも嬉しいよ」
ゆっくり顔を上げた小町の表情はいまだ悲痛。しかし、その目に僅かな輝きが宿ったのを藍は見た。
「あんたには感謝するよ。あんたのお陰であたいは頑張ってみようって気になった。早速実践してみるよ」
(何!?)
藍はうろたえる。正直小町が改心しようがしまいが藍にはどうでもいい事、しかしここで勤務に精を出されたなら、問答無用で三途を渡らされてしまうではないか。
それは困る。復活の道がいよいよ断たれてしまう。
(いや。貴様は頑張らなくていい。だって貴様には歌があるじゃないか。その癒しボイスが世界を平和にするんだ。だから働いちゃだめだ!)
思いとどまって貰おうと必死な藍である。さっきの酷評ぶりからの掌の返し方はある意味芸術的ですらあった。
しかし小町は決意を固めた者だけが持てる凄くいい眼をしている。
「ん? 是非協力させてくださいって? ほんとあんたいい奴だねぇ。ありがとう、あたい頑張るから見ててちょうだい」
立ち上がった小町は、三味線から持ち替えた大鎌を構え、そして、ブンと鋭く空気を切る音を以って、それを振り降ろした。
すると鎌の辺りから発生したのは青白く、儚い印象を与える一匹の幽霊。それはふよふよとどこへ行くでもなく漂っている。
小町は幽霊と十分距離が離れた事を確認すると、鎌の柄を地面に突き立てた。
途端、爆散する幽霊。それほど大きな衝撃には見えなかったが、それでも周辺の彼岸花を薙ぎ倒すには十分な破壊力である。
その様を見て、藍はどうも不穏な空気を感じ取った。体があったならきっと、たらりと冷や汗が流れているだろう。
「寂しがり屋の緊縛霊。あたいの必殺技の一つだ。今日はこれの改良バージョンを開発しようと思う。
ほら、弾幕が強けりゃ、あたいも、もうちょっと威厳とかに溢れると思うんだよね。そしたら四季様も凄いって思ってくれるじゃん?」
(なるほど。それは殊勝な事だ。うんそうだ貴様はあくせく働く必要ないのだ。……いや、しかし、どうして貴様はそんなに熱っぽい視線で私を見ている?)
三途渡りは回避したものの、藍の焦りは増すばかり。
「え? 怖いけど小町さんのために頑張りますって? あんたホントいい奴だ。大丈夫安心しな。弾けてもちょっとの時間で大体元通りさ」
(シット! やっぱりそうくるか! 分かってはいたさ、貴様が口では幽霊大好きとか言っておきながら、本心ではお手軽な爆弾程度にしか思っていない事は。
て言うか大体って何だ? 大体って? 貴様死神だろ、ちゃんと戻せよ。そんなんだから給料泥棒って言われるんだよ!)
爆殺する気で満々の小町から藍は逃げようとするが、悲しいかな、ふよふよ浮かぶしか出来ない身では、死神の長い腕から逃げるなど叶わないのだ。
「よし、じゃあ、説明するよ。この技の効果はさっき見ての通り。幽霊の献身によって半径1mを吹き飛ばす弾幕だ。
しかし、幽霊一匹のエネルギーとか高が知れてるから、ぶっちゃけあんまり役に立たない」
そう言った小町は懐から数枚の銭を取り出した。
「ところで、爆弾の破壊力を上げる方法を知っているかい? そう、中に釘とかパチンコ玉を入れるんだ。そうすれば範囲殺傷力共に大幅な上昇が見込める。
そこでだ、あたいは考えた。この原理を応用すればいいんじゃないだろうかと。
あたいの得意とする銭投げ。これをコラボレイトすることで、役立たずも鬼畜弾幕に早変わりする事請け合いさね。
やり方は簡単。あんたが敵に突っ込む。あたいがあんたに銭を投げる。あんたの中に銭がめり込んだ所で爆破! どう完璧じゃん?」
いやいやいやいやと頭を振る藍の抗議など通用するはずが無い。もはや小町の表情は、蟻の巣に嬉々として水を流し込む無垢な童なのだから。
「天才っす小町さんマジで尊敬します? いや、そこまで絶賛されるとちょっと気恥ずかしいな。でもあんたが乗り気で安心したよ。じゃあ、早速いってみようか!」
がっはっはと豪快に笑って見せた小町は、その笑顔のまま思いっきり鎌で藍を叩き飛ばした。半ば不意打ち気味の打撃に藍はなす術もなく宙を舞う。
(ああ! もう! 畜生! どうにでもなれ!)
最早ヤケクソの藍の体内に、ボスッ! ボスッ! っと音を立てて銭が侵入する。ここ数年味わった事が無いほどの鮮烈な痛み。
ああ、幽霊でもきっちり痛みは感じるんだ。そんな事を漠然と感じたのを最後に藍の意識は薄れていった。
はっと目が覚める。藍の視界に広がるのは妖怪の山。現在進行形で吹き飛ばされている途中だ。
どうやら、にとり宅で爆風を浴びてより、それ程時は経過していないらしい。
果たして、彼岸での出来事は悪夢であったのだろうか? 汗でびちょびちょになった体で藍は思う。
しかし、袖の中の重み。吹き飛ばされる前には感じなかったこの重みは、間違いなく小町の銭の重みである。
何と死人に鞭打ったら蘇った。原理は分からないが、多分マイナスにナイナスを乗算すると裏返るあれみたいなものなんだろう。
足を突っ込みかけた棺桶より奇跡の生還を果たした藍は、少し安心した面持ちで辺りを伺う。意外にも体の方は冴えていて、自力で飛行する事も十分可能だろう。
しかし、高速で過ぎ去る山の風景と、大気が体をくすぐる感覚がどうにも気持ち良かったので、しばらくこのまま風に身を任せてみるのも悪くないと微笑んだ。
九尾の策士、八雲藍。本日何度目かの判断ミスである。
妖怪の山の樹海。人妖問わず滅多に動物など寄り付かないこの場所で、人目を憚るように待ち合わせる二柱の神様がいた。
「どういう御心算ですか?」
鍵山雛は抑揚のない言葉遣いで、目の前の少女を詰問する。
「あはは。ごめんごめーん。約束破ったことは謝るよ。でも、雛ちゃんにとっても悪くない話だよ」
そう言って、目玉付きハットという奇抜な出で立ちの少女――洩矢諏訪子はその手に持った厚紙を雛に誇らしげに見せた。
――(株)イナバ幸福のピラミッド波動パワーエネルギーウォーター産業。
(うわ! 胡散臭! 絶対真面目に商売する気ないでしょこの会社)
その厚紙。即ちイナバ何とかいう会社の株券である。とりあえずそれっぽい単語を寄せ集めた、一目で詐欺と分かるネーミングセンスに雛は絶句した。
「さっきお友達になった兎さんが勧めてくれたの。何でもトーショーイチブ間違い無しとかで、とにかく、絶対儲かるんだって言ってたよ」
幻想郷という閉鎖社会で株式というシステムがきちんと機能するかは大変疑わしい所である。
そもそも、創業から一週間待たずしての夜逃げが濃厚な企業が上場できるとは。東証の審査はいつの間にそんなザルになった?
「しかも、その兎さんはサンプルだって、商品のお水を一つ譲ってくれたのよ。
何でも一本二千円もする凄い水だから健康に凄くいいんだって、お通じの不満も一発解決らしいわ」
諏訪子が取り出したのは中途半端に四分の三くらい水の入った裸のペットボトル。
その表面には黒マジックで『うちゅうえなじー水』と書いてある。やる気の感じられない文字であった。てゆーかピラミッドとかはどこ行った?
訝しげに雛はペットボトルを更に観察する。
周りに水滴が浮いていないのは水がぬるい事を現す。蝉が鳴き始め、半袖で丁度よい今の季節、味は期待できそうに無い。
更に良く見ると底の方には緑色の汚れが。
(もしかして、カビじゃない?)
衛生上の問題点を堂々と露呈しているえなじー水。
雛はそれを不思議に思わない諏訪子が不思議でならないのだが、ともかく諏訪子は嬉しそうにえなじー水を一口含んだ。
「マズッ!」
案の定ペッと地面に水を吐き捨てる諏訪子。
「あ~う~。健康の道は険しいのね。でも毎朝を爽やかなものにする為私は負けない。がんばれ私、さらばコーラック」
目を瞑り、苦しげにえなじー水を飲み干そうとする諏訪子。
赤痢菌的な意味で便秘とは無縁になれるかも知れないが、目覚めと共に厠に駆け込む毎朝を爽やかと呼べるかは議論の分かれる所であろう。
その諏訪子を冷めた目で見る雛。彼女にとっては、ぶっちゃけ諏訪子が幾ら詐欺られようが腹を下そうが与り知らぬ事である。
しかし、どうしても看過できない事がある。
目の前の蛙神は雛が野球賭博のため預け、力ずくで増やした配当金を、あろう事か怪しげな有価証券に変えてしまったのだ。
そう、球界からの永久追放すら恐れなかった雛の覚悟を諏訪子は踏みにじったのだ。
彼女は仮にも土着神の頂点を名乗る誇り高き一柱。それ故雛は遠慮して弾幕による報復行為に打って出ないが、その実、腸は煮えくり返っていた。
(馬鹿蛙が。ちょっと弾幕が強いからって調子乗るんじゃないわよ。
あんたみたいなのには、出した後に運悪く紙が切れている厄と、トイレに行くと何故かいつも貯水タンクが空で流せない厄と、
たまたま便所を借りに来た河童の技師がウォッシュレットから熱湯しか出なくなる改造を施す厄の三点セットを贈呈よ。厄神舐めるな!)
諏訪子の乙女としての純情を再起不能まで踏み潰す計画を立案中の雛である。
恐るべきは羅刹の如き怒気を腹に仕舞っているにも関わらず、その表情は借りてきた猫のように涼しい事であった。
彼女はプロの猫かぶり。外面が良くなければ信仰なんて集まらない。しかし、厄という人の暗黒面ばかりを長年扱ってきたせいか、その内面は酷く捻くれてしまっている。
さて、雛が三点セットに、偶然倒れてきた箒がつっかえ棒になって厠に閉じ込められる厄を新たに追加した辺りである。
諏訪子はゲホッゲホッと壮絶に咳き込みながらも、ようやくえなじー水を飲み干した。
「あ~う~。これで、明日からは一発爽快な天国が待っているのね。楽しみだわ」
「それは良かったですね。(馬鹿が。あんたが厠に行く時に限って家に誰もいない厄も追加よ。一人ぼっちの地獄で思う存分腹を冷やすがいいわ)
ところで諏訪子さん。善意は嬉しいのですが、株券では、将来的にお金が増える事があっても、明日のおかずが買えないのです。
その株券は差し上げますから、私が預けた分のお金だけでも返して頂けないでしょうか?」
「ん? えっと……そうだね……」
何だか歯切れの悪い諏訪子に、この馬鹿また何かやらかしたなと雛は悟る。相変わらずの無表情だが、よくよく見ればうっすらと青筋が浮いている。
「いや、実はね。その兎さんが、株券と一緒に商品の浄水器も勧めてくれて、ほら、ペットボトルだと毎日買わないといけないでしょ?
でも、浄水器を買えば、最初は少し値が張るけど、すぐ元は取れるってお話で……」
「つまり、私の預けた分も、その浄水器の支払いに充ててしまったという事ですね」
「うん……ごめん」
この蛙はどこまで腋が甘いんだ。もはや呆れるしかない雛である。
(今度、そこら辺で拾った石を、厄除けストーンとでも銘打って売りつけてみようかしら。百諭吉くらいで)
買わなければ神社から厄介払いされますの謳い文句に、諏訪子はきっと家財を売る勢いで金を工面しようとするだろう。
そして、もう一人の神様に拳骨喰らって暴落する諏訪子の株。
(いい気味。今度試してみましょ)
そこまで計画して、とりあえず雛は今ある問題を解決させる事にした。
「まあ、少しは同情もしますが、やはり最低限の責任は果たして頂かないと。何と言っても諏訪子さんは土着神の頂点、他の範となるべき存在ですから。
その浄水器返品はできるのですか? できるならそうしましょう。できれば株券も元に戻して欲しいですが、そこまでは求めませんよ」
「うう……実は、その浄水器は後で配達しますって。でも大丈夫。ほら、会社のカタログも貰ったし」
ガリ版刷りのペラ紙を諏訪子は取り出す。載っていた連絡先は幻想郷に居ついて長い雛が聞いた事も無い住所で、これはもう絶望かなと心の中で雛は顔を顰めた。
「ああ、そうだ。でもね、兎さんがいい事を言っていたわ。楽して儲かる方法なんだって。
何でも、この浄水器をお友達に紹介すると、何割かのキャッシュバックがあって、そのお友達がさらに別のお友達に勧めると、またお金が入ってくるらしいの。
雛ちゃんもやってみない。上手くいけば一週間で億万長者よ」
しょうがないので保護者に責任取って貰おうかと考えていた雛の顔の前に、何故か自慢気な顔で諏訪子はペラ紙を突きつけた。
「諏訪子さん。マルチって言葉知ってます?」
「もちろん。色んなとか、多才なとかそんな感じの意味だよね。まるで私みたい」
場を和ませようという心算なのだろうか? 諏訪子は両の人差し指をほっぺにくっ付け、私ぶりっ子ですとでも言いたげなポ-ズを取って見せた。
それを見た雛はふう、と一つ大きな溜め息を吐くと、ポキポキと指の関節を鳴らし始める。
「諏訪子さん。私は頑張りましたよね。それこそ、自分で自分を褒めてあげたいくらいに。
……でも、ね。もう限界。ここまで虚仮にされたのは久々だわ。厄神舐めないでもらえる?」
諏訪子は雛の笑顔を見た。間違いなく笑っていた。しかし、なんだろう。彼女が一歩近づくたびに大きくなるこのプレッシャーは。
「あれぇ? 雛ちゃん。もしかして怒ってるとか?」
「ええ、怒っているわ。もうブチ切れモードよ。あんたをぼっこぼこにしたくて堪らない」
言い終わった刹那であった。右足を軸に一回転、そして、十分な遠心力と脱力を伴う平手を雛は放つ。
弾ける木の皮。リンボーダンスの要領で何とか回避を成功させた諏訪子は突然の暴威に涙目。
かつて諏訪子が身を預けていた樹木と衝突した雛の掌は、樹の内面を粉砕し、再生不可能なまでの破壊をもたらした。
「……次は当てる」
もはや、あの涼しげな顔をした雛ではない。今の彼女は自ら化けの皮を剥いだ猫かぶり。憤怒を剥き出しにする一体の修羅である。
「え? ちょっと? 待ってよ。そんなに怒らなくてもいいじゃない! 私は雛ちゃんの事を思ってしてあげたんだよ!」
「過失か故意かは争点じゃないわ。問題は明日からのひもじい三食。偏った食事は乙女にとって由々しき問題だって言うのに。全部あんたのせいだ!」
怒号と共に放たれる雛の第二撃。しかし、その軌道を何とか先読みした諏訪子は間一髪その場から飛び去る事ができた。僅かに開く両者の距離。そして。
「雛ちゃんの分からず屋! 私はただ喜んで貰いたかっただけなのに! 酷いよ!」
ブチ切れるもう一柱の神様。かくして、山の一角は戦場と化した。
「洩矢の鉄の輪! 雛ちゃんなんか潰れて死んじゃえ!」
どこからとも無く諏訪子が取り出したのは、ホールケーキ大の無骨な鉄の塊である。
確かに良く見れば真ん中に穴が空いているが、これを輪と言い張るのはちょっと無理があるのではないだろうか。イメージしては太古の石製のお金が近い。
その鉄塊を諏訪子は、傑出した豪腕を存分に活用し、サブマリン投法の要領で雛に投げつけた。
(洩矢の鉄の輪って、こんな技だったっけ?)
一瞬そんな疑問を浮かべた雛であるが、直撃すれば頭蓋陥没は免れない高速飛行物体である。雑念を挟む余裕はない。
極限の集中を以って体を回転させた雛の手先に鉄塊が触れる。ひやりとした感触とずっしりとした重量感。
しかし、雛はこれを力で以って叩き落とす事をしない。己の細腕では、それが不可能だと知っているからである。
あくまで貫き通す脱力の極意。流れる水には逆らわず。ほんの少しだけ軌道を曲げてやるだけでいい。それで十分。
かくして、まるで羽毛でも扱うかの様な雛の指先に翻弄された鉄塊は、ついに雛の手を離れ、勢いをそのままに大空へ消えた。
しかし、ほっと一息つく間も無く諏訪子の追撃が始まる。蛙らしい大きな跳躍で距離を詰め、そして放たれた豪快なハンマーフック。
受け流した腕に雛は痺れを感じた。それ程に諏訪子の拳は重かったのだ。
技術など顧みない。ただただ身体能力のみに頼った粗い殴打。しかしそれ故に野趣が溢れ、何より雛の技と拮抗し得る本能の拳。
雛が水であるなら諏訪子は鉄。柔と剛どちらが優れるか。格闘技何千年かの論争に、今一つの結論が下されようとしていた!
……のだが、それは少し置いておいて……。
ところで、空に消えた鉄塊はどこに行ったのだろうか?
普通に考えるなら、そのうち勢いを失って落下し、その辺の山肌を陥没させている筈である。
しかし、これは、猫かぶりで隠していた本性を全て開け放ち、極めて純粋な状態にあった厄神鍵山雛が本気の力で触れた鉄塊である。
接触の一瞬で纏わり憑いた厄の濃度は、恐らく常人の想像を遥かに超えるレベルであり、何の災いも引き起こさないと考えるのは非常に困難であった。
さて、誰かを不幸にする事がほぼ確実な鉄塊の滑空軌道上。そこに寸分狂わぬタイミングでニアミスしてきた飛行物体。
そう、彼女こそ我らが八雲藍。ふわぁと欠伸などかましながら、優雅な空の旅を満喫する暢気な狐である。
しかし、そんな彼女の平穏など知らぬとばかりに、鉄塊は彼女との邂逅を辞さない。
かくして、背骨へめり込む銑鉄の痛みに藍は顔を歪める。唯でさえ痛いのに、奇襲気味の衝突であったから尚激痛である。
目を限界まで見開き、理解不能を精一杯アピールすると、そのまま藍は錐揉みに落下して行った。
因幡てゐは妖怪の山の獣道を走っていた。そう彼女は逃走の真っ最中なのだ。
抱えるニンジンの形をした鞄の中には、決して薄く無い紙束。洩矢諏訪子を口車に乗せ、掠め取った紙幣である。
勿論、見つかれば面倒な事になろう。天狗のテリトリーには入らないよう気をつけているが、天狗でなくとも山に暮らす妖怪や神様は多い。
山では姿を見ない兎を訝しげに思い、詰問する輩と出会ってしまえば危険は大きく増す。大体にして山の連中は排他的なので敵と見なされてしまう可能性が十分なのだ。
綱渡りの綱が太さを保っている内に永遠亭に帰り着きたいのがてゐの心情である。
(……鈴仙。待ってってね)
駆け足のてゐは立場上は上司にあたる、威厳の無い兎の顔を思い浮かべる。しかし、その彼女は耳を力なく垂らし、悲しげに俯いていた。
鈴仙・優曇華院・イナバが人里を訪れるようになったのはつい最近の事である。永遠亭が薬の販売事業を始めたからだ。
心に大きな傷を抱える鈴仙であるから、果たして人々から好奇の目で見られる売り子などをさせてよいものか、てゐは心配していた。
しかし、鈴仙は、ぎこちないながらも一生懸命に仕事をこなし、だんだん人里でも好感を持って受け入れられるようになる。
てゐの心配は杞憂に終わるかと思われた。しかし、そんな彼女らを嘲笑うかのようにその事件は起きた。
幻想郷縁起の発表である。てゐが目を疑った鈴仙の記述、要約すれば、暗くてデンパなアブナイ兎。
読みかけの幻想郷縁起を思わず床に落とし、しかし動揺を悟られまいと必死に笑顔を取り繕う鈴仙の悲壮さときたら!
(違うんだ! あの子はちょっと誤解されやすいだけ! 本当はとっても優しい女の子なんだよ!)
編纂者の真っ黒な笑みをてゐは思い描いた。
そう、確かあれは、稗田家に薬を売りに行った時だ。てゐは、その日たまたま暇だったので鈴仙の手伝いみたいな事をしていたのだ。
豪奢な屋敷で彼女らを迎えた少女の名は稗田阿求。その小さな顔を白いマスクで半分ほど覆い隠している。
彼女が所望したのは風邪薬。八意永琳特製の丸薬を渡し、料金を受け取れば商談は成立。
恙無く終わる筈だとてゐは思っていた。阿求の口からあの言葉が発せられるまでは。
『こんな苦い薬は嫌です。甘いシロップは無いのですか!』
扱っていないのですと丁寧に説明する鈴仙に、病人とは思えない凄い剣幕で怒る阿求。
やがて、嫌だ嫌だと地団駄を踏み始めた阿求に、使用人が無理やり苦い丸薬を飲ませその場はなんとか収まった。
しかし、口に薬を放り込まれる瞬間の、阿求が鈴仙を睨む怨恨は思わずてゐが身震いしてしまった程。
その件を阿求は未だ根に持っていたのだ。所詮、味覚同様のお子様であったかとてゐは悔しがるが、復讐など出来ない。
それをしてしまうと強力な妖怪にどんな酷い目にあわされることか。だから、てゐに出来るのは鈴仙を慰める事だけ。
てゐは鈴仙を元気付ける素敵なプレゼントを贈ろうと考えた。しかし、世は非情。小遣いとして貰うささやかな金子だけでは、碌な物が買えやしない。
賽銭詐欺の収入も雀の涙。ならばとてゐは意を決す。一つ大きな仕事を成功させようと。
ターゲットを妖怪の山としたのは正解だった。
よしんば失敗しても、人里から遠く離れたここならそう悪評が広がることはあるまいというのがそもそもの理由であったが、この地でてゐは近年稀に見る鴨と出会う。
『凄いわ兎さん。私の千年来の悩みを一瞬で見抜いた上、解決の方法まで知ってるなんて。
え? ちょっと値が張る? いや、もう全然問題ない。全く以って無問題だわ。むしろ払わせてくださいって感じよ。是非是非ってね。
ほらお金、野球賭博で大勝したの。ひーふーみー……えっと? 一杯? まあいっか。兎さんこれで足りるかしら?
お釣り? いい、いい、そんなの。 残りは感謝の気持ちよ。
ん? 株式? へー兎さん本当に凄いわ。うん分かるよ分かる。会社を大きくして、私と同じ苦しみを持つ女の子を救う心算なんだね。
なんて素晴らしいのかしら。兎さんは乙女の救世主よ。もちろん喜んで投資させてもらうわ。
じゃじゃーん! 何とさっきウチの賽銭箱をひっくり返してきたのです。好きなだけ持って行って。
私が涙ながらに相談しても野菜食えの一言で済ます役立たず神の酒代に消えるよりは、ずっと有意義なお金の使い道だわ。
え? お水くれるの? いいよそんな悪いし。……でも、どうしてもって言うなら貰っちゃおうかな!
ありがとう兎さん。本当に貴女はいい人だわ。私の周りの連中に爪の垢を煎じて飲ませたいくらい。大体あいつらときたら――』
なんだか変な帽子を被った金髪の少女だった。しかし、おそらく見た目からは想像もできない長い時を生きている人物なのだろうとてゐは思った。
ただ、その割りには余りに警戒心が薄いと言うか、頭があったかいと言うか。
都合のいい方向に勝手に解釈してくれるので、てゐとしては楽チンこの上無い。
お陰で自慢のファストトークを炸裂させる間も無く鞄の中には相当な数の紙幣が納まる事となった。プレゼントを用意するには十分な額だ。
道中で拾った小汚いペットボトルを嬉しそうに受け取る彼女の無垢な笑顔には、流石のてゐも良心がチクリと痛んだが心を鬼にして耐え切った。
所詮世の中弱肉強食。騙された方が悪い。後ろ髪引かれる思いではあるが、てゐはその理論を免罪符に山道を駆ける。
しばらく先に見えた光。それは山林の切れ目より差し込む明るさであり、妖怪の山と外の境界である。もう少しと一層の力を以っててゐは斜面を蹴る。
そして、ついに山よりの脱出を達成しようとしたその時、しかし、てゐはそのまま走り抜く事をせずに、駆動する足に急ブレーキを掛け、横方向に飛びのいたのだ。
それは第六感が鳴らした警鐘であった。転がり服に落ち葉を付けたてゐは先程までの自分の立ち位置を見る。
そこには狐がいた。天空より真っ逆さまに落下してきた狐である。もし回避が一瞬でも遅れていれば今頃てゐは押し潰されペチャンコになっていただろう。
しかし何故? てゐは疑る。山の住人でないこの狐が、まるでてゐの逃走を妨害するかの様に舞い降りたその理由をである。
(確かこいつは八雲紫の腰巾着。はっ!? まさか! でもそうとしか考えられない。糞! 稗田め、どこまで外道なんだ!)
てゐが類推したシナリオ。稗田阿求は確か八雲紫と深い付き合いであったはず。
そして、てゐが鈴仙を元気付けるため奔走している事を何らかの手段で知った阿求が、それを良く思わず、妨害を紫に依頼したとすれば。
てゐの目に映る九尾の狐は八雲紫が差し向けた刺客なのではないか?
いや、腰をさすってのたうち回る藍の姿は刺客と言うには余りに間抜けであったが、もしかしたら油断させる為の演技かもしれない――てゐはそう疑った。
何と言っても、今のてゐは逃走中という一種の極限状態であり、極端な疑心暗鬼に囚われている。
どうするか――てゐは考える。最強の妖獣金毛九尾と真正面からぶつかり、撃破できると考えるほどてゐは自惚れてはいない。
しかし口先でどうこうできる状況とも思えない。
ならばとてゐは幾つかの弾幕を展開した。そして、藍目掛けて殺到させる。
これが有効な打撃になるとはてゐは思っていない。もし頭でもぶつけて気を失ってくれたなら儲け物であるが、そんなに間抜けな敵であるなら苦労しない。
てゐの狙いは撹乱と牽制である。何とか隙を見つけて逃げ出そうという心算なのだ。
さて、当の藍であるが腰の骨が砕けたかのような激痛に加え、地面とのキスに伴う顔面殴打で満身創痍である。勿論刺客など務まる筈が無い。
そういう訳で、てゐの弾幕に彼女が気付いた時には既に手遅れな程に接近されていて、ああ、またか、痛いのは嫌だなぁとぼんやり考えるしかなかったのだ。
てゐの苦し紛れの策が図らずも成功を収めようとしていた。しかし、結局それが成らなかったのは、ほんの偶然。正に神の気紛れによるものだった。
藍を撃破する筈の弾幕たち。しかしそれらは当初の目的を果たす事無く哀れに消滅した。そう、阻まれたのである。
盾として藍を守ったのは、皮肉にも藍を撃墜した張本人である洩矢の鉄塊であった。
たまたま弾幕の進行軌道上にあったそれは、十分な厚みと硬さを以って、てゐの目論見を容易く打ち砕いてしまったのだ。
驚愕する両者。ふらふらと立ち上がった藍は幾分かの感謝を込めてその鉄塊を拾い上げた。その様を見て、てゐの心に恐怖が生まれる。
(何よその鈍器は? 初めから用意していた? ウサッ!? まさかこいつ、私をあれで殴り殺すつもりだ!)
撲殺という残酷な殺し方をわざわざ指定する程に稗田の恨みは深いのか?
ぶよぶよに変形した己の頭蓋と、それを見る阿求の黒い笑いを想像して、てゐは戦慄した。
そして悟る。もはや出し惜しみをしている場合ではないと。
一方の藍は、どうして己が攻撃されているのか、平素の様に回転してくれない頭で一生懸命考えていた。
(あいつは確か蓬莱山輝夜の……はっ!? そういう事か。あの腹黒め。永夜事変の事を未だ根に持っているのだな。私が弱った時を狙い撃ちとは、卑怯者め!)
ここに至り両者のすれ違いは決定的と相成った。睨み合う刺客同士。それは生き延びる為、海に浮かぶ板切れを他人から奪うのも厭わないサバイバーの姿である。
そして、てゐは奥の手の行使を決断した。
彼女が鞄より取り出したのは緑色の薬瓶。中央に印刷された『八』の一字が表す通り、調剤者は八意永琳。
永琳が数日前、慰み半分に調合した薬をてゐはこっそり持ち出して来たのだ。効能は調合する永琳より直接聞いた。
500号記念とか、効能と関係ないくせに長い前置きはスルーしていたのだが、その信じられない効果がようやく永琳の口から語られるに至って、てゐは驚愕した。
流石は月の頭脳。慰み半分で薬学の限界を一笑に付してしまった天才に対し、改めて畏怖の念が湧き出るのをてゐは感じていた。
しかし、これは使える。てゐは同時にそうも思った。
悪戯に使うには冗談で済まないが、永琳がいるなら大事には至るまい。そして、余り考えたくは無いが、最悪護身の切り札として使う事も出来るだろう。
……例えば今の状況の様な場合に。
「……本当は使いたくなんか無かった」
てゐは薬瓶の封を切った。鼻を突く悪臭が周りに広がる。
「私も女の子だしね。でも、もう手段は選んでいられない」
やはり怖いのだろうか、薬瓶を握る右手は小刻みにカタカタ揺れている。
しかし、左手のニンジン鞄を一際強く握り締めたてゐは、キッと藍を睨みつけ、力強く言い放った。
「これは渡さない。絶対に! 私の命に代えても!」
悲壮なまでの決意を以って、てゐは薬瓶を呷った。
濃硫酸でも口に含んでいるのではという筆舌に尽くし難い刺激。味覚が破壊されるのではという濃厚な、しかしそれが味であると認識できぬ程の不味さ。
てゐは嘔吐しそうになるのを必死で堪え、緑の劇薬を飲み干した。途端に薄れ行く視界。
ぱたりとうつ伏せに倒れ込んだてゐは、己の肉体の奥に膨大な熱量を感じ、満足したように意識を手放した。
その彼女より溢れ出したのは大量の煙。もくりもくりと立ち上り、辺りの風景を真っ白に染める。
そして暫くの時間経過。発生源であるてゐの姿を隠していた煙がようやく薄れ、藍の目に映ったのは信じられない物体であった。
大きい。ひたすら大きい。そして緑色だ。体中が緑の太い毛で覆われ、殆ど真上を仰がなければ見えない顔面には滑稽な目玉。
「……グリーンモンスター」
藍は呟く。
身長11,2m。本塁打を無かった事にする程度の能力。飼い主はドレッドで変人なドミニカン。
てゐは乙女としての体面を擲ち、緑色の怪物に身をやつす事で鈴仙の笑顔を守ろうとしたのだ。何という悲痛な決意であろうか。
そのてゐの想いに応える様にグリーンモンスターはその巨体を揺らす。藍を圧し潰すため一歩を踏み出そうとしたのだ。
「!?」
しかし、彼の足は大地を踏みしめたまま寸分たりとも動きはしない。そう動かせなかったのだ。片足で支えるには11mの巨体は余りに重すぎる。
てゐが望んだ一騎当千の活躍は、しかし物理法則の前にあっさりと膝を屈した。
戸惑うように首を左右に動かすグリーンモンスター。
しかし、彼の本質を鑑みるならこの結果は当然の事とも言えた。
なぜなら彼はガーディアン。不用意な浮き球の責を投手に代わって挽回する鉄壁。唯々悠然と屹立する事に意味がある。
故にオフェンスは彼の本分ではないのだ。
てゐは永琳の長くて退屈な前置きを、それでも真剣に聞いておくべきだった。もしそうしたのなら、この陰惨たる結果を慮る事も出来ただろうから。
グリーンモンスターは藍に対して何ら有効な攻撃を繰り出せない。しかし、藍は37フィートの彼の好きな場所に攻撃を当てる事が出来る。
ならばグリーンモンスターが頼みにするは己の突出した防御力のみ。
しかし、これも絶対では無い。世の中には“グリーンモンスター越えの”という賛辞がある。
すなわち、彼の献身的守備を以ってしても、真に素晴らしい攻撃に対してはあっさり看過する他ないのだ。
事実、藍がレーザービームの勢いで投げつけて来た洩矢の鉄塊を、彼はどうする事も出来ない。
かくして彼の脳天は強烈な衝撃を感じた。直撃した鉄塊がふらふらと宙を舞う。正にグリーンモンスター越えを言葉通りに体現した藍の驚嘆すべき一撃であった。
もはや肉体はボロボロだというのに、ここ一番で強肩を遺憾なく発揮できるポテンシャルは流石である。
落ち葉を巻き上げ、轟音と共にグリーンモンスターは倒れこんだ。残念ながら彼は、てゐの想いに応えるには欠点が多すぎたのだ。
再び煙を上げ彼の巨体が消失する。残ったのは妖怪兎の矮躯。
鈍く痛みの残る頭に手を当て、てゐは悟る。切り札が不発に終わった事を。未だ敵対する妖狐は健在である事を。
折れそうな心。諦めが彼女を誘惑し始める、耳を傾けてしまえばもはや二度と立ち上がる事叶わない。
絶望で灰色に染まっていく心、限界だと思った。因果応報。今までの悪事に天道が罰を与えようとしているのだと、ついにてゐは諦観に膝を屈しかけた。
しかし、最後に、それこそもがく様に手を伸ばした光。そこではヘタレ耳の親愛なる月兎が屈託のない笑顔を見せていて……。
だからこそ、てゐは思い止まれた。最後の最後で立ち上がれた。今の彼女は、再び大地を両の足で以って踏みしめている。
剥き出しの牙。瞳に宿る意志は強靭この上無し。壮絶なる気迫を込めてゐは声を張り上げた。
「そうだ! 私はあんたに笑って欲しいんだ! 周りの目を憚る事も無く、精一杯に幸せを主張するあんたの顔が見たいんだ!
私はそのためなら何だってするって決意したのに、この程度で諦めてどうする!
あんたはもっと辛い目にあって、それでも必死に笑おうとしているのに!
私は逃げない! 運命が邪魔するなら蹴り飛ばして前へ進む! 天が認めないなら道理を騙して前へ進む!」
兎らしからぬ咆哮。しかしその熱く燃え滾る闘志は、彼女もまた雄雄しき野生であった証左である。
ここに至って、てゐは脱兎となるを良しとしなかった。
窮鼠として最後まで闘い抜く道を選択したのだ。二人の実力差を鑑みれば人は無謀と言うかもしれない。
その評は間違っていない、てゐは最早藍を打倒する切り札を持たないのだから。
だが、無謀も真正面より見据える事が出来るなら、それは勇気となる。
ならば世界は彼女を賞賛しよう。小さな英雄に思う存分の賛辞を与えよう。
さあ、彼女が藍目掛けて振るった橙色のファンシーな鞄。しかし、それはたった今より、神の啓示を受けた破邪の剣なのだ!
重量数キログラムの布製聖剣の殺傷力を藍は見た目のままに評価した。
故に防御の姿勢すらとらない、それは驕りであるが、ダメージの蓄積が酷い肉体であり、動くのも億劫だったという彼女の主張は理解できない事も無い。
しかし、この場合において、それは明らかな判断ミスであった。
何といってもてゐは祝福されているのだ、神の気紛れが彼女に天秤を傾けても何一つ不思議な事は無い。
鞄の軌道上、そこへ完璧なタイミングで落下してきたのは洩矢の鉄塊。それは空気抵抗により大きく開かれた鞄の口に綺麗に納まった。
そして迎えるインパクト。藍にとっては想定外の衝撃である。
洩矢の万鈞は聖剣ニンジン鞄の破壊力を何十倍何百倍へと増幅し、藍を本日何度目かの滑空ツアーへ案内せしめた。
もうウンザリという風な表情を浮かべ大空へと消える藍。
てゐが捨て身の勇気で掴んだ大金星。窮鼠は猫を噛んだのだ!
安心したのか、ぺたりと尻餅を付くてゐ。しかし何かに気付くと表情を曇らせた。
「……ごめん鈴仙。私、結局最後は駄目な子だ」
あれ程にまで必死で保守しようとしたニンジン鞄。しかし今は打ち倒した妖狐と共に空の旅である。肩掛けの紐と、その先に僅かに残った布地が寂しく風に揺れる。
鈴仙に顔向け出来ないと、てゐは力無く俯いた。
「……てゐ? そんなに暗い顔してどうしたの? らしくない」
「鈴仙?」
聞きなれた声に振り返るてゐ。そこには、今頃里で仕事をしていると思っていた月兎――鈴仙・優曇華院・イナバの姿が。
「……どうして?」
「姫から聞いてね。てゐが妖怪の山に行ったって。心配して来ちゃった」
鈴仙はこの暑い中全力で駆けつけてくれたのだ。捲くったワイシャツには汗が染み込み、額にも大きな水滴を浮かべている。
しかし、鈴仙はそんな事おくびにも出さず、穏やかに微笑んでいた。それは心からてゐの無事を喜んでいるからある。
てゐは何だか申し訳なく思った。だから今日の事を正直に話そうと思った。きっと悪巧みした事を鈴仙は咎めるだろうが、それで良かった。
「……鈴仙。聞いて、実は私……」
「ううん、話さなくていいよ。大体分かってるから。聞いちゃうと私はてゐを叱らないといけなくなるし。
……私も甘いなぁ。
でもてゐが私のために色々動いてくれてるのは知っているんだよ。
だから、あんまり怒る気にはなれなくて。今はただ、てゐが怪我せずにいてくれたから、嬉しいなって。
でもね。今度からはこんな無茶しないでね。本当に心配したんだから」
そう言って鈴仙は、未だ力が抜けているてゐを抱き起こした。
「鈴仙。……ごめんなさい。私の身勝手で余計な心配かけちゃって」
「ううん。謝るのは私の方。本当は私がもっと信頼されるリーダーにならなくちゃいけないんだけどね。
でもね、大丈夫。阿求さんの件は確かにショックだったけど、お陰で私は強くなれた。
もっとお仕事して、里の人から信用される様にならないと駄目だって思うようになった。
だから最近は薬売りも楽しく思えてきて……それに、ほら、これ見て」
鈴仙は背負っていたナップザックの中身をてゐに見せる。中身は野菜であったり、羊羹などの甘味であったりだ。
「いつもお疲れ様って里の人がね」
少し気恥ずかしそうにはにかんでいた鈴仙であるが、ぱっちりとウインクすると、自信あり気に言ってみせた。
「つまり、私も頑張ってるから、心配ないって事!」
奇跡の風とそれが舞い上げた砂埃、恋の盲人、怠け者の三味線、化けの皮が剥がれた猫かぶり、そして窮鼠の噛み付きを経て、ついに藍は桶屋に至る。
「……もう、なんでもいいや」
いい加減飽いた空の旅に、憔悴した藍は無気力に声を絞り出すしかなかった。
「ふわぁ。安心したら眠くなっちゃいましたよ」
欠伸と共にだらしなく縁側に寝転がる黒髪の少女。守矢神社より無事逃走を果たした射命丸文である。
「妖怪の癖に神社でくつろぐな」
その彼女に呆れたような視線を送りながら、この神社の主――博麗霊夢はお盆を持って文の隣に腰掛けた。
「そう言いながらもちゃんとお茶を出してくれる、霊夢さんのそういうところ好きですよ。
あや? 暑い日に熱いお茶を飲んで、暑気払いをすると? 分かってますねぇ。
……と言いたいところですが、私は運動の後なので、キンキンに冷えた麦茶とかが飲みたいのですよ」
「五月蝿い。贅沢言うな。出してもらえるだけありがたいと思いなさい」
「はーい」
そもそも冷たいお茶なんてこの季節、それこそ氷精でも捕まえてこないと作れない貴重品である。霊夢にはそんな面倒臭い事をわざわざする気は無かった。
文としても言ってみただけであるから、それ以上は何も言わず、上体を起こし熱い緑茶を啜る。
「ところで霊夢さん。さっき話した件どう思います」
「“風を滅して諸悪の根源を断つ”ってあれ? 藍の事でしょ。私に聞いてどうするつもりよ」
「今度の新聞で特集したいと思っているのです。そして、その中で“脅威の勘を持つ博麗の巫女はこう推測する!”って感じの記事を書きたいのですよ」
「ふーん。まあ別にいいけど。何と無くこの件については分かってるし」
「おお!? 流石霊夢さん。これだけの手がかりで事件の全貌をまるっとお見通しとは。博麗の巫女の肩書きは伊達じゃありませんね。
して、真相は如何なるものなのでしょうか?」
さっきまでのだらけ振りは何処へやら。文花帖を手に文は興味津々である。
湯飲みに急須を傾けた霊夢は、文の豹変ぶりに少し呆れながらも呟いた。
「……風が吹くと箱屋が儲かる」
「はい? 何の話です?」
「元は桶屋じゃなくて箱屋だったのよ。いつどうやって変わったかは知らないけどね。この諺の意味は知ってるわね?」
「はあ、猫とか三味線とかの。あっ? もしかして藍さんが言ってた“風”ってそれの事だと?」
「多分ね」
「って、やっぱり意味不明ですよ。諺を実践ですか? 何をどうすればそういう事考えちゃうんでしょうねぇ」
「さあ、でも普段色々溜まってるから、ちょっとした事で壊れちゃうんじゃない?」
「そういうものですかね」
「そういうものよ。さて、さっきの続きを話しましょうか。
元は箱屋だって事は話したわね。まあ、別にこのままでもいいんだけど、もう少し短絡的に解釈した方がより適切な形になるわ」
「あの? 霊夢さん? 話がさっぱり見えてこないんですけど」
「黙って聞いてなさい。その内分かるから。
短絡的に“風”と“桶”を解釈してみると、つまり台風と棺桶。
ああ、ここで諺の正しい意味を持ち出して突っ込むのは無しよ。誤謬が本当の意味になるなんて珍しい事じゃないのだから。
さて、台風ね。幻想郷じゃ余り馴染みが無いけど、大きな物なら何百という死人が出る災害よ。つまり台風で人がいっぱい死ぬから棺桶屋が儲かる。
これをもう少し拡大して解釈するわよ。この棺桶屋という表現は比喩と考えるの。人が死んで一番儲かるのは誰?
それは神式仏式どちらでも関係なく……まあ、この先はあんたなら言わなくても分かるわね。
この理論を当てはめて言える事は、つまり、“風が吹くと――”」
ふと何かに気付いたらしい霊夢は、結論を中断して空を見上げた。文もその方向に視線を向ける。
神社目掛けて飛ぶ、幾つかの影が見えた。
それは雑多な道具類であり、胡瓜と緑の炭酸飲料であり、死神の銭であり、洩矢の鉄塊であり、ニンジン鞄と頭を覗かせる数十の諭吉であり、九尾の妖狐であった。
「……センター定位置の大飛球でゲームセットってところかしら」
呟いた霊夢の視線は賽銭箱に注がれている。
賽銭箱の角は鋼で補強してあるから、頭をぶつけるときっと痛いだろうなぁと文は思い、可哀想な妖狐にちょっぴり同情した。
夕暮れ。博麗神社に詰め掛けるは多くの人妖。
がやがやという喧騒と引っ切り無しに開けられるアルコール。振舞われる料理はこの日の為の特別製。
そう、幻想郷の血であり潤い。皆が待ちに待った宴会の時間である。
上白沢慧音は一升瓶片手に、地面に何やら年表を描き、念願の江戸講座を開講中である。
受講者は犬走椛。先輩より押し付けられた役割であったが、案外楽しそうであった。興味さえあれば歴史とは大変に面白い分野なのだ。
喜色満面の慧音は二代目秀忠は昼行灯などでは無いと力説している。この分だと今晩中に大政奉還まで至るのは難しいように思えたが、それは瑣末な事なのだろう。
もしかしたら、明日からの寺小屋には、銀髪の臨時生徒が時々顔を出すようになるのかもしれない。
森近霖之助は素敵なアフロに相応しい白スーツとサングラスを召し、ラジカセ片腕にリュグウノツカイとファンキーなムーンウォークを披露している。
香霖堂の奥で埃を被っていたミラーボールが再び生命を与えられ、虹色の光を振り撒いていた。そして、それが彼の額の健康的な汗に反射する。
その開き直りが清々しい。もはや彼が童心の黒歴史を振り返る事はあるまい。
縁側に腰掛け、ブランデーグラスを指先で弄んでいるアリス・マーガトロイドに霧雨魔理沙は謝罪している。平謝りであった。
たった今土下座に移行した彼女に、ゴミでも見るかの様な視線をくれるアリスは、魔理沙の頭を帽子越しにぐりぐり踏んづけている。
彼女がいくら反省の言葉を述べようと、その手癖の悪さは以後も相変わらずである事を良く知るアリスである。
魔理沙が下手に出ている今の内に、思う存分苛めておこうという心算なのだろう。
鳥居の辺りで騒霊三姉妹は各々の楽器を手に持ち、宴を彩る穏やかな旋律を奏でている。
その中心ではルナサ・プリズムリバーが頭に包帯を巻きつつも、しっかりとした手つきでバイオリンの弓を震わせていた。
そう、彼女はプロのエンターティナー。そこにお客様がいるなら、病院のベッドで大人しくしているなど彼女の矜持が許さない。
もっと芸術的に、もっと前衛的に。静かな情熱を胸に弦を揺らす彼女の姿は、ただひたすら美しかった。
ルーミアは親友の氷精や蛍妖怪に、闇を見通すゴーグルを自慢している。
この時間になると、もはや彼女にゴーグルは不要のはずだが、それでも彼女は外す事をしない。よっぽど気に入ったらしい。
ともかく、当分の間、彼女の視界は光で満ちていることだろう。
既に相当酒が入り、絡み上戸の能力を発揮中の秋穣子は、東風谷早苗に標的を定めたらしく、芋焼酎を手に私の酒が飲めんのかと迫っている。
いつもの早苗なら、やんわり断ろうとしただろう。しかし今日は違った。
あたふたする神奈子を横目に、一気にコップを空にすると、逆に穣子に絡み返し、今や彼女を酔い潰そうかという勢いである。
どうやら早苗も随分幻想郷色に染まってきたらしい。この緩い世界で楽しく生きるには、その傍若無人さが必須なのだから。
妹よりも早く酔い潰された秋静葉は目を回して神社の石畳に転がっている。
彼女を酔い潰した張本人、河城にとりは見ようによっては自棄酒ともとれる、平素の彼女よりかなり速いペースで酒を消費していた。
もはや彼女が恋患う事は無く、残る未練もアルコールが洗い流してくれる。
しかし、その頭にはサインの入ったあの野球帽。それでも九尾の妖狐が彼女にとってのスーパースターである事には変わりがないのだ。
小野塚小町は三味線の弦を弾きつつ、高らかに歌声を響かせている。それにニコニコと合いの手を入れる西行寺幽々子。
きっと、小町はこれからも怠け者の烙印を押され続けるだろう。しかし、案外歌の才能は本物なのかもしれない。
勿論、ビルボードなど夢のまた夢だが、歌の上手いお姉さんとして幽霊たちにはきっと慕われるのだろう。
痣と傷だらけの二柱。洩矢諏訪子と鍵山雛。互いの杯に日本酒を注ぎあったはいいが、どうも気まずい沈黙である。
彼女らは今日の喧嘩を未だ引き摺っていた。しかし、両者とも十分発散したため、既に怒りは無い。互いに謝るタイミングを伺っているのだ。
何だかんだで一緒に悪事を働くほど信頼した仲。いずれどちらとも無く折れて、また新たな悪巧みを相談するのだろう。
八意永琳の前に正座し、神妙に説教を受けているのは因幡てゐである。
珍しく本気で反省しているらしいてゐに助け舟を出す鈴仙・優曇華院・イナバ。弟子の取り成しにやれやれと肩を竦めた永琳は、てゐを説教地獄から開放した。
その様を見てくすくす笑う蓬莱山輝夜。デコボコな面子だが、だからこそ上手く回る事もある。今後も永遠亭は安泰でありそうだ。
――そして
「どうだった?」
「……霊夢? ……どうだろうな」
御神木の下に茣蓙を引き、御猪口でちびちびやっている博麗霊夢。その隣に藍は腰掛けた。
頭には包帯。見えないが服の下にも無数の傷。しかし、妖獣の身であるから感じる痛みは大したもので無い。
その瞳は平素の賢人八雲藍に相応しい知的な色で、かつての狂気は些かたりとも残っていない。しかし、代わりに重苦しい憂いが支配していた。
「……全く恥ずかしい話だ。自分の失態で謝って回るなんて初めての事だからな。自己嫌悪で一杯だよ。
彼女らには随分酷いこともしたし、きっと恨まれただろうな」
「そりゃ、自意識過剰だって。あんたが思ってるほど他人は気にして無いわよ」
「……そうだろうか」
霊夢から御猪口を渡され、飲むよう催促されても、やはり藍の表情は沈んだままである。
今日の出来事が、例えば何者かに頭を支配されていたからといったSFチックな理由であるなら藍はこれ程に悩みはしないであろう。
しかし、はっきりと記憶に残る今日の失態。
辺り構わず暴行を振るって回ったのは、しかし間違いなく己の意思であった事を理解している為、藍は己を赦せない。
たとえ、それが責任能力を問えぬ程にまで喪失してしまった理性が原因であったとしてもだ。
「ら~ん! 駄目よ、暗いわぁ」
「……紫様」
御神木に開いたスキマ。藍と霊夢の間に割り込む形で出現したのは藍の主、八雲紫である。
上半身をにゅるりとスキマよりはみ出させ、大きく開いた腕で二人の肩を抱いた彼女は、既に相当酒が入っているらしく、ほんのり顔を赤くしている。
「全く、大した距離じゃないんだから、歩いてきなさいよ」
「いいじゃない。霊夢のいけずぅ」
軽いノリで言葉を応酬させる紫と霊夢であるが、それとは対照的に藍はぼんやりと御猪口を傾ける。きっと酒の味など碌に感じていないだろう。
「ほら、ご主人様からも何か言ってあげなさい」
「あらあら、藍どうしたのかしら~」
すとんとスキマから飛び降り、紫は藍の前に腰を降ろす。微笑みを浮かべる胡散臭い普段の顔だが、幾分かの真剣さを含んでいる事に藍は気付いた。
「まあ、気持ちは分からないでも無いけど。いつも真面目に振舞っていた分、ショックも大きかったのね。取り返しの付かない事をしてしまったと」
力無く頷く藍。しかし、紫はふふんと自信ありげに鼻を鳴らす。
「でも、私に言わせれば全然青いわね。うん。こんなの迷惑の内に入らない。やるならもっと派手に、それこそ幻想郷全部を巻き込む勢いでやらないと。
よくその後で謝って回る藍なら分かるでしょ? この程度で落ち込むなんて自惚れよ。それにね――」
右手をスキマに突っ込んだ紫は、そこから一枚の皿を取り出した。豪勢な鯛の生け作りである。
「従者の失態は主が責任を取るなんて、そんな大層な事を考えている訳では無いけれど……。
今日の宴会の主催は誰だか知っているかしら? そう、他ならぬ私、八雲紫なのよ」
鯛を茣蓙の上に置くと、霊夢に食べるよう促し、自らもその白く透き通る一枚を箸で掴んだ。
「料理と酒と演出にこだわった贅沢な宴。でも、本当は私たちと幽々子たちだけでやるつもりだったのよ。貴女の日ごろの働きに感謝してね。
それを、こうやって関係無い人妖にまで開放した。このペナルティーで貴女の禊は済んだはずよ。
迷惑かけたと貴女が心痛めている連中も、お陰でこうやって美味しいものを食べられたんだから、寧ろ感謝してるに違いないわ」
「まあ、大体紫の言う通りでしょうね。謝りに回った時も、別にあんたを酷く責める奴はいなかったでしょ? 一過性の病気扱いよ。
……まだ信じられないってなら直接被害者に聞いてみましょうか? ……ほら、あんたはどう?」
「あや? 私ですか?」
霊夢の声の先。御神木の枝に腰掛け、何やら面白そうなやり取りをしている三人を観察していた射命丸文である。
高下駄を軽く鳴らし、枝より降り立った彼女は紫同様、藍に向かい合う形で腰を下ろした。
「そうですねぇ。まさか、いきなりバットで殴られるとは思ってもいなかったです。私じゃなかったら今頃、永遠亭の入院患者が一人増えているところでしたよ」
「……済まない。言い訳するつもりはない。この償いは必ず」
多分に意地悪さを含んだ文の嫌味に、藍は心底済まなそうな顔をして頭を下げた。
「あやややや。冗談ですよぉ。そんな深刻な顔しないで下さい。何か私が悪いみたいじゃないですか。
まあ、確かに色々ありましたし、正直あの時は殺意すら湧きましたよ。
でも、結果的にはいい事ずくめでしたから問題無しです。貴女の今日の活躍で面白い記事が書けそうですし、こんな珍しい物も食べられた。
今時、海魚なんて簡単には手に入りませんからね」
薄切りの鯛を文は口に投げ入れ、幸せそうに咀嚼している。そして、米酒をごくりとやると、そっと杯を地面に置いた。
「……まあしかし、このままじゃ殴られ損ではありますね。借りを作られっぱなしってのは好きじゃないです」
文はニヤニヤと根性の悪い笑いを藍に向ける。その文の要求を待っている藍には悲壮なまでの決意が感じられた。
その様は、例えば文が『じゃあ、死んでください』とでも言い放ったなら、その鋭利な爪で己が腸を躊躇無く掻っ捌いてしまうのでは無いかと思える程である。
顎に指を当て、考えていたようなポーズを暫く作っていた文は、ニヤニヤした笑いはそのままに藍に告げた。
「じゃあ、こうしましょ。飲みながらでいいので独占インタビューさせて下さい。それで全部チャラです。
悪いようにはしませんよ。私がこのペンで武勇伝に飾り立てて差し上げますから。
なあに、ちょっとのスキャンダルは寧ろ勲章です。それでダークな魅力は引き立つのですよ」
文の要求が余りに軽いと感じたのだろうか、藍は意外そうな色を浮かべる。
「……はあ。性悪鴉に聞いたのが間違いだったかも。そこは私の顔を立てて、全然気にしてませんからって言う場面でしょ。
まあ、でもプライドが高い天狗のこいつですらこうなんだから、もっと気楽で何にも考えていない連中は、全くといって程気にして無いって事よ」
「……そうか」
どうやら今日の失態は赦されているらしい事を知り、少しばかり安堵した様にも見える藍だが、やはり表情は冴えない。
一度沈んでしまった感情というのは、自分でも中々コントロールできるものではないのだ。
「ああ、もう、焦れったい! なら飲みなさい。浴びるくらい酒を飲んでしまいなさい!」
痺れを切らしたらしい霊夢は、一升瓶の封を切り、それを藍の口に突っ込んだ。
「酒は憂いの玉帚ってね。どうせここに集まってる連中はどいつもこいつも大馬鹿者、もちろん私もあんたね。
だから酒で流してしまえばいいのよ。明日の二日酔いなんか忘れた振りして鱈腹飲んで、ギンギン痛む頭を抱えて目覚めたら、もう全部元通り。
馬鹿だから昔の事なんか綺麗さっぱり忘れて、いつもとおんなじ様におはようって言うの。ね? 素敵でしょ?」
じたばたする藍に問答無用でアルコールを流し込み続ける霊夢。その様を見て、紫は腹を抱えて笑い転げ、文はパシャリパシャリとフラッシュを焚いている。
一升瓶の中身が半分も呑み込まれる頃になると、碌に呼吸も出来ていない藍の顔はいよいよ真っ赤で、生命の危機すら感じた彼女は霊夢をドンと突き飛ばした。
「はあ……はあ……殺す気!」
立ち上がった藍は、肩で息をしており時折げほげほと咳き込んでいる。しかし、それを見る霊夢は満足そうであった。
「どう? ちょっとは楽になったんじゃない。気持ち」
尻餅をついて埃が付いたスカートをパンパンと叩きながら霊夢は藍に尋ねる。
はっと胸を押さえた藍は気付く。
巫女の言う通り、心のしこりが随分と小さくなっていた。なるほど、強引に霊夢のテンションに乗せられてしまったのだ。
(まったく。こんな単純な方法で機嫌が良くなるとは……私も案外子供だな)
藍は苦笑いする。しかし、胸の奥で見つけた温かみは確かな幸せ。
前向きの感情に平素の藍が戻りつつある。もはや心配はいらないのだろう。彼女もまた強く逞しい乙女である事に間違いが無いのだから。
再び藍は腰を下ろす。同じく茣蓙に戻った霊夢は紫に言って新しい皿をスキマより取り出させている。文は空になった藍のお猪口にとくとくと徳利を傾けていた。
そして、折角だからと霊夢の音頭で乾杯をすると、藍にとっての宴が正しい意味で始まる。
「で? ぶっちゃけどうだった? 久々に思いっきり暴れてみて」
赤ら顔の霊夢は藍に尋ねる。その問いに、少しの間を置いて藍は答えた。
「……結構、楽しかった……かも」
「でしょ。大体あんたは真面目過ぎるのよ。動物の癖に。
でも、まあ私が言うのもあれだけど、たまには羽目を外してもいい。程々なガス抜きは必要よ。こいつらみたいな迷惑の権化になられても困るけど」
「あらあら霊夢ひどいわぁ」
「そうです霊夢さん。私ほど清く正しい妖怪はいないというのに」
「はいはい。ほざいてなさい」
軽くあしらわれ、ぶーぶー抗議の声を上げる二匹の妖怪、しかし、暫くすると飽いたのか静かに杯を傾けだした。
心地よい静穏に、紫は藍のお猪口に酒を注ぐ。
「抱え込み過ぎなのよ藍は……まあ、私の責任も少しはあるけど。もっと他を頼ってもいいのにね」
「はあ、そうですか」
「紫がもう少ししゃんとしてたらあんたも楽できるのにね。もっとも、紫にそれを期待するのは無理ってものだけど。
でも、頼っていい奴ならあんたのすぐ身近にいるでしょ。つまり、もっと信じてあげなさいって事。過保護なだけじゃ見えるものも見えなくなるわ」
「あら、霊夢が珍しくいい事言ったわ。確かにそうなのよ。何の為の式か考えなさい?」
紫と霊夢が何を言わんとするか藍は察する。
「いや、しかし、橙はまだまだ幼いですし……」
「だから、それが過保護なんだって。いつまでも子供じゃないのよ。……釈然としない顔ね。まあ、いいわ。ちょっとこれ食べてみなさい」
霊夢が藍の前に置いた小鉢。
巫女の意図がどうも理解できずに不思議な顔をしている藍であるが、小魚と大根を甘辛く煮付けたそれに箸をつけ、口に入れた。
「……美味しいな」
「だって、ご主人様が褒めてくれたわよ。良かったわね」
あれ? っと振り返った藍の視線の先。頭の猫耳と肩で揃えた黒色の髪。
「……藍様」
そこには、八雲藍が最愛の式、橙がはにかんだ笑顔で立っていた。
「それ、作ったの私なんです。私一人じゃ、お料理なんて作れないから、妖夢さんに手取り足取り教えてもらってですけど。
でも、良かった。藍様に美味しいって言ってもらえて。嬉しいです」
もじもじしながらも、橙のその顔は喜色で満ちていて。尻尾も左右にぴょこぴょこ動いている。
「今日の宴は私の主催。厨房を取り仕切ってるのは妖夢だけど、その手伝いをしたいって橙がね」
「いつもなら藍様がお料理を作るのですが、今日は藍様のための宴。だから私が働くんです。
それに、今日の藍様は全部私の為にあんな事したんだって気付いて。だから、私は藍様に心配かけないような式にならなくちゃって思ったんです。
まだまだ未熟ですが、藍様私頑張ります。私だって、きっとやればできるはず。だって、私は藍様の式ですから」
「……橙」
胸を張るエプロン姿の橙に、藍は驚いたような顔をしている。
「――おーい、橙。ちょっと手伝ってくれ」
「あっ! はーい! ……ごめんない藍様。行かないと。まだまだお料理作りますから、お腹一杯食べてくださいね」
「あ……ああ頑張ってな」
妖夢に呼ばれ、厨房に戻る橙の後姿を藍はぼんやり眺めていた。
「あんたも、もうちょっと気の利いた事言えばいいのに。
でも分かったでしょ。向こうのほうから頼られたいって願ってるんだから、あんたもそれに応えないと……って何あんた、泣いてるの?」
藍のその瞳より不覚にも流れた一滴。一種の感涙であるそれは、或いは、ぽろりと剥がれ落ちた鱗であったのかもしれない。
「……済まない。ついホロリと来てしまってな。もう大丈夫だ。まさか、あの橙があんな事言えるようになるとは、ちょっと嬉しくて」
ぐしぐしと袖で目元を拭い終えた藍。その表情はさっぱりと小気味良い笑顔である。
「藍。貴女が思っている以上にあの子は成長しているわ。あなたが気付いていないだけでね」
「そうです。彼女が猫を手懐けようとしているのは藍さんも存じているでしょうが、最近は随分扱いが上手くなりましたよ」
紫と文の橙に対する褒め言葉を聞きながら、藍は感慨深げに酒を呷った。
「万事解決かしらね。ちゃんと手を抜かず育てるのよ。そうすれば私も楽できるんだから」
相変わらず口調はぞんざいで、自分の意思にひたすら忠実な不良巫女である。しかし藍は己が一歩前へ進めたのは彼女のお陰であると知っている。
「霊夢ありがとうな。この年になって私は何か大切な事を知ったようだ」
だから、深々と頭を下げた。邪な気持ちなど些かも無い、純然たる感謝である。
「あら? 礼なんて不要よ。寧ろ私はあんたに感謝しているんだから。ここに集まった連中の中で一番感謝していると言っても過言じゃないかもね」
はて? 何か感謝されるような事をしただろうかと、不思議そうな顔をする藍に、霊夢は悪戯っ子のように歯を覗かせ言った。
「気付かない? 袖、随分と軽くなったでしょ?」
霊夢が指し示す先、賽銭箱を見て藍は苦笑した。
結論――風が吹くと巫女が儲かった。
それでも、この出オチだけは突っ込みたいと思います。
ベースボースってなんですかー?
頭があったかくてコーラックのお世話になっている諏訪子さまに心が痛みました・・・
てゐが一番(メンタル面では)まともって時点で、こ れ は ひ ど い
それでも登場人物それぞれのエピソードがきちんと
オチていて、ラストがしっかり大団円なあたりはお見事です。
最後の一文は思わずニヤリとさせられました。
もう『なにこれ』としか言えないwwwww
捧げる点数は突っ込みどころを大ざっぱに数えた数値ですw
Yes!!I like basebaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaall!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
いや、これは素敵なカオスでした。てかオチまでいってようやく本来の状況が分かった辺りがwww
…SSを読むために、何回もグーグル先生のお世話になるとは…(ベースボール的な意味で
石頭の早苗さん。奇跡起こしまくりだぜ!
というかにやりとさせていただきましたかなw
きっと藍さまは暑気あたりで頭がどうかしてたんだろうと思うの。あっついしねorz
しかし藍さまもよかったですが、このSSで常勝無敗を誇っていた藍様を見事食い止めた早苗さんに、心からエールを送りたい!
彼女は頑張っているんだ。ちょっとその……努力が実を結ぶ段階に至ってないだけで……
各所に散された小ネタも、各キャラクターの台詞もその間の情景もよく書き込まれていて本当に楽しかったです。
一番吹いたのはハトw
粉砕するんですよねぇ本当に。羽、舞い散ってました……
スネークタンとも言いますが、スプリットタンの名称の方が一般的ですよ
>窘め
窘めより取り成しの方がしっくりくる気がします
カオスのキワミ
ゆっくりカオスってね!
U.N.オーエンはカオスなのかー
いや面白かったです
やってる事は詐欺なのに、ちょっとてぬに感動した。
と、言うかこれはルーパー氏が楽しんで書いてますね? 良いことなんですがネタ爆発しすぎです。
いや、もうここからは好みの問題なのか? そうなのか?ギャグが濃すぎて胃もたれしたのは自分のレベルが低いのか?
自分としては、これの三分の一か半分の量だったら100点をつけていました。面白かったことはすごい面白かったです。
これは良いところで別の短編として括って出した方がよかったかも
もうね、ツッコミ所多すぎて(ry
何食ったら、こんなにトベるんですか?wwwwwwwwwww
期待に反して試合シーンがほとんどありませんでしたが、ネタが面白かったので良かったです。グリーンモンスターに変身とかきがくるっとるw
コルク入りバットは奇跡の石頭で砕けたか・・・
まあ一番頑張ったのは橙ってことで。
早苗さんのくだりには笑った。というか全部笑えた。
って覚えてた。
どうやら混じってしまっていたようで。
なんてシリアスギャグだよ
面白かったです。