マーガトロイド邸書庫。午前一時。
「よう」
背後から声をかけられ、魔理沙は凍り付いた。
彼女がゆっくりとそちらを振り返ると、当たり前というべきか寝巻き姿のアリスがそこに居た。入り口の所で腕組みし、仁王立ちするその姿は、撃墜寸前の航宙艦から出撃する巨大決戦兵器といった風情であった。
魔理沙は今日は失敗かと即座に呑気に考えると、手に取っていた本を床に置いて両手を挙げた。アリスを起こさないように盗むと前提条件を付けた以上は、これで失敗なのだ。溜息混じりに彼女は訊く。
「……あーれれ。いつからそこに」
「いつでもいいでしょうに」
怒っているともなんともつかない語調で返される。
「鍵を開けてる時からか?」
「知りません……」
「本のそばでは、私は暴れないからな」
アリスは知らない人物を観察するかのように、じっと魔理沙の瞳を見つめ続けた。
「だからここに入り込むまで待ってたんだろ?」
さあね、とやはり淡白な返答。
沈黙が降り、魔理沙はすぐに間に耐えられなくなる。
「……腹痛か? 暑いからって腹出して寝てたら身体に悪いぜ」
「ううん、平気」
じゃあ何なんだよ……と魔理沙は問おうとして辞めた。盗人が忍び込んだ家の主の体調を心配するのも何か矛盾している。
月の青い光と、数え切れない虫たちのルシフェリンの輝き。窓からもたらされる薄ぼんやりとしたそれらの明かりで、魔理沙は、かろうじてアリスの表情を確認することが出来た。不気味に冷静な顔をしていて、無機質な眼差しで自分を観察している。
何か変だ……魔理沙は微妙な違和感を感じる。片手間に相手にされているような気がしてならない。アリスの意識がこちらには向いていない気がする。
もしかして実は夢中遊行か?
なら逃げれば良いのだと、魔理沙はすぐさま合理的理路を導く。前触れもなく窓のそばにたてかけておいた箒の方へ駆け寄ったが、
「うわ!」
赤い熱線が輝いてそれを遮った。窓枠を遊び程度に焦がす。
冷や汗を垂らして振り返ると、何時の間にかそこに浮かんでいた人形から煙が上がっている。だがそれを操るアリスは、今は足元に視線を落として、まだ何か考え込んでいた。
魔理沙は段々頭に来た。
「お前、一体――」
だがその言葉を、不意に視線を上げたアリスが「ねえ」と遮った。そして彼女は、とんでもないことを淡々と提案する。
「もうなんか、私と一緒に暮らさない?」
「……は?」
一瞬だけ、その部屋の時間の流れは止まった。
だが、それをも意に介さず、お互いに時間の浪費だと思うの――とアリスは冷静に語り始める。
「そもそもにおいて不毛なのよ、私が私のものを私のものだって言い張ることが。そう主張したところであんたはどうあってもうちに物を盗みに来る。私はそれを受動的に防ぐことしか出来ない。今のままじゃ原因療法なんか叶わない。感情と人形で対処するだけ無駄なのよ……今朝方から考え始めて、今やっとそれを実感させられたわ。ねえ、普通の魔法使いなら普通に考えてごらんなさい? あんた、盗みに入ることで、限られた時間を一体どれだけ無駄にしていると思う? 資料が必要になったらその時に揃える、それがあんたのやり方なのは大体判ってるつもり。でも、そのやり方を貫こうとした時、いちいち私の家とか紅魔館から無理矢理盗んで行くんじゃ、毎回すっごい時間がかかっているんじゃないの? 本のある所まで移動する、ろくに読めもしない文字を追いながら物色する、そして私たちとあるいは一戦まじえ、勝てば本が貰える、でも負けてしまったら追い返される……一体それを何年間続けているの? 里の資料もたかが知れているし。その辺り、ちょっと要領が悪過ぎると思わない? それともなに、盗みに入ることそれ自体が――高笑いしながら私とパチュリーにちょっかいかけていくことが――趣味だとでも?」
「し、趣味じゃあないが……」
それではどうするかという話なのよ、と、アリスはどこまでも淡々と告げる。青暗いその瞳を見、すさまじく早口な長広舌を聞き、魔理沙は半歩後ずさった。
「まず……私が私の家の何もかもを持って、あんたの所で暫く住もうと思う。部屋と財産をシェアするの。そうすれば本を取り合う必要がないでしょ? で、それがお互いにしっくり来なかったらその逆を試してみる。それでも駄目ならば、互いに納得の出来る新しいおうちを建てて、そこに、住みましょう」
パラダイムシフト、これしかないわとアリスは自分で頷く。
「正気かお前」
魔理沙はこわごわ訊くが、アリスは無表情に頷く。
「この先ずっとこうして、頭の悪いいたちごっこを繰り返すのと、互いの生活観を擦りあわせるのと、どっちがベターかという話よ。少なくとも、試してみないと」
「うわあ」
魔理沙はついそう感嘆を漏らす。はっとなってすぐに口を手で塞いだが、アリスは真面目な表情のまま何も言わなかった。
ああこれは――まずいかもしれん。魔理沙はそう思った。何って、私はいいんだが、なんかこう上手く言えないのだが主にアリスがまずい。冴え渡った危険さというかそんなものが見える。考え出したら止まらないタイプじゃないのかこいつ!
「やっぱり寝ぼけてるだろ、お前」
「どう解釈するかは自由です……。ともかく私は今日は眠る。本は好きなだけ持ってっていいわ」
どうせ明日あんたのところへ荷物全部持って行くから、とアリスは付け足すと、踵を返し、レーザーを撃った人形をひっこめて自分も階段を上がって行ってしまった。
「お、おい待てってば!」
返事はない。「奇跡は起きる、起こしてみせるわ」という思いつめた呟きが聞こえて来ただけだった。奇跡ってなんだ。
魔理沙はそこに呆然と佇むことしか出来なかった。
途中から、最早提案なんかではなくなっていた。なんだこれ?
戦いもしなかったのに、嵐のようだったと彼女は思う。
ただ、ああした態度はみんなアリスの演技で何かの策謀に違いないと考えていたので、めぼしい本だけは持って帰ることにした。
『 少女材料 』
しかし次の日、アリスは本当に魔理沙の家へやって来た。
彼女は十数体の人形を操り、四時間かけて全ての荷を中に運び入れ、悪夢じみた速度で霧雨邸内二階の二部屋を片付けると、そこにこぢんまりと全て収納し終えた。
「……」
ああ、と魔理沙は思う。こいつは引っ越し業で今まで生計立ててたんだな。人形劇で稼いだチップなんか目じゃないぜ。
「つかれた」
そう呟いて、アリスは持参したベッドの上にばったりと倒れこんだ。周りにはまだいくつか荷ほどきされていないマジックアイテムの箱が転がっている。
「……私も疲れたぜ」
彼女が寝転がったベッドの端に魔理沙も突っ伏す。
懸命な人形達を見ていると、手伝わない訳には行かなかった。アリスに頼まれた訳ではなかったが、自分は元来巻き込まれ型の女に違いないのだと思うことにする。数分間そうして、ゲシュタルト崩壊を起こさないように思考をカットする作業に追われた。
何も喋らずに二人は暫くそうしていたが、やがて、寝転がっているアリスが魔理沙に訊いた。
「今何時?」
「一四時二九分。あー…そういえば腹が減ったな」
彼女は体内時計でやや正しい時間を答える。
「私、何かつくろうか?」
魔理沙はベッドに突っ伏したまま眉をひそめた。
「ああ、荷の中にコンバラトキシンの小瓶があったっけな。私の死因は心臓発作か」
「……毒殺なんかしないわよまわりくどい。ともかく御飯でいいのよね?」
「食事くらい自分で作るぜ」
うぬぼれないで頂戴、とアリスは首をすくめる。
「主に私が食べたいから言ってるの。綺麗に一人分だけつくるなんて、どんな嫌味なのよ」
「ああ、まあ、じゃあ、いいんなら任せるぜ。私はちょっと今頭が働いていない」
「見れば判ります」
そう言ってむっくりと起き上がると、まだベッドに寄りかかっている魔理沙を無視して、アリスはすたすた下へ降りていってしまった。
「それで、いつまで居るつもりなんだよ」
そう訊いてから、魔理沙は随分と薄味のお味噌汁を啜った。
「決めてないわ。納得の行くまでかしらね」
アリスは素っ気無く答えてから、正しくお箸を使って御飯を口に運んだ。
「荷物は本当にあれで全部なのか? 何かかなり少ない気がしたんだが」
「要らないものは、整理を兼ねてみんな燃してきたわ」
「……」
いつ自分は殺しにかかられるんだろう、と魔理沙は一瞬思う。
迎撃手段を一度に十二通りほど思い浮かべてみる。しかし馬鹿らしくなったので辞めた。そもそもこちらの意思が無視され過ぎている。嘘の可能性もあるし、真実だとしてアリスに調子を合わせる必要もない、と呑気に考え直す。それから訊く。
「なあ、これ、そもそも前提がおかしいと思うんだが」
「前提なんか何もないじゃない」
アリスの冷めた応答に、魔理沙は首を振る。
「いいやあるぜ。魔法使い二人が一つ屋根の下に暮らすってシチュエーションがそれだ」
「馴れ合いが悪だ、互いに持っている技術の秘匿が必要である、という話?」
「うむ」
アリスはそこで、ふっと揶揄するように笑った。
「壁一枚床一枚あったら、馴れ合わないためには十分でしょう、そんなの……。お互いが意識して、関わり合いにならなければいいだけよ」
「いや、普通に考えろよ。想像してみろ。風呂も飯も一緒なんだ。ある程度情がうつってしかりだろうに」
人として、と魔理沙は念押しする。
私別に人じゃないけど、とアリスは呟いてから言う。
「なんか消極的なことばっかり言ってるけれど……。じゃあ、住処を分けたからって、また面倒ばかりの日々になるじゃないの。それにもう結構燃やしちゃったし、運び込んじゃったし、ねえ」
なにを今更、といった風情である。魔理沙はついに頭に来て叫んだ。
「私の気持ちってものがあるだろうが!」
第一本当に来るなんて思ってなかったと、彼女はばあんとテーブルを叩く。
叩いてから、本当に今更だと気づいて舌打ちした。夜の内にもう少し深く考えておけば。
だがアリスは、冷たく魔理沙を見つめるばかりだった。その表情は反応を愉しんでいるようにも、まして大声に驚いているようにも見えなかった。やがて小さい溜息をついてから、愛想をつかせたように彼女は呟く。
「そんなの……知りたくもありません」
◆
その後二人は、本物の冷戦状態に陥った。
同じ家に住んでいるというのに、会話する時間はそれ以前よりも減った。顔をつき合わせるのは食事時と、魔理沙がアリスの資料を借りに行くときだけになった。訳もなくお茶をしてくつろいだり、一緒に何処かへ散策へ行くなどということも一度も無かった。初日から数日間、そんな状況が続いた。
二人とも意地になって研究に没頭しているように見えた。
だが数日間で頭が冷え、怒りのほとぼりがある程度おさまった魔理沙は、これもアリスに謀られているのではないだろうか……と疑い、もとい考え始めていた。
(そもそもいつも独善的なんだ、あいつは……客観性ってものがない)
今にもひびが入りそうな古い炉の中で燃える、いくつかの茸を監視しながら魔理沙は思う。熱のために汗が滴ってきたので、窓を全開にした。茸の灰を使う実験の下準備だった。
開いた窓の向こう、森の木々の梢からは、もう緋色の光が差し込んできている。これを今日最後の実験にしようと、魔理沙は今更な目処を立てた。
真剣に研究に集中したいのならば、アリスも口で云えばいいのに。こんな回りくどいことをせずとも、正面から「邪魔をするな」とメンチ切ってくれれば、盗みなんか自重したのだ。きっと、多分、いやおそらくは。
あいつは、何か大事な段階に差し掛かったせいで、カリカリしているんだろうか。
それとも単純に、普段の自分に嫌気が差したのだろうか。
前者ならば、これらは本当に、研究に邪魔を入らせないためにとったであろう行動なので放っておけばいい。だが後者ならば、こんなことになった原因の殆どは自分にある。
一体どっちなのか……と彼女が考えている内に、ぼふっと音をたてて炉の蓋が天井まで飛んでいった。魔理沙は肩を跳ね上げて驚いた。蓋は放物線を描く中途で吊り棚にぶち当たり、そこに置いてあった暗い色味の薬品の小瓶をいくつか落とし、それらは床で開きっぱなしの書物に受け止められた。
魔理沙は頭をがしがし掻いて、あー……と嫌ったらしく呟いた。
とりあえず蓋を開けてみると、刺激臭を伴って中から煙が上がった。案の定、茸はペースト状になって炉の内側にこびりついている。
「……」
茸から出てきた瓦斯が燃え上がって爆発したらしい。炉の掃除には、一、二時間はかかるように思えた。
とりあえずメモをとって、彼女は嘆息する。
今日はやめだ、とペンとノートをスカートへしまった。
やはり――心持ちは単純化(シンプルに)しておかなければならない。あんまり論理的ではないが、気持ちに曇りがあったから、それが可燃瓦斯を発生させる種類の茸だということを見落としたのだ、きっと。
まずアリスとの問題を片付けなければ。魔理沙は自分のためにそう考え、部屋を出ると、さっさと二階へ上がって行った。
「――よう」
「こんにちは」
二人は変な挨拶を交わした。アリスは本に視線を落としたまま動かず、そこへ訪れた魔理沙は部屋の扉を後ろ手に閉めた。
「なに? 資料がいるんでしょ?」
何故戸を閉める必要があるの? と、アリスは神経質そうに魔理沙を見た。
「いんや。今日は実験はやめたんだ」
「では何なのよ」
「ちょっと邪魔をしにな」
「そう」
アリスは左手を振る。ざざざざざ、と眠っていた人形達が起きて、一瞬で魔理沙を取り囲んだ。
「なんだお前、やっぱりどうかしてるぜ」
寝不足か? と彼女は身構えながら普通の語調で言った。そういえば箒も持たずに来てしまった。
「していないわ。冴えているわ。別に戦いたい気分じゃないから、さっさと出て行って」
「何か知らんが余裕ないだろ、って言ってるんだよ……」
「あんたの知ったことではないわ」
魔理沙はようやくここでかちんと来た。
「ああ、それは、私が決めることだな。それにここは、元々私の家だぜ」
「あんたの実験に必要な資料を提供しているのは私だわ」
二人は剣呑に睨み合う。水かけ論だと理解していても、気持ちが言うことを聞かなかった。
やがて魔理沙の方が、溜息をついて、やめようぜ、と言った。降参したように両手を挙げる。
「……」
アリスはしばらく魔理沙を睨んでいたが、やがて人形たちを引っ込めた。
「なあ、今、何の勉強してるんだ?」
魔理沙は話題を変えようと、アリスのデスクの上の本を見ながら訊いた。裁縫道具が見当たらないので、人形をつくっている訳ではないなと思った。
「……生命倫理」
アリスは渋々といった感じにそう答えた。魔理沙はそれを尋ねたことに一瞬で後悔した。話を膨らませられそうにない。
微妙な間があった。アリスはそっぽを向きながら、フォローするように付け足した。
「まぁ……簡単に言って、果たして本当に、あれをつくっていいの? ということを考えているの」
あれね、と魔理沙は思う。自立人形のことだ。初めに決意したことをわざわざ疑うなんて理解出来なかったが、アリスらしいとも感じた。
「一人でか?」
「まずは、自分の意見を固めないと」
永琳なりパチュリーなりに意見を求めるのはその後、と彼女は言う。
「ふむ」
魔理沙は頷きながら、しかしふと不可解なことに気がついた。
「あー? じゃあなんだ、もう実は、勝手に考えて勝手に動く人形の設計図は出来てるのか?」
アリスは首を振る。
「そんな訳ないでしょう? 理論立ての目処も立っていないわ」
「はあ……? じゃあ、そんなことをしても、狸の皮算用じゃないか。後でいいだろうに」
それを聞いたアリスは、あんた本当に馬鹿ね、と呆れて溜息をついた。
「好奇心に任せて理論を先に立てては、必ず駄目になるわ。そんなの、常識でしょうに」
「お前、本当に魔法使いなのか?」
「古風な定義なんかどうでもいいの。私は、客観性のない危険な物をつくりたくないだけ」
「よく判らんな」
肩をすくめるジェスチュアの魔理沙。
アリスはその態度を見るや、だん、と拳で机を叩いて静かに言った。
「自分で考えて、自分で動いて、他人に害を加えるような人形が出来てしまったら、一体どうするの?」
魔理沙は音に驚いて身を引いた。それに一瞬遅れて言葉の内容を把握する。それを私に言われても――と指摘しようと思って止した。
アリスは頬杖をつきながら、よく判らないんだけど……と続ける。
「嫌なのよ。自分のつくったものが、他人の邪魔になってしまうのが。だって、自分自身で物を考えて動く子なのよ? なら、ずっと私のそばに留まってなんか、いないでしょうね。だというのに、もし、最初から他人と上手くやっていけないように造ってしまったり、私に怨みを持つような子になってしまったら、きっと見てらいられない。
全ては造ってしまってから――理論立ての目処が立ってから考えよう、なんてのは許されない。これから心を一個つくろうとしているのに、最初からそれを否定しているのと同じだもの。それではあんまりだし、完成もしないでしょうね」
「……ああ」
それはなんとなく魔理沙にも判った。
ただ正直を言って、自分のその気持ちは、アリスの抱いているものよりは不確かだとも思った。
「つまり、あんたの言うとおり、煮詰まってるのよ。ええそうなんです」
アリスは空いた手で、机の上で上海人形をくるくると踊らせ始める。
「矛盾しているのよ。自立した人形を作りたい、でもその子に嫌われたくもない、なんてのは……。
嫌われる覚悟がないのかも。そもそもやろうとしていることが間違ってるのかも。それとも、つくってしまったその子を上手く導いてあげられる自信がないのかもしれない……。
泥沼なのは、判っている、けれど、これを考えておかないことには、うん……」
「苦悩だねえ」
アリスが上海を放って、顔を両手で覆い始めたので、魔理沙は苦笑した。自分にもよくあることだ。
ああ、とやがてアリスが言った。
「何故こんなこと、あんたなんかに喋ってるのかしら。馬鹿みたい……」
「信頼の証だろうな」
「……」
返事はなかった。空疎な言葉が宙にプールされる。
アリスは黙ってしばらくそうしていた。魔理沙は居心地が悪かったが、そこを離れる訳にも行かず彼女の返答をずっと待っていた。
やがてぱたりと、机の上に雫が落ちた。
白い指の間から滴ってこぼれて来る。
魔理沙はまた、うわ、と言いそうになった。
「あああ、もう、泣くなよ……」
「余裕がなくって、悪かったわね……」
「だっから別に、そんなこと思ってないって……」
ああこういうことだったのか。慌ててアリスの背中をさすり出しながら、魔理沙はそこでやっと気づいた。
自分の認識を固める――頭に知識を入力し、考えるだけの作業は、確かに煮詰まりやすいのだ。目で見えないから、どこまで進捗したかが判りづらい。説明書きや論文を記したところで、興味を持って読んでくれる人物も殆ど居ないだろう。
その辛い状況の中に、霧雨魔理沙という盗人がいかにも楽しそうに入り込んだのだ。
「だって魔理沙、今こそ必要っていう本まで持って行くんだもの……」
「う、すまん……」
アリスはついにしゃくりあげ始めた。喋っていて更に悲しくなってきたのかもしれない。
――私の気持ちってものがあるだろうが。
アリスが来た最初の日に自分が言ったことを思い出し、魔理沙は頭を掻き毟りたくなったが、じっと耐えて彼女の背中を撫でた。
机の上から、ひらりと羊皮紙が落ちた。魔理沙はそれを拾い上げて目を通す。
複雑でよく判らなかったが、それは新しい可動人形の心臓部分の仕様を途中まで纏めたものらしかった。
「お前、これも、同時進行させてたのか?」
アリスは机に伏せたまま、弱々しくうんと頷いた。
「……だって、手動かしてないと怖い……」
(……そりゃ嫌にもなるぜ)
魔理沙は半ば呆れて溜息をつく。あとの半分は自省だった。
勝手に押しかけて来て勝手に泣いて……とんでもない奴だと思ったが、かなり進退窮まったところまで追い詰められていたのも本当なのだろうと、許してやることにした。
そしてもう彼女にはどうすることも出来なかったので、その後しばらくはアリスの横に居て、黙ってその肩を叩いたり背中をさすったりした。気の済むまで泣かせておいた。
声を聞きながら、泣くときまで我慢したように泣く奴だと思った。
こいつも私もデフラグメンテーションの時期だなあと、魔理沙は拾った羊皮紙に目を通しながらぼんやりと考えていた。
◆
次の日の朝。
「ちょっと行ってくるぜ」
朝食を食べ終わるや、荷物で膨らんだでっかい鞄を箒にくくりつけながら魔理沙が言った。
「ん、どこに?」
泣いて多少は機嫌を直したらしく、語調の固さのとれたアリスが皿を片付けながら訊く。
「ちょっと山へな。芝刈りだ」
「……?」
私は洗濯でもしたらいいのかしら、と軽口を叩こうとしてアリスはやめた。おじいさんとおばあさんは多分夫婦だ。
「随分大きな荷物じゃないの」
彼女がえんじ色の古鞄を見遣りながら言うと、魔理沙はああ、と頷いた。鞄の口から飛び出た寝袋が上下に揺れる。
「泊りがけになるかもな。ちょっと留守番しててくれ。勝手は大体判るだろ? もう」
「判るけど……何してくるつもりなの?」
「実験で使うものがあるんだよ。採ってくる」
「ふうん。きのこじゃないのね」
おうと頷くや、魔理沙はぽいと、アリスへ家の鍵を放って渡した。
そして乱暴に扉を開け、行って来るぜーとドップラー現象を残しつつ、妖怪の山の方の空へ飛んでいってしまった。
アリスは呆気に取られながら小さくなっていく彼女を見送っていたが、やがて開けっぱなしにされた扉を冷静に閉めると、後片付けの続きをすることにした。
「まったくもう……」
元気な奴でうらやましい、と彼女は一人でつぶやいた。
「にしても、水晶、ねえ」
魔理沙は箒の上で、昨日の羊皮紙を太陽に透かして眺めてから頭を抱えた。それは、アリスが泣いている間に拝借して来てしまったものだ。これで諦めて勉強に集中するだろう。
どうやらこのアリス製の仕様書案に拠れば、人形の心臓に水晶を使うのだそうだ。原理はよく判らないが、大雑把に見る限り、その水晶に予め魔力と命令を入れておき、アリスの操作なしに動かそうというものらしい。無論自立して動ける訳ではないようだが、ちょっと面白そうだなと魔理沙は思った。
ただその水晶というのが問題なのだ。実際かなり貴重で、図鑑にはよく載っているが、彼女は原石を殆ど見たことがなかった。
うちにある水晶玉では駄目だ。既に道具としての意味が付加されてしまっている。原石を加工したものを用いなければ、理屈が合っていても人形は動かないだろう。
羊皮紙には赤字で、水晶が不足していることが確りとメモしてある。
魔理沙は水晶原石を探し出し、それをアリスに渡そうと考えていたのだった。今回は、ちょっと本気でフォローしてやるつもりだった。
――生命倫理?
そんなお高く止まった話題になんか、ついて行きたくもない。高尚なモラルを考えられるのは暇な奴の特権。そして自分には暇な時などない。だから、そちらの方面で手を貸すことは不可能だと考えていた。
自分に手助け出来るのは本当に物理的で、目に見える判り易い支援。それだけだと魔理沙は思う。
魔理沙は昨日の内に、いつか紅魔館図書館の資料で見た水晶脈について書かれた記事を思い出していた。そのおぼろげな記憶を頼りに、彼女は山の方へ向かっていたのだった。
場所が場所だ。間違いなく妖怪と出くわすだろう。詳しい場所は連中をとっちめるなりして聞き出せば良い。
そう考えていたのだが。
「あ……?」
そこで魔理沙は変なものを見た。二〇〇メートルくらい北東の空に、何かが浮いていた。
彼女は気になって目を凝らす。
人の形をしている。
そして、そいつは、どうやらこちらに向かって小さく手を振っているらしいことがわかった。大きな身振りや声で自己主張しようとしないのが、何処か気持ちが悪い。今私に見落とされていたら、あれはどうするつもりだったのだろう。
いや、それとも、確実に目に入る場所に、計算して存在しているのかもしれない。
誰だかは判った。
うん……無視しよう。見なかったことにしよう。
そう決め、速度を変えずに、進路も変えずに、真っ直ぐ前を向いた時だった。
「おはようございます」
何百メートルも向こうに居た筈のそいつが、微笑みながら自分の箒の前の方に腰掛けていた。八雲紫だった。
彼女の大きな傘の影が落ちている中で、魔理沙は表情を変えなかった。もう慣れてしまっていた。
「……ひとまず降りろ。魔力の無駄になるんだ」
「あら、ごめんなさい」
箒を空中で停車させて、魔理沙は少し嘆息した。捕まったか、とだけ思った。
紫はよいしょと箒から降りると、徒歩で空中を移動して彼女の正面へ回った。
やはり普通の表情で魔理沙は訊く。
「で、何の用なんだ?」
「魔理沙が水晶を探しているんじゃないかと、空想してただけですわ」
「探していないぜ」
紫は何故か嬉しそうに微笑んで、首を傾げた。
「あら、見えたんだから。その羊皮紙。但し現在は水晶の予備なし、七月一八日。アリスの筆跡の赤字。そこに向かっているあなたの視線」
魔理沙は少し顔をしかめる。
「空想って言わないだろう、それは……」
「貴女の口から、そうだと言ってもらわない限り空想なの」
私一人がそうだと思ったことに、どれほどの意味があるのかしら、と紫は言う。
「別に私とアリスが欲しい訳じゃないが。お前は、水晶が採れる場所を知ってるのか?」
「ええ。だからお困りならば、手助けしてあげようと思いまして」
「無償でか?」
「うん。採掘道具一式貸してあげるよ」
魔理沙は呆れたように首を振った。
「じゃあどっか行け。オマケ付きより怖いものはないんだ。抱き合わせとかな」
「ああ、ほんとにアリスに水晶をあげるつもりなのね。いいなあプレゼント?」
私贈り物って一回も貰ったことがないの、と彼女は楽しそうに訊く。
「ああプレゼントだ。クリスマスのを用意をしておくんだ」
幻想郷は北半球で、今は夏である。
魔理沙は何もかも面倒になってきたので嘘を白状した。曲解されても別にいい、と思う。さっさと場所を教えてもらって一刻も早くこの妖怪のそばから離れたかった。
書くもの貸しなさいと紫が言ったので、魔理沙は素直に荷物の中から羽根ペンと羊皮紙とインク瓶を差し出した。受け取った彼女は少しの時間を使ってさらさらと地図を描き、それを魔理沙に渡した。
なんだかなあと思いながら目を通せば、それには、丁寧にも文章や簡単な図によるフォローまで付け加えられていた。魔理沙は複雑な気持ちになった。
「……すまんな」
「やりたいことを好きなだけ、やってるだけですわ」
あ、それから、と紫は何処からともなく革の手袋を出して魔理沙の胸に押し付ける。そして、布の手袋では繊維の間を結晶の細いものが突き抜けてくることを説明した。
「……」
なんか至れり尽くせりだった。何故こいつは自分が軍手しか持ってきていないことを知っているのだろう……と魔理沙は疑問に思ったが、それを考えると恐ろしいことに思い至りそうになったので止した。
それに、何故を問うことに、これほど無意味な奴はいない。
そこでどうしてか、彼女を疑っている自分が少し情けなく思えてきたので、魔理沙は素直にお礼を言っておくことにした。
「まあ、ありがたく借りておくぜ。助かる」
「いいえ。貴女が死んだら返すんでいいわ」
「ああ。河を渡る前に取りに来な」
渡し賃になっちゃうからな、と魔理沙は付け加える。
紫は頷いて、ではまたねと言って彼女に手を振ると、明後日の方向に向かって空中をてくてく歩いて行ってしまう。魔理沙はその背中をしばらく眺めていたが、また、一瞬目を離した隙に彼女の姿は見えなくなっていた。
ふう、と溜息をつく。
内容を確かめるでもなく地図に目を落としながら、魔理沙は少し黙考した。正直に言って……手放しには喜べなかったが、彼女は頭を切り替えて山へ向かうことにした。
何か紫の目論見の歯車にされるのであっても、今利害が一致していればそれで構わない、と結論づけた。
◆
西側の斜面の一角、そこが採掘場だと地図には示されていた。天狗が空けた孔があるらしい。
それを確認しながら、まず、魔理沙はそことは別の場所に天幕(テント)を張っておくことにした。どれほどの頻度で採れるのかは判らないが、今日一日で水晶原石が見つからなかった場合、夜に寝床を確保し始めたのでは遅い。
二時間ほど、川沿いを上流に向かって移動した。天幕を設営する場所は、当然水場のそばがいい。
やっとのことで見通しの良さそうな河原を見つけ、箒を着陸させる。雨で川が増水しても寝床が浸されないように位置を考え、持ってきた革の天幕をそこに張り、その近くで、森の胞子を混ぜた香を焚いた。妖怪除けである。
「うん、よし」
満足げに手をはたき、嬉しそうに魔理沙は笑う。
この場所ならば、地図を見る限り、採掘場まで飛んで行って三〇分もかからないだろう。
気力の残っている内に小さい樽に河の水を満載し、テントの中へそれをいくつか放り込んでおいた。それから、もう昼に差しかかっていたので、乾パンで食事を済ませることにした。探しに出かけるのはその後だ。
(……これは紫様々かもしれんな)
大きな丸い石の上に腰掛け、ランダムに陽光を反射する河の流れを見つめながら、魔理沙はぼんやりとそう考えた。天狗のテリトリーとこの場所とは遠いせいか、紫と別れてからここへ来るまで、河童はおろか、哨戒妖怪さえ見つけられなかった。彼女と鉢合わせていなければ、ノーヒントで闇雲に岩のむき出しになった山肌を叩く羽目になっていたかもしれない。
(まあ、この地図が全部嘘って可能性もあるんだが)
その時こそ紫以外の妖怪に訊くしかない。
だが、どうせ山から追い出されそうになる局面はあるだろう。その時相手に訊けばいいと思い直した。
缶の中の半分を食べたところで、魔理沙は大きい鞄の中に乱暴にそれをしまう。代わりに槌と何本かの楔を取り出し、貰った革手袋と一緒に別の小さい鞄の中に突っ込むと、それを背負って箒にまたがり、すぐさま空へ飛び上がった。
改めて見ると妙に読みづらい地図を試行錯誤しながら辿っていくと、やはり西の斜面に、大人が一人通れるくらいの横穴が開いていた。
(ここかね)
孔の脇の斜面に、慎重に箒で着陸する。傾斜は急で、非常に危険だった。孔の外へ出て休憩することは難しいように思えた。天狗の採掘場らしいなと魔理沙は思う。
入り口をくぐり、ランタンを提げて中を進むと、分岐はなく割とすぐに突き当たりに着いた。奥へ進むに従ってどんどん狭くなっており、身を屈めなければならなくなったが、入り口からの光はまだ見える。
そこまで掘る必要があったということは、最奥で目当てのものが採掘し易いことは間違いないだろう。魔理沙は一旦少し引き返して幅の広い場所に荷物を置くと、そこから道具を取り出して最奥へ戻り、そこに跪いてみた。
だが、正直な所、彼女は石堀りのコツなど知らなかった。石英の脈が流れているならば、壁に白い部分が出てくるだろうと考えつくくらいである。
ランタンをかざしてぐるりを見回してみた。白い部分は、あるのかもしれないが、一見しては判らない。
「……」
ひとまず、腰を落ち着けてやってみようと決めた。
楔と槌を鞄の中から取り出すと、彼女は、慣れない手つきで慎重に岩肌を削り始めた。
◆
四時間も槌を振るい続けた頃には、魔理沙の周りは岩盤から剥がされた細かい石で一杯になっていた。
「んーむ」
洞窟に声を反響させながら彼女は唸る。手袋を外して汗を拭う。
水晶はまだ見つからない。白っぽい小粒の石英はいくつか出て来たのだが、それを全部合わせても、あの仕様書に書かれていた水晶の量には満たないように思えた。
スコップで石の屑をすくって外に運ぼうとすると、孔の外が緋色に染まり始めているのが見えた。時計を見ると、もう一七時近い。
(……今日は引き上げるかな)
早めにキャンプに戻っておかなければ、山の妖怪が起きてくる。
魔理沙は溜息をつくと、道具類を全て鞄に仕舞い、箒を取って渋々立ち上がった。
洞窟から出ると眩しくて目を開けていられなくなった。真正面に、沈んでいく夕日があったからだ。殺人的な光をとっさに手のひらで押さえ込む。
だが目が慣れた頃には、思わずその光景に見入っていた。疲労と敗績感を、その時だけは忘れた。
壮観というより他にない。地平の果てまで続く魔法の森に、文字通り火の玉が沈んでいき、木々を紅葉のように染め上げていた。そしてこの高さから雲海がまったく望めないのは、快晴の証拠だった。
なんて赤さだ、と彼女は思わず呟く。
北側には、湖の向こうに模型のように小さな紅魔館も見える。
そこに住む彼らにとって、この景色は、日の出に違いないなと魔理沙は思った。
テントに戻り、また乾パン(だが木苺のジャム付き)と水の夕食を済ませると、魔理沙は妖怪除けの香を消して薄明るい内に床に就いた。
しかしなかなか寝付けなかった。まあ、普段の生活サイクルと違うからだ。
それでも意図的に目を閉じる。今の自分には、睡眠以外に必要なものは何もない。
瞼の内の闇の中で、彼女は色々なことを考えた。
妖怪の山で寝泊りしたのは初めての経験だった。帰ったら香霖に自慢しよう。危ないからもう二度と行かない方がいい、とかそんな、捻りのある一般論で諭されるのは判っていたが、目的は彼のその真面目くさった顔を眺めることだ。
霊夢は……いやあいつなら此処に住めるな。自慢にはならなそうだ。だが紫が出張ってきたことを教えたら、それが何故だったのか、あれこれ話す種にはなるだろう。水晶が沢山見つかったら、あいつに分けてやってもいい。
その後で、頭の中に浮かんできたのは、机に伏せて泣いていたアリスの背中だった。
自然に想起出来たあたり、まだやる気は大丈夫そうだ……と魔理沙は少し無理に冷静ぶりながら思う。
今あれが自分の家に一人で居るんだと思うと、妙な感じがした。
アリスの目的は、短絡的な部分だけ言えば自分と暮らすことの筈である。ならば、もう帰ってしまっているかもしれないなと魔理沙は思った。家具や荷物の移動を面倒がっていなければ、だが。
機嫌も少しは持ち直していたようだし。
(しかしまあ、それとこれとは、別だ)
自分の気が済むか済まないか。魔理沙にとっては、そちらのことの方が重要だった。
――そうこう考えていると、天幕の外で物音がした。
河原の砂利の音。同時に雫が滴るような音も混じっている。
一定のリズムをもって近づいてくる。
足音か。そう判断した魔理沙は瞳を開いた。しかし起き上がりはせず、五感に神経を集中した。枕元の八卦炉を手元に引き寄せて、それにじわりと魔力を蓄積させる。
二足歩行。どうせ妖怪。
天幕ごとひっくり返されるかもしれんな、と呑気に思う。そうなったら即刻レーザーをぶっ放してやるつもりだった。
だったのだが、
「もしもぉし……中にいるんだろう?」
近づいてきた誰かは、何か随分びくびくしながらそう訊いてきた。おそるおそる天幕を叩いている。
「いないぜ」
魔理沙は八卦炉の射出口を人影の方へ向けながらそう言ってみる。
「お。やっぱり、霧雨魔理沙じゃないか」
「違うぜ」
「ほらあ」
「……」
なんで私の嘘はすぐばれるんだろうと思いながら、渋々魔理沙は天幕の蓋を開けた。
「……よう河童」
「やあ人間。久しぶりい」
やっと変なにおいが消えたーと、魔理沙が許してもないのにのそのそ天幕の中に入ってきたのは、河城にとりだった。相手が知り合いだと見るや、なんか厚かましい態度になっていた。
「……ひとまず、水を払ってから入って来いよ」
魔理沙は目頭を抑えて外を指差す。
そうだった、とにとりは言い、水色の園児、いや作業服を天幕の外でばさばさとはたいて来た。あああれ防水とかじゃないんだ――と魔理沙は心中で突っ込んだ。いつも着衣泳らしい。厚手なので透けてはいない。
改めて入り口をくぐりながら、にとりは嬉しそうに微笑んだ。
「なんか頑張ってるみたいじゃないの? かきんかきんと」
「ああ。……って、何でお前がそれを知ってるんだ?」
「椛ちゃんに聞いたから」
魔理沙は首を傾げた。
「もみじちゃん?」
「んん? 知らない? 白狼天狗の椛ちゃん。あの子はお前さんの顔、覚えてたんだけどねぇ」
ああ薄情なんだ、とにとりはオーバーアクションで呆れてみせた。
「名乗りもしないで襲いかかってくる奴のことなんかは、忘れたんだ」
「なんだ、覚えてんじゃないの」
「知らないぜ」
「……まあいいけどさあ」
ともかくね、とにとりは続ける。
「あそこって天狗の採掘場でしょ。だからもうお前さんは、とっくに天狗に見つかってるんだよ」
「だろうな。何で昼間襲われなかったのやら」
よっぽど対応が遅いのかね、前に比べて組織が大きくなり過ぎたのか? と魔理沙は判ったような皮肉を言う。
にとりはしかし真面目に首を振った。
「いやそうじゃなく。監視でいいってことになったのよ」
魔理沙は顎を撫ぜながら、ほう、と呟いた。
「私はもしかしたら妖怪の山を征服する気かも知れんぜ? なのに放っておくのか」
「いやむしろ事を構えると面倒だ、ややこしくなる、って」
にとりが真顔で答えたのに、魔理沙は苦笑を返す。
「嫌われたもんだな。それで、お前が監視役なのか」
「いかにもそういうこと。ここが天狗より河童のテリトリーに近いせいもあるし、まあ、知り合いのつけは知り合いが持てとさ。ただ、あの場所より少しでも上へ登ったらとっちめる、とも言ってたよ」
随分寛容になったものだ、と魔理沙は思う。しかし、少しでも調子に乗ればそこそこ本気で潰しにかかられるだろうと過去を振り返りながら考えた。危険なことに変わりはない。
「それにあの採掘場は、もう殆ど枯れてるらしいからなあ」
だから放っておかれてるんだろうね、とにとりは付け加える。
魔理沙は顔をしかめた。
「なんだ、そうだったのか?」
あの程度の規模の孔で、しかももう殆ど採れないということは、元々この山は鉱山ではないのだろう。紫の知識も旧いものだったのかもしれない。魔理沙は考えながらまた訊いた。
「私としては、水晶の原石が手に入ればそれでいいんだが。何処か別の採掘場所か、原石そのものを持ってる奴を知らないかね?」
にとりは首を振る。
「私たちが知る限り採掘場は他にないし、こっちとしても、水晶は万年不足中なの」
「天狗達のところにもなさそうか?」
「それはわからんよ。ただ、あっても、間違いなく譲ってなんかくれないだろうね」
入山させてることが最大の譲歩だと思いねえ、とにとりは鼻を鳴らす。それもそうかと魔理沙は思う。
リミットは食料が尽きるまでだなと彼女は思った。一旦家に戻って補給をし、それ以上採掘を試みるのは馬鹿だ。それではアリスのためになってしまうような気がするし、自分は鉱夫ではない。手段と目的を取り違えてはならない。
そうこう考えていると、にとりが言うことを思い出したように訊いてきた。
「ああ、ところでところで。お前さん、一体どこで天狗の採掘場を紹介してもらったの?」
「ん……それは、紫っていう、少し頭のおかしい妖怪に教えてもらったんだ」
魔理沙は若干嫌そうに顔をしかめながら答える。
「苗字ある? そいつ」
「やくも。八雲紫だな」
「……聞いたことあるようなないような」
むむむとにとりが悩んでいる内に、魔理沙は例の地図を出して見せた。
にとりは興味をそそられたようで、黙ってそれを二分は見ていた。顎を撫ぜたり姿勢を変えたりして、魔理沙が段々飽きてきた頃に彼女は言った。
「おかしいねこれ。紙に、無理矢理立体図を押し付けたみたいに描いてある。その妖怪って、レティクル座を図説出来るヒル婦人かなんか?」
「単にメルカトルってだけじゃないのか?」
「なにそれ」
話が全く噛みあわなかった。二人は互いに十五秒くらい黙っていた。
クエスチョンマークで一杯になった場をとりなすように、にとりが切り出す。
「ともかくね、そいつ、無為に天狗の情報を流布するはやめた方がいいね。何で枯れた採掘場の在処なんか知ってるのか知らないけど、あっちとしては心象良くないだろうから」
「紫がどうなろうと、私の知ったことじゃないわけだが」
「見つけたら、出来たら忠告しといてよってことさね。そいつでなく、天狗のために」
「そのくらいならいいが……」
言った所で聞く奴なのかどうかという疑問を、魔理沙は飲み込んだ。
微妙な表情をしている彼女に、にとりはまた訊いた。
「でさ、なんで水晶が必要なんだい。振動子でもつくるの?」
不意を突かれて、魔理沙はその問いにすぐに答えを返せなかった。少し考えた後で話す。
「……まあ、つくりたいものに使いたいって奴が居たもんだから。水晶を」
「それ友達? というかつくりたいものって何かね」
にとりが若干輝いた目を魔理沙に向ける。問われた彼女は「いっぺんに訊くな」と苦笑した。
「友達というか腐れ縁だな。つくりたいものってのは……ほれ、これらしい」
魔理沙は鞄から例の羊皮紙を出すと、ぶら下がっているランタンの明かりの下にそれを拡げた。
「……」
にとりは何も喋らず、また暫くそれに目を通した。やがて、見解をこう述べた。
「これは……何の為の道具なの? 色々ともの凄く丁寧に見えるんだけど、用途というか……ちとつくる意義が理解出来ないな」
「だろう。実は私もそう思うんだ」
にとりはそれを訊いて首を振り、
「……ほら、そうやって誤魔化すなよ」
ふざけて喋った魔理沙に対し、真顔で言う。
「興味がないんなら、お前さんは材料集め手伝ったりしないと思うけどね、私ゃ」
「……」
鋭い所を突かれ、魔理沙は少し驚いた。
そうなのだ。
勿論、アリスへ借りを返しておかないと気が済まないという気持ちの方が大きいが、この人形の完成が見てみたいと思ったこともまた、魔理沙の本音だった。真実がらくたと判断したならば、確かに放っておいたかもしれない。
アリスと糸で繋がっていない人形、
リアルタイムで命令を送られない人形、
本質的にマリオネットとは違う人形。
無論、人形が自分でものを考えて動ける域には達していない。だが物理的にアリスの手から離れたその人形が一体どう動くのか、魔理沙は少し観察してみたかった。
頬杖をつきながら明後日の方を向いて、彼女はにとりの問いにそこそこ真面目に回答しておく。
「……使途とか意義とか……この人形の創り手は、普段からそんなこと考えない奴だと思うぜ」
にとりはああ、と納得したように頷いた。
「それが、魔法使いってやつだったねえ」
「うむ」
あいつが今倫理を勉強しているのは、多分罪滅ぼしじみたことなのだろうと魔理沙は思う。何の罪滅ぼしなのかと問われると、それはまだどこにも存在しない罪だからよく判らないが……おそらく人形供養と同じことだ。先に謝るか後に謝るかの違いでしかない。
にとりはしばらく黙って何か考え込んでいたが、やがて言った。
「じゃあ、その子は……人形のお母さんになることが目的なのかもね」
女の子なんでしょ? と羊皮紙の図案を眺めながら彼女は訊く。
少しの間があった。
その後、魔理沙は目を丸くしながら返した。
「ロマンチストだったんだな、お前って」
おうともよ、とにとりは答えると、無邪気に嬉しそうに微笑んだ。
◆
――三日後
「――ああ、くそ」
見つけた屑石英を河原にばらまいてやりながら、私はそう唸った。地団駄踏む元気はなかったと思う。
水晶原石はまだ見つからなかった。あそこは殆ど枯れているというにとりの情報はどうやら正しかったらしい。
その夜の食事は沸かした湯で紅茶を淹れた。しかし定番の乾パンの缶を漁ってみると、なんともう残り一つになっていた。今日の昼までにほぼ一食分多く食べてしまっていたようだった。
「どうやら、炭水化物切れだぜ」
忌々しく思いながら最後の一つを一口で食べ、缶を天幕の中に放り込む。
「きゅうり食べる?」
「すまん」
隣の岩に腰掛けているにとりが、バックパックから緑の野菜を出して渡してくれた。それだけではなんだか味気ないなと思ったので、口の中の乾パンを飲み込んだ後で、川に浸けておいた瓶を引っ張り上げ、その中に残っているジャムをきゅうりにつけて食べることにした。
「うわまずそ……せめてプレーンで食べて欲しかった」
「メロンみたいな味がするぜ」
だがにとりに勧める気にはならない。糖分が摂れるからつけただけだ。虫の声と、川のせせらぎと、顎の骨を通して植物細胞を噛む音がしばらく聞こえていた。どこで収穫しているものなのかは判らないが、それがものすごく新鮮だということだけは私にも判った。
きっと微妙な表情をしていたんだろう。私がきゅうりを食べているのを見ながら、にとりが訊いてきた。
「明日からどうすんのさ。食料それで全部なんだろ?」
「まだ何も決めてないぜ」
それは嘘だ。この夜で食料が尽きるのは予想していたことだったし、そうなったら帰るつもりではいた。だが本当に今まで採れないなどとは夢想だにしておらず、実際そうなってみると帰ろうという気が起こらなかったのだ。
「きゅうりなら山ほどあるけど」
「貰えるものはみんな貰うぜ」
そう言っても、しかし、現実的にきゅうり三食で採掘作業をこなしていくのは無理だろうと思う。単純にエネルギーが足らず、すぐに動けなくなるだろう。
どうすべきかと少しの間だけ考え、私は思いついたことを口にした。
「ああ、もはや一日だけ、きゅうりでしのいでみるか……?」
にとりは、本気か? という顔をこちらに向けた。
「無理しない方がいい。ひとまず自分が人間の女の子だってことを忘れるな。というか、多分、すぐにいたんじゃうしね」
あんな風通し悪いところじゃ半日もつかどうか、と彼女はさも美味しそうにきゅうりをかじる。山では、お腹を壊してしまったらそこで割とゲームセットである。昼間川まで降りて来て彼女を呼び出すことも非常識だ。きゅうり案はやはり没にした。
現実から目を逸らしたくなって空を見上げると、月も輪郭をぼかした朧月だった。雨天の予兆だ。寧ろ今まで、そこそこ標高の高いこの場所で、ずっと晴れていたことの方が不思議だった。
くそ、と悪態をつく。山に、うちへ帰れとせせら笑われている気がしてならない。
だが私は、まだ諦めきれないでいた。何も見つからなかったのだとアリスに説明している自分を想像すると、かなり愕然とした気分になる。
後ろ盾もないくせに、私は決然と言った。
「明日は、出来るところまでやる。無理はなしにな」
「……私は止めたからね」
「ああ、確かに止められたぜ」
昼まではもつだろう、と私はここに来て楽観することにした。――冗談抜きでへろへろになるだろうが。
次の日の作業は過酷を極めた。
朝、キャンプを引き払う時に、にとりに貰ったきゅうりを詰め込んでは来たものの、二時間ほど手を動かしているとすぐに空腹になってしまった。外はもう雨が降っていて、孔の中は湿度が上がりっぱなしになっている。ランタンの明かりさえ気温を上げる原因になっていそうで、鬱陶しかった。
「は……」
時々入り口まで行って深呼吸をした。空気を胸一杯に吸い込むと意識がはっきりする。そのことで私は、孔の中は本当に空気が悪いのだと まざまざと実感させられた。
午後も過ぎると、途中途中意識が曖昧になってきた。白く飛ぶ。眠い。頭を振ってみると、真綿に包まれた鉛玉が入っているようにずきりと痛んだ。
ただ身体がこっぴどく疲弊したせいだろう、余計なことを何も考えなくなったので、手だけは動いた。岩壁に楔を打つルーチンを繰り返す手を、私自身が茫洋と眺めていた。
それを神がかった、というのか、何かに取り付かれたように、と表現したらいいのか、どちらとも知れないが、時が過ぎるのが驚くほど遅く感じられた。私の時間が狂ったように速いスピードで動いていた。
疲れた。
だが身体は動く。
動くのが面白いから放っておく。
おそらく、意識がはっきりしていた時よりも、その状態になってからの方が長かっただろう。あいつはこんな遠い所まで魔法の糸を伸ばせたのか、へえ、と、訳の判らないことを考えた。そもそもあいつって誰のことだっけ?
手は勝手に動いてくれるので、頭を使って暫くそのことを考えた。十分も考えていただろうか、おぼろげに、小さなマリオネットたちを扱って踊る、青い服で金色の髪の少女の姿が思い出された。
ああ、アリスか。アリス・マーガトロイドだ。
やっと判った。
彼女の顔まで思い浮かべられるか否かという丁度その時に、突然手が動かなくなって目の前が真っ暗になった。
◆
魔理沙が出て行って三日が経った。
ぼうっとした頭でベッドから這い起きて、彼女の部屋を確認し、リビングを見、実験室を覗き……そのどこにもあの白黒のとんがり帽子がいないことを確認すると、私は一人で溜息をついた。
正直を言って、心配だったのだ。
行き先で何かあったのかもしれない。
天候が気になって窓から外を覗くと、午前中から大降りでも小降りでもない雨が降っていた。
「……」
最初この家に訪れた時の意地などは、別にもうない。運びきれなかった荷物を燃した、と言ったのも、彼女の反省心をあおるための嘘だ。本当は頃合を見て、元の生活に軟着陸させていくつもりだった。
それが――あんなことになった。魔理沙の前であんな風に子供みたいに泣いてしまうなんていうのは、一生の不覚だ。今思い出しても顔から火が出そうなほど。
しかし、それを差し置いても、今の状況は彼女を心配するに足る。
泊りがけになるかもしれないと行って出て行った奴が、もう何日も帰って来ていないのはおかしかった。
私は本を読みながら一時間くらい悩んだ挙句、彼女を探しに出ることを決断した。山の方へ飛んで行ったらしいということ以外にあてがないので、長時間の外出を覚悟し合羽を着込んで行くことにした。
もはや、この心配が、取り越し苦労かどうかなど関係ない。
魔理沙から受け取った鍵で玄関をロックし、即刻飛び立とうとすると、視界の端に誰かが見えた。
「ごきげんよう」
「あら、ごきげんよう?」
前者は相手で、後者は私の挨拶だ。何処かぼんやりとした表情で、八雲紫が庭の樹の下に立っていた。今日彼女が持っているのは雨傘のようだった。
だが――何の用で訪れたのかは知らないが、この子と関わっている余裕はない。相手が何か喋る前にと私は言った。
「ごめんなさい。悪いけれど、あんたの相手をしている場合ではないの」
「あら何故?」
紫は、私が魔理沙の家から出てきたことに然程驚いていないようだった。何故だろう?
「魔理沙を探さなくてはならないの。黙って何日も家を空けているの」
だがそんなことを気にしてはいられないのだ。それじゃあねと挨拶して踵を返そうとすると、彼女がぽつりと言った。
「失くした人形の、設計書」
私は驚いて振り返る。紫は表情を変えないまま続けた。
「魔理沙がそれを持って、妖怪の山に行くのを見たわ。水晶を探しに行ったみたい」
「――なんですって?」
思考が凍りつく。私は、それ以上なにも考えられない――いや考えたくない状態に陥った。目の前の彼女を凝視したまま動けなくなった。
紫は無表情に目だけを細める。知らず睫毛の長さを強調させながら彼女は云う。
「なんですって……? なんですって、ですって? 知らないふりを、しているの?」
「私が? 何を……」
紫は私の言葉を遮断したかのように続ける。
「ねえ……大事な設計書がなくなって、何日も経っているのでしょう? そのことを敢えて看過したのは何故? それとも、無意識に見過ごした理由があるのなら、そうと思われる理由を、判る限り教えて欲しいのだけど」
後学のために、と彼女は不思議そうに首をかしげながら云う。実際彼女は、試験管を観察するような視線で私と目を合わせていた。
私は、ゴルゴンに敗れた騎士のように、身体を静止させたまま考えた。
見過ごした……?
本当にそうなら、何故私は見過ごしたのだろう。
いや、何の目的があって、見ないふりをしたのだろう。
否、そもそも、自分が設計書をなくしたことに気づいていたのか? 魔理沙が持っていったと気づいていたのだろうか?
……数秒黙考した。
――どうやら気づいていた、らしい。
あの羊皮紙が消えていたのは、自分が羞恥をさらした次の日から。魔理沙が家を空け始めたのも同じ日からだ。関連性に感づかない方がおかしかった。
だが、そう薄々気づいていた様々なことを、今日になるまで、私は三日間も放っておいてしまっている。
一つ、やることが――手を動かす作業が無くなっていたというのに。
同居人が、何日も帰ってこないというのに。
何故か放置したのだ。
「まあいいや……判らないんなら」
黙って動かなくなった私に痺れを切らしたのか、飽きたのか、彼女はかぶりを振ると、つまらなげに何かを放った。私の足元の泥の上にぱしゃりと落ちたのは、見覚えのある布の手袋だった。
「……」
黙ってそれを拾い上げ、私はゆっくりと紫に視線を戻す。
「せめて革のでないと、採掘作業なんて出来ないの」
彼女は独り言のように云う。
私はその言葉を無視しながら訊いた。
「あなた、魔理沙をどうしたの」
「ねえ、ビスケットさん?」
しかし相手も私の言葉を聞かない。
びすけっとさん? と私は訊いた。きっと貴女のことよ、と彼女は他人事のように答える。
「研究が辛い、という本音を、相手を利用して良いということの口実に変えてしまったのは、いつから?」
そこがなんだか解せないのよねえと、彼女は瞳を地面へ向けながら続けた。
「そう、わざわざ……純真だったスタンスを、ずるい手法に応用してしまったのは何故? ということ。そこが、知りたいのよ。そういうのって、女の子の、本能なのかしら」
「……」
「ああ、それが、善い悪いというくだらない話をしたいのではないの。純粋な興味」
彼女は頷きながら上品に微笑んでみせた。
「あなただって……女の子じゃないの」
私は顔から血の気が引いていくのを感じながら訊いた。
「判らないものは、判らないのよ」
はにかみながら笑ったその顔に向け、私は黙って魔力を補填した人形を向けた。何をしているんだろう――と、冷めた状態でその行為を観察しているもう一人の自分が居るのが判る。
「空間を繋いで。今すぐ魔理沙の所へ案内なさい」
「嫌」
紫は唐突に笑みを殺して即答する。
「そろそろ貴女のこと、馬鹿って言ってもいいかしら?」
「――っ」
私はその言葉を聞くや、黙って踵を返して、雨天に向けて飛んだ。
この妖怪とこれ以上話しては――いけないと思った。
また情けないことに、涙が出そうになる。
近頃はどんどん、魔力が失われていっている気がしてならなかった。魔法使いは泣いた分だけ力を失うという迷信があるのだ。
雲は厚い。
大気は熱い。
雷が鳴る前に、彼女の所へたどり着かなくてはと、私は歯を食いしばって前を向いた。
何日も空けたということは、何処かでキャンプしたのだと信じたかった。私は必死に、彼女が出掛けに持っていた鞄の形を頭の中で思い描いた。えんじ色。相当、大きかった筈だ。アウトドアのことは全く判らないが、あれは、日帰りを想定した荷物ではなかったに違いない。
紫は魔理沙が妖怪の山へ行ったと言った。
あそこへ泊り込もうとする人間は、一体どんな行動を取るのか。
魔理沙なら、どうするのか。
水か――と思い至る。現地で調達出来そうなものを、わざわざ家から持っていく必要はない。
魔法の森の上空を二時間ほど移動し、妖怪の山に至った。そこからまたしばらくかけて、その山肌に、増水して茶色くなった川を見つける。休憩を挟まずに下流から上流を目指していくと、少し拓けた河原に黒焦げた痕を見つけた。
想像が正解だったことを喜べない。焦りがつのる前に、冷静な内にとすぐさまそのそばへ下降した。
樹の下へ行って上海を出してやり、一応合羽をはたいた。グリモワールを置いてきたのは正解だと思った。合羽の内側は既に蒸し風呂状態で、雨水をカットするものがあってもなくても変わらない状態だったからだ。
焦げ痕の方を見る。石であの八卦炉を支えたのだろう。焚き木などは見えず、ドーナツ状に煤を被っている。だが、その周りを見渡しても、上から確認出来た通り天幕などはなく、それ以外の形跡も残されていなかった。
「魔理沙!」
名を呼んだ。ここで見つからなければもう手がかりなどない。手詰まりなのだ。身体に冷や汗ばかりが流れていた。
「いないのかしら! 魔理沙!?」
焦燥を払いのけるように叫んだ。だが返答はない。
手がかりがない……それは本当だろうか。声を張り上げながら、私はまた雨の下へ出て歩き出した。
この場所で彼女を見つけるのはもう諦めかけていた。天幕をそう何度も建て直すのはおかしいからだ。
川の増水を避けて、別の場所に移ってしまったのだろうか……。
それとも、単に水晶を採掘しに何処かへ出かけているだけなのか、既にもう彼女は帰路についていて、私がここへ来る途中ですれ違ってしまっているのか、この焦げ痕が魔理沙とは別の妖怪のものなのか……。可能性が多すぎて一瞬途方に暮れそうになる。
しらみつぶしに妖怪に訊いてまわる他にないのか。
そう、覚悟しようとした時だった。
背後の川から、濁流の音に紛れて、眠たそうな声がした。
「魔理沙魔理沙……うるさいんだけど」
◆
魔理沙魔理沙うるさいな……と思った。
声の主を意識の中から追い払いたい……というのが正直な所で、それは、無意識下で日常的に考えていたことだったかもしれない。
彼女は、野良だ、馬鹿だと、いつも人のことを見下した目で見る。だが、自分の手に負えない状況に陥ると、途端にハングして問題をほっぽり出し、運良く近くに居合わせた他人(わたし)を頼ろうとする卑怯者だ。
魂をつくりたいだのなんだのといって、実際的にここにある本物の魂をないがしろにしているのだから苦笑するしかない。
皮肉ではなく――そもそも、操るっていう行為が、彼女のメンタリティの根っこにあるんだろうと考察している。頭であれこれ考え、手のこんだやり方を実践して人を振り回すのが、本能なのかもしれない。
それを自覚しているから、他人を傷つけないために、意図的に独りで居ることを選択しているのかもしれないとも思う。全て、予想だけれど。
しかしどこにでも、生来から我侭な奴……そもそもにおいて他人と歩調を合わせられない人間ってのがいるのも本当だ。それが生まれた時から設定喰らっていた初期値なのか、本人の辿った歴史が最初あった性質を捻じ曲げてしまったのかは判らないし、興味もないが、現在そうであることは隠し通せない真実だと思う。
理解などされない。
気質がいかれているのだ。
だからこんな小さい箱庭に、マイノリティだと隔離される。
その上魔法使いなんていう、無駄で孤独でしかないことをしている。
アリスも私も。
まりさまりさ、という声はまだ響いている。
聞こえてはいる。意識は起きている。
私だって身体を動かしたいのだ。
うるさいと一喝して、懐いて来る飼い猫みたいなお前なんかは追い払ってしまいたい。
揺り起こそうとする前にエネルギーを寄越せ、と思う。
そんなことを考えていたら、何の前触れも無く、口を柔らかいもので塞がれた。
口腔に、食料ではない何かが送り込まれてくる。映像は何も届いて来ないというのに、注ぎ込まれてくるそれが、赤から紫に至るまでの七色の光だと判断出来たのは何故なのだろう。
嚥下した。暖かい。
しかし胃には届かない。
心臓とすれ違う中途で、炎に変わり拡散していく。
熱さの余韻が消えてしばらくすると、身体に少し活力が戻り、目が開けられるようになった。
「今なにした、お前……」
おそらく苦々しい態度で私は訊いた。
「知らないわよ……」
アリスは何故か下を向いたまま答えたが、何かを堪えきれなくなったかのように抱きついてきた。
それで――また泣き始めてしまう。そう判ったのは、胸のところが涙でじっとりと温くなってきたせいだった。
「お前、この所、泣きすぎだろうと思うぜ」
不安定な奴め、魔力が枯れるぞと、私は軽口を叩いてみせる。
「お前から魔法を取ったら、動かない人形しか残らんな」
しかし、アリスは何も答えない。声を殺して泣いているだけだ。
溜息をついて、私は彼女の髪を撫でる。いつの間にか扱いが慣れたもんだと思い、相手に判らないように一人で忍び笑いを漏らす。
どうやら私は気を失って倒れていたらしい。手元に転がっている採掘道具と、燃料切れで消えてしまったランタンを見て現状を把握した。外を見ると雨はあがっているようだったが、既に夜になっていた。周囲の状況が判ったのは、上海が明かりをぶら下げていてくれたからだ。ありがとうなと声をかけてやったが、小さな彼女はうんともすんとも言わなかった。
アリスの嗚咽が収まってきた頃に、私は訊いた。
「どうしてここまで来れたんだ?」
「……河童の子に教えてもらった」
「ん、じゃあ、川まで探しに来てくれてたのか」
アリスは胸に顔をうずめたまま頷く。
「そうか」
てっきり全部紫が喋ったんだろうと思っていたが……違うらしい。
よくこれたなーと、また冗談めかして頭を撫でてやったが、今度は手を払いのけられた。早くも機嫌は直ったらしい。なんだつまらんと私は思ったが、勿論口にはしない。
しばらくアリスは私に抱きついていたが、それからは、案の定泣き声が終息していった。だが私は、彼女が何かアクションを起こし始めるまで放っておいた。
やがてゆっくりと顔を上げた彼女は、すんと鼻を鳴らすと、自分から言った。
「……帰りますか」
急に重いもののなくなった感覚に、僅かな空虚感を覚えながら私は答える。
「ああ、帰ろうぜ」
◆
妖怪の山の川のほとりに、何をするでもなく、紫がぼんやりと佇んでいた。
夕方まで降り続いていた雨は嘘のように止み、鼠色の雲さえもどこかへ消えてしまっていて、七月の夜空には様々な色の星々が無数に光っている。青葉に付着した雨露が、怜悧な月の輝きを湛えていた。
紫色の衣装の人物は、その風景から浮いている。逸脱していた。調和なんて語彙を知らぬげに上空を見上げ、瞳の中に星図を映し込ませる。
彼女はそうして、何となしに精確な時間を把握しようと試みる。h,m,s,……と追い、しかし、コンマ以下に及んだ所でやはり差が生まれる。訓練では上手くいかないことなのだと考え、飽きたのでそれ以上は辞めておいた。
それからも彼女が無意味に夜天を眺めていると、一人の河童が、増水が沈静化し始めている清流から顔を覗かせた。
「おお? 一体全体どなたでしょう」
河童――にとりは、見覚えの無い顔に一人で驚いている。紫はそちらを振り返ると、誰に対しても変えない微笑を浮かべ、愛想良く科をつくってみせた。
「あら、こんばんは。私は先日、外からこちらへ越して来た者ですわ」
「おや、そうでしたか。それはどうも?」
にとりは首を傾げながら返答した。名乗らないのは変だと思ったが、何か名を教えたくない訳でもあるんだろう。
「雨、あがってしまいましたね」
紫がまた夜空に視線を戻しながら言った。
「ですねぇ。私ゃ見てのとおり水棲ですので、雨に降られると、恵みのようなうるさいようなで」
あははと笑いながら、にとりもつられて夜空を見上げる。二人の視線はほぼ平行になった。
微量な静けさと無為な時間を愉しんでから、紫は唐突に、ときに、と相手に問いかける。
「なんでしょう?」
彼女は夜空を見つめたまま訊いた。
「この郷の内側と外側……心を先につくり終えるのって、一体どっちが先なのでしょうね」
にとりはその問いに、驚きを見せなかった。
「おお、そちらの分野に、興味がおありなので?」
紫は頷く。
「ええ」
「情、知、意なんかで定義される、心ですかな」
「そういう解釈の仕方も、あると思いますわ」
彼女は嫌味なく微笑む。
にとりは半分水に浸かりながら腕を組み、考える。たっぷり十秒くらい持論を整理してから、彼女は慎重に言葉を紡いだ。
「そうですねぇ……後か先か、というのは、あまり問題じゃないんじゃないかな」
紫は首を傾げる。
「何故かしら?」
「ええ。心なんてものに対しては、今のところ、誰をも納得させられるような定義付けなんか出来ないでしょうからね。突き詰めるほど判断材料が沸いてくる。しかも、沸いてきた材料が全て必要なものなのかも曖昧で。だから、この先いつ『これが心である』と言い切れるようになるのかなんて、私にゃちょっと想像もつかないですよ」
外と技術で張り合う身としては、内だと断言したいところではあるんですがねぇ……とにとりは頭を掻く。
「では、一番の問題って、何なのかしら?」
「そうですなぁ……」
相手の問いに、にとりはまた何秒か思考した。それから軽く言った。
「うん。つくるかつくらないか、そこを考えることに尽きるんじゃないでしょうかね」
紫は口元に手を添えて驚きを表す。
「あら、存外、曖昧なのね。ハムレットみたい」
「ええ。張り合う張り合わない以前に、ここは、幻想郷ですからね」
にとりはそう言うと無邪気に微笑んでみせた。
よく判りましたわと言って、紫はそれきりその話題を打ち切った。短絡的に魔理沙に水晶を渡さなかったのは、やはり正解だったのかもしれないと、曖昧に結論付ける。
二人の間に沈黙が流れた。
だが、にとりがやがて、頬杖をついて景色に目をやったまま相手に訊いた。
「あの、違ったら申し訳ないんですが」
なんでしょう? と紫は微笑んで尋ね返す。
「貴女って、八雲なにがしさんでは?」
◆
同じ星空の下。
魔法使い二人はくたくたになりながら、森の中、帰路を辿っていた。動けない魔理沙をアリスが負ぶったので、重たい荷物は洞窟の中に放ってきてしまっている。
薄闇の中、膨大な数の黄緑色の光点が、至るところでゆっくりと明滅している。蛍や、それに近い名もない虫たちの群れだった。時々それが魔理沙のとんがり帽子へとまっては、また何処かへ羽ばたいていく。
二人はあの孔を出てから此処へ至るまで、何も言葉を交わさなかった。
魔理沙は眠ってしまったのだろう――。肩にべったりと頬を預けられている感触からアリスはそう考えていたのだが、家に近づいた時になって、その彼女が何事か呟いてきた。
「石は、見つからなかったぜ」
アリスは驚かなかった。表情を変えずに返す。
「そう」
「どこを探しても、ないのかもしれん」
「――そう」
「まあ、それだけだぜ」
明日の自分がどう思っているかは知らないが、アリスは今だけは、人形のことはあまり気にしていなかった。魔理沙のその言葉を聞いても、そこまで気分が滅入りはしない。また何か、時間をかけて別のマテリアルを考慮しよう。そう考えただけだ。
ややあって、魔理沙はまた言った。
「見つけられなくて、すまん」
アリスは突然少し飛び跳ねるようにして、魔理沙を背負い直す。それから目を細め、前を見つめたまま呟いた。
「ごめんなさい」
「ん?」
魔理沙はしかし、何故謝られたのか判らない。きょとんとしながら訊く。
「頭下げてるのは、私の方なんだが?」
「それより私の方が、悪いことをしていたの」
「そうだったのか?」
「ええ」
アリスはしおれた様子もなく、かといって言い張るような態度もとらずに、淡々と現状を相手に伝えるように言う。だが魔理沙の方はさっぱりとしたものだった。
「まあ、どっちでもいいぜ、そんなもの。比べてどうこうなんて話しにゃ、全般に興味が無い」
「……。それも、そうね。そうだったわ」
アリスは溜息をつきながらそう返した。何を言っているんだと、自分に少し呆れた。
再び沈黙が訪れる。
だが奇遇にも、二人とも、それが苦だとはあまり思わなかった。お互いに疲労していて、やや眠かったせいもある。魔理沙の方は、遠出したときの帰り道なんて大抵こんなもんだと心得ており、アリスは、直接触れ合っている人間同士は会話する必要を覚えないのだろうと考察していた。
やがて、霧雨邸が見えてきた。魔理沙が呟きで静寂を破る。
「心臓の音がするな」
言いたいことをストレートに口に出来るのは、快いなと魔理沙は思う。それは状況として随分遅れた感想だとも考えられたが、このタイミングが自分の時間なのだとも思った。
「虫の声だって、聞こえるわね」
抱かれているよりも、負ぶわれている赤子の方が拍動がちゃんと聞こえるのだ……そう言いかけた所でアリスは踏みとどまる。たとえ卑怯でも、今日はこれ以上、迂闊なことを口走る訳にはいかなかった。
「それに私は死んでいないんだから、聞こえるのは、当然でしょう」
そう答え、アリスはお茶を濁す。少しだけ顔を赤らめていたが、その色は周りの暗さに浮かばない。
魔理沙は微笑んで、ああそうだなと、静かに答えた。
――魂の形を識り尽くしたい。
――心という不確かさをつくって仕舞いたい。
それは初めから、なんてロマンがなくて、灰色にくすんだ夢なのだろうとアリスは思う。
識り識り識って、その完全な理解の先にあるものは、想像と思い遣りの死に他ならない。
つくった後も、つくることは出来ないと諦めた後も、同じ分だけの後悔に襲われるであろうことを彼女は識っていた。
どちらの後悔を選ぶかが問題で、彼女自身はつくってしまった後の後悔を選んだ、それだけのことなのだろう。
結構途方も無い道のりである。
何百年かかっても辿り着けないのかもしれない。
だがしかし、その為に、あらゆる全てをなげうとうとも考えない。
何故なら、その犠牲が魂の否定に繋がることを、彼女は既に識っているからだ。
(了)
「よう」
背後から声をかけられ、魔理沙は凍り付いた。
彼女がゆっくりとそちらを振り返ると、当たり前というべきか寝巻き姿のアリスがそこに居た。入り口の所で腕組みし、仁王立ちするその姿は、撃墜寸前の航宙艦から出撃する巨大決戦兵器といった風情であった。
魔理沙は今日は失敗かと即座に呑気に考えると、手に取っていた本を床に置いて両手を挙げた。アリスを起こさないように盗むと前提条件を付けた以上は、これで失敗なのだ。溜息混じりに彼女は訊く。
「……あーれれ。いつからそこに」
「いつでもいいでしょうに」
怒っているともなんともつかない語調で返される。
「鍵を開けてる時からか?」
「知りません……」
「本のそばでは、私は暴れないからな」
アリスは知らない人物を観察するかのように、じっと魔理沙の瞳を見つめ続けた。
「だからここに入り込むまで待ってたんだろ?」
さあね、とやはり淡白な返答。
沈黙が降り、魔理沙はすぐに間に耐えられなくなる。
「……腹痛か? 暑いからって腹出して寝てたら身体に悪いぜ」
「ううん、平気」
じゃあ何なんだよ……と魔理沙は問おうとして辞めた。盗人が忍び込んだ家の主の体調を心配するのも何か矛盾している。
月の青い光と、数え切れない虫たちのルシフェリンの輝き。窓からもたらされる薄ぼんやりとしたそれらの明かりで、魔理沙は、かろうじてアリスの表情を確認することが出来た。不気味に冷静な顔をしていて、無機質な眼差しで自分を観察している。
何か変だ……魔理沙は微妙な違和感を感じる。片手間に相手にされているような気がしてならない。アリスの意識がこちらには向いていない気がする。
もしかして実は夢中遊行か?
なら逃げれば良いのだと、魔理沙はすぐさま合理的理路を導く。前触れもなく窓のそばにたてかけておいた箒の方へ駆け寄ったが、
「うわ!」
赤い熱線が輝いてそれを遮った。窓枠を遊び程度に焦がす。
冷や汗を垂らして振り返ると、何時の間にかそこに浮かんでいた人形から煙が上がっている。だがそれを操るアリスは、今は足元に視線を落として、まだ何か考え込んでいた。
魔理沙は段々頭に来た。
「お前、一体――」
だがその言葉を、不意に視線を上げたアリスが「ねえ」と遮った。そして彼女は、とんでもないことを淡々と提案する。
「もうなんか、私と一緒に暮らさない?」
「……は?」
一瞬だけ、その部屋の時間の流れは止まった。
だが、それをも意に介さず、お互いに時間の浪費だと思うの――とアリスは冷静に語り始める。
「そもそもにおいて不毛なのよ、私が私のものを私のものだって言い張ることが。そう主張したところであんたはどうあってもうちに物を盗みに来る。私はそれを受動的に防ぐことしか出来ない。今のままじゃ原因療法なんか叶わない。感情と人形で対処するだけ無駄なのよ……今朝方から考え始めて、今やっとそれを実感させられたわ。ねえ、普通の魔法使いなら普通に考えてごらんなさい? あんた、盗みに入ることで、限られた時間を一体どれだけ無駄にしていると思う? 資料が必要になったらその時に揃える、それがあんたのやり方なのは大体判ってるつもり。でも、そのやり方を貫こうとした時、いちいち私の家とか紅魔館から無理矢理盗んで行くんじゃ、毎回すっごい時間がかかっているんじゃないの? 本のある所まで移動する、ろくに読めもしない文字を追いながら物色する、そして私たちとあるいは一戦まじえ、勝てば本が貰える、でも負けてしまったら追い返される……一体それを何年間続けているの? 里の資料もたかが知れているし。その辺り、ちょっと要領が悪過ぎると思わない? それともなに、盗みに入ることそれ自体が――高笑いしながら私とパチュリーにちょっかいかけていくことが――趣味だとでも?」
「し、趣味じゃあないが……」
それではどうするかという話なのよ、と、アリスはどこまでも淡々と告げる。青暗いその瞳を見、すさまじく早口な長広舌を聞き、魔理沙は半歩後ずさった。
「まず……私が私の家の何もかもを持って、あんたの所で暫く住もうと思う。部屋と財産をシェアするの。そうすれば本を取り合う必要がないでしょ? で、それがお互いにしっくり来なかったらその逆を試してみる。それでも駄目ならば、互いに納得の出来る新しいおうちを建てて、そこに、住みましょう」
パラダイムシフト、これしかないわとアリスは自分で頷く。
「正気かお前」
魔理沙はこわごわ訊くが、アリスは無表情に頷く。
「この先ずっとこうして、頭の悪いいたちごっこを繰り返すのと、互いの生活観を擦りあわせるのと、どっちがベターかという話よ。少なくとも、試してみないと」
「うわあ」
魔理沙はついそう感嘆を漏らす。はっとなってすぐに口を手で塞いだが、アリスは真面目な表情のまま何も言わなかった。
ああこれは――まずいかもしれん。魔理沙はそう思った。何って、私はいいんだが、なんかこう上手く言えないのだが主にアリスがまずい。冴え渡った危険さというかそんなものが見える。考え出したら止まらないタイプじゃないのかこいつ!
「やっぱり寝ぼけてるだろ、お前」
「どう解釈するかは自由です……。ともかく私は今日は眠る。本は好きなだけ持ってっていいわ」
どうせ明日あんたのところへ荷物全部持って行くから、とアリスは付け足すと、踵を返し、レーザーを撃った人形をひっこめて自分も階段を上がって行ってしまった。
「お、おい待てってば!」
返事はない。「奇跡は起きる、起こしてみせるわ」という思いつめた呟きが聞こえて来ただけだった。奇跡ってなんだ。
魔理沙はそこに呆然と佇むことしか出来なかった。
途中から、最早提案なんかではなくなっていた。なんだこれ?
戦いもしなかったのに、嵐のようだったと彼女は思う。
ただ、ああした態度はみんなアリスの演技で何かの策謀に違いないと考えていたので、めぼしい本だけは持って帰ることにした。
『 少女材料 』
しかし次の日、アリスは本当に魔理沙の家へやって来た。
彼女は十数体の人形を操り、四時間かけて全ての荷を中に運び入れ、悪夢じみた速度で霧雨邸内二階の二部屋を片付けると、そこにこぢんまりと全て収納し終えた。
「……」
ああ、と魔理沙は思う。こいつは引っ越し業で今まで生計立ててたんだな。人形劇で稼いだチップなんか目じゃないぜ。
「つかれた」
そう呟いて、アリスは持参したベッドの上にばったりと倒れこんだ。周りにはまだいくつか荷ほどきされていないマジックアイテムの箱が転がっている。
「……私も疲れたぜ」
彼女が寝転がったベッドの端に魔理沙も突っ伏す。
懸命な人形達を見ていると、手伝わない訳には行かなかった。アリスに頼まれた訳ではなかったが、自分は元来巻き込まれ型の女に違いないのだと思うことにする。数分間そうして、ゲシュタルト崩壊を起こさないように思考をカットする作業に追われた。
何も喋らずに二人は暫くそうしていたが、やがて、寝転がっているアリスが魔理沙に訊いた。
「今何時?」
「一四時二九分。あー…そういえば腹が減ったな」
彼女は体内時計でやや正しい時間を答える。
「私、何かつくろうか?」
魔理沙はベッドに突っ伏したまま眉をひそめた。
「ああ、荷の中にコンバラトキシンの小瓶があったっけな。私の死因は心臓発作か」
「……毒殺なんかしないわよまわりくどい。ともかく御飯でいいのよね?」
「食事くらい自分で作るぜ」
うぬぼれないで頂戴、とアリスは首をすくめる。
「主に私が食べたいから言ってるの。綺麗に一人分だけつくるなんて、どんな嫌味なのよ」
「ああ、まあ、じゃあ、いいんなら任せるぜ。私はちょっと今頭が働いていない」
「見れば判ります」
そう言ってむっくりと起き上がると、まだベッドに寄りかかっている魔理沙を無視して、アリスはすたすた下へ降りていってしまった。
「それで、いつまで居るつもりなんだよ」
そう訊いてから、魔理沙は随分と薄味のお味噌汁を啜った。
「決めてないわ。納得の行くまでかしらね」
アリスは素っ気無く答えてから、正しくお箸を使って御飯を口に運んだ。
「荷物は本当にあれで全部なのか? 何かかなり少ない気がしたんだが」
「要らないものは、整理を兼ねてみんな燃してきたわ」
「……」
いつ自分は殺しにかかられるんだろう、と魔理沙は一瞬思う。
迎撃手段を一度に十二通りほど思い浮かべてみる。しかし馬鹿らしくなったので辞めた。そもそもこちらの意思が無視され過ぎている。嘘の可能性もあるし、真実だとしてアリスに調子を合わせる必要もない、と呑気に考え直す。それから訊く。
「なあ、これ、そもそも前提がおかしいと思うんだが」
「前提なんか何もないじゃない」
アリスの冷めた応答に、魔理沙は首を振る。
「いいやあるぜ。魔法使い二人が一つ屋根の下に暮らすってシチュエーションがそれだ」
「馴れ合いが悪だ、互いに持っている技術の秘匿が必要である、という話?」
「うむ」
アリスはそこで、ふっと揶揄するように笑った。
「壁一枚床一枚あったら、馴れ合わないためには十分でしょう、そんなの……。お互いが意識して、関わり合いにならなければいいだけよ」
「いや、普通に考えろよ。想像してみろ。風呂も飯も一緒なんだ。ある程度情がうつってしかりだろうに」
人として、と魔理沙は念押しする。
私別に人じゃないけど、とアリスは呟いてから言う。
「なんか消極的なことばっかり言ってるけれど……。じゃあ、住処を分けたからって、また面倒ばかりの日々になるじゃないの。それにもう結構燃やしちゃったし、運び込んじゃったし、ねえ」
なにを今更、といった風情である。魔理沙はついに頭に来て叫んだ。
「私の気持ちってものがあるだろうが!」
第一本当に来るなんて思ってなかったと、彼女はばあんとテーブルを叩く。
叩いてから、本当に今更だと気づいて舌打ちした。夜の内にもう少し深く考えておけば。
だがアリスは、冷たく魔理沙を見つめるばかりだった。その表情は反応を愉しんでいるようにも、まして大声に驚いているようにも見えなかった。やがて小さい溜息をついてから、愛想をつかせたように彼女は呟く。
「そんなの……知りたくもありません」
◆
その後二人は、本物の冷戦状態に陥った。
同じ家に住んでいるというのに、会話する時間はそれ以前よりも減った。顔をつき合わせるのは食事時と、魔理沙がアリスの資料を借りに行くときだけになった。訳もなくお茶をしてくつろいだり、一緒に何処かへ散策へ行くなどということも一度も無かった。初日から数日間、そんな状況が続いた。
二人とも意地になって研究に没頭しているように見えた。
だが数日間で頭が冷え、怒りのほとぼりがある程度おさまった魔理沙は、これもアリスに謀られているのではないだろうか……と疑い、もとい考え始めていた。
(そもそもいつも独善的なんだ、あいつは……客観性ってものがない)
今にもひびが入りそうな古い炉の中で燃える、いくつかの茸を監視しながら魔理沙は思う。熱のために汗が滴ってきたので、窓を全開にした。茸の灰を使う実験の下準備だった。
開いた窓の向こう、森の木々の梢からは、もう緋色の光が差し込んできている。これを今日最後の実験にしようと、魔理沙は今更な目処を立てた。
真剣に研究に集中したいのならば、アリスも口で云えばいいのに。こんな回りくどいことをせずとも、正面から「邪魔をするな」とメンチ切ってくれれば、盗みなんか自重したのだ。きっと、多分、いやおそらくは。
あいつは、何か大事な段階に差し掛かったせいで、カリカリしているんだろうか。
それとも単純に、普段の自分に嫌気が差したのだろうか。
前者ならば、これらは本当に、研究に邪魔を入らせないためにとったであろう行動なので放っておけばいい。だが後者ならば、こんなことになった原因の殆どは自分にある。
一体どっちなのか……と彼女が考えている内に、ぼふっと音をたてて炉の蓋が天井まで飛んでいった。魔理沙は肩を跳ね上げて驚いた。蓋は放物線を描く中途で吊り棚にぶち当たり、そこに置いてあった暗い色味の薬品の小瓶をいくつか落とし、それらは床で開きっぱなしの書物に受け止められた。
魔理沙は頭をがしがし掻いて、あー……と嫌ったらしく呟いた。
とりあえず蓋を開けてみると、刺激臭を伴って中から煙が上がった。案の定、茸はペースト状になって炉の内側にこびりついている。
「……」
茸から出てきた瓦斯が燃え上がって爆発したらしい。炉の掃除には、一、二時間はかかるように思えた。
とりあえずメモをとって、彼女は嘆息する。
今日はやめだ、とペンとノートをスカートへしまった。
やはり――心持ちは単純化(シンプルに)しておかなければならない。あんまり論理的ではないが、気持ちに曇りがあったから、それが可燃瓦斯を発生させる種類の茸だということを見落としたのだ、きっと。
まずアリスとの問題を片付けなければ。魔理沙は自分のためにそう考え、部屋を出ると、さっさと二階へ上がって行った。
「――よう」
「こんにちは」
二人は変な挨拶を交わした。アリスは本に視線を落としたまま動かず、そこへ訪れた魔理沙は部屋の扉を後ろ手に閉めた。
「なに? 資料がいるんでしょ?」
何故戸を閉める必要があるの? と、アリスは神経質そうに魔理沙を見た。
「いんや。今日は実験はやめたんだ」
「では何なのよ」
「ちょっと邪魔をしにな」
「そう」
アリスは左手を振る。ざざざざざ、と眠っていた人形達が起きて、一瞬で魔理沙を取り囲んだ。
「なんだお前、やっぱりどうかしてるぜ」
寝不足か? と彼女は身構えながら普通の語調で言った。そういえば箒も持たずに来てしまった。
「していないわ。冴えているわ。別に戦いたい気分じゃないから、さっさと出て行って」
「何か知らんが余裕ないだろ、って言ってるんだよ……」
「あんたの知ったことではないわ」
魔理沙はようやくここでかちんと来た。
「ああ、それは、私が決めることだな。それにここは、元々私の家だぜ」
「あんたの実験に必要な資料を提供しているのは私だわ」
二人は剣呑に睨み合う。水かけ論だと理解していても、気持ちが言うことを聞かなかった。
やがて魔理沙の方が、溜息をついて、やめようぜ、と言った。降参したように両手を挙げる。
「……」
アリスはしばらく魔理沙を睨んでいたが、やがて人形たちを引っ込めた。
「なあ、今、何の勉強してるんだ?」
魔理沙は話題を変えようと、アリスのデスクの上の本を見ながら訊いた。裁縫道具が見当たらないので、人形をつくっている訳ではないなと思った。
「……生命倫理」
アリスは渋々といった感じにそう答えた。魔理沙はそれを尋ねたことに一瞬で後悔した。話を膨らませられそうにない。
微妙な間があった。アリスはそっぽを向きながら、フォローするように付け足した。
「まぁ……簡単に言って、果たして本当に、あれをつくっていいの? ということを考えているの」
あれね、と魔理沙は思う。自立人形のことだ。初めに決意したことをわざわざ疑うなんて理解出来なかったが、アリスらしいとも感じた。
「一人でか?」
「まずは、自分の意見を固めないと」
永琳なりパチュリーなりに意見を求めるのはその後、と彼女は言う。
「ふむ」
魔理沙は頷きながら、しかしふと不可解なことに気がついた。
「あー? じゃあなんだ、もう実は、勝手に考えて勝手に動く人形の設計図は出来てるのか?」
アリスは首を振る。
「そんな訳ないでしょう? 理論立ての目処も立っていないわ」
「はあ……? じゃあ、そんなことをしても、狸の皮算用じゃないか。後でいいだろうに」
それを聞いたアリスは、あんた本当に馬鹿ね、と呆れて溜息をついた。
「好奇心に任せて理論を先に立てては、必ず駄目になるわ。そんなの、常識でしょうに」
「お前、本当に魔法使いなのか?」
「古風な定義なんかどうでもいいの。私は、客観性のない危険な物をつくりたくないだけ」
「よく判らんな」
肩をすくめるジェスチュアの魔理沙。
アリスはその態度を見るや、だん、と拳で机を叩いて静かに言った。
「自分で考えて、自分で動いて、他人に害を加えるような人形が出来てしまったら、一体どうするの?」
魔理沙は音に驚いて身を引いた。それに一瞬遅れて言葉の内容を把握する。それを私に言われても――と指摘しようと思って止した。
アリスは頬杖をつきながら、よく判らないんだけど……と続ける。
「嫌なのよ。自分のつくったものが、他人の邪魔になってしまうのが。だって、自分自身で物を考えて動く子なのよ? なら、ずっと私のそばに留まってなんか、いないでしょうね。だというのに、もし、最初から他人と上手くやっていけないように造ってしまったり、私に怨みを持つような子になってしまったら、きっと見てらいられない。
全ては造ってしまってから――理論立ての目処が立ってから考えよう、なんてのは許されない。これから心を一個つくろうとしているのに、最初からそれを否定しているのと同じだもの。それではあんまりだし、完成もしないでしょうね」
「……ああ」
それはなんとなく魔理沙にも判った。
ただ正直を言って、自分のその気持ちは、アリスの抱いているものよりは不確かだとも思った。
「つまり、あんたの言うとおり、煮詰まってるのよ。ええそうなんです」
アリスは空いた手で、机の上で上海人形をくるくると踊らせ始める。
「矛盾しているのよ。自立した人形を作りたい、でもその子に嫌われたくもない、なんてのは……。
嫌われる覚悟がないのかも。そもそもやろうとしていることが間違ってるのかも。それとも、つくってしまったその子を上手く導いてあげられる自信がないのかもしれない……。
泥沼なのは、判っている、けれど、これを考えておかないことには、うん……」
「苦悩だねえ」
アリスが上海を放って、顔を両手で覆い始めたので、魔理沙は苦笑した。自分にもよくあることだ。
ああ、とやがてアリスが言った。
「何故こんなこと、あんたなんかに喋ってるのかしら。馬鹿みたい……」
「信頼の証だろうな」
「……」
返事はなかった。空疎な言葉が宙にプールされる。
アリスは黙ってしばらくそうしていた。魔理沙は居心地が悪かったが、そこを離れる訳にも行かず彼女の返答をずっと待っていた。
やがてぱたりと、机の上に雫が落ちた。
白い指の間から滴ってこぼれて来る。
魔理沙はまた、うわ、と言いそうになった。
「あああ、もう、泣くなよ……」
「余裕がなくって、悪かったわね……」
「だっから別に、そんなこと思ってないって……」
ああこういうことだったのか。慌ててアリスの背中をさすり出しながら、魔理沙はそこでやっと気づいた。
自分の認識を固める――頭に知識を入力し、考えるだけの作業は、確かに煮詰まりやすいのだ。目で見えないから、どこまで進捗したかが判りづらい。説明書きや論文を記したところで、興味を持って読んでくれる人物も殆ど居ないだろう。
その辛い状況の中に、霧雨魔理沙という盗人がいかにも楽しそうに入り込んだのだ。
「だって魔理沙、今こそ必要っていう本まで持って行くんだもの……」
「う、すまん……」
アリスはついにしゃくりあげ始めた。喋っていて更に悲しくなってきたのかもしれない。
――私の気持ちってものがあるだろうが。
アリスが来た最初の日に自分が言ったことを思い出し、魔理沙は頭を掻き毟りたくなったが、じっと耐えて彼女の背中を撫でた。
机の上から、ひらりと羊皮紙が落ちた。魔理沙はそれを拾い上げて目を通す。
複雑でよく判らなかったが、それは新しい可動人形の心臓部分の仕様を途中まで纏めたものらしかった。
「お前、これも、同時進行させてたのか?」
アリスは机に伏せたまま、弱々しくうんと頷いた。
「……だって、手動かしてないと怖い……」
(……そりゃ嫌にもなるぜ)
魔理沙は半ば呆れて溜息をつく。あとの半分は自省だった。
勝手に押しかけて来て勝手に泣いて……とんでもない奴だと思ったが、かなり進退窮まったところまで追い詰められていたのも本当なのだろうと、許してやることにした。
そしてもう彼女にはどうすることも出来なかったので、その後しばらくはアリスの横に居て、黙ってその肩を叩いたり背中をさすったりした。気の済むまで泣かせておいた。
声を聞きながら、泣くときまで我慢したように泣く奴だと思った。
こいつも私もデフラグメンテーションの時期だなあと、魔理沙は拾った羊皮紙に目を通しながらぼんやりと考えていた。
◆
次の日の朝。
「ちょっと行ってくるぜ」
朝食を食べ終わるや、荷物で膨らんだでっかい鞄を箒にくくりつけながら魔理沙が言った。
「ん、どこに?」
泣いて多少は機嫌を直したらしく、語調の固さのとれたアリスが皿を片付けながら訊く。
「ちょっと山へな。芝刈りだ」
「……?」
私は洗濯でもしたらいいのかしら、と軽口を叩こうとしてアリスはやめた。おじいさんとおばあさんは多分夫婦だ。
「随分大きな荷物じゃないの」
彼女がえんじ色の古鞄を見遣りながら言うと、魔理沙はああ、と頷いた。鞄の口から飛び出た寝袋が上下に揺れる。
「泊りがけになるかもな。ちょっと留守番しててくれ。勝手は大体判るだろ? もう」
「判るけど……何してくるつもりなの?」
「実験で使うものがあるんだよ。採ってくる」
「ふうん。きのこじゃないのね」
おうと頷くや、魔理沙はぽいと、アリスへ家の鍵を放って渡した。
そして乱暴に扉を開け、行って来るぜーとドップラー現象を残しつつ、妖怪の山の方の空へ飛んでいってしまった。
アリスは呆気に取られながら小さくなっていく彼女を見送っていたが、やがて開けっぱなしにされた扉を冷静に閉めると、後片付けの続きをすることにした。
「まったくもう……」
元気な奴でうらやましい、と彼女は一人でつぶやいた。
「にしても、水晶、ねえ」
魔理沙は箒の上で、昨日の羊皮紙を太陽に透かして眺めてから頭を抱えた。それは、アリスが泣いている間に拝借して来てしまったものだ。これで諦めて勉強に集中するだろう。
どうやらこのアリス製の仕様書案に拠れば、人形の心臓に水晶を使うのだそうだ。原理はよく判らないが、大雑把に見る限り、その水晶に予め魔力と命令を入れておき、アリスの操作なしに動かそうというものらしい。無論自立して動ける訳ではないようだが、ちょっと面白そうだなと魔理沙は思った。
ただその水晶というのが問題なのだ。実際かなり貴重で、図鑑にはよく載っているが、彼女は原石を殆ど見たことがなかった。
うちにある水晶玉では駄目だ。既に道具としての意味が付加されてしまっている。原石を加工したものを用いなければ、理屈が合っていても人形は動かないだろう。
羊皮紙には赤字で、水晶が不足していることが確りとメモしてある。
魔理沙は水晶原石を探し出し、それをアリスに渡そうと考えていたのだった。今回は、ちょっと本気でフォローしてやるつもりだった。
――生命倫理?
そんなお高く止まった話題になんか、ついて行きたくもない。高尚なモラルを考えられるのは暇な奴の特権。そして自分には暇な時などない。だから、そちらの方面で手を貸すことは不可能だと考えていた。
自分に手助け出来るのは本当に物理的で、目に見える判り易い支援。それだけだと魔理沙は思う。
魔理沙は昨日の内に、いつか紅魔館図書館の資料で見た水晶脈について書かれた記事を思い出していた。そのおぼろげな記憶を頼りに、彼女は山の方へ向かっていたのだった。
場所が場所だ。間違いなく妖怪と出くわすだろう。詳しい場所は連中をとっちめるなりして聞き出せば良い。
そう考えていたのだが。
「あ……?」
そこで魔理沙は変なものを見た。二〇〇メートルくらい北東の空に、何かが浮いていた。
彼女は気になって目を凝らす。
人の形をしている。
そして、そいつは、どうやらこちらに向かって小さく手を振っているらしいことがわかった。大きな身振りや声で自己主張しようとしないのが、何処か気持ちが悪い。今私に見落とされていたら、あれはどうするつもりだったのだろう。
いや、それとも、確実に目に入る場所に、計算して存在しているのかもしれない。
誰だかは判った。
うん……無視しよう。見なかったことにしよう。
そう決め、速度を変えずに、進路も変えずに、真っ直ぐ前を向いた時だった。
「おはようございます」
何百メートルも向こうに居た筈のそいつが、微笑みながら自分の箒の前の方に腰掛けていた。八雲紫だった。
彼女の大きな傘の影が落ちている中で、魔理沙は表情を変えなかった。もう慣れてしまっていた。
「……ひとまず降りろ。魔力の無駄になるんだ」
「あら、ごめんなさい」
箒を空中で停車させて、魔理沙は少し嘆息した。捕まったか、とだけ思った。
紫はよいしょと箒から降りると、徒歩で空中を移動して彼女の正面へ回った。
やはり普通の表情で魔理沙は訊く。
「で、何の用なんだ?」
「魔理沙が水晶を探しているんじゃないかと、空想してただけですわ」
「探していないぜ」
紫は何故か嬉しそうに微笑んで、首を傾げた。
「あら、見えたんだから。その羊皮紙。但し現在は水晶の予備なし、七月一八日。アリスの筆跡の赤字。そこに向かっているあなたの視線」
魔理沙は少し顔をしかめる。
「空想って言わないだろう、それは……」
「貴女の口から、そうだと言ってもらわない限り空想なの」
私一人がそうだと思ったことに、どれほどの意味があるのかしら、と紫は言う。
「別に私とアリスが欲しい訳じゃないが。お前は、水晶が採れる場所を知ってるのか?」
「ええ。だからお困りならば、手助けしてあげようと思いまして」
「無償でか?」
「うん。採掘道具一式貸してあげるよ」
魔理沙は呆れたように首を振った。
「じゃあどっか行け。オマケ付きより怖いものはないんだ。抱き合わせとかな」
「ああ、ほんとにアリスに水晶をあげるつもりなのね。いいなあプレゼント?」
私贈り物って一回も貰ったことがないの、と彼女は楽しそうに訊く。
「ああプレゼントだ。クリスマスのを用意をしておくんだ」
幻想郷は北半球で、今は夏である。
魔理沙は何もかも面倒になってきたので嘘を白状した。曲解されても別にいい、と思う。さっさと場所を教えてもらって一刻も早くこの妖怪のそばから離れたかった。
書くもの貸しなさいと紫が言ったので、魔理沙は素直に荷物の中から羽根ペンと羊皮紙とインク瓶を差し出した。受け取った彼女は少しの時間を使ってさらさらと地図を描き、それを魔理沙に渡した。
なんだかなあと思いながら目を通せば、それには、丁寧にも文章や簡単な図によるフォローまで付け加えられていた。魔理沙は複雑な気持ちになった。
「……すまんな」
「やりたいことを好きなだけ、やってるだけですわ」
あ、それから、と紫は何処からともなく革の手袋を出して魔理沙の胸に押し付ける。そして、布の手袋では繊維の間を結晶の細いものが突き抜けてくることを説明した。
「……」
なんか至れり尽くせりだった。何故こいつは自分が軍手しか持ってきていないことを知っているのだろう……と魔理沙は疑問に思ったが、それを考えると恐ろしいことに思い至りそうになったので止した。
それに、何故を問うことに、これほど無意味な奴はいない。
そこでどうしてか、彼女を疑っている自分が少し情けなく思えてきたので、魔理沙は素直にお礼を言っておくことにした。
「まあ、ありがたく借りておくぜ。助かる」
「いいえ。貴女が死んだら返すんでいいわ」
「ああ。河を渡る前に取りに来な」
渡し賃になっちゃうからな、と魔理沙は付け加える。
紫は頷いて、ではまたねと言って彼女に手を振ると、明後日の方向に向かって空中をてくてく歩いて行ってしまう。魔理沙はその背中をしばらく眺めていたが、また、一瞬目を離した隙に彼女の姿は見えなくなっていた。
ふう、と溜息をつく。
内容を確かめるでもなく地図に目を落としながら、魔理沙は少し黙考した。正直に言って……手放しには喜べなかったが、彼女は頭を切り替えて山へ向かうことにした。
何か紫の目論見の歯車にされるのであっても、今利害が一致していればそれで構わない、と結論づけた。
◆
西側の斜面の一角、そこが採掘場だと地図には示されていた。天狗が空けた孔があるらしい。
それを確認しながら、まず、魔理沙はそことは別の場所に天幕(テント)を張っておくことにした。どれほどの頻度で採れるのかは判らないが、今日一日で水晶原石が見つからなかった場合、夜に寝床を確保し始めたのでは遅い。
二時間ほど、川沿いを上流に向かって移動した。天幕を設営する場所は、当然水場のそばがいい。
やっとのことで見通しの良さそうな河原を見つけ、箒を着陸させる。雨で川が増水しても寝床が浸されないように位置を考え、持ってきた革の天幕をそこに張り、その近くで、森の胞子を混ぜた香を焚いた。妖怪除けである。
「うん、よし」
満足げに手をはたき、嬉しそうに魔理沙は笑う。
この場所ならば、地図を見る限り、採掘場まで飛んで行って三〇分もかからないだろう。
気力の残っている内に小さい樽に河の水を満載し、テントの中へそれをいくつか放り込んでおいた。それから、もう昼に差しかかっていたので、乾パンで食事を済ませることにした。探しに出かけるのはその後だ。
(……これは紫様々かもしれんな)
大きな丸い石の上に腰掛け、ランダムに陽光を反射する河の流れを見つめながら、魔理沙はぼんやりとそう考えた。天狗のテリトリーとこの場所とは遠いせいか、紫と別れてからここへ来るまで、河童はおろか、哨戒妖怪さえ見つけられなかった。彼女と鉢合わせていなければ、ノーヒントで闇雲に岩のむき出しになった山肌を叩く羽目になっていたかもしれない。
(まあ、この地図が全部嘘って可能性もあるんだが)
その時こそ紫以外の妖怪に訊くしかない。
だが、どうせ山から追い出されそうになる局面はあるだろう。その時相手に訊けばいいと思い直した。
缶の中の半分を食べたところで、魔理沙は大きい鞄の中に乱暴にそれをしまう。代わりに槌と何本かの楔を取り出し、貰った革手袋と一緒に別の小さい鞄の中に突っ込むと、それを背負って箒にまたがり、すぐさま空へ飛び上がった。
改めて見ると妙に読みづらい地図を試行錯誤しながら辿っていくと、やはり西の斜面に、大人が一人通れるくらいの横穴が開いていた。
(ここかね)
孔の脇の斜面に、慎重に箒で着陸する。傾斜は急で、非常に危険だった。孔の外へ出て休憩することは難しいように思えた。天狗の採掘場らしいなと魔理沙は思う。
入り口をくぐり、ランタンを提げて中を進むと、分岐はなく割とすぐに突き当たりに着いた。奥へ進むに従ってどんどん狭くなっており、身を屈めなければならなくなったが、入り口からの光はまだ見える。
そこまで掘る必要があったということは、最奥で目当てのものが採掘し易いことは間違いないだろう。魔理沙は一旦少し引き返して幅の広い場所に荷物を置くと、そこから道具を取り出して最奥へ戻り、そこに跪いてみた。
だが、正直な所、彼女は石堀りのコツなど知らなかった。石英の脈が流れているならば、壁に白い部分が出てくるだろうと考えつくくらいである。
ランタンをかざしてぐるりを見回してみた。白い部分は、あるのかもしれないが、一見しては判らない。
「……」
ひとまず、腰を落ち着けてやってみようと決めた。
楔と槌を鞄の中から取り出すと、彼女は、慣れない手つきで慎重に岩肌を削り始めた。
◆
四時間も槌を振るい続けた頃には、魔理沙の周りは岩盤から剥がされた細かい石で一杯になっていた。
「んーむ」
洞窟に声を反響させながら彼女は唸る。手袋を外して汗を拭う。
水晶はまだ見つからない。白っぽい小粒の石英はいくつか出て来たのだが、それを全部合わせても、あの仕様書に書かれていた水晶の量には満たないように思えた。
スコップで石の屑をすくって外に運ぼうとすると、孔の外が緋色に染まり始めているのが見えた。時計を見ると、もう一七時近い。
(……今日は引き上げるかな)
早めにキャンプに戻っておかなければ、山の妖怪が起きてくる。
魔理沙は溜息をつくと、道具類を全て鞄に仕舞い、箒を取って渋々立ち上がった。
洞窟から出ると眩しくて目を開けていられなくなった。真正面に、沈んでいく夕日があったからだ。殺人的な光をとっさに手のひらで押さえ込む。
だが目が慣れた頃には、思わずその光景に見入っていた。疲労と敗績感を、その時だけは忘れた。
壮観というより他にない。地平の果てまで続く魔法の森に、文字通り火の玉が沈んでいき、木々を紅葉のように染め上げていた。そしてこの高さから雲海がまったく望めないのは、快晴の証拠だった。
なんて赤さだ、と彼女は思わず呟く。
北側には、湖の向こうに模型のように小さな紅魔館も見える。
そこに住む彼らにとって、この景色は、日の出に違いないなと魔理沙は思った。
テントに戻り、また乾パン(だが木苺のジャム付き)と水の夕食を済ませると、魔理沙は妖怪除けの香を消して薄明るい内に床に就いた。
しかしなかなか寝付けなかった。まあ、普段の生活サイクルと違うからだ。
それでも意図的に目を閉じる。今の自分には、睡眠以外に必要なものは何もない。
瞼の内の闇の中で、彼女は色々なことを考えた。
妖怪の山で寝泊りしたのは初めての経験だった。帰ったら香霖に自慢しよう。危ないからもう二度と行かない方がいい、とかそんな、捻りのある一般論で諭されるのは判っていたが、目的は彼のその真面目くさった顔を眺めることだ。
霊夢は……いやあいつなら此処に住めるな。自慢にはならなそうだ。だが紫が出張ってきたことを教えたら、それが何故だったのか、あれこれ話す種にはなるだろう。水晶が沢山見つかったら、あいつに分けてやってもいい。
その後で、頭の中に浮かんできたのは、机に伏せて泣いていたアリスの背中だった。
自然に想起出来たあたり、まだやる気は大丈夫そうだ……と魔理沙は少し無理に冷静ぶりながら思う。
今あれが自分の家に一人で居るんだと思うと、妙な感じがした。
アリスの目的は、短絡的な部分だけ言えば自分と暮らすことの筈である。ならば、もう帰ってしまっているかもしれないなと魔理沙は思った。家具や荷物の移動を面倒がっていなければ、だが。
機嫌も少しは持ち直していたようだし。
(しかしまあ、それとこれとは、別だ)
自分の気が済むか済まないか。魔理沙にとっては、そちらのことの方が重要だった。
――そうこう考えていると、天幕の外で物音がした。
河原の砂利の音。同時に雫が滴るような音も混じっている。
一定のリズムをもって近づいてくる。
足音か。そう判断した魔理沙は瞳を開いた。しかし起き上がりはせず、五感に神経を集中した。枕元の八卦炉を手元に引き寄せて、それにじわりと魔力を蓄積させる。
二足歩行。どうせ妖怪。
天幕ごとひっくり返されるかもしれんな、と呑気に思う。そうなったら即刻レーザーをぶっ放してやるつもりだった。
だったのだが、
「もしもぉし……中にいるんだろう?」
近づいてきた誰かは、何か随分びくびくしながらそう訊いてきた。おそるおそる天幕を叩いている。
「いないぜ」
魔理沙は八卦炉の射出口を人影の方へ向けながらそう言ってみる。
「お。やっぱり、霧雨魔理沙じゃないか」
「違うぜ」
「ほらあ」
「……」
なんで私の嘘はすぐばれるんだろうと思いながら、渋々魔理沙は天幕の蓋を開けた。
「……よう河童」
「やあ人間。久しぶりい」
やっと変なにおいが消えたーと、魔理沙が許してもないのにのそのそ天幕の中に入ってきたのは、河城にとりだった。相手が知り合いだと見るや、なんか厚かましい態度になっていた。
「……ひとまず、水を払ってから入って来いよ」
魔理沙は目頭を抑えて外を指差す。
そうだった、とにとりは言い、水色の園児、いや作業服を天幕の外でばさばさとはたいて来た。あああれ防水とかじゃないんだ――と魔理沙は心中で突っ込んだ。いつも着衣泳らしい。厚手なので透けてはいない。
改めて入り口をくぐりながら、にとりは嬉しそうに微笑んだ。
「なんか頑張ってるみたいじゃないの? かきんかきんと」
「ああ。……って、何でお前がそれを知ってるんだ?」
「椛ちゃんに聞いたから」
魔理沙は首を傾げた。
「もみじちゃん?」
「んん? 知らない? 白狼天狗の椛ちゃん。あの子はお前さんの顔、覚えてたんだけどねぇ」
ああ薄情なんだ、とにとりはオーバーアクションで呆れてみせた。
「名乗りもしないで襲いかかってくる奴のことなんかは、忘れたんだ」
「なんだ、覚えてんじゃないの」
「知らないぜ」
「……まあいいけどさあ」
ともかくね、とにとりは続ける。
「あそこって天狗の採掘場でしょ。だからもうお前さんは、とっくに天狗に見つかってるんだよ」
「だろうな。何で昼間襲われなかったのやら」
よっぽど対応が遅いのかね、前に比べて組織が大きくなり過ぎたのか? と魔理沙は判ったような皮肉を言う。
にとりはしかし真面目に首を振った。
「いやそうじゃなく。監視でいいってことになったのよ」
魔理沙は顎を撫ぜながら、ほう、と呟いた。
「私はもしかしたら妖怪の山を征服する気かも知れんぜ? なのに放っておくのか」
「いやむしろ事を構えると面倒だ、ややこしくなる、って」
にとりが真顔で答えたのに、魔理沙は苦笑を返す。
「嫌われたもんだな。それで、お前が監視役なのか」
「いかにもそういうこと。ここが天狗より河童のテリトリーに近いせいもあるし、まあ、知り合いのつけは知り合いが持てとさ。ただ、あの場所より少しでも上へ登ったらとっちめる、とも言ってたよ」
随分寛容になったものだ、と魔理沙は思う。しかし、少しでも調子に乗ればそこそこ本気で潰しにかかられるだろうと過去を振り返りながら考えた。危険なことに変わりはない。
「それにあの採掘場は、もう殆ど枯れてるらしいからなあ」
だから放っておかれてるんだろうね、とにとりは付け加える。
魔理沙は顔をしかめた。
「なんだ、そうだったのか?」
あの程度の規模の孔で、しかももう殆ど採れないということは、元々この山は鉱山ではないのだろう。紫の知識も旧いものだったのかもしれない。魔理沙は考えながらまた訊いた。
「私としては、水晶の原石が手に入ればそれでいいんだが。何処か別の採掘場所か、原石そのものを持ってる奴を知らないかね?」
にとりは首を振る。
「私たちが知る限り採掘場は他にないし、こっちとしても、水晶は万年不足中なの」
「天狗達のところにもなさそうか?」
「それはわからんよ。ただ、あっても、間違いなく譲ってなんかくれないだろうね」
入山させてることが最大の譲歩だと思いねえ、とにとりは鼻を鳴らす。それもそうかと魔理沙は思う。
リミットは食料が尽きるまでだなと彼女は思った。一旦家に戻って補給をし、それ以上採掘を試みるのは馬鹿だ。それではアリスのためになってしまうような気がするし、自分は鉱夫ではない。手段と目的を取り違えてはならない。
そうこう考えていると、にとりが言うことを思い出したように訊いてきた。
「ああ、ところでところで。お前さん、一体どこで天狗の採掘場を紹介してもらったの?」
「ん……それは、紫っていう、少し頭のおかしい妖怪に教えてもらったんだ」
魔理沙は若干嫌そうに顔をしかめながら答える。
「苗字ある? そいつ」
「やくも。八雲紫だな」
「……聞いたことあるようなないような」
むむむとにとりが悩んでいる内に、魔理沙は例の地図を出して見せた。
にとりは興味をそそられたようで、黙ってそれを二分は見ていた。顎を撫ぜたり姿勢を変えたりして、魔理沙が段々飽きてきた頃に彼女は言った。
「おかしいねこれ。紙に、無理矢理立体図を押し付けたみたいに描いてある。その妖怪って、レティクル座を図説出来るヒル婦人かなんか?」
「単にメルカトルってだけじゃないのか?」
「なにそれ」
話が全く噛みあわなかった。二人は互いに十五秒くらい黙っていた。
クエスチョンマークで一杯になった場をとりなすように、にとりが切り出す。
「ともかくね、そいつ、無為に天狗の情報を流布するはやめた方がいいね。何で枯れた採掘場の在処なんか知ってるのか知らないけど、あっちとしては心象良くないだろうから」
「紫がどうなろうと、私の知ったことじゃないわけだが」
「見つけたら、出来たら忠告しといてよってことさね。そいつでなく、天狗のために」
「そのくらいならいいが……」
言った所で聞く奴なのかどうかという疑問を、魔理沙は飲み込んだ。
微妙な表情をしている彼女に、にとりはまた訊いた。
「でさ、なんで水晶が必要なんだい。振動子でもつくるの?」
不意を突かれて、魔理沙はその問いにすぐに答えを返せなかった。少し考えた後で話す。
「……まあ、つくりたいものに使いたいって奴が居たもんだから。水晶を」
「それ友達? というかつくりたいものって何かね」
にとりが若干輝いた目を魔理沙に向ける。問われた彼女は「いっぺんに訊くな」と苦笑した。
「友達というか腐れ縁だな。つくりたいものってのは……ほれ、これらしい」
魔理沙は鞄から例の羊皮紙を出すと、ぶら下がっているランタンの明かりの下にそれを拡げた。
「……」
にとりは何も喋らず、また暫くそれに目を通した。やがて、見解をこう述べた。
「これは……何の為の道具なの? 色々ともの凄く丁寧に見えるんだけど、用途というか……ちとつくる意義が理解出来ないな」
「だろう。実は私もそう思うんだ」
にとりはそれを訊いて首を振り、
「……ほら、そうやって誤魔化すなよ」
ふざけて喋った魔理沙に対し、真顔で言う。
「興味がないんなら、お前さんは材料集め手伝ったりしないと思うけどね、私ゃ」
「……」
鋭い所を突かれ、魔理沙は少し驚いた。
そうなのだ。
勿論、アリスへ借りを返しておかないと気が済まないという気持ちの方が大きいが、この人形の完成が見てみたいと思ったこともまた、魔理沙の本音だった。真実がらくたと判断したならば、確かに放っておいたかもしれない。
アリスと糸で繋がっていない人形、
リアルタイムで命令を送られない人形、
本質的にマリオネットとは違う人形。
無論、人形が自分でものを考えて動ける域には達していない。だが物理的にアリスの手から離れたその人形が一体どう動くのか、魔理沙は少し観察してみたかった。
頬杖をつきながら明後日の方を向いて、彼女はにとりの問いにそこそこ真面目に回答しておく。
「……使途とか意義とか……この人形の創り手は、普段からそんなこと考えない奴だと思うぜ」
にとりはああ、と納得したように頷いた。
「それが、魔法使いってやつだったねえ」
「うむ」
あいつが今倫理を勉強しているのは、多分罪滅ぼしじみたことなのだろうと魔理沙は思う。何の罪滅ぼしなのかと問われると、それはまだどこにも存在しない罪だからよく判らないが……おそらく人形供養と同じことだ。先に謝るか後に謝るかの違いでしかない。
にとりはしばらく黙って何か考え込んでいたが、やがて言った。
「じゃあ、その子は……人形のお母さんになることが目的なのかもね」
女の子なんでしょ? と羊皮紙の図案を眺めながら彼女は訊く。
少しの間があった。
その後、魔理沙は目を丸くしながら返した。
「ロマンチストだったんだな、お前って」
おうともよ、とにとりは答えると、無邪気に嬉しそうに微笑んだ。
◆
――三日後
「――ああ、くそ」
見つけた屑石英を河原にばらまいてやりながら、私はそう唸った。地団駄踏む元気はなかったと思う。
水晶原石はまだ見つからなかった。あそこは殆ど枯れているというにとりの情報はどうやら正しかったらしい。
その夜の食事は沸かした湯で紅茶を淹れた。しかし定番の乾パンの缶を漁ってみると、なんともう残り一つになっていた。今日の昼までにほぼ一食分多く食べてしまっていたようだった。
「どうやら、炭水化物切れだぜ」
忌々しく思いながら最後の一つを一口で食べ、缶を天幕の中に放り込む。
「きゅうり食べる?」
「すまん」
隣の岩に腰掛けているにとりが、バックパックから緑の野菜を出して渡してくれた。それだけではなんだか味気ないなと思ったので、口の中の乾パンを飲み込んだ後で、川に浸けておいた瓶を引っ張り上げ、その中に残っているジャムをきゅうりにつけて食べることにした。
「うわまずそ……せめてプレーンで食べて欲しかった」
「メロンみたいな味がするぜ」
だがにとりに勧める気にはならない。糖分が摂れるからつけただけだ。虫の声と、川のせせらぎと、顎の骨を通して植物細胞を噛む音がしばらく聞こえていた。どこで収穫しているものなのかは判らないが、それがものすごく新鮮だということだけは私にも判った。
きっと微妙な表情をしていたんだろう。私がきゅうりを食べているのを見ながら、にとりが訊いてきた。
「明日からどうすんのさ。食料それで全部なんだろ?」
「まだ何も決めてないぜ」
それは嘘だ。この夜で食料が尽きるのは予想していたことだったし、そうなったら帰るつもりではいた。だが本当に今まで採れないなどとは夢想だにしておらず、実際そうなってみると帰ろうという気が起こらなかったのだ。
「きゅうりなら山ほどあるけど」
「貰えるものはみんな貰うぜ」
そう言っても、しかし、現実的にきゅうり三食で採掘作業をこなしていくのは無理だろうと思う。単純にエネルギーが足らず、すぐに動けなくなるだろう。
どうすべきかと少しの間だけ考え、私は思いついたことを口にした。
「ああ、もはや一日だけ、きゅうりでしのいでみるか……?」
にとりは、本気か? という顔をこちらに向けた。
「無理しない方がいい。ひとまず自分が人間の女の子だってことを忘れるな。というか、多分、すぐにいたんじゃうしね」
あんな風通し悪いところじゃ半日もつかどうか、と彼女はさも美味しそうにきゅうりをかじる。山では、お腹を壊してしまったらそこで割とゲームセットである。昼間川まで降りて来て彼女を呼び出すことも非常識だ。きゅうり案はやはり没にした。
現実から目を逸らしたくなって空を見上げると、月も輪郭をぼかした朧月だった。雨天の予兆だ。寧ろ今まで、そこそこ標高の高いこの場所で、ずっと晴れていたことの方が不思議だった。
くそ、と悪態をつく。山に、うちへ帰れとせせら笑われている気がしてならない。
だが私は、まだ諦めきれないでいた。何も見つからなかったのだとアリスに説明している自分を想像すると、かなり愕然とした気分になる。
後ろ盾もないくせに、私は決然と言った。
「明日は、出来るところまでやる。無理はなしにな」
「……私は止めたからね」
「ああ、確かに止められたぜ」
昼まではもつだろう、と私はここに来て楽観することにした。――冗談抜きでへろへろになるだろうが。
次の日の作業は過酷を極めた。
朝、キャンプを引き払う時に、にとりに貰ったきゅうりを詰め込んでは来たものの、二時間ほど手を動かしているとすぐに空腹になってしまった。外はもう雨が降っていて、孔の中は湿度が上がりっぱなしになっている。ランタンの明かりさえ気温を上げる原因になっていそうで、鬱陶しかった。
「は……」
時々入り口まで行って深呼吸をした。空気を胸一杯に吸い込むと意識がはっきりする。そのことで私は、孔の中は本当に空気が悪いのだと まざまざと実感させられた。
午後も過ぎると、途中途中意識が曖昧になってきた。白く飛ぶ。眠い。頭を振ってみると、真綿に包まれた鉛玉が入っているようにずきりと痛んだ。
ただ身体がこっぴどく疲弊したせいだろう、余計なことを何も考えなくなったので、手だけは動いた。岩壁に楔を打つルーチンを繰り返す手を、私自身が茫洋と眺めていた。
それを神がかった、というのか、何かに取り付かれたように、と表現したらいいのか、どちらとも知れないが、時が過ぎるのが驚くほど遅く感じられた。私の時間が狂ったように速いスピードで動いていた。
疲れた。
だが身体は動く。
動くのが面白いから放っておく。
おそらく、意識がはっきりしていた時よりも、その状態になってからの方が長かっただろう。あいつはこんな遠い所まで魔法の糸を伸ばせたのか、へえ、と、訳の判らないことを考えた。そもそもあいつって誰のことだっけ?
手は勝手に動いてくれるので、頭を使って暫くそのことを考えた。十分も考えていただろうか、おぼろげに、小さなマリオネットたちを扱って踊る、青い服で金色の髪の少女の姿が思い出された。
ああ、アリスか。アリス・マーガトロイドだ。
やっと判った。
彼女の顔まで思い浮かべられるか否かという丁度その時に、突然手が動かなくなって目の前が真っ暗になった。
◆
魔理沙が出て行って三日が経った。
ぼうっとした頭でベッドから這い起きて、彼女の部屋を確認し、リビングを見、実験室を覗き……そのどこにもあの白黒のとんがり帽子がいないことを確認すると、私は一人で溜息をついた。
正直を言って、心配だったのだ。
行き先で何かあったのかもしれない。
天候が気になって窓から外を覗くと、午前中から大降りでも小降りでもない雨が降っていた。
「……」
最初この家に訪れた時の意地などは、別にもうない。運びきれなかった荷物を燃した、と言ったのも、彼女の反省心をあおるための嘘だ。本当は頃合を見て、元の生活に軟着陸させていくつもりだった。
それが――あんなことになった。魔理沙の前であんな風に子供みたいに泣いてしまうなんていうのは、一生の不覚だ。今思い出しても顔から火が出そうなほど。
しかし、それを差し置いても、今の状況は彼女を心配するに足る。
泊りがけになるかもしれないと行って出て行った奴が、もう何日も帰って来ていないのはおかしかった。
私は本を読みながら一時間くらい悩んだ挙句、彼女を探しに出ることを決断した。山の方へ飛んで行ったらしいということ以外にあてがないので、長時間の外出を覚悟し合羽を着込んで行くことにした。
もはや、この心配が、取り越し苦労かどうかなど関係ない。
魔理沙から受け取った鍵で玄関をロックし、即刻飛び立とうとすると、視界の端に誰かが見えた。
「ごきげんよう」
「あら、ごきげんよう?」
前者は相手で、後者は私の挨拶だ。何処かぼんやりとした表情で、八雲紫が庭の樹の下に立っていた。今日彼女が持っているのは雨傘のようだった。
だが――何の用で訪れたのかは知らないが、この子と関わっている余裕はない。相手が何か喋る前にと私は言った。
「ごめんなさい。悪いけれど、あんたの相手をしている場合ではないの」
「あら何故?」
紫は、私が魔理沙の家から出てきたことに然程驚いていないようだった。何故だろう?
「魔理沙を探さなくてはならないの。黙って何日も家を空けているの」
だがそんなことを気にしてはいられないのだ。それじゃあねと挨拶して踵を返そうとすると、彼女がぽつりと言った。
「失くした人形の、設計書」
私は驚いて振り返る。紫は表情を変えないまま続けた。
「魔理沙がそれを持って、妖怪の山に行くのを見たわ。水晶を探しに行ったみたい」
「――なんですって?」
思考が凍りつく。私は、それ以上なにも考えられない――いや考えたくない状態に陥った。目の前の彼女を凝視したまま動けなくなった。
紫は無表情に目だけを細める。知らず睫毛の長さを強調させながら彼女は云う。
「なんですって……? なんですって、ですって? 知らないふりを、しているの?」
「私が? 何を……」
紫は私の言葉を遮断したかのように続ける。
「ねえ……大事な設計書がなくなって、何日も経っているのでしょう? そのことを敢えて看過したのは何故? それとも、無意識に見過ごした理由があるのなら、そうと思われる理由を、判る限り教えて欲しいのだけど」
後学のために、と彼女は不思議そうに首をかしげながら云う。実際彼女は、試験管を観察するような視線で私と目を合わせていた。
私は、ゴルゴンに敗れた騎士のように、身体を静止させたまま考えた。
見過ごした……?
本当にそうなら、何故私は見過ごしたのだろう。
いや、何の目的があって、見ないふりをしたのだろう。
否、そもそも、自分が設計書をなくしたことに気づいていたのか? 魔理沙が持っていったと気づいていたのだろうか?
……数秒黙考した。
――どうやら気づいていた、らしい。
あの羊皮紙が消えていたのは、自分が羞恥をさらした次の日から。魔理沙が家を空け始めたのも同じ日からだ。関連性に感づかない方がおかしかった。
だが、そう薄々気づいていた様々なことを、今日になるまで、私は三日間も放っておいてしまっている。
一つ、やることが――手を動かす作業が無くなっていたというのに。
同居人が、何日も帰ってこないというのに。
何故か放置したのだ。
「まあいいや……判らないんなら」
黙って動かなくなった私に痺れを切らしたのか、飽きたのか、彼女はかぶりを振ると、つまらなげに何かを放った。私の足元の泥の上にぱしゃりと落ちたのは、見覚えのある布の手袋だった。
「……」
黙ってそれを拾い上げ、私はゆっくりと紫に視線を戻す。
「せめて革のでないと、採掘作業なんて出来ないの」
彼女は独り言のように云う。
私はその言葉を無視しながら訊いた。
「あなた、魔理沙をどうしたの」
「ねえ、ビスケットさん?」
しかし相手も私の言葉を聞かない。
びすけっとさん? と私は訊いた。きっと貴女のことよ、と彼女は他人事のように答える。
「研究が辛い、という本音を、相手を利用して良いということの口実に変えてしまったのは、いつから?」
そこがなんだか解せないのよねえと、彼女は瞳を地面へ向けながら続けた。
「そう、わざわざ……純真だったスタンスを、ずるい手法に応用してしまったのは何故? ということ。そこが、知りたいのよ。そういうのって、女の子の、本能なのかしら」
「……」
「ああ、それが、善い悪いというくだらない話をしたいのではないの。純粋な興味」
彼女は頷きながら上品に微笑んでみせた。
「あなただって……女の子じゃないの」
私は顔から血の気が引いていくのを感じながら訊いた。
「判らないものは、判らないのよ」
はにかみながら笑ったその顔に向け、私は黙って魔力を補填した人形を向けた。何をしているんだろう――と、冷めた状態でその行為を観察しているもう一人の自分が居るのが判る。
「空間を繋いで。今すぐ魔理沙の所へ案内なさい」
「嫌」
紫は唐突に笑みを殺して即答する。
「そろそろ貴女のこと、馬鹿って言ってもいいかしら?」
「――っ」
私はその言葉を聞くや、黙って踵を返して、雨天に向けて飛んだ。
この妖怪とこれ以上話しては――いけないと思った。
また情けないことに、涙が出そうになる。
近頃はどんどん、魔力が失われていっている気がしてならなかった。魔法使いは泣いた分だけ力を失うという迷信があるのだ。
雲は厚い。
大気は熱い。
雷が鳴る前に、彼女の所へたどり着かなくてはと、私は歯を食いしばって前を向いた。
何日も空けたということは、何処かでキャンプしたのだと信じたかった。私は必死に、彼女が出掛けに持っていた鞄の形を頭の中で思い描いた。えんじ色。相当、大きかった筈だ。アウトドアのことは全く判らないが、あれは、日帰りを想定した荷物ではなかったに違いない。
紫は魔理沙が妖怪の山へ行ったと言った。
あそこへ泊り込もうとする人間は、一体どんな行動を取るのか。
魔理沙なら、どうするのか。
水か――と思い至る。現地で調達出来そうなものを、わざわざ家から持っていく必要はない。
魔法の森の上空を二時間ほど移動し、妖怪の山に至った。そこからまたしばらくかけて、その山肌に、増水して茶色くなった川を見つける。休憩を挟まずに下流から上流を目指していくと、少し拓けた河原に黒焦げた痕を見つけた。
想像が正解だったことを喜べない。焦りがつのる前に、冷静な内にとすぐさまそのそばへ下降した。
樹の下へ行って上海を出してやり、一応合羽をはたいた。グリモワールを置いてきたのは正解だと思った。合羽の内側は既に蒸し風呂状態で、雨水をカットするものがあってもなくても変わらない状態だったからだ。
焦げ痕の方を見る。石であの八卦炉を支えたのだろう。焚き木などは見えず、ドーナツ状に煤を被っている。だが、その周りを見渡しても、上から確認出来た通り天幕などはなく、それ以外の形跡も残されていなかった。
「魔理沙!」
名を呼んだ。ここで見つからなければもう手がかりなどない。手詰まりなのだ。身体に冷や汗ばかりが流れていた。
「いないのかしら! 魔理沙!?」
焦燥を払いのけるように叫んだ。だが返答はない。
手がかりがない……それは本当だろうか。声を張り上げながら、私はまた雨の下へ出て歩き出した。
この場所で彼女を見つけるのはもう諦めかけていた。天幕をそう何度も建て直すのはおかしいからだ。
川の増水を避けて、別の場所に移ってしまったのだろうか……。
それとも、単に水晶を採掘しに何処かへ出かけているだけなのか、既にもう彼女は帰路についていて、私がここへ来る途中ですれ違ってしまっているのか、この焦げ痕が魔理沙とは別の妖怪のものなのか……。可能性が多すぎて一瞬途方に暮れそうになる。
しらみつぶしに妖怪に訊いてまわる他にないのか。
そう、覚悟しようとした時だった。
背後の川から、濁流の音に紛れて、眠たそうな声がした。
「魔理沙魔理沙……うるさいんだけど」
◆
魔理沙魔理沙うるさいな……と思った。
声の主を意識の中から追い払いたい……というのが正直な所で、それは、無意識下で日常的に考えていたことだったかもしれない。
彼女は、野良だ、馬鹿だと、いつも人のことを見下した目で見る。だが、自分の手に負えない状況に陥ると、途端にハングして問題をほっぽり出し、運良く近くに居合わせた他人(わたし)を頼ろうとする卑怯者だ。
魂をつくりたいだのなんだのといって、実際的にここにある本物の魂をないがしろにしているのだから苦笑するしかない。
皮肉ではなく――そもそも、操るっていう行為が、彼女のメンタリティの根っこにあるんだろうと考察している。頭であれこれ考え、手のこんだやり方を実践して人を振り回すのが、本能なのかもしれない。
それを自覚しているから、他人を傷つけないために、意図的に独りで居ることを選択しているのかもしれないとも思う。全て、予想だけれど。
しかしどこにでも、生来から我侭な奴……そもそもにおいて他人と歩調を合わせられない人間ってのがいるのも本当だ。それが生まれた時から設定喰らっていた初期値なのか、本人の辿った歴史が最初あった性質を捻じ曲げてしまったのかは判らないし、興味もないが、現在そうであることは隠し通せない真実だと思う。
理解などされない。
気質がいかれているのだ。
だからこんな小さい箱庭に、マイノリティだと隔離される。
その上魔法使いなんていう、無駄で孤独でしかないことをしている。
アリスも私も。
まりさまりさ、という声はまだ響いている。
聞こえてはいる。意識は起きている。
私だって身体を動かしたいのだ。
うるさいと一喝して、懐いて来る飼い猫みたいなお前なんかは追い払ってしまいたい。
揺り起こそうとする前にエネルギーを寄越せ、と思う。
そんなことを考えていたら、何の前触れも無く、口を柔らかいもので塞がれた。
口腔に、食料ではない何かが送り込まれてくる。映像は何も届いて来ないというのに、注ぎ込まれてくるそれが、赤から紫に至るまでの七色の光だと判断出来たのは何故なのだろう。
嚥下した。暖かい。
しかし胃には届かない。
心臓とすれ違う中途で、炎に変わり拡散していく。
熱さの余韻が消えてしばらくすると、身体に少し活力が戻り、目が開けられるようになった。
「今なにした、お前……」
おそらく苦々しい態度で私は訊いた。
「知らないわよ……」
アリスは何故か下を向いたまま答えたが、何かを堪えきれなくなったかのように抱きついてきた。
それで――また泣き始めてしまう。そう判ったのは、胸のところが涙でじっとりと温くなってきたせいだった。
「お前、この所、泣きすぎだろうと思うぜ」
不安定な奴め、魔力が枯れるぞと、私は軽口を叩いてみせる。
「お前から魔法を取ったら、動かない人形しか残らんな」
しかし、アリスは何も答えない。声を殺して泣いているだけだ。
溜息をついて、私は彼女の髪を撫でる。いつの間にか扱いが慣れたもんだと思い、相手に判らないように一人で忍び笑いを漏らす。
どうやら私は気を失って倒れていたらしい。手元に転がっている採掘道具と、燃料切れで消えてしまったランタンを見て現状を把握した。外を見ると雨はあがっているようだったが、既に夜になっていた。周囲の状況が判ったのは、上海が明かりをぶら下げていてくれたからだ。ありがとうなと声をかけてやったが、小さな彼女はうんともすんとも言わなかった。
アリスの嗚咽が収まってきた頃に、私は訊いた。
「どうしてここまで来れたんだ?」
「……河童の子に教えてもらった」
「ん、じゃあ、川まで探しに来てくれてたのか」
アリスは胸に顔をうずめたまま頷く。
「そうか」
てっきり全部紫が喋ったんだろうと思っていたが……違うらしい。
よくこれたなーと、また冗談めかして頭を撫でてやったが、今度は手を払いのけられた。早くも機嫌は直ったらしい。なんだつまらんと私は思ったが、勿論口にはしない。
しばらくアリスは私に抱きついていたが、それからは、案の定泣き声が終息していった。だが私は、彼女が何かアクションを起こし始めるまで放っておいた。
やがてゆっくりと顔を上げた彼女は、すんと鼻を鳴らすと、自分から言った。
「……帰りますか」
急に重いもののなくなった感覚に、僅かな空虚感を覚えながら私は答える。
「ああ、帰ろうぜ」
◆
妖怪の山の川のほとりに、何をするでもなく、紫がぼんやりと佇んでいた。
夕方まで降り続いていた雨は嘘のように止み、鼠色の雲さえもどこかへ消えてしまっていて、七月の夜空には様々な色の星々が無数に光っている。青葉に付着した雨露が、怜悧な月の輝きを湛えていた。
紫色の衣装の人物は、その風景から浮いている。逸脱していた。調和なんて語彙を知らぬげに上空を見上げ、瞳の中に星図を映し込ませる。
彼女はそうして、何となしに精確な時間を把握しようと試みる。h,m,s,……と追い、しかし、コンマ以下に及んだ所でやはり差が生まれる。訓練では上手くいかないことなのだと考え、飽きたのでそれ以上は辞めておいた。
それからも彼女が無意味に夜天を眺めていると、一人の河童が、増水が沈静化し始めている清流から顔を覗かせた。
「おお? 一体全体どなたでしょう」
河童――にとりは、見覚えの無い顔に一人で驚いている。紫はそちらを振り返ると、誰に対しても変えない微笑を浮かべ、愛想良く科をつくってみせた。
「あら、こんばんは。私は先日、外からこちらへ越して来た者ですわ」
「おや、そうでしたか。それはどうも?」
にとりは首を傾げながら返答した。名乗らないのは変だと思ったが、何か名を教えたくない訳でもあるんだろう。
「雨、あがってしまいましたね」
紫がまた夜空に視線を戻しながら言った。
「ですねぇ。私ゃ見てのとおり水棲ですので、雨に降られると、恵みのようなうるさいようなで」
あははと笑いながら、にとりもつられて夜空を見上げる。二人の視線はほぼ平行になった。
微量な静けさと無為な時間を愉しんでから、紫は唐突に、ときに、と相手に問いかける。
「なんでしょう?」
彼女は夜空を見つめたまま訊いた。
「この郷の内側と外側……心を先につくり終えるのって、一体どっちが先なのでしょうね」
にとりはその問いに、驚きを見せなかった。
「おお、そちらの分野に、興味がおありなので?」
紫は頷く。
「ええ」
「情、知、意なんかで定義される、心ですかな」
「そういう解釈の仕方も、あると思いますわ」
彼女は嫌味なく微笑む。
にとりは半分水に浸かりながら腕を組み、考える。たっぷり十秒くらい持論を整理してから、彼女は慎重に言葉を紡いだ。
「そうですねぇ……後か先か、というのは、あまり問題じゃないんじゃないかな」
紫は首を傾げる。
「何故かしら?」
「ええ。心なんてものに対しては、今のところ、誰をも納得させられるような定義付けなんか出来ないでしょうからね。突き詰めるほど判断材料が沸いてくる。しかも、沸いてきた材料が全て必要なものなのかも曖昧で。だから、この先いつ『これが心である』と言い切れるようになるのかなんて、私にゃちょっと想像もつかないですよ」
外と技術で張り合う身としては、内だと断言したいところではあるんですがねぇ……とにとりは頭を掻く。
「では、一番の問題って、何なのかしら?」
「そうですなぁ……」
相手の問いに、にとりはまた何秒か思考した。それから軽く言った。
「うん。つくるかつくらないか、そこを考えることに尽きるんじゃないでしょうかね」
紫は口元に手を添えて驚きを表す。
「あら、存外、曖昧なのね。ハムレットみたい」
「ええ。張り合う張り合わない以前に、ここは、幻想郷ですからね」
にとりはそう言うと無邪気に微笑んでみせた。
よく判りましたわと言って、紫はそれきりその話題を打ち切った。短絡的に魔理沙に水晶を渡さなかったのは、やはり正解だったのかもしれないと、曖昧に結論付ける。
二人の間に沈黙が流れた。
だが、にとりがやがて、頬杖をついて景色に目をやったまま相手に訊いた。
「あの、違ったら申し訳ないんですが」
なんでしょう? と紫は微笑んで尋ね返す。
「貴女って、八雲なにがしさんでは?」
◆
同じ星空の下。
魔法使い二人はくたくたになりながら、森の中、帰路を辿っていた。動けない魔理沙をアリスが負ぶったので、重たい荷物は洞窟の中に放ってきてしまっている。
薄闇の中、膨大な数の黄緑色の光点が、至るところでゆっくりと明滅している。蛍や、それに近い名もない虫たちの群れだった。時々それが魔理沙のとんがり帽子へとまっては、また何処かへ羽ばたいていく。
二人はあの孔を出てから此処へ至るまで、何も言葉を交わさなかった。
魔理沙は眠ってしまったのだろう――。肩にべったりと頬を預けられている感触からアリスはそう考えていたのだが、家に近づいた時になって、その彼女が何事か呟いてきた。
「石は、見つからなかったぜ」
アリスは驚かなかった。表情を変えずに返す。
「そう」
「どこを探しても、ないのかもしれん」
「――そう」
「まあ、それだけだぜ」
明日の自分がどう思っているかは知らないが、アリスは今だけは、人形のことはあまり気にしていなかった。魔理沙のその言葉を聞いても、そこまで気分が滅入りはしない。また何か、時間をかけて別のマテリアルを考慮しよう。そう考えただけだ。
ややあって、魔理沙はまた言った。
「見つけられなくて、すまん」
アリスは突然少し飛び跳ねるようにして、魔理沙を背負い直す。それから目を細め、前を見つめたまま呟いた。
「ごめんなさい」
「ん?」
魔理沙はしかし、何故謝られたのか判らない。きょとんとしながら訊く。
「頭下げてるのは、私の方なんだが?」
「それより私の方が、悪いことをしていたの」
「そうだったのか?」
「ええ」
アリスはしおれた様子もなく、かといって言い張るような態度もとらずに、淡々と現状を相手に伝えるように言う。だが魔理沙の方はさっぱりとしたものだった。
「まあ、どっちでもいいぜ、そんなもの。比べてどうこうなんて話しにゃ、全般に興味が無い」
「……。それも、そうね。そうだったわ」
アリスは溜息をつきながらそう返した。何を言っているんだと、自分に少し呆れた。
再び沈黙が訪れる。
だが奇遇にも、二人とも、それが苦だとはあまり思わなかった。お互いに疲労していて、やや眠かったせいもある。魔理沙の方は、遠出したときの帰り道なんて大抵こんなもんだと心得ており、アリスは、直接触れ合っている人間同士は会話する必要を覚えないのだろうと考察していた。
やがて、霧雨邸が見えてきた。魔理沙が呟きで静寂を破る。
「心臓の音がするな」
言いたいことをストレートに口に出来るのは、快いなと魔理沙は思う。それは状況として随分遅れた感想だとも考えられたが、このタイミングが自分の時間なのだとも思った。
「虫の声だって、聞こえるわね」
抱かれているよりも、負ぶわれている赤子の方が拍動がちゃんと聞こえるのだ……そう言いかけた所でアリスは踏みとどまる。たとえ卑怯でも、今日はこれ以上、迂闊なことを口走る訳にはいかなかった。
「それに私は死んでいないんだから、聞こえるのは、当然でしょう」
そう答え、アリスはお茶を濁す。少しだけ顔を赤らめていたが、その色は周りの暗さに浮かばない。
魔理沙は微笑んで、ああそうだなと、静かに答えた。
――魂の形を識り尽くしたい。
――心という不確かさをつくって仕舞いたい。
それは初めから、なんてロマンがなくて、灰色にくすんだ夢なのだろうとアリスは思う。
識り識り識って、その完全な理解の先にあるものは、想像と思い遣りの死に他ならない。
つくった後も、つくることは出来ないと諦めた後も、同じ分だけの後悔に襲われるであろうことを彼女は識っていた。
どちらの後悔を選ぶかが問題で、彼女自身はつくってしまった後の後悔を選んだ、それだけのことなのだろう。
結構途方も無い道のりである。
何百年かかっても辿り着けないのかもしれない。
だがしかし、その為に、あらゆる全てをなげうとうとも考えない。
何故なら、その犠牲が魂の否定に繋がることを、彼女は既に識っているからだ。
(了)
ゆかりんとにとりも何か非常に「らしい」感じで、読んでいて納得させられたような気がします。
お話の起伏はちょっと少なめですが、後からじわじわ効いてきそう。
この話の魔理沙とアリスはなんとも不思議な関係ですね。
続編希望。
とにかく雰囲気が柔らかで読んでて心地よかった。
ゆかりんが星で時間を計ろうとしていたところにニヤリ。
にとりがかわいいよ!
紫様、内心もの凄く喜んでそうw
とにかく心に響く作品でありました
とにかく100点以上の気分です!
でも友人同士なら、それも楽しいんですよね。
素敵な時間をありがとうございました。
風景やら人物描写やらが勝手に頭に流れ込んでくるし、それが苦にならない
そして何より読んでて楽しい。文句なしですな
且つ、その点を物語の展開に有機的に作用させているのが見事です。
いいもの見せていただきました。次回作も楽しみにしております。
登場人物の行動原理がしっかりしていて読んでて感情移入してしまった
でも終盤のアリスと魔理沙が少し……なぁ。
紫やにとりはらしさが出ていて良かった。
人を食ったような紫の言動がとても良かったです。
俺も同じこと思った。
漫画のほうは読んでないけどそっちで仲がいいことになってるのかな
>魔理沙とアリスって仲が悪かったんじゃないですか?
嫌いな奴と異変解決しに行くもんかなとか思います。まぁ、須く神主の言葉通りに準拠する必要も無いと思います。
話の流れがとても綺麗で、読んでいて心地よかったです。
これは読み返すとまた違った味が楽しめそうですね。ちょっと読み返してきます
文句無しに100点です。ええ。
難しい漢字に出会うたび、自分の語彙力の無さに愕然としつつも、
とても味が出ていて物語にひたることができました。
不思議な風味の素敵な物語。ありがとうございます。
アリスどうなっちゃうのかなぁと心配になりました
それ以外でもアリスの台詞、態度に違和感を覚えました。
でも皆良い味出してます。
仲が悪いというよりも相性が悪いといった感じだったはずかと。
作品によってそこそこだったりトゲトゲしてたり。
にとりがすごく可愛かったです。
きゅうりもらって一緒に食べたいです(味噌付きで)
話の内容や構成としては文句なし。いろいろ考えさせられる不思議な文章でした。
…アリスと魔理沙のみならず、東方の人間関係というものは人それぞれです。
まあ何が言いたいかというと、お気になさらず、と。
本当にキュートで存在感があります。
特にあなたの作品の紫の大ファンです。
また、情景描写も頭の中にすんなり入って来て、
素晴らしいです!!
是非、また創想話に投稿して欲しいです。
アリスと魔理沙の関係がクールでベタベタしすぎない感じで良かったです。
仲が悪いってコメントしてた人がいますけど永夜抄や地霊殿やれば仲が悪いとは思えないですけど。
紫嬢のセリフ回しも神主の節が見れてステキ。
いやあ面白かった