厄を集めることは私の義務だ。
だけれど、他人を不幸にすることは私の義務ではない。
ある、晴れた日の昼過ぎのことだった。私は妖怪の山の麓にある樹海の中でも比較的開けた場所にいた。そこで私の仕事である厄集めをしつつ、何を考えるともなくぼんやりと空を見上げていた。
雲ひとつない空はまるで私の周りに漂う厄とは正反対の色をしていて、私をすがすがしいような、しかし微妙な気分にさせた。
「……平和ね」
くるくるくるっと回りながら私は言った。
ここ最近、私はひどく平和でどうってことない日常を過ごしていた。ただただ厄を集めるだけ。他には特に何もしない。自堕落だと思われるかもしれないけど、他にすることもないし、する必要もないのだからしかたがない。
最後にあったことと言えば、だいたい二ヶ月ほど前に山に来た人間を追い返したことくらいだろう。それも、私の姿を見ただけで相手が逃げ出すという出来事と言えるか言えないかわからないようなものだった。
しかし、どうってことない日常に対してなにか感情を抱くわけでもない。私にとってはそれが普通だったし、普通であるべきなのだから。
「……何も無いっていいわね…………」
そう言うと、私は一旦厄を集めるのを止め、そこに寝転がった。もちろん厄が出てしまうことが無いように注意をしながら。……本当ならくるくる回るのが一番良いのだけれど、流石に寝転がっているのにそれはできない。まぁ多少だったら厄が出てしまってもまた集め直せばいいので、特に困ることは無い。それにここらへんは人間も妖怪も寄り付かない場所なので、あまり心配することも無い。
ちなみに厄というのは普段から集めている私にしてみても結構厄介なもので、地面に憑いたりしたものはなかなか取れない場合がある。少しならまだいいけど、結構な量になってくるとそれなりの時間がかかる。一回岩に座ったまま眠っちゃったけど、その時は全部厄を取るまで二、三時間はかかった。……いくら自分の所為とはいえ、さすがにあれはもう嫌ね。
「…………ふぅ」
夏も近いこの季節、太陽の日差しは私の眠気を増幅させる。……凶悪よね、太陽光線。
あー…………眠いけどここで寝たら厄が結構出ちゃうだろうなー……。
…………まぁ、結局眠気に勝てずに寝ちゃうわけなんだけどね。
──この時私はここで寝ちゃったことがいろいろ変えてしまうなんて思ってもみなかったんだけど。
「……………………はぁ…………」
そしてその数時間後、私は寝たことを後悔していた。どうやら私は太陽の位置と厄の量から計算するに軽く四時間は寝てしまったらしい。起きたとき、そこに見えたのはただひたすら真っ黒な地面だった。…………これ、取り除くのにどれくらいかかるんだろう…………。
ちなみに今現在、取り始めてから二時間が経って、太陽もすでに沈んでしまったけれども一向に取り終わる気配は無い。地面の色も変わった気がしない。一回転して地面を見るたびに絶望にも似た感情を覚える。
できることなら放置して帰りたいけど、それをやったら間違いなくここを通った人間か、もしくは妖怪が大変なことになる。…………死ぬかもしれないわね。
まぁ、幸いなことにかなり長時間昼寝したので眠くは無い。夜になって眠くなるころまでには取り終わるだろう。……そう信じたい。
「それにしても一箇所で回り続けるのも暇ねー。何か面白いことでも起きないかしら」
前回昼寝をしてしまったときも思ったことだが、何をするとも無く延々と回り続けるのは非常に暇だ。普通に厄を集めるのなら多少移動しながらになるので関係は無いのだが、こういった場合はどうしても暇になってしまう。
ここから離れるわけにもいかないし、誰かに来てもらっても困る。…………まぁ、仕方が無いことね。
「はぁ……」
私は溜め息をついて暇つぶしの方法を考えるのをやめた。こうなったら心を無にして厄を取り終わるまで何も考えないようにするしかないわね。
私は目を瞑った。
…………で、だいたい五時間後くらい。
「ようやく終わり、ね……」
すでに月が夜空に上がっていて、真夜中と言える時間帯だった。
暗いので確認しにくいが一応厄を取り終わっただろう。
ちなみに時間の流れは心を無にしても変わることなく、むしろ長いように感じられた。結局何もできないからってそのまま回ったけど。
「さて、そろそろお暇しておうちに帰りましょうか」
いくらか昼寝をしたとは言っても、この時間帯まで起きていては眠くなるというものである。
私は体を伸ばしながら家のある方向の茂みに入ろうと
──ガッ!
「!?」
したところで何かに躓き、そのまま顔面から地面へダイブした。痛い。すごく痛い。
「痛……なんなのよー……」
鼻の辺りを押さえながら私は立ち上がり、躓いた何かを見た。
「…………?」
何もない。必ず何かに躓いたはずなのに、そこには躓きそうなものは何もなかった。…………たくさん回ったけど何もないところで転ぶほどじゃないわよ。回り慣れてるし。
「……………………」
私は目を凝らして障害物があるはずの地面を見た。何もないのはわかってるけど、何もない場所で転んだという事実を認めたくないからだ。
「あら……………………!」
そのとき、闇の中に蠢く何かが見えたような気がした。……まさか本当にいるとは思わなかったわ。
目を細くしてじっとその場所を見つめる。じーという音がするほどに見つめる。
「じー…………」
これは絶対に気のせいなんかじゃない。そんな気がしてならなかった。
……このまま見てたって埒が明かない気がしてきたわ。そうね、いくら真夜中で暗くても、転ぶほどの大きさのもので、しかもずっとこの暗さの中で回っていた私に見えないわけが無い。そうなると何か生き物が隠れているというわけなんだけど…………。
「……仕方ないわね」
厄を出してみようかしらね。少量だったら転んで服が破れる程度で済むだろうし。
ちなみに転んだことに対する八つ当たりに見えるかもしれないけど……八つ当たりよ。きっと太陽光線が凶悪なのも、数時間も寝てしまったのも、その所為で長時間一箇所で厄を取らなきゃいけなくなったのもみんなこいつの所為だしね。
「……………………」
厄を押さえ込むのを少し緩める。すると私という宿主を失った厄は、ほかの宿主を探してやや不安定に動いた後、ゆっくりと姿の見えない新たなる宿主に向かっていった。…………これくらいかしらね。だいたい100ミリヤックル。これ以上はさすがに危ないし。
「え? うわぁ!? 何コレ何コレ!?」
よし、声が確認できたわ。これでとりあえず八つ当たりで切る相手が居ることは確定したわね。あとは厄の効果が出るまで待つだけ。
「へぶ!?」
──ビリッ!
……謀ったかのように予想通りね。転んで服が破れたわ。さて、厄の回収厄の回収。いくら少量だからってずっと放っておいたらそこから増えてしまうもの。
「くるくるくる~っと」
よし、回収完了。
「さてと。あなたは誰かしら?」
私は目の前で何が起こったのかわからない様子で居る少女に問いかけた。
「そ、そういう場合は聞いた相手から名乗るのが掟だよ」
あら、混乱している割には会話が成立したわ。
「それもそうね、私は鍵山雛」
「私は河城にとり。河童だよ」
「にと……り…………?」
「?」
「……ああ、なんでもないわ。それにしてもこんなところに河童? 河童の集落はもっと山のほうだった気がするけど」
「べ、別にいいでしょ。どこにいても」
「それもそうね。じゃ、私はそろそろ帰るわ」
さて、話したいことも話したしそろそろお暇しましょうかね。転んだことももうどうでもよくなってきたし。
「ちょっと」
「何かしら?」
「まだ話は終わって無いよ」
「話…………?」
「なんで私にあのよくわからないものを絡ませて転ばしたのかだよ。光学迷彩も破けちゃったんだから」
「光学……? ……よくわからないけど厄を絡ませたのはあなたに転ばされたからよ」
「転ばされた……? 私は転ばした記憶なんて無い。昼寝してただけだよ。そしたらあなたが勝手に引っかかっただけ」
「でもあなたの姿は見えなかったわ」
「え…………? …………あぁ!」
喜怒哀楽の激しい子ね。
「光学迷彩つけっぱだった!」
よくわからないけどドジなのはわかったわ。
「……どうやら私が悪かったみたい……」
「…………もうどうでもいいけど」
「とりあえずごめんね」
「え? あ、ああうん。いいわよ」
なんかかなり久しぶりに謝られたわ。どれだけ久しぶりかって言うと反応に困るほど久しぶりね。…………まともに生き物と話したのも久しぶりだし。
「じゃあ私は帰るわね。眠いし」
「え? あ、ちょっと」
「何? まだ何かあるの?」
「いや、なんか転ばせちゃったことかなり怒ってたみたいだからさ、なんかお詫びにできないかなって」
「…………いいわ。別にそんなの」
「でも……」
「いいから。久しぶりに生きて話せるものに会って興奮しちゃっただけよ」
私は普通、自ら厄を出したりしない。それが何よりも興奮している証拠だろう。
「いや、でも個人的にお詫びしたいからさ」
にとりは引き下がらなかった。…………しょうがないわね。あんまり取りたくない手段だけどこれ以上この子を不幸にする危険性を上げるわけにも行かないし、厄神であることをバラましょうか。
「あのね、さっきは言ってなかったけど私は厄神なの。だからこれ以上私の近くにいると不幸になるわよ。もしかしたら死んじゃうかもね」
……………………。
「え? や、厄神……?」
ほら。結局はみんな同じ反応をする。私に会う人妖は、ただの一人も例外と無く厄神という言葉を聴いたとたんに態度を変え、私の元から逃げる。…………まぁ、もうそんなのはとおに慣れたけど。さて、そろそろお暇しようかしらね。
「さようなら。今後私を見ても近づかないことね」
「ちょ、ちょっと!」
なんだかまた呼び止められた気がするけど、きっと気のせいだろう。厄神である私を呼び止める奴なんているはずがない。
さて、さっさと帰ってぐっすり寝よう。眠気はほとんど覚めちゃったけど。
「厄神って……まさかあの厄神様? あの子が?」
厄神と言えば、日々厄を集め、妖怪の山の樹海で厄が人間の下に行かないように見張っているって噂のあの厄神様だと思う。集落でもたまにうわさを聞くことがある。厄神様に会ってしまっただの厄神様を見てしまっただの。
なぜみんなが厄神様をそこまで恐れるのか、それは厄神様のその能力からだと思う。
──厄をため込む程度の能力
厄神様の近くではありとあらゆる生命が不幸になる。たとえそれがどれだけ幸運な人間でも、どれだけ強い妖怪であっても。だから誰一人として厄神様に近づこうとするものは居ないらしい。
「まさか……ねぇ?」
信じられないよ。あまりにも自分の想像していた厄神像と異なっていたんだから。もっと怖いのだと思っていた。でも、実際会ってみると普通の女の子。ビックリだよ。背とか私とそこまで変わらないし。
それに……
「悪い子には見えなかったしなぁ」
かわいくて、儚げで、そしてとても寂しそうな女の子だった。
「厄神様は寄るなって言ってたけど、お詫びもしたいし、明日探してみよう」
そう言ってにとりは自分の家に向かって歩きだした。
「逃げて!」
私は「 」に叫んだ。しかし、「 」は何がなんだかわかっていない様子だった。
私のせいだ。
最初から最後まで全部私のせいだ。
あのときあんな気を起こさなければよかった。ようやく友達ができるなんて思わなければよかった。
やっぱり私は孤独でいるべきだったんだ。
目を開けて外を見ると、そこには雲一つ無い青空があった。
「んーっ……いい朝ね」
あの河童との出来事があった後、私は始終ぼーっとしながら帰宅した。眠気は感じなかった気がしたけど、実のところは眠かったのかもしれない。布団に入ったら一気に眠くなって寝ちゃったし。
お風呂にも入らずに寝ちゃったからお風呂に入りたいわね。とりあえず顔を洗おうかしら。
私は樹海の中の小さな家に住んでいる。神様ではあるけど住む神社なんて無いし、そもそも建てる人がいない。今住んでいる家も放置されていた家を使っているし。
ちなみに立地条件は地味に良く、川まで近く、家の周囲には食べられる木の実や果物の成る木もあって食料にも困らない。まあ難点を挙げるとすればボロいところくらいかしら。私としては崩れなければいいから別に気にしてないけど。……崩れるかもしれないけどね。
とりあえず川まで行きましょう。お風呂沸かすの面倒だし、そのまま水浴びしちゃおうかしら。……あったかいからそれもいいわね。とりあえず川までいかないと。
「……昼は回っているみたいね。まぁ昨日帰ってきたのがあんな時間だもの。仕方ないわ」
外に出て太陽の位置を見ると時刻的にはもう正午を過ぎている位置だった。普段辰の刻くらいに起きている私にとってこの時間は十分寝坊といってもいい時間だった。
川まではそこまで時間はかからない。せいぜい歩いて三分といったところだ。川はだいたい十五メートルくらいの川幅で、深さはだいたい五十センチくらい。生活にやさしい。
「はぁ……なんだか気分が晴れないわね。…………やっぱりあの子の所為かしら」
会話を久しぶりにしたから。久しぶりに話せる生きものとあんなに接近したから。大方そんなところだろう。まあ二、三日もすれば治るでしょうね。
……なんかだるいわ。顔洗ったらさっさと朝食にしましょ。
「さぁて、今日はどこで厄集めしようかしら。樹海をぐるっと回るのもいいかもしれないわね」
ばしゃばしゃと顔を洗い、持ってきた手ぬぐいで顔を拭きながら私はそう言った。
私は別に特定の場所で厄集めをしているわけじゃない。その日の気分で変わる。
それに場所を変えたところでそこまで厄の量はほとんど変わらない。変わるものは景色と気分くらいだ。
「奥の泉でもいいし……山近くの高台とかでもいいわね」
別にどっちを選んだからと言って損得があるわけじゃない。本当気分が変わるだけ。だけどそれ以外の楽しみなんて知らない私にとってはそれで十分だった。それに、かなり広いこの樹海だったら結構前からここにいる私でもまだ見ていない景色がひょってしたらあるかもしれない。そういう期待を持つことによって私は色の薄い日常をできるだけ濃いものにしようと努めるの。そうでもしないと厄神なんてやっていけないし。
「ご飯食べたらもう一度川に来て水浴びをする。で、そのまま厄集めに行く。場所は……高台かしらね」
そう言って私は自分の家へと歩きだした。
前述のとおり、私の主食は木の実だ。肉類魚類は好みじゃないし、まず生き物を殺すという点で気が引けるから食べないし、野菜類はまず入手先が無い。育てても厄がついたらあまりよく育たないし。……まぁたまに野菜も食べたくなるけどね。
どちらにしろ私にとって食料は木の実や、あとは自然に育っている果物だけで足りる。別に食事しなくてもいいんだけど…………そこはなんていうか、気持ちの問題? …………とりあえず食べたいから食べてるの。
で、肝心の木の実なんだけど、
「今日はどれにしようかしら」
茶色い木の実、緑色をした果物、赤くて林檎みたいだけど堅くまるで木の実と果物の中間のようなもの。そして、
「やっばりこれよね」
大好物であるその木の実をひとつ手にとり私は言った。そしてゆっくりとその実を口に運ぶ。すると口の中に甘い味が広がった。
「やっばりおいしいわ~、厄るトの実」
思わず頬が緩んでしまう。数少ない私の食料の中で私がもっとも好んでいるもの。それがこの厄るトの実だ。おいしい。とにかくおいしい。どれくらいかというと表現できないくらいだ。ただ、問題点なのは数が少ないこと。これを除けば文句のない食べ物である。
私は他の木の実や果物を食べると一度家に戻り、先ほど使った手ぬぐいよりも一回り大きいものを持ってまた川に向かった。濡れたものだと吸水性が悪いし、ちょっと不快だからだ。
川に着き、私は衣服を脱ぎ、ゆっくりと水につかる。夏に入ったか入らないか微妙な時期である今は、特に苦もなく水浴びが出来る。体に触れる水の温度は丁度いいくらいで、夏に水風呂をするのもいいかもしれないと思った。
「そういえば……」
昨日会ったにとり、河童なのよね。・・・確かにとりって自分の姿を不可視にできるし、もしかしたら近くにいたりして。
そんなことを思いながら水につかり、周囲の景色を眺めていると、
「…………?」
現在地からだいたい五メートルほど離れた川岸に、ちょうど人が座っているくらいの空間のゆがみのような……しいて言うなら透明な絵の具で塗りつぶしたようになっている部分を見つけた。
…………まさかねぇ?
私はそんなはずは無いと思いながら、厄漏れに注意しつつそのゆがみの部分へと進行を開始した。目は決してゆがみの方に向けないようにし、何気なさを装って。そしてそのゆがみの目の前にさしかかった瞬間、ちょい、っとそれをつついてみた。
「うひゃああああああああ!?」
……もちろん私の声じゃない。
私は予想が当たったことに驚きと落胆を感じながら、隠れて私を見ていたにとりに目を向けた。
「あなたねぇ……」
私はため息をつきながらそう漏らした。
この河童は私の近寄るなという注意を聞いていなかったのだろうか。
「いや……あははー……」
そんな私を見て、にとりは苦笑いをした。
朝起きて、着替えや朝食、洗面を済ませると私はいつもの工具やらがびっしり詰まったリュックサックを背負った。今日は昨日会った厄神様にお詫びをしなきゃいけない。だからいつもは寝ているような時間に起きた。……そういえばお詫びってなにをすればいいんだろう。…………それも考えながら行こうっと。
私は戸締まりを確認して家を出た。天気は快晴。気温は……この時期にしては少し暑いくらい。環境面では何の問題もない。絶好の厄神様捜索日寄りだ。
「ん~……まずは川沿いに探してみるかな~」
私は体を伸ばしながら言った。
妖怪の山の樹海で一番分かりやすい土地、それは川とその周辺だ。なにせ川はほとんど分かれることなく人里まで続いているし、分かれていても結局は樹海から抜けることができる。さながら標識だ。よって私は川周辺を探し、そこを基準に捜索範囲を広げていこうと思った。
私の家は河童の集落にあるけど、比較的外の方なので川まではそこまでかからない。歩いて十分くらいだと思う。
集落を抜け、川についた。流れも穏やか。気温と相まってついつい泳ぎたくなっちゃう。でも今日は自制しよう。樹海は広く、入り組んでいて、もしかしなくても厄神様を見つけるのには時間がかかるからだ。
私は飛び上がると川に沿って樹海の方向へと急いだ。あ、泳いだ方が速そうとかいうツッコミは無しだよ。
三十分ほど飛ぶと、目の前には樹海の入り口があった。そこは今までの美しい風景とは一線を画いていて非常に毒々しかった。何度も見た景色だけど、何となく近寄りがたい。嫌悪感にに似た雰囲気がそこからは発せられていた。
飛行速度を緩め、ゆっくりと樹海の中に入っていく。辺りは一気に明るさを失い、ただ少し木々の間から日の光がうっすらと入ってくるだけだ。夜だったらランプは必需品だろう。
私は樹海の中にはいったのは何回かあっても、こんな風にしっかりと目標意識を持って入ったのははじめてだ。なので入るときも今みたく川沿いに行くとかを決めることなく、樹海の中でもやや木がうすい部分を探してそこに入っていた。それも何か面白いものでも落ちていないかと思って入る程度の軽いもので、そこまで長居もしなかった。昨日のだってたまたま良い具合に開けた場所を見つけたので、ついつい昼寝をしてしまっただけだし。なので、本格的に樹海に入るのは今日が多分初めてだろう。
なぜ「だろう」という風に曖昧な表現をするのかというと、わたしは自分の記憶に曖昧な部分があるからだ。別に病気というわけじゃない。ただ、一時期の記憶がすごく曖昧なのだ。仲間に聞いた話だと、以前落石事故があったときに、私は岩の下敷きになったらしい。そのせいで記憶が飛んだんだとか。だけど私はその時期の記憶がなくても別に今まで困らなかったので、特に気にはしなかった。だから今までこれについて気にすることは無かったんだけど。
「もしかしたら来たことあるのかもなぁ……っと」
周囲の闇が消え、あたりの景色が一瞬にして変わった。私は最初何がなんだかわからなかったが、やがて周囲の木々が薄くなったのだとわかった。でも、不自然だった。深い樹海の中でこんなに開けた場所があるなんて。今まで空から見ることが多かったけど、少なくとも私はここを見つけたことは無かった。
私はもしかしたらここに居るのかもと思い、光学迷彩を付けてからまた飛び始めた。……いや、なんというかその…………ちょっと恥ずかしいし……。
「それにしてもきれいなところだなぁ…………」
姿を隠しても声が出てちゃ意味が無いけどまだ厄神様の姿は見えてないから大丈夫だと思う。……たぶん。
進むにつれて、さらに木が薄くなっていくのがわかった。そこはまるで木で出来たトンネルみたいで、少し神秘的な雰囲気を持っていた。でもそれよりも不思議だったのは、わたしはここに来てなぜか懐かしいと感じたことだ。今まで一度もこんな場所来たことが無いのに。……もしかしたら記憶が曖昧なときに来ていたのかもしれない。
「案外あっさり見つかっちゃったりしてなぁ~……………………あ」
──いた。
「で、ここに何をしにきたのかしら?」
あのあと服を着た私はにとりに詰め寄った。
「えーっと…………お詫びをしたくて?」
「……なんで疑問系なのよ」
「い、いや。ただ語尾が上がっちゃっただけで……」
なんでよ。
「……言ったでしょ、私には近づくなって」
「でも……」
「でもじゃないの。私の近くに居ると不幸になる。あなたは決して得をしないのよ。それがわからないの?」
「それはわかってるんだけどさ……」
「じゃあなんでここに来たのよ」
「いや、だから、昨日迷惑かけちゃったみたいだったからさ。そのお詫びをしたいなって」
「はぁ…………?」
本当にたったそれだけのために?
「別にいらないわ。それより早く自分の集落に戻ったほうがいいわよ。あなたが不幸になる前に」
「わかった。じゃあお詫びをしてから戻ることにするよ」
わかってないじゃない。まずお詫びってなにするつもりなのよ。
「……不幸になってもいいの?」
「それはいやかもしれないけど、やっぱりしっかりとお詫びをしたいから。それに……なんだかさびしそうだったから」
「さびしそう? 私が?」
何を言っているんだろうこの河童は。私がさびしそう? そんなはずはない。私は独りでいることに対してもうとうに慣れているんだから。
「それはきっと気のせいよ。私はさびしくなんて無い」
「そうかな。私にはさびしそうに見えるけど」
「気のせいよ。わたしはずっとずっと独りだったんだから。今更さびしいなんてこと無いわ」
本当は、一人じゃない期間もあった。だけどそれを言ったらにとりは絶対に帰らないから。だから私は嘘をつく。人を、妖怪を、そしてにとりを不幸にしないために。
「……やっぱり寂しかったんだね」
「…………え?」
私はにとりの発言に間の抜けた返事をした。
「やっぱりってどういう意味よ」
「だって厄神様、さびしく無いって言う時顔がすごくさびしそうだもん」
「な…………そんなはずないわ」
「そんなはずあるよ。私は見てたから。本当はすごくさびしかったんでしょ?」
「…………そんなことないわ。もしそうだとしても私は独り以外でいちゃいけないの。人間や妖怪を不幸にしないためにね」
「でも少しなら大丈夫なんでしょ? 実際私だってまだ不幸な目にあって無いし」
「なんですって?」
私の中で何かが切れた気がした。
「不幸になってからじゃ遅いのよ? それがわからないの? 少しなら大丈夫? ええ、それは少しなら大丈夫でしょうね。だって私が厄を押さえていればいいんですもの。だけどね、少しでも気が緩むとすぐに厄は漏れ出しちゃうのよ。それにあなたは厄を甘く見ているみたいだけどね、厄は量によっては死んじゃうかもしれないのよ? 私はあなたのことを心配して言っているの。わかる?」
「あ…………その、ごめん」
「……いいわ。私は行くから、もう追ってこないでね」
「ま、待って!」
私はにとりの声を無視して飛んだ。
「……なんか怒らせちゃったみたいだなぁ……」
私は厄神様が飛び去るのを見てそう思った。
「でも、本当に寂しそうだったなぁ…………」
私の目には厄神様が去り際に見せた悲しげな表情が焼きついていた。あんなに悲しそうな表情をするのにどうして一人で居ようとするんだろう。孤独は辛いはずなのに。ずっと孤独だった厄神様が一番それをわかっているはずなのに。
厄が人妖かまわず不幸にしてしまうから? だけどそれは仕方ないこと。厄神様の周りではどんな人妖も不幸になってしまうんだから。少しくらい不幸な目にあったからって仕方ないことで片付ければいい。
「…………厄神様は近寄るなっていってたけど」
このままじゃ、絶対にいけない。
私はそう思って飛び立った。
「……少し言い過ぎたかもしれないわね」
にとりの前から飛び去った後、結局私は予定していた高台に来た。ここならあの場所から離れているし、にとりも追ってこないだろうと思って。
「…………なによ。寂びしそうって」
自分は今まで孤独が普通だったんだから寂しいとか寂しく無いとかはよくわからない。だけどある転機があってから、少し私が孤独に対して感じるものが変わったのはわかる。でもそれと同時に私は孤独であろうと強く思うようになった。
「……………………なんでまたなのよ」
私はくるくるっと回りながらつぶやいた。私はずっと孤独だった。だけどその孤独には一人の妖怪によってひびが入れられてしまった。そして今もガラスのようだった私の孤独には、治せないままのひびが入っている。
いつの話だっただろうか。あの妖怪と会ったのは。
その日も私はくるくるっと回りながら川のほとりで厄集めをしていた。厄集めは私にしか出来ず、私の義務でもあった。
ふと、周囲の景色を見てみると、ここらへんの厄はあらかた取り終わったのがわかった。私はゆっくりと回転を止め、次の厄集めの場所へと行こうとした。
そのとき、一応目立つ厄が残っていないかと確認したのが、その転機のはじまりだったんだろう。
「……………………あら?」
川岸のほうを見てみると、何故か妙に厄が溜まっているのがわかった。
「おかしいわね。取り忘れだなんて」
さらに目を凝らしてみると、そこにはなにやら人の手のようなものが見えた。厄の根源はきっとこれだろう……。
「……って、冷静に推理してないで助けなきゃ!」
私はすぐさま川岸に向かうと、自身の厄が漏れないように気をつけその手をを引いた。
思っていたよりも重かったが、どうにか川から上げることには成功した。私は“彼女”から厄を取り、その後どすべきかと悩んでいると“彼女”は目を覚ました。
「…………あれ? ここは?」
「ここは妖怪の山の樹海よ」
私が答えると“彼女”は私のほうを向いた。すると“彼女”は驚き立ち上がり、あわあわとしだした。
「だ、誰!?」
「あなたが聞いてきたんだからあなたから名乗りなさいよ」
「えーと、私は「 」」
「私は鍵山雛」
「えーと…………私、どうなってたの?」
「溺れてたわね。経緯まではさすがに知らないけど」
「…………もしかして助けてくれた?」
「ええ、まぁ」
私は当然のことをしただけだった。なのに“彼女”といったら、
「あ、ありがとう!」
そう言って私の手を握ってきたのだ。
「…………あ」
「…………え?」
──どぱーん。
もちろんその後ビックリした私がついつい厄を出しちゃって、その所為でまた滑って川に落ちることになったんだけど。
それからだった。“彼女”が数日に一回私のところに来るようになったのは。私は自分が厄神で、近寄ると危ないと言ったが、“彼女”は聞く様子も無く私のところに通った。私もそのうち気軽に話せる……所謂友達のようなものが出来て、心の底では喜んでいたのかもしれない。
そして、出会いから一ヶ月ほど経った時だった。私はその日、ものすごい量の厄を抱えて妖怪の山の麓近くを移動していた。もし生き物がそのときの私に触れたら……まず助からなかっただろう。そんな厄の量だった。
私は家路を急いでいた。これ以上厄を持つと自然のほうにも影響を与えかねないし、それにもし“彼女”が来たら大変なことになってしまうから。
──だけど、こういうときに限って悪い予想は当たるもので、
「やぁ、雛」
“彼女”は来てしまった。
私は“彼女”に今は危ないから、と言おうとした。だけどそのときにはすでに“彼女”は私のすぐ近くにいた。
私はそれに少し、ほんの少しだけ驚いてしまった。普通だったらそんな驚きは厄をもらしてしまうようなものではなかった。だけどそのときは厄の量が違いすぎた。
「逃げて!」
私は“彼女”に叫んだ。しかし、“彼女”は何がなんだかわかっていない様子だった。
そして私がまた厄を回収しようとしたそのとき、
──がらがら……
「…………え?」
岩が上から落ちてきた。私と“彼女”の居る場所めがけて。
「あぶないっ!」
「っ!」
私は動けなかった。厄で不幸になるはずの無い私に不幸が降りかかってきたのだから。だけど、今思えばあれは“彼女”に移った厄がたまたま私を巻き込んだんだと思う。他人の厄に巻き込まれるのと自分が厄で不幸になるのとは違うから。
──どっ! がらら……
岩が近くまで迫っていたのを視認した瞬間、私の体は突き飛ばされた。誰によって? もちろん近くには“彼女”しかいない。
その後岩は“彼女”の上へと落ちた。そのとき私には時間が止まって見えた。やがて、ゆっくりと時間は動き始め、私の頭もそれに沿うように状況を理解し始めた。
私のせいだ。
最初から最後まで全部私のせいだ。
あのときあんな気を起こさなければよかった。ようやく友達ができたなんて思わなければよかった。
私は小さな岩山となった“彼女”の居た場所へと走った。だけど岩はどれも重いものばかりで私一人の力じゃどけることが出来なかった。私はすぐに自分だけで岩をどけるのを諦め、山の上へと飛んだ。山の上のほうに居る天狗に助けようと思ったのだ。
結果、あわてた様子の私を見た哨戒天狗が、私から事情を聞き、“彼女”を助けるために何人かの天狗が向かった。私は哨戒天狗に事情を伝えると逃げるように立ち去った。罪から、逃げるように。
厄を集めることは私の義務だ。
だけれど、他人を不幸にすることは私の義務ではない。
私はそれからずっと孤独でいようと思った。それが私にとっても、ほかの人妖にとっても得となることだから。
以来、私はずっと一人。“彼女”と会う前に戻った。
自分から行動を起こさない限り誰も寄ってこない。それが好都合だった。
「……………………」
私は青く澄んでいる空を見上げて、昔のことを思い出していた。私にほかの人妖と交わることの危険性を示した出来事を。
「……まぁ、これでいつもどおりの日常に戻るわけだし、大団円じゃない。誰も被害を受けずにすべてが終わる。これ以上と無いハッピーエンドね」
そう。これこそが私の望んでいたこと。日常こそあるべき姿なのだ。わざわざ日常を壊してまで何かを変える必要なんて無い。少なくとも私には必要ない。だから今日もこのまま普通に厄集めをして、普通に帰って、普通に夕食をとって、普通にお風呂に入って、普通に寝て終わる。これが私の日常──
「……………………え?」
私はわが目を疑った。飛びながら、こちらに向かってくるにとりがいるのだ。わからない。なんで来るの? 来ちゃダメだって言ったのに。
「や、やぁ。また会ったね」
ふてぶてしすぎる。ちょっと前にも会ったじゃないか。
「…………ダメって言ったじゃない」
「……それはわかってる。だけど…………このままだと何も変わらないよ」
「何が?」
「雛がだよ。このままだとずっと一人ぼっちのままだよ」
「いいじゃない。今までがそうだったんだから。変わりないのはいいことよ。余計に動かして壊れてしまうものもある」
昔、そうだったように。
「あなたは私が変わって、人妖とかかわりを持つようになったとして、不幸になる人が増えてもいいっていうの?」
「…………それは悪いことだよ。だけど、仕方の無いことでもある。だって厄が人や妖怪に不幸を与えてしまうのは仕方ないことでしょ?」
「…………仕方ない。それはあなたがまだ被害を受けてないから言えるのよ」
「ううん。被害だったら受けたよ。昨日厄神様に会った時にね」
昨日…………ああ、あの挨拶代わりに放った厄ね。
「まさかあの程度が厄の効果だと思っているの? あの程度じゃ厄は終わらないわ。さっきも言ったけど妖怪すら命が保障できないのよ?」
「それも聞いたからわかってる。だけど私はそれを理解した上で厄神様と──雛と仲良くなりたいんだ。お詫びもかねてね」
「…………え?」
仲良くなる? なにを言ってるんだ。
「あなた…………いえ、なんでもないわ。それより私と付き合うなら本気でやめておいたほうがいいわよ。あなたの人生が百八十度変わるから。お詫び程度でそうなったらいやでしょ?」
「別にいいよ。雛が独りじゃなくなるなら」
「……………………」
……なによ、それ。私が一人じゃなくなるならあなたは不幸でいいって言うの?
「…………私はもうあなたに迷惑をかけたくないの」
「もう……? まだ私は雛から迷惑をかけられて無いよ」
「…………それもそうね。でも昔、同じように私と仲良くなろうとした妖怪がいたの。で、その妖怪と私は仲良くなったの。だけどね、その妖怪は最後に岩につぶされてしまったわ。…………どうしてだと思う?」
「……………………雛の、厄?」
「……大正解よ。花丸をあげる。これでわかったでしょ? 私と仲良くなった人妖がどんな末路をたどるか」
「…………確かに岩につぶされるのはいやだね。だけどそれは……よくわからないけど厄の量とかによるんじゃない?」
「……それも正解ね」
「なら雛がもしたくさんの厄を持つようなことがあったら、そのときは私は遠くに居ることにする。それでいいでしょう?」
「そ、そういう問題じゃ」
「でも実際離れていれば大丈夫なんでしょ?」
「それは……そうだけど……」
「じゃあいいじゃん」
「……………………」
ダメ……。このままじゃ流されちゃう。私は、一人で居なきゃいけないのに……。そうじゃなきゃ、また昔のような悲劇が起きてしまうのに……。
「それでも、私はダメなの…………!」
私はにとりに背を向けてその場から立ち去ろうとした。しかし、
「待って!」
服の裾をつかまれた。
「…………は、離してよ。や、厄が移るわよ」
急なことだったので少し慌ててしまった。説得力はあまりなかっただろう。
「嫌だ。雛が友達になってくれるまで私は離さない」
「……………………」
もう、なにがしたいのよ。
「…………離さないと厄があなたに移るわよ」
私は落ち着いた口調でもう一度言った。
「じゃあ友達になって」
仕方ないわね…………あんまりこういうことはしたくないけど、友達になったフリをして抜け出そう。
「……………………でも、私と会うときはかならず百メートル以上の距離を置くこと、いい?」
「長いよ! せめて五メートルで!」
「…………でも、五メートル以上は絶対に離れるのよ。特に私が厄を集めてる時は」
「それはもちろんだよ」
そう言ってにとりは笑った。ちょっとまぶしいくらいに。
その後私とにとりはいろいろなことを話した。……とは言っても主に話すのはにとりで、私はそれに適当な相槌を打ってただけだけど。ちなみに何回か逃げようとしたけど、その度に服の裾をつかまれたわね。
まぁそんなこんなでずっと会話してたわけなんだけど、
「そろそろお腹が空いてきたね」
昼を回ったころ、にとりが唐突にそう言った。
「あら。じゃあ私が食べ物を取ってくるわね」
「あ、じゃあ私も一緒に行くよ」
「……………………」
なかなかチャンスは来ないわね。
……それにしても特に食べ物も無いのに取ってくるなんて言っちゃったわね。どうしようかしら。…………厄るトの実でも持って行こうかしら。
「で、どこに行くの?」
「そうねぇ……さっきの川岸の近くかしら」
「? あの近くに何かあるの?」
「ええ、おいしい木の実や果物があるわ」
「果物かぁ……いいね!」
そう言ってにとりは私にグッジョブをしてきた。…………そんなに果物が良かったのだろうか。
「じゃあ早速行こ……ってうわぉー!?」
「え?」
──どさっ
「いたた……ごめん」
「…………な、な……?」
にとりがいきなり大声を出したかと思ったら、急に私のところに倒れこんできた。もちろん受け止める準備なんてしてなかった私は倒れて、結果的に…………その、押し倒される形になった。
「…………その、ごめん」
「……あ、はぅ………………」
私はあまりのことに一瞬意識が飛びそうになった。だ、だって同じ女性だからってそんな、押し倒されるなんて…………。
…………お、落ち着きなさい鍵山雛。私は厄神でしょう? 大丈夫よ私。落ち着いて、素数を数えるのよ。1,2,3,4……あ、間違えた。これ素数じゃないわ。
そうやって私があわてて落ち着こうとした、そのときだった。
──ごわぁ……
周囲に急に黒い霧のようなものが現れた。
「…………あ…………」
「え? なにこれ」
──デテシマッタ。
「逃げてにとり!」
私は自分の上でよくわからないでいるにとりを突き飛ばすと、自分も立ち上がり、くるくると、出てしまった厄の回収をし始めた。だけど厄の量が多すぎて、回収に時間がかかってしまう。
──大事になる前に……間に合って…………!
私は回った。いつもより三倍くらい早く回った。すると厄はそれに伴っていつもの三倍ほどの速さで集まってきた。
だいたい二、三分ほど回りあらかた厄を取り終え、私は一安心した。にとりのほうを見ると、彼女は十メートルほど先に立っていた。しかしまだよくなにが起こったのか理解できていないようだった。
「ふぅ…………危なかったわ。落石どころじゃなかったかもしれないわ──」
見た。私は確実に見た。にとりの体内に多量の厄が入っていくのを。そして、
──がらがら……
既視感のある景色を。
音だけでわかった。私とにとりの上でなにが起こったのか。
「にとりっ!」
私は走った。にとりの元へ。どうか振ってくる前ににとりだけでも岩の当たらない場所に避難させられるようにと。
……きっと突き飛ばせば間に合う………………!
そう思って私は走った。そして私がにとりを突き飛ばせる範囲まであと一メートル程と迫った時だった。そのとき既ににとりは上を向いて、岩が落ちてくるのを見ていた。とても驚いている彼女の表情を見て、私はもっと助けなきゃと思った。しかし、彼女の驚きの表情は、次の瞬間自信に満ちた表情に変わった。私は走る勢いを遅くすること無く、少し驚いた。そして私がにとりの前に着き、突き飛ばそうとした時、
「雛、危ないから動かないでね」
そう言うとにとりは私の右手を自分の左手で引き、私を抱き込むようにした後、右手に持った紙──スペルカードを掲げた。
──河童「のびーるアーム」
にとりがスペルカードを宣言すると、にとりの背負ったリュックサックが突如開き、中から数十の二本爪の“手”が出てきた。
「本来はこういう使い方をするスペルカードじゃないんだけどね」
にとりはそう言って岩を見据えた。数十の手は今まさににとりと私を潰さんとしていた二つの岩に向かっていき、その二つともを思い切り殴って遠くへと飛ばした。
私がぽかーんとしていると、
「ん~…………ちょっと傷ついちゃったかな~」
にとりはそんな暢気な声で手の心配をしだした。
「……え? え?」
「あ、雛。大丈夫だった?」
「え、ええ。にとり、それは?」
「ああ。これはのびーるアームだよ。私の作った機械なんだけどスペルカードにして使っているんだ」
「いや…………そうなの…………」
…………結局厄で迷惑かかっちゃった…………。
「…………はやく離してくれない?」
「え? あ、ああごめんごめん」
私はずっとにとりに抱きしめられたままだった。…………押し倒されるよりはましだけど…………ちょっと焦るわ。
「さてと…………」
にとりは私を離すとせっせとのびーるアームをリュックサック内に仕舞っていた。
「と、とりあえず助かったわ。あ、ありがとう」
「え? あ、ああうん。どうもいたしましトゥ!?」
──どごっ!
…………にとりが台詞を言い終わる前ににとりの頭に拳大の石が落っこちてきた。……のびーるアームに引っかかってたのかしら。
「ちょ、ちょっとにとり!?」
「きゅぅ…………」
…………迷惑かけちゃったし、仕方ないわね…………。
「あ……れ? ここは?」
「私の家よ。流石に河童の集落には連れて行けないから仕方なく連れてきたわ」
私が布団の前で座布団に座り、うとうととしているとにとりが目覚めた。
「えーと……私どうなったんだっけ?」
「頭の上に石が落っこちてきて気絶したわね」
「……その、ごめん」
「いいのよ。私の方が謝らなきゃいけないくらいだわ」
私は近くに置いてある川から汲んできた水の入った桶に空の湯飲みをいれ、にとりの枕元に「水」置いた。にとりは笑って「ありがとう」と言った。そして私も桶の中に湯飲みをいれ、水を汲んだ。
「わかったでしょ。私と付き合うとあんな風になるの。実際に岩が落っこちてきたし」
「あー……確かに落っこちてきたね。でも助かったからいいじゃん」
「今回はたまたま助かったからいいけどね……。でも次はないかもしれないわ。潰れたくなかったら今すぐ私と付き合うのをやめるのよ」
「…………そうだなぁ……ううん。やっぱり私は雛と付き合うよ」
「ええ、そう。それでいいの。あなたは私と今すぐ別れ…………え?」
「だから、私はやっぱり雛と付き合う」
「な、なんでよ! あんな目にあったのよ!? またいつあなたが不幸な目に会うか…………」
「大丈夫だよ。いきなり岩が落ちてきて焦ったけどさ、防げないわけでもなかったし」
「だ、だってそれはたまたま今回は運が良かっただけじゃ……」
「ううん。違うよ。“前回”運が悪かっただけだよ」
…………なんだって?
「え? ぜ、前回?」
「うん。前回。結構前の話になるけどね。そのときも岩が降ってきたよね、あの時は防げそうなものが無くて潰されちゃったけど」
「そ、そんな話があったの。あなたの妖生ってずいぶん悲惨なのね」
「…………雛」
「な、なにかしら」
「……私はね、その事故の時に記憶喪失……というわけでもないんだけど少し記憶が曖昧になってたの。だけど、今さっき石が頭に当たったのが良かったのかな、記憶がはっきりとしたよ」
「そ、それで?」
「…………久しぶり、雛」
……………………ええ。わかってたわよ。私を変えた“彼女”がにとりだってことくらい。
「…………そう、思い出してしまったのね。記憶が曖昧だって言うのは知らなかったけど、あなたの私への態度を見たら一瞬でわかったわ」
あなたが私を覚えてないことくらい。
「なんかその……ごめんね?」
「……なんで謝るの? 私は二回もあなたにひどいことをしたのよ?」
「いや、覚えていられなかったから」
「それもそうね。その方が私のことを嫌いになって、私が今回みたくあなたに迷惑をかける事もなかっただろうし」
「そうじゃないよ。まったく。雛は昔からだけど少ししつこいよ。私が言ったって諦めないって知っててそう言うんだから」
「……なによ。私は心配してるのよ? …………もしかしたら死んじゃうかもしれないんだから…………」
「……もしかして心配してくれてるの?」
「そう言ってるじゃない! 私の話聞いてた!?」
「ご、ごめん」
「……私もいきなり叫んで悪かったわ」
私は喉がかわいたから自分で汲んだ水を飲んだ。
「……本当にしつこいと思うけど、お願いだからもう私に近づくのはやめて。私はもうあなたに迷惑をかけたくないの。唯一私を避けず、私と仲良くなろうともしてくれたあなたに死んでもらいたくないの……。あなたが死んだら、私は本当にひとりぼっちになっちゃうから……」
あれ? 私なに言ってるんだろ。私はひとりぼっちでも寂しくないはずなのに。
「前にあなたが岩に潰されたときなんて、どんなに泣いたと思ってるの? もうあんな思いしたくない。私が唯一好きになったにとりに迷惑をかけたくないの!」
なぜか、涙が出ていた。
私がそう言い終わると、急に私の体が誰かに抱きしめられたのがわかった。もちろん今私の家には私とにとりしかいない。
「…………やっぱり私は雛を一人に出来ない」
「じゃあ、なんで…………」
「独りに出来ないからこそだよ。私がいなくなるのと雛と会わなくなるのじゃ変わりは無い。結局は雛は独りになっちゃう」
「でも、今日みたいに……」
「また不幸になるって? あの程度だったらスペルカードで防げるから大丈夫だよ」
「でも……でも…………」
「……雛は少し心配しすぎなんだ。まず、厄の量があそこまで多くなければ岩が落ちてくるような事態にはならないんでしょ?」
「…………そうだけど…………」
「じゃあ大丈夫だよ。私だって密着するようなことはしないから」
「……………………今、してるじゃない」
「…………それとこれとはは別だよ」
にとりに抱きしめてもらっている間はなぜか安心できた。それほどまでに独りでいたことは私にとって辛いことだったというのだろうか。
「……さて、これでようやく雛が私を友達と認めてくれたわけだね」
「え? あ、わ、私はまだそんなこと一言も」
「言って無いけどわかるよ。友達だから」
「…………なによそれ」
嬉しかった。
「さて、じゃあもう一眠りするよ。なんだか朝早く起きすぎて眠いんだ」
「そ、そう?」
「じゃ、おやすみー」
「え、ええ…………ええっ!?」
睡眠宣言をすると、にとりは私に抱きついたまま眠ってしまった。
「ちょ、ちょっとにとり…………これじゃ私動けないじゃない……」
結局私はにとりが起きるまでずっとその体勢でいることになった。だけど、そこまで悪い気はしなかった。…………これが友達ってやつなのかしらね?
まだいろいろと腑に落ちない部分もあるけど、こういうのは悪くないかもしれないと思った。…………さて、明日から厄を集める時は注意が必要ね。あんまり一気に集めると大変なことになっちゃうだろうし、にとりが来たら危ないし。
私はそんなことを思いながら、自分も少しにとりを抱きしめてみた。
数日後の妖怪の山の麓の樹海には、仲よさげに話す河童と厄神の姿があったという。
だけれど、他人を不幸にすることは私の義務ではない。
ある、晴れた日の昼過ぎのことだった。私は妖怪の山の麓にある樹海の中でも比較的開けた場所にいた。そこで私の仕事である厄集めをしつつ、何を考えるともなくぼんやりと空を見上げていた。
雲ひとつない空はまるで私の周りに漂う厄とは正反対の色をしていて、私をすがすがしいような、しかし微妙な気分にさせた。
「……平和ね」
くるくるくるっと回りながら私は言った。
ここ最近、私はひどく平和でどうってことない日常を過ごしていた。ただただ厄を集めるだけ。他には特に何もしない。自堕落だと思われるかもしれないけど、他にすることもないし、する必要もないのだからしかたがない。
最後にあったことと言えば、だいたい二ヶ月ほど前に山に来た人間を追い返したことくらいだろう。それも、私の姿を見ただけで相手が逃げ出すという出来事と言えるか言えないかわからないようなものだった。
しかし、どうってことない日常に対してなにか感情を抱くわけでもない。私にとってはそれが普通だったし、普通であるべきなのだから。
「……何も無いっていいわね…………」
そう言うと、私は一旦厄を集めるのを止め、そこに寝転がった。もちろん厄が出てしまうことが無いように注意をしながら。……本当ならくるくる回るのが一番良いのだけれど、流石に寝転がっているのにそれはできない。まぁ多少だったら厄が出てしまってもまた集め直せばいいので、特に困ることは無い。それにここらへんは人間も妖怪も寄り付かない場所なので、あまり心配することも無い。
ちなみに厄というのは普段から集めている私にしてみても結構厄介なもので、地面に憑いたりしたものはなかなか取れない場合がある。少しならまだいいけど、結構な量になってくるとそれなりの時間がかかる。一回岩に座ったまま眠っちゃったけど、その時は全部厄を取るまで二、三時間はかかった。……いくら自分の所為とはいえ、さすがにあれはもう嫌ね。
「…………ふぅ」
夏も近いこの季節、太陽の日差しは私の眠気を増幅させる。……凶悪よね、太陽光線。
あー…………眠いけどここで寝たら厄が結構出ちゃうだろうなー……。
…………まぁ、結局眠気に勝てずに寝ちゃうわけなんだけどね。
──この時私はここで寝ちゃったことがいろいろ変えてしまうなんて思ってもみなかったんだけど。
「……………………はぁ…………」
そしてその数時間後、私は寝たことを後悔していた。どうやら私は太陽の位置と厄の量から計算するに軽く四時間は寝てしまったらしい。起きたとき、そこに見えたのはただひたすら真っ黒な地面だった。…………これ、取り除くのにどれくらいかかるんだろう…………。
ちなみに今現在、取り始めてから二時間が経って、太陽もすでに沈んでしまったけれども一向に取り終わる気配は無い。地面の色も変わった気がしない。一回転して地面を見るたびに絶望にも似た感情を覚える。
できることなら放置して帰りたいけど、それをやったら間違いなくここを通った人間か、もしくは妖怪が大変なことになる。…………死ぬかもしれないわね。
まぁ、幸いなことにかなり長時間昼寝したので眠くは無い。夜になって眠くなるころまでには取り終わるだろう。……そう信じたい。
「それにしても一箇所で回り続けるのも暇ねー。何か面白いことでも起きないかしら」
前回昼寝をしてしまったときも思ったことだが、何をするとも無く延々と回り続けるのは非常に暇だ。普通に厄を集めるのなら多少移動しながらになるので関係は無いのだが、こういった場合はどうしても暇になってしまう。
ここから離れるわけにもいかないし、誰かに来てもらっても困る。…………まぁ、仕方が無いことね。
「はぁ……」
私は溜め息をついて暇つぶしの方法を考えるのをやめた。こうなったら心を無にして厄を取り終わるまで何も考えないようにするしかないわね。
私は目を瞑った。
…………で、だいたい五時間後くらい。
「ようやく終わり、ね……」
すでに月が夜空に上がっていて、真夜中と言える時間帯だった。
暗いので確認しにくいが一応厄を取り終わっただろう。
ちなみに時間の流れは心を無にしても変わることなく、むしろ長いように感じられた。結局何もできないからってそのまま回ったけど。
「さて、そろそろお暇しておうちに帰りましょうか」
いくらか昼寝をしたとは言っても、この時間帯まで起きていては眠くなるというものである。
私は体を伸ばしながら家のある方向の茂みに入ろうと
──ガッ!
「!?」
したところで何かに躓き、そのまま顔面から地面へダイブした。痛い。すごく痛い。
「痛……なんなのよー……」
鼻の辺りを押さえながら私は立ち上がり、躓いた何かを見た。
「…………?」
何もない。必ず何かに躓いたはずなのに、そこには躓きそうなものは何もなかった。…………たくさん回ったけど何もないところで転ぶほどじゃないわよ。回り慣れてるし。
「……………………」
私は目を凝らして障害物があるはずの地面を見た。何もないのはわかってるけど、何もない場所で転んだという事実を認めたくないからだ。
「あら……………………!」
そのとき、闇の中に蠢く何かが見えたような気がした。……まさか本当にいるとは思わなかったわ。
目を細くしてじっとその場所を見つめる。じーという音がするほどに見つめる。
「じー…………」
これは絶対に気のせいなんかじゃない。そんな気がしてならなかった。
……このまま見てたって埒が明かない気がしてきたわ。そうね、いくら真夜中で暗くても、転ぶほどの大きさのもので、しかもずっとこの暗さの中で回っていた私に見えないわけが無い。そうなると何か生き物が隠れているというわけなんだけど…………。
「……仕方ないわね」
厄を出してみようかしらね。少量だったら転んで服が破れる程度で済むだろうし。
ちなみに転んだことに対する八つ当たりに見えるかもしれないけど……八つ当たりよ。きっと太陽光線が凶悪なのも、数時間も寝てしまったのも、その所為で長時間一箇所で厄を取らなきゃいけなくなったのもみんなこいつの所為だしね。
「……………………」
厄を押さえ込むのを少し緩める。すると私という宿主を失った厄は、ほかの宿主を探してやや不安定に動いた後、ゆっくりと姿の見えない新たなる宿主に向かっていった。…………これくらいかしらね。だいたい100ミリヤックル。これ以上はさすがに危ないし。
「え? うわぁ!? 何コレ何コレ!?」
よし、声が確認できたわ。これでとりあえず八つ当たりで切る相手が居ることは確定したわね。あとは厄の効果が出るまで待つだけ。
「へぶ!?」
──ビリッ!
……謀ったかのように予想通りね。転んで服が破れたわ。さて、厄の回収厄の回収。いくら少量だからってずっと放っておいたらそこから増えてしまうもの。
「くるくるくる~っと」
よし、回収完了。
「さてと。あなたは誰かしら?」
私は目の前で何が起こったのかわからない様子で居る少女に問いかけた。
「そ、そういう場合は聞いた相手から名乗るのが掟だよ」
あら、混乱している割には会話が成立したわ。
「それもそうね、私は鍵山雛」
「私は河城にとり。河童だよ」
「にと……り…………?」
「?」
「……ああ、なんでもないわ。それにしてもこんなところに河童? 河童の集落はもっと山のほうだった気がするけど」
「べ、別にいいでしょ。どこにいても」
「それもそうね。じゃ、私はそろそろ帰るわ」
さて、話したいことも話したしそろそろお暇しましょうかね。転んだことももうどうでもよくなってきたし。
「ちょっと」
「何かしら?」
「まだ話は終わって無いよ」
「話…………?」
「なんで私にあのよくわからないものを絡ませて転ばしたのかだよ。光学迷彩も破けちゃったんだから」
「光学……? ……よくわからないけど厄を絡ませたのはあなたに転ばされたからよ」
「転ばされた……? 私は転ばした記憶なんて無い。昼寝してただけだよ。そしたらあなたが勝手に引っかかっただけ」
「でもあなたの姿は見えなかったわ」
「え…………? …………あぁ!」
喜怒哀楽の激しい子ね。
「光学迷彩つけっぱだった!」
よくわからないけどドジなのはわかったわ。
「……どうやら私が悪かったみたい……」
「…………もうどうでもいいけど」
「とりあえずごめんね」
「え? あ、ああうん。いいわよ」
なんかかなり久しぶりに謝られたわ。どれだけ久しぶりかって言うと反応に困るほど久しぶりね。…………まともに生き物と話したのも久しぶりだし。
「じゃあ私は帰るわね。眠いし」
「え? あ、ちょっと」
「何? まだ何かあるの?」
「いや、なんか転ばせちゃったことかなり怒ってたみたいだからさ、なんかお詫びにできないかなって」
「…………いいわ。別にそんなの」
「でも……」
「いいから。久しぶりに生きて話せるものに会って興奮しちゃっただけよ」
私は普通、自ら厄を出したりしない。それが何よりも興奮している証拠だろう。
「いや、でも個人的にお詫びしたいからさ」
にとりは引き下がらなかった。…………しょうがないわね。あんまり取りたくない手段だけどこれ以上この子を不幸にする危険性を上げるわけにも行かないし、厄神であることをバラましょうか。
「あのね、さっきは言ってなかったけど私は厄神なの。だからこれ以上私の近くにいると不幸になるわよ。もしかしたら死んじゃうかもね」
……………………。
「え? や、厄神……?」
ほら。結局はみんな同じ反応をする。私に会う人妖は、ただの一人も例外と無く厄神という言葉を聴いたとたんに態度を変え、私の元から逃げる。…………まぁ、もうそんなのはとおに慣れたけど。さて、そろそろお暇しようかしらね。
「さようなら。今後私を見ても近づかないことね」
「ちょ、ちょっと!」
なんだかまた呼び止められた気がするけど、きっと気のせいだろう。厄神である私を呼び止める奴なんているはずがない。
さて、さっさと帰ってぐっすり寝よう。眠気はほとんど覚めちゃったけど。
「厄神って……まさかあの厄神様? あの子が?」
厄神と言えば、日々厄を集め、妖怪の山の樹海で厄が人間の下に行かないように見張っているって噂のあの厄神様だと思う。集落でもたまにうわさを聞くことがある。厄神様に会ってしまっただの厄神様を見てしまっただの。
なぜみんなが厄神様をそこまで恐れるのか、それは厄神様のその能力からだと思う。
──厄をため込む程度の能力
厄神様の近くではありとあらゆる生命が不幸になる。たとえそれがどれだけ幸運な人間でも、どれだけ強い妖怪であっても。だから誰一人として厄神様に近づこうとするものは居ないらしい。
「まさか……ねぇ?」
信じられないよ。あまりにも自分の想像していた厄神像と異なっていたんだから。もっと怖いのだと思っていた。でも、実際会ってみると普通の女の子。ビックリだよ。背とか私とそこまで変わらないし。
それに……
「悪い子には見えなかったしなぁ」
かわいくて、儚げで、そしてとても寂しそうな女の子だった。
「厄神様は寄るなって言ってたけど、お詫びもしたいし、明日探してみよう」
そう言ってにとりは自分の家に向かって歩きだした。
「逃げて!」
私は「 」に叫んだ。しかし、「 」は何がなんだかわかっていない様子だった。
私のせいだ。
最初から最後まで全部私のせいだ。
あのときあんな気を起こさなければよかった。ようやく友達ができるなんて思わなければよかった。
やっぱり私は孤独でいるべきだったんだ。
目を開けて外を見ると、そこには雲一つ無い青空があった。
「んーっ……いい朝ね」
あの河童との出来事があった後、私は始終ぼーっとしながら帰宅した。眠気は感じなかった気がしたけど、実のところは眠かったのかもしれない。布団に入ったら一気に眠くなって寝ちゃったし。
お風呂にも入らずに寝ちゃったからお風呂に入りたいわね。とりあえず顔を洗おうかしら。
私は樹海の中の小さな家に住んでいる。神様ではあるけど住む神社なんて無いし、そもそも建てる人がいない。今住んでいる家も放置されていた家を使っているし。
ちなみに立地条件は地味に良く、川まで近く、家の周囲には食べられる木の実や果物の成る木もあって食料にも困らない。まあ難点を挙げるとすればボロいところくらいかしら。私としては崩れなければいいから別に気にしてないけど。……崩れるかもしれないけどね。
とりあえず川まで行きましょう。お風呂沸かすの面倒だし、そのまま水浴びしちゃおうかしら。……あったかいからそれもいいわね。とりあえず川までいかないと。
「……昼は回っているみたいね。まぁ昨日帰ってきたのがあんな時間だもの。仕方ないわ」
外に出て太陽の位置を見ると時刻的にはもう正午を過ぎている位置だった。普段辰の刻くらいに起きている私にとってこの時間は十分寝坊といってもいい時間だった。
川まではそこまで時間はかからない。せいぜい歩いて三分といったところだ。川はだいたい十五メートルくらいの川幅で、深さはだいたい五十センチくらい。生活にやさしい。
「はぁ……なんだか気分が晴れないわね。…………やっぱりあの子の所為かしら」
会話を久しぶりにしたから。久しぶりに話せる生きものとあんなに接近したから。大方そんなところだろう。まあ二、三日もすれば治るでしょうね。
……なんかだるいわ。顔洗ったらさっさと朝食にしましょ。
「さぁて、今日はどこで厄集めしようかしら。樹海をぐるっと回るのもいいかもしれないわね」
ばしゃばしゃと顔を洗い、持ってきた手ぬぐいで顔を拭きながら私はそう言った。
私は別に特定の場所で厄集めをしているわけじゃない。その日の気分で変わる。
それに場所を変えたところでそこまで厄の量はほとんど変わらない。変わるものは景色と気分くらいだ。
「奥の泉でもいいし……山近くの高台とかでもいいわね」
別にどっちを選んだからと言って損得があるわけじゃない。本当気分が変わるだけ。だけどそれ以外の楽しみなんて知らない私にとってはそれで十分だった。それに、かなり広いこの樹海だったら結構前からここにいる私でもまだ見ていない景色がひょってしたらあるかもしれない。そういう期待を持つことによって私は色の薄い日常をできるだけ濃いものにしようと努めるの。そうでもしないと厄神なんてやっていけないし。
「ご飯食べたらもう一度川に来て水浴びをする。で、そのまま厄集めに行く。場所は……高台かしらね」
そう言って私は自分の家へと歩きだした。
前述のとおり、私の主食は木の実だ。肉類魚類は好みじゃないし、まず生き物を殺すという点で気が引けるから食べないし、野菜類はまず入手先が無い。育てても厄がついたらあまりよく育たないし。……まぁたまに野菜も食べたくなるけどね。
どちらにしろ私にとって食料は木の実や、あとは自然に育っている果物だけで足りる。別に食事しなくてもいいんだけど…………そこはなんていうか、気持ちの問題? …………とりあえず食べたいから食べてるの。
で、肝心の木の実なんだけど、
「今日はどれにしようかしら」
茶色い木の実、緑色をした果物、赤くて林檎みたいだけど堅くまるで木の実と果物の中間のようなもの。そして、
「やっばりこれよね」
大好物であるその木の実をひとつ手にとり私は言った。そしてゆっくりとその実を口に運ぶ。すると口の中に甘い味が広がった。
「やっばりおいしいわ~、厄るトの実」
思わず頬が緩んでしまう。数少ない私の食料の中で私がもっとも好んでいるもの。それがこの厄るトの実だ。おいしい。とにかくおいしい。どれくらいかというと表現できないくらいだ。ただ、問題点なのは数が少ないこと。これを除けば文句のない食べ物である。
私は他の木の実や果物を食べると一度家に戻り、先ほど使った手ぬぐいよりも一回り大きいものを持ってまた川に向かった。濡れたものだと吸水性が悪いし、ちょっと不快だからだ。
川に着き、私は衣服を脱ぎ、ゆっくりと水につかる。夏に入ったか入らないか微妙な時期である今は、特に苦もなく水浴びが出来る。体に触れる水の温度は丁度いいくらいで、夏に水風呂をするのもいいかもしれないと思った。
「そういえば……」
昨日会ったにとり、河童なのよね。・・・確かにとりって自分の姿を不可視にできるし、もしかしたら近くにいたりして。
そんなことを思いながら水につかり、周囲の景色を眺めていると、
「…………?」
現在地からだいたい五メートルほど離れた川岸に、ちょうど人が座っているくらいの空間のゆがみのような……しいて言うなら透明な絵の具で塗りつぶしたようになっている部分を見つけた。
…………まさかねぇ?
私はそんなはずは無いと思いながら、厄漏れに注意しつつそのゆがみの部分へと進行を開始した。目は決してゆがみの方に向けないようにし、何気なさを装って。そしてそのゆがみの目の前にさしかかった瞬間、ちょい、っとそれをつついてみた。
「うひゃああああああああ!?」
……もちろん私の声じゃない。
私は予想が当たったことに驚きと落胆を感じながら、隠れて私を見ていたにとりに目を向けた。
「あなたねぇ……」
私はため息をつきながらそう漏らした。
この河童は私の近寄るなという注意を聞いていなかったのだろうか。
「いや……あははー……」
そんな私を見て、にとりは苦笑いをした。
朝起きて、着替えや朝食、洗面を済ませると私はいつもの工具やらがびっしり詰まったリュックサックを背負った。今日は昨日会った厄神様にお詫びをしなきゃいけない。だからいつもは寝ているような時間に起きた。……そういえばお詫びってなにをすればいいんだろう。…………それも考えながら行こうっと。
私は戸締まりを確認して家を出た。天気は快晴。気温は……この時期にしては少し暑いくらい。環境面では何の問題もない。絶好の厄神様捜索日寄りだ。
「ん~……まずは川沿いに探してみるかな~」
私は体を伸ばしながら言った。
妖怪の山の樹海で一番分かりやすい土地、それは川とその周辺だ。なにせ川はほとんど分かれることなく人里まで続いているし、分かれていても結局は樹海から抜けることができる。さながら標識だ。よって私は川周辺を探し、そこを基準に捜索範囲を広げていこうと思った。
私の家は河童の集落にあるけど、比較的外の方なので川まではそこまでかからない。歩いて十分くらいだと思う。
集落を抜け、川についた。流れも穏やか。気温と相まってついつい泳ぎたくなっちゃう。でも今日は自制しよう。樹海は広く、入り組んでいて、もしかしなくても厄神様を見つけるのには時間がかかるからだ。
私は飛び上がると川に沿って樹海の方向へと急いだ。あ、泳いだ方が速そうとかいうツッコミは無しだよ。
三十分ほど飛ぶと、目の前には樹海の入り口があった。そこは今までの美しい風景とは一線を画いていて非常に毒々しかった。何度も見た景色だけど、何となく近寄りがたい。嫌悪感にに似た雰囲気がそこからは発せられていた。
飛行速度を緩め、ゆっくりと樹海の中に入っていく。辺りは一気に明るさを失い、ただ少し木々の間から日の光がうっすらと入ってくるだけだ。夜だったらランプは必需品だろう。
私は樹海の中にはいったのは何回かあっても、こんな風にしっかりと目標意識を持って入ったのははじめてだ。なので入るときも今みたく川沿いに行くとかを決めることなく、樹海の中でもやや木がうすい部分を探してそこに入っていた。それも何か面白いものでも落ちていないかと思って入る程度の軽いもので、そこまで長居もしなかった。昨日のだってたまたま良い具合に開けた場所を見つけたので、ついつい昼寝をしてしまっただけだし。なので、本格的に樹海に入るのは今日が多分初めてだろう。
なぜ「だろう」という風に曖昧な表現をするのかというと、わたしは自分の記憶に曖昧な部分があるからだ。別に病気というわけじゃない。ただ、一時期の記憶がすごく曖昧なのだ。仲間に聞いた話だと、以前落石事故があったときに、私は岩の下敷きになったらしい。そのせいで記憶が飛んだんだとか。だけど私はその時期の記憶がなくても別に今まで困らなかったので、特に気にはしなかった。だから今までこれについて気にすることは無かったんだけど。
「もしかしたら来たことあるのかもなぁ……っと」
周囲の闇が消え、あたりの景色が一瞬にして変わった。私は最初何がなんだかわからなかったが、やがて周囲の木々が薄くなったのだとわかった。でも、不自然だった。深い樹海の中でこんなに開けた場所があるなんて。今まで空から見ることが多かったけど、少なくとも私はここを見つけたことは無かった。
私はもしかしたらここに居るのかもと思い、光学迷彩を付けてからまた飛び始めた。……いや、なんというかその…………ちょっと恥ずかしいし……。
「それにしてもきれいなところだなぁ…………」
姿を隠しても声が出てちゃ意味が無いけどまだ厄神様の姿は見えてないから大丈夫だと思う。……たぶん。
進むにつれて、さらに木が薄くなっていくのがわかった。そこはまるで木で出来たトンネルみたいで、少し神秘的な雰囲気を持っていた。でもそれよりも不思議だったのは、わたしはここに来てなぜか懐かしいと感じたことだ。今まで一度もこんな場所来たことが無いのに。……もしかしたら記憶が曖昧なときに来ていたのかもしれない。
「案外あっさり見つかっちゃったりしてなぁ~……………………あ」
──いた。
「で、ここに何をしにきたのかしら?」
あのあと服を着た私はにとりに詰め寄った。
「えーっと…………お詫びをしたくて?」
「……なんで疑問系なのよ」
「い、いや。ただ語尾が上がっちゃっただけで……」
なんでよ。
「……言ったでしょ、私には近づくなって」
「でも……」
「でもじゃないの。私の近くに居ると不幸になる。あなたは決して得をしないのよ。それがわからないの?」
「それはわかってるんだけどさ……」
「じゃあなんでここに来たのよ」
「いや、だから、昨日迷惑かけちゃったみたいだったからさ。そのお詫びをしたいなって」
「はぁ…………?」
本当にたったそれだけのために?
「別にいらないわ。それより早く自分の集落に戻ったほうがいいわよ。あなたが不幸になる前に」
「わかった。じゃあお詫びをしてから戻ることにするよ」
わかってないじゃない。まずお詫びってなにするつもりなのよ。
「……不幸になってもいいの?」
「それはいやかもしれないけど、やっぱりしっかりとお詫びをしたいから。それに……なんだかさびしそうだったから」
「さびしそう? 私が?」
何を言っているんだろうこの河童は。私がさびしそう? そんなはずはない。私は独りでいることに対してもうとうに慣れているんだから。
「それはきっと気のせいよ。私はさびしくなんて無い」
「そうかな。私にはさびしそうに見えるけど」
「気のせいよ。わたしはずっとずっと独りだったんだから。今更さびしいなんてこと無いわ」
本当は、一人じゃない期間もあった。だけどそれを言ったらにとりは絶対に帰らないから。だから私は嘘をつく。人を、妖怪を、そしてにとりを不幸にしないために。
「……やっぱり寂しかったんだね」
「…………え?」
私はにとりの発言に間の抜けた返事をした。
「やっぱりってどういう意味よ」
「だって厄神様、さびしく無いって言う時顔がすごくさびしそうだもん」
「な…………そんなはずないわ」
「そんなはずあるよ。私は見てたから。本当はすごくさびしかったんでしょ?」
「…………そんなことないわ。もしそうだとしても私は独り以外でいちゃいけないの。人間や妖怪を不幸にしないためにね」
「でも少しなら大丈夫なんでしょ? 実際私だってまだ不幸な目にあって無いし」
「なんですって?」
私の中で何かが切れた気がした。
「不幸になってからじゃ遅いのよ? それがわからないの? 少しなら大丈夫? ええ、それは少しなら大丈夫でしょうね。だって私が厄を押さえていればいいんですもの。だけどね、少しでも気が緩むとすぐに厄は漏れ出しちゃうのよ。それにあなたは厄を甘く見ているみたいだけどね、厄は量によっては死んじゃうかもしれないのよ? 私はあなたのことを心配して言っているの。わかる?」
「あ…………その、ごめん」
「……いいわ。私は行くから、もう追ってこないでね」
「ま、待って!」
私はにとりの声を無視して飛んだ。
「……なんか怒らせちゃったみたいだなぁ……」
私は厄神様が飛び去るのを見てそう思った。
「でも、本当に寂しそうだったなぁ…………」
私の目には厄神様が去り際に見せた悲しげな表情が焼きついていた。あんなに悲しそうな表情をするのにどうして一人で居ようとするんだろう。孤独は辛いはずなのに。ずっと孤独だった厄神様が一番それをわかっているはずなのに。
厄が人妖かまわず不幸にしてしまうから? だけどそれは仕方ないこと。厄神様の周りではどんな人妖も不幸になってしまうんだから。少しくらい不幸な目にあったからって仕方ないことで片付ければいい。
「…………厄神様は近寄るなっていってたけど」
このままじゃ、絶対にいけない。
私はそう思って飛び立った。
「……少し言い過ぎたかもしれないわね」
にとりの前から飛び去った後、結局私は予定していた高台に来た。ここならあの場所から離れているし、にとりも追ってこないだろうと思って。
「…………なによ。寂びしそうって」
自分は今まで孤独が普通だったんだから寂しいとか寂しく無いとかはよくわからない。だけどある転機があってから、少し私が孤独に対して感じるものが変わったのはわかる。でもそれと同時に私は孤独であろうと強く思うようになった。
「……………………なんでまたなのよ」
私はくるくるっと回りながらつぶやいた。私はずっと孤独だった。だけどその孤独には一人の妖怪によってひびが入れられてしまった。そして今もガラスのようだった私の孤独には、治せないままのひびが入っている。
いつの話だっただろうか。あの妖怪と会ったのは。
その日も私はくるくるっと回りながら川のほとりで厄集めをしていた。厄集めは私にしか出来ず、私の義務でもあった。
ふと、周囲の景色を見てみると、ここらへんの厄はあらかた取り終わったのがわかった。私はゆっくりと回転を止め、次の厄集めの場所へと行こうとした。
そのとき、一応目立つ厄が残っていないかと確認したのが、その転機のはじまりだったんだろう。
「……………………あら?」
川岸のほうを見てみると、何故か妙に厄が溜まっているのがわかった。
「おかしいわね。取り忘れだなんて」
さらに目を凝らしてみると、そこにはなにやら人の手のようなものが見えた。厄の根源はきっとこれだろう……。
「……って、冷静に推理してないで助けなきゃ!」
私はすぐさま川岸に向かうと、自身の厄が漏れないように気をつけその手をを引いた。
思っていたよりも重かったが、どうにか川から上げることには成功した。私は“彼女”から厄を取り、その後どすべきかと悩んでいると“彼女”は目を覚ました。
「…………あれ? ここは?」
「ここは妖怪の山の樹海よ」
私が答えると“彼女”は私のほうを向いた。すると“彼女”は驚き立ち上がり、あわあわとしだした。
「だ、誰!?」
「あなたが聞いてきたんだからあなたから名乗りなさいよ」
「えーと、私は「 」」
「私は鍵山雛」
「えーと…………私、どうなってたの?」
「溺れてたわね。経緯まではさすがに知らないけど」
「…………もしかして助けてくれた?」
「ええ、まぁ」
私は当然のことをしただけだった。なのに“彼女”といったら、
「あ、ありがとう!」
そう言って私の手を握ってきたのだ。
「…………あ」
「…………え?」
──どぱーん。
もちろんその後ビックリした私がついつい厄を出しちゃって、その所為でまた滑って川に落ちることになったんだけど。
それからだった。“彼女”が数日に一回私のところに来るようになったのは。私は自分が厄神で、近寄ると危ないと言ったが、“彼女”は聞く様子も無く私のところに通った。私もそのうち気軽に話せる……所謂友達のようなものが出来て、心の底では喜んでいたのかもしれない。
そして、出会いから一ヶ月ほど経った時だった。私はその日、ものすごい量の厄を抱えて妖怪の山の麓近くを移動していた。もし生き物がそのときの私に触れたら……まず助からなかっただろう。そんな厄の量だった。
私は家路を急いでいた。これ以上厄を持つと自然のほうにも影響を与えかねないし、それにもし“彼女”が来たら大変なことになってしまうから。
──だけど、こういうときに限って悪い予想は当たるもので、
「やぁ、雛」
“彼女”は来てしまった。
私は“彼女”に今は危ないから、と言おうとした。だけどそのときにはすでに“彼女”は私のすぐ近くにいた。
私はそれに少し、ほんの少しだけ驚いてしまった。普通だったらそんな驚きは厄をもらしてしまうようなものではなかった。だけどそのときは厄の量が違いすぎた。
「逃げて!」
私は“彼女”に叫んだ。しかし、“彼女”は何がなんだかわかっていない様子だった。
そして私がまた厄を回収しようとしたそのとき、
──がらがら……
「…………え?」
岩が上から落ちてきた。私と“彼女”の居る場所めがけて。
「あぶないっ!」
「っ!」
私は動けなかった。厄で不幸になるはずの無い私に不幸が降りかかってきたのだから。だけど、今思えばあれは“彼女”に移った厄がたまたま私を巻き込んだんだと思う。他人の厄に巻き込まれるのと自分が厄で不幸になるのとは違うから。
──どっ! がらら……
岩が近くまで迫っていたのを視認した瞬間、私の体は突き飛ばされた。誰によって? もちろん近くには“彼女”しかいない。
その後岩は“彼女”の上へと落ちた。そのとき私には時間が止まって見えた。やがて、ゆっくりと時間は動き始め、私の頭もそれに沿うように状況を理解し始めた。
私のせいだ。
最初から最後まで全部私のせいだ。
あのときあんな気を起こさなければよかった。ようやく友達ができたなんて思わなければよかった。
私は小さな岩山となった“彼女”の居た場所へと走った。だけど岩はどれも重いものばかりで私一人の力じゃどけることが出来なかった。私はすぐに自分だけで岩をどけるのを諦め、山の上へと飛んだ。山の上のほうに居る天狗に助けようと思ったのだ。
結果、あわてた様子の私を見た哨戒天狗が、私から事情を聞き、“彼女”を助けるために何人かの天狗が向かった。私は哨戒天狗に事情を伝えると逃げるように立ち去った。罪から、逃げるように。
厄を集めることは私の義務だ。
だけれど、他人を不幸にすることは私の義務ではない。
私はそれからずっと孤独でいようと思った。それが私にとっても、ほかの人妖にとっても得となることだから。
以来、私はずっと一人。“彼女”と会う前に戻った。
自分から行動を起こさない限り誰も寄ってこない。それが好都合だった。
「……………………」
私は青く澄んでいる空を見上げて、昔のことを思い出していた。私にほかの人妖と交わることの危険性を示した出来事を。
「……まぁ、これでいつもどおりの日常に戻るわけだし、大団円じゃない。誰も被害を受けずにすべてが終わる。これ以上と無いハッピーエンドね」
そう。これこそが私の望んでいたこと。日常こそあるべき姿なのだ。わざわざ日常を壊してまで何かを変える必要なんて無い。少なくとも私には必要ない。だから今日もこのまま普通に厄集めをして、普通に帰って、普通に夕食をとって、普通にお風呂に入って、普通に寝て終わる。これが私の日常──
「……………………え?」
私はわが目を疑った。飛びながら、こちらに向かってくるにとりがいるのだ。わからない。なんで来るの? 来ちゃダメだって言ったのに。
「や、やぁ。また会ったね」
ふてぶてしすぎる。ちょっと前にも会ったじゃないか。
「…………ダメって言ったじゃない」
「……それはわかってる。だけど…………このままだと何も変わらないよ」
「何が?」
「雛がだよ。このままだとずっと一人ぼっちのままだよ」
「いいじゃない。今までがそうだったんだから。変わりないのはいいことよ。余計に動かして壊れてしまうものもある」
昔、そうだったように。
「あなたは私が変わって、人妖とかかわりを持つようになったとして、不幸になる人が増えてもいいっていうの?」
「…………それは悪いことだよ。だけど、仕方の無いことでもある。だって厄が人や妖怪に不幸を与えてしまうのは仕方ないことでしょ?」
「…………仕方ない。それはあなたがまだ被害を受けてないから言えるのよ」
「ううん。被害だったら受けたよ。昨日厄神様に会った時にね」
昨日…………ああ、あの挨拶代わりに放った厄ね。
「まさかあの程度が厄の効果だと思っているの? あの程度じゃ厄は終わらないわ。さっきも言ったけど妖怪すら命が保障できないのよ?」
「それも聞いたからわかってる。だけど私はそれを理解した上で厄神様と──雛と仲良くなりたいんだ。お詫びもかねてね」
「…………え?」
仲良くなる? なにを言ってるんだ。
「あなた…………いえ、なんでもないわ。それより私と付き合うなら本気でやめておいたほうがいいわよ。あなたの人生が百八十度変わるから。お詫び程度でそうなったらいやでしょ?」
「別にいいよ。雛が独りじゃなくなるなら」
「……………………」
……なによ、それ。私が一人じゃなくなるならあなたは不幸でいいって言うの?
「…………私はもうあなたに迷惑をかけたくないの」
「もう……? まだ私は雛から迷惑をかけられて無いよ」
「…………それもそうね。でも昔、同じように私と仲良くなろうとした妖怪がいたの。で、その妖怪と私は仲良くなったの。だけどね、その妖怪は最後に岩につぶされてしまったわ。…………どうしてだと思う?」
「……………………雛の、厄?」
「……大正解よ。花丸をあげる。これでわかったでしょ? 私と仲良くなった人妖がどんな末路をたどるか」
「…………確かに岩につぶされるのはいやだね。だけどそれは……よくわからないけど厄の量とかによるんじゃない?」
「……それも正解ね」
「なら雛がもしたくさんの厄を持つようなことがあったら、そのときは私は遠くに居ることにする。それでいいでしょう?」
「そ、そういう問題じゃ」
「でも実際離れていれば大丈夫なんでしょ?」
「それは……そうだけど……」
「じゃあいいじゃん」
「……………………」
ダメ……。このままじゃ流されちゃう。私は、一人で居なきゃいけないのに……。そうじゃなきゃ、また昔のような悲劇が起きてしまうのに……。
「それでも、私はダメなの…………!」
私はにとりに背を向けてその場から立ち去ろうとした。しかし、
「待って!」
服の裾をつかまれた。
「…………は、離してよ。や、厄が移るわよ」
急なことだったので少し慌ててしまった。説得力はあまりなかっただろう。
「嫌だ。雛が友達になってくれるまで私は離さない」
「……………………」
もう、なにがしたいのよ。
「…………離さないと厄があなたに移るわよ」
私は落ち着いた口調でもう一度言った。
「じゃあ友達になって」
仕方ないわね…………あんまりこういうことはしたくないけど、友達になったフリをして抜け出そう。
「……………………でも、私と会うときはかならず百メートル以上の距離を置くこと、いい?」
「長いよ! せめて五メートルで!」
「…………でも、五メートル以上は絶対に離れるのよ。特に私が厄を集めてる時は」
「それはもちろんだよ」
そう言ってにとりは笑った。ちょっとまぶしいくらいに。
その後私とにとりはいろいろなことを話した。……とは言っても主に話すのはにとりで、私はそれに適当な相槌を打ってただけだけど。ちなみに何回か逃げようとしたけど、その度に服の裾をつかまれたわね。
まぁそんなこんなでずっと会話してたわけなんだけど、
「そろそろお腹が空いてきたね」
昼を回ったころ、にとりが唐突にそう言った。
「あら。じゃあ私が食べ物を取ってくるわね」
「あ、じゃあ私も一緒に行くよ」
「……………………」
なかなかチャンスは来ないわね。
……それにしても特に食べ物も無いのに取ってくるなんて言っちゃったわね。どうしようかしら。…………厄るトの実でも持って行こうかしら。
「で、どこに行くの?」
「そうねぇ……さっきの川岸の近くかしら」
「? あの近くに何かあるの?」
「ええ、おいしい木の実や果物があるわ」
「果物かぁ……いいね!」
そう言ってにとりは私にグッジョブをしてきた。…………そんなに果物が良かったのだろうか。
「じゃあ早速行こ……ってうわぉー!?」
「え?」
──どさっ
「いたた……ごめん」
「…………な、な……?」
にとりがいきなり大声を出したかと思ったら、急に私のところに倒れこんできた。もちろん受け止める準備なんてしてなかった私は倒れて、結果的に…………その、押し倒される形になった。
「…………その、ごめん」
「……あ、はぅ………………」
私はあまりのことに一瞬意識が飛びそうになった。だ、だって同じ女性だからってそんな、押し倒されるなんて…………。
…………お、落ち着きなさい鍵山雛。私は厄神でしょう? 大丈夫よ私。落ち着いて、素数を数えるのよ。1,2,3,4……あ、間違えた。これ素数じゃないわ。
そうやって私があわてて落ち着こうとした、そのときだった。
──ごわぁ……
周囲に急に黒い霧のようなものが現れた。
「…………あ…………」
「え? なにこれ」
──デテシマッタ。
「逃げてにとり!」
私は自分の上でよくわからないでいるにとりを突き飛ばすと、自分も立ち上がり、くるくると、出てしまった厄の回収をし始めた。だけど厄の量が多すぎて、回収に時間がかかってしまう。
──大事になる前に……間に合って…………!
私は回った。いつもより三倍くらい早く回った。すると厄はそれに伴っていつもの三倍ほどの速さで集まってきた。
だいたい二、三分ほど回りあらかた厄を取り終え、私は一安心した。にとりのほうを見ると、彼女は十メートルほど先に立っていた。しかしまだよくなにが起こったのか理解できていないようだった。
「ふぅ…………危なかったわ。落石どころじゃなかったかもしれないわ──」
見た。私は確実に見た。にとりの体内に多量の厄が入っていくのを。そして、
──がらがら……
既視感のある景色を。
音だけでわかった。私とにとりの上でなにが起こったのか。
「にとりっ!」
私は走った。にとりの元へ。どうか振ってくる前ににとりだけでも岩の当たらない場所に避難させられるようにと。
……きっと突き飛ばせば間に合う………………!
そう思って私は走った。そして私がにとりを突き飛ばせる範囲まであと一メートル程と迫った時だった。そのとき既ににとりは上を向いて、岩が落ちてくるのを見ていた。とても驚いている彼女の表情を見て、私はもっと助けなきゃと思った。しかし、彼女の驚きの表情は、次の瞬間自信に満ちた表情に変わった。私は走る勢いを遅くすること無く、少し驚いた。そして私がにとりの前に着き、突き飛ばそうとした時、
「雛、危ないから動かないでね」
そう言うとにとりは私の右手を自分の左手で引き、私を抱き込むようにした後、右手に持った紙──スペルカードを掲げた。
──河童「のびーるアーム」
にとりがスペルカードを宣言すると、にとりの背負ったリュックサックが突如開き、中から数十の二本爪の“手”が出てきた。
「本来はこういう使い方をするスペルカードじゃないんだけどね」
にとりはそう言って岩を見据えた。数十の手は今まさににとりと私を潰さんとしていた二つの岩に向かっていき、その二つともを思い切り殴って遠くへと飛ばした。
私がぽかーんとしていると、
「ん~…………ちょっと傷ついちゃったかな~」
にとりはそんな暢気な声で手の心配をしだした。
「……え? え?」
「あ、雛。大丈夫だった?」
「え、ええ。にとり、それは?」
「ああ。これはのびーるアームだよ。私の作った機械なんだけどスペルカードにして使っているんだ」
「いや…………そうなの…………」
…………結局厄で迷惑かかっちゃった…………。
「…………はやく離してくれない?」
「え? あ、ああごめんごめん」
私はずっとにとりに抱きしめられたままだった。…………押し倒されるよりはましだけど…………ちょっと焦るわ。
「さてと…………」
にとりは私を離すとせっせとのびーるアームをリュックサック内に仕舞っていた。
「と、とりあえず助かったわ。あ、ありがとう」
「え? あ、ああうん。どうもいたしましトゥ!?」
──どごっ!
…………にとりが台詞を言い終わる前ににとりの頭に拳大の石が落っこちてきた。……のびーるアームに引っかかってたのかしら。
「ちょ、ちょっとにとり!?」
「きゅぅ…………」
…………迷惑かけちゃったし、仕方ないわね…………。
「あ……れ? ここは?」
「私の家よ。流石に河童の集落には連れて行けないから仕方なく連れてきたわ」
私が布団の前で座布団に座り、うとうととしているとにとりが目覚めた。
「えーと……私どうなったんだっけ?」
「頭の上に石が落っこちてきて気絶したわね」
「……その、ごめん」
「いいのよ。私の方が謝らなきゃいけないくらいだわ」
私は近くに置いてある川から汲んできた水の入った桶に空の湯飲みをいれ、にとりの枕元に「水」置いた。にとりは笑って「ありがとう」と言った。そして私も桶の中に湯飲みをいれ、水を汲んだ。
「わかったでしょ。私と付き合うとあんな風になるの。実際に岩が落っこちてきたし」
「あー……確かに落っこちてきたね。でも助かったからいいじゃん」
「今回はたまたま助かったからいいけどね……。でも次はないかもしれないわ。潰れたくなかったら今すぐ私と付き合うのをやめるのよ」
「…………そうだなぁ……ううん。やっぱり私は雛と付き合うよ」
「ええ、そう。それでいいの。あなたは私と今すぐ別れ…………え?」
「だから、私はやっぱり雛と付き合う」
「な、なんでよ! あんな目にあったのよ!? またいつあなたが不幸な目に会うか…………」
「大丈夫だよ。いきなり岩が落ちてきて焦ったけどさ、防げないわけでもなかったし」
「だ、だってそれはたまたま今回は運が良かっただけじゃ……」
「ううん。違うよ。“前回”運が悪かっただけだよ」
…………なんだって?
「え? ぜ、前回?」
「うん。前回。結構前の話になるけどね。そのときも岩が降ってきたよね、あの時は防げそうなものが無くて潰されちゃったけど」
「そ、そんな話があったの。あなたの妖生ってずいぶん悲惨なのね」
「…………雛」
「な、なにかしら」
「……私はね、その事故の時に記憶喪失……というわけでもないんだけど少し記憶が曖昧になってたの。だけど、今さっき石が頭に当たったのが良かったのかな、記憶がはっきりとしたよ」
「そ、それで?」
「…………久しぶり、雛」
……………………ええ。わかってたわよ。私を変えた“彼女”がにとりだってことくらい。
「…………そう、思い出してしまったのね。記憶が曖昧だって言うのは知らなかったけど、あなたの私への態度を見たら一瞬でわかったわ」
あなたが私を覚えてないことくらい。
「なんかその……ごめんね?」
「……なんで謝るの? 私は二回もあなたにひどいことをしたのよ?」
「いや、覚えていられなかったから」
「それもそうね。その方が私のことを嫌いになって、私が今回みたくあなたに迷惑をかける事もなかっただろうし」
「そうじゃないよ。まったく。雛は昔からだけど少ししつこいよ。私が言ったって諦めないって知っててそう言うんだから」
「……なによ。私は心配してるのよ? …………もしかしたら死んじゃうかもしれないんだから…………」
「……もしかして心配してくれてるの?」
「そう言ってるじゃない! 私の話聞いてた!?」
「ご、ごめん」
「……私もいきなり叫んで悪かったわ」
私は喉がかわいたから自分で汲んだ水を飲んだ。
「……本当にしつこいと思うけど、お願いだからもう私に近づくのはやめて。私はもうあなたに迷惑をかけたくないの。唯一私を避けず、私と仲良くなろうともしてくれたあなたに死んでもらいたくないの……。あなたが死んだら、私は本当にひとりぼっちになっちゃうから……」
あれ? 私なに言ってるんだろ。私はひとりぼっちでも寂しくないはずなのに。
「前にあなたが岩に潰されたときなんて、どんなに泣いたと思ってるの? もうあんな思いしたくない。私が唯一好きになったにとりに迷惑をかけたくないの!」
なぜか、涙が出ていた。
私がそう言い終わると、急に私の体が誰かに抱きしめられたのがわかった。もちろん今私の家には私とにとりしかいない。
「…………やっぱり私は雛を一人に出来ない」
「じゃあ、なんで…………」
「独りに出来ないからこそだよ。私がいなくなるのと雛と会わなくなるのじゃ変わりは無い。結局は雛は独りになっちゃう」
「でも、今日みたいに……」
「また不幸になるって? あの程度だったらスペルカードで防げるから大丈夫だよ」
「でも……でも…………」
「……雛は少し心配しすぎなんだ。まず、厄の量があそこまで多くなければ岩が落ちてくるような事態にはならないんでしょ?」
「…………そうだけど…………」
「じゃあ大丈夫だよ。私だって密着するようなことはしないから」
「……………………今、してるじゃない」
「…………それとこれとはは別だよ」
にとりに抱きしめてもらっている間はなぜか安心できた。それほどまでに独りでいたことは私にとって辛いことだったというのだろうか。
「……さて、これでようやく雛が私を友達と認めてくれたわけだね」
「え? あ、わ、私はまだそんなこと一言も」
「言って無いけどわかるよ。友達だから」
「…………なによそれ」
嬉しかった。
「さて、じゃあもう一眠りするよ。なんだか朝早く起きすぎて眠いんだ」
「そ、そう?」
「じゃ、おやすみー」
「え、ええ…………ええっ!?」
睡眠宣言をすると、にとりは私に抱きついたまま眠ってしまった。
「ちょ、ちょっとにとり…………これじゃ私動けないじゃない……」
結局私はにとりが起きるまでずっとその体勢でいることになった。だけど、そこまで悪い気はしなかった。…………これが友達ってやつなのかしらね?
まだいろいろと腑に落ちない部分もあるけど、こういうのは悪くないかもしれないと思った。…………さて、明日から厄を集める時は注意が必要ね。あんまり一気に集めると大変なことになっちゃうだろうし、にとりが来たら危ないし。
私はそんなことを思いながら、自分も少しにとりを抱きしめてみた。
数日後の妖怪の山の麓の樹海には、仲よさげに話す河童と厄神の姿があったという。
でもこれ明らかに友達の線を越えてるよね
ごっつぁんでした
>でもこれ明らかに友達の線を越えてるよね
これが幻想郷クオリティだと私は信じてやまないのです。
ごちそうさま
>カギさん
どうも、おそまつさまでした。