鈴仙は始め、その言葉の意味がわからなかった。彼女の中から何かが崩れ、頭が真っ白になるのを感じていた。
やがて、彼女は正座の辛さも感じなくなった。
==短冊に願いを込めて==
明日は七夕である。そこで、半信半疑と言うべきか、気休めと言うべきか――鈴仙は短冊に願い事を書いてみることにしたのだ。
月並みであるが、彼女にしては重要な事を書いた。
『師匠のような立派な医者になれますように』
この願い、願いに見えて実はそうではない。ちょっと前に、鈴仙はそろそろ自立してもおかしくない腕だ、と永琳に太鼓判を押されたのだ。
しかし、そう甘くはなかった。公から見て幻想郷一の医者と言えば、後にも先にも永琳一人である。幻想郷の人々にはそれが常識なのだ。いや、もはや真理といっても過言ではない。
すなわち、鈴仙は永遠亭の者以外には医者としてまともに認められていなかった。良くても、助手程度である。
多くのものは医者の下で修行している受付係と思っていた。
永遠亭に来る者の目的を数日間集計してみたのが、以下の結果である。
永琳の治療(42%)
永琳の薬(38%)
迷ったらたどり着いた(19.9%)
輝夜殺し(0.01%)
鈴仙はショックを受けた。誰も、自分を認めてくれないことに。
しかしいつまでも落ち込んでいるわけにはいかない。彼女は前向きに考えることにして、何とか立ち直った。そして改めて、先ほどのような願いを書いたのである。
鈴仙が覗いてみたところ、てゐは『商売繁盛』。恐らく――間違いなく詐欺のことであろう。この願いは、永遠に保留にされるべきだ。
多くの兎は『にんじんいっぱい』と書いていた。正直なものたちである。
また、小数は鈴仙が覗こうとすると顔を真っ赤にして見せてくれなかった。中には、「鈴仙様に話しかけられたー」と、きゃあきゃあ騒いでいるものもいた。
ちなみに輝夜は『妹紅三秒キル』と書いていたが、物騒なので触れないことにした。鈴仙にできるのは、輝夜がそれを竹に結び付けないように願うだけだ。あるいは、その願い受理されないことだろうか。
ちなみに、七夕の星には願わない。もったいないから。
鈴仙は知らないのだが、輝夜に狙われている妹紅の願いは『慧音と同棲』である。殺伐とした輝夜とは対象に、こちらは随分と幸せそうだ。
やがて鈴仙の興味は自らの師――永琳へと向かった。何気ない口調で話しかけたところ、永琳は深刻な顔をしていたので、鈴仙は止まった。
「ウドンゲ、ちょっとこっちに来なさい」
鈴仙は畳みの部屋に連れられた。二人して正座する。しばらく間をおかれた後、鈴仙は告げられたのだ。
「ウドンゲ、あなたは……破門よ」
こうして、冒頭の状況になったのである。
「な、何でですか!?」
かろうじて出た言葉を思いっきり吐き出し、鈴仙は立ち上がった。今になってやっと、足が痺れた。
「あなたの腕は良い。でも、あまりにもあなたを信用する人が少ない。
ですから、ここから出て、人間の里ででも修行しなさい。慧音さんだったかしら? もう彼女には言ってるから」
鈴仙はまるで、五つの異国語を同時に聞かされたかのように、状況が理解できなかった。
「わかったかしら? わかったなら急いで荷物をまとめなさい」
「で、でも師匠……!」
「あなたは破門されたの。もう師匠と呼ぶのはやめなさい」
永琳はもう言うことはない、と言うかのように立ち上がり、襖の向こうに立ち去った。鈴仙は見送ることしか出来ず、がっくりと膝を付いて崩れ落ちた。
『師匠のような立派な医者になれますように』と書かれた短冊に一つ二つ、染みが付く。
もうこの短冊は無効なのだろうか? 願いはかなえてくれないのだろうか? そんな考えが頭を過ぎったが、鈴仙はその考えを振り払う。同時に、目に浮かんだ涙も振り払った。
どれほど時間が経ったのかは鈴仙にはわからなかったのだが、やがて控えめに襖が開かれた。咄嗟にそちらに向きそうになったのだが、目元を誰にも見られたくなかったので顔を背けた。
鈴仙は、静かに声をかけられた。
「……鈴仙」
「……てゐ? もしかして……聞いてたの?」
「……ごめん」
てゐは大きな荷物を持ち、引きずる様にしながら鈴仙に近づこうとする。こんなときであるのに鈴仙は畳が傷付くことが気になり、てゐの荷物を持ち上げた。重かった。
「鈴仙、準備……しておいたよ」
感謝すべきなのだろう。しかし、鈴仙には余計なお世話に思えた。てゐもまた、出て行け、と言っているように思えたから。
それにしても、鈴仙は自分が情けなくなった。まさか準備ができてしまうほど長い時間ここで泣いていたのか、と。
鈴仙はいつものように「余計なお世話よ」と言葉を投げようとしたのだが、思いとどまった。
てゐの体が震えていたのだ。鈴仙は一言、ありがとうとだけ呟き、泣きじゃくるてゐに背を向けて歩き出した。
☆
「あら?」
竹やぶの中。暑さのせいで、鈴仙はタオルが欲しくなり、鞄の中を探った。しかしそこで違和感に気付く。タオルはあった。しかし求めるのはそれではない。
「ないわよね?」
タオルのことなどすっかり忘れて、鈴仙は鞄を探り、探る。隅から隅まで探したが、それはなかった。
「取りに帰らなくちゃ……」
さすがに出てすぐ帰るのは気まずいが、忘れ物なら仕方がない。鈴仙はすぐに引き返した。
忘れ物というのは、一般人に言えば怪訝な顔をされるかもしれない、しかし彼女にとってはとても大切なもの――月から持ってきた銃である。
今となっては仕方がないのだが、かつて永遠亭に住み込むようになったときは、この銃で永遠亭を守ろうと張り切っていたものだ。
と、張り切った瞬間に、守る必要がないことに気付くのだが。
あの銃は、騎士で言う剣であり、一般人で言うお守りなのだ。手の届かないところにあるのは、不安で仕方がない。
鈴仙は踵を返した。
思い切ったつもりだったのだが、完全に切れてはなかったらしい。すぐに永遠亭に帰ってくることが出来た。全然足が進んでいなかった証拠だ。
永遠亭の中をこっそりと窺う。誰も見えなかった。
「よし……」
堂々と「ただいまー」と言って入ればよいのだが、永琳に見つかるとまずい。そう考えて、鈴仙は後ろめたかったが、窓から直接自分の部屋に侵入することにした。
最近は暑いためか、窓は開いていた。無用心かもしれないが、永遠亭に侵入しようとする者など、一人くらいしかいないので問題ない。
その一人が問題なのだが。
鈴仙は誰もいないにもかかわらず、スカートを気にしながら窓から部屋に入った。靴は持参した。
念のためつま先で歩き、引き出しを開ける。真っ黒な、重々しい物体が横たわっていた。スペルカードとは違う、殺すための武器である。
実際は狂気の目のほうが役に立つのだが、ないよりあるほうが心強い。もっとも、普通は使うこともなく、血に濡れているわけではないだが。
「帰ろう」
意を決するため、わざと声に出した。誰かが入った形跡を消し、鈴仙は窓から身を乗り出そうとした。
その時であった。
「「あっ……」」
二人の声が重なった。窓から身を乗り出そうとする鈴仙。そして窓の前に立つてゐ。面白いほど見事に鉢合わせてしまった。
「えっと、その……」
気まずい。とりあえず、鈴仙は窓から外に出た。てゐはポカンとしていたが、鈴仙の袖を引き、走り、慌てたように竹やぶの中に飛び込む。鈴仙はなす術もなく、引っ張られていた。
「……何やってるのさ?」
「えっと、忘れ物を……」
「ふーん。……見つからなかった?」
「兎達に?」
「お師匠様にだよ」
「大丈夫だった」
そう、とてゐはほっと胸をなでおろした。普段は永琳に悪戯を仕掛けて、鈴仙のせいにするという悪行をこなしていたのだが、今日は様子がおかしい。真剣に心配しているのだ。
鈴仙は怪しんだ。この兎は詐欺兎の異名を取る兎である。いつものような、役者顔負けの演技ではないのか、と。
「てゐ、もしかして……師匠と協力してる?」
その言葉をてゐが聞いた瞬間、てゐは表情を一変させ、鈴仙の胸倉を掴んで叫んだ。
「何であんな奴と!」
言ってから、慌てて口を閉じ、周りを見回す。幸い、誰もいなかった。
「て、てゐ……どうしたの?」
鈴仙はこのようなてゐを見たことはなかった。よって、このような行動に出たてゐがわからず、ただ混乱するばかりである。
「あいつは……あんたが去った後、人が変わったのよ!」
『てゐ、ちょっと良いかしら?』
『なんですか?』
『今度ね、この薬を幻想郷に撒いてくれないかしら?』
『は?』
『それはね、毒薬よ。妖怪だって瞬殺よ』
『い、嫌です』
『駄目。あなたには明日、この薬をばら撒いてもらうわ。ウドンゲもいないし、誰にもばれないわよ』
『そんな……』
『逆らえば、どうしようかしら……兎達の部屋にばら撒くことにするわ』
「……そんな、師匠が……」
「間違いないわ。鈴仙に伝えるべきかどうか迷っていたけど、ちょうど来てくれてよかった……。鈴仙、私どうすればいいのかな……」
てゐの言葉は鈴仙の耳に入っていなかった。先ほどのてゐの言葉がリフレインする。
(師匠が……師匠が幻想郷に毒を……)
永琳は評判の医師である。料金がない人には無料で診断することもあった。月を隠したことに対する謝罪だといっていたが、鈴仙はそうは思っていなかった。
理屈をつけているが、これは永琳の優しさではないかと思っていたのだ。
(どうして……? もしかして、最初からずっと……)
何を考えているのかわからないのが永琳という人物。まさか、すべてはこの時のために親切な医者を振舞い、野望を隠していたのだろうか。あの優しさは、すべて演技だったのだろうか。
鈴仙はさらに考え込んだ。そういえば、たまに難しそうな薬を研究していることもあった。聞いても教えてもらえなかったのだが、自分には難しすぎる薬なのだろうと納得していた。
もしかしたら、それもまた、準備だったのかもしれない。
(と言うことは、私が弟子入りしたこと自体が誤算……?)
そう考えると、納得がいく。
しかし、まだ納得がいかない部分もある。輝夜である。彼女はこの件に関係しているのだろうか。
もしそうならば、本当に危険である。鈴仙は最後に、もう一度考えた。
……天秤にかけるまでもなかった。幻想郷が永琳によって破壊、もしくは支配されてしまうかもしれないのだ。鈴仙は、幻想郷に住むものたちを見捨てることはできなかった。
「てゐ、あなたは戻りなさい」
「鈴仙? どうするの?」
「……ある方と相談するのよ」
「あの方?」
「とにかく、戻りなさい。師匠に見つかるわよ。じゃあね」
「う、うん。鈴仙を信じるよ」
てゐを見送り、鈴仙は飛び立った。
行く先は、マヨヒガである。
☆
「あらー、今夜のご飯は兎なべだったかしらー? 食材が歩いてるわよー?」
かつて見た、八雲紫の威厳は無に等しかった。鈴仙は呆れたが、とにかく用件を伝えることにした。
紫はあくびをしながら聞いていたが、その式は真面目に聞き、驚きを隠せない様子であった。
「紫様、すぐに永遠亭に――」
「お願いします、本当は嫌なのですが……力づくでも師匠を止めてください!」
「紫様、行きましょう」
藍が催促するのだが、紫は聞いているのかいないのかわからない様子でもう一度大きくあくびをすると、やっと言葉を出した。
「ふああ……眠い。……私は行かないわ」
「え!? 幻想郷が支配されるかもしれないのですよ!」
鈴仙は驚き、興奮して紫に叫ぶ。
「面倒臭いわー。大丈夫、いざ毒を撒くとなっても、私のスキマで守ってあげるわよー」
「そんな! 満月のときは私たちを止めたのに……!」
「それはそれ、これはこれよ。お帰りなさいな」
「紫様、どういう事ですか?」
「藍、黙っていなさい。……さて、兎さん。私たちはご飯を食べるから、帰ってくれない?」
「……わかりました、もう帰ります」
手を貸してもらえないとなればもう用はない。半分投げやりに、さようなら、と言葉を吐きだした。それが、せめてもの抵抗であったのだ。
鈴仙が帰ろうとして立ち上がった。振り返ると、そこにはいつの間にか紫がいた。正確には、上半身だけがスキマから出ていたのだが。
「ま、今は夜だし、好きなところに送ってあげるわよ。どこがいい?」
結構です、といって振り払おうと思ったのだが、まだ希望は残っている。鈴仙はその希望を捨てなかった。
行く先は、決めている。
「博麗神社にお願いします」
「ふう、ただいまー」
「お帰りなさいませ、紫様」
「お帰りなさいませー」
紫はスキマから飛び降りると、空中で正座を作り、二枚重ねの座布団の上に飛び降りた。藍と橙はテーブルを抑え、転覆を防いだ。
「あの、紫様……どうしてさっきは――」
「ふふふ……」
紫は妖しく微笑んだまま、何も語ることはなかった。
☆
「まったく、何故紫は来ないのかしら? こんな重要なときに」
「まったくだ。あいつは守護者としてはどうかと思うぜ」
永遠亭の正面、霊夢と魔理沙、そして有力な妖怪たちが集まっていた。無論、永琳を成敗するためである。
博麗神社へと向かった鈴仙は、もうひとつの希望であった霊夢にすべてを伝えた。霊夢は血相を変え、すぐに友人たちに連絡を取った。
霊夢はすぐに殴りこみたかったのだが、吸血鬼のことを考え、夜になって初めて永遠亭に訪れたのである。
「永琳! 出てきなさい!」
霊夢が石を投げて扉を叩く。しばらくは返事がなかったが、やがて永琳が扉を開けて現れた。右手は背中に隠している。もしかしたら武器を持っているのかもしれない。
魔理沙たちの背中に隠れていた鈴仙がビクッと震える。
「何かしら?」
永琳は落ち着いた様子で、しかし恐ろしく威圧を持った声で尋ねた。押しかけていた人々が、一歩下がる。鈴仙の、霊夢と魔理沙の肩を掴む力が強くなる。手は震えていた。
「……永琳、毒薬を撒こうとしているのは本当かしら?」
「どうしてそんな事をする必要があるのかしら?」
「嘘をつくな、証拠はあるんだぞ!」
「しょう――」
証拠? と言いかけた永琳の視線が鈴仙のそれと重なる。永琳が小さく舌打ちした。
「出て行け! そうすれば痛い目に遭わずに済むぞ!」
「……どうしようかしら」
「永琳、ここには紫も来ているの、逆らえば消されるわよ」
もちろん嘘である。しかし少しでも自分たちの戦力の多さを見せ付けなければ、永琳に反撃される恐れがある。両者の間に緊張が走る。
「紫さんがきているのね…………ふふふ」
「何がおかしい!?」
「ちょうどいいわ。今この場で、この毒薬をばら撒いてあげる」
永琳が背中に隠していた右手を持ち上げた。その手には、一本の試験管が握られている。試験管の中には、怪しげな白い粉が入っていた。
「くそっ、もう完成していたのか!」
妖怪たちが引き下がる。霊夢と魔理沙も下がろうとしたが、永琳はそれより早かった。
「覚悟しなさい!」
永琳が腕を振り上げる。
その時であった。
霊夢と魔理沙が倒れ、何かが爆発したような音が竹やぶに響いた。そして、ほんの少しだけ遅れてガラスが割れる音響く。ほぼ同時の二つの刺激的な音が、彼らの耳を襲う。
永琳が驚き、自らの右手を見ると、試験管は粉々に砕け、永琳の足元に白い粉が舞い上がっていた。風は吹いておらず、それらはやがて、地面に落ちた。
皆、目を疑った。
「永琳殿、出て行ってください……」
それは、鈴仙だった。火薬のにおいを吐き出す、煙の上がった銃を握り、はっきりと言い放った。銃口は永琳に向けられている。
霊夢と魔理沙を押しのけ、咄嗟に自らの師に銃を向けた。その場に居合わせたものたちは、ただ驚くばかりであった。
「……はあ、最低の弟子ね。いつからこんな子に育ったのかしら。昔は、私の言うことを何でも聞く良い子だったのに……。
……わかりました、武器もないし、出て行きましょう。
ああ、安心しなさい。今回のことは、すべて私の単独犯行よ。姫様や兎達は関係ないわ」
永琳は残っていた試験管を投げ捨てると、両手を挙げた。
「ウドンゲに感謝しなさい、あなたたちの命を助けてくれたんだから」
「ああ、お前なんかよりずっと立派だよ! 幻想郷中の命を救ったんだからな! それでこそ立派な医師だと私は思う。明日からこの永遠亭の医者は鈴仙だ」
「え、魔理沙、あなたが決めていいものじゃ――」
「私も賛成よ。鈴仙、明日からはあんたが仕切りなさいよ。流石に医師が一人もいないというのはどうかと思うわ」
「そうだそうだ、私も賛成するぞー!」
「鈴仙こそ真の医師だ!」
集まった妖怪たちが次々と鈴仙を支援する。永琳はなぜか少し微笑むと、飛び立とうとした。
その時である。
「師匠!」
「えっ?」
震えを押さえ、鈴仙が叫んだ。永琳が驚いたように振り返る。
いつの間にか、竹やぶは静かになっていた。
鈴仙は、真剣な眼差しで永琳の目を見、深く、頭を下げた。それが、感謝の意なのか、謝罪の意なのかはわからない。しかし、鈴仙は黙って頭を下げ続けていた。
永琳もまた、深く頭を下げた。頭を上げると、鈴仙に背を見せ、夜の空へと消え去っていった。
「師匠……」
この状況下、誰も、永琳が去ったことを喜べる者はいなかった。鈴仙の気持ちを、察することができないものなど、いなかったから。
☆
「風邪ですね。一日も経てば治ると思いますが、お薬出しておきます。お大事に」
「いつもありがとう」
「いえいえ、お大事に」
あの後、鈴仙は医者として永遠亭をもつことになった。ちなみに永遠亭の者たちは全員永琳の仲間ではないか調べられたが、全員白であった。永琳の言っていたことは本当だったのだ。
一日も経てば、平和が戻った。それと同時に、鈴仙は医者として、忙しくなった。
永琳ほど腕はよくないが、それでも評判であった。
「はあ、七夕終わっちゃうなあ……」
毎日と言って良いほど怪我をして来る人物もいる、たまにしか来ない人もいる。帰る際にお礼を言ってくれる人もいる。大変であるが、小さな楽しみがあることに鈴仙は気付きつつあった。
「もう患者さんはいらっしゃらない?」
鈴仙は受付の兎に尋ねると、ご苦労様でした、と返した。
鈴仙はやっと気を休め、白衣を脱いだ。
休める、と思ったのだが、
「あ、薬の研究しなきゃ……」
昨日、永琳が持っていた試験管の中身を調べなくてはならない。何でできているかわからないので、放置しているわけにはいかないのだ。
鈴仙はとぼとぼと研究室へと向かった。
永琳が使っていた研究室の中は、相変わらず薬のにおいが満たしていた。このにおいを嗅ぐと、鈴仙はよく永琳を思い出す。
「師匠、お借りしますよ」
ここにいない師に一言断り、鈴仙は机の上に試験管を置いた。
昨日永琳が持っていた毒薬を詰めた包装紙を開き、試験管の中に入れる。
「それにしても薬ってややこしい……」
白い物質など山ほどある。今日は寝られないな、と思いつつ、鈴仙は調べものに入った。
「嘘……」
調べた結果、それは毒などではなかった。
ただの小麦粉、それがこの永琳の言う毒の正体であった。
「ああ……」
鈴仙は慌てて、永琳を追いかけた。
「師匠……」
月が輝く夜空を飛び、キョロキョロと周りを見回す。根拠はないが、もしかしたら見つかるかもしれない。
「あ!」
月の光が照らす夜道、銀の絹が弱い風になびいていた。その絹の持ち主はそばにある長椅子に腰掛け、空を見上げた。
そっと、鈴仙は近づく。昨日まであった恐怖はすでにない。
「あら、永遠亭のお医者さんじゃないの。私に何か用?」
昨日とは違う、優しい声。間違いなく、永琳の本性そのものだと鈴仙は思った。
あっさり出て行ったように思えたが、やはり未練があっただろう。だから、一日経った今でもこんな近くにいるのだ。
「師匠……」
「師匠、と呼ばないように言ったと思うけど?」
「あの、あの毒薬……」
「ああ、見つけたの? 結構強力な毒薬よ、手に入れるのに苦労したの。使えなくて残念だったわ」
まあ、まだ足りないから増やさないと駄目なんだけどね、と永琳は小さく笑う。
「調べました」
「……ん?」
「ただの、小麦粉です」
「そんなは――」
「師匠、どうしてこんな役に名乗り出たのです?」
「……」
永琳の顔は暗くてよく見えなかったのだが、一瞬雲が切れた月の光に照らされた。永琳は、困ったような顔をしている。
「……はあ、こんなに賢くなって……。
あのね、幻想郷の人々は愚かよ。あなたの腕を認めようとせず、いつまでも私に頼っているのだから」
「……」
永琳は冷静な顔に戻し、続けた。
「あなたは医師としても薬剤師としても十分。どうしてもあなたの腕を幻想郷に知らせたかったのよ」
そしてもうひとつ、と言いながら永琳はポケットに手を突っ込み、縦に長い紙切れを出した。鈴仙ははっとする。師匠の願いはなんなんだろう、と思っていたのだ。
『私の弟子が、私がいなくても立派にやっていけますように』
「頑張りなさい、幻想郷には毎日と言って良いほど怪我をする強い味方もいる、あなたの腕を信じる人もたくさんいる。もしかしたらこんなこと、願うまでもなかったかもしれないわね」
「し、師匠!」
鈴仙は耐え切れず、永琳の胸に飛び込んだ。永琳は鈴仙の背中をやさしく二度叩いた。
「成長したと思ったら子供に戻っちゃって。誰かが見たら笑われるわよ?」
「だって、だって……ごめんなさい、ごめんなさい!」
泣きじゃくる声が聞こえる。永琳の胸にじわりと何かが広がる。鈴仙はただ、自らの目の前にある暖かさに、ひたすら甘えた。
やがて、静寂が訪れる。永琳の胸にいる鈴仙は寝息を立てていた。
「あらあら……。……ねえウドンゲ、七夕に願いが叶うのは迷信じゃない、そう思わないかしら? 残念だけど私には、証明できないけどね」
空を見上げると、空には美しい天の川が掛かっていた。永琳は、それを見て何かを思いついたようだ。
「もう一個、欲張っちゃおうかな」
永琳は鞄から小さな紙を取り出し、さらさらと書き上げた。
『いつか、弟子と一緒に天の川を見ることができますように』
これが叶うのはかなり後の事となる。しかし、永琳はこの願いは、必ず叶うものだと疑わなかった。
証明はできないが、そんな事はどうでもいい。ただ、証拠以上に確証のある理由が、間違いなく永琳の中にあるのだ。
☆
「誰かに見たら笑われるって、笑えるわけないよ……」
藍は紫のスキマから顔を出し、彼女にしては珍しく覗き見をしていた。もっとも、彼女の横にいる主人に命令されてやったのだが。
橙もまた、藍のすぐ隣で顔を出していた。
「藍様ー抱っこしてるよー!」
「ああそうだな、もう少し静かにしような」
「はーい」
やがて鈴仙が眠ってしまうと、紫は彼らに気付かれないようにスキマを閉じた。そして、
「らああん!」
「何で――うわっ!」
「私もー!」
まず紫が飛び込み、橙が便乗。一人は胸に、もう一人は尻尾に。気が済んだと思えば、今度は交替する。間違いなく楽しんでいる。
「苦しいですって、大丈夫ですから! 私はいなくなりませんよ!」
「でも今日だけはー!」
「だけはー!」
彼らはまだ知らないのだが、散々抱き付かれた藍は、翌日全身筋肉痛に苦しむこととなった。
三人のうち二人は満喫し、一人は苦労しつつも幸せそうに過ごす傍ら。竹に吊り下げられた三人の短冊が、ゆらゆらと、優しく夜風に揺れていた。
『八雲家と幻想郷に平和が続きますように 八雲紫』
『八雲家が永遠に仲の良いままでありますように 八雲藍』
『わたしたち八くもけがずっと辛せでありますように ちぇん』
やがて、彼女は正座の辛さも感じなくなった。
==短冊に願いを込めて==
明日は七夕である。そこで、半信半疑と言うべきか、気休めと言うべきか――鈴仙は短冊に願い事を書いてみることにしたのだ。
月並みであるが、彼女にしては重要な事を書いた。
『師匠のような立派な医者になれますように』
この願い、願いに見えて実はそうではない。ちょっと前に、鈴仙はそろそろ自立してもおかしくない腕だ、と永琳に太鼓判を押されたのだ。
しかし、そう甘くはなかった。公から見て幻想郷一の医者と言えば、後にも先にも永琳一人である。幻想郷の人々にはそれが常識なのだ。いや、もはや真理といっても過言ではない。
すなわち、鈴仙は永遠亭の者以外には医者としてまともに認められていなかった。良くても、助手程度である。
多くのものは医者の下で修行している受付係と思っていた。
永遠亭に来る者の目的を数日間集計してみたのが、以下の結果である。
永琳の治療(42%)
永琳の薬(38%)
迷ったらたどり着いた(19.9%)
輝夜殺し(0.01%)
鈴仙はショックを受けた。誰も、自分を認めてくれないことに。
しかしいつまでも落ち込んでいるわけにはいかない。彼女は前向きに考えることにして、何とか立ち直った。そして改めて、先ほどのような願いを書いたのである。
鈴仙が覗いてみたところ、てゐは『商売繁盛』。恐らく――間違いなく詐欺のことであろう。この願いは、永遠に保留にされるべきだ。
多くの兎は『にんじんいっぱい』と書いていた。正直なものたちである。
また、小数は鈴仙が覗こうとすると顔を真っ赤にして見せてくれなかった。中には、「鈴仙様に話しかけられたー」と、きゃあきゃあ騒いでいるものもいた。
ちなみに輝夜は『妹紅三秒キル』と書いていたが、物騒なので触れないことにした。鈴仙にできるのは、輝夜がそれを竹に結び付けないように願うだけだ。あるいは、その願い受理されないことだろうか。
ちなみに、七夕の星には願わない。もったいないから。
鈴仙は知らないのだが、輝夜に狙われている妹紅の願いは『慧音と同棲』である。殺伐とした輝夜とは対象に、こちらは随分と幸せそうだ。
やがて鈴仙の興味は自らの師――永琳へと向かった。何気ない口調で話しかけたところ、永琳は深刻な顔をしていたので、鈴仙は止まった。
「ウドンゲ、ちょっとこっちに来なさい」
鈴仙は畳みの部屋に連れられた。二人して正座する。しばらく間をおかれた後、鈴仙は告げられたのだ。
「ウドンゲ、あなたは……破門よ」
こうして、冒頭の状況になったのである。
「な、何でですか!?」
かろうじて出た言葉を思いっきり吐き出し、鈴仙は立ち上がった。今になってやっと、足が痺れた。
「あなたの腕は良い。でも、あまりにもあなたを信用する人が少ない。
ですから、ここから出て、人間の里ででも修行しなさい。慧音さんだったかしら? もう彼女には言ってるから」
鈴仙はまるで、五つの異国語を同時に聞かされたかのように、状況が理解できなかった。
「わかったかしら? わかったなら急いで荷物をまとめなさい」
「で、でも師匠……!」
「あなたは破門されたの。もう師匠と呼ぶのはやめなさい」
永琳はもう言うことはない、と言うかのように立ち上がり、襖の向こうに立ち去った。鈴仙は見送ることしか出来ず、がっくりと膝を付いて崩れ落ちた。
『師匠のような立派な医者になれますように』と書かれた短冊に一つ二つ、染みが付く。
もうこの短冊は無効なのだろうか? 願いはかなえてくれないのだろうか? そんな考えが頭を過ぎったが、鈴仙はその考えを振り払う。同時に、目に浮かんだ涙も振り払った。
どれほど時間が経ったのかは鈴仙にはわからなかったのだが、やがて控えめに襖が開かれた。咄嗟にそちらに向きそうになったのだが、目元を誰にも見られたくなかったので顔を背けた。
鈴仙は、静かに声をかけられた。
「……鈴仙」
「……てゐ? もしかして……聞いてたの?」
「……ごめん」
てゐは大きな荷物を持ち、引きずる様にしながら鈴仙に近づこうとする。こんなときであるのに鈴仙は畳が傷付くことが気になり、てゐの荷物を持ち上げた。重かった。
「鈴仙、準備……しておいたよ」
感謝すべきなのだろう。しかし、鈴仙には余計なお世話に思えた。てゐもまた、出て行け、と言っているように思えたから。
それにしても、鈴仙は自分が情けなくなった。まさか準備ができてしまうほど長い時間ここで泣いていたのか、と。
鈴仙はいつものように「余計なお世話よ」と言葉を投げようとしたのだが、思いとどまった。
てゐの体が震えていたのだ。鈴仙は一言、ありがとうとだけ呟き、泣きじゃくるてゐに背を向けて歩き出した。
☆
「あら?」
竹やぶの中。暑さのせいで、鈴仙はタオルが欲しくなり、鞄の中を探った。しかしそこで違和感に気付く。タオルはあった。しかし求めるのはそれではない。
「ないわよね?」
タオルのことなどすっかり忘れて、鈴仙は鞄を探り、探る。隅から隅まで探したが、それはなかった。
「取りに帰らなくちゃ……」
さすがに出てすぐ帰るのは気まずいが、忘れ物なら仕方がない。鈴仙はすぐに引き返した。
忘れ物というのは、一般人に言えば怪訝な顔をされるかもしれない、しかし彼女にとってはとても大切なもの――月から持ってきた銃である。
今となっては仕方がないのだが、かつて永遠亭に住み込むようになったときは、この銃で永遠亭を守ろうと張り切っていたものだ。
と、張り切った瞬間に、守る必要がないことに気付くのだが。
あの銃は、騎士で言う剣であり、一般人で言うお守りなのだ。手の届かないところにあるのは、不安で仕方がない。
鈴仙は踵を返した。
思い切ったつもりだったのだが、完全に切れてはなかったらしい。すぐに永遠亭に帰ってくることが出来た。全然足が進んでいなかった証拠だ。
永遠亭の中をこっそりと窺う。誰も見えなかった。
「よし……」
堂々と「ただいまー」と言って入ればよいのだが、永琳に見つかるとまずい。そう考えて、鈴仙は後ろめたかったが、窓から直接自分の部屋に侵入することにした。
最近は暑いためか、窓は開いていた。無用心かもしれないが、永遠亭に侵入しようとする者など、一人くらいしかいないので問題ない。
その一人が問題なのだが。
鈴仙は誰もいないにもかかわらず、スカートを気にしながら窓から部屋に入った。靴は持参した。
念のためつま先で歩き、引き出しを開ける。真っ黒な、重々しい物体が横たわっていた。スペルカードとは違う、殺すための武器である。
実際は狂気の目のほうが役に立つのだが、ないよりあるほうが心強い。もっとも、普通は使うこともなく、血に濡れているわけではないだが。
「帰ろう」
意を決するため、わざと声に出した。誰かが入った形跡を消し、鈴仙は窓から身を乗り出そうとした。
その時であった。
「「あっ……」」
二人の声が重なった。窓から身を乗り出そうとする鈴仙。そして窓の前に立つてゐ。面白いほど見事に鉢合わせてしまった。
「えっと、その……」
気まずい。とりあえず、鈴仙は窓から外に出た。てゐはポカンとしていたが、鈴仙の袖を引き、走り、慌てたように竹やぶの中に飛び込む。鈴仙はなす術もなく、引っ張られていた。
「……何やってるのさ?」
「えっと、忘れ物を……」
「ふーん。……見つからなかった?」
「兎達に?」
「お師匠様にだよ」
「大丈夫だった」
そう、とてゐはほっと胸をなでおろした。普段は永琳に悪戯を仕掛けて、鈴仙のせいにするという悪行をこなしていたのだが、今日は様子がおかしい。真剣に心配しているのだ。
鈴仙は怪しんだ。この兎は詐欺兎の異名を取る兎である。いつものような、役者顔負けの演技ではないのか、と。
「てゐ、もしかして……師匠と協力してる?」
その言葉をてゐが聞いた瞬間、てゐは表情を一変させ、鈴仙の胸倉を掴んで叫んだ。
「何であんな奴と!」
言ってから、慌てて口を閉じ、周りを見回す。幸い、誰もいなかった。
「て、てゐ……どうしたの?」
鈴仙はこのようなてゐを見たことはなかった。よって、このような行動に出たてゐがわからず、ただ混乱するばかりである。
「あいつは……あんたが去った後、人が変わったのよ!」
『てゐ、ちょっと良いかしら?』
『なんですか?』
『今度ね、この薬を幻想郷に撒いてくれないかしら?』
『は?』
『それはね、毒薬よ。妖怪だって瞬殺よ』
『い、嫌です』
『駄目。あなたには明日、この薬をばら撒いてもらうわ。ウドンゲもいないし、誰にもばれないわよ』
『そんな……』
『逆らえば、どうしようかしら……兎達の部屋にばら撒くことにするわ』
「……そんな、師匠が……」
「間違いないわ。鈴仙に伝えるべきかどうか迷っていたけど、ちょうど来てくれてよかった……。鈴仙、私どうすればいいのかな……」
てゐの言葉は鈴仙の耳に入っていなかった。先ほどのてゐの言葉がリフレインする。
(師匠が……師匠が幻想郷に毒を……)
永琳は評判の医師である。料金がない人には無料で診断することもあった。月を隠したことに対する謝罪だといっていたが、鈴仙はそうは思っていなかった。
理屈をつけているが、これは永琳の優しさではないかと思っていたのだ。
(どうして……? もしかして、最初からずっと……)
何を考えているのかわからないのが永琳という人物。まさか、すべてはこの時のために親切な医者を振舞い、野望を隠していたのだろうか。あの優しさは、すべて演技だったのだろうか。
鈴仙はさらに考え込んだ。そういえば、たまに難しそうな薬を研究していることもあった。聞いても教えてもらえなかったのだが、自分には難しすぎる薬なのだろうと納得していた。
もしかしたら、それもまた、準備だったのかもしれない。
(と言うことは、私が弟子入りしたこと自体が誤算……?)
そう考えると、納得がいく。
しかし、まだ納得がいかない部分もある。輝夜である。彼女はこの件に関係しているのだろうか。
もしそうならば、本当に危険である。鈴仙は最後に、もう一度考えた。
……天秤にかけるまでもなかった。幻想郷が永琳によって破壊、もしくは支配されてしまうかもしれないのだ。鈴仙は、幻想郷に住むものたちを見捨てることはできなかった。
「てゐ、あなたは戻りなさい」
「鈴仙? どうするの?」
「……ある方と相談するのよ」
「あの方?」
「とにかく、戻りなさい。師匠に見つかるわよ。じゃあね」
「う、うん。鈴仙を信じるよ」
てゐを見送り、鈴仙は飛び立った。
行く先は、マヨヒガである。
☆
「あらー、今夜のご飯は兎なべだったかしらー? 食材が歩いてるわよー?」
かつて見た、八雲紫の威厳は無に等しかった。鈴仙は呆れたが、とにかく用件を伝えることにした。
紫はあくびをしながら聞いていたが、その式は真面目に聞き、驚きを隠せない様子であった。
「紫様、すぐに永遠亭に――」
「お願いします、本当は嫌なのですが……力づくでも師匠を止めてください!」
「紫様、行きましょう」
藍が催促するのだが、紫は聞いているのかいないのかわからない様子でもう一度大きくあくびをすると、やっと言葉を出した。
「ふああ……眠い。……私は行かないわ」
「え!? 幻想郷が支配されるかもしれないのですよ!」
鈴仙は驚き、興奮して紫に叫ぶ。
「面倒臭いわー。大丈夫、いざ毒を撒くとなっても、私のスキマで守ってあげるわよー」
「そんな! 満月のときは私たちを止めたのに……!」
「それはそれ、これはこれよ。お帰りなさいな」
「紫様、どういう事ですか?」
「藍、黙っていなさい。……さて、兎さん。私たちはご飯を食べるから、帰ってくれない?」
「……わかりました、もう帰ります」
手を貸してもらえないとなればもう用はない。半分投げやりに、さようなら、と言葉を吐きだした。それが、せめてもの抵抗であったのだ。
鈴仙が帰ろうとして立ち上がった。振り返ると、そこにはいつの間にか紫がいた。正確には、上半身だけがスキマから出ていたのだが。
「ま、今は夜だし、好きなところに送ってあげるわよ。どこがいい?」
結構です、といって振り払おうと思ったのだが、まだ希望は残っている。鈴仙はその希望を捨てなかった。
行く先は、決めている。
「博麗神社にお願いします」
「ふう、ただいまー」
「お帰りなさいませ、紫様」
「お帰りなさいませー」
紫はスキマから飛び降りると、空中で正座を作り、二枚重ねの座布団の上に飛び降りた。藍と橙はテーブルを抑え、転覆を防いだ。
「あの、紫様……どうしてさっきは――」
「ふふふ……」
紫は妖しく微笑んだまま、何も語ることはなかった。
☆
「まったく、何故紫は来ないのかしら? こんな重要なときに」
「まったくだ。あいつは守護者としてはどうかと思うぜ」
永遠亭の正面、霊夢と魔理沙、そして有力な妖怪たちが集まっていた。無論、永琳を成敗するためである。
博麗神社へと向かった鈴仙は、もうひとつの希望であった霊夢にすべてを伝えた。霊夢は血相を変え、すぐに友人たちに連絡を取った。
霊夢はすぐに殴りこみたかったのだが、吸血鬼のことを考え、夜になって初めて永遠亭に訪れたのである。
「永琳! 出てきなさい!」
霊夢が石を投げて扉を叩く。しばらくは返事がなかったが、やがて永琳が扉を開けて現れた。右手は背中に隠している。もしかしたら武器を持っているのかもしれない。
魔理沙たちの背中に隠れていた鈴仙がビクッと震える。
「何かしら?」
永琳は落ち着いた様子で、しかし恐ろしく威圧を持った声で尋ねた。押しかけていた人々が、一歩下がる。鈴仙の、霊夢と魔理沙の肩を掴む力が強くなる。手は震えていた。
「……永琳、毒薬を撒こうとしているのは本当かしら?」
「どうしてそんな事をする必要があるのかしら?」
「嘘をつくな、証拠はあるんだぞ!」
「しょう――」
証拠? と言いかけた永琳の視線が鈴仙のそれと重なる。永琳が小さく舌打ちした。
「出て行け! そうすれば痛い目に遭わずに済むぞ!」
「……どうしようかしら」
「永琳、ここには紫も来ているの、逆らえば消されるわよ」
もちろん嘘である。しかし少しでも自分たちの戦力の多さを見せ付けなければ、永琳に反撃される恐れがある。両者の間に緊張が走る。
「紫さんがきているのね…………ふふふ」
「何がおかしい!?」
「ちょうどいいわ。今この場で、この毒薬をばら撒いてあげる」
永琳が背中に隠していた右手を持ち上げた。その手には、一本の試験管が握られている。試験管の中には、怪しげな白い粉が入っていた。
「くそっ、もう完成していたのか!」
妖怪たちが引き下がる。霊夢と魔理沙も下がろうとしたが、永琳はそれより早かった。
「覚悟しなさい!」
永琳が腕を振り上げる。
その時であった。
霊夢と魔理沙が倒れ、何かが爆発したような音が竹やぶに響いた。そして、ほんの少しだけ遅れてガラスが割れる音響く。ほぼ同時の二つの刺激的な音が、彼らの耳を襲う。
永琳が驚き、自らの右手を見ると、試験管は粉々に砕け、永琳の足元に白い粉が舞い上がっていた。風は吹いておらず、それらはやがて、地面に落ちた。
皆、目を疑った。
「永琳殿、出て行ってください……」
それは、鈴仙だった。火薬のにおいを吐き出す、煙の上がった銃を握り、はっきりと言い放った。銃口は永琳に向けられている。
霊夢と魔理沙を押しのけ、咄嗟に自らの師に銃を向けた。その場に居合わせたものたちは、ただ驚くばかりであった。
「……はあ、最低の弟子ね。いつからこんな子に育ったのかしら。昔は、私の言うことを何でも聞く良い子だったのに……。
……わかりました、武器もないし、出て行きましょう。
ああ、安心しなさい。今回のことは、すべて私の単独犯行よ。姫様や兎達は関係ないわ」
永琳は残っていた試験管を投げ捨てると、両手を挙げた。
「ウドンゲに感謝しなさい、あなたたちの命を助けてくれたんだから」
「ああ、お前なんかよりずっと立派だよ! 幻想郷中の命を救ったんだからな! それでこそ立派な医師だと私は思う。明日からこの永遠亭の医者は鈴仙だ」
「え、魔理沙、あなたが決めていいものじゃ――」
「私も賛成よ。鈴仙、明日からはあんたが仕切りなさいよ。流石に医師が一人もいないというのはどうかと思うわ」
「そうだそうだ、私も賛成するぞー!」
「鈴仙こそ真の医師だ!」
集まった妖怪たちが次々と鈴仙を支援する。永琳はなぜか少し微笑むと、飛び立とうとした。
その時である。
「師匠!」
「えっ?」
震えを押さえ、鈴仙が叫んだ。永琳が驚いたように振り返る。
いつの間にか、竹やぶは静かになっていた。
鈴仙は、真剣な眼差しで永琳の目を見、深く、頭を下げた。それが、感謝の意なのか、謝罪の意なのかはわからない。しかし、鈴仙は黙って頭を下げ続けていた。
永琳もまた、深く頭を下げた。頭を上げると、鈴仙に背を見せ、夜の空へと消え去っていった。
「師匠……」
この状況下、誰も、永琳が去ったことを喜べる者はいなかった。鈴仙の気持ちを、察することができないものなど、いなかったから。
☆
「風邪ですね。一日も経てば治ると思いますが、お薬出しておきます。お大事に」
「いつもありがとう」
「いえいえ、お大事に」
あの後、鈴仙は医者として永遠亭をもつことになった。ちなみに永遠亭の者たちは全員永琳の仲間ではないか調べられたが、全員白であった。永琳の言っていたことは本当だったのだ。
一日も経てば、平和が戻った。それと同時に、鈴仙は医者として、忙しくなった。
永琳ほど腕はよくないが、それでも評判であった。
「はあ、七夕終わっちゃうなあ……」
毎日と言って良いほど怪我をして来る人物もいる、たまにしか来ない人もいる。帰る際にお礼を言ってくれる人もいる。大変であるが、小さな楽しみがあることに鈴仙は気付きつつあった。
「もう患者さんはいらっしゃらない?」
鈴仙は受付の兎に尋ねると、ご苦労様でした、と返した。
鈴仙はやっと気を休め、白衣を脱いだ。
休める、と思ったのだが、
「あ、薬の研究しなきゃ……」
昨日、永琳が持っていた試験管の中身を調べなくてはならない。何でできているかわからないので、放置しているわけにはいかないのだ。
鈴仙はとぼとぼと研究室へと向かった。
永琳が使っていた研究室の中は、相変わらず薬のにおいが満たしていた。このにおいを嗅ぐと、鈴仙はよく永琳を思い出す。
「師匠、お借りしますよ」
ここにいない師に一言断り、鈴仙は机の上に試験管を置いた。
昨日永琳が持っていた毒薬を詰めた包装紙を開き、試験管の中に入れる。
「それにしても薬ってややこしい……」
白い物質など山ほどある。今日は寝られないな、と思いつつ、鈴仙は調べものに入った。
「嘘……」
調べた結果、それは毒などではなかった。
ただの小麦粉、それがこの永琳の言う毒の正体であった。
「ああ……」
鈴仙は慌てて、永琳を追いかけた。
「師匠……」
月が輝く夜空を飛び、キョロキョロと周りを見回す。根拠はないが、もしかしたら見つかるかもしれない。
「あ!」
月の光が照らす夜道、銀の絹が弱い風になびいていた。その絹の持ち主はそばにある長椅子に腰掛け、空を見上げた。
そっと、鈴仙は近づく。昨日まであった恐怖はすでにない。
「あら、永遠亭のお医者さんじゃないの。私に何か用?」
昨日とは違う、優しい声。間違いなく、永琳の本性そのものだと鈴仙は思った。
あっさり出て行ったように思えたが、やはり未練があっただろう。だから、一日経った今でもこんな近くにいるのだ。
「師匠……」
「師匠、と呼ばないように言ったと思うけど?」
「あの、あの毒薬……」
「ああ、見つけたの? 結構強力な毒薬よ、手に入れるのに苦労したの。使えなくて残念だったわ」
まあ、まだ足りないから増やさないと駄目なんだけどね、と永琳は小さく笑う。
「調べました」
「……ん?」
「ただの、小麦粉です」
「そんなは――」
「師匠、どうしてこんな役に名乗り出たのです?」
「……」
永琳の顔は暗くてよく見えなかったのだが、一瞬雲が切れた月の光に照らされた。永琳は、困ったような顔をしている。
「……はあ、こんなに賢くなって……。
あのね、幻想郷の人々は愚かよ。あなたの腕を認めようとせず、いつまでも私に頼っているのだから」
「……」
永琳は冷静な顔に戻し、続けた。
「あなたは医師としても薬剤師としても十分。どうしてもあなたの腕を幻想郷に知らせたかったのよ」
そしてもうひとつ、と言いながら永琳はポケットに手を突っ込み、縦に長い紙切れを出した。鈴仙ははっとする。師匠の願いはなんなんだろう、と思っていたのだ。
『私の弟子が、私がいなくても立派にやっていけますように』
「頑張りなさい、幻想郷には毎日と言って良いほど怪我をする強い味方もいる、あなたの腕を信じる人もたくさんいる。もしかしたらこんなこと、願うまでもなかったかもしれないわね」
「し、師匠!」
鈴仙は耐え切れず、永琳の胸に飛び込んだ。永琳は鈴仙の背中をやさしく二度叩いた。
「成長したと思ったら子供に戻っちゃって。誰かが見たら笑われるわよ?」
「だって、だって……ごめんなさい、ごめんなさい!」
泣きじゃくる声が聞こえる。永琳の胸にじわりと何かが広がる。鈴仙はただ、自らの目の前にある暖かさに、ひたすら甘えた。
やがて、静寂が訪れる。永琳の胸にいる鈴仙は寝息を立てていた。
「あらあら……。……ねえウドンゲ、七夕に願いが叶うのは迷信じゃない、そう思わないかしら? 残念だけど私には、証明できないけどね」
空を見上げると、空には美しい天の川が掛かっていた。永琳は、それを見て何かを思いついたようだ。
「もう一個、欲張っちゃおうかな」
永琳は鞄から小さな紙を取り出し、さらさらと書き上げた。
『いつか、弟子と一緒に天の川を見ることができますように』
これが叶うのはかなり後の事となる。しかし、永琳はこの願いは、必ず叶うものだと疑わなかった。
証明はできないが、そんな事はどうでもいい。ただ、証拠以上に確証のある理由が、間違いなく永琳の中にあるのだ。
☆
「誰かに見たら笑われるって、笑えるわけないよ……」
藍は紫のスキマから顔を出し、彼女にしては珍しく覗き見をしていた。もっとも、彼女の横にいる主人に命令されてやったのだが。
橙もまた、藍のすぐ隣で顔を出していた。
「藍様ー抱っこしてるよー!」
「ああそうだな、もう少し静かにしような」
「はーい」
やがて鈴仙が眠ってしまうと、紫は彼らに気付かれないようにスキマを閉じた。そして、
「らああん!」
「何で――うわっ!」
「私もー!」
まず紫が飛び込み、橙が便乗。一人は胸に、もう一人は尻尾に。気が済んだと思えば、今度は交替する。間違いなく楽しんでいる。
「苦しいですって、大丈夫ですから! 私はいなくなりませんよ!」
「でも今日だけはー!」
「だけはー!」
彼らはまだ知らないのだが、散々抱き付かれた藍は、翌日全身筋肉痛に苦しむこととなった。
三人のうち二人は満喫し、一人は苦労しつつも幸せそうに過ごす傍ら。竹に吊り下げられた三人の短冊が、ゆらゆらと、優しく夜風に揺れていた。
『八雲家と幻想郷に平和が続きますように 八雲紫』
『八雲家が永遠に仲の良いままでありますように 八雲藍』
『わたしたち八くもけがずっと辛せでありますように ちぇん』
もう少しバレないような書き方が必要というか、どっちかというと「薬の材料を探しに行ったきり行方不明、その窮地を持ち堪えて見せる鈴仙達」のような描き方のほうが良かったかな、と。まあ個人的な意見ですが。
それといくらうどんげの医療技術の高さを知らせようとしても、毒薬をバラ撒いて幻想郷を~ってのはどうかな、って思います。
なんていうのかな^^;難しいんですが・・・一応永琳天才ですしねwほかの方法があってもよかったんじゃないかな、って思いますw
永琳にしては拙いなぁ・・・って思いました。
鈴仙の腕の良さを認めさせるならそれこそ病に臥している人のところへ行かせるとか、人里の往診とかであっても
時間は掛かるでしょうが認められるようになると私は思いますね。
事を急ぎすぎたためたのと鈴仙の腕を認めさせたいという想いから永琳の頭がうまく働かなかったのでしょうか?
こんなことを書きましたが面白かったです。
直後にいきなり鈴仙を持て囃す面々、話自体のミスリードのしようもない浅さもあってなんだかなあという感じでした。
正直に申しますと、今回の作品はもっといけるかと思っておりました。
ですが作者の思い込みが強かったようで……思ったより完成度は高くなかったようです。
そのためか、オチが読まれるというのも、想像しておりませんでした。
私の作品を読んでいただき、楽しんでいただけなかったと言う方がいらっしゃるかと思います。
誠に申し訳ありませんでした。
しかし、最後まで読んでくださった上、こうして作者の作品に対するコメントをしてくださってありがとうございます。
今回はこういった結果でしたが、次回からは少しでも良作、と呼んでいただけるような作品を書けるようにいたします。
読んでくださった皆様、ありがとうございました。
確かに、鈴仙の信用を獲得させるために手は打ちそうですけど。
氏の作品は好きですので、次回に期待させてもらいます。
しかし話の筋そのものはツボでした。がんばってください。