こんばんは、今回はちょっと長めです(相当長いかもしれません)
コミケで出展しようとしたのですが、私が原稿を落とした為に表に出なかった作品です。それを少し手直ししてみました。よろしかったら、読んでいただけると幸いです。
きっかけ それは些細な出来事
物語 それは誰かの生命
望み それはあなた自身の欲望の根源
始まり それは終わりと同時に起こること
道端で何かがうずくまって寝ていた。
「どうしてそんなに寂しそうに寝ているんだ」
それは、頭から耳が生えていて、ほっそりと伸びた一本の尻尾を携えていた。
「なあ、お前そんなところにいて寒くないか?」
その言葉に答えるように「にゃぅ」それはか細い声でないた。
「ちょっと、いいか?」
彼女は、承諾をとる前に抱き上げる。
その動作を不思議に思っているのは、持ち上げられた動物だけだった。
「何も食べてないのか……確かに、この弱った身体じゃ動けないだろうし、声も弱弱しいわけだな」
その言葉に反応して、手が彼女の体を抑える。まるで、小さい子供が母親に抱きつくような姿が、彼女の脳裏に焼きついた。
「よしよし、今何か食べさせてやるからな」
一匹の動物を抱える彼女もまた動物。二頂点ある帽子に黄金色の九尾、それが彼女の象徴であり、強さの実証であった。
その九尾をふわふわと揺らしながら、彼女と抱かれている小さな動物は、その細い田舎道を急ぎ足で通っていった。
†
「紫様、只今戻りました」
玄関の引き戸を開けると、やっと仕事を終えたという気分になるが、今の彼女にはそんな余裕をかましている暇は一切なかった。彼女の腕に抱えられているのは、弱った子猫だったのだから尚更だ。今この状態でも瀕死状態であるのに、暢気に物事を運んでなどいられないのだ。勿論それは、彼女が一番解っている。
「今、御飯をあげるから待っていておくれ」
そそくさと玄関を上がると、彼女に呟きながら奥の台所へと足を進ませた。それは歩く、というよりも『走る』という動作に近かったが、今の彼女にそんな思考をしている時間のほうが無駄であったのだ。何時もなら考えてから最善の処置を施し動くのだが、相手は命だ。理屈より直感の方が今は大切だと、彼女は考えた。
家の突き当たりの奥の部屋に台所はあった。彼女はいつも此処で調理を行なっている。しかし、今はそんなことをする為に訪れたわけではない。
「子猫には……母乳と……暖かい寝床が必要だな。しかし、残念ながら私はお乳が出ないんだ。悪いが、ホットミルクで我慢してくれ」
抱いている子猫にそう説いて、迅速に冷蔵庫にしまってあった牛乳を取り出し、鍋にとぷとぷと注ぎ、コンロに火を付ける。牛乳が温まるまで子猫を大事に抱く彼女。途中、牛乳の膜を取る為に、菜箸でかき混ぜる。そうこうやっているうちに、湯気が立ってくる。彼女は、あまり暖めすぎると火傷してしまわないかもしれないと考え、少し温い程度で火を止めた。それを今度は哺乳瓶に、何故か棚の中に置いてあるものを取り出し、ゆっくりと瓶を満たしていく。適量入れると、腕の中に抱かれている小さな動物の無一文の口に近づけていく。そうすると、自然に噛み付いてきた。途端に喉がこくこくと揺れていた。
「良かった。飲んでいるようだな。もしかしたら弱り果てて飲めないかもしれない、なんてことを考えていたが、安心したなぁ」
そんな不安を他所に、腕の中で気持ち良さそうな子猫は、小さな口いっぱいに頬張り、勢い良く吸っていく。それほど、その子はお腹がすいていたということだろう。
「それにしても、この子はどうしようか。紫様は此処に置いてもいいというだろうか」
「勿論いいわよ」
何処となく聴こえる声に、彼女は一切の驚きを持っていなかった。寧ろ、それが当然と云うようだ。彼女は、空中の空間から這い出るように出てくるのだった。その皹から見えるのは、幾重にも存在する眼。まるで、全てに監視させられているような錯覚さえ抱くことになるだろう。そんなところから出てきたのだ。
「そのかわり、藍、貴女がしっかりと面倒を見るのよ。私には多分無理だから」
簡単に言ってみせる彼女は、八雲紫。この家の当主であって、藍を式神として使う妖怪だ。藍自身も妖獣の中ではトップクラスの能力を所持する『九尾』の狐だ。それを従えるほどなのだから、さぞかし力は強大で知能は公明なのだろう。しかし、その能力を、強さを思わせないのんびりで変わり者な彼女は、古き幻想郷を知っているほどの妖怪なのだ。故に、最強と謳われる妖怪でもある。どちらにしても、強いことには代わりはない。
「無論、初めからそのつもりでしたよ。一つ云えるのは、紫様にお願いしたら、この子がどうなってしまうかさっぱりですからね。故に私が育てて、立派な『子』にします」
鋭く突く言葉だが、紫もそのことは承知だ。いつも何処にいるか分からない主人であり、顔を覗けば布団に包まっているのだから。藍もそんな人には願いこうむるだろう。両者一言に納得だ。だが、藍が何日も家を空けるときはやむを得ずということになる。そこは、両者の妥協が成立して、一時的な条件の基に成り立つことだろう。
「ま、貴女が一番分かっているだろうし、そこはいいのよ。にしても、貴女がペットを飼うなんてどういう風の吹き回しかしら」
不思議そうなに首を傾げる紫の姿はとてもチャーミングでそれが男性ならば、一層惹かれるだろう彼女の行動も、藍にとってはただの茶目っ気にしか見えていない。勿論そんなことは気にも留めない。実態を知っている彼女にとって、紫の行動すら危ないように思えて仕方がないのだ。
「いやぁ、どうしても目に付いて離れなくて。何処か惹かれるものがあったというか、守ってやりたくなったというか。自分でも上手く言い表せないんですよね」
紫は、ふむ、と一つ頷いただけで、他に何も尋ねてくる様子はなかった。それでも、生命の価値観とやらは彼女にとって頭の片隅に存在する。藍が一つの命を助け、守っていくというのならば、それは彼女が首をつっこむことは一切出来ない。紫は妖怪で、人間などを食べる種族であるにも関わらず、そこは知識として、経験として蓄えているのだ。しかし、それは自分が生命をつなげる為に行なう行為で、大抵の人間は妖怪よりも弱い位置にいるため、それは弱肉強食の法則が成り立ち、捕食自体が成立する。しかし、今回は藍の意思と保護するという目的が強く作動している。それだけの目的と決意を持っていれば、十分だと紫は理解したのだ。
「ま、そこはいいわ。貴女が選んだことだから、私は水を注さないけれど、ちゃんと命の大切さを噛み締めなさい」
初めから解っている、と云いたそうな藍であったが、その言葉に逆らうことなく頷くだけだった。確かに紫の云う通りで、間違ったことは一つもない。
「解りました。とりあえず、私はこの子の寝る場所を作ってあげますから、その間の面倒をお願いします。体温も然程持っていないようなので、常に抱いていてくださいね」
はい、と紫に言葉を投げかけて、腕の中で温もりを守っている小さな動物を渡し、そそくさと何処か他の部屋に消えてしまった。その間、紫が面倒見ることになったがあまり気乗りはしなかった。しかし、ああ云っておいて、この仕事を放り投げてどこかに消えてしまうのも、自分を侮辱すると思い、結局紫はその仕事をやることにした。
「あーあ、折角の私の寝る時間が……この子はこんなに気持ち良さそうに寝ているのに、私が寝られないなんて理不尽ね。ま、これが終わったらずっと寝ていればいいことだし。藍に仕事を任せていれば、私の仕事はまったくないわ。このことも理由になるし」
一人怪しい微笑みを浮かべる紫だが、よくよく考えると、藍はなんだかんだと愚痴りながら仕事をしている。式神だから仕方が無い、なんて安易な理由付けで終わってしまうなら、藍もさぞかし荒れている事だろう。だが、実際はどうだろうか、そんなことは一度もないのだ。
しかし、その思考を遮るように耳に入るのは、この動物を紫に渡した藍だった。なにやら、段ボール箱やら毛布やら、よりとりどりの物を持ち込んできた。
紫の思考は違う意味で動き出したのだ。先程の考えを覆す思考がめぐりまわる。
「紫様、ダンボールの中に毛布を敷きますから、その中に優しく置いてあげてください。後、直接では熱すぎるのでホッカイロというものも用意してみました。これで、然程寒くない生活が送れますね。良かった、紫様がへんてこなものを家に持ち込んでおいて」
少し酷いことを口ずさみながらも、着々と用意を進めていく藍。
けれど、今の私には、そこにどうこういう気持ちにはなれなかった。文句を言いながら使うのはやめて欲しい程度には思うけれど、儚い命の為だ、私は心が広くて優しい妖怪。今はそんなことを気に留めないようにしようかしら。
「もう少しありがたく使いなさいな。ん、これでいいのかしら? 」
セットされた毛布の上にゆっくりと降ろしたその動物は、毛布に抱きつくように丸まると、それは小さい肉塊にさえ見えてしまいそうだが、毛深いからその視察はそぎ落とされる。
「えぇ、それで大丈夫です。これで一段落かな。ちゃんと御飯もあげたし、寝るところもしっかり作ってあげたのだから、しっかり生きろ。ずっと此処にいてもいいからな」
優しく訴える口調は、誰に聞こえるのか。私はこの子にだけ届いて欲しい。私とお前は同種で、お前の辛さも解る。私を頼ってもいいから懸命に生きてくれ。お前の為なら何でもしてあげられる気がする。何か、私に与えてくれるような気がするから――
†
満月が綺麗な八月の十五の月。八雲の妖怪と一匹の猫は、縁側で団子とすすきを飾って月見を楽しんでいた。元々、満月には妖力があると云われている。だから、狼男が存在するのだろうし、妖怪もそれなりに能力が上がるときなのだ。しかし、紫や藍ほどの妖怪になると、暢気に月見なんてことを平然と出来るようになるだろう。
「今年は珍しく曇ってませんね。去年も一昨年も雲に隠れて見えなかったんですが」
今年は久々に十五夜に月を拝むことが出来た。月は気分屋なせいか、その日に顔を出してはくれない。何にせよ、今年は何分縁起も担げそうな予感を醸し出している。
「そうねぇ、たまに見られるから風流ってものもあるんじゃないかしら。ま、私が境界弄れば満月なんてしっかりと見ることが出来るけどね。それでも、本当に趣深い人なら、常に月の調子をうかがっていたりするから、そこは私たちと違うわ。どの月を見ても、それ相応の美しさが解っているからこそ楽しめるもの。こんな特別な日だけの拝見なんてあまりよろしくないんだけど」
隣で紫の世間話を聞きながら、膝の上にちょこんと丸まっている子猫を撫でる。毛並みは橙で、綺麗な艶を醸し出している。若干金かかったところもあるが、大まかに見ればその色なのだ。しかし、金の毛が混じる猫というのも聞いたことがない。
「まあ、私たちはそこまで暇ではないですし、いや、紫様は何時も暇そうに見えますが。まあ、一時の休みも大切でしょうからゆっくりするのもいいでしょう」
藍の言葉に若干不信感を持っているようだった紫だが、藍の意見に同調するように首を少しだけ振る。それに伴って髪の毛もゆっくりと揺れていく。
しかし、そのゆっくりとした空間に突然興奮した声があがった。
「そういえば、この子の名前、まだ付けてあげていませんでした」
藍であった。確かに、この子猫には名前を付けていなかったのだ。既に十数年が経つというのに名前をつけていないことに気がつかなかった藍も藍である。しかし、なぜ突然そんなことを思いついたのかは、良く解らない。ただの思いつきなのだろうか。
「そうねぇ。私はいつになったら貴女が名前をあげるのか不思議に思っていたわ。やっとこの子にも名前が付くのね。それはおめでたいこと」
紫も同様に祝福の言葉を送る。しかし、名前が付くということは、本当に自分の配下に置くと云うこと、いわば完璧な所有物となると同様の意味だ。もし、藍がそのことに躊躇っていて名づけなかったとすれば、今回の出来事は藍の決意となるだろう。
「ま、まぁ、最初は世話をしてあげるので手がいっぱいだったんですが、最近は落ち着いているようで……といっても、拾ってから結構経つんですけどね。ほら、毛並みなんてとっても綺麗ですし……あ、この子の名前、だいだいとかいて『橙(ちぇん)』なんてどうでしょう。ほら、こんなに橙色が綺麗で、この子にぴったりだと思うんです」
何時もの冷静さとはうってかわって、顔を真っ赤にさせ、九尾で黄金の尻尾は、ぱたぱたと犬のように左右に振れている。まるでメトロノームのようだ。しかも、手には握りこぶしを作り、ぶんぶんと少しばかり振り回している。余程気合が篭っているようだ。
「藍、少し落ち着きなさい。まぁ解らなくもないけど、だからって顔まで真っ赤にすることないじゃない。貴女、やっぱりおかしいわね。熱で頭がやられてしまったかしら」
茶化すような台詞ではあるが、確かにその通りだ。動揺というよりも興奮して理性を失ってしまったのか。紫の熱にやられてしまった、というのもある意味正解な言葉だ。
「す、すみません……つい、夢中になってしまって。でも、橙っていい名前だと思うんです。ちぇんっていうのも小さくて可愛いこの子にぴったりかなって」
紫はため息を漏らす。なんでこんなにも楽しそうに話しているのだろうか。目が潤い、月光に照らされるその素顔。映え栄えとしている黄金で飾られた髪の毛。そして、力の象徴な尻尾。けれども、今の彼女に力は要らない。子猫『橙』を撫でる手つきはまるで、自分の子供を優しく擦るようで、眠っている幼児に付き添う母親。そう、まるで母親なのだ。
「そうね。藍も良い名前思いつくわね。それにしても、いつからそんなに母性本能溢れるようになったのかしら。昔は気張って、すごかったのにね。私の下に来る前に一戦交えたけど、あの時は本当に強かったのにね。今じゃその神々しさが一つもないわねぇ、藍」
ニヤニヤしながら云う紫だが、今までの藍はとても強暴だったのだ。
一戦交えたときは本当に強かったと思う。私がまだ隙間を使えなかったときの話、私の結界は完成形態だった。そんじょそこらの妖怪ではとても太刀打ち出来ないようなものまで作り出し、幻想郷の一遍を司っていた。というのも、博麗大結界の補助的なことをやっていただけの話。けれども、その時期には最強と謳われるほどの力を携えていた。それでも、知る限り風見幽香は私と同等の力を所持していたと云われている。そんな矢先、私は九尾の狐の情報を知った。そして足を伸ばし、彼女と戦った。今のように穏やかでない彼女には、私でさえ手を煩わせる戦いをせざるを得なかった。一つ間違えば即ち、死、の世界だ。そんな藍も今では丸くなったなぁ、と思ってしまう。
「紫様がこんなにも体たらくな生活をしているから、私にもそれがうつったんですよ。それでも、今の生活が気に入らないってわけじゃないんですけどね。どっちかっていうと、今の生活の方がのんびりしていて良いっていうのもありますよ」
確かに、今までの世界、いわば弱肉強食で生きる世界もまたそれなりの楽しみはあったと思うが、それ故に今のような平和な世界を忘れていた。己の強さに溺れ、全てを壊すことしか考えていなかった。仲間は自分に従い、逆らうものは出てこない。人間であろうと、妖怪であろうと、自分の前に立つものは全て排除してきた。けれど、唯一人、倒すことの出来なかった妖怪がいた。唯の少女、そう、唯の少女だ。幼気な少女だからといって、私だって容赦はなかった、本気で殺すつもりだった。けれど、それは力ではなく、技術で抑え込まれたのだ。このとき私は、力だけでは此処に立つことが出来ないことを知った瞬間だった。それ以来、私はその経緯で此処にやってきたわけだが……
「ま、貴女も丸くなってはじめての子供が出来て良かったわね。しっかりと手塩にかけて育てなさいな。きっと良い子になるわよ。藍も素直になったから」
「最後のは余分ですよ、紫様。ま、当たり前にこの子はしっかりと私が守ります。こんなに可愛い子を傷付けるわけにはいきませんよ。紫様でも苛めたら容赦ありませんよ? 」
冗談を云うわけもなく、眼は本気のようだ。久々に鋭い眼光を伺った紫は、以前の強さは健在である、そう認知させられた。しかし、その光も一瞬にして消えていつもの穏やかさを携えた。悪戯では済まない、そう主人に宣告したのだろう。
「解ってもらえればいいんです。そうそう、紫様はどうやって猫が妖怪になるか知っていますか? 」
愚問、とばかりに紫は頷く。幻想卿でも長寿といわれている妖怪にその質問はタブーだったのだろう。しかし、いくら長寿といっても知識ない者も存在する。そういう輩を愚者と云うのだろうか。ただ生きているだけならば、そんなものは存在価値もない。
「勿論知っているわ。月の光を何年も浴び続けることによって妖怪へと変わる。他にも色々と方法はあるみたいだけれど、オーソドックスな方法しか私は知らないわ。妖怪が妖怪マニアになっても仕方がないからね」
きっぱりと言い切る紫だが、その通りだ。確かにどんなものが存在するかを調べることは悪くないが、それこそ数多の数がいる。しかしそれを知ったところでどうにもならない。だから必要のない情報や知識はわざわざ採取する必要はない。
「妖怪マニアなんてなりたくもありません。確かに猫が妖怪になるのはその過程なんですよね。今こうやって月光に当たっていたら、何れこの子が妖怪になってしまうのでしょうか。今のこの子はとっても可愛い。それ故に怖いんです。どうなってしまうか」
橙の猫背に被られている毛をゆっくりと撫でる藍の表情に明るさがなかった。ただ、月明かりに照らされる彼女と橙の面持ちがただ映るだけだった。
空に浮かぶ雲が月を隠し、辺りが闇一色で支配する。月を写していた水面も物寂しそうに佇むだけで、つまらなそうだ。
いつも傍らに存在するものが、どこかに消えてしまったら何を思う。貴女は一体何を考える? もし、その寂しさを知ってしまったら、すぐそこに存在することが本当に大切で、奪われたくないものだと解ると思う。でも、貴方はそれを知らない。未だに知らない。貴方は一度もなくしたことがないから。
「ほら、変な顔しない。藍、お夕飯作って頂戴。お腹空いてしまったわ。そうねぇ、今日は中華料理なんていいかもしれないわ。材料もちゃんと有るだろうし。中華料理が食べたいわねえ。中華料理じゃないと食べないかもしれないわねぇ」
再び月が顔を出す。途端に光の眩しさに眼がくらむ。橙も眩しいのか、私の足へと顔を埋める。やっぱり、この子がどこかに行ってしまうなんて事は考えられない。いや、考えたくもない。ずっと、私の膝の上でこうやって居て欲しい。いつでも背中を撫でて上げられるように。しかし、紫様は御飯を食べたいようだ。残念ながら、橙の特等席を取ってしまう他ない。橙には悪いが、少しの間我慢してくれ。
「みー……」
「あら、この子が鳴くところを初めてみたわ」
紫は感嘆符を頭に乗せている。藍が紫と組になっているときには一緒に居るのだが、付いて歩いているか、藍の膝の上で丸くなっているかしか見たことがなかったからだ。勿論、藍だって橙が鳴くところを初めて見る。どうにも、橙には解るらしい。
「ふふ、そうですね。私も初めて見ましたよ。さ、御飯の支度でもしましょうか。深夜の食事なんて中々に風流です。橙にも美味しい御飯をやるから、待っているんだぞ? 」
背中を一度撫でると、橙は藍の膝から素直に下りて、とたとたと部屋の奥へと消えてしまった。聴こえないはずの足音が耳元で聴こえる気がした。
「藍、お願いね。私は少し出かけてくるから。出来る頃にはちゃんと帰ってくるわ」
紫もそこを立ち、踵を返して玄関口の方へと消えてしまった。唯一人残された藍には、当たり所のない消失感だけが自分を取り巻く空間に残った。
「さて、私も支度をなくては。遅くなると紫様が怒るから」
ぎしぎしとなる廊下をゆっくりと歩き、台所へと足を向けた。
†
実り多く、様々な植物達が実を熟す。草の一部は枯れ草となり、一部の花、秋桜などは綺麗な大輪をきらめかす。
しかし、その時期も早々と過ぎ去り、地面には霜柱が並び立つ。草花の命は土へと還り、あるものは土の中で春の訪れを気長に待つ。動物達もねぐらに食料を蓄え、冬眠を迎える。
妖怪達にとっても人間達にとっても、それは唯、四季の移り変わりに過ぎない。それでも、時間の経過を見せるには十分な物だが、彼女達にとって、その時間の経過が何を意味するのかはあまりに分からない。時間さえ気にせずに生きる彼女達にとって、それほど無意味に近いものはない。比べるならば、人間と妖怪ではその時間軸さえ異なり、その意識の持ちようも違う。人間は必死になり、妖怪はそれ相応に愉しむ。その時点で違う。
既に前回の月見から幾分の月日が流れただろうか。月を眺めるは趣深く、その美しさに自分さえも奪われ、狂気をもって狂いだす。それが人間であろうと、妖怪であろうと、だ。
妖怪もそのときには能力の向上が見られるが、藍、紫に限ってはそんなことはない。ただ、問題だったのはその子猫だった。その子猫は藍の膝腕で気持ちよさそうにいつも寝ている。それが一種の楽しみであり、プライベートである。藍にとっても、可愛い自分の子供が膝上で寝ているのだから、可愛くてしょうがない。
だが、その時、藍が子猫を拾ってきてから十数年が経っていた。それでも、その子猫は子猫のまま。一向に大きくならなかった。しかし、紫も藍もそれを不思議に思ってはいなかった。わが子の可愛さには親は盲目同然だ。ただ、紫が本当に気づいていないのだろうか。そこに疑問点が残る。
「ほら、橙、今日は天気がいいからお外へ日向ぼっこにでも行っておいで。これだけ晴れていれば、さぞかし気持ちがいいだろう。あ、紫様はお仕事しっかりしてくださいね」
この陽気を理由にしてそそくさと逃げようとする紫様を私は制する。勿論、私だって然程余裕があるわけではないからだ。なんでもかんでも私に押し付けて紫様はどこかに行かれてしまう。本当に困った主人だ。私がやる必要もないことまで押し付けられる。
「あら~、こんな天気だもの、やっぱり家でお昼寝でもしていようと思ったんだけど。それじゃあ駄目かしら。私、とっても眠くなっちゃったわぁ」
大きなあくびをする紫様。あくびは人に移るといわれているが、私に限ってはそんなことにない。そこまで紫様が感染してしまったら私まで仕事をやらなくなってしまう。それは私にとっても、紫様にとっても嬉しくない事態だ。単に、こんなにのんびりと過ごしたくない、そんな理由があるだけだが、それがあれば十分だと私は思う。
「紫様、貴女はあの子とは違うでしょう。紫様は幻想郷の重大な一角をになっているんですよ? それがどうしてぐーたらしていられましょうか。勿論いられるはずがないのです。よって、仕事をしっかりしてください。やらないと御飯作りませんからね」
言葉責めで責める藍ではあるが、本当にそうしてもらわなければ困るのだ。藍一人で仕事がこなせるならば、藍自身此処まで大げさに言わないだろう。紫の活躍が必要であるからこうやって無理矢理でもやらせようとしているわけだ。
「解ったわよ。やればいーんでしょ、やれば」
面倒くさそうにぼやく紫だったが、急に会話が百八十度回転する。しかし、さっきと面持ちが多少違うように見えたが、それも些か解らない。
「そうだ、藍。今日は満月よね。お酒とお団子を用意して頂戴。月見をやるわよ」
紫がそう云うと、藍はカレンダーを確認する。確かに今日は満月だ。しかしこの時期に月見とは少しおかしい。紫が何を考えているのか、藍にはさっぱり理解できなかった。
「はぁ、お月見……ですか。紫様がやりたいというのならば、用意しておきますが……」
藍は理解できないようであるが、紫以外の誰もがそんなことは解らない。ただの気まぐれで月見を行なっているのかもしれない、藍にはその考えが出てきたらしく、それ以上考えないようにした。きっと、今回も紫様の我侭なのだろう、と。
「それじゃあ、ちょっと幻想郷の結界の様子を調べてくるから、よろしくね。後、御飯もしっかり作っておくように。解ったかしら」
私は首を前に倒して適当な相槌を打つ。ちゃんと仕事をしてくれるみたいなので、とりあえず良かった。たまには少し豪華なものでも作ってみようかな、なんて思ったりする。何せ紫様がまともに働くことがあまりないからだ。こんなにおめでたいことがあるときには、美味しいものを振舞っても罰はないと思う。
「とりあえず、橙もいないし、暇だから材料の買出しにでも行って来るか。偶には里の方に出歩いて自分の目で材料を見極めるのも悪くないだろう」
誰もいなくなった八雲家に、一人置いてけぼりを食らった藍も、夕食の買出しへと赴く為に支度を始める。もとい金銭の用意や食品を入れるための袋を手元に置くだけの話だ。
「橙も、そのうち帰ってくるだろうし、家に鍵は不用か。元々、この家に鍵をなど必要ないなぁ」
手の内にある鍵を手中で遊びながら、誰に言い聞かせるわけもなく呟いた。何気に紫が聞いている可能性もない訳ではないが、この程度の話を聴取されたところで、何が起こるわけでもない。彼女達にとってどうでもいいことだから。
「さて、私も出掛けるとするか」
藍は、引き戸から出ることもなく、何処ともなく消えてしまった。この家にとって、玄関など飾りに過ぎない。紫も藍も、妖術やらを得意とする者であるから、いちいちその場所から出るとうい面倒なことはしないのだ。
人間の里は、毎回ながら活気に溢れている。それでも此処は、妖怪やら妖精やら、幽霊さえも彷徨い漂う。妖怪や妖精は単に人間に悪戯を行なったり、売り物を盗んだりといった行動が多いが、九尾の狐ともなると見識を持ち合わせている。『盗む』という行為自体に恥辱を感じるようになるのだ。
「旦那さん、このお揚げを一つくださいな」
買い物に来ると何時ものように寄る豆腐屋で、既に名前を覚えられるほどである。無論、狐が油揚げを好きなのは伝説などではないようだ。
「藍ちゃん、いらっしゃい。今日はおまけでもう一つ付けるよ。いつも買ってもらっているからね。ついでに豆腐もどうだい? 」
嬉しそうに云う豆腐屋の旦那さんは、いつになく気分が良さそうだ。何かいいことでもあったかと思うと、旦那さんの上機嫌も伺える。
「いつもすみません。お豆腐も一つお願いします。お酒の肴に冷奴も良いでしょうし」
油揚げを新聞紙に包み、手元にある金属製の鍋の中に水を浸し、豆腐を入れていく、この時にも、形が崩れないように慎重に扱うが、専門家にもなるとそれを軽くこなす。しかし、それを藍が行なおうとしても、角の一部が崩れてしまったり、ぐちゃぐちゃになってしまう可能性の方が大きい。やはり、これがプロというものだろう。
「待たせたね。そういえば、これからお買い物かい? それなら、こっちで豆腐と油揚げ預かっておくから、お買い物いってきちゃいな。帰りに取りに寄ればいいからね」
包みを渡されかけて、空のバッグに眼がいったらしい。確かにこれで豆腐の入った鍋を渡されれば、買い物が出来なくなる。油揚げの方は新聞紙によって、他のものが油っぽくなることはないだろうが、一緒に預かってくれるらしい。
「すみません旦那さん。いつもありがとうございます」
藍は豆腐屋の主人に向かって深深とお辞儀をする。やはり、礼儀というものを弁えているのだ。どこぞの妖怪のように感謝なく悪戯をするようなことはしない。
「すみません。では、いってきます」
いってらっしゃい、と背中にその声を聞きながら、藍は豆腐屋を後にした。
†
藍は夕刻過ぎに家に帰宅した。この家は、マヨイガというところにあるらしい。一度迷ったら出ることが出来ない、とまで言われているほどだ。しかし、そこに住んでいるのが八雲一家だ。というのも、紫自身が境界を弄れるということが此処を選んだ所以だろう。
その空間に佇む家の玄関を前に、その引き戸を開けて中へと入っていく。帰りの際は玄関から入るのが一応の仕来りとなっている。だが、紫などにとって、それがあることが本当に意味を成すのか、ということが一番の問題だろう。しかし、不可思議な紫であっても、大きな事柄がない限り正面玄関から入ってくるという。
「ただいま戻りました。紫様、お戻りでいらっしゃいますか? 」
いつも通りのやりとりだが、これを行なわないと、紫が帰っているか解らないのだ。居れば隙間を使ってでも返事をしてくれる。そのやり取りが今日の生活習慣として成り立っている。それが紫、藍を相互的な関係を築いている証拠でもある。この時にもその声があった。
「戻っているわ。それよりも、今夜のお夕飯は何を作るつもりなの? 毎日の楽しみは、お昼と夕飯なんだから。藍の料理なんてもっと好きだわ」
靴を脱ぎながら、陽気な言葉を聴取して気分が安らぐ。その空間は一人には大きすぎるから。安堵をもたらす声に乗せられた質問に答えることにした。
「今日はお鍋でもしようと思っています。お揚げを買ってきたので、巾着でもしようかと。最近随分寒くなってきたので、偶には体の温まる食事も良いかな、と」
やはり冬の鍋は格別美味しい。更に大人数で囲むと賑わい、それが美味しいさの隠し味となる。博麗神社の宴会は、古今の東西から人妖様々な者たちが召集し、日々を語り合ったり、世間話やら自伝を自慢し合う場となっている。その催しによって幻想郷のバランスが取られていることは言うまでもない。
「いいわね。心も身体もぽっかぽか。それと、月見の酒の肴はあるのかしら? 」
藍は台所に向かう足を止めて、誰もいない屋内に一言漏らす。
「冷奴でもどうでしょうか。季節はずれですが、偶にはよろしいかと」
「あえて季節に逆らったもの用意するとは、なかなかに趣深いわね。月と冷たいお豆腐……藍、掛けたわね。中々良い心遣いだわ。さすが私の式神といったところね」
上機嫌な声が何処からともなく屋内に響き渡る。藍も紫の反応に満足な様子で台所で夕食の用意を始めることにする。その前に、しまう食材と使う食材を分けて冷蔵庫へと閉まっていく。その作業を終えるとようやく料理を始めるようとする。それを見かねたように、紫は隙間を利用して台所を観察しているようだ。
「いちいち見ていなくても大丈夫ですから。紫様のようにつまみぐいなどしません」
せかせかと動く藍にとって、紫がこの場に居ることが少しばかり邪魔だった。何故か食事の用意を始めるとこのように見物に来る。しかも、作った料理の一片が欠けていたりするから困りものだ。
「いやねぇ、藍が気になっただけよ。私はつまみ食いする気なんて毛頭無いわ」
よくよく考えてみれば、鍋でつまみ食いをする物など殆ど無い。そのことを考えれば、紫がつまみ食いをするつもりは無い、という主張も筋が通るのだ。
「とりあえず、居間の方でくつろいでいるわ」
紫は隙間から覗いていた頭をその中に戻すと同時に、今まであった不気味な割目が姿を消し、今までの風景へと還っていった。今頃炬燵の中で猫のように丸まっているのだろう。
「さて、紫様も退散したようだし、ちゃちゃっと用意を済ませて御飯にするか」
藍は買ってきた野菜や豆腐を手際よく切り分けて、皿へと盛っていく。その途中で彼女の腕が止まった。何かを思い出したような、閃きにも似た顔がそこにはあった。
「鍋は…………偶には味噌でもいいかもしれないな」
用意を忘れていたが、この程度のことは藍にかかれば朝飯前の話で、思い付きが遅かろうと、美味しいお鍋は作れるのだ。そう、藍の手は材料さえあれば何でも作れる。因みに、十八番は和食とか。
「ふふ、家は醤油が多いから、さぞかし驚かれることだろうな。その顔が愉しみ」
そんな言葉を漏らしながら、藍は鍋の用意を進めていくのだった。
ぐつぐつと野菜や豆腐が鍋の中で踊っている。つゆはぼこぼこと沸騰し、美味しそうな匂いは天井へと昇りやがて消えていく。そんな中、藍と紫は冬の寒さに耐えんとばかりに鍋を囲み、食べていた。二人の箸は進むも、不意に片方が止まる。
野菜の入ったお皿を置き、何かを考えているようにも見えたが、すぐに箸を取り直して食事を再開した。しかし、その動作が向かいに座っている紫にとって、とてつもなく不自然で、瞳の奥に渦巻く黒々としたものを見逃さずにはいられなかった。
「藍、どうかしたのかしら。さっきからおかしいわね。何かあったの? 私の見る限りでは然程変なことは無いと思うのだけど」
そのことを知らない紫にとっては、彼女の動作がおかしく映るが、藍にはそれが行動するかしないかの予行だった。勿論、初めはしようと考えたが、それでも食事を終えるまで待ってみようという気になったのだ。衝動で動くほど藍は愚かではない。ましてや紫の式神だ。そんなことは百歩譲ってもないだろう。
「えぇ……夕食の時間には帰ってくるはずの橙が、帰ってこないんです。先程炬燵の中を確認したのですが寝ていませんでしたし、いくらなんでも帰ってくるのが遅いから探しに行こうか迷ったのですが、食事が終えるまで待ってみようかと思いまして」
そのことを喋っているときの藍は、どうしてか震えているように見えた。しかし、紫は気のせいだろうと思い然程気にする様子も無かった。目に見えて解るのは、藍の顔が幾分暗いのだ。これでは食事が止ってしまっても仕方が無い。結局藍は、一度箸を取り直したが、すぐに卓袱台の上へと丁寧に置いてしまった。逆の紫は、良い香りを漂わせている鍋の中身をこれでもか、というほど皿に盛り、箸を進めている。
「橙が帰ってこない……確かに帰ってきて無いようね。私も出かける前に姿を見ただけだし、帰ってきてから一度も見ていないわ。橙は外に出ても絶対戻ってくるのにね。今日に限ってどうしたのかしら」
そうはいうものの、紫は然程気にした様子も無いようだった。しかし、それを見られるほど気が回っていなかったのも確かだ。藍にとって、この事態は異常事態で取り乱してはいけないと、理性を保つのが精一杯だったのだ。もし、鴉にでも襲われたら、もし何処の馬の骨とも知らない人間に捕まえられてしまったら、そう考えるといてもたってもいられなくなった。だが、ふと頭をよぎるのは最悪の事態。
「ねぇ、紫様……猫って死ぬとき、主人の前で死なないんですよね、確か。何処か、誰にも見られないように、ひっそりと絶つんですよね」
えぇ、と紫は静かに答える。それでも猶、紫は落ち着いていた。だが、藍は動揺を隠せない。もし、それが本当ならば、それは即ち戻ってこなくなるということだ。藍にとって、それだけは避けたかったのだ。それよりも、『死』という言葉自体が藍の頭の中に無かった。それが余計に藍を焦らせる結果となったに違いない。
「紫様! 私、橙を探してきますから片づけをお願いします! きっと、まだ大丈夫です。手遅れにならないはずです。絶対に」
藍は乱雑に立ち上がると、畳を蹴って駆け出した。それが藍の焦燥を表しているのだろう。取り乱したことの無い藍が、あそこまで焦る様子を私は一度も見たことが無かった。私と一戦を交えた時でさえ、冷静沈着な行動と頭の回転の良さにみどろもどろさせられた。その時でさえ、こんなことは無かったはずの藍がこの有様だ。結局のところ、私は真相を知っている。けれど、藍に水を注すようなことを私はしたくなかった。ただ、
「待っていろよ、橙。絶対に助けるからな」
そんな声が聞こえたような気がしただけだった。
満月の中を疾走するのは黄金に輝く九尾を携えた狐だった。その姿を捉えられる人間も居なければ、妖怪も居ないだろう。それは黒い影となり、消えては現れるだけだった。
ふいにその影が止まる。そこは人間の里に近い場所で、所々に街灯が伺える。八雲家から一番近い場所で、出るところはこの辺りなのだ。ならばあまり遠くへはいっていないはずだ、というのが藍の推測だったが、それほど簡単に見つかるとも思っていなかった。何しろ匂いすら感じ取れない。もしかするとこの場所には居ないのかもしれない、その思考があっても、今出来ることをやらずに何をすればいいというのか。ただ止っていることの出来ない藍は、それだけでも気を紛らわす手段となった。
「すみません、この辺りで橙色の毛並みの猫を見ませんでしたか? 」
日の沈みを境に人間達はそれぞれに家に帰っていくが、珍妙な人間が目の前を歩いているのを発見した藍は、とりあえず聞いてみることにしたのだ。しかし、突然出てきた九尾の狐に驚かない人間はいないだろう。動揺を隠せない様子であったが、ことから少しすると、まともな妖怪であることに気づいたようだ。
「す、すまんね、驚いたよ。急に出てくるものだから。猫……いや、見ていないが」
記憶を探るように考えていた人間は、思い当たる節が無い、とそんな仕草をしながらそう云った。藍も、そうですか、ありがとうございます。と告げて深々とお辞儀をし、踵を返した。
満月が照らす人間の里は、人工的な火を用いずにも確認することが出来たが、そこには藍が探している動物は見つからなかった。だが、藍が見つけようとしているのは、子猫なのだから見落としがあるかもしれない。しかし、飼い主の藍がその匂いを見落とすはずが無い。家からの道を戻ってもそれは同じことだろう。
「何処にいってしまったんだ、橙。もっと遠くに行ってしまったのか? 最期の挨拶もなしで去るのか……そういう習性を持っているとしても、最後の一言ぐらい私に言ってくれよ。だが、まだ諦めるのも早いよな……まだ探していない場所はたくさんあるじゃないか。私らしくもない。これでも紫様の式神だ。出来ないことは、ない」
垂れ下がった尻尾が勢いよく跳ねる。それが彼女のやる気なのだ。見えない真実なんてそれは真実ではない。ならば、その事実を追いかけるのが今の藍なのだ。
行動を実行に移し、すぐにそこから動いた。それでも彼女が思うことはやはり、遠くへ行っていないはずだということ。小さな猫がそこまで遠くへといけるはずがない。次に向かう場所は冥界の方面。次に近いのは此処だ。もしかしたら、階段にいるかもしれない。あそこの階段はなんとも長いのだ。それを登るのには相当な時間がかかるだろうし、途中で登る気すら失せる。だが、藍にとってはそんなものはどうってことなかった。一瞬のうちに抜けてしまえる長さしかない。
冥界の階段には誰一人と存在しない。だが、時たま霊が漂っている。冥界なのだからそれも当たり前であるが、こんなところに猫は来ないか、と思いつつも眺めながら最上階を目指していく。
私はこの際であるから、紫様のご友人である西行寺幽々子様にご挨拶して聞いてみるのも良いかと思ったが、その時間すらおしかった。最上階まで確認した後に再び階段を急行していった。その際にも確認を行ったが、橙の姿は無かった。
そうこうやっているうちに、次はどこへ行く、そんなことを考える暇さえ既に無かった。今見つけなければ橙を一生見られない。もし、その亡骸だとしても絶対に家のお墓に葬っていつまでも一緒にいられるようにしたい。ただ、その想いだけが募って、今の藍は、その想いに従って動いているのだ。ただそれ以外の想いなどこの際関係を成さない。紫が叫ぼうが、どんな妖怪が現れようと、全てを消し去り見えない影を追う勇気はある。まるで、空に浮かぶ星に向かって飛んでいくような心地だろう。届かないものに一生懸命追いつこうとして、けれどもそれが無駄であることに気づく。その努力は無に帰り、己は空を掴むだけ。何も得るものは無い、だが、全てを捨てておどおどと戻るつもりさえ、藍には毛頭ないのだ。
「もし、橙が生きているのならば、私はそれでいい。けれど、死と生の境ならば私の命を顧みず橙を助ける。死んでいても、その骸を私が大切に保管する。決して橙との時間を忘れないために。私は橙の親なのだから」
闇が一線の明光によって閉じていく。それは日の出の前兆。永い夜が明ける。満月はうっすらとなるが、決して消えるわけではない。無論月の光は発せられているのだ。
その間も藍は止まることなく探し続けている。その真実にたどり着けないと、今となっては解しながらも。
†
三日三晩休むことなく飛び続けていた藍にもさすがに疲労は隠せない。三日目の夜、月の夜空を駆けて戻ってきたのは、マヨイガにある八雲の家。縁側はいつもの通り開け放たれていて、一本の大吟醸を携えて一杯やっている紫の姿があった。しかし、それは月を見透かすように、ただ姿を捉えているだけにしか窺えない。
疲弊の溜まった藍は、縁側に着くと同時に倒れこみ、そして、嗚咽を漏らし始めるのだった。紫はただ、横で月見酒を飲むだけで一言も喋ろうとはしないのだ。いや、口を開こうとはしていないらしい。
「橙……が、み、みつかり……ま……せん……でし……た……」
自分の疲弊云々よりも、やはり橙のほうが大切なのだ。しかし、懸命な捜索をしても結局橙を見つけることが出来なかった。ただ、その悲しさのほうが強かった。諦めてもそれが諦めることすら許さなかった。心が、身体の疲労を超えてこの時間を動くことができたが、それも此処までが限界のようだ。結局幻想郷を三週ほど回って、最後の頼りの此処に戻ってきた。もしかしたら橙が戻っているかもしれない、そう考えたが、それも現実の壁に崩れ去った。それが、今の藍の目に見える真実なのだ。
だが、紫は何も喋ろうとはしない。ただ、月を見て、酒を流しこんで、傍観しているだけ。そして、藍のすすり泣く声だけが月夜に響き渡った。
しかし、それを打ち消すのは誰とも知らない声、けれどもそれは何処かで聴いた音。
そして、覆いこむような暖かさ。今までにこんなことをされたことは一度も無かった。紫様であっても、私に対しては絶対に行わない。『抱きつく』という行為はとても難しくて、私も一度もしたことが無かったかもしれない。たとえ親にしてもらっていたとしても、それは遠い過去だ。けれども、今は、違うみたい。
「藍様……心配かけてごめんなさい……体が冷えきってますよ? 私を探してくれたんですか? そうだったらごめんなさい。私、この三日間ずっと月の光を浴びていたんです。それが最後の変化条件だったから……でも、今はこうやって帰ってきたんです。だから、これから藍様に恩義を返します。助けてもらったお礼をしなくてはいけません。だから、私思ったんです。こうやってずっとお使いできるようにって。だから、私は猫又になったんです。迷惑をかけてしまってごめんなさい。私、ずっと傍にいますから……いえ、いさせてください。お願いします」
柔らかな体が藍の背中を支配している。けれども、それは優しさに満ちていてとても暖かかった。人のぬくもり、いや、これはずっと前から知っていたものなのだ。
藍が橙を拾った時から、そのぬくもりを知っていた。離れる三日前から知っていた感触。藍はそれがどんなに大切で大事で、儚いかを知ったのだ。それが親、いずれは離れていく子の暖かさを感じ、子もその愛を忘れない。多分、それは今の二人ではないだろうか。
「勿論いいとも。紫様、この子を此処に置いてあげてもいいでしょうか」
月見酒をしていたはずの紫様は、こちらを向いてにこやかに笑っているだけだった。多分、良い、という意味だろう。
「それじゃあ、これから私の元で働いてもらうからな。しっかり頼むぞ? 橙」
「はい! 藍様!」
少しばかりかけた月を包む闇に響くのは、既に鳴き声などではなく、愛らしく、優しさのこもった声だった。
私は、何かの縁で紫様と出会い、そして橙とめぐり合わせになった。それは偶然かつ必然で、運命など予期せない私にとっては波乱万丈だった。きっとこれからも、巡りに巡って還ってくるのかもしれない。けれど、これだけは思う。これからも運命は見えない、と。
コミケで出展しようとしたのですが、私が原稿を落とした為に表に出なかった作品です。それを少し手直ししてみました。よろしかったら、読んでいただけると幸いです。
きっかけ それは些細な出来事
物語 それは誰かの生命
望み それはあなた自身の欲望の根源
始まり それは終わりと同時に起こること
道端で何かがうずくまって寝ていた。
「どうしてそんなに寂しそうに寝ているんだ」
それは、頭から耳が生えていて、ほっそりと伸びた一本の尻尾を携えていた。
「なあ、お前そんなところにいて寒くないか?」
その言葉に答えるように「にゃぅ」それはか細い声でないた。
「ちょっと、いいか?」
彼女は、承諾をとる前に抱き上げる。
その動作を不思議に思っているのは、持ち上げられた動物だけだった。
「何も食べてないのか……確かに、この弱った身体じゃ動けないだろうし、声も弱弱しいわけだな」
その言葉に反応して、手が彼女の体を抑える。まるで、小さい子供が母親に抱きつくような姿が、彼女の脳裏に焼きついた。
「よしよし、今何か食べさせてやるからな」
一匹の動物を抱える彼女もまた動物。二頂点ある帽子に黄金色の九尾、それが彼女の象徴であり、強さの実証であった。
その九尾をふわふわと揺らしながら、彼女と抱かれている小さな動物は、その細い田舎道を急ぎ足で通っていった。
†
「紫様、只今戻りました」
玄関の引き戸を開けると、やっと仕事を終えたという気分になるが、今の彼女にはそんな余裕をかましている暇は一切なかった。彼女の腕に抱えられているのは、弱った子猫だったのだから尚更だ。今この状態でも瀕死状態であるのに、暢気に物事を運んでなどいられないのだ。勿論それは、彼女が一番解っている。
「今、御飯をあげるから待っていておくれ」
そそくさと玄関を上がると、彼女に呟きながら奥の台所へと足を進ませた。それは歩く、というよりも『走る』という動作に近かったが、今の彼女にそんな思考をしている時間のほうが無駄であったのだ。何時もなら考えてから最善の処置を施し動くのだが、相手は命だ。理屈より直感の方が今は大切だと、彼女は考えた。
家の突き当たりの奥の部屋に台所はあった。彼女はいつも此処で調理を行なっている。しかし、今はそんなことをする為に訪れたわけではない。
「子猫には……母乳と……暖かい寝床が必要だな。しかし、残念ながら私はお乳が出ないんだ。悪いが、ホットミルクで我慢してくれ」
抱いている子猫にそう説いて、迅速に冷蔵庫にしまってあった牛乳を取り出し、鍋にとぷとぷと注ぎ、コンロに火を付ける。牛乳が温まるまで子猫を大事に抱く彼女。途中、牛乳の膜を取る為に、菜箸でかき混ぜる。そうこうやっているうちに、湯気が立ってくる。彼女は、あまり暖めすぎると火傷してしまわないかもしれないと考え、少し温い程度で火を止めた。それを今度は哺乳瓶に、何故か棚の中に置いてあるものを取り出し、ゆっくりと瓶を満たしていく。適量入れると、腕の中に抱かれている小さな動物の無一文の口に近づけていく。そうすると、自然に噛み付いてきた。途端に喉がこくこくと揺れていた。
「良かった。飲んでいるようだな。もしかしたら弱り果てて飲めないかもしれない、なんてことを考えていたが、安心したなぁ」
そんな不安を他所に、腕の中で気持ち良さそうな子猫は、小さな口いっぱいに頬張り、勢い良く吸っていく。それほど、その子はお腹がすいていたということだろう。
「それにしても、この子はどうしようか。紫様は此処に置いてもいいというだろうか」
「勿論いいわよ」
何処となく聴こえる声に、彼女は一切の驚きを持っていなかった。寧ろ、それが当然と云うようだ。彼女は、空中の空間から這い出るように出てくるのだった。その皹から見えるのは、幾重にも存在する眼。まるで、全てに監視させられているような錯覚さえ抱くことになるだろう。そんなところから出てきたのだ。
「そのかわり、藍、貴女がしっかりと面倒を見るのよ。私には多分無理だから」
簡単に言ってみせる彼女は、八雲紫。この家の当主であって、藍を式神として使う妖怪だ。藍自身も妖獣の中ではトップクラスの能力を所持する『九尾』の狐だ。それを従えるほどなのだから、さぞかし力は強大で知能は公明なのだろう。しかし、その能力を、強さを思わせないのんびりで変わり者な彼女は、古き幻想郷を知っているほどの妖怪なのだ。故に、最強と謳われる妖怪でもある。どちらにしても、強いことには代わりはない。
「無論、初めからそのつもりでしたよ。一つ云えるのは、紫様にお願いしたら、この子がどうなってしまうかさっぱりですからね。故に私が育てて、立派な『子』にします」
鋭く突く言葉だが、紫もそのことは承知だ。いつも何処にいるか分からない主人であり、顔を覗けば布団に包まっているのだから。藍もそんな人には願いこうむるだろう。両者一言に納得だ。だが、藍が何日も家を空けるときはやむを得ずということになる。そこは、両者の妥協が成立して、一時的な条件の基に成り立つことだろう。
「ま、貴女が一番分かっているだろうし、そこはいいのよ。にしても、貴女がペットを飼うなんてどういう風の吹き回しかしら」
不思議そうなに首を傾げる紫の姿はとてもチャーミングでそれが男性ならば、一層惹かれるだろう彼女の行動も、藍にとってはただの茶目っ気にしか見えていない。勿論そんなことは気にも留めない。実態を知っている彼女にとって、紫の行動すら危ないように思えて仕方がないのだ。
「いやぁ、どうしても目に付いて離れなくて。何処か惹かれるものがあったというか、守ってやりたくなったというか。自分でも上手く言い表せないんですよね」
紫は、ふむ、と一つ頷いただけで、他に何も尋ねてくる様子はなかった。それでも、生命の価値観とやらは彼女にとって頭の片隅に存在する。藍が一つの命を助け、守っていくというのならば、それは彼女が首をつっこむことは一切出来ない。紫は妖怪で、人間などを食べる種族であるにも関わらず、そこは知識として、経験として蓄えているのだ。しかし、それは自分が生命をつなげる為に行なう行為で、大抵の人間は妖怪よりも弱い位置にいるため、それは弱肉強食の法則が成り立ち、捕食自体が成立する。しかし、今回は藍の意思と保護するという目的が強く作動している。それだけの目的と決意を持っていれば、十分だと紫は理解したのだ。
「ま、そこはいいわ。貴女が選んだことだから、私は水を注さないけれど、ちゃんと命の大切さを噛み締めなさい」
初めから解っている、と云いたそうな藍であったが、その言葉に逆らうことなく頷くだけだった。確かに紫の云う通りで、間違ったことは一つもない。
「解りました。とりあえず、私はこの子の寝る場所を作ってあげますから、その間の面倒をお願いします。体温も然程持っていないようなので、常に抱いていてくださいね」
はい、と紫に言葉を投げかけて、腕の中で温もりを守っている小さな動物を渡し、そそくさと何処か他の部屋に消えてしまった。その間、紫が面倒見ることになったがあまり気乗りはしなかった。しかし、ああ云っておいて、この仕事を放り投げてどこかに消えてしまうのも、自分を侮辱すると思い、結局紫はその仕事をやることにした。
「あーあ、折角の私の寝る時間が……この子はこんなに気持ち良さそうに寝ているのに、私が寝られないなんて理不尽ね。ま、これが終わったらずっと寝ていればいいことだし。藍に仕事を任せていれば、私の仕事はまったくないわ。このことも理由になるし」
一人怪しい微笑みを浮かべる紫だが、よくよく考えると、藍はなんだかんだと愚痴りながら仕事をしている。式神だから仕方が無い、なんて安易な理由付けで終わってしまうなら、藍もさぞかし荒れている事だろう。だが、実際はどうだろうか、そんなことは一度もないのだ。
しかし、その思考を遮るように耳に入るのは、この動物を紫に渡した藍だった。なにやら、段ボール箱やら毛布やら、よりとりどりの物を持ち込んできた。
紫の思考は違う意味で動き出したのだ。先程の考えを覆す思考がめぐりまわる。
「紫様、ダンボールの中に毛布を敷きますから、その中に優しく置いてあげてください。後、直接では熱すぎるのでホッカイロというものも用意してみました。これで、然程寒くない生活が送れますね。良かった、紫様がへんてこなものを家に持ち込んでおいて」
少し酷いことを口ずさみながらも、着々と用意を進めていく藍。
けれど、今の私には、そこにどうこういう気持ちにはなれなかった。文句を言いながら使うのはやめて欲しい程度には思うけれど、儚い命の為だ、私は心が広くて優しい妖怪。今はそんなことを気に留めないようにしようかしら。
「もう少しありがたく使いなさいな。ん、これでいいのかしら? 」
セットされた毛布の上にゆっくりと降ろしたその動物は、毛布に抱きつくように丸まると、それは小さい肉塊にさえ見えてしまいそうだが、毛深いからその視察はそぎ落とされる。
「えぇ、それで大丈夫です。これで一段落かな。ちゃんと御飯もあげたし、寝るところもしっかり作ってあげたのだから、しっかり生きろ。ずっと此処にいてもいいからな」
優しく訴える口調は、誰に聞こえるのか。私はこの子にだけ届いて欲しい。私とお前は同種で、お前の辛さも解る。私を頼ってもいいから懸命に生きてくれ。お前の為なら何でもしてあげられる気がする。何か、私に与えてくれるような気がするから――
†
満月が綺麗な八月の十五の月。八雲の妖怪と一匹の猫は、縁側で団子とすすきを飾って月見を楽しんでいた。元々、満月には妖力があると云われている。だから、狼男が存在するのだろうし、妖怪もそれなりに能力が上がるときなのだ。しかし、紫や藍ほどの妖怪になると、暢気に月見なんてことを平然と出来るようになるだろう。
「今年は珍しく曇ってませんね。去年も一昨年も雲に隠れて見えなかったんですが」
今年は久々に十五夜に月を拝むことが出来た。月は気分屋なせいか、その日に顔を出してはくれない。何にせよ、今年は何分縁起も担げそうな予感を醸し出している。
「そうねぇ、たまに見られるから風流ってものもあるんじゃないかしら。ま、私が境界弄れば満月なんてしっかりと見ることが出来るけどね。それでも、本当に趣深い人なら、常に月の調子をうかがっていたりするから、そこは私たちと違うわ。どの月を見ても、それ相応の美しさが解っているからこそ楽しめるもの。こんな特別な日だけの拝見なんてあまりよろしくないんだけど」
隣で紫の世間話を聞きながら、膝の上にちょこんと丸まっている子猫を撫でる。毛並みは橙で、綺麗な艶を醸し出している。若干金かかったところもあるが、大まかに見ればその色なのだ。しかし、金の毛が混じる猫というのも聞いたことがない。
「まあ、私たちはそこまで暇ではないですし、いや、紫様は何時も暇そうに見えますが。まあ、一時の休みも大切でしょうからゆっくりするのもいいでしょう」
藍の言葉に若干不信感を持っているようだった紫だが、藍の意見に同調するように首を少しだけ振る。それに伴って髪の毛もゆっくりと揺れていく。
しかし、そのゆっくりとした空間に突然興奮した声があがった。
「そういえば、この子の名前、まだ付けてあげていませんでした」
藍であった。確かに、この子猫には名前を付けていなかったのだ。既に十数年が経つというのに名前をつけていないことに気がつかなかった藍も藍である。しかし、なぜ突然そんなことを思いついたのかは、良く解らない。ただの思いつきなのだろうか。
「そうねぇ。私はいつになったら貴女が名前をあげるのか不思議に思っていたわ。やっとこの子にも名前が付くのね。それはおめでたいこと」
紫も同様に祝福の言葉を送る。しかし、名前が付くということは、本当に自分の配下に置くと云うこと、いわば完璧な所有物となると同様の意味だ。もし、藍がそのことに躊躇っていて名づけなかったとすれば、今回の出来事は藍の決意となるだろう。
「ま、まぁ、最初は世話をしてあげるので手がいっぱいだったんですが、最近は落ち着いているようで……といっても、拾ってから結構経つんですけどね。ほら、毛並みなんてとっても綺麗ですし……あ、この子の名前、だいだいとかいて『橙(ちぇん)』なんてどうでしょう。ほら、こんなに橙色が綺麗で、この子にぴったりだと思うんです」
何時もの冷静さとはうってかわって、顔を真っ赤にさせ、九尾で黄金の尻尾は、ぱたぱたと犬のように左右に振れている。まるでメトロノームのようだ。しかも、手には握りこぶしを作り、ぶんぶんと少しばかり振り回している。余程気合が篭っているようだ。
「藍、少し落ち着きなさい。まぁ解らなくもないけど、だからって顔まで真っ赤にすることないじゃない。貴女、やっぱりおかしいわね。熱で頭がやられてしまったかしら」
茶化すような台詞ではあるが、確かにその通りだ。動揺というよりも興奮して理性を失ってしまったのか。紫の熱にやられてしまった、というのもある意味正解な言葉だ。
「す、すみません……つい、夢中になってしまって。でも、橙っていい名前だと思うんです。ちぇんっていうのも小さくて可愛いこの子にぴったりかなって」
紫はため息を漏らす。なんでこんなにも楽しそうに話しているのだろうか。目が潤い、月光に照らされるその素顔。映え栄えとしている黄金で飾られた髪の毛。そして、力の象徴な尻尾。けれども、今の彼女に力は要らない。子猫『橙』を撫でる手つきはまるで、自分の子供を優しく擦るようで、眠っている幼児に付き添う母親。そう、まるで母親なのだ。
「そうね。藍も良い名前思いつくわね。それにしても、いつからそんなに母性本能溢れるようになったのかしら。昔は気張って、すごかったのにね。私の下に来る前に一戦交えたけど、あの時は本当に強かったのにね。今じゃその神々しさが一つもないわねぇ、藍」
ニヤニヤしながら云う紫だが、今までの藍はとても強暴だったのだ。
一戦交えたときは本当に強かったと思う。私がまだ隙間を使えなかったときの話、私の結界は完成形態だった。そんじょそこらの妖怪ではとても太刀打ち出来ないようなものまで作り出し、幻想郷の一遍を司っていた。というのも、博麗大結界の補助的なことをやっていただけの話。けれども、その時期には最強と謳われるほどの力を携えていた。それでも、知る限り風見幽香は私と同等の力を所持していたと云われている。そんな矢先、私は九尾の狐の情報を知った。そして足を伸ばし、彼女と戦った。今のように穏やかでない彼女には、私でさえ手を煩わせる戦いをせざるを得なかった。一つ間違えば即ち、死、の世界だ。そんな藍も今では丸くなったなぁ、と思ってしまう。
「紫様がこんなにも体たらくな生活をしているから、私にもそれがうつったんですよ。それでも、今の生活が気に入らないってわけじゃないんですけどね。どっちかっていうと、今の生活の方がのんびりしていて良いっていうのもありますよ」
確かに、今までの世界、いわば弱肉強食で生きる世界もまたそれなりの楽しみはあったと思うが、それ故に今のような平和な世界を忘れていた。己の強さに溺れ、全てを壊すことしか考えていなかった。仲間は自分に従い、逆らうものは出てこない。人間であろうと、妖怪であろうと、自分の前に立つものは全て排除してきた。けれど、唯一人、倒すことの出来なかった妖怪がいた。唯の少女、そう、唯の少女だ。幼気な少女だからといって、私だって容赦はなかった、本気で殺すつもりだった。けれど、それは力ではなく、技術で抑え込まれたのだ。このとき私は、力だけでは此処に立つことが出来ないことを知った瞬間だった。それ以来、私はその経緯で此処にやってきたわけだが……
「ま、貴女も丸くなってはじめての子供が出来て良かったわね。しっかりと手塩にかけて育てなさいな。きっと良い子になるわよ。藍も素直になったから」
「最後のは余分ですよ、紫様。ま、当たり前にこの子はしっかりと私が守ります。こんなに可愛い子を傷付けるわけにはいきませんよ。紫様でも苛めたら容赦ありませんよ? 」
冗談を云うわけもなく、眼は本気のようだ。久々に鋭い眼光を伺った紫は、以前の強さは健在である、そう認知させられた。しかし、その光も一瞬にして消えていつもの穏やかさを携えた。悪戯では済まない、そう主人に宣告したのだろう。
「解ってもらえればいいんです。そうそう、紫様はどうやって猫が妖怪になるか知っていますか? 」
愚問、とばかりに紫は頷く。幻想卿でも長寿といわれている妖怪にその質問はタブーだったのだろう。しかし、いくら長寿といっても知識ない者も存在する。そういう輩を愚者と云うのだろうか。ただ生きているだけならば、そんなものは存在価値もない。
「勿論知っているわ。月の光を何年も浴び続けることによって妖怪へと変わる。他にも色々と方法はあるみたいだけれど、オーソドックスな方法しか私は知らないわ。妖怪が妖怪マニアになっても仕方がないからね」
きっぱりと言い切る紫だが、その通りだ。確かにどんなものが存在するかを調べることは悪くないが、それこそ数多の数がいる。しかしそれを知ったところでどうにもならない。だから必要のない情報や知識はわざわざ採取する必要はない。
「妖怪マニアなんてなりたくもありません。確かに猫が妖怪になるのはその過程なんですよね。今こうやって月光に当たっていたら、何れこの子が妖怪になってしまうのでしょうか。今のこの子はとっても可愛い。それ故に怖いんです。どうなってしまうか」
橙の猫背に被られている毛をゆっくりと撫でる藍の表情に明るさがなかった。ただ、月明かりに照らされる彼女と橙の面持ちがただ映るだけだった。
空に浮かぶ雲が月を隠し、辺りが闇一色で支配する。月を写していた水面も物寂しそうに佇むだけで、つまらなそうだ。
いつも傍らに存在するものが、どこかに消えてしまったら何を思う。貴女は一体何を考える? もし、その寂しさを知ってしまったら、すぐそこに存在することが本当に大切で、奪われたくないものだと解ると思う。でも、貴方はそれを知らない。未だに知らない。貴方は一度もなくしたことがないから。
「ほら、変な顔しない。藍、お夕飯作って頂戴。お腹空いてしまったわ。そうねぇ、今日は中華料理なんていいかもしれないわ。材料もちゃんと有るだろうし。中華料理が食べたいわねえ。中華料理じゃないと食べないかもしれないわねぇ」
再び月が顔を出す。途端に光の眩しさに眼がくらむ。橙も眩しいのか、私の足へと顔を埋める。やっぱり、この子がどこかに行ってしまうなんて事は考えられない。いや、考えたくもない。ずっと、私の膝の上でこうやって居て欲しい。いつでも背中を撫でて上げられるように。しかし、紫様は御飯を食べたいようだ。残念ながら、橙の特等席を取ってしまう他ない。橙には悪いが、少しの間我慢してくれ。
「みー……」
「あら、この子が鳴くところを初めてみたわ」
紫は感嘆符を頭に乗せている。藍が紫と組になっているときには一緒に居るのだが、付いて歩いているか、藍の膝の上で丸くなっているかしか見たことがなかったからだ。勿論、藍だって橙が鳴くところを初めて見る。どうにも、橙には解るらしい。
「ふふ、そうですね。私も初めて見ましたよ。さ、御飯の支度でもしましょうか。深夜の食事なんて中々に風流です。橙にも美味しい御飯をやるから、待っているんだぞ? 」
背中を一度撫でると、橙は藍の膝から素直に下りて、とたとたと部屋の奥へと消えてしまった。聴こえないはずの足音が耳元で聴こえる気がした。
「藍、お願いね。私は少し出かけてくるから。出来る頃にはちゃんと帰ってくるわ」
紫もそこを立ち、踵を返して玄関口の方へと消えてしまった。唯一人残された藍には、当たり所のない消失感だけが自分を取り巻く空間に残った。
「さて、私も支度をなくては。遅くなると紫様が怒るから」
ぎしぎしとなる廊下をゆっくりと歩き、台所へと足を向けた。
†
実り多く、様々な植物達が実を熟す。草の一部は枯れ草となり、一部の花、秋桜などは綺麗な大輪をきらめかす。
しかし、その時期も早々と過ぎ去り、地面には霜柱が並び立つ。草花の命は土へと還り、あるものは土の中で春の訪れを気長に待つ。動物達もねぐらに食料を蓄え、冬眠を迎える。
妖怪達にとっても人間達にとっても、それは唯、四季の移り変わりに過ぎない。それでも、時間の経過を見せるには十分な物だが、彼女達にとって、その時間の経過が何を意味するのかはあまりに分からない。時間さえ気にせずに生きる彼女達にとって、それほど無意味に近いものはない。比べるならば、人間と妖怪ではその時間軸さえ異なり、その意識の持ちようも違う。人間は必死になり、妖怪はそれ相応に愉しむ。その時点で違う。
既に前回の月見から幾分の月日が流れただろうか。月を眺めるは趣深く、その美しさに自分さえも奪われ、狂気をもって狂いだす。それが人間であろうと、妖怪であろうと、だ。
妖怪もそのときには能力の向上が見られるが、藍、紫に限ってはそんなことはない。ただ、問題だったのはその子猫だった。その子猫は藍の膝腕で気持ちよさそうにいつも寝ている。それが一種の楽しみであり、プライベートである。藍にとっても、可愛い自分の子供が膝上で寝ているのだから、可愛くてしょうがない。
だが、その時、藍が子猫を拾ってきてから十数年が経っていた。それでも、その子猫は子猫のまま。一向に大きくならなかった。しかし、紫も藍もそれを不思議に思ってはいなかった。わが子の可愛さには親は盲目同然だ。ただ、紫が本当に気づいていないのだろうか。そこに疑問点が残る。
「ほら、橙、今日は天気がいいからお外へ日向ぼっこにでも行っておいで。これだけ晴れていれば、さぞかし気持ちがいいだろう。あ、紫様はお仕事しっかりしてくださいね」
この陽気を理由にしてそそくさと逃げようとする紫様を私は制する。勿論、私だって然程余裕があるわけではないからだ。なんでもかんでも私に押し付けて紫様はどこかに行かれてしまう。本当に困った主人だ。私がやる必要もないことまで押し付けられる。
「あら~、こんな天気だもの、やっぱり家でお昼寝でもしていようと思ったんだけど。それじゃあ駄目かしら。私、とっても眠くなっちゃったわぁ」
大きなあくびをする紫様。あくびは人に移るといわれているが、私に限ってはそんなことにない。そこまで紫様が感染してしまったら私まで仕事をやらなくなってしまう。それは私にとっても、紫様にとっても嬉しくない事態だ。単に、こんなにのんびりと過ごしたくない、そんな理由があるだけだが、それがあれば十分だと私は思う。
「紫様、貴女はあの子とは違うでしょう。紫様は幻想郷の重大な一角をになっているんですよ? それがどうしてぐーたらしていられましょうか。勿論いられるはずがないのです。よって、仕事をしっかりしてください。やらないと御飯作りませんからね」
言葉責めで責める藍ではあるが、本当にそうしてもらわなければ困るのだ。藍一人で仕事がこなせるならば、藍自身此処まで大げさに言わないだろう。紫の活躍が必要であるからこうやって無理矢理でもやらせようとしているわけだ。
「解ったわよ。やればいーんでしょ、やれば」
面倒くさそうにぼやく紫だったが、急に会話が百八十度回転する。しかし、さっきと面持ちが多少違うように見えたが、それも些か解らない。
「そうだ、藍。今日は満月よね。お酒とお団子を用意して頂戴。月見をやるわよ」
紫がそう云うと、藍はカレンダーを確認する。確かに今日は満月だ。しかしこの時期に月見とは少しおかしい。紫が何を考えているのか、藍にはさっぱり理解できなかった。
「はぁ、お月見……ですか。紫様がやりたいというのならば、用意しておきますが……」
藍は理解できないようであるが、紫以外の誰もがそんなことは解らない。ただの気まぐれで月見を行なっているのかもしれない、藍にはその考えが出てきたらしく、それ以上考えないようにした。きっと、今回も紫様の我侭なのだろう、と。
「それじゃあ、ちょっと幻想郷の結界の様子を調べてくるから、よろしくね。後、御飯もしっかり作っておくように。解ったかしら」
私は首を前に倒して適当な相槌を打つ。ちゃんと仕事をしてくれるみたいなので、とりあえず良かった。たまには少し豪華なものでも作ってみようかな、なんて思ったりする。何せ紫様がまともに働くことがあまりないからだ。こんなにおめでたいことがあるときには、美味しいものを振舞っても罰はないと思う。
「とりあえず、橙もいないし、暇だから材料の買出しにでも行って来るか。偶には里の方に出歩いて自分の目で材料を見極めるのも悪くないだろう」
誰もいなくなった八雲家に、一人置いてけぼりを食らった藍も、夕食の買出しへと赴く為に支度を始める。もとい金銭の用意や食品を入れるための袋を手元に置くだけの話だ。
「橙も、そのうち帰ってくるだろうし、家に鍵は不用か。元々、この家に鍵をなど必要ないなぁ」
手の内にある鍵を手中で遊びながら、誰に言い聞かせるわけもなく呟いた。何気に紫が聞いている可能性もない訳ではないが、この程度の話を聴取されたところで、何が起こるわけでもない。彼女達にとってどうでもいいことだから。
「さて、私も出掛けるとするか」
藍は、引き戸から出ることもなく、何処ともなく消えてしまった。この家にとって、玄関など飾りに過ぎない。紫も藍も、妖術やらを得意とする者であるから、いちいちその場所から出るとうい面倒なことはしないのだ。
人間の里は、毎回ながら活気に溢れている。それでも此処は、妖怪やら妖精やら、幽霊さえも彷徨い漂う。妖怪や妖精は単に人間に悪戯を行なったり、売り物を盗んだりといった行動が多いが、九尾の狐ともなると見識を持ち合わせている。『盗む』という行為自体に恥辱を感じるようになるのだ。
「旦那さん、このお揚げを一つくださいな」
買い物に来ると何時ものように寄る豆腐屋で、既に名前を覚えられるほどである。無論、狐が油揚げを好きなのは伝説などではないようだ。
「藍ちゃん、いらっしゃい。今日はおまけでもう一つ付けるよ。いつも買ってもらっているからね。ついでに豆腐もどうだい? 」
嬉しそうに云う豆腐屋の旦那さんは、いつになく気分が良さそうだ。何かいいことでもあったかと思うと、旦那さんの上機嫌も伺える。
「いつもすみません。お豆腐も一つお願いします。お酒の肴に冷奴も良いでしょうし」
油揚げを新聞紙に包み、手元にある金属製の鍋の中に水を浸し、豆腐を入れていく、この時にも、形が崩れないように慎重に扱うが、専門家にもなるとそれを軽くこなす。しかし、それを藍が行なおうとしても、角の一部が崩れてしまったり、ぐちゃぐちゃになってしまう可能性の方が大きい。やはり、これがプロというものだろう。
「待たせたね。そういえば、これからお買い物かい? それなら、こっちで豆腐と油揚げ預かっておくから、お買い物いってきちゃいな。帰りに取りに寄ればいいからね」
包みを渡されかけて、空のバッグに眼がいったらしい。確かにこれで豆腐の入った鍋を渡されれば、買い物が出来なくなる。油揚げの方は新聞紙によって、他のものが油っぽくなることはないだろうが、一緒に預かってくれるらしい。
「すみません旦那さん。いつもありがとうございます」
藍は豆腐屋の主人に向かって深深とお辞儀をする。やはり、礼儀というものを弁えているのだ。どこぞの妖怪のように感謝なく悪戯をするようなことはしない。
「すみません。では、いってきます」
いってらっしゃい、と背中にその声を聞きながら、藍は豆腐屋を後にした。
†
藍は夕刻過ぎに家に帰宅した。この家は、マヨイガというところにあるらしい。一度迷ったら出ることが出来ない、とまで言われているほどだ。しかし、そこに住んでいるのが八雲一家だ。というのも、紫自身が境界を弄れるということが此処を選んだ所以だろう。
その空間に佇む家の玄関を前に、その引き戸を開けて中へと入っていく。帰りの際は玄関から入るのが一応の仕来りとなっている。だが、紫などにとって、それがあることが本当に意味を成すのか、ということが一番の問題だろう。しかし、不可思議な紫であっても、大きな事柄がない限り正面玄関から入ってくるという。
「ただいま戻りました。紫様、お戻りでいらっしゃいますか? 」
いつも通りのやりとりだが、これを行なわないと、紫が帰っているか解らないのだ。居れば隙間を使ってでも返事をしてくれる。そのやり取りが今日の生活習慣として成り立っている。それが紫、藍を相互的な関係を築いている証拠でもある。この時にもその声があった。
「戻っているわ。それよりも、今夜のお夕飯は何を作るつもりなの? 毎日の楽しみは、お昼と夕飯なんだから。藍の料理なんてもっと好きだわ」
靴を脱ぎながら、陽気な言葉を聴取して気分が安らぐ。その空間は一人には大きすぎるから。安堵をもたらす声に乗せられた質問に答えることにした。
「今日はお鍋でもしようと思っています。お揚げを買ってきたので、巾着でもしようかと。最近随分寒くなってきたので、偶には体の温まる食事も良いかな、と」
やはり冬の鍋は格別美味しい。更に大人数で囲むと賑わい、それが美味しいさの隠し味となる。博麗神社の宴会は、古今の東西から人妖様々な者たちが召集し、日々を語り合ったり、世間話やら自伝を自慢し合う場となっている。その催しによって幻想郷のバランスが取られていることは言うまでもない。
「いいわね。心も身体もぽっかぽか。それと、月見の酒の肴はあるのかしら? 」
藍は台所に向かう足を止めて、誰もいない屋内に一言漏らす。
「冷奴でもどうでしょうか。季節はずれですが、偶にはよろしいかと」
「あえて季節に逆らったもの用意するとは、なかなかに趣深いわね。月と冷たいお豆腐……藍、掛けたわね。中々良い心遣いだわ。さすが私の式神といったところね」
上機嫌な声が何処からともなく屋内に響き渡る。藍も紫の反応に満足な様子で台所で夕食の用意を始めることにする。その前に、しまう食材と使う食材を分けて冷蔵庫へと閉まっていく。その作業を終えるとようやく料理を始めるようとする。それを見かねたように、紫は隙間を利用して台所を観察しているようだ。
「いちいち見ていなくても大丈夫ですから。紫様のようにつまみぐいなどしません」
せかせかと動く藍にとって、紫がこの場に居ることが少しばかり邪魔だった。何故か食事の用意を始めるとこのように見物に来る。しかも、作った料理の一片が欠けていたりするから困りものだ。
「いやねぇ、藍が気になっただけよ。私はつまみ食いする気なんて毛頭無いわ」
よくよく考えてみれば、鍋でつまみ食いをする物など殆ど無い。そのことを考えれば、紫がつまみ食いをするつもりは無い、という主張も筋が通るのだ。
「とりあえず、居間の方でくつろいでいるわ」
紫は隙間から覗いていた頭をその中に戻すと同時に、今まであった不気味な割目が姿を消し、今までの風景へと還っていった。今頃炬燵の中で猫のように丸まっているのだろう。
「さて、紫様も退散したようだし、ちゃちゃっと用意を済ませて御飯にするか」
藍は買ってきた野菜や豆腐を手際よく切り分けて、皿へと盛っていく。その途中で彼女の腕が止まった。何かを思い出したような、閃きにも似た顔がそこにはあった。
「鍋は…………偶には味噌でもいいかもしれないな」
用意を忘れていたが、この程度のことは藍にかかれば朝飯前の話で、思い付きが遅かろうと、美味しいお鍋は作れるのだ。そう、藍の手は材料さえあれば何でも作れる。因みに、十八番は和食とか。
「ふふ、家は醤油が多いから、さぞかし驚かれることだろうな。その顔が愉しみ」
そんな言葉を漏らしながら、藍は鍋の用意を進めていくのだった。
ぐつぐつと野菜や豆腐が鍋の中で踊っている。つゆはぼこぼこと沸騰し、美味しそうな匂いは天井へと昇りやがて消えていく。そんな中、藍と紫は冬の寒さに耐えんとばかりに鍋を囲み、食べていた。二人の箸は進むも、不意に片方が止まる。
野菜の入ったお皿を置き、何かを考えているようにも見えたが、すぐに箸を取り直して食事を再開した。しかし、その動作が向かいに座っている紫にとって、とてつもなく不自然で、瞳の奥に渦巻く黒々としたものを見逃さずにはいられなかった。
「藍、どうかしたのかしら。さっきからおかしいわね。何かあったの? 私の見る限りでは然程変なことは無いと思うのだけど」
そのことを知らない紫にとっては、彼女の動作がおかしく映るが、藍にはそれが行動するかしないかの予行だった。勿論、初めはしようと考えたが、それでも食事を終えるまで待ってみようという気になったのだ。衝動で動くほど藍は愚かではない。ましてや紫の式神だ。そんなことは百歩譲ってもないだろう。
「えぇ……夕食の時間には帰ってくるはずの橙が、帰ってこないんです。先程炬燵の中を確認したのですが寝ていませんでしたし、いくらなんでも帰ってくるのが遅いから探しに行こうか迷ったのですが、食事が終えるまで待ってみようかと思いまして」
そのことを喋っているときの藍は、どうしてか震えているように見えた。しかし、紫は気のせいだろうと思い然程気にする様子も無かった。目に見えて解るのは、藍の顔が幾分暗いのだ。これでは食事が止ってしまっても仕方が無い。結局藍は、一度箸を取り直したが、すぐに卓袱台の上へと丁寧に置いてしまった。逆の紫は、良い香りを漂わせている鍋の中身をこれでもか、というほど皿に盛り、箸を進めている。
「橙が帰ってこない……確かに帰ってきて無いようね。私も出かける前に姿を見ただけだし、帰ってきてから一度も見ていないわ。橙は外に出ても絶対戻ってくるのにね。今日に限ってどうしたのかしら」
そうはいうものの、紫は然程気にした様子も無いようだった。しかし、それを見られるほど気が回っていなかったのも確かだ。藍にとって、この事態は異常事態で取り乱してはいけないと、理性を保つのが精一杯だったのだ。もし、鴉にでも襲われたら、もし何処の馬の骨とも知らない人間に捕まえられてしまったら、そう考えるといてもたってもいられなくなった。だが、ふと頭をよぎるのは最悪の事態。
「ねぇ、紫様……猫って死ぬとき、主人の前で死なないんですよね、確か。何処か、誰にも見られないように、ひっそりと絶つんですよね」
えぇ、と紫は静かに答える。それでも猶、紫は落ち着いていた。だが、藍は動揺を隠せない。もし、それが本当ならば、それは即ち戻ってこなくなるということだ。藍にとって、それだけは避けたかったのだ。それよりも、『死』という言葉自体が藍の頭の中に無かった。それが余計に藍を焦らせる結果となったに違いない。
「紫様! 私、橙を探してきますから片づけをお願いします! きっと、まだ大丈夫です。手遅れにならないはずです。絶対に」
藍は乱雑に立ち上がると、畳を蹴って駆け出した。それが藍の焦燥を表しているのだろう。取り乱したことの無い藍が、あそこまで焦る様子を私は一度も見たことが無かった。私と一戦を交えた時でさえ、冷静沈着な行動と頭の回転の良さにみどろもどろさせられた。その時でさえ、こんなことは無かったはずの藍がこの有様だ。結局のところ、私は真相を知っている。けれど、藍に水を注すようなことを私はしたくなかった。ただ、
「待っていろよ、橙。絶対に助けるからな」
そんな声が聞こえたような気がしただけだった。
満月の中を疾走するのは黄金に輝く九尾を携えた狐だった。その姿を捉えられる人間も居なければ、妖怪も居ないだろう。それは黒い影となり、消えては現れるだけだった。
ふいにその影が止まる。そこは人間の里に近い場所で、所々に街灯が伺える。八雲家から一番近い場所で、出るところはこの辺りなのだ。ならばあまり遠くへはいっていないはずだ、というのが藍の推測だったが、それほど簡単に見つかるとも思っていなかった。何しろ匂いすら感じ取れない。もしかするとこの場所には居ないのかもしれない、その思考があっても、今出来ることをやらずに何をすればいいというのか。ただ止っていることの出来ない藍は、それだけでも気を紛らわす手段となった。
「すみません、この辺りで橙色の毛並みの猫を見ませんでしたか? 」
日の沈みを境に人間達はそれぞれに家に帰っていくが、珍妙な人間が目の前を歩いているのを発見した藍は、とりあえず聞いてみることにしたのだ。しかし、突然出てきた九尾の狐に驚かない人間はいないだろう。動揺を隠せない様子であったが、ことから少しすると、まともな妖怪であることに気づいたようだ。
「す、すまんね、驚いたよ。急に出てくるものだから。猫……いや、見ていないが」
記憶を探るように考えていた人間は、思い当たる節が無い、とそんな仕草をしながらそう云った。藍も、そうですか、ありがとうございます。と告げて深々とお辞儀をし、踵を返した。
満月が照らす人間の里は、人工的な火を用いずにも確認することが出来たが、そこには藍が探している動物は見つからなかった。だが、藍が見つけようとしているのは、子猫なのだから見落としがあるかもしれない。しかし、飼い主の藍がその匂いを見落とすはずが無い。家からの道を戻ってもそれは同じことだろう。
「何処にいってしまったんだ、橙。もっと遠くに行ってしまったのか? 最期の挨拶もなしで去るのか……そういう習性を持っているとしても、最後の一言ぐらい私に言ってくれよ。だが、まだ諦めるのも早いよな……まだ探していない場所はたくさんあるじゃないか。私らしくもない。これでも紫様の式神だ。出来ないことは、ない」
垂れ下がった尻尾が勢いよく跳ねる。それが彼女のやる気なのだ。見えない真実なんてそれは真実ではない。ならば、その事実を追いかけるのが今の藍なのだ。
行動を実行に移し、すぐにそこから動いた。それでも彼女が思うことはやはり、遠くへ行っていないはずだということ。小さな猫がそこまで遠くへといけるはずがない。次に向かう場所は冥界の方面。次に近いのは此処だ。もしかしたら、階段にいるかもしれない。あそこの階段はなんとも長いのだ。それを登るのには相当な時間がかかるだろうし、途中で登る気すら失せる。だが、藍にとってはそんなものはどうってことなかった。一瞬のうちに抜けてしまえる長さしかない。
冥界の階段には誰一人と存在しない。だが、時たま霊が漂っている。冥界なのだからそれも当たり前であるが、こんなところに猫は来ないか、と思いつつも眺めながら最上階を目指していく。
私はこの際であるから、紫様のご友人である西行寺幽々子様にご挨拶して聞いてみるのも良いかと思ったが、その時間すらおしかった。最上階まで確認した後に再び階段を急行していった。その際にも確認を行ったが、橙の姿は無かった。
そうこうやっているうちに、次はどこへ行く、そんなことを考える暇さえ既に無かった。今見つけなければ橙を一生見られない。もし、その亡骸だとしても絶対に家のお墓に葬っていつまでも一緒にいられるようにしたい。ただ、その想いだけが募って、今の藍は、その想いに従って動いているのだ。ただそれ以外の想いなどこの際関係を成さない。紫が叫ぼうが、どんな妖怪が現れようと、全てを消し去り見えない影を追う勇気はある。まるで、空に浮かぶ星に向かって飛んでいくような心地だろう。届かないものに一生懸命追いつこうとして、けれどもそれが無駄であることに気づく。その努力は無に帰り、己は空を掴むだけ。何も得るものは無い、だが、全てを捨てておどおどと戻るつもりさえ、藍には毛頭ないのだ。
「もし、橙が生きているのならば、私はそれでいい。けれど、死と生の境ならば私の命を顧みず橙を助ける。死んでいても、その骸を私が大切に保管する。決して橙との時間を忘れないために。私は橙の親なのだから」
闇が一線の明光によって閉じていく。それは日の出の前兆。永い夜が明ける。満月はうっすらとなるが、決して消えるわけではない。無論月の光は発せられているのだ。
その間も藍は止まることなく探し続けている。その真実にたどり着けないと、今となっては解しながらも。
†
三日三晩休むことなく飛び続けていた藍にもさすがに疲労は隠せない。三日目の夜、月の夜空を駆けて戻ってきたのは、マヨイガにある八雲の家。縁側はいつもの通り開け放たれていて、一本の大吟醸を携えて一杯やっている紫の姿があった。しかし、それは月を見透かすように、ただ姿を捉えているだけにしか窺えない。
疲弊の溜まった藍は、縁側に着くと同時に倒れこみ、そして、嗚咽を漏らし始めるのだった。紫はただ、横で月見酒を飲むだけで一言も喋ろうとはしないのだ。いや、口を開こうとはしていないらしい。
「橙……が、み、みつかり……ま……せん……でし……た……」
自分の疲弊云々よりも、やはり橙のほうが大切なのだ。しかし、懸命な捜索をしても結局橙を見つけることが出来なかった。ただ、その悲しさのほうが強かった。諦めてもそれが諦めることすら許さなかった。心が、身体の疲労を超えてこの時間を動くことができたが、それも此処までが限界のようだ。結局幻想郷を三週ほど回って、最後の頼りの此処に戻ってきた。もしかしたら橙が戻っているかもしれない、そう考えたが、それも現実の壁に崩れ去った。それが、今の藍の目に見える真実なのだ。
だが、紫は何も喋ろうとはしない。ただ、月を見て、酒を流しこんで、傍観しているだけ。そして、藍のすすり泣く声だけが月夜に響き渡った。
しかし、それを打ち消すのは誰とも知らない声、けれどもそれは何処かで聴いた音。
そして、覆いこむような暖かさ。今までにこんなことをされたことは一度も無かった。紫様であっても、私に対しては絶対に行わない。『抱きつく』という行為はとても難しくて、私も一度もしたことが無かったかもしれない。たとえ親にしてもらっていたとしても、それは遠い過去だ。けれども、今は、違うみたい。
「藍様……心配かけてごめんなさい……体が冷えきってますよ? 私を探してくれたんですか? そうだったらごめんなさい。私、この三日間ずっと月の光を浴びていたんです。それが最後の変化条件だったから……でも、今はこうやって帰ってきたんです。だから、これから藍様に恩義を返します。助けてもらったお礼をしなくてはいけません。だから、私思ったんです。こうやってずっとお使いできるようにって。だから、私は猫又になったんです。迷惑をかけてしまってごめんなさい。私、ずっと傍にいますから……いえ、いさせてください。お願いします」
柔らかな体が藍の背中を支配している。けれども、それは優しさに満ちていてとても暖かかった。人のぬくもり、いや、これはずっと前から知っていたものなのだ。
藍が橙を拾った時から、そのぬくもりを知っていた。離れる三日前から知っていた感触。藍はそれがどんなに大切で大事で、儚いかを知ったのだ。それが親、いずれは離れていく子の暖かさを感じ、子もその愛を忘れない。多分、それは今の二人ではないだろうか。
「勿論いいとも。紫様、この子を此処に置いてあげてもいいでしょうか」
月見酒をしていたはずの紫様は、こちらを向いてにこやかに笑っているだけだった。多分、良い、という意味だろう。
「それじゃあ、これから私の元で働いてもらうからな。しっかり頼むぞ? 橙」
「はい! 藍様!」
少しばかりかけた月を包む闇に響くのは、既に鳴き声などではなく、愛らしく、優しさのこもった声だった。
私は、何かの縁で紫様と出会い、そして橙とめぐり合わせになった。それは偶然かつ必然で、運命など予期せない私にとっては波乱万丈だった。きっとこれからも、巡りに巡って還ってくるのかもしれない。けれど、これだけは思う。これからも運命は見えない、と。
ただ最後の落ちが弱かったと言うかとにかく言葉で言い表せませんがもやもやした感じが残ったのでこの点数で。
他の小説というのも楽しみにしてます
八雲家が好きだという気持ちはこちらに伝わってきました。
しかし橙って凶兆の黒猫…ではありませんでしたっけ?^^;
ただ、面白かったんですが最後のほうで少し展開を急ぎすぎた感じがしますね。
橙は黒猫のはずですが、これはこれで。
キャラクターを動かすのに都合のいい設定を好き勝手に付け足してるうえに、展開も強引で稚拙。
文自体も改行等での工夫がなく、字間を詰め過ぎているので非常にテンポが悪いです。
それと話の骨子には関係無いことですが、子猫に牛乳を飲ませると腹を下します。
緊急時なら牛乳でいいんですよ。毒物ではないので、あげないよりましなのです。
しかし、最後のしめがあまりに短い感じがしてしまいますねぇ。
なので、最後の最後でここまで面白かった話があまり味気ないものになってしまい、
あまりにキャラが稚拙な動きで終わるのが非常に残念でならないです。
ただし、それが後半へ行くごとに展開の速さ・舞台の動きが急で且つ曖昧になっているかもしれません。
会話にももう少しぐらい手を入れてもよかったのではないでしょうか?
キャラの動かし方に気をつけて、次をがんばってください
最後がやはり、ありきたりと云うか、つまらなくなってしまったようですね。
次はそこを意識して取り組んでいきたいとおもいます。
3様>橙、黒猫だったんですよね……
5様>ありがとうございます。色々とためになりました。
6様>こういったのほほんもたまには書いてみると気分がおちついてりしていいんですよね。
ありがとうございました。
7、5、 煉獄様>的確な意見をありがとうございまいす。最後はやはり、出展関係で追い追いになってしまったのが大きいのかなと。ページ数とか色々考えてしまって。やはりおろそかにしてはなりませんね。次からは意識していきたいと想います。
様々な意見をありがとうございました。これを参考にして次の作品に望みたいと思います。