「やっぱり高いな」
テーブルの上には一杯のコーヒーと一枚のパンフレット。
"格安月面ツアー"
月から見た地球を背景に、赤く印字されたその文字列。
二十世紀の人類は大量の水素燃料を噴射して命懸けで月に行っていた。
小さな宇宙ステーションを補修するのにも大規模な予算をかけていた。
しかし一般人が誰でも、月に行く事が出来る時代。
それは学者と技術者の努力による素晴らしい成果。
ペイロードも大幅に増えて一回当たりの渡航コストは劇的に下がった。
それでも、パンフレットに書かれている価格は大学生が捻出できる額とは程遠い。
自分以外に誰もいないカフェテラス、理不尽さに憤りを感じながらも、既に冷めてしまったコーヒーを口に含む。
パンフレットをテーブルの隅に追いやり、読みかけの本を手に取った。
『ホーキング宇宙を語る』
21世紀初頭には既に出版され、記録的ベストセラーとなった本である。
その類稀な先見性をもって当時の物理学会を騒がせたホーキングが、一般人向けに書いた入門書。
立ち寄った古本屋で見つけて買っただけあって、多少くたびれてはいるが大事なのは中身だ。
これがまた、非常に面白い。
本当にこれが『宇宙のひも』も見つかってない時代に書かれたものなのだろうか、私は正直なところ信じられない。
当時、彼の学説は賛否両論だったらしいが、それもうなづける。
彼も宇宙旅行をしたらしいが、21世紀初頭に一般人の宇宙旅行は決して誰でも出来るものではなかった。
それだけで、彼がどれだけ当時、時の人だったかがわかる。
コーヒーを飲みながら本を読み進めていると、いつの間にか日は暮れた。
随分と本に熱中していたようだと自嘲し、窓の外に目をやれば、そこには緋に染まる首都の風景。
人類はエネルギー危機を克服した。
少子化問題も、今の日本では過去のもの。
窓の外に石油燃料に依存していた日本はもうない。
様々な人間の努力により実現した素晴らしき世界。
20世紀の人々は原油の枯渇に怯えながら過ごしていたらしいが、この風景を見れば理想的な未来だと思うのだろうか。
本の表紙には車椅子に乗りながら笑顔を浮かべるホーキング。
彼が見た未来宇宙。
誰もがお金さえ出せば月にいける時代。
と、そのときである。
カフェの入り口から一人の女性が入ってきた。
特徴的なロングスカートと帽子。
同じ専攻の宇佐見蓮子だ。
華奢な体格ながら、彼女自身の溢れる知性が感じ取れる目元。
「なにやってるの?」
休日の誰もいないカフェテラスで一人で佇んでいるのが不思議だったのか、最初の台詞はそれだった。
蓮子は隣のテーブルの椅子に腰掛ける。
ロングスカートがひらひら揺れる。
「読書」
素っ気無く答える。
「そう」
蓮子も素っ気無く返した。
ただ、専攻が同じというだけで普段から親交があるわけではない。
カフェテラスに沈黙が流れる。
私は再び本に目を落とし、彼女は頬杖をついて窓の外を眺めていた。
緋に染まる首都。
紅く、燃えるような素晴らしき世界。
私は読みかけの本に栞代わりにテーブルの上にあった紙ナプキンを挟んだ。
「待ち合わせ?」
私は蓮子の方に顔を向けた。
「んっ?」
突然私が沈黙を破ったからか少し驚いた表情になっていた。
彼女の健康そうな白い餅肌に、薄紅の陰影がかかった。
「あの外人の子と待ち合わせ?」
もう一度、今度は言葉を補足して言い直す。
蓮子は一度背伸びをした。
「そうそう」
そういって微笑む。
蓮子が外人の子と一緒にいる所を、何度か見たことがある。
えーと確か、
「マリーさんだっけ?」
慎重な質問を聞いて蓮子は吹き出した。
「メリー。ニックネームだけど」
面白そうに笑いながら、念を押すようにいった。
ああ、メリーか。
私は少し恥ずかしくなって、照れ隠しにコーヒーを口に含んだ。
よく二人で不思議がある場所に行くと、噂に聞いたことがあった。
同じ専攻の学生の中でも、特別物理学の才を持つ彼女にしては些か不合理な行動。
「彼女の専攻なんだっけ?」
彼女とはメリー嬢のことだ。
若干、無愛想な蓮子もメリー嬢のことだからか少し嬉しそうに話し出す。
「相対精神学だったかな」
相対精神学?
少なくとも数式と記号で表すことが出来ることが不可能に思える学問だ。
理系を絵に描いたような蓮子と話が通じるのだろうか。
突然に空を見て時刻を正確に当てたり、学術用語が日常会話に出現する彼女と意思の疎通が取れるのか?
「なに笑ってるの?」
意図せず笑ってしまっていたらしい。
不思議そうな顔でこちらを覗き込んでいた。
量子重力学について語り始める蓮子にメリー嬢が戸惑う光景が目に浮かんでしまったのだ。
「いや、なんでもないさ」
笑いを堪えつつ私は誤魔化す。
「そう?」
蓮子が訝しげな目つきでこちらを見ている。
私は居心地が悪くなったので
「いや、今この本読んでたんだけどさ」
話をそらすために、車椅子の物理学者が表紙に写っている本を蓮子に見せた。
「ああ、スティーブン・ホーキング」
そういうと、また楽しそうな顔になる。
「そう、彼は本当に優秀。今の統一物理学の礎となった人」
先程よりも楽しそうに身を乗り出す。
彼女とはあまり話したことが無かったため知らなかったが、意外、面白い子じゃないか。
「あら、あなたそれ」
机の上に上がっていた月面旅行の格安案内。
「興味が?」
本を畳み、彼女へと水を向ける。
「ええ、まぁ」
パっと明るい表情に、大方興味ある話題だからだろうが。
しかしその表情はすぐに曇った。
「でも、大学生には支払える額じゃない」
私がそういうと、蓮子もくすくすと笑った。
「同じ理由」
その言葉にふぅとひとつため息をつき、目線を外す。
「もう少しすれば安くなるさ、昔は海外に出るのにも、かなりのお金が必要だったんだし」
「そうね、火星に自由にいけるようになれば、月にいくのだって簡単よ」
「その火星に自由にいけるのは?」
「とっても、私たちが生きてる間には無理そうね」
答えのわかっている問答。
わかっていても、言わざるを得ないのだ。
「蓮子~」
間延びした声が、水面に波紋が広がるようにカフェテラスに染み渡った。
「それじゃあ、私は行くから」
軽く会釈をし、彼女は駆けていった。
視線を窓の外へと移すと、ほどなくして先ほどの二人が、緋に染まりながら歩いていった。
◆
夢を、見ていた。
ハッキリと、内容まで完全に覚えている夢。
目を覚ますと、そこは無機質と閉塞感が跋扈する研究室。
窓から目を向ければ、排気ガスに薄汚れた灰色の町と、ガソリンで走る車たち。
ふと、夢で見ていた光景がそこに交差した。
子供のころ雑誌に乗っていた未来予想図。
空飛ぶ車、可笑しいぐらいに理想化された町並み。
こうして大人と呼べるまでになった今、未来は予想を見事なまでに裏切っていた。
車は空を飛ばないし、問題なんて目を向けずともに視界に入る。
手元にあった雑誌をパラパラとめくってみても、未来予想図なんて載っていやしない。
雑音交じりのラジオからは、未来へのリアリズムがマーチを奏でた。
キィと扉が開く。
「お疲れさん、寝てたみたいだな」
「ん、ああ・・・・・・。お疲れ様です」
缶コーヒーを投げ渡してくる准教授。
プシュとタブを開けて、しばし沈黙と、あおったコーヒーの甘ったるさに酔う。
「今の子供は、夢を見ないんですね。SF小説なんかよりも、捩れた愛の物語に酔いますから」
「だが、俺達、学者と技術者がそれを忘れない限りきっと明るい未来はくるさ」
疲れた表情から察していたのか、准教授はテンプレートのような速さで答えを返した。
「それじゃあ、俺はまたちょっと出るから」
准教授が扉から消えた後。
ぼんやりと思考を浮かべた。
「現実主義者が、夢を忘れない」
いいや、夢を現実に落とし込むのが俺たちだろうよ。
溜まっている仕事を片付けるため、夕暮れを映すスクリーンセイバーを解除した。
Fin
テーブルの上には一杯のコーヒーと一枚のパンフレット。
"格安月面ツアー"
月から見た地球を背景に、赤く印字されたその文字列。
二十世紀の人類は大量の水素燃料を噴射して命懸けで月に行っていた。
小さな宇宙ステーションを補修するのにも大規模な予算をかけていた。
しかし一般人が誰でも、月に行く事が出来る時代。
それは学者と技術者の努力による素晴らしい成果。
ペイロードも大幅に増えて一回当たりの渡航コストは劇的に下がった。
それでも、パンフレットに書かれている価格は大学生が捻出できる額とは程遠い。
自分以外に誰もいないカフェテラス、理不尽さに憤りを感じながらも、既に冷めてしまったコーヒーを口に含む。
パンフレットをテーブルの隅に追いやり、読みかけの本を手に取った。
『ホーキング宇宙を語る』
21世紀初頭には既に出版され、記録的ベストセラーとなった本である。
その類稀な先見性をもって当時の物理学会を騒がせたホーキングが、一般人向けに書いた入門書。
立ち寄った古本屋で見つけて買っただけあって、多少くたびれてはいるが大事なのは中身だ。
これがまた、非常に面白い。
本当にこれが『宇宙のひも』も見つかってない時代に書かれたものなのだろうか、私は正直なところ信じられない。
当時、彼の学説は賛否両論だったらしいが、それもうなづける。
彼も宇宙旅行をしたらしいが、21世紀初頭に一般人の宇宙旅行は決して誰でも出来るものではなかった。
それだけで、彼がどれだけ当時、時の人だったかがわかる。
コーヒーを飲みながら本を読み進めていると、いつの間にか日は暮れた。
随分と本に熱中していたようだと自嘲し、窓の外に目をやれば、そこには緋に染まる首都の風景。
人類はエネルギー危機を克服した。
少子化問題も、今の日本では過去のもの。
窓の外に石油燃料に依存していた日本はもうない。
様々な人間の努力により実現した素晴らしき世界。
20世紀の人々は原油の枯渇に怯えながら過ごしていたらしいが、この風景を見れば理想的な未来だと思うのだろうか。
本の表紙には車椅子に乗りながら笑顔を浮かべるホーキング。
彼が見た未来宇宙。
誰もがお金さえ出せば月にいける時代。
と、そのときである。
カフェの入り口から一人の女性が入ってきた。
特徴的なロングスカートと帽子。
同じ専攻の宇佐見蓮子だ。
華奢な体格ながら、彼女自身の溢れる知性が感じ取れる目元。
「なにやってるの?」
休日の誰もいないカフェテラスで一人で佇んでいるのが不思議だったのか、最初の台詞はそれだった。
蓮子は隣のテーブルの椅子に腰掛ける。
ロングスカートがひらひら揺れる。
「読書」
素っ気無く答える。
「そう」
蓮子も素っ気無く返した。
ただ、専攻が同じというだけで普段から親交があるわけではない。
カフェテラスに沈黙が流れる。
私は再び本に目を落とし、彼女は頬杖をついて窓の外を眺めていた。
緋に染まる首都。
紅く、燃えるような素晴らしき世界。
私は読みかけの本に栞代わりにテーブルの上にあった紙ナプキンを挟んだ。
「待ち合わせ?」
私は蓮子の方に顔を向けた。
「んっ?」
突然私が沈黙を破ったからか少し驚いた表情になっていた。
彼女の健康そうな白い餅肌に、薄紅の陰影がかかった。
「あの外人の子と待ち合わせ?」
もう一度、今度は言葉を補足して言い直す。
蓮子は一度背伸びをした。
「そうそう」
そういって微笑む。
蓮子が外人の子と一緒にいる所を、何度か見たことがある。
えーと確か、
「マリーさんだっけ?」
慎重な質問を聞いて蓮子は吹き出した。
「メリー。ニックネームだけど」
面白そうに笑いながら、念を押すようにいった。
ああ、メリーか。
私は少し恥ずかしくなって、照れ隠しにコーヒーを口に含んだ。
よく二人で不思議がある場所に行くと、噂に聞いたことがあった。
同じ専攻の学生の中でも、特別物理学の才を持つ彼女にしては些か不合理な行動。
「彼女の専攻なんだっけ?」
彼女とはメリー嬢のことだ。
若干、無愛想な蓮子もメリー嬢のことだからか少し嬉しそうに話し出す。
「相対精神学だったかな」
相対精神学?
少なくとも数式と記号で表すことが出来ることが不可能に思える学問だ。
理系を絵に描いたような蓮子と話が通じるのだろうか。
突然に空を見て時刻を正確に当てたり、学術用語が日常会話に出現する彼女と意思の疎通が取れるのか?
「なに笑ってるの?」
意図せず笑ってしまっていたらしい。
不思議そうな顔でこちらを覗き込んでいた。
量子重力学について語り始める蓮子にメリー嬢が戸惑う光景が目に浮かんでしまったのだ。
「いや、なんでもないさ」
笑いを堪えつつ私は誤魔化す。
「そう?」
蓮子が訝しげな目つきでこちらを見ている。
私は居心地が悪くなったので
「いや、今この本読んでたんだけどさ」
話をそらすために、車椅子の物理学者が表紙に写っている本を蓮子に見せた。
「ああ、スティーブン・ホーキング」
そういうと、また楽しそうな顔になる。
「そう、彼は本当に優秀。今の統一物理学の礎となった人」
先程よりも楽しそうに身を乗り出す。
彼女とはあまり話したことが無かったため知らなかったが、意外、面白い子じゃないか。
「あら、あなたそれ」
机の上に上がっていた月面旅行の格安案内。
「興味が?」
本を畳み、彼女へと水を向ける。
「ええ、まぁ」
パっと明るい表情に、大方興味ある話題だからだろうが。
しかしその表情はすぐに曇った。
「でも、大学生には支払える額じゃない」
私がそういうと、蓮子もくすくすと笑った。
「同じ理由」
その言葉にふぅとひとつため息をつき、目線を外す。
「もう少しすれば安くなるさ、昔は海外に出るのにも、かなりのお金が必要だったんだし」
「そうね、火星に自由にいけるようになれば、月にいくのだって簡単よ」
「その火星に自由にいけるのは?」
「とっても、私たちが生きてる間には無理そうね」
答えのわかっている問答。
わかっていても、言わざるを得ないのだ。
「蓮子~」
間延びした声が、水面に波紋が広がるようにカフェテラスに染み渡った。
「それじゃあ、私は行くから」
軽く会釈をし、彼女は駆けていった。
視線を窓の外へと移すと、ほどなくして先ほどの二人が、緋に染まりながら歩いていった。
◆
夢を、見ていた。
ハッキリと、内容まで完全に覚えている夢。
目を覚ますと、そこは無機質と閉塞感が跋扈する研究室。
窓から目を向ければ、排気ガスに薄汚れた灰色の町と、ガソリンで走る車たち。
ふと、夢で見ていた光景がそこに交差した。
子供のころ雑誌に乗っていた未来予想図。
空飛ぶ車、可笑しいぐらいに理想化された町並み。
こうして大人と呼べるまでになった今、未来は予想を見事なまでに裏切っていた。
車は空を飛ばないし、問題なんて目を向けずともに視界に入る。
手元にあった雑誌をパラパラとめくってみても、未来予想図なんて載っていやしない。
雑音交じりのラジオからは、未来へのリアリズムがマーチを奏でた。
キィと扉が開く。
「お疲れさん、寝てたみたいだな」
「ん、ああ・・・・・・。お疲れ様です」
缶コーヒーを投げ渡してくる准教授。
プシュとタブを開けて、しばし沈黙と、あおったコーヒーの甘ったるさに酔う。
「今の子供は、夢を見ないんですね。SF小説なんかよりも、捩れた愛の物語に酔いますから」
「だが、俺達、学者と技術者がそれを忘れない限りきっと明るい未来はくるさ」
疲れた表情から察していたのか、准教授はテンプレートのような速さで答えを返した。
「それじゃあ、俺はまたちょっと出るから」
准教授が扉から消えた後。
ぼんやりと思考を浮かべた。
「現実主義者が、夢を忘れない」
いいや、夢を現実に落とし込むのが俺たちだろうよ。
溜まっている仕事を片付けるため、夕暮れを映すスクリーンセイバーを解除した。
Fin
涙が出るぐらいリアリズムな言葉ですな。
あの文章はもう戻ってこないのでしょうね……。
届くとは思いませんが、一言、お疲れ様でした。
理論物理への貢献は大きいとは言えホーキングに先見性があったとは思えませんが、まぁそれはそれかw
子供達の描く未来像って50年くらい前から本質的には変わってないですよね。
モノクロ映像時代の子供達はアトムを見てロボットの友人や宇宙旅行に憧れ、今また子どもたちはAIBOを見てロボットに知的振る舞い夢見ている。
夢を実現させるために・・・でしょうか。
面白い作品でした。
現実主義者が見る夢、理想こそが現実を変える力を持つ。
現実主義者が夢を見なくなったら世の中終わりですね。もう進歩しないってことですから。
実際、科学者って皆夢を持ってその世界に飛び込むんですな。
初心に戻った気がします。
頑張って研究するんだぜ。
同じとこもあるけど
けど、同じところも子供の頃と違って嬉しく感じないこともあるのが何とも
合成食品ばかりとか
しかしレトルト食品・合成食品にも夢が・・・う~ん?