――幻想郷で風邪が流行りました。
冬のある日のこと。
「では、このお薬を一日三回、毎食後に必ず飲んでください――はい、次の方」
薬を受け取った患者が診察室から出て行く。新しく入ってくる患者。
熱、喉の腫れ、気怠さ。皆、似たような症状だった。
烏天狗の新聞を読んだときにはまさかと思ったのだが、どうやら本当に幻想郷全体に風邪が流行っているらしい。それも人妖問わず、ありとあらゆる所で。
(風邪、ねえ。私に言わせれば、日頃からの心がけの問題だと思うけどね)
とはいえ、その事実がわかっただけでも、こうして人里に臨時の診療所を開いた甲斐があったというものか。
手持ちの薬の量を確認しながら、永琳は次の患者を呼んだ。
そもそも事の始まりは鈴仙が風邪を引いて帰ってきたことだった。
私の弟子のくせに風邪を引くなんて情けない。叱ってやろうかと思っていたが、その風邪は予想以上にたちが悪く、あっという間に永遠亭の兎たちに感染してしまった。
しかも、兎たちの看病に当たっていたてゐまでもが風邪を引いてしまう。
人一倍健康に気を遣っているてゐが感染するとはただごとではない。
ここに至って永琳はようやく人里に降りる決意をしたのだった。
(さすがにこれは冗談……よね?)
入ってきた患者を見て永琳はそんなことを思った。
頭から生えた二本の角、赤ん坊ほどもある大きな瓢箪。
見間違えるはずもない。
伊吹萃香。幻想郷で唯一の鬼だ。
「やっほー。薬もらいに、、、……へくちょん!」
なりは小さいものの、鬼の肺活量は凄まじい。可愛らしいくしゃみによってマスクは千切れ永琳の顔を直撃した。剥がそうとすると粘着質の液体が手を濡らした。しかもまだ温かい。
「あー、ごめんごめん」
酔っぱらっているのか熱のためか赤い顔をした萃香は笑いながら謝った。酒を飲み飲み、新しいマスクをつけている。
一発殴ってやろうかと思ったが、一応、萃香は患者だ。医者が患者に暴力を振るうなど自身のプライドが許さない。永琳は目を閉じ、歯を食いしばった。
(……我慢よ永琳。貴方は月の賢者。こんな子供の悪戯くらい笑って許してあげなきゃ……営業スマイル営業スマイル)
呪文のように心の中で繰り返し、ようやく平静を取り戻した永琳は顔に張り付いたマスクを剥がした。乾いていたらしく顔がひりひりする。
「もう……汚れちゃったじゃないの。次からは気を……」
「ねえねえメイク剥げてるよ」
永琳は脳の血管が切れた音を聞いたような気がした。
「次の方……あら、貴方でも風邪を引くのね」
萃香を叩きだしてから半刻。診療を再開すると今度は白黒二色の服を着た魔法使いがやってきた。
「まあな。私としたことが油断したぜ」
いつも通りの軽口を叩くものの、足下がふらついている。熱を測ってみると九度近くあった。普通なら寝込んでいるところだ。
「こんな熱でここまで来るなんて、ずいぶん無茶なことをするわね。貴方には一つの命しかないのよ?」
「……あー、それには理由があってだな」
「理由? よければ聞かせてもらえるかしら?」
命の危険を冒してまでここに来る理由とは何だろう。
輝夜や自分にとって、掃いて捨てるほどある命の重さなど大したものではない。
だから、永琳には魔理沙の言う理由がとても新鮮なものに思えた。少なくともそれは、一つしかない命と比べて釣り合いの取れるものだということだ。
「その……アリスの奴がさ」
もごもごと歯切れ悪く魔理沙は話し始める。
と、アリスというのは、確かこの少女と一緒に永遠亭に乗り込んできた魔法使いのことだったか。
「私が風邪を引いてるときにちょうど家に来てさ。……まあ、一応付き合いも長いし、看病してくれたんだ」
「それで?」
何となく理由が想像できたが先を促してしまう。
「それで……私の風邪が伝染っちゃって、代わりに寝込んじゃったんだよ」
「あらあら。ということは彼女、今は貴方のベッドに寝ているのかしら?」
カマを掛けてみると大当たりだったようだ。魔理沙の顔が耳まで赤くなった。
「しょ、しょうがないだろ! 一人で帰して怪我でもされたら……その、私のせいみたいじゃないか」
「そうね。でも、貴方は正しいことをしているのだから、恥ずかしがることはないと思うけど?」
「うー……」
慌てた拍子に落ちた帽子を頭に乗せてやると、魔理沙はそれをさらに深く被って黙ってしまった。その仕草が自分の知る魔理沙とあまりに違っていて。永琳は思わず笑みをこぼした。
「この薬を一日三回、食事の後に飲むように。もう一人分出しておくから早く帰って飲ませてあげなさい」
「……うん。ありがと」
ぺこりとお辞儀をして魔理沙は帰っていった。
それからは特に何事もなく時間が過ぎていく。
日が傾き始めると患者も減り、辺りが暗くなると、診療所から人の気配が無くなった。
「……もう閉めても良い頃かしら」
さすがに助手もなく一人で全ての業務をこなすと疲れも溜まる。
大きくのびをしながら明日はどうしようかと考えていると、
「ほら、早くしなって。診療所はまだ開いてるんだから」
「いや……だが私はそれほど酷い状態ではないし」
「咳をして熱が出てれば十分だよ。それに、いつまでもそんな状態じゃ里のみんなが心配するだろ?」
「確かにそうだが……」
「じゃあ決まり。――入るよ」
そんなやり取りのあと、半獣を連れた蓬莱人の少女が入ってきた。
「ほら、慧音」
「わかった……わかったからそう急かすな」
なぜか不機嫌そうな妹紅に促されて、渋々、慧音は椅子に腰を下ろす。
「こんな時間にすまない。私は寝ていれば治ると言ったんだが……」
「はいそこまで」
永琳は仕方なしにそう言った。
これでは妹紅が不機嫌な理由もわかろうというものだ。
「貴方がどう思っているか知らないけど、風邪は万病の元とも言うわ。たかが風邪と侮っては駄目。……それから、人の厚意は素直に受けるものよ。ねえ?」
二人して目をやると妹紅は相変わらず不機嫌そうな顔のまま、しかし顔を赤らめてそっぽを向くのだった。
◇
「あ、師匠、おかえりなさい」
永遠亭に戻ると鈴仙が出迎えてくれた……というより自分を待っていたらしい。
小走りで向かってくる鈴仙を見て、永琳はそう思った。
「姫様が、お話があるので師匠に伝えておくようにと」
「姫が? わかったわ。ありがとう、ウドンゲ。……体の調子はどう?」
「師匠の薬のおかげでだいぶ良くなりました。あ、でも、治るまでは安静にしてますね」
「よろしい」
風邪は治りかけが怖いのだ。
永琳は笑顔で頷いた。
「――姫、入りますよ」
襖を開けると、返事の代わりに「ずびっ」という何とも形容しがたい音が聞こえてきた。
「……姫?」
部屋の中は灯りが消されており、暗かった。
もしかして、帰ってくるのが遅かったから寝てしまったのだろうか?
ならばいつまでもここにいるわけにはいかない。
明日改めて出直そうとした永琳の耳に、低くうなるような声が聞こえてきた。
「姫? 起きているのですか?」
慎重に声のした方へと歩いていく。
すると、はたして部屋の片隅に彼女はいた。
「えーりん……あたまいたい」
「――姫!!」
それを見た永琳の顔から血の気が引いていく。
輝夜が風邪を引いていたのだ。
「……まったく、事もあろうに風邪を引いた兎たちと遊ぶなんて……」
「だってしょうがないじゃない。永琳はどこかに行っちゃうし、話し相手もいないんだもの」
別段悪びれた風もなく言う輝夜。先ほど飲んだ薬が効いたのか、熱も引いて顔色もだいぶ良くなっている。
「それくらいは我慢してください。ただの風邪とはいえ、これだけ広まってしまったら放っておく訳にもいかないでしょう?」
「……それもそうね。ところで、今日の患者に妹紅の奴はいたの?」
「いいえ。半獣の付き添いとしては来ましたが」
「そう」
それを聞いて輝夜はにやりと笑う。
「何か気になることでも?」
「うん。ふと思ったんだけどね、」
布団に潜り込みながら輝夜は言う。
「よく言うじゃない? ナントかはか――っ!?」
皆まで言わず輝夜は昏倒した。
◇
馬鹿な馬鹿なそんな馬鹿な。
口の中で繰り返し呟きながら永琳は竹林を駆け抜ける。
その速さは風の如く。縄張りを荒らされたと勘違いした妖獣を蹴って殴って飛ぶように進んでいく。
ブレーキ代わりに竹をへし折り止まった先は小さな庵の前。
「――な、何の音だ今の!?」
よほど慌てていたのか、はきかけのズボンを押さえながら妹紅が飛び出してくる。
ちょうど一列、綺麗に並んで折れている竹を見てしばらく絶句していたが、その前に立つ永琳を見て、妹紅は表情を険しくした。
「こんな夜中に何の用だ? また輝夜か?」
「引いてるの?」
「はぁ? お前何言って――うわっ?」
近づこうと踏み出した足を払われて妹紅は尻餅をついた。永琳はすかさずその両肩を押さえ、地面に組み伏せる。
「何するんだよお前は!」
「いいから質問に答えなさい。引いてるの? 引いてないの?」
「いや、だから……」
「引いてるの? 引いてないの?」
主語が抜けているため質問の意図がわからない。が、そんなことはお構いなしに永琳は同じ言葉を繰り返すのみ。
常軌を逸した行動を前に妹紅は泣きたくなってきた。
と、気が緩んだ隙に我慢していたものが出そうになる。
「ちょっと、手、離して……」
「引いてるの?」
「お願い、だから……」
「引いてないの?」
「だめ……でちゃう……」
「どっちなの!」
何か言おうとして妹紅は口を開く。
しかし、そこが限界だった。
「は……」
「?」
「――はっくちゅん!」
くしゃみと共に『ぷわん』と大きな鼻ちょうちん。
それが弾けると同時に妹紅の目から、そしてなぜか危険を感じて飛び退いた永琳の目からも涙がこぼれた。
「だ、だから手を離してって言ったのに……」
みっともないところを見られてしまった。しかも三番目くらいに見られたくない奴に。
もう終わりだ。これで明日には輝夜どころかブン屋にまで知られて新聞の一面を飾ってしまうんだ。
――やーいやーい洟垂れもこー。
満面の笑みでそう連呼する輝夜の姿がありありと浮かぶ。
拭っても拭っても涙は溢れてきた。
「貴方も風邪を引いたのね……」
「ああそうだよ! 診療所じゃずっと我慢してたんだ!……何だよ。笑えよ。笑えば――?」
癇癪を起こしたように喚き散らしながら起き上がった妹紅は、月明かりに照らされた永琳の顔を見て言葉を失った。
血の気の失せた青い顔。目はどこか虚ろで、頬には涙のあとがあった。
「お前、なんて顔して……」
「いいのよ。それより、こんな時間に押しかけて悪かったわね。……お大事に」
寂しげな笑みを浮かべたまま妹紅の手に薬の包みを握らせて、永琳はその場を立ち去った。
◆
この後、夜が明けるまでのわずかな時間に、幻想郷の各地で八意永琳の姿が確認されている。彼女は人妖問わず診察を行い、それが終わるとどういう訳か泣きそうな顔をして帰って行ったという。
診療所に来なかった者が多いことから、寝る間も惜しんで風邪の治療に当たっていたのだろうと、診察を受けた者たちは皆、永琳に感謝した。
しかし、次の日、人里の診療所が開くことはなかった。
代わりに永遠亭において永琳の奇行が確認されることになる。
「あ、師匠、おはようございます。……この寒いのに禊ですか?」
「そうよ。今の私には必要なことなの」
「でも……雪、降ってますけど」
鈴仙の指摘に答えを返すことなく、永琳は黙々と禊を続けたという。
「あれ? 永琳、乾布摩擦なんて始めたの?」
「ええ。今の私には必要なことですから」
「ふうん……ところで、何か一枚くらい着た方がいいんじゃない?」
輝夜の意見に答えを返すことなく、永琳は黙々と乾布摩擦を続けたという。
翌日、八意永琳は自室に篭もったまま姿を見せなかった。
部屋には誰も寄せ付けず、中からは泣き声とも笑い声ともつかない声が聞こえてきたという。
『良いネタ見つけました。突撃取材いってきます』というメモと幾つかの取材記録を残して、烏天狗の射命丸様が帰ってきません。
見かけた方は妖怪の山までご一報ください。
――文々。新聞
代筆 犬走椛
チルノは?
まぁ、普段から劇薬と共にある永琳には耐性があるんでしょう。
バカなんていわれるのは天才の意地が許さなかったんだな、医者が風邪引いちゃいけないとも思うけど。
風邪引いていて大人しく永琳の言うことをきく魔理沙が可愛かった。
あとえーりん 天才と馬鹿は風邪ひかないよ
馬鹿は風邪をひかないのではなく、風邪を知らないのです。