(一)
その猫が境内に棲みつくようになったのは、二月も終わりの頃だったと、霊夢は思う。
冬の名残が雪となって降り積もった、肌寒い朝のことである。
早朝であった。太陽は、まだ東の山の頂を少し越えたばかりで、日差しは弱く、あたりはしんしんと冷えている。霊夢は境内に積もった雪を、朝のうちに片付けようとしていた。
早起きをするつもりはなかった。が、どうにも寒くて目が覚めた。布団の中は暖かい。しかし、外に出た顔はその恩寵の限りでなく、そこを忍び込んだ冷気が容赦なく苛むのだから、眠れない。別けても耳を突く寒気の針の冷たいこと、痛いこと。堪らない。あまりにも寒いから顔を布団の中に引っ込める。それで寒さからは逃れられるが、しばらくすると息苦しくなり、耐えられなくなって、顔を出す。また冷える。また引っ込める。
繰り返すうちに馬鹿らしくなった。なにより眠気もどこぞに吹き飛んだ。これならさっさと起きて掃除でもした方がましだ、と思うなり布団を跳ね除け、寝所を後にした。
それから手短に食事を済ませ、身支度を整えていまに至る。
境内のそこかしこに雪は積もっている。朝日を受け、きらきらと輝くそれは、綺麗だというより目に痛い。なによりも量の相当なのが、霊夢の乏しい労働意欲を忽ちに萎えさせた。
一昔前なら、雪だ、雪だ、とはしゃいで、雪合戦雪玉転がしに雪だるまと勤しみ、末はかまくら作り、と楽しんだはずが、分別のつく年となった霊夢にとって雪とは冷たいもので、寒いもので、邪魔なものであった。面白いものではない。
犬のように駆け回ったのは過去のこと。幼女の頃は子犬であるが、少女となればすなわち、猫である。猫は炬燵で丸くなるものだ。駆け巡ることもなければ、まして掃除など。
そもそも、と霊夢は思う。急いで雪かきする必要がどこにあるのか。
即座に、ない、という答えが出る。
考えてもみなさい。この雪の時分にわざわざ神社を訪れる客がいるだろうか。よしんばいても、それは妖怪か魔法使いといった、普通でない連中らだ。普通でない者が、そうでない者の苦労を苦労と思うはずがあるか。雪道を歩くことなど苦労のうちにも入るまい。
そう思うと雪かきが馬鹿らしくなった。
しばらくすれば日も高くなるだろう。高くなれば日差しが強まり、雪も溶ける。溶けた雪は水だ。水は石畳を通り、その下の土に染み入る。それから菜の花に福寿草仏の座、梅の満作藪椿、無数の花々の滋養となる。雪とは、つまり、天からのお布施だ。謂わば、高天原に神留り云々の神様が、自然へともたらした有難き恵みであり、要するに、人間が勝手にどうこうしていいものじゃない。
レティは退治せずとも春に溶ける。溶けた後にはリリーホワイトが生まれて花を咲かす。人の手はいらぬ。なにもせずとも世は回る。それこそが真理だと、豁然と悟った。
餅は餅屋にと言うのだから、自然のことは自然に任せましょう。
余は行雲流水なり。世は有為転変たり。なにもずっと雪のままじゃあるまいてと、暢気に考え、道具を集めるなりそそくさと、母屋に向かって歩き出す。
その道すがら。声が聞こえた。
おやと、思い、耳を澄ます。すると、
なーお。
と、猫の声。あたりを見回す。
なーお。
また鳴いた。近い。
後ろを振り返る。いた。神社の入り口、白一色の境内でそこだけが鮮やかに紅い、鳥居の下に。どこから来たのか、一匹の猫がちょこんと座っている。毛並みの良さそうな、ふくふくとした三毛猫だ。尻尾を振りながら霊夢に近づいてくる。
足元に着くなり、剥き出しの霊夢の脛に顔を擦りつけた。すっかりと冷えてしまっただけに、その僅かな温もりがなんとも気持ちよく、そしてこそばゆい。
屈みこみ片方の手で頭を、もう片方で喉を撫でる。猫は気持ちよさそうに目を細め、ごろごろと喉を鳴らした。
「こんなところに猫なんて、珍しいわね」
両手で包み込み親指の腹で猫の頬を撫でる。また気持ちよさそうな顔をし、金色の片目――もう一方は硬く閉じされ、後にそこが盲目なのを知った――を向け、細めた。その邪気のなさに自然と霊夢の顔もほころぶ。
「あんたどこの子? 家猫? 野良猫? 迷い猫?」
ほらほら、と猫の前足を手に取って、拍子をとりながら言う。
迷子の迷子の子猫さん、あんたのお名前はなあに?
なーお。
鳴いてばかりの子猫さん、お名前がちっともわかりません。
なーお。
「なーお」
真似て、鳴いた。なあおォと語尾を伸ばす。
それがなかなかに似ているものだから、我ながら猫っぽいわね、とおかしくなり、けらけらと笑った。
「なんてね。化け猫でもないかぎり喋れないもんね」
両脇に手を差し込み持ち上げた。猫は特に抵抗もしない。されるがままに、霊夢の手に支えられ、目を細く閉じてその顔をじっと見ている。左右に揺する。ぶらぶら。ぶらぶら。それに合わせて尻尾も揺れた。尻尾は、やはり一本だ。
これにはさすがの猫も、うなあ、と抗議の声を上げた。
あはは、ごめんごめん、と悪びれもなく言う。それから地面に下ろし腹ばいにさせ、撫でようとした。今度は猫も軽くじゃれる。後ろ足があがり、ふと、下半身に目がいき、
「あら」
と、声が漏れた。
「あら、あら、あら。……」
足を掴み、まじまじと猫の下半身――股間の部分を見る。乙女としてはあるまじきはしたなさだが、霊夢は気にしない。ぶらぶら。揺する。ぷらぷら。揺れる。うなあ、と羞恥か、抗議か、ひと鳴き。
ひとしきり眺め、ぽつり、と一言。
「あんた、男の子なんだ」
いかにも、その三毛猫は雄であった。
雄の三毛猫は珍しい。霊夢も目にするのは初めてである。一説では、雄の三毛猫は福を招くと云われ、巷では高値で取引されるとも云われる。それほどに雄は稀有なのだ。
もっとも珍しいということはともかく、それ以上のことを、霊夢は知らない。知っていたとしても、気にもしないだろう。猫は、猫だ。霊夢にとってそれ以上の意味はない。
天狗あたりなら喜んで記事にするかな?
そんな考えが頭に浮かんだ。いや、案外すでに書いているかもしれない。なにしろ神出鬼没が人の形をしているような連中だ。さっきの自分の姿を撮られてなければいいのだが。
いらぬ誤解を招くのは勘弁したいわね、と霊夢は思う。
猫は、すでに足から手が離されており、ちょこんと座りなおし、毛繕いをしていた。
出し抜けに冷たい風が吹き、霊夢の腋を撫でた。思わずくしゃみを、ひとつ。
寒い。忘れていた、神社に戻るんだった。
あそこでは、暖かい炬燵が待っている。冷えた体には湯浴みがいいだろうか。いや、熱燗で体の内を暖めるのも、悪くない。そう思うと居ても立ってもいられなくなった。
帰ろう、と立ち上がる。
「じゃ、私は帰るから。あんたもはやくねぐらに戻りなさい」
軽く頭を撫でてやるとさっさと立ち去った。それが二、三歩も行かぬうちに止まる。気配を感じ、振り返り、
「あんたねえ……」
ため息をつく。猫がついて来ていたのだ。
「駄目よ。ちゃんと帰りなさい」
しっ、しっ、と手で追い払う。が、猫は意にも介さず霊夢の足にまとわりつき、喉を鳴らし、頬を擦り付けるばかり。てんで勝手気ままなもので。はあ、と、またため息が。
元より猫を飼う気などない。当てにされても困る。そもそもなにかを飼う、つまり手元に縛る、ということは自分の性分に反する。やはりここはひとつ強引にでも、と振り払うべく足を、
「……あー」
動かせなかった。
脛に触れる猫の毛は温い。が、その下の、皮膚は、体は冷たい。よくよく見れば毛先にも透明な雫が無数。濡れ鼠、というほどではないが、ずいぶん濡れていた。
あんたも寒いの?
なぁお。寒い、そう言った気がした。暖を求めてしきりに体を擦りつける。触れて、擦れて、すこし温まる。
雪は冷たいものね。冬は弱るものね。温もりぐらい欲しくなるでしょうよ。
ふと、考えてみた。
凍山をさ迷って、雪路の果てにようやく灯を見つける。体は芯まで冷え、指先も、つま先も、かじかんで痛い。そんな時に見つけた明かりは、さぞかし暖かく見えるだろう。それに寄せられ、温まりたいと思うのは、人も、けものも、同様か。
本当に冬は弱る。私も温まりたくなってきた。
仕方ないわね、と呟き、猫を抱き上げた。
「いい、今日だけだからね」
腕の中で、気持ちよさそうに丸まった猫の鼻を指でつつき、そう言う。
猫が、鳴いて答えた。
*
それからどうしたか。
猫は神社の軒下に住み着いていた。
当初のことを考えれば誤算なのだが、当の本人はもう気にもしていない。それどころか、いまでは縁側で寝転ぶ猫の姿が日常の一部だとさえ思っている。
ただ変わらなかったのは、飼う気はない、という霊夢の心だった。これはまったくそのままで、どれほど懐いても、どれだけ馴染んでも、餌は一度もやらなかった。ごく自然に餌付けを拒んでいたのである。
猫も猫で、そういう扱いを気にせず、むしろ気ままにすごせるぶん、かえって歓迎しているようで、日がな一日、縁側で眠るのであった。餌はどこかで取っているのか、不思議と飢えた様子を見せなかった。
猫は縁側で、終日眠り、一週間を重ねて、一月を貪る。積もり積もってそれが半年になる。
霊夢はその横でお茶を啜り、酒を飲み、煎餅を齧っては羊羹に舌鼓を打ち、気まぐれに猫の頭や顎、腹を撫で、飽きたら止め、時には一緒に眠りこけた。
三月の春の芽生えを目で見、四月は酒を共に花の盛りを味わい、五月の新緑の爽やかさを肌で感じては六月の梅雨の冷たさに辟易し、七月、夏の訪れを暑さに感じた。
暦は流れる。
時節は八月である。
暑さも盛りで、日差しは梢を燃やさんばかりに強く、金剛石のように眩しい。それでも猫は相変わらず縁側にいる。巧みに日光を避け、影が差す、涼しいところで寝そべっている。
その横に、霊夢はいなかった。
霊夢はその隣の居間にいた。理由は、明白だ。暑いからである。あまりにも日差しが暑すぎるのだ。暴力的だといってもいい。なにが悲しくて、縁側で日に焼かれなければいけないんだと、居間に逃げていた。それでも、
暑い、暑くて死にそう。
夏場の茹だるような熱気はいかんともし難い。時折吹いてくる風は涼しげ、というよりも生ぬるく、淀んだ熱を混ぜ返すだけで、かえって酷さを増した。
ああ、なんで夏はこうなのよ。
思わず愚痴が出た。ひとたび愚痴ると、どんどん出てくる。次いで益体もない言葉に苛立ち、頭に過ぎるのが。
紫にでも頼んで暑さと寒さの境界を弄ってもらおうかしら。霖之助さんの処から涼しくなるものでも貰ってこようかしら。いっそのことチルノを捕まえて天井からぶら下げてみよう……、といった、剣呑な考えばかり。
ぽたり、と汗が畳に落ちた。落ちたところが湿り、不愉快だ。
ううっ。
思わず呻った。
夏は暑いのが当たり前、暑くない夏の方が異常だよ、誰かが鹿爪らしく説く。知ったことか、と心の中で罵り返す。噛みつかんばかりの表情で。まるで凶暴な猫のよう。
乱れ解れた髪が、汗に濡れた頬に張り付く。直す気力もない。顎をべったりと畳につけたまま、両手はだらしなく横に投げ出され、高々と持ち上げられた、肉づきの薄い尻が、身動ぎするたび左右に動く。ちょうど猫が伸びをする姿勢をいい加減にカリカチュアしたような姿だ。
しなやか、と言うよりも弛みきったゴムのようにだらしなく、色っぽいよりむしろ、はしたない。乙女という字が目にしたら気死しかねない有様であった。
だんだん猫に似てきたかしら、とどこかで冷静な自分がぼやいた。
ぼんやりとした目を縁側にやった。そこから外の景色を眺める。
蝉の鳴き声が、耳に響く。油蝉、ミンミン蝉、ニイニイ蝉、蜩と。寒蝉……はさすがにまだ早い。単調な旋律が、眠気を誘う。
眩しすぎる白光が目に痛い。木々の色は日光に焦がされて、濃緑色が、黒ずんだ墨色に見えた。束の間、全てが白と黒に染まる。日輪の輻射の悪戯に、惑わされる。
草いきれの臭い。焼けた土の香り。咽そうだ。
視界の果てに、奇妙なものを見た。
ゆらゆらと、それは頼りげなく揺れて、輪郭は幽かに、形は溶けた蝋燭のように歪んでいる。
……逃げ水?
あるいは、蜃気楼とも。
夢と、うつつの隙間に浮かぶ、陽炎の里。幻影の町だ。そこに住まうのは影法師ばかりだと聞く。
遠くにあって、近寄ろうとすれば遠ざかる、決して追いつけない、水のようなそれを、だから人は逃げ水と呼ぶのだ、と以前に紫が言っていたのを、思い出す。
水……幻の水。それは甘いだろうか、冷たいだろうか。
暑いのがどうにもならないのなら、せめて涼しい場所へ行きたい。縁側にいる猫がそういった場所にいることを思い、霊夢は羨んだ。
ああ、あの猫はなんで平気なんだろう。暑くはないのか。猫の身ならこの暑さを感じないとでもいうのか。そうなら、私も猫になりたいわ、と、そう思ったとき、
なあお。
鳴き声が。
霊夢がそちらに目をやる。障子の向こう側から猫が現れた。
ひとつだけの、金色の瞳がじっと見つめる。
その口には櫛が咥えられていた。
(二)
その櫛を手に入れたのも二月であった。
真冬の香霖堂。暖を求めて訪ねた日のことだ。
店主が淹れたお茶に、店のストーブとで体を十分に温め、その後で店内を物色していたら、部屋の奥まった、うっすらと埃が被さり少し黴臭い、あまり人が寄りつきそうない処に、それがあるのに気がついた。
何気なく手に取り、埃を払う。試しに二、三度髪を梳いてみた。
それからにんまりと笑い、
「霖之助さん。これ、貰うわね」
霊夢の声に、霖之助は、またか、と諦めたような顔で読みかけの本を閉じ、立ち上がった。今日は何を持っていくんだと、ため息をつきながらその品物に目をやる。
それを見るなり、少し驚いた顔で、
「それでいいのかい?」
と、言った。
口にしてから、迂闊なことを言ったな、と後悔した。が、依然と不思議に思う気持ちは消えない。
櫛そのものは別に珍しくない。香霖堂において、櫛は数少ない売れ筋商品――持っていかれることもあるが、きちんと買う客もいる――で、当然ながら買う客は女性がほとんどだし、霊夢とて年頃の少女なのだから、欲しがるのは、至極当然のことだ。
ただ年頃の少女なら、それはあまり手に取りそうもない品であった。
売れ筋商品だけに櫛の種類は多い。
柘植に柞に鼈甲。漆塗り、朱塗りに金、銀の蒔絵。螺鈿細工と青貝。透かし彫りの蝶、浮き彫りの鷺、牡丹に椿。華美なものから古雅なものまで、かなりある。しかし霊夢が手にしたのはそういった品ではなかった。
典型的なつげ櫛だった。
精緻な細工が施されているが、長い歳月にさらされたために磨耗が激しく、ところどころ模様が欠落し、殊に真ん中の部分など何があったのか分からないほど。色も全体的にくすんでおり、それを趣があるとみるか、汚いとみるかで評価が分かれる。霖之助は、前者であったが。
「君は汚いと思わないんだね」
「なにが?」
「その櫛がだよ。見た目が綺麗なのなら、もっと他にあるのにさ。なんでわざわざそんなのを選んだのかな、って」
「綺麗も汚いも関係ないわ。これ、櫛じゃない」
「そうさ。櫛だよ」
「櫛って髪を梳くためのものでしょう?」
「僕の能力を使って調べるまでもないね」
だからほら、と、言って霊夢が髪を梳く。
櫛が霊夢の豊かな黒髪の上を滑っていく。淀まず、止まらず。ちょうど清流を行く小舟のように。髪が川なら、櫛が舟かなと、霖之助は思った。
「ね、滑りがいいでしょう。歯に髪が引っかからなくて、流れるように梳けて」
気持ちいいわと、言う。
「だからこれ、好きよ。いくら綺麗でも髪のとおりがよくないのは、いや」
見てくれよりも実用性か、と思ったが、いや、少し違う。快か、不快、それだけのことだ。飾り気の無い、素直な感情が彼女の基準なんだ、と霖之助は気づいた。
まあ、いいか。
なにを言ったところで、霊夢が持っていくのは変わらない。が、不思議と構わない気がした。
このまま店に置いていても買い手がつかず、埃に埋もれて黴の肥やしになるのが関の山だ。そうするくらいなら霊夢にあげるのも惜しくない。
そもそも道具は使われてこそ意味がある。少なくとも黴の餌になるのは本意であるまいし、使い道が判っているのなら尚更だ。霊夢に使われる方が、道具にとっても幸せだろう。
今回ぐらいは目を瞑ろう、と思い、
「いいさ。持っていっても」
そう言うと、
「なに言ってるの、霖之助さん。私のものよ」
霊夢は悪びれもなく応じた。
霖之助が、大げさにため息をついた。
気にもせず霊夢は櫛を見つめ、飽きることなく眺める。明かりに透かし、裏返し、また戻し。彫り細工の模様がくるくる変わる。
裏に磨り減った都忘れ。表に破風造の屋根に、小さな月。月……と思ったのは、そこだけ、忘れられたように、丸い珠が残っていたため。月の周りは、漠とした、空白。
その空白が、少し気になった。
*
「あっ……、こら!」
驚いて声をあげた。その途端、猫が駆け出した。外へ。縁側を越え、庭から、境内に。
「ちょっと……! あんた、待ちなさい!」
慌てて起き上がり、後を追う。踏み石に置いた靴を突っ掛け、庭に走り出た。猫はすでに鳥居を潜り、石段へ。伸びた尻尾が視界から消える。
反射的に飛ぼうとしたが、あの大きさだとかえって見失いかねない、と考え直し、走って追った。
鳥居を抜け、険しい石段をひとつとばしに駆け下りる。その遥か先を、猫が行く。
容赦のない日差しに汗の玉が吹き出た。額に、背中に、腋に、二の腕に、ぷつぷつと。石段を踏むたびに飛び跳ね、灼熱の地面に落ちると、短い悲鳴を上げ消えていった。
霊夢が、走る。
猫はさらにその先を。まだ、追いつけない。
石段が終わる。
焼けた土の道にまず猫が着いた。すこし遅れて霊夢。一人と一匹の追いかけっこが続く。
草いきれに包まれた、だらだらとした畦道。両側は渺々たる青穂の海が広がるばかりで、日を遮るものは何ひとつない。その道をただ走る。荒い息を吐きながら。
遠くで蝉が鳴いている。
風が穂を揺らす。
剥き出しの肌が痛んだ。痛いのはそこだけではない。体の中が焼けるように熱い。目がちかちかとした。白光に炙られつづけたせいだ。自分の目から、色という色が溶け、失われていくのを感じる。青穂や木々だけでなく、澄み切った青空さえ、墨で掃いたように黒くみえた。他の色といえば、畦道、入道雲、日の光の、白一色のみ。
猫はなおも道の先を……どこまでも、どこまでも。
その姿も真っ黒で、まるで影法師のよう。あるいは、あれは太陽に焼かれ黒焦げになった残骸なのかもしれない、と思う。猫なんてもう、いないんじゃないかしら。そもそも本当に自分は猫を追いかけたのか……。
暑さで頭はぼう、としてきた。なにかを考えるのも億劫だった。ただ憑かれたように後を追った。
垂れた汗が目に入り、視界を滲ませる。景色も歪む……その変容が、まるで、溶かした硝子を歪んだままに固め、そこにうつつの色と、幻の色とを混ぜて注ぎ込んだように……曖昧で、はっきりとしない。
ひどく、喉が渇いた。
水が欲しいな。
ずっと先にゆらゆらと揺れる泉が見える。あそこに着けば飲めるだろうか。けれど、あれは蜃気楼、あるいは逃げ水。決して追いつけない、幻の水。それは甘いか、冷たいか。
迷子の迷子の子猫さん、あんたは水が欲しくないのかい?
声が聞こえた気がした。幻聴、だろう。
森が見えてきた。猫が飛び込む。同じように霊夢も。
木々に、草花と、鬱蒼と茂る森だった。
幹がおそろしく高く、遥か頭上では雑多な木の梢が、血管のように複雑に絡み合い、隙間なく覆っているため、昼なお暗い。黒々とした葉は夜空のように見え、真下の土は闇より濃い。わずかな光しか入らないために、森の中はひんやりとしていて、焼けた体には有難かった。
風が、吹く。かすかに露を含んで湿りを帯びた。葉が揺れる。ざわざわ、ざわざわ、と音を立てて。負けじと蝉が鳴く。あらゆる蝉が、鳴く。慎ましく射し込む光は、白、赤、黄金、糸のようであり、矢のようであり、靄のようで、めまぐるしく乱舞する。
黒い葉が、熱が、風が、五色の光が、蝉の鳴き声が、
全てが不均等に溶け合って、ぼうっとした頭に雪崩れ込み、
やがて、
音が絶えた。
風が凪いだ。
突然に音という音が消えた。
風は、そよともせず、梢は凍りついたように動かない。異様な静寂に辺りは包まれた。とうとう五感が狂れたか、と思った、が、六感はそうでないと告げる。
いつの間にか森を抜けていた。急に暗い処から明るい処に出たため、瞳孔が細まるのを感じた。
気が狂わんほどの暑さが、いまは不思議と鳴りを潜めている。
ここはどこだろう。
掌を額にかざし、彼方を見やる。ぼんやりしていた頭が覚醒していくのと同時に、目の前にいくつもの家屋が建っているのを理解した。
こんなところに人里があったかしら、と疑問に思ったが、なによりもいまは、水が飲みたかった。喉は相変わらず渇いたままだ。なんであれ人里は有難い。ここなら飲み物にありつけるだろう。
猫はとうに見失っていた。けれど霊夢は慌てなかった。なんとなくあの猫もここにいるような気がしたからだ。
霊夢は近場の家を目指して歩き出す。
背後に広がった森がわずかに朱に染まる。日が傾き始めていた。
(三)
ひしめく家々を縫うように紡がれた、小路を歩く。静かだった。人っ子ひとり、いない。
妙だわ、と霊夢は思った。
両側に建つ家屋からも人の気配というものが感じられず、かといって廃屋だと称すには、どれも小奇麗で、汚れた様子もなければ、壊れてもいない。ただ、その綺麗さが妙だった。どの家からも暮らしの臭いというべきか、生活の痕跡というものが、ごっそりと欠落している。人の営みと、家とが調和せず、片方だけが浮いていた。まるで人里を模倣するためだけに家屋を建てたようで、本来の用途として使おうとする感じがしない。
家々が住人を拒絶したのか。それとも住人が必要としなかったのか。
その不調和が、見るものに奇妙な印象を与えた。霊夢も変なの、と思いはしたが、焼けつくような喉の渇きは激しく、ささやかな疑念はすぐに忘れ去られた。
お水が欲しいな。誰か、いないのかしら。
あたりを見渡しても人影はどこにも見えない。そのくせ、どこの家も戸を開け放している。誰が使うというのか。こうなったら勝手に上がりこんでやろうか、と考えた、その矢先。
――ちりん。
涼やかな音色が、響いた。
ここへ来て初めて耳にした、音だ。風鈴の音。近い。その側へと歩く。
――ちりん、ちりん、ちりりりん……。
破風造りの軒にぶら下げられた風鈴がそよ風に揺れていた。そのたびに、りん、りん、と玲瓏な音が、熱を帯びた夏の空気に、冷たく染み渡る。軒下には他に、縁台がひとつあるだけで、あとはなにもない。
開け放された戸から内を覗く。三和土、上がり框が目に入り、床に大小の箱がいくつも並べられていて、その隣に朱塗りの盆。その上に、誰が置いたのか、水をなみなみと湛え、表面に珠のような無数の水滴を浮かばせた、ビードロのグラスと錫の水差しがあった。
ひったくるように霊夢がグラスを手に取ると、一気に中身を飲み干した。慌てて飲んだため、水が思わぬところに入り、眦に涙を浮かべて咽こんだ。
それでも一生を得た心地。落ち着いたところで水差しを取り、グラスに注ぐ。今度はゆっくりと、味わうように、飲む。それから、ほうっ、とひと息。乾いた土が雨に濡れて柔になるように、水が体に染み渡るのを感じる。
「甘露也、甘露也」
口蓋に満ちる水蜜桃のような水の甘さに、知らず知らず感嘆の言葉がでた。
グラスと水差しをそのままに、朱盆を持ち、軒下の縁台に運ぶ。腰を据えてゆっくりと味わおうという心算だったが、ふと、何を思ったか、盆を置いて室内に引っ返した。床に並べられた無数の箱。気になったのはこれだ。そのうちのひとつ、中くらいの大きさのもの、を手に取る。ずっしりとした重みを掌中に感じる。
蓋を、開ける。
「あら……!」
途端に目にしたのが、箱一杯に詰められた、砂糖菓子の綾羅錦繍。朱に金、青に緑の金平糖、琥珀色の鼈甲飴、白無垢の生姜糖、紅白がめでたい饅頭、壜詰めにされた水飴、花林糖、羊羹……。色とりどりの甘味に目を奪われる。
饅頭のひとつを手に取り、頬張る。途端に相好を崩す。
さっきの水といい、このお菓子といい、誰が誰のために用意したのか。そんな当たり前のことを、しかし霊夢は、疑問には思っていなかった。なぜなら、「誰が」は分からなくとも、「誰に」は分かったからだ。
誰に――?
霊夢に、だ。
突飛な答えだが、少なくとも霊夢にとっては理に適っていた。人の住む町をしていながら人がいない町。そんな場所に、どうしてだか人を迎えるように置かれたものがある。町に人はいない。ならば、これは外から来る誰かに向けての贈り物……ではないだろうか。
いま町に、人と呼べるのは霊夢だけである。つまりその誰かは霊夢となる。しかるにこの水も、お菓子も、霊夢のために、と考えるのは道理だと思えた。
これは自分のために置かれたものだ、わざわざ考えることはない。
縁台に腰をかけ、饅頭の残りを食べる。口いっぱいに広がる甘みを楽しむ。ああ、甘露なるかな、美味なるかな。また一口、水を飲む。清らかな流れが再び染み込む、五臓六腑に。
箱から金平糖を取り出した。朱、金、青、緑の、角のある宝石を掌で転がし、口に含むと、今度は舌で転がす。さっと溶けてなくなった。仄かな甘みだけが残る。
風が吹いた。風鈴が鳴り、路傍に咲いた都忘れがわずかに揺れた程度だが、心地いい。それが疲れた体にほどよい安らぎを与え、幾分か眠気をもたらす。
やがて、とろとろと舟を漕ぎ出した。
*
ふと、視線を感じた。
眠気を振り払い、その先を見る。
猫がいた。いつ現れたのか、そこに赤い、赤い、猫がいた。
一瞬ぎょっ、とした。が、すぐに錯覚だと気がついた。血のような赤は夕焼けの色で、それが猫の白い毛を染めただけだった。
空はいつの間にか茜色をしていた。夕焼けが町を焼く。見上げた先の、家々の屋根が赤く縁取られている。あたりはすっかりと赤一色だ。
猫は動かず、じっとこちらを見ている。霊夢も猫を見返す。見返しながら、あの猫はどこにいったのかしら、と思い、ここにいる気がするんだけど、とも思った。櫛を取られたことには、まだ少し腹を立てていた。しかし、怒り狂って追いかける気はすでになく、そうしたところで見つかるとも思えていなかった。
なにより猫の行いが腑に落ちない。
猫は三年の恩を三日で忘れるという。三年もいなかったが、なぜいまになってあんなことをしたのかが分からない。櫛が欲しかったのなら、もっと前にそうしていたはずである。そこが不可解だった。
そんなことをつらつらと考え、手は知らず知らず箱へと伸びる。鼈甲飴を一掴み、摘んで食べた。また視線を感じた。
猫がいた。トラ猫だ。
また猫、と霊夢は思ったが、もう気にせず菓子を食べることに専念する。食べ終わる頃に新しい視線を感じた。確かめる必要はなかった。
菓子を手にしては食べ、そのつど視線を感じ、一匹、また一匹と、猫が増えていく。
奇妙な光景であった。さすがの霊夢も、これには半ば驚き、半ば呆れた。
縁側の周りはすでに猫だらけ。路地の傍ら、向かいの屋根の上、通りの辻、縁台の下、どこにでもいた。どこからともなくやって来た、というより、最初からそこにいたように。あるいは、菓子を包む薄紙を剥がすみたく、隠れていたものが現れたような。どの猫も気ままに遊んでいる。
なんか変だわ。これを食べたら行こうかしら。
霊夢の手が最後の菓子を摘んだとき、底に、なにかあるのに気がついた。和紙で包まれたそれを手に取り、ゆっくりと広げる。
櫛がひとつ、あった。盗られた櫛かと思ったが、違う。それは霊夢が持っていたものよりずっと綺麗で、細工もちゃんと残ったものだった。
そういえば、と思いだしたように、霊夢が自分の髪の毛に触れた。だいぶ乱れちゃったわね。
見ればあちこちで髪はほつれ、汗ばんだうなじや額にひとつ、ふたつとくっついていた。さすがに不快に感じた。
せっかくあるのだからと、手にした櫛を髪に当て、梳きだす。歯の隙間から黒い水が流れていく。淀まず、留まらず、髪の上を行く櫛の動きが、たまらなく気持ちいい。前に使っていた櫛に勝らず劣らずといった具合。
鼻歌を歌いながら何度も髪を梳く。
ひと梳き……。髪が水を吸ったように潤い、艶めく。
ふた梳き……。櫛が滑るたびに黒い水がうねりをあげる。
また、梳く……。夏の暑さも、じっとりとした空気の湿りも気にならなくなる。
毛の手入れってこんなに気持ちがよかったかしら。
不思議に思いながらも、髪を梳く手の動きは止まらず、少しずつ頭がぼんやりとしていく。暑さで朦朧とするのとは違う、眠りに入る直前の、うつつと、夢との間をさ迷うような感覚に包まれる。
心地よさが、さらに眠気をもたらし、
すとんと、霊夢の意識が、再び眠りに落ちる。
――なあお、と遠くで、あの猫の鳴く声がした。
*
また、眠ってしまった。
縁台に寝転んだ体を持ち上げ、欠伸をひとつする。どれくらい寝てただろうか。
見上げた空はすでに暗く、太陽はとうに西の果てに沈んで、そのかわり、百か、二百かの星が淡く耀いている。
地上にも星があった。
金、緑、青の色とりどりの星に見えたそれは、すべて猫の瞳だった。それが揃って霊夢を見ている。怖いとは思わなかった。
台の上に手をつき軽く体を伸ばす。く、く、く、と背中が弓なりになる。
すると、それまでじっとしていた一匹が、動き出した。
星明かりを受け、真っ黒な毛の、艶を帯びてぬらぬらと耀いた、その猫が歩き出すと、すぐにもう一匹がついていった。その後を、さらに、別の猫が追う。また一匹、また一匹、と続くうち、最後はひとつの群れとなって、霊夢の目の前から去っていく。
霊夢はただぼうっ、とそれを見ていた。
そのとき、群れの最後尾にいた猫が振り返り、にゃあ、と鳴いた。
呼ばれたように思った。
台から飛び降り、猫たちの後を追う。
なにかが変わっている気がした。はっきりとはわからない。けれど、妙だ。塀はあんなに高かっただろうか。こんな大きな都忘れがあるかしら。猫の尻尾が間近に見えるのはなぜ。
そもそもこの猫たちはどこへ行く――?
ねえ、どこへ行くの、と霊夢が聞く。
前を行く猫が振り向き、涼しいところ、と答えた……気が、する。
ああ、そうか。
星が降りそうな夜空の下を、猫たちと歩きながら、霊夢は思い出した。
猫は涼しい場所を見つけるのが得意だったんだ。
蜂蜜の金色と、ミルクの乳白色を混ぜたような、縁の淡い、ぼんやりと耀く月の光が、道を照らす。その上を猫たちが行く。
高々とした塀に無数に映る影法師。耳を立てたもの、畳んだもの、尻尾を垂らすもの、蝋燭のようにゆらゆら揺れるもの、尾の短いものに、長いもの、胴長、寸詰まり、太っちょ、痩せっぽち……たくさんの影が、さらに伸びたり縮んだりして、絶えず形を変える。時には光線の加減か、角度によるものか、影がひとつとなって、一匹の、大きな猫の形にもなった。
無数の小さな猫影。ひとつの大きな猫影。猫、猫、猫……。猫に招かれているようだわ、と霊夢は思う。なら私を涼しい場所へ連れてってくれるのかしら。
ぴたりと、合わせたように、猫たちの足が止まった。群れを掻き分け、霊夢が前に出る。
小路は途切れ、ざっくりと抉れた、勾配が急な崖の少し下には、破風造の瓦葺き屋根、懸崖造りの大きな建物。屋根の上には先客とおぼしき猫たち。みな、気持ちよさそうに寝入っていた。
ここがそうなのか、と振り返れば、先導してきた猫がじっとこちらを見つめている。その眼に、霊夢は肯定の光を捉えた。
崖の袂に近寄る。そこからふわりと、霊夢が宙へ跳んだ。夜気に紅いリボンが棚引く。
軽やかに、音もなく、屋根へと着く。寝ている猫の間を抜け、一等眺めの良さそうな場所を探す。
あった。屋根の先端、一匹の猫が背をこちらに向けて座る、その場所が、良さそうに見えた。
猫の横に霊夢が腰を下ろす。そこからは町並みが一望でき、はるか彼方には黒々とした森、月の灯で、仄かに青白い色をした、人の住まぬ家々、眼下に広がる空き地は、夏草の海。その波間にも、無数の猫が。
人のいない町だわ。猫ばかり。いまさらながらに、そう思う。
夜風が駆け抜けた。夏草の海原が、うねる。陸に上がった海神の声を聞く。風はひやりとし、心地よかった。猫が選んだ場所だけある。屋根の上はたいそう涼しい。
さきほどから身動ぎもしない、傍らの猫が、ふと気になった。体を寄せて正面から見た。
それは猫であって、猫でなかった。精巧に作られた木彫りの像だった。毛の一筋まで彫られた像は、遠目では本物と大差なく見える。
眼が、きらりと光った。月明かりに、片方にだけ嵌められた、ビードロの眼が煌いたのだ。ずいっと、さらに寄り、眺む。そこに。
映ったのは、霊夢でなく、ぬばたまの闇より深い、黒い毛並みが艶やかな、紅いリボンを首に巻いた、猫が一匹。
驚いて身をすくました、けれど、それも、一瞬のこと。
私は、猫なんだ。
猫に変成していたという事実を、霊夢は当たり前のように受け止める。昔から……とはさすがに思わないが、どこかで自分が変わったという気はしていた。
ただ、そのどこかは、いつなのか。記憶を振り返る。櫛で髪を梳いた時か、菓子を食べた時か、町に迷い込んだ時か、あるいは。
半年前……。
神社にあの猫を入れた頃かも、しれない。あのとき私は、二つに別れたのか。人の体の霊夢と、魂の霊夢に。なにごとにも囚われぬ幻想郷の巫女は、魂さえ定まらぬと言うのか。
なら私は、どこに体をおいてきたのかしら、と思う。
畳の上に突っ伏したまま、あるいは縁側に寝転ぶか、布団の中で、いまも猫を抱いたままに丸まった、自分の姿を幻視する。
寝てばかりじゃない。猫ならぬ寝子だわね。
おかしくなって笑おうとした、けれど、出てくるのは、なあおという、あの鳴き声ばかり。
なあお、なあお。夜空に鳴く。どこかで誰かが鳴き返す。
どこもかしこも猫ばかりだわ。じっと高みから町を見る。この町は猫のための町なのだ、とようやく気がついた。
逃げ水を追い求め、夢うつつが溶け合う蝋細工の道をさ迷い、果てに行き着いた陽炎の里、幻影の町。そこに住まうは影法師ばかりと聞くが、本当は猫だったのだ。紫の嘘つきめ、と思う。
考えてみれば、不思議なことではない。
幻想郷の外は人ばかりの世界だ。人でなしの妖怪には住みにくい。住みにくいから、住みやすい場所を求めて妖怪たちは幻想郷を造った。いわば幻想郷は人でなしための世界だ。
その人でなしの間でさえ、人でなしなりの軋轢が生じる。故に、妖精は妖精の住処を、天狗は天狗の里を、河童は河童の町を、幽霊は幽霊の国を造り、住み分ける。妖怪神霊の類だけに及ばず、犬や、鳥や、狼や、鼠や、そして猫が、自らの住みやすい国を作ってもおかしくはないだろう。
ここは猫たちの幻想郷なのね。
そう思ったとき、視線を感じた。
空を仰ぐ。月が……と思ったそれは、月ではなかった。
金色の虹彩に、縦に裂けた瞳孔。巨大な、猫の片目だ。それがじっと、霊夢を見下ろしている。
瞳孔が細まる。笑っているように見えた。
なんとなくその目が、あの三毛猫の目に似ている、と思った。
あの猫はこの町の神様だったのかもしれないわ。
なあお、と一度だけ、月に向かって霊夢が、鳴く。
それから後は目を閉じ、ただ、もう、とろとろと寝入るばかりであった。
(四)
博麗神社から霊夢が姿を消してからしばらく経つと、さすがの妖怪や魔法使いたちも少々慌てだした。
だが、巫女を探そうと相談していた矢先に、ひょっこりと、本人が戻ってくるのを見るなり、みな安堵半分、迷惑半分な顔をし、お帰りの一言と、その倍以上の皮肉を言うと去っていった。
ただ一人、霧雨魔理沙だけが霊夢に食って掛かり、怒りと安心が複雑に入り混じった言葉を散々に浴びせ、
「こんなに長いことどこへ行ってたんだよ!」
と言ったとき、霊夢は怪訝そうに眉を寄せ、
「三日くらいで大げさな……」
そう答えたが、
「呆けたのか? お前、九日もいなかったんだぜ!?」
*
あの日から件の三毛猫は姿を消し、爾来、一度も見ない。
同じように、猫が盗んだ櫛も霊夢の元にはついに戻らなかった。
あの猫がなんだったのか、それを知る由は霊夢には、ない。けれど、自分があの町に誘われたことと、猫になった理由だけは、何となくだが分かる。
あれは恩返しだったのかもしれない。
私は涼しい場所が欲しかった。そのためなら猫になってもいいと思っていた。だから、あの猫は……。
猫は三年の恩を三日で忘れると言う。三日――実際には九日だった――が過ぎた後、自分が猫町でなく、原っぱで、人間の姿で、目を覚ましたのもそれだから……なのだろう。
櫛については、気にしなかった。
いま、霊夢の手元にはあの櫛に劣らぬ櫛がある。惜しかったという気はやはりあるが、失ったものを嘆いても仕方がない。
今日もその櫛で自身の黒髪を梳く。
彫りが精巧な、美しい、つげ櫛で。
裏には、鮮やかな都忘れの花細工。
表には、破風造の屋根。その上に、月のような目をした、三毛猫が、一匹。
その猫が境内に棲みつくようになったのは、二月も終わりの頃だったと、霊夢は思う。
冬の名残が雪となって降り積もった、肌寒い朝のことである。
早朝であった。太陽は、まだ東の山の頂を少し越えたばかりで、日差しは弱く、あたりはしんしんと冷えている。霊夢は境内に積もった雪を、朝のうちに片付けようとしていた。
早起きをするつもりはなかった。が、どうにも寒くて目が覚めた。布団の中は暖かい。しかし、外に出た顔はその恩寵の限りでなく、そこを忍び込んだ冷気が容赦なく苛むのだから、眠れない。別けても耳を突く寒気の針の冷たいこと、痛いこと。堪らない。あまりにも寒いから顔を布団の中に引っ込める。それで寒さからは逃れられるが、しばらくすると息苦しくなり、耐えられなくなって、顔を出す。また冷える。また引っ込める。
繰り返すうちに馬鹿らしくなった。なにより眠気もどこぞに吹き飛んだ。これならさっさと起きて掃除でもした方がましだ、と思うなり布団を跳ね除け、寝所を後にした。
それから手短に食事を済ませ、身支度を整えていまに至る。
境内のそこかしこに雪は積もっている。朝日を受け、きらきらと輝くそれは、綺麗だというより目に痛い。なによりも量の相当なのが、霊夢の乏しい労働意欲を忽ちに萎えさせた。
一昔前なら、雪だ、雪だ、とはしゃいで、雪合戦雪玉転がしに雪だるまと勤しみ、末はかまくら作り、と楽しんだはずが、分別のつく年となった霊夢にとって雪とは冷たいもので、寒いもので、邪魔なものであった。面白いものではない。
犬のように駆け回ったのは過去のこと。幼女の頃は子犬であるが、少女となればすなわち、猫である。猫は炬燵で丸くなるものだ。駆け巡ることもなければ、まして掃除など。
そもそも、と霊夢は思う。急いで雪かきする必要がどこにあるのか。
即座に、ない、という答えが出る。
考えてもみなさい。この雪の時分にわざわざ神社を訪れる客がいるだろうか。よしんばいても、それは妖怪か魔法使いといった、普通でない連中らだ。普通でない者が、そうでない者の苦労を苦労と思うはずがあるか。雪道を歩くことなど苦労のうちにも入るまい。
そう思うと雪かきが馬鹿らしくなった。
しばらくすれば日も高くなるだろう。高くなれば日差しが強まり、雪も溶ける。溶けた雪は水だ。水は石畳を通り、その下の土に染み入る。それから菜の花に福寿草仏の座、梅の満作藪椿、無数の花々の滋養となる。雪とは、つまり、天からのお布施だ。謂わば、高天原に神留り云々の神様が、自然へともたらした有難き恵みであり、要するに、人間が勝手にどうこうしていいものじゃない。
レティは退治せずとも春に溶ける。溶けた後にはリリーホワイトが生まれて花を咲かす。人の手はいらぬ。なにもせずとも世は回る。それこそが真理だと、豁然と悟った。
餅は餅屋にと言うのだから、自然のことは自然に任せましょう。
余は行雲流水なり。世は有為転変たり。なにもずっと雪のままじゃあるまいてと、暢気に考え、道具を集めるなりそそくさと、母屋に向かって歩き出す。
その道すがら。声が聞こえた。
おやと、思い、耳を澄ます。すると、
なーお。
と、猫の声。あたりを見回す。
なーお。
また鳴いた。近い。
後ろを振り返る。いた。神社の入り口、白一色の境内でそこだけが鮮やかに紅い、鳥居の下に。どこから来たのか、一匹の猫がちょこんと座っている。毛並みの良さそうな、ふくふくとした三毛猫だ。尻尾を振りながら霊夢に近づいてくる。
足元に着くなり、剥き出しの霊夢の脛に顔を擦りつけた。すっかりと冷えてしまっただけに、その僅かな温もりがなんとも気持ちよく、そしてこそばゆい。
屈みこみ片方の手で頭を、もう片方で喉を撫でる。猫は気持ちよさそうに目を細め、ごろごろと喉を鳴らした。
「こんなところに猫なんて、珍しいわね」
両手で包み込み親指の腹で猫の頬を撫でる。また気持ちよさそうな顔をし、金色の片目――もう一方は硬く閉じされ、後にそこが盲目なのを知った――を向け、細めた。その邪気のなさに自然と霊夢の顔もほころぶ。
「あんたどこの子? 家猫? 野良猫? 迷い猫?」
ほらほら、と猫の前足を手に取って、拍子をとりながら言う。
迷子の迷子の子猫さん、あんたのお名前はなあに?
なーお。
鳴いてばかりの子猫さん、お名前がちっともわかりません。
なーお。
「なーお」
真似て、鳴いた。なあおォと語尾を伸ばす。
それがなかなかに似ているものだから、我ながら猫っぽいわね、とおかしくなり、けらけらと笑った。
「なんてね。化け猫でもないかぎり喋れないもんね」
両脇に手を差し込み持ち上げた。猫は特に抵抗もしない。されるがままに、霊夢の手に支えられ、目を細く閉じてその顔をじっと見ている。左右に揺する。ぶらぶら。ぶらぶら。それに合わせて尻尾も揺れた。尻尾は、やはり一本だ。
これにはさすがの猫も、うなあ、と抗議の声を上げた。
あはは、ごめんごめん、と悪びれもなく言う。それから地面に下ろし腹ばいにさせ、撫でようとした。今度は猫も軽くじゃれる。後ろ足があがり、ふと、下半身に目がいき、
「あら」
と、声が漏れた。
「あら、あら、あら。……」
足を掴み、まじまじと猫の下半身――股間の部分を見る。乙女としてはあるまじきはしたなさだが、霊夢は気にしない。ぶらぶら。揺する。ぷらぷら。揺れる。うなあ、と羞恥か、抗議か、ひと鳴き。
ひとしきり眺め、ぽつり、と一言。
「あんた、男の子なんだ」
いかにも、その三毛猫は雄であった。
雄の三毛猫は珍しい。霊夢も目にするのは初めてである。一説では、雄の三毛猫は福を招くと云われ、巷では高値で取引されるとも云われる。それほどに雄は稀有なのだ。
もっとも珍しいということはともかく、それ以上のことを、霊夢は知らない。知っていたとしても、気にもしないだろう。猫は、猫だ。霊夢にとってそれ以上の意味はない。
天狗あたりなら喜んで記事にするかな?
そんな考えが頭に浮かんだ。いや、案外すでに書いているかもしれない。なにしろ神出鬼没が人の形をしているような連中だ。さっきの自分の姿を撮られてなければいいのだが。
いらぬ誤解を招くのは勘弁したいわね、と霊夢は思う。
猫は、すでに足から手が離されており、ちょこんと座りなおし、毛繕いをしていた。
出し抜けに冷たい風が吹き、霊夢の腋を撫でた。思わずくしゃみを、ひとつ。
寒い。忘れていた、神社に戻るんだった。
あそこでは、暖かい炬燵が待っている。冷えた体には湯浴みがいいだろうか。いや、熱燗で体の内を暖めるのも、悪くない。そう思うと居ても立ってもいられなくなった。
帰ろう、と立ち上がる。
「じゃ、私は帰るから。あんたもはやくねぐらに戻りなさい」
軽く頭を撫でてやるとさっさと立ち去った。それが二、三歩も行かぬうちに止まる。気配を感じ、振り返り、
「あんたねえ……」
ため息をつく。猫がついて来ていたのだ。
「駄目よ。ちゃんと帰りなさい」
しっ、しっ、と手で追い払う。が、猫は意にも介さず霊夢の足にまとわりつき、喉を鳴らし、頬を擦り付けるばかり。てんで勝手気ままなもので。はあ、と、またため息が。
元より猫を飼う気などない。当てにされても困る。そもそもなにかを飼う、つまり手元に縛る、ということは自分の性分に反する。やはりここはひとつ強引にでも、と振り払うべく足を、
「……あー」
動かせなかった。
脛に触れる猫の毛は温い。が、その下の、皮膚は、体は冷たい。よくよく見れば毛先にも透明な雫が無数。濡れ鼠、というほどではないが、ずいぶん濡れていた。
あんたも寒いの?
なぁお。寒い、そう言った気がした。暖を求めてしきりに体を擦りつける。触れて、擦れて、すこし温まる。
雪は冷たいものね。冬は弱るものね。温もりぐらい欲しくなるでしょうよ。
ふと、考えてみた。
凍山をさ迷って、雪路の果てにようやく灯を見つける。体は芯まで冷え、指先も、つま先も、かじかんで痛い。そんな時に見つけた明かりは、さぞかし暖かく見えるだろう。それに寄せられ、温まりたいと思うのは、人も、けものも、同様か。
本当に冬は弱る。私も温まりたくなってきた。
仕方ないわね、と呟き、猫を抱き上げた。
「いい、今日だけだからね」
腕の中で、気持ちよさそうに丸まった猫の鼻を指でつつき、そう言う。
猫が、鳴いて答えた。
*
それからどうしたか。
猫は神社の軒下に住み着いていた。
当初のことを考えれば誤算なのだが、当の本人はもう気にもしていない。それどころか、いまでは縁側で寝転ぶ猫の姿が日常の一部だとさえ思っている。
ただ変わらなかったのは、飼う気はない、という霊夢の心だった。これはまったくそのままで、どれほど懐いても、どれだけ馴染んでも、餌は一度もやらなかった。ごく自然に餌付けを拒んでいたのである。
猫も猫で、そういう扱いを気にせず、むしろ気ままにすごせるぶん、かえって歓迎しているようで、日がな一日、縁側で眠るのであった。餌はどこかで取っているのか、不思議と飢えた様子を見せなかった。
猫は縁側で、終日眠り、一週間を重ねて、一月を貪る。積もり積もってそれが半年になる。
霊夢はその横でお茶を啜り、酒を飲み、煎餅を齧っては羊羹に舌鼓を打ち、気まぐれに猫の頭や顎、腹を撫で、飽きたら止め、時には一緒に眠りこけた。
三月の春の芽生えを目で見、四月は酒を共に花の盛りを味わい、五月の新緑の爽やかさを肌で感じては六月の梅雨の冷たさに辟易し、七月、夏の訪れを暑さに感じた。
暦は流れる。
時節は八月である。
暑さも盛りで、日差しは梢を燃やさんばかりに強く、金剛石のように眩しい。それでも猫は相変わらず縁側にいる。巧みに日光を避け、影が差す、涼しいところで寝そべっている。
その横に、霊夢はいなかった。
霊夢はその隣の居間にいた。理由は、明白だ。暑いからである。あまりにも日差しが暑すぎるのだ。暴力的だといってもいい。なにが悲しくて、縁側で日に焼かれなければいけないんだと、居間に逃げていた。それでも、
暑い、暑くて死にそう。
夏場の茹だるような熱気はいかんともし難い。時折吹いてくる風は涼しげ、というよりも生ぬるく、淀んだ熱を混ぜ返すだけで、かえって酷さを増した。
ああ、なんで夏はこうなのよ。
思わず愚痴が出た。ひとたび愚痴ると、どんどん出てくる。次いで益体もない言葉に苛立ち、頭に過ぎるのが。
紫にでも頼んで暑さと寒さの境界を弄ってもらおうかしら。霖之助さんの処から涼しくなるものでも貰ってこようかしら。いっそのことチルノを捕まえて天井からぶら下げてみよう……、といった、剣呑な考えばかり。
ぽたり、と汗が畳に落ちた。落ちたところが湿り、不愉快だ。
ううっ。
思わず呻った。
夏は暑いのが当たり前、暑くない夏の方が異常だよ、誰かが鹿爪らしく説く。知ったことか、と心の中で罵り返す。噛みつかんばかりの表情で。まるで凶暴な猫のよう。
乱れ解れた髪が、汗に濡れた頬に張り付く。直す気力もない。顎をべったりと畳につけたまま、両手はだらしなく横に投げ出され、高々と持ち上げられた、肉づきの薄い尻が、身動ぎするたび左右に動く。ちょうど猫が伸びをする姿勢をいい加減にカリカチュアしたような姿だ。
しなやか、と言うよりも弛みきったゴムのようにだらしなく、色っぽいよりむしろ、はしたない。乙女という字が目にしたら気死しかねない有様であった。
だんだん猫に似てきたかしら、とどこかで冷静な自分がぼやいた。
ぼんやりとした目を縁側にやった。そこから外の景色を眺める。
蝉の鳴き声が、耳に響く。油蝉、ミンミン蝉、ニイニイ蝉、蜩と。寒蝉……はさすがにまだ早い。単調な旋律が、眠気を誘う。
眩しすぎる白光が目に痛い。木々の色は日光に焦がされて、濃緑色が、黒ずんだ墨色に見えた。束の間、全てが白と黒に染まる。日輪の輻射の悪戯に、惑わされる。
草いきれの臭い。焼けた土の香り。咽そうだ。
視界の果てに、奇妙なものを見た。
ゆらゆらと、それは頼りげなく揺れて、輪郭は幽かに、形は溶けた蝋燭のように歪んでいる。
……逃げ水?
あるいは、蜃気楼とも。
夢と、うつつの隙間に浮かぶ、陽炎の里。幻影の町だ。そこに住まうのは影法師ばかりだと聞く。
遠くにあって、近寄ろうとすれば遠ざかる、決して追いつけない、水のようなそれを、だから人は逃げ水と呼ぶのだ、と以前に紫が言っていたのを、思い出す。
水……幻の水。それは甘いだろうか、冷たいだろうか。
暑いのがどうにもならないのなら、せめて涼しい場所へ行きたい。縁側にいる猫がそういった場所にいることを思い、霊夢は羨んだ。
ああ、あの猫はなんで平気なんだろう。暑くはないのか。猫の身ならこの暑さを感じないとでもいうのか。そうなら、私も猫になりたいわ、と、そう思ったとき、
なあお。
鳴き声が。
霊夢がそちらに目をやる。障子の向こう側から猫が現れた。
ひとつだけの、金色の瞳がじっと見つめる。
その口には櫛が咥えられていた。
(二)
その櫛を手に入れたのも二月であった。
真冬の香霖堂。暖を求めて訪ねた日のことだ。
店主が淹れたお茶に、店のストーブとで体を十分に温め、その後で店内を物色していたら、部屋の奥まった、うっすらと埃が被さり少し黴臭い、あまり人が寄りつきそうない処に、それがあるのに気がついた。
何気なく手に取り、埃を払う。試しに二、三度髪を梳いてみた。
それからにんまりと笑い、
「霖之助さん。これ、貰うわね」
霊夢の声に、霖之助は、またか、と諦めたような顔で読みかけの本を閉じ、立ち上がった。今日は何を持っていくんだと、ため息をつきながらその品物に目をやる。
それを見るなり、少し驚いた顔で、
「それでいいのかい?」
と、言った。
口にしてから、迂闊なことを言ったな、と後悔した。が、依然と不思議に思う気持ちは消えない。
櫛そのものは別に珍しくない。香霖堂において、櫛は数少ない売れ筋商品――持っていかれることもあるが、きちんと買う客もいる――で、当然ながら買う客は女性がほとんどだし、霊夢とて年頃の少女なのだから、欲しがるのは、至極当然のことだ。
ただ年頃の少女なら、それはあまり手に取りそうもない品であった。
売れ筋商品だけに櫛の種類は多い。
柘植に柞に鼈甲。漆塗り、朱塗りに金、銀の蒔絵。螺鈿細工と青貝。透かし彫りの蝶、浮き彫りの鷺、牡丹に椿。華美なものから古雅なものまで、かなりある。しかし霊夢が手にしたのはそういった品ではなかった。
典型的なつげ櫛だった。
精緻な細工が施されているが、長い歳月にさらされたために磨耗が激しく、ところどころ模様が欠落し、殊に真ん中の部分など何があったのか分からないほど。色も全体的にくすんでおり、それを趣があるとみるか、汚いとみるかで評価が分かれる。霖之助は、前者であったが。
「君は汚いと思わないんだね」
「なにが?」
「その櫛がだよ。見た目が綺麗なのなら、もっと他にあるのにさ。なんでわざわざそんなのを選んだのかな、って」
「綺麗も汚いも関係ないわ。これ、櫛じゃない」
「そうさ。櫛だよ」
「櫛って髪を梳くためのものでしょう?」
「僕の能力を使って調べるまでもないね」
だからほら、と、言って霊夢が髪を梳く。
櫛が霊夢の豊かな黒髪の上を滑っていく。淀まず、止まらず。ちょうど清流を行く小舟のように。髪が川なら、櫛が舟かなと、霖之助は思った。
「ね、滑りがいいでしょう。歯に髪が引っかからなくて、流れるように梳けて」
気持ちいいわと、言う。
「だからこれ、好きよ。いくら綺麗でも髪のとおりがよくないのは、いや」
見てくれよりも実用性か、と思ったが、いや、少し違う。快か、不快、それだけのことだ。飾り気の無い、素直な感情が彼女の基準なんだ、と霖之助は気づいた。
まあ、いいか。
なにを言ったところで、霊夢が持っていくのは変わらない。が、不思議と構わない気がした。
このまま店に置いていても買い手がつかず、埃に埋もれて黴の肥やしになるのが関の山だ。そうするくらいなら霊夢にあげるのも惜しくない。
そもそも道具は使われてこそ意味がある。少なくとも黴の餌になるのは本意であるまいし、使い道が判っているのなら尚更だ。霊夢に使われる方が、道具にとっても幸せだろう。
今回ぐらいは目を瞑ろう、と思い、
「いいさ。持っていっても」
そう言うと、
「なに言ってるの、霖之助さん。私のものよ」
霊夢は悪びれもなく応じた。
霖之助が、大げさにため息をついた。
気にもせず霊夢は櫛を見つめ、飽きることなく眺める。明かりに透かし、裏返し、また戻し。彫り細工の模様がくるくる変わる。
裏に磨り減った都忘れ。表に破風造の屋根に、小さな月。月……と思ったのは、そこだけ、忘れられたように、丸い珠が残っていたため。月の周りは、漠とした、空白。
その空白が、少し気になった。
*
「あっ……、こら!」
驚いて声をあげた。その途端、猫が駆け出した。外へ。縁側を越え、庭から、境内に。
「ちょっと……! あんた、待ちなさい!」
慌てて起き上がり、後を追う。踏み石に置いた靴を突っ掛け、庭に走り出た。猫はすでに鳥居を潜り、石段へ。伸びた尻尾が視界から消える。
反射的に飛ぼうとしたが、あの大きさだとかえって見失いかねない、と考え直し、走って追った。
鳥居を抜け、険しい石段をひとつとばしに駆け下りる。その遥か先を、猫が行く。
容赦のない日差しに汗の玉が吹き出た。額に、背中に、腋に、二の腕に、ぷつぷつと。石段を踏むたびに飛び跳ね、灼熱の地面に落ちると、短い悲鳴を上げ消えていった。
霊夢が、走る。
猫はさらにその先を。まだ、追いつけない。
石段が終わる。
焼けた土の道にまず猫が着いた。すこし遅れて霊夢。一人と一匹の追いかけっこが続く。
草いきれに包まれた、だらだらとした畦道。両側は渺々たる青穂の海が広がるばかりで、日を遮るものは何ひとつない。その道をただ走る。荒い息を吐きながら。
遠くで蝉が鳴いている。
風が穂を揺らす。
剥き出しの肌が痛んだ。痛いのはそこだけではない。体の中が焼けるように熱い。目がちかちかとした。白光に炙られつづけたせいだ。自分の目から、色という色が溶け、失われていくのを感じる。青穂や木々だけでなく、澄み切った青空さえ、墨で掃いたように黒くみえた。他の色といえば、畦道、入道雲、日の光の、白一色のみ。
猫はなおも道の先を……どこまでも、どこまでも。
その姿も真っ黒で、まるで影法師のよう。あるいは、あれは太陽に焼かれ黒焦げになった残骸なのかもしれない、と思う。猫なんてもう、いないんじゃないかしら。そもそも本当に自分は猫を追いかけたのか……。
暑さで頭はぼう、としてきた。なにかを考えるのも億劫だった。ただ憑かれたように後を追った。
垂れた汗が目に入り、視界を滲ませる。景色も歪む……その変容が、まるで、溶かした硝子を歪んだままに固め、そこにうつつの色と、幻の色とを混ぜて注ぎ込んだように……曖昧で、はっきりとしない。
ひどく、喉が渇いた。
水が欲しいな。
ずっと先にゆらゆらと揺れる泉が見える。あそこに着けば飲めるだろうか。けれど、あれは蜃気楼、あるいは逃げ水。決して追いつけない、幻の水。それは甘いか、冷たいか。
迷子の迷子の子猫さん、あんたは水が欲しくないのかい?
声が聞こえた気がした。幻聴、だろう。
森が見えてきた。猫が飛び込む。同じように霊夢も。
木々に、草花と、鬱蒼と茂る森だった。
幹がおそろしく高く、遥か頭上では雑多な木の梢が、血管のように複雑に絡み合い、隙間なく覆っているため、昼なお暗い。黒々とした葉は夜空のように見え、真下の土は闇より濃い。わずかな光しか入らないために、森の中はひんやりとしていて、焼けた体には有難かった。
風が、吹く。かすかに露を含んで湿りを帯びた。葉が揺れる。ざわざわ、ざわざわ、と音を立てて。負けじと蝉が鳴く。あらゆる蝉が、鳴く。慎ましく射し込む光は、白、赤、黄金、糸のようであり、矢のようであり、靄のようで、めまぐるしく乱舞する。
黒い葉が、熱が、風が、五色の光が、蝉の鳴き声が、
全てが不均等に溶け合って、ぼうっとした頭に雪崩れ込み、
やがて、
音が絶えた。
風が凪いだ。
突然に音という音が消えた。
風は、そよともせず、梢は凍りついたように動かない。異様な静寂に辺りは包まれた。とうとう五感が狂れたか、と思った、が、六感はそうでないと告げる。
いつの間にか森を抜けていた。急に暗い処から明るい処に出たため、瞳孔が細まるのを感じた。
気が狂わんほどの暑さが、いまは不思議と鳴りを潜めている。
ここはどこだろう。
掌を額にかざし、彼方を見やる。ぼんやりしていた頭が覚醒していくのと同時に、目の前にいくつもの家屋が建っているのを理解した。
こんなところに人里があったかしら、と疑問に思ったが、なによりもいまは、水が飲みたかった。喉は相変わらず渇いたままだ。なんであれ人里は有難い。ここなら飲み物にありつけるだろう。
猫はとうに見失っていた。けれど霊夢は慌てなかった。なんとなくあの猫もここにいるような気がしたからだ。
霊夢は近場の家を目指して歩き出す。
背後に広がった森がわずかに朱に染まる。日が傾き始めていた。
(三)
ひしめく家々を縫うように紡がれた、小路を歩く。静かだった。人っ子ひとり、いない。
妙だわ、と霊夢は思った。
両側に建つ家屋からも人の気配というものが感じられず、かといって廃屋だと称すには、どれも小奇麗で、汚れた様子もなければ、壊れてもいない。ただ、その綺麗さが妙だった。どの家からも暮らしの臭いというべきか、生活の痕跡というものが、ごっそりと欠落している。人の営みと、家とが調和せず、片方だけが浮いていた。まるで人里を模倣するためだけに家屋を建てたようで、本来の用途として使おうとする感じがしない。
家々が住人を拒絶したのか。それとも住人が必要としなかったのか。
その不調和が、見るものに奇妙な印象を与えた。霊夢も変なの、と思いはしたが、焼けつくような喉の渇きは激しく、ささやかな疑念はすぐに忘れ去られた。
お水が欲しいな。誰か、いないのかしら。
あたりを見渡しても人影はどこにも見えない。そのくせ、どこの家も戸を開け放している。誰が使うというのか。こうなったら勝手に上がりこんでやろうか、と考えた、その矢先。
――ちりん。
涼やかな音色が、響いた。
ここへ来て初めて耳にした、音だ。風鈴の音。近い。その側へと歩く。
――ちりん、ちりん、ちりりりん……。
破風造りの軒にぶら下げられた風鈴がそよ風に揺れていた。そのたびに、りん、りん、と玲瓏な音が、熱を帯びた夏の空気に、冷たく染み渡る。軒下には他に、縁台がひとつあるだけで、あとはなにもない。
開け放された戸から内を覗く。三和土、上がり框が目に入り、床に大小の箱がいくつも並べられていて、その隣に朱塗りの盆。その上に、誰が置いたのか、水をなみなみと湛え、表面に珠のような無数の水滴を浮かばせた、ビードロのグラスと錫の水差しがあった。
ひったくるように霊夢がグラスを手に取ると、一気に中身を飲み干した。慌てて飲んだため、水が思わぬところに入り、眦に涙を浮かべて咽こんだ。
それでも一生を得た心地。落ち着いたところで水差しを取り、グラスに注ぐ。今度はゆっくりと、味わうように、飲む。それから、ほうっ、とひと息。乾いた土が雨に濡れて柔になるように、水が体に染み渡るのを感じる。
「甘露也、甘露也」
口蓋に満ちる水蜜桃のような水の甘さに、知らず知らず感嘆の言葉がでた。
グラスと水差しをそのままに、朱盆を持ち、軒下の縁台に運ぶ。腰を据えてゆっくりと味わおうという心算だったが、ふと、何を思ったか、盆を置いて室内に引っ返した。床に並べられた無数の箱。気になったのはこれだ。そのうちのひとつ、中くらいの大きさのもの、を手に取る。ずっしりとした重みを掌中に感じる。
蓋を、開ける。
「あら……!」
途端に目にしたのが、箱一杯に詰められた、砂糖菓子の綾羅錦繍。朱に金、青に緑の金平糖、琥珀色の鼈甲飴、白無垢の生姜糖、紅白がめでたい饅頭、壜詰めにされた水飴、花林糖、羊羹……。色とりどりの甘味に目を奪われる。
饅頭のひとつを手に取り、頬張る。途端に相好を崩す。
さっきの水といい、このお菓子といい、誰が誰のために用意したのか。そんな当たり前のことを、しかし霊夢は、疑問には思っていなかった。なぜなら、「誰が」は分からなくとも、「誰に」は分かったからだ。
誰に――?
霊夢に、だ。
突飛な答えだが、少なくとも霊夢にとっては理に適っていた。人の住む町をしていながら人がいない町。そんな場所に、どうしてだか人を迎えるように置かれたものがある。町に人はいない。ならば、これは外から来る誰かに向けての贈り物……ではないだろうか。
いま町に、人と呼べるのは霊夢だけである。つまりその誰かは霊夢となる。しかるにこの水も、お菓子も、霊夢のために、と考えるのは道理だと思えた。
これは自分のために置かれたものだ、わざわざ考えることはない。
縁台に腰をかけ、饅頭の残りを食べる。口いっぱいに広がる甘みを楽しむ。ああ、甘露なるかな、美味なるかな。また一口、水を飲む。清らかな流れが再び染み込む、五臓六腑に。
箱から金平糖を取り出した。朱、金、青、緑の、角のある宝石を掌で転がし、口に含むと、今度は舌で転がす。さっと溶けてなくなった。仄かな甘みだけが残る。
風が吹いた。風鈴が鳴り、路傍に咲いた都忘れがわずかに揺れた程度だが、心地いい。それが疲れた体にほどよい安らぎを与え、幾分か眠気をもたらす。
やがて、とろとろと舟を漕ぎ出した。
*
ふと、視線を感じた。
眠気を振り払い、その先を見る。
猫がいた。いつ現れたのか、そこに赤い、赤い、猫がいた。
一瞬ぎょっ、とした。が、すぐに錯覚だと気がついた。血のような赤は夕焼けの色で、それが猫の白い毛を染めただけだった。
空はいつの間にか茜色をしていた。夕焼けが町を焼く。見上げた先の、家々の屋根が赤く縁取られている。あたりはすっかりと赤一色だ。
猫は動かず、じっとこちらを見ている。霊夢も猫を見返す。見返しながら、あの猫はどこにいったのかしら、と思い、ここにいる気がするんだけど、とも思った。櫛を取られたことには、まだ少し腹を立てていた。しかし、怒り狂って追いかける気はすでになく、そうしたところで見つかるとも思えていなかった。
なにより猫の行いが腑に落ちない。
猫は三年の恩を三日で忘れるという。三年もいなかったが、なぜいまになってあんなことをしたのかが分からない。櫛が欲しかったのなら、もっと前にそうしていたはずである。そこが不可解だった。
そんなことをつらつらと考え、手は知らず知らず箱へと伸びる。鼈甲飴を一掴み、摘んで食べた。また視線を感じた。
猫がいた。トラ猫だ。
また猫、と霊夢は思ったが、もう気にせず菓子を食べることに専念する。食べ終わる頃に新しい視線を感じた。確かめる必要はなかった。
菓子を手にしては食べ、そのつど視線を感じ、一匹、また一匹と、猫が増えていく。
奇妙な光景であった。さすがの霊夢も、これには半ば驚き、半ば呆れた。
縁側の周りはすでに猫だらけ。路地の傍ら、向かいの屋根の上、通りの辻、縁台の下、どこにでもいた。どこからともなくやって来た、というより、最初からそこにいたように。あるいは、菓子を包む薄紙を剥がすみたく、隠れていたものが現れたような。どの猫も気ままに遊んでいる。
なんか変だわ。これを食べたら行こうかしら。
霊夢の手が最後の菓子を摘んだとき、底に、なにかあるのに気がついた。和紙で包まれたそれを手に取り、ゆっくりと広げる。
櫛がひとつ、あった。盗られた櫛かと思ったが、違う。それは霊夢が持っていたものよりずっと綺麗で、細工もちゃんと残ったものだった。
そういえば、と思いだしたように、霊夢が自分の髪の毛に触れた。だいぶ乱れちゃったわね。
見ればあちこちで髪はほつれ、汗ばんだうなじや額にひとつ、ふたつとくっついていた。さすがに不快に感じた。
せっかくあるのだからと、手にした櫛を髪に当て、梳きだす。歯の隙間から黒い水が流れていく。淀まず、留まらず、髪の上を行く櫛の動きが、たまらなく気持ちいい。前に使っていた櫛に勝らず劣らずといった具合。
鼻歌を歌いながら何度も髪を梳く。
ひと梳き……。髪が水を吸ったように潤い、艶めく。
ふた梳き……。櫛が滑るたびに黒い水がうねりをあげる。
また、梳く……。夏の暑さも、じっとりとした空気の湿りも気にならなくなる。
毛の手入れってこんなに気持ちがよかったかしら。
不思議に思いながらも、髪を梳く手の動きは止まらず、少しずつ頭がぼんやりとしていく。暑さで朦朧とするのとは違う、眠りに入る直前の、うつつと、夢との間をさ迷うような感覚に包まれる。
心地よさが、さらに眠気をもたらし、
すとんと、霊夢の意識が、再び眠りに落ちる。
――なあお、と遠くで、あの猫の鳴く声がした。
*
また、眠ってしまった。
縁台に寝転んだ体を持ち上げ、欠伸をひとつする。どれくらい寝てただろうか。
見上げた空はすでに暗く、太陽はとうに西の果てに沈んで、そのかわり、百か、二百かの星が淡く耀いている。
地上にも星があった。
金、緑、青の色とりどりの星に見えたそれは、すべて猫の瞳だった。それが揃って霊夢を見ている。怖いとは思わなかった。
台の上に手をつき軽く体を伸ばす。く、く、く、と背中が弓なりになる。
すると、それまでじっとしていた一匹が、動き出した。
星明かりを受け、真っ黒な毛の、艶を帯びてぬらぬらと耀いた、その猫が歩き出すと、すぐにもう一匹がついていった。その後を、さらに、別の猫が追う。また一匹、また一匹、と続くうち、最後はひとつの群れとなって、霊夢の目の前から去っていく。
霊夢はただぼうっ、とそれを見ていた。
そのとき、群れの最後尾にいた猫が振り返り、にゃあ、と鳴いた。
呼ばれたように思った。
台から飛び降り、猫たちの後を追う。
なにかが変わっている気がした。はっきりとはわからない。けれど、妙だ。塀はあんなに高かっただろうか。こんな大きな都忘れがあるかしら。猫の尻尾が間近に見えるのはなぜ。
そもそもこの猫たちはどこへ行く――?
ねえ、どこへ行くの、と霊夢が聞く。
前を行く猫が振り向き、涼しいところ、と答えた……気が、する。
ああ、そうか。
星が降りそうな夜空の下を、猫たちと歩きながら、霊夢は思い出した。
猫は涼しい場所を見つけるのが得意だったんだ。
蜂蜜の金色と、ミルクの乳白色を混ぜたような、縁の淡い、ぼんやりと耀く月の光が、道を照らす。その上を猫たちが行く。
高々とした塀に無数に映る影法師。耳を立てたもの、畳んだもの、尻尾を垂らすもの、蝋燭のようにゆらゆら揺れるもの、尾の短いものに、長いもの、胴長、寸詰まり、太っちょ、痩せっぽち……たくさんの影が、さらに伸びたり縮んだりして、絶えず形を変える。時には光線の加減か、角度によるものか、影がひとつとなって、一匹の、大きな猫の形にもなった。
無数の小さな猫影。ひとつの大きな猫影。猫、猫、猫……。猫に招かれているようだわ、と霊夢は思う。なら私を涼しい場所へ連れてってくれるのかしら。
ぴたりと、合わせたように、猫たちの足が止まった。群れを掻き分け、霊夢が前に出る。
小路は途切れ、ざっくりと抉れた、勾配が急な崖の少し下には、破風造の瓦葺き屋根、懸崖造りの大きな建物。屋根の上には先客とおぼしき猫たち。みな、気持ちよさそうに寝入っていた。
ここがそうなのか、と振り返れば、先導してきた猫がじっとこちらを見つめている。その眼に、霊夢は肯定の光を捉えた。
崖の袂に近寄る。そこからふわりと、霊夢が宙へ跳んだ。夜気に紅いリボンが棚引く。
軽やかに、音もなく、屋根へと着く。寝ている猫の間を抜け、一等眺めの良さそうな場所を探す。
あった。屋根の先端、一匹の猫が背をこちらに向けて座る、その場所が、良さそうに見えた。
猫の横に霊夢が腰を下ろす。そこからは町並みが一望でき、はるか彼方には黒々とした森、月の灯で、仄かに青白い色をした、人の住まぬ家々、眼下に広がる空き地は、夏草の海。その波間にも、無数の猫が。
人のいない町だわ。猫ばかり。いまさらながらに、そう思う。
夜風が駆け抜けた。夏草の海原が、うねる。陸に上がった海神の声を聞く。風はひやりとし、心地よかった。猫が選んだ場所だけある。屋根の上はたいそう涼しい。
さきほどから身動ぎもしない、傍らの猫が、ふと気になった。体を寄せて正面から見た。
それは猫であって、猫でなかった。精巧に作られた木彫りの像だった。毛の一筋まで彫られた像は、遠目では本物と大差なく見える。
眼が、きらりと光った。月明かりに、片方にだけ嵌められた、ビードロの眼が煌いたのだ。ずいっと、さらに寄り、眺む。そこに。
映ったのは、霊夢でなく、ぬばたまの闇より深い、黒い毛並みが艶やかな、紅いリボンを首に巻いた、猫が一匹。
驚いて身をすくました、けれど、それも、一瞬のこと。
私は、猫なんだ。
猫に変成していたという事実を、霊夢は当たり前のように受け止める。昔から……とはさすがに思わないが、どこかで自分が変わったという気はしていた。
ただ、そのどこかは、いつなのか。記憶を振り返る。櫛で髪を梳いた時か、菓子を食べた時か、町に迷い込んだ時か、あるいは。
半年前……。
神社にあの猫を入れた頃かも、しれない。あのとき私は、二つに別れたのか。人の体の霊夢と、魂の霊夢に。なにごとにも囚われぬ幻想郷の巫女は、魂さえ定まらぬと言うのか。
なら私は、どこに体をおいてきたのかしら、と思う。
畳の上に突っ伏したまま、あるいは縁側に寝転ぶか、布団の中で、いまも猫を抱いたままに丸まった、自分の姿を幻視する。
寝てばかりじゃない。猫ならぬ寝子だわね。
おかしくなって笑おうとした、けれど、出てくるのは、なあおという、あの鳴き声ばかり。
なあお、なあお。夜空に鳴く。どこかで誰かが鳴き返す。
どこもかしこも猫ばかりだわ。じっと高みから町を見る。この町は猫のための町なのだ、とようやく気がついた。
逃げ水を追い求め、夢うつつが溶け合う蝋細工の道をさ迷い、果てに行き着いた陽炎の里、幻影の町。そこに住まうは影法師ばかりと聞くが、本当は猫だったのだ。紫の嘘つきめ、と思う。
考えてみれば、不思議なことではない。
幻想郷の外は人ばかりの世界だ。人でなしの妖怪には住みにくい。住みにくいから、住みやすい場所を求めて妖怪たちは幻想郷を造った。いわば幻想郷は人でなしための世界だ。
その人でなしの間でさえ、人でなしなりの軋轢が生じる。故に、妖精は妖精の住処を、天狗は天狗の里を、河童は河童の町を、幽霊は幽霊の国を造り、住み分ける。妖怪神霊の類だけに及ばず、犬や、鳥や、狼や、鼠や、そして猫が、自らの住みやすい国を作ってもおかしくはないだろう。
ここは猫たちの幻想郷なのね。
そう思ったとき、視線を感じた。
空を仰ぐ。月が……と思ったそれは、月ではなかった。
金色の虹彩に、縦に裂けた瞳孔。巨大な、猫の片目だ。それがじっと、霊夢を見下ろしている。
瞳孔が細まる。笑っているように見えた。
なんとなくその目が、あの三毛猫の目に似ている、と思った。
あの猫はこの町の神様だったのかもしれないわ。
なあお、と一度だけ、月に向かって霊夢が、鳴く。
それから後は目を閉じ、ただ、もう、とろとろと寝入るばかりであった。
(四)
博麗神社から霊夢が姿を消してからしばらく経つと、さすがの妖怪や魔法使いたちも少々慌てだした。
だが、巫女を探そうと相談していた矢先に、ひょっこりと、本人が戻ってくるのを見るなり、みな安堵半分、迷惑半分な顔をし、お帰りの一言と、その倍以上の皮肉を言うと去っていった。
ただ一人、霧雨魔理沙だけが霊夢に食って掛かり、怒りと安心が複雑に入り混じった言葉を散々に浴びせ、
「こんなに長いことどこへ行ってたんだよ!」
と言ったとき、霊夢は怪訝そうに眉を寄せ、
「三日くらいで大げさな……」
そう答えたが、
「呆けたのか? お前、九日もいなかったんだぜ!?」
*
あの日から件の三毛猫は姿を消し、爾来、一度も見ない。
同じように、猫が盗んだ櫛も霊夢の元にはついに戻らなかった。
あの猫がなんだったのか、それを知る由は霊夢には、ない。けれど、自分があの町に誘われたことと、猫になった理由だけは、何となくだが分かる。
あれは恩返しだったのかもしれない。
私は涼しい場所が欲しかった。そのためなら猫になってもいいと思っていた。だから、あの猫は……。
猫は三年の恩を三日で忘れると言う。三日――実際には九日だった――が過ぎた後、自分が猫町でなく、原っぱで、人間の姿で、目を覚ましたのもそれだから……なのだろう。
櫛については、気にしなかった。
いま、霊夢の手元にはあの櫛に劣らぬ櫛がある。惜しかったという気はやはりあるが、失ったものを嘆いても仕方がない。
今日もその櫛で自身の黒髪を梳く。
彫りが精巧な、美しい、つげ櫛で。
裏には、鮮やかな都忘れの花細工。
表には、破風造の屋根。その上に、月のような目をした、三毛猫が、一匹。
こういう話もいいね。
凄いとしか言えない。
気が付けば夢中になって読んでたよ。面白かった。
危うく猫が大好きに改名するところでした。
地に足が付いていない。そんな錯覚を引き起こす、幻想小説は良いね。
少し眠ってきます。
ところで霊夢って猫っぽいですよね?魔理娑もそうですが。
思わず引き込まれる文章、お見事でした。
まぁだからどーしたということではないんですけどね
少しくどさがあったのは否めませんが、それなりにすんなり読めて楽しかったです
我が家のネコはこんな恩返しはしてくれそうにありませんが。
読み終わった直後、喝采とも驚嘆とも知れない溜息が出ました。
萩原朔太郎いいですよね。