異変とは予測もできないタイミングで起こるものだ。幻想郷の内側にある香霖堂もまた例に漏れない。
ありのままに起こったことを話そう。
魔理沙にキスをされた。
「……は?」
「レモン味。気持ち悪いぜ」
しかも頬にではない。口と口との接触、マウストゥマウス。
魔理沙は事を終えると、口直しにと店に置いてあった酢昆布を口に含んだ。そのまま帳場に座ると、胸元のメモに書き込んでから、持ち込んだ魔導書を熱心に読み始めた。
珍しく差し入れで持ってきたレモンパイを頬張りつつ、魔理沙の真意をあれこれと考えたが、いつもの考察はどこへやら、長年培ってきた知恵も知識も発想も、真夏の台風の如く軽く吹き飛ばされてしまっていた。すっかり観念してしまった僕は問いただした。
「ん?興味本位」
ああそうかい。彼女なら一番納得できる理由だ。
「僕の拒否権は……聞くだけ無駄か」
魔理沙はいつもどおりの表情のまま、視線も合わせずに頷いた。彼女にとって、僕とのキスは神社でお茶を飲むくらいの気軽さなのだろう。気負いもせず、動揺の欠片もない彼女の姿に、僕は複雑な気分でいた。森近霖之助として安心したような、男として不満が残るような、曖昧な境界線の上で綱渡りをしているような心境だった。
魔理沙とは兄と妹の関係が一番近いとはいえ、他人どうしである。彼女くらいの年頃なら、見た目が二十代である僕は男として見られるのが自然なのだ。あれではまるで女の子どうしの遊び感覚ではないか。魔理沙は自覚をしているのだろうか。自分が女の子であることを。
改めて問いただすと、彼女はしかめっ面で質問を返した。
「魔法使いは好奇心が命なんだぜ。試せるものは試してみないとな。
じゃあ聞くが、お前は誰かにキスをしたくなったら……いや、キスをしなくちゃいけなくなったらどうする?例えば罰ゲームを受けたとする。誰でもいいから異性とキスしろって言われたら、お前はどうするんだよ。私はお前くらいしかいないから一択だったけど」
「む」
「私のように不意打ちができる根性があれば誰でも構わんと思うがな」
「条件を満たし、かつ保身を第一に考えるなら、頭の悪い妖怪や妖精を騙して頼むとか、かな」
「なにぃ?」
魔導書を乱暴に閉じると、人類の敵を見つけたぜ、と言わんばかりに睨みつけた。誰でもいいって言ったばかりじゃないか。
「あくまで女性とキスをするという罰ゲームをこなすためだけだ。それだけの行為として、一番安全で無難な選択肢を選んだだけだよ。納得できないなら、キスしてもらうよう正面から頼みこむしかない」
待ってましたと言わんばかりに魔理沙は帳場に飛び乗った。目を輝かせて続きを促す。やはり彼女も女の子、色恋沙汰は話の種になるのだろう。
「で、誰だ?」
「僕と知り合い以上の間柄で、誰からも損得が発生しないような対応を講じてくれる女性だね。と、なれば……ああ、うってつけの人物がいた」
「ほうほう」
身を乗り出す魔理沙に、僕は言った。
「八雲紫」
「ゆかっ……スキマだぁ!?」
どうやらかなりの予想外のようだ。おおかた、よくて霊夢あたりを想像していたに違いない。ぽかんと開いた口を押し上げてやると、魔理沙は意識を取り戻した。
「いやお前、アレにキスを頼むとか、馬鹿の範疇を超えてるぜ」
「彼女とはよく物品を取引してるからお得意様だ。知り合い以上の条件は満たしている。彼女は嫌われ者だし、友人は理解力があるか、もしくは他人に強く興味を持たない連中ばかり。貧乏くじを引くのは避けられないけど、後腐れもまた起こらないからね」
「もうちょっとまともな適任がいるんじゃないのか?アリスとかさあ。割とお得意様だろう?」
「彼女は駄目だ」
「あいつ、友達少ないぜ」
「駄目なものは駄目なんだ」
「?」
「彼女はまだ若いからね。いいかい魔理沙。キスとは、親睦を深めるスキンシップではなくて、互いの愛情を示しあう最も優れた表現方法なんだよ。家族どうしならまだしも、他人どうしで軽々しく乱用していいものではない。だからこそ、キスの重要性を理解している人物でないと安心はできないな」
「となると、香霖と紫はキスの重要性とやらを理解していることになるな」
「う」
魔理沙はニヤニヤ笑い、僕は冷や汗を流した。
「……紫は長生きしているから、妖怪とはいえ、いくらなんでも未経験はないだろうさ。
まあ、僕は……それなりに長く生きているけど、僕にだって若い時期があった、という事実だけは消しようもないね」
「それだけ聞ければ十分だぜ。ふふん、追い追い問い詰めてやるから覚悟しておけ」
満足そうな表情をした魔理沙は帳場から降りると、魔導書を回収し、愛用の帽子を脇に抱えて店を出て行った。めずらしく何も持っていかなかった。
「……追い追いは勘弁願いたいな」
魔理沙は人間だ。少女はやがて恋を知り大人になる。このまま人間として生き続けるなら、恋愛にも興味を持ち、いずれ誰かを愛し、子を成すのは、普通ならば当然の成り行きだろう。小さい頃から彼女を見てきた僕にとっては喜ばしい。かけがえのない妹のような友人が幸せを掴んでくれるのなら、霧雨の親父さんにも少しは合わせる顔が出てくるかもしれない。
キスをされた唇を指でなぞった。キスをされるのは何年ぶりだろうか。最後に交わしたキスの相手も当時の状況も覚えているのだが、正確な時間を記憶するには少し時代が流れすぎたようだ。まあ、問い詰められたらいつものようにはぐらかしてしまえばいい。どうせ相手も覚えてなんていないだろうから。
***
「香霖、ちょっと手伝え」
無縁塚で拾ったリモコンという外の装置の解析に勤しんでいる最中だった。客が来た。ただの客ではない。滅多にお目にかかれないほどの美人である。腰まで届く長い金髪をなびかせ、黒いリボンで髪先を結わえていた。黒と白のみで構成された壮麗なゴシックドレスに劣らないスレンダーな容姿は、遠目でも目を惹くだろう。
「ぼーっとしてるなよ、野郎のくせに。さっさと手伝ってくれ」
彼女は返事も待たずに次から次へと風呂敷を客間に運んでいった。横を通り過ぎる瞬間、よく見慣れた片方だけのお下げが目に止まった。男勝りの口調に金髪、そして白黒。ようやく彼女の正体を看破した瞬間、僕は喋る暇無く引っ張りまわされていた。
言われるがままに荷物を運び、一通り終えた頃には、客間はゴミ屋敷ならぬゴミ部屋へと変貌を遂げていた。見たこともないキノコが詰まった瓶、奇怪な生き物のミイラの破片、色とりどりの魔導書や書物。簡素な机しか置いていない六畳間に、物と言う物がみっちりと詰め込まれていた。煩雑に、そして渦高く積まれ、外から差し込む太陽の光すら遮っていた。かろうじで人間一人が寝転ぶスペースだけが、唯一客間としての機能を保っていた。まるで魔窟である。
「よし」
「よくない」
我慢できずに手刀を当てた。頭を押さえる謎の金髪美人、もとい魔理沙に問いただした。
「何をするんだ。協力したんだから、もう了解ってことだろ」
「状況が飲み込めないんだよ。自分の家はどうしたんだい?」
「絶好調で健在中だぜ。簡単に説明すると、だ。香霖、目を閉じろ」
言われるがままにした瞬間、嫌な予感を感じ、咄嗟に顔を逸らして退避する。魔理沙は軽く舌打ちをすると、逃がさないように僕の両肩を掴んだ。
「お前は人助けくらいできんのか」
「だから!状況を説明しろって言ってるだろう!」
「目を閉じないと撃つ」
「……勝手にしろ」
観念して目を閉じる。その先に待っているのは、先日不意打ちされたあの行為だろう。その瞬間に備えて体を硬直させる。誰でも慣れない行為はいつまで経っても慣れないものだ。
二秒。
三秒。
五秒。
いつまで経ってもやってこない不意打ちに耐えかねて恐る恐る目を開ける。拘束は既に解かれていた。果たしてそこには、袖や裾の余った服に絡まったいつも通りの小さな魔理沙が、むくれ顔で僕を見上げているのだった。
「あーあ、切れちゃったじゃないか」
不満をもらすと、客間から服を引っ張り出して家の奥へ引っ込んでいってしまった。緊張をほぐすように大きく息を吐くと、ようやくいつもの格好をした魔理沙が現れたのだった。
「まあ、こういうことだ」
魔理沙は流しに置きっぱなしのマイカップを取り出すと、勝手に紅茶を沸かした。沸かすといっても、コップに水を入れ、魔法で沸騰させ、ティーバッグを突っ込んだだけというずぼらな調理だった。
「今の行動で理解できる奴の顔が見てみたいよ」
「唐変木なお前のために簡単な説明してやるとだな、今のは変身魔法だ。その魔法を維持するには、男のキスが必要なんだ。以上、説明終わり」
息を吹きかけて冷ましながら口早に説明されたはいい。一番身近な相手が僕ぐらいしかいないから、この状況に至った理由も納得してやろう。
「どうして男のキスが必要なんだい?」
「そういう類の魔法なんだよ」
「証拠や理論もないのに、はいそうですか、で納得できるものか。心臓に悪いよ、これは」
「ああもう、まどろっこしいなあ」
魔理沙は椅子ではなくてテーブルに腰をかけた。
「これは魔法は元より呪術も使っていてな。よく物語に出てくるだろ。お姫様がカエルにキスしたら王子様に変身したって話。あの呪いを魔法理論で固めて応用して改良したのさ。
魔法と呪術っては根本が違うんだ。魔法は外部、つまり自然の力を借りてエネルギーに変換する外部出力。呪術は内部、つまり心の中にある願望を連鎖的に引き起こさせる内部出力。呪術による変身は内側から肉体そのものを変化させるのに対して、魔法による変身は外部から魔法をかけて肉体を一時的に変形させることにとって成立するんだ。捨食の魔法も捨虫の魔法も、維持するにゃ定期的に発動させなきゃいかんからな。
で、変身魔法ってのは、同系統である今の二つの魔法と違って、全体的にまだまだ開発途中で、実用段階まで発達してないんだ。外観そのものを変化させるから魔力消費もバカにならないし、失敗した時のリスクも大きい。だから私なりの安全対策として、肉体の変化に耐えれるように、薬であらかじめ擬似的に呪いをかけておいてから変身魔法をかけるのさ。
でもってキスをする理由なんだが、魔法を維持するには魔力がいるが、まだまだけっこうな量が必要でな。だから制御は魔法側で、維持は呪術側で対処させたのさ。その呪術ごとに課せられた一定のルールに従った行動さえしていれば維持は簡単だ。だから魔力の負担は最初の一回限り。あとは呪術を維持する条件、つまりこの魔法の場合は定期的に男とキスをすれば自然と魔法も維持できるって寸法だ。
もっとも、私のこれは変身よりも成長と言ったほうが正しいぜ。実際に成長させてるからな」
マシンガントークで僕を存分に撃ちのめした後に、分かったかコノヤロウ、と最後に言って指を突きつけられた。もちろん、ちっとも分からなかった。一応マジックアイテムを扱っている身ではあるが、魔理沙の頭とは次元が違うのだ。
「要は変身にキスが必要なんだね」
「正確には変身の維持だけどな。薬はもう飲んであるから、あとは魔法をかけて、必要な時間になったらキスをすればいい」
「なるほど」
「まだ研究段階なんだが、もちろん協力してくれるよな?」
「断れないように荷物を運び込んだんだくせに。今更どうこう言うのも面倒だし、好きにするといいさ。あんまり店に被害を出したり、僕を困らせたりしないでくれ」
おー、と気の抜けた返事をして魔理沙は手を振った。まったくもってはた迷惑な話だが、押し切られざるを得なかった。
「ではさっそく実験の続きをば」
喜び勇んで客間に引っ込んでから五分後、ゴシックドレスの魔女は元気よく登場した。魔法を使った際に発生したと思われる緑色の粉塵が、店の床を這って砂埃と一緒に撒き散っていった。五分で忠告を無視しやがって。
これから始まる生活に憂鬱な気分になりつつ、二人分の夕飯のメニューを考えている自分が頼もしく思えたのだった。
***
魔理沙との生活が始まった。はっきり言おう。僕の認識が劇的に甘すぎた。店に迷惑をかけるな?僕を困らせるな?そんな安っぽい約束が守れる魔理沙ではなかったのだ。彼女は意識せずとも僕の生活を散々にかき乱していった。
魔理沙が言う協力とは、必要な時間になったら彼女とキスをすることだ。なるだけ魔法を維持し、様々な項目を記録に取るのである。その時間は魔理沙本人にしか分からない。つまり、いつ、どこで、一日に何回キスをしなければならないのか、僕には知る術が無かった。魔理沙は普段、食事や風呂以外では研究室代わりの客間にこもりきりなので、いわば小型の直下型地震がひっきりなしに襲い掛かってくるようなものである。その回数は僕が考えるよりもはるかに多かった。
例えば、魔理沙がやってきた次の日。この日は一人も客が来なかった。
非常に幸運に思う。おおよそ三十分に一度、絶世の美女にキスをされているのである。しかも。
「時間だぜ香霖」
「……む」
「ちょいと失礼」
「むむ」
「エロカッコイイとやらを目指してみたんだが」
「ちょっと待て、その格好は刺激が強すぎむむむ」
「霖之助さん……」
「気味の悪い声を出すな、しなを作るなむむむむ!」
「折角だから大人どうし、大人のキスとやらを試してみようぜ」
「試してみませむむむむむ!」
「馬鹿め。やるもんか、あんな気色悪いの」
「お前のところの風呂はなかなか入り心地がいいぜ。さてと」
「せめて服を着てからむむむむむむ!?」
「阿呆。バスタオルで隠してるだろうが」
性質の悪いことに、魔理沙は僕の困った顔や赤くなった顔を見るのが楽しいのか、様々な色仕掛けをしながら迫ってくるのだ。中身がふざけている魔理沙と分かっていなかったら、僕はいったいどうなっていたのか、想像はつかない。
女性の客は多くとも、このような行為の機会など皆無な僕に、耐性などまるで無い。一日中脳が溶けているような気分で仕事に手もつけられず、何かとつけてはおもちゃにされ続け、完全に無駄な一日を過ごした。
寝る前にはすっかり疲れきってしまった僕は、柱時計を一定間隔で鳴るようにセットして、その時間にキスをするように言いつけた。
「まんざらでもなかっただろ?」
答える間もなく、その日最後のキスをされて一日が終わった。
例えば次の次の次の日。この日の客は一人。
「お邪魔するよ、店主」
新しい筆を求めてやってきた上白沢慧音は、目的の品を選んでから、ついでにと他の商品を眺めていた。
里の様子などを談話しつつ帳場に座っていると、柱時計の鐘が鳴った。客という一時(いっとき)の癒しに集中していた僕は、前々日の取り決めなどすっかり忘れ去っていた。客間からふらふら出てきた魔理沙を視界に入れた瞬間、ようやく思い出した僕は、思わず硬直してしまった。時既に遅し。
「ん」
すれ違い様で魔理沙にキスをされた。客の目の前で、堂々と、隠しもせずに。
「んん?」
魔理沙は、あたかも今気付いたように慧音を一瞥すると、
「いらっしゃい」
にっこりと微笑んで言い放った。硬直したままの僕。硬直する上白沢慧音。普段どおりの調子で鼻歌を口ずさみつつ客間に引っ込む魔理沙。
互いに顔を見合わせた瞬間、硬直が解除された。
「……邪魔したな」
「いやあれは───」
「深くは詮索しないよ。誰にしも事情はあるものだ。お幸せにな、店主」
帳場に置いていた筆を引っつかむと、顔を真っ赤にしつつ、三倍の歩幅と速度で歩き去ってしまった。代金は未払いだった。
迂闊。自分で決めた取り決めをすっかり忘れてしまうとは。回避する方法はいくらでもあったはずだ。半分は魔理沙が原因、だがもう半分は確かに僕が原因。店の胡散臭さは自分でも承知しているので、里で話題が広まる危惧はあまりないのだが───。
矛先の無いやるせなさですっかり脱力してしまい、その日も仕事に手がつかないままに一日を過ごした。
このままではいけない。もう少し都合の良い方法は無いだろうか。早くも現状に耐え切れなくなった僕は、その日の寝床で考えを巡らせた。
魔法を保つ条件は、男とキスをするのであって、僕とキスをするのではない。この性質に着目した。
当人には悪いが、どこかで男をひっつかまえる案が浮かぶ。しかし彼女は人間であって、妖怪の魔法使いではない。人間としての線引きは心得ている……と思いたい。最も理想の結論だが、却下。
知り合いの誰かに変身魔法をかけて男になってもらうのはどうだろうか。元が女なら魔理沙も相手も問題ないだろう。実験結果も二倍取れて一石二鳥だ。
一通りシミュレートして、これも無理と悟る。実現できるなら、僕などではなく、親友の霊夢や、魔法使い仲間のアリス、パチュリーに協力を求めているはずだ。
早くも手詰まり。そもそも、キスの連続で火照ってしまった脳は正常に働いてはくれないのだ。
唇は人体の中でも敏感な部類に入る。過敏な場所を何度も刺激されれば、神経から脳に伝わり、体に強い影響を及ぼす。結果、自然と体が高揚してしまうのだ。心の問題ではなく、生物として持たざるを得ない体の問題である、キスの行為を止めない限り、解決はないだろう。やがて体が精神に影響を及ぼし、理性を破壊する。
「……………」
思考を中断した。意識をすればするほど眠気は遠ざかっていく。
今日は大人しくチルノでも数えていよう。チルノが一匹、チルノが二匹、チルノが三匹、チルノが四匹、チルノが五匹……
「む?」
チルノを九匹数えてから、魔理沙の部屋を見た。真夜中を過ぎても灯りは点きっぱなしだった。
魔理沙はどうなのだろうか。彼女は人間である。半分の僕でも影響があるのだから、当然魔理沙も同じ影響が出ているはずだ。もしかしたらそれ以上なのかもしれない。彼女もまた不眠の夜と戦っているのだろうか。
「……寝よう」
チルノ数えを再開する。物事に永遠など存在しない。いずれ答えは出るのだ。せめて明日の営業に響かないように、せいぜい眠るまでチルノを数え続けてやるとしよう。
***
人の噂は一種の流行病だ。一度発病したら最後、記憶から消えるまで人々に蔓延り続ける。目の前でカメラを掲げる、幻想郷最速を誇る彼女は、幻想郷で最も早く流行病に伝染した患者の一人である。
「毎度お馴染み射命丸です。今日は香霖堂店主への突撃リポートを試みようと思います」
「うん、帰ってくれ」
「あやや、即答ですか」
「僕は客しかもてなさない主義でね」
「じゃあ何か買っていきますよ。この怪しげな飾りとか」
「買ったら帰ってくれ」
「あらら、ご機嫌斜めのようですね。ではこうしましょう。私は貴方を取材しない。その代わり、この店に泊まりこみしている美人のお手伝いさんを取材させてもらいますよ。して、その方はどちらに?」
最初からそいつが目的だろうに。相変わらずしたたかな鴉天狗に、僕は無言を貫き通した。下手な嘘は墓穴を掘りかねない。
文は勝手になけなしのお金を置くと、透明な破片に骸骨のレリーフが掘られた飾りのついた用法不明の『ストラップ』を指で弄びつつ、店内で張り込みを開始した。今朝の魔理沙の就寝は遅かったから、起きるのは昼ごろになるだろう。それまでに厄介な新聞記者が撤退してくれないかと淡い期待を抱きながら、朝食代わりの梅昆布茶をすするのだった。
「君はどこまで情報を持ってるんだい?」
正午になろうとしていた。暇を持て余した僕は、差し入れに、これから得る情報代にと、きんつばと緑茶を差し入れてやった。
「どうもありがとうございます。正直に話しますと、香霖堂に美人のお手伝いさんが現れた、くらいですかね」
笑顔で受け取ると、文は早速きんつばを頬張った。
あの状況下で美人のお手伝いさん止まりで広まったのは不幸中の幸いだ。上白沢慧音には感謝の言葉を送りたい。だが、慧音の件とは別に、文の固執っぷりが気になった。
「事件ですらないじゃないか。僕が手伝いを雇って何か面白いのかい?」
「面白いというか、興味深いですね。美人であるかなんてどうでもいいのです。店主が女性の店員を雇い、しかも仲睦まじいとなれば話は別です。十分に記事になります」
「仲睦まじいとまで君の口から聞いていないが」
「そうでしたっけ?」
上目遣いでとぼける文に尊敬の念を覚えた。立派な記者根性である。彼女の場合、本当に伝えたつもりだったのかもしれないが。
「いち商店の店主が女性と恋愛関係になるのは記事になるのかい?」
「私達天狗だけじゃなくて、妖怪の間でも割と有名ですからね。店も店主も。風変わりな品物を並べる店に、偏屈な半妖の店主。その恋愛沙汰に縁の恵まれない店主にも、ようやく相手が見つかったなら、どんな女性が店主を射止めたのか気になるじゃないですか」
「恋愛記事を書く記者に好印象は持たれないよ」
「文々。新聞は真実を伝える新聞です。読み手を面白がらせるように書くわけではありませんからご安心を。私も批評なんてあんまり気にしていませんから」
その記事自体が誇張なんだけどね、とは言えなかった。文の興味は、寝ぼけ眼で客間を出た魔理沙に全て集中していたためだ。
「あー?」
「あら?」
いつも通りの姿で現れた魔理沙は何事かと声をあげ、カメラから目を離した文もまた意中とは別の人物が現れたので声をあげた。
「なんだ、魔理沙さんじゃないですか。おはようございます」
「私の研究室は撮影厳禁だぜ、ブン屋」
「それはそれで気になるところですが、今は他に用事があるので、また今度の機会にお願いしますね。ところで魔理沙さん、寝起きのところを申し訳ありません。香霖堂が美人のお手伝いさんを雇ったと聞いたのですが、どこにいるのか知りませんか?」
「初耳だぜ。最近は夜なべ続きで眠いんだ。構って欲しけりゃ後で相手をしてやるから、放っておいてくれ」
「あやや、またふられちゃいました」
柱時計が正午を告げる。だが、今の魔理沙は変身魔法を使っていないから、いつぞやの不意打ちはない。僕は安心して頬杖なんぞをついていた。文もまた残念そうに背中の羽を下げた。
「もうこんな時間ですか。おなかも空いてきましたし、お昼でもいただきにちょっとお暇……で……も……?」
思えば、一番最悪なタイミングで油断をしていたと思う。前例があるのだから、もっと身構えておけばよかったのだ。
気付けば、魔理沙にキスされていた。射命丸文は無我夢中でカメラのシャッターを切っていた。魔理沙の動作はあまりにも自然すぎて、文の動作はあまりにも素早すぎた。
唇が離れる。文は改心の笑顔と共にカメラから目を離す。
「……………」
「ふふふふふふ」
「あー?」
頭を抱える僕。不敵に微笑む文。状況を理解していない魔理沙。
「なるほどなるほど、慧音さんの勘違いだったわけですね。幽霊の 正体見たり 黒き魔女、と。店主、魔理沙さん、取材のご協力感謝いたします」
「とりあえず感謝されるぜ。報酬は酒でよろしく」
「では!」
極上のネタを手に入れて満足顔の射命丸文は、今日も元気にかっとんでいった。魔理沙はあくびをして見送ってから、客間に引っ込もうと背を向けた。間髪いれずに呼び止める。
「なんだよ」
「今のはわざとかい?よりにもよって、彼女の前で、あんなことをするのは」
「キスか?いつも通りじゃないか」
「君は変身の魔法をかけていないじゃないか」
考えをめぐらせること十秒。魔理沙ははっとして顔を上げた。
「うっかり忘れてたぜ」
「忘れたじゃ済まされないよ。どう落とし前をつけるつもりだい?」
「落とし前?おとしまえねぇ」
またも考えをめぐらせること十秒。今度は頷きながら言った。
「そもそも、私とお前が恋仲になっても、誰か困る奴がいるのか?」
「は?」
「だから、私とお前がつきあうのに、どこに問題があるんだと聞いているんだ。たとえ誤解だったとしても、だ」
完全に予想外の答えだった。てっきり、何か稀少品でもくれてやるぜ、くらいの心意気は見せてくれるだろうと踏んでいたのだが。反論を言葉に表す用意などできる余裕は無く、僕は黙るしかなかった。
だが、今の魔理沙に、僕の主張など何を言っても通らないように感じる。彼女の目は、僕をたじろがせるほどまでに強く、まっすぐだった。
「はん。何をうじうじと考えてるか知らんが」
盛大に鼻で笑い飛ばす。
「ただ恋人どうしになるだけならくっつくも別れるも簡単だろうが。馬が合わなけりゃさっさと別れて、後になってこっぱずかしい酒のつまみにでもすればいいのさ。んでもって、馬が合って何も問題が無ければ、そのままくっついていればいい。
お前は難しく考えすぎなんだよ。もっと楽にいこうぜ。何事もやってみなくちゃ本質はわからんしな」
魔理沙は視線を外して、帽子を目深にかぶりなおした。
「この際だし、恋人どうしになってみるか?」
お互いそのまま硬直状態になってしまった。とてもじゃないが、驚きと恥ずかしさと目を合わせられなかった。
僕は心の中でとある懸念材料を思い浮かべていた。種族間の違い。人間と妖怪の距離は近くなっている、しかし所詮人間と妖怪、食うか食われるかの関係である。古来から培われてきた溝は浅くない。その見解から生まれる不幸を、僕は最も身近で体験している。魔理沙の主張は、いかにも若い人間が考える短絡的で浅はかなものである。
だが、力強さも感じたのも確かだ。彼女の中では、霊夢と同じように、種族としてではなく、その個人そのものとして他人を見ているのだろう。博麗の巫女ではなく霊夢として。鴉天狗ではなく射命丸文として。半妖ではなく森近霖之助という一個人として。
彼女は霧雨魔理沙である。魔理沙は強い。物理的に強いのは勿論、精神的にも僕は叶わないだろう。昔の彼女を知る僕にとって、魔理沙の強さを誰よりも理解しているのは、霧雨の親父さんの次に来るとしたら、きっと僕くらいなものだろうと思う。
だが。僕は霧雨魔理沙の全てを見たと言いきれるだろうか。僕の考えるような、人間離れした言動を繰り返し、傍若無人の限りを尽くす彼女は、果たして本当の彼女なのだろうか。
彼女への再評価を下す時が来たのだろう。人間の成長は早い。体が成長すれば心も成長する。もう僕の中の魔理沙は古すぎて、目の前の彼女とは別人なのだと認めなくてはならない。
「そうだねえ」
魔理沙をどう思っているのか、と聞かれたら、嫌いではないと答えるしかない。その程度の認識しか持ち合わせていないのだ。だが、好きではないのか、と聞かれてもまた、違う、と答えるしかない。実に曖昧な心情だが、他に答えようもない。
肩の力が抜ける。まあ、なんだ。なるようになってしまえ。僕と魔理沙なんて、所詮昔馴染み程度の関係だ。今更堅苦しくなっても仕方が無い。嫌いでないし、好きなものは好きなのだ。ならば。
「いいよ。なってみようか」
「お。乗りがいいねえ」
拳が差し出される。僕もまた、拳を突き出して、軽く小突きあった。
「それじゃあ、早速」
突き出した手を掴まれ、それを軸にして魔理沙が飛び込んできた。受け止めると、素早くフレンチキスをされてしまった。
「恋人だからな。キスは当たり前だろう?」
契約が交わされた瞬間。自分の置かれた状況を改めて認識させられ、一気に体温が上がった。一方の魔理沙も、照れくさい笑顔を浮かべると、逃げるように客間へと引っ込んでしまったのだった。
***
さて、言い逃れようも無い誤解の瞬間をカメラに収められてしまった僕だったが、その写真が文々。新聞に掲載されることはなかった。後に聞くと、少し興奮しすぎてピントを合わせ忘れていたらしく、当時の写真は全滅していたそうだ。最近拾った、おーとふぉーかす機能搭載のカメラを勧めてやると、彼女は喜び勇んで購入していった。毎度あり。
だが幻想郷のブン屋はタダで転ばない。噂をしっかりと自分色に染め上げて幻想郷中に話し回り、何かと理由をつけて来店する客や冷やかしを溜息と一緒に迎え入れていった。次から次にやってくるので、最終的に僕はすっかり開き直ってしまい、堂々と公言してやると、今度は相手が溜め息をついていた。
一波乱が過ぎた。既に魔理沙の研究は終えているので香霖堂に居座る理由は無いのだが、どうやら本格的に腰を落ち着けるつもりらしく、勝手に客間の大改装を開始した。改装といっても、壁に穴を開けたり、部屋を増築したりと、物理的な作業は一切無く、実に幻想郷らしい、そして彼女らしい方法を取った。紅魔館へ殴りこみ、十六夜咲夜をレンタルしたのだ。彼女は時間と同時に空間も操る。客間の空間を広くして、魔理沙の自宅である霧雨魔法店の物を一つの部屋に詰め込んでしまおうという寸法だ。
そして現在。無事に空間制御が終わり、いよいよ引越しも最終段階に移行していた。妖精メイドが魔理沙に引きつられて物を運んでいる間に、僕と咲夜、そして暇つぶしに着いて来た紅魔館の主、レミリア・スカーレットと、レミリアと魔理沙に無理矢理連れ出されたパチュリー・ノーレッジが、店内で売り物のテーブルに向かい、優雅なティータイムを過ごしていた。紅茶もまた勝手に店内の品を使って。買ってから使って欲しい。
「ティーミルクを持ってくるべきだったわね。まさか紅茶だけ置いて、ミルクが無いなんて考えられなかったわ」
レミリアは一口飲んで嘆息した。そんな需要の薄い品を置いておけるものか。すぐに腐る。牛乳は牛乳屋で買って、すぐに飲むものだ。
「ねえ店主。気分はどうなの?何か面白いことでもあった?」
「無いよ。蝋燭の在庫がすぐに減ったり、食料をこまめに買い出ししなくちゃいけなくなったくらいだ。概ねいつも通りさ」
「嘘っぽいなあ」
「嘘だと思えば実際に魔理沙と暮らしてみるといい」
彼女と過ごしている時間は少ない。大抵、外に出て採取をしたり暇を潰したりしているか、客間にこもって怪しげな実験を繰り返しているだけだ。顔を合わせるのは店への出入りに食事、風呂の時間くらいだろうか。たぶん詳しくはパチュリーも知っているはずだ。何かと彼女の図書館へ出入りしたり、泊まったりしているのだから。パチュリーは僕の視線に答えず、本に視線を向けたままだった。
「うーん、つまらないなあ。そんなの、恋人の関係じゃないわ。ただの同居よ」
「いいじゃないか、ただの同居で。嫌だったら勝手に追い出すし、向こうも勝手に出て行くさ」
実際、そんな程度の軽さで僕と彼女はこの関係を始めたのだから。
「何か面白いエピソードは無いの?引越しが終わるまで、私はしかめっ面軍団とにらめっこしなくちゃいけないの?」
「お嬢様、私はしかめっ面じゃありませんよ。メイド長たるもの、スマイルの練習は欠かしていませんから」
「私は……否定できないわね」
本で顔を隠すパチュリーの横から、にっこり微笑みながら台所から出てきた咲夜は、なけなしの材料で焼いたお菓子をテーブルに置いた。だから勝手に以下略。素早く手を伸ばすレミリアとパチュリー。このまま暇を持て余していただいてもよろしいのだが、それが原因でいびられても困る。お客のニーズに答えるのも僕の仕事、ちょうどとある話を思い出したので、少し付き合ってあげよう。
「こうなる前に、ちょっとした出来事ならあったよ。僕と魔理沙が持っている唯一の恋話だ」
三人の目が一斉にこちらを向いた。獲物を目の前にした狩猟者の目だった。
「ちょっと前の話だよ。魔理沙が香霖堂に来た直後くらいかな。魔理沙がウェディングドレスに憧れて、勝手に結婚を申し入れたんだ。言うなら、仲睦まじい兄と妹の、たまにあるやりとりくらいの軽さでね。その時は適当に流したけど」
「可愛らしいじゃない、あの子。今じゃ考えられないけどさ」
「人間は日々成長して生きていくものなのですよ」
「成長ねえ」
レミリアは咲夜を上から下までじっくりと眺めてから、引きつった笑いを浮かべた。レミリアの意図は分からない。咲夜もまた分かっていない様子だった。二人に介することなく、パチュリーは続きを促した。
「……それで、貴方はどう断ったの?」
「え?言わなくちゃいけないかい?あんまり覚えていないのだけど」
「気になるわ」
「そうだね、確か……ん?」
「?」
「……ああ」
問われて唐突に思い出し、そして唐突に閃いた。次から次へと流れ込んでくる推論を一旦記憶に留めておいて、目の前の相手へ視線を向けなおした。不意に湧き上がった感情に押し流されて、耐え切れずに少し笑ってしまったのは仕方が無いことだと思う。
「……いや、なんでもない。どう断ったかだったね……今となっては恥ずかしい限りなんだけど……」
『せめて普通にキスができるくらいに大きくなってから言ってくれ』
「……………」「……………」「……………」
三人とも唖然としてしまった。我ながら歯の浮く台詞だ。これではあらぬ疑いをかけられても仕方ない。気まずくなった僕は、紅茶を飲んで乾いた口の中を潤した。完全に墓穴を掘ってしまい、誰もが発言のタイミングを伺っていると、最も寡黙な人物が口を開いた。
「……太陽と北風の話を知っているかしら」
「有名な寓話だね」
救いとばかりに話を合わせると、咲夜は首をかしげた。レミリアは胸を張って咲夜に説明を始める。
「それなら私も知っているわ。とある旅人が着ているコートを、太陽と北風が、どちらが先にコートを脱がすか賭けをする話でしょ?北風は旅人のコートを吹き飛ばそうとして結局失敗しちゃうけど、太陽は旅人を照らして熱くすることで旅人自身にコートを脱がせたのよ」
「概ねその通りよ。似てると思わない?店主と魔理沙の成り行きが」
二人が息を飲む。話の中心になってしまった僕は、小麦粉とバターで焼かれた菓子をいただきながら聞いていた。
「店主が旅人。コートが店主が持つ心の壁。太陽と北風はどちらも魔理沙。ただし、旅人のコートを吹き飛ばす自信が持てなかった北風は、何もせずに、すぐ太陽へ役目を譲ってしまったのよ。結果としては寓話どおりだけど、少し過程が違うわね」
「北風がいつもの魔理沙で、太陽が変身魔法を使ってキスを迫った魔理沙って意味ですか」
「唇へのキスという行為はね、咲夜。とても勇気のいる行動。慣れない限り、最初の一歩を踏み出すのには相当な決心が必要だわ。たとえ相手が同性であってもそう。異性ならなおさらよ。
そんな行為を何度もやられてみなさい。嘘だったとしても、成り行きだったとしても、気があると思ってしまうわ。そして、場合によっては真っ向からの告白よりも安全で確実な方法でもある」
「うーん、いつになく情熱的な見解ですね」
「最近恋愛小説にはまってたからねえ、パチェは。意外に俗っぽいよね。もっとお高いイメージあるのに」
「うるさいわね」
パチュリーは本に顔をうずめて、それきり黙ってしまった。
「本当、たかが好いた惚れたにこうも根回しが必要なんてさ、魔理沙も不器用よね。咲夜、しゃがんで跪いて」
「しゃがむ?こうですか?」
幻想郷で最も器用な人間の咲夜が言われたとおりにすると、不意にレミリアは咲夜の唇へキスをした。
「!?」
驚きながらも主の行為を受け入れた咲夜は、事が終えると、魂が抜けたように立ち尽くしていた。満足げに頷くレミリアは自信満々に、
「相手が大きいなら、小さくすればいいだけなのに」
と愉快に笑い飛ばした。ただキスをするだけなら今の方法でいいんだけどね。
僕は苦笑いをした。実を言うと、パチュリーの意見と僕の意見には若干の食い違いがあった。そう伝えたかったが、作業を終えて客間から出てきた魔理沙によって機会は失われてしまった。
「終わったぜ」
「あ、あら、ご苦労様ね。ささ、お嬢様、パチュリー様、参りましょうか」
動揺したままだった咲夜は気を取り直すと、最終確認のために二人を引き連れて客間へ入っていった。
「なんだありゃ?」
「想像にお任せするよ」
「まあいいや、お前も来いよ」
新しくなった客間は、客間としてのスペースも確保してあるものの、とても客間とは呼べなかった。小さなホールほどの空間に拡張され、収納スペースや生活スペースごとに簡素な仕切りが作られていて、もはや部屋よりは平屋に近かった。水道や炊事場はさすがに無いが、寝泊りするには十分なつくりであった。倉庫としてのスペースの他に、書物を保管した図書スペースまで作成され、さらにマジックアイテムによる室内装飾まで施され、隅々まで整理整頓が成されていた。ただし、部屋自体を改装していないので、広さに対して灯り窓が乏しく、部屋全体は薄暗い。南向きに一つ、生活スペースにだけしか存在してしなかった。倉庫も図書室も灯り無しではまともに機能しないほどだ。部屋としての唯一の欠点だが、僕が住むわけではないので気にするものでもない。
魔理沙がレミリアとパチュリーに部屋の自慢話をしている間、咲夜は入念に部屋をチェックしていた。曰く、空間制御は一度安定してしまえばそうそう大きな問題は起こらないが、最初に少し綻んでいるとすぐに元に戻ろうとするものらしい。
「終わりましたよお嬢様」
変わらない笑顔の咲夜が迎えに行くと、ベッドの上でうんざりしていたレミリアとパチュリーの顔が一気に晴れた。
「あら?お嬢様、お鞄はどうなされました?」
「え?あ、どこかに置きっぱなしにしちゃったわ」
レミリアが部屋を駆け回ると、鞄はすぐに図書室で発見された。小さな白いショルダーバッグを脇に抱える。何が入っているか分からないが、実に重たそうだ。手を放せば紐が千切れてしまいそうなほどに。
違和感を覚えた僕はレミリアを観察した。そして気付いた。一連のレミリアの行動と結びつければ結論に至るのは簡単だった。
「どうなされましたか、店主」
僕の視線に気付いた咲夜はウィンクをした。笑顔の中に僅かな殺意を感じる。
「……いや、なんでもないよ」
「ほら、用が済んだら帰った帰った。私はこれから忙しくなるんだから」
「さっきまで部屋自慢してた奴が何を言うかねえ」
しっしと手を振って追い払うと、三人はそれぞれ挨拶をして去っていった。部屋を出る頃には、魔理沙も僕も普通に手を振って別れを告げた。
扉が閉まる。膨張した空間と収縮する空気。取り残された僕らは、しばらく何をするでもなくぼうっとしてから、合図も無く互いに顔を見合わせた。
「で、あれはどういう意味だったんだ?」
「あれって、これ?」
ぶっきらぼうに言い放つ魔理沙に片目を閉じてみせると、そうだと頷いた。
「大事の後だからうやむやにされると気になるんでな」
「気になったならすぐに行動に移すべきだったね。答えは図書室にあり、だ」
「あー?」
「君は浮かれていて油断をしたんだよ。泥棒の被害者が一同に集まっていたんだ、仕返しの機会を伺うのは当たり前の話だろ」
「……しまったっ!」
慌てて駆けつけるが既に遅し。蔵書の一部分がもぬけの空になっているのだった。
中身は簡単。魔理沙の意識がレミリアとパチュリーに向いている間に、咲夜が空間を広げたショルダーバッグの中に盗まれた本を詰め込んだだけ。空間は広がっても質量は変わらないので、人間である咲夜が鞄を持つのは不可能だが、怪力を持つ吸血鬼がいれば解決する。さりげなくレミリアが回収して部屋を去れば手品は成立。同じ空間にいることで魔理沙からの警戒心は薄れるし、薄暗い図書室では一見しても分かるまい。大胆で大掛かりなミスディレクション。たぶん、魔理沙から話を持ちかけられたときから計画は始まっていたのだろう。
僕が気付けたのは、咲夜がちっとも仕事をしなかったから。鞄を探しに行くのも、鞄を持つのも彼女の仕事なのに、それを全て主人がこなすなんてありえない話だ。
「くそ、馬鹿丁寧に声明文まで残しやがった。あいつら、次に会ったらぎったんぎったんにしてやるぜ」
「君の足ならすぐに追いつけるはずだけど、いいのかい?」
「今の私にとってはタイムイズマネー。本はまた十倍にして奪い返せばいい。図書館は逃げないからなあ。向こうも存分に迎え撃つって書いてあるし、遠慮なしで借り尽くしてやるぜ」
くっくっく、と実に魔女らしく笑った。
「この件は仕舞いにしよう。今は新しい部屋で昼寝をする気分なのさ。新しさは時間で抜けていくからな。気持ちのいいときに、気持ちの新しいときに、思う存分堪能するべし」
帽子を机に置いて、ベッドの前で一回転をしてから、ぼすんと音を立てて倒れこんだ。花曇の空が夏の日差しを遮って心地よい光を部屋にもたらし、魔理沙の黒い全身を薄く照らしていた。開け放った窓から時折吹き込む風と、吹き込むたびに揺れる風鈴の音が、部屋の心地よさを保たせていた。
「香霖も一緒にどうだ?換えたてだから気持ちいいぜ?」
「どうって、僕は店があるし、だいたい寝る場所が椅子くらいしかないじゃないか」
「ボケたか香霖。私が寝ているのベッドだ。ベッドは寝るための道具だろう」
「あー……それじゃ、お邪魔しようかな」
一応、関係は成立しているのだが、魔理沙がいつも通りの態度なので、僕も思わずいつも通りのやり取りをしてしまった。
シングルベッドは窮屈だった。二人で位置を調整しあって落ち着かせると、二人で天井を見上げた。
「やっぱ布団にするか。天井が近いとどうも落ち着かん。それに、こうも狭いとはみ出したときが心配だぜ」
「僕は寝相がいいから大丈夫。むしろ君がベッドで寝ていたのが驚きだよ」
「一人ならあんまり問題はないぜ。一人なら、なっ」
不意に魔理沙が覆いかぶさった。
「魔理沙?」
「さて香霖よ。私とお前は恋人どうしだ。だが私は恋人が何をするかよく知らなくてな。長生きしているお前ならよく知っているだろう?」
「知ってるくせに聞くのかい」
「知らないから聞いてるんだぜ」
顔には明らかに嘘と書いてあった。そして、彼女の体もまた、悪ふざけの裏に隠された嘘を曝け出していた。
僅かにひきつった笑顔。微かに震える腕。実に薄っぺらな強がりだ。魔理沙の心臓はきっと、普段の何倍もの脈動を、張り裂けんばかりの強さをもって繰り返しているのだろう。
そんな余裕の無い彼女に対し、自分の中にとある感情が誕生したのを確信していた僕は、彼女を鼻で笑い飛ばすほどの余裕を持っていた。
もう化かし化かされの時間は終わったのだ。僕の中では、もう魔理沙はただの昔馴染みのままではない。彼女は一歩踏み込んだ。その先で意地を張るのは非常に疲れるのだと、教えてやるべきなのだろう。
「うわっ!」
力任せに引き寄せてキスをした。今までで一番長いキスだった。突然抱きしめられてじたばたともがいていた魔理沙だったが、やがて脱力して身を任せて抱きしめ返された。彼女の体は細く、か弱く、もう少し力を加えたら折れてしまいそうだった。
「ぷはっ」
「ふう」
唇が離れると、すぐに力いっぱい抱きしめられ、顔を胸にうずめられた。激しく動悸し、発作が起こったように息も荒い。体を起こすと、振りほどかれないように必死にしがみついたままだった。
「君はもう少し素直になれよ。そうしたら僕も素直になってやるからさ」
「はーっ、はーっ、はぁ、はぁ……はは、お前、余裕だな、コラ」
「長生きだからね」
「香霖のくせに生意気だ」
「あんまり力を入れたままだとかえって疲れるよ。少し横になって休憩しろ」
引き剥がしてやると、すぐにタオルケットを抱きしめ、僕に背を向けて寝転んでしまった。
早くも見解を改めるべきなのか。罠にかかって弱った獣のようにぐったりとしている魔理沙を見て、少しおかしさを覚えた僕は笑いを浮かべた。
先ほどの寓話、太陽と北風において、魔理沙は太陽としてコートを脱がせたと言われていたが、それは早計。魔理沙は北風のまま話を推し進めてしまったのだから。
予め太陽と北風は結果を知っていたのだが、配役の力量が悪かった。諦めずに何度も何度も強い風を吹き付けたせいで、本来コートを死守するはずの旅人は、自分の弱さにかまけてついにコートを吹き飛ばされてしまい、いざ太陽の出番となる頃には、脱がせるコートは既になく、そして北風によって体の冷え切った旅人は、太陽の暖かさを喜んで真正面から受け入れてしまうのだ。予想外の展開に戸惑う太陽と北風。何も知らずに暖まる旅人。
なぜこのタイミングで魔理沙が仕掛けてきたのか、はっきりとは分からない。だが邪推くらいは可能だ。パチュリーが指摘する通り、将来への不安も確かにあるだろうが、僕はもっと単純明快な理由だと考えている。
一番最初にキスをされたあの日。唇へのキスという衝撃の展開直後に関わらず、僕が選んだ理想のキスの相手はまったくの別人、八雲紫。派生する感情は、嫉妬。さっそく紫への対抗心を燃やすも、紫は人を惑わす天才であり、人生経験に至っては決して埋められない差が生じている。敵はあまりにも強大すぎた。そして焦った結果に辿り着いた結論が、強引に僕へ近寄るための変身魔法である。
だが、魔理沙は大きな勘違いをしている。僕もまた、つい先ほどまで勘違いをしていた。
とある本の中で見かけた、こんな言葉がある。昔言った自分の言葉を思い出したと同時に、この言葉もまた思い出していた。
『手の上なら尊敬のキス。額の上なら友情のキス。頬の上なら満足感のキス。唇の上なら愛情のキス。閉じた目の上なら憧憬のキス。掌の上なら懇願のキス。腕と首なら欲望のキス。さてそのほかは、みな狂気の沙汰』
自分の言葉を反芻する。普通のキスとは唇へのキス。冗談かつ無意識ではあるものの、当時の僕は愛情のキスを求めた。僕が魔理沙との交際を認めたのは、一時の感傷だけでなく、魔理沙が僕からの愛を求めたように、当時の僕もまた魔理沙からの愛を求める獣に過ぎなかったのだ。
自分の気持ちがいつ傾いたのか、それは些細な問題だろう。大事なのは、どっちも意地っ張りだから言葉には出せないけど、彼女が僕を愛するように、僕も彼女が愛おしいという事実だけだ。
「あぁもう、腹が立つぜ、ちくしょう!」
魔理沙が起き上がって吠えた。見上げる目には涙。どんな感情から流れ出た涙なのか、嘘つき魔理沙から知る術はない。
「こうり……り、り、りんのすけっ!」
「おっ。なんだい魔理沙」
「くそ、余裕ぶりやがって……こ……り、霖之助、リベンジだ、お前にリベンジを申し込むぞ」
「はいはい」
「主導権を取られっぱなしじゃ無性に腹が立つんだよ。断ったら怒るぜ、怒髪が天をつくぜ。逃げようとしたら凍らせるからな」
なるほど、魔理沙が僕をからかいたくなる気持ちがよく分かった。弱いものいじめは思いのほか楽しい。下克上ならなおさらだ。
もう少し意地悪したくなってしまった。ここまで感情的になった魔理沙を見るのは初めてだったから。
「どこにキスをするんだい?」
「……どこって、口に決まってるだろ」
「いいかい魔理沙。こんな言葉があってね。『手の上なら尊敬のキス。額の上なら友情のキス。頬の上なら満足感のキス。唇の上なら愛情のキス。閉じた目の上なら憧憬のキス。掌の上なら懇願のキス。腕と首なら欲望のキス。さてそのほかは、みな狂気の沙汰』」
「それがどうした」
「僕は全部できるよ。最後も含めて」
魔理沙は完全に固まってしまった。強欲な狼は、すっかり虚弱な羊へと変身を遂げていた。
「冗談だよな?霖之助よ」
「冗談かどうか、これから分かるかもね。さあ、どれだけ協力すればいいのか、途中で言ってくれ。それまでとことん試してみようじゃないか。僕も君と同じで、試さないといけないものは本当に試してみないと気がすまない主義なんでね」
僕は笑った。悪戯好きの悪魔が乗り移ってしまったかのように。そして、湯気を出さんばかりに茹で上がった魔理沙へ、一分の躊躇なく唇を重ねた。
窓を見ると、大粒の水滴が窓枠にしみこんでいた。窓を閉めてから空を見上げて、誰もいないことを確認してから、レースのカーテンを閉めた。
窓から吹き込む風が強さを増し、客間だった部屋へ続く扉が激しい音を立てて閉じられた。そこには、誰かの手によって取り付けられた、『進入禁止』の文字が彫られたドアプレートが、風に揺られながら輝いていた。
ただ一人、その事実を知っている犯人は、店主の代わりに帳場を占領しつつ、夕立によって式の剥がれた愛しの猫又をタオルで拭いていた。
もう一人、夕立に降られた少女が店にやってきた。馴染みの店主に声をかけようとして、代わりの人物が唇に指を当てていたのを見て口をつぐんだ。彼女がどこからかお茶とタオルを出すと、少女はどちらも受け取って椅子に座り、黒い髪を束ねる赤いリボンと、濡れきった袖を外して帳場の隅に置き、二の腕を拭き始めた。
不意に上がった猫の欠伸の声に、女と少女は唇に指を当てる。そして、必ず驚くであろう店主と魔法使いの顔を直に拝見するため、女は猫又の額を撫でつつ、少女は暖かい緑茶を飲みながら、今か今かと待ち続けるのだった。
キスしすぎだろ魔理沙! 畜生! 幻想郷は本当に地獄だぜヒャッハァ!
最後の乙女魔理沙も良かったっていうかなんていうかもうチルノ数えて寝ます!
チルノが一匹、チルノが二匹、チルノが三匹……余計目が冴えた!万歳!霖之助万歳!
しかし、最後の顔が真っ赤になった魔理沙は凄く可愛らしかったです。
そしてそれを笑いながら見てたコーリンも野性的ですね。
最後の霊夢と藍・・・特に藍はいつの間に入ってきたんだ・・・。
とても面白い作品でした。
でも地味にゆかりん省られてません?
チルノを数える霖之助かわいいよ霖之助。でもって女の子に押されすぎだが其処がイイ!
恋の策士な魔理沙が羨ましくて思わず嫉妬したが、是非香霖を幸せにしてやってくれ!
俺も今日からチルノを数えながら寝ることにしよう
こーりん、実は今俺の手元に大きな鋏があるんだ。
どこかからお茶とタオルを出したから
それにしても甘すぎて2828しちゃったよw
結構アレコレ仕掛けてくるあたり改めて魔女なんだなぁと思いましたw
この魔理沙を迎え撃つこーりんはかなり男前だと思うんだ。
しかしまぁ、恋の魔法使いとは良く言ったもんだよなぁ。
なんというかわいい魔理沙・・・
しっかしなんて可愛いカップルだこの2人。
顔のニヤけが止まらんねーぜチキショウ
あ、あとこーりん殺す。
という言葉が浮かびましてね…
「それがどうした」
「僕は全部できるよ。最後も含めて」
香霖カッコよすぎっ
マイジャスティスがここにある!
それでもこーりん沈めたくなったさ。
畜生、幸せにな!
口から砂糖がっ止まらないんだ。魔理霖は至高にして究極だね
「こーりんころがす」もしくは「この朴念仁が!」でおk。
魔理娑とこーりんのSSは良いね、なんていうか心が温まる。糖質的な意味で
良いSSでした。
最高でした。ありがとう
格好良すぎです。変身魔法の設定も面白かったです。
格好良い主役二人と、いい味を出している紅魔館その他が最高でした。
一回目の霖之助の回想に出て来た方は後の魔理沙へのセリフのためにもいらないかなと思いました。
それはおいといて、魔理沙が不器用ながらもまっすぐに行動するのが普段あまり感じさせない女の子らしさがあって可愛かったです
久しぶりにノーマルで悶えた。
モテモテこうりんいいよー!
この作品は別。なんだかこちらまで幸せな気分になってしまった。
やっぱり魔理沙は香霖とじゃなきゃ駄目だな、ちくしょう。
霖之助もかっこいい。霖之助と言えば自分の感情を余り表に出さないイメージが自分としてはありますが、今回はそうではなかったですね。最後よくやった!
一生幸せにしてあげてください
最初は、ちょっと乙女じゃないなぁとは思ったけど、魔理沙はやっぱり乙女だった!
いいなぁ、大人魔理沙いいなぁ……
あれ?口から砂糖が……
香霖×魔理沙は原点にして究極のカタチなんだぜ!
すばらしい霖魔理でした!
あれ…なんだろ…口から計れない位の糖分が…
こーりん…俺の右手のマスターブレイズがみえるか…
塩くれてやる!
霖之助と魔理沙の絡みはいいね
アウトな表現でてきそうだけど狂気の沙汰に興味を持った
まったく、にやにやしすぎて口の端が痛い痛い
それとこーりん、何故か草薙の剣が俺の手元にあるんだが……
のか知ってるんだろうか?
よしこーりん殺す
つい理性が
と感じられる描写、違和感無く魅力的で凄く良かったです。
寝不足の魔理沙も割と最初からいっぱいいっぱいだったんだろうなぁ…
意地っ張り同士って萌えるよね
霖之助のカップリングネタでは、「B境界の突破者」「猫談義」と並ぶ傑作だと思う。
あれ、鼻から砂糖水が……