レミリア、レミリア。ミルクのように甘いR、一度だけ唇が触れて、もういちどR、口をひらいて、熱い吐息に消えていく。レ・ミィ・リィア。頬の内側でとろけるようなその甘く幼いアクセントを、なんど人知れずくり返したことだろう。私のレミリアお嬢様。自分ひとりの楽しみに、そっと所有格をつけて……。
自室。深夜。書きもの机に開いた日記と向き合って、十六夜咲夜はいよいよ気の狂いそうな気分だった。忠誠からはじまったはずの己が主人への想いは、長く時間を共有したもの同士にはありがちな、ほほえましい愛着を経て、敬愛の情、敬慕の念と自分に言いきかせていたところの、一言一句も聞き逃すまいとする従順な態度にしばらく留まったあとで、とうとう、お嬢様の仕草のほんのひとかけらにさえ全身の注意を惹かれるようになったとき――その愛情の、いつしか堪えがたいものになっていたことに気がついたのだった。いまや手遅れだ。いまや宇宙は限りなく、お嬢様ひとりと等価に近い。ああ、お嬢様、原始の炎。世界はあなたひとりでいい!
レミリアお嬢様に心を焦がすのは、滝のように流れる鉄に恋する思いだった。鉄は硬くふだん容易にそのかたちを変えることがないからこそ、異常に熱され固形を失った熔鉄の、日常には想像に及ばないその赤いソースのような姿が眼前すれば、それだけで人の気を昂ぶらせ神経を興奮させずにはいない。お嬢様もまた、その類に属している。生きとし生けるものをみな地に伏せさすような、炯々たる眼光、形容しがたい強烈な威圧感が、あの天使と見まごうばかりの愛くるしい姿から発されればこそ、ぐらぐらと煮えたぎる溶鉄も体中の血管という血管を狂ったように駆けめぐるのだ。
愛くるしい。どんなところが? 脳裏に答えをならべながら、なんの脈絡もなく日記のつづきへ書きつける。わきに手を通せばひょいと持ち上がってしまう、軽く小さな体。衣服の向こうから伝わってくるあの背筋の震えるような、体温を帯びてあたたかい、ふわっとした感触。砂糖細工のような四肢に、その表面をキズひとつなく覆っている、青白くやわらかでなめらかな肌。特に頬を撫でると、絹よりも繊細な手触りがして――それから、指で梳こうとすると、根元からするりと気持ちよく滑ったあとに、末端できゅっと指先に絡んでくるやさしいウェーブの、夜明けの空のような群青の髪。思わず親指でそのおもてを撫でたくなるほどの、知らぬ世界の夕焼けを湛えたような、愛らしくも美しいピジョン・レッドの双眼。スプーンに盛られた生クリームさえ、唇に触れてはそのつど咲夜に拭かしめる――紅魔館にあって、もっともしあわせな仕事のひとつだ――あの小さな薄桃色の口。薔薇のティーカップがほんとうによく似合う。そのかわり、見合う香水はひとつもない。鼻を寄せれば「レミリア」という極上の香水は、洗いたてのシャツよりもいい匂いがするのだから。
休憩。筆を擱く。一日の欄には限りがあるので、日を追うごとに咲夜の文字は小さくなっていった。今日はすでに昨日の倍書いて、埋めた白地は全体の半分にも満たない。けれども、その虫眼鏡がなければ常人には読めない文字を書くことも読むことも、いまの咲夜にはいっこうに苦にならなかった。想いがつのればつのるほど、それにつれて感覚もいっそう高度に鋭敏になっていったのだ。焼き切れる寸前のレッドゾーンで恋に軋みをあげる人の脳というものは、これほど想像を絶するポテンシャルを宿しているものかと、咲夜自身がいちばん驚いた。
記憶力にも驚くべき変化があった。いかな毎日顔を合わす間柄とはいえ、はじめのうちは目を閉じても、言葉の象徴の寄せ集めのような、漠然とした像が浮かぶばかりだったものが、いまやその正確な輪郭はもとより、沿った胸の曲線に浮かび上がる肋骨の段々も、伸ばした背筋に肩甲骨の張り出す具合も、未熟な背骨のしなやかな湾曲も、黒くつややかな左右の羽根の骨格も、手にすっぽり収まってしまいそうなほど小さな足の、先にならんだ五本の指のふくらみも、なにもかもが本物のお嬢様と寸分違わず、まぶたの裏に再現できてしまうのだ! しかもそれは静止画ではなく、編集自在なモーションピクチャーで、枕のうちに描いては、夢で戯れることのできる、幻想の中に生きたお嬢様だった。この天からの贈り物が、十六夜咲夜をいっそういまの窮状に追い込んだことは疑いない。
いまでも目を閉じれば、お嬢様はそこにいる。その甘い夢に絡め取られてしまうのが怖さに、容易にまぶたを下ろせない。意識して日記の文字へ視線を落とす。
けれども目を現実に縛りつければ、こんどは耳に誘惑が取り憑いた。さっきまでしきりに窓を揺すっていた風のうねりはぱたりと絶えて、聞こえてくるのはお嬢様の音ばかり。何か思案に耽っているとき、ときどき発する、くつくつと喉で抑えたくすぐるような笑い声。「ねえ咲夜」と呼びかけるときの、蠱惑的なトーン。時間がくれば、つかまえて宝石箱にしまっておきたくなるような、愛らしいあくび。尽きることを知らず、とめどなく襲ってくる音また音。どうしようもなく逃れがたい五感の呪い。「どうしたの咲夜、つらそうにしちゃって」。あなたのせいです、お嬢様!
そうした激情の奔流に呑まれながら、咲夜の指がいま熱心に日記帳に書きとめているのは、その感情の記述ではなく、具体的な計画だった。未来に想いをやることで、現在の苦悩を忘れようとするのは、誰もがつかう定石だ。
お嬢様に効果のある睡眠薬は存在するだろうか――これは絶えず咲夜の頭を悩ませた課題のひとつだった。入手手段は。購入、調合? パチュリー様にそれとなく相談してみようか。手に入ったらどうする。食事に混ぜても気づかれない方法は。食後のワインがいいだろうか。それとも紅茶? 混入が見抜かれたときの、可能な言い訳は? 「たまにはお薬でぐっすりお休みになられるのも、よろしいかと思いますよ」。最近おつかれのようでしたから、とひとこと添えるのを忘れないようにしよう。就寝前のマッサージがどれほど健康によいかを、地道に説いてみるのも悪くない。あるいは孤独な夜に、一人で眠るのが怖くなるほどの恐怖小説は……。
お嬢様を堪能するためのありとあらゆる構想が、蠅の頭よりも小さな字で百と二百と詰め込まれたその冊子は、もはや日記帳でなくレミリア帳と呼ぶほうがふさわしいありさまだった。そのうえ過去数日のページにずらりと並んだ大同小異の脚本の数々は、どれもご都合主義の三流シナリオか、実現不可能な絵空事か、人道にもとるあまりにあくどいやり方か、ともかくロクな計画はひとつとしてない。しかしいよいよとなれば、最後のプランには一考の余地があった。あくどいなどとためらっている場合だろうか。恋と戦争においては、あらゆる戦術が卑怯のそしりを免れうるのだ。
症状の浅い頃、咲夜は自らの能力のうちでしか、そういう妄想を展開はしなかった。それならば、たとえ心を読む妖怪がいたところで、それが流れる時のなかでなされる限り、咲夜の脳髄のいかなるところにも、主人に対する従順な忠誠心や使命感や、せいぜい人があらゆる子供に抱くようなほほえましい感情以外には何も見出すことはできなかっただろう。その節度を守っているうちは、事実、咲夜はふだんの生活において、今夜の一連の妄想みたような素振りは、ほんのひとかけらさえ、おくびにも出したことはなかった。時凍る世界では、この世に並ぶもののないレミリア中毒者を自認しながら、秒針刻む世界では、誰よりも従順で貞潔なピューリタンだったのだ。
しかしその金城湯池の自制心も、時と共に次第に崩れていった。内部に溜めに溜めこんだ劣情の毒は漏れ出して、ゆっくりと生きた世界を浸食していった。生活の一部に溶け込んだ機会という機会を、こっそり利用して楽しむことを覚えてしまったのだ。
爪の手入れをするとき、わざと薬指をゆっくり削る。「咲夜、まだぁ?」くすぐったそうな顔。まだまだ、尖っていますよ、お嬢様。左手と右手、二度約束された楽しみだ。耳かきはお嬢様の小指より少し短く手に持って、耳の中で喉の方向にくっと圧しつける。痛くないように、やさしく、三秒、四秒。お嬢様の体に微かな波が走る。その震えが、細い棒を駆け上がってくる、錯覚とも言いがたい感覚。手元が危うくなる。お風呂で背中を流すときは、象牙のように白い首筋に、きめの細かい泡をまとわせて、手のひらでやさしく撫ぜる。洗っているだけ、洗っているだけだ。月のまるまる肥えた日には、ちょっぴり濃いめのワインをお出しする。いつもより頬を上気させて、からからと屈託なく笑うお嬢様は、いとけなくて、いとしくて、いとかわいくて。ああ、それから、それから、まだまだ他にも……。
がつん、と硬い音がして、額に鈍い痛み。天板に頭を打ち付けたのだった。一瞬惚けて眠ってしまったらしい。まる一日の仕事よりも厳しいこの夜の残業に、もはや体力も気力も限界だった。睡魔だけが、この延々とつづく邪な思考から、哀れな囚人を開放してくれる妖精だ。
よろめきながら机をはなれ、月差す側のフランス窓を風の道にとかすかに開けて、明かりを落としベッドにもぐる。小さく丸めた掛布団は、限りなくリアルな想像の魔法によって、服を纏ったお嬢様の体躯になる。ふかふか。肩と見立てたところに口をうずめて、ぎゅっと抱いて目を閉じる。どうしよう、どうすれば。暗闇に浸ると、色も音も絶えたその一瞬だけ、この先の成り行きを憂う、まっとうな思考がもどってくる。けれど、それはもう、どうしようもなく無力になり果てた姿で……。
そうして咲夜は、決壊に向けて拍車のかかる自らの感情を、明日またどうやって御していこうかと考えるだけの理性が、かろうじてまだ脳の一隅に残っていることに、一方で安心し、一方で恍惚とした恐怖に駆られながら、次第に意識も薄れて今日もまた、残った理性の残滓を削り落とす、無限に幸福な夢のなかに幽閉されていったのだった。
***
レミリア・スカーレットは困惑していた。もちろん、己が側近、瀟洒で気の利くあのメイド長のことだ。予想外だった。どうやら差し迫るクライマックスは、当初の予定よりも随分近い。計画はうまくいきすぎてしまった。
主人をちゃんと溺愛するように、少しずつ運命の行方をずらしてきたその成果は、いまや随所に目に見える形で現れていた。驚きの早さだ。これだけ早いとなると、ひょっとしてこんな小細工をしなくても、行きつく先は同じだったのかもしれない。もとから咲夜に多少なりそういう傾向があったと考えれば、軌道のズレにも説明がつくだろう。
もっとも、それはそれで嬉しいことだし、どうあれもはや結果に変わりはない。咲夜のたがが外れるのは時間の問題だ。近々、わかりやすい形で手を打ってきたときに、どうふるまってやろうかと考えると、いじわるで遊び心の旺盛なこの吸血鬼の末裔は、くつくつと喉で抑えた笑いを禁じえなかった。
果たして、真に恐ろしいのは恋に狂った人間か、運命を狂わす悪魔か‥‥‥
タネ明かししたところで止まりそうに無い咲夜さん怖いよ(((;゚д゚)))とりあえずおぜうさまにげて―――!!!
狂った咲夜の描写がいいですね
このあとの続きが読んでみたいです
咲夜さんはちょっとくらい壊れてるほうが、かかわいいよよよ。
咲夜さんが実に素敵だ。
タガが外れた咲夜さんはどうするのか、妄想は止まらないのぜ。
幼くて気まぐれ、でも悪女めいた魅力をもつレミリアお嬢様は、まさしくニンフェットというにふさわしい。
その魅力に取り付かれた咲夜さんに共感。
でもあとの展開は色んな意味で怖くて見たくないなw
狂気まみれな文章なのに不思議と読みやすかったです。
お嬢様を‘得る’まで熱は引かないと思うぜ!
ところで、↑の方も仰っていますが、レミリアと呼んで口蓋を三歩歩いたなら「得る」でしょう。「在る」ことを瑕と思ってしまうのはもはや欲深い人間の業ですね。
しかしこの咲夜さんなら一人ミュージカルとかやりかねんですねw