雨のなか、拝殿の前で蛇ノ目傘が回っていた。
くるくる、くるくる。
鮮やかな赤が、ぶ厚い雨雲のしたで回っていた。
くるくる、くるくる、と。
間抜けなその目をこちらに傾け、それはそれは楽しそうに、笑っていた。
雨の日独特のにおい、わたしはそれを気に入っている。
しとしとと雨の降り注ぐ地面から立ちのぼるそれは、湿気を含んでいるからだろうか、辺りの音をみんな吸い込んでしまう。
頭上で弾ける雨の音。足元で跳ねる雨の音。紫陽花の葉を揺らす雨の音。一瞬限りの小さな雨音が数え切れないほど折り重なり、うっとりするような音楽を奏でては、大気に溶け込むように消えていく。
そうして出来上がった灰色の世界は、夏の熱気と、霧霞の景色と、少しの肌寒さと、誰かの息遣いと――音以外のものですら、何もかも呑み込み、静かに、ゆっくりと足を延ばし続ける。
だからその世界には、確かな存在感をもった独特の『におい』が満ちている。
それが、いわゆる梅雨の訪れを実感させてくれるから。
「――今年のつばめは、ちょっと遅かったね」
わたしは傘に向かって声を掛けた。
返事の代わり、とばかりに傘はくるりと回ってみせた。
「珍しいね、早苗がこんなにゴキゲンだなんて――」
聞いているのかいないのか、またまた、くるり。
傘の色に同化し、漆で塗られたかのように赤い水。
それが細い線となって和紙の上を音もなく滑ったかと思うと、次の瞬間には水の玉へと変化し、宙を翔けていた。
再び透明に戻った水滴は地面を叩いて弾け、新たな音楽を奏して消えていった。
どうやら例の『におい』とやらが、また音を呑み込んでしまったらしい。
ふうん。なら、もしかするとわたしの声も食べられちゃったのかな。
なんて考えてみると、不思議な気持ちになってきたので、
「それは素敵なことだね、梅雨らしくていいや。いや実に、素敵だね」
と笑ってみた。
灰色の世界、あるいは梅雨の世界というべきだろうか。
その中で、雨による演奏は相も変わらず続いていた。
だから、そう。
さっきの呟きすらも、傘の持ち主――早苗に届く前に、呑まれてしまったようだった。
こいつは中々どうやら、強敵らしい。
やるねぇ、この、雨さんやい。
とわたしは呟いて、早苗の隣にこっそり並んだ。
すると、聞こえてくる小気味の良い音。
音は、早苗の差している、真っ赤な蛇ノ目傘から響いていた。
それはまるで、灰に埋もれたこの世界を真っ向から切り裂くように。
白刃の煌きと鋭利さを併せ持ち、女神ほどにも美しく。
されど蛇の如くにしなやかに、どこか蛙の声にも似て透明な。
どこまでも響き渡る、そんな素敵な唄だった。
何もかもを呑み込んでしまう、かの『におい』と言えど、その唄をくぐもらせることなんか到底出来ないらしかった。
それでわたしもちょっとゴキゲンになって、差していた黄色いナイロン傘、それをくるりと回した。
わたしの傘はそんなに綺麗に唄ってくれないけれど。それでもいいんだ。わたしにゃ蛇は、似合わない。
早苗の傘は、その目を後ろに向けていた。
だからわたしも真似して、傘を後ろに傾けた。
そうして見上げた小さな世界。
その半分くらいが黄色で埋まっていたけれど、その隙間に、つばめの巣が映りこんでいた。
わたしはまた、素敵だね、と笑った。
くるくる、くるくる。
くるり、くるるん。
雨のなか、赤と黄色が寄り添い、回っていた。
不釣合いな唄を響かせ合って、それはそれは、楽しそうに。
□
もう梅雨という時期になったか、いやそう呼ぶにはまだ早いか、と道行く人々が微妙な顔をし、どこへ行くにも傘を提げて歩く時節になると、うちの神社には毎年つばめがやって来る。
うち――守矢神社の拝殿、その軒下。そこには昔っからつばめの巣がある。
枯れた木やら草やらを固めてできた、彼らの巣だ。
ある朝なんとはなしに外へ出てみると、平然とした顔でいつの間にかそこに居座っていたりする。
そういう時は大抵、一羽だけでいることが殆どだったけど、わたしも神奈子も、そしてとくに早苗はその来訪を毎年恒例の行事として心の底から歓迎してきた。
だから、という訳でもないけれど、つばめがやって来たその日の夕飯は少しだけ豪華になる。
実をいうと、わたしはそれを期待していたりする。決して早苗にはいえない秘密のひとつである。
――ってなわけで、昨晩はちょっとした贅沢を楽しんだのだった。
「ま。ちょっとくらいはお礼しとこっかな」
神様がつばめに感謝することがあってもいいじゃないか!
そんなことを寝起き一番に思いついてしまったものだから、わたしは顔を洗うよりも何をするよりも先に玄関へ向かった。
くつを履くのも面倒だしカカト踏んでいこっかな、でもあとで早苗に怒られるのもいやだしなぁ、なんて躊躇していると、雨の音が外から玄関にまで染み入ってきた。
さてはどうやら、本格的に梅雨入りをしたらしい。泥が跳ねてもいやだから、しぶしぶ靴を履くことにする。
傘立てからお気に入りの黄色い傘を抜き、玄関をがらと開ける。
と、例の『におい』がわたしをなでていった。
――うん、目が覚めた。
ぱんっ、と気味の良い音をたてて傘を開き、ぶ厚い雲のしたに躍り出る。
「雨はいいけど、早苗に買ってもらったばかりの傘が濡れちゃうのがなぁ」
とひとりで冗談をいい、ひとりでくすくす笑った。
この新品の真ッ黄色の傘は、まあ、その、そこいらの小学生が使っているものと一緒のやつなんだけど、それでもわたしはこれがすきなんだ。
わたしがこれを差していると、神奈子は決まって『く、くくくっ、似合ってるじゃないか! ええ? こりゃ傑作だ、くく、はははははっ!』なんて馬鹿にするけど。
いいじゃないか、黄色い傘だって、ねえ?
視界いっぱいに黄色を入れて、わたしはまたくすくす笑った。
つばめはやっぱり平然とした顔で、いた。一羽だけだ。
さあて、雄だろうか、雌だろうか。
燕尾が長いほうが雄だとは聞くけれど、でもそれは比べる相手がいなくちゃ分からないし、なんて考えながらわたしが近づいていくと、そいつは首をくいっと動かし、その真っ黒い瞳でこっちを見つめてきた。
「わたしも入っていいかな、軒下。雨宿り、したいんだけど」
と聞いてみたけど、返事はない。
相変わらず、じっとこちらに熱い視線を送ってくるだけだった。
しかし勘がいい。人間には見えないわたしのすがたを、彼は見ることが出来るのだから――って、え、あれ、なに? もしかして威嚇してたりするわけ?
神様にはおまえの胸の赤色がやけに攻撃的に見えたんですけど。
「……だいじょーぶ、大丈夫だから、さ。ほら」
ね、仲良くやろーよ? とぎこちない笑顔をつくってみたのだけど、そのまま一歩近いた途端、彼は飛び去って行ってしまった。
わたしの黄色い傘に、白く輝くあのマークを残して。
「あ、ああぁ――――ッ!?」
白のマークは雨に濡れて流され、黄色の布地に白のラインを作り出す。
白のラインは、わたしとつばめの不思議な関係、そのスタート地点になった。
つまりは、そう。"あいつ"とのにらめっこが、毎朝恒例の行事になったってことだった。
□
「――言っとくけど、ここはわたしの神社だからね。そしてわたしは神様。だから敬え!」
ふふん、どうだ!
と控えめな胸を精一杯張ってみたのだけれど、如何せんコイツにゃ通用しないらしい。
黒い目が、じいっとわたしを捉え続けていた。
「むむむ。いったい何がたりないとゆーのだ」
数回に渡るにらめっこ勝負。結果はもちろん、全敗だった。
雨の音を聞きながら、どうすればいいだろうか、と真剣に考える。一体何がどうなればわたしの勝ちなのかなんて知らないけど、ほら、くやしいし。
だからわたしは『諏訪子、アンタよっぽどの暇人さね』なんて馬鹿にされても諦めない気にしない働かない。
大体、神奈子だってちょー暇人じゃん! "かふぇ"で"せれぶ"な"らんちたいむ"? このぶるじょわめが!
とひとりでノリツッコミするわたしを、やっぱりじいっと見つめるふたつの黒い丸。
「……ん?」
じいっと、わたしを、見つめる?
熱い、視線………控えめ…胸?
「――分かった」
ふふんそーかそーか、うん、そういうお年頃だもんな!
「わたしにはおとなの色気が、ほんの少しだけ欠けているというんだなッ!?」
「…………」
あ、ちょ、今アイツ「欠けてる? ゼロの間違いじゃねーの」みたいな目をしやがったおまえ殺すぞ。
ふ、ふふ、つばめ風情が、粋がるじゃないか。なあおい? オーケイ。わたしはこれでも神様だ、やってやろうじゃないか見せてやろうじゃないか!
神々しさ溢れる色気っていうか、湧き立つオーラ? ……なんていうか、うん、それはもう素敵な何かを特別に! おまえだけに拝ませてやるってんだからありがたく思「……なにやってんだい諏訪子」――えよこの野郎!
あ、何か変なの混じった。
「あー……こりゃだめだ、急に空気がオバハンくさくなっちゃったよ」
しらけるわー、と脱ぎかけていた服をもそもそと着なおすロリーなわたし。
「おい今なんつった?」
「アダルティックで十八禁、青少年が見ると目が潰れる素敵なかみさまー、って言った」
つまり全身卑猥。
「言ってくれるねぇ。なんなら私の美しいあれ、見せてやろうか? ええ?」
「眼が腐るんでまじ勘弁してください」
「あ、そ。それはどうでもいいけど諏訪子、ご飯出来たから、冷めないうちに来……」
「あと一枚ぺろっと捲れば、わたしのかわいいおっぱいみれたのにねー、ざんねんだねー」
おしかったね、とつばめに同情してあげる天使みたく優しいわたし。
とまあ、そんなことしてたら、あれだ。
「一生やってろ」
朝ごはん食べ逃した。
「神奈子、なにもわたしの分まで食べるこたないだろー!」
「うるさい。ふざけてる方が悪いだろ神様的に考えて」
「どんな思考回路してんだよ!」
「こんなんさね。何ならこの頭脳でさんすう教えてあげるぞ、小学生?」
「ばーか!」
「はっ、勝手に言ってろ」
と、居間でふたり仲良くしていると、隣の和室の方からぱたぱたと忙しない音が聞こえてきた。
忙しない音、それは例えば白いソックスが畳を踏みしめる音だったり、あるいは紺色のカバンにつけられたダサいヘビと可愛いカエル、そのふたつのキーホルダーが喧嘩して生まれる無機質な音だったりする。
それでわたしは、ああもうそんな時間か、と大体の時刻を知った。
早苗が学校に行く時間は、いつだって決まっているのだ。
「おっはよー、早苗」
襖を開けて居間に入ってきた制服姿の早苗にいつもの挨拶をかける。
すぐ横の壁には時計が掛かっているけど、見る必要はなかった。
いつだって短い針は真下より少し昇り気味、長い針はそのもう少し進んだ位置にあるんだから――って、あれ? 時計の針、ちょっとズレてないか?
……ついにあの時計もくるったのだろうか。
あれ結構、お気に入りだったんだけどなぁ。
残念だからあとで神奈子の部屋の時計とこっそり換えておこう。
「学校、遅れるよ」
と神奈子の声。
……どうやら時計はくるったわけじゃないらしかった。
それはそれでため息ものだから、困る。
「あ、すみません神奈子さま。ちょっと諏訪子さまの朝食を作り直していたら、いつの間にかこんな時間に」
ぱたぱた、と早苗が台所と居間とを数往復する。
そのたび、我が家の食卓には湯気の立ち上るご飯と、目玉焼きと、味噌汁と、のりとしょうゆと、あと納豆なんかが並んでいった。
そして早苗は最後に熱そうなお茶を運んできてくれた。
「あー……そりゃ私のせいだ、わざわざすまないね」
「いえ大丈夫です。走ればまだ間に合いますから」
「そう、それじゃ冷めないうちに諏訪子に食わせとくよ。ありがとう」
「はい、よろしくお願いします。……では行ってきますね」
「いってらっしゃい、気をつけて」
神奈子とのそんな会話を早口で済ませ、そそくさと玄関に向かった早苗に、わたしは居間の襖からひょいと顔をだし、
「いってらっしゃい、早苗」
と見送りがてらに言ってみた。
「…………」
早苗はブーツを履き、傘立てから赤い蛇の目傘を抜き取ると、いつもの倍の忙しなさで出て行った。行ってきます、という声だけが遅れて響く。
キーホルダーたちの立てる口喧嘩が聞こえなくなるや否や、家の中の寂しさゲージが一気にマイナスまで下がっていったような感じがした。
「……だってさ。ほら、食え」
「うん」
あーこりゃ、神奈子とふたりっきりってのが原因かもしんないや。ゲージのこのすげーマイナスっぷり。
いやそうに決まってら。寂しいねえ、こんな年増と朝からふたりっきり。
ああ、人倫の寂しさここに極まれり。かみさま、ほとけさま、何とかして下さい。
「私ぁ神様だけど、なにか言ったかい」
「んーん、なんにも。しいて言うなら消えてくれ」
「もうお前黙ってろ。そんなのはいいから、はよ食え」
「……そだね」
嗚呼、今日も早苗に"届かなかった"なあ――、なんて思いつつ手を合わせる。
べつに神奈子に急かされたからじゃない。
味噌のいい香りが部屋の中に広がっていたし、もう流石に、待ち切れなかったんだ。
「いただきます」
箸を取る。
ぶ厚い雲のせいで、ずいぶん薄暗くなった居間。
外から聞こえてくる雨の音が、この場所にもあの『におい』が隠れていることを教えてくれた。
――――味噌の香りと、どっちが勝つかな。
なんて考えて、またひとり、くすくす笑った。
その横で、くるったんだろ、と勘違いされた時計が腹を立てたように、チッ、チッ、チッ、と唸っていた。
□
「…………」
「……………………」
"あいつ"とわたしのにらめっこ勝負の回数が、ついに二桁の大台に乗った。
結果は相変わらず、寝起きの神奈子の顔に次いで悲惨な状態だったけど、わたしたちの周りにはいくらか変化が起きていた。
ある日突然、これまた平然とした顔でもう一羽、つばめがやって来たのだ。
「へえ。おまえもなかなかどうして、やるじゃないか!」
あいつの妻はわたしたちなんかよりよっぽど神秘的で、神々しい空気を纏っていて、さらには見ているだけでこちらの気が引き締まるような良い眼をしていた。
喉の赤と腹の白と背の黒。そのどれも鮮やかでツヤがあって、もしかするとつばめの姫さまなんじゃないか、というくらい見事なものだった。
巣の上で身じろぎ一つせずどこかを見詰めている姿はそれだけで気品があるし、雨の中を揺らぎなく滑っていく姿には誰もが優雅という言葉を連想せずにはいられないだろうし、果てには排便ですら、ぷりっと、颯爽かつ華麗に済ましてしまうのだから大したもんである。
そういうわけで、わたしも神奈子も早苗も、彼女がやって来てくれたことを大歓迎したのは言うまでもないし、その晩、夕飯時にわたしがささやかな幸せを満喫したことはもっと言うまでもなかった。
「…………」
「…………」
「……………………」
で。
次の日。
次か日から、黒い視線――にらめっこの対戦相手が、二倍になった。
まあ、それはいい。それはまだいいんだ。
けどフンをくらう確立まで二倍になるのは、ちょーっと勘弁して欲しかった。
しかしその悲惨な状況は、加速していく運命にあったのだ。
そう、それはある朝のこと。恐れていた事態が、ついにやってきたのだ!
「…………」
「…………」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……………………」
視線の数がヤバいことになった。
つまりはそう、雛が五羽ほど孵ったのだ。
となるともちろん、フンをくらう確立はさらに……えっと……何倍? ……とにかく一杯になってしまうんだぞコラァ!
と、わたしは憤ってみる。けど、その渾身の顔でのにらめっこでさえ惨敗を喫したのだからどうしようもない。
相変わらずそらは暗く、雨もまだまだ続きそうだったけれど。
その日の早苗の料理が、思わず笑ってしまうくらいに美味しかったから、まあ良し。
彼らは、わたしの話し相手にもなってくれたしね。
「ところで、そう! 今日はまた早苗がドジやらかしてね――――」
□
日に日に、巣の周りが賑やかになっていくのが分かった。
雛の鳴声によるものだった。雛は、"あいつ"ないし"彼女"が餌を持ってくると決まって可愛らしい声をあげた。
そんなところにわたしの姿を見つけると、一転、急に黙り込んだりするのだ。
で、わたしがちょいと隠れて待っていると、「いまだはやくごはんよこせー!」とばかりに、また能天気にぴよぴよ鳴くもんだからもう可愛くて仕方がない。
そんな姿を見れば誰だって頭に花を咲かせているような気分になって、外は雨でも心の中は晴れやかになり――なんて考えるだけでも恥ずかしいけど――つまりそう、癒されるに決まっているのだ。
しかし――日を追う毎に、早苗は落ち込んでいった。
それは注意しなければ見逃してしまうくらい、ほんの些細な変化だった。
けれど、砂時計の穴は確実に大きくなっていく。
零れ落ちる砂の量は刻一刻と増え続け、一日に一度逆さにすれば良かったものがいつしか一時間に一度になり、一分に一度になり、遂には一呼吸の度に引っ繰り返さなければならなくなる。
でなければ、今の今まで隠していた弱さを、底に仕舞ってあった寂しさを、晒し出してしまうから。
早苗は元気そうに振舞っていたけど、そんなの、わたしたちが気付かない筈がなかった。
そう。
あるとき、ふと、思い当たるのだ。
何かにつけて、ああそういえば、と。
もう何日、早苗と話をしていないだろうか。
わたしの声が早苗に届かなくなって、もうどれくらい経ったのだろうか――、と。
けど、落ち込んでいくのはわたしだって同じだった。
いや違うか。だって、わたしの砂時計は、ヒビが入っているから。
そこからさらさらと零れていく砂は、二度と、砂時計に戻ることはない。
失いたくなくて、わたしはやっきになって引っ繰り返すのだけど、そのそばから、中身が少なくなっていくのだ。
やがて砂が空になったとき、わたしはもう、生きていられない。
早苗の砂が、活力の砂だとしたら。
わたしの砂は、信仰の砂ってところかな。
「そういえば――――つばめって、蛙、食べるのかな?」
呟いて、わたしはひとり、シニカルに笑った。
空を見上げる。煤汚れた、空を。
どうやら明日も地獄のようだ。
■
雨のなか、拝殿の前に蛇の目傘があった。
いつかと同じように、鮮やかな赤が灰色の世界に映えていた。
ただ、回ってはいなかった。笑ってもいなかった。
その間抜けな目さえも、見えなかった。
早苗は屈んでいた。
どこを見ているのだろう。
視界を傘の赤でいっぱいにしているのだろうか?
それとも泥色に染まった地面でいっぱいに?
それとも、それとも、それとも――?
わたしは何も持たず、水の粒子で霞んだ世界を歩いていく。
『におい』の充満した世界、赤の彼女のもとへ。
傘も差さず、水たまりを避けもせず、ゆっくりと。
雨が身体を濡らすことはなく、泥が跳ねることもない。
幽鬼のごとく、わたしは歩いた。
彼女のもとへ、歩んでいった。
雛が死んでいた。
一羽の雛が、冷たい泥に呑み込まれるように、地面に落ちて、死んでいた。
「――――、――――」
掛けるべき言葉は、何も見つからなかった。
早苗にも、死んだ雛にも、自分自身にも、そして、あいつにも。
色のない空を、巣を、見上げた。水滴が細い線となって、わたしの顔を目掛け、止め処なく降りかかってくる。
しかし雨はわたしの身体をすり抜けていくだけだった。
わたしを濡らしては、わたしの涙となっては、くれなかった。
視界の端にあいつと、あいつの妻と、残った雛の姿を入れて、乾いた瞼を閉じることしか、わたしには出来なかった。
「……、…………」
どのくらいそうしていただろうか。
雨と、雨音と、雨の『におい』の中。
ゆっくりと瞼を開く。
そこには相変わらず、ぶ厚い雲。
色彩も現実味も夏の気温も、何もかもが欠け落ちた灰の空。
眺めていても、ただ、寂しさが募るばかりだった。
だからもう、ここに居たくなかった。
「……早苗、そろそろ、帰ろうか」
屈んだままの早苗に、声を掛けた。
しかし、赤の傘は彼女の顔を見せてくれなかった。
それはまるで、蛇が彼女を守っているのかのようだった。
彼女をこれ以上悲しませないように。
彼女をこれ以上傷つけないように。
彼女をこれ以上苦しめないように。
だからお前は早く帰れ、一人で静かに消えろ、と。
そう言われた気がした。
「……さみしい、もんだね」
声はもうきっと、届かないだろう。
信仰という慈雨に濡れることも出来なくなった蛙は、唄うことも跳ねることも、息をすることも出来ず。
あとはもう、干乾び、死ぬのを待つだけだから。
……ま、こんなもんか、神様の最後ってのは。
花々と散るのもいいけれど。
悲劇のヒロインも素敵だけれど。
忘れ去られるのもなかなかどうして魅力的、悪かない。
さあてそれじゃ今日のところはこの辺で。
帰って寝ますかさようなら、とわたしは踵を返し――
「――――、様?」
足を止める。
「……、…………」
振り返ろうとして、でも、止めた。
微かに聞こえたそれは、たしかに、涙声だったから。
そして早苗の眼に、わたしはきっと映っていないだろうから。
分かっている。分かっている。分かっている。
分かっているから、振り返らない。
きっと、視線の先にわたしはいないだろうから。
きっと、彼女は涙を慌てて拭いているだろうから。
きっと、必死で笑顔を作っているだろうから。
きっと、笑って誤魔化そうとしているだろうから。
わたしが見えないくせに。
わたしが見えないくせに。
わたしが見えないくせに。
どこにいるかも分からないくせに。
泣きそうな目をして、手を伸ばしているに違いないから。
決して触れられないのに。制服の袖が濡れるだけなのに。
それでも、無理にでも、早苗は笑おうとしているだろうから。
そんなもの、みたくない。
だって。みたら、みてしまったら。
年甲斐もなく、泣いてしまうだろう?
また神奈子に、小学生みたいだと、笑われてしまうだろう?
なあ、さなえ、なあ。
さなえ、さなえ、さなえ、さなえ、さなえ――――
「諏訪子様、そこにいらっしゃるのですね」
しん、と静まり返ったようだった。
雨の音が、世界の音が、消えてしまったかのよう。
その中、早苗の声だけは、はっきりと聞き取れた。
掠れた声なのに、だけどそれはどんなものよりも純粋で、ひかり輝いていて。
沈殿した大気を貫き、吹き抜けるようにわたしへ届いた。
まだ、その声を聞けたんだ。
聞くことが出来るんだ。
いつまで、聞けるだろう?
わたしは答える。
「うん、いるよ。ここに」
ここに。
ここに、いる。
「早苗、わたしは、ここにいる!」
振り返らず、音の無い世界で、雨に向かってわたしは叫ぶ。
わたしの声は、届こうが届かまいが構わなかった。
それでも、そう言わずには居られなかった。
もしかすると、そう。
寂しかったのかも知れない。
しかしその感情すら今は、今だけは、どこかへ放ってしまいたかった。
背中越しに、早苗が何か言おうとして、しかし躊躇しているのが分かった。
そんな時間を何度か繰り返したあと、告白するように、苦しみを吐きだすように、早苗は言った。
「諏訪子様、私、こわいです」
雨に濡れ、濁流となった感情をわたしぶつけるように。
不安と恐怖が、止め処なく溢れ出るグラスを叩き割るように。
今にも崩れ落ちそうな、か弱い声で早苗は言った。
だって、みえないんです。
きこえないんです。
わからないんです。
すわこさま、あなたが。
あなたのこえが。
あなたのことが。
「次の瞬間には、忘れてしまっているかもしれません」
おぼえていないかもしれません。
あれ、どうして私泣いているんだろう、って。
「そうなってしまいそうで、だから、とても、こわい……です」
ねえ、かみさま。
わたしのかみさま。
いなくなったり、しませんよね――と。
早苗は言う。
「おいおい、早苗の神様は神奈子だろう? あいつ、怒るよ――――」
と冗談交じりに言い、振り返って。
「……失敗、したなぁ」
そこに、顔をくしゃくしゃにして泣きじゃくる早苗の姿を見てしまった。
咽び、啜り上げるように涙を流す、その姿を見てしまった。
だからわたしは年甲斐もなく、ひとり、ごちた。
「神奈子に笑われちゃう、なぁ」
わたしの足元で、一粒ぶん、雨音が強く響いた。
□
「聞け、諏訪子」
拝殿に来い、と呼び出されて行ってみれば、その奥で神奈子があぐらをかいて待っていた。
深夜、古くさい板敷きの上で蝋燭だけを灯し、むつかしい顔でわたしを迎えたと思えば開口一番、先ほどの台詞である。
どこか緊張を含んだその声にわたしは、ああそうか、これ暗闇の中で二人っきりってシチュなんだなぁ、なんて思ったけど、すぐに全然嬉しくない、いやむしろ残念イベントじゃないかってことに気が付いた。
バッドエンド、いや、デッドエンドも有り得たりしてね。
「なんだよ神奈子、いつにも増して偉そうじゃないか。あれか? 更年期?」
「いいから聞け」
神奈子の言葉には千鈞、あるいは万鈞の重みがあり、不思議に思ったが、すぐにわたしはその正体を悟った。
ここに雨の音は入ってこない。
ここには『におい』が紛れ込んでいない。
その代わりに降り積もっていく夜の静寂、そして暗闇。それらが、神奈子の厳粛な言葉にうず高く折り重なっていた。
なるほどだからか、とわたしは唸ってみせる。
すると神奈子は軽口を叩き続けるわたしを、蝋燭の灯り越しに睨みあげた。
鋭い眼光が暗闇に奔り、威圧の軌跡を残していくような、そんな睥睨《へいげい》。
どうやらわたしに有無を言わせるつもりはないらしい。
ゆらり、と蝋燭の火がぶれ、周囲の影が一層色濃く膨らんでいく。
一瞬の後、灯火は元の静けさを取り戻していき、それはさながら光と闇の波のように思えた。
果ての見えぬ海、底の見えぬその波打ち際に、わたしたちはこうして向き合い、座っている。
静かな黒い波はわたしたちを遠ざけるように――
温かな白い波はわたしたちを包み込むように――
まどろむような脆い世界。火と運命を共にする儚き世界。
その世界に不釣合いなほど不遜に不抜に、強く剛く、そして美しく、確固たる信念と意志を持って、神奈子は言った。
「この神社を――守矢神社を、幻想郷に移す」
「嫌だね」
けれどわたしはそれを容易く砕き壊した。
一切の悪びれも、一塵の躊躇もせず、叩き毀してみせた。
神奈子の言葉よりも遥かに穢く、惨めで、情けない、ただの感情と罪悪感と嘘にまみれた否定の金槌。
それを、冷やかに無表情に、蹂躙すべく神奈子に向かって振り下ろしたのだ。
けれど。後悔はしていない。
後悔だけは、していない。
そうかい。
と漏らす神奈子の声からは、どこか呆れたような諦観の念が感じられた。
当然だろう。もう一体何回、このやり取りを行ったことか。
あいつらの巣を、帰る場所を、奪いたくはない――
その思いのためだけに、私はずうっと神奈子の気持ちを踏みにじり続けている。
だけどそれでもへこたれない神奈子の強さが、実のところ、ちょっとだけ羨ましい。
「……なあ、いっそのこと、」
「巣を壊してでも、なんて抜かしたら本気で怒るよ」
「……ああ、分かった、言わない。言わないさ」
お前、私を悪者にはさせてくれないもんなあ、と神奈子は小さく笑った。
「今日はここまでにしよう。だが、いざとなったら」
そう言って、神奈子は蝋燭の火を手で払い消した。
波打ち際に、一瞬にして暗闇が敷き詰められていった。
芯の焦げたにおいが煙となって辺りに立ち籠め、やがて薄れていった。
闇に紛れてあの『におい』が、ここまで入り込んできたような気がした。
「神奈子は、やさしいね」
阿呆、とどこからか叱咤の声が飛んできた。
うん、やっぱり、神奈子はやさしいなあ。
□
それから、全てが順調に進んでいった。
神奈子もわたしもびっくりするくらい、それはそれは順調に。
わたしは毎朝のにらめっこついでに、すくすくと成長する雛たちを見守った。
あいつとあいつの妻とその子供たちとで、毎日毎日、にらめっこ。
神奈子への愚痴を言ってみたり、神奈子の軽口を真似してみたり、神奈子の馬鹿さについて語ってみたり。
そんなわたしの他愛もない雑談を、彼らは飽きることなく聞いてくれた。
そして勝負の結果は相も変わらず、負けて、負けて、負け続けて、それが七回続いたころ。
やがて彼らの巣立ちの準備が始まった。羽ばたきの練習である。
ばさり、と雨音を掻き消すように響くのは、彼らが翼を以って紡ぎだす意志そのものだった。
いざ、あの空へ!
この雨を、ぶ厚い雲を切り裂くように、今こそこの世へ飛び立たん――!
とか何とか、そんな感じで放言高論しているに違いなかった。
あるいは、あいつの子供たちな訳だから、
みろよあそこに蛙がいるぞ!
阿呆だなぁ、地べたを跳ねて満足してやがる!
やぁい、やぁい、悔しかったらここまで跳んでみな!
とかなんとか、わたしを笑っているのかも知れない。
……ありそうでちょっとむかついた。
むかついたから、神奈子の部屋の時計の電池を抜いてやることにした。
あとで説教くらったけど。
しかしまあそれはそれで。
そう、やっぱりそこそこ順調だったのだ。
つばめのガキたちはもうあいつと比べてみても大差ないくらいに成長していた。
この調子なら、もうあとほんの少しで全ての雛が巣立っていけるだろう。
そうすれば、気兼ねすることもなく移住できる。
早苗も、彼らも、もう故郷には帰れなくなるけれど。
もう恐らく、二度と戻れる日はこないだろうけれど。
それでもきっと、上手くやっていける。
間に合うんだ。
そう思っていた。
異変に気付いたのは、そんなときだった。
一羽だけ、うまく羽ばたけない。
兄弟が次々と巣立っていくなか、一羽だけが。
彼は必死で羽ばたく、が、彼が動かしているそれは翼と呼べるようなものではなかった。
奇妙に蠢き、申し訳程度の風を掴む、ただそれだけの肉塊だった。
これではどう足掻こうが、飛び立てない。
飛び立てないつばめが、生きていける筈はない。
小さいうちに、他の雛の下敷きになっていたのかも知れない。
可笑しな話だけれど、彼のその姿は、普段見慣れすぎた生物の死というものよりも、ずっとずっと痛々しくわたしの眼に映った。
そしてこびりつき、離れなかった。
諦めるという選択のない、生き物としての性《さが》。
呪いのように、死ぬまで纏わり付く生への執着。
その現実を突きつけられたような気がして、つらかった。
わたしは申し訳なくなり、しかし逃げる訳にもいかず、あいつを、つばめの家族を見上げた。
いくつもの黒い瞳が、静かに、静かにわたしを見つめていた。
どうして、もっと早く気付いてやれなかった。
どうして、どうして。
"そのために"こうして、にらみ合ってきたというのに――――。
□
それはそれは素敵な夜だった。
素敵な、雨の夜だった。
人々がまどろみをむさぼる時間。
妖獣が"なにか"をむさぼる時刻。
わたしは素敵な夜の中にいた。
闇に押し出されるかのように、雨粒が深い黒の中から溢れては、流れ落ちていく。
それがぽつりぽつりと地を叩き、静かな夜を梅雨の『におい』で塗り固めつつあった。
だからわたしにはこの境内が、さながら巨大な水族館のように思えた。
沈んだ空気で満たされた、無機質なガラス張りの水槽。
その奥底で、孤独に、もがくように泳ぎ続ける蛙の姿。
「誰もそんなの、見に来ないよなあ」
そんな滑稽な想像をしてみた。
いつものように笑おうとして、しかし、笑えなかった。
拝殿の階段に足を掛ける。
水気を吸ってふやけはじめた足場が、ぎし、とくぐもった音を立てた。
雨には当たれないけれど、床は踏みしめられるなんて、可笑しな話だ。
どうせなら、壁もすり抜けられたらいいのに。
そしたら早苗の生着替えとかお風呂とか……うわなにそれすげー楽しそうじゃん!
と、そんなユーモラスな妄想してみても。
やっぱり、笑うことは出来なかった。
「これ以上はもう、待てない」
神奈子はやっぱり開口一番にそう言った。
以前と同じ、夜の海。果ての無い波打ち際。
静寂を湛えた、白と黒。そして、偉そうな神奈子のしかめっ面。
なにもかも、以前と同じ。
だからわたしも、
「嫌だね」
と、そう返した。
しかし今回ばかりは、簡単に済まないと、分かっていた。
わたしの砂時計だけは、もう随分と軽くなってしまったから。
わたしは、ふっ、と蝋燭の火を吹き消した。
辺りが闇に呑まれて消える。
自分が目を開けているのか、いないのか、その程度のことさえ分からないほどの、漆黒。
これほどの黒が一体どこに隠れていたのだろう、と首をかしげてしまうくらいに、真っ黒。
そして神奈子のあの眼光ですら、黒に埋もれて見えなくなった。
これなら、やりやすい。
神奈子の顔を、見ずに済むから。
わたしの顔を、見せずに済むから。
「おい、諏訪子おまえ、」
「嫌だ、嫌だ、嗚呼嫌だ」
消えかかってるだろ、とは言わせない。
神奈子の所為になんか、するもんか。
「おい、諏訪子」
「嫌だ。あいつら残して行くもんか。ああ嫌だ、嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ」
「……聞けよ、諏訪子」
「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌嫌嫌――――――」
「――――ふざけるなッ!!」
咆哮。
そして、静寂。
閑寂。
深閑。
静閑。
闇打つ、無言。
物寂しい、
寂然とした、
うるさいまでの、無音。
風も、
熱も、
においも、
なあんにもない、
黒の海。
その底で、
二人して、
独りぼっち。
寂しい。
怖い。
でも。
それでも。
それでもわたしは。
「――――嫌、だね」
それでもわたしは、八坂神奈子を、嘲笑い続ける。
どこまでも、どこまでも、罪深く、許されなくなるまで。
そしてわたしが消え去るまで。
わたしは意地でも、頷かない。
どんなに馬鹿だと分かっていても。どんなに阿呆と言われても。
わたしは死んでも生を、望まない。
言ったろう?
後悔はしない。
謝りはしない。
諦めはしない。
決して決して、
自分を許さない。
ぎり、と歯を噛み締める音を、わたしは聞いた。
「……なあ、諏訪子」
そして、神奈子は言った。
何かを懇願するように、
何かを渇望するように、
いつもの威厳なんかちっとも見あたらない声で、
神奈子は、わたしの名前を、呼んだ。
「頼むから、聞いておくれよ、なあ、諏訪子、なあ。一生のお願いだよ」
神奈子は、
いとおしく、
いじらしく、
いたいけに、
幼い少女のように、
なあ、諏訪子、諏訪子、と。
吐き出すように、
大切なものを守るように、
だけど守れないことを悔やむように、
そんな自分が情けなくて、
だから必死に心の底から悲痛な声で、
繰り返し、繰り返し、わたしを、呼んだ。
そして神奈子は、もう一度、
「いいか、諏訪子」
わたしを呼んで、叫んだ。
「私は、お前が居なくなるくらいなら、燕の一羽二羽、殺して見せるぞ。神徳? はっ、知ったものかそんなものッ! そんな下らないもんにお前を取られてたまっかよ! 私は、私はなぁ、諏訪子! お前の為なら今すぐ神様なんかやめてやるってんだよッ! だから、なあ、おい、諏訪子」
聞いてくれよ。
一緒に、行ってくれよ。
頼むから――――。
その怒号は、あの『におい』の中へと、消えていった。
神奈子は泣いていた。
独りは嫌だ、と。
暗闇を恐れ、泣いていた。
綺麗な顔を、くしゃくしゃに歪ませて。
わたしが羨ましがったその顔を、涙で濡らして。
泣いて、いた。
「やっぱり」
「……ぁ?」
「やっぱり、神奈子は、やさしいね」
「…………っ、」
卑怯だ、と、神奈子は呟いた。
わたしはそっと歩み寄り、神奈子の髪を、やさしく撫でた。
わたしのだいすきな、神奈子の匂いがした。
わたしのだいすきな、だいすきな、神奈子。
「こんな良い友人泣かせちゃうなんて、わたし、だめだね」
言ってから、そういえば早苗も泣かせてしまったっけ、と思い出した。
嗚呼、嗚呼。
本当に、わたし、だめだなあ。
「――――でも、わたしは行かない」
いとしい、いとしい、神奈子。
さようなら。
それはそれは、素敵な夜だった。
わたしはひとり、そらを見上げる。
どこまでも深い、黒のそら。
なんにも見えない、雨の夜。
その中心で、わたしはそらを見上げる。
どこまでも続く、黒のそら。
くるくる、くるくる。
ふと、そんな音が聞こえた気がした。
だれも居ない境内に、静かに、傘の回る音。
くるくる、くるくる。
また、聞こえた。
こりゃあわたしも回さなきゃ、と思ったけど、まだ傘を持てるかどうか。
くるくる、くるくる。
くるり、くるるん。
だからわたしは、その場で回った。
くるり、くるるん。
空を見上げ、
雲に向かい、
両手を広げ、
傘のように、
赤のように、
黄のように、
黒のした、
くるりと、回った。
くるり、くるるん。
ひとり、飽きることなく。
そうして、回っていた。
目を閉じて、回っていた。
だって。
それはそれは。
泣きたくなるくらいに、素敵な夜だったから。
――ふと。
空を見上げた。
するとそこには、澄み渡った蒼い夜。
ぽっかり浮かんだ、まあるい月。
視界を遮るものは、何もなかった。
ただ、どこまでも広がる白い光の帯だけが、あの月までのびていた。
雨は、どこへ去って行ったのだろう。
ぶ厚い雲は、いまどこを旅しているのだろう。
わたしは月に問いかけた。
はるか遠くでひかる、白い月。
それは静かに、辺りを幻想の世界へと招いていくようだった。
白の光が黒の影を描き出し、
黒の影は輪郭を作り出し、
輪郭はまた光を浴び、白に還ってゆく。
それを何度も何度も、終わることなく繰り返す。
境内を、鳥居を、地面を、水たまりを、紫陽花を。
ここにあるものすべてを、月が招いていく。
色を失ってしまったもの全てに白を宿し、招いていく。
ああ、そうか。
これはきっと、最後のチャンス。
かみさまがくれた、別れの時間。
わたしも神様だけどね。
そう、微笑んで。
わたしは、傘のようにくるりと回した。
――――空に浮かぶあの月を。
「と、いっても。わたしが回るんだけどね」
そう、回れ右をするのは、わたし。
そして、その先には。
「――今晩は。今宵は素敵な素敵な、良い夜ですね」
帽子を胸に。
片足をすらりと引いて。
わたしとしてはこれ以上ないってくらい、優雅に、上品に。
そしてお淑やかに頭を下げる。
スカートをあげて礼をするには、ちょいと、短すぎるんだ。
そこでやっと、わたしは笑っていることに気が付いた。
何かが吹っ切れた、心底爽快な――まるでこの空のような――そんな微笑み。
誰かに見せるにゃ勿体ないくらいの、その笑みのご相手は。
黒い瞳に月の光をともらせて、いつものようにじいっと、わたしを見ているあいつだった。
「…………」
「って、なんだよー、ちょっとくらい反応してくれてもいいじゃんかー!」
「…………」
「ああもう、分かった、分かったってば。静かにするよ、奥さん起きちゃ不味いもんねぇ。おもにおまえが怒られるから! やーいやーい!」
「…………」
「あ、ちょ、ごめっ、ごめん! 寝ないで! 謝るからさ!」
「…………」
巣には、あいつと、あいつの妻と、その子供――――最後の一羽になったあの子が、いた。
一度巣立った他のつばめたちは、もうここに戻って来ていないようだった。
この素敵な夜を楽しんでいるのは、あいつと、わたしだけ。
起きているのはわたし達だけ。だから、他の誰も、邪魔できない。
さあ、いつものように、にらめっこを始めよう。
最後の、お別れを。
――――やあ。元気にしてた?
今日は、お別れを言いに来たんだ。
え、挨拶はもう済んだろって?
気にするなって、それくらい。
最後なんだからさ。それくらい、やらせてよ、ね?
……ありがとう。
さて、何から話そうか。
やっぱり、月並みに行こうか。こんな夜だしね。
……今思えば短い間だったけど、おまえと過ごした毎日は、楽しかった。
本当だよ。嘘じゃない。
結局、にらめっこは一回も勝てなかったけどさ。
それでも、楽しかった。本当に、楽しかった。
なあ、覚えてるか?
おまえがわたしに、初めてフンをくらわせた時のこと。
……ううん、やっぱり、なんでもない。
違う、違うんだ。
わたしが言いたいのは、そんなことじゃないんだ。
ごめん。
本当、ごめんな。
おまえの子供のこと、もっと早く気付いてやれなくて、ごめんな。
助けてやれなくて、ごめんな。
どうかわたしを、許して。
わたしを、ゆるして。
おまえの子供を殺した、わたしをゆるして。
神様のくせに、何も出来なくてごめん。
ああもう、ごめんしか言えないよ、ごめん。
ごめん。ごめん、ごめん、ごめん、
「ごめん、ね……」
悪い、神奈子。無理だった。
許しは請わないって言ったけど。
後悔だけはしないって見得張っちゃったけど。
泣くまい、って、勝手に決めていたけど。
ごめん、無理だよ。
だって、止まらないんだ。
涙が、止まってくれないんだ。
ぼろぼろって、こぼれて、こぼれて、こぼれてきて。
ごめんな、神奈子。
あんなこと言っちゃって。
ごめんな、早苗。
いっぱい、泣かせちゃって。
ごめんね。
わたしはもう、さよならです。
ずっとずっと、しあわせでした。
みなさん、ほんとうにありがとうございました。
「ごめ、ん、ね。ごめん、ね、ご、めんね、――――」
わたしは、ぼろぼろ泣いた。
くしゃくしゃになって、泣いた。
黒い瞳だけが、わたしをじっと、みつめていた。
「――――――――」
ふいに、あいつが、動いた。
――――え。
わたしは声を出せなかった。
わたしは動くことが出来なかった。
だめ、だめだ。
"それだけは"だめだ。だめなんだ。
おい、だめだ、だめだ、だめだ、だめだ!
だめだ、おいだめだって言ってるだろぉおおおおぉぉおお――――っ!
あいつは。
自らの子供を。
突き落としやがった。
「お、あああ、ぁぁあぁあああ――――!!」
動かない身体を引き千切り。
手を伸ばす。
ばさり、と彼が羽ばたく音。
けど、彼は飛べない。
翼は虚しく空を掻き。
しかしその一瞬、一瞬で。
指先だけでも、届けば。
届けば、それでいいんだ、
「……とどけぇええぇえええええ――――!」
地を蹴り跳ねる。
全力で、全霊で、飛び込む。
砕けそうなくらいに、右手を伸ばす。
そして。
「間に、合っ――――」
"するり"、と。
彼は、わたしの手をすり抜けていった。
そのとき、彼と、目が合った。
黒い瞳が、わたしをじいっと、みつめていた。
あいつに似て、すごく綺麗な瞳を、していた。
そこには、月と、わたしのひどく歪んだ顔が映っていて、
そのまま彼は、頭から地面へと、
■
「……おい、諏訪子。大丈夫か?」
□
「おい、諏訪子。大丈夫か?」
「……え? 神奈子?」
「ん」
地面にうつ伏せになっているわたしを見下ろすように、いかにも高慢に、どこまでも威圧的に、まさしく神様らしく堂々と、不抜で不敵で不遜な笑みを浮かべ、八坂神奈子は、そこに居た。
荘厳なる神の御手には、彼の姿。
黒い瞳を爛々と輝かせた、彼の元気な姿。
「――――ぁ、ああ。よか、った――――」
はあ、と胸の中の空気を残らずはきだす。
そして、大きく息を吸う。
「……ぷっ」
――そしたら、笑えてきた。
「あ、あははは、あははははははっ! なんだよ神奈子、そのカオ!」
「う、うるさいなっ」
神奈子はつとめて無表情を装っているようだったけど。
偉っそうな神様の御顔には、見事なまでの涙の跡。
その上に御目も真っ赤に染めて、そう、とにかく面白い顔をしていたから。
馬鹿笑いしてやった。
「おい待て、諏訪子だって一緒だろーが!」
「わたしの泣き顔は可愛いもんねーっ!」
「あぁ!? そんなら、私の泣き顔は世界一美しいに決まってら!」
「………………」
「あ、ちょ、おまっそんな目すんなって! 私だって言ってて恥ずかしいんだか……」
「ああ、素敵だ素敵! なんて素敵な夜だろう!」
「っておい聞けえええぇえ!!」
そうして、馬鹿で阿呆な神様二人。
どこまでも遠く広がる月の舞台を見上げ、
光に埋もれてしまいそうな夜を笑い合った。
――――素敵だ、ああ、素敵な夜だなあ!
□
さて。
お待たせしました。
それじゃあ今度こそ、最後のにらめっこといきましょう。
□
どのくらい経ったろうか。
それほど長くは無かった気がする。
五分か、十分か。
白い月が少しだけ動いたかな、と思える程度の、そんな時間。
ともかく、勝負の付かないにらめっこを、続けていた。
ふいに、ぽたり、とわたしの頬に何かが落ちた。
「――――つめた」
雨だった。
そして、その雨を合図にしたように、
わたしが雫を拭いとろうとしたその瞬間に、
ばさり、と、
あいつの妻が飛び立ち、闇に溶け込んでいった。
そして彼女を追うように、あいつも翼を広げ、深い夜へと姿を消していった。
最後の最後に、一声あげて。
それはまるで、灰に埋もれたこの世界を真っ向から切り裂くように。
白刃の煌きと鋭利さを併せ持ち、女神ほどにも美しく。
されど蛇の如くにしなやかに、どこか蛙の声にも似て透明な。
どこまでも響き渡る――――そんな素敵な声だった。
雲一つない、月の空を見上げた。
ぽつり、ぽつりと、わたしを濡らしていく微かな雨。
それはさながら、つばくらめの涙のようだった。
やがて雨が上がったとき、
あの『におい』はもう、しなくなっていた。
終
ラストもその後を想像させるようで素敵でした
雰囲気がとっても素敵ですね。
これからが風神録につながるお話なんですね。
良い作品でした。
とか読み終わっても思ってしまってる私って
・・・諏訪子の肌を見せたくなかったとか?嫉妬?独占欲?
いや、本当、もう駄目かもわからんね
この淑やかな優しさと儚さに、神の葛藤とツバメに背筋がゾクリときてしまいました。
この作品と作者にありがとうをいわせてください。
そして遥か長いときを共に過ごしてきた神奈子と諏訪子
永遠と刹那の対比
場所は幻想郷ではないけれど、ここには東方があったように思いました
物語全体に流れている空気がとても良かったです
素晴らしい状況描写を読者に与えるこの表現力。
作品全体のしっとりとした雰囲気。
お見事です。
二柱の神さまも、良いつがいですねぇ…夫婦どつき漫才ぽくもありますががが…