*本編を読む前に目を通して頂けると幸いです。
前回の作品『影法師』で起承転結になっていないという指摘を受けていました。
作品を未完成のまま投稿している状況は良くないと反省し、私なりに完結させてみた結果がこの作品です。
『影法師』の一部表現等を変えてはいますが、そのまま流用しているので手抜きかと思われるかもしれません。
もしもそのような事に不快感を感じる方がいましたら、どうか読む前に閉じるなり戻るなりして頂けると幸いです。
本編
人間の憎悪とは恐ろしい物である。いがみ合い蔑み、怨み憎んで殺す。
身も心も削りあった末に得られる残滓は存在するのだろうか。
そんな気持ちを抱く事のない身でありながら、暇を持て余す八雲紫は思考を巡らせていた。
ここは滅多に人が立ち寄らない、もとい立ち寄れないマヨヒガの縁側。
見た目はこれといって変わった所があるわけではなく、いたって普通の木製住居である。
唯一普通ではない所は住人が妖怪である事ぐらいだった。
「藍……妖怪と人間の違いって何かしら?」
突然の振りに戸惑う様子を見せるのは紫の式である八雲藍であった。
その横には日向ぼっこをしている猫の式神橙が丸くなっていた。橙は藍の式である。
「え……えっと、寿命……じゃないですか?」
確かに人間も妖怪ほど寿命があれば争う事の馬鹿らしさに気づくのかも知れない、と紫は思った。
しかし、それはあくまで結果論であり紫の考える意味での人間と妖怪の違いではない。
何が違うのか、何がそこまで人間を駆り立てるのか。
考えれば考えるほど頭の痛くなる話であった。
紫は考えるのを止めた。
何時もの様に手際の良い藍が夕飯を作り、橙の手伝いもあって何の問題もなく完成した。
今日の夕飯は脂の良くのった焼き魚と小鉢にお味噌汁、それとホカホカと湯気をたて白さが美味しさを際立てている白米。
紫を加えて三人で食卓を囲む。
「何時も何時も言ってますけどたまには紫様も炊事くらい手伝って下さい」
あたかも紫が何もしていないと言いたげな口調で藍が言う。
事実何もしていない紫がピクリとも動じずに返す。
「藍は私へ過労死しろと言うのね。でも解ってると思うけど、私が死んだら貴方は式では無くなってしまうのよ?
そうなったら本末転倒よ? それでも藍、貴方は私に炊事をしろと言うのかしら?」
藍は改めて思う。何故この人の式神になってしまったのだろうと。
そんな傍らで心配そうに見つめる視線があった。
橙の視線に気づくと藍は言った。
「大丈夫だぞ橙。何れ私も独立して家を持ち、一人でお前を養ってやれるようになるからな」
さきほどの威勢はどこへやら、紫の顔からはすでに生気が失われていた。
「ら……藍……私料理が作りたくなったわ……そうよね主として料理くらい、しないといけないわよね……」
昨日も一昨日も似たようなやり取りをしたはずの三人は飽きる事を知らないのだった。
晴れの日が何日か続いたある日。
今日は生憎の雨模様となり、何もしない紫は尚更何もする気が起きないでいた。
藍は先ほどから忙しそうに洗濯物を取り込んでいる。普段なら健気に手伝う橙も雨となっては太刀打ち出来ず、縁側から見ているしかないようだった。
紫クラスともなれば式を付け直すのも容易な事だったが、藍では付け直すと半日近くは体が思うように動かないのだ。
だから極力橙は水を避け、雨の日はこうして家の中にいるしかないのである。
「紫さま、このままじゃ藍さまも洗濯物も全部びちゃびちゃになっちゃいます。スキマで……」
橙の言葉を遮り紫が喋る。
「橙……そんなズボラな事をしてしまったら怠惰の始まりよ? 橙は藍がそんな人になって欲しいの?」
橙は必死に首を横に振る。かわいい。
「そうよね。だからこれは私なりの優しさなの。分かってくれるかしら?」
橙が頷く。それと共に橙の中で紫への好感度は上がるのであった。
そんな光景を横目に、藍は何故紫の式神になってしまったのだろうと頭を抱えていた。
八雲家に和やかなムードが漂う中、雨を弾き風を切り轟音をたてて八雲家に近づく物体があった。
それは弾丸の如くグングンと速度を上げる。
危うく明日からは屋根に穴の開いた家で食事をしないといけなくなるかと思われたが、それは阻止された。
空を飛んでいたはずのそれは既に紫の手中に収まっている。
飛んできたのは『文々。新聞』であった。
相変わらず仕事の荒い鴉天狗だと思いながら紫は紙面に目を通す。
その中で紫は気になるニュースを見つけた。
「急に幽霊が異常に増えたせいで彼岸もてんやわんやらしいわ……」
紛争か、はたまた天災か。
忙しい一因としてはサボり魔の死神のせいもあるのだろうが……。
「面白くもない話ですね……」
何時の間にか洗濯物を取り込み終わった藍が横に立っていた。
「それよりも四コマを読みましょう四コマ! 文々。新聞の唯一の楽しみですよ!」
珍しくはしゃぐ藍に暗くなりかけていた紫もついついニュースの内容も忘れ四コマを楽しむのであった。
丑三つ時。
藍も橙も眠り八雲家は静寂が支配する。
しかし紫は何か嫌な感じを覚え眠れずにいた。
二人が寝ているのを確認すると静かに紫は神社へと移動した。
神社では博麗の巫女がせっせと働いていた。
日頃からこれだけ働けば賽銭箱も潤うのだろうが……。
巫女は結界を張り終わると疲れたといった様子で寝床へ戻る為に障子を開けた、とそこに紫の顔があり、おでこをぶつけてしまった。
「いった~い! 何! 何なの! 久しぶりに体を動かしたから疲れてるっていうのに!」
賽銭箱は潤わない。
「びっくりさせようとした罰が当たったわ……はぁ。それより霊夢も気づいていたわね」
霊夢と呼ばれた巫女が続ける。
「私を誰だと思ってるの? 博麗の巫女よ! 当然でしょ」
霊夢は自信満々といった風である。
紫は大妖怪と言ってもいい、対峙して一歩も引かない目の前の巫女に紫は愛情とも似た好意を寄せている。
「それで? 用件は何?」
紫は霊夢に夢中で、すっかり目的を忘れていた。
「彼岸に幽霊が増えたと思っていたら幻想郷に新しい力が生まれたわ。今はまだ微弱だけど……そう遠くない内に強大な物になるでしょう。
この私ですら危うい存在になりかねない……だから早い内に決着をつけるわ。
霊夢にも手伝って欲しかったのだけど……そうもいかないようね」
紫の視線が何時の間にか鳥居の彼方を見つめていた。
霊夢は紫が何を見ているのかすぐに気づいた。
日差しが眩しい。
「藍……ちょっと用事が出来たから数日家を空けるわね」
紫はそういうと家を出て行った。
藍は勝手について行こうとも考えたが、普段見る事のない紫の真剣な目にその考えは失せてしまっていた。
空には雲一つなく清清しいとすら言える日和だった。
紫は生まれた力の居所が掴めず困っていた。
鬱蒼と茂る木々が光を殆ど遮ってしまっている。
生まれたばかりのせいか、溢れ出る力を抑えられないお陰で大まかな場所は特定出来た。
ここまでに辿り着く道中にも雑魚の集まりだったが妖怪に襲われ、妖怪達からは微弱ながら同じ波長の力が感じられた。すぐ近くまで来ている確信を持っていた。
しかし、いざ近づくと溢れた力が逆に居場所を解り辛くしていた。
進む事も戻る事も出来ず泥沼に嵌ってしまったようだった。
と、そこへどこから迷い込んだのか一人の青年が歩いてきた。
この辺に村などは無かったはずなのだが。
「すいません、道に迷ってしまって……出口を知っていたら連れていって貰えませんか?」
その青年は爽やかな笑顔で話しかけてきた。
紫は困った。そんな悠長な事をしている暇は正直ない。しかし、ここで境界を弄れば敵に気取られかねない。
しぶしぶ紫は青年を出口に連れて行きながら力の居場所を探す事にした。
それにしてもこの青年は不自然だった。
長い間この森で迷っていたのか、無精髭を生やし、髪も手入れされていないのか伸びっぱなし、服も所々破けている。
それだけならまだしも破けた服の下には肩当てや胸当てが見て取れた。
そうこうしながら、もうすぐ出口だという所で事は起きた。
紫は青年を不信に思いながらも注意は完全に力を探すほうへ向けられていた。
突然紫の体は地面に押し倒され何が起きたのか一瞬解らなかった。
だが紫は目の前の人間の目を見て悟った。
己の欲求さえ満たせればいいという欲望に駆られた目。
青年は紫の腕を押さえつけると紫の上へ馬乗りになっていた。
「こんな辺鄙な森で追い剥ぎしないといけなくなると思った時は死ぬしかないと思ってたが……最後に楽しんで死んでやらぁ!
神なんて信じちゃいないが今日だけは感謝するぜ!」
青年はすでに獣に豹変していた。
獣の息は荒く、目線は舐め回すように目の前にある女の体を蹂躙していく。
それにも飽きたのか、獣の腕は女の豊かな膨らみに手を伸ばすと揉みしだき始めた。
そんな中で紫は目の前の人間の変わり様よりも、自分の晒した醜態に呆れていた。
人間は欲の塊その物と言ってもいい。私利私欲の為に同族ですら殺してしまう。一番醜くおぞましい存在なのだ。
そんな事を一時でも忘れ、迂闊にもこのような事態を招いた自分に対して紫はひどく呆れているのだ。
そして紫が目の前の獣に止めをさそうと決めた時、すでに獣の首は飛んでいた。
紫の顔に鮮血が飛び散り視界を紅く染め上げる。
「外の世界で死んだ人間の憎悪や憎しみに僕がちょっと力を与えただけで醜悪な姿を現す。僕自身も人間の憎悪や憎しみで生まれた。幻想郷にすらこんな醜い人間がいる……ほんと気持ちが悪い……。
だから醜い人間には相応しい姿を与えないといけない……外の世界では増えすぎた人間がこれからどんどん死ぬ。僕を生んでくれたお礼も兼ねて醜い姿を授けてあげないといけない……」
声のする方に視線を移すとそこには七、八歳くらいの子供がいた。
顔の方へ目を向けると紫は言葉を失くした。道中で見てきた妖怪とは比べ物にならないそれは吐き気を催す気さえした。
紫は立ち上がると言った。
「あなたが力の元凶ね」
子供は醜い笑顔で言う。
「そうだよ! 人間の嫉妬や恨み辛みがある限り妖怪達は増え続ける! 妖怪達も醜悪な姿で生まれてくる原因になった人間にお礼をしに行きたくてウズウズしてる!
その時人間は醜い自分たちの姿に気づけるんだ! 幻想郷の人間を亡き者にしたら次は外の世界に行く!
聞いた話だと外の世界と幻想郷を行き来できる妖怪がいるらしいんだ! そいつを捕まえて向こうの世界へ行くんだ!」
本当に楽しみだと言わんばかりの様子は子供その物だった。
子供は喋り終えると黙り、紫の足元で転がっている骸に近づき手をかざした。
骸は朽ち果て灰になると、その中から四足の妖怪がのそりと起き上がった。
顔の殆どを目玉が占め、どこを見るとも無く終始動いている。
「ところで……見た感じだとそこらの妖怪風情とは違うようだけど何しにきたの? もしかして邪魔しに来たなんて言わないよね?
無駄だよ。僕の力は人間の醜い部分が無くならない限り半永久的なんだ。いくら強くても、たかが知れて」
子供が喋っている間に生まれたばかりの妖怪は消えていた。
「え……」
理解しようとした瞬間子供の四肢は消え、子供は泣き声とも悲鳴ともつかない声をあげた。
紫は子供の腕と足の境界を弄っていた。
力は半永久的かも知れないが、『あった』はずの空間が『ない』のである。そこに手や足は生えてこなかった。
胴体だけになった子供の下には綺麗な深紅の水溜りが出来ている。
「そ……ん……ここまで強いなんて……反則じゃないか!」
驚愕の表情を浮かべながら子供は続ける。
「ふふ……あははははははははは! ……笑うしかないよね!」
もがきながら喋り続ける。
「ついでだから良い事を教えてあげるよ……僕は死んだ人間の憎悪や憎しみに力を与えてた。でもね人間の業は深い……妖怪になっても欲望を満たそうとする奴がいた。
あんな人間みたいな奴は気に食わなかったけど確かに強かった……だから外界へ行く為の妖怪を連れてくるように言っておいた。運が良ければその妖怪が始末してくれると思ってね。
だけど僕が思っていたよりもあれは力をつけすぎてる。早く行かないと大切な物を失うかも知れないよ……」
言い終わると子供の体は消滅した。
人間はどこまでも欲深く、醜くて汚い生き物だ――しかしその中にも一粒の透き通ったガラス玉のような部分がある。
結局は憎悪などから生まれたはずの存在にも、そのたった一粒は紛れ込んでいたのかも知れない。
紫が止めをさす事なく消えてなくなってしまった。
元凶はなんとも呆気ない終わりを迎えた。
そして紫は藍達の元へ急ぐのであった。
「くっ……」
藍の口元からは苦痛の声が漏れる。
確信を得た影の一撃は彼女の胸に穴を穿いたかに見えた。
その一撃により彼女の左手の甲には穴がぽっかりと口を開け、循環する血液の流れにより噴き出る血は、血管の脈動まで伝えてくるようだ。
彼女は片膝をつき、息も絶え絶えと言った様子である。
ほとんど条件反射と言ってよかった。彼女は影から放たれた一撃が心の臓を捉えているのを判断すると避けるのを止め、左手を犠牲に致命傷を防いでいた。
だが彼女は既に肺をやられ口元からは呼吸と同時に血が溢れ、体のいたる所には抉られた傷、ひどい箇所では骨まで見えている。
視界には不敵な笑みを浮かべる影が見下していた。
「その体で今の攻撃を凌いだ事には関心する……だがそれも終わりだ」
その抑揚の無い声は彼女の耳に届いてはいなかった。
影が揺らめき、辺りを無音が支配していく。
そして彼女の後方にはもう一つの影が迫っていた。
ここで数刻ほど遡る。
「紫様は数日家を空けると言ったきり帰ってこない。どこで何をしていらっしゃるのか……」
八雲藍は用事があると言い残し出て行った主の事を考えていた。
今まで急にいなくなる事はあってもわざわざ言伝を残して行く人ではなかった。
何か異変が起こっているのだろうか――彼女には知る由も無かった。
「藍さま?」
橙の一言で我に返り、ふと見下ろすと、不安そうな目で見つめてくるその瞳は今にも崩れそうだった。
「すまないな橙、心配しなくても何れ元の生活に戻る……」
しかし発した言葉は自分自身へ言い聞かせようとする暗示のようにも聞こえた。
「とりあえず中に入ろうか」
俯いている橙の様子を直視できずに空を仰ぐ藍。
お昼まではあれほど晴れていたのに何時の間にか灰色の雲が一面にかかっており雲行きが怪しくなっていた。
彼女は焦っていたのかも知れない。
「橙、私は博麗の巫女の所に行ってくる。しばらく留守番を頼んだぞ」
頷く橙は逞しく思える反面、内面では不安で仕方ないのだと思うとやるせなくなる。
だが彼女は胸のざわめきを隠せないでいた。
この胸のざわめきを解決するには巫女の所に行くしかないと。
神社へ向かう彼女の足取りは自然と早くなっていた。
過ぎ去る景色にまとわりつかれている気がして、苛立ちばかりが募る。
「博麗の巫女はいるか!」
彼女は着くやいなや大声を張り上げ障子を壊しかねない勢いで開ける。すると彼女の背中へ聞き覚えのある声がかけられた。
「紫の式がここに何のようかしら? あと障子は優しく扱ってね」
焦る彼女はひょうひょうとしている巫女を捲くし立てる。
「紫様が出て行ったきり戻ってこない……それだけじゃない。
最近の幻想郷の空気に違和感もある。
博麗の巫女なら何か事情を知っているんじゃないのか?」
さきほどまでのひょうひょうとしていた面影は消え、急に険しくなる巫女。
「紫がいなくなったのはそれのせいでしょう」
巫女が札を投げるとそれの正体が現になった。
ゾッとした。今までに幻想郷では見た事のないその醜悪な姿は魑魅魍魎とでも呼ぶべき姿だった。
押し寄せる魑魅魍魎の群れが今にも結界を破壊しかねない勢いで迫る。そういえば先ほどまでは必死で気づかなかったが巫女の額には汗が滲んでいる。
「外の世界で何かあったのよ……それと同時に大きな力が幻想郷に生まれた。
でもこの有様じゃ私はここで結界を張っていないといけない。だから紫はこの異変の元凶を叩きにいった。それ以上でもそれ以下でもない。
それよりもあなたは何でここにいるの? この妖怪達は今までこの幻想郷にいた類の者とは違う。
あなたも少なからず普段の生活でこの異変に気づいていたという事は既にそこまで侵食している……」
聞き終わる前に彼女は走り出していた。
「橙!」
叫ぶと同時に玄関の扉に手をかける。
開かれた扉の奥からは普段嗅ぎなれている匂いと一緒に嫌な臭いが鼻をついた。それは瞬時に肺を満たし軽く眩暈を起こさせた。
彼女の細胞の一つ一つが警告していた。
「この奥には行くな」
と、しかしすでに彼女の理性は働いてはいなかった。
嫌な臭いの元へと向かった彼女は立ち尽くしていた。
そこには無残に転がる子供の体が一つあった。
体には無数の傷が刻み込まれ致命傷ではないにしろこのままでは何れ出血で手遅れになる。
駆け寄るとすでに意識を無くしているかと思われた小さな体から、言葉が発せられた。
「ごめ……な……さい……」
この子は何に対して謝っているのだろう。
謝らなければいけないのはこの子ではないのに。
そんな事を考えながら、応急処置を済ませた彼女の瞳には八雲としての生を享けてからは灯る事のなかった色が瞳に映りこんでいた。
彼女は気づいていた。この奥にいるそれを倒さない限り解決しないのだと。
「狐も犬のように嗅覚ですぐさま飛んでくるかと思ったんだが……見当違いだったか。あれだけ血なまぐさい臭いがしたら気づくと思ったんだが」
と、奥のほうから低い声が響いてきた。
さきほどの傷は明らかに殺す為の物ではなかった。
ただ誘き出す為だけに――あんなひどい目にあったのだとそういう事だった。
彼女に出来る事は限られていた。
喋っていたそれは影だった。人間のような形状はしているが光を全て飲み込んでしまうような深く黒い影。
しかし彼女は迷う事なく地面を歪ませると飛び込んでいた。影の右前方に一息に距離を詰める。
「くらえッ!」
彼女は叫ぶと既に次の行動に移っていた。
浮いていた足が地につくと左足を軸に体を捻り、回転力を加えた右の踵を影の後頭部に撃ち込んだ。
怯んだ影の口からは形容しがたい獣の声が聞きとれた。
確かに手ごたえがある影。
影は地面に叩きつけられると手鞠のように良く跳ねた。 跳ねた所に追い討ちをかけるように彼女の拳が撃ちこめられる。
成す術も無く、影は壁に叩きつけられそのまま地面に崩れ落ちた。
彼女がさらに追い討ちをかけようと走りよる、と一方的にやられていた影に変化があった。
影はさきほどまでのダメージを感じさせない様子で起き上がる。
同時に彼女の足は止まりしばらく睨み合いが続いた。
最初に動いたのは影だった。
影の体が歪み今までの人の形ではなく無機質な幾つかの物体に独立していた。
その一つは先が尖り一突きで致命傷を与える槍のようだった。二つ目はシャープな見た目とは裏腹に重厚そうな形が見て取れた。
三つ目は見た瞬間に対象を叩き潰す事にのみ重点をおいた物だと解った。
彼女は動けずにいた。次の行動が予想できずにいたからだ。
そんな彼女を余所に一突きを浴びせようと影の一つが飛んできた。
「それくらい!」
明らかに狙いが見えているそれを避けられない彼女ではない。回避と攻撃を同時に行う。迫る影にタイミングを合わせ払い落した。
払い落した余韻で動けない彼女に、畳み掛けるようにもう一つの影が彼女の背中を撃つと鈍い音が響いた。
「くぅ……」
彼女は耐えるとすぐさま受身を取り体勢を立て直そうとした。しかし思うように体が動かない。
ふと体を見ると所々肉は抉れ、流血をし、骨にまで達している箇所もある。
抉られた部分の多さからして一目でそれは機動力を奪う為に足を狙ったのだと解るほどの状況だった。
一瞬理解が出来なかった彼女は気づいた。
二つの影の後ろで動く事無くこちらを見据えている影がいる事に。
彼女がそちらに視線を移した瞬間その影の先からは高速で何かが撃ち出されていた。
痛みで思ったように動けない彼女は、それでも耐えると避ける為に飛び退っていた。と同時にさきほどの傷はこれによるものだと理解した。
だが気づくのが少し遅かった。
高速で撃ち出されたそれはあくまで誘導する為の物であり、本命はその先で待っていた二つの影だった。
刹那でも避ける為に飛び退り、足が宙に浮いてしまった事が仇となった。浮いた事で彼女の体は完全に無防備となっていた。
槍のような影は右ふとももを後方から前方へ肉を引き裂くと、血を滴らせた切っ先が顔を見せていた。
そのまま前方へ倒れ込む彼女に追い討ちをかけるように正面から影の鉄槌が叩きつけられ、鈍い音がすると彼女の体は後方へ吹き飛ばされていた。
正面からの一撃は胸を強打し外傷を与えること無く内部へ直接ダメージを与えていた。
折れた肋骨は肺に刺さり呼吸をすると、どす黒い血がゴポリと音を立てながら口元から止め処なく溢れでてくる。
それでも彼女は気力で立ち上がると両足で大地を踏みしめていた。
依然として立ち上がる彼女に狂気を感じつつも勝利を確信した影は最後の一撃を放った。
切っ先は彼女の心の臓を一直線に狙う。
終わった、と影は思った。
一撃は寸分違わず狙った箇所を穿つはずだった。
しかし穴が開いていたのは心の臓ではなく彼女の左手。
冷やりとした。
その瞬間体勢を崩し彼女は片膝をつく。
勝敗は決した。
人の形に戻った影の腕が刃の形へと変わり、力ない彼女へと振り下ろされた。
既に彼女の意識は途切れようとしている。
目の前には振り下ろされようとしている刃。
逃げるだけの余力は彼女には残されていない。
彼女に迫る刃。
すると不思議な事が起きた。
目前にあるはずの刃の空間が綺麗に切り取られたように無くなってしまったのだ。
今起きた出来事がどういう事を意味するのか彼女は気づいていた。
そして――彼女の記憶はここで途切れる
藍は無事だった。
紫は振り下ろされる刃の境界を弄り、間一髪の所で阻止する事に成功していた。
そして紫はさらに境界を弄ると藍と橙の二人を安全な場所へ移す。
紫は二人の状態を見て己の愚かさを悔いた。と同時に堪忍袋の緒が音をたて切れていた。
「これで心置きなくやれるわ」
紫はそう言うと、日の遮られた暗い部屋に立ち尽くす影へ一歩ずつ近づく。
影は何が起こったかをおおよそ把握すると、紫との距離を保ちつつ影の弾丸を撃ち込んできた。
しかしそれらは紫に触れる事はなく全て飲み込まれていた。
影は二方向へ伸びると紫を挟むように陣取り、影の弾丸が形状を止める前に撃ちだしていた。
その歪な形をした弾丸は境界を弄る前に紫へ到達するかと思われた。
ふわりと紫が両腕を上げると、瞬時に弾丸は何かに衝突したように形を変え灰となっていた。
「なんだっていうんだ!」
影が声を荒げる。
「チェックメイトよ」
紫が言うが早いか影の体はどんどん飲み込まれていく。
そして跡形もなく全て飲み込んでしまった。
部屋には紫しかいない……はずだった。
床や天井の影という影が蠢いている。
「奴が恨みや妬みで出来ていたように……俺は影がある限りあり続ける。お前のその力は空間を寸断しているようだが四方八方にまで伸びる影までは飲み込めまい」
紫は唇を噛む。
全力で望めば影ごとここら一帯を軽く飲み込む事は容易だったが、力の加減を一歩違えれば幻想郷すら飲み込みかねなかった。
どうしたものかと一人で押し問答していると地響きが轟いた。
何かが近づく音が聞こえると同時に、壁には大きな穴がぽっかりと開いていた。
「おまたせしました」
誰も呼んでいないのだけど、と紫は思った。
「何の用? あとその壁はどうするのかしら?」
これはうっかりしていました、とばかりの表情をしている。
「あやややや、でもこれくらいじゃすまないと思うんで問題ありません。それよりも私はその黒いのを仕留めたいんですよ」
射命丸文だった。
紫は言う。
「問題は大有りな気がするけど後者には同意するわ。でも良いの? スクープに自分の手を加えたら捏造になるわよ」
文は言う。
「今回の私は記者ではなく当事者なので問題ないです。あと、たぶん手加減できないんで気をつけて下さいね」
そういうと文は天井を仰ぐ。
文の周りには次第に風が渦を巻き始め、それは地から天へと伸びる柱となった。
見事に渦は屋根を破り一帯をも巻き込むと柱や周りの木々といった物さえも吹き飛ばして行く。そして辺り一面をただの平地へと変えてしまった。
天へと伸び続ける渦は空にかかる灰色の雲をも吹き飛ばし地上を日の光が覆った。
天を仰ぎ見ていた紫はもうお昼になっていた事に気づくと共に、これなら一人でやればまだマシだったんじゃないかという気さえしていた。
ふと視線を地上へ下ろす紫。と先ほどまで蠢いていた影は一面に降り注ぐ日の光に行き場を無くしていた。
「さようなら」
紫がそういうと、影は消滅した。
今回の一件は深い傷跡を残した。
しかし幸いにも幻想郷には凄腕の薬師がいた。
藍と橙の二人はしばらく安静にしてなくてはいけないが、命に別状はないようだ。
神社に押し寄せた妖怪は、あの後たまたま通りがかった魔理沙によって一掃された。
結界を解き、霊夢が自分で退治すれば良い話だったのだが、神社がとばっちりを受けて壊れるのが嫌だったらしい。ひどい話だ。賽銭箱はもちろん空である。
そんなこんなで吹き飛んだはずの八雲家だったが、数日後には元通りになっていたらしい。しかし詳しい話を聞くと元の家とはどこか違うようだ。
そして妖怪の山でも負傷者が出たという話だが皆無事らしい。
何故大量の幽霊が発生したのか。
それを幻想郷で知る物は少ない。
しかしこれからも増えすぎた人間の欲望によって彼岸は忙しくなるだろう。
紫は全てが片付いた後、改めて妖怪と人間の違いを考えていた。
妖怪と人間の違いは結構曖昧なのかも知れないと彼女は思いつつ、やっぱり無いなと思うのだった。
こうして幻想郷はいつもの平穏を取り戻しつつあった。
前回の作品『影法師』で起承転結になっていないという指摘を受けていました。
作品を未完成のまま投稿している状況は良くないと反省し、私なりに完結させてみた結果がこの作品です。
『影法師』の一部表現等を変えてはいますが、そのまま流用しているので手抜きかと思われるかもしれません。
もしもそのような事に不快感を感じる方がいましたら、どうか読む前に閉じるなり戻るなりして頂けると幸いです。
本編
人間の憎悪とは恐ろしい物である。いがみ合い蔑み、怨み憎んで殺す。
身も心も削りあった末に得られる残滓は存在するのだろうか。
そんな気持ちを抱く事のない身でありながら、暇を持て余す八雲紫は思考を巡らせていた。
ここは滅多に人が立ち寄らない、もとい立ち寄れないマヨヒガの縁側。
見た目はこれといって変わった所があるわけではなく、いたって普通の木製住居である。
唯一普通ではない所は住人が妖怪である事ぐらいだった。
「藍……妖怪と人間の違いって何かしら?」
突然の振りに戸惑う様子を見せるのは紫の式である八雲藍であった。
その横には日向ぼっこをしている猫の式神橙が丸くなっていた。橙は藍の式である。
「え……えっと、寿命……じゃないですか?」
確かに人間も妖怪ほど寿命があれば争う事の馬鹿らしさに気づくのかも知れない、と紫は思った。
しかし、それはあくまで結果論であり紫の考える意味での人間と妖怪の違いではない。
何が違うのか、何がそこまで人間を駆り立てるのか。
考えれば考えるほど頭の痛くなる話であった。
紫は考えるのを止めた。
何時もの様に手際の良い藍が夕飯を作り、橙の手伝いもあって何の問題もなく完成した。
今日の夕飯は脂の良くのった焼き魚と小鉢にお味噌汁、それとホカホカと湯気をたて白さが美味しさを際立てている白米。
紫を加えて三人で食卓を囲む。
「何時も何時も言ってますけどたまには紫様も炊事くらい手伝って下さい」
あたかも紫が何もしていないと言いたげな口調で藍が言う。
事実何もしていない紫がピクリとも動じずに返す。
「藍は私へ過労死しろと言うのね。でも解ってると思うけど、私が死んだら貴方は式では無くなってしまうのよ?
そうなったら本末転倒よ? それでも藍、貴方は私に炊事をしろと言うのかしら?」
藍は改めて思う。何故この人の式神になってしまったのだろうと。
そんな傍らで心配そうに見つめる視線があった。
橙の視線に気づくと藍は言った。
「大丈夫だぞ橙。何れ私も独立して家を持ち、一人でお前を養ってやれるようになるからな」
さきほどの威勢はどこへやら、紫の顔からはすでに生気が失われていた。
「ら……藍……私料理が作りたくなったわ……そうよね主として料理くらい、しないといけないわよね……」
昨日も一昨日も似たようなやり取りをしたはずの三人は飽きる事を知らないのだった。
晴れの日が何日か続いたある日。
今日は生憎の雨模様となり、何もしない紫は尚更何もする気が起きないでいた。
藍は先ほどから忙しそうに洗濯物を取り込んでいる。普段なら健気に手伝う橙も雨となっては太刀打ち出来ず、縁側から見ているしかないようだった。
紫クラスともなれば式を付け直すのも容易な事だったが、藍では付け直すと半日近くは体が思うように動かないのだ。
だから極力橙は水を避け、雨の日はこうして家の中にいるしかないのである。
「紫さま、このままじゃ藍さまも洗濯物も全部びちゃびちゃになっちゃいます。スキマで……」
橙の言葉を遮り紫が喋る。
「橙……そんなズボラな事をしてしまったら怠惰の始まりよ? 橙は藍がそんな人になって欲しいの?」
橙は必死に首を横に振る。かわいい。
「そうよね。だからこれは私なりの優しさなの。分かってくれるかしら?」
橙が頷く。それと共に橙の中で紫への好感度は上がるのであった。
そんな光景を横目に、藍は何故紫の式神になってしまったのだろうと頭を抱えていた。
八雲家に和やかなムードが漂う中、雨を弾き風を切り轟音をたてて八雲家に近づく物体があった。
それは弾丸の如くグングンと速度を上げる。
危うく明日からは屋根に穴の開いた家で食事をしないといけなくなるかと思われたが、それは阻止された。
空を飛んでいたはずのそれは既に紫の手中に収まっている。
飛んできたのは『文々。新聞』であった。
相変わらず仕事の荒い鴉天狗だと思いながら紫は紙面に目を通す。
その中で紫は気になるニュースを見つけた。
「急に幽霊が異常に増えたせいで彼岸もてんやわんやらしいわ……」
紛争か、はたまた天災か。
忙しい一因としてはサボり魔の死神のせいもあるのだろうが……。
「面白くもない話ですね……」
何時の間にか洗濯物を取り込み終わった藍が横に立っていた。
「それよりも四コマを読みましょう四コマ! 文々。新聞の唯一の楽しみですよ!」
珍しくはしゃぐ藍に暗くなりかけていた紫もついついニュースの内容も忘れ四コマを楽しむのであった。
丑三つ時。
藍も橙も眠り八雲家は静寂が支配する。
しかし紫は何か嫌な感じを覚え眠れずにいた。
二人が寝ているのを確認すると静かに紫は神社へと移動した。
神社では博麗の巫女がせっせと働いていた。
日頃からこれだけ働けば賽銭箱も潤うのだろうが……。
巫女は結界を張り終わると疲れたといった様子で寝床へ戻る為に障子を開けた、とそこに紫の顔があり、おでこをぶつけてしまった。
「いった~い! 何! 何なの! 久しぶりに体を動かしたから疲れてるっていうのに!」
賽銭箱は潤わない。
「びっくりさせようとした罰が当たったわ……はぁ。それより霊夢も気づいていたわね」
霊夢と呼ばれた巫女が続ける。
「私を誰だと思ってるの? 博麗の巫女よ! 当然でしょ」
霊夢は自信満々といった風である。
紫は大妖怪と言ってもいい、対峙して一歩も引かない目の前の巫女に紫は愛情とも似た好意を寄せている。
「それで? 用件は何?」
紫は霊夢に夢中で、すっかり目的を忘れていた。
「彼岸に幽霊が増えたと思っていたら幻想郷に新しい力が生まれたわ。今はまだ微弱だけど……そう遠くない内に強大な物になるでしょう。
この私ですら危うい存在になりかねない……だから早い内に決着をつけるわ。
霊夢にも手伝って欲しかったのだけど……そうもいかないようね」
紫の視線が何時の間にか鳥居の彼方を見つめていた。
霊夢は紫が何を見ているのかすぐに気づいた。
日差しが眩しい。
「藍……ちょっと用事が出来たから数日家を空けるわね」
紫はそういうと家を出て行った。
藍は勝手について行こうとも考えたが、普段見る事のない紫の真剣な目にその考えは失せてしまっていた。
空には雲一つなく清清しいとすら言える日和だった。
紫は生まれた力の居所が掴めず困っていた。
鬱蒼と茂る木々が光を殆ど遮ってしまっている。
生まれたばかりのせいか、溢れ出る力を抑えられないお陰で大まかな場所は特定出来た。
ここまでに辿り着く道中にも雑魚の集まりだったが妖怪に襲われ、妖怪達からは微弱ながら同じ波長の力が感じられた。すぐ近くまで来ている確信を持っていた。
しかし、いざ近づくと溢れた力が逆に居場所を解り辛くしていた。
進む事も戻る事も出来ず泥沼に嵌ってしまったようだった。
と、そこへどこから迷い込んだのか一人の青年が歩いてきた。
この辺に村などは無かったはずなのだが。
「すいません、道に迷ってしまって……出口を知っていたら連れていって貰えませんか?」
その青年は爽やかな笑顔で話しかけてきた。
紫は困った。そんな悠長な事をしている暇は正直ない。しかし、ここで境界を弄れば敵に気取られかねない。
しぶしぶ紫は青年を出口に連れて行きながら力の居場所を探す事にした。
それにしてもこの青年は不自然だった。
長い間この森で迷っていたのか、無精髭を生やし、髪も手入れされていないのか伸びっぱなし、服も所々破けている。
それだけならまだしも破けた服の下には肩当てや胸当てが見て取れた。
そうこうしながら、もうすぐ出口だという所で事は起きた。
紫は青年を不信に思いながらも注意は完全に力を探すほうへ向けられていた。
突然紫の体は地面に押し倒され何が起きたのか一瞬解らなかった。
だが紫は目の前の人間の目を見て悟った。
己の欲求さえ満たせればいいという欲望に駆られた目。
青年は紫の腕を押さえつけると紫の上へ馬乗りになっていた。
「こんな辺鄙な森で追い剥ぎしないといけなくなると思った時は死ぬしかないと思ってたが……最後に楽しんで死んでやらぁ!
神なんて信じちゃいないが今日だけは感謝するぜ!」
青年はすでに獣に豹変していた。
獣の息は荒く、目線は舐め回すように目の前にある女の体を蹂躙していく。
それにも飽きたのか、獣の腕は女の豊かな膨らみに手を伸ばすと揉みしだき始めた。
そんな中で紫は目の前の人間の変わり様よりも、自分の晒した醜態に呆れていた。
人間は欲の塊その物と言ってもいい。私利私欲の為に同族ですら殺してしまう。一番醜くおぞましい存在なのだ。
そんな事を一時でも忘れ、迂闊にもこのような事態を招いた自分に対して紫はひどく呆れているのだ。
そして紫が目の前の獣に止めをさそうと決めた時、すでに獣の首は飛んでいた。
紫の顔に鮮血が飛び散り視界を紅く染め上げる。
「外の世界で死んだ人間の憎悪や憎しみに僕がちょっと力を与えただけで醜悪な姿を現す。僕自身も人間の憎悪や憎しみで生まれた。幻想郷にすらこんな醜い人間がいる……ほんと気持ちが悪い……。
だから醜い人間には相応しい姿を与えないといけない……外の世界では増えすぎた人間がこれからどんどん死ぬ。僕を生んでくれたお礼も兼ねて醜い姿を授けてあげないといけない……」
声のする方に視線を移すとそこには七、八歳くらいの子供がいた。
顔の方へ目を向けると紫は言葉を失くした。道中で見てきた妖怪とは比べ物にならないそれは吐き気を催す気さえした。
紫は立ち上がると言った。
「あなたが力の元凶ね」
子供は醜い笑顔で言う。
「そうだよ! 人間の嫉妬や恨み辛みがある限り妖怪達は増え続ける! 妖怪達も醜悪な姿で生まれてくる原因になった人間にお礼をしに行きたくてウズウズしてる!
その時人間は醜い自分たちの姿に気づけるんだ! 幻想郷の人間を亡き者にしたら次は外の世界に行く!
聞いた話だと外の世界と幻想郷を行き来できる妖怪がいるらしいんだ! そいつを捕まえて向こうの世界へ行くんだ!」
本当に楽しみだと言わんばかりの様子は子供その物だった。
子供は喋り終えると黙り、紫の足元で転がっている骸に近づき手をかざした。
骸は朽ち果て灰になると、その中から四足の妖怪がのそりと起き上がった。
顔の殆どを目玉が占め、どこを見るとも無く終始動いている。
「ところで……見た感じだとそこらの妖怪風情とは違うようだけど何しにきたの? もしかして邪魔しに来たなんて言わないよね?
無駄だよ。僕の力は人間の醜い部分が無くならない限り半永久的なんだ。いくら強くても、たかが知れて」
子供が喋っている間に生まれたばかりの妖怪は消えていた。
「え……」
理解しようとした瞬間子供の四肢は消え、子供は泣き声とも悲鳴ともつかない声をあげた。
紫は子供の腕と足の境界を弄っていた。
力は半永久的かも知れないが、『あった』はずの空間が『ない』のである。そこに手や足は生えてこなかった。
胴体だけになった子供の下には綺麗な深紅の水溜りが出来ている。
「そ……ん……ここまで強いなんて……反則じゃないか!」
驚愕の表情を浮かべながら子供は続ける。
「ふふ……あははははははははは! ……笑うしかないよね!」
もがきながら喋り続ける。
「ついでだから良い事を教えてあげるよ……僕は死んだ人間の憎悪や憎しみに力を与えてた。でもね人間の業は深い……妖怪になっても欲望を満たそうとする奴がいた。
あんな人間みたいな奴は気に食わなかったけど確かに強かった……だから外界へ行く為の妖怪を連れてくるように言っておいた。運が良ければその妖怪が始末してくれると思ってね。
だけど僕が思っていたよりもあれは力をつけすぎてる。早く行かないと大切な物を失うかも知れないよ……」
言い終わると子供の体は消滅した。
人間はどこまでも欲深く、醜くて汚い生き物だ――しかしその中にも一粒の透き通ったガラス玉のような部分がある。
結局は憎悪などから生まれたはずの存在にも、そのたった一粒は紛れ込んでいたのかも知れない。
紫が止めをさす事なく消えてなくなってしまった。
元凶はなんとも呆気ない終わりを迎えた。
そして紫は藍達の元へ急ぐのであった。
「くっ……」
藍の口元からは苦痛の声が漏れる。
確信を得た影の一撃は彼女の胸に穴を穿いたかに見えた。
その一撃により彼女の左手の甲には穴がぽっかりと口を開け、循環する血液の流れにより噴き出る血は、血管の脈動まで伝えてくるようだ。
彼女は片膝をつき、息も絶え絶えと言った様子である。
ほとんど条件反射と言ってよかった。彼女は影から放たれた一撃が心の臓を捉えているのを判断すると避けるのを止め、左手を犠牲に致命傷を防いでいた。
だが彼女は既に肺をやられ口元からは呼吸と同時に血が溢れ、体のいたる所には抉られた傷、ひどい箇所では骨まで見えている。
視界には不敵な笑みを浮かべる影が見下していた。
「その体で今の攻撃を凌いだ事には関心する……だがそれも終わりだ」
その抑揚の無い声は彼女の耳に届いてはいなかった。
影が揺らめき、辺りを無音が支配していく。
そして彼女の後方にはもう一つの影が迫っていた。
ここで数刻ほど遡る。
「紫様は数日家を空けると言ったきり帰ってこない。どこで何をしていらっしゃるのか……」
八雲藍は用事があると言い残し出て行った主の事を考えていた。
今まで急にいなくなる事はあってもわざわざ言伝を残して行く人ではなかった。
何か異変が起こっているのだろうか――彼女には知る由も無かった。
「藍さま?」
橙の一言で我に返り、ふと見下ろすと、不安そうな目で見つめてくるその瞳は今にも崩れそうだった。
「すまないな橙、心配しなくても何れ元の生活に戻る……」
しかし発した言葉は自分自身へ言い聞かせようとする暗示のようにも聞こえた。
「とりあえず中に入ろうか」
俯いている橙の様子を直視できずに空を仰ぐ藍。
お昼まではあれほど晴れていたのに何時の間にか灰色の雲が一面にかかっており雲行きが怪しくなっていた。
彼女は焦っていたのかも知れない。
「橙、私は博麗の巫女の所に行ってくる。しばらく留守番を頼んだぞ」
頷く橙は逞しく思える反面、内面では不安で仕方ないのだと思うとやるせなくなる。
だが彼女は胸のざわめきを隠せないでいた。
この胸のざわめきを解決するには巫女の所に行くしかないと。
神社へ向かう彼女の足取りは自然と早くなっていた。
過ぎ去る景色にまとわりつかれている気がして、苛立ちばかりが募る。
「博麗の巫女はいるか!」
彼女は着くやいなや大声を張り上げ障子を壊しかねない勢いで開ける。すると彼女の背中へ聞き覚えのある声がかけられた。
「紫の式がここに何のようかしら? あと障子は優しく扱ってね」
焦る彼女はひょうひょうとしている巫女を捲くし立てる。
「紫様が出て行ったきり戻ってこない……それだけじゃない。
最近の幻想郷の空気に違和感もある。
博麗の巫女なら何か事情を知っているんじゃないのか?」
さきほどまでのひょうひょうとしていた面影は消え、急に険しくなる巫女。
「紫がいなくなったのはそれのせいでしょう」
巫女が札を投げるとそれの正体が現になった。
ゾッとした。今までに幻想郷では見た事のないその醜悪な姿は魑魅魍魎とでも呼ぶべき姿だった。
押し寄せる魑魅魍魎の群れが今にも結界を破壊しかねない勢いで迫る。そういえば先ほどまでは必死で気づかなかったが巫女の額には汗が滲んでいる。
「外の世界で何かあったのよ……それと同時に大きな力が幻想郷に生まれた。
でもこの有様じゃ私はここで結界を張っていないといけない。だから紫はこの異変の元凶を叩きにいった。それ以上でもそれ以下でもない。
それよりもあなたは何でここにいるの? この妖怪達は今までこの幻想郷にいた類の者とは違う。
あなたも少なからず普段の生活でこの異変に気づいていたという事は既にそこまで侵食している……」
聞き終わる前に彼女は走り出していた。
「橙!」
叫ぶと同時に玄関の扉に手をかける。
開かれた扉の奥からは普段嗅ぎなれている匂いと一緒に嫌な臭いが鼻をついた。それは瞬時に肺を満たし軽く眩暈を起こさせた。
彼女の細胞の一つ一つが警告していた。
「この奥には行くな」
と、しかしすでに彼女の理性は働いてはいなかった。
嫌な臭いの元へと向かった彼女は立ち尽くしていた。
そこには無残に転がる子供の体が一つあった。
体には無数の傷が刻み込まれ致命傷ではないにしろこのままでは何れ出血で手遅れになる。
駆け寄るとすでに意識を無くしているかと思われた小さな体から、言葉が発せられた。
「ごめ……な……さい……」
この子は何に対して謝っているのだろう。
謝らなければいけないのはこの子ではないのに。
そんな事を考えながら、応急処置を済ませた彼女の瞳には八雲としての生を享けてからは灯る事のなかった色が瞳に映りこんでいた。
彼女は気づいていた。この奥にいるそれを倒さない限り解決しないのだと。
「狐も犬のように嗅覚ですぐさま飛んでくるかと思ったんだが……見当違いだったか。あれだけ血なまぐさい臭いがしたら気づくと思ったんだが」
と、奥のほうから低い声が響いてきた。
さきほどの傷は明らかに殺す為の物ではなかった。
ただ誘き出す為だけに――あんなひどい目にあったのだとそういう事だった。
彼女に出来る事は限られていた。
喋っていたそれは影だった。人間のような形状はしているが光を全て飲み込んでしまうような深く黒い影。
しかし彼女は迷う事なく地面を歪ませると飛び込んでいた。影の右前方に一息に距離を詰める。
「くらえッ!」
彼女は叫ぶと既に次の行動に移っていた。
浮いていた足が地につくと左足を軸に体を捻り、回転力を加えた右の踵を影の後頭部に撃ち込んだ。
怯んだ影の口からは形容しがたい獣の声が聞きとれた。
確かに手ごたえがある影。
影は地面に叩きつけられると手鞠のように良く跳ねた。 跳ねた所に追い討ちをかけるように彼女の拳が撃ちこめられる。
成す術も無く、影は壁に叩きつけられそのまま地面に崩れ落ちた。
彼女がさらに追い討ちをかけようと走りよる、と一方的にやられていた影に変化があった。
影はさきほどまでのダメージを感じさせない様子で起き上がる。
同時に彼女の足は止まりしばらく睨み合いが続いた。
最初に動いたのは影だった。
影の体が歪み今までの人の形ではなく無機質な幾つかの物体に独立していた。
その一つは先が尖り一突きで致命傷を与える槍のようだった。二つ目はシャープな見た目とは裏腹に重厚そうな形が見て取れた。
三つ目は見た瞬間に対象を叩き潰す事にのみ重点をおいた物だと解った。
彼女は動けずにいた。次の行動が予想できずにいたからだ。
そんな彼女を余所に一突きを浴びせようと影の一つが飛んできた。
「それくらい!」
明らかに狙いが見えているそれを避けられない彼女ではない。回避と攻撃を同時に行う。迫る影にタイミングを合わせ払い落した。
払い落した余韻で動けない彼女に、畳み掛けるようにもう一つの影が彼女の背中を撃つと鈍い音が響いた。
「くぅ……」
彼女は耐えるとすぐさま受身を取り体勢を立て直そうとした。しかし思うように体が動かない。
ふと体を見ると所々肉は抉れ、流血をし、骨にまで達している箇所もある。
抉られた部分の多さからして一目でそれは機動力を奪う為に足を狙ったのだと解るほどの状況だった。
一瞬理解が出来なかった彼女は気づいた。
二つの影の後ろで動く事無くこちらを見据えている影がいる事に。
彼女がそちらに視線を移した瞬間その影の先からは高速で何かが撃ち出されていた。
痛みで思ったように動けない彼女は、それでも耐えると避ける為に飛び退っていた。と同時にさきほどの傷はこれによるものだと理解した。
だが気づくのが少し遅かった。
高速で撃ち出されたそれはあくまで誘導する為の物であり、本命はその先で待っていた二つの影だった。
刹那でも避ける為に飛び退り、足が宙に浮いてしまった事が仇となった。浮いた事で彼女の体は完全に無防備となっていた。
槍のような影は右ふとももを後方から前方へ肉を引き裂くと、血を滴らせた切っ先が顔を見せていた。
そのまま前方へ倒れ込む彼女に追い討ちをかけるように正面から影の鉄槌が叩きつけられ、鈍い音がすると彼女の体は後方へ吹き飛ばされていた。
正面からの一撃は胸を強打し外傷を与えること無く内部へ直接ダメージを与えていた。
折れた肋骨は肺に刺さり呼吸をすると、どす黒い血がゴポリと音を立てながら口元から止め処なく溢れでてくる。
それでも彼女は気力で立ち上がると両足で大地を踏みしめていた。
依然として立ち上がる彼女に狂気を感じつつも勝利を確信した影は最後の一撃を放った。
切っ先は彼女の心の臓を一直線に狙う。
終わった、と影は思った。
一撃は寸分違わず狙った箇所を穿つはずだった。
しかし穴が開いていたのは心の臓ではなく彼女の左手。
冷やりとした。
その瞬間体勢を崩し彼女は片膝をつく。
勝敗は決した。
人の形に戻った影の腕が刃の形へと変わり、力ない彼女へと振り下ろされた。
既に彼女の意識は途切れようとしている。
目の前には振り下ろされようとしている刃。
逃げるだけの余力は彼女には残されていない。
彼女に迫る刃。
すると不思議な事が起きた。
目前にあるはずの刃の空間が綺麗に切り取られたように無くなってしまったのだ。
今起きた出来事がどういう事を意味するのか彼女は気づいていた。
そして――彼女の記憶はここで途切れる
藍は無事だった。
紫は振り下ろされる刃の境界を弄り、間一髪の所で阻止する事に成功していた。
そして紫はさらに境界を弄ると藍と橙の二人を安全な場所へ移す。
紫は二人の状態を見て己の愚かさを悔いた。と同時に堪忍袋の緒が音をたて切れていた。
「これで心置きなくやれるわ」
紫はそう言うと、日の遮られた暗い部屋に立ち尽くす影へ一歩ずつ近づく。
影は何が起こったかをおおよそ把握すると、紫との距離を保ちつつ影の弾丸を撃ち込んできた。
しかしそれらは紫に触れる事はなく全て飲み込まれていた。
影は二方向へ伸びると紫を挟むように陣取り、影の弾丸が形状を止める前に撃ちだしていた。
その歪な形をした弾丸は境界を弄る前に紫へ到達するかと思われた。
ふわりと紫が両腕を上げると、瞬時に弾丸は何かに衝突したように形を変え灰となっていた。
「なんだっていうんだ!」
影が声を荒げる。
「チェックメイトよ」
紫が言うが早いか影の体はどんどん飲み込まれていく。
そして跡形もなく全て飲み込んでしまった。
部屋には紫しかいない……はずだった。
床や天井の影という影が蠢いている。
「奴が恨みや妬みで出来ていたように……俺は影がある限りあり続ける。お前のその力は空間を寸断しているようだが四方八方にまで伸びる影までは飲み込めまい」
紫は唇を噛む。
全力で望めば影ごとここら一帯を軽く飲み込む事は容易だったが、力の加減を一歩違えれば幻想郷すら飲み込みかねなかった。
どうしたものかと一人で押し問答していると地響きが轟いた。
何かが近づく音が聞こえると同時に、壁には大きな穴がぽっかりと開いていた。
「おまたせしました」
誰も呼んでいないのだけど、と紫は思った。
「何の用? あとその壁はどうするのかしら?」
これはうっかりしていました、とばかりの表情をしている。
「あやややや、でもこれくらいじゃすまないと思うんで問題ありません。それよりも私はその黒いのを仕留めたいんですよ」
射命丸文だった。
紫は言う。
「問題は大有りな気がするけど後者には同意するわ。でも良いの? スクープに自分の手を加えたら捏造になるわよ」
文は言う。
「今回の私は記者ではなく当事者なので問題ないです。あと、たぶん手加減できないんで気をつけて下さいね」
そういうと文は天井を仰ぐ。
文の周りには次第に風が渦を巻き始め、それは地から天へと伸びる柱となった。
見事に渦は屋根を破り一帯をも巻き込むと柱や周りの木々といった物さえも吹き飛ばして行く。そして辺り一面をただの平地へと変えてしまった。
天へと伸び続ける渦は空にかかる灰色の雲をも吹き飛ばし地上を日の光が覆った。
天を仰ぎ見ていた紫はもうお昼になっていた事に気づくと共に、これなら一人でやればまだマシだったんじゃないかという気さえしていた。
ふと視線を地上へ下ろす紫。と先ほどまで蠢いていた影は一面に降り注ぐ日の光に行き場を無くしていた。
「さようなら」
紫がそういうと、影は消滅した。
今回の一件は深い傷跡を残した。
しかし幸いにも幻想郷には凄腕の薬師がいた。
藍と橙の二人はしばらく安静にしてなくてはいけないが、命に別状はないようだ。
神社に押し寄せた妖怪は、あの後たまたま通りがかった魔理沙によって一掃された。
結界を解き、霊夢が自分で退治すれば良い話だったのだが、神社がとばっちりを受けて壊れるのが嫌だったらしい。ひどい話だ。賽銭箱はもちろん空である。
そんなこんなで吹き飛んだはずの八雲家だったが、数日後には元通りになっていたらしい。しかし詳しい話を聞くと元の家とはどこか違うようだ。
そして妖怪の山でも負傷者が出たという話だが皆無事らしい。
何故大量の幽霊が発生したのか。
それを幻想郷で知る物は少ない。
しかしこれからも増えすぎた人間の欲望によって彼岸は忙しくなるだろう。
紫は全てが片付いた後、改めて妖怪と人間の違いを考えていた。
妖怪と人間の違いは結構曖昧なのかも知れないと彼女は思いつつ、やっぱり無いなと思うのだった。
こうして幻想郷はいつもの平穏を取り戻しつつあった。
どうしても読んでる時に「体のいたる所には抉られた傷、ひどい箇所では骨まで見えている」と
「ふと体を見ると所々肉は抉れ、流血をし、骨にまで達している箇所もある」という表現に既視感を感じてしまいます
ですが、前回に比べると非常に物語も解り易くなっているのでいいと思います
人間の心の闇そのものなのか、それを見た妖怪の心なのか、闇から生まれた存在の悲哀なのか、その存在があることへの他者からの正否なのか、その存在と妖怪と人間の三者の対比なのかetc.
それとも単に紫と藍・藍と橙・紫と霊夢の関係を描きたかっただけなのか
あなたが何を中心に据えて作品を書こうと構わないのですが、それをきちんと自覚して書かなければ意図が読者に伝わる伝わらない以前に作品と成立しませんよ
作者さんにはちょっと難易度が高すぎた気もします
何を中心かがあまりよく分からなかったです
テーマを変えてやさしい所から始めてみるのもひとつの手です