「……王手」
「あぇ?」
知人の鴉天狗が、間の抜けた声を上げている。
六畳一間の小さな居間。
中央に置かれた卓袱台。
その脇に置かれた縦横十五マスの将棋盤。
大将棋と呼ばれるその遊戯に、私達は既に四半日を費やしていた。
「あー……これがこうなってああなって……あれ?」
「詰んでるよ」
決着までに時間の掛かるこの遊戯。
私もルールは知っているが、実際に指した事はなかった。
心地よい疲労感が私を包む。
盤面を睨み、未だ鋭い視線を投げかける鴉天狗。
彼女の名は、射命丸文。
妖怪山の鴉天狗であり、自称正義の新聞記者。
品行方正を旨とし、現代社会の歪みと屈折を鋭い論点で抉り出す……ごめん嘘。
嘘、大げさ、紛らわしいと、悪徳メディアを地で行く彼女の新聞。
そのありようは新聞というより週刊誌であり、幻想郷全体でこれでもかというほど人気がない。
最も、エンタメと割り切ってしまえばそれなりに笑える内容なので、偶に定期購読している者もいる。
かく言う私もその一人であり、彼女との縁もそれだった。
「あややぁ……生きがない……死んだぁ」
両手を掲げ降参を示し、負けを認めた鴉天狗。
現状から何手読んだかは知らねど、彼女が見切った終局図は私のそれと大差ないと思われる。
勝った!
こみ上げる歓喜を喉の表層で飲み下し、私は文に流し目を送る。
視線が合うと彼女は苦笑し、畳の上に寝転んだ。
「まさか私が勝てぬとは……貴女、随分やりこんだんじゃありません?」
「正真正銘初めてだよ。中将棋は知ってるからルールには困らなかったけど」
やや疲労を滲ませた文。
そして私も、彼女と同程度にはくたびれているに違いなかった。
勝負は決して楽ではなく、数々の危機を脱しての薄氷の結果。
特に序盤、見慣れぬ駒の使い方を覚えるまでは押されっぱなしの展開だった。
「今日は、私に運があったようね?」
「鬼気迫るものがありましたからね」
文は溜息と共に置きだすと、胡坐をかいて座りなおす。
膝上三寸のスカートが、絶対領域を形成していた。
はしたない娘である。
こいつと言い紫様と言い、もう少し自分の年を考えてもらいたい。
「あ……あ~……うぅ」
くしゃくしゃと頭を掻くと、文は落ちつか無げにこちらを見る。
この反応は珍しいが、あながち解らぬでもない。
私達はこの勝負に、ある賭け事をしている。
定番の、勝者の言う事を一つ聞く。
困ったように視線を泳がせ、しかし私の顔から離さない文。
本当に珍しい。
こんな彼女を見れただけでも、それなりに頑張った甲斐があった。
「そう畏まるなよ。大したことじゃない……と、思うが?」
「む、うぅ……そりゃ貴女にとっては大したことじゃないんでしょうが……」
いつの間にか、文の体勢が背筋を伸ばした正座に変わる。
きちんと姿勢を正した彼女は、それなりに見れた顔になる。
文は希少価値を主張するほどの美人ではない。
彼女の魅力は、どちらかといえばその内面や生き様に起因する。
もっとも、空気を読めても平然と無視するこの女……
付き合ってゆくならそれなりに太い神経と、彼女をして一目を置かせる『何か』を持たねばやってられない。
私は胡坐をかいたまま、文の美しい正座をまじまじと眺める。
下から上へ。
……あれ?
「緊張してる?」
「はぁ」
顔を赤くし、やや俯いた文。
口の中で何か呟くと、意を決した彼女が口を開く。
「あの!」
「はい?」
彼女の気勢に飲まれ、間の抜けた返答をしてしまう。
先程から、どうも彼女の様子がおかしい気がする。
いや、現実逃避は良くないか?
明らかに、彼女は私の要求を先読みしている。
しかもおそらく、完璧に間違った方向に。
「わ、わたくしですね? やっぱり初めては好きな人とっ!」
「へぇ、初めてなんだ?」
多少予想外な発言に、思わず食指を動かす私……
っと、これはいかん。
優れた策士は明確な目的をもち、達成すれば執着せずに退くものだ。
欲をかくと碌な目に遭わないのは、妖怪も人間も同じこと。
……非常に勿体無いけれど。
「いえ……ですから、それは言葉のっ」
「落ち着けって」
早口言葉になりかける文を、私は右手で押し留める。
別に取って喰うつもりはない。
今だけは。
「私は君の持ち物を奪うつもりは最初からないよ」
「……」
胡乱な瞳でこちらを眺め、真意を測る鴉天狗。
真紅の瞳に囚われた私は、両手を上げて苦笑する。
「頼みたい事があるだけだってばよ?」
「……お聞きしましょう?」
あくまで聞くだけ。
服従するとは言っていない。
ゲームの敗北からそれなりの事は要求出来るだろうが、あくまで『それなり』の事でしかないらしい。
私としても、それで十分のはずだった。
「無理は言わない。明日まで、私を此処に泊めて欲しい」
「それだけですか?」
「そ。簡単でしょ?」
肩を竦めて片目を瞑り、人の良い笑みを浮かべてやる。
無論演技だが、まんざら嘘ばかりでもない。
笑顔は相手の警戒を溶かし、こちらに有利な状況を作る媒体である。
元手も掛からずリスクも少ない、私の最も得意な愛想。
この度もそれなりに効果を発揮したようで、文の顔から疑念が消える。
こちらが出した要求が、彼女の許容の中で収まった。
「どうしたんです今日は? 別にこんな事しなくても一夜の宿くらいお貸ししますのに?」
「いや、ちょっと……是が非でも帰りたくない事情があるんだよ」
ふむ、っと一つ頷くと、文は正座を崩して再び胡坐の姿勢に戻る。
魅力減退、四割六分。
「奥さんには、ちゃんと説明してあるんですか?」
「紫様? 書置きをしてきたよ。ちゃんと此処は解るはず」
嘘ですが。
私の返答に頷くと、文は軽やかに立ち上がり……
一歩よろめいてふらついた。
正座が堪えたのだろう。
膝立ちになりながら手を伸ばし、彼女の身体を支える私。
天狗の身体は、軽かった。
「失礼。それでは、よろしくお願いしますね、藍」
「こちらこそよろしく、文」
自己紹介が遅れた。
私はスキマ妖怪、八雲紫の式神にして従者。
最強の妖獣として名高い九尾の天狐。
式計算と武器全般を得意とし、自称幻想郷でも十指には入る能力者。
ご主人様と喧嘩して、三行半を叩き付けた薄幸の美女。
行きがけの駄賃に相手の下着を全て溝に捨ててきた、アグレッシブな大妖怪。
八雲藍。
それが、私の名前である。
* * *
「良い、天気ですねぇ」
「何処がよ?」
文は吹き荒ぶ風の音を聞き、静かに徳利を傾ける。
雨漏りこそはないものの、風と雨の塊は容赦無く薄い壁を叩く。
今にも吹き飛びそうな家にあるのに、文は泰然とした態度を崩さない。
彼女の棲家は同程度の天狗のそれと比べて、ひたすらにボロかった。
趣味に傾倒し過ぎるあまり、収入の殆どを次の新聞の作成につぎ込んでいるのである。
僅かでも自分自身を省みる性格をしていれば、いま少し客観的な幸福を得る事が出来るだろうに。
「どうしました?」
どうもしない。
ただ、勿体無いと思っただけだ。
それでも彼女の方から聞いてくれたのは好都合。
やや意識して沈み顔を作ると、溜息を付いて視線を落とす。
視線の先には私のための徳利がある。
やはり焼酎が満たされ、酒の表面には辛気臭い私の顔が映っていた。
「まぁ……ちょっと、紫様とね」
「言いづらい事?」
「ん……いや多分、文に聞いて欲しい事」
彼女は聡い。
私が匂わす情報から、既にその内心を推察しようとしているはず。
私は紫様の事を出しつつ、文との関係を匂わせた。
紫様から逃げ出した私。
頼った先が文だった事。
私と文の接点。それは彼女の新聞で……
「……また、虐待でもありましたか?」
「……愛の鞭。本人はそう言っている」
はいフィッシュ。
文は以前紫様に対し、私の虐待について特集したことがある。
これだけ状況が整えば、事態を察する事は容易だろう。
もちろん、これは私のブラフである。
ブラフではあるが……決して事実無根ではない。
紫様と私が物別れした事。
その原因が私の待遇への不満であったことは事実である。
「っ!?」
いつの間にか噛み締めていた唇が痛い。
口内にじんわりと血の味が広がった。
これは不味い。
物思いに耽るあまりに、表情の制御を怠った。
不安げに視線を上げると、頭を掻いて息を吐く文の姿。
手酌で酒をなみなみ注ぎ、一息にあおりまた溜息。
「ったく、懲りない方ですね彼女も」
文は私に疑問を持った節は無い。
忘我の瞬間も、相当に痛ましい顔をいていたようだ。
演技の部分で無いだけに、複雑な思いは隠せない。
「いっそのこと、見限ってみたらどうですか?」
「橙を一人、あの家に置くわけには行かないんだ」
横暴な主から、か弱い娘を守る薄幸の妖狐。
文の中に芽生えたイメージを、私の言葉で補強する。
元々紫様は他人の心象が宜しくない。
そんな日ごろの行いも、文の不信の肥料になる。
「……」
私は視線を文から逸らし、窓越しに雨戸を眺めていた。
天気が悪い。
強風に大雨が降り続き、文のあばら家が軋んでいる。
まぁ、初夏の嵐など珍しくも無い。
此処に来る前、立ち寄った冥界で雪など降っていなければ。
昨今天候が非常に不自然である。
嵐、濃霧、雪、雹、曇、晴天、天気雨……
それら全てが局地的という理不尽ぶり。
天変地異という言葉があるが、これだけ天が騒いでいる。
私見では、そのうちに地も荒れるだろう。
これは紫様とも一致した見解であり、偶にやる気を出した彼女は自ら解決に乗り出そうとし……今回の悲劇が起ったのだ。
紫様は言うのである。
『自分が矢面で動くから、式として武器になっていろ』
武器扱いされるのは別に良い。
だが、私は紫様の盾でいたい。
以前より紫様は自身で危険を確かめて後、私を投入しようとする。
彼女の内心とその意味は十分理解した上で、私はこの扱いを許せない。
この件において、私達主従は意見を異にしたまま譲らなかった。
兎に角、私は怒っている。
式神としての分を超えた思考だが気にしない。
私に反感を覚える自由を与えた本人こそ、八雲紫なのだから。
「文には、迷惑をかけるね」
「構いませんよ? 動物に関する妖怪同士、助け合って生きましょう」
微笑で答える彼女だが、その笑みの裏は見逃さない。
彼女は私に借りを作らせる機会と利益を図っているのだ。
無論、私も取り立てる機会など、与えるつもりは最初から無いが。
文の微笑に苦笑を返し、徳利の酒に口をつける。
安酒の辛味が少しだけ、私の身体を温めた。
……そろそろ、良いかな?
「なぁ文……」
「なんで――!?」
私の声に答える前に、狭い部屋に満ちた異様な妖気。
同時に天井に亀裂が走り、軋む音と共に広がってゆく。
……流石に早いね。
これありを予期していた私と、青天の霹靂だった文。
結果先に硬直を脱した私は、文を抱えつつ卓袱台の裏を蹴り上げた。
宙に浮き、私の頭上まで持ち上がった卓袱台。
その裏に簡易結界の札を張り、硬度を増したところで追い討ちに掌底を叩き込む。
押し上げられた卓袱台は高速で亀裂に激突し……そのままゆっくりと飲み込まれて行く。
「な、何?」
それには答えず、文の痩身を抱きすくめたまま笑みを深くする私。
部屋に満ちた妖気は、紫様がスキマ経由で此処に飛んできたからである。
最初から、私は書置きなど残していない。
紫様の探知を妨害し、逃走の痕跡を消しながら文と合流を果たしたのである。
その妨害は、今切った。
唐突に私の居場所を探知した紫様は、空間を飛び越えて襲ってきたのだ。
「藍……いるの?」
その声だけで、部屋の気温は八度下がった。
対照的に、私の体温は八度上がった。
私の好きな紫様の声。
ねじ伏せ、組み敷き、淫惨な暴力で支配したいと望んだ女の声。
背筋が泡立つ危険な快感を抑えつつ、私は笑みを消し去った。
同時に思考を切り替えて、危険な欲望を遮断する。
今は、今回は、その欲望は必要ない。
いつの間にか卓袱台が全て飲み込まれ、代わって吐き出されたのは我が主。
成熟した曲線を緩やかなドレスで包み、金色の髪を靡かせた女性の姿。
暗い炎を宿した瞳と、私の瞳が交差する。
鋭い眼光の彼女だが、ほんの一瞬躊躇うように揺らいだのを見逃さない。
内心で首を傾げる私。
私の事がある前から、妙に怒りっぽい紫様。
認知症ってオチだけは、勘弁してもらいたいが……
そのあたりの違和感をきっかけにすれ違いを繰り返し、今に至る私達。
もしかすると、折れておいたほうがいいんだろうか?
「あやや……部屋が随分とめちゃくちゃですねぇ」
暢気な声を聞きながら、私は漸く正気に戻る。
文は私の腕を抜け出し、紫様の前に立つ。
私に背を向ける形だが、苦笑しているのがなんとなく分かる。
文と視線を交わした紫様は、何処と無く困ったように髪をかき上げた。
「ねぇ天狗さん、わたくし、後ろの藍とお話がありますの」
「藍の方は多分、話すことは無いんだと思いますよ。だから逃げてきたんでしょうし」
文は状況証拠で私と紫様の仲違いを誤解している。
この状況下であまり長々と会話されるのは宜しくない。
私は文のシャツの裾を引き、一時退却を促した。
「逃げて良いよ?」
「は?」
「だから、逃げて良いですよ。私は……」
文は振り向かずに笑んだまま、葉団扇を召還する。
紫様を見れば、既に交渉の余地がない現状に苦笑している。
ほんの一瞬。主が私に向けた複雑な眼差し。
――雌狐が……
視線でそう語っていた。
あー……どうしたもんかな、この状況。
「あのですねぇ天狗さん……私は藍とお話が……」
「それよりも、私のお話に付き合ってくださいよぉ」
風を纏った鴉天狗が、スキマ妖怪を挑発している。
今の文は、素敵な笑みを浮かべているに違いなかった。
文に一番似合う笑顔。
それは相手を挑発し、小バカにしたような冷笑である。
「動物虐待はいけませんって、私は前に言いました」
「藍は動物じゃなくて式だと、私も前に言いました」
紫様は右手で扇を開き、口元を隠して言い放つ。
紫様の発言に、私は内心苦笑した。
中途半端なんだよね。
紫様は私を式だと言いながらそれ以上を求めてくれる。
私にはそれを察し、答えるだけの自由がある。
全く、私ほど放任され、権限をもち、勝手気ままを許されている式神もおるまいて。
その自由を持って、私は選択するのである。
八雲紫が、八雲藍を庇うほどの危険があると判断した時……その時は……
「じゃ、任すね」
「ええ。此処を片付けたらお迎えにあがりますよ」
「ちょっ藍……貴女ねぇ!」
頬を引き攣らせた紫様。
此処で潰しあっていて下さいな。
知り合いと争うくらいなら、危険も殆ど無いでしょうし。
異変は私が追いかける。
しかし貴女と違って頭の悪い式神は、いま少し時間が欲しいのです。
彼女に向って片目を瞑り、私は空間を跳躍した。
* * *
「と、言うわけでございます」
「へぇ。八雲は、ウチと違って円満な家庭だと思っていたのだけれど……」
状況を説明した私にそう答えたのは、見た目だけ幼い真紅の魔王。
幻想郷の最大勢力の一角を収める吸血鬼、レミリア・スカーレットその人である。
文を紫様にぶつけた私は、紅魔館に逃げ込んだ。
世間一般のイメージと異なり、この館はそれなりに外部に向けて開けている。
門で挨拶して手続きをとり、適当な理由をでっち上げればよほどのことが無い限り追い返されることは無い。
今回も私は一応の客として迎えられた。
そして自身に染み付いた酒の香りに舌打ちし、領主様に会う前に風呂をお借りしたのである。
広い浴室に、やはり広い浴槽。
水が嫌いな吸血鬼の為、此処では泡風呂が主流らしい。
此処で俗世の垢を流し、レミリアとの対面に臨むつもりであったのだが……
まさか当人と、此処で鉢合わせるとは思わなかった。
どうやら彼女は私の来訪を予期していたらしい。
特殊な趣味の輩ならどうかしそうな肢体……
そんな至宝を惜しげもなく曝しつつ、第一声が『待っていたわ』と来たもんだ。
運命は須らく、彼女の掌の上にあるらしい。
「お嬢様の家庭も、それなりに平和だと伺っておりましたが?」
「館と土地はね。妹との関係は、また別の事だから」
髪についた泡を払い、レミリアは事も無げに言い放つ。
冷めた口調だが、彼女は妹の事を諦めていないらしい。
「尻尾」
「ん」
私は彼女の要求に応じ、九尾を一つ伸ばしレミリアに向い押し出した。
長い尻尾は余裕を持ってレミリアに届く。
彼女は当然のように泡まみれの尻尾を掴むと、それを使って身体を洗う。
思う所が無いではないが、これも会話を円滑に進めるための投資である。
嗚呼、敏感な尻尾が彼女の柔肌を伝えてくる。
この吸血鬼って五百歳位だったっけ?
腹立たしいほどにきめ細かい感触に、怒りを通りこして畏敬すら覚える私がいた。
若いって本当に良いよなぁ……
「近頃は天気がおかしいじゃない?」
「ええ、お気づきでしたか」
「まぁね。で、そうなるとあまり外にも出られない」
私とレミリアは距離こそあれど、背中を向けて座っている。
互いの顔は見えないのが、多少やりづらい私であった。
声だけで彼女の表情を悟れるほどに深い関係でもない。
「屋敷で過ごす日が増えれば、フランと顔を合わす日も増える」
「……」
「その度にすれ違っているのだから、いい加減うんざりもしてくるわ」
淡々と、事実だけを述べているレミリア。
それきり何を話すでもなく、レミリアは黙々と洗体を続ける。
「外に出れるようになったなら……」
「……」
「妹君から逃げられる?」
「っは、馬鹿な」
不意に尻尾に掛かる圧力が消え、彼女が手放した事を悟る。
元の尺に戻しつつ、肩越しにレミリアを仰ぐ。
覇気のある微笑を滲ませて、吸血鬼が歩む。
「私はただ……」
やがて私の隣に身体を沈ませ、一つ伸びつつ言い放つ。
「あいつの手を引いて、外をつれ回してやりたいのよ」
「……なるほど」
今度は許可を取ろうともせず、私の尻尾をソファにする。
……もう、良いんだけどさ別に。
* * *
人肌よりもやや温かい泡の中、取りとめも無く語らう私達。
内容は殆どが身内自慢であり、互いの被保護者の事となる。
内部の相手には言えないが、他人になら言える事もある。
この度私に期待された役は聞き手らしく、大人しく分を全うする。
それにしてもこの吸血鬼、完璧に妹煩悩である。
「……聞いていて?」
「もちろん。そのお話は四回目と記憶してございますが」
「訂正なさい。五回よ」
回数を間違えたのは態とである。
覚えている所を見るに、彼女はまだ理性を保っているらしい。
こういうとき、泡風呂というのはのぼせないから便利である。
それを理由に逃げる事も出来ないのだが。
「所で、お嬢様?」
「なにかしら」
「此度の異変、運命繰りの吸血鬼はどのように先を見ましょうな?」
「ふむ」
妹君の素晴らしさは、既に十分堪能した。
これ以上はこちらも娘自慢で切り返したくなってしまう。
それに……文を撃破した紫様が、何時来るとも限らない。
式と主は術式というパイプで繋がっており、互いの状態はそれなりに把握できる。
「……」
先程から紫様の妖気がかなりの速さで抜けており、大技を繰り出しているのが予想された。
多分もう直ぐ、来るんだろうな。
私の読みでは、8-2で紫様が勝つだろうし。
「今日、八雲式が来る事だけは解っていたわ」
「……」
「私には選ぶことが出来た。来訪を受けるか、それとも拒むか」
「そして、受ける事にした」
「ええ。その方が、異変の解決は早く済むと読んだのよ」
「拒んでいたら、どうなっていたのでしょう?」
「その仮定は意味を持たんな」
確かに。
レミリアは私と会うことを選んだ。
ならばもう一方の選択肢を吟味しても覆水は盆に返らない。
「天変地異……天がこれだけ狂っているのだから……」
謡うように紡ぐレミリアの声に、私は意識を割いていた。
何か、聞き逃してはいけないものが含まれる。
そんな予感に身を委ねて。
「今回、私達に喧嘩を売ったお馬鹿さんも、天にいるんじゃないかしらね?」
「天……か」
噂に聞く天人共が、こちらに手を出しているという事か?
あの日和見連中にそんな度胸があるとは思えないが……
無論、レミリアの推論が間違っているという目もある。
そもそも彼女は天人など知っているのか?
「……」
私も選択肢が二つある。
本当はもっと多いのだが、今大事なものは二つのみ。
すなわち、理屈抜きでレミリアの発言を信じるか否か。
彼女の発言は根拠無き戯言に近い。
普段なら、これを根拠に異変を追っても真相に行き着くとは思えない。
だが……彼女は運命を垣間見ており、私の訪問を知っていた。
その上で異変解決が早くなると読んでいる以上、彼女の発言は一言一句聞き漏らすべきではない。
私は私なりにこの悪魔の能力を信じて……
……あれ?
ということは、見目麗しい金髪幼女の妹君に関する萌え談……
あの中にヒントが潜んでいる可能性もあったのか!?
やっべ、前半殆ど覚えてねぇ!
「まぁ、そんな事はおいておきましょう?」
そんな事はじゃ無い。
私は適当に頷きながら、レミリアの発言を反芻する。
自分の思考に没頭する私は、しばらくソレに気づかなかった。
いつの間にか尻尾に掛かる圧力が消えていた事。
そしていつの間にか、レミリアの顔が私の正面に回っていた事に。
「ねぇ?」
「あ?」
間近で向かい合う私達。
突如正面に沸いた顔に、取り乱すほど初心ではない。
無いが、至近距離から紅の瞳を魅入ってしまったのは不味かった。
吸血鬼の視線にはごく普通に魅了の魔力が宿っている。
意識の空白を突かれた私は、咄嗟に瞳を外せなかった。
「金毛九尾……東洋じゃ随分名を馳せたそうじゃない?」
「悪名ばかりで恐縮ですが」
思考は通常通りに回る。
問題は身体のほうで、これが殆ど動かない。
本当に、これがたかだか五百年を生きた程度の吸血鬼の魔力だろうか?
私もそれなりに長く生きており、それに比例した妖気は持っているはずなんだがねぇ……
人外という括りにおいてさえ、彼女の天賦は尋常ではない。
「しかも、その起源は動物で狐……ということは、あるんでしょう? アレが」
「アレとおっしゃいますと……?」
「欲しいなぁ……貴女の生き血……」
言葉遊びをする気はないか。
ここら辺はまだまだ若さが先走っている様子。
駄目だよそれじゃ。
こういう掛け合いだって大事な前技なんだから。
私は全ての意識を右腕一本にかき集める。
それで何とか自由を取り戻し、彼女の頤に手をかけた。
……顎小っちぇなぁこいつ。
「あ?」
元々レミリアの方が座高が低い。
顎に手をかけたところで、見上げられる構図に変わりはない。
だが、これだけで随分と攻守が入れ替わったように見えるのが罠である。
実際は右手以外動けないから唯のハッタリに過ぎないが。
「なぁに? 遊んでくれる?」
こういうとき、下手に抵抗しても相手を喜ばすだけである。
寧ろ開き直って自分から楽しむ方がお買い得。
意識して好色な微笑を浮かべると、レミリアの瞳に小波が過ぎる。
思考と呂律を犯されないで良かった。
傍目には、私がとても余裕があるように見えるだろう。
「……ええ。小娘で悪いのだけれど、其処は我慢してもらうわ」
「……」
私の虚勢は、僅か七秒で瓦解した。
まぁ、持った方かしら?
この時、私は本当の意味で開き直る事にした。
頤から手を離し、首の後ろを通して吸血鬼の右肩へ……
回そうとしたその瞬間、右手を横に振り払う。
私の腕は壁から飛来した苦無を弾き、金属音を響かせた。
「死ね……」
それは甘い空気に似合わない、底冷えするような女の声。
良く見なくても壁にはスキマが生まれており、苦無も声の発生源も其処だった。
『……』
押し黙る天狐と吸血鬼。
恐れ入った為ではない。
この時、私は年下の吸血鬼と心を一つにすることが出来た。
すなわち、『空気嫁このスキマが!』
二対の瞳に怯むことなく、壁のスキマから八雲紫が現れる。
その瞳は危ない光を宿して……いない。
彼女の瞳は何の光も存在しない。
虚無の漆黒。
非常にお付き合いしたくない、最も危険な女の瞳。
……こりゃ、冷静な話し合いは出来そうもないなぁ。
「藍……」
紫様の瞳が、私へと注がれる。
私は名を呼び返そうと口を掛けかけ、小さな背中に遮られた。
「濡れ場に盗み入るなんて、随分上等な趣味じゃない?」
侮蔑を含んだレミリアの声。
同時に無数の蝙蝠が集まり、瞬時に彼女の衣服を形成する。
泡の一つの残さず浴槽の淵に降り立つレミリア。
紫様の視線がゆらりと、私から彼女に移動する。
彼女の視線が外れた事を幸いと、私も呪術で服を呼ぶ。
上手い事この場を脱出する機会を見つけないといけなかった。
「レミリア……スカーレット……?」
「ええ。お久しぶりね……おばさん」
嗚呼禁句。
紫様に御年の話はタブーだというのに……
実際に、紫様は幻想としては非常に若い部類に入る。
なればこそ更に若い相手から、からかわれる事に慣れていない。
結果として、レミリアの一言は紫様の心に届いたらしい。
黒の双眸に緋の炎を宿し、八雲紫が咆哮した。
「若いから……だからなんだって言うのよ!!」
「図星を指されて怒っているの? 血圧上がりますわよご老体」
「ごろ……!? っんですってぇ!」
完全にレミリアのペースで進む舌戦。
最初にペースを取られると、戦いの中で修正をかけるのは難しい。
今回、紫様が若輩にこのようなミスを犯したのは……
半分私のせい……だよねぇ……
此処は何とかフォローしたい所ではあるが……
それ以上にもう少し、この紫様を堪能しても罰は当たらない筈である。
年下に弄られる紫様可愛いよ。
「ふふ」
レミリアは口元を隠して微笑んだ。
そして紫様が動く前に真っ向から指差し、宣言する。
「貴女、犯人ね」
「はぁ?」
レミリアの発言は省略された部分が多い。
何のことか一瞬わからず、回答を紫様に求めて視線を投げる私。
しかし確認出来たのは、自分同様に首を傾げる主の姿。
結果として、レミリアの話を聞かざるをえなくなった。
「八雲紫……貴女は空を操り異変を起こし、雨で私を足止めしている!」
「えーと……?」
絶好調の吸血鬼探偵。
レミリアの指がさす先で、紫様が頬を引き攣らす。
その様子をどう見たか、レミリアは更にテンションを上げて自論を展開させて行く。
「自ら起こした異変を、自ら解決に望む……この事件は貴女の自作自演だったのよ」
「ほぅ?」
「動機は、寂しかったのね? 其処の式神に構って貰いたかったのでしょう?」
そんな動機があったとはこの八雲藍、不覚にも気付けませなんだ……
……とか言って混ぜっ返してやりたい衝動を、この時私は自制した。
八雲紫は日頃の素行が非常に悪いという訳ではない。
しかし常人どころか妖怪にとっても意味不明な言動が多く、彼女は他者から不審を買う。
何か異変があった時、真っ先に八雲紫を疑うのは幻想郷の常識である。
「私が、藍に、構ってもらいたくて、今回の、事件を、起こした……そう貴女は主張する?」
「鈍い貴女にしては察しが良いわね。その通り! いい加減認めて自首なさい」
「――っは!」
紫様が破顔する。
本当のところ、異変の首謀者に八雲紫が加わる事は、まずもって無いと思って良い。
疑わしい事この上ないが、紫様は自身の愛するこの土地を揺るがす事件など起こさない。
以前ボケた亡霊がトチ狂った時だって、紫様は手を貸しながらも失敗する可能性を綿密に測っていたのだから。
しかし、こうなったら紫様だって引かないだろう。
「その通り。全ては、我が謀なり!」
「やはりそうか! 貴様のせいか! 鬱陶しい天気も妹が私を避けるのも咲夜が妙にやる気が無いのも、全て貴様が悪いのか!」
「流石は真紅の魔王様……その通り! 全てはこの、八雲紫が仕組みましたわ」
レミリアの壮大な八つ当たりにも、全く怯まない紫様。
というか、アレだ。
最早紫様にとって、レミリアの発言なんてどうでも良い。
怒り心頭の彼女は、適当に理由をつけてレミリアをぶちのめしたいだけで
「無能な安楽椅子探偵が、人様の式神に手を出した報いをくれてあげる」
「貴女に人望が無いだけでしょう? 彼女、随分乗り気だったわよ」
「っは。貴女如き小娘に、藍の誘い受けを攻め崩せるものですか」
「あぁ。曲がり角過ぎた年増には無理でしょうね」
なにやら他人を出汁にしてヒートアップする両者。
私の事をアレな人のように言うのは勘弁してもらいたい。
そろそろお暇しようかしら?
「紫様……」
「藍。手を出したら殺しますよ?」
「御意」
そう言うとは思ったけどね。
紫様に限り、頭に血が上って短絡的になったはあるまい。
私の件とレミリアの件。
双方を天秤にかけて、この場はレミリアの制裁を選んだに過ぎない。
一応、此処で合流するのもありかと思ったんだけどな……
まぁ良いか。
当初の予定通り、私は私でこの異変を追うとしよう。
先ずはレミリアが匂わせた当てずっぽう……
――犯人は天にいる
この可能性を潰しに行く。
地が荒れる前兆は、空に現れる事がある。
可能性と推論は、まだ細い糸で繋がっていた。
天に一番近い地……山……妖怪山かな?
自身に転移をかけるため、意識を術に差し向ける。
完成の間際、私の茶目っ気が起き出した。
「それじゃレミリア。終わったらいつもの所で……ね?」
「ええ。シャワーでも浴びて待っていなさい」
「っちょ!? 藍――」
ナイスアシストお嬢様。
動揺した紫様に、このレミリア戦はきついかもしれない。
しかも、これは文との連戦である。
冷めた思考で主の敗戦を予感しつつ、私は紅魔館を後にした。
* * *
ほんの些細な行き違いから、悲劇が起こる事もある。
私の今の状況が、まさしくソレだといって良い。
妖怪山に跳び、山頂遥か上に緋色の雲を発見した私。
文の時はヤツの家に直接転移してしまったので、不覚にもあの雲には気づかなかった。
緋色の雲は地震の予兆。
そして、あの雲よりもはるか上に集まる世界中の気質。
明らかに人為の介入がある。
何が目的かは知らないが、そいつは大きな地震を起こそうとしているらしい。
地震が手段なのか目的なのかは判然としないが、それは犯人を絞めれば解る事!
大きな地震の前には、あの雲に乗ってリュウグウノツカイが現れるという。
私はその辺の知識を、昔書で嗜んだ程度しか持ち合わせていないが……。
半信半疑で雲の中に突入したら、本当に出た魚妖怪。
空気読みに定評のある妖怪は、直ぐに私の空気を読んだ。
天人討つべし! と意気込む私の敵意を。
「随分と勇ましいようですが、血の気の多い娘はモテませんよ?」
ごもっとも。
妖怪……永江衣玖は、私が自分に危害を加える敵と読んだ。
まぁ、敵意や害意を読めたとしても、ソレが誰に向いているかなんて解るはずがない。
天人に向けたソレを、自分へのものと勘違いしたらしい衣玖。
眼を血走らせて刃物を持った妖怪が、自分目掛けて飛び込んできたらどうするか?
力なきものは逃げるだろうし、ある者は闘おうとするだろう。
衣玖は闘う事を選んだ。
正直言えば、誤解などで使いっ走りと争う時間は惜しいのだが……
「……」
私は右手の小太刀を振るう。
真一文字に薙がれる太刀は、しかし衣玖の羽衣で流される。
流れた刃を手首で返し、今度は縦の一文字。
衣玖はゆるりと踏み込んで、小太刀の持ち手を自分の手首で遮った。
力比べになる。
私が衝撃に身構えた瞬間、衣玖に触れた手に異変が起こる。
互いの手首が触れあう刹那、私の右手は衣玖の腕を舐めるように滑っていった。
「あれ?」
気流というほど荒々しいものではない。
ごく自然に流れる空気に、そのまま右腕が乗ったような、そんな感触。
真下に向けて空振った私は、衣玖の至近でそのまま座した。
同時に私の頭上すれすれを、衣玖の羽衣が薙がれてゆく。
確認している暇は無いが、風の音で間合いは見切る。
私は小太刀を真上に構え、衣玖の顎目掛けて突き上げた。
流される手応えは無い。
同時に、肉を貫く感触もない。
私の間合いの目測は、衣玖の羽衣に騙された。
いや、騙されたのは間合いではない。
私の刃は首を傾げた衣玖の頬を、半寸ばかり外していたが……
「終わりましょうか?」
当たらない事は予想していた。
予想外なのは衣玖の姿勢。
技後の隙を狙ったのだが、衣玖は腕を伸ばしていない。
羽衣だけを押し流し、自分の右手は……
小太刀の峰にかぶせるように、衣玖の右手が落ちて来る。
右の突き上げに、右の打ち下ろしを被せる返し技。
受けて堪るかそんなもの!
「っち!」
重力を使える下打ちなのに、衣玖の掌底は早くない。
というか、寧ろ遅い。
私は空振った右の手首を返し、自分の裏肘を衣玖の其処に打ち付けた。
腕が絡まり、衣玖は真っ直ぐ腕を伸ばせない。
至近で生まれた空白の時。
互いに其処を溜めに使い、自由の左手に妖気をこめる。
私が炎で、衣玖は空気。
私は掌底と共に放とうとし……
結果、真裏から後打ちした衣玖の掌底とぶつかった。
「む?」
体勢は互角だが、力は私が上のはず。
衣玖を体ごと押し返し、同時に狐火を爆発させる。
その瞬間、衣玖のほうでも空気球を破裂させた……らしい。
らしいというのは簡単で、私は最後まで見ていなかった。
ひたすらに嫌な予感を覚えた私は、炎の着弾すら見届けずに空間を転移して間合いを空ける。
次の瞬間に見たものは、衣玖の突き出した掌で空気流が……
いや違う。
先程まで私のいた空間で、炎すら飲み込んだ火炎流が踊っていた。
「ははぁ……そうやって返すんだ?」
「つまらない芸ですよ」
……今の芸は下手すりゃ死んでたんだがねぇ。
これが、私が誤解を解こうとしない訳。
彼女は非常に強かった。
少なくとも私の興味を引く程度には。
「……」
喧嘩は基本先手必勝。
先に手を出したほうが殆どの場合は有利になる。
だが、こいつはそうじゃない。
衣玖は後攻めで切り返すのが非常に上手い。
先程から私が攻めては衣玖が返すという攻防が続いていた。
はっきり言ってやりづらいことこの上ない。
「ちらっと掛かって来てくれない?」
「遠慮しますよ。歩くの、疲れるじゃないですか」
これだよ……
衣玖は押せば引くくせに、こちらが引いても押してこない。
そうなると結局私攻めの衣玖受けという単純な構図が出来上がる。
そして、それこそ衣玖が最も得意とする戦い方になるという。
まぁ、これすらブラフで本当は先手必勝を得意としている可能性だってあるのだが……
その場合は、もう私の手に負える相手でもなくなってくる。
「……」
衣玖は平然とその場に正座し、穏やかな眼差しを向けてくる。
長身の彼女が背筋を伸ばし、泰然と座す姿は美しかった。
文より座高が高い分、彼女の正座が綺麗に見える。
だが、その中に宿る緋色の光に一片の隙も見出せない。
遠間から弾幕張って潰そうか?
だけど開幕でそれやって失敗してるんだよなぁ……
この女はこちらが弾幕精製するタイムラグを、雷の速射で狙撃してくる。
早くて痛い、倒せる狙撃で。
打つ手が無い?
っは、冗談!
「……よし」
小太刀を鞘納めると、衣玖に笑みかけて袖に仕舞う。
両手を空けておかないと、大掛かりな術が使いづらい。
互いの力量差を測るには、自身の一番得意なやり方で挑むに限る。
私は衣玖に興味を持った。
初めて会ったこの女は、一体どれ程の化け物なのか?
レミリアや幽っ子並にとどまるかもしれないし、紫様級の怪物かもしれない。
彼女は私の未知であり、未知の探求は私にとって純粋な娯楽であった。。
内心の歓喜を笑みに乗せ、私は両手に火球を握る……
その時、微動だにせず待っていた衣玖が、やはり微笑で立ち上がった。
「あ、気が変わりました」
「……なに?」
「やっぱり、私から行かせてくださいな」
衣玖の瞳に怪しい光が踊っていた。
こういう瞳は見たことがある。
これは……あれだ。
悪戯を思いついた紫様の目だ。
ひたすらに嫌な予感を覚えつつ、私は燃え盛る両手に集中する。
炎の色が変わってゆく。
赤から蒼へ、そして白へ。
「一目見たとき、貴女は敵意を纏っていました。それは私のものかも知れない、でも誰かのものかも知れなかった」
「君じゃないけどね。今はもう君で良いさ」
「そう! 貴女の敵意が興味に変わった。私を見て変わりました。貴女は、私を意識しました」
「……まぁ、そうだね」
嬉しそうに微笑む衣玖。
それでも無邪気な眼光は消えず、私の六感を最大級の警音が鳴り響いた。
「私の仕事は、地震を知らせて回る事です。だから、私は私を見つけてくれる人を探している」
「なにを言っているの?」
「私を見つけられる人、私の声を聞ける人……そんな人に出会えたら、望みの一つも叶えて差し上げたくなりますよ」
「私は、何か望んだっけ?」
「もう……お忘れですか?」
右手で口元を隠しつつ、瞳に踊る無邪気な光。
その時、彼女の羽衣が小さく弾けた。
一瞬だったが見逃さない。
小さな、しかし高圧力の電流が、彼女の周囲に集まっている。
「ちらっと掛かっていきますから、受け止めてくださいね天狐様」
「……もしかして、羽衣脱いで勝負しろって言ったらしてくれた?」
「さぁ、どうでしょう?」
そういいながらも彼女の周囲は著しく変化している。
周囲の電流をかき集め、自分自身に導いている。
やがて彼女は自ら電流の幕に引き篭もった。
よほど精密に電流のベクトルを操作出来なければ、この術は成立せずに自滅する。
なるほどねぇ……
空気読み、厄介な能力もあったもんだ。
「棘符・雷雲棘魚……さぁ、衣玖を抱きしめてくださいな?」
言いながら、衣玖は無造作によって来た。
思わず後ずさりながら、右手の狐火を解き放つ。
狙いは正面……衣玖が纏う雷球の中心。
荒れ狂う烈火が衣玖の雷球を包み込み、火術の圧力が前進を阻む。
だが、それだけ。
衣玖が纏う雷球には、全く変化が見られない。
「さぁさ、遠慮なさらずに……私に触れてくださいね?」
……マジで勘弁してください。
左の火球を叩き付け、衣玖を数瞬足止めする。
その間に、私は次手を構築する。
場所は緋色の雲の中。
雲の種類は積乱雲で、真下は妖怪山がある。
知覚領域を最大級に押し広げ、気流の向きを読み取る私。
衣玖が歩みを再開したとき、私の術は発動していた。
彼女のように空気を読み取る事は出来ない。
だが、私も呪術を用いて風くらいは操れる。
暖められた上昇気流と、冷やされた下降気流。
両者を互いに引き合わせ、大小七つの竜巻を形成する。
「……七つ、同時ですか」
「行くよ」
「ご随意に」
渦巻く風を操って、衣玖の進路に配置する。
七箇所の竜巻は其々が激しい気流を生む。
いかに衣玖が読もうとも、これを素通りは出来まいて。
……と思っていたのだが。
「些か雅に欠けますが、猛き流れもまた一興。読み甲斐のある空気です」
まるで無人の野を行くが如く、衣玖は平然と歩いてくる。
竜巻の中に堂々と踏み入り、何事も無かったように出てきやがる。
互いの距離が詰ってくる。
最早互いの表情さえ確認できる間合い。
可憐な笑みを崩さぬ衣玖。
その笑みに黒いものが垣間見えるのは、私の穿ちすぎだろうか?
そういえばリュウグウノツカイって肉食だったっけ?
意味の無い、しかも今は思い出したくない豆知識……
やばい。
至近に迫る雷魚に、思考が冷静に回ってない!
「あまり焦らさないでくださいな」
「多少焦らすのも嗜みよ?」
困ったような笑みを浮かべ、衣玖が両手を差し伸べてくる。
私は同時に右手を伸ばし、背後の竜巻に差し入れた。
旋回する空気流に、腕ごと身体を巻き取られる。
風に巻かれた私は、服を多少切られながらも殆ど無傷で上空に飛んだ。
竜巻を利用した緊急回避。
衣玖は決して速くない。
彼女が此処に届くまでに、私は次手を用意できる――
「竜巻は……」
「え?」
背後から聞こえた女の声。
それは此処で聞く筈のないもの。
目の前にある竜巻の、遥か下にいるはずの妖しの声。
「私にとっては螺旋階段に過ぎません。駆け上がれば、流されるより早く昇れるものですよ」
肩越しに振り向くと、雷球を纏った衣玖がいた。
両肩を落とし、興冷めしたような嘆息と共に。
――あ?
この女落胆しやがった。
今、私に、八雲藍に、溜息なんか吐きやがった
瞬間頭に血が上り、戦闘意欲が自己保身を駆逐する。
私は遊びに興じ切れていないのではなかろうか?
相手を探るだの測るだの、そんな事をやっているうちに熱を削いでしまったのではないか?
何より私は……勝負事なのに、勝ちに行ってないんじゃないか!?
「……あったま来た」
「は?」
私は迷わず空を蹴り、背後の衣玖に背中を当てる。
電流が接触部を焼くが、声は奥歯で食い殺す。
密着して掴んでしまえば、受けるも流すも関係ない。
私は九尾の五本を使い、衣玖の身体を拘束する。
両の四肢に一つずつ。
最後の一本をその首へ。
「正気ですか?」
「お望みどおりの展開でしょう?」
私は膝を抱えて蹲ると、そのまま前宙を繰り返す。
一回転、二回転……
自身の身体を内円に、衣玖の身体を外円に。
私の前宙はそのまま尻尾を動かして、衣玖の身体ごと振り回す。
多少電撃がむず痒いが、あくまで多少でしかない。
私の体の部位で、一番電気に強い場所。
それは間違いなく尻尾である。
動物の体毛は凄まじい静電気を蓄積できる。
私の九尾なら、なおさらだった。
一本一時間一日三本。
それを三日掛りの三交代でお手入れしている自慢の尻尾。
その尻尾が、雷魚女如きに遅れを取るはずがない!
このまま大地に疾駆して、私ごと叩き付けてやる。
「幕と行こうじゃねぇの」
「……ぁ」
我慢比べなら絶対負けない。
勝ちを見切った私は、今一度肩越しに衣玖の様子を確認する。
彼女は、私を見ていなかった。
もっと深刻なものを、空の彼方に見出していた。
「終わった……」
「え?」
衣玖の発言の意味が掴めず、その視線を追って眼を凝らす。
ほぼ垂直に傾げられた首が、ほんのちょっぴり痛かった。
「あ~……あぁ……」
間を置かず、私も彼女が見たものが見えてくる。
それは紅白二色の蝶。
独特の改造を施した巫女服。
束ねられた漆黒の髪。
何故か巨大な麻袋など背負い込んで、博麗霊夢が降りてくる。
「……もしかして、あいつ先に行ってたの?」
「行っていたんですよ……なんでも、地震でお家が壊れたんだそうで」
「教えてよ?」
「いやでも……彼女が勝つとは思ってませんで」
まぁ、初対面じゃ霊夢の異常さなんて解らないか……
「……そりゃ無いでしょうよ」
つまり私が衣玖と遊んでいる間、霊夢ははるか先に異変解決に乗り込んでいたわけだ。
なんだよそりゃ?
霊夢が自分で動いてるなら、私や紫様だって家でのんびり寝ていられたのに。
そもそも、お前何時も動き出すの一番遅いはずだろうが?
「総領娘様……今回の黒幕が個人的に狙ったのが、彼女だったんですよ」
私の不満を読んだのか、衣玖が解説してくれる。
今のも私の空気なんだろうか?
殆ど心を読まれた気がする。
まぁ、とりあえず現状は理解した。
私がやってきたことは、とりあえず無駄らしい。
全身から力が抜け、私はその場に倒れこむ。
崩れ落ちた私の元へ、霊夢が軽く降り立った。
「久しぶりね藍。元気だった?」
「……元気に見える?」
「見えない。なんか葡萄を取れなくて負け惜しみを言う狐みたい」
「おおむね正解。察してちょうだい」
脱力感を溜息で表現し、私は心で涙を拭う。
普通には泣いてないもん。
ほんの、ちょっとしか。
「霊夢様は、首尾よく済まされたようですね」
「順調よ。いやぁ此処まで大漁だと申し訳ないくらい」
にこやかに語る衣玖と霊夢。
この場では暗い空気に沈みこむ私が、明らかに一番場違いだった。
仰向けで泣く私の耳には、二人の会話が入ってくる。
「要石も手に入れたし、天人本人も手に入れた。これで神社も復活ね」
「総領娘様もですか? お持ちかえってどうするのです?」
「神社の土台に埋めるのよ。天人を人柱って、なんか縁起よさそうじゃない?」
「我侭娘を埋めた所で、基盤が弱まるだけですよ。あまりお勧めしませんが」
「その時は簀巻にして、鳥居に吊る仕上げで勘弁してあげるわよ」
「まぁ素敵。テルテル坊主みたいで可愛いでしょう」
「その上、特等席で自分が壊した神社の再建が見れるって寸法よ」
「お優しいことですね」
楽しげに語らう少女達。
物騒な単語が飛び交っているのは、疲れた私の幻聴だろう。
思考することに疲れた私は、瞳を拭って両手を挙げる。
霊夢と衣玖は顔を見合わせ、両手で私の手を取った。
「よいしょ」
「こらしょ」
二人は同時に踏ん張ると、私の身体を引き起こす。
「何拗ねてるのよ」
「うっせーやい」
肩をすくめる霊夢に、憮然とむくれる八雲藍。
そのやり取りを見ていた衣玖が、口元を隠して微笑んだ。
「ま、今日のところは帰りましょ? これから神社で前祝よ」
「また宴会?」
「先の宴会は、もう一週間も前のことよ」
「良いペースだと思うがねぇ」
流石に重くなってきたのか、霊夢が麻袋を手放す。
何か堅いもの同士がぶつかる音を聞いた気がした。
とりあえず、荷物は私が持つことにする。
悪いわね……と、霊夢が視線を投げてくれる。
「衣玖だっけ? あんたも一緒にどうかしら?」
「ありがとうございます。それでは、お言葉に甘えてお邪魔します」
「参加費はおつまみ一品以上。多くても可よ」
「では、腕を振るうと致しましょう」
嬉々として雲から降りる娘達。
楽しそうな背中を眺めて、私も後へ続いてゆく。
「ほら、天狐様? 何時までも辛気臭い顔をなさらない」
「……誰のせいよ?」
「誰のせいでもないからこそ、歌って踊って忘れるが一番です」
うむ、正論。
「此度は運が無かっただけですよ」
「運ねぇ……」
最初に、私は文にもそう言った。
まさかあの将棋で、私は運を使い切ったのだろうか?
こういう要素が絡んでくると、良い目を見た記憶は殆ど無い。
紫様や霊夢からは、幸の薄いオーラがあるとか言われるし。
「ま、仕方ないか」
その一言で開き直り、私は前行く二人に並ぶ。
中央に霊夢。
右隣に衣玖がいるから、私はその反対へ。
「さぁ、今夜は騒ぎましょうか」
珍しく機嫌よく煽る霊夢に、私の気分も乗ってくる。
どうせなら宴に出るのなら、楽しまなければ損である。
他の連中も、神社で騒いでいれば勝手に集まってくるだろうし。
夏の延びた日が山に落ち、夜がその領域を広げる世界。
その中を女が三人、姦しく帰路についたのだった。
ミ★
「……これは、どういうことかしら?」
自問した所で、答えなど一つしかない。
博麗神社で宴に興じ、一晩泊まって帰宅した。
ただそれだけ。
たったそれだけだったのに、我が家の変わりようはなんなのか?
――ねこ猫々ネコ猫屋敷。
三桁に及ぶ猫軍団が、我らの屋敷を占拠していた。
トイレだけは躾けられているらしく、致命的な臭気はない。
だが、畳や柱をお構いなしに爪研ぎにし、庭の池では鯉が遊びで荒らされている。
この分では食料庫のほうも被害が行っているだろう。
私は頬を引き攣らせ、地の底から響く重低音で呟いた。
「……猫がっ」
家に猫を上げてはいけないと、何時も言っているだろう?
しかも何これ? 全軍か?
橙が偶に自分の式候補の猫を見せに来ることがある。
そういう時は、私も黙認してきたのだが……
おそらくアレもコレもと迷ううちに、全ての猫を連れてきてしまったのだろう。
今までも、橙が見せに来るときに一匹だったためしは無い。
橙は昨日この猫を連れて帰ってきて……そして私達がいなかったから……
どうやら今回は、少しばかりお灸をすえる必要があるらしい。
「……橙のヤツ……逃げたねぇ」
橙の居場所が感知できない。
式と主は術式によってある程度のパイプが出来ている。
それを辿れないということは、橙が邪魔をしているのである。
昨日私もやっていたことだと思えば、それなりに可愛げも覚えるが。
「あ、そういえば紫様……何処をうろついているのやら」
まさかこの屋敷で寝ていることはあるまいが。
私は一つ息を吐き、猫に占拠された屋敷を後に……
しようとした時に、玄関先に置かれた紙に目が行った。
「……お、文の新作」
それは不定期新聞、文々。新聞。
丁度良い。
ギスギスした今の心を、文のギャグで宥めなければ。
有用な真実も、百に一つくらいはあるかもしれないし。
「ん……今回は紅魔館特集。白昼の風呂場に不審者? 怖いわねぇ……」
どうやら昨日紅魔館に賊が侵入。
主だったものが総出で撃退し、見事賊を打ち負かした。
其処には文の憶測が非常に真実っぽく脚色され、一大活劇に仕立て上げられていた。
全く、よくも此処まで話を大きく出来るものだ。
紫様がレミリア達に、ちょっとフクロにされたってだけだろ?
「賊は簀巻にして紅魔湖に放流……氷精に凍らされているところを大妖精に発見されて保護される……」
賊の名前を公表していないのは、文なりの配慮だろうか?
その賊に負けたばかりの昨日では、あまりおおっぴらにこき下ろす事も出来なかったと見える。
それにしても紫様……
勝ち目の薄い戦いでも、逃げおおせる事は出来たでしょうが?
果たしてそうしなかったのは何ゆえか?
あの時は、紫様に限り逆上する事は無いと断じていたが……
もしも私が最後に飛ばしたジョークの所為なら、もう土下座して謝ろう。
「あー……ったく。私も他人の事は言えんのか」
とりあえず紫様を傷つけた事を謝ろう。
彼女の怒りに対しては、きっちりと清算しておきたい。
これはまぁ、異変解決で喧嘩したときから覚悟をしていた事だがね。
「……ったく、手間の掛かる女だこと」
紫様は外で遊び歩いているくせに、私が同じことを匂わすだけで逆上して取り乱す。
不公平だが、これはこれで仕方ない。
そんな女に惚れた弱みがあるのは、多分私のほうだから。
新聞には連絡先は書いていなかった。
とりあえず紅魔館へ行って、手掛かりを探すとしましょうか!
空間転移を行使するため、意識を術に傾ける。
転移の間際に屋敷を見た。
そこでは我が物顔で居座る猫共が、大きな口であくびをしていた……
あなたの藍様を再び拝める日が来ようとは!!
ほんとに緋想天で藍が使えたらよかったのに
相変わらずアツいバトル描写がかっこよすぎる!!
みんながみんなバッチコイなんで吹いた。
おもしろかったです。
これからあなたの過去作品を読みにいってきます
でも衣玖さんも素敵でれみりゃお嬢様もノリノリですよもぅ
なかなか楽しめました。
しかし、大将棋とはまたマニアックなものを出してきましたね。
あれってトリビアでもやってましたけどかなりの日数掛かるんですよねぇ・・・。
紫様の扱いがちょっと酷いような気もしました。
それにしても、このお嬢様……本編で無くしたカリスマを取り戻してますね!
衣玖さん使いとしては嬉しい限り…………自分、対人勝率2割くらいだけど
それにしても、この八雲主従は仲良いな。
仲良すぎて、愛しさのあまり抱きつこうとしたら、勢い余って頭突きしちゃった感があるけど。
そういや、もし天界まで行ったら「天狐vs天子」でしたね。片方「てんし」だけど
惚れるわ
待っておりましたよ!! 貴方の描く独特の幻想郷!!
今回も藍様、紫様ともども良い味を出しておられて、満腹といった次第です。
というか紫様……いと哀れ……。
戦闘描写が相変わらず上手いですねぇ・・・
衣玖さんの空気を読む能力の使い方も実に素晴らしい。
衣玖さんがラスボスでいいじゃない!!カリスマも溢れんばかりだし。
……別に天子ちゃんが人気はあるけどカリスマ無いよね!とか思ってナイデスヨ
>>さぁさ、遠慮なさらずに……私に触れてくださいね?
この台詞で衣玖さんに心を奪われた。
扇ではないかと思いまする。
誤字脱字で減点なんてくだらねぇぜ! 満点叩き込ませろ! 悔しいくらい面白かった!
あと紫様いじられ属性もってたのか
猫軍団に屋敷を追い出されるウリ坊が目に浮かびます。
嗚呼、それにしてもいい従者だ…退屈しなさそう。
つかあれですね、最初の虐待云々も、痴話喧嘩が元ですか。どっちがどっちを守るかとかそういう。
味のある文章ではありましたが、中盤あたりまでがややテンポが悪かったのが難点だったかな。
戦闘に入ると一気に読めたんですけどね。
紫との仲直りまで読みたかった。
今回は比較的藍がやりたい放題な気がしました。
普段のストレス発散だと思えばかわいいものですが。
…あと、天子の扱いの悪さにふきました。