Coolier - 新生・東方創想話

現代人の鬼退治

2008/06/05 00:00:30
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 もう、お酒の匂いはこりごりだ。
 早苗はただ一刻も早く、自分の部屋の匂いに包まれて、ベッドに顔を埋めたかった。

 神社に早苗の部屋がある、というのも、よく考えればおかしな話である。その部屋、元々は神社から半キロも離れた東風谷一家の住む家にあったものだというから、それが神社の一部になっているというのはさらにおかしな話であった。
 本来だったら、早苗は幻想郷入りすると同時に自室に別れを告げるはずであった。神社で寝るのは隙間風酷そうだなあと、早苗は内心不安に思っていた。
 しかしいざ幻想郷に着いてみると、見知らぬ所に見知ったドアが付いていて、恐る恐る開けてみると、見知った早苗の部屋がそっくりそのままそこにあった。嬉しいというよりは気味が悪かった。他にも社務所の炊事場がくっ付いていたりと、神社のあちこちが居住性に考慮した構造に変化していた。まったくの怪現象だが、お膳立てをしてもらった格好になって、結局普通に神社生活を始めてしまった。
 後で知ったのだが、幻想郷の神社、少なくとも博麗神社は、普通に人も住めるようになっているのだ。幻想郷では神社に人が住むのはおかしな事ではないようだ。大結界は「常識の壁」だから、そこを通り抜ける際に内外の常識の違いに合わせて過不足分を別の所から持って来た、という話であろうか。何とも細かい所に気の回る結界である。
 そんな訳で、こうなってしまえばもう、この部屋は早苗の終の住処になったと言っても過言ではない。
 物心付いてからずっと生活してきた部屋。常に模様替えをして、今は年相応のシンプルなデザインにコーディネイトしてある一方で、小学校以来の学習机が鎮座していたりと、そこはちぐはぐな空間だった。時間の概念のない、まったく無色な空間といってもいい。何も生み出さない代わりに、何も変化しない。何にも出会わない代わりに、何にも掻き乱されない。そんな空間に、早苗は一刻も早く辿りつきたかった。

 こちらに来てから宴会は日常の事になったが、最近は特に多い。

 遡ること一日、昨日も当然の如く宴会だった。何の宴会だったのかは今だに良く分からない。飲んで騒げれば何でも良いのだろう。早苗はそこら辺いまひとつ理解に苦しんでいるのだが、これも信仰の形という事でなるべく参加するようにしている。
 早苗は午前中は里に降りていて、宴会には直接向かう形になった。
 いつものように、「まあ、少しだけなら」とお酒に口をつけない事もなかった早苗だが、今回はそれがまずかった。
 一口ふくむと途端に体がだるくなって、瞼が重たくなったのだ。
 ひょっとしたら、こちらに来て生活が変わったせいで疲れを溜めこんでいたのかもしれない。
 結局ろくに宴会に付き合う事もなく、そのまま近くにあった毛布で寝てしまった。
 早苗が目をさましたのは翌日の日もすっかり昇りきった頃で、散乱した酒瓶の中に何人かの天狗と、祭神二柱が眠りこけていた。体は節々が痛んだ。
 一人で片付けを少しだけした。あくまで少しだけである。眠っている者を起こすのは忍びないから、というのは建前で、本音を言うと体を動かすのが嫌だった。
 そして今、ようやくこうして神社の、自室の前まで帰り着いたところだ。
 実に、一日半ぶりの凱旋である。

 ドアのプレートを裏返し、「在室」の表示にする。あまり意味はない。こちらに来てからは特に。それでも、何となくの習慣であった。
 そして、ドアノブを捻る。
 柔らかく甘い毛布の感触を夢見ながら扉を開いた早苗だったが。
「……え?」
 そのまま、しばし硬直した。

 部屋は、いつもの通りであった。
 ただ一点、ベッドの上に存在する異物を除いては。

 ぐねぐね曲がって、樹木の肌のようにごつごつして、それでいて先端は鋭く尖り、それの動きに合わせてゆらゆら揺れる、歪な二本の角がまず目につく。
 ベッドの上にどっかりと胡座をかくそれは人の、しかも十にも満たない童の姿をしている。露出した肩には筋肉が無駄なく付いており、テレビでたまに特集が組まれたりする天才スポーツ少年を思わせる。しかし、それの性別が女であることも分かった。
 童が、何かを持ち上げた。童の身長ほどもある瓢箪である。飲み物が入っているようで、こくこくと喉を動かしながらそれを流し込んだ。ぽたぽたと雫がベッドに落ちている。
 ぷはぁ、と幸せそうな顔で息を吐く。
 この匂い――酒。
 間違いない、この童、妖怪である。しかも人の部屋に勝手に上がりこんで酒盛りをした挙句に、人の洗濯の手間を増やすそれはもう悪質な。
「そこのあなた!」
 言われて、童はふいと振り向いた。
 早苗の存在に今初めて気がついた様子であった。
 きょとんと首を傾げ、早苗の顔をしげしげと観察する。
 勝手に上がりこんだ者の態度ではない。早苗のむかっ腹は許容量をとうに超えている。
 妖怪退治という大義名分もある以上、やるべき事は一つである。
「守谷の風祝の名において、あなたを退治させてもらいます!」
 ぴしゃりと言い放てるのには、理由がある。
 ここ幻想郷において、巫女というのは特権階級である。人間と妖怪との秩序を守るため、絶対的な権限が与えられている。巫女を倒す事は出来ないし、そもそも並の妖怪では倒せないほど強いので、大抵の妖怪は巫女を相手にした時点でやる気をなくし「いかに退治されるか」を考え始めてくれるのだ。厳密に言うと特権階級なのは博麗の巫女で、それ以前に早苗は厳密には巫女ではないのだが、ほとんど虎の威を借る狐状態で、心置きなく妖怪を退治する事が出来るのである。
 ところが、目の前の童は違った。
 早苗の口上を聞いてまず、ちょっと意外そうな顔をした。
 そしてくつ、くつと、押し殺した音を喉が鳴らした。
 まっすぐな眼差しで早苗を見据えると。
 その口角が、ゆっくりと横に裂けていく。
 あれ、私何か間違えた? と、早苗の背筋にうすら寒いものが走った瞬間。

 ドゴオ、と、爆煙が上がった。

「っ、強……!」
 膨大な音と光と衝撃とを叩きつけられて、早苗が認識できた事はそう多くは無かったが、大切な事は外さなかった。
 危険度MAX。下手をすると死ぬ。
 こちらに来て荒事にも慣れてきたその体は幸いに、煙が晴れるより前に次の行動を起こしてくれた。
 いったん退き、被害の出ない場所で迎え撃つ。
 衝撃を受けた腕のしびれは抜けない。鼓膜が痛む。
 見くびっていた。というか、あの外見でこの力とは、予想しろという方が無理というものだ。自分が怪我をしないかというのもあるが、それ以上に建物が心配だ。神社には強化の呪がかけてあるので、今のところ損害は出ていない。幻想郷でそこそこ力がある者は、まず真っ先に屋敷を強化する必要があるらしい。万が一戦場になっても大丈夫なように、との事だが、コンスタントに役に立ってしまうから困ったものだ。
 しかし、その強化呪が、今回は心許ない。さきの一撃でも大分ダメージを受けたようだし、それに早苗がどう見ても、さっきのが本気には到底見えなかった。
「キヒッ!」
 懐で、歪な笑い声が鳴った。
 目線を落とすと、そこには拳を構えた童の姿が。
「疾い!?」
 少なくとも踏み込む姿は見えなかった。あのパワーの上にスピードもあるのか。あるいは別の能力か。時間操作、距離操作、空間切断、11次元ベクトル操作。外の漫画で見たような能力が次々と浮かんでくる。この世界だといずれも有り得ないとは言い切れない。考えれば考えるほど勝てない気がしてくるので、今はそういう悪い想像はやめよう。
 とにかく今来る一撃を逸らす。早苗は拳を斜めに受けるように五芒星の陣を張った。拳は早苗の身体に少なからぬ力積を与えながらも陣の表面を滑り、吹き出た火花が壁に降り掛かった。
 後ろに流れる身体を、早苗は止めなかった。
 そのまま身体を半回ひねり、地面を蹴って、宙に浮く。
 全身が風を感じ、壁がみるみる後ろに流れていく。家の中で飛ぶのは初めてだった。後ろを晒すリスクがあるが、さきの瞬動を見るに、恐らくどっちを向いていても一緒だ。
 外まで3秒、2秒、1秒。
 網戸のサッシを体当たりで外し、転がるように外に出た。

 不意打ちのリスクを減らすために遮蔽物のない中空に陣取り、今さらながらに手持ちのものを確認する。
 玉串、ある。符、不自由ない位にはある。一応よそに行って来た帰りなので、戦闘に必要な装備は揃っている。問題は草履が無い事か。慌てて飛び出してきたという状況の関係で仕方ないところだが、常に飛んでいれば問題はない。
 本来だったら喧嘩を売る前に確認しておくべき所である。この辺、まだまだこちらの理が完全には身に付いていない事を痛感せざるを得ない。
 と、そこまで思い巡らしたところで、気付いた。
 やけに静かだ。
 時間は午後二時をまわったかという所、空は曇っていて気温は暑くも寒くもなく、湿度は高め。過ごしやすい部類には入るが、気分の良い天気ではない。
 童の気配は全くない。
 振り切ってしまったか?
 神社はいつものように佇んでいて、空気の感じ、耳に聞こえる音もいつものままだ。
 変わった事といえば。
「霧?」
 ふと気付くと、ごく薄く、辺りを霧が覆っていた。
 これ自体は、とても空気に合っていて、心地よくさえある。
 しかし、昼間に霧が出るというのは色々な気象条件が上手く重なった場合である。今日はそんなに特殊な天気ではない。この霧は何かおかしい。
 不意に、早苗のすぐ傍に、不自然に霧の密な所が出来た。
「っ!」
 とっさの判断で身をかわした刹那、霧の塊が――爆ぜた。
 霧が飛び散ると、それを受けた地面はえぐれ、かすった袖口は破れた。
 注意していたのに、遅れを取った。既に敵の攻撃は始まっている。
「そこっ!」
 背後に気配、感じると同時、振り向きざまに符を投じた。しかしそれはやはり密な霧で、符は素通りし、その一瞬後に凶器になった。
「出て来なさい!」
 今度はパンパンパンとあちこちで立て続けに弾ける音。弾幕と化した霧の欠片を紙一重で避けつつ、早苗は声を張り上げた。
 声を張り上げて、自分が何に向かって叫んだのか分からなくなった。
 あの妖怪は何処だ?
 神社から出てくる所は見ていない。ならば中か? あるいは、こっそりと神社を出てその辺りの物陰からこちらが霧に巻かれるのを見物しているのか? いや、あれはそんなにこそこそした事を好む奴ではないか。本当にそうか? 早苗はあの妖怪の、一体何を知っているのか?
 一体、何と戦っているのか?
 邂逅した時に受けた印象すら、疎になっていく。
 そして、背中に一発命中。
「か、はっ!」
 肺から空気が絞り出される。
 地面に転がった。しかし怪我をするほどの威力ではなかった。手加減されたか。
 追撃はない。
 当然か、と早苗は思った。これ以上やっても無駄なのだ。この勝負がスペルカードルールに則った物かは分からないが、早苗がこの弾幕に対し解答を見出せなかったのは確かだ。
 顔を上げると、湖が広がっていて。
 その上に、霧が集まっていく。
 先ほどまでとは明らかに違う密度だった。霧が一粒残らず集まったようだ。物理的にありえない。
 そして霧に色と形が生じた。
 目を凝らして見るまでもない、あの妖怪だ。霧を操るのではない、消えたり現れたりしていた訳でもない。霧が彼女そのものだった。霧になる程度の能力? 本当にそれだけだろうか。
 ともあれ、勝てなかった。
 妖怪相手に負けを喫したのは今回が初めてだ。弾幕ごっこに負けた人間はどうなるんだっけ。食われる事もあり、からかわれて終わりな事もあり。相手の気分次第か。
 私はどうされるんだろう、と、早苗は自分を負かせた相手を見遣る。
 湖上のそれは、笑っていた。
 笑ったまま、手を頭上まで上げた。
 ぼこり。
「っ!?」
 うつ伏せになった早苗の手元で不意に地面が動いた。モグラか何か、生き物が埋まっていたかのような動きだった。びっくりして手を除けるが、そこに生き物などはおらず、地面が勝手に動いていた。地面に埋まっていた石が、何かに引っ張られたように宙に浮き、そのまま何処かへ飛んでいくのだ。
 同様の怪現象はあちこちで起こっていた。そこら中の土くれや石が、どんどん宙に吸い上げられていく。
 それは一点に集められていくようだった。
 行く先については、想像力を働かせるまでもなかった。
 顔を戻すと当然の如く、湖の上に巨大な岩塊が出現していた。
 あの小さな童の手の上に。
 力の無駄遣いである。ノコギリで鉛筆を削るようなものだ。と、早苗は思った。そんな馬鹿みたいな力を使わなくても、ひ弱な人間の体は、簡単にバラバラになってしまうというのに。
 見上げた岩塊は、まるで建築途中でうち捨てられたビルのような、いつ崩れてきてもおかしくない不気味な威圧感を放つ。

 その一角が、弾け飛んだ。
 欠片が後方に飛び散って、湖面にパラパラとしぶきを立てる。
 童が目を剥いた。
「早苗、大丈夫か!」
 その声を、凄く久々に聞いた気がした。

 守矢の神社が祭神、八坂神奈子の周辺には、湖に照準を合わせたいくつもの御柱が浮かんでいた。その柱がボッ、ボッと重低音を放ちながら互い違いにノックバックして、その度に湖上の岩塊が破片を散らす。いつか早苗が見た戦艦大和の再現CGのようだった。
 その砲塔が完全に沈黙するのを待って、早苗は神奈子の元に飛び寄った。
「八坂様!」
 しかし、神奈子は湖から目を離さなかった。
 にやりと笑う童と神奈子、その表情はどこか似ていた。
「また厄介なのを相手にしたもんだね、早苗」
 それは、言われるまでもなく実感していた事ではあった。
「あれは、何なんですか?」
「鬼さ」
「鬼……」
 と言われても、今ひとつ実感が無かった。
「何ていうか、別に幽霊も妖怪も鬼も似たようなものだと思ってました」
「現在の、じゃなかった、外の人間にしたらそうだろうね。妖怪はまあ、人間とは別の生き物だと思えばいい。基本的には関わり合いにならない方がいいし、たまに悪さしたら退治すればいい。けど、鬼は人間の裏表だ。人間として生きる限り、必ず鬼との関係を考えなくちゃならない」
「必ず? 外で普通に生きている分には、鬼なんて全然……」
 普通に、ねえ。と、神奈子は皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「鬼との付き合い方には二つある。二つしか無いんだ。一つ目は鬼に気に入られて、鬼と信頼関係を築く事。けど、外の人間はおろか、今では幻想郷の人間ですらそうする者はほぼいない。あなたも無理ね、早苗」
 早苗は童――鬼の方をちらと見た。鬼は早苗たちが話し込んでいる間は、攻撃を仕掛けるでもなく瓢箪の酒をぐびぐびやっていた。
 悦しんでいるのだ。
 理解できない。
「いいよ、あなたはここの暮らしに慣れるので精一杯なんだ。あんまり多くの変化をいっぺんに受け入れるのは大変だからね。だから、もう一つの対抗策だ。一度しか言わないから、よく聞いてな」
「え」
 ちょっと待って、話がおかしい。早苗の頭はにわかに混乱した。先ごろ鬼と対峙する中ですら、これほど取り乱した局面は無かった。
「こう思うんだ。鬼なんていない」
 だって、話の筋が通らない。
 神奈子は、助けに来たのではないか。
 もうあとは、神奈子が鬼を退治するだけの話ではないか。早苗が何かする局面なんて、ないはずだ。
「妖怪も精神に依ってる部分が多いから、こう思う事でダメージはある。しかし、鬼は人間の裏表なんだ。その片割れにこう思われたら、まあひとたまりもないだろうね。考えようによっては、これほど卑怯な手段もない。さて」
 神奈子は、御柱の一本を腰だめに構えていた。
 その構える先を見ると、鬼は拳を固く結び、何かの力を込めているのかその拳が燐火を纏い輝いていた。
「一撃で、いいな」
 それは鬼にあてた言葉であった。向こうは返答代わりに、拳を大きく引く。
「早苗、下がってて」
 言い残すと、湖に向かい高速飛翔。
 御柱が一直線に繰り出される。
 鬼も拳を突き出す。
 両者の先端が触れ合う。

 下がれと命じられた早苗は、戦いを見届けるために後ずさりで少しずつ戦場から距離を取るつもりでいた。しかし、両者が接触した瞬間に起こった事を目のあたりにして、回れ右で一目散に飛んだ。すなわち、その拳と御柱が触れ合った瞬間、オレンジ色の巨大な火球がそこに出現したのだ。
 それは外に膨れ上がると同時に、辺りの物を一切の差別なくかき回した。必死で逃げる早苗もその例外とはなれなかった。数メートルも飛ばないうちに強烈な下方向の力を受け、次の瞬間には宙を舞う土砂と混じり合って、早苗はどちらが上でどちらが下か、いま自分は飛んでいるのか地面を転がっているのかすら分からなくなった。ランダム運動がやがて地面を転がる回転運動になって、何周か回ってようやく止まった。泥に埋まったと言った方が正しいが。そして今度はざあっと音を立てて大量の湖水が吹き付けてきて、早苗は目を開けられず、息も出来なくなった。

 どうどうと鳴る破壊の波が去るのに、かなりの時間を要したように思えた。
「っ、ゲホっ、はあっ!」
 気管に水が入った。全身に打ち身や擦り傷が出来、水を吸った服は酷く重い。それでも早苗は、泥をかき分け立ち上がった。

「譁……」

 辺りには、もうもうと蒸気が立ち込めている。
 地面は掘り返され、ほとんど別の場所のようであった。
 湖の水かさが渇水時のごとく減って、普段見えない色の地肌を覗かせていた。
 にわかには信じられないが。
 あの激突は、諏訪の湖の水を半分蒸発させたのだ。
「神奈子さまぁっ!」
 ガラガラ鳴る喉で、早苗はようやく叫び声を出した。
 湖上はどうなった。勝負の結果は。

「譁、譁譁」

 水の上を覆うもやが晴れてきた。
 そこには、一つだけの影が浮かんでいた。
 天を仰ぎ、口を大きく開けてひくひくと震えている。

「譁ッ譁譁譁譁譁譁譁譁譁譁譁譁譁譁譁譁譁譁譁譁譁譁譁譁譁譁ァッ!」

 嗤う、鬼だ。
 神奈子の姿は、ない。
「いッ……」
 血の気が引いていく。

 でたらめだ。
 でたらめだ。
 でたらめだ。

 早苗はなりふり構わず、髪を振り乱して走りに走った。
 逃げなくては。どこか遠くへ。二度とあの鬼と出会わない場所へ。
 そんな場所はあるのか?
 直感的に分かった。今まで見せた圧倒的な力は、その能力の片鱗に過ぎない。本来の能力はもっと根源的・概念的な何かだ。あの鬼はどこにも居なくて、どこにでも居る。そういう存在なのだ。
 肩に何かの感触がある。
 早苗はそれをむしり取った。
 手に収まってしまうサイズのそれには、顔と手足がしっかりと付いていて、さらには歪な角も付いていた。
「やぁ」
 鬼だ。
「――、――ッァァァァァァァァァァァァ!」
 かすれた絶叫。もはや早苗自身の耳にも、人の声とは聞こえなかった。
 ミニサイズの鬼をおもむろに地面に投げつけると、くちゃりと血を流してそれは簡単に潰れた。
 早苗の歯がかちかちと鳴っている。
 アップになった鬼の顔が、逆さまに視界に映った。
 早苗の額のあたりから、今潰したのと同じ大きさの鬼がぶら下がっているのだった。
 肩の切れ目から、胸の合わせ目から、スカートの下から、次々と小さな鬼が這い出してくる。
 もはや出す声も無かった。
 早苗はそれらを一つ一つ手に取ると、くちゃり、くちゃりと潰し始めた。
 一度始めてしまえば、それはとても機械的な作業であった。
 鬼は次々湧いてくる。早苗は身につけたものを一つ一つ外していった。すっかり素裸になるまでに、30匹ばかりの鬼を潰した。
 肌寒い。
 この寒さが、自分とそうでないものの境目をはっきりさせてくれる。
 鬼はもう一体もいない。
「ヒヒッ!」
 目の前にいつのまにか普通の大きさの鬼がいて、早苗の額にむけて今にも拳を繰り出そうとしているが。
 早苗にはもはやそれを認識することが出来ないのだ。
 拳が突き出され、風切り音を鳴らす。
「鬼なんていない」
 神奈子の台詞を反復していた。
 無抵抗の早苗の額に、鬼の拳が触れ、
「鬼なんていない」
 そのまま、霧になった。
「あ?」
 鬼は自分の手を見遣った。
 空気に蝕まれるように、鬼の右手はどんどん霧になっていくところだった。
「鬼なんていない」
 左拳を繰り出すと、今度は早苗に届く遥か前で霧散した。
 角の先と、両足の先も、輪郭がぼやける。
 信じられないといった様子を見るに、意図して能力を使っている訳ではないのだろう。鬼は消えゆく自らの身体を一通り見遣った後、早苗にその眼差しを向けた。
 自らが消滅する理由を悟ったのであろうか。
 かなしそうな目をしていた。
「……、あ、……」
 気が付くと早苗は、認識していないはずのそれに対し、何故か手を伸ばしていた。
 触れる前に、それは完全に空気の中に消えた。



 もとの湖畔に戻るのに掛かった時間は、ほんの二分ほどだった。濡れたまま脱ぎ捨てたせいで冷たくなった着物を着直して、それが肌に馴染むよりも早かった。
 かなり走った気がするのだが、本当に感覚というのはあてにならない。
 破壊の痕跡はなお色濃いが、それはあくまで痕跡であった。閃光や轟音などは過去のモノとなり、熱を持っていた水蒸気はすっかり凝結していた。
 そして同心円状の破壊痕の、中心にあるべきモノがぽっかりと欠如している。

 鬼は、もういない。
 さっきまでは、いたのに。

「ううっ!」
 物寂しさが物理的に胸を締め付けて、早苗は泣き出しそうになった。
 その衝動をかみ殺し、早苗はおもむろに屈み込むと、両手の指で地面の泥を掴んだ。
 何か、何でもいい。あの小さな童が、確かにいたという証拠を。
 早苗としては、自棄のつもりだったのだが。
 早苗が手をつけた位置に正確に、それは埋まっていた。
 丸みを帯びた、抱えるほどの大きさの物体は、叩けばこつこつと音がしそうな独特の質感と、変わった釉薬の焼物のような、紫色の光沢を持っていた。
 掘り出すと、くびれが現れた。そう、瓢箪だ。鬼はこの瓢箪から酒を飲んでいた。途中から持っていなかったようだが、ここに埋まっていたのは偶然か、あるいは。
 きゅぽんと栓を抜いてみると、酒精の匂いが広がった。
 死んだ風景の中に、生きた香り。
 早苗は誘われるように口をつけ、頬を一杯に満たし。
「ぶふっ、ゲホ、ゲホッ」
 そのまま飲み込めず吐き出した。
 酒は地面に吸われた。泥に混じったと言った方が近いか。日本酒の値段って幾らくらいだっけ、と早苗は意味もなく算用してみた。ジュースより安いという事はないから、コップ一杯で二百円以上はするだろう。すると、一口分噴いただけでも駄菓子がたらふく食べられるだけの金額を無駄にしたという事か。まったくもって割に合わない飲み物である。
 しかし瓢箪の酒は減った感じすらしない。早苗は妙に馬鹿馬鹿しく感じて、同じように酒を口に含むと、今度は鼻を抓んで無理矢理に飲み下した。
 喉が熱い。臭気にあてられて、木槌で殴られたように視界が揺らぐ。
 無我夢中で、五・六口を飲んだ。鼻こそ抓んでいないが、味はまったくしなかった。ただ舌が痺れた。
 瓢箪を地面に置き、石に腰掛ける。
 自分は酔っ払っているのだろうか。ぽやっと空を見上げてみた。
 飲んだ酒は、吸収されていないと思う。
 胃袋の上の方に溜まっていて。
「気持ち、わる」
 急に、吐き気を覚えた。
 強烈な吐き気だ。
 押し返そうとして、手近にあった飲み物を流し込んでみた。もちろんそれは酒なので、5秒後には余計酷い吐き気が来た。
「吐くのは、いやぁ……」
 思えば、幼稚園以来の嘔吐恐怖症だ。吐瀉物を見るのも嫌なのに、それが自分の中から出てくるなんて想像も出来ない。吐くと喉はヒリヒリして、鼻の方まで異物が入ってくる。服を汚しなどしたら一大事だ。出先で服を汚してしまったら、幼児の頃は泣きわめいてお母さんに頼れば良かった。しかし、小学生になったらもう自分で何とかするしかなくなって、でも吐いてしまったらどうしたら良いのか分からなくて、結局吐き気が収まるまで我慢するしかなかった。そして今までの約10年、早苗は一度も吐いていない。
 今回もそう出来ると思った。
 背骨が勝手に逆反りになり、「けぇ」という声が喉から漏れる。
 まずい、まだ大丈夫かと思ったら急激に来た。
 早苗は反射的に、両手で口を押さえてしまい、
「ブハアっ!」
 結果、両手と顔面と服が犠牲になった。
「はあ、はあっ」
 大きく息をつく。
 喉は思っていたほど痛まなかったし、鼻にも少し何か入っているがあまり気にならない。年をとって鈍感になったのだ。そして服や体についた分は、泥でこすってやれば落ちる。そのぶん泥で汚れるが、早苗はもともと泥だらけなので問題ないのであった。
 胃の不快感だけが、いくぶんか和らいでいた。
 なんだ、吐いたらこんなに楽になるんだ。
 今まで吐くのを我慢してきたのは何だったのか。
「く、えぇぇぇっ、あぅ……」
 さらに数回に分けて、早苗は胃の内容物を全て吐き出した。空になった胃がきりきりと痛むので、そこに酒を注ぎこんだ。今度は何のひっかかりもなく喉を通りぬけていく。
「う、ふ、あはははっ」
 笑いたくなったから、早苗は笑った。
 突然笑い出すなんておかしな人のようだから、普段はとても出来ない。けど、実行してしまえばこんなに簡単なのだ。
 世の中には壁だらけだ、なんて言う人は沢山いた。けど、それはただ自分が壁があると思い込んでいるだけで、そんなのは越えなくても壊さなくても外に出られるのだ。

 鬼はいない。
 臆病な人間が自分を守るために、幻覚と妄想の壁で囲って築いたちっぽけな世界なんかには。

 早苗は立ち上がり、踊った。
 振り付けはでたらめだ。神事の際に行う、隅から隅まで鯱張った窮屈な舞ではない。ただ飲んで、手足と瓢箪と頭を振り回し、さらに飲むだけの原始的な行為。しかしそれは確かに神に通じる舞であり、鬼に通じる舞だ。今の早苗の手の中に、世界の全てがあるような感覚が起こった。

 今なら、鬼に届く。

 しかし、その境地は長くは続かなかった。
「う、えぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ」
 早苗は瓢箪を取り落とすと、そのまま極端な前傾姿勢になり、両手で胃のあたりを掻き毟りながら吐いた。飲んだほとんどそのままの液体が飛び出して、すぐに出なくなったが、早苗の咽頭は壊れたように往復運動している。
 眩しい。曇りなのに。瞼を瞑っても駄目だ。手で顔を覆った。今度は耳鳴りがする。耳を塞ぎたい。手が二本では足りない。
 がつん、と、頭部に衝撃。
 壁にぶつかったか いや、壁なんてない 地面か いつの間に倒れたのだろう 瓢箪は? お酒、飲みたい 瓢箪どこだろう。
 それっきり、早苗の意識はぷっつりと途切れた。



 見た夢は、鬼が月を砕くというものだった。童の姿をした例の鬼が、天蓋にある月をバラバラに砕く。早苗はそれを見て拍手喝采し、鬼はちょっと照れ臭そうに笑った。



 遠く、お祭り騒ぎが聞こえてくる。
 眩しくない。
 今は。
「夜? ここは……」
「あ、気がついたね。今は夕方だよ、早苗ちゃん」
 早苗の声に答えて、神社のもう一柱の祭神である洩矢諏訪子が、仰向けに寝る早苗の顔を覗きこんできた。
 身体の感覚が戻ってくる。地面は硬い。手触りからして、ビニールのシートの上に寝かされているらしい。
「私、何を?」
「ボロボロで倒れてた。凄い力の奴と戦ったみたいだけど、そいつがもういないってことは、早苗ちゃんが倒したんだろうねえ」
 よくがんばりました、と、頭を撫でられる感触。
 記憶がだんだんと蘇ってくる。
 凄い力の奴。確かに、それはもう未体験の強さだった。
 「倒した」とは到底言いがたい。あの行為は、ただの拒絶だ。こちらから喧嘩を売った分際で、勝手に拗ねて絶交してしまったようなものだ。
 そして倒れていた理由は、勝負で力尽きたからではない。その後に飲んだ酒が原因だ。今にして思えばあの症状、どう考えてもただの急性アルコール中毒である。しかもその前に気分が良くなって少しばかり馬鹿な事をやった気がする。
 思い起こせば恥ずかしい。かあっと頬が紅潮していく。諏訪子は気付かず続けた。
「傷は大丈夫だよね。河童と天狗のみんなに貰った薬を飲ませたから。と、そうだそうだ。みんな、早苗ちゃんが起きたよー!」
 諏訪子が後ろを向いて声を上げる。早苗が上体を起こすと、確かにそこには天狗と河童の集団がいた。
 いた、のだが。
「おーい、そっち酒あるかー?」
「な、テメエ、何で勝手にこっちの酒持ってくんだよ!」
「今から向こうで大天狗二名による飲み比べが始まるから、酒が沢山要るんだよ」
「余計悪い! ンなモン酒無しで見れるかってんだ」
「ああ、だから酒を集めてるんだ」
「貴様やるッてンなら相手になるぞ……」
 ぶっちゃけて言えば、そこは宴会場以外の何物でもなかった。
 テーブルや椅子の代わりに使われているのは、神社の持ち物であるベニヤ板やビールケースだ。ついでにバーベキューセットも、こちらと向こうで共通に使える数少ない燃料である木炭をくべられ大活躍している。外での八坂神社は地区の寄り合い場所の一つであったので、こういったものが常備されているのだ。「こんなに美味しくビールが飲めるなんて、外の人間の科学力おそるべし!」と、以前ある河童が大絶賛していた。どさくさで持ってきてしまったが、外のお爺ちゃんたちは大層困っているのではあるまいか。
 まだ乾ききっていない地面の上で、天狗も河童も靴を泥だらけにしながら大騒ぎしている。諏訪子の呼び掛けに応える者は誰一人なかった。
「諏訪子様、このありさまは一体」
「早苗ちゃんの看病のために天狗と河童を呼んだらね、なんか次から次へとやってきて、自然とこんな感じになっちゃったの」
 早苗ちゃんの人徳だよねえ、うんうん、と、我が事のように誇らしげにする諏訪子であった。悪びれた様子は全く無い。
「人徳ってそんな、みんな勝手に集まっただけじゃないですか」
「けど、ここにいるみんなは早苗ちゃんを中心に萃まっているんだよ。それは間違いないの」
 そんなのは判断のしようがない気がするのだが、諏訪子はやけに強く断言した。
 萃まる。萃まるといえば。
 早苗はさらに記憶を、戦闘の最中にまで遡った。あの鬼が能力を使って為したと思しき事は多岐に渡るが、共通するキーワードは「萃める」ではないか。霧に散ったり萃まったりする、土くれを萃めて岩塊を作る、などなど。だとしたら、人や妖怪を萃める事も出来るのではないか。
 しかし、この宴会を萃めたのは早苗だという。
 鬼が消滅した後に早苗がした行為は、客観的に見ればただ酒を飲んで暴れた挙句に急性アル中でぶっ倒れただけの事である。しかしあの中で、本当に鬼の何かに触れたとしたら。
 うっかり萃める力を早苗が使えてしまったのだとしたら。
 それは、なかなかに楽しい想像である。
「そうだ諏訪子様、神奈子様は今どちらに?」
「えーと、それがねぇ」
 なぜかばつが悪そうに、諏訪子は指だけである方向を指した。
 そこにはここと同じようにブルーシートが敷かれていて。
「うぅー、おかしい! わたしがこの程度でつぶれるなんて、ぜったいおかしい!」
「八坂さん、立てないからってそんな大声でわめかないで下せえよ」
「うがー叫んだらあたまに響いたー、ぐぅ」
 早苗は立ち上がった。
「あ、早苗ちゃん、もう大丈夫なんだ?」
「ええ、お陰様で。ちょっと向こう行ってきますね」
 言って、ふわりと神奈子のシートに飛び移った。
「大変でしたね、八坂様」
 早苗はあの激戦を指して言ったつもりだったのだが、返ってきた言葉はとんちんかんなものだった。
「いや、そんな大変ってほど飲んでないんだよ。なんか騒がしいから出てきて飲みはじめたはいいんだけど、いや、そこからあんま覚えてないな。何してたんだ私」
 ふむ、話が通じない。どうしたもんか。と、早苗が宴会場をぐるりと見回してみて。
 早苗は、それを見つけた。
「八坂様、あれは何ですか?」
「ん、あいつ? あいつはほら、宴会にはいつも居ただろ。名前はそう、何だったかな。いや、覚えてるはずなんだ、えっと」
 二人の目線の先にいるそれは、普通に宴会に混じって、普通に馬鹿騒ぎをしていた。
「んふふふふ、すいかさぁーん、わたしあなたの弱点しってるんですよぉー」
「やめてー、そ・こ・は・ら・めぇーーーーーー」
 片方は見知った天狗の射命丸文。そしてもう片方は。
 組んずほぐれつの中で、自分の方を見ている顔に気付いたようだ。
 にかっ、と、笑みをよこした。
「早苗ぇ?」
 神奈子の呼び掛けには応えず。
 早苗もまた、まっすぐな眼差しで、その鬼を見た。

 さて、どうしよう。
 今度こそ、決着を付けようか。
 勝負は飲み比べがいいだろうか。
 多分、勝つのは無理だ。さっきみたいに、相手にすらならないだろう。
 それでも、今度こそ一矢報いてやる事はできないだろうか。

 何にせよ。

 今宵のお酒は、一味違いそうだ。
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コメント



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2.70名前が無い程度の能力削除
鬼怖い鬼怖い鬼怖い
やはし圧倒的で絶対的な力の差ってのは如何ともし難い物だと思うのですはい
12.80名前が無い程度の能力削除
途中の萃香がどう考えてもホラー。巨大化しなかっただけいいか。
飛び道具が効かない六里霧中とか考えたくない。
ピーターパンの「「妖精なんかいない」と誰かが言う度に、どこかで妖精が一人倒れて死ぬ」というくだりを思い出しました。
24.90名前が無い程度の能力削除
否定すれば鬼という幻想は霧消し、求めれば彼らは人間の側で酒を呑んでいる。切っても切り離せない関係というのが、そこはかとなく伝わってくるお話でした。