四季は巡り雪解けの季節が再び古都に訪れる。
翁が文に別れを告げたあの日から一年が経とうとしていた。
「よいしょ」
商家の店先に暖簾を掛ける少女、十五になる文である。
まだまだ幼さが残る顔つきだが、一年前に比べるといくらか艶を増した様に見受けられた。
商家での勤めは順風と言えた。
愛嬌があるが、どこか不思議な雰囲気がある美貌は評判となり、今や商家の看板娘と言って差し支えない。
また、そもそもが修験道を修めたという触れ込みであり、狼藉を働いた牢人衆五、六人をその細腕でもって叩き伏せた時など、商家の旦那をして驚嘆させたものである。
腕が立ち、しかも利発な文は商家にとって重宝する存在であった。
特に旦那は、何も知らぬ者が見れば贔屓と感じる程に文の事を気に入っており、近く、旦那の長兄と文の間で祝言が執り行われると女中達が噂する程である。
文は一年を振り返る。
思えば長い一年だったと思う。
山を去る際に、後ろを振り向かないと文は決意した。しかし、そう簡単なものではない。
商家に来て暫くは毎日のように枕を濡らした。
文にとって幸運だったのは、商家の皆が気の良い人間ばかりだった事であろう。
人としての常識に少々欠ける所がある文を、商家の皆は実に優しく受け入れてくれた。
それ故に、数ヶ月も経つと気持ちの整理も終わり、人として幸せを掴むことをはっきり決意できるまでに気持ちを切り替える事ができた。
しかし――
ぱたぱた。音を立てて暖簾が風に煽られる。
――この様な風の強い日には思い出してしまう。
山で過ごした十五年を。老天狗の笑顔を。
過去の事にすると決意はしたが、やはり心の中は簡単に割り切れる物ではないらしい。
きっと、山に置いてきた心は一生そのままなのだろうなと思い文は苦笑した。
嬉しいような、悲しいような笑いであった。
「――ちゃん。文ちゃん」
己を呼ぶ声に、はっと思い出より帰った文は、声の主の方へ振り向いた。
「いや、心ここに在らずって感じだったから、どうしたのかなって思ってね」
にこにこ顔の若い男は、商家の番台である。
「あ……ごめんなさい。少し昔の事を思い出して……」
「そうか……もう一年だもんな。俺も時々親元を思い出して、切なくなる事がある」
そう言って番台は哀愁を含んだ笑顔を見せた。
仕事に戻った文と番台は、ばたばたと数人の足軽が通りを走り去って行くのを見た。
「騒がしいねえ」
番台は呟く。
「文ちゃん知ってるかい。これは噂だけど近くこの街が攻め込まれるかも知れないんだって。
まあ、今まで何度もこの街は戦の舞台になっているし、今更珍しい事でもないんだが。
でも、やっぱり物騒なのはいやだねえ」
番台の言葉を聞いた文はふと空を見上げた。
風が強い為に駆け足で流れる雲は灰色がかった紫色。その不吉な光景は、これから古都に訪れる混乱を予見しているようであった。
***
翁は庵で静かに瓦版を呼んでいる。
元は閑静な一人暮らしの為の造りであり、本来の姿に戻ったと言う事も出来るのだが、文のいない庵は余りに広く、余りに静か過ぎると翁は思った。
寂しさを紛らわすように瓦版を捲る。
何処何処の城が落ちたとか、あの大名麾下の誰誰が裏切ったとか乱世の様相が事細かに綴られている。
翁はその中である記事を見て目を見開いた。
瓦版を閉じると、翁は目を瞑り精神を集中させた。
千里眼の術を使おうとしているのだ。古都の上空を舞う鳶。翁はそれの目を借りる。
映った光景は大人数の足軽と所々で家屋が燃え、煙がもくもくと立ち上る古都の光景であった。
居ても立ってもいられなくなった翁は、外に飛び出すと大空に飛び立った。その進路は古都である。
***
侵攻は余りに電撃的であった。
文と番台が言葉を交わした僅か半日後、古都の支配者は完全に入れ替わったのである。
そして、今、文は追われる身である。
雑兵相手に大立ち回りを演じたのが悪かった。
文は体に風を纏い通りを疾走する。
今の古都では心無い一部の足軽達によって略奪が行われている。
財産を手早くまとめ古都の南にある商都の支店に逃げようとした商家の一行で在ったが、運悪く倫理に欠けた足軽達に絡まれてしまったのだ。
文はその足軽達を叩き伏せると、旦那と商都での再会を誓い、囮の役目を買って出たのだ。
そして、見事旦那が古都を脱出できる時間を稼いだ見せたのである。
しかし、余りに派手に暴れた為、多くの足軽が文を知る事になった。彼らは文の事を血眼になって探しているのだ。
そして今に至る。
走る文の眼前に足軽の集団が見えた。その数十人。
隊長格らしい大男が大声を上げると、十本の槍が文の方を向く。
文は意を決すると勢いそのままに集団に突進した。
最も手前にいた男を体当たりで吹き飛ばすと、流れるような動作で隣の男の喉に高下駄をめり込ませる。
「ぐえ!」
蛙の潰れた様な呻きがしたが、文の意識は既にそこにはない。後ろの殺気に文は集中する。
背後の男が放った横薙ぎを文は転がり込むようにしてかわし、そのまま足を絡ませた。
男は平衡を保てず背中から転倒する。
文は素早く立ち上がると、倒れたままの男の、未だ状況を把握できていない様な顔面を逡巡無く踏み抜いた。
頬骨が砕ける感触。思わず耳を塞ぎたくなる様な音が響いた。
しかし、文は止まらない。踏み抜いた勢いで、文は隊長格の男目指し加速を開始する。
「おりゃあ!」
隊長格が怒号と共に放った裂帛の突きは虚しく空を裂いた。
地を舐める程の低さを以って文はそれを回避したのである。
低さを保ったまま文は隊長格に肉薄した。
紡ぐ真言。掌を重ね合わせる。
瞬間、隊長格の巨体が宙を舞った。
天狗烈風弾――風を凝縮し生成された空気弾を目標に放つ攻撃的な天狗の秘術である。
文の最も得意とする術であった。
翁が太鼓判を押したその破壊力は、全力なら家屋一軒を崩壊させ得る。
十分に手加減がされていたとは言え、至近距離での直撃を受けたのである。
隊長格は向かいの建物まで吹き飛び、頭から木製の壁にめり込んだ。そのままぴくりとも動かない。
死んではいないと思うが、白目を剥いて失神している様が容易に想像できた。
その様を見て、残った六人の足軽達は顔を見合わせる。
動揺がありありと見て取れるが、それでも槍は文の方を向いていた。
未だ交戦の意思あり。それを知った文は思わず舌打ちした。
圧倒的な力の差を見せ付けられたのだ、並の兵士なら、これは敵わぬと尻尾を巻いて逃げるが普通であろう。
しかし、そうしないあたり、彼らも幾度の修羅場を潜ってきた精鋭であるという事か。
鋒を文に向けじわじわと距離を詰める足軽達。文も何時でも飛び掛かれる様に構えを取る。
その時であった。
「待てい!」
通りに響く大声。文も足軽も音の発生源に視線を向ける。
二つの人影。
一人は初老の武人であった。豪奢な鎧兜から身分の高さが伺える。先の声は彼のものであるらしかった。
あと一人は長い黒髪の若い女性である。
距離があるため顔の細部まで判断が付かなかったが、それでも相当な美人である事が伺われた。
「異な術を扱うもの者ありとの報せで駆けつけたが……」
武人がジロリと文を睨付ける。
「想像以上の面妖さよ」
武人の顔からは忌々しさがはっきりと感じ取れる。いつの間にかせず腰刀に伸びていた右手を見るに敵意は明らかであった。
文は新たな戦闘を予見して体勢を整える。
あからさまに向けられた抜き身の殺気に、更に顔を顰めた武人であったが、次に口にした言葉は文にとって少々意外なものであった。
「下がれ!」
文に対してでは無い。足軽達に向けられた言葉であった。
足軽達にとっても意外な言葉であった様で、若干の困惑が感じ取れた。
「いやぁ、しかしこいつには仲間が四人もやられてるんですぜ。隊長だってこいつにやられちまった」
足軽の一人が抗議の声を上げる。
「下がれと言った。聞こえなかったのか? ……どの道、貴様ら雑兵が束になった所で勝算ある相手ではあるまい」
武人は断固として言い放つ。
足軽達は納得できてはいない表情だが、渋々槍を収め文から距離から取った。
(このまま逃がしてくれるといいんだけれど)
文としては町からの脱出が至上命題である。見逃してくれるのであれば展開として最良と言えた。
(でも、そうは行きそうにないわね……)
今まで武人の横で静かに微笑んでいた女が一歩前へ出たのだ。
「先生。お願いします」
「任せておいて。化け物の調伏は得意とする所よ」
武人と言葉を交わすと更に女は歩を進める。
掴み所が無い微笑みを浮かべているが、その緊張感の無さとは裏腹に、女が一歩近づく度に周りの空気が変化するのを文は感じていた。
空気の密度が増した様に思った。肺が圧迫される。この女にはそれだけの重圧があった。
程なくして女は文と正対する形で足を止めた。距離にして約五間。
遠くで見たときはよく分からなかったが、ここまで近づくと造形の完璧さが際立った。
不自然なまでに美しく、不自然なまでに完全、もはや人とは思えぬ程。傾城という言葉が文の頭を過ぎった。
「よろしくね、お嬢さん」
くすりと女が笑う。
「……ええ」
蛇に睨まれた蛙の心境とはこの様なものなのだろうか。すでに文は女に圧倒されていた。
呼吸は乱れ、心拍が制御できない。
冷や汗が頬を伝う。
心が折られそうになるのを必死で押さえ、なけなしの闘志を飛ばす。
「ふふ。緊張しているのかしら?天狗のお弟子さん」
「……!?」
文の顔に動揺が広がる。
「何故知ってる?って顔してるわね。分かるわよ。さっき“風”を使ったでしょ。あんなのを使うのは天狗しかいないわ。あんな下品な技」
「……今、なんて言った?」
キッと睨みつける文を他所に女は更に言葉を紡ぐ。
「大体馬鹿なのよ天狗って。知的に振舞っているつもりかもしれないけど、その実、力押しばっかりじゃない。
でもそれに気付くことも無い。正しい意味での知性が欠如しているのよ、天狗って種族は」
一々癇に障る話し方であった。露骨なまでの挑発である。
それが分からない文ではない。しかし文は腸が熱くなるのを感じていた。
「人を攫って剣術を教えて、お師匠様って崇められて図に乗ってみたり、
田舎で暴れまわって、山神様だ風神様だって畏れられて踏ん反ったりしてる井の中の蛙よ。笑っちゃうわね」
文は微かに鉄の味を感じた。無意識に唇を噛んでいたらしい。
尚も女は言葉を続ける。
「同情するわ、傲慢な天狗の弟子なんて。顔を見なくても分かるわ、あなたのお師匠もさぞ卑しい天狗だったんでしょうね。本当に可哀そ――」
「黙れ!」
怒号。
文は限界であった。自分を育ててくれた天狗達がここまで馬鹿され、あまつさえ親に等しき翁まで侮辱された。
ここで怒らずしていつ怒るというのか!
「あんたはぶっ飛ばす!ぶっ飛ばしてやる!」
文は怒りに任せ更にまくし立てる。
「泣き叫びながら許しを請うようになるまで痛めつけてやる!
そして地面にめり込むほどの土下座をさせて先の発言を訂正させてやる!」
文の怒りに呼応するように風が激しく舞った。
文は己が挑発に乗せられたことを理解している。
故に現在、頭に血が上っている事を自覚している。
そのために、いくらか冷静さを欠いている事も了承している。
全て織り込み済みである。何と言っても、もはや少々の理性の欠如など些細な問題に過ぎないのだから。
心に炎が点る。
今の文を支配するは剥き出しの闘志である。
そこには女の重圧に苦しげに息をついていた、かつての文はいない。
威圧するように女に視線を向ける。
「ふふ。いい目じゃない。少しは楽しませてくれるかしら!」
女の言葉の終止が合図であった。
刹那。二つの影が交差した。
人間離れした速度で上下左右と動き回る二人の異能。
傍から見る限り両者の攻防は互角に見えた。
文が旋風を召喚すれば、女は結界を以て応え。
女が飛ばした破魔札を文は烈風弾で相殺した。
一進一退、膠着の様相。
しかし、一つの失策で脆くも崩れさる、危うき均衡。
この緊張に耐えられなくなれば、すなわち敗北が待っている。
しかし、この緊迫した場面において文の目には自信が宿っていた。
それと言うのも主導権を握っているのは己であるという確信があったからである。
格という点で言えば女が数枚は上であった。
しかし、この現状。
女がいくら攻勢に出ようと拮抗が保たれるばかりではないか!
格が劣る者に想像以上の苦戦を強いられる事への不満が焦りに変わる。
そこに文の付け入る隙があった。
また、文に対する評価を誤った事も女の立場を不利にしていた。
そもそも、女が文を挑発したのは殆ど気紛れからであった。
萎縮した人間の闘争は勇気を欠く。
激昂した人間の闘争は思慮を欠く。
なら、楽しい闘争は後者であろう。それが女の考えであった。
しかし、どうだろうか?
文の闘争は思慮を欠いたか?
否である。
むしろ、昂ぶれば昂ぶる程に狡猾さを増すのが文の闘争であった。
打算的で抜け目の無い天狗道の具現であった。
文は顔に出た感情を隠そうともしない、それ故に女はこの状況を想像もできなかった。
天秤の振れが僅かずつ大きくなるのを両者は感じていた。
文は考える。
この均衡を維持できれば、いずれこの女は大きな失敗を犯す。
その考えはそう間違っていない様に思えた。
すでに女の放つ術に開戦当初の精度はない。
王手を狙う文がとった戦略は女の神経を磨耗させる事であった。
すばしこく女の周りを駆け風を撒き散らす。破壊力を抑えた分、数を用意した。
数十の烈風弾が女を囲み、加速する。
女は真言を唱えるも、結界の発動に至らなかった。
烈風弾が女に殺到する。撹乱の為の弾とは言え直撃すれば衝撃は相当なものである。女の体が宙を舞う。
文からすれば意外な結果であった。その表情が物語る。
しかし、ついに手にした好機、逃す道理はあるまい。
(一撃を決める!)
文の右手に風が宿る。照準は女の落下予測地点。落下と同時に特大の烈風弾を撃ち込む用意が整った。
しかし――
違和感。本能が鳴らす警鐘。
文の脳味噌が凄まじい速度で回転する。
(何故あの時あいつは私の攻撃を防ごうとしなかった? 防げなかった? いや、そんなことは無いはず。
ならあの詠唱は何だ? そして何故あいつは今も言葉を紡いでいる!)
実際は数瞬の出来事のはずだが、ずいぶんとゆっくりに感じた。
ここでの判断を誤ると取り返しが付かなくなると本能が叫んでいるのだ。
落ち行く女と目が合う。
(笑っている!)
文は確信させられた。体を捻り右に跳ぶ。
左目の視界。つい一瞬前の自分の立ち位置でそれが蒼く揺らめく。
「狐火!?」
文はそれが何であるか知っていた。犬走が、哨戒時に慰み半分に使った事があるのを覚えていたのだ。
天狗が扱う天狗火とよく似てはいるが、色も術式も異なる妖術。
しかし、文の知る狐火とは蒼く儚く揺れる熱無き炎であった。
だが、これは……
文の着地と同じくして狐火が地に触れる。
炎の蒼が黒の煙に呑まれたかと思うとすでに炎は無く、代わりにぽっかりと穴があいた。
その表面は硝子質。すなわち大地を蒸発させる程の焦熱。
もし直撃していたなら……
文は背中に冷たいものが走るのを感じていた。恐怖に余裕が奪われる。
奇襲の一手に失敗した女は残念そうな顔をしている様な気がした。
尤も、落下した瞬間で、顔が見えないので本当かどうかは分からない。
文に確認している余裕は無かった。
風を貯めていた右手を女に向ける。
着地の態勢が不安定だったため右方向に体が倒れつつあったが、それを気にする余裕もなかった。
(早く終わらさないと!)
文の精神は一種の恐慌状態と言えた。
もはや手加減の様な器用な真似は出来そうに無い。
そして――
完全に体が倒れようとするその刹那、
「恨まないでね!」
文は女に向けて特大の烈風弾を躊躇無く撃ちはなった。
轟く爆音。
直撃すれば絶命は免れないそれが女を呑み込んだ。真っ赤な液体が飛び散る。
文は己が自制無しの一撃が女を砕くのを見た。
完膚無くまで砕いたのを見た。
頭蓋を原形留めぬまで破壊されて、それでも命ある人間など存在する筈がない。
(ああ……死んだな……。)
錯乱状態にあるはずの脳裏に浮かんだ言葉は不気味なまでに冷静だった。
どさりと音を立てて文の体が完全に倒れる。
受身に微塵も気を回していなかった為、想像以上の衝撃が体を揺らす。
しかし痛みは感じない。
文は自らの精神が極度の興奮状態に曝されていた事を改めて知った。
「はあ……はあ……」
じわじわと文の右腕に痛みが戻る、折れてはいない様だが酷く内出血しているらしい。
徐々に大きくなる痛みに顔を歪めるが、痛みと同時に冷静さも取り戻しつつあった。
右腕を擦りながら文は己が行為を振り返る。
……人死にをしてしまった。
不思議と罪悪感は沸いて来なかった。
決闘の興奮がそうさせたのか、はたまた、天狗と長く暮らした為に人間味が育たなかった為か。
きっと後者か両方だろうと文は思った。
今の感情を言い表すなら“ほっとした”というのが最も近い。
人一人殺しておいて、ほっとしたとは何と薄情な事だろうか。文はここで始めて自己嫌悪した。
しかし、感傷に浸っている暇は無い。
「……逃げないと」
そう、文は今、逃走の真っ最中なのだ。
先の女を連れてきた武人と足軽の姿が見える。ずいぶん遠い。
武人は腕組みをしたまま微動だにしない。
何故あんなに余裕なのか? 文が疑問に思った正にその時であった。
「さっきの攻撃、悪くなかったわよ」
後ろから声がした。
それは先の女の声であった。死んだはずのあの女の声に間違いがなかったのだ。
(何故? 確かに殺した。死体もある!)
叫んだつもりだった。しかし声が出ない。
状況を理解できないのだ。女の死を否定できる要素はないはずである。
しかし、それなら、この風が萎縮する程の重圧は何だと言うのだろうか。
文は再び恐怖に絡め捕られていた。体が竦んで動かない。
「私はね、格下相手には出来るだけ手の内を見せずに闘うようにしているの。
でも、あなたは二つも私の切り札を使わせたんだから、大した物よ。あの世で誇っていいわ」
女の言葉は楽しそうであったが、その芯にある冷酷さが透けて見えるような声色であった。
「何故私が生きているか不思議よね。教えてあげるわ。二番目の切り札よ」
女の死骸が蒸発するように消失する。それこそ血の一滴も残さずに。
(幻……影?)
文は知った。己が撃ち抜いたのは女の虚像であったのだ。脱力感が襲う。
「最期は楽に終わらせてあげるわ。お姉さんからの優しさよ」
背後で女が呪文を紡ぐのが聞こえる。狐火だ。文には分かった。
消し炭と化した己の姿を幻視する。
(嫌だ。そんなの嫌だ!)
声にならない声で叫ぶ。
(焼け死にたくない! 嫌だ、死にたくないよ! 助けて誰か! 私を助けて!)
走馬灯が走る。脳裏に再生されるは山の生活、老烏天狗の笑顔。
(爺様……爺様……文を助けてください。お願いします文を助けてください。)
ああ、なんと都合のいい願いだろうか。袂を分かった二人。もはや天狗とは無関係の人の身であるのに。
それでも願わずにいられなかった。
最も敬愛する老天狗の助けを少女は死の瞬間まで信じ続けるのだ!
「お待たせ。じゃあ受け取りなさい」
無情にも女が宣言する。文の背後に迫る圧倒的な蒼い熱量。
女の唇が綻んだのは文の死を確信したからである。
――しかし!
一陣の風。
勢いよく文の体が宙に浮く。
標的を失った狐火は大地を焦がして消滅した。
地上五間の高さで文の衣をつかむ鉤爪。少女一人吊り下げながらも悠然と飛行する巨躯。
「カー」
ああ、なんと懐かしい鳴き声だろうか。
懐かしき大ガラスが向かうは六尺五寸の人影。それが誰かは文が一番分かっている。
「文……怖かったじゃろう」
最も聞きたかった声。最も会いたかった姿。
「ワシが来たからには安心せい」
ああ、奇跡が成ったのだ。もはや見ることはないと思っていた皺だらけの顔。
地上に降り立った文は零れる涙を拭う事もせず、その大木の様な体をぎゅっと抱きしめた。
「じいさま……会いたかった。会いたかった!」
大粒の涙をぼろぼろ流す文の頭にそっと射命丸の翁は右手を置いた。
「これ、そんなに泣くでない。可愛い顔が台無しじゃ」
そのままくしゃくしゃと文の頭を撫でる。
「しかし……分かっておる、おぬしの頑張りはの。ワシも嬉しいぞ」
穏やかに微笑んでいた翁であるが、突如その眼光を鋭い物にすると、ぎろりと女を睨んだ。
「文に害為す輩は貴様じゃな。覚悟せい!」
「……天狗」
女からすれば、この状況は想定に無いものである。
「何? 弟子の危機にお師匠様が助けに来ましたって? 何の心算か知らないけれど、胸糞悪いわ」
吐き捨てる様に女は言った。
「天狗なら天狗らしくしてなさいよ。あなたみたいなの何て言うか知ってる? 偽善者って言うのよ」
女の言は毒々しい。しかし当の翁は涼しい顔である。
「ふん。愛しき家族の危急に駆けつけ、問答無用の暴虐を以って害為す者を葬り去る。
これ程に天狗らしい行いもあるまいて」
翁は軽蔑するように言い放った。
「それよりもじゃ、貴様――“その格好”でよいのか?
ワシは貴様もその仲間も一等嫌いじゃが、それでも、これから共に闘争に身を窶す関係、ほんの少しばかりの慈悲を与えてやろうというのじゃ」
「はん! 何を言ってるのか解らないわ」
小馬鹿にしたように肩を竦める女。それに対して翁は無言で右手の団扇を振るった。
瞬間、自然界では決してあり得ぬ猛烈な突風が通りを襲ったのである。
木材の破砕音。突風は女を掠める様に吹き荒び、向かいに建っていた小屋を只の瓦礫の山に変えた。
女は木片が散乱する小屋跡を横目に見て、冷や汗がぶわっと溢れるのを感じた。
「貴様は上手く誤魔化している心算かもしれんが、天狗の目に隠し立ては通じぬと心得よ。
改めて聞くぞ。――その格好で良いのか?」
高圧的に女に告げる翁。
女は翁の態度にあからさまな嫌悪を向ける。しかし、感情の昂ぶりを抑え、冷静に現状を把握するだけの知性を女は備えていた。
正直な話、女は天狗を嘗めていた。
女の生まれ育ちは大陸であり、辺境の島国で胡坐をかいている妖怪など取るに足らぬ存在だと思っていたのだ。
しかし、その力の一端を垣間見て、意気揚々と海を渡ったあの頃の余裕は保てそうに無かった。
全力を出すも已む無し。女は覚悟を決めた。
「非常に不愉快ではあるけれど、あなたの言う事が正鵠を射ているわ。だから次の一手を打たせてもらうわね」
女は袖から四枚の札を取り出した。
「考えてみればこれは好機よね。天狗なんて大妖怪を調伏したなら、私の名声もぐっと上がるわ。
私を悪く言う輩も黙らせる事が出来る。だから……全力であなたを屠るわ」
女は右の五指に挟んでいた札を投擲する。それはそれぞれ通りの前後左右の端に着弾した。
四つの札を結ぶと大きな四角形となる。そして次の瞬間札が燃え尽き。それぞれが黒紫色の壁で結ばれた。
結界である。
物理的に視覚的に外界から隔離された黒紫色の立方体。その中にいるのは翁と女、そして文と大ガラスであった。
「今からの出来事は人間に見られると良くないの。だから結界を張らせてもらったわ。
どうかしら。簡易結界ではあるけれど、切り札に使うための特製だから、強度はそんじょそこらの結界とは比べ物にならないわよ。
……あら、お嬢さんもいたのね。残念、生きては出られないわ」
女は冷酷な笑みを浮かべる。翁の一撃を見たその時に比べると随分と自信に満ち溢れている様に見えた。
「爺様……怖い」
「大丈夫じゃ。ワシがあれを退治する。そうすれば問題なく出られる」
文は翁に縋り付く。それに翁は穏やかな笑顔で応えた。
「あははははは!」
その様子を見て女は可笑しそうに嗤った。結界内に乾いた笑い声が響く。
それは狂気であった。今の今まで心の内に隠してきたどす黒い感情が濁流となり溢れ出したのだ。
「馬鹿! 何言ってるの。そんな未来はない!
その天狗は自ら地雷を踏んだんだ。もう取り返しは付かないんだ。私との闘争を選んだ過去を恨みながら哀れに死ぬしかないんだ!」
女は先とは別人のように興奮しながら捲し立る。粗暴な口調は、もはや取り繕う事をしなくなった地の彼女である。
「ふん。人の目が無くなった途端に本性を現したか。やっぱり小物じゃの」
「調子に乗るなよ天狗。古来最強の妖怪は何だったか知らない訳ではないだろう。
いや、貴様らの事だから昔のことも捏造して、自分たちこそ最強と思い込んでるのかもしれないな。
その傲慢を打ち砕いてやる。遥か先祖の代に刻まれた恐怖を揺り起こしてやる!」
女が叫ぶ。途端その体が光に包まれた。
女の体が変化を始める。黒の長髪がはらりはらりと舞い落ち、現れたのは肩口まで伸びる眩い金の髪。
八重歯が強調された形の良い口元に、強気な瞳。
先程までの美貌からすると幾分か幼く、完全さは失われているが、それでも絶世の表現が相応しい美少女である。
そして、見る者を圧倒する腰より生えた巨大な尾。
金色が眩い滑らかな毛を持つそれは六つに分かれていた。尊き霊格の証である。
金毛六尾の妖狐。かつて三国に渡り暴威を振るった大妖怪と同じ血を継ぐ存在が降臨したのである。
丁度その頃。
突如現れた黒紫色の立方体に女や翁が閉じ込められるのを外から確認したのは、武人と、先に文と衝突した足軽たちである。
「うわあ。何ですかいあれは」
足軽の一人が目の前で起こった不可思議に驚きの声を上げる。
「結界だな。中に閉じ込める為か、それとも見られては不味い何かを隠すためか」
武人は少し思案すると、手近な足軽を呼びつけ、何か耳打ちをした。
「え? でも、それは――」
「貴様はあれを信用できると思うか? 殿は面白がっておられるが、私には災厄の種にしか見えん。
ああ、そんな顔をするな。案ずる様な事ではない。もしもの時の備えだ。
仮にも殿のお気に入り。証拠も無しに問答無用など私の権限ではない。
……そう、あくまで、もしもの時の備えなのだ」
「はあ……」
武人の伝言を託された足軽は、よくは理解できていない様子だが、ともかくその場を走り去った。
「さて……尻尾を出すかな?」
不気味に停滞し続ける立方体を見詰め、武人は呟いた。
「……妖狐」
結界の中に文の声が響く。狭く外界の音を遮断する構造のため小さな声でも良く通るのだ。
「そう。誰もが認める最強の妖獣。天狗なんかとは格が違うのさ」
「何を偉そうに。人に正体がばれるのが怖くて、わざわざこんな結界を張るような小心者の癖に」
翁と妖狐。互いに小馬鹿にするように言葉を交わす。
「五月蝿い。まだ正体を悟られる訳にはいかないんだ。
私は成り上がる。権力者に取り入り、いずれは裏から国を支配する存在になってみせる」
「ふん。狐らしい考えじゃ」
「白面金毛九尾は知っているだろう。彼女は最後は人に殺されるが、私ならもっと上手くやれる。その自信がある」
「尻尾が三本も足らぬ分際で白面金毛九尾を騙るな。反吐が出るわい」
「それはこっちの台詞だ。天狗風情が偉そうに」
結界の中に張り詰めていた険悪さが頂点に達する。
「まあいい。もうおしゃべりは十分だろう。老い耄れはそろそろ死んでいい頃だ」
「先に言っておく。ワシは狐狸の類には容赦ないぞ」
妖狐はその長く伸びた爪を威嚇するように突き出し、翁は団扇を構える。
「文。下がっておれ。出来るだけそちらへの攻撃は防ぐようにするが、流れ弾は何とか自分で防いでくれ。出来るの?」
「はい。爺様」
まだ目は赤く充血しているが、しっかりと返事した弟子に満足して、翁は妖狐を睨み付けた。
一触即発。後の先を取る為に水面下で激しく火花が散っているのだ。
その緊張感の中最初の動きは、翁が放つ烈風であったか、それとも妖狐の鋭利な鉤爪の一撃であったか。
いや、そのどちらでも無かったのだ。
それは、誰もが予想もしない形で発現した。
――めり。めり。
肉が裂ける様な異音。音が反響する結界内では一層生々しく感じられた。
妖狐と翁の間の空間に入る切れ目――スキマである。
八雲紫。突然の出現であった。
紫は開いたスキマの縁に両肘を付いており、外からは彼女の上半身のみが伺える。
「あら、丁度間に合ったみたいね」
くすくすと薄ら笑いを浮かべる紫。
「何だ、この年増は?」
「八雲様。今は真剣な勝負なのです。お戯れは控えていただけますよう」
妖狐も翁も突然の闖入者に怪訝な顔を向ける。
「あら、随分な言い草じゃない。遠いところから遥々やって来たっていうのに」
「スキマを繋げば距離など無いが如しではないですか」
翁の物言いに子供の様に唇を尖らす紫。対する翁は呆れたような表情である。
「おい貴様。私の結界に無断に立ち入るとは何の心算だ。事によっては酷いぞ」
妖狐は鋭い犬歯を剥き出しにし紫に敵意を向ける、その妖狐を紫は値踏みする様に見ている。
「ふーん。悪くないじゃない。面白そうだわ」
「貴様。私は何の心算だと聞いている。答えろ!」
堪忍袋が切れ掛かった妖狐の問いに、紫は目を合わす事で答えた。
全てを見透かすような瞳に見詰められて、妖狐は思わずそれから目を逸らす。
「そんなに吠えないの。私は珍しい見世物の噂を聞いたから見物に来ただけ。邪魔はしないわ」
「見世物だと……! くっ! まあいい、だがそこは邪魔だ。端に寄ってろ!」
己の真剣勝負を見世物扱いされたのだ。妖狐の矜持はそれを許し難い。
しかし、得体の知れないこの女に妖狐はある種の気持ち悪さを感じている。すなわち関わってはならないと。
当面の敵は天狗である。未知の存在に必要以上に首を突っ込む危うさを理解できる賢さを妖狐は備えていた。
「端にね。そうさせてもらうわ」
ふよふよと開いたスキマごと宙を移動する紫。
「八雲様。本当に見物だけですかな?」
紫が通り過ぎるのを横目に見ながら翁は訪ねた。
「その心算だけど。何か不服でもあるかしら?」
「いえ、安心いたしました。八雲様が敵に回らないと分かっただけで十分です」
「勿論その心算はないわ。どちらにも肩入れする程の理由は無いことだしね」
紫はそう言って翁の視界の後ろに消えた。
到着したのは大ガラスをぎゅっと抱きかかえる黒髪の少女の隣。
「あら、文ちゃんいたのね。お久しぶり」
平素の挨拶の様な口ぶりは、緊迫するこの場面に相応しくないと文は思ったが、八雲紫とはそういう人物であると何と無く了承していたから違和感は無かった。
「お久しゅうございます八雲様」
真面目ねえ。文の挨拶にそう呟いた紫はスキマからすとんと降り立つ。
紫が指を鳴らすと、一瞬でスキマは縫合され消え去った。
「きっと本人たちは意識なんてしてないでしょうけど……」
紫は文にゆっくりと語る。
「これは世紀の決戦だわ。それに立ち会えるなんて幸運な事よ。あなたもしっかり目に焼き付けなさい」
八雲紫は期待感でいっぱいであった。
往年の大烏天狗と金毛六尾の妖狐が激突しようというのだ。
雑魚天狗と木っ端化け狐の衝突程度ならちらほら見聞きするが、これ程に格の高い両者が牙を交えるというのは、正に盲亀の浮木、優曇華の花。
位の高い天狗は無闇に闘争に身を曝さらさないが故、尻尾が分かつ程の妖狐はその絶対数の少なさ故。
その両者が牙を交える事など、少なくとも紫の記憶ではここ何百年間で一度たりとも無かった。
「思わぬ邪魔が入ったが、そろそろ始めようか。
それとも興が醒めたとか言って逃げる? それでもいいよ、私が後ろから八つ裂きにするけどな」
「抜かせ。お主こそ尻尾巻いて逃げんで良いのか?」
再び睨み合う両者。想定外の間が空いた事により感情はすっかり冷えてしまっている。
しかし、それは闘争心の欠如を意味しない。
冷静な頭脳戦。天狗や妖狐が凡百の妖怪と一線を画すその理由が発現されようとしていた。
先に動いたのは妖狐である。一足飛びで翁に飛び掛かり強引に鉤爪を振り下ろす。
しかし翁は動かない。鉤爪が翁を唐竹に割ったように見えた、だが翁に傷は無い。
そう、妖狐得意の幻影である。翁の慧眼はそれが囮に過ぎぬ事を看破していたのだ。
本命は翁の死角に潜り込んだ妖狐が放った狐火。天狗相手にも致命傷が望める焦熱である。
それに対して翁は妖狐に目をくれる事も無く、右手で結んだ印をそちらの方向に向けただけであった。
瞬間、翁の人差し指から発せられる炎。
天狗火である。赤く揺らめくそれが狐火の蒼を呑み込み消滅した。
狐火の蒼が焦熱地獄の業火なら、天狗火の赤は紅蓮地獄の極寒である。
これには少し驚いて見せた妖狐であるが、ならばと十数の狐火を同時に生成し翁に一つ残らず撃ち放った。
それに対して翁は、ふんと鼻で笑うと団扇を大きく振るう。
突如として翁の周囲に出現した、猛烈な吹き降ろしが狐火の全てを大地に叩き落した。
先に見せた天狗火は言わば戯れ。天狗は風を使うが本分である。
しかし、次の瞬間翁の顔が歪んだ。はらりと数本の髪が舞う。
翁が風を起こした僅かな隙に、風の間隙を縫い妖狐が躍り懸かったのである。
何とか回避できはしたが、もし反応が少しでも遅れていれば頭蓋を持っていかれていた一撃であった。
翁が思う以上に、妖狐は機を物にする術に長けている。
風を纏い妖狐と距離を取った翁は、己の慢心を叱咤するのであった。
「……爺様」
翁の闘争を文は心配そうに見詰めている。
「八雲様。爺様は勝てるでしょうか?」
不安気な声で、文は境界の大妖怪に意見を求めた。
対する紫は薄ら笑いを浮かべたままである。文とは違い純粋に闘争を見て愉しんでいるのだろう。
「うーん。どうかしらね。一進一退って感じだし、どっちが勝ってもおかしくはないわね」
紫の現時点での正直な評価である。
妖狐は時折才能の鱗片を見せるものの、基本的には身体能力に頼った粗い闘争である。
しかしながら手数と勢いを以って、力で押し切れるだけの若さを持っていた。
一方の翁は、全盛期を知る者が見れば驚くほどに動きに精彩を欠き、強力な術を使うには体力が不足していた。
しかし、長年の経験により培われた機微。すなわち、最適の一手を打つ為に何十手という先を読む老獪さが肉体の衰えを補っている。
両者に共通しているのは、一撃で均衡を崩す攻撃力を保有していることである。
妖狐は全ての攻撃が致死的であり、翁は狙い済ました攻撃で致命傷を負わせる事が出来る。
決定打となる一撃を放つ為に両者は激しい手の内の探り合いを繰り広げている。
妖狐は現状に苛立っていた。先の惜しい一撃以降、翁に有効な攻撃を繰り出せないでいたからである。
その時以前の翁には驕りの様なものがはっきり見て取れたので、そこを突く事が出来た。
しかし、今の翁は十分な慎重さを以って闘争に臨んでいる。
その堅牢な守備を突き崩すには、従来の攻め手では不足である事が明らかであった。
大胆な戦略の転換が必要と判断した妖狐は、袖より一束の札を取り出すと其処ら中にばら撒き始めた。
一見乱雑に投げ捨てている様だが、着弾した札の位置を見て行くと、一定の法則に則った数学的配列がなされている事が分かる。
それぞれは幾らかの時間差を挟んで次々と光の壁を成した。
結界である。強固な作りではないため十秒もすれば消失してしまう仕様だが、妖狐にとってはそれで十分だった。
これは防御の為の結界ではない。翁を追い込み、狩る為の結界である。
結界によって翁が動ける空間を制限するのが狙いなのだ。
そうはさせぬと、より広い空間へ移動しようとする翁。
それを見て、妖狐は心の中でほくそ笑む。翁が動けば動くほど、その実、動ける空間が制限されていく。
妖狐の精緻な計算が弾き出した鬼謀なのだ。
妖狐は目の前の空間のある一点に移動し、攻撃の態勢を取った。
計算によると、程なくして翁がこの空間まで追い込まれて来る筈である。
果たして、翁は妖狐の読みどおりその空間に到達しようとしていた。
翁は己が誘導されている事に薄々気付いてはいたが、眼前で構える妖狐を見て忌々しげに右拳を握り締めた。
そして、ついに両者は邂逅する。妖狐は鉤爪を振り下ろし、翁は豪快な殴打を繰り出した。
先に攻撃が到達するのは翁の右腕の様に見えた。しかし、それは妖狐に至る事なく何かに遮られ勢いを失う。
拳がめり込むは光の壁。この瞬間この場所で結界が発動し、翁の拳はそれに防がれたのだ。
妖狐の狙いはこれであった。致命的な一瞬の隙。それを作る為にここまで手の込んだ手法を選択したのだ。
かくして妖狐の鉤爪が翁に迫る。
絶体絶命。もはや翁に起死回生の手は無いように思えた。
しかし、突如妖狐は体を捻り、絶対と思われた攻撃を中断したのだった。その表情は驚愕である。
その理由は結界に空いた小さな穴が物語ってくれた。
拳が結界に防がれた事を悟った翁は、拳より極小の烈風弾を作り、可能な限りの高圧で撃ち出したのである。
元々強度が十分でない結界である。烈風弾はそれをあっさり貫き、その先の妖狐を殺傷せんと直進した。
妖狐がその事に気付けたのは僥倖であった。
もしそのまま鉤爪を振るっていたなら、爪が翁の脳髄を抉る前に、妖狐の心臓が破壊されていたであろう。
(悪足掻きを!)
妖狐は憎憎しげに翁を見やる。しかし未だ妖狐にとって有利な状況が続いていた。
体を捻り、翁の奇手をかわした妖狐は翁の側面に回りこむ事に成功したのである。
一方の翁は妖狐の姿を見失ったかの様に、まったく見当違いな方を向いていた。
(間抜けめ! 止めだ!)
その肺臓を叩き破らんと妖狐は猛烈な回し蹴りを翁の胸に向けて放つ。
そして、妖狐の左足は確かにはっきり硬いものにめり込む感触を捉えた。
しかし、何かおかしい。
妖狐は違和感の正体を見る。そして先程以上に驚愕した。
己の左足が蹴り潰したもの、それは翁の胸郭などでは無かった。
風にあるまじき硬度を持った塊。それが形を歪めながらもがっちり妖狐の左足を受け止めていたのだ。
天狗の立風露――本来は宙に足場を作る為の術だが、翁はこの素晴らしい密度を誇る風塊を盾として使った。
翁は、先に妖狐が試みた事を、より完全な形で再現して見せたのである。
蹴りを中断させられた不安定な体勢の妖狐に対し翁は団扇を振るう。
途端、立風露は霧散し、風の牙となり妖狐の体に容赦なく突き刺さった。
何の対処も出来なかった妖狐は衝撃で何間も吹き飛ばされた。その衣には血が滲んでいる。
妖狐にとって幸いだったのは、当たり所が良く、出血量の割に重篤な傷とはならなかった事である。
しかし、翁にとってはそれで良かった。それなりの傷を負わせられれば十分であったのだ。
傷とはその大小に関わらず闘争を不利にさせる要素である。
傷と言うより痛みと言った方が適切かもしれない。
どれだけ気丈に振舞っても逃れ得る事の出来ない本能単位で刻まれた痛みに対する恐怖。
心の深層より囁くそれは、動作を躊躇させ、致命的な判断の遅れを引き起こす。
そして、さらに重要な要素は出血である。それは否応無く負の感情を呼び起こす。
それが恐慌か激昂かは傷を負った者の性格に因るところが大きいが、いずれにせよ冷静な闘争は難しくなる。
翁は主導権が完全に自分に移ったと判断し、勝負を決める為の一手を完成させる事にした。
翁は右手に風を貯め始める、かつて文も同じ判断をしたが、一撃で勝負を決める破壊力があり、術式も単純な特大烈風弾は止めの手段として正しい選択に思えた。
そして翁は左手の団扇で幾つもの烈風弾を形作ると、空中にばら撒き待機させる。
攻撃の為の弾では無い。先程の妖狐がそうした様な追い込む為の弾である。
翁は妖狐の出方を伺う。
ゆらりと起き上がった妖狐は目の焦点が合っていない様な不気味な顔をしていた。
しかし翁の姿を目に映すと、かっと眼を見開き、雄叫びを上げた。
びりびりと空気と震える。まるで妖狐としての知性を擲ってしまったかの様な野生の咆哮であったが、えも言われぬ力強さがあった。
そして、彼女はあろう事か翁に向かい一直線に駆け始めたのだ。
想定に無い行動に驚いた翁は、罠の為に張っていた烈風弾を妖狐に向かい撃ち出す。
しかし、構わず我武者羅に突っ込んでくる妖狐。
烈風弾が体を削るたび、血液が派手に飛び散る。
翁は思う。先程までの冷静な闘いは何だったのか?
血を見たことにより激昂し、本能で闘う獣に成り下がったとでも言うのだろうか?
翁は経験の少なさが彼女を自棄にさせたと判断した。
しかし、本当にそうなのだろうか?
そう判断するには彼女の目は余りにも静穏ではないか?
それに気付いた翁は己の判断の甘さを悟る。
流血で恐慌するは、あくまで人での話。
それが獣であるなら手負いこそ最も恐ろしい。
妖狐が一直線に突撃しているのは暴走ではない。
翁に至る道程に配置された烈風弾の全てを身に受けても、翁の元に到達し必殺の一撃を放つに十分であるという冷静な判断である。
極限の精神が導き出した、最も合理的で確実な戦略なのだ。
翁の脳裏で昔の映像が蘇ろうとしていた。若かりし頃、八雲紫に挑んだその時の記憶である。
己が完敗を認めた生涯唯一の闘争。何百という星霜によりすっかり失われてしまったと思っていた記憶が、今になって鮮明に姿を取り戻したのだ。
その理由を翁はよく理解していた。
(まるであの時の八雲様に生き写しじゃ……)
妖狐が見出した境地。その冷徹で計算高い闘争は八雲紫を彷彿とさせるに十分であった。
そして、それ故に翁は己の命運を悟る事ができた。
――ドン!
翁は腹部に強い衝撃を感じた。視線を下に落とすと血に濡れた鉤爪。
(そう……あの時もそうじゃった)
記憶の中で己の胸部に深く埋まった八雲紫の腕と、妖狐の腕が重なった。
ぐちゃりと臓器が潰れる感触。妖狐が翁の腹に刺さった右手の掌を握りしめたのだ。
翁の視力が失われ視界が黒く染まる。
(老いた……の……)
記憶の中の己は胸を腕に貫かれて尚笑っていたが、衰えた体にこの傷は大きすぎた。
翁は自嘲する。それに相応しい笑みを浮かべようとしたが、唇が動いてくれなかった。
妖狐は壮絶な笑顔を浮かべ腕を思いっきり引き抜いた。抉られ穴が空いた翁の腹からどろりと血液が流れ出す。
翁は妖狐の嬲りに力なく膝を付くことしか出来ない。その光を失い澱んでしまった瞳に映るのは確かな死の実感であっただろうか。
「爺様!」
文が叫ぶ。その左手は紫の手によってしっかり握られていた。
紫が翁の元に駆け寄ろうとするの文を制したのは、彼女が思わず垣間見せた優しさである。
「近づかない。一緒に死にたいの?」
「そんな! 爺様が死ぬはず無い!」
喚く文。とっさに制止してしまった紫は頭を抱える。彼女はそれなりに親交のあった妖怪の娘と言ってもいい存在である。
冷たく突き放すのは簡単だが、親と言うべきの存在の死に目を前にしたこの場面で、それをするのは流石の八雲紫でも憚られた。
「は……はは。勝ったぞ。天狗に勝ったぞ。何だ大したこと無いじゃないか」
がたがたと体が震える程に興奮を露にする妖狐。
血の匂いで満ちた結界内で三者は三様の表情を見せる。
しかし、その誰もが予想だにしないことが今、四人目の手によって起こされようとしていた。
翁の目は真っ黒である。かつての溌剌たる生命の輝きは無い。
だが、その夜の沼より冥い瞳の深淵のそのまた深淵。そこには確かに光があったのだ。
その光は本当に僅かで儚く、命あった頃の残滓ではないかと疑わねばならぬほど。
しかし、その光を更によく見れば、それは正しく燃え滾る命の炎であった。
未だ翁は存命なり。瞳の深奥の光は、最後に残った希望に他ならない。
翁は霞に飲まれそうになる意識を常人離れした精神力で奮い立たせる。
そして、もはや動かぬ筈の腕を強引に正面に向けた。腕は激しく震えているが、真っ直ぐに向けることが翁にとって肝要であった。
この腕には妖狐にぶつける筈だった風が充填されたままであるのだ。
あとは制御を解除するだけで発動できる。それは気持ち一つの問題だ。
翁の動きに気付いた妖狐は驚き、とっさに腕を振り上げた。
しかし、妖狐の止めの一撃が翁に振り下ろされる事は無かった。
「文……逃げるのじゃ……」
驚くほどに弱々しい声。しかし愛しい文に届くには十分な声。
翁の虚ろな瞳に一瞬光が戻る。爆音。翁の右手から生命を削った渾身の烈風弾が放たれた。
「ひっ!」
鼻先を掠めた烈風弾に妖狐は思わず尻餅をつく。
しかし、翁の狙いは妖狐ではない。その先の黒紫色の壁である。
翁渾身の一撃は、大きく太く重く、風で出来た破壊槌の呼び方が相応しい。
立方体の一面に突き刺さる途方も無い衝撃。結界の剛性は限界を迎え、その体に罅を入れた。
そこからは連鎖するように亀裂が広がり、ついには硝子板が割れる様に結界は粉々に砕け散った。
翁は思惑通りに事が運び安堵した。結界が無いこの状態なら、文はきっと逃げ切れるだろう。そう思ったのである。
結界があった土地に久方ぶりの日が差す。翁の霞んだ視界にも古都の日中の光景が映し出された。
ああ、しかし! 何と言うことだろうか!
翁は世界を、運命を恨んだ。
目の当たりにした現実はそれ程に非情であったのだ。
結界の外で、事の成り行きを見守っていた武人は、結界の崩壊を見届けると即座に状況を整理した。
蹲う天狗に、黒髪の少女。そして金の髪を持つ女性と、金の尻尾を持つ少女。
結界の中で何あったか、武人はそれには興味がない。
ただ、知りたかったのは一点。それが己の考えていた事と相違ないのを確認すると武人は憎憎しげに言い放った。
「……やはり化生の類であったか」
武人は右手を大きく上げる。
兵士たちがそれに反応して武器を構えた。
兵士の数は通りを埋めつくほどである。先程、足軽を伝令に向かわせたのはこの準備のためであった。
慣れた手つきで火縄に点火する兵士たち。
只の足軽集団でない。今ここに集結したのは百の種子島である。
この時代の最新兵器であり、人間が持ちうる最大の破壊力。
その筒先は一つ残らず結界があったその場所に向けられているのだ。
「至極残念であるが、我が家に取り入った退魔師の女は化生の身の上であった。
ならば、御家に忠誠を誓う我々は、彼女を処断せねばならない。一切の慈悲も不要。容赦なく鉛弾を撃ち込むのだ!」
朗々たる武人の演説に、兵士たちは指を引き金に掛ける。
――そして
「撃て!」
一斉に響いた乾いた破裂音。百の鉛弾が、文に翁に妖狐に紫に向かい殺到した。
結界内にいた者たちの中で最も状況を良く理解できる立場にある紫は、迫る銃弾を冷静に分析していた。
百の内、己に向かい直進する軌道は一割程度。
頭の端の方で、それぞれの精確な軌道変化や到達時間などを演算しながら、紫はスキマを開いた。
銃弾一つ一つに対応した、親指の先程度の小さなスキマである。程なくして銃弾は次々とそれに吸い込まれていくだろう。
かくして、八雲紫が存在するその空間まで到達できる銃弾は皆無である。
弾を防ぐだけなら、目の前に大きなスキマを一つ開けば事欠くのだが、敢えてそうしないのが大妖怪の遊び心である。
銃弾の対策が済んだ紫は、まず妖狐の行動を伺った。
妖狐は未だ尻餅を付いた状態であり、突然銃撃された今の状況がよく飲み込めていない様子である。
しかし、それでも手足を使い急所の防御を完了させているのは天性の身体能力が為せるわざであった。
あれでは多少の傷は負うだろうが、致命傷とはなるまい。
残念だが兵士たちの銃撃は彼女を激昂させるだけに終わりそうだ。彼らの末期が容易に想像できる。
次に紫は後方の文に意識を向ける。
先ほどの動揺具合を鑑みるに、彼女に銃弾の対処が出来るとは考え難い。
その場合、今回だけはスキマを以って彼女を救ってもいいと紫は思った。
それは情けと言うよりも、翁の死力に対しての賞賛であり、ささやかな手向けであった。
だから、一度銃弾を防いだなら、後はどうこうするつもりは無い。後は文次第であるというのが紫の思いである。
先はとっさに彼女を庇う様な行動を取ってしまったが、実際のところ彼女に肩入れする義理は無いのだ。
基本的に傍観者でありたい。それが紫の偽らざる本音である。
――しかし。
振り返った紫は目を見張った。信じられない物を見たからである。
紫の予想通り文は呆然といった風であり、銃弾に対応する手段を持ち得ない。
故に彼女は残酷にも銃弾に貫かれ、その命を儚く散らす筈であったのだ。
だが、それを良しとしない者がいた。
翁である。
最後の烈風弾を放ったその瞬間、誰もが終わったと思った命。
最早動かぬ屍であると思われていたそれが、死力を超え、両足で立ち、確かな意志を持って文に覆いかぶさっている。
翁は自身の大きな骨と肉を以って文の楯となる事を選んだのだ。
一瞬の時間経過。結界跡に銃弾が雨霰と降り注ぐ。
紫のスキマは鉛弾を呑み込み、妖狐は体中に出来た真新しい傷痕からの痛みに顔を歪めた。
――そして。
翁の大きな背中に次々と弾が刺さる。
火薬により素晴らしい推力を得た銃弾は、貫くという己の本分に従い翁を突破しようとする。
しかし、翁の分厚い胸板に阻まれ、悉くその勢いを無くした。
文には掠り傷一つ無い。翁の意地が起こした奇跡である。
「貴様ら! 人間の分際でこの私に手を上げるか!」
激昂した妖狐が兵士の列に飛び掛かる。やおら騒然となる通りの一角。一対百の大乱戦の幕が今切って落とされた。
しかし、文の目には、そんな妖狐の姿など映っていない。
文の目の前には血塗れになりながらも、優しい微笑みを浮かべる翁の顔。
「大……丈夫じゃったか……」
ぶわっと文の目から涙が溢れ出た。まさかもう一度声が聞けるなんて思っていなかったのだ。
しかし、文は知っていた。
翁がこの様に話せているのが奇跡に近い事を。蝋燭が消える前の煌き。今の翁はそれなのだ。
だから文は泣く事しか出来なかった。話したいことは沢山あるのに声が出ないのだ。
「これこれ……泣くでない」
くしゃくしゃと文の頭を撫でる翁。それが余りに愛しくて哀しくて、やはり文は泣く事しか出来なかった。
「まさか、あれで生きているなんてね……」
翁の生に感嘆の言葉を述べたのは紫である。
「腐っても……天狗の……身……ということらしいですな」
弱々しくもはっきりとした声で翁は言った。
それを聞き紫は理解した。
たとえ衰えても生命力ある天狗の体。簡単に殺すことなど出来ない。
しかし、間近に迫る死は明らかであった。強靭な生命力故に長く苦しまなければならない。それが今の翁である。
その笑顔の裏でどれだけの苦痛に耐えているのか紫には伺うことが出来なかった。
いや、しかし実際は意識を手放すのは易い筈なのだ。死の微睡みは絶えず翁を誘っている筈なのだから。
すなわち翁は先の烈風弾を放った時を凌駕する精神力を以ってここにいる。
そこまでの苦しみに耐えて翁が生命にしがみ付くのは文の為である。最後に己の意思を文に宛てる、それまでは死ぬわけにはいかないのだ。
「八雲様……“約束”……覚えてられますかな」
思わぬ翁の言葉に紫ははっとする。
「まさか、思い出したの?」
翁の笑顔はそれを肯定していた。
「ええ、勿論。あなたが思い出せる事を私が忘れるはずないわ」
紫は頭の膨大な情報から翁との出会いの引き出しを開ける。
満月が眩しく輝く、夜中の御所の屋根の上。
そこにいるのは、胸に風穴を開けた若かりし頃の翁と、血に濡れた少しだけ幼い八雲紫である。
(いてててて……反則だろ、その能力)
(真剣勝負に反則も何もないわ。それに、もし境界を封じた私に勝っても嬉しく無いんじゃなくて)
(ちっ……そうだな。物凄く不本意だが完敗だ)
(ふふふ。でも私に血を流させるなんて凄い事よ、見所があるわ。何百年か修行してまた挑めば違った結果が見られるかもよ)
(からかってんのか? 自分の器くらい分かる。俺じゃ血を流せるだけで精一杯だ。それ以上はどうやっても辿り着けん)
(あら。意外に弱気なのね)
(五月蝿い。最後まで話を聞け。実はいい事を考えたんだ)
(いいこと?)
(ああ、俺じゃどうやってもあんたにゃ勝てん。だから、素質がありそうな妖怪を探し、それに俺の力をごっそり与える。
そうすれば、その妖怪の力と俺の力の加算だ。それで、もしあんたに勝てたなら俺の矜持も満たされる)
(なるほどね。面白い話だけど。それだけの妖怪ってそうそう見つかるものじゃないと思うわ。
それに何より、あなた、力を与える能力とか持って無いでしょ?)
(能力はあんたなら簡単だろ。俺の力を少しずつ何か器みたいな物に移していってくれればいい。そしてそれを俺が見つけた妖怪に混ぜるんだ。
その妖怪は……まあ、ぼちぼち探すさ。幸い俺は天狗で百年単位の時がある。)
(倒すべき敵である私の能力を頼るの? 本気とは思えないわ)
(だが、あんたにとっても悪くない話の筈だ。あんたを敗北させる敵に出会えるかもしれないんだぜ)
(まあ……興味が無いことも無いかしらね)
(だろ。じゃあ、契約成立だ)
――ばさり。
回想より戻った紫の前に降り立ったのは従僕の大ガラスであった。
紫はその黒い背にそっと手を置く。
翁が考えられない速さで衰えたのも、大ガラスが際限なく大きくなるのも全て“約束”が理由である。
紫は力を蓄えておく器として雛であった一羽のカラスを選んだ。
それ以来、翁は徐々にカラスに力を奪われ、カラスは力を溜め込んだだけ大きくなった。
「それで、どうするのかしら?」
紫は翁に問う。
「少しばかり……待って下され」
翁は笑顔を崩さず、文に向き合った。
「文……よく聞いてくれ。ワシは……もうすぐ死ぬ。
勿論わしもそれは嫌じゃ……しかし天命には逆らえぬ。じゃから最後に話しておきたい事があるのじゃ。
お主を人の世界へ帰した時……ワシはそれが一番良いことだと思っていた。
しかしの……心にぽっかり穴が空いてそれは決して癒えぬと悟ったのはお主を送り届けて程なくじゃった……。
文……ワシはお主を愛しておったのだ。狂おしい程にの。
じゃから……今、もはや死を迎えるのみという様になっても……後悔はない。お主を守って散るのならそれは誉じゃ。
じゃが、ひとつ心残りがある……お主は人、そしてワシは天狗……それ故言うのを憚っておったが、言わねば地獄で悔いる事になるじゃろう。聞いてくれ」
翁は真剣な面持ちで切り出した。
「ワシの……娘になってくれんか?」
翁が心の底からのたった一つの望みである。それを聞いた文は驚いたように目を見開いた。
「ワシの娘に……射命丸の号を継ぐ娘になって欲しいのじゃ。
今し方思い出したのじゃが……あの大ガラスはワシの力の部分じゃ。
そして八雲様との契約でお主にその力を継がせる事ができる。
しかし、そうしたならお主は人ではいられぬ……その身は天狗と成り果てるじゃろう。
何とも傲慢な願いじゃな……しかしワシはずっと思っておったのじゃ……お主が天狗の子であったらなと。
そして、それが血の繋がりであるならどれだけ素晴らしい事かとな」
翁の切実な願い。涙が邪魔をするが、ここは己の思いを正直に翁に伝えなければならないと文は思った。微かに震える声で、しかし一生懸命文は翁に話す。
「爺様……実は私も同じことを考えておりました。
私は人の身でしたが、もし爺様と血の繋がった親子であったならとずっと思っていました。
本当の娘として暮らせたならどれ程幸せだろうかとずっと考えていました。
射命丸の号、是非継がせてください」
文の顔に迷いはなかった。
「本当に……良いのか? 人を捨てる事になるのじゃぞ」
「勿論です。昔挫折して私は所詮人の身に過ぎない事を思い知りました。
しかし、望めるなら天狗として生きたい。その思いはずっと変わりありません」
文の意思は固い。少女は十五年も天狗でありたいと願い続けたのである、躊躇いなどあるはずなかった。
「そうか……感謝する」
翁は穏やかに微笑みながら紫を呼んだ。
「八雲様……話の通りです、お願いします」
紫を見つめる四つの瞳。二つは充血し、二つは光を失いかけているが、意志の強靭さは良く伝わった。
「やれやれ……この子に私を敗北させる力があるとでも?」
「今は……小さい力やも知れません。しかしいずれ……八雲様も無視できなくなるまで成長するでしょう。才能は折り紙つき……ワシが保障します」
「ふう。仕方ないわね、今回は特別よ」
羽ばたいた大ガラスが文の肩に止まる。
そして紫は指を鳴らす。それが能力発動の合図であった。
スキマに取り込まれる一人と一羽。その紫色の異界で文は大ガラスを強く抱きしめた。
瞬間、文とカラスの境界が曖昧になる。
破格の才能と老天狗数百年のまじないが劇的な化学変化を始めたのである。
血が沸騰している様だと文は思った。
それほど体は熱く、痛みが伴った。
しかし、苦痛だとは思わなかった。むしろ恍惚だとさえ思った。
みしみしと体中の骨が音を立てる、人から天狗へ、細胞一つ一つが再構成される。
程なくして文は風の変化を感じ取った。
今まで風を操る術を行使したことはあったが、それとは全く違った感覚。
まるで、風が擦り寄ってくる様な、じゃれ付いて来る様な感覚。
ああ、なるほど。
今まで風は操るものだと思っていたが、それは違うのだ。
天狗という存在に風は従うのだ。
文は悟った。
それはカラスと少女が融けて一つになった事に他ならなかった。
一匹の天狗が生まれた瞬間である。
ぼとり。
音を立ててスキマから文の体が落下する。さながら赤子が産み落とされた様であった。
いや、正しく今の文は赤子なのかもしれない。
その背には、もはや人の体で無い事を主張するように漆黒の翼が畳まれている。
多くの動物の生まれたてがそうである様に翼は羊水に濡れ、てらてらと鈍く暗く輝きを放っていた。
ばさり。
勢いよく文は両翼を広げる。烏が持つ美しい翼であった。
ばさ。ばさ。
新たに加わった器官を確かめる様にゆっくり翼を上下させる。
数度羽ばたいて満足いったのか翼の動きを止めると、ここで文は俯いていた顔を初めて正面に向けた。
妖狐と人間達は未だ乱闘の最中である故に、その容貌を見る事の出来る人物は僅かであったが、その僅かの一人である八雲紫は少しばかり驚きを感じていた。
妖怪の身となったのだ。当然、姿形は変化するだろうと紫は考えていた。
実際、文の容貌は変化していたし、ついでに言うと紫の想像とそう違わない姿であったのだが、実物を目の前にして、思わず感嘆の呟きを漏らしてしまったのだ。
「……こんなに変わるなんてね」
まだまだ幼さの残る好奇心の強そうな美貌に、肩まで伸ばした黒髪。
これらは文が人であった時と変わらない。
変化は唯一点。一点のみなのである。しかしその一点が決定的なのであった。
それは、すなわち瞳。
文が人であった時分、間違いなく黒色であったそれは、いまや鮮血の如き紅さを湛えているではないか。
それは柘榴石よりも尚、紅く紅く。
宿るのは、人が到底持ちえぬ魔性と仄かな狂気、そして底知れぬ深さ。
耶蘇教の宣教師が見れば、悪魔だの堕天使だのと騒ぐのではないだろうかと紫は思った。
まあ、アーメンは通用しないだろうが、そんなに間違ってもいまい。
これは天狗の瞳なのだ。
古来よりこの国に君臨してきた最強の種の瞳。
凡百の妖怪とは同列に並べることすら許されぬ誇り高き魔縁の瞳。
風神と畏れられ、気紛れで人に害為す暴虐の瞳。
ああ、なんて美しいのでしょう。八雲紫は思った。
人である文に対して抱く事はありえなかった感情である。
境界の大妖怪が天狗の文の存在を認めた瞬間であった。
それは、紫の中で、人の文と天狗の文が等号で結べる関係でなくなった事を意味する。
文自身も数分前の自分と今の自分では全く異なる存在である事を自覚していた。
今、十五年の人生が幕を下ろし、零歳からの妖生が始まったのだ。
「どうです……似合ってますか?」
文はくるりと回り黒い翼を翁に見せた。
「ああ……とてもよく似合っておる」
翁は心底嬉しそうである。その目は芽出度き日に晴れ着で着飾る娘を見る父親のそれであった。
「これで血で繋がれたんじゃな……嬉しいぞ」
翁は感無量であった。思い焦がれてきた夢が実現したのだから。
翁は文を抱擁しようとした。しかし、途端がくりと翁の体から力が抜ける。
「爺様!」
文は翁を支える様にして抱えた。その体は余りにも冷たい。
強靭な精神力で保ってきた生命が限界を迎えようとしているのだ。
次に翁が目を閉じれば、もう奇跡は起こらない。ただ死があるのみ。
それを悟った文は、抑えていた涙がまた溢れてくるのを感じた。
しかし、それを見る翁の瞳は、もはや視力があるかも疑わしいと言うのに、あまりに穏やかだった。
「文……泣くで無いぞ……天狗とは何時も笑っているものじゃ。
……喜んだ時に笑い、怒れる時に笑い、哀しい時に笑い、楽しい時に笑う。
……人の幸福に笑い、人の悲しみを笑い、人の生を笑い、人の死を笑う。
……闘争に笑い、勝利に笑い、敗北に笑う。……な? ……そうじゃろう」
そう言って翁は笑って見せた。何時もと変わらぬ、皺くちゃで優しい微笑みだった。
「……はい」
だから文は笑った。止め処なく流れる涙を拭う事もせずに。
不恰好な、でも精一杯の笑顔。
「そうじゃ。それで良い……やはり笑う顔が一番良い」
満足げな翁は震える指先で文の涙を拭う。
「文……ワシは幸せものじゃ。望む様に生きて、望む様に死ねた。
最後に可愛い娘も出来た。これ以上望むことは何もない。
文……おぬしとの暮らし……幸せじゃったぞ……」
その時の翁の顔は、死がすぐそこに迫っていると言うのに、それはそれは満ち足りた、生涯で最高の笑顔であった。
――そして。
「達者……でな……」
文の涙を拭っていた翁の手がすとんと落ちる。
「爺様!」
文が翁の体を揺らす。しかし、翁がそれに応える事は無かった。
巨星墜つ。射命丸の翁はついに往生を遂げたのだ。
その死に顔が余りに幸せそうで、文は暫く翁の死を信じられなかった程である。
しかし、何十秒かの沈黙の後、文は意を決したように、抱えていた翁の体を大地に横たえた。
そして、翁の顔の上に手を持っていき、そっと翁の瞼を閉じた。
文は翁の死を受け入れたのだ。
勿論認めたくは無い。しかし、娘と呼んでくれた翁の為に立ち止まる訳にはいかないと文は思った。
すっくと立ち上がった文の目に涙はもうない。
「八雲様……爺様をお願いします」
そう言った文の視線は未だ妖狐と乱闘を続ける兵士たちに向けられている。
「かつての同胞を屠る心算かしら?」
「同胞ですか……確かに種の上ではそうでした。
しかし、今の私は天狗です。望んで天狗となったのです。だから、それらしく生きてみようと思います。
彼らは仇でもありますし、その何十かの命を以って爺様の弔いとします」
「あら、随分簡単に割り切れるのね」
「そうですね、自分でも少し驚いています。
しかし、この体になった時、人の頃より朧げに感じていたことがはっきり形になったと思います
我々天狗がそうしたいと思ったなら、屠るも喰らうもそれはきっと正当なこと。間違っているでしょうか?」
残酷なまでの言葉で人との決別を告げた文の顔は、一見すると能面の様に無表情である。
しかし、その本質は嵐の前の静けさであった。内心の感情の激流を彼女は御しているのだ。
「あははははは」
文の言葉に面白そうに笑う紫。
「あはは。そうね。全く正当よ。あなたの言うとおりだわ。
圧倒的な力の差と、傲慢で自分本位な理論を以って人に害為す。確かにそれは妖怪の醍醐味よ。
そればっかりじゃ品性に欠けるけど、無ければ詰まらないわ。
こっちは心配せず行ってらっしゃい。妖怪としてのあなたに私は興味があるわ」
紫のお墨付きに文はぺこりと頭を下げると、再び兵士たちの方を向き、大地を蹴った。
自らの力で空を飛ぶのは文にとって始めての経験である。
しかし、その感覚はまるで何十年何百年もそうして来た様で、自然と体に馴染んだのが分かった。
きっとそれは翁の感覚なのだろう。尊敬する父と己の繋がりを知って文は嬉しく思った。
兵士たちとの距離が狭まる。彼らが妖狐との戦いを始めて早数分。既に十幾つかの屍が積み上がっている。
いや、僅か十幾つと言うべきだろう。人間と妖狐の身体能力の違いを鑑みれば健闘と言えた。
しかし、かつて人間が金毛九尾を討伐した際には八万の軍勢を要したと言う。
尻尾三本分だけ格が劣るとは言え、妖狐を百人程度で撃退するのは兵士が幾ら奮闘しようと難しい様に思えた。
そして、彼らの命運を決定付ける様に、更なる脅威がすぐそこまで迫っているのである。
文と兵士の距離は目と鼻の先であった。しかしその接近に気付く者はほんの少数である。皆妖狐に気を取られているのだ。
それを感じとった文は少し不愉快だった。
そこで、文は兵士の列に突っ込む直前に仰角を高くした、兵士たちの上に出来る文の影。
丁度集団の真ん中まで滑空すると、勢いを殺すこともなく、そのまま地面に降り立った。
衝突音と、舞い上がる砂埃。何事かと兵士たちの眼が文に集まる。
――これでいい。
文は満足げに兵士たちを見渡すと高らかに語り始めた。
「兵士諸君! 戦働きご苦労!
恐ろしき化生の者と相対して尚、握る刀に僅かの疑念もない忠魂は賞賛に値する。
我が偉大な父を涅槃に入れるは貴殿らの銃弾であったが、貴殿らが卑劣漢などで無いのはせめての救いであった。
しかし、残念ながら貴殿らは私の仇敵である。非業の死を遂げた父の仇なのだ。
ならば、私は妖怪としての本分と十分な復讐心を以って貴殿らに殉死を強要したいと思う。
恐怖に震える暇も、愛する者の顔を思い出す時間すらも与えず屠殺してみせよう。
闘争と逃亡のどちらを選ぶかは貴殿らの自由だが、私は貴殿らのあらゆる行動に対して一切の慈悲も容赦もない事を予め宣言しておく。
ただ、願わくは貴殿らは貴殿らの矜持に賭けて精一杯に抗い、その末に鏖殺される事を私は望む。
さあ! 始めようか! 私の名は射命丸文! よく覚えておけ。そして私に殺されし事を閻魔に誇るがいい!」
幼さ残す少女には相応しくない大仰で芝居がかった口上。
しかし、その内容は間違いなく兵士たちに宛てた死刑宣告であった。
文を取り囲んでいた兵士たちが俄かに気色ばむ。
次の瞬間には文を突き殺さんと四方八方より槍が繰り出された。
しかし文は軽く跳躍し、余裕を持って突刺を回避する。
その様が余りに鮮やかであった為、呆気に取られている兵士たち。
彼らを一瞥する文。その紅い瞳が一瞬冷たく輝いたような気がした。
――破砕音。
何か硬い物が潰れる音がした。
突如として文を囲む数人の兵士の頭が一斉に砕けたのだ。
それは不可視の槌であった。高密度の風が勢いよく兵士らの頭蓋を叩き割ったのである。
文は一線を越えた。すなわち生涯で初めて自らの意思で人を殺めたのである。
脳漿や血液、或いは顔面の部品であった物が飛び散る様を文は感慨深げに眺めていた。
妖怪が何故人に恐れられるか。それは至極単純な理由であり、人に比して妖怪が遥かに強剛だからである。
それを文は人であった頃より心得ているつもりではあったが、いざ化生の身となりし今、それが確かな実感として理解できた。
今や文の視覚は、飛び散る血の一粒一粒をはっきり識別できる。
文の聴覚は周囲のどよめきの発生源を一人一人正確に把握できる。
文の触覚は兵士が槍を振り上げた際発生する僅かな空気の揺らぎすら感じ取ることができる。
――強いはずである。
文は口元が緩むのを感じた。
人を殺めて笑うなんて何て不謹慎なんだろう。文は己の心に浮かびかけた愉悦に少し戸惑う。
しかし文は考える。
己は天狗である。たとえそれに悦楽を感じようとも何の不都合があるだろうか?
元人間とは思えぬ思考と、それをあっさり受け入れた自分が少し可笑しくて文は笑った。
天狗と人間の違いにあれほど悩んだ数年前の自分が滑稽にさえ思えた。
今の彼女に一切の後ろめたさは無い。
その後は一方的である。兵士たちは槍を振るう時間すら与えられず次々と文の手に掛かっていった。
「藪蛇を突付いたか……」
忌々しげに呟いたのは兵士たちを指揮していた武人である。
最初は百人いた兵士も今や両手の指で数えられる程になっていた。
夥しい躯が無残に曝される古都の通り。武人は通りを地獄に変えた張本人と対峙している。
「射命丸文と言ったな。……少なくとも最初貴様を見た時は人の様だったと記憶している。
それが本来の姿なのか、それともまた別の何かか、まあそれはどうでもいい。
仮にも人の姿を取る者なら、貴様の暴虐に為す術もなく散って行った兵卒達の無念が分かるだろう。
確かに仇討ちは正義だ。それには何の異論も私は挟まん。
しかし、貴様の復讐により、貴様はその手で殺めた数十の兵卒の仇となったのだ。
貴様は一生、彼らの怨嗟の声を聞き続けなければならぬ。その覚悟はあるか?」
この状況にあって武人の声は冷静で豪胆だった。幾度もの死線を超えてきたからこそ、死に瀕しても心に余裕を持てるのだろう。
その武人の問いに文は静かに頷いた。
文は妖怪としての宿命を全うするつもりである。それは翁が死したその時に固く固く決意したのだ。
「宜しい」
武人は文の返答に納得したように頷くと、右手に持つ太刀を上段に構えた。
「ならば私は潔く討ち果てよう。そして怨霊となりて未来永劫貴様を恨もう!」
武人は文に向かい太刀を振り下ろした。
鋭い熟練の太刀筋は、しかし文を捉える事は無い。武人はそれを理解して刃を振るった。
太刀の切っ先が地面に触れると時を同じくして武人の首が飛ぶ。
文の風の刃によって刎ねられた武人の首から伺える怨恨は筆舌に尽くしがたい程。
しかし、それを見る文は悪鬼羅刹すら逃げ出すような、残酷な笑みを浮かべているのであった。
通りの端で断末魔が響く。
妖狐が最後の兵士の臓腑を抉り、この瞬間、百の軍団は二人の異形に殺し尽くされたのだ。
累々たる屍の山。そこで生存する血染めの二人は自然と目を合わせた。
「……随分と可笑しな格好じゃないか」
最初に口を開いたのは妖狐であった。
「どんな手を使ったか知らんが、天狗になったのだな」
肩を竦めて妖狐は言葉を続けた。
「兵隊共を屠るのを見ていたが、確かに貴様が人であった時よりずっといい動きをしている。
何より容赦が無いのが気に入った。
しかし、所詮は付け焼刃。私を破るには力不足よ!」
妖狐は自信満々である。体の至る所に傷を作ってはいるが、その表情は出会った頃よりも溌剌としていると言えた。
文の変化を高く評価したが、己の敗北などこれっぽっちも考えていない。
「力不足? 相手の力量も測れないようじゃ早死にするわよ。明日の朝日が拝めない程度にね。
爺様より受け継ぎし天狗の力、侮ってもらったら困るわ」
口調こそ穏やかだが、文の言葉は刺々しい。
「はん。抜かすじゃないか」
「人であった頃私はあなたに、泣き叫ぶまで痛みつけて、土下座させてやるって言ったと思うけど、それはもういいわ。
どれだけ謝っても、もう許してあげない。絶望と共に殺してあげる」
「自惚れも甚だしい。絶望して死ぬのは貴様の方だ」
妖狐は何時でも飛び掛かれる様に体勢を整え、文は風を纏った。今まさに因縁の決闘の幕が切って落とされようとしているのだ。
「八雲様。“全力”で走ります。爺様を安全な所へお願いします」
文は後方の紫に声をかける。
頷いた紫が翁を結界で覆ったのを感じ取った文は静かに妖狐に宣言する。
「これより見せるは真の神速。射命丸の翁が編み出した究極の速度。
あなたは残念だけど、その一片を垣間見る事すら出来ない。
何も理解できず、木の葉のように宙を舞って初めて己の死を悟る。覚悟しなさい」
文は低く体を落とし身構えた。その様は正に獲物に襲い掛からんとする猛禽である。
闘争を待ち侘びる様に雄雄しく咆哮する風は更にその質量を増し、文の周りで吹き荒ぶ。
賽が振られるその時は間近に迫っていた。
妖狐は目の前の天狗に最大限の警戒を以って相対している。
真の神速とはどの程度のものなのか想像できないが、若き烏天狗、その最大速となれば相当なものであるはずである。
そしてその速力が生む破壊力は己を再起不能にさせるに十分であると妖狐には予想できた。
妖狐は鉤爪を腰に溜め構える。
彼女は最初から回避しようなどとは考えていない。
天狗との交錯の瞬間に、その鋭い切っ先を天狗の顔面にめり込ませようと言うのだ。
あくまで力でねじ伏せる、それこそ妖狐の矜持が望む物であった。
これは危険な賭けである。もし一瞬でも躊躇ったなら顔面を抉られるのは妖狐の方であろう。
しかし、妖狐には自信が漲っていた。
つい先ほどの天狗を打ち破った闘争。それが妖狐に己の素養に対する確信を持たせたのだ。
ぎろりと睨む先の天狗。
その文の纏う風は最早、嵐と呼んで差し支えない物であった。
荒々しい暴風を御し文は呟く。
「爺様。見ていて下さい……」
文は必殺の決意を以って足を踏み出した。
一歩。
文に付き従う莫大な質量の風。それが一層の唸りを上げる。
天を突く様なその轟きは、憎き妖狐を誅さんとする正義の鬨であっただろうか。
それとも、闘争を求める暴風達が更なる破壊の予感に狂喜した蛮勇の雄叫びであっただろうか。
否。
これは叫びである。
苦悶の絶叫である。
文が要求する献身は、風の本分を優に超越した。
限界を迎えた風達が苦しみの呻きと共に次々と文の近衛から脱落していく。
しかし、これでいい。
今は無理を押し通す時なのだ。 限界の一つ二つすら超えられぬ軟弱者は不要!
阿鼻叫喚の地獄絵図を引き連れ文は次の一歩を踏み出す。
二歩。
文の眼前にあるは不可視の壁。
空を練りに練って作られた硬き物理の壁。
文は思う。
あれに激突すればどれ程の痛みがこの身を襲うだろうか?
どれだけの風がその身を散らすだろうか?
恐い? まさか。
文は哂う。
――楽しみでならない!
轟然と文は音の壁を突き破った。
体中の骨がばらばらになるのではという衝撃。
ああ! 何と言う恍惚! 限界まで覚醒した文にとっては痛みすら心地よい。
しかし絶頂を迎えるにはまだ早い。あくまでこれは過程、為さねば成らぬ事はこの激走の先だ。
文の纏う風は目に見えて少なくなっている。
先の突破で猛者の半数以上が脱落したのだから当然だ。
しかし、それが何だと言うのだろう。
今の文に付き従うは精鋭中の精鋭。質を以って量を超越する一騎当千。
不要な物を削いで削いで最後に残った一振りの日本刀。
文は確信する。最高の疾走になるに違いないと。
三歩。
そして少女は神の域に到達する。
まるで他のあらゆる時が止まった様な、この超越者の視点を何と例えようか。
流星、疾風、雷電。
否!否!否! あまりに遅すぎる!
刹那か須臾か議論するまでもない。計る事すらできぬものを、どうして不完全な何かに例えられようか!
一と零の間の無限。真の神速とはそういうものである。
今、世界は文だけの物。風を従えた暴君に世の法則たちが挙って道をあける。
赤目の幼き女王よ。憚る事なかれ。
神仏でさえ、貴女に追いつく事など出来はしない。傲岸に不遜に世界を風靡するのだ!
妖狐は瞬きもせず文の姿を見つめていた。
――確かにそう思っていた。
しかし、張り詰めた空気の中、何の前触れもなく己の体がふわりと宙に浮いたのを妖狐は感じた。
やけにゆっくりに感じる視界の端で、家屋が跡形もなく分解され、破砕された木材が空に舞い上がるのが見える。
その視界の中に紅色の飛沫を見つけ、それで妖狐は初めて、文の姿が無い事と、己が致命傷を負った事実に気付いた。
頸にあるはずの肉、即ち喉の部分がごっそり削り取られている。
まるで地面から噴出している様にも見えた紅い液体。それは頸動脈から迸る血液であったのだ。
視覚聴覚嗅覚触覚味覚第六感その全てを駆使して尚、おかしいと感じる暇が無かった。痛みを感じる暇ですら無かったのだ。
文の攻撃は妖狐の理解を超えていた。
恐怖、憤怒、悔恨、絶望、様々な感情が妖狐の脳裏を錯綜する。
しかし、結局妖狐の感情は混乱したままで終ぞ復旧する事は無かった。
そう、出来なかったのである。
動脈より失われた血潮は甚大であり、最早彼女の体に生命を維持できる血液は残っていない。
死の実感も朧げなまま、静かに妖狐は意識を手放した。
地面に高下駄を突き立て強引に減速を完了させた文は、周りの惨状を見遣る。
神速が引き起こした爆発的な衝撃波は、一帯の家屋をばらばらに破壊せしめ、現在進行形で木片やら瓦やらを空に巻き上げている。
それだけでなく、先ほど文や妖狐に屠られた兵士の躯も多く空に舞い上げられていた。
悪い冗談のような光景に、文は派手に血を撒き散らしながら空を舞う妖狐の姿を見つけた。
即死とはいかなかったようだが、あれではどちらにせよ時間の問題だろう。
文は目的が達成された事を知ると、思い出した様に、今まで咥えていた物体をぺっと吐き出した。
「……不味い」
べちゃりと音を立て、地面に赤い跡を残した肉片は妖狐の喉であった物である。機能を果たさんと未だ収縮を繰り返す断面が生々しい。
妖狐との交錯で、文は彼女の喉笛に牙を突き立て、そのまま齧り取ったのであった。
文の歯は肉食獣のそれとは違い、肉を裂くのに適した形状では無いが、驚異的な加速度によってか、あまりに抵抗が無かったのが印象的であった。
己の獣性に忠実に従った結果であるが、齧り取るという烏に相応しくない行為には、牙持つ獣である狐に対する若干の皮肉が込められていたのかもしれない。
衣の裾で口元の血を拭うと、文は空を仰ぎ呟いた。
「爺様……仇は取りました」
空は何も答えない。しかし、一瞬、風が優しく微笑んだかの様な気がした。
ぱちぱちぱち。
「見事だったわ」
拍手を以って文を祝福したのは八雲紫である。
「神速を見るのはこれが二度目。そう一度目はあなたの父上と闘った時よ。
でも、私の記憶が正しければ、あなたの速度はすでに父上を凌駕しているわ。
正直驚いたけど、父上から継いだ力をもう自分の物にしているのね。確かに破格の才能だわ」
くすくすと嬉しそうに紫は笑った。
「八雲様、私は立派な天狗になれたでしょうか?」
文は問うた。己の闘争が翁の後継者として相応しかったか問うたのだ。
「あなたはもう立派な天狗だわ。
十分な力に、それを御する技術。生まれ持った狡猾さと決断力。真面目さと家族愛。
必要なら血を見る事を躊躇わない非道さ。
これだけ揃っているんですもの。あなたの勇姿を見て、きっと、父上も喜んでおられるわ」
紫はその問いに何ら逡巡なく答えた。
「さあ、あなたの元に返すわ。あなたの手で抱きしめてあげなさい」
紫は結界を解き、翁を文に手渡した。
「……爺様」
文は翁の体を、傷めないように静かに抱きしめた。
静寂に包まれる古都の通り。翁を抱きしめ目を瞑った文は微動だにしない。
きっと彼女の瞳には翁との楽しかった日々が鮮明に映っているのだろう。
その大切な儀式を紫は邪魔しないように眺めていた。
暫く経って、文はゆっくり目を開けると慎重に翁の体を持ち上げた。
「八雲様。今日はありがとう御座いました。八雲様の力なければ私は今頃冥土に旅発っていたでしょう。
私が言うのも何ですが爺様もきっと感謝していると思います」
文の謝辞に紫は満足げに笑って答えた。
「感謝される程じゃないわ。面白い物を見る事が出来たし、思わぬ収穫もあったしね」
そう言った紫の手にはいつの間にか妖狐が抱えられている。
「昔、式を探してるって言ってたでしょ。丁度良さそうな逸材を見つけたわ」
なるほど、妖狐は瀕死であるが、紫の手に掛かれば、それは瑣末な事なのだろう。
「その狐を式にするおつもりなのですか」
少し表情を不満そうなものに変えて文は確認した。
「そうよ。まだまだ青くて荒削りだけど、磨けば間違いなく伸びるわ。
でも、やっぱり、あなたにとっては不本意かしら?」
意地悪そうに文に尋ねる紫。それに文は一つ溜息をついた。
「勿論不本意ではあります。しかし八雲様がそうされたいなら私に口を挟む権利はありません。
仕方ないので、その狐は一度私に殺され生まれ代わって八雲様の式になったとでも思い込んでおきます」
「流石、賢明よ。いずれこの子とあなたは見えるでしょうけど、その時までにあなたに対抗できるよう育てるわ。
楽しみでしょ。そして切磋琢磨しあって、いずれ私に手が届くようになれば素敵ね」
「期待しておきます」
やれやれ、この人には敵わないなと文は苦笑した。
「八雲様。私は山に帰りますが、近く爺様の葬儀が執り行われます。参列していただけないでしょうか?」
「あら、いいのかしら? 天狗の社会で余所者は忌避されるんじゃなくて?」
「八雲様程の大妖怪に参列して頂けたなら、それは大変な名誉です。きっと爺様も望んでいると思います」
「あらそう。まあ考えておくわ」
「色よい返事を期待しております」
文は微笑むと翁を背負い、軽く地面を蹴って浮遊した。
「では失礼いたします」
軽く頭を下げ、空高く文は飛び立つ。
それを紫は手を振って見送っていた。
***
数日後。翁の葬儀が盛大に執り行われた。
弔いに訪れたのは、翁を知る天狗は勿論、集落を運営する幹部級の天狗達。河童社会の代表に、他山の重鎮達。
錚錚たる面子である。
葬場の端のほうでは、二人の白狼天狗が佇んでいた。犬走夫妻である。
哀しそうな表情だが、沈痛といった風ではない。犬走は最も翁に近かった後輩であり、それ故にこの結果を予想できたからである。
犬走婦人の喪服の下で腹がぽっこりと膨らんでいる。夫妻にとって念願の第一子の誕生が間近であるのだ。
翁存命であったなら、その子の名は翁が授けるはずであったのだが。それはやはり犬走にとって心残りであった。
特別席では一人の人間が、妖怪に囲まれて尚泰然と構えている。かつて人間の文を引き取った商家の旦那であった。
昨日、商都の支店を訪れた文に事の次第を説明され、葬儀への出席を依頼された旦那は、翁が天狗であった事実に驚きつつも迷わず出席を決めた。
葬場に敷き詰められた花は、その何割かが旦那の提供である。
天狗と人間の垣根を越えて、一人の友人の死を悼む為旦那はここにいる。
しかし、利発な旦那の事、折角の天狗との繋がりを無駄にする事はあるまい。当分の間、商家は安泰そうである。
貴賓席の天魔の隣には美しい女性。八雲紫である。喪服を新調しての参列であった。
文の思いに応えたのか、或いはただの気紛れなのか表情からは伺えなかったが、葬儀というこの場面でもずっと笑顔でいる彼女は、実に彼女らしかった。
そして、葬場に詰め掛けた、四桁に手が届く数の妖怪が一斉に注目する、若き喪主。
纏う黒一色の装束は烏天狗である彼女の魅力をより引き立てている様にも見えた。
文は実に堂々とした態度で、参列する妖怪たちに謝辞を述べる。
彼女の姓は燦然と輝く射命丸の三文字。今日は翁の葬儀であると同時に射命丸の襲名式でもあったのだ。
喪主を務めるとは、すなわち、若かりし翁を知る大御所たちに、己が翁の正当な後継であると宣言する事である。
そして、その宣言を天狗たちは認めた。文こそ射命丸を継ぐ娘に相応しいと認めたのである。
確かに六尺五寸の巨躯を誇った翁に比べると文は余りに小さい。
その細腕は比類なき豪腕を誇った翁と比べる事すら出来ない。
しかし、文の不敵な笑み。それは若かりし頃の翁に生き写しであったのだ。
葬儀が終わり荼毘に付された翁は、庵の近くの見晴らしの良い高地に文の手で埋葬された。
それに立ち会った犬走は呟く。
「まったく、翁殿が羨ましいよ」
「羨ましい、ですか?」
手に付いた土を掃いながら、不思議そうな顔で文は尋ねた。
「きっと本人も言ってられただろうけど、やりたい様に生きて、やりたい様に死んだ。この方ほど自由な天狗を私は知らない。
そんな生き方は、どれだけ望もうとも私には出来ない。だからこそ眩しかった」
ぽつりぽつりと言葉を搾り出す犬走。
文には犬走の気持ちが良く分かった。文にとっても翁はやはり眩しい存在であったからだ。
「しかし、文ちゃんも翁殿の奔放な部分はよく引き継いでそうだ」
「あれ、もしかして馬鹿にしてます?」
一転して、何時もの調子に戻った犬走の軽口に、文は頬を膨らませた。
「ははは。怒らない怒らない。ただ文ちゃんにも翁殿みたいな天狗になるのかなと思ってね。
自由奔放に生きるには才がいる。文ちゃんにはそれがあるから羨ましいのさ」
「才……ですか? 良く分かりませんが犬走のおじさまがそう言うならそうなのでしょう。
なら安心してください。犬走のおじさまの分まで私は自由に生きて見せます」
「頼もしいね。それでこそ射命丸を継ぐ者の気概だよ。翁殿もきっと喜んでいる。どれだけ破天荒な天狗になるか今から楽しみだね」
「やっぱり褒めてるように聞こえませんよ」
「ははは、ごめんごめん」
頭を掻いて、誠意の無い謝罪を口にする犬走。文は少し呆れた風である、文は犬走がこういう天狗だとよく知っていた。
いい加減で、しかし憎めない天狗が犬走である。そんな犬走だからこそ翁も好いていたのだと文は思った。
「ところで文ちゃん、翁殿の娘としてひとつ頼まれてくれないかな?」
「ん? 何ですか?」
軽く文は首を傾げる。犬走の頼み事がどうも予想できなかったからである。
「私たちの初めての子がもうすぐ生まれるんだ。その名付け親になってくれないか?」
「名付け親? そんな大事な事を私にですか?」
驚いたように尋ね返す文。
「文ちゃんも知ってると思うけど、翁殿に元々は頼んでいたんだ。
しかし翁殿亡き今、その娘の文ちゃんが名前を授けるのは正当な事だよ。
それに私も妻も文ちゃんにこそ名付けて貰いたいと思っている。どうだい、頼んでいいかな?」
犬走の頼みに暫く思案していた文であるが、ぐっと胸を張ると自信たっぷりに言い放った。
「承りました。この私。射命丸文にお任せください! 素晴らしい名を付けて差し上げます!」
そして時代は移り変わり……。
「――という話なんですよ」
「へー、それが?」
「うわ! 酷い。自分から聞いておいて」
「私は親の顔が見たいって言っただけよ」
桜の季節を迎えようとする博麗神社。縁側にて茶を啜る少女は楽園の巫女、博麗霊夢。
その向かいで、己の出自を力強い口調で語っていたのは、今や妖怪の山の実力者として広く知られるまでになった射命丸文である。
「まあ、あんたがそうしたいって熱意は十分伝わったけど……」
とくとくと急須から本日十何杯目かの茶を霊夢は湯呑に注ぐ。
「でも、私の立場から言うなら、はいどうぞって訳にはいかないわよね」
ずずっ。茶を啜る。分かってはいたが、すっかり冷めてしまっている。
あんまり美味しくないなぁ。霊夢は思った。
文が博麗神社を訪れたのは、まだ日が東の稜線で足踏みをしている早朝といっても差し支えない時間。
霊夢が箒を持って神社の敷地をぶらぶらしながら、桜の蕾がもう少しで開きそうなのを見ている頃。
ああ宴会の季節だわ、でも桜は花びらが石畳にくっつくから掃除が大変なのよね。とかそんな事を考えていた時であった。
突如の旋風。砂埃を巻き上げて降り立ったニヤニヤ笑いの烏天狗を見て霊夢は心底迷惑そうな表情を浮かべる。
彼女が神社に来る理由は九割が新聞のネタ探しであると認識していたからである。
わざわざ協力してやる気も無かった霊夢はさっさとお引取り願う方針を決めた。
「取材? 生憎ここには面白い話なんて一つも無いわよ。お宅の山の巫女に付き纏っていた方がよっぽど有意義でしょうに」
文は相変わらず笑みを浮かべている。
そう言えばこいつの薄ら笑い以外の表情をあんまり見たことが無いなと霊夢は思った。
「いやいや、ネタに困った時は博麗に聞く。これ常識ですから」
ちょっと婉曲的な表現にしたのが悪かった。
そう考えた霊夢は、はっきり帰れと言おうとしたのだが、遮る様にして先に口を開いたのは文の方であった。
「もう、そんなに怖い顔しないで下さいよ。今日は取材じゃないんです。記者の射命丸文ではなくて、烏天狗の射命丸文として来たんですよ。
霊夢さんに一つお願いを聞いて貰いたいと思いまして」
「お願い?」
霊夢は訝しげな視線を文に向ける。
「ええ、霊夢さんにしか頼めないと言うか、できないことです」
珍しい。霊夢はそう思った。
射命丸文という天狗はその狡猾さ故に、取材以外ではあまり他人に借りを作らない主義だと思っていたからだ。
少しばかり興味が沸いたし、話くらいは聞いてやってもいいかという気分に霊夢はなった。
尤も、次の文の一言で、やっぱり追い返しておくんだったと思い直す事になるのだが。
「――私を、外の世界に出して欲しいのです」
何故?
霊夢の疑問は当然であった。
幻想郷は大結界によって完全に隔離された世界である。隔離するには十分な理由も意義あった。
外界と幻想郷の関係が軽々しく行き来できるようなものになるなら、きっと幻想郷は存在を否定されてしまうだろう。
故に、霊夢が持つ、大結界に“出口”を開くその能力は殆ど発現された事がない。
神隠しにあった迷い人を外界に帰すのが唯一だと言っていい程である。
目の前の烏天狗は事の重大さを理解しているのだろうか? いや、理解している筈である。彼女は理解した上で霊夢に求めているのだ。
文の目に宿るのは、特種を探すいつもの情熱とはまた違ったそれである。
文は己が外界に行かねばならないその理由を霊夢に語った。午前中の時間を一杯に使って説得に当たった。
文の並々ならぬ熱意に、霊夢個人としては願いを聞き届けてあげてもいいと思った。
しかし、大結界の見張り人としては、それが大結界を越えるに足る理由だとは思えなかったのだ。
故に、霊夢は文の願いを却下した。
「……だめですか?」
「駄目ね。あんたに認めたら、他の奴等も外に行ってみたいって言い出すに決まってるわ。魔理沙とか大はしゃぎよ、きっと」
「はは。魔理沙さんならそうでしょうね」
少し落胆した様な色が表情に混じりはしたが、要望を断られたにも関わらず文は笑顔のままであった。
霊夢はそれが気になった。
思えば、最初の違和感は、神社の敷地に降り立った文の服装を見た時である。
橙色のニット帽、ブラウスの上に羽織ったダッフルコート、スエードのブーツ。
いずれも幻想郷では少数しか流通していない珍しい物である。おそらくは早苗に借りたのであろう。
外界の人間の装束である事を霊夢は知っていた。翼を隠した今の文なら外界の雑踏に紛れても何ら違和感を覚えさせないに違いない。
紅い瞳はニット帽に引っ掛けた色眼鏡で誤魔化すつもりなのだろう。
しかし、文が外界の人間の格好をしている事は霊夢にとって重要ではない。
その格好で神社に来た事が重要なのだ。
そもそも、賢く狡い文である。弁舌には自信があるのだろうが、それで博麗が動かせると考えるほど彼女は短絡的でないし、過信もしていないはずである。
しかし、それなら何故、文はあの格好で神社を訪れたのか?
それは、まるで――
「……私が動くって確信してるみたいじゃない」
「ん? 何か言いました?」
「いや……何でもないわ」
勘繰り過ぎ。多分そうだ。
文はちょっと珍しい服を着たから柄にも無く調子付いてしまっただけなのだ。霊夢は自分に言い聞かせた。
「はいはい、無理って分かったらさっさと帰りなさい。大体あんた、私が作れるのは“出口”だけって事失念してるでしょ。
どうやって帰るつもりだったの。都合よく神隠しにあったりはしないのよ」
「あはは。ですよね。私には境界を見る能力とかありませんし」
これで諦めて帰ってくれると霊夢は思ったのだが、文は何故かいたずらっ子の様な笑みを浮かべると言葉を続けた。
「いや、実は、これ隠してた訳じゃないんですけど、親切な方がいましてね。なんとその方が帰り道を工面してくれるというのですよ」
「は?」
「いや、だからですね、帰り道をどうにかしてくれる親切な方がいると……」
こいつは何を言っているんだ?
霊夢の脳裏にまず過ぎったのは、そのような言葉であった。しかし文には出鱈目を話して得られる利はないのだ。
険しい顔で思案する霊夢。
「あの、霊夢さん?」
「ちょっと黙ってて」
幻想郷にあって、大結界の外から内に通じる道を作ることが出来る存在。
そんなもの一つしかない。正直信じがたいが、霊夢にはそうとしか考えられなかった。
「全く……勝手な事して」
霊夢は諦めた様に言い放つと、すっと縁側から立ち上がり、神社の裏に歩き始めた。
「ちょっと! 霊夢さん?」
「文。気が変わったわ。付いて来なさい」
「気が変わったって?」
「あんたを外の世界に送ってやるって言ってるのよ」
「本当ですか! 流石霊夢さん。話が分かる」
大仰に驚いてみせる文。
帰り道の話を切り出した時点で、文はこうなる事を確信していたと霊夢は思うのだが、それをおくびにも見せないあたり、やはり文は賢しい天狗であった。
神社の裏。霊夢が空間に手をかざすと、“出口”が開いた。
宙に浮くその平面の穴はまるで大きな丸鏡のようで、その表面は鬱蒼とした原生林を映し出していた。外の世界の景色である。
「分かってると思うけど、目立つ真似はしないこと。向こうじゃ妖怪はいないって事になってるんだから」
「もちろんです。お土産期待しててくださいね」
色眼鏡を掛けつつ霊夢の言葉に答えた文は“出口”に入り込んだ。
それを見届けた霊夢が何やら呪文を唱えると穴は小さくなっていき、程なくして完全に消失した。
気付けば太陽は随分高い所に昇ってしまっていて、影の丈も随分縮んだ。
いつもなら昼食の準備に取り掛かる頃だが、霊夢にはその前に話しておきたい相手がいた。
「……紫、いるんでしょ? 出てきなさい」
めりっ。
音を立て霊夢の眼前の空間に一筋の亀裂が入る。みりみりと開いたスキマの中で、八雲紫はいつもの胡散臭い笑みを浮かべていた。
「呼んだかしら?」
博麗神社の縁側で霊夢と紫は隣り合って座っている。
「それにしても可愛い所があるじゃない霊夢、あの子も喜んでいるわ」
扇子で口元を隠しながらくすくすと笑う紫。
「私が断っても、どうせあんたが送るつもりだったんでしょ。なら私が送っても同じよ」
対する霊夢は若干不機嫌そうである。
「それより紫。“どういうつもり”かしら?」
「“どういうつもり”ねえ。霊夢、それじゃ漠然としすぎて人には伝わらないわよ。
でも、今回は特別に答えてあげる。
私は境界の妖怪、八雲紫。それだけに“縁”は大切にするのよ」
「駄洒落じゃない」
「駄洒落よ。でも嘘ではないのよ。あの子が外に出る理由を聞いたでしょ」
「……何百回忌か忘れたけど、墓参りだって言ってた」
「そう墓参り。別れから数百年の時を経ても色褪せない敬慕の念。素敵だと思わない。
これだけ強く結び付けられた縁には祝福があって然るべきだわ」
広げた扇子を掲げ、高らかに紫は語る。
「うーん。でも何か納得いかないなあ」
思案しつつ霊夢は紫に怪訝そうな視線を送った。
「何て言うか、らしくないのよ。あんたがそんなに特定の誰かに肩入れするのが。
あんたは素敵だって言ったけど、それが博麗大結界に穴を開ける理由に足るとは思えないわ」
「まあ、そうかも知れないわね。実際、最初あの子から外界からの迎えを頼まれた時は断るつもりだったのよ。でも」
「でも?」
「思えば私は、その墓の主の最期を見取った、たった二人の内の一人なのよね。
それに私の生涯の中でも五本の指入るくらい大事な出会いに、その墓の主もあの子も重要な関わりがあるのよ」
「藍の事」
「そう。藍は忘れた振りしてるけど。あの子がマヨヒガに迎えを頼みに来た時の藍の複雑な顔は面白かったわよ。
まあ、それはどうでもいいんだけど。ほら、こうやって見ると私とあの子達との縁は意外と無視できないでしょ。
贔屓しなくてはならなくなる程度に」
しばらく難しい顔で唸っていた霊夢であったが、納得がいったのか下を向いていた顔を再び紫に向けた。
「釈然としない部分はあるけど、とりあえずそれで納得してあげるわ。
でも、今の説明だと、外へ送る仕事を私に振った理由が分からないわ。あんたがやるのが一番簡単なんじゃないの?」
「だって、勝手にやると霊夢が怒るじゃない」
「そりゃ怒るわよ。でも実際の理由はそれじゃないでしょ」
「あら、相変わらず素晴らしい勘だわ霊夢。
それの理由も最初言った通り“縁を大切にするから”よ。あなたに宛てるなら“縁を大切にして欲しいから”と言うべきかもしれないわね。
気付いているかしら、誰もがあなたとの縁を大切にしている事を、でもあなた自身は他人との縁には割と無関心でしょ。
あの子の話を聞いて、何か感じて欲しかったっというのはあるわね」
「……なんか、紫らしくない。閻魔の説教みたい」
「あら、閻魔様みたいですって。それは確かに私らしくないわね。反省しなくちゃ」
そう言って紫は遠くの空を仰いだ。
***
人の集落より遠く離れた山の奥深くにその断崖はある。
滝と紅葉が見事であるが、余りの土地の険しさに観光客は疎か地元の人間も近づかない。正に秘境であった。
そのすぐ近くに滝が良く見える高地がある。
木々や蔦で覆われた山肌にあって、その高地では丈の低い草花が疎らに生えるのみであった。
高地の真ん中には一抱え程の岩。
その黒い艶めきは、この山で産出する岩とは組成が見るからに異なっていた。
所々生えた苔が、この岩がひっそり過ごしてきた悠久の時を物語る。
射命丸文はその岩の前に静かに降り立つと、鞄からガラスの瓶を取り出し、その岩の前に置いた。
「爺様。久しゅう御座います」
文は岩に向かい深々と頭を垂れる。
そう、ここは数百年前、文が自らの手で翁を埋葬したその地に他ならない。
顔を上げた文は、墓標の前に腰を下ろし、そして取り出したのは二つの杯。
彼女はかつて幼少の己がそうしたように、ガラス瓶の中の濁り酒を杯に注いだ。その目は、過ぎ去った時と思い出を慈しんでいる様であった。
「私が小さい頃、爺様が作ってるのを思い出して、私も作ってみたんですよ、濁酒」
そう言って文は杯の一つを墓標に備えた。
「自分で言うのもなんですけど、中々上手く出来たと思いますよ」
ぐびっと一息で杯を空にする文。そして、また酒を杯に注ぐ。
「……暫く見ない内にこっちも変わりましたね。
前来たときは汽車の事を陸蒸気とか呼んでる時代だったのに、新幹線って言うんですか? 鉄の箱があんな速さで動くなんて信じられませんよね。
人の数も凄く多くて。こっちの世界の断片的な情報は知っていたのですが、実際来て見て驚く事ばかりでしたよ」
他にも、天まで届くような石膏の高層建築が至る所に建っている。
道行く人の誰もが、軽くて小さくて遠くの人に声を送る機能まで付いた高性能なカメラを持っている。
ここに来るまでに見てきた未知の世界への感動を滔々と語る文。
しかし、ふと遠くを見るような目をすると、やや落ち着いた調子で話し始めた。
「あっちの方……幻想郷も随分変わりました。
まあ、爺様に前に報告したのが百年前ですし、そりゃ変わりますよね。
あの後、幻想郷には結界が張られてこっちとは別の世界になりました。
その結界が頑丈過ぎるせいで、昔みたいに毎日爺様に会えなくなったのは残念ですが、でも、結界のお陰で幻想郷は良い方に変化できている様に思います。
おもしろい所ですよ。爺様が存命ならきっと気に入っていたと思います。
血腥いのが少なくなったので、刺激が足りないと言えばそうなのですが、でも、それもありかなと思える様な場所です。
……私も丸くなりましたね。
でも私だけじゃないです、爺様が知ってる妖怪連中もすっかり丸くなってしまって。もし爺様が見たら呆けたと勘違いするかもしれませんね。
山も平和そのもので、椛もすっかり平和ボケしちゃってます。
この前は久々の侵略者相手にあっさり道を譲ってしまって、もうちょっとしっかりして欲しいと思うんですけどね」
山の事、新聞の事、人間の事、妖怪の事、幻想郷の事、文の弁は途切れる事無く続いた。
百年振りに再会した翁に、今の己の全てを知って貰いたいという文の純真である。
翁は喜んでくれているだろうか? 文はふと思う。しかし愚問だと直ぐに気付いた。
己がこれ程に嬉しく思っているのだから、翁も同じ気持ちに決まっている。それは疑いようの無いことだ。
軽く目を瞑った文の瞼の裏で、確かに翁は笑っていた。昔と同じ優しくて皺くちゃな笑顔だった。
文も負けじと笑顔を作る。天狗らしい傲岸不遜な笑みだった。
程なくして、ガラス瓶が空になる。
去り際を悟った文は立ち上がった。
「では、爺様。いつになるかは分かりませんが、また来ます。次はまた違った酒でも持ってきますよ」
笑顔で翁に告げる文。最初そうしたように深く頭を垂れ、そして大空に勢い良く飛び立つ。
その背には漆黒の烏の翼。願って天狗になった少女はこれからも最速の風であり続けるだろう。
その姿はただひたすら美しい。
空翔る彼女を包みようにふわりと柔らかな風が舞う。それは、恰も、今は亡き老天狗が最愛の娘に宛てた祝福のようであった。
1/1000少女 ~完~
次回作も期待してます。
文は妖怪らしい妖怪なのが魅力ですね
あなたとはいい酒が飲めそうだ
まさに底が知れませんね
次回作に期待が膨らみます
→姓?
読むのにすごく疲れた。
文もそうですが、紫様とか藍様とか、妖怪の皆さんがしっかり妖怪してるのが良かったです。
人食い・殺戮描写もありますが、それも「活き活き」してる妖怪を書くならば、避けては通れませんものね。
あと個人的には、オリキャラの翁天狗が結構いい味出してたと思います。
特に最期の、「文……泣くで無いぞ~」の下り。
創想話内のSSでも、一二位を争う名言だと思いました。うう、爺ちゃん;;
とにかくお見事でした。ぜひ次回作も書いて下さい。陰ながら応援してます。
\射命丸!/
すばらしい作品をありがとうございます。
おみごとです。
一気に読み切ってしまいました。
妖怪の概念への踏み込み方が程好い感じ、嫌悪感が出てこなかったので読みやすく
ラストまであっという間に読みきってしまいました。
個人的には文の神速のシーンがとても印象的。単純に格好良かったです。
次の作品も楽しみに待ってます。
次の作品が楽しみです
次作も期待してます
絶対に友達になれないなってところがまた(ぇぇ)
褒めてます。
よい文章でした。次があるならぜひ。
お疲れ様でした。
こんなおもしろい話が読めるなら次回作もこのくらいの長さでいいですよー。
おじいちゃんが素敵すぎる。
読み応えのある良い文章でした。良作をありがとうございます。
なんと言っていいのか分からないくらい素晴らしいです。
次回作も期待せずにはいられません。
ダレないストーリーで、長さが全く気にならなかったくらい。
次作、楽しみに待っています。
殺戮の描写がここまですがすがしくさわやかなのは初めて見ました。
妖怪の傲慢がかっこいい。
ありがとうございました。よければこれからも頑張ってください。
幼少の文と翁のやりとりに頬が緩み、戦闘の描写に思わず拳を握り…
翁の漢度に涙させられたか!
また作品をお目に出来ることを願ってます。
この1節から始まる幻想風靡(弾幕無しver)が素敵すぎる!
単に走って相手の喉を噛み切って止まるだけなのに、これをこれだけドラマチックに書けるという貴方の発想力に拍手
そして爺、漢だったよ…
しかし幻想郷では皆丸くなってますねー。藍様とか凄い剥離具合。
このSSが6000点台で留まっているなんて絶対に間違っている
個人的には倍や3倍いってもおかしくない作品ですよ
できるならばもう一度100点を入れたいですが、許されないんですよねぇ・・・
そうか…あややは元人間だったのか。
これはもっと伸びてもおかしくない。
良い作品を読ませてもらってありがとう御座いました。
ありがとうございました
この出会いに感謝。
若干矛盾はありますが、原作が好きな自分にとって設定に忠実に書いてくれていたのでとても楽しめました。個人的に文は(2番目に)大好きなキャラですし、人間や狐との戦いでの文の感情の高ぶりや音速超時の描写の疾走感。そして緊迫感。あまりにかっこよすぎてリアルに想像して鳥肌立ちまくりの文もう大好き。
あと途中から大体感づいてましたが、やっぱり藍様だったか。
すごい丸くなりましたなw
あややかっこいいよあやや
でも冷酷すぎるのかちょっとだけさびしかったです.
幻想風靡の描写とかもうね、忘れかけてた少年の心がこれでもかというくらいに刺激されました。
人間「文」と妖怪「射命丸文」の物語、しかと堪能させていただきました。素晴らしい。
何度読んでも対妖孤戦は涙腺が緩んでしまう。
表現が読んでいて気持ちよかったです。
氏の作品は今までいくつも楽しませていただきましたがデビュー作でこれほどのものだったとは…
これからも頑張って下さい。
オリジナルの世界観がいい味でてました
初作から文と言うか、天狗組に対する愛が伝わってきます。
氏はホントにオリキャラの使い方が上手だと思います。
妖狐戦からは戦闘も熱くて面白かったけど、それ以上に翁の行動すべてが熱くてかっこよかったです。
翁だけじゃなく、恩に対し常に礼を尽くそうとする商家の旦那、仇であるが自分を曲げることはない武将などの脇役オリキャラも味がありました、もちろん一番魅力的だったのは翁ですが。
妖狐戦のときの文の傲岸で不遜な言葉がとにかく好きです。かっこよすぎるでしょ。
爺様との死別シーンでは涙腺もゆるんでしまいました。
こんな素敵な作品を読ませていただき、ありがとうございました。