Coolier - 新生・東方創想話

1/1000少女 (前)

2008/06/01 20:08:17
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 注意書き。
 このSSには、オリジナルな登場人物、設定、及び解釈が数多く出てきます。
 特に、物語の根幹で公式設定を無視している、オリジナルであるにも関わらず十分な戦闘力を有し、重要な役割を持つ登場人物が出てくる等の重大な注意点があります。
 また一部に非常に残酷と思われる表現、人命を軽視したような表現があります。
 以上の要素に嫌悪感を抱かれる方は、お手数ですがブラウザの“戻る”ボタンを押して頂けますようお願いします。
 なお、筆者は投稿日の時点で緋想天及び地霊殿を未プレイです。それらの設定は反映されていない事をご了承下さい。、




















「さてはて……」

 眉間に刻まれた無数の皺がより深く暗く形を変え、長く伸ばした顎鬚に意識せず右手が伸びる。
 これほど分かりやすく態度に現れ、あまつさえ呟きすら漏らしてしまった程の困惑は果たして何年ぶりであっただろうか?
 鬚を撫でつつ烏天狗の翁はそんな事を思った。

 眼前に畏まる従僕に視線を戻す。数百年来の主従。
 出会いが昔過ぎて翁の記憶が曖昧になる程に付き合いは古いが、考える事は未だに読めない。

 蝋燭一本が照らす仄暗い四畳半
 色彩を判断するには十分と言えないこの空間において、それでもそれが黒色であると確信させる説得力のある黒。

「カー」

 カラスである。
 真っ黒い大ガラスである。
 その体躯、小山の如し。長い年月が、妖鳥の域にある彼を大きく大きく成長させたのだ。
 その威風堂々たる佇まい。神格天狗の使いとして相応しい。

 しかし、残念なことがある。いかに素晴らしきカラスであってもカラスはカラス。
 鳴き声では言いたい事は伝わらない。
 慣れた事とは言え難儀なものだと翁は思った。
 今一度視線を下に落とす。白くて丸い何かがあった。これこそ困惑顔の原因である。

 大きさは一尺半程度であろうか、形は楕円形に近い。
 白く見えたのは綿布に包まれているからである。
 
 丸太の様な腕を以って、ずいっと翁はそれを抱きかかえた。

 口がある。鼻もある。当然目もある。ただ全体に作りが小さい。
 正しくそれは赤子であった。それも間違いなく人間の赤子である。

 何と無く指先で頬を突いてみた。
 吸い付くような感触に適度な弾力。
 面白くてつい何度か同じ事を繰り返していると、外部からの刺激に気付いたのだろう、赤子が目を開く。
 ビードロ玉を落とし込んだような丸くて大きいそれと翁の目が合った。

 ……それが悪かったのだろうか?

「ふぇ……ふぇえーーん!」

 赤子が泣いた。

「カー」

 ついでとばかりにカラスも鳴いた。

「ふぅ……」

 翁は思わず溜息をついた。









 1/1000少女 ~Old tengu and Kidnaped girl~









 時代は幻想郷が結界に覆われるずっと昔。
 各地の諸侯がこの国の覇権を握らんと日々戦に明け暮れていた時代である。

 国が乱れ、人々の心に疑心が蔓延る世情。
 しかし、そんな世の中を喜ぶ存在も沢山ある。
 妖怪は正にその例だろう。人の恐怖が源の彼らにとって、乱れた世の中は住み良い事この上無い。
 列島至る所で魑魅魍魎が跋扈する姿を見る事が出来るが、その中でも別格とされる妖怪がいた。
 風や山の神として崇められる事すらある、古来よりこの国に根付いた妖怪。

 その名を天狗と言った。

 全国に点在する霊峰で彼らは集落を作り、人間は元より妖怪からも畏れられ暮らしている。
 畿内のとある霊峰もそんな集落がある山の一つであり、棟梁の天魔の下、多くの天狗が文明的な生活を営んでいた。

 さて、集落から少し距離があるが、この山には滝がある。
 周りを彩る槭樹は見事の一言で、秋ともなれば多くの天狗や河童が集まり、紅葉狩りと洒落込むが日常である。
 しかし、正に冬至を迎えんとするこの時期、流石に酒盛りを始めようなどという酔狂は輩はいない。
 聴こえる音と言えば、滝壺で砕ける水音が微かに響いてくるくらいである。

 雪の白と、一つ残らず葉を散らした樹木の黒が支配する景観は、まるで視覚を以てして静寂を表現している様であった。
 絢爛という言葉を真逆にした様な、ともすれば地味とも取られかねない風景であったが、烏天狗の翁はこの景色が好きであった。

 水墨画の幽玄をそのまま写せばこの様になるのではないだろうか。
 翁が隠居先を集落より離れたここに選んだのはその様な理由からであった。
 少し視線を下に落とすと水墨画の構図の様な質素な茅葺屋根。
 往年の大烏天狗、射命丸の翁その人の庵である。




 その庵に来客があったのは、丁度日が南天に上がる頃であった。

「翁殿。珍しい酒が手に入りました。一献酌み交わしましょうぞ」

 ガラガラと扉を開き訪れたのは壮年の男。こけた頬と背負った大刀が特徴的な銀髪長身の白狼天狗である。

「これ犬走、静かにせんか。今寝かしつけたところなのじゃ」

 口の前に人差し指を置き小声で答えた翁に、犬走と呼ばれた男ははてと言う顔をしていたが、翁の前にある物を見て、合点が行ったという様な顔に変わった。

「ほう……人間の赤子ですか」






「ささ、どうぞ」

 翁が持つ杯に濃紫の液体が注がれる。

 場所は滝が良く見える断崖にぽつんと迫り出した巨岩の上である。
 赤子を気にせず会話するための犬走の提案であった。
 図らずも寒空の下での酒宴となったが、そこは天狗の身、寒さを気にするほど柔には出来ていない。

「南蛮伝来の果実酒らしいですぞ。山の近くを通った商人から通行料としてせしめた物ですが、これが中々」

 酒が杯を満たすのを見計らい犬走は硝子瓶を縦に戻す。
 おそらく贔屓の大名にでも献上する腹積もりだったのだろう。
 希少な酒を強奪された商人に少しばかり同情した翁であったが、そもそも山の近くを通るのが悪い、自業自得だと思い直し杯を口に付ける。
 酸味のある渋みが口に広がった。

「どうですかな?」
「……不思議な味じゃ」
「ははは、そうでしょう。でも、慣れるとこの酸っぱさが癖になるんですよ」

 言いながら犬走は自分の杯にも酒を注ぐ。

「何でも肴には獣肉が良いという事でしてな……」

 犬走が懐から取り出したのは、竹の皮に包まれた猪の干し肉。

「ささ、どうぞ試してみてくだされ」

 催促されて翁は肉を一つ摘むと、ぐいっと杯の中身を飲み干した。

「どうですかな?」
「……悪くない」
「ははは、そうでしょう、そうでしょう。お気に召して頂いたようで良かった」

 上機嫌に笑っていた犬走であったが、若干表情を締りのあるものにすると、翁に切り出した。

「ところで翁殿。あれは何なのですかな?」

 犬走の親指が指すは翁の庵である。
 勿論、庵その物に対する疑問では無かろうから、すなわち庵の中にある物に対する問い、具体的には人間の赤子の件である。
 どういう答えを期待しているのかは分からないが犬走は興味津々という顔つきである。

「カラスが拾ってきた」

 簡潔に翁は答えた。

「カラスと言うと、翁殿の従僕のですかな。なるほど、確かにあの大きさなら赤子を一人運ぶ程度容易いでしょうな」

 ほほうと感心したような仕草を見せる犬走。

「しかし、また何故? 鷹が赤子を攫うというのは聞く話ですが、カラスがというのは聞いたことありません」
「分からん。昨晩、突拍子もなく連れて来て、カーと鳴いて。森に帰りよった」
「カーですか?」
「カーじゃ」
「それが意味するところは?」
「知らん。あれとの付き合いも長いが、いまだ奴の行動は読めん」

 翁のぼやきに、犬走はほうほうと頷きながら次の言葉を続けた。

「いや、実はですね。てっきり翁殿が攫ってきたのかと。ほら、昔は良くやってたじゃないですか」
「何百年前の話じゃ」
「まあ、そうですが。しかし、人攫いをしたのが翁殿であったならと期待していたのですよ」
「何故じゃ?」
「翁殿は隠居されて百年になりますが、未だ返り咲きを願う天狗は多いということですな。勿論私にとっても射命丸の大烏と言えば憧れの存在。
 もし攫ったのが翁殿の指示であれば、現役復帰の兆候ではないかと期待してしまいまして」
「残念じゃが、見当違いじゃ。この衰えた体を見てみい、務められる役職などあるまいて……」

 そう言う翁の枯れた大木の様な背中は少し寂しそうであった。




 しばし、無言で酒を酌み交わしていた二人であったが、犬走が沈黙を破った。

「ところで、あの赤子、どうされるつもりで?」
「うむ」

 翁が思案するような顔付きになる。

「食べられるのですかな?」

 妖怪の身の上である、当然、真っ先に思い浮かぶ選択肢はそれであった。しかし翁の顔は冴えない。

「昔は赤子の一人二人ぺろりと平らげたものじゃが……今はそこまでの食欲がない」

 ここ百年の間で翁が獣肉を食す機会はめっきり少なくなった。
 今摘んでいる猪肉にしても、少量である上、干し肉となっている為美味しく頂けるが、もし血滴る様な肉塊であったなら間違いなく遠慮していただろう。

「では、どうなさるので?」
「最初は親元に帰そうと思った」
「それは、なんとも親切な事で」

 意外そうな表情を犬走が浮かべる。

「食べぬのであれば、それが最も摂理に適う様に思ったからの。しかし……」
「しかし?」
「あれは捨て子じゃった。中の手紙に宜しくお願いします云々とな」

 翁が白い紙を懐から覗かせる。

「まあ、こんな世の中ですから、捨て子も出るでしょうな」
「それで、考えたんじゃがな……、ワシの手で育ててみようと思う」

 それを聞いた犬走の表情がみるみる変化する。

「育てるって、翁殿がですか! また何故!?」

 驚きの表情を隠そうともせず犬走が問う。

「なに。隠居の身上、時間だけは幾らでもあると言うことじゃ。それとも、あれかの?天狗が人の子を育てるのはけしからんと」
「いえいえ、そのような事は無いかと」

 右手をブンブン振りつつ犬走は否定する。

「他の山には人に剣術を教える天狗もおりますし、何より翁殿のなさる事、文句を言う天狗などいないでしょう。
 ただ、これを聞いた天狗は皆私の様に驚くでしょうな。え?あの射命丸の翁が?って感じに」
「そんなに意外か?」

 やや不思議そうに翁が首をかしげる。

「翁殿の若い時分を知っているもので」

 犬走が神妙に答える。

「昔は昔じゃ。ワシもずいぶん丸くなったとお主も思うじゃろう?」
「ええ、まあそうですな」

 犬走の口元が緩む。

「ところで、翁殿は育児の経験は?」
「あるはず無かろう。女天狗に尋ねてみる事にする」
「それが宜しいでしょうな。育てるのであれば乳の工面も必要ですし」
「ふむ……乳か失念しておったな」
「育児は結構な労働と聞き及んでおります。本当に大丈夫で?」
「ワシを誰と思っておる。射命丸の大烏ぞ。今までワシが有言実行しなかった事があったか?」

 そう言って翁はニィと笑った。

「ありませんな」

 犬走も笑顔で返す。

「「ははははは」」

 渓谷に響く天狗二人の笑い声。

「時に、翁殿」
「なんじゃ?」

 犬走が空瓶を手に翁へ告げる。

「育児の時間が迫っておりますぞ」

 赤子の泣き声が渓谷に鳴り響いたのは犬走の言葉と同時であった。





***





 『射命丸の翁が人の子を育てる事にした』

 その知らせは犬走が予想したように相当の驚きを持って受け入れられた。
 集落では噂に憶測が加わり、尾鰭は大きくなっていく。それを元に烏天狗達がこぞって号外の瓦版を発行し、また噂が大きくなる。
 最早事実の痕跡しか残していない噂に翁は苦笑するのであった。




「なになに……。『若かりし頃の射命丸の翁をよく知る、ある天狗はこう語る。
 肉の柔らかさ、臭みの無さという点では生まれたての赤子が最上であるが、さっぱりし過ぎている感も確かにある。
 柔らかさと肉の旨みが丁度良い塩梅となる生まれて半年の赤子を翁殿は好んでいた。
 おそらくその時期まで育てて食すつもりであろう云々』らしいですぞ。翁殿」

 翁の庵で瓦版を読み上げる犬走。赤子は部屋の隅で布団に包まれて寝息を立てている。

「その天狗はお主ではあるまいの」

 硯に墨を磨りながら翁が返す。

「ははは、まさか。今の翁殿を最もよく知る私がそんな事言うはずないじゃないですか。
 ところで、何をされるおつもりで? 書の趣味があったとは知りませんでしたな」

 墨を筆に染み込ませ、紙を前に翁が答える。

「この時期に書くものと言えば決まっておろうが。黙って見ておけ」

 翁の手が踊る。
 紙に残されるは、力強く荒々しく、されど洗練された墨跡。
 翁が渾身の力で書き抜いた紙上のは一字は“文”。

「ほう……読み方は?」

 予想以上の達筆振りに感心しつつ、犬走は尋ねる。

「“あや”じゃ。いい名前じゃろ」
「ええ、可愛らしい響きですな」
「そうじゃろ。今までは赤子と呼んでいたが、それでは余りに哀れじゃ。 良き人になる為には、良き名でなくてはの」

 幸せそうに眠る赤子に視線を移しながら翁が言う。心なしかその口元は緩んでいる様に見えた。

「今から、お主の名は文じゃ」

 赤子に向かって翁は宣言する。聞こえている筈はないが、文は翁に応えて微かに笑った気がした。




「しかし……文ですか」

 犬走が呟く。

「何か問題があるか?」
「いや、恐らく意図しての事なのでしょうが、翁殿の諱には文の一字が含まれている故……」

 翁が名乗っている『射命丸』は雅号である。
 相対すれば誰であろうと命散らさずにいられないという畏れを込め、誰かがそう呼んだのが由来であるという。
 射命丸が雅号であるなら、当然、別に本名がある訳で、果たしてそれには確りと文の一字が使われていた。

「……それだけの覚悟がおありという事なのですな」

 名前には力が宿る。天狗達はそう考えている。
 故に本名の一部を他人に与えるというのは、もはや一種の儀式である。
 例えば長兄に名を与える時。例えば義兄弟の契りを結ぶ時。
 それ程の出来事で無いと、本名の一部を与えるという事はありえないのだ。

 それを翁は文に与えた。
 すなわちそれは、人の子を己が身内にするという宣言に等しい。

「犬走……ワシは本気じゃぞ」

 翁は微笑んでいたが、眼からは強靭な決意を感じ取れた。




 かくして翁の育児が始まった。

 翁にとって全てが未知。想像以上の苦労を強いられる経験であった。
 昼夜問わず大泣きする文を宥め賺して寝かしつけ。
 腹が空いたと喚く文を背負い、母乳を貰いに女天狗に頭を下げた。

 体力ある天狗の身とはいえ老骨一人の育児。
 最初、周りの天狗は随分と心配していたが、しばらくすると杞憂であると気付くようになる。
 確かに苦労はしている。しかし、その翁の表情は実に活き活きとしているのだ。

 文に最初の歯が生えたとあらば、多くの天狗を招き祝いの宴を催した。
 文が己の足で立ち上がった時には、万感の思いを日記帳が一杯になる程に書き綴った。
 文が始めて言葉を発した時など、集落中に文の偉才ぶりを自慢して回った。

 隠居して百年。すでに枯れたと思っていた巨木に再び命を与えたのは幼き人間の子であった。

「いやはや。最初は随分心配したものですな。癇癪起こすんじゃなかろうかって。
 しかし、蓋を開けてみれば翁殿はすっかり親馬鹿になられた。いや実に目出度し」

 翁に近い犬走の哨戒天狗はそう語る。





***





 翁が文を育て始めたあの時から、五度目の冬が山に訪れようとしていた。

「じいさまー!」

 翁の庵に向かって走る黒髪の幼き少女。数え年五つに成長した文である。

「お帰り」

 それを翁は優しい笑顔で迎えた。
 西空が赤く染まっている。なるほど子供は家に帰る時間である。それは天狗にとっても同じであった。

「夕飯が出来ておる。冷めないうちに食べようかの」
「はーい」

 ここ最近の翁の日常である。




 こぢんまりとした食卓に並ぶ大小二つの茶碗からは白い湯気が立っている。
 向かい合って座る老天狗と人の少女。

「あのね、じいさま、きょうはね、おにごっこしたの。それでね、わたしがいちばんつよかったんだよ」
「おお、そうかそうか、流石は文じゃ」

 手振り身振りを交えて喜びを伝える文に、翁はやはり笑顔で答えた。

 曰く、一番足が速いから誰も追いつけなかったとか、葉隠れの術を誰も見破る事が出来なかったとか。
 文はやや興奮した顔つきで今日の遊戯の内容を仔細に語る。
 箸を持った右手を大仰に振り回す様子は行儀がよろしいと言えそうに無いが、注意しないあたり翁の親馬鹿ぶりが見て取れる。

 そんな事より翁が注意を向けるのは、文の遊戯の内容である。
 文の遊戯相手――ここは妖怪の住まう山。人の子などいる訳が無いので、当然相手は天狗や河童の子供達である。

 幼いとは言え妖怪である、今日遊んだという鬼ごっこにしても、普通の人の子が遊ぶそれとは一線を画す。
 鬼は捕まえる、鬼で無いなら捕まらない様にする、規約はそれだけ。単純ゆえに多くの事が許される。
 例えば、迫る鬼に対して弾幕を展開する。例えば、秘薬を以て身体の力を向上させる。
 例えば、文がそうした様に、術で姿を隠し鬼をやり過ごす。
 何でもありなのである。

 天狗が群れで行動する妖怪でありながら個々の力も並外れているのは、遊戯という形で闘争の経験を幼い頃から積むことが一つの理由だと翁は考えている。
 しかし、鬼ごっこが闘争と呼べるまで昇華される理由については、やはり天狗という種が持つ素質に依るところが大きいと翁は考える。
 そもそも人の子の鬼ごっこでは、武力を行使するという発想そのものが禁忌である。
 大前提として天狗と人では文化が違う。

 しかし、驚くべきはその異文化に文が完全に馴染んでいる事である。
 しかも馴染んでいるというだけでは無い。今や、文は天狗や河童の年少連中から一目置かれる存在なのだ。

 これには翁も驚いた。
 何と言っても、最初は天狗や河童の腕白小僧に人の子である文が苛められやしないかと心配していた程なのだから。

「うまくやっていけているようじゃの……」

 幸せそうに米を頬張る文を見て、翁は目尻を下げる。それはきっと安堵の表れであった。

「じいさまどうしたの?」

 翁の呟きに文は首をかしげる。

「いや、文が元気で嬉しいと言う事じゃよ」

 その答えに少しきょとんとした顔をした文であったが、すぐに笑顔になると翁に言葉を返した。

「うん。あやはげんきだよ」

 翁の顔は満足そうであった。

「ねえ、じいさま」
「ん?何じゃ?」
「あのね、あした、また、あたらしいじゅつを、おしえてほしいの」
「ふむ、新しい術とな?」
「うん、“はがくれ”はもうつかえるようになったよ。だから、つぎのじゅつを、おぼえたいの」

 風神木の葉隠れ――自らの姿を晦ます天狗の秘術である。
 翁が文にこの術を授けたのは三日前、そう僅か三日の期間で天狗の秘術の一つを習得したというのだ。
 確かに比較的単純な機構を持つ術であるが、これほどの短時間で修める事の出来る者は天狗であってもそうそういるものでない。

 天才。

 軽々しく使う言葉ではないが、文の才を表現するにはこの位の言葉でないと釣合が取れない。翁はそう思っている。
 同年代の天狗の誰と比べても、文ほど術を使いこなせている者はいない。それゆえ腕白な妖怪の餓鬼連中も人間の文を認めざるを得ないのだ。
 人の身でありながら天狗と渡り合う出鱈目な才能は、天才と呼ぶのが相応しいのだろう。

 しばし思案した翁は、大きく頷いた。

「今日の話を聞く限り葉隠れは十分使いこなせておうようじゃ。
 明日は新しい術を授けることにしよう。そうじゃな、烏を使役する術などどうじゃ?」
「からすさんをつかうじゅつ? おもしろそう。あしたはそれをおしえてほしいな」
「うむ。では明日に備えて今日は早く寝ることにしようかの」
「はーい」

 きっと文は“暗夜の礫”もすぐに習得してしまうだろう。実に教え甲斐がある。

 しかし、才能が突出しているからこそ翁は残念に思うのであった。
 どれだけ才能があろうと文は結局人間である。十年、二十年と経てば天狗と人間の違いが顕著になってくる。
 例えば体の強さや、妖力の強さである。天狗なら空の飛び方も自然と身に付くが、人の身ではそうはいかないだろう。如何ともし難い種の特性であった。

 もし文が天狗の子であったなら……。
 翁が文の才を見出してから毎晩のように思うのはそれであった。

 しかし、天狗である翁が文にこれほど執着するのは文の才能ゆえだろうか?
 それは違う。翁は自信をもってそれを否定できた。
 翁は文との暮らしで、久しく感じる事の無かった安らぎを感じていた。
 それは、きっと愛と言っても過言ないもので、例え文が凡庸な人間であっても変わらぬ愛情を注いでいたに違いないと翁に確信させるものであった。

 思わず茶碗を握る手に力が入る。
 実はここ十数年、翁の衰えは眼に見えて激しくなっていた。今、茶碗と箸を握る両手にしても日ごとに感覚が鈍くなってきている。

 ――もう長くは無い。
 
 翁がそれを悟ったのは、文との出会いの数日前であった。
 出会った当時はそこまで意識していなかったが、今思い返すと何か運命じみた物を翁は感じていた。
 文がいなければ、きっとそのまま寂しく一人で生涯を終えていただろう。

 しかし、文の存在によって、生涯の最後にいい思い出を作ることが出来そうだった。
 自分が数百年で培った技術や知識を、愛する物に残せるとは何と幸せなことか。
 しかも、愛する物は、その技術や知識の全てを修めるだけの才覚がある。何と幸運なことか。

 翁は残された短い生涯を文の為に捧げる事を誓った。





***





 鮮烈な太陽光に降り注がれ、山々は高彩度の緑で塗り潰されている。
 山間で轟くように反響する蝉の鳴き声は、溶ける様な暑さを物ともせず、むしろ気温が上がれば上がる程に、喧しくその生命を主張する。
 これ以上は無いという夏日であった。

 その澄んだ蒼穹を飛行する黒い点が二つ。
 緩やかに入道雲を横切るそれを地上の人が見れば、鴻鵠の類だと思うかも知れない。
 実際、それの正体は鳥と言っても間違いではない。しかし正確ではない。
 誇り高き烏天狗を表現するには、鳥ではなく天狗という言葉を使うべきなのだ。

 空を翔るのは射命丸の翁。その隣で従僕の大ガラスにぶら下がっているのは齢十になった文である。
 女の子らしさを感じさせる様になった顔つきからは、期待や好奇といった感情が滲み出ていた。

 それもそのはず。翁と文は人の暮らす街に向かっているのだ。
 それも、山の麓の農村などではない。目的地はこの国でも有数の大都市なのである。
 あまり山以外の土地を見たことが無い文である。都市という未知に期待は膨らむばかりであった。

 出立より一刻が経過した位であろうか、文の目は、緑の地平に遠く灰色の四角を捉えた。
 それこそ文たちの目的地。
 規則正しく縦横に立ち並んだ建造物。その規模の大きさに文は目を見張った。

 古来よりこの国の中心であり続け、数多の栄枯盛衰の舞台となってきた古都がその姿を現した瞬間である。




 古都より少し離れた竹林に翁と文は降り立った。
 
 文からすれば少しでも早く街に足を踏み入れたい気分なのだが、直に空から街に降り立ったとあれば騒ぎになること必至である。

 実は、翁は若かりし頃に何度もそれをした事があるのだが、今回はその時とは目的が違う。
 昔の様に人間に喧嘩を売りに来た訳ではない、言うなれば観光である。混乱の元になるような行動は避けるべきであった。

「ここで一旦別れる事にしようかの。次に呼ぶまで自由にしておるがよい」

 翁の言は従僕の大ガラスに向けられたものである。
 街を一緒に見て回るには、この従僕は大きすぎて無用の注目を集めてしまうし、そもそも彼は人の文化には興味がない。

 だから普段、翁が古都を訪れる際はわざわざ呼び出したりはしないのだが、今日は文がいる。飛べない文をここまで運ぶ為に彼の力を借りたのだ。
 翁自ら運べたならそれが一番良かったのだが、少女一人を抱えて飛ぶのが負担になる程に翁の衰えは深刻と言えた。

 文は大ガラスに礼を述べると、手を振って別れの挨拶とした。

「カー」

 大ガラスは短く鳴いてそれに応えると、竹林の中に飛び去っていった。

「さて、行くとしようかの」
「はい!」

元気よく答える文。ここからは徒歩での移動になるが、二刻もあれば十分に古都の大門に辿り着けるだろう。







「わあ。人が一杯」

 目を丸くする文。

 ここは多くの商家が立ち並ぶ、古都でも有数の通りであり、町人やら侍やら坊主やら様々な老若男女がひっきりなしに行き来していた。
 文は見るもの全てが珍しいという風であり、きょきょろと落ち着きなく視線を動かしながら好奇心を爆発させていた。

「あっ!爺様、これを見てください。鎧武者ですよ、本物を初めて見ました」
「これこれ。珍しいからといって、人に指差してこれ扱いしてはならん。お侍様が怒っておられる」

 文にこれ呼ばわりされた牢人が殺気立った視線を向けるのを見た翁は、右手で文の口を塞ぐと足早にそこから立ち去った。

「文。ワシらは今、唯の老人とその孫じゃ。無用な騒ぎをおこすような行いは控えねばならんぞ。
 ああいう連中は例外なく腹が減って気が立っておる。ほんの少しからかっただけで斬りかかってくるぞ。気をつけねばならん」
「はい、爺様ごめんなさい。次は気をつけます」
「うむ。分かればよろしい」

 満足そうに頷くと翁は再び目的地に向かって歩き始めた。

「まあ、しかし、あれみたいなのは、からかうと面白いから悪戯してやりたくのも確かじゃな。ワシも昔はよくちょっかいを出したものじゃ」

 翁は通りの端を一瞥する。建物の影では多くの牢人やら破戒僧やらが、気怠そうに座り込んでいる。

「それにしても多いのう。まあ、世が乱れるとあの手の人種が増えるは世の常じゃがな。
 しかし、昔はもっと美しい都だったんじゃぞ。道からも高貴さが醸し出されると言うか、文にも見せてやりたかったんじゃがのう」
「そうだったんですか。でも私にとっては、この街は面白いことばかりです。きっと好きになると思います」

 ぐるりと通りを見渡して文が答える。

「ふむ。確かに昔から世が乱れていた方が面白い街ではあった」
「ほら、あの恰幅の良さそうな番頭さんも、あそこで安酒くらって伸びてる懐寒そうな僧侶のおじさんも。
 いろんな種類の人が沢山いて、こんなに面白い街を作っている。人間って興味深いなあって思いました」
「おぬしも人間じゃろうて」
「体はですね」

 不敵に笑う文を見て、翁はなんだか複雑な心境だった。
 人を育てるのが環境だというのなら文を天狗と呼ぶのは間違いではないのだろうが、しかし血は水より濃しという言葉もある。
 翁があれこれ考えながら歩いていると、文が腕を引いた。

「爺様、あれですか?」

 文の人差し指は、今回は短気な無頼を挑発することもなく、正しい目的で使われた。指差す方向には立派な建物と浅黄色の暖簾。

「おお、そうじゃあれじゃ」

 翁お目当ての商家であった。






 商家の番頭に案内されたのは、こぢんまりとした一室である。簡素ながら趣の感じられる調度を見て、文はここが茶室である事を理解する。

「おお、これはこれは翁殿。よくぞ参られた。その後お変わりなかったですかな」

 姿を現したのは、上等な錦を着込んだ小太りの男。
 汗っかきな性質なのだろう。額には油が浮いているが、不思議に不快と感じさせないのは、彼の年季が感じられる笑顔のお陰であった。

「お陰様で変わりなく。旦那殿も元気そうで何より」
「ははは。それだけが取り柄ですからな。おや、そちら可愛らしいお嬢さんは……お孫さんですかな?」

 男が文の方に視線を向ける。

「大体その様な者と考えてくだされ。ワシの弟子です」
「文と申します」

 ぺこりと文は頭を下げる。

「これは礼儀正しいお嬢さんだ。私はこの商家の旦那をしている者です。どれ、一杯、茶をご馳走しましょう」

 茶釜で湯を沸かし始める旦那。それを見る文は、何と無く落ち着きがない。
 文は茶の湯という持て成し文化を、知識としては了解しているが、作法に関しては全く無縁であったからである。
 そわそわする文の心情を汲み取ったのだろうか、旦那が優しく声をかける。

「数寄者の中には煩い人もいますが、作法はそんなに気にする事はありません。
 確かに茶の文化を語る上で、作法は避けて通れぬ物。
 それは尊重されるべきですが、今は茶会でもありませんし、気軽に楽しんで頂ければよいのです」

 それを聞いて文は、ほっとした様な顔を見せる。
 余裕が出来た文は、ちらちらと目で部屋を物色し始めた。行儀が良くないと思ってはいるが好奇心には抗えない。

 そして感じたのは、どうやらこの商家は相当に裕福であるらしい事。
 建物が大きいのは外から見ても分かったが、文が感心したのは旦那が所有する茶器である。

 山には茶器を集めて、それを自慢して回るのが生き甲斐らしい天狗がいる。
 文も、この茶碗はどこどこの窯の作品で、この釉薬が何々といった要領で散々自慢話を聞かされた事がある。
 その空回りの熱意には正直辟易したものだが、そのお陰で審美眼は身についた。

 その文から見て、旦那の持つ茶器は全てが一級品であった。
 素人目にも名品と分かる茶釜を始め、見事な造形の肩衝、名人の作であろう茶勺などがそれである。

 これほどの茶器の揃えるには、果たして、どれだけの金子と情熱を注ぎ込めばよいのだろうか。
 それは文に理解できる範疇ではない。

 ただ、分かった事は、先に作法に拘らなくとも良いと言ってくれたこの商人が、その道では有名な数寄者らしいと言う事である。
 勿論、数寄者の人脈など文が知る筈も無いのだが、これ程に茶器に傾倒している人物なら、きっとそうに違いないと文は確信していた。

 しかし、それだと、一つの疑問が浮かんだ。

 これだけ社会的地位が高そうな人物が、翁とこんなにも親密そうなのは何故なのだろう?
 文には想像できなかった。

 そもそも人間と天狗の間の接点は非常に限られたものであるし、それが友好的な意味での繋がりなら、その数は更に少なくなる。
 翁が人に混じる際には修験者の格好を取るので、その筋から知り合ったのだろうかとも思ったが、
 もしそうだとしても、卑しき身分と見られがちな修験者に、商家の旦那が直々に茶を振舞うというのは、よっぽどの事と思えた。

 考えて分かる問題でもないので、文は後で翁に聞いてみるつもりだったのだが、図らずもその疑問は旦那の言により氷解した。

「翁殿とは、私が化け物に襲われていた所を助けて頂いて以来の付き合いでしてな」

 茶を点てつつ、懐かしむ様に話す旦那。
 なるほど、文は合点がいった。命の恩人とあれば義に篤そうなこの旦那のこと、身分に差はあれど自ら持て成すが当然と考えるであろう。

「当然の事をしたまで。ワシは狐狸の類が一等嫌いでしてな」

 ああ、これは本音だなと文は思った。翁は狸や狐の化生には容赦が無い。
 ただ、旦那を襲ったのがもし狐狸で無かったなら? 
 相手にもよるだろうが無償で助ける事はありえなかっただろう。もしかしたら見殺しであったかもしれない。

 そこまで文は考えたが、二人は実に楽しそうに談笑している。つまらぬ事を言って、わざわざ雰囲気を気まずくさせる必要もないので黙っておいた。
 それよりも、そんな偶然によって、本来交わらぬ筈の二人が笑い合える関係にまでなった、縁の不思議を文は感じるのであった。

「あの時は、本当にお仕舞いだと思ったものです。
 確か、今にも降ってきそうな曇天でしてな、それで、せっかちな私は一刻も早く家に帰ろうと近道をしてしまったのです。
 それが悪かったのですな。半ば獣道のような悪路を必死に歩いていたのですが、私も若くはない身の上、うっかり足を挫いてしまいましてな。
 そして、ろくに動けぬまま夕暮れを迎えてしまったのです。人の匂いを嗅ぎ付けたのでしょう、いつの間にか私は異形の畜生に囲まれていたのです。
 ああ、このまま私は奴らの餌食となってしまうのか……死を覚悟した、正にその時でした。 
 畜生どもの甲高い断末魔。気付いた時には、畜生の全てが屍と化していたのです。
 私は目を疑いましたよ。呆然自失といったところでしたな。そんな私に大丈夫かと声をかけてくれたのが翁殿だったのです」

 嬉しそうに翁の武勇伝を語る旦那。当の翁はどこか気恥ずかしそうである。

「いや、実は私はそれまで法力の類をあまり信じていませんでしてな。
 いんちき坊主に騙された事が一度二度ではなかったのです。
 それに、そういう不可思議な力は化生の類が持つもので、人にはきっと扱いきれる物ではなのだろうと考えていたのです。
 しかし、翁は本物でした。畜生どもを、その法力を以て討ち果たしたのを、この目で確と見た私が言うのですから間違いありません。
 文ちゃんは、素晴らしい修験者のお弟子さんになれたんだから、一生懸命修行して、翁殿の期待に応えなければなりませんよ」

 そもそも旦那は翁のことを天狗だとは知らないので、文の認識とは幾分かのずれがある。
 しかし、言っている事の大筋は間違っていない様に思ったので、文は元気よく、はい、と答えておいた。

 それを聞いて満足そうに微笑む旦那。

「翁殿も跡継ぎは安泰ですな。さて、お茶が入りましたよ、どうぞ」

 文に差し出されるは上等な白磁の茶碗。注がれた抹茶の濃緑色と相まって、ただただ美しいと文は思う。
 よく分からないが、多分これが侘び寂びの美なんだろうと文は勝手に解釈しておいた。
 茶碗に手を伸ばす。作法を知らぬ故の野趣を以て、文は未知の嗜好品を呷った。

 苦い。

 文の顔が見る見る渋いものに変わる。

「やはり、少し苦かったですかな」

 旦那は苦笑するとパンパンと手を打ち鳴らした。
 すると、盆を持った女中が茶室に入ってきた。盆の上には大福数個が乗せられた小皿が二つ。
 女中はその二つの皿を文と翁の前に置くと、失礼しますと言い残し部屋を立ち去った。

 目の前に現れた甘味は、文にとって救いの蜘蛛の糸に見えた。大仰だが、そう感じる程に、抹茶の侘び寂びは齢十の味覚に衝撃的であった。

 文は大福の一つを摘むと、逡巡なく口の中に放り込んだ。
 餅は驚く程に滑らかで、漉し餡には雑味がない、大福の一つ一つが小ぶりな事も手伝って大変に上品な味わいである。
 高貴さすら漂う甘みが、苦味で満たされた口中を塗り潰していくのが分かる。
 都会の菓子職人恐るべし。文は戦慄した。

 ごくりと一つ目の大福を飲み込むや、文の手は早速二つ目に伸びていた。

「お気に召して頂いたようで。お代わりはありますので遠慮なく」
「やはり文には甘い物じゃ、茶はちょっと早かったのう」

 ははは、と声を出して笑う翁。子供扱いされて文は少しむっとしたが、ここで反論でもしようものなら、またあの苦い液体を飲まなければなくなる。
 それよりは、人目憚る事なく甘味を愛でられる子供でいいと自分を納得させた。




 その後三人は暫く歓談して過ごした。特に翁と旦那には積もる話もあるらしく、話の花は枯れる事なく咲き続けた。
 動きがあったのは、文が二皿目のお代わりを食べ終えた頃である。

「時に旦那殿。商談と参りしょうか。実は今日訪ねたのは、それが目的でしてな」

 翁の突然の提案は、文にとって初耳である。商家を訪問する目的は旧友との再会としか聞かされていない。

「ほう、商談ですか。翁殿はいつも質の良い物品を譲ってくれますゆえ、今回も期待していますよ」

 旦那は笑顔のままであったが、纏う雰囲気の変化を文は感じ取った。
 その目は権謀術数張り巡らされた商人世界を、看板を背負い戦い抜いてきた猛者のそれであった。

 翁は腰に掛けた袋から掌に納まる程度の石を取り出した。

「ふむ、翡翠ですか」

 翡翠。川蝉の別称であるその玉は、かの鳥の翼の如く澄んだ美しい緑色である。この国の黎明まで遡っても確認出来る程に装飾品としての歴史は古い。
 翁が暮らす山で採取される事は無いが、他山の天狗との交流でこのような貴重品を譲り受ける事がある。

「ふうむ、質も大きさも申し分なし。これ程の物は久しく見ておりません」

 翡翠をひっくり返したり、指先でこんこんと叩いてみたりして品定めをする旦那。きっと頭の中では凄い速度で算盤が弾かれているのだろう。

「翁殿との仲ですし、少し勉強させていただいて……。そうですな、金子にして――」
「旦那殿。少し宜しいか」

 旦那の、引取りの価の提示を翁が遮った。

「今日に限っては、金子ではなく物々交換を願いたいのです」

 旦那の表情に怪訝な色が少し混じる。

「……話を聞きましょうか」
「ワシと文は結構な時を共に過ごしておるのですが、お恥ずかしい話、一度もきちんとした形で物を買い与えてやった事がないのです。
 しかし、文も今年で齢十。記念という訳でも無いのですが後々まで残る物を贈ってやりたいのです。
 そこで、旦那殿の店が扱う商品の中より、この翡翠で足る商品を文に選ばせ、それと物々交換という形にしたいのですが如何ですか」

 翁の突然の申し出に文は目を丸くしている。

「ふむ、そういう事なら歓迎しましょう。番頭に案内させます。さあ、文ちゃんこちらへどうぞ」

 暫く手を顎に当て考えていた旦那であったが、翁の申し出を受けることにしたらしい。

「あの翡翠なら、店内の殆どの商品と交換可能です。よっぽどの名品や珍品は遠慮して頂くかも知れませんが」

 旦那に招かれて、茶室の出口に立つ文。まだ事を理解できていない面持ちである。
 不安そうに翁の顔を見る文。それに翁は微笑みと大きな頷きで応えた。

 ――行って来い

 言葉は無くとも文には十分伝わった。




 番頭の案内で店内を見て回る文。
 店内は広く、多彩な色彩で溢れていた。
 それは反物であったり、屏風などの芸術品であったり、はたまた刀剣の類であったり、或いは南蛮伝来の品々であったりする。
 様々な名品珍品は見ているだけで楽しい。

 文の相手をしている、人の良さそうな番頭は、山吹色の可愛らしい絹綾の振袖を薦めてくれたが、文は丁重に断った。

 実は文には予てから欲しい物があっのだ。
 それを番頭に伝えると、すぐに何種類かのそれを用意してくれた。
 それぞれの産地や、製造の時代、名称の由来などを丁寧に説明してくれる番頭。
 それを感心したように聞きながら文は、最終的に己の審美眼を信じて一番価値のありそうな物を選んだ。

 物々交換を終えた翁と文は、旦那に礼を述べると商家を後にした。

 文は分かれる際、旦那から、いい眼をしているとの言葉を貰った。皮肉を言っている様には見えなかったので、額面通りに受け取っていいのだろう。
 それは、審美眼を認められたという事。つまり、先の数種類から一番良いものを引き当てたという事であり、文は上機嫌であった。

「爺様、ありがとうございます。確かあの翡翠は爺様がとても大事にしていた物の筈。
 それを売り払ってまで私に物を与えてくださるなんて感激の極みです。これは一生大事にしますから」
「なに、死蔵されるより、世の美人を飾る方が翡翠にとっても本望じゃろ。
 しかし、お主も変わった物を欲しがるのう。おなごなら綺麗な着物とかを欲しがったりする物じゃろうに。
 硯なんぞ欲しがるのはきっとお主くらいじゃぞ」

 そう、文が欲したのは硯であった。

 墨、紙、筆と共に文房四宝の一つであり、その中でも最も格が高いとされている。
 古来より有名な文人は、己の地位の証明として、より素晴らしい硯を求めたという。
 文が選んだそれも、数世紀前までは大陸の高名な文人の所有物であった。
 数百年を経ても骨董に成り下がらぬ圧倒的な存在感に文の感動も一入である。

「私はずっと自分の硯が欲しかったのです。これ程の硯なら、きっと素晴らしい書を書けるに違いありません」
「硯は関係ないと思うがのう。弘法筆を選ばずと言うじゃろう」
「弘法が筆を選んだら鬼に金棒じゃないですか。
 大体爺様は、確かに字は上手いですが、烏天狗の割りに書く事に興味が無さすぎます。硯だってどこの石かも分からない様な物ですし。
 他の烏天狗の皆さんは文筆に情熱を傾けているではありませんか」
「毎日欠かさず日記を付けておるではないか」
「そうじゃ無いです。ほら毎朝届くじゃないですか」
「瓦版のう。あれは読む物じゃ。自慢ではないがワシは生まれてこの方、一度も書いた事ないぞ」


 烏天狗は好奇心の塊の様な種族である。
 事件を求めて、西へ東へ飛び回り、集めた情報を元に書き上げた瓦版で、己の筆致を自慢するのが彼らの愉しみなのだ。

 殆どの烏天狗が瓦版を発行しており、翁の庵にも毎日、それぞれ文責の異なる瓦版が何部も届く。
 烏天狗にとって瓦版は己の地位を証明する手段であり、目を惹く事件を流麗な文章で綴る事のできる者は尊敬の対象になる。
 そのため文筆の研鑽に余念が無いのが烏天狗であるのだが、そういった意味で翁は異端であった。

 華奢な体躯が多い烏天狗にあって異彩を放つ六尺五寸は、かつて鬼と渡り合えると評された程の武辺者であり、その才覚は文筆ではなく、主に組織の運営で発揮された。

 そういった経緯から、翁はあまり烏天狗扱いされておらず、また翁自身も己の種に矜持はあるが、今更、筆でどうこうという気は無かったのである。
 最も近い後輩が烏天狗でなく白狼天狗の犬走である辺りが、翁の山での立ち位置を如実に物語っていると言えた。

「……本当に自慢にならないですよ、それは。でも、安心してください。私が爺様の分まで書いて差し上げます。
 そして、いつかは瓦版の頂点に立つのです。この硯があればきっと不可能ではありません。期待してて下さいね」

 そう言った文は、晴れ晴れしいまでの笑顔であった。


 天狗の瓦版は活版印刷である。とある河童が数少ない資料を元に、苦心の末完成させた革命的技術であった。
 これによって、瓦版を生き甲斐とする多くの烏天狗が、手書きの重労働から解放されたのである。

 しかし、それは文字の上手下手が紙面に及ぼす影響が無くなった事を意味するものであった。
 その理由から、硯の質が瓦版の質に影響するという論理に翁は懐疑的である。

 しかし、かつて大陸で名を響かせた文筆家が、この硯を以て絶唱を記したという事実には意味がある。
 その格調高さに肖られるというのなら、文にとって無駄にはなるまい。

 翁は文の買い物を最終的には好意的に受け入れる事にした。
 結局、なんだ彼んだで、文の喜ぶ顔が嬉しかったのである。



 
 その後、翁と文は古都の見所を観光して回った。有名な神社仏閣や、遠くから見る御所など、文にとって大いに好奇心を擽られた体験であった。
 しかし、幾ら楽しくとも、何刻も歩き回れば腹が減るは人の性。

 文と翁は、古都の中心から離れた水田の、土手に生えた木の下で握り飯を頬張っている。
 周りに人の姿は無く、目の前で緑の稲が夏の風に靡いていた。

 その中、翁に呼ばれ、ばさりと舞い降りたのは従僕の大ガラスである。
 文は握り飯を右手で千切ると大ガラスに差し出した。一声鳴いてそれを啄ばむ大ガラス。
 文はその様子が面白いらしく、右手の飯粒が無くなると、再び握り飯を千切り大ガラスに与えている。

 何とも長閑かな光景であった。

 燦々と照り付ける太陽は相変わらずであるが、木の下に広がる影は、緩やかに風が吹いている事も手伝い、心地よい空間を翁達に提供していた。
 遠く響く蝉時雨も今は快い。
 案外、思い出に残るのはこの様な光景であるのかもしれない。翁がそんな事を考えていた時である。

 異変は唐突であった。

 ――めり。

 その様な音を立て、翁の眼前の風景に裂け目が入ったのだ。
 真っ直ぐ浮かぶ糸の様にも見えるそれは、しかし、質量持つ物質で無い事は瞭然であった。

(スキマ……)

 未知の現象に対して、文の脳裏に浮かんだのはその様な単語である。理由は分からない。
 それが視界を左右に分かつ空間の境界であり、概念の間隙であるなら、その呼び名以外に適当な表現は無いように思えた。

 文達が見守る中、みちみちと肉を裂く様な音を立ててスキマが開く。
 スキマの中には紫色の異界。

 冥府の門が開いた――そう文は思った。
 突飛な発想であったが、それが十分な説得力を持つように感じられるほど異常な光景であった。

 スキマは更に拡大を続け、人が優に通れるまでになった。
 はっきりとその姿を見せた異界。文の緊張は最高潮に達した。
 信じられない事だが、中には人がいた。しかも、それはどうやら女性らしくスキマの中からこちらを覗いている。

 文の脳内で様々な情報が交錯する。
 もし、これが地獄の蓋が開いたのだと言うなら、彼女は地獄の鬼か? はたまた罰に服す亡者か?
 しかし、その様に考えるには余りにも――

 ぞくり。
 文の背中に痺れが走る。

 ――そう、その様に考えるには余りに美しすぎる。

 無垢な少女であり妖艶な熟女。高潔な聖女であり淫靡な娼婦。
 それは矛盾であるが、完全に絡み合い、悍ましいまでの美貌として体現された。
 傾国という言葉ですら彼女を評するには不足と思わせる。
 その軽く波がかった金の紗は眩いばかり。南蛮にはこの様な金の髪を持つ人が住むという話だが、きっとそこの誰もが彼女のそれに敵わないだろう。
 そして、彼女の瞳。底が覗えぬ程の深さ。いったいどのような生涯を送ればこの様な色を持つ事ができるのだろうか?

 ぞくり。文の背筋に再び電流が走る。
 女は文の理解を遥かに超えていた。

 文の頭の中では本能が引っ切り無しに警鐘を鳴り響かせている。

(この女は危険だ)

 文の手が懐に伸びる。法力を込めた札を忍ばせてあるのだ。それは殆ど無意識の行動であった。

 その文の前に翁はすっと手を伸ばす。
 制止の合図であった。文ははっとした様に懐から手を戻す。

 翁は女性に向かい、恭しく頭を下げる。

「御久しゅうございます。八雲様」

 翁の挨拶を受けて女性は微笑んだ。見るものを訳も無く不安にさせるその笑顔は、大変に胡散臭い印象を文に与えた。

「本当に久しぶりね。何百年振りかしら?」




 ――八雲紫。

 彼女はそう名乗った。

 いつの間にかスキマは消失し、紫は文と翁の間に割り込むようにして座っている。大ガラスは翁の肩の上だ。

 文は、この女がどうにも好きになれそうに無かった。
 力ある人外の類である事は分かる、どうやら翁の知り合いであるらしい事も分かる。
 しかし、得体の知れなさが度を越している。

「へぇ。文ちゃんって言うんだ」

 にこにこと愛嬌を振りまく紫、対する文は難しい顔を崩さない。

「そんなに怖い顔されるとお姉さん悲しいわぁ。ほら、ね、仲良くしましょ」

 紫の右手に握られていたのは大きな林檎飴。
 どこから取り出したのか疑問に思ったが、文は紫から飴を受け取った。

 舐める。果実の酸味と砂糖の甘みの素晴らしい調和。
 文の心は大きく動いた。
 案外悪い人ではないのかも知れない。文は紫に対する評価を上方に修正する。

「……ありがとうございます」

 それを聞いた紫は嬉しそうに破顔した。
 子供みたいな人だと文は思った。飴一つで懐柔されている己自身こそ子供なのだが、それは棚に上げておく事にした文である。




 紫は文に己の紹介をした。

 曰く、境界に潜む妖怪であると。
 曰く、境界を操る程度の能力を持つと。

 それを聞く文の顔は信じられないといった風であった。

 境界――何と抽象的な概念であろうか。
 それゆえ、境界はあらゆる具象に干渉しうる。つまり、彼女の能力はありとあらゆる事を可能にできる。
 何と出鱈目な。それは殆ど神の所轄ではないか。
 スキマなどという異界を開くのであるから、相当に力ある妖怪だとは思っていたが、まさかそれ程とは。

 文は驚嘆する。己はそんな存在に札を投げ付けようとしていたのである。
 もし翁の制止が無かったならと考えると……背筋に冷たいものが走るのを感じた。

 文にとって幸いなのは、己と紫が敵対する要素が今のところ見受けられない事である。
 何とも和やかな懇談であった。
 翁と紫は旧知の仲であり、実に話が弾んでいる。
 文は、尊敬する師であり、育ての親である翁が、こんなに凄い妖怪と知り合いである事が何だか誇らしかった。

 そうなると、二人の馴れ初めを知りたいと思うは当然の事。文はそれを二人に尋ねた。

「ふむ。ワシらの邂逅とな?あれはワシがまだまだ血気盛んな若人であった頃。
 当時より大妖怪として音に聞こえておった八雲様に決闘を挑んだまでは覚えておるのじゃが……」

 顎髭を擦りつつ、何と無く気まずそうな表情を浮かべる翁。

「その先は? もしかして忘れたとか?」
「何分、随分と昔の事。靄でもかかったかの様に判然といたしませぬ」

 紫はしばらく呆れた様に苦笑していたが、仕方ないかといった顔で文の疑問に答えてくれた。

「私達が出会ったのは、本人の口からもあった様に、あなたの師匠がまだまだ、精力漲る若者であった頃よ。
 当時の彼は、天狗社会に比類なしと称えられた程の豪腕の持ち主で、強者と呼ばれる妖怪を叩きのめすのが悦びのやんちゃ坊主だったの。
 この街では特に激しく暴れ回ったから、人妖問わず恐れられていたわ。
 元気のいい天狗がいるって噂は、一応私の元にも届いていたのだけど、まあ正直その時は、青二才が身の程も知らずに調子に乗ってるって位にしか思ってなかったわね。
 さて、あれは見事な望月の夜だったわ。御所は見物したかしら?
 当時は今ほど煌びやかではなかったのだけど、その晩私はその屋根の上で百鬼夜行を肴にちびちびやっていたのよ。
 そうしたらね、突然よ。突然に百鬼夜行が砕けたのよ。ドーンって爆音を立てて。断末魔の叫びが凄かったのを覚えているわ。
 大量の血や臓物がぼとりぼとりと降りしきる、文字通りの血の雨を見て私は面白い事になると確信したわ。
 そして、その雨の中、不遜な笑みすら浮かべて彼は私の前に降り立ったのよ。それが私達の最初の出会いね。
 彼は私に喧嘩を売りに来ていて、私は彼の喧嘩を買うつもりだったから、後は言葉もいらないわね。
 街全体を舞台に大妖怪同士の決闘よ。いつもは騒がしい魑魅魍魎の類もその夜ばかりは大人しくしていたわ。
 宮仕えの陰陽師が総出で繰り出した程の騒動なのだから当然よね」

 手振りを交え、まるで昨日の出来事であるかの様に詳細に状況を語る紫。
 それを聞く文は興味津々という顔である。
 
「それで、結果はどうなったのですか」

 文が期待に満ちた瞳で紫に尋ねる。

「それは当然私が勝ったわよ」

 途端に消沈する文。

「ほら、そんなに落ち込まない。
 私の能力は説明したでしょ。これで負ける方が難しいのよ。ただ、貴女の師匠の名誉の為に付け加えるなら、彼は私に血を流させた数少ない妖怪だわ。
 つまり、とっても強かったの。間違いなく誇っていいわ」

 ぱあっと文の顔が明るくなる。それを見て紫は満足そうな笑顔を浮かべる。翁はやはり気恥ずかしいのだろう、ぽりぽりと頭を掻いていた。

「それにしても、あんな大騒ぎを覚えていないなんて、本当に年を取ったわね」

 少し皮肉な語調で紫はそう言った。やはり出会いの記憶を、一方的に忘れられていたというのは紫にとって愉快で無かったのだろうと文は解釈した。

「年を取ったと言うよりも、老いたのでしょうな」

 それに対して翁はそう答えた。その表情は穏やかで、そして、少し寂しげに見えた。

「本当にね。皺くちゃじゃない。前会った時はもうちょっと格好よかったわよ」

 紫は相変わらず皮肉な語調だが、声色に一抹の寂しさが混じったのが分かった。

「……ところで、“約束”覚えているかしら? もう時間が無いのは分かっているわね。目的の物は見つかったかしら。それとも、この件も忘れた?」

 翁はゆっくり首を振る。それは最早記憶に無いという事を肯定するものであった。

「……そう。本当に老いたわ」

 紫が俯く。曇ったその顔が意味するのは、諦観であったか。それとも失望であったか。
 不意に訪れた重苦しい沈黙に文はあたふたする他無かった。




 天狗とは百年の単位で年を経る長命な妖怪である。
 その一方で、見た目の成長差が非常に大きい種族でもある。

 長老職にありながら、見た目が紅顔の童子である者。
 齢百にも満たぬ若輩でありながら、老松の容貌と風格を備える者。
 実に様々である。

 翁が数百年前、急速に老け込み始めた時も、それが見た目の変化だけであったなら不審に思う天狗はいなかったであろう。
 しかし、翁の場合、変化は姿形だけに止まらなかった。

 比類なき豪腕。翁の自慢であったそれが、体に刻まれた皺の数に反比例するかのように弱っていったのだ。
 そう、正しい意味で翁は老化していたのだ。

 それが判明した時、山の騒ぎは相当な物であった。
 そもそも天狗にとって老化とは、然るべき寿命によってもたらされるべき物。
 それは個々によって多少の差異はあるが、僅か数百年で衰えが顕著になる程のそれは天狗達にとって前代未聞であった。

 ある者は病を疑った。またある者は翁を恨む何者かの呪詛ではないかと言った。
 だが、結局理由は分からず、翁は衰えを理由に山の要職から身を引き、隠居生活を始めたのである。

 実は翁にはその理由に心当りがあった。
 昔に紫と交わした“約束”である。それは、何か重要な取り決めを行った様な気がするのだが、その内容がどうしても思い出せないのであった。




「カー」

 沈黙を破ったのは大ガラスの一鳴きである。滑稽なその鳴き声に、張り詰めていた空気が少し緩む。

「……あなたはこんなに大きくなったのね」

 紫は大ガラスの頭を撫でる。大ガラスは気持ち良さそうに目を細めていた。

「ワシが老いた分だけ、成長しておる様な気がします。今は齢数百の妖烏ですが、いずれ人型を取るのやもしれません」
「……そうなのでしょうね」

 紫は何かを知っている様で、しかし曖昧に返した。

「私はこの子が雛であった頃を知っているわ。では、あなたはこの子の小さい頃を覚えているかしら?
 ……今、答えてくれなくてもいいわ。ただ、それを思い出せたなら、あなたは“約束”が何だったかもきっと思い出すはず」

 紫は少し疲れたように微笑むと、すっと立ち上がった。

「帰るわ。今日は思わぬ道草を食っちゃったしね。実は私の式に相応しい妖怪を探してる途中だったのよ」
「式……ですか」
「ええ。私の手となり足となる優秀な式をね。中々いいのが見つからなくて苦労してるわ。
 今思えば、あの時、あなたを式にしていたら良かったかもね、勿体無い事をしたわ」
「勿体無いお言葉で」
「ふふ。でも駄目よ、女の子との約束を守れないようじゃ失格だわ。
 せめて、今からでも挽回できる様に頭を捻りなさい。結構楽しみにしてたんだから」

 紫が指を鳴らすと、その眼前にスキマが開いた。

「ああ、そうそう。これはさっきのとは別件で、お節介かも知れないけど。
 “入れ込み過ぎ”は良くないと思うわ。“私ならもっと長持ちする子を選ぶ”式を選ぶのに大切な条件の一つよ。
 老いてもあなたはまだまだ生きるんだから。
 ……何が言いたいか分かるわよね? 
 もし“約束”を思い出せた時、あなたがどの選択肢を選んでも私は咎める事はしないわ。
 でも、その時に足枷となる可能性は十分にあるという事は覚えておいて。
 それだけよ……じゃあね。楽しかったわ」

 スキマが閉じると、そこには最初から何も無く、八雲紫という妖怪も存在しなかったかの様に、ただ田園の風景が広がるばかりであった。

「爺様。何が何だかさっぱりです。約束がどうとか、勝手に二人だけで落ち込んだりだり納得したりしないで下さい」

 蚊帳の外に置かれていた文が唇を尖らす。

「何、気にせんで良い。大人の世界には色々あるということじゃ。さて、ワシらも帰ろうか。土産でも買っての」

 そう言って翁は歩き出した。

「あっ! ちょっと爺様、置いていかないで下さいよ!」




 翁は勿論、“約束”が気にならない訳ではないのだが、それの答えが見つからず、このまま寿命が尽きるのも、それはそれで良いと思うのであった。
 それよりも翁の心に刺さったのは紫が置き残した言葉であった。紫が何を言わんとしたか翁は概ね理解しているつもりである。
 だからこそ、敢えて“約束”を積極的に思い出そうという気にならなかった。
 今は、ただ文と共にある時間を過ごせればそれで良かった。そして、それが少しでも長くある事を翁は願った。





***





 秋。

 数百数千の闊葉樹が悉く紅葉し、まるで燃える様な赤さを以て山を彩るこの季節は、間違いなく山の四季の中で最も美しい季節である。
 翁の庵でも槭樹が見頃を迎え、それはそれは見事な景観を演出していた。

 ところで、庵から少し崖を下った所にある広場は、絶景と十分な広さが両方確保できるとあって、この季節の宴会で人気の場所である。
 日が斜めに差す今頃になると、紅葉と月と酒を全て楽しみたい贅沢な妖怪達の姿がちらほら見え出すのであるが、今日は少し事情が違った。

 ――騒がしい

 決して狭い訳でない広場が一杯になるまで集まった天狗達。
 既に多くの空になった酒樽が転がり、紅葉に負けぬ程に顔を赤くした天狗達がわいわいがやがやと酒を酌み交わしている。
 そう、今日は天狗の大宴会。天魔主催の秋の奉納祝いである。


 天魔への挨拶を済ませ、広場の端の方に陣取った翁。その隣の快活そうな黒髪の少女は齢十二になった文である。

「相変わらず凄い熱気ですね」
「何と言っても奉納祝いは一年に一度の大宴会じゃ。そりゃ騒ぎたくもなるわい」
「忘年会の時も新年会の時も、観桜会の時も同じ事言ってませんでしたか」
「別に理由とかはどうでもいいのじゃ。楽しく飲んで楽しく騒げれば皆満足じゃろ。さ、ワシらも飲むぞ」
「そうですね」

 文は背に担いできた大きな徳利を腕に抱えて、二つ並べられた茶碗に傾けた。
 とくとくという音と共に茶碗の中が濁酒で満たされていく。
 程なくして酒で一杯になった茶碗を文と翁はそれぞれ持つと、互いの茶碗を軽く触れ合わせる。
 チンという小気味良い音がして、二人は茶碗の中を飲み干した。

「ぷは!」
「うむ。いい飲みっぷりじゃ」
「ええ、思ったよりこれ美味しいですね。自家製の割には悪くないんじゃないですか」
「そりゃそうじゃ。ワシの秘伝の製法で作られているんじゃから不味くなりようがあるまいて」
「秘伝の製法って、思いっきり瓦版に載ってた『どぶろくの作り方』を見てたじゃないですか」
「米の揉み方が特別なのじゃよ」
「はいはい」

 軽口を飛ばし合いながら、順調に酒を消費していく二人。


「飲んでますかな」

 文の顔にほんのりと赤みが差した頃、二人の元を訪れたのは犬走であった。
 彼の後ろには淑やかな印象の白狼天狗の女性が付き従う様にしている。

「犬走のおじ様こんばんわ。一杯どうですか、自家製のどぶろくなんですよ」
「それはそれは。一杯ご馳走になりますか」

 腰掛けた犬走と白狼天狗の女性の杯に濁酒を注ぐ文。

「ほう、これは中々。甘さの塩梅がいい具合ですな」
「じゃろ。揉み方が違うんじゃ。揉み方が」

 自慢げに、両手の五指をわきわきさせる翁。

「はあ……揉み方ですか」

 それを見た犬走は困った様な顔をしている。その横目の先では白狼天狗の女性が顔を赤くしていた。

「爺様。言わんとする事は分かるのですが、その物言いでは誤解を招きます。主に女性に対して」

 呆れ顔の文の指摘に翁は、はてと首を傾げた。
 しかし何と無く場の雰囲気が妙な事になっているのには気付いていたので、話題を転換することした。

「ごほん! ところで犬走。今年の奉納は順調にいったか?」
「ああ、奉納ですな。勿論です。あれを御覧下され」

 指は差す先は広場の端。米俵や干した海産物の入った籠などが堆く積まれている一角の、特に大きな俵の山である。

「何でも新田の開発が上手くいったとかで、去年の二割増しの奉納がありました。毎年これだけ順調に行けばいいのですがな」

 はははと苦笑いする犬走。


 奉納。それは収穫の秋に人間と天狗の間で交わされる一種の契約である。
 天狗とは農民にとって正に神であり、収穫物を納める事により、神罰からの許しを請うのである。
 農村にとって奉納の負担は小さい物ではないが、それでも農民は粛々と作物を納める。
 かつて天狗に刃向かった村が果たしてどうなったか知っているからである。


「こほん」

 犬走は何やら咳払いをした。

「翁殿。確かに順調な奉納は目出度きこと。しかし私にはそれ以上に目出度き事がありました故、報告いたしたいと思います」

 犬走は白狼天狗の女性に、隣に並ぶように促す。

「実はこの度、私は彼女と結納の儀を取り交わす事に相成ったのです」

 犬走の婦人となる女性は恥ずかしそうに顔を赤らめると、ぺこりとお辞儀をした。

「何と! お主が結婚とな! なるほどそれは目出度い。
 しかも、お主には勿体無い別嬪さんではないか」

 しばしびっくりした後、翁はまるで自分の事の様に犬走の結婚を喜んだ。

「そうでしょう。娘が生まれたならきっと大変な美人になるでしょうな。
 そうだ、その際は翁殿が名を授けてくれませんか?」
「名とな。うむワシに任せい。素晴らしい名を付けてやろう」

 犬走からの依頼を胸を張って快諾した翁。

「犬走のおじ様。御二方の出会いはどういうものだったのですか」

 文は好奇心一杯といった風であり、根掘り葉掘り犬走夫妻の馴れ初めを聞きだす心算である。
 暫し、犬走の惚気話で盛り上がった翁達である。




 話も一段落付いた頃、犬走は天魔が座るその方を何の気なしに見遣った。
 そこでは、数人の鼻高天狗が天魔の前で膝を付き、頭を下げている。

 その後ろには幾つかの米俵。

「おや? あいつらが向かった村からは米二十俵の奉納がある筈ですが」

 鼻高天狗達の持ち帰った米俵の少なさに怪訝な顔をする犬走。

「今年は軒並み不作じゃったからな。お主の回った村みたいなのは例外じゃ。自分たちが食べる分すら危うい村も多い。ほれ、あれを見てみい」

 翁は米俵の横に置かれた、それと同じくらいの大きさの籠を指差した。

「……なるほど。不作ではあったが、筋は通したと。村人は庄屋が賢明で助かりましたな」

 その籠は、中に何か生き物が入っているかの様に、時折がたりと揺れる。
 そして、犬走の常人離れした聴覚は、その箱の中から確かにすすり泣く声を聞いたのであった。


 人身御供。
 神の怒りを鎮める為、同胞の命を捧げる人間古来よりの風習である。
 如何ともし難い収穫の不足。しかし天狗の手による災厄は避けねばならない。村人たちの断腸の決断であった。

 鼻高天狗が何やら説明しているのはその事なのだろう。
 説明を聞き終えた天魔は大きく頷くと、人差し指で籠を指し鼻高天狗に何かを指示した。
 頭を垂れ了解の意を示した鼻高天狗は、籠の前まで移動すると、静かにその蓋を開いた。




 そこに居たのは一人の少女だった。

 齢は六か七くらいと見え、白一色の死に装束を身に纏っている。
 恐怖で体は小さく縮こまり、泣き腫らした目は真っ赤になっていた。
 しかし、それでも逃げ出す素振りを見せないのは、幼いなりに人柱の責務を理解しているのか、或いは単に恐怖で体が竦んでいるだけか。
 いずれにしても、少女にはあまりに辛い現実であろう。

 鼻高天狗は、その少女の手を掴むと、広場の端にある小屋の中に乱暴に連れ込んだ。
 それを見て翁は顔を顰める。

「文……そろそろワシらは帰るか」
「帰る? どうしてですか? まだ宴は始まったばかりですよ」
「子供は帰る時間じゃ」

 勿論それは翁の理由で無い。翁はこれから何が行われるか知っているのだ。そして、出来ればそれを文に見せたく無かった。

「爺様……もしかして私に気を使っているのですか?」

 図星をさされて翁は少し動揺した。文の目は少女が連れられた小屋の方を向いている。

「でも、もしそうなら、私の事は気になさらないで下さい。
 今からあの小屋の中で何が行われるかは知っている心算ですが、それで私が悲しんだりする事はありません」

 少し酒が回ったらしい文は、いつもよりやや強い語尾で語った。

 気圧されたという訳では無いだろうが、その文に翁は帰ろうと強く言えないでいた。
 それを言うのが正しい事なのか判然としなかったからだ。
 文は強靭な意志で天狗の文化を受け入れようとしているのだ。ならば、己の声でその邪魔をして良いのだろうか、翁は悩んだ。

 その時、突如として広場に叫び声が響いた。
 しんと一瞬静まり返る広場。絶叫は小屋からの物である。それは少女の断末魔であったのだ。

「……馬鹿が。絞めるなら静かにやらんか」

 犬走が不機嫌そうに呟く。
 喧騒を取り戻しつつある広場で翁は浮かない顔をしていた。

 人喰いとしての天狗文化。

 翁は文に極力それを見せないように育ててきた。
 天狗としての教育を受けているとは言え、その体は人間その物である文を慮っての事である。

 しかし、当の文が人喰い文化に嫌悪感を持っているかと言うと、少なくとも今の時点ではそうでは無い。
 流石に、彼女自身が食人をしたことは無いが、友人からそれをした時の話を聞いた事があり、また実際に見る機会もあった。
 鶏や兎をそうする様に、人間を屠殺し食料として扱う。その天狗の感覚を文は自然と身に着けたように見える。
 事実、人身御供の少女が死に際し発した絶叫を聞いても、文は平然と酒を注いだ茶碗に口をつけていた。

「爺様。心配しないで下さい。私なら大丈夫です。体が人間という立場にずっと甘える訳にもいきませんから」

 文の笑顔に、翁は曖昧な返事を返す事しか出来なかった。
 暫くして、鼻高天狗は小屋の中から出てきた、その手の大皿には綺麗に切り分けられた肉が乗せられていた。
 何の肉かは広場の天狗全員が知っている。

 そして、広場の中央に予め用意されていた大鍋の前に肉が置かれる。既に鍋の中身はぐつぐつと気泡を吐き出し、肉を受け入れる準備は万端であった。
 たちまち大鍋を囲む様に人だかりが出来る。人間の肉はやはり他の獣肉に比べ食す機会が限られる為人気なのだ。

「翁殿……宜しいですか?」

 犬走の声に翁はそちらを向いた。犬走が見ているのは中央の大鍋。
 なるほど、犬走も珍味を味わいたいのだ。しかし文もいる手前、遠慮して翁に尋ねたのだろう。
 翁の本音は文の前で食人などして欲しくは無い、しかしそれを犬走に求めるのは我侭である。翁はゆっくり頷いた。

「ありがとうございます」

 犬走はいつに無く礼儀正しく謝辞を述べると、嬉々として大鍋に向かおうとした。

「……あの」

 後ろからの声に犬走はぴたりと足を止める。
 声の主は文。俯き気味に声を続ける。

「私も……いいですか」

 驚いたのは声をかけられた犬走だけでない。その婦人も驚いていた。もしかしたら本人も驚いているのかもしれない。
 しかし一番驚いたのは翁である。

「文。酔っておるのか? それがどういう意味なのか分かっておるのか?」

 翁は立ち上がり、強い口調で文に問うた。その語調は幾らかの怒気を孕んでいる。

「爺様。私は酔ってもいませんし、意味も理解しています。
 今から私は人を喰らうのです。そして、まだ私の中に残る人の部分を捨て去るのです」

 翁以上に強い語調で意志の固さを伝える文。その目が余りに真剣だった為、翁はそれ以上何も言えなかった。

「……翁殿」
「犬走。頼む」

 何と無くばつの悪そうな表情の犬走であったが、文に対し、左手で進むよう促した。

 二人は大鍋の前に到着する。

 文は箸で薄く捌かれた肉を一枚取った。見た目は他の獣肉とそう変わらない。
 そしてそれを沸騰した大鍋の中で泳がせた。肉は色を白く変える。
 味付けは数種類用意されていたが、文は橙と柚のポン酢を選んだ。

 文は動悸が激しくなるのを感じた。
 これよりの食事は尋常の物ではない。人と決別し、堂々と天狗を名乗る為の儀式なのだ。

 暫しの逡巡の後、肉を口に放り込んだ。

 文は肉を咀嚼する。
 しかし、その文の表情は一瞬で歪んだ。顔色が見るからに悪くなっていく。
 最早その色は蒼白と言って差し支えなく。脂汗すら浮いている。

 文は吐き気を必死で堪えていた。
 味が悪いと言うのではない。その点なら今まで味わった事のある獣肉と比べても遜色無い。むしろ優れている部分すら見出せた。

 しかし、問題はそこではない。もっと根源的な何かである。
 食人を拒む人間としての己が、文を苦しめているのだ。

 眩暈を覚えながらも文は一枚の人肉を気力で呑み込んだ。

 しかし、それが限界であった。
 口を押さえ駆け出す文。

「文ちゃん?」

 犬走が止める間も無く、文は広場から消えた。




 翁の庵のその裏。
 手を樹木に当て体重を預けながら、文はそこにいた。

 肩を震わせて息をする文。真下を向く視線の先には己の吐瀉物が水溜りを作っていた。
 結局文は人を食す事が出来なかったのだ。両の目から止め処なく涙が溢れてくる。

 その文の後ろにそっと立った大きな影。
 翁であった。広場から逃げるように去った文を心配して、急ぎ追いかけてきたのだ。

「……爺様」

 翁の姿を認めた文は、吐き出す様に語り始めた。

「爺様……。私は、人の体に生まれはしましたが、心は天狗のつもりでした。それを誇りにさえ思っていました。
 でも……所詮私は人間なのでしょうか? 
 正直に言います。私は人間を見下していました。彼らが何か一つでも天狗に勝っているとは思えないからです。
 ですから天狗が人を食すのは当然だと思ってましたし、私もそうあるべきだと思っていました。
 しかし、あの少女の腸を口に入れた途端、私の稚拙な倫理感が同族を食す事を全力で嫌悪したのです!
 私は悔しくてなりません。何故、今更、人を捨てられないのか! そんな事、私は望んでないのに!」

 ぼろぼろと涙を零しながら、文は心情を吐露する。
 そんな文を翁はそっと抱きしめた。

「文。無理をせんで良い。お主が人でも天狗でも関係ない事。
 ワシの掛け替えの無い文である事に変わりは無いのじゃから」

 翁の偽らざる本音であった。しかし、今の文を慰めるに十分であっただろうか?

 文の涙は今日のこの事件がもたらした衝動だけが原因ではない。

 文は人の身で天狗の社会に適応する為、今の今までずっと無理をしてきたのだ。
 それは、きっと本人も気付いてはいない。
 しかし、人に育てられない不自然さが知らず知らずの内に歪みへと変わり、十余年で蓄積されたそれが今回、堰を切ったように文の中から溢れ出したのだ。

 翁は己の無力を感じていた。

 ああ、そうだ。人の文がこれほど天狗の文化に拘るのは、全ては己に立派な天狗と認めらたいが為ではなかったか。
 文を追い込んだのは他ならぬ己であったのだ。

 翁の心中は、自責と後悔で満たされていた。
 慰めの言葉の何と空疎な事か。最早、己にはそれを言う資格はない。

 しかし……ならば……せめて――

 翁は文をぎゅっと抱きしめた。

 ――共に泣こう。

 傲慢だとは分かっている。それで赦して貰おうなどとは思わない。ただ、少しだけでもいい。文の苦しみを共有したいのだ。

 翁の双眸より、ぽとりと雫が落ちる。数百年振りの涙であった。
 文は翁の胸で泣き続けた。それが号泣から嗚咽に変わり、泣き疲れてしまうまで。




 翌日。昼頃に布団から出て来た文は、昨日の出来事など忘れてしまったかの様に、その立ち振舞は平素と同じであった。
 いつもの様に食事の用意を手伝い、いつもの様に仲の良い天狗と山を駆け回り、いつもの様に文筆の研鑽に励んだ。

 しかし、翁は文の変化に気付いていた。

 この日以来、文は己を天狗と呼ぶ事は無かったのである。





***





 文が翁と暮らし始めて十四年目の春。

「爺様。夕餉の準備が出来ました」

 うむ。と答えると読みかけの書に栞を挟み翁は食卓へ向かった。

「犬走のおじ様から蕗の薹を頂いたので天麩羅にしてみました。初物だそうですよ」
「ほお、それは縁起が良い。犬走に礼を言っておかんとのう」

 翁は軽く塩を振り、口に運ぶ。しゃりっという快い歯切れに心地よい苦味が口に広がる。

「うむ! 美味い」
「ふふ、自分で言うのもなんですけど会心の揚げ具合だと思うのですよ」

 にこにこと文は笑っている。褒められたのが嬉しいのだろう。

 文にとって衝撃的なあの日から早くも二年が経った。
 
 あの日の影響か、単に年相応の態度が身に付いただけなのかは分からない。
 しかし、御転婆すぎる嫌いがあった文も、この二年でだいぶ落ち着いた立ち振る舞いを見せる様になった。
 最近では前にも増して体の自由が利かなくなった翁に代わって文が家事の殆どをこなしている。

 いい子に育った。翁は思う。
 小さな庵での二人暮しではあるが、雑多な家事を全てこなすのはやはり苦労が伴う事である。
 しかし、文は文句一つ言わず黙々と作業をこなす。

 もう子供ではないのかもしれない。翁はそうも思った。
 ずいぶん大人びた表情を見せるようになったし、体付きもずっと女らしくなった。

 齢十四。人の文化なら嫁入りしても全くおかしくない年齢である。
 それを考えた翁は予てからの懸念が再燃するのを感じた。

 文は人間で己は天狗。余りに当たり前の事実が翁を悩ませる。

「爺様、どうかされましたか?」

 いつの間にか翁の顔に暗いものが出てしまっていたらしく。文が気遣う様に声をかける。
 文は聡い子だ、心配させてはならない。そう思い笑顔を取り繕おうとした翁の手からするりと茶碗が零れ落ちる。

 幸いにして茶碗は食卓の上で傾いただけで、毀れる事も零れる事もなかった。

「爺様。大丈夫ですか。最近何かおかしい様な気がしますよ」
「いや、すまん。手が滑ってしまっての。ワシも年じゃな、注意力が散漫になっておる」

 表情に出すのは何とか抑えたが、内心翁は大変に動揺していた。

 翁は悟ってしまったのだ。

 気を紛らわす様に翁はに蕗の薹を一つ口に運んだ。
 ほろ苦かった。




 その日の晩、翁は中々眠れなかった。

 今日の茶碗を落としたあの件。文には手が滑ったと言い訳しておいたが実際はそうでない。
 茶碗を握る左手の握力が一瞬完全に無くなった。本当の理由はそれである。

 いよいよ己の命が秒読み段階に入った事を翁は知った。死期が何時かはっきりは分からない、しかしそれは間近に迫っている。
 まさかこんなに早く訪れると翁は思っていなかった為、動揺も大きかったのだ。

 そうなると、考えなければならないのは文の処遇である。
 己亡き後に文をどうするか考える必要があった。

 知り合いの天狗に引き取ってもらう。まず翁が考えたのはそれである。
 例えば犬走に任せれば、人の良い彼の事、文を無碍に扱う様な事はあるまい。文も要領がいいので天狗社会で上手くやっていけるだろう。

 しかし、それは文にとって最良なのだろうか?
 翁はその疑問を払拭できなかった。

 実は翁の中では既に何が最良か結論が出ている。
 それは八雲紫との再会で思い至り、二年前の事件で確信した。
 しかし、翁にはそれを選択するに大きな抵抗があった。誰しも好んで自ら幸せを手放したりしたくない。

 “私だったらもっと長持ちする子を選ぶわね“。八雲紫の言葉が蘇る。
 あの時は単なる厭味としか思っていなかったが、こうなる事を見越しての言葉だったのだろう。

 ぐるぐると色んな事が浮かんでは消え、煩悶の真っ只中にある翁の視界に黒い塊が映った。

 従僕の大ガラスである。

 普段は森を寝床にする彼だが、今日は珍しく翁の庵で眠る事にしたらしい。
 思えば、この大ガラスがどこからか文を拾っていたのが始まりだった。

 その意図を翁は未だ理解できずにいたが、案外生涯の最後に思い出を作らせようという粋な計らいであったのかも知れない。

 軽く微笑むと翁は文と過ごした十四年の日々を回想した。その日々は全てが眩いまでに光り輝いている。
 文が己にとってどれ程重要な意味を成す存在であったか翁は改めて知った。

 そして。だから選択する事ができた。

 文を真に愛するならば、最も彼女の幸せになる選択をしなければならないと悟ったのである。
 それをしなかったのは偏に己の我侭であったのだ。

 翁は決断した。




 翌日の朝早く。翁は文と正座で向かい合った。
 最初きょとんとしていた文だったが、翁の真剣な表情でこれからの話の重さを理解する。

「文」

 翁の眉間に皺が寄る、正直まだ迷いはある。しかし、これ以上先延ばしはするべきでないと思った。
 だから、強い決意で翁は切り出した。

「お主を人間の世界に帰す事にする」

 数瞬の沈黙、文は翁の言葉の内容を理解すると、意外に落ち着いて言葉を返した。

「いつか、この日が来ると思っていました。私は結局人間でしたから、天狗の里に住まうのは分不相応な存在です。
 でも、これは我侭だとは分かっていますが、爺様の傍に置いて欲しいのです。何だってします。必ずお役にたって見せます」

 哀しそうな目で文は訴える、翁は心が揺さぶられるのを感じていた。
 しかし、ここで折れてしまっては文の為にならない。翁は断腸の思いで文との決別の意志を固める。

「文。済まん!」

 翁は頭を下げた。それも並大抵の下げ方ではない。土下座である。
 誇り高い烏が人間の少女に土下座をしたのだ。
 文の顔には明らかな動揺が浮かんでいた。

「本当はお主をもっと早く人の世へ帰すべきじゃった。それをせんかったのは、偏にワシの我侭じゃ。
 お主が余りにも愛しくて、お主との暮らしが余りに幸せで、どうしても決断できなかったのじゃ
 文。本当に済まん。
 お主は人として幸せを掴むべきじゃった。
 それを老い耄れの自分勝手で台無しにされたのじゃ。
 じゃが、今からでも人の幸せを掴んで欲しい。ワシの一生の願いじゃ。どうか聞き届けてくれ!」

 翁の何と苦しそうな事か。自責の見えない鎖に雁字搦めにされているのだ。
 文は理解できた。翁がこれ程に苦しんでいるのは全て己に対する愛の深さ故なのだ。
 ならば、その願いを無碍にするなどできようが無かった。

「爺様。頭を上げてください。
 分かりました。私は人の世界に戻ります。
 爺様がそこまで望むなら、人の世界で幸せになって見せます」

 顔を上げた翁と目が合って、文は静かに微笑んだ。

「でも、本当は別れたくなんてないのですよ。望めるならずっと爺様と暮らしていきたい」

 微笑んでいる筈の文の目からぽとりと雫が落ちる。

「少し泣きます。胸をお借りしていいですか」

 文は翁をぎゅっと抱きしめると、その大きな胸に顔を埋めた。

「嫌だよ。離れたくなんかない。……ずっと爺様と暮らしたい」

 文は子供の様に泣いた。翁はその文の頭を軽く撫で、悲しみを堪えるように目を瞑った。




 文の引き取り先は、昔、文と訪れた古都の商家に決まった。旦那は突然の申し出に驚いていたが、翁との仲であるからと快諾してくれた。
 送別の宴には文を知る多くの天狗が参加し、別れを惜しんだ。
 最後の夜は幼い頃そうした様に、翁と文は一つの布団で眠った。その文の顔には涙が伝った跡がはっきり残っていた。


 そして、文は天狗と決別した。


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コメント



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1.100ななし削除
天狗文化いいなあ

後編に大変期待
10.100名前が無い程度の能力削除
あぁ ドキドキする