※色々注意
他者を理解するのは、きっと不可能だ。
夜の帳が落ち始めた、月の出る真夜中。
「ほら、リグル、ちゃんと逃げ回らないと死んじゃうわよ」
最早恒例となってしまった女性の声が聞こえる。
「ハァ、ハァ、ハァ!」
走る視界には向日葵が見え、私は痛みから逃れる為に唯必死に駆ける。
捕まれば何をされるか目に見えている。
羽織っている黒いマントを靡かせながら、私は後ろをゆっくりと歩いて来る人の姿をチラチラと確認しながら、いつ来るかもわからない光弾を避け続ける。
なんでこんな状況になっているか、嘆く所か理解すら出来ない。
いつだってそうだ。私を追いかける女性、風見幽香はニコニコとした微笑みの下に、どす黒い何かを抱えている。
その矛先が、今は私に迫っており。
「ハァ、ハァ……っあ」
どしゃりと、地面につまづいて、花畑へと顔から打つハメになった。
「~~~!」
痛い、痛い、イタイ。
顔をしたたかに打って、痛みに顔をしかめてしまう。
「ほら、捕まえた」
だが、そんな痛みよりも、真後ろから聞こえてきた声に背筋が凍った。
座り込んでいた自分の首筋にゆっくりとしなだれかかるように伸びる腕。
「……あ……ゆ……ゆ、か……」
懇願なんてしても無駄だ。それは、今までの経験からわかっている。
それでも私はゆっくりと、涙が出そうな気持ちでいっぱいになりながら、後ろを振り返り。
「うふふ。リグルの泣き顔は、いつ見てもたまらないわね」
残忍な笑みをしながら、私に笑いかける幽香の顔は、私の首筋に近づいていき。
ガブリと、歯を立てた。
※
風見幽香と言う、花の妖怪に出会ったのは偶然であり、必然であった。
出会ったのは、太陽が降り注ぐ真昼間。煌くように輝く向日葵畑に心惹かれ、心を躍らせながらその中を闊歩したせいだ。
畑の中心で、幽香はピンク色の日傘を差して佇んでいた。
赤いロングスカートに、白のブラウス、黄色いタイと、緑色の短めな髪も相まってか、向日葵畑の中でいやに目立っていたのを今でも覚えている。
横顔は凛々しく、紅い両の瞳は、真剣に幽香の目の前でそびえる向日葵を見つめていた。
近寄って来ている私にも気づきもせずに、幽香は小さく溜息を吐きながら向日葵の様子をじっと見守っていたのだ。
それを見て、私は直ぐに引き返せばよかったのだ。
なのに、花を真剣に見つめる幽香の姿を見て、あろう事か、声をかけてしまった。
声をかけた私にやっと気がついたように、幽香の紅い瞳は私を捉え、鋭い目つきのまま私を射止めた。
私は震える声を抑えるようにしながら、幽香に何をしているのか聞いた。
けれど、返ってくる言葉はなく、じっと、まるで値踏みするように幽香はずっと私を見ただけだった。
この時から、きっと幽香は私に目を付けたのだろう。
いくばくかの静寂が続き、もう一度何をしようとしているか聞こうと思った時だ。
鋭い目つきは何処かに消え、幽香は私に微笑むように笑いかけながら、花の様子を見ていたのよと、答えてくれた。
話してくれた事と、途端に微笑んでくれた事もあってか、私は気を許してくれたのだろうと思って、弾む声を抑えずに幽香に再び話しかけていた。
自分が虫の妖怪である事や、向日葵畑が綺麗に見えた事。
そして幽香の姿が見えて、声をかけた事を。
幽香は微笑みながら、私の話を聞いてくれた。
無闇に話す私の話に相槌を打ち、時には質問するように私の事を聞く会話。
楽しい時間は早く過ぎていくというのは、こういう時の事を指すのだろう。
太陽が輝いていた昼間は徐々に紅く染まり、夕陽が出始める。
私は幽香との会話に夢中になり過ぎて、この畑がどれだけ異様か、気づかずにいた。
そして、幽香の変化にも。
太陽の畑から去ろうとする私に、投げかけられた言葉。
―――リグルは、おいしいのかしら?
何かの冗談かと、言葉を受け止めた時は思った。
けれど、月を描くように象られた口元はさっきよりも残忍に見えて。
紅い瞳は、今から虐める獲物を見つめ、凄い喜んでいた。
足は竦み、今更になって恐怖を感じながら、幽香の身体は一歩ずつ、自分へと近寄り。
あっけなく、怯える私を捕まえて、牙を立てた。
食べられる、死んでしまう、殺される。
色んな思考で、頭の中はグチャグチャになっていった。痛みは徐々に首筋から広がり、その痛みのおかげで。
恐怖から一時的に解放されるように、竦んでいた身体が動いてくれた。
首に広がる血痕、幽香の口元に残る紅い血液。
踵を返し、全力疾走するには事足りる。
喘ぐように逃げて、幽香が私を追いかけて。夜の帳が落ちた向日葵畑でのおいかけっこ。
私は必死に、幽香は優雅に。
奇妙な関係、未だに続いているこの友人とも知り合いとも、恋人とも取れない関係は。
いつの間にか、私が離れられなくなっているおかげで、未だ続いている。
※
「もう逃げないのかしら?」
カプリと、再び首筋に歯を立てられながら、幽香は力が抜けてしまった自分に聞く。
「……」
逃げたいが逃げられない。血が流れる自分の首筋に目を落としながらも、痛みに顔を歪めるので精一杯だった。
「逃げていいのよリグル。逃げたらまた追いかけてあげるから」
そうしないと楽しくないと。
天性の虐めっ子である幽香は、厭らしく笑う。
「……もう、逃げれないよ」
幽香のその顔を見ただけで震えが止まらなくなる。
幽香の変わり様は異常だ。また時間が過ぎれば、何事もなかったかのように幽香は微笑んで私の手を取って自分に寄り添わせる事だろう。
「ふぅん。なら、リグルはただ黙って私に虐められるのね?」
甘く噛まれた首筋に、指で撫でるように触られる。
そのままザクリと、爪を立てられた。
「~~!?」
「ふふ、どう? 痛い? 痛いわよね」
「あ、あ……!」
グリグリと、傷を開いていくように首筋に紅い花が広がっていく。
目を閉じて、荒い息を吐いて、その痛みに私は耐える。
「逃げ惑う貴方の表情もいいけれど、こういうのも、悪くないわね」
自分の表情の感想を嬉々としながら言う幽香は、広がった傷口から指を離すと、再び首筋に顔を近づけた。
「や、やめて、幽香。もう、いやだよ……!」
「嫌よ」
耐えられずに懇願しようとお構いなし。
そのままどこぞの吸血鬼の真似事よろしく、幽香は私の血を舐めるように吸い始める。
「ん……」
背筋がゾワゾワする。熱い痛みが徐々に冷えるように、幽香の口に触れられる度に、痛みは引っ張り上げられる。
「あ、あ、あ!!」
耐えられない。
何で、どうして私がこんな目に合ってるのか。
「ゆ、ゆ、幽香ぁぁ……」
抑えきれず、地面に下ろしていた私の腕は、幽香を抱きしめるように背中に回される。
余計に密着するが、幽香の吸血じみた行為は止まらない。
意識を投げ出せばどれだけ楽か。
「……ん、プハ」
首筋から顔を離し、幽香はまた、自分の顔を見て笑う。
「ふふ、リグル。貴方、今どんな顔をしているかわかるかしら?」
どんな顔と言われても、わかるわけがない。
さっきから顔から水滴が零れているのはわかる。痛くて悲しくて悔しくて。
負の感情で自分の心はいっぱいになっているから。
「わかんないよそんなの……」
「なら、教えてあげるわ。今の貴方はね」
ニヤリと、目の前の存在は、邪悪な笑みをしながら言った。
「嬉しそうよ、とても」
どれぐらい経っただろうか。
身体が重い。あれからどれだけ弄られたかわからない。
時間の感覚がわからなくなるほど幽香は私の身体を弄くり回して、満足したのか。
微笑んで、また明日とか言って、何処かに行ってしまった。
残された私は身体を動かすのもだるくてうつ伏せのまま倒れたまま。
幸い、衣服を破かれるとか、脱がされるとかはされなかったおかげか、まだ身体は軽い方だったが。
「……幽香の馬鹿ぁ」
思い出すだけでもゾワリと身体が震えるのに、言うに事欠いて、私の顔を見て嬉しそうとかぬかしやがった。
あんな事をされて嬉しい筈があるもんか。
「………うう」
枯れるぐらい涙を零してるのに、未だ涙は枯れてくれない。
どうして私を虐めるのか、わからない。理解出来ない。
唯、私は幽香の傍にいられるだけで嬉しいのに。
「ひっく……」
ゴシゴシと乱暴に顔を腕でこすって涙を止める。
乾いて痛かったが、このまま倒れているのも億劫になってきた。
立ち上がり、服についた土を払って向日葵畑から出ようと足に力を入れる。
「……」
一度だけ、見回すように星空と月の光しかない夜の向日葵達を見る。
じっと、向日葵達は私を見ていた。
ここは綺麗な花畑である前に、幽香のテリトリーなのだ。
見ているのは、私がここでは異物だから。
「……またね」
けれど、それが見送ってくれているように見える私の目は、何処かおかしくなってしまっているのだろう。
ダンっと、強く地面を蹴って、星空へとマントを靡かせながら飛ぶ。
日が昇るまでもう数刻はあるはずだ。
気が進まないが、暇潰し兼、愚痴を零せる友人に、私は話をしに行くことにした。
※
「いらっしゃいませ~~♪ あら、リグルじゃないの?」
人里の外れ。陽気な夜雀の歌声と共に開かれている屋台。
「ミスチィー、ごめん。何でもいいから食べ物頂戴」
夜雀であるミスティア・ローレライが開くそれは、色々な者達が集まる夜の食事所として、それなりに賑やかな場所であった。
屋台の暖簾を潜った私を見て、少しばかり驚いた表情をしたが、備えられた椅子に腰掛けたのを見て、直ぐに皿を回してくる。
「どうしたの~? 今日は来ないかと思ったけど~?」
「来る気はなかったよ。色々とあっただけさ」
苦笑しながら話す私に、ミスティアは少し不安げな顔を見せたが、同じように苦笑して、串が刺さった、鰻の肝を私の前へと置いた。
「また幽香さんに虐められたんだね」
「……そんなとこ」
置かれた肝串に手を取って、食べ始める。
客は、酔い潰れて突っ伏しているのが横に一人いるだけで、他に誰もいなかった。
幽香の話は愚痴りはするが、他の誰かがいる前では話してはいない。
同情されても嫌だし、慰められる事でもない。
「もう~そんな顔をするなら行かなければいいのに」
ミスティアのこの言葉も、最早恒例だ。嫌なら行かなければいい。
正論だが、私は首を横に振る。
「別に、幽香が嫌いなわけじゃないんだよ……あの虐め癖を無くしてくれれば、凄い良い人なんだよ?」
私が、幽香の傍にいる理由はそれだ。
虐められはするが、基本的に幽香は優しい。
少なくとも私には。他の人にはどうなのかは知らないが。
「……ハァ、リグル。飴と鞭って言葉知ってる?」
「鳥頭のミスチィーから、そんな難しい言葉聞くと思わなかったよ」
間髪入れず、溜息と共に吐かれた言葉に返してしまう。
「む、酷いなぁ。私だってそこまで頭は悪くないんだよ? 少なくともチルノとかよりは」
背に生えた羽をパタパタとさせて、怒った表情をするミスティアだったが、比べる対象が妖精の時点でどうなのだろうと、本気で考えてしまう。
「チルノは馬鹿じゃないよ。ただ感情のままに行動をしているだけだろ。あれは」
それを馬鹿と言うのだったら、大抵の奴が馬鹿だろう。
「なら私も馬鹿じゃないって事で……とりあえずリグルは実際の所どうなの? 幽香さんの事、好きなの?」
話を戻すようにミスティアが聞いてくるが、私は首を捻ってしまう。
「……好き、なのかな」
さっきまで紅い花が広がっていた傷口に手を添える。
妖怪の回復力はそれなりに高い。幽香が傷を付け、口を付けた場所は、何事もなかったかのように白い肌を見せている。
もっと重症なら治りは遅いが、そこまで傷をつけられた覚えもなかった。
「……よくわからないんだよね。自分の事なのに」
自分の気持ちがよくわからない。
こんな事、今までなかったはずなのに。幽香と出会ってからずっとぐちゃぐちゃのままだ。
「……まぁ、いいけどね~。そろそろご飯もいかが~? 後お酒も」
気を遣ってくれてるのか、ミスティアは肝を半分程食べた私の前に握り飯と熱燗をトンと一つずつ置く。
「ああ、ありがとう」
「いえいえ。私も面倒事を背負い込んでる身だからね~。リグルの気持ちは何となくわかるよ」
いじめられるとかはしないけどっと、にこやかに笑って言うミスティア。
「面倒事って……」
名前を出そうとしたが、止めた。
きっとルーミアの事を言っているのかもしれないが、聞いた所で惚気しか出てこない気がした。
出された握り飯を頬張り、熱燗を傾けて杯に入れながら、グッと勢いよく飲む。
「……プハ。せめて、私が幽香みたいに強ければなぁ……」
昔の蟲達はもっと強かった。
どうして弱くなったかは知らない。
けれど、幽香と肩を並べられるぐらいには、昔の蟲達は強かったはずなのだ。
もし、幽香と対等の立場にいられたら、もっと違った関係になったのではないか?
「……話は聞かせて貰いました」
と、先ほどまで横で突っ伏していた客からいきなり声が上がり、私とミスティアはゆっくりと顔を上げる人物を見た。
ずれた帽子を元の位置に戻しながら、顔を赤くしたままこちらをじろりと見る女性。
「リグル・ナイトバグ。貴方は臆病だ。真実を知ろうと思えば、あの花の妖怪から、いくらでも聞けるのにそれを聞こうとしない」
幽香と同じ、深い緑色の髪。何処か幼さを見せる顔つきであるが、まとう空気は威厳を秘め、対峙する相手に審判を下す者。
「え、閻魔様~。盗み聞きは駄目ですよ~?」
ミスティアの方から困ったように声をかけられるも、気にせずに私の方へと向き直りながら、腕を組んで精一杯に見下ろす視線で私を見はじめる。
四季映姫・ヤマザナドゥ。何でここで閻魔が突っ伏しているか知らない私は、急に声をかけられて呆気に取られるばかりであった。
コホンと、目を閉じて一度咳払いをされてから、映姫はまず私に頭を下げた。
「盗み聞きの形になったのは申し訳ありません。ですが、聞いたからには伝える義務がある。もやもやとした空気にいる事等、私の前ではあってはならない」
物凄い自分の都合をぶちまけながら話す映姫に目を白黒させてしまう。
「いいですか? 恋とは真実を知ってこそ告げるべき告白があり、知らないままでは友人以上、恋人未満等と言う中途半端な状態に置かれてしまうのです。幸い、蟲の妖怪である貴方は立場に縛られず、また花の妖怪である風見幽香も立場等とは程遠い生活を送っている。虐められるのが嫌であるなら貴方はそれをちゃんと風見幽香に言うべきだ。そして何故虐められるのかも貴方の口から風見幽香に聞く義務がある。それが出来ないままわからない等とのたまうのは臆病以外の何者でもない」
いつもの説教通りなのか、いや、確実にこの人酔った勢いで話してるよと脳内で考えを纏めながらも、リグルは嫌な汗を掻きながらも話に耳を傾ける。
「リグルに八つ当たりしないでやってくださいよ~」
「八つ当たり? いいえ、これは事実を言い述べているだけです。決して小町がサボっているから私に仕事が回ってくるとか、寝顔が可愛いなとか、けれど閻魔の立場だから告白何て出来ないとかそういうのとは全く関係がない話です」
オーケー、確実にこの人酔ってるよ。
ミスティアの抗議にも早口で返す映姫は、まだ並々と入っていた私の熱燗を手に取ると、自分の杯に注ぎ初め、一口にグッと飲み干してしまう。
「って、それ私の……」
「プハ。とにかく。貴方が今出来る善行は、想いを風見幽香に言う事です。それ以外に白黒ハッキリつける方法などないでしょう」
「……」
映姫から言われた言葉に私は頭を掻きながらも溜息を吐いた。
言われて気づいた事がいくつかあるが、そういえば何で幽香が私を虐めるか、聞いた事はなかった。
突拍子がまるでない追いかけっこだったせいもあるだろう。幽香が虐めるのに理由なんて無いと決め付けていた部分もある。
「……あの、閻魔様」
聞きたい事が出来た為に、自分を見下ろす、と言っても少しあちらの背が高いぐらいの差だが、見上げる形で私は聞こうとした。
「む、もうこんな時間ですか」
だが、あっちは言いたい事を言ってすっきりしたのか。辺りを見回して、顔を赤くしたまま自分の懐を漁り、黒い財布らしき物を取り出す。
「店主、勘定を」
「ちょ、ちょっと待って! 言うだけ言って帰る気かアンタ!?」
熱燗の横にじゃらじゃらと銭を置いて立ち上がる映姫を止めようと、立ち上がろうとするが、ギロリと睨まれ、身が竦んでしまう。
「私から言う事はこれ以上ありません。仕事に差し支えるので、これ以上の話を聞きたければ後日、仕事場に来なさい」
幽香とはまた違う威圧感。だが、それは同じ圧倒的絶対者のそれであった。
「……ぐ」
息を呑んでその様子を見守るが、閻魔の仕事場に来いと言われても、それは死ねと言っているようなものであって、行ける訳がない。
中途半端に酔っているせいで、これでは煙に撒かれているようなものだ。
止める事も立ち向かう事すら許されない。
しかし睨むぐらいは出来る。精一杯映姫を睨んで、自分の話を聞いてくれるよう、目に力を入れてみる。
「……ふむ、そんなに睨まれてもこれ以上、閻魔として言う事は本当にありません」
ミスティアが銭を受け取ったのを確認し、映姫は帽子を深く被り直し、踵を返して私に背を向ける。
「ですが、映姫として言う事があるのならば、頑張れと貴方を応援しましょう。私から見れば、貴方は風見幽香に惚れているように見えますから」
溜息と共に、そう言いながら映姫は夜の野道へと消えていく。
「……」
「もう~、リグルごめんね。あの人ちょっと、酔い潰れるまで落ち込んでたからさ」
その後ろ姿を黙って見送っていた私に、再びミスティアは謝るように声をかけてくる。
「……別に、気にしてないよ。それより、落ち込んでたって?」
「ちょっとね。部下の人と上手くいってないというか、愚痴でねぇ。泣きながら小町の事が好きなのにいとか。そんな事を」
ミスティアは苦笑しながら話す。彼女から他の客の話は全くされないのだが、自分の話を聞かれておあいこだと思ったのだろう。
「あの人も大変なんだね」
「誰だって大変だよ。好きになるって事は、そんなに楽じゃないよきっと」
「……ミスチィーも?」
「私も大変だよ。恋する乙女は皆一緒だよ~」
アハハと笑いながら、少し照れるように話すミスティアの顔を見て笑ってしまう。
「今日は来てよかったかな。ミスチィーからそういう言葉を聞けるだけで面白いよ」
「む、それって馬鹿にしてない?」
してないよと、一言言って映姫に捕られた熱燗を、再び自分の方へと寄らせ、杯に注ぐ。
二度ほど並々と飲まれたせいか、後一杯程しかなかったが、丁度いい。
グッと飲み、一息吐いて席を立つ。
「ミスチィー、私も勘定」
「あら? もういいの?」
憂鬱な気分は閻魔のおかげか、いつの間にか過ぎ去っている。
「うん。気が少し晴れたからさ。ちょっと気になる事も出来たし」
黒い短パンのポッケから銭を出そうと漁るが。
「ああ、いいよリグル。今日は私の奢りで」
「……? いいの?」
うんっと元気よくミスティアに頷かれ、どうしようか少し迷ったが。
「なら、お言葉に甘えるかな。また今度来た時はちゃんと払うよ」
「またね。今度来る時は幽香さんと一緒に来なよ!」
手を振って見送られ、私もそれに合わせるように手を振って、明るい屋台から月明かりの野道へと歩いていく。
―――貴方は風見幽香に惚れているように見えますから
数奇な出会いの一つで会ったが、得られた物はそれなりだ。
「……とりあえず、駄目元で聞いてみるかな」
行って直ぐに虐められないかなと不安に思いながらも、帰路を辿る。
帰る夜道は、雲が立ちこみ始めた、生憎の空であった。
※
晴れには少し遠い、どんよりとした曇り空。
今にも降って来そうだが、気にする事はない。雨が降ってくれれば、それはそれで喜ばしい事だ。
私達にとって、太陽も雨も必要な物。
どちらかが多くても意味がなく、どちらかが足りなくなってしまえば致命傷になりかねない。
尤も、多少足りなくなった所で、この向日葵畑が枯れる事はないが。
紅い傘を片手に持ちながら、今日も向日葵達の様子を見守っていく。
彼らが成長、もとい維持が出来ている理由は私にある。
苗床は慎重に選び、弱り始めれば手を掛ける。
彼らが枯れてしまうという事は、人間が死を迎えるのと同じなのだ。
「………」
ふと、ここを綺麗だと言った蟲の妖怪の少女を思い出す。
あの時は、手塩をかけてきた向日葵が一つ、枯れてしまった事に嘆いていた。
その時の私の気持ちなんて、彼女はきっと知る事もなければ、知る必要もなかったであろう。
偽りの微笑みを象り、この娘、今ここに来たことを後悔させてやると内心どす黒い殺気で渦巻いていたものだ。
けれど話して行くと、色々と彼女に興味が湧いてきた。
蟲の妖怪は衰退した妖怪の一つだ。その蟲達を統べる幼い少女。
興味から嗜虐心に変わるのはあっけなかった。
健気に私にここが綺麗だと話す少女は、私と仲良くしたいのか。必死に喋っていた。
嬉しそうに懸命に話すその顔を、恐怖と泣き顔に染まらせてみたら、どれだけ楽しいか。
花の妖怪である私が本来、花を蹂躙する筈である蟲を蹂躙したらどれだけ気持ちがいいか。
夕闇に変わる空の中、貴方はおいしいのかしら? と告げて追いかけっこが始まった時はたまらなく楽しかった。
恐怖に怯え、身が竦んだ彼女に牙を立てる快感。
喘ぐように走る彼女を追いかける恍惚。
「今日は、来るのかしら?」
奇妙な関係。追いかける側と追われる側。
どれだけ酷い事をしても、リグルは私の下に戻ってきた。
まるで私という蜜に群がる蟲の一人。
追いかけるのは夕闇を超えてから。楽しい時を誰にも邪魔されない為に。
昼間は蜜のままで在りつづけた。
彼女がそう望んだ為に。
「……あ」
ポツリと、水滴が頬に落ちる。
一粒落ちてきたのが合図となったのか、最早耐えられないと雨は続けざまに頭に落ちてくる。
大粒の雨になるのに、そう時間はかからなかった。
紅い傘を差す。いつものピンクの日傘がお気に入りなのだが、あれはあくまで日傘だ。
ザァーッと、カーテンがかかったように、昼間だというのに暗い向日葵畑。
これはこないかしらと。辺りを見回した時だ。
「……あら」
駆け出すように、向日葵畑を突っ切ってこちらに来る人物を見て、薄く口元は笑う。
降りしきる雨の中、黒いマントを靡かせ、腕を上げて雨粒が顔にかからないようにしながら向かってくる少女。
私が愛でる、蟲の妖怪。
「幽香ーーー!」
リグルが手を振りながら、雨の中こちらへと向かってきていた。
「全く、傘も差さずに来て、風邪引くわよ?」
「ご、ごめん。降ってくるまでには間に合うかなって思って」
大粒の雨が降る中、雨に濡れるリグルを紅い傘の中へと迎え入れ、向日葵畑から移動した。
今は畑から離れ、大きな大樹の下へと移動し腰を下ろしていた。
雨に降られ、リグルの服は濡れてビッショリだ。頭から出ている二本の触覚からも水滴が落ちて、見るに堪えない。
「上だけでもいいから脱ぎなさい。着たままじゃ寒いでしょ」
「え、い、いいよ」
首を横にブンブン振って拒否するリグルだったが、私はニコリと笑って細い肩を掴む。
「脱ぎなさい。それとも、私に脱がされたいのかしら? リグルは」
「……ち、違う! いいよ、わかったよ。脱げばいいんでしょ!」
肩を掴んだ手を、顔を紅くしながら払って私に背を向ける。
「わかればいいのよ。あ、マントは私が外してあげるわ」
首に巻かれた黒いマントを後ろからしゅるりと外してやる。
雨に濡れて重くなってしまったマントを横で大きく何度か払い、雨粒を飛ばして横へと置く。
その間、リグルは背を向けたまま自分の白いシャツのボタンをゆっくり外していった。
雨に濡れて張り付くシャツをゆっくり脱いでいき、白い濡れた背中が私の前に差し出される。
「こ、これでいいんだよね?」
濡れたシャツを草が生えた脇に置くと、胸元を隠すように両腕でリグルは自分の身体を抱きながら、首だけ私に向ける。
「ええ。けれど、それじゃあまだ寒いでしょう?」
リグルのそんな姿を見て、嗜虐心が鎌首を上げるが、心を自制し、大樹に背中を預けながら座り込む。
紅い傘をマントの小脇に置いて、顔をこちらに向けるリグルに両の手を差し出すようにしてみせる。
「ほら、抱いてあげるから来なさい」
「―――は?」
短パン姿でいるリグルは、私の言葉に理解出来なかったのか。
きょとんとした顔をして、数秒後、顔を真っ赤にしながらわなわなと身体を震わせる。
「な、ななな」
「もう、いちいち驚かないの。そんな顔してると襲うわよ?」
何か雄叫びを上げかねないリグルに薄く笑ってそう言うと、ピタリと黙って、今度は顔を青くする。
どうやら襲うという言葉に反応したらしい。
「……わ、わかったよ。へ、変な事はしないでよ?」
恥らうように、最後にそう言って私に背中を預け、抱かれるリグル。
案の定雨に濡れたせいか、リグルの身体は冷たかった。着ているこっちのブラウスも濡れるが、まぁ、構わないだろう。
「少し、冷たいわね」
「……ごめん」
雨が止む気配はない。桜の花が散り始め、太陽の畑が最も輝く暑い夏までもう少しだったが。
梅雨にしてはじとじとしておらず、降る雨は豪雨という言葉がふさわしかった。
雨粒が降る音だけが合奏するように自分達を包む。
しばらくの間、それを受け入れ。
「……今日は、来ないかと思ったわ」
ポツリと、自分から切り出した。
昨日の泣き顔を思い出す。
顔を赤くし、首筋に紅い花を零すリグルの姿。
どうしようもなく惨めなのに、どうしようもなく愛しいその姿は、快感以外に感じられなかった。
けれど、虐められた後は大抵日を空けるのがいつものリグルの習慣だった。
自分の昼夜のギャップに慣れる為か、それとも立ち直る為か。
どちらにしろ、日を待たずに自分に会いに来たのだけは初めてだった。
「……ちょっと、聞きたい事があってさ」
「私に?」
「うん」
聞きたい事と言われても出てこない。
首を傾げ、続く言葉を待つ。
「一体、何かしら? 聞きたい事って」
「………幽香はさ、どうして私を虐めるのかなって」
「……え?」
ポカンと、間が抜けたような顔をしてしまう。
背中から抱いていたおかげか、リグルには顔を見られなくて済んだが、突拍子もない言葉に驚きは隠せなかった。
「聞いた事がなかったでしょ? いつも虐められてたけど、何で幽香が私を虐めるかわからなかった。ずっと、聞かずにいたから」
先ほどより自分の体温で暖かくなっているはずのリグルの身体が震え始める。
「その……私はさ、幽香の事を嫌いになれない。虐めるけど、幽香は優しいじゃんか。今もこうやって、私に気遣ってくれてるし」
「……」
「だから、余計わからないんだよ。どうして幽香が私を虐めるのか」
優しくされるからわからないと。
リグルは言う。私は、その言葉にニコリと微笑んだ。
「虐めるのは貴方が可愛いからよ」
震えるリグルの身体を抑えるように、より一層力強く抱きしめる。
「私はね、傲慢で、独占欲が強いのよ。欲しい物は力づくで手に入れるし、自分の思い通りにならないといらいらする」
あの時、向日葵が枯れた時だってそうだ。
私は彼らが枯れてしまった事に嘆いていたわけではない。
どうして自分の思い通りに成長しなかったのか。
どうして自分が手塩にかけたのに、枯れてしまったのか。
自分の“失敗〟をリグルに見られ、私は殺意があの時渦巻いていたのだ。
「私はリグルの全てを見たいの。嬉しそうに笑う貴方も、泣いて喘ぐ貴方も、全部」
「……それが、虐める理由?」
「ええ。他に何か、意味があると思った? もっと何か、自分を思ってしてくれてる事だと思った?」
それならば、きっとリグルは幻滅した事だろう。
「ううん。別に、そこまで思ってないよ」
だが、リグルは首を横に振った。背を向けているおかげか、どんな表情をしているかはわからない。
「…………ねぇ、一つ聞いていいかな?」
少し間を空けて、リグルは話す。
「いいわよ。何かしら?」
「幽香は、昔から生きている妖怪だよね? なら、昔の蟲達が、強かった時を知らないかな?」
「……そんな事を聞いてどうするの?」
昔の蟲達という言葉に、少しばかり怪訝な表情をしてしまう。顔を今は見られないからいいが、リグルからそんな言葉が出ると思わなかった。
「いや、もしもだけどさ。私も幽香みたいに強かったら、もっと違う関係もあったんじゃないかなって思って」
「……それは、“対等〟という意味で?」
幽香の言葉に、リグルはこくりと頷く。
「弱いから虐められるのなら、強かったら幽香と普通の関係で友人になれたんじゃないかなって、思ったんだ」
「…………」
リグルの言葉に、私は深い溜息しか出ない。
「……それは、自分一人で考えた事かしら?」
そうじゃなければ入れ知恵した奴を殺してやりたい。
「ある人からアドバイスは貰ったけど、結論が出たのは、自分一人の考えだよ」
「……そう」
リグルのか細い身体から、いつの間にか震えがなくなっている。
きつく抱きしめていたおかげか、リグルの鼓動が小さく鳴っているのがよくわかる。
「リグル、一つだけ良い事を教えてあげるわ」
「良い事?」
本来、語る必要がない事だが、言わなければリグルは納得しないだろう。
「ええ。もし貴方が私と同じ“強者〟であったら、どんな関係が待っていたか」
答えはたった一つしかない。
「会った時点で殺しているわきっと」
太陽の畑に入ってくる強い妖怪等、あの隙間妖怪を除けば、例外なく殺している。
「唯の餌でもそう。畑の苗床にして、迷う事無く殺しているわ」
人間も同じだ。例外を除けば、私達にとって彼らは唯の栄養でしかない。
「貴方が“弱者〟だから、この関係は出来ているの」
衰退した蟲の妖怪。
愛でれるから、私はリグルに執着している。
「もしもなんてないわ。リグル・ナイトバグを虐め、愛でるのは、この関係でしか成立しない。だから―――」
抱いていた身体を離し、立ち上がって私は、リグルの正面へと回る。
「そんな、不安そうな顔をしないで頂戴」
リグルの顔は、今にも泣きそうだった。
「そういう顔をするのは、私が虐める時だけでいいのよ」
「……だ、だって」
涙を堪えているのだろう。口元がわなわなと震え、顔を赤くしながら私を見上げるその姿に。
「……リグル」
嗜虐心は、何故か湧いて来なかった。
代わりに正面からリグルを抱くようにして背中に腕を回す。
「幽香の事が好きなんだよぉ……。どれだけ虐められても、泣かされても、それでも幽香の事が……」
ポタリと、水滴が肩に落ちる。
降りしきる雨は未だ止まっていない。肩にかかった水滴はとても熱く、自分の腕の中で泣く少女が、とても愛しい。
「私も好きよ。リグル」
謝る事は決してしない。虐めて勝手に不安に思ったのはリグルだ。
これからもきっとし続ける。どれだけ嫌がっても、私はリグルを追いかけて、リグルは逃げ惑う事だろう。
だから、謝るなら心の中で。
夕闇には程遠いが、幸い豪雨のおかげで辺りは暗く、夜と言っても遜色ない事だろう。
抱くリグルの身体を離し、泣き腫らした赤い顔を見つめ。
避けていた口元に、私は深い口付けを交わした。
「ん……」
目を閉じてそれを受け入れるリグルの顔に、私は薄く笑ってしまう。
まさか、虐めるだけの対象だった存在に、恋人のように愛してやる時が来るなんてと。
そのままリグルの白い肩に手を置いて、押し倒すのに時間はかからなかった。
※
「いらっしゃいま……って、あるぇー? 幽香さん」
「こんばんは」
雨が降りしきる真夜中。
暖簾を潜ってきた人物を見てミスティアは目を丸くした。
「リグルはー? 一緒じゃないの?」
「リグルは私の家で寝ているわ。酷く疲れて寝ちゃったから、起こすのも可哀想になっちゃってね」
クスリとそう言って笑う幽香に、ミスティアは不思議に思いながらも手に持つ包丁の手は止めない。
「それよりも、お酒を頂けないかしら?」
「あ、はーい」
幽香に注文され、直ぐにミスティアはお酒の準備をする。
「こんばんは、隣、よろしいでしょうか?」
と、続いて直ぐに暖簾を潜ってきた人物に声をかけられ、幽香はそちらに振り向く。
「あら、閻魔の」
青い傘を折りたたんで入ってきたのは、映姫であった。
「風見幽香。貴方がここにいるのも珍しいですね」
「それを言ったら、貴方もじゃないかしら?」
微笑んで幽香は映姫を手招きしながら、隣に座らせる。
「店主、私にもお酒を一つ」
「はーい」
ミスティアは元気良く返事を返し、お酒を更にもう一つ準備し始める。
「……蟲の妖怪は、貴方に想いを告げたみたいですね」
映姫は微笑む幽香の顔を見て、少しばかりほっと安心したような顔をする。
「ええ。誰かさんの入れ知恵のおかげでね」
「両想いならばくっつけばいいんです。添い遂げられない恋ではないのだから」
「それを言ったら、貴方もじゃないのかしら?」
「……何の話です?」
微笑んでいた顔が急にニヤリと、何処か邪悪に満ちた顔になっている幽香の顔に気づき、映姫はぎくりとする。
「アドバイスをくれたのは貴方だって、リグルから白状させたって言えばわかるかしら?」
「……て、店主! もしかして、喋ったんですか!?」
「あー、おあいこだと思ってリグルに喋りましたけどー?」
悪びれもせずミスティアはそう言って、熱燗を二本、幽香と映姫の前へと置いた。
「……う、ぐ」
「叶わぬ恋慕にリグルを映すなんて、貴方も可愛い所があるのね」
幽香のからかい気味の言葉に、苦々しく映姫は幽香を睨みつけるも、それ以上の事はしなかった。
代わりに、出された熱燗を直ぐに杯に傾け、一気に煽ったが。
「んぐ、んぐ、プハ!」
「まぁ、入れ知恵はチャラにしてあげるわ。今度変な事をリグルに吹き込んだら殺すけど」
ニコリと微笑んでそう言う幽香に、しかし、映姫は顔を赤くして溜息を吐いた。
そのまま黙って空になった杯に再び酒を注ぎ、飲む行為を繰り返す。
「……プハ。店主、もう一本」
「はーい」
既に用意していたのか。間髪入れず、再び熱燗が映姫の前に置かれる。
「……ちょっと、酔えないと話も出来ないの?」
無視されたのが気に喰わなかったのか。ドスを聞かせながら声を上げるが、映姫は首を横に振ってみせる。
「酔えないと話も出来ないじゃなくて、酔わないと、話が出来ません」
「? どういう事よ?」
映姫の言葉に、幽香はきょとんと首を傾げるが。
いきなり、ポロポロと泣きはじめる映姫を見てぎょっと驚くはめになった。
「ちょ、ちょっと?」
「風見幽香、私は貴方が羨ましい。どれだけ虐めても、それでも愛してくれる人がいるのだから」
落ちる水滴を拭きもせず、映姫はそのまま杯を口に持っていき、一息で飲み干す。
「んぐ……んぐ……プハ………私は閻魔でありながら、小町に恋心を抱いてしまった。けれど、きっと小町は、私の事を好きじゃない」
「……」
「それに、私は閻魔という立場がある。……告白すら、決して出来ないでしょう」
再び、目を閉じてお酒を飲む映姫の姿を見て、幽香は溜息が零れ出た。
酔わないと話が出来ないという事は、こういう事かと。
「馬鹿ね。貴方、リグルよりよっぽど臆病じゃない」
「え……?」
「違うかしら? 聞いてもいないのに好きじゃないって決め付けて、閻魔の立場があるから告
白が出来ないなんて、どれだけ臆病よ」
それはきっと、逃げているだけだ。
「リグルに言ったのでしょう? わからないなら聞けって。なら貴方も同じようにしてみればいいじゃない」
「……し、しかし。私には立場が」
「……その閻魔の立場を考える程、貴方の恋は小さいものなのかしら?」
ニヤリと笑って、幽香から放たれた言葉に、映姫は顔を赤くした表情のまま、呆然となっていた。
「まあ、いいわ。私には関係のない事だし。私は応援なんてしてあげないし、止めもしなければ押しもしない」
映姫とは違い、幽香は杯にお酒を注ぐと、ゆっくりと一口、味わうように飲む。
「からかいはするでしょうけどね」
にこりと、映姫に微笑んだ幽香は、それ以上は何も言わなかった。
「店主、一曲明るい歌でもお願い出来るかしら? 何処かの誰かさんが、元気になるようなのを」
「あ、はーい♪ それじゃ一曲、歌わせて頂きます~♪」
幽香に話を振られたミスティアは、ペコリと机を挟んでお辞儀をし、目を閉じて何度か深呼吸してみせる。
夜の帳が落ちた屋台の中、降りしきる雨に負けないように。
夜雀の歌声が響く。
それは文字通り、明るい歌だった。
雨にも負けず、風にも負けず、恋する乙女に伝える歌。
幽香は微笑んだまま歌声を肴にしてお酒を飲み。
映姫は、流れた涙を腕でこすりながら、じっとミスティアが歌う様を見ていた。
恋とは、一人では決して出来ない。
寄り添う相手がいなければ、想う相手がいなければ決して出来ない。
けれど想っていても駄目。私たちには伝える声がある。
寄り添っているだけでも駄目。私たちには触れられる体がある。
恋焦がれる気持ちを態度で表せ。恋焦がれる思いを声に変えろ。
それがきっと、君と私の恋の証になってくれるのだと。
※
ミスティアが歌った明るい歌は、そんな感じの照れるような恥ずかしいような。
けれど何処か暖かい、恋の歌にも聞こえた気がしたのは、きっと気を遣ってくれたのだろうと。
「ご静聴、ありがとうございましたー!」
ニコリと微笑んで歌い終わったミスティアはお辞儀をする。
酒が入って気が弱くなっているのか、また涙腺が緩んでくる。
明るい歌なのに泣きそうになる自分の顔を、もう一度強く腕で擦る。
「いい歌ね。貴方の歌声はいつ聞いても、いい肴になるわ」
隣に座る幽香は、心から賞賛するようにパチパチと二、三度ミスティアに拍手を送る。
私もそれにならって無言のまま拍手を送る。本当に、いい歌だった。
「えへへ♪ 褒めても何も出ませんよー?」
頭を掻いて照れるミスティアだったが、満更でもなさそうだ。
本当に、歌う事が好きなのだろう。ここに来るたびに、色々な歌を聴いてきた気がする。
けれど、今日は本当に特別に、心に響いた。
「……店主、勘定を」
「あ、はーい」
来てそれなりに経つが、幽香より早く私は席を立った。頬は熱く、頭は少しぼぅっーとしているが、これぐらいで丁度いい。
いつものように堅苦しい自分ではきっと、まだ踏ん切りがつかないから。
隣に置いておいた青い傘を手に取り、銭を机に置くと、無言のまま幽香の方へと一度だけお辞儀をして、明るい屋台から傘を差して野道を歩いていく。
まだ、彼女は起きているだろうか。
起きてなかったら仕方がない。横暴だが、無理やり起こしてでも話を聞いてもらおう。
今日を逃したら、きっと私はまた“閻魔〟に戻ってしまう。
だからせめて“映姫〟として、私は彼女に告白しよう。
愚痴を言うのも今日で最後だ。好きなら声に出せばいい、好きなら我慢せずに触れればいい。
私の恋は、決して小さくないのだから―――
※
「……頑張りなさい。地獄の閻魔様」
席を立ち、無言のまま去っていった映姫を座ったまま横目で見送り、誰に聞かれる事もなく、幽香は小声でぼそりと呟く。
「今日はもしかしたら、お客さんは幽香さんだけかもねえ、この分だと」
ミスティアは止まない雨に溜息を少し零しながら、酒をゆっくり飲む私に声をかけてくる。
「あら、私だけじゃ不服かしら?」
「いやー、そんな事はないですよー? 私の歌を聞いてくれる人が一人でもいるのなら、私は
それだけで満足なのです。マル」
ミスティアはそうやって笑うと、再びお辞儀をする。
「もう一曲歌いますが~何かリクエストでもありますか?」
「そうねえ。なら静かな曲をお願い出来るかしら? この雨に合うような」
「わかりました~♪」
私のリクエストに応じて、再び深呼吸を繰り返し、今度は静かな音程と共に、しとしとと降る雨に合わせるように歌声は流れていく。
私はそれに耳に傾けながら、お酒を飲んだ。
それが、私がこの屋台に一人で来る、最後の歌になるであろう。
今度来る時は、きっと二人だ。
つい口元がニヤリと笑ってしまう。
帰ったら起きているだろうか。私を待っているだろうか。
歌声を聞きながら、今度はどんな風に虐めてやろうと。
不器用な愛情表現は、恋へと発展しましたとさ。
他者を理解するのは、きっと不可能だ。
夜の帳が落ち始めた、月の出る真夜中。
「ほら、リグル、ちゃんと逃げ回らないと死んじゃうわよ」
最早恒例となってしまった女性の声が聞こえる。
「ハァ、ハァ、ハァ!」
走る視界には向日葵が見え、私は痛みから逃れる為に唯必死に駆ける。
捕まれば何をされるか目に見えている。
羽織っている黒いマントを靡かせながら、私は後ろをゆっくりと歩いて来る人の姿をチラチラと確認しながら、いつ来るかもわからない光弾を避け続ける。
なんでこんな状況になっているか、嘆く所か理解すら出来ない。
いつだってそうだ。私を追いかける女性、風見幽香はニコニコとした微笑みの下に、どす黒い何かを抱えている。
その矛先が、今は私に迫っており。
「ハァ、ハァ……っあ」
どしゃりと、地面につまづいて、花畑へと顔から打つハメになった。
「~~~!」
痛い、痛い、イタイ。
顔をしたたかに打って、痛みに顔をしかめてしまう。
「ほら、捕まえた」
だが、そんな痛みよりも、真後ろから聞こえてきた声に背筋が凍った。
座り込んでいた自分の首筋にゆっくりとしなだれかかるように伸びる腕。
「……あ……ゆ……ゆ、か……」
懇願なんてしても無駄だ。それは、今までの経験からわかっている。
それでも私はゆっくりと、涙が出そうな気持ちでいっぱいになりながら、後ろを振り返り。
「うふふ。リグルの泣き顔は、いつ見てもたまらないわね」
残忍な笑みをしながら、私に笑いかける幽香の顔は、私の首筋に近づいていき。
ガブリと、歯を立てた。
※
風見幽香と言う、花の妖怪に出会ったのは偶然であり、必然であった。
出会ったのは、太陽が降り注ぐ真昼間。煌くように輝く向日葵畑に心惹かれ、心を躍らせながらその中を闊歩したせいだ。
畑の中心で、幽香はピンク色の日傘を差して佇んでいた。
赤いロングスカートに、白のブラウス、黄色いタイと、緑色の短めな髪も相まってか、向日葵畑の中でいやに目立っていたのを今でも覚えている。
横顔は凛々しく、紅い両の瞳は、真剣に幽香の目の前でそびえる向日葵を見つめていた。
近寄って来ている私にも気づきもせずに、幽香は小さく溜息を吐きながら向日葵の様子をじっと見守っていたのだ。
それを見て、私は直ぐに引き返せばよかったのだ。
なのに、花を真剣に見つめる幽香の姿を見て、あろう事か、声をかけてしまった。
声をかけた私にやっと気がついたように、幽香の紅い瞳は私を捉え、鋭い目つきのまま私を射止めた。
私は震える声を抑えるようにしながら、幽香に何をしているのか聞いた。
けれど、返ってくる言葉はなく、じっと、まるで値踏みするように幽香はずっと私を見ただけだった。
この時から、きっと幽香は私に目を付けたのだろう。
いくばくかの静寂が続き、もう一度何をしようとしているか聞こうと思った時だ。
鋭い目つきは何処かに消え、幽香は私に微笑むように笑いかけながら、花の様子を見ていたのよと、答えてくれた。
話してくれた事と、途端に微笑んでくれた事もあってか、私は気を許してくれたのだろうと思って、弾む声を抑えずに幽香に再び話しかけていた。
自分が虫の妖怪である事や、向日葵畑が綺麗に見えた事。
そして幽香の姿が見えて、声をかけた事を。
幽香は微笑みながら、私の話を聞いてくれた。
無闇に話す私の話に相槌を打ち、時には質問するように私の事を聞く会話。
楽しい時間は早く過ぎていくというのは、こういう時の事を指すのだろう。
太陽が輝いていた昼間は徐々に紅く染まり、夕陽が出始める。
私は幽香との会話に夢中になり過ぎて、この畑がどれだけ異様か、気づかずにいた。
そして、幽香の変化にも。
太陽の畑から去ろうとする私に、投げかけられた言葉。
―――リグルは、おいしいのかしら?
何かの冗談かと、言葉を受け止めた時は思った。
けれど、月を描くように象られた口元はさっきよりも残忍に見えて。
紅い瞳は、今から虐める獲物を見つめ、凄い喜んでいた。
足は竦み、今更になって恐怖を感じながら、幽香の身体は一歩ずつ、自分へと近寄り。
あっけなく、怯える私を捕まえて、牙を立てた。
食べられる、死んでしまう、殺される。
色んな思考で、頭の中はグチャグチャになっていった。痛みは徐々に首筋から広がり、その痛みのおかげで。
恐怖から一時的に解放されるように、竦んでいた身体が動いてくれた。
首に広がる血痕、幽香の口元に残る紅い血液。
踵を返し、全力疾走するには事足りる。
喘ぐように逃げて、幽香が私を追いかけて。夜の帳が落ちた向日葵畑でのおいかけっこ。
私は必死に、幽香は優雅に。
奇妙な関係、未だに続いているこの友人とも知り合いとも、恋人とも取れない関係は。
いつの間にか、私が離れられなくなっているおかげで、未だ続いている。
※
「もう逃げないのかしら?」
カプリと、再び首筋に歯を立てられながら、幽香は力が抜けてしまった自分に聞く。
「……」
逃げたいが逃げられない。血が流れる自分の首筋に目を落としながらも、痛みに顔を歪めるので精一杯だった。
「逃げていいのよリグル。逃げたらまた追いかけてあげるから」
そうしないと楽しくないと。
天性の虐めっ子である幽香は、厭らしく笑う。
「……もう、逃げれないよ」
幽香のその顔を見ただけで震えが止まらなくなる。
幽香の変わり様は異常だ。また時間が過ぎれば、何事もなかったかのように幽香は微笑んで私の手を取って自分に寄り添わせる事だろう。
「ふぅん。なら、リグルはただ黙って私に虐められるのね?」
甘く噛まれた首筋に、指で撫でるように触られる。
そのままザクリと、爪を立てられた。
「~~!?」
「ふふ、どう? 痛い? 痛いわよね」
「あ、あ……!」
グリグリと、傷を開いていくように首筋に紅い花が広がっていく。
目を閉じて、荒い息を吐いて、その痛みに私は耐える。
「逃げ惑う貴方の表情もいいけれど、こういうのも、悪くないわね」
自分の表情の感想を嬉々としながら言う幽香は、広がった傷口から指を離すと、再び首筋に顔を近づけた。
「や、やめて、幽香。もう、いやだよ……!」
「嫌よ」
耐えられずに懇願しようとお構いなし。
そのままどこぞの吸血鬼の真似事よろしく、幽香は私の血を舐めるように吸い始める。
「ん……」
背筋がゾワゾワする。熱い痛みが徐々に冷えるように、幽香の口に触れられる度に、痛みは引っ張り上げられる。
「あ、あ、あ!!」
耐えられない。
何で、どうして私がこんな目に合ってるのか。
「ゆ、ゆ、幽香ぁぁ……」
抑えきれず、地面に下ろしていた私の腕は、幽香を抱きしめるように背中に回される。
余計に密着するが、幽香の吸血じみた行為は止まらない。
意識を投げ出せばどれだけ楽か。
「……ん、プハ」
首筋から顔を離し、幽香はまた、自分の顔を見て笑う。
「ふふ、リグル。貴方、今どんな顔をしているかわかるかしら?」
どんな顔と言われても、わかるわけがない。
さっきから顔から水滴が零れているのはわかる。痛くて悲しくて悔しくて。
負の感情で自分の心はいっぱいになっているから。
「わかんないよそんなの……」
「なら、教えてあげるわ。今の貴方はね」
ニヤリと、目の前の存在は、邪悪な笑みをしながら言った。
「嬉しそうよ、とても」
どれぐらい経っただろうか。
身体が重い。あれからどれだけ弄られたかわからない。
時間の感覚がわからなくなるほど幽香は私の身体を弄くり回して、満足したのか。
微笑んで、また明日とか言って、何処かに行ってしまった。
残された私は身体を動かすのもだるくてうつ伏せのまま倒れたまま。
幸い、衣服を破かれるとか、脱がされるとかはされなかったおかげか、まだ身体は軽い方だったが。
「……幽香の馬鹿ぁ」
思い出すだけでもゾワリと身体が震えるのに、言うに事欠いて、私の顔を見て嬉しそうとかぬかしやがった。
あんな事をされて嬉しい筈があるもんか。
「………うう」
枯れるぐらい涙を零してるのに、未だ涙は枯れてくれない。
どうして私を虐めるのか、わからない。理解出来ない。
唯、私は幽香の傍にいられるだけで嬉しいのに。
「ひっく……」
ゴシゴシと乱暴に顔を腕でこすって涙を止める。
乾いて痛かったが、このまま倒れているのも億劫になってきた。
立ち上がり、服についた土を払って向日葵畑から出ようと足に力を入れる。
「……」
一度だけ、見回すように星空と月の光しかない夜の向日葵達を見る。
じっと、向日葵達は私を見ていた。
ここは綺麗な花畑である前に、幽香のテリトリーなのだ。
見ているのは、私がここでは異物だから。
「……またね」
けれど、それが見送ってくれているように見える私の目は、何処かおかしくなってしまっているのだろう。
ダンっと、強く地面を蹴って、星空へとマントを靡かせながら飛ぶ。
日が昇るまでもう数刻はあるはずだ。
気が進まないが、暇潰し兼、愚痴を零せる友人に、私は話をしに行くことにした。
※
「いらっしゃいませ~~♪ あら、リグルじゃないの?」
人里の外れ。陽気な夜雀の歌声と共に開かれている屋台。
「ミスチィー、ごめん。何でもいいから食べ物頂戴」
夜雀であるミスティア・ローレライが開くそれは、色々な者達が集まる夜の食事所として、それなりに賑やかな場所であった。
屋台の暖簾を潜った私を見て、少しばかり驚いた表情をしたが、備えられた椅子に腰掛けたのを見て、直ぐに皿を回してくる。
「どうしたの~? 今日は来ないかと思ったけど~?」
「来る気はなかったよ。色々とあっただけさ」
苦笑しながら話す私に、ミスティアは少し不安げな顔を見せたが、同じように苦笑して、串が刺さった、鰻の肝を私の前へと置いた。
「また幽香さんに虐められたんだね」
「……そんなとこ」
置かれた肝串に手を取って、食べ始める。
客は、酔い潰れて突っ伏しているのが横に一人いるだけで、他に誰もいなかった。
幽香の話は愚痴りはするが、他の誰かがいる前では話してはいない。
同情されても嫌だし、慰められる事でもない。
「もう~そんな顔をするなら行かなければいいのに」
ミスティアのこの言葉も、最早恒例だ。嫌なら行かなければいい。
正論だが、私は首を横に振る。
「別に、幽香が嫌いなわけじゃないんだよ……あの虐め癖を無くしてくれれば、凄い良い人なんだよ?」
私が、幽香の傍にいる理由はそれだ。
虐められはするが、基本的に幽香は優しい。
少なくとも私には。他の人にはどうなのかは知らないが。
「……ハァ、リグル。飴と鞭って言葉知ってる?」
「鳥頭のミスチィーから、そんな難しい言葉聞くと思わなかったよ」
間髪入れず、溜息と共に吐かれた言葉に返してしまう。
「む、酷いなぁ。私だってそこまで頭は悪くないんだよ? 少なくともチルノとかよりは」
背に生えた羽をパタパタとさせて、怒った表情をするミスティアだったが、比べる対象が妖精の時点でどうなのだろうと、本気で考えてしまう。
「チルノは馬鹿じゃないよ。ただ感情のままに行動をしているだけだろ。あれは」
それを馬鹿と言うのだったら、大抵の奴が馬鹿だろう。
「なら私も馬鹿じゃないって事で……とりあえずリグルは実際の所どうなの? 幽香さんの事、好きなの?」
話を戻すようにミスティアが聞いてくるが、私は首を捻ってしまう。
「……好き、なのかな」
さっきまで紅い花が広がっていた傷口に手を添える。
妖怪の回復力はそれなりに高い。幽香が傷を付け、口を付けた場所は、何事もなかったかのように白い肌を見せている。
もっと重症なら治りは遅いが、そこまで傷をつけられた覚えもなかった。
「……よくわからないんだよね。自分の事なのに」
自分の気持ちがよくわからない。
こんな事、今までなかったはずなのに。幽香と出会ってからずっとぐちゃぐちゃのままだ。
「……まぁ、いいけどね~。そろそろご飯もいかが~? 後お酒も」
気を遣ってくれてるのか、ミスティアは肝を半分程食べた私の前に握り飯と熱燗をトンと一つずつ置く。
「ああ、ありがとう」
「いえいえ。私も面倒事を背負い込んでる身だからね~。リグルの気持ちは何となくわかるよ」
いじめられるとかはしないけどっと、にこやかに笑って言うミスティア。
「面倒事って……」
名前を出そうとしたが、止めた。
きっとルーミアの事を言っているのかもしれないが、聞いた所で惚気しか出てこない気がした。
出された握り飯を頬張り、熱燗を傾けて杯に入れながら、グッと勢いよく飲む。
「……プハ。せめて、私が幽香みたいに強ければなぁ……」
昔の蟲達はもっと強かった。
どうして弱くなったかは知らない。
けれど、幽香と肩を並べられるぐらいには、昔の蟲達は強かったはずなのだ。
もし、幽香と対等の立場にいられたら、もっと違った関係になったのではないか?
「……話は聞かせて貰いました」
と、先ほどまで横で突っ伏していた客からいきなり声が上がり、私とミスティアはゆっくりと顔を上げる人物を見た。
ずれた帽子を元の位置に戻しながら、顔を赤くしたままこちらをじろりと見る女性。
「リグル・ナイトバグ。貴方は臆病だ。真実を知ろうと思えば、あの花の妖怪から、いくらでも聞けるのにそれを聞こうとしない」
幽香と同じ、深い緑色の髪。何処か幼さを見せる顔つきであるが、まとう空気は威厳を秘め、対峙する相手に審判を下す者。
「え、閻魔様~。盗み聞きは駄目ですよ~?」
ミスティアの方から困ったように声をかけられるも、気にせずに私の方へと向き直りながら、腕を組んで精一杯に見下ろす視線で私を見はじめる。
四季映姫・ヤマザナドゥ。何でここで閻魔が突っ伏しているか知らない私は、急に声をかけられて呆気に取られるばかりであった。
コホンと、目を閉じて一度咳払いをされてから、映姫はまず私に頭を下げた。
「盗み聞きの形になったのは申し訳ありません。ですが、聞いたからには伝える義務がある。もやもやとした空気にいる事等、私の前ではあってはならない」
物凄い自分の都合をぶちまけながら話す映姫に目を白黒させてしまう。
「いいですか? 恋とは真実を知ってこそ告げるべき告白があり、知らないままでは友人以上、恋人未満等と言う中途半端な状態に置かれてしまうのです。幸い、蟲の妖怪である貴方は立場に縛られず、また花の妖怪である風見幽香も立場等とは程遠い生活を送っている。虐められるのが嫌であるなら貴方はそれをちゃんと風見幽香に言うべきだ。そして何故虐められるのかも貴方の口から風見幽香に聞く義務がある。それが出来ないままわからない等とのたまうのは臆病以外の何者でもない」
いつもの説教通りなのか、いや、確実にこの人酔った勢いで話してるよと脳内で考えを纏めながらも、リグルは嫌な汗を掻きながらも話に耳を傾ける。
「リグルに八つ当たりしないでやってくださいよ~」
「八つ当たり? いいえ、これは事実を言い述べているだけです。決して小町がサボっているから私に仕事が回ってくるとか、寝顔が可愛いなとか、けれど閻魔の立場だから告白何て出来ないとかそういうのとは全く関係がない話です」
オーケー、確実にこの人酔ってるよ。
ミスティアの抗議にも早口で返す映姫は、まだ並々と入っていた私の熱燗を手に取ると、自分の杯に注ぎ初め、一口にグッと飲み干してしまう。
「って、それ私の……」
「プハ。とにかく。貴方が今出来る善行は、想いを風見幽香に言う事です。それ以外に白黒ハッキリつける方法などないでしょう」
「……」
映姫から言われた言葉に私は頭を掻きながらも溜息を吐いた。
言われて気づいた事がいくつかあるが、そういえば何で幽香が私を虐めるか、聞いた事はなかった。
突拍子がまるでない追いかけっこだったせいもあるだろう。幽香が虐めるのに理由なんて無いと決め付けていた部分もある。
「……あの、閻魔様」
聞きたい事が出来た為に、自分を見下ろす、と言っても少しあちらの背が高いぐらいの差だが、見上げる形で私は聞こうとした。
「む、もうこんな時間ですか」
だが、あっちは言いたい事を言ってすっきりしたのか。辺りを見回して、顔を赤くしたまま自分の懐を漁り、黒い財布らしき物を取り出す。
「店主、勘定を」
「ちょ、ちょっと待って! 言うだけ言って帰る気かアンタ!?」
熱燗の横にじゃらじゃらと銭を置いて立ち上がる映姫を止めようと、立ち上がろうとするが、ギロリと睨まれ、身が竦んでしまう。
「私から言う事はこれ以上ありません。仕事に差し支えるので、これ以上の話を聞きたければ後日、仕事場に来なさい」
幽香とはまた違う威圧感。だが、それは同じ圧倒的絶対者のそれであった。
「……ぐ」
息を呑んでその様子を見守るが、閻魔の仕事場に来いと言われても、それは死ねと言っているようなものであって、行ける訳がない。
中途半端に酔っているせいで、これでは煙に撒かれているようなものだ。
止める事も立ち向かう事すら許されない。
しかし睨むぐらいは出来る。精一杯映姫を睨んで、自分の話を聞いてくれるよう、目に力を入れてみる。
「……ふむ、そんなに睨まれてもこれ以上、閻魔として言う事は本当にありません」
ミスティアが銭を受け取ったのを確認し、映姫は帽子を深く被り直し、踵を返して私に背を向ける。
「ですが、映姫として言う事があるのならば、頑張れと貴方を応援しましょう。私から見れば、貴方は風見幽香に惚れているように見えますから」
溜息と共に、そう言いながら映姫は夜の野道へと消えていく。
「……」
「もう~、リグルごめんね。あの人ちょっと、酔い潰れるまで落ち込んでたからさ」
その後ろ姿を黙って見送っていた私に、再びミスティアは謝るように声をかけてくる。
「……別に、気にしてないよ。それより、落ち込んでたって?」
「ちょっとね。部下の人と上手くいってないというか、愚痴でねぇ。泣きながら小町の事が好きなのにいとか。そんな事を」
ミスティアは苦笑しながら話す。彼女から他の客の話は全くされないのだが、自分の話を聞かれておあいこだと思ったのだろう。
「あの人も大変なんだね」
「誰だって大変だよ。好きになるって事は、そんなに楽じゃないよきっと」
「……ミスチィーも?」
「私も大変だよ。恋する乙女は皆一緒だよ~」
アハハと笑いながら、少し照れるように話すミスティアの顔を見て笑ってしまう。
「今日は来てよかったかな。ミスチィーからそういう言葉を聞けるだけで面白いよ」
「む、それって馬鹿にしてない?」
してないよと、一言言って映姫に捕られた熱燗を、再び自分の方へと寄らせ、杯に注ぐ。
二度ほど並々と飲まれたせいか、後一杯程しかなかったが、丁度いい。
グッと飲み、一息吐いて席を立つ。
「ミスチィー、私も勘定」
「あら? もういいの?」
憂鬱な気分は閻魔のおかげか、いつの間にか過ぎ去っている。
「うん。気が少し晴れたからさ。ちょっと気になる事も出来たし」
黒い短パンのポッケから銭を出そうと漁るが。
「ああ、いいよリグル。今日は私の奢りで」
「……? いいの?」
うんっと元気よくミスティアに頷かれ、どうしようか少し迷ったが。
「なら、お言葉に甘えるかな。また今度来た時はちゃんと払うよ」
「またね。今度来る時は幽香さんと一緒に来なよ!」
手を振って見送られ、私もそれに合わせるように手を振って、明るい屋台から月明かりの野道へと歩いていく。
―――貴方は風見幽香に惚れているように見えますから
数奇な出会いの一つで会ったが、得られた物はそれなりだ。
「……とりあえず、駄目元で聞いてみるかな」
行って直ぐに虐められないかなと不安に思いながらも、帰路を辿る。
帰る夜道は、雲が立ちこみ始めた、生憎の空であった。
※
晴れには少し遠い、どんよりとした曇り空。
今にも降って来そうだが、気にする事はない。雨が降ってくれれば、それはそれで喜ばしい事だ。
私達にとって、太陽も雨も必要な物。
どちらかが多くても意味がなく、どちらかが足りなくなってしまえば致命傷になりかねない。
尤も、多少足りなくなった所で、この向日葵畑が枯れる事はないが。
紅い傘を片手に持ちながら、今日も向日葵達の様子を見守っていく。
彼らが成長、もとい維持が出来ている理由は私にある。
苗床は慎重に選び、弱り始めれば手を掛ける。
彼らが枯れてしまうという事は、人間が死を迎えるのと同じなのだ。
「………」
ふと、ここを綺麗だと言った蟲の妖怪の少女を思い出す。
あの時は、手塩をかけてきた向日葵が一つ、枯れてしまった事に嘆いていた。
その時の私の気持ちなんて、彼女はきっと知る事もなければ、知る必要もなかったであろう。
偽りの微笑みを象り、この娘、今ここに来たことを後悔させてやると内心どす黒い殺気で渦巻いていたものだ。
けれど話して行くと、色々と彼女に興味が湧いてきた。
蟲の妖怪は衰退した妖怪の一つだ。その蟲達を統べる幼い少女。
興味から嗜虐心に変わるのはあっけなかった。
健気に私にここが綺麗だと話す少女は、私と仲良くしたいのか。必死に喋っていた。
嬉しそうに懸命に話すその顔を、恐怖と泣き顔に染まらせてみたら、どれだけ楽しいか。
花の妖怪である私が本来、花を蹂躙する筈である蟲を蹂躙したらどれだけ気持ちがいいか。
夕闇に変わる空の中、貴方はおいしいのかしら? と告げて追いかけっこが始まった時はたまらなく楽しかった。
恐怖に怯え、身が竦んだ彼女に牙を立てる快感。
喘ぐように走る彼女を追いかける恍惚。
「今日は、来るのかしら?」
奇妙な関係。追いかける側と追われる側。
どれだけ酷い事をしても、リグルは私の下に戻ってきた。
まるで私という蜜に群がる蟲の一人。
追いかけるのは夕闇を超えてから。楽しい時を誰にも邪魔されない為に。
昼間は蜜のままで在りつづけた。
彼女がそう望んだ為に。
「……あ」
ポツリと、水滴が頬に落ちる。
一粒落ちてきたのが合図となったのか、最早耐えられないと雨は続けざまに頭に落ちてくる。
大粒の雨になるのに、そう時間はかからなかった。
紅い傘を差す。いつものピンクの日傘がお気に入りなのだが、あれはあくまで日傘だ。
ザァーッと、カーテンがかかったように、昼間だというのに暗い向日葵畑。
これはこないかしらと。辺りを見回した時だ。
「……あら」
駆け出すように、向日葵畑を突っ切ってこちらに来る人物を見て、薄く口元は笑う。
降りしきる雨の中、黒いマントを靡かせ、腕を上げて雨粒が顔にかからないようにしながら向かってくる少女。
私が愛でる、蟲の妖怪。
「幽香ーーー!」
リグルが手を振りながら、雨の中こちらへと向かってきていた。
「全く、傘も差さずに来て、風邪引くわよ?」
「ご、ごめん。降ってくるまでには間に合うかなって思って」
大粒の雨が降る中、雨に濡れるリグルを紅い傘の中へと迎え入れ、向日葵畑から移動した。
今は畑から離れ、大きな大樹の下へと移動し腰を下ろしていた。
雨に降られ、リグルの服は濡れてビッショリだ。頭から出ている二本の触覚からも水滴が落ちて、見るに堪えない。
「上だけでもいいから脱ぎなさい。着たままじゃ寒いでしょ」
「え、い、いいよ」
首を横にブンブン振って拒否するリグルだったが、私はニコリと笑って細い肩を掴む。
「脱ぎなさい。それとも、私に脱がされたいのかしら? リグルは」
「……ち、違う! いいよ、わかったよ。脱げばいいんでしょ!」
肩を掴んだ手を、顔を紅くしながら払って私に背を向ける。
「わかればいいのよ。あ、マントは私が外してあげるわ」
首に巻かれた黒いマントを後ろからしゅるりと外してやる。
雨に濡れて重くなってしまったマントを横で大きく何度か払い、雨粒を飛ばして横へと置く。
その間、リグルは背を向けたまま自分の白いシャツのボタンをゆっくり外していった。
雨に濡れて張り付くシャツをゆっくり脱いでいき、白い濡れた背中が私の前に差し出される。
「こ、これでいいんだよね?」
濡れたシャツを草が生えた脇に置くと、胸元を隠すように両腕でリグルは自分の身体を抱きながら、首だけ私に向ける。
「ええ。けれど、それじゃあまだ寒いでしょう?」
リグルのそんな姿を見て、嗜虐心が鎌首を上げるが、心を自制し、大樹に背中を預けながら座り込む。
紅い傘をマントの小脇に置いて、顔をこちらに向けるリグルに両の手を差し出すようにしてみせる。
「ほら、抱いてあげるから来なさい」
「―――は?」
短パン姿でいるリグルは、私の言葉に理解出来なかったのか。
きょとんとした顔をして、数秒後、顔を真っ赤にしながらわなわなと身体を震わせる。
「な、ななな」
「もう、いちいち驚かないの。そんな顔してると襲うわよ?」
何か雄叫びを上げかねないリグルに薄く笑ってそう言うと、ピタリと黙って、今度は顔を青くする。
どうやら襲うという言葉に反応したらしい。
「……わ、わかったよ。へ、変な事はしないでよ?」
恥らうように、最後にそう言って私に背中を預け、抱かれるリグル。
案の定雨に濡れたせいか、リグルの身体は冷たかった。着ているこっちのブラウスも濡れるが、まぁ、構わないだろう。
「少し、冷たいわね」
「……ごめん」
雨が止む気配はない。桜の花が散り始め、太陽の畑が最も輝く暑い夏までもう少しだったが。
梅雨にしてはじとじとしておらず、降る雨は豪雨という言葉がふさわしかった。
雨粒が降る音だけが合奏するように自分達を包む。
しばらくの間、それを受け入れ。
「……今日は、来ないかと思ったわ」
ポツリと、自分から切り出した。
昨日の泣き顔を思い出す。
顔を赤くし、首筋に紅い花を零すリグルの姿。
どうしようもなく惨めなのに、どうしようもなく愛しいその姿は、快感以外に感じられなかった。
けれど、虐められた後は大抵日を空けるのがいつものリグルの習慣だった。
自分の昼夜のギャップに慣れる為か、それとも立ち直る為か。
どちらにしろ、日を待たずに自分に会いに来たのだけは初めてだった。
「……ちょっと、聞きたい事があってさ」
「私に?」
「うん」
聞きたい事と言われても出てこない。
首を傾げ、続く言葉を待つ。
「一体、何かしら? 聞きたい事って」
「………幽香はさ、どうして私を虐めるのかなって」
「……え?」
ポカンと、間が抜けたような顔をしてしまう。
背中から抱いていたおかげか、リグルには顔を見られなくて済んだが、突拍子もない言葉に驚きは隠せなかった。
「聞いた事がなかったでしょ? いつも虐められてたけど、何で幽香が私を虐めるかわからなかった。ずっと、聞かずにいたから」
先ほどより自分の体温で暖かくなっているはずのリグルの身体が震え始める。
「その……私はさ、幽香の事を嫌いになれない。虐めるけど、幽香は優しいじゃんか。今もこうやって、私に気遣ってくれてるし」
「……」
「だから、余計わからないんだよ。どうして幽香が私を虐めるのか」
優しくされるからわからないと。
リグルは言う。私は、その言葉にニコリと微笑んだ。
「虐めるのは貴方が可愛いからよ」
震えるリグルの身体を抑えるように、より一層力強く抱きしめる。
「私はね、傲慢で、独占欲が強いのよ。欲しい物は力づくで手に入れるし、自分の思い通りにならないといらいらする」
あの時、向日葵が枯れた時だってそうだ。
私は彼らが枯れてしまった事に嘆いていたわけではない。
どうして自分の思い通りに成長しなかったのか。
どうして自分が手塩にかけたのに、枯れてしまったのか。
自分の“失敗〟をリグルに見られ、私は殺意があの時渦巻いていたのだ。
「私はリグルの全てを見たいの。嬉しそうに笑う貴方も、泣いて喘ぐ貴方も、全部」
「……それが、虐める理由?」
「ええ。他に何か、意味があると思った? もっと何か、自分を思ってしてくれてる事だと思った?」
それならば、きっとリグルは幻滅した事だろう。
「ううん。別に、そこまで思ってないよ」
だが、リグルは首を横に振った。背を向けているおかげか、どんな表情をしているかはわからない。
「…………ねぇ、一つ聞いていいかな?」
少し間を空けて、リグルは話す。
「いいわよ。何かしら?」
「幽香は、昔から生きている妖怪だよね? なら、昔の蟲達が、強かった時を知らないかな?」
「……そんな事を聞いてどうするの?」
昔の蟲達という言葉に、少しばかり怪訝な表情をしてしまう。顔を今は見られないからいいが、リグルからそんな言葉が出ると思わなかった。
「いや、もしもだけどさ。私も幽香みたいに強かったら、もっと違う関係もあったんじゃないかなって思って」
「……それは、“対等〟という意味で?」
幽香の言葉に、リグルはこくりと頷く。
「弱いから虐められるのなら、強かったら幽香と普通の関係で友人になれたんじゃないかなって、思ったんだ」
「…………」
リグルの言葉に、私は深い溜息しか出ない。
「……それは、自分一人で考えた事かしら?」
そうじゃなければ入れ知恵した奴を殺してやりたい。
「ある人からアドバイスは貰ったけど、結論が出たのは、自分一人の考えだよ」
「……そう」
リグルのか細い身体から、いつの間にか震えがなくなっている。
きつく抱きしめていたおかげか、リグルの鼓動が小さく鳴っているのがよくわかる。
「リグル、一つだけ良い事を教えてあげるわ」
「良い事?」
本来、語る必要がない事だが、言わなければリグルは納得しないだろう。
「ええ。もし貴方が私と同じ“強者〟であったら、どんな関係が待っていたか」
答えはたった一つしかない。
「会った時点で殺しているわきっと」
太陽の畑に入ってくる強い妖怪等、あの隙間妖怪を除けば、例外なく殺している。
「唯の餌でもそう。畑の苗床にして、迷う事無く殺しているわ」
人間も同じだ。例外を除けば、私達にとって彼らは唯の栄養でしかない。
「貴方が“弱者〟だから、この関係は出来ているの」
衰退した蟲の妖怪。
愛でれるから、私はリグルに執着している。
「もしもなんてないわ。リグル・ナイトバグを虐め、愛でるのは、この関係でしか成立しない。だから―――」
抱いていた身体を離し、立ち上がって私は、リグルの正面へと回る。
「そんな、不安そうな顔をしないで頂戴」
リグルの顔は、今にも泣きそうだった。
「そういう顔をするのは、私が虐める時だけでいいのよ」
「……だ、だって」
涙を堪えているのだろう。口元がわなわなと震え、顔を赤くしながら私を見上げるその姿に。
「……リグル」
嗜虐心は、何故か湧いて来なかった。
代わりに正面からリグルを抱くようにして背中に腕を回す。
「幽香の事が好きなんだよぉ……。どれだけ虐められても、泣かされても、それでも幽香の事が……」
ポタリと、水滴が肩に落ちる。
降りしきる雨は未だ止まっていない。肩にかかった水滴はとても熱く、自分の腕の中で泣く少女が、とても愛しい。
「私も好きよ。リグル」
謝る事は決してしない。虐めて勝手に不安に思ったのはリグルだ。
これからもきっとし続ける。どれだけ嫌がっても、私はリグルを追いかけて、リグルは逃げ惑う事だろう。
だから、謝るなら心の中で。
夕闇には程遠いが、幸い豪雨のおかげで辺りは暗く、夜と言っても遜色ない事だろう。
抱くリグルの身体を離し、泣き腫らした赤い顔を見つめ。
避けていた口元に、私は深い口付けを交わした。
「ん……」
目を閉じてそれを受け入れるリグルの顔に、私は薄く笑ってしまう。
まさか、虐めるだけの対象だった存在に、恋人のように愛してやる時が来るなんてと。
そのままリグルの白い肩に手を置いて、押し倒すのに時間はかからなかった。
※
「いらっしゃいま……って、あるぇー? 幽香さん」
「こんばんは」
雨が降りしきる真夜中。
暖簾を潜ってきた人物を見てミスティアは目を丸くした。
「リグルはー? 一緒じゃないの?」
「リグルは私の家で寝ているわ。酷く疲れて寝ちゃったから、起こすのも可哀想になっちゃってね」
クスリとそう言って笑う幽香に、ミスティアは不思議に思いながらも手に持つ包丁の手は止めない。
「それよりも、お酒を頂けないかしら?」
「あ、はーい」
幽香に注文され、直ぐにミスティアはお酒の準備をする。
「こんばんは、隣、よろしいでしょうか?」
と、続いて直ぐに暖簾を潜ってきた人物に声をかけられ、幽香はそちらに振り向く。
「あら、閻魔の」
青い傘を折りたたんで入ってきたのは、映姫であった。
「風見幽香。貴方がここにいるのも珍しいですね」
「それを言ったら、貴方もじゃないかしら?」
微笑んで幽香は映姫を手招きしながら、隣に座らせる。
「店主、私にもお酒を一つ」
「はーい」
ミスティアは元気良く返事を返し、お酒を更にもう一つ準備し始める。
「……蟲の妖怪は、貴方に想いを告げたみたいですね」
映姫は微笑む幽香の顔を見て、少しばかりほっと安心したような顔をする。
「ええ。誰かさんの入れ知恵のおかげでね」
「両想いならばくっつけばいいんです。添い遂げられない恋ではないのだから」
「それを言ったら、貴方もじゃないのかしら?」
「……何の話です?」
微笑んでいた顔が急にニヤリと、何処か邪悪に満ちた顔になっている幽香の顔に気づき、映姫はぎくりとする。
「アドバイスをくれたのは貴方だって、リグルから白状させたって言えばわかるかしら?」
「……て、店主! もしかして、喋ったんですか!?」
「あー、おあいこだと思ってリグルに喋りましたけどー?」
悪びれもせずミスティアはそう言って、熱燗を二本、幽香と映姫の前へと置いた。
「……う、ぐ」
「叶わぬ恋慕にリグルを映すなんて、貴方も可愛い所があるのね」
幽香のからかい気味の言葉に、苦々しく映姫は幽香を睨みつけるも、それ以上の事はしなかった。
代わりに、出された熱燗を直ぐに杯に傾け、一気に煽ったが。
「んぐ、んぐ、プハ!」
「まぁ、入れ知恵はチャラにしてあげるわ。今度変な事をリグルに吹き込んだら殺すけど」
ニコリと微笑んでそう言う幽香に、しかし、映姫は顔を赤くして溜息を吐いた。
そのまま黙って空になった杯に再び酒を注ぎ、飲む行為を繰り返す。
「……プハ。店主、もう一本」
「はーい」
既に用意していたのか。間髪入れず、再び熱燗が映姫の前に置かれる。
「……ちょっと、酔えないと話も出来ないの?」
無視されたのが気に喰わなかったのか。ドスを聞かせながら声を上げるが、映姫は首を横に振ってみせる。
「酔えないと話も出来ないじゃなくて、酔わないと、話が出来ません」
「? どういう事よ?」
映姫の言葉に、幽香はきょとんと首を傾げるが。
いきなり、ポロポロと泣きはじめる映姫を見てぎょっと驚くはめになった。
「ちょ、ちょっと?」
「風見幽香、私は貴方が羨ましい。どれだけ虐めても、それでも愛してくれる人がいるのだから」
落ちる水滴を拭きもせず、映姫はそのまま杯を口に持っていき、一息で飲み干す。
「んぐ……んぐ……プハ………私は閻魔でありながら、小町に恋心を抱いてしまった。けれど、きっと小町は、私の事を好きじゃない」
「……」
「それに、私は閻魔という立場がある。……告白すら、決して出来ないでしょう」
再び、目を閉じてお酒を飲む映姫の姿を見て、幽香は溜息が零れ出た。
酔わないと話が出来ないという事は、こういう事かと。
「馬鹿ね。貴方、リグルよりよっぽど臆病じゃない」
「え……?」
「違うかしら? 聞いてもいないのに好きじゃないって決め付けて、閻魔の立場があるから告
白が出来ないなんて、どれだけ臆病よ」
それはきっと、逃げているだけだ。
「リグルに言ったのでしょう? わからないなら聞けって。なら貴方も同じようにしてみればいいじゃない」
「……し、しかし。私には立場が」
「……その閻魔の立場を考える程、貴方の恋は小さいものなのかしら?」
ニヤリと笑って、幽香から放たれた言葉に、映姫は顔を赤くした表情のまま、呆然となっていた。
「まあ、いいわ。私には関係のない事だし。私は応援なんてしてあげないし、止めもしなければ押しもしない」
映姫とは違い、幽香は杯にお酒を注ぐと、ゆっくりと一口、味わうように飲む。
「からかいはするでしょうけどね」
にこりと、映姫に微笑んだ幽香は、それ以上は何も言わなかった。
「店主、一曲明るい歌でもお願い出来るかしら? 何処かの誰かさんが、元気になるようなのを」
「あ、はーい♪ それじゃ一曲、歌わせて頂きます~♪」
幽香に話を振られたミスティアは、ペコリと机を挟んでお辞儀をし、目を閉じて何度か深呼吸してみせる。
夜の帳が落ちた屋台の中、降りしきる雨に負けないように。
夜雀の歌声が響く。
それは文字通り、明るい歌だった。
雨にも負けず、風にも負けず、恋する乙女に伝える歌。
幽香は微笑んだまま歌声を肴にしてお酒を飲み。
映姫は、流れた涙を腕でこすりながら、じっとミスティアが歌う様を見ていた。
恋とは、一人では決して出来ない。
寄り添う相手がいなければ、想う相手がいなければ決して出来ない。
けれど想っていても駄目。私たちには伝える声がある。
寄り添っているだけでも駄目。私たちには触れられる体がある。
恋焦がれる気持ちを態度で表せ。恋焦がれる思いを声に変えろ。
それがきっと、君と私の恋の証になってくれるのだと。
※
ミスティアが歌った明るい歌は、そんな感じの照れるような恥ずかしいような。
けれど何処か暖かい、恋の歌にも聞こえた気がしたのは、きっと気を遣ってくれたのだろうと。
「ご静聴、ありがとうございましたー!」
ニコリと微笑んで歌い終わったミスティアはお辞儀をする。
酒が入って気が弱くなっているのか、また涙腺が緩んでくる。
明るい歌なのに泣きそうになる自分の顔を、もう一度強く腕で擦る。
「いい歌ね。貴方の歌声はいつ聞いても、いい肴になるわ」
隣に座る幽香は、心から賞賛するようにパチパチと二、三度ミスティアに拍手を送る。
私もそれにならって無言のまま拍手を送る。本当に、いい歌だった。
「えへへ♪ 褒めても何も出ませんよー?」
頭を掻いて照れるミスティアだったが、満更でもなさそうだ。
本当に、歌う事が好きなのだろう。ここに来るたびに、色々な歌を聴いてきた気がする。
けれど、今日は本当に特別に、心に響いた。
「……店主、勘定を」
「あ、はーい」
来てそれなりに経つが、幽香より早く私は席を立った。頬は熱く、頭は少しぼぅっーとしているが、これぐらいで丁度いい。
いつものように堅苦しい自分ではきっと、まだ踏ん切りがつかないから。
隣に置いておいた青い傘を手に取り、銭を机に置くと、無言のまま幽香の方へと一度だけお辞儀をして、明るい屋台から傘を差して野道を歩いていく。
まだ、彼女は起きているだろうか。
起きてなかったら仕方がない。横暴だが、無理やり起こしてでも話を聞いてもらおう。
今日を逃したら、きっと私はまた“閻魔〟に戻ってしまう。
だからせめて“映姫〟として、私は彼女に告白しよう。
愚痴を言うのも今日で最後だ。好きなら声に出せばいい、好きなら我慢せずに触れればいい。
私の恋は、決して小さくないのだから―――
※
「……頑張りなさい。地獄の閻魔様」
席を立ち、無言のまま去っていった映姫を座ったまま横目で見送り、誰に聞かれる事もなく、幽香は小声でぼそりと呟く。
「今日はもしかしたら、お客さんは幽香さんだけかもねえ、この分だと」
ミスティアは止まない雨に溜息を少し零しながら、酒をゆっくり飲む私に声をかけてくる。
「あら、私だけじゃ不服かしら?」
「いやー、そんな事はないですよー? 私の歌を聞いてくれる人が一人でもいるのなら、私は
それだけで満足なのです。マル」
ミスティアはそうやって笑うと、再びお辞儀をする。
「もう一曲歌いますが~何かリクエストでもありますか?」
「そうねえ。なら静かな曲をお願い出来るかしら? この雨に合うような」
「わかりました~♪」
私のリクエストに応じて、再び深呼吸を繰り返し、今度は静かな音程と共に、しとしとと降る雨に合わせるように歌声は流れていく。
私はそれに耳に傾けながら、お酒を飲んだ。
それが、私がこの屋台に一人で来る、最後の歌になるであろう。
今度来る時は、きっと二人だ。
つい口元がニヤリと笑ってしまう。
帰ったら起きているだろうか。私を待っているだろうか。
歌声を聞きながら、今度はどんな風に虐めてやろうと。
不器用な愛情表現は、恋へと発展しましたとさ。
とりあえず幽香は素直になれないキャラとしての立ち位置をアリス並に獲得しているようなw
蟲の妖怪はなぜ力を失ったんでしょうかねー、そこが気になったり。
全ては、この一言に凝縮されているとおもうんだ!
恐ろしいほど自分に素直な幽香に羨ましさすら感じました。
まあ二人とも幸せそうだしめでたしめでたし
もう愚痴こぼす映姫様を想像しただけで満点~
えーき様の話を書いてください
これはリグルでなくとも花の蜜の誘われざるをえない。
メインの幽リグがしっかりしていて話に引き込まれました。
サブに映こま、さりげなくルーミス(?)も見逃せない。
本当によいお話、ありがとうございました。
幽香のキャラクター性というか、個性が引き立っていて、
読んでいて凄く楽しめました。
甘いだけじゃないところが良かった。甘い話大好きですがw
とりあえず押し倒した後の続きを夜伽のほうに投稿してくれれば100点です