東の方から日が昇り、夜行性の妖怪や徹夜明けの烏天狗が寝入る頃。
ちちちちち、と朝を告げる鳥の声が聞こえてきた。
山の上の朝は麓より少しだけ遅い。
「ふぅん、はぁっ……もう朝か」
大きく伸びをして、体を起こしにかかる。
体を起こすのには伸びが一番いい、爪先から頭までいっぺんに目が覚める気がする。
体に染み付いてるのか、いつの間にか着替えが済んでいた。
身支度を終えた後、隣の部屋とを仕切る襖をとすとすと弱めに叩く。
だけど一向に反応はなく、時たま整った寝息が聞こえてくる。
応答がないのに苛立ったから、私は襖を勢い良く空け放った。
「ほら、諏訪子。さっさと起きなさい」
そう言って大股で真ん中だけ出っ張っている布団に近づき、その中の小柄な少女を少し乱暴に揺さぶった。
「あーぅー? もうあさぁ?」
諏訪子は暫く揺すられた後、むっくりと小さな体を起こした。
「……おはよう神奈子」
「お早う、諏訪子」
まだ寝ぼけているのか、少し抜けた挨拶を交わしながらも諏訪子は身支度を整えていく。
「今日の朝餉作るのは誰だっけ?」
「今日は早苗。でもまだ起きてないでしょうね」
「じゃ、起こしにいこっ」
はいはいと呟きながら障子を開け、朝の日を目一杯に浴びる。
夏も終わりだからか、その日差しは少しだけ鋭かった。
「……現代っ子がいきなりこんな生活するのは辛いだろうね」
独り言が、つい漏れた。
いつの間に居たのか、私の隣で諏訪子は言う。
「慣れてもらうしかないわね、心苦しいけど」
「そうじゃなくって、結界とかの事。ずっと気張ってたら……って」
ずきん、と心が痛む。
きっと私は酷い顔をしているだろう、後悔に塗れた暗い顔を。
そんな顔を見られたくなくて、私は諏訪子を置いて行くように歩き出す。
「本当に、早苗には迷惑を掛けているわね」
俯いたまま、また独り言が漏れてしまった。
どうにか声は震えていなかったけど、付き合いの長い諏訪子の事だ。
私の心情なんて分かりきってるのだろう。
「同意の上とはいえ、面倒ごとばかり押し付けちゃったかな」
諏訪子もその言葉に同調して、暗い声で呟きを漏らす。
「気付いてた? 早苗が最後に心から笑ってたのはまだあっちに居た頃だよ」
その言葉に、必死で平静を保とうとしていた心が揺れる。
いつの間にか私の歩みは止まって、後ろにいた諏訪子がぶつかって声を上げた。
心配そうに諏訪子は私を見てくれていたのだろうが、私は結局後ろを振り向かずにまた歩き出した。
「どうにかして、早苗の笑顔を取り戻しましょう。私たちは早苗の家族なのだから」
自分勝手で、大切な人を省みずにいた神が何を言ってるのだろうか。
でも、これは私の決意。
こんな我侭な私の為に、ついて来てくれた人が居る。
私は、その優しい人にはずっと笑っていて欲しい。
「……うん、そうだね」
後ろを見ずとも、諏訪子が微笑んでいるのがわかる。
私は胸の中でそっと、ありがとうと呟いた。
敵であった私について来てくれる、親友に感謝を込めて。
襖を三間程通り過ぎ、私は漸く早苗の部屋の襖に手を伸ばせた。
ちちちちち、と夜明けを知らせる音が私の耳に届く。
毎朝鳴る、その少し耳障りな音で習慣的に脳を起こしにかかる。
「……ん、もう朝か」
布団の中から這い出し、そこらにぺたぺたと手を伸ばしたけど、
「……あれ? 時計は何処だっけ?」
どこを探しても、探しているものに手が届かない。
まだまどろみは消えてないし、今だったら二度寝ができるのに。
けれど、私のその姿を嘲笑うかのようにちちちちちち、と音は音量を上げていく。
諦めずに少しの間、手探りで探すが一向に目的物は手に触れない。
──仕方がない、二度寝は諦めよう。
「うんっ、しょ。」
かかっていた布団を払いのけ、時計はどこかとあたりに視線を彷徨わす。
けれど見つかったのは時計じゃなくて、
「……そっか、もう目覚まし時計はないんだっけ」
障子の隙間から覗く、日本の雄大な原風景だった。
夏も過ぎて秋になるというのに変わらず暖かい風景は、少しだけ、帰れない故郷の両親を思い起こさせて。
「……あ、れ?」
私の目からは、自然と涙がこぼれていた。
早苗、と声をかけたかったけれど、喉からは空気が漏れるだけで言葉が出ない。
襖へと手を伸ばしたていた私の手は襖に届かなくて。
弱弱しく秋の乾いた空気を掴み、そのままだらりと垂れ下がった。
宙を握ったままの私の手は、寒くも無いのにずっと震えている。
「……やっぱり、早苗は寂しいのかしら」
上擦る声を必死で押さえた、震える声で諏訪子に尋ねた。
尋ねた所でどうしようもないと、私の心は分かっているのに。
「どうかな……こっちに来てから神奈子は寂しいと思った?」
意図の見えない諏訪子の問い。
僅かな葛藤の後、迷いのない心で私は言葉を紡ぐ。
「私は……私は寂しいとは思わなかったわ。早苗と諏訪子が居てくれるから」
「早苗は、私と神奈子だけじゃ寂しいのかも知れない」
親友の放つその言葉に、私は胸を抉られた様な錯覚を感じる。
きっと諏訪子の言葉は正論だ、だからこんなに胸が痛む。
「……そうだと、したら」
「そうだとしたらどうするの?」
それに対する私の言葉は、駄々を捏ねている子供の理屈だ。
自分が気に入らないから周りに働きかけるという、自分勝手で傲慢な理屈だ。
「寂しくならないように、する。信仰も親交も集めて、早苗が笑っていられるように」
「……」
諏訪子は無表情でこちらを見つめている。
その瞳は冷え切っていて、私の気持ちを萎縮させた。
でも、私は口篭るわけにはいかない。
「だって、早苗は私の大事な家族なのだから」
言い切るのと同時に、諏訪子の頬が小さく緩み、瞳が温もりを持った。
優しく優しく、幼子を慈しむかのように微笑みをくれる。
「それならきっと、早苗だって寂しくないね。こんなにも想ってくれる人が居るんだもの」
「諏訪子……」
諏訪子の放った暖かい言葉に、ずっと続いていた手の震えが止まる。
想うだけでは物足りなくて、ありがとうと私は小さく呟いた。
襖の向こうでは、早苗がまだ涙をこぼしている。
その涙を止めたくて、私は再び手を伸ばす。
さっきは届かなかった私の手、けれど今はしっかりと襖を捉えてくれた。
自分勝手な我侭で、あなたを泣かせてしまった私。
だから、その涙は私が止めてあげたい。
襖をゆっくりと開けて、私はありったけの想いを込めて呼びかけた。
すっ、とあまり音を立てずに向かって右の襖が開いた。
「早苗、起きてるかしら?」
「さーなえっ! 起きてるー?」
暖かい、心を惹きつける声が聞こえる。
聞こえた方を振り向くと同時に、見慣れた金髪によって視界が埋め尽くされてしまった。
けれど、何も見えなくても、目に見えずとも分かる。
「……神奈子様? それに諏訪子さまも」
そこに居るのは私の祀る、大事な大事な二人の神様。
「どうしたんですか、こんな朝早くに?」
抱きついている諏訪子さまに離してもらい、改めてお二人を見やる。
朝が忙しい此方に来てからは、私を起こしに来るなど滅多になかったのに。
「そりゃ早苗、かわいいかわいい私の巫女が一人で泣いていたから慰めに来たのよ」
「ぅー、早苗は神奈子の巫女じゃなくて私の巫女!」
そう茶化しながら神奈子様と諏訪子さまは頬を抓りあったりしてるけど、それよりも気になる事を言っていた。
「見て、たんです、か?」
途切れ途切れに、上ずった声が喉から漏れた。
「うん」
「バッチリね」
首肯するお二人。
顔が熱くなっているのが自分でも分かる。
今の私はきっと茹蛸みたいな顔をしているだろう。
「うぅぅうぅ……」
恥ずかしい、それに尽きる。
まさかあんな子供っぽいところを見られるとは……。
「童みたいとか言って、からかわないで下さいね……」
私がそうもごもごと口の中で言った言葉に、お二人は意外そうな顔をなさる。
けれどそれも長くは続かなくて、替わりに母親のような微笑を向けて下さった。
「あら、私はそんな事言わないわよ? そうよね諏訪子」
と、仰りながら笑顔のまま諏訪子様の方へ顔を向ける。
「いんや? 神奈子この前天狗の記者に内容が幼稚とか言って泣かせてたじゃん。あれはノーカン?」
諏訪子さまは、そんな馬鹿なといった感じに神奈子様を見つめ返す。
……そんな事してたんですか神奈子様。
「な、ん、の、こ、と、か、し、ら、ね?」
「いたいイタイ痛いぃーっ! なにすんのさ!?」
いつの間にか諏訪子さまが神奈子様に捕まってこめかみの辺りを握り拳でぐりぐりされている。
見た目とは裏腹に意外と痛いんですよね、あれ。
「あらあら、嘘を言う者には神罰が下るのよ? 諏訪子は嘘つきだから私が罰を当てたの」
「どう考えても嘘吐いてるのはそっちでしょー! この前だってさぁ……」
「しんばつがくだるわよー」
「ぎゃーっ!」
目の前で繰り広げられるお二人の可愛らしい戯れを目にした私は、自然と頬が緩んできてしまって。
ついでにおかしさまでこみ上げてきて。
必死で堪えたけど、それは自然に消えてくれるはずも無く。
「……くぅっ、ふふっ……あはははははははっ!」
凄く失礼なことだとは分かっているのに、吹き出してしまった。
「早苗……」
「さなえ……」
どうしてかな? また涙がにじんでくる。
けれど、これは寂しいとか悲しいとかじゃなくて…。
「すみません、でも、おかしくて」
私は、痙攣するお腹を押さえながら必死に頭を下げた。
「いいのよ、気にしないわ。それにね……」
「やっと笑ってくれたね、早苗」
「……え?」
やっと笑ってくれた。
その言葉に、幻想郷に来てからの自分の振る舞いが頭の中で走馬灯のように駆け巡る。
確か、この頃は神社の周りを警戒してて、ずっと気を張っていたと思う。
……こっちに来てから、心の底から笑ったことなど無かった気がする。
「そうでしたか……心配をお掛けしました。申し訳ありません」
情けなくて、悪いことをした子供のようについ俯いてしまった。
「こーら、こういう時は何ていうんだっけ?」
「少なくとも、すみませんとか、ごめんなさい、では無いよね」
その言葉に、私の胸がどきんと跳ねる。
どうして忘れていたのだろう?
思い返せば簡単なこと、人は使わないことは忘れていく生き物で。
だから、私はここ暫く使ってなかったその言葉を忘れていた。
人に感謝の気持ちを伝える温かい言葉を。
「ありがとう、ございます。神奈子様、諏訪子さま」
お二人はそれを聞くと満足げな笑顔を下さって、
「どういたしまして、早苗」
「こちらこそ、可愛い姿をありがとね」
「……できれば忘れていただきたいです」
諏訪子さまの言葉の矢が、胸のあたりにちくりと刺さる。
大きく傷付くといった訳ではないけれど、暫くは思い出すたびに痛みそうだ。
「ふふっ、どうかしらね?」
「私たちは長生きで物知りで昔のことも忘れないからねぇ」
楽しそうに、追い討ちをかけるお二人。
やられる方としては堪ったものではないのに。
「冗談はここまで。さて、朝餉の準備をするよ」
「はいはーい、私は魚がいいでーす!」
少しいじける私に気付いて、お二人は笑いながらも話題を変える。
……いい加減、寂しがるのも止めようと思う。
近くて遠い故郷の事は思い返しても不毛だし、なにより、
「魚はこの前河童さんが持ってきて下さいましたから良いのがありますよ」
「やったー! じゃあ決まりね!」
「私は肉の方が良いんだけどね……猪とかはそこらに居ないもんかしら」
私にはこんなに素敵な家族が居るのだから。
そうですよね? 神奈子様、諏訪子さま。
ちちちちち、と朝を告げる鳥の声が聞こえてきた。
山の上の朝は麓より少しだけ遅い。
「ふぅん、はぁっ……もう朝か」
大きく伸びをして、体を起こしにかかる。
体を起こすのには伸びが一番いい、爪先から頭までいっぺんに目が覚める気がする。
体に染み付いてるのか、いつの間にか着替えが済んでいた。
身支度を終えた後、隣の部屋とを仕切る襖をとすとすと弱めに叩く。
だけど一向に反応はなく、時たま整った寝息が聞こえてくる。
応答がないのに苛立ったから、私は襖を勢い良く空け放った。
「ほら、諏訪子。さっさと起きなさい」
そう言って大股で真ん中だけ出っ張っている布団に近づき、その中の小柄な少女を少し乱暴に揺さぶった。
「あーぅー? もうあさぁ?」
諏訪子は暫く揺すられた後、むっくりと小さな体を起こした。
「……おはよう神奈子」
「お早う、諏訪子」
まだ寝ぼけているのか、少し抜けた挨拶を交わしながらも諏訪子は身支度を整えていく。
「今日の朝餉作るのは誰だっけ?」
「今日は早苗。でもまだ起きてないでしょうね」
「じゃ、起こしにいこっ」
はいはいと呟きながら障子を開け、朝の日を目一杯に浴びる。
夏も終わりだからか、その日差しは少しだけ鋭かった。
「……現代っ子がいきなりこんな生活するのは辛いだろうね」
独り言が、つい漏れた。
いつの間に居たのか、私の隣で諏訪子は言う。
「慣れてもらうしかないわね、心苦しいけど」
「そうじゃなくって、結界とかの事。ずっと気張ってたら……って」
ずきん、と心が痛む。
きっと私は酷い顔をしているだろう、後悔に塗れた暗い顔を。
そんな顔を見られたくなくて、私は諏訪子を置いて行くように歩き出す。
「本当に、早苗には迷惑を掛けているわね」
俯いたまま、また独り言が漏れてしまった。
どうにか声は震えていなかったけど、付き合いの長い諏訪子の事だ。
私の心情なんて分かりきってるのだろう。
「同意の上とはいえ、面倒ごとばかり押し付けちゃったかな」
諏訪子もその言葉に同調して、暗い声で呟きを漏らす。
「気付いてた? 早苗が最後に心から笑ってたのはまだあっちに居た頃だよ」
その言葉に、必死で平静を保とうとしていた心が揺れる。
いつの間にか私の歩みは止まって、後ろにいた諏訪子がぶつかって声を上げた。
心配そうに諏訪子は私を見てくれていたのだろうが、私は結局後ろを振り向かずにまた歩き出した。
「どうにかして、早苗の笑顔を取り戻しましょう。私たちは早苗の家族なのだから」
自分勝手で、大切な人を省みずにいた神が何を言ってるのだろうか。
でも、これは私の決意。
こんな我侭な私の為に、ついて来てくれた人が居る。
私は、その優しい人にはずっと笑っていて欲しい。
「……うん、そうだね」
後ろを見ずとも、諏訪子が微笑んでいるのがわかる。
私は胸の中でそっと、ありがとうと呟いた。
敵であった私について来てくれる、親友に感謝を込めて。
襖を三間程通り過ぎ、私は漸く早苗の部屋の襖に手を伸ばせた。
ちちちちち、と夜明けを知らせる音が私の耳に届く。
毎朝鳴る、その少し耳障りな音で習慣的に脳を起こしにかかる。
「……ん、もう朝か」
布団の中から這い出し、そこらにぺたぺたと手を伸ばしたけど、
「……あれ? 時計は何処だっけ?」
どこを探しても、探しているものに手が届かない。
まだまどろみは消えてないし、今だったら二度寝ができるのに。
けれど、私のその姿を嘲笑うかのようにちちちちちち、と音は音量を上げていく。
諦めずに少しの間、手探りで探すが一向に目的物は手に触れない。
──仕方がない、二度寝は諦めよう。
「うんっ、しょ。」
かかっていた布団を払いのけ、時計はどこかとあたりに視線を彷徨わす。
けれど見つかったのは時計じゃなくて、
「……そっか、もう目覚まし時計はないんだっけ」
障子の隙間から覗く、日本の雄大な原風景だった。
夏も過ぎて秋になるというのに変わらず暖かい風景は、少しだけ、帰れない故郷の両親を思い起こさせて。
「……あ、れ?」
私の目からは、自然と涙がこぼれていた。
早苗、と声をかけたかったけれど、喉からは空気が漏れるだけで言葉が出ない。
襖へと手を伸ばしたていた私の手は襖に届かなくて。
弱弱しく秋の乾いた空気を掴み、そのままだらりと垂れ下がった。
宙を握ったままの私の手は、寒くも無いのにずっと震えている。
「……やっぱり、早苗は寂しいのかしら」
上擦る声を必死で押さえた、震える声で諏訪子に尋ねた。
尋ねた所でどうしようもないと、私の心は分かっているのに。
「どうかな……こっちに来てから神奈子は寂しいと思った?」
意図の見えない諏訪子の問い。
僅かな葛藤の後、迷いのない心で私は言葉を紡ぐ。
「私は……私は寂しいとは思わなかったわ。早苗と諏訪子が居てくれるから」
「早苗は、私と神奈子だけじゃ寂しいのかも知れない」
親友の放つその言葉に、私は胸を抉られた様な錯覚を感じる。
きっと諏訪子の言葉は正論だ、だからこんなに胸が痛む。
「……そうだと、したら」
「そうだとしたらどうするの?」
それに対する私の言葉は、駄々を捏ねている子供の理屈だ。
自分が気に入らないから周りに働きかけるという、自分勝手で傲慢な理屈だ。
「寂しくならないように、する。信仰も親交も集めて、早苗が笑っていられるように」
「……」
諏訪子は無表情でこちらを見つめている。
その瞳は冷え切っていて、私の気持ちを萎縮させた。
でも、私は口篭るわけにはいかない。
「だって、早苗は私の大事な家族なのだから」
言い切るのと同時に、諏訪子の頬が小さく緩み、瞳が温もりを持った。
優しく優しく、幼子を慈しむかのように微笑みをくれる。
「それならきっと、早苗だって寂しくないね。こんなにも想ってくれる人が居るんだもの」
「諏訪子……」
諏訪子の放った暖かい言葉に、ずっと続いていた手の震えが止まる。
想うだけでは物足りなくて、ありがとうと私は小さく呟いた。
襖の向こうでは、早苗がまだ涙をこぼしている。
その涙を止めたくて、私は再び手を伸ばす。
さっきは届かなかった私の手、けれど今はしっかりと襖を捉えてくれた。
自分勝手な我侭で、あなたを泣かせてしまった私。
だから、その涙は私が止めてあげたい。
襖をゆっくりと開けて、私はありったけの想いを込めて呼びかけた。
すっ、とあまり音を立てずに向かって右の襖が開いた。
「早苗、起きてるかしら?」
「さーなえっ! 起きてるー?」
暖かい、心を惹きつける声が聞こえる。
聞こえた方を振り向くと同時に、見慣れた金髪によって視界が埋め尽くされてしまった。
けれど、何も見えなくても、目に見えずとも分かる。
「……神奈子様? それに諏訪子さまも」
そこに居るのは私の祀る、大事な大事な二人の神様。
「どうしたんですか、こんな朝早くに?」
抱きついている諏訪子さまに離してもらい、改めてお二人を見やる。
朝が忙しい此方に来てからは、私を起こしに来るなど滅多になかったのに。
「そりゃ早苗、かわいいかわいい私の巫女が一人で泣いていたから慰めに来たのよ」
「ぅー、早苗は神奈子の巫女じゃなくて私の巫女!」
そう茶化しながら神奈子様と諏訪子さまは頬を抓りあったりしてるけど、それよりも気になる事を言っていた。
「見て、たんです、か?」
途切れ途切れに、上ずった声が喉から漏れた。
「うん」
「バッチリね」
首肯するお二人。
顔が熱くなっているのが自分でも分かる。
今の私はきっと茹蛸みたいな顔をしているだろう。
「うぅぅうぅ……」
恥ずかしい、それに尽きる。
まさかあんな子供っぽいところを見られるとは……。
「童みたいとか言って、からかわないで下さいね……」
私がそうもごもごと口の中で言った言葉に、お二人は意外そうな顔をなさる。
けれどそれも長くは続かなくて、替わりに母親のような微笑を向けて下さった。
「あら、私はそんな事言わないわよ? そうよね諏訪子」
と、仰りながら笑顔のまま諏訪子様の方へ顔を向ける。
「いんや? 神奈子この前天狗の記者に内容が幼稚とか言って泣かせてたじゃん。あれはノーカン?」
諏訪子さまは、そんな馬鹿なといった感じに神奈子様を見つめ返す。
……そんな事してたんですか神奈子様。
「な、ん、の、こ、と、か、し、ら、ね?」
「いたいイタイ痛いぃーっ! なにすんのさ!?」
いつの間にか諏訪子さまが神奈子様に捕まってこめかみの辺りを握り拳でぐりぐりされている。
見た目とは裏腹に意外と痛いんですよね、あれ。
「あらあら、嘘を言う者には神罰が下るのよ? 諏訪子は嘘つきだから私が罰を当てたの」
「どう考えても嘘吐いてるのはそっちでしょー! この前だってさぁ……」
「しんばつがくだるわよー」
「ぎゃーっ!」
目の前で繰り広げられるお二人の可愛らしい戯れを目にした私は、自然と頬が緩んできてしまって。
ついでにおかしさまでこみ上げてきて。
必死で堪えたけど、それは自然に消えてくれるはずも無く。
「……くぅっ、ふふっ……あはははははははっ!」
凄く失礼なことだとは分かっているのに、吹き出してしまった。
「早苗……」
「さなえ……」
どうしてかな? また涙がにじんでくる。
けれど、これは寂しいとか悲しいとかじゃなくて…。
「すみません、でも、おかしくて」
私は、痙攣するお腹を押さえながら必死に頭を下げた。
「いいのよ、気にしないわ。それにね……」
「やっと笑ってくれたね、早苗」
「……え?」
やっと笑ってくれた。
その言葉に、幻想郷に来てからの自分の振る舞いが頭の中で走馬灯のように駆け巡る。
確か、この頃は神社の周りを警戒してて、ずっと気を張っていたと思う。
……こっちに来てから、心の底から笑ったことなど無かった気がする。
「そうでしたか……心配をお掛けしました。申し訳ありません」
情けなくて、悪いことをした子供のようについ俯いてしまった。
「こーら、こういう時は何ていうんだっけ?」
「少なくとも、すみませんとか、ごめんなさい、では無いよね」
その言葉に、私の胸がどきんと跳ねる。
どうして忘れていたのだろう?
思い返せば簡単なこと、人は使わないことは忘れていく生き物で。
だから、私はここ暫く使ってなかったその言葉を忘れていた。
人に感謝の気持ちを伝える温かい言葉を。
「ありがとう、ございます。神奈子様、諏訪子さま」
お二人はそれを聞くと満足げな笑顔を下さって、
「どういたしまして、早苗」
「こちらこそ、可愛い姿をありがとね」
「……できれば忘れていただきたいです」
諏訪子さまの言葉の矢が、胸のあたりにちくりと刺さる。
大きく傷付くといった訳ではないけれど、暫くは思い出すたびに痛みそうだ。
「ふふっ、どうかしらね?」
「私たちは長生きで物知りで昔のことも忘れないからねぇ」
楽しそうに、追い討ちをかけるお二人。
やられる方としては堪ったものではないのに。
「冗談はここまで。さて、朝餉の準備をするよ」
「はいはーい、私は魚がいいでーす!」
少しいじける私に気付いて、お二人は笑いながらも話題を変える。
……いい加減、寂しがるのも止めようと思う。
近くて遠い故郷の事は思い返しても不毛だし、なにより、
「魚はこの前河童さんが持ってきて下さいましたから良いのがありますよ」
「やったー! じゃあ決まりね!」
「私は肉の方が良いんだけどね……猪とかはそこらに居ないもんかしら」
私にはこんなに素敵な家族が居るのだから。
そうですよね? 神奈子様、諏訪子さま。
あったかい家族です、ほんと。
あ、早苗さんは可愛いと思います!