【 act.1 Alice vs. Marisa 】
遠く、果てしなく。目の前に広がる空は、どこまでも青かった。
初夏の日差しを浴びながら、魔法の森の上空を箒に跨った少女が飛ぶ。
その少女、黒白のエプロンドレスを着て、黒のとんがり帽子を蜂蜜色の髪に被せた“普通の魔法使い”霧雨魔理沙は、気持ちのいい陽気に呆けそうになる頭を意図的に引き締めた。
今は弾幕ごっこの最中。それも、彼女にとっては負けられない闘いだ。
「負けてもいい闘いなんて、私には無いけどな!」
気合いを入れるように声に出しながら、イリュージョンレーザーを放つ。
目標は、左上方から降下しつつ向かってくる四体の人形だ。
整然としたダイヤモンド編隊を組んだ四体は、魔法使いの攻撃をあっさりと回避した。
そのまま飛び過ぎて行く人形を魔理沙は忌々しげに睨みつける。
人形たちは白とライトグレーの二色から成るラバー風柔軟素材のスーツで手足の先までを覆い、胸と肩、下腕部と脛の部分には硬質パーツを装着している。頭部には大きなゴーグルを着用。右手にショットを放つ銀の光槍(ランス)を、左手には独特の光沢のある乳白色の防盾(シールド)を装備している。一際目を引くのは、背中から二つ放出されている七色の光。それはまるで輝く虹のようだ。
故に魔理沙はこの人形たちを“虹の翼”と呼んでいた。
四体全てが、いや、今この空域で魔理沙と闘っている十二体の人形全てが、寸分違わず同じ造形をしている。
そして、その人形たちに繋がる魔力のラインを締める存在が居た。
魔理沙から距離を置いて宙に浮かぶ、もう一人の魔法使い。
青いシンプルなドレスに身を包み、羽織るは純白のケープ。強力な禁呪を秘めた魔導書を携えた、肩にかかる美しい白金色の髪が印象的な少女、“七色の人形遣い”アリス・マーガトロイドが、魔理沙の現在の『敵』である。
アリスは、戦乙女“フィルギア”と名付けた人形たちを、魔力を通す不可視の糸で操っている。
この十二体は全て彼女自身が直接コントロールしていた。
上海人形や蓬莱人形のように、大まかなコマンドを介して動くオートマティックではない。
二体で縦陣に位置した人形二組が目標である魔理沙に接近する。
それぞれの陣では、先頭の人形が攻撃を、後方の人形が援護を担当していた。
魔理沙は四体を狙ってレーザーを撃つが、素速く動く人形にはかすりもしない。
片方の二体に意識を向けていると、反対側からもう片方による攻撃を受ける。
囮と攻撃の役割をフレキシブルに使い分ける四体に、魔理沙は翻弄されていることを認めざるを得なかった。
くそっ、と悪態をつくと同時に、背中に痛みが走る。
背後から接近していた菱形の陣形を組んだ四体から同時攻撃を受けたのだ。
次の瞬間、咄嗟に急降下したのは、魔理沙の本能の成せる技だった。
振り向くと、目の前、今まで自分が居た空間を、別の菱形陣の四体によるショットが切り裂いていった。
安堵している間は無い。二組の縦陣人形が再び目まぐるしく位置を入れ替えながら接近してきたのだ。魔理沙は一方的な攻撃を食らう。
お返しとばかりにイリュージョンレーザーを撃つが、掠りもしない。
(こいつら、速い!)
彼女は幻想郷最速を自負するが、瞬間的な加速力では人形たちに軍配が上がる。
縦陣の動きを追いながら放つレーザーは、空しく空を裂くばかりだ。
落ち着け、と己に言い聞かせ、深呼吸して狙いを定める。と、菱形陣からの異方向同時攻撃を受けた。
片方を避け損ない、痛撃に顔をしかめる。
(このままじゃジリ貧だぜ。それなら!)
四体の菱形陣を正面に置いて、恋符『マスタースパーク』の発射体勢。
弾幕ごっこにおいて、スペルカードは強力であるほど魔力の充填(チャージ)に時間を要する。
その間は人形たちの攻撃に晒されることになるが、贅沢は言っていられない。最後に勝てばいいのだ。
身体中に蓄積していくダメージに奥歯を噛み締めて耐える魔理沙。
まずは四体、全体の三分の一を潰してやる。その意気の元に魔砲は発射――されなかった。
射撃しようとしたその瞬間、手元に右方向からのピンホール・ショットを受けたのだ。
構えたミニ八卦炉がブレてしまい、魔理沙が篭めた貴重な魔力はぽふんという情けない音と共に霧散した。
虹の翼の攻撃は威力と命中精度の両面において、アリスの今までの人形とは桁が違う。そのことを改めて思い知らされた。
(畜生!)
顎を上げて見開いた目の端に、ぽかぽかとした陽気の根源が映った。
初夏の心地良さを与えてくれるその光の長閑さが、今の魔理沙にはどうにも忌々しい。
(ったく、太陽め。ん? 太陽? そうだ!)
ニヤリと微笑む人間の魔法使い。そう、最後に笑うのは、この霧雨魔理沙なのだ。
アリスは魔理沙の動きが変わったことを察知した。
(何かするつもりね)
密かに、攻撃重視から警戒体勢にモードを変える。
彼女は十二体のフィルギアを通じてリアルタイムで得ている情報を瞬時に解析していった。
魔理沙は旋回しつつ、ぐんぐん上昇していく。
人形を散開させながら、アリス自身もそれを追った。
普通の魔法使いは人形たちによる包囲を嫌って避けるように、高速で目まぐるしく移動する。
人形遣いは彼女を追尾。
魔理沙の動きは一見無秩序に思えた。
基本は旋回しながらの上昇だが、左右にスライドしたり、時折急降下するようなトリッキーな機動を織り交ぜている。
数秒後、突然魔理沙が急停止した。
その瞬間、普通の魔法使いの小さなシルエットの後ろから、太陽の眩い光が人形遣いの蒼い瞳を射抜いた。
目標を見失ったように周囲の人形たちがふらつくのを確認した魔理沙は、アリスの方に向き直った。
「空中戦の基本だぜ、アリス! こんな初歩的な手に引っ掛かるなんてな!!」
残り少ない魔力、撃てるのはあと一発だけ。だが、十分だ。その一発はこの弾幕勝負に終止符を打つ逆転の一撃となるのだから。
魔砲使いは本日二発目の『マスタースパーク』のチャージに入る。
焼きついた網膜が回復しない様子で俯いた人形遣いの表情は窺えない。
健気にも主人を護るつもりなのか、全ての虹の翼がアリスの元に戻っていくのを見て、魔理沙は笑いを堪えきれない。
アリスさえ倒せば即決着がつくというのに、忌々しい人形たちまで一気に殲滅できるとは、今日は最良の日だ。
しかし――、
(なんだ、あれは!?)
魔理沙は見た。
十二体の人形が左手の防盾(シールド)を魔理沙に向け、主の前に円面を描くかのような陣形に並んで空中停止している。
その個々の盾から光の魔方陣が浮かび上がった。
十二個の光が相互に組み合わさり、一つの巨大な魔方陣を形成していく。
人形遣いが顔を上げた。
「そんな初歩的な手が見抜けないと思ったの? 綺光『ホーリーライト』」
アリスは初公開にして、今回の弾幕ごっこで切る初めてのスペルを静かに宣言した。
初めて目にするスペルカードは魔理沙に警戒心を呼び起こした。
だが、残りの魔力を全て費やした必殺のマスタースパークは既にフル充填されている。
(ええい、構うもんか! あの妙な魔方陣ごとアリスを粉砕するまでだ!)
魔理沙は心の中のトリガーを引き、魔砲が射出された。
人間の魔法使いから人形遣いに向けて、魔力の砲弾が空を突き抜けるかの如く疾駆する。
その光が狙い違わず魔方陣の中心に着弾し、魔理沙が勝利を確信した刹那、アリスの前面に眩い光が発せられた。
魔理沙は信じられないという面持ちで、自分に迫る『それ』を見ていた。
その光、輝く魔方陣から撃ち出された光は、間違い無く彼女が放った必殺の魔砲だ。
それが人形たちのシールドから展開されていた巨大な魔方陣に跳ね返され、魔理沙に向かって一直線に飛来してくる。
驚愕の表情を顔に貼り付けた魔法使いを、元は彼女の手により編み出された太光が襲った。
それまでのダメージを蓄積していた魔理沙は力を失い、緑の絨毯の如く地表に広がる魔法の森に吸い込まれるように墜落していく。
魔法使い同士による弾幕ごっこに決着がついたのだ。
◇◇◇
「痛てて……」
魔法の森の一角、樹々がややまばらになっている場所で、魔理沙は一本の大樹に背を預けて座り込んでいた。
地面に落ちる前に当たった樹の細枝の数々が緩衝材代わりになってくれたのだろう、打ち身や擦り傷以外に外傷は無い。
手足を軽く動かしてみたが、特に異常は感じられなかった。
“黒白”の渾名の由来である黒のワンピース風ドレスと白いエプロンがぼろぼろなのが気になるが、その程度の被害で済んだのは僥倖といえる。
「またアリスに負けた、か」
力無く呟く魔法使いの前に、当の人形遣いがふわりと舞い降りた。
その左右には六体ずつの人形が控えるように浮いている。
アリスは魔理沙を見て、「どうやら無事のようね」と言った。その声音には安堵の色が感じられる。
「ああ、お陰様でな」と魔理沙。
彼女の声は、やや硬い。
「……これで私の三連敗か」
「そうだったかしら」と返すアリス。
魔理沙の言う事実に気付いていないわけではないが、勝負の結果そのものに興味は薄い。七色の人形遣いにとっては、過程こそが重要だった。
自身のフィルギア運用戦術の試行と実戦データの収集。どちらも概ね満足できるといえるだろう。
「そうだぜ」と呟いた魔理沙は、先ほどの戦闘終盤で抱いた疑問をアリスに訊ねることにした。
「アリス、おまえ、さっき太陽を直視しても何ともなかったのか?」
「ああ、少しだけ眩しかったわね 」
実際には、あの時アリスの網膜は一時的に焼きつき、視覚機能は極度に低下していた。
アリスが魔理沙を補足し続けられたのは、相手の意図を読んで冷静に対処していたことと、人形たちに装備した各種センサーのお陰である。
だが、そんなことをペラペラと喋る必要はない。秘匿と沈黙は魔法に携わる者の常なのだ。
「そっか。ま、アリスも妖怪だからな」
一般に妖怪は人間よりも優れた身体機能を備えている。人間の魔法使いは一応納得したようだ。
ふと、魔理沙はアリスを見つめた。
おとがいに手を当てた人形遣いは、何やら考え込んでいるように見える。
普段からアリスはことさら勝利を誇るような真似はしない。
これが魔理沙であれば、ニヤリと笑いながら「ふふん、私の勝ちだぜ! おまえも中々頑張ったが、ま、実力相応の結果ってところだな!」くらいのことは言ってのけるだろう。
そういえば、と魔理沙は思い返す。この三戦、アリスは戦闘終了後に何やら考え込むような表情をしていた。
それ以前はどうだっただろう?
(慎重なアリスは、勝って始めて頬を緩める。そうだった)
だが、今の人形遣いは緊張状態を継続しているかのようだ。何故?
実際のところ、戦闘が終了した今でもアリスは『闘って』いたのだ。
十二体の人形たちと。そして、自分自身を相手に。
先ほどの戦闘から得られたデータを元に、自らの頭脳とリンクしたフィルギアをアップデート。戦闘パターンの検証と改良。
更に、新たに浮かび上がった問題点を整理し、修正方法を考察する。
「なに?」
魔理沙が自分の顔をじっと見ているのに気付き、アリスは人間の魔法使いに目を向けた。
「なんでもないぜ」
ふいと顔を逸らす魔理沙。
「そう。なら、私は行くわね」
「ああ」
アリスは地面を離れ、白金色の髪をなびかせて宙へと昇った。
その左右に六体ずつ追随した人形たちは主人を頂点とする逆V字を描き、青空を背景に飛び去っていく。
残された魔理沙は唇を噛みながら、その姿を眩しそうに見上げていた。
◆◆◆
【 act.2 She stole the serious thing. 】
――物語は二ヶ月前に遡る。
正午を過ぎた頃、朝から買い物に出向いた人里から戻ったアリスは、自宅の玄関扉の前まで来て溜息をついた。
扉に施した簡易結界が破られている。しかもかなり強引な手口で。
こんな真似をする者の心当たりは、一人しかいなかった。
(また魔理沙ね)
扉を開き、一気に増した疲労感を伴って家に入る。
人形遣いは探知魔法を展開して、自分以外の人妖の気配の残滓を探った。
侵入者は一階には長く留まっていない。アリスも気配を追うように二階に上る。
書庫の前で足を止める。ここの室内で気配が変わっていることに気付いたのだ。
侵入者の感情が膨れ上がったことを感じる。これは『歓喜』だ。
(何か貴重なものを見つけられたというわけね)
アリスは書庫に入る。
量の面ではパチュリー・ノーレッジが管理する紅魔館地下の大図書館に遠く及ばないが、質的には貴重な書物が詰められた書棚が整然と並んでいた。
(!? これは!)
『歓喜』の気配が強く残る棚を見て、それまで冷静だった人形遣いは顔色を変えた。
慌てて書棚の一角から一冊の魔導書を抜き取る。
それは魔導書ではあるものの、さして貴重なものではない。魔に関わる立場であれば大抵の者が持っている、ごくありふれたものだ。
だからこそアリスはその書を擬装用に使っていたのだ。
もどかしげにブックカバーを外すと、現れたのは本ではなく箱だった。
蓋を開けると、中に入っていたのは緩衝用の綿だけ。肝心の中身は無い。
「魔理沙!!」
箱を放り出したアリスは、書庫の窓を開いて空へと舞い上がった。
◇◇◇
全力飛行で霧雨邸に到着したアリスは、問答無用で玄関から押し入る。
もどかしげに気配を探り、家主が研究室として使っている部屋の扉を乱暴に開いた。
「魔理沙!! うちから盗み出した魔宝石を返しなさい!! あれは――」
怒鳴り声は途中で消え失せた。
窓から差し込む午後の日差しに照らされた室内で、魔理沙は突然の闖入者を呆然と見ている。
そしてアリスの視線は、所狭しと物や本が無秩序に積み重ねられた乱雑な部屋の中、普通の魔法使いの前に位置する机に置かれたものに釘付けになっていた。
それは煌く七色の光を仄かに放つ魔宝石……だったものだ。
魔宝石、その名の通り、魔力を秘めた宝石である。
机の上のそれは、稀なほど大きなサイズと最高ランクのクオリティを誇る石だった。元の状態であれば。
今は、無残に砕けた欠片の集大成でしかない。
「あ、あの、アリス。これは、その、違うんだ」
魔理沙はしどろもどろになりながらも、必死に弁解を試みる。
「そう、私は石の質を確認するために、ちょこっとだけ削り取ろうとしただけなんだよ。そしたらさ、なんか、砕けちゃって……」
あはは、と笑ってみせる魔理沙。
アリスは棒立ちのまま、口を一文字に結んでいた。蒼い瞳から発せられる視線は、じっと机の上の石に固定されている。
魔宝石は強力な魔力を秘めているが、非常にデリケートで扱いが難しい。迂闊なことをすれば破損するか、魔力が失われてしまうことも珍しくない代物だ。
魔法使いなら、魔理沙もそのことは承知している筈だ。いや、解っていて実行したのだろう。結果を恐れずに。
「ふーむ、どういう性質の魔宝石か判らないな。なら、調べてみればいい。じっと見てたって、事態は進展しないぜ!」
アリスは溌剌とした少女の声を聞いた気がした。
そして、短くない付き合いである彼女の推測は正鵠を射ている。
常にポジティブ且つアクティブであろうとする。霧雨魔理沙は、そういうタイプの人間なのだ。
「よく見つけたわね、これ」
表情を凍らせたまま、アリスはようやく口を開いた。
「あ、ああ。それが入ってたブックカバー、同じ本棚の他の本と微妙に位置がずれてたんだよ。それで気付いたんだ。何かあるな! ってさ。まぁアリスも巧く隠したつもりだろうけど、私の目は誤魔化せないぜ。おまえこれ、時々取り出してニヤニヤ眺めてたんだろ? まったく、いい趣味してるよな。っていうか、ただ見てるだけじゃ、せっかくのマジックアイテムが泣くぜ。こういうのは使ってナンボだろうが? 大体、おまえはいつも――」
やっとアリスが喋ってくれたことに安堵したのか、あるいは不安を解消するためか、饒舌に捲くし立てる魔理沙。それを遮ったのは、ピシャッという高い音だった。
一瞬遅れて頬に感じた熱と、いつの間にか目の前に来ていたアリスの片手を上げた姿勢から、魔理沙は自分が平手打ちを受けたのだと理解した。
「!! 何す……る……」
怒鳴りかけた魔理沙は、呆けた顔でアリスを見た。
人形遣いは眉根を寄せて口元を引き結び、両の目から涙を流していた。
大粒の涙滴が透明度の高い蒼い瞳からぽろぽろと溢れ出る。
魔理沙は動くことも、言葉を発することもできなかった。
息苦しさに支配された時間が、どれくらい続いただろう。
室内を覆った沈黙は、アリスの喉から搾り出されるような声をもって破られた。
「し、神綺様から……母様からいただいた魔宝石だったの。母様がずっと大切にしていた石だったの。私が魔界を発つ時にくれた、たった一つの物だったの。それを、それをあんたは……っ!」
アリスは涙を流しながら、魔理沙を睨みつけている。
逃げるように視線を下げた人間の少女は、異様な気配を感じた。
乱雑に積まれた魔導書やマジックアイテムから放電現象のような火花が散っている。
その中心に位置するのは、七色の人形遣い。感情を迸らせた妖怪の少女から溢れた魔力が周囲の魔に干渉しているのだ。
火花の数は次第に増えていき、煙の燻りや破裂音まで混じり出している。床や壁、天井までが振動し始めた。このままでは、下手をすると大爆発が起こる。
「アリス! やめろ、やめてくれ!! 謝るから! 私が悪かった!!」
魔理沙はアリスの両肩を掴んで懇願する。
「触らないで!」
人形遣いは腕を振り、人間の魔法使いを撥ね付けた。床に倒れる魔理沙。
アリスは長袖のブラウスの袖口で自分の顔を拭う。乱暴に。ごしごしと。何度も何度も。
魔理沙はどうすることもできずに、その姿を見上げるしかなかった。
やがて手を下ろした人形遣いの目は、痛々しい赤に彩られていた。あれほど高まっていた周囲の干渉現象は、いつの間にか沈静化している。
アリスは机に歩み寄った。
ポケットから取り出したレースの縁取りが付いた真白なハンカチを机に広げ、その上に魔宝石の破片を一つ一つ指で摘まみ、小さな欠片に至るまで丁寧に移していく。
作業を終えたアリスは、今まで石があったスペースを平手で掃った。
まるで、ここには塵の如く微細な一片すら残したくないと言うかのように。
石の破片を包み込んだハンカチをきゅっと両手で握った人形遣いが無言のまま、ゆっくりと部屋から出て行く。
乾いた音と共に扉が閉じられると、座り込んだままだった魔理沙は仰向けに床に寝転んだ。
「また、やっちまった。やりすぎちまった……。私は、私は……」
少女の小さな呟きは、黄昏時の薄暗さに包まれた室内に溶けていった。
◆◆◆
【 act.3 The Puppet Master's method (first half) 】
霧雨邸から帰宅した後、アリスは食事も取らずに書斎に篭っていた。
既に魔法の森は漆黒の如き宵闇に包まれている。
灯かりを点した室内。窓際のデスクに乗せられた白いハンカチの上には、砕かれた魔宝石が置かれていた。椅子に掛け、机上に両肘を乗せて指を組み、力無くそれを見つめる人形遣い。
アリスは、魔理沙め、と呟き、もはや何度目かも解らない嘆息を漏らす。
彼女がアリスの家に勝手に上がりこんだり、書物や蒐集物を持ち去るのは、日常茶飯事だった。
魔理沙に悪意は無いのだろう。
だがそれは、罪悪感を抱かなければ反省もしないということだ。
無断侵入や窃盗の被害に遭うのは、言うまでも無くアリスとしては不本意だった。
故に、怒りも顕に魔理沙に注意する。
しかし、当の加害者はといえば、反省する素振りすら見せはしない。
へらへら笑いながら屁理屈をこねるだけだ。
そして、そんな彼女に向かって、アリスはわざとらしく溜め息をついてみせる。
いつもそれで終わりにしていた。
アリスにとって魔理沙は、やんちゃな妹のような存在だったのだ。
末っ子として育てられた彼女としては、まるで妹ができたようで嬉しいという気持ちもあった。だから何かと構い、世話を焼いてきた。
(この子も今はこんなだけど、十年か二十年もすれば落ち着いてくれるでしょう)
いつもそう考え、若干の諦めをもって怒りを飲み込んでしまう。見返りを求めぬ恩を仇で返されても、「やれやれ」と肩を竦めて済ませてきた。
その結果が……今、自分の目の前にある。
無残に砕けた魔宝石。大切にしていた、母からの贈り物。
自分は甘かったのだろう。
アリスはまた一つ溜息をついたことに気付き、不味いと考える。
溜息をつくと幸せが逃げるなどと思っているわけではないが、これでは気が滅入る一方だ。ではどうすればいいか? 魔理沙に怒りや恨みをぶつけたところで、石は元には戻らない。同じ森に住む魔法使いに悪気は無かったのだ。恐らく。きっと。多分。
(……本当にそうかしら?)
悪い方へと向きそうな心を、こんなことではいけないと慌てて持ち直す。
(そうだ。魔理沙の良いところを思い浮かべて、心を落ち着けよう)
我ながら名案に思える。
アリスは深呼吸をしてから目を閉じて、『霧雨魔理沙の美点』を探し始めた。
1分が経過。
(まず魔理沙といえば、いつも私のところに押し掛けてきて、図々しくお茶とお菓子を出せと五月蝿くて。食事時まで居座ると当然のようにお料理まで要求するのよね。で、味に文句を言って……)
5分が経つ。
(私が留守の時は結界や鍵を壊して侵入して、魔導書や魔道具、蒐集品を無断で持ち出して、いくら催促しても返さなくて……。探索や実験で助け合うこともあるわ。そういうことはお互い様でしょ。でも魔理沙の場合、いちいち恩着せがましいのよ……)
10分が過ぎる。
(とにかく自分勝手で、口を開けば嫌なことばかり言うのよね。ほんと憎まれ口と減らず口ばかり。私の前で自分の過ちを認めたことなんてあったかしら? さっき謝ってたのは、家を壊されたくなかったからでしょうし……)
15分が経った。
(話がずれてきてるわ。えーと魔理沙は、いつも強気で、自由奔放で、明るくて前向きで、陰でものすごい努力をしていて。でもそれ、私にとって良いことかしら? むしろ迷惑に感じることの方が多いような……)
20分が過ぎた。
(私が作るお菓子やお料理を、美味しそうに食べてくれるのよね。でも文句を言う。「ありがとう」なんて言われた記憶がないわ。「ごちそうさん、もっと精進しろよ」って偉そうに言われたことはあったけど。あら? これさっきも考えたかしら?)
25分が経つ。
(本当は優しい子だと思うのよ。自信無いけど。ただ、口汚くて手癖が悪くてガサツで不器用なだけで。それにしても限度ってものがあるわよね。『親しき仲にも礼儀あり』という言葉は……あの子の辞書からは落丁してるんでしょう)
30分が経過。
(えーと、魔理沙の良いところ、良いところは……。うーん……)
そうして一時間が過ぎた頃、アリスはぱちりと瞼を開いた。
結局、彼女は魔理沙の美点を一つも思いつかなかった。
それはもう、見事なまでに綺麗さっぱり何も無かったのだ。
アリスは顔を俯かせた。目には溜まった涙が光っている。
「そ、そんな……。うっ、ううう……」
手で覆った口から嗚咽が漏れ出した。
それは次第に大きくなり、とうとう堪えきれず、
「ぷっ……くく! あはははは!! あーっはははははっはははははは!!」
身をよじって腹を抱え、大声で笑い出した。まさに爆笑である。
「あっはははははっ!! な、何も良いところが無い? なーんにも? 一点も? 皆無? ナッシングなの? 魔理沙って、魔理沙って……。あははははっはあははははは!!」
有りもしないものを一生懸命探していた自分が可笑しい。
そんな人間の魔法使いを何とか庇おうとしていたなんて、一体何を考えているのか。
真夜中の静寂に包まれた自宅で、アリスはただ一心に笑い続けた。
やがて疲れ果て、ぜいぜいと呼吸を落ち着かせる。
人形遣いは苦労して笑いを収めた。
こんなに心の底から笑ったのは、いつ以来だろう? と考えながら、目の端に浮かんでいた涙を手で拭った。
何だかすっきりした気分だった。
怒りも恨みも悩みも、全て不意の笑いが洗い流してくれたかのようだ。
「ふふ、変なの」
そんな自分が可笑しくて、我知らずアリスは微笑した。
それは晴れやかな、春の青空のような笑みだった。
さて、とアリスは魔宝石に手を伸ばす。
破砕され、魔力は失われてしまったが、母から譲り受けた大切な品であることに変わりは無い。
またあの魔導書を模した箱に入れて仕舞っておこう。
そう考えつつ欠片の一つを摘み取って、人形遣いははっとした。
(この石、まだ生きてる!?)
微弱ではあるが、魔力を感じる。
他の欠片も確認してみる。
大き目の破片は十二個。小さなものはその倍ほどの数。
それらは確かに魔力を発していた。
アリスは慌ててハンカチに包んだままの石を持って研究室に向かった。
時間が経つにつれて魔力は弱まっているようなので、急いで対処しなくてはならない。
◇◇◇
マーガトロイド邸の研究室。
部屋としては書斎の倍以上の面積を確保しているが、閲覧頻度の高い魔導書や研究結果のレポートファイルを納めた書棚や薬品棚、大小の実験器具、研究機材等が置かれている。そのせいか、やや圧迫感を覚える空間だ。
若干雑然としているものの、霧雨邸の研究室とは比較にならぬほど整頓されているのは、言わずもがなである。
魔宝石の欠片は全て減衰を停止する処置を施し、密封した培養液で満たした小型カプセルに保存した。
ふう、と安堵の息をついて、アリスは今後魔宝石をどう扱うかを考える。
砕けた魔宝石は魔力を失っていないとはいえ、不安定なものだ。今は培養液に漬けることで状態を保たせているが、これはあくまでも暫定処置にすぎない。
こうなったら、魔力を引き出すことで、石に磨きをかけるべきだろう。
魔宝石が本来秘めている力を促進させるのだ。
そのためには、石を削り、研磨しなければならない。
このタイプの魔宝石の品質基準には、通称『4C』といわれるものがある。
重量(Carat Waight)、カット(Cut)、色(Color)、透明度(Clarity)のことだ。
この4Cの中で唯一人妖の手による加工技術を要するのがカットであり、サイズや重量を犠牲にしても、カットのクオリティ次第では魔宝石の力を高めることができる。
ここで更に必要となるのが、カットし直した石の状態を安定させると共に効率良く魔力を引き出すための『器』である。
暗闇の中で微かな光明に照らされ、進むべき道が見えてきたことをアリスは感じた。
蒼い瞳に利発な光を宿らせた少女は、逸る心を落ち着かせながら筆記用具を取り出す。
己のインスピレーションが命じるままにペンを走らせ、図を交えながら思いついたことをノートに次々と書き込んでいった。
必要となる機材、実験方法、『器』に要求される機能、etc、etc...
一通り書き終えて満足すると、アリスは閉じたノートを仕舞い、浴室に足を向けた。
今夜はもうお湯を浴びて、寝てしまおう。
今日は色々なことがあって疲れているし、明日からは多忙になる。
休めるうちに休んでおくのも魔法使いの仕事のうちなのだ。
◇◇◇
翌朝、アリスは昨日に続いて里に向かった。帰路には香霖堂に立ち寄る。
保存の効く大量の食料と日用雑貨、新しい人形の製作に必要な材料等を買い込む為だ。
今回の件に目処が付くまで、彼女は自宅に篭りきるつもりでいる。
人形用資材の調達は元より、長期間の生活に欠かせない食料や日用品の確保は必須事項だ。
捨食の魔法を施している彼女に本質的な意味での食事は不必要だが、これは生活習慣の問題である。
昼前に帰宅し、入手した物資を各所に収納するよう人形たちに指示を出す。
その間アリス自身は、家の敷地に結界を張る作業を行った。
今までのような、本気になれば魔理沙でも破れる鍵代わりの簡易結界ではない。専門家である博麗の巫女ですら、これを解除しろと言われたら顔をしかめること請け合いの強力な代物だ(それでも巫女なら最終的には無効化してしまうだろうが)。
結界の敷設を終えたアリスは、お茶を飲む間も惜しんで研究室に入る。
やるべきことは山ほどあるのだ。
通常であれば、こういった作業は地下の工房で行うのだが、今回はデリケートな工程が多いため、この研究室を使うことにした。
魔宝石のカットから取り掛かろう。まずは研磨作業だ。
人形師として知られるアリスだが、それは彼女の才能の一端にすぎない。
アリスは人形用、人妖用を問わず、被服縫製に靴やアクセサリーの制作、武器の製造までこなせる技師であり、デザイナーだ。
彼女は自慢や喧伝を嫌うので知る者は少ないが、いずれにおいても超一級の腕前である。
「さあ、久々に思いっ切り腕を振るうわよ!」
気力に満ちた声で思いを口にしたアリスは、早速作業に取り掛った。
◇◇◇
人形遣いが忙しなく動き始めた頃、同じ森に住む人間の魔法使いは自宅寝室のベッドの上で膝を抱えていた。
窓からは既に高い位置にある日の光が差し込んでいるが、頭を膝に埋めた魔理沙の表情は窺えない。
昨日の研究室での一件の後、自分がどうしたのか彼女は憶えていない。
いつの間にか、エプロンドレスを着たままで、ベッドの上に居た。
ずっと起きていたような気もするし、少しは眠ったようにも思える。
気が付くと、朝だった。
(やりすぎた。また、やりすぎちまった……)
昨夜からぐるぐると回り続けている思考。
油断すると、幼い時分に里に住んでいた頃の苦い記憶が浮かび上がってくる。
小さな自分の手の中のモノ。愕然とする父親の顔。
はっとして、両手でわしゃわしゃと蜂蜜色の髪を掻き乱し、魔理沙は甦りかけた思い出を振り払った。
もう何度もそれを繰り返している。
◇◇◇
昨日の昼前、結界を破って侵入に成功したマーガトロイド邸の書庫に巧妙に隠されていた魔宝石を発見した霧雨魔理沙は、歓喜と興奮に心を躍らせていた。
してやったり!! あのアリス・マーガトロイドが大切に秘匿している貴重なアイテムを、この魔理沙様が手に入れたのだ!
いつもすました表情をした自称都会派の人形遣いが地団駄を踏んで悔しがる姿を想像すると、自然と顔がにやけてくる。
同じ『蒐集家』にカテゴライズされていても、アリスと魔理沙はまるでタイプが異なっていた。
アリスは蒐集したアイテムをきちんと管理、手入れをする。
一方魔理沙は、希少なものや入手難度の高いものには異常な程の執着心を見せるものの、一度手に入れてしまうと途端に興味を失う傾向が強い。
苦労して手にしたアイテムを、未整理の物品の山の上にぽんと放り投げてそれっきり、というのも、いつものことだ。
これは単に、几帳面なアリスと杜撰な魔理沙という違いではない。
フィッシングに例えると、アリスは釣った魚の写真を撮ったり調理して食べたりすることを好み、魔理沙は魚を釣ることそのものを楽しむ、天性のハンターなのだろう。
以前、人形遣いは普通の魔法使いにこう言ったことがある。
「あんたは『豚に真珠』という言葉をご存知かしら?
アイテムはね、その価値を真に理解し、力を引き出せる者が所有して初めて意味があるの。
ただ『珍しいものだから』という理由だけで欲しがるなんて、愚の骨頂よ。
増してや、せっかく入手したものを無造作に仕舞い込んでいるような人では、ね」
まったく、大きなお世話である。
欲しいから手に入れる。蒐集の理由など、それで十分ではないか。
それに、自分の物をどう扱おうが私の勝手だ。
だが、マーガトロイド邸から持ち出すことに成功した魔宝石に関しては、魔理沙は蒐集家ではなく純粋に魔法使いとして惹かれていた。
カラット、クラリティ、カット、カラー、そして魔力含有量。どの点をとっても、これほどの石にはお目にかかったことがない。
(まだまだアリスの家にはお宝が眠っている!)
是非また蒐集に出向いてやろう、と研究室の机に置いた魔宝石を見つめながら、にやけた顔で考える。
うっとりするくらいに綺麗な素晴らしい石だ。いくら見ていても飽きることがない。ま、あの人形遣いが持っていても、せいぜい見て楽しむくらいが関の山だろう。なら自分が有意義に使ってやった方が、貴重な魔宝石も歓ぶってものさ。あいつも言ってたじゃないか「アイテムは力を引き出せる者が所有して初めて意味がある」って。
さて、この魔力の塊である石、どう料理してくれようか? まずはその性質を知らねばお話になるまい。そこで取り出したるは、このピック。軽く削って詳細に調査してくれよう。
石に傷を付けては元も子もない。あくまでも軽く、優しく。そう念じながら、魔理沙はピックの先端を魔宝石の表面に当てた。
その瞬間、石は魔理沙を拒絶するかのように皹が入り、ほろりと砕けた。
何が起きたのか解らず、呆然とする魔理沙。
そこに、ばたん! と扉を開けて、魔宝石の本来の持ち主が入って来たのだ。
◇◇◇
魔理沙はベッドの上で溜息をついた。
アリスがそこまで大切にしている物だなんて、知らなかったのだ。
では、それを知っていたら手を出さなかったのか? と問われても、魔理沙は答えられない。
彼女は、アリスやパチュリーからなら無断で物を拝借しても問題は無いだろうと甘く考えていた。
確かに、二人とも口では何だかんだと文句を言う。しかし、最後には決まって許してくれるのだ。
魔理沙は勝手にそう受け取っていた。
自分は大抵のことは許される身だ。きっと、そういう性格だと周囲も受け入れているのだろう。『人徳』ってやつだな。
己に都合よく、そう捉えていた。
だが、昨日は……。
(アリスのやつ、泣いてたな)
プライドの高い七色の人形遣いの涙など、初めて見た気がする。
(謝ろう。どう考えても、悪いのは私だ)
許してくれるかどうかは判らない。いや、恐らく無理だろう。
まさか殺されることはないだろうが、絶交されるかもしれない。
アリスには負けたくなかった。何故かは解らないが、博麗霊夢に対するものとは違った意味で、そう思っている。
でも、嫌われたままなのは、もっと嫌だった。
とても気が重い。
それでも、挫けそうになる自分を何とか励ましながら、森の開けた場所に佇むマーガトロイド邸まで辿り着いた。
そして、昨日わくわくしながら踏み込んだ白亜の洋館は、かつて無いほどに強力な結界をもって普通の魔法使いが近づくことを拒絶したのだ。
まるで、あの砕けた魔宝石のように。
魔理沙は愕然として、土の上に崩れ落ちた。
◇◇◇
人形遣いが自宅に篭ってから、半月が経過した。
研究室の椅子に座るアリスの手の中には、一体の人形がある。
プロポーションは上海人形や蓬莱人形に比べるとスレンダー。全身を包むスーツはホワイトとライトグレーのツートンカラーで、すっきりとしたラバー風素材のスマートなデザインだ。胸と肩、下腕部と脛の部分には強化樹脂製の衝撃緩衝パーツを装着している。
アリスの人形にはフリルやレースをふんだんに使って装飾されたゴシック調のドレスを着ているものが多いのだが、この新作人形のコスチュームは完全に機能性を重視して纏められている。頭部の銀髪も活動的なショートカットだ。
機能優先としつつも造形に一切の抜かりはなく、白皙の顔には彫りの深い端正な目鼻立ちが見て取れることに、作り手の性格が表れている。
胸の内側、人妖でいえば心臓に当たる部分には魔宝石を埋め込んだ。大きめの欠片をカットし直したものだ。
そう、破砕された魔宝石を安定させると共に効率良く魔力を引き出すための『器』。アリスはそれを『人形』としたのだ。
この新作人形には、通常のアリスの人形とは性質を異にする要素がかなりある。
まず、上海人形や蓬莱人形がマスターであるアリスから魔法の糸を通じて供給される魔力によって活動するのとは違い、この新作は核としている強力な魔宝石から直接得られる魔力で動く。それ故に、他の人形たちとは比較にならないパワーとスピードを発揮することが期待できるだろう。
しかし、これには予想だにしなかった弊害があることが判明した。
この人形は魔術式によるオートマティック・メソッドを受け付けないことが、製作中の実験によって明らかになったのだ。
上海人形たちが、アリスが念じた命令コマンドを糸から受け、施された魔術式による自己判断で稼動するのに対し、新作人形の制御中枢はコマンドをまったく受け付けなかった。
命令に反発するわけではなく、スルーして受け入れない。恐らくは、魔宝石をダイレクトに動力源としていることそれ自体が原因と思われる。
この問題点が発覚した時、アリスは目の前が真っ暗になったが、至ってシンプルな方法で解決することにした。
「コマンドを受け付けないのなら、私自身がダイレクトに遠隔操作すれば済むことよ」
それを実現するために、この人形には五感のうち味覚を除いた四種(視覚、聴覚、嗅覚、触覚)のセンサーを備えてある。
操主であるアリスから離れた位置に居ても、これらのセンサーから得られる情報を基に操作運用を可能とするのだ。
ただ、この方法には少なからぬリスクがあった。
人形がダメージを受けた場合、その『痛み』が操主自身にフィードバックされてしまう。
この点は許容するしかないとアリスは覚悟を決めていた。
アリスはこの新作人形を“フィルギア”と名付けた。
"Fylgja"とは、外の世界の神話の一つに登場する、人に付き添う神秘的な生き物のことだ。
もっとも、これは魔宝石を核とする人形それぞれの名前ではなく、最終的に十二体作製する予定の新作人形たちの便宜上の呼び名にすぎない。
人形遣いは今回の新作に個々のパーソナルネームは与えないことにしたのだ。
何故か? 他の人形たちとは違う存在であると、意識的に割り切るためである。
新作人形フィルギアは内蔵式動力機関や操術方法以外にも、今までのアリスの人形とは異なる点がある。
それは、完全戦闘用の人形だということだ。
これまでアリスは人形の運用用途を限定したことはなかった。どの人形であっても、戦闘、家事、雑務、愛玩用にも使う。
その理由は、ほとんどの人形に自己学習機能を備えているからだ。
アリスは製作時の人形に基本的な魔術式を組み込む。
その人形は、経験を積むことによって学習し、機能や動作が次第に洗練されてくるのだ。
しかし、フィルギアの場合は制御中枢に魔術式を組成できないため、アプリケーション的な部分を除けば自己学習効果は望めない。
その代わり、戦闘面においては他の人形を遥かに凌駕する働きを期待できる筈だ。
(この新作人形は、いうなればハイエンド・ドールよ。間違い無く私の最高傑作の一つになる)
そう確信しつつも、アリスには少々引っ掛かることがあった。
彼女の人形製作の果てには、「自律人形の作製」という目標がある。
フィルギアはスペック的には間違い無く最高レベルの人形だが、操作はアリス自身が行わねばならない。つまり、いかに優れていようと『自律』とは真逆の存在なのだ。
とは言っても、「魔宝石の保護」という本来の目的を考えれば、この程度のことは問題にすらならない。
それに正直なところ、高性能の人形を作ることに単純な歓びを感じてもいるアリスだった。
人形遣いは手に抱いていたフィルギアを作業卓に立たせた。
形として出来上がっている戦闘人形は、まだこの一体のみ。ボディが一つとコスチュームが一着だ。
とりあえずこの一体をプロトタイプ兼プロダクション・モデルとして様々なテストを実施し、トラブルシュート(問題点の洗い出し)を行う。
明らかになった問題点は随時解消し、ある程度運用の目処が付いたら、この人形を雛型として他のボディとコスチュームを製作していく。
専用装備の考案も平行して進めねばならない。
「まずは、起動実験ね」
アリスは作業卓の上に直立する新作人形を見つめた。
人形の直接操作など、“七色の人形遣い”と称される彼女にしてみれば、そう難しくはない。いや、むしろ簡単なことだ。
何しろアリスはオートマティック機能を使わなくても、呼吸をするように何十体もの人形を同時に操れるのだから。
ただし、普通の人形であれば。
このフィルギアは普通ではない。アリス自身も初めて手掛ける特殊な人形だ。
正直、何が起こるか予測の付かない面がある。
アリスは覚悟を決めて椅子から立ち上がり、傍らに浮遊して控える上海人形と蓬莱人形に頷いて見せると、卓上のフィルギアに向き合った。
こういう場合、普通であれば操者は身体を寝かせて目を閉じて実験に挑むのが常識だ。
自分自身を脱力(リラックス)した状態に置いた方が、人形の操作に集中できるからである。
だがアリスはそうはしない。人形と直接対峙するのが、人形師としての彼女の誇りだからだ。
両手の指先から魔法の糸を伸ばし、新作人形に絡める。
アリスは静かに、糸に思念を篭めた。
(シグナル送信、アクセスに成功。まずは、『起動』)
念じると、戦闘人形の瞳に灯が点ったように感じた。
(次いで、『リンク』)
人形遣いの精神がフィルギアに接続される。そして――。
(……!? !! !!!)
アリスの目がかっと見開かれた。額から汗が噴き出す。口は酸素を求めて喘ぎ、ぱくぱくと動かされる。
「あ、ぐ……ああ、ああ……あああ!!!!」
一瞬大きく身体を仰け反らせた彼女は、気を失って床に倒れた。
◇◇◇
「ふう……」
アリスは上海と蓬莱に身体を揺り動かされて、意識を取り戻した。
何かあった時のために二体を待機させておいたのは正解だった。
壁に掛けられた時計を見ると、実験開始から十分も経っていない。
上海からは蒸したタオルを、蓬莱からは冷水を満たしたコップを受け取る。
汗を拭き、喉を潤すと、アリスは頭の中で実験結果の検証に取り掛かった。
自分の身に何が起きたのか、大よその見当は付いていた。
フィルギアの四感センサーからフィードバックされた感覚情報によって、アリスの脳と神経、感覚器官が混乱状態に陥り、呼吸困難を起こしたのだろう。
人形が見ている光景と、アリス自身が見ている光景。人形が聴いている音と、アリス自身が聴いている音。人形が嗅いでいる匂いと、アリス自身が嗅いでいる匂い。人形が触れているものと、アリス自身が触れているもの。
同じ部屋の近い位置に居るのだから、ほとんど同じ感覚を得ている。だが微妙に違うのだ。
四つの感覚が二種類ずつ、二重の濁流となってアリスの脳に襲い掛かった。
まるで身体から引き抜かれた精神を、見たこともない異次元空間に放り込まれたような気分だった。
いかに妖怪の身とはいえ、気絶するのも無理はない。
もしもアリスが人間の魔法使いであったら、五感の一つか二つが使い物にならなくなっていたか、悪ければ廃人と化していたかもしれない。
早急に改善案を練り、対策を施さねばならなかった。
一番の問題点は、魔宝石による魔力の出力効率が高すぎることだろう。バランスを安定させるために、人形内部の魔力の流れを調整する必要がある。
(予想以上に危険な人形ね。けど、チャレンジし甲斐があるわ)
アリスは口元に強気な微笑を浮かべつつ、何事も無かったかのように卓上に立つフィルギアの額を指先でつんと突付く。
(この、じゃじゃ馬めっ)
そういえば、フィルギアとリンクしたアリスは不思議な体験をしていた。
電気に痺れるような感覚を味わうと同時に、精神が何かに触れたような気がしたのだ。
その正体が気になったが、その件は保留だ。差し当たって、するべきことをやろう。
(今のこの子は強力すぎて、正直ちょっと手におえないわ。幾分デチューンする必要があるわね)
アリスはフィルギアに新たな機構を組み込んだ。
魔宝石から発生して人形の体内を循環する魔力のうち、余剰分を背部から排出するシステムだ。
これでいくらかは扱い易くなる筈である。
(さて、それじゃ……)
アリスは再度、卓上に立てたフィルギアに向き合う。
(アクセス、『起動』)
人形の瞳に灯が点るのを感じる。そして背中に二箇所並べて開口された小さなダクトから余剰魔力が放出される。その様はまるで一対の虹色の翼を生やしているかのようだ。
(『リンク』)
アリスの脳内に、フィルギアのセンサーから得られた四感情報の奔流が流れ込んできた。前回の試験時よりは抑えられているし、フィードバックに対する心構えを取ってもいた。
それでも圧迫はきつく、額に汗が滲み出す。
人形遣いは歯を食いしばり、込み上げる嘔吐感に耐えていた。
今回もリンクの瞬間、心の指先に電流が走ったような感覚があった。しかも先に味わった時よりも強くなっている気がしたが、とりあえず無視しておく。
しばらくリンクを維持した状態を続けるアリスは、波が引いたように自分の身体が落ち着いてくるのを感じた。
自分自分の感覚と、フィルギアの感覚。それぞれを分けて知覚できている。
(どうにか第一段階はクリアしたわね。なら……)
人形の手足をゆっくりと動かしてみる。
若干動きが硬いようだが、念じた通りに動作する。
作業卓の上を歩かせる。軽くジャンプ。
問題は無い。
アリスは人形を直立姿勢に戻し、別方向に念を篭めた。
(離陸(テイク・オフ))
カタカタと身を震わせるフィルギア。
一分程経過して、人形の脚が卓上から離れた。
そのままふわふわと浮遊するように、部屋の中を飛び回る。
自身の神経が暴れ出しそうになるのを堪え、苦悶の表情で精神を集中しているアリスの額には、無数の珠の汗が浮かんでいる。
今の段階で三次元機動は難易度が高すぎることはアリスも理解しているのだが、弾幕ごっこは空中を舞台に行うのだ。飛べない人形では戦闘面での価値は無い。
アリスは気を抜けば途切れそうになる意識を保ちながら、必死にコントロールに集中する。
部屋のあちこちを上下左右に飛行し、宙返りまで披露したフィルギアは、再び作業卓に戻って来た。
(着地(ランディング))
体勢を整え、緩やかに高度を下げる人形。もう少しで脚が卓に着く。
アリスの頬を新たに吹き出た汗が流れ落ちた。着地の操作は離陸時の数倍精神力を消耗する。
フィルギアはそろそろと卓に近づき、脚を曲げて衝撃を吸収しながら、とん、と見事に接地した。
「や、やったわ……」
自分自身と戦闘人形、二重の感覚器官からの情報で起動実験の成功を確認したアリス。
疲労と倦怠感に包まれる中で上海と蓬莱に片手を上げて見せ、「大丈夫よ」と告げる。
徐々に意識を沈ませていく彼女が最後に見たものは、誇らしげに真っ直ぐ立つ新作人形の堂々とした姿と、椅子の背もたれに倒れ込む自分自身。
フィルギアを通して見たアリスの顔は、確かな手応えを掴んだことによる満足感に彩られていた。
◆◆◆
【 act.4 The Puppet Master's method (latter half) 】
研究中心の生活をしている時であっても、アリスは夜に就寝し、朝に起床する。
軽めの朝食を取った後は掃除と洗濯をして、天気の良い日には布団を干す。
家事は人形に手伝わせるが、基本的なことは自分でする。
人形を遣いつつも、必要以上に依存しない。これはアリスの信条だ。
家事を終えると、後の時間は研究か人形関連の用務に費やす。
もっとも、昼と晩の食事や午後のティータイムは疎かにしないし、普段よりも凝った料理やお菓子を作ってみたり、読書や裁縫等で気分転換を図ることもある。
肉体や精神を追い詰めては、良い結果は出せないからだ。
きちんと休息を取り、常に余裕を持って事に当たる。
捨食の魔法を施しているアリスは、本来睡眠も食事も必要としない。
それでも彼女が規則正しい暮らしを送ることを心掛けているのは、生活サイクルの重要性を知っているからだ。
長距離走で最後に勝利するのは、瞬間的な爆発力を持つ猪ではない。同じペースで淡々と走るクレバーなランナーだ。
何事も重要なのはブレイン。
それがアリス・マーガトロイドの流儀である。
◇◇◇
起動実験成功の翌日、マーガトロイド邸研究室。
アリスはフィルギアの調整を行っていた。
その作業の手並みは調整というよりも、楽器の調律(チューニング)を連想させるものだ。
とはいっても、何か特別なことをしているわけではない。
頭の中にイメージを確立。人形に触れ、撫で、軽く叩く等して、得られた反応を確かめる。
間接を軽く動かしてみる。動作が硬すぎても滑らかすぎてもいけない。
千分の一ミリ以下の造形を見極め、工作用ナイフで削り、ヤスリを当てて表面を整える。
試しに魔力を流し、違和感があれば魔法で局所的な術式に修正を施す。
もしも今のアリスの姿を目にする者が居たならば、溜息が洩れるのを禁じ得ないだろう。
そう思わせる程に、一切の無駄が省かれた彼女の動作は流れるように美しかった。
人形の全体のバランスを取りながら、外形と内面を整えていく。
調整して試験。
検証、結果を解析。
再度調整して試験。
再び検証、結果を解析。
……………………。
………………。
…………。
……。
地道に、確実に、的確に。
素早く鮮やかな手際で延々とそれを繰り返す。
一流と誰もが認める実績に裏打ちされ、際立った手腕を持つ彼女ほどの人形師であっても、最適化に近道は無い。
トライ&エラーで積み重ねた様々なノウハウ。経験とセンス。卓越した技術。
それらに基づいて、当たり前のことを当たり前にきっちりとこなしていく。全ては小さなことの積み重ね。
気が遠くなるほどに果てしなく連続する地味な工程である。
(よくそんな単調なことやってられるな)
魔理沙なら、呆れながらそう言うだろう。
だが、アリスにはこの作業が苦痛ではなかった。
彼女にとって、これは人形との対話である。
人形の発する小さな声に耳を傾け、意思を汲み取る。
調整することで、こちらの意思を伝える。
楽しげなハミングすら交えながら、自分のイメージする完成形に向けて、アリスは精緻に作品を仕上げていくのだ。
今回目指すのは、完璧なソルジャー・ドール。
◇◇◇
以前、マーガトロイド邸で紅茶を飲み、家主手作りの洋菓子を頬張りながら、魔理沙は人形遣いに言ったことがある。
「おまえって、友達少ないよな」
魔法使いの冗談を、アリスは「ええ、そうね」とあっさり肯定した。
「私にとって友達といえるのは、霊夢とパチュリーの二人くらいだわ」
魔理沙はその言葉に、苦虫を噛み潰したような顔をするのみだった。
◇◇◇
アリスが自宅に篭っている間、博麗神社では何度か宴会が催されていた。
当然ながら、そこにアリスの姿は無い。
元々、人形遣いの宴会出席率は高かった。
幹事を務めることが多い人間の魔法使いがほとんど無理矢理に連れ出すからだ。
アリスが宴会に来なくなって、魔理沙は一つ気付かされたことがある。
それは――。
「魔理沙さん」
御座の上に胡座をかき、日本酒を飲みながら独り物想いに耽っていると、傍らから声を掛けられた。
見ると、鮮やかな緑色の髪を頭の片側で束ねた風の妖精が立っている。
「私に何か用か? 大妖精」
何を言われるのか見当は付いていたが、一応そう口にする。
大妖精は魔理沙の正面に腰を下ろした。
「あの、アリスさん、まだ出て来れないんですか?」
柔和な表情で首を傾げ、訊ねる風精。
「ああ、まだ家の周りに結界を張ったままだしな」
魔宝石の件は誰にも告げていない。告げる必要も無いだろう。
魔理沙の返答に大妖精は「そうですか」と肩を落とした。
「何かあったんでしょうか?」
「私が知るかよ」
つっけんどんに言うと、風精はぺこりと頭を下げて立ち去った。
魔理沙から少し離れた位置にある、仲間たちの御座に戻ったのだろう。宵闇の妖怪と大妖精の話し声が聞こえてくる。
「大ちゃん、アリスどうしてるって?」
「魔理沙さんにも解らないって」
「そーなのかー……」
落胆の色に染まる諸々の声を聞きながら、魔理沙は手にした杯を傾けた。
アリスが宴会に姿を見せなくなってから魔理沙が気付かされたこと。それは「密かにアリスを気に掛けている者たちが多い」ということだった。
魔理沙はアリスが篭った日から、毎日彼女の自宅を訪れている。しかし相変わらず結界に阻まれて、玄関の扉に近づくことすらできない。
そんなある日、魔理沙は自分が幹事役を請け負って神社で宴会を開くことにした。
魔導書を読み解く気にも、新しい魔法を研究する気にもなれなかったからである。
滅入る一方の気を晴らすために、宴に乗じてぱーっと騒ぎたかったのだ。
その席で、魔理沙は少なくない数の人妖から同じ質問をされた。
アリスは来てないの? と。
人形遣いの不在を気に掛け、落胆する者が多いことが、魔理沙にとっては意外だった。
実際のところ、アリス・マーガトロイドは、ある程度以上の力を持つ幻想郷の人妖としては非常に珍しいタイプの存在なのだ。
「人形のようだ」と形容される可憐な容姿。凛とした、それでいて柔らかな雰囲気。幻想郷一器用と称され、時に数十体の人形を同時に操る白く細い指。人形操術の応用による華麗な弾幕。
良くも悪くも開けっ広げな者が多数派を占める幻想郷において、どこか他者との間に線を引いた態度。華奢で儚げ。触れてみようと手を伸ばしたら、霞んで消えてしまいそうな危うさを湛えた雰囲気。
そんなアリスに惹かれつつも声を掛けられず、宴席等で様子を窺う者は密かに多かった。
要するに、皆アリスと親しくなりたいと思いつつも、きっかけを掴めずにいたのだろう。
そのことが魔理沙には、何となく面白くない。
(ちくしょう。アリスが何だってんだ)
憂さを晴らすために、酒を呷り続ける魔法使いだった。
◇◇◇
起動実験成功から一ヶ月後の夜。
アリスは研究室で上海人形が淹れた紅茶を飲んで一服していた。
つい先ほど、戦闘人形の最後の一体を作り上げたのだ。
広い作業卓の上に十二体のフィルギアがずらりと並んだ様は壮観といえる。
全てが同じ容姿、同じカラーリングを施されているが、外観上プロトタイプの初期モデルとは異なる点が二つある。
一つ目は、頭部に大きな黒いゴーグルを装着していること。
これは運用試験によって、想定以上にデリケートであることが判明した視覚センサーを保護するためのものだ。
二つ目は、専用装備である銀色の光槍(ランス)を右手に、乳白色の防盾(シールド)を左手に装備していることだ。この二つの武装は魔宝石の小さな破片を組み入れることで、魔導的な効果を高めてある。
石の更に微細な欠片は、磨り潰して胸、肩、下腕部、脛を保護する衝撃緩衝パーツの素材に混ぜ込んだ。
アリスが母から譲り受けた魔宝石は、完全に十二体の人形と化したのだ。
一方で、フィルギアの操主であるアリス自身も室内での操作完熟訓練を重ねていた。
二体目、三体目と戦闘人形を作製するに従い、彼女は同時にコントロールする人形の数を増やしている。
当初は自身のものと合わせて三重、四重と増加する感覚情報を持て余していたが、次第に操作に習熟していった。
熟練の人形遣いとしての深い経験が下地として生きているのだろう。
今では屋内の限定空間で、十一体のフィルギアの同時コントロールを可能とするまでに至っている。
どうやら今回の研究試験を最終段階に移行する時が来たようだ、とアリスは判断した。
◇◇◇
早起きをして、実に一ヶ月半ぶりに自宅の敷地の外に出たアリスは、うーん、と朝日の光の下で伸びをした。
湿度が高い魔法の森も、早朝にはそれなりに心地良い空気に覆われている。
ここは森の外縁に近い、少し開けた場所だ。見上げれば緑の葉によって円形状に切り取られた青い空が覗けた。
アリスは早速、最終テストを行うために十二体のフィルギアを召還した。
目の前に半月状に並んで浮かぶ戦闘人形が現れる。
全てのフィルギアを同時に操るのは、これが初めての体験だ。
アリスはごくりと喉を鳴らす。
十一体では何事も無くコントロールできた。なら、十二体でも問題は無い筈。
そう思いつつも、緊張を抑えきれない。何かが起こりそうな予感がするのだ。
しかし、こうしていても何も始まらない。
人形遣いは意を決して、魔法の糸に思念を篭めた。
(アクセス、『起動』)
全ての戦闘人形の瞳に灯が点るのを感じ取る。
(『リンク』)
精神がフィルギアに接続された、その瞬間――。
アリスは強烈な雷に打たれたかのような衝撃を精神に受けた。
……ここは、どこだろう?
周りは闇。でも、とても暖かな闇だ。
何か、懐かしい気がする。この匂い。
そうだ、私の故郷、魔界の匂いだ。
この闇を裂いて走る、あれは、光?
一つの光が分裂して、二つ、三つ……。
もっと増えて、十二の光になる。
私に近づいてくる。
無限の闇。虚空を駆ける、十二の光。
光が私を包み込み、共に漆黒の空を疾る。
私を呼ぶ声が聞こえる。
(……ありす)(Alice?)(アリス)(ありす!)
(……アリス)(ありす?)(Alice)(アリス!)
(……Alice)(アリス?)(ありす)(Alice!)
誰なの? 母様? 姉様たち? それとも……。
(((共に!)))(((私たちと共に!!)))(((さあ!!!)))(((答えを!!!!)))
(((((((((((( 答えは君の中に!!!!! ))))))))))))
アリスは目を見開いた。
魔法の森のやや開けた場所で、白金色の髪が降り注ぐ朝の陽光を受けて煌いている。
チチチ、と遠くから鳥の囀りが聞こえた。
いつの間にか、涙を流している自分に気が付く。
目の前には半月状に並んで浮く戦闘人形たち。
アリスは涙を拭い、こくりと頷いて見せた。
自分のその動作を、十二の視覚で確認。
そして人形遣いとフィルギアは直上の樹々の隙間、丸い天井のように見える空を突き抜け――。
一つの光となって飛翔した。
◇◇◇
屋外でのテストも一通り終了した。
満足のいく結果といえる。
森の開けた場所に戻り、大きな白い石の上に腰を下ろしたアリスは、通常の人形であれば出来上がって動作確認をした直後に行う『儀式』を施すことにした。
フィルギアは、アリスが初めて戦闘専用として作った人形である。
故に、単に造形作業を終えて動かしてみただけでは完成とはいえなかった。
実戦に耐え得ると判断できるまで、綿密に調整とテストを繰り返す必要があったのだ。
そして、ようやくこの時を迎えた。
正直なところ、まだ不安な点が無いわけではない。常に不確定要素が付きまとう弾幕戦闘では何が起こるか解らないからだ。
しかし、今の段階で出来ることは全てクリアした筈だ。
アリスは自分自身と十二体の新作人形に誇りを持てる。
いつも持ち歩いている携帯用のソーイングセット(裁縫道具)から縫い針を取り出したアリスは、いよいよ儀式に取り掛かった。
戦闘人形の細い髪を持ち上げ、うなじの生え際辺りに針先で極小さく『A.Margatroid』とサインを刻み込む。
一体一体、丁寧に。
儀式を終えて並べたフィルギアをアリスは満足気に見つめ、口元を綻ばせた。
ついに、魔宝石を核とする十二体のソルジャー・ドールが完成したのだ。
◇◇◇
魔理沙は今日もマーガトロイド邸に足を向けていた。
既に毎日の日課となっている。散歩のようなものではあるのだが、気分は一向に晴れやかではない。
一度、彼女はマーガトロイド邸に霊夢を連れて来たことがある。
結界を解いてもらおうとしたのだが、きっぱりと断られた。
「この手の結界は、施術者の魔力が途切れれば消滅するわ。こうして維持されてるなら、アリスは無事ってことよ」
「そんな講釈はどうだっていい! 私はこれを解いてほしいんだよ!」
そう詰め寄る魔理沙に、霊夢はニヤニヤしながら「なんで?」と訊いてきた。
言えない。言えるわけがない。
相手は霊夢なのだ。少しでも漏らしたら、全て勘付くだろう。
大体、そうだ。きっとこいつは面倒くさいだけなんだ。
「ふん、もういい!!」
そう言い捨てて、魔理沙はその場を後にするしかなかった。
ふう、と溜息をつく人間の魔法使い。
やがて見えてくる白亜の邸宅。その敷地の手前には結界が――。
「あれ? 無い?」
この一ヶ月半の間、マーガトロイド邸を護るために張り巡らされていた結界が消失している。
ということは……。
「アリス!!」
魔理沙は顔から血の気が引くのを感じるよりも早く、玄関へと走った。
「くそ! 簡易結界が張ってある! それなら――」
ミニ八卦炉を取り出そうと懐に手を突っ込んだ時、背後から声を掛けられた。
「魔理沙?」
懐かしい声に振り向く。
「あ、アリス? 無事だったのか?」
「? 何のこと?」
怪訝そうな表情のアリスを見て、魔理沙は冷静になっていった。
考えてみれば、昨日まであった強力な結界は解除されていたが、簡易結界が張られているのだ。なら、アリスの身に何かが起きた可能性は低い。
(そんなことにも気付けないなんて、私は……)
「ねぇ魔理沙? どうしたの?」
不思議そうに訊ねるアリスに、魔理沙は急にバツの悪い気がしてきた。
「ふ、ふん! 久々におまえの間抜けヅラを見に来ただけだぜ! ここんとこずっと引き篭もってたみたいだからさ! どうせ例の魔宝石のことで、家ん中でメソメソ泣いてたんだろ!」
「……なんですって?」
それまで柔らかな微笑を湛えていたアリスの表情が、魔理沙の言葉を受けて険しさに染められた。
後日、魔理沙は述懐することになる。
思えば、あの時のアリスは機嫌が良さそうだった。魔宝石を盗み、壊してしまったことを素直に謝れば、許してくれたかもしれない、と。
だが、人間の魔法使いはそうできなかった。
これは運命の悪戯などではない。
霧雨魔理沙が自ら選択した苦難の道なのだ。
◆◆◆
【 To Be Continued 】
遠く、果てしなく。目の前に広がる空は、どこまでも青かった。
初夏の日差しを浴びながら、魔法の森の上空を箒に跨った少女が飛ぶ。
その少女、黒白のエプロンドレスを着て、黒のとんがり帽子を蜂蜜色の髪に被せた“普通の魔法使い”霧雨魔理沙は、気持ちのいい陽気に呆けそうになる頭を意図的に引き締めた。
今は弾幕ごっこの最中。それも、彼女にとっては負けられない闘いだ。
「負けてもいい闘いなんて、私には無いけどな!」
気合いを入れるように声に出しながら、イリュージョンレーザーを放つ。
目標は、左上方から降下しつつ向かってくる四体の人形だ。
整然としたダイヤモンド編隊を組んだ四体は、魔法使いの攻撃をあっさりと回避した。
そのまま飛び過ぎて行く人形を魔理沙は忌々しげに睨みつける。
人形たちは白とライトグレーの二色から成るラバー風柔軟素材のスーツで手足の先までを覆い、胸と肩、下腕部と脛の部分には硬質パーツを装着している。頭部には大きなゴーグルを着用。右手にショットを放つ銀の光槍(ランス)を、左手には独特の光沢のある乳白色の防盾(シールド)を装備している。一際目を引くのは、背中から二つ放出されている七色の光。それはまるで輝く虹のようだ。
故に魔理沙はこの人形たちを“虹の翼”と呼んでいた。
四体全てが、いや、今この空域で魔理沙と闘っている十二体の人形全てが、寸分違わず同じ造形をしている。
そして、その人形たちに繋がる魔力のラインを締める存在が居た。
魔理沙から距離を置いて宙に浮かぶ、もう一人の魔法使い。
青いシンプルなドレスに身を包み、羽織るは純白のケープ。強力な禁呪を秘めた魔導書を携えた、肩にかかる美しい白金色の髪が印象的な少女、“七色の人形遣い”アリス・マーガトロイドが、魔理沙の現在の『敵』である。
アリスは、戦乙女“フィルギア”と名付けた人形たちを、魔力を通す不可視の糸で操っている。
この十二体は全て彼女自身が直接コントロールしていた。
上海人形や蓬莱人形のように、大まかなコマンドを介して動くオートマティックではない。
二体で縦陣に位置した人形二組が目標である魔理沙に接近する。
それぞれの陣では、先頭の人形が攻撃を、後方の人形が援護を担当していた。
魔理沙は四体を狙ってレーザーを撃つが、素速く動く人形にはかすりもしない。
片方の二体に意識を向けていると、反対側からもう片方による攻撃を受ける。
囮と攻撃の役割をフレキシブルに使い分ける四体に、魔理沙は翻弄されていることを認めざるを得なかった。
くそっ、と悪態をつくと同時に、背中に痛みが走る。
背後から接近していた菱形の陣形を組んだ四体から同時攻撃を受けたのだ。
次の瞬間、咄嗟に急降下したのは、魔理沙の本能の成せる技だった。
振り向くと、目の前、今まで自分が居た空間を、別の菱形陣の四体によるショットが切り裂いていった。
安堵している間は無い。二組の縦陣人形が再び目まぐるしく位置を入れ替えながら接近してきたのだ。魔理沙は一方的な攻撃を食らう。
お返しとばかりにイリュージョンレーザーを撃つが、掠りもしない。
(こいつら、速い!)
彼女は幻想郷最速を自負するが、瞬間的な加速力では人形たちに軍配が上がる。
縦陣の動きを追いながら放つレーザーは、空しく空を裂くばかりだ。
落ち着け、と己に言い聞かせ、深呼吸して狙いを定める。と、菱形陣からの異方向同時攻撃を受けた。
片方を避け損ない、痛撃に顔をしかめる。
(このままじゃジリ貧だぜ。それなら!)
四体の菱形陣を正面に置いて、恋符『マスタースパーク』の発射体勢。
弾幕ごっこにおいて、スペルカードは強力であるほど魔力の充填(チャージ)に時間を要する。
その間は人形たちの攻撃に晒されることになるが、贅沢は言っていられない。最後に勝てばいいのだ。
身体中に蓄積していくダメージに奥歯を噛み締めて耐える魔理沙。
まずは四体、全体の三分の一を潰してやる。その意気の元に魔砲は発射――されなかった。
射撃しようとしたその瞬間、手元に右方向からのピンホール・ショットを受けたのだ。
構えたミニ八卦炉がブレてしまい、魔理沙が篭めた貴重な魔力はぽふんという情けない音と共に霧散した。
虹の翼の攻撃は威力と命中精度の両面において、アリスの今までの人形とは桁が違う。そのことを改めて思い知らされた。
(畜生!)
顎を上げて見開いた目の端に、ぽかぽかとした陽気の根源が映った。
初夏の心地良さを与えてくれるその光の長閑さが、今の魔理沙にはどうにも忌々しい。
(ったく、太陽め。ん? 太陽? そうだ!)
ニヤリと微笑む人間の魔法使い。そう、最後に笑うのは、この霧雨魔理沙なのだ。
アリスは魔理沙の動きが変わったことを察知した。
(何かするつもりね)
密かに、攻撃重視から警戒体勢にモードを変える。
彼女は十二体のフィルギアを通じてリアルタイムで得ている情報を瞬時に解析していった。
魔理沙は旋回しつつ、ぐんぐん上昇していく。
人形を散開させながら、アリス自身もそれを追った。
普通の魔法使いは人形たちによる包囲を嫌って避けるように、高速で目まぐるしく移動する。
人形遣いは彼女を追尾。
魔理沙の動きは一見無秩序に思えた。
基本は旋回しながらの上昇だが、左右にスライドしたり、時折急降下するようなトリッキーな機動を織り交ぜている。
数秒後、突然魔理沙が急停止した。
その瞬間、普通の魔法使いの小さなシルエットの後ろから、太陽の眩い光が人形遣いの蒼い瞳を射抜いた。
目標を見失ったように周囲の人形たちがふらつくのを確認した魔理沙は、アリスの方に向き直った。
「空中戦の基本だぜ、アリス! こんな初歩的な手に引っ掛かるなんてな!!」
残り少ない魔力、撃てるのはあと一発だけ。だが、十分だ。その一発はこの弾幕勝負に終止符を打つ逆転の一撃となるのだから。
魔砲使いは本日二発目の『マスタースパーク』のチャージに入る。
焼きついた網膜が回復しない様子で俯いた人形遣いの表情は窺えない。
健気にも主人を護るつもりなのか、全ての虹の翼がアリスの元に戻っていくのを見て、魔理沙は笑いを堪えきれない。
アリスさえ倒せば即決着がつくというのに、忌々しい人形たちまで一気に殲滅できるとは、今日は最良の日だ。
しかし――、
(なんだ、あれは!?)
魔理沙は見た。
十二体の人形が左手の防盾(シールド)を魔理沙に向け、主の前に円面を描くかのような陣形に並んで空中停止している。
その個々の盾から光の魔方陣が浮かび上がった。
十二個の光が相互に組み合わさり、一つの巨大な魔方陣を形成していく。
人形遣いが顔を上げた。
「そんな初歩的な手が見抜けないと思ったの? 綺光『ホーリーライト』」
アリスは初公開にして、今回の弾幕ごっこで切る初めてのスペルを静かに宣言した。
初めて目にするスペルカードは魔理沙に警戒心を呼び起こした。
だが、残りの魔力を全て費やした必殺のマスタースパークは既にフル充填されている。
(ええい、構うもんか! あの妙な魔方陣ごとアリスを粉砕するまでだ!)
魔理沙は心の中のトリガーを引き、魔砲が射出された。
人間の魔法使いから人形遣いに向けて、魔力の砲弾が空を突き抜けるかの如く疾駆する。
その光が狙い違わず魔方陣の中心に着弾し、魔理沙が勝利を確信した刹那、アリスの前面に眩い光が発せられた。
魔理沙は信じられないという面持ちで、自分に迫る『それ』を見ていた。
その光、輝く魔方陣から撃ち出された光は、間違い無く彼女が放った必殺の魔砲だ。
それが人形たちのシールドから展開されていた巨大な魔方陣に跳ね返され、魔理沙に向かって一直線に飛来してくる。
驚愕の表情を顔に貼り付けた魔法使いを、元は彼女の手により編み出された太光が襲った。
それまでのダメージを蓄積していた魔理沙は力を失い、緑の絨毯の如く地表に広がる魔法の森に吸い込まれるように墜落していく。
魔法使い同士による弾幕ごっこに決着がついたのだ。
◇◇◇
「痛てて……」
魔法の森の一角、樹々がややまばらになっている場所で、魔理沙は一本の大樹に背を預けて座り込んでいた。
地面に落ちる前に当たった樹の細枝の数々が緩衝材代わりになってくれたのだろう、打ち身や擦り傷以外に外傷は無い。
手足を軽く動かしてみたが、特に異常は感じられなかった。
“黒白”の渾名の由来である黒のワンピース風ドレスと白いエプロンがぼろぼろなのが気になるが、その程度の被害で済んだのは僥倖といえる。
「またアリスに負けた、か」
力無く呟く魔法使いの前に、当の人形遣いがふわりと舞い降りた。
その左右には六体ずつの人形が控えるように浮いている。
アリスは魔理沙を見て、「どうやら無事のようね」と言った。その声音には安堵の色が感じられる。
「ああ、お陰様でな」と魔理沙。
彼女の声は、やや硬い。
「……これで私の三連敗か」
「そうだったかしら」と返すアリス。
魔理沙の言う事実に気付いていないわけではないが、勝負の結果そのものに興味は薄い。七色の人形遣いにとっては、過程こそが重要だった。
自身のフィルギア運用戦術の試行と実戦データの収集。どちらも概ね満足できるといえるだろう。
「そうだぜ」と呟いた魔理沙は、先ほどの戦闘終盤で抱いた疑問をアリスに訊ねることにした。
「アリス、おまえ、さっき太陽を直視しても何ともなかったのか?」
「ああ、少しだけ眩しかったわね 」
実際には、あの時アリスの網膜は一時的に焼きつき、視覚機能は極度に低下していた。
アリスが魔理沙を補足し続けられたのは、相手の意図を読んで冷静に対処していたことと、人形たちに装備した各種センサーのお陰である。
だが、そんなことをペラペラと喋る必要はない。秘匿と沈黙は魔法に携わる者の常なのだ。
「そっか。ま、アリスも妖怪だからな」
一般に妖怪は人間よりも優れた身体機能を備えている。人間の魔法使いは一応納得したようだ。
ふと、魔理沙はアリスを見つめた。
おとがいに手を当てた人形遣いは、何やら考え込んでいるように見える。
普段からアリスはことさら勝利を誇るような真似はしない。
これが魔理沙であれば、ニヤリと笑いながら「ふふん、私の勝ちだぜ! おまえも中々頑張ったが、ま、実力相応の結果ってところだな!」くらいのことは言ってのけるだろう。
そういえば、と魔理沙は思い返す。この三戦、アリスは戦闘終了後に何やら考え込むような表情をしていた。
それ以前はどうだっただろう?
(慎重なアリスは、勝って始めて頬を緩める。そうだった)
だが、今の人形遣いは緊張状態を継続しているかのようだ。何故?
実際のところ、戦闘が終了した今でもアリスは『闘って』いたのだ。
十二体の人形たちと。そして、自分自身を相手に。
先ほどの戦闘から得られたデータを元に、自らの頭脳とリンクしたフィルギアをアップデート。戦闘パターンの検証と改良。
更に、新たに浮かび上がった問題点を整理し、修正方法を考察する。
「なに?」
魔理沙が自分の顔をじっと見ているのに気付き、アリスは人間の魔法使いに目を向けた。
「なんでもないぜ」
ふいと顔を逸らす魔理沙。
「そう。なら、私は行くわね」
「ああ」
アリスは地面を離れ、白金色の髪をなびかせて宙へと昇った。
その左右に六体ずつ追随した人形たちは主人を頂点とする逆V字を描き、青空を背景に飛び去っていく。
残された魔理沙は唇を噛みながら、その姿を眩しそうに見上げていた。
◆◆◆
【 act.2 She stole the serious thing. 】
――物語は二ヶ月前に遡る。
正午を過ぎた頃、朝から買い物に出向いた人里から戻ったアリスは、自宅の玄関扉の前まで来て溜息をついた。
扉に施した簡易結界が破られている。しかもかなり強引な手口で。
こんな真似をする者の心当たりは、一人しかいなかった。
(また魔理沙ね)
扉を開き、一気に増した疲労感を伴って家に入る。
人形遣いは探知魔法を展開して、自分以外の人妖の気配の残滓を探った。
侵入者は一階には長く留まっていない。アリスも気配を追うように二階に上る。
書庫の前で足を止める。ここの室内で気配が変わっていることに気付いたのだ。
侵入者の感情が膨れ上がったことを感じる。これは『歓喜』だ。
(何か貴重なものを見つけられたというわけね)
アリスは書庫に入る。
量の面ではパチュリー・ノーレッジが管理する紅魔館地下の大図書館に遠く及ばないが、質的には貴重な書物が詰められた書棚が整然と並んでいた。
(!? これは!)
『歓喜』の気配が強く残る棚を見て、それまで冷静だった人形遣いは顔色を変えた。
慌てて書棚の一角から一冊の魔導書を抜き取る。
それは魔導書ではあるものの、さして貴重なものではない。魔に関わる立場であれば大抵の者が持っている、ごくありふれたものだ。
だからこそアリスはその書を擬装用に使っていたのだ。
もどかしげにブックカバーを外すと、現れたのは本ではなく箱だった。
蓋を開けると、中に入っていたのは緩衝用の綿だけ。肝心の中身は無い。
「魔理沙!!」
箱を放り出したアリスは、書庫の窓を開いて空へと舞い上がった。
◇◇◇
全力飛行で霧雨邸に到着したアリスは、問答無用で玄関から押し入る。
もどかしげに気配を探り、家主が研究室として使っている部屋の扉を乱暴に開いた。
「魔理沙!! うちから盗み出した魔宝石を返しなさい!! あれは――」
怒鳴り声は途中で消え失せた。
窓から差し込む午後の日差しに照らされた室内で、魔理沙は突然の闖入者を呆然と見ている。
そしてアリスの視線は、所狭しと物や本が無秩序に積み重ねられた乱雑な部屋の中、普通の魔法使いの前に位置する机に置かれたものに釘付けになっていた。
それは煌く七色の光を仄かに放つ魔宝石……だったものだ。
魔宝石、その名の通り、魔力を秘めた宝石である。
机の上のそれは、稀なほど大きなサイズと最高ランクのクオリティを誇る石だった。元の状態であれば。
今は、無残に砕けた欠片の集大成でしかない。
「あ、あの、アリス。これは、その、違うんだ」
魔理沙はしどろもどろになりながらも、必死に弁解を試みる。
「そう、私は石の質を確認するために、ちょこっとだけ削り取ろうとしただけなんだよ。そしたらさ、なんか、砕けちゃって……」
あはは、と笑ってみせる魔理沙。
アリスは棒立ちのまま、口を一文字に結んでいた。蒼い瞳から発せられる視線は、じっと机の上の石に固定されている。
魔宝石は強力な魔力を秘めているが、非常にデリケートで扱いが難しい。迂闊なことをすれば破損するか、魔力が失われてしまうことも珍しくない代物だ。
魔法使いなら、魔理沙もそのことは承知している筈だ。いや、解っていて実行したのだろう。結果を恐れずに。
「ふーむ、どういう性質の魔宝石か判らないな。なら、調べてみればいい。じっと見てたって、事態は進展しないぜ!」
アリスは溌剌とした少女の声を聞いた気がした。
そして、短くない付き合いである彼女の推測は正鵠を射ている。
常にポジティブ且つアクティブであろうとする。霧雨魔理沙は、そういうタイプの人間なのだ。
「よく見つけたわね、これ」
表情を凍らせたまま、アリスはようやく口を開いた。
「あ、ああ。それが入ってたブックカバー、同じ本棚の他の本と微妙に位置がずれてたんだよ。それで気付いたんだ。何かあるな! ってさ。まぁアリスも巧く隠したつもりだろうけど、私の目は誤魔化せないぜ。おまえこれ、時々取り出してニヤニヤ眺めてたんだろ? まったく、いい趣味してるよな。っていうか、ただ見てるだけじゃ、せっかくのマジックアイテムが泣くぜ。こういうのは使ってナンボだろうが? 大体、おまえはいつも――」
やっとアリスが喋ってくれたことに安堵したのか、あるいは不安を解消するためか、饒舌に捲くし立てる魔理沙。それを遮ったのは、ピシャッという高い音だった。
一瞬遅れて頬に感じた熱と、いつの間にか目の前に来ていたアリスの片手を上げた姿勢から、魔理沙は自分が平手打ちを受けたのだと理解した。
「!! 何す……る……」
怒鳴りかけた魔理沙は、呆けた顔でアリスを見た。
人形遣いは眉根を寄せて口元を引き結び、両の目から涙を流していた。
大粒の涙滴が透明度の高い蒼い瞳からぽろぽろと溢れ出る。
魔理沙は動くことも、言葉を発することもできなかった。
息苦しさに支配された時間が、どれくらい続いただろう。
室内を覆った沈黙は、アリスの喉から搾り出されるような声をもって破られた。
「し、神綺様から……母様からいただいた魔宝石だったの。母様がずっと大切にしていた石だったの。私が魔界を発つ時にくれた、たった一つの物だったの。それを、それをあんたは……っ!」
アリスは涙を流しながら、魔理沙を睨みつけている。
逃げるように視線を下げた人間の少女は、異様な気配を感じた。
乱雑に積まれた魔導書やマジックアイテムから放電現象のような火花が散っている。
その中心に位置するのは、七色の人形遣い。感情を迸らせた妖怪の少女から溢れた魔力が周囲の魔に干渉しているのだ。
火花の数は次第に増えていき、煙の燻りや破裂音まで混じり出している。床や壁、天井までが振動し始めた。このままでは、下手をすると大爆発が起こる。
「アリス! やめろ、やめてくれ!! 謝るから! 私が悪かった!!」
魔理沙はアリスの両肩を掴んで懇願する。
「触らないで!」
人形遣いは腕を振り、人間の魔法使いを撥ね付けた。床に倒れる魔理沙。
アリスは長袖のブラウスの袖口で自分の顔を拭う。乱暴に。ごしごしと。何度も何度も。
魔理沙はどうすることもできずに、その姿を見上げるしかなかった。
やがて手を下ろした人形遣いの目は、痛々しい赤に彩られていた。あれほど高まっていた周囲の干渉現象は、いつの間にか沈静化している。
アリスは机に歩み寄った。
ポケットから取り出したレースの縁取りが付いた真白なハンカチを机に広げ、その上に魔宝石の破片を一つ一つ指で摘まみ、小さな欠片に至るまで丁寧に移していく。
作業を終えたアリスは、今まで石があったスペースを平手で掃った。
まるで、ここには塵の如く微細な一片すら残したくないと言うかのように。
石の破片を包み込んだハンカチをきゅっと両手で握った人形遣いが無言のまま、ゆっくりと部屋から出て行く。
乾いた音と共に扉が閉じられると、座り込んだままだった魔理沙は仰向けに床に寝転んだ。
「また、やっちまった。やりすぎちまった……。私は、私は……」
少女の小さな呟きは、黄昏時の薄暗さに包まれた室内に溶けていった。
◆◆◆
【 act.3 The Puppet Master's method (first half) 】
霧雨邸から帰宅した後、アリスは食事も取らずに書斎に篭っていた。
既に魔法の森は漆黒の如き宵闇に包まれている。
灯かりを点した室内。窓際のデスクに乗せられた白いハンカチの上には、砕かれた魔宝石が置かれていた。椅子に掛け、机上に両肘を乗せて指を組み、力無くそれを見つめる人形遣い。
アリスは、魔理沙め、と呟き、もはや何度目かも解らない嘆息を漏らす。
彼女がアリスの家に勝手に上がりこんだり、書物や蒐集物を持ち去るのは、日常茶飯事だった。
魔理沙に悪意は無いのだろう。
だがそれは、罪悪感を抱かなければ反省もしないということだ。
無断侵入や窃盗の被害に遭うのは、言うまでも無くアリスとしては不本意だった。
故に、怒りも顕に魔理沙に注意する。
しかし、当の加害者はといえば、反省する素振りすら見せはしない。
へらへら笑いながら屁理屈をこねるだけだ。
そして、そんな彼女に向かって、アリスはわざとらしく溜め息をついてみせる。
いつもそれで終わりにしていた。
アリスにとって魔理沙は、やんちゃな妹のような存在だったのだ。
末っ子として育てられた彼女としては、まるで妹ができたようで嬉しいという気持ちもあった。だから何かと構い、世話を焼いてきた。
(この子も今はこんなだけど、十年か二十年もすれば落ち着いてくれるでしょう)
いつもそう考え、若干の諦めをもって怒りを飲み込んでしまう。見返りを求めぬ恩を仇で返されても、「やれやれ」と肩を竦めて済ませてきた。
その結果が……今、自分の目の前にある。
無残に砕けた魔宝石。大切にしていた、母からの贈り物。
自分は甘かったのだろう。
アリスはまた一つ溜息をついたことに気付き、不味いと考える。
溜息をつくと幸せが逃げるなどと思っているわけではないが、これでは気が滅入る一方だ。ではどうすればいいか? 魔理沙に怒りや恨みをぶつけたところで、石は元には戻らない。同じ森に住む魔法使いに悪気は無かったのだ。恐らく。きっと。多分。
(……本当にそうかしら?)
悪い方へと向きそうな心を、こんなことではいけないと慌てて持ち直す。
(そうだ。魔理沙の良いところを思い浮かべて、心を落ち着けよう)
我ながら名案に思える。
アリスは深呼吸をしてから目を閉じて、『霧雨魔理沙の美点』を探し始めた。
1分が経過。
(まず魔理沙といえば、いつも私のところに押し掛けてきて、図々しくお茶とお菓子を出せと五月蝿くて。食事時まで居座ると当然のようにお料理まで要求するのよね。で、味に文句を言って……)
5分が経つ。
(私が留守の時は結界や鍵を壊して侵入して、魔導書や魔道具、蒐集品を無断で持ち出して、いくら催促しても返さなくて……。探索や実験で助け合うこともあるわ。そういうことはお互い様でしょ。でも魔理沙の場合、いちいち恩着せがましいのよ……)
10分が過ぎる。
(とにかく自分勝手で、口を開けば嫌なことばかり言うのよね。ほんと憎まれ口と減らず口ばかり。私の前で自分の過ちを認めたことなんてあったかしら? さっき謝ってたのは、家を壊されたくなかったからでしょうし……)
15分が経った。
(話がずれてきてるわ。えーと魔理沙は、いつも強気で、自由奔放で、明るくて前向きで、陰でものすごい努力をしていて。でもそれ、私にとって良いことかしら? むしろ迷惑に感じることの方が多いような……)
20分が過ぎた。
(私が作るお菓子やお料理を、美味しそうに食べてくれるのよね。でも文句を言う。「ありがとう」なんて言われた記憶がないわ。「ごちそうさん、もっと精進しろよ」って偉そうに言われたことはあったけど。あら? これさっきも考えたかしら?)
25分が経つ。
(本当は優しい子だと思うのよ。自信無いけど。ただ、口汚くて手癖が悪くてガサツで不器用なだけで。それにしても限度ってものがあるわよね。『親しき仲にも礼儀あり』という言葉は……あの子の辞書からは落丁してるんでしょう)
30分が経過。
(えーと、魔理沙の良いところ、良いところは……。うーん……)
そうして一時間が過ぎた頃、アリスはぱちりと瞼を開いた。
結局、彼女は魔理沙の美点を一つも思いつかなかった。
それはもう、見事なまでに綺麗さっぱり何も無かったのだ。
アリスは顔を俯かせた。目には溜まった涙が光っている。
「そ、そんな……。うっ、ううう……」
手で覆った口から嗚咽が漏れ出した。
それは次第に大きくなり、とうとう堪えきれず、
「ぷっ……くく! あはははは!! あーっはははははっはははははは!!」
身をよじって腹を抱え、大声で笑い出した。まさに爆笑である。
「あっはははははっ!! な、何も良いところが無い? なーんにも? 一点も? 皆無? ナッシングなの? 魔理沙って、魔理沙って……。あははははっはあははははは!!」
有りもしないものを一生懸命探していた自分が可笑しい。
そんな人間の魔法使いを何とか庇おうとしていたなんて、一体何を考えているのか。
真夜中の静寂に包まれた自宅で、アリスはただ一心に笑い続けた。
やがて疲れ果て、ぜいぜいと呼吸を落ち着かせる。
人形遣いは苦労して笑いを収めた。
こんなに心の底から笑ったのは、いつ以来だろう? と考えながら、目の端に浮かんでいた涙を手で拭った。
何だかすっきりした気分だった。
怒りも恨みも悩みも、全て不意の笑いが洗い流してくれたかのようだ。
「ふふ、変なの」
そんな自分が可笑しくて、我知らずアリスは微笑した。
それは晴れやかな、春の青空のような笑みだった。
さて、とアリスは魔宝石に手を伸ばす。
破砕され、魔力は失われてしまったが、母から譲り受けた大切な品であることに変わりは無い。
またあの魔導書を模した箱に入れて仕舞っておこう。
そう考えつつ欠片の一つを摘み取って、人形遣いははっとした。
(この石、まだ生きてる!?)
微弱ではあるが、魔力を感じる。
他の欠片も確認してみる。
大き目の破片は十二個。小さなものはその倍ほどの数。
それらは確かに魔力を発していた。
アリスは慌ててハンカチに包んだままの石を持って研究室に向かった。
時間が経つにつれて魔力は弱まっているようなので、急いで対処しなくてはならない。
◇◇◇
マーガトロイド邸の研究室。
部屋としては書斎の倍以上の面積を確保しているが、閲覧頻度の高い魔導書や研究結果のレポートファイルを納めた書棚や薬品棚、大小の実験器具、研究機材等が置かれている。そのせいか、やや圧迫感を覚える空間だ。
若干雑然としているものの、霧雨邸の研究室とは比較にならぬほど整頓されているのは、言わずもがなである。
魔宝石の欠片は全て減衰を停止する処置を施し、密封した培養液で満たした小型カプセルに保存した。
ふう、と安堵の息をついて、アリスは今後魔宝石をどう扱うかを考える。
砕けた魔宝石は魔力を失っていないとはいえ、不安定なものだ。今は培養液に漬けることで状態を保たせているが、これはあくまでも暫定処置にすぎない。
こうなったら、魔力を引き出すことで、石に磨きをかけるべきだろう。
魔宝石が本来秘めている力を促進させるのだ。
そのためには、石を削り、研磨しなければならない。
このタイプの魔宝石の品質基準には、通称『4C』といわれるものがある。
重量(Carat Waight)、カット(Cut)、色(Color)、透明度(Clarity)のことだ。
この4Cの中で唯一人妖の手による加工技術を要するのがカットであり、サイズや重量を犠牲にしても、カットのクオリティ次第では魔宝石の力を高めることができる。
ここで更に必要となるのが、カットし直した石の状態を安定させると共に効率良く魔力を引き出すための『器』である。
暗闇の中で微かな光明に照らされ、進むべき道が見えてきたことをアリスは感じた。
蒼い瞳に利発な光を宿らせた少女は、逸る心を落ち着かせながら筆記用具を取り出す。
己のインスピレーションが命じるままにペンを走らせ、図を交えながら思いついたことをノートに次々と書き込んでいった。
必要となる機材、実験方法、『器』に要求される機能、etc、etc...
一通り書き終えて満足すると、アリスは閉じたノートを仕舞い、浴室に足を向けた。
今夜はもうお湯を浴びて、寝てしまおう。
今日は色々なことがあって疲れているし、明日からは多忙になる。
休めるうちに休んでおくのも魔法使いの仕事のうちなのだ。
◇◇◇
翌朝、アリスは昨日に続いて里に向かった。帰路には香霖堂に立ち寄る。
保存の効く大量の食料と日用雑貨、新しい人形の製作に必要な材料等を買い込む為だ。
今回の件に目処が付くまで、彼女は自宅に篭りきるつもりでいる。
人形用資材の調達は元より、長期間の生活に欠かせない食料や日用品の確保は必須事項だ。
捨食の魔法を施している彼女に本質的な意味での食事は不必要だが、これは生活習慣の問題である。
昼前に帰宅し、入手した物資を各所に収納するよう人形たちに指示を出す。
その間アリス自身は、家の敷地に結界を張る作業を行った。
今までのような、本気になれば魔理沙でも破れる鍵代わりの簡易結界ではない。専門家である博麗の巫女ですら、これを解除しろと言われたら顔をしかめること請け合いの強力な代物だ(それでも巫女なら最終的には無効化してしまうだろうが)。
結界の敷設を終えたアリスは、お茶を飲む間も惜しんで研究室に入る。
やるべきことは山ほどあるのだ。
通常であれば、こういった作業は地下の工房で行うのだが、今回はデリケートな工程が多いため、この研究室を使うことにした。
魔宝石のカットから取り掛かろう。まずは研磨作業だ。
人形師として知られるアリスだが、それは彼女の才能の一端にすぎない。
アリスは人形用、人妖用を問わず、被服縫製に靴やアクセサリーの制作、武器の製造までこなせる技師であり、デザイナーだ。
彼女は自慢や喧伝を嫌うので知る者は少ないが、いずれにおいても超一級の腕前である。
「さあ、久々に思いっ切り腕を振るうわよ!」
気力に満ちた声で思いを口にしたアリスは、早速作業に取り掛った。
◇◇◇
人形遣いが忙しなく動き始めた頃、同じ森に住む人間の魔法使いは自宅寝室のベッドの上で膝を抱えていた。
窓からは既に高い位置にある日の光が差し込んでいるが、頭を膝に埋めた魔理沙の表情は窺えない。
昨日の研究室での一件の後、自分がどうしたのか彼女は憶えていない。
いつの間にか、エプロンドレスを着たままで、ベッドの上に居た。
ずっと起きていたような気もするし、少しは眠ったようにも思える。
気が付くと、朝だった。
(やりすぎた。また、やりすぎちまった……)
昨夜からぐるぐると回り続けている思考。
油断すると、幼い時分に里に住んでいた頃の苦い記憶が浮かび上がってくる。
小さな自分の手の中のモノ。愕然とする父親の顔。
はっとして、両手でわしゃわしゃと蜂蜜色の髪を掻き乱し、魔理沙は甦りかけた思い出を振り払った。
もう何度もそれを繰り返している。
◇◇◇
昨日の昼前、結界を破って侵入に成功したマーガトロイド邸の書庫に巧妙に隠されていた魔宝石を発見した霧雨魔理沙は、歓喜と興奮に心を躍らせていた。
してやったり!! あのアリス・マーガトロイドが大切に秘匿している貴重なアイテムを、この魔理沙様が手に入れたのだ!
いつもすました表情をした自称都会派の人形遣いが地団駄を踏んで悔しがる姿を想像すると、自然と顔がにやけてくる。
同じ『蒐集家』にカテゴライズされていても、アリスと魔理沙はまるでタイプが異なっていた。
アリスは蒐集したアイテムをきちんと管理、手入れをする。
一方魔理沙は、希少なものや入手難度の高いものには異常な程の執着心を見せるものの、一度手に入れてしまうと途端に興味を失う傾向が強い。
苦労して手にしたアイテムを、未整理の物品の山の上にぽんと放り投げてそれっきり、というのも、いつものことだ。
これは単に、几帳面なアリスと杜撰な魔理沙という違いではない。
フィッシングに例えると、アリスは釣った魚の写真を撮ったり調理して食べたりすることを好み、魔理沙は魚を釣ることそのものを楽しむ、天性のハンターなのだろう。
以前、人形遣いは普通の魔法使いにこう言ったことがある。
「あんたは『豚に真珠』という言葉をご存知かしら?
アイテムはね、その価値を真に理解し、力を引き出せる者が所有して初めて意味があるの。
ただ『珍しいものだから』という理由だけで欲しがるなんて、愚の骨頂よ。
増してや、せっかく入手したものを無造作に仕舞い込んでいるような人では、ね」
まったく、大きなお世話である。
欲しいから手に入れる。蒐集の理由など、それで十分ではないか。
それに、自分の物をどう扱おうが私の勝手だ。
だが、マーガトロイド邸から持ち出すことに成功した魔宝石に関しては、魔理沙は蒐集家ではなく純粋に魔法使いとして惹かれていた。
カラット、クラリティ、カット、カラー、そして魔力含有量。どの点をとっても、これほどの石にはお目にかかったことがない。
(まだまだアリスの家にはお宝が眠っている!)
是非また蒐集に出向いてやろう、と研究室の机に置いた魔宝石を見つめながら、にやけた顔で考える。
うっとりするくらいに綺麗な素晴らしい石だ。いくら見ていても飽きることがない。ま、あの人形遣いが持っていても、せいぜい見て楽しむくらいが関の山だろう。なら自分が有意義に使ってやった方が、貴重な魔宝石も歓ぶってものさ。あいつも言ってたじゃないか「アイテムは力を引き出せる者が所有して初めて意味がある」って。
さて、この魔力の塊である石、どう料理してくれようか? まずはその性質を知らねばお話になるまい。そこで取り出したるは、このピック。軽く削って詳細に調査してくれよう。
石に傷を付けては元も子もない。あくまでも軽く、優しく。そう念じながら、魔理沙はピックの先端を魔宝石の表面に当てた。
その瞬間、石は魔理沙を拒絶するかのように皹が入り、ほろりと砕けた。
何が起きたのか解らず、呆然とする魔理沙。
そこに、ばたん! と扉を開けて、魔宝石の本来の持ち主が入って来たのだ。
◇◇◇
魔理沙はベッドの上で溜息をついた。
アリスがそこまで大切にしている物だなんて、知らなかったのだ。
では、それを知っていたら手を出さなかったのか? と問われても、魔理沙は答えられない。
彼女は、アリスやパチュリーからなら無断で物を拝借しても問題は無いだろうと甘く考えていた。
確かに、二人とも口では何だかんだと文句を言う。しかし、最後には決まって許してくれるのだ。
魔理沙は勝手にそう受け取っていた。
自分は大抵のことは許される身だ。きっと、そういう性格だと周囲も受け入れているのだろう。『人徳』ってやつだな。
己に都合よく、そう捉えていた。
だが、昨日は……。
(アリスのやつ、泣いてたな)
プライドの高い七色の人形遣いの涙など、初めて見た気がする。
(謝ろう。どう考えても、悪いのは私だ)
許してくれるかどうかは判らない。いや、恐らく無理だろう。
まさか殺されることはないだろうが、絶交されるかもしれない。
アリスには負けたくなかった。何故かは解らないが、博麗霊夢に対するものとは違った意味で、そう思っている。
でも、嫌われたままなのは、もっと嫌だった。
とても気が重い。
それでも、挫けそうになる自分を何とか励ましながら、森の開けた場所に佇むマーガトロイド邸まで辿り着いた。
そして、昨日わくわくしながら踏み込んだ白亜の洋館は、かつて無いほどに強力な結界をもって普通の魔法使いが近づくことを拒絶したのだ。
まるで、あの砕けた魔宝石のように。
魔理沙は愕然として、土の上に崩れ落ちた。
◇◇◇
人形遣いが自宅に篭ってから、半月が経過した。
研究室の椅子に座るアリスの手の中には、一体の人形がある。
プロポーションは上海人形や蓬莱人形に比べるとスレンダー。全身を包むスーツはホワイトとライトグレーのツートンカラーで、すっきりとしたラバー風素材のスマートなデザインだ。胸と肩、下腕部と脛の部分には強化樹脂製の衝撃緩衝パーツを装着している。
アリスの人形にはフリルやレースをふんだんに使って装飾されたゴシック調のドレスを着ているものが多いのだが、この新作人形のコスチュームは完全に機能性を重視して纏められている。頭部の銀髪も活動的なショートカットだ。
機能優先としつつも造形に一切の抜かりはなく、白皙の顔には彫りの深い端正な目鼻立ちが見て取れることに、作り手の性格が表れている。
胸の内側、人妖でいえば心臓に当たる部分には魔宝石を埋め込んだ。大きめの欠片をカットし直したものだ。
そう、破砕された魔宝石を安定させると共に効率良く魔力を引き出すための『器』。アリスはそれを『人形』としたのだ。
この新作人形には、通常のアリスの人形とは性質を異にする要素がかなりある。
まず、上海人形や蓬莱人形がマスターであるアリスから魔法の糸を通じて供給される魔力によって活動するのとは違い、この新作は核としている強力な魔宝石から直接得られる魔力で動く。それ故に、他の人形たちとは比較にならないパワーとスピードを発揮することが期待できるだろう。
しかし、これには予想だにしなかった弊害があることが判明した。
この人形は魔術式によるオートマティック・メソッドを受け付けないことが、製作中の実験によって明らかになったのだ。
上海人形たちが、アリスが念じた命令コマンドを糸から受け、施された魔術式による自己判断で稼動するのに対し、新作人形の制御中枢はコマンドをまったく受け付けなかった。
命令に反発するわけではなく、スルーして受け入れない。恐らくは、魔宝石をダイレクトに動力源としていることそれ自体が原因と思われる。
この問題点が発覚した時、アリスは目の前が真っ暗になったが、至ってシンプルな方法で解決することにした。
「コマンドを受け付けないのなら、私自身がダイレクトに遠隔操作すれば済むことよ」
それを実現するために、この人形には五感のうち味覚を除いた四種(視覚、聴覚、嗅覚、触覚)のセンサーを備えてある。
操主であるアリスから離れた位置に居ても、これらのセンサーから得られる情報を基に操作運用を可能とするのだ。
ただ、この方法には少なからぬリスクがあった。
人形がダメージを受けた場合、その『痛み』が操主自身にフィードバックされてしまう。
この点は許容するしかないとアリスは覚悟を決めていた。
アリスはこの新作人形を“フィルギア”と名付けた。
"Fylgja"とは、外の世界の神話の一つに登場する、人に付き添う神秘的な生き物のことだ。
もっとも、これは魔宝石を核とする人形それぞれの名前ではなく、最終的に十二体作製する予定の新作人形たちの便宜上の呼び名にすぎない。
人形遣いは今回の新作に個々のパーソナルネームは与えないことにしたのだ。
何故か? 他の人形たちとは違う存在であると、意識的に割り切るためである。
新作人形フィルギアは内蔵式動力機関や操術方法以外にも、今までのアリスの人形とは異なる点がある。
それは、完全戦闘用の人形だということだ。
これまでアリスは人形の運用用途を限定したことはなかった。どの人形であっても、戦闘、家事、雑務、愛玩用にも使う。
その理由は、ほとんどの人形に自己学習機能を備えているからだ。
アリスは製作時の人形に基本的な魔術式を組み込む。
その人形は、経験を積むことによって学習し、機能や動作が次第に洗練されてくるのだ。
しかし、フィルギアの場合は制御中枢に魔術式を組成できないため、アプリケーション的な部分を除けば自己学習効果は望めない。
その代わり、戦闘面においては他の人形を遥かに凌駕する働きを期待できる筈だ。
(この新作人形は、いうなればハイエンド・ドールよ。間違い無く私の最高傑作の一つになる)
そう確信しつつも、アリスには少々引っ掛かることがあった。
彼女の人形製作の果てには、「自律人形の作製」という目標がある。
フィルギアはスペック的には間違い無く最高レベルの人形だが、操作はアリス自身が行わねばならない。つまり、いかに優れていようと『自律』とは真逆の存在なのだ。
とは言っても、「魔宝石の保護」という本来の目的を考えれば、この程度のことは問題にすらならない。
それに正直なところ、高性能の人形を作ることに単純な歓びを感じてもいるアリスだった。
人形遣いは手に抱いていたフィルギアを作業卓に立たせた。
形として出来上がっている戦闘人形は、まだこの一体のみ。ボディが一つとコスチュームが一着だ。
とりあえずこの一体をプロトタイプ兼プロダクション・モデルとして様々なテストを実施し、トラブルシュート(問題点の洗い出し)を行う。
明らかになった問題点は随時解消し、ある程度運用の目処が付いたら、この人形を雛型として他のボディとコスチュームを製作していく。
専用装備の考案も平行して進めねばならない。
「まずは、起動実験ね」
アリスは作業卓の上に直立する新作人形を見つめた。
人形の直接操作など、“七色の人形遣い”と称される彼女にしてみれば、そう難しくはない。いや、むしろ簡単なことだ。
何しろアリスはオートマティック機能を使わなくても、呼吸をするように何十体もの人形を同時に操れるのだから。
ただし、普通の人形であれば。
このフィルギアは普通ではない。アリス自身も初めて手掛ける特殊な人形だ。
正直、何が起こるか予測の付かない面がある。
アリスは覚悟を決めて椅子から立ち上がり、傍らに浮遊して控える上海人形と蓬莱人形に頷いて見せると、卓上のフィルギアに向き合った。
こういう場合、普通であれば操者は身体を寝かせて目を閉じて実験に挑むのが常識だ。
自分自身を脱力(リラックス)した状態に置いた方が、人形の操作に集中できるからである。
だがアリスはそうはしない。人形と直接対峙するのが、人形師としての彼女の誇りだからだ。
両手の指先から魔法の糸を伸ばし、新作人形に絡める。
アリスは静かに、糸に思念を篭めた。
(シグナル送信、アクセスに成功。まずは、『起動』)
念じると、戦闘人形の瞳に灯が点ったように感じた。
(次いで、『リンク』)
人形遣いの精神がフィルギアに接続される。そして――。
(……!? !! !!!)
アリスの目がかっと見開かれた。額から汗が噴き出す。口は酸素を求めて喘ぎ、ぱくぱくと動かされる。
「あ、ぐ……ああ、ああ……あああ!!!!」
一瞬大きく身体を仰け反らせた彼女は、気を失って床に倒れた。
◇◇◇
「ふう……」
アリスは上海と蓬莱に身体を揺り動かされて、意識を取り戻した。
何かあった時のために二体を待機させておいたのは正解だった。
壁に掛けられた時計を見ると、実験開始から十分も経っていない。
上海からは蒸したタオルを、蓬莱からは冷水を満たしたコップを受け取る。
汗を拭き、喉を潤すと、アリスは頭の中で実験結果の検証に取り掛かった。
自分の身に何が起きたのか、大よその見当は付いていた。
フィルギアの四感センサーからフィードバックされた感覚情報によって、アリスの脳と神経、感覚器官が混乱状態に陥り、呼吸困難を起こしたのだろう。
人形が見ている光景と、アリス自身が見ている光景。人形が聴いている音と、アリス自身が聴いている音。人形が嗅いでいる匂いと、アリス自身が嗅いでいる匂い。人形が触れているものと、アリス自身が触れているもの。
同じ部屋の近い位置に居るのだから、ほとんど同じ感覚を得ている。だが微妙に違うのだ。
四つの感覚が二種類ずつ、二重の濁流となってアリスの脳に襲い掛かった。
まるで身体から引き抜かれた精神を、見たこともない異次元空間に放り込まれたような気分だった。
いかに妖怪の身とはいえ、気絶するのも無理はない。
もしもアリスが人間の魔法使いであったら、五感の一つか二つが使い物にならなくなっていたか、悪ければ廃人と化していたかもしれない。
早急に改善案を練り、対策を施さねばならなかった。
一番の問題点は、魔宝石による魔力の出力効率が高すぎることだろう。バランスを安定させるために、人形内部の魔力の流れを調整する必要がある。
(予想以上に危険な人形ね。けど、チャレンジし甲斐があるわ)
アリスは口元に強気な微笑を浮かべつつ、何事も無かったかのように卓上に立つフィルギアの額を指先でつんと突付く。
(この、じゃじゃ馬めっ)
そういえば、フィルギアとリンクしたアリスは不思議な体験をしていた。
電気に痺れるような感覚を味わうと同時に、精神が何かに触れたような気がしたのだ。
その正体が気になったが、その件は保留だ。差し当たって、するべきことをやろう。
(今のこの子は強力すぎて、正直ちょっと手におえないわ。幾分デチューンする必要があるわね)
アリスはフィルギアに新たな機構を組み込んだ。
魔宝石から発生して人形の体内を循環する魔力のうち、余剰分を背部から排出するシステムだ。
これでいくらかは扱い易くなる筈である。
(さて、それじゃ……)
アリスは再度、卓上に立てたフィルギアに向き合う。
(アクセス、『起動』)
人形の瞳に灯が点るのを感じる。そして背中に二箇所並べて開口された小さなダクトから余剰魔力が放出される。その様はまるで一対の虹色の翼を生やしているかのようだ。
(『リンク』)
アリスの脳内に、フィルギアのセンサーから得られた四感情報の奔流が流れ込んできた。前回の試験時よりは抑えられているし、フィードバックに対する心構えを取ってもいた。
それでも圧迫はきつく、額に汗が滲み出す。
人形遣いは歯を食いしばり、込み上げる嘔吐感に耐えていた。
今回もリンクの瞬間、心の指先に電流が走ったような感覚があった。しかも先に味わった時よりも強くなっている気がしたが、とりあえず無視しておく。
しばらくリンクを維持した状態を続けるアリスは、波が引いたように自分の身体が落ち着いてくるのを感じた。
自分自分の感覚と、フィルギアの感覚。それぞれを分けて知覚できている。
(どうにか第一段階はクリアしたわね。なら……)
人形の手足をゆっくりと動かしてみる。
若干動きが硬いようだが、念じた通りに動作する。
作業卓の上を歩かせる。軽くジャンプ。
問題は無い。
アリスは人形を直立姿勢に戻し、別方向に念を篭めた。
(離陸(テイク・オフ))
カタカタと身を震わせるフィルギア。
一分程経過して、人形の脚が卓上から離れた。
そのままふわふわと浮遊するように、部屋の中を飛び回る。
自身の神経が暴れ出しそうになるのを堪え、苦悶の表情で精神を集中しているアリスの額には、無数の珠の汗が浮かんでいる。
今の段階で三次元機動は難易度が高すぎることはアリスも理解しているのだが、弾幕ごっこは空中を舞台に行うのだ。飛べない人形では戦闘面での価値は無い。
アリスは気を抜けば途切れそうになる意識を保ちながら、必死にコントロールに集中する。
部屋のあちこちを上下左右に飛行し、宙返りまで披露したフィルギアは、再び作業卓に戻って来た。
(着地(ランディング))
体勢を整え、緩やかに高度を下げる人形。もう少しで脚が卓に着く。
アリスの頬を新たに吹き出た汗が流れ落ちた。着地の操作は離陸時の数倍精神力を消耗する。
フィルギアはそろそろと卓に近づき、脚を曲げて衝撃を吸収しながら、とん、と見事に接地した。
「や、やったわ……」
自分自身と戦闘人形、二重の感覚器官からの情報で起動実験の成功を確認したアリス。
疲労と倦怠感に包まれる中で上海と蓬莱に片手を上げて見せ、「大丈夫よ」と告げる。
徐々に意識を沈ませていく彼女が最後に見たものは、誇らしげに真っ直ぐ立つ新作人形の堂々とした姿と、椅子の背もたれに倒れ込む自分自身。
フィルギアを通して見たアリスの顔は、確かな手応えを掴んだことによる満足感に彩られていた。
◆◆◆
【 act.4 The Puppet Master's method (latter half) 】
研究中心の生活をしている時であっても、アリスは夜に就寝し、朝に起床する。
軽めの朝食を取った後は掃除と洗濯をして、天気の良い日には布団を干す。
家事は人形に手伝わせるが、基本的なことは自分でする。
人形を遣いつつも、必要以上に依存しない。これはアリスの信条だ。
家事を終えると、後の時間は研究か人形関連の用務に費やす。
もっとも、昼と晩の食事や午後のティータイムは疎かにしないし、普段よりも凝った料理やお菓子を作ってみたり、読書や裁縫等で気分転換を図ることもある。
肉体や精神を追い詰めては、良い結果は出せないからだ。
きちんと休息を取り、常に余裕を持って事に当たる。
捨食の魔法を施しているアリスは、本来睡眠も食事も必要としない。
それでも彼女が規則正しい暮らしを送ることを心掛けているのは、生活サイクルの重要性を知っているからだ。
長距離走で最後に勝利するのは、瞬間的な爆発力を持つ猪ではない。同じペースで淡々と走るクレバーなランナーだ。
何事も重要なのはブレイン。
それがアリス・マーガトロイドの流儀である。
◇◇◇
起動実験成功の翌日、マーガトロイド邸研究室。
アリスはフィルギアの調整を行っていた。
その作業の手並みは調整というよりも、楽器の調律(チューニング)を連想させるものだ。
とはいっても、何か特別なことをしているわけではない。
頭の中にイメージを確立。人形に触れ、撫で、軽く叩く等して、得られた反応を確かめる。
間接を軽く動かしてみる。動作が硬すぎても滑らかすぎてもいけない。
千分の一ミリ以下の造形を見極め、工作用ナイフで削り、ヤスリを当てて表面を整える。
試しに魔力を流し、違和感があれば魔法で局所的な術式に修正を施す。
もしも今のアリスの姿を目にする者が居たならば、溜息が洩れるのを禁じ得ないだろう。
そう思わせる程に、一切の無駄が省かれた彼女の動作は流れるように美しかった。
人形の全体のバランスを取りながら、外形と内面を整えていく。
調整して試験。
検証、結果を解析。
再度調整して試験。
再び検証、結果を解析。
……………………。
………………。
…………。
……。
地道に、確実に、的確に。
素早く鮮やかな手際で延々とそれを繰り返す。
一流と誰もが認める実績に裏打ちされ、際立った手腕を持つ彼女ほどの人形師であっても、最適化に近道は無い。
トライ&エラーで積み重ねた様々なノウハウ。経験とセンス。卓越した技術。
それらに基づいて、当たり前のことを当たり前にきっちりとこなしていく。全ては小さなことの積み重ね。
気が遠くなるほどに果てしなく連続する地味な工程である。
(よくそんな単調なことやってられるな)
魔理沙なら、呆れながらそう言うだろう。
だが、アリスにはこの作業が苦痛ではなかった。
彼女にとって、これは人形との対話である。
人形の発する小さな声に耳を傾け、意思を汲み取る。
調整することで、こちらの意思を伝える。
楽しげなハミングすら交えながら、自分のイメージする完成形に向けて、アリスは精緻に作品を仕上げていくのだ。
今回目指すのは、完璧なソルジャー・ドール。
◇◇◇
以前、マーガトロイド邸で紅茶を飲み、家主手作りの洋菓子を頬張りながら、魔理沙は人形遣いに言ったことがある。
「おまえって、友達少ないよな」
魔法使いの冗談を、アリスは「ええ、そうね」とあっさり肯定した。
「私にとって友達といえるのは、霊夢とパチュリーの二人くらいだわ」
魔理沙はその言葉に、苦虫を噛み潰したような顔をするのみだった。
◇◇◇
アリスが自宅に篭っている間、博麗神社では何度か宴会が催されていた。
当然ながら、そこにアリスの姿は無い。
元々、人形遣いの宴会出席率は高かった。
幹事を務めることが多い人間の魔法使いがほとんど無理矢理に連れ出すからだ。
アリスが宴会に来なくなって、魔理沙は一つ気付かされたことがある。
それは――。
「魔理沙さん」
御座の上に胡座をかき、日本酒を飲みながら独り物想いに耽っていると、傍らから声を掛けられた。
見ると、鮮やかな緑色の髪を頭の片側で束ねた風の妖精が立っている。
「私に何か用か? 大妖精」
何を言われるのか見当は付いていたが、一応そう口にする。
大妖精は魔理沙の正面に腰を下ろした。
「あの、アリスさん、まだ出て来れないんですか?」
柔和な表情で首を傾げ、訊ねる風精。
「ああ、まだ家の周りに結界を張ったままだしな」
魔宝石の件は誰にも告げていない。告げる必要も無いだろう。
魔理沙の返答に大妖精は「そうですか」と肩を落とした。
「何かあったんでしょうか?」
「私が知るかよ」
つっけんどんに言うと、風精はぺこりと頭を下げて立ち去った。
魔理沙から少し離れた位置にある、仲間たちの御座に戻ったのだろう。宵闇の妖怪と大妖精の話し声が聞こえてくる。
「大ちゃん、アリスどうしてるって?」
「魔理沙さんにも解らないって」
「そーなのかー……」
落胆の色に染まる諸々の声を聞きながら、魔理沙は手にした杯を傾けた。
アリスが宴会に姿を見せなくなってから魔理沙が気付かされたこと。それは「密かにアリスを気に掛けている者たちが多い」ということだった。
魔理沙はアリスが篭った日から、毎日彼女の自宅を訪れている。しかし相変わらず結界に阻まれて、玄関の扉に近づくことすらできない。
そんなある日、魔理沙は自分が幹事役を請け負って神社で宴会を開くことにした。
魔導書を読み解く気にも、新しい魔法を研究する気にもなれなかったからである。
滅入る一方の気を晴らすために、宴に乗じてぱーっと騒ぎたかったのだ。
その席で、魔理沙は少なくない数の人妖から同じ質問をされた。
アリスは来てないの? と。
人形遣いの不在を気に掛け、落胆する者が多いことが、魔理沙にとっては意外だった。
実際のところ、アリス・マーガトロイドは、ある程度以上の力を持つ幻想郷の人妖としては非常に珍しいタイプの存在なのだ。
「人形のようだ」と形容される可憐な容姿。凛とした、それでいて柔らかな雰囲気。幻想郷一器用と称され、時に数十体の人形を同時に操る白く細い指。人形操術の応用による華麗な弾幕。
良くも悪くも開けっ広げな者が多数派を占める幻想郷において、どこか他者との間に線を引いた態度。華奢で儚げ。触れてみようと手を伸ばしたら、霞んで消えてしまいそうな危うさを湛えた雰囲気。
そんなアリスに惹かれつつも声を掛けられず、宴席等で様子を窺う者は密かに多かった。
要するに、皆アリスと親しくなりたいと思いつつも、きっかけを掴めずにいたのだろう。
そのことが魔理沙には、何となく面白くない。
(ちくしょう。アリスが何だってんだ)
憂さを晴らすために、酒を呷り続ける魔法使いだった。
◇◇◇
起動実験成功から一ヶ月後の夜。
アリスは研究室で上海人形が淹れた紅茶を飲んで一服していた。
つい先ほど、戦闘人形の最後の一体を作り上げたのだ。
広い作業卓の上に十二体のフィルギアがずらりと並んだ様は壮観といえる。
全てが同じ容姿、同じカラーリングを施されているが、外観上プロトタイプの初期モデルとは異なる点が二つある。
一つ目は、頭部に大きな黒いゴーグルを装着していること。
これは運用試験によって、想定以上にデリケートであることが判明した視覚センサーを保護するためのものだ。
二つ目は、専用装備である銀色の光槍(ランス)を右手に、乳白色の防盾(シールド)を左手に装備していることだ。この二つの武装は魔宝石の小さな破片を組み入れることで、魔導的な効果を高めてある。
石の更に微細な欠片は、磨り潰して胸、肩、下腕部、脛を保護する衝撃緩衝パーツの素材に混ぜ込んだ。
アリスが母から譲り受けた魔宝石は、完全に十二体の人形と化したのだ。
一方で、フィルギアの操主であるアリス自身も室内での操作完熟訓練を重ねていた。
二体目、三体目と戦闘人形を作製するに従い、彼女は同時にコントロールする人形の数を増やしている。
当初は自身のものと合わせて三重、四重と増加する感覚情報を持て余していたが、次第に操作に習熟していった。
熟練の人形遣いとしての深い経験が下地として生きているのだろう。
今では屋内の限定空間で、十一体のフィルギアの同時コントロールを可能とするまでに至っている。
どうやら今回の研究試験を最終段階に移行する時が来たようだ、とアリスは判断した。
◇◇◇
早起きをして、実に一ヶ月半ぶりに自宅の敷地の外に出たアリスは、うーん、と朝日の光の下で伸びをした。
湿度が高い魔法の森も、早朝にはそれなりに心地良い空気に覆われている。
ここは森の外縁に近い、少し開けた場所だ。見上げれば緑の葉によって円形状に切り取られた青い空が覗けた。
アリスは早速、最終テストを行うために十二体のフィルギアを召還した。
目の前に半月状に並んで浮かぶ戦闘人形が現れる。
全てのフィルギアを同時に操るのは、これが初めての体験だ。
アリスはごくりと喉を鳴らす。
十一体では何事も無くコントロールできた。なら、十二体でも問題は無い筈。
そう思いつつも、緊張を抑えきれない。何かが起こりそうな予感がするのだ。
しかし、こうしていても何も始まらない。
人形遣いは意を決して、魔法の糸に思念を篭めた。
(アクセス、『起動』)
全ての戦闘人形の瞳に灯が点るのを感じ取る。
(『リンク』)
精神がフィルギアに接続された、その瞬間――。
アリスは強烈な雷に打たれたかのような衝撃を精神に受けた。
……ここは、どこだろう?
周りは闇。でも、とても暖かな闇だ。
何か、懐かしい気がする。この匂い。
そうだ、私の故郷、魔界の匂いだ。
この闇を裂いて走る、あれは、光?
一つの光が分裂して、二つ、三つ……。
もっと増えて、十二の光になる。
私に近づいてくる。
無限の闇。虚空を駆ける、十二の光。
光が私を包み込み、共に漆黒の空を疾る。
私を呼ぶ声が聞こえる。
(……ありす)(Alice?)(アリス)(ありす!)
(……アリス)(ありす?)(Alice)(アリス!)
(……Alice)(アリス?)(ありす)(Alice!)
誰なの? 母様? 姉様たち? それとも……。
(((共に!)))(((私たちと共に!!)))(((さあ!!!)))(((答えを!!!!)))
(((((((((((( 答えは君の中に!!!!! ))))))))))))
アリスは目を見開いた。
魔法の森のやや開けた場所で、白金色の髪が降り注ぐ朝の陽光を受けて煌いている。
チチチ、と遠くから鳥の囀りが聞こえた。
いつの間にか、涙を流している自分に気が付く。
目の前には半月状に並んで浮く戦闘人形たち。
アリスは涙を拭い、こくりと頷いて見せた。
自分のその動作を、十二の視覚で確認。
そして人形遣いとフィルギアは直上の樹々の隙間、丸い天井のように見える空を突き抜け――。
一つの光となって飛翔した。
◇◇◇
屋外でのテストも一通り終了した。
満足のいく結果といえる。
森の開けた場所に戻り、大きな白い石の上に腰を下ろしたアリスは、通常の人形であれば出来上がって動作確認をした直後に行う『儀式』を施すことにした。
フィルギアは、アリスが初めて戦闘専用として作った人形である。
故に、単に造形作業を終えて動かしてみただけでは完成とはいえなかった。
実戦に耐え得ると判断できるまで、綿密に調整とテストを繰り返す必要があったのだ。
そして、ようやくこの時を迎えた。
正直なところ、まだ不安な点が無いわけではない。常に不確定要素が付きまとう弾幕戦闘では何が起こるか解らないからだ。
しかし、今の段階で出来ることは全てクリアした筈だ。
アリスは自分自身と十二体の新作人形に誇りを持てる。
いつも持ち歩いている携帯用のソーイングセット(裁縫道具)から縫い針を取り出したアリスは、いよいよ儀式に取り掛かった。
戦闘人形の細い髪を持ち上げ、うなじの生え際辺りに針先で極小さく『A.Margatroid』とサインを刻み込む。
一体一体、丁寧に。
儀式を終えて並べたフィルギアをアリスは満足気に見つめ、口元を綻ばせた。
ついに、魔宝石を核とする十二体のソルジャー・ドールが完成したのだ。
◇◇◇
魔理沙は今日もマーガトロイド邸に足を向けていた。
既に毎日の日課となっている。散歩のようなものではあるのだが、気分は一向に晴れやかではない。
一度、彼女はマーガトロイド邸に霊夢を連れて来たことがある。
結界を解いてもらおうとしたのだが、きっぱりと断られた。
「この手の結界は、施術者の魔力が途切れれば消滅するわ。こうして維持されてるなら、アリスは無事ってことよ」
「そんな講釈はどうだっていい! 私はこれを解いてほしいんだよ!」
そう詰め寄る魔理沙に、霊夢はニヤニヤしながら「なんで?」と訊いてきた。
言えない。言えるわけがない。
相手は霊夢なのだ。少しでも漏らしたら、全て勘付くだろう。
大体、そうだ。きっとこいつは面倒くさいだけなんだ。
「ふん、もういい!!」
そう言い捨てて、魔理沙はその場を後にするしかなかった。
ふう、と溜息をつく人間の魔法使い。
やがて見えてくる白亜の邸宅。その敷地の手前には結界が――。
「あれ? 無い?」
この一ヶ月半の間、マーガトロイド邸を護るために張り巡らされていた結界が消失している。
ということは……。
「アリス!!」
魔理沙は顔から血の気が引くのを感じるよりも早く、玄関へと走った。
「くそ! 簡易結界が張ってある! それなら――」
ミニ八卦炉を取り出そうと懐に手を突っ込んだ時、背後から声を掛けられた。
「魔理沙?」
懐かしい声に振り向く。
「あ、アリス? 無事だったのか?」
「? 何のこと?」
怪訝そうな表情のアリスを見て、魔理沙は冷静になっていった。
考えてみれば、昨日まであった強力な結界は解除されていたが、簡易結界が張られているのだ。なら、アリスの身に何かが起きた可能性は低い。
(そんなことにも気付けないなんて、私は……)
「ねぇ魔理沙? どうしたの?」
不思議そうに訊ねるアリスに、魔理沙は急にバツの悪い気がしてきた。
「ふ、ふん! 久々におまえの間抜けヅラを見に来ただけだぜ! ここんとこずっと引き篭もってたみたいだからさ! どうせ例の魔宝石のことで、家ん中でメソメソ泣いてたんだろ!」
「……なんですって?」
それまで柔らかな微笑を湛えていたアリスの表情が、魔理沙の言葉を受けて険しさに染められた。
後日、魔理沙は述懐することになる。
思えば、あの時のアリスは機嫌が良さそうだった。魔宝石を盗み、壊してしまったことを素直に謝れば、許してくれたかもしれない、と。
だが、人間の魔法使いはそうできなかった。
これは運命の悪戯などではない。
霧雨魔理沙が自ら選択した苦難の道なのだ。
◆◆◆
【 To Be Continued 】
アリスの大事な魔法石はフィルギア達に姿を変えて…!
素敵な発想だと思います。
魔理沙ヒドス。
がっでむ、アリスで萌えてしまうとは…
次回作も期待してるぜ!
まだ家の周りに結果を張ったままだしな→結界
魔宝石の品質基準は4Cなのかw
2と3読んできます。
寝ようと思ってたのに…