病室に二人の少女がいました。
片方は眼鏡をかけた利発そうな少女。片方は頭に包帯を巻いた、茶色い髪の少女。
眼鏡の少女は尋ねました。
「あなた、誰?」
茶髪の少女は答えました。
「わかりません」
アンドロイドが朗読しているような、無機質の声でした。
茶髪の少女は虚ろな目で、眼鏡の少女に尋ねました。
「あなたは誰ですか?」
眼鏡の少女は一瞬だけ言葉に詰まりましたが、すぐに微笑み、答えました。
「私は霧雨魔理沙よ」
茶髪の少女は何の反応も見せず、黙ったままでした。
「ここが何処だかわかる?」
「病院です」
間髪入れず、茶髪の少女は答えました。
その答えに満足したのか、霧雨魔理沙は笑顔をより一層強くしました。
「それじゃあ、また来るわ」
魔理沙はスカートを押さえながら、ゆっくりと立ち上がる。そのまま病室を後にしようとしたところで、不意に声を掛けられた。
茶髪の少女だった。
「霧雨魔理沙は誰ですか?」
魔理沙は眼鏡を外して、答えた。
「それは次までの宿題よ」
カツン、カツンとリノリウムの床が愉快な音を立てる。
廊下に人の姿は無い。それほど流行っていないのか、それとも最近は病人が少ないのか。どちらにせよ、魔理沙には関係の無い話だった。
階段を降りようとしたところで、ふと付けっぱなしだったテレビに目がいく。今にも白黒で写りそうなほど古くさいテレビでは、スーツ姿のアナウンサーが今日も事件はなく平和だったということを遠回しに伝えていた。
毎度ながら、どうしてテレビというのは素直に伝えないのだろうか。魔理沙にはそれが不思議で不思議でならなかった。
一階に降りて、玄関へ向かう。ゆったりとした速度で歩いていたら、廊下の人口が一人から二人に増えた。
「あの、お見舞いですか?」
見覚えのある衣装を着た女性だ。少し考え、魔理沙はそれがかつてナース服と呼ばれていたことを思い出す。目の前の女性は看護士のようだ。
魔理沙は微笑み、こっくりと頷いた。
「ひょっとして、あの患者さんのお見舞いですか?」
茶髪の少女の部屋には、ネームプレートが付けられていない。本人が名前を覚えていないのだ。病院側で勝手に付けるわけにもいかないので、当然と言えば当然の処置だ。
「いいえ。ただ、彼女に少し興味があるだけです」
魔理沙の嘘に、看護士は少しむっとした顔を見せる。
「言っておきますけど、あの患者さんの扱いは非情にデリケートなんです。無闇に会って、余計な刺激を与えないでください」
「もちろん、それは分かってますよ」
魔理沙はそう言って去ろうとしたが、看護士がそれを許さない。肩を掴まれ、名前を訊かれた。
軽く溜息をついて、魔理沙は答えた。
「マエリベリー・ハーンです」
そうして魔理沙はメリーになった。
メリーが病室に入った途端、茶髪の少女が口を開いた。
「霧雨魔理沙はあなたです」
クスリと笑って、メリーは答えた。
「残念。私はマエリベリー・ハーンよ」
「では、霧雨魔理沙はどこにいますか?」
「魔理沙はどこにもいないわ。今は、まだ」
考え込むように、茶髪の少女は黙りこくる。
しかしそれはポーズで、ひょっとしたら何も考えていないのかもしれない。
他人の心は闇よりも見えにくいが、茶髪の少女の心は透明だから全く見えない。
だからこそ、色をつけに来たのだ。
「私にも名前がありました」
突然の告白に、今度はメリーの方が言葉を呑む。
「私は宇佐見蓮子です」
死んだ魚のように濁った瞳で、茶髪の少女は言った。
メリーはふと、窓の外を見た。
空に雲はなく、太陽は今日も明るい。
「おめでとう。良かったわね」
祝福の言葉を贈るメリーの顔はしかし、空の天気に反比例するように曇っていた。
茶髪の少女は変わらぬ無機質な声で、
「わかりません」
とだけ言った。
帰り際、待合室のように広い空間で、またメリーはテレビに目を止めた。
病院の中は、相変わらず人っ子一人いない。やはり流行っていないのだろうか。
しかし、看護士はきっと病院の中をうろうろしている。
見つかると色々と面倒だ。
仕方なく、足早にメリーは病院を出ることにした。
そして外の空気を吸った時、テレビでアナウンサーが言っていたことを思い出す。
宇佐見蓮子という名前の少女が、死体で発見されたらしい。
メリーの機嫌は再び空のように晴れ渡り、軽い足取りで書店へと向かった。
数学の本を何冊か買う。
興味は無かった。でもきっと、意味はあった。
先手必勝とばかりに、メリーは病室に入るや否や告げた。
「あなたは宇佐見蓮子じゃないわ」
驚くかとも思ったが、茶髪の少女は眉毛一歩動かさない。記憶だけでなく、感情もどこかへ行ってしまったのか。
財布の口を開くように、機械的に口を開いた。
「私は誰ですか?」
メリーは質問を意図的に無視して、茶髪の少女に数学の本を手渡した。
首のネジが緩んだかのように、茶髪の少女が本に視線を向ける。
「0÷0はいくつだと思う?」
「わかりません」
「ある意味では、それが正解」
茶髪の少女は本からメリーに視線を移し、もう一度、わかりませんと呟いた。
「ここは何処?」
「病院です」
「あなたは何処から来たの?」
「幻想郷です」
寂しげな顔で、メリーは窓の外を見やる。
「でもね、幻想郷はもうないの」
茶髪の少女が目を丸くする。初めて、感情らしい感情を見せた。
メリーとしても、出来ればこれが少女を動揺させる為の嘘であって欲しかった。
「だからね、行きましょう」
茶髪の少女の手をとる。一切の抵抗すらなく、茶髪の少女はベッドから降りた。
そのまま、メリーの引かれるままに部屋を出ていく。
カツンカツン、カツンカツン。今日は足音が二つあった。
「ちょっと!」
その足音に混じって、看護士の慌てた声が聞こえる。
振り返れば、血相を変えた看護士がいた。
「何してるんですか! その患者さんを勝手に出歩かせないでください!」
走ってきたせいか、看護士の息は切れている。
メリーは彼女が落ち着くのを待って、ニコリと微笑んだ。
何か言おうとしたのだ。しかし、広間のテレビがそれを遮った。
「S県山中で発見された遺体が、宇佐見蓮子氏と共に行方不明となっていたマエリベリー・ハーン氏のものであることが明らかになりました」
アナウンサーはこちらの状況も知らずに、ただ淡々と原稿を読み上げる。
顔写真は出ていなかった。
しかし、看護士は驚いた顔でメリーを指さす。
「え、だって、あなたが……なんで……」
テレビとメリー。視線が交互に移り、やがて顔色が肌色から青色に変わった。
唇は震え、小動物のように怯えている。
メリーは微笑んだまま、看護士に向き直る。
「初めまして」
そこは寂れた草原だった。
草は色を忘れたように薄くなり、風が吹いただけで折れそうなほど脆い。
メリーと茶髪の少女は、二人で草原に立っていた。
周りには彼女たち以外、誰もいない。
クスリと笑い、メリーはハンカチを取り出す。それで、茶髪の少女の顔についていた赤い液体を拭った。ハンカチは途端に鉄臭くなり、メリーはそれを投げ捨てる。
風に乗って、ハンカチはどこかへと消えていった。
「私を殺すのですか?」
不意に、茶髪の少女が尋ねた。
メリーは呆気にとられた顔をして、やがて腹を抱えながら大爆笑した。
茶髪の少女は、それを生気のない瞳で見つめている。
笑いが収まったメリーは、涙を拭いながら言った。
「ある意味ではそうかもしれないわね。でも、大丈夫。あなたは生まれ変わる」
二人の間を風が抜けていく。
「あなたは誰ですか?」
茶髪の少女が尋ねた。
「私は八雲紫よ」
紫は答えた。そして返す刀で、同じ質問をする。
「あなたは誰?」
茶髪の少女は空を見上げ、わかりません、と答えた。
その頬に、紫がそっと手を伸ばす。
「違うでしょ。あなたは霧雨魔理沙」
茶髪の少女は空を見上げたまま、魔理沙魔理沙と何度も繰り返した。
そして、紫に視線を戻す。
「これからどこへ行くのですか?」
「幻想郷よ」
「幻想郷は在りません」
「ええ。これから在るの」
紫は再び茶髪の少女の手をとり、何もない場所へと歩を進める。
だが、歩いていくにつれ、段々と目の前の空間が歪んできた。
紫は何食わぬ顔でそこを歩き、茶髪の少女は首が動き方を忘れたかのように真っ直ぐと前だけを見ていた。
やがて、空間の揺らぎが少しずつ収まり始めたところで紫が立ち止まった。
振り返る。
彼女は泣いていた。
「バイバイ、蓮子」
一瞬だけ、茶髪の少女の瞳に光が戻る。
「さよなら、メリー」
メリーは歩き出して紫になった。
茶髪の少女は歩き出して魔理沙になった。
やがて二人は、幻想郷にたどり着く。
数学の本は、茶髪の少女のベッドの上に置きっぱなしだった。
よって0ではなくてフリーレスを
こういう理解できるようで理解できない意味不明さは好きだ。
かといって他の読み方もわからないし…
私の乏しい理解力じゃ難しい話でした。
実験作にするにしても、もうちょっと詰め込んでも良かったかなぁと思いました。いやまあ膨らませたら膨らませたで収拾つかなくなりそうですが。
また、雰囲気だけを出すのなら、眼鏡の少女には八雲紫ではなく博麗霊夢を名乗らせたほうがキャラが対照的になって良かった気も。マエリベリーと関連しないと言われればそれまでですが、それ言ったら魔理沙も何の関連も無いし。
もっとも、眼鏡と茶髪が元々マエリベリーと蓮子だったかどうかもわからなければ、そもそも私が作者氏の思惑を理解できてるとも思えませんので、このコメントもかなり的外れな気もするのですが。
八重結界さん自身は理解できているのかなぁ。
という疑問が浮かびました。不躾で申し訳ない。
どうでもいいが、「0÷0」が眼鏡に見えるのは私だけか。
が、二読目。ああ、と解った(或はひらめいた?)。
まず、紫の能力…境界を操る程度の能力。それがもし、過去・現在・未来といった「時間」の境界をも操れるものだとしたら、幻想郷が「在る」もしくは「生まれる」時代まで遡って往くことが出来るのではないか。
次に、登場した二人の「名前」について。
「名前」がないモノは実在しない、もしくは認識できない。「名前」を与えることによって、モノは「物」として実在できる、認識対象となり得る。
これを踏まえると、幻想郷でない世界に存在していた「宇佐見蓮子」と「マエリベリー・ハーン」という二人は死んだ、即ち存在しなくなったモノである。
しかし二人は、新しい「幻想郷が在る」世界において、新しい名前を持つことで存在するようになった。
「宇佐見蓮子」だったモノが「霧雨魔理沙」という物になり、「マエリベリー・ハーン」だったモノが「八雲紫」という物になったわけである。
…ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』を思い出したよ。
まあ私の深読み(ないし妄想)に過ぎないかもしれませんがね(笑)
個人的には面白かったので、満点。
言葉にできない程度には理解できましたが‥‥自分の頭では完全な理解は不可能っぽいです
とか変な口調になるくらい解らないです。私正常です。
、、、とだけ答えるのが正しい気もするのですが。
意志、そしてその問いをしたということで、名が与えられ初めて存在するものとなり、世界を確定させているのではないだろうか。書かれていないこと(=名が与えられていないもの)は存在しない。0÷0の答えは不定であるように、そのままではこの世界も不定。意志によって初めて確定する。
問うたことで1人の少女は霧雨魔理沙となりマエリベリー・ハーンとなり八雲紫という存在になる。少女がメリーという名を与えられている時点では、魔理沙はもう、そして、まだ存在していない。
それと死体の件を考えると2人の少女は「意志」そのものではないのだろうか。それぞれ蓮子、メリーと名を与えられたから死体が特定される。茶髪の少女が蓮子であるからこそ血が流れている。
数学の本だけが綺麗にはまらないが、数学の本を選んだということがその存在を八雲紫であると確定させた原因になるのだろうか。
結局のところよくわかりません。或いはこういうことであろうと推測する意志があることが正解なのかもしれない、とか思いました。
数学の本を最後に残した理由だけでも、かなりのとり方ができます。私が思いついたのは以下の通り。
1、登場人物達が幻想郷で確定した存在になった。つまり本はもはや不要。
2、登場人物達が当世界からいなくなった。つまり「不在の証明」
3、この作品は「不定が残された」とする暗喩。
最後の作者コメントですが、「作品として成り立っていなければジャンルとしても確立しない」とするならば、作品として成っているのか成っていないのか、それを証明しなくてはならず、それを行うことができたら天才ということぐらいは意図しているかもしれませんね。なにせ、0/0は数学的概念を内包しつつも未定義とも言える表現なのですから、挑戦を促す作者はほんとうに人が悪い。
でも、面白く感じたならそれでいいじゃないって気もします。
そういうのも良いと思うので。個人的には好きです
とりあえずこの想像力と感性には敬服します。(よくわかってないけど)
あとニュース中でメリーや蓮子に『氏』とつけていますが『氏』は男性用で、女性には『さん』を使うのではないかと。
間違ってたらすいません。
この作品のジャンルは「原点」だ。
幻想郷は、魔理沙や紫など親などが居ない。
しかしそこに居る、つまり原点がない。
その原点の一例がこの作品だと。
タイトルが0÷0なのは作品の解読の難しさのたとえ?
まぁ、勝手な妄想ですけど;
悪い意味じゃなく、フリーレスしかつけられないんだ。
面白くなかった訳じゃないんだけど、本当に『分からない』から評価できないんだよなぁ(汗)
この二人はようは、アダムとイヴ
新世界でもお幸せに
ただ、あなたが書くシリアスな物語を読んだ後は、必ず鳥肌が立つ。真実はそれだけです。