Coolier - 新生・東方創想話

風見幽香地獄篇(完)

2008/05/15 04:23:34
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「幽香様! おかえりなドゥゥブワッシュゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ!」

 玄関から飛び出してくるなり幽香のあられもない姿を視界にとらえてしまい、そのあまりの過激さに即刻鼻血を噴いてぶっ倒れたエリーを放っておいて、幽香たちは夢月に駆け寄った。

「ゆ、夢月さん、冗談きついですよ。いつもみたいに幽香様と漫才してくださいよ、ねえ」

 くるみがひきつった笑顔で夢月の肩を揺するが、答えは返ってこなかった。
 白い顔がさらなる蒼白によって染められ、半開きの目と力なく垂れた腕には微塵も生気が感じられない。
 もともと人形のように美しいことと相まって、今の彼女を壊れかけの人形と偽っても疑うものはいないだろう。

「ま……まさか幽香様のお尻丸出しっぷりに腹筋が耐えられなくなって、し、死……!」
「馬鹿なこと言わないで! 夢月があんな、変な薬とかお尻とか竹細工とか爆弾くらいで……」
「す、すいません……っていうか想像以上に珍道中だったみたいですね」

 どういう生き方をすれば薬と尻と竹と爆発物が並列するようなイベントが発生するのだろうか。
 もしかするとカエルの尻めがけて薬を塗って滑りをよくした竹筒をぶっ刺したのち流しソーメンの要領で爆弾を投入などという凶行にでも及んだのかもしれない。
 くるみはやはり自分がついていくべきだったいろんな意味で、としみじみ思った。

「立ち話もなんだし、とりあえずお部屋に行こっか。くるみは幽香を支えてあげてね」

 よっこいしょと夢月を背負って、幻月が踵を返す。
 彼女の背中で、夢月のか細い体が練乳に溶かした砂糖菓子のようにしなだれた。
 それはそよ風にさえ吹き流されてしまいそうな朦朧感を孕んでいる。

「──待ちなさい。あなた、夢月がこうなった理由を知っているの?」
「幽香様、それはおいおい話しましょうよ。今は夢月さんを……」
「……わかったわ」

 くるみに促され、彼女と傘を頼りにして疲れた体をひきずりながら歩き出す幽香。
 月が隠れているからだろうか、目の前にあるはずの玄関がいつもより遠くに思え、姉の背に揺られている夢月までもが心なしか小さく見えた。

§  §  §

「この子はね、”夢”なのよ」

 夢月を部屋に運んでベッドに寝かせ、出血多量で気絶していたエリーが戻ってきたところで、幻月が静かに言った。
 彼女はベッドの脇の肘掛椅子に深く座って、妹の顔を見つめている。
 その突拍子もない「夢」という単語に、幽香が怪訝そうな表情を浮かべた。

「夢……?」

 幽香にとっては予想外であり、初耳でもあった。
 灯台下暗しという言葉のとおり、身近にいるからこそ分からないこともある。
 二人ともあまり他者を気にするような性格ではないことがそれに拍車をかけていた。

「夢という事象を司っているということ?」

 幽香は初めて夢幻館に招かれた時、夢月が「ここは私の世界」と言っていたことを思い出して聞いた。
 だが、幻月は小さくかぶりを振った。

「もっと根本的。夢月は”夢”という概念そのものなの」
「夢月さんイコール夢ってことですか……って、結局どういうことですか?」
「……」

 首をかしげるくるみ。
 幽香は問いをやめ、幻月の言葉を頭の中で反芻する。
 すると、夢月が倒れた原因がおぼろげながら分かってきた。

 ──幻想郷はその名のとおり「幻想」が集まるところではあるが、それは決して「現実ではない」という意味ではない。
 妖精も妖怪も魔法も吸血鬼も、幻想郷においてはすべてが現実の存在である。
 しかし、「夢」は違う。
 夢とはつまり「非現実」であり、決して現実とは相容れないもの。
 眠りの大海にたゆたいながら見る「夢」は、覚めてしまえば瞬く間もなく泡沫と化す。
 未来への希望として抱く「夢」は、叶った瞬間に「夢」から「現実」へと変質してしまう。

「夢は夢のままじゃいられない。この子は本来、ここから出たらあっという間に現実に呑み込まれてしまう」

 幻月が手を伸ばして、夢月の髪をそっと梳いた。
 かすかに俯いた顔にふと暗い影が差す。
 その憂いに満ちた表情に、幽香は一瞬奇妙な感覚を覚えたが、それは脳裏に浮かんだ疑問によってすぐにかき消された。

「ちょっと待って。貴方たち、たしか悪魔だって言ってなかった?」
「そりゃ悪魔は悪魔だけど……ただの悪魔が自分の世界なんか持てるわけないでしょ?」
「それは……」

 まだ少し釈然としない気持ちはあったが、幽香はそれ以上の追究をやめた。
 幻月の言うとおり、誰しもできることとできないことがある。力があるなしの問題ではない。
 自分だけの世界を創造できる能力の持ち主など、それこそいわゆる創造神様だけである。

 だが、これもまた幻月の言うとおり、夢月本人が夢──夢の欠片とでもいうべきか──だとすれば話は変わってくる。
 結局創造の力は持っていないにしても、それならば彼女が「夢の世界」を「自分の世界」と称してもおかしくはない。
 一部だろうと全部だろうと夢であることには違いないからである。

「ちなみに私は幻。嘘かホントか、夢か現か、いるかいないかもわからない。曖昧糢糊が持ち味のとってもキュートなかわいい悪魔」

 芝居がかった口調で言葉を紡ぎながら頬に人差し指を当てて小首をかしげ、花のような微笑を浮かべる幻月。
 その姿が一瞬、陽炎のようにぶれて霞んだのは決して幻覚や錯覚の類ではない。
 箱の中の猫など及びもつかないくらい、どこにでもいてどこにもいない彼女についてわかるのは、ただ一つ「わからない」ということだけである。

「キュートなかわいいって意味かぶってませんか?」
「ここに一本の巻き尺があります」
「(真実を指摘されて逆ギレ! これぞまさしく悪魔の所業!)」

 間髪入れず、エリーから至極もっともなツッコミが発せられた。
 だが、人の世の理の範疇で生きていない悪魔に対して世の常識によった言葉を吐きかけるなど無意味を通りこして自殺行為である。
 この一連の流れを目の当たりにしたくるみは先程己が身を苛んだ惨劇の再来を予感したが、さいわいエリーの胸は小さめなので幻月もさして興味を持たなかったらしく大事には至らなかった。

「本当はちょっと外に出たくらいじゃなんともないんだけど……ねえエリー、あのいつか殴りこんで来た巫女、なんて名前だっけ? ビームだっけ?」
「霊夢です」
「ああ、それそれ。そのテンプテーションサランラップにこっ酷くやられたせいで、今の私たちはとっても不安定なの」
「不安定って……」
「たとえて言うなら心棒のないコマ」
「な……」

 瞬間、幽香が絶句する。
 そんで今の夢月はコーマねと言って幻月が笑ったが、その言葉はすでに幽香の耳に入っていなかった。

 ──心棒のないコマなんて、そんなものぶっ倒れない方がおかしい。
 ということはつまり、夢月は自身の存在が危うくなるのを承知のうえで同行を申し出たというのか。
 そんなことはあり得ない。
 この機に乗じて暴れたかったのだとしても、彼女はリスクとリターンのバランスを見誤るほど愚かではない。
 しかし、自分が「私ひとりでいい」と言っているのを押しのけてまで同行すると言ったのは他ならぬ夢月である。

「なんで……そんなこと……」

 動機が読めない。
 意味がわからない。
 夢月のことがわからない。
 錯綜する思考に弄ばれ、幽香は人間でいうところの「頭がこんがらがる」という感覚に囚われた。

「どうして分かっていて止めなかったの? 仮にも貴方の妹でしょう」
「えー? 何でって、何でかしら? ねえ?」
「ふざけないで。質問にはまっすぐ答えなさい」

 この期に及んでもおちゃらけた態度を崩そうとしない幻月に、幽香はあからさまに顔をしかめる。
 彼女の苛立ちに呼応するように、周囲の空気がわずかに張りつめた。

「夢月が素直に人の話を聞く子じゃないのは、幽香の方が分かってるでしょ?」
「そうだけど、あの時に貴方が止めておけばこんなことには……!」
「誰が言ったって聞かないよぉ。だって……」

 そこまで言って、幽香は巨大な違和感に気付いて言葉を止めた。
 ──何故自分はこんなにも夢月のことを気にしているのだろうか。
 確かに幻月の言葉が真実なら今の夢月は塩漬けにされたナメクジ同然であり、そう浅くない付き合いの彼女が苦しんでいるとくれば知的生命体として多少の情もわこう。
 だが、自分は事と次第によってはあらゆる他者を撃滅することに躊躇も呵責もない恐るべき大妖怪のはずである。
 その自分がなぜ、たかだか一匹の悪魔が消えそうだからといって、まるで病に蝕まれた友を心配する幼い子供のようにうろたえているのか。最強を目指すかぎりいずれは雌雄を決しなければならない相手のことを、なぜこんなにも考えているのか。

 そして、幽香が答えに辿り着くよりも早く、幻月の口からそれが発せられた。

「悪魔にも友情はあるんだから」
「!」

 アリスの蹴り、幽々子の尻、そしてブリリアントドラゴンボンバーをすべて足してもなお及びもつかない衝撃が幽香を襲った。
 人の命なぞなんとも思ってないだの、侵入者を無事に帰すつもりはないだの、手紙を返してほしけりゃ媚びへつらえだのと
 悪魔的なことばかり言ったりやったりしたくせに、今更どのツラ下げて友情などと言えるのか。
 おまけに友情の矛先がよりにもよってこの風見幽香だというから、ますますわけがわからない。

 友情という感情の存在を否定はしないが、自分と夢月の間にあるものは友情などではないと思っていた。
 客観的に考えて仲がいいのは確かである。そうでなければ好き好んで一つ屋根の下で暮らしたりはしない。
 しかし友情とは、「ただ仲がいい」だけの関係を表す言葉ではない。
 二人を繋ぐのは、よくてただの腐れ縁だと思っていた。

 ──幸せの青い鳥はそこにいる。自分が気付かないだけで幸せはすぐそばにある。

 ふと、そんな使い古された言葉が浮かんだ。すかさず理性が否定にかかる。
 あの夢月が、あの邪悪で残酷で悪魔的なえせメイドが己を犠牲にするなんて、いや、しかし、なぜ、そんな馬鹿な、でも、どうして?
 夢月がついて来たのは暴れたかったからではなく、自分を見守り、万が一の場合すぐ助けられるようにするためだったというのだろうか?

「考えたってわからないよ。好きって気持ちは理屈じゃないもん」
「知ってるわよ……そんなことは……!」

 幽香の煩悶を察したのか、幻月がものすごく乗りにくい助け船を出した。
 自分だって理路整然とした論理に基づいて強さを求めているわけではない。
 わかるから、理屈で片づけられないからこそうろたえているのに。
 まったく予想外の方向から予想外の奴が予想外のものをぶつけてきたから悶えているのに。
 個々の要素は無問題だが、組み合わせ方が大問題。鼻をかんだらひじきが出てきたようなものである。

「幽香様って性格のわりに愛されてますねどわっちゃぁぁぁぁぁぁ! ものすごい熱気がただよっている! エリ──っ! あついよ──っ! たすけて──っ!」

 いやらしい笑みを浮かべながら、肘で幽香を小突くくるみ。
 次の瞬間、彼女がたまたま部屋の片隅に据えつけられていた暖炉に投げ込まれたのは言うまでもない。
 腐っても鯛。いじけてもゆうかりん。ちょっとばかりショボくれているからといって、つけこむ隙など皆無。
 くるみは必死に助けを求めたが、さすがのエリーも素手で炎に挑むのはキツいうえにそもそも炎程度では死なないのでスルーされたのはもっと言うまでもない。

「ばか……夢月の、ばか……」

 呻く。
 他の言葉を見つけられなかった。

「おっしゃるとおり。おい、聞いてんのかこの馬鹿妹ー。自殺行為もほどほどにしろよ、おい」

 ぴくりとも動かない夢月のほっぺたをつまんでこねくり回す幻月。
 肌理こまやかで肉づきの薄い頬がむにむにと縦横無尽にのたうつ。
 それでも目覚めるどころかむずがる様子もない、死んだような夢月の寝顔に、幽香は得体の知れない感情があふれ出してくるのを感じた。

「……そんな顔しないの。ここにいればすぐ元気になるわよ」
「だって……だって……」

 俯く。
 ロリで巨乳なボディの中に、友情という名の熱き血潮を流し込まれてオーバーヒート。
 取り繕えない。強がれない。自分が今どんな顔をしているか、もう自分ではわからなかった。

「アチャピーポ! 間違えました! 感動した!」
「はにゃっ!?」

 そんな微笑ましい光景に水を差すかのごとく、途中から不気味なほど静かだったエリーがシトピッチャンと椅子を蹴飛ばして立ち上がった。
 心の震えは体の震えと言わんばかりの、地震と見紛う武者震い。
 握りしめた拳の周囲の空間が、どういうわけか手の中へ引っ張られるように歪んでいる。
 あふれる紅涙の勢いは、寝そべれば余裕で吸血鬼を通せんぼできそうなくらいナイアガラかつナイル川。

「あちち……やっと暖炉から脱出できたと言ってるそばから椅子が飛んできてダッシャガラガン!」

 くるみが椅子とともに炎の中へ帰っていく。
 『一度あったことは「二度あることは三度ある」という展開に持っていくため自動的に二度目が起こる』とはよく言ったものである。
 このあまりといえばあまりな一連の流れに感銘を受けて作られたのがかの名曲くるみ割り人形であることはもはや言うまでもない。

「自分より大事な人がいる! 命を捨てても守りたい人がいる! まさしく友情! まさしく愛! 甘く切なく美しい、乙女の乙女な心の交錯! このエリー・ザ・マグナム=フェイクブラスト三世、感動のあまりあふれ出す涙が止まりません!」
「あなたそんな名前だったの!? あとそれ涙じゃなくて血!」
「そりゃあんな話を聞かされちゃ血も出るってもんですよ! 下世話な言い方ですけど感動談話として新聞にでも載せれば赤塚賞は間違いありませんね!」
「赤塚賞!?」
「赤塚賞じゃなくて沢村賞だったかもしれませんね! でもそんなことはこの際どうでもいいんです! そう、今一番大切なことは!」

 涙、慟哭、賛辞、妄想、欲望、鼻血、愛、血涙。
 ありとあらゆるものを垂れ流しながら、エリーは従者の発狂を目の当たりにして混乱している幽香の手を優しく激しくひっつかんだ。

「好きで……いや、夢月さんの友情に応えるためにも一意専心練習に励み、明後日の運動会で華麗かつ壮麗に大活躍することです!」
「はぷわ! な、あふ、涙が顔に……! い、息が……!」
「え? ごたくを並べてないで練習につきあえ? これは大変失礼いたしました! ではさっそく!」
「そ、そんなこと言ってな……きゃああああああああああああ!」

 だいぶ言っていることがおかしかったが、感動の波にさらわれて精神的に海難事故真っ只中のエリーは止まらない。
 話を聞かず返事も待たず、顔面に文字通りの涙雨を降らされてひるんでいる幽香を颯爽と抱きかかえると、ドアを蹴破ってどっかに飛んでいってしまった。
 破壊の衝撃で舞い上がった土煙が、流しっぱなしの血涙にからめ取られて散らばることなく地面に帰る。
 ものすごい勢いで遠ざかる幽香の悲鳴を聞きながら、幻月は幽香のことはともかく明後日のお弁当は人肉ひじきまんじゅうがいいなぁなどと鬼のようなことを考えるのであった。
 かわいい悪魔、やっぱり健在。

「さて、幽香はエリーに任せておくとして……私は迂闊な妹のお守りに専念しましょうかねぇ」
「……迂闊で悪かったわね」

 いつの間にか目を覚ましていた夢月が、蚊が鳴くような声で言った。

「あら、起きてたんだ。調子はどう?」
「最高よ……それより、姉さんったら……。人が隠してることをぺらぺらと……お……しえんだもん、なぁ……」
「え、まさかバレてないとでも思ってたの? 幽香だけじゃなくてエリーもくるみも、勿論夢枕獏子ちゃんも知らなかったよ」
「……バレてないじゃないのよ」
「それはともかく! 今はしっかり休んで明後日の運動会に備えること。わかった?」
「ああ……幽香を倒すのはこの私よ……。横取りされ……てたまる……かい……」

 か細い声は少しずつ掠れて弱くなり、虚空に溶け込むように消えた。
 数秒も経たないうちに、夢月は安らかな寝息を立て始めた。死体のような朦朧感はもう感じられない。
 幻月がほほえむ。
 そして妹に布団をかけ直し、自分も目を閉じて、椅子に深く身を預けた。

§  §  §

 一方その頃、エリーに拉致された幽香はというと。

「ももを下げないように! 足を上げて大地を踏みしめてください! すると幽香様の柔肌にスパッツが食いこみ艶かしくも可愛らしいサイレントラインがくっきりと何でもありません!」
「もっと腕を振ってください! おっぱいが揺れて恥ずかしいのは分かりますけど手を振って! 春一番に吹き散らされて風の川をたゆたう桜の花弁のようにおっぱいをブン回……じゃなくて手を振って!」
「それはダメです! スパッツが肌に密着しお尻のラインが浮き出ています! 私の精神衛生上非常によろしくないので今しばらく抑えてくださいお願いします!」

 気持ちだけでいったい何が守れるんだ、とは誰の弁であったか。
 まったくもってその通りであり、心の持ちようが変わっただけで現実も変わるなら何の苦労もない。
 篤い友情に胸を打たれようが一世一代の決意を胸に抱こうが、結局ダメなものはダメで無駄なものは無駄。
 エリーも八方手を尽くして現状の改善に努めたが、幽香の足の遅さが矯正される様子は一向になかった。
 この調子では、運動会という名の処刑台に乗せられる時をただ座して待っているのとなにも変わらない。
 下手の考え休むに似たりとはよく言ったものである。

「きゃっ!」

 もつれた足をほどき切れず、派手にすっ転ぶ幽香。
 これでめでたく本日三百回目の転倒である。
 ちょっとばかり肌を木の板で擦ったからといって幽香に痛みはないし傷もつかない。
 それなのに、いや、痛くも痒くないからこそ、どうしてこんな簡単なことができないのだろうという悔しさと屈辱が募っていく。

 もちろん幽香もただ漫然と足を動かしていたわけではない。
 強敵と対峙する時のように集中して、つむじから爪先までの全神経を走ることに向けている。
 それでも彼女は早く走れなかった。
 まるでからくり人形が「定められた駆動法」によって「定められた速度」で「定められた軌跡」しか描けないのと同じように。

「幽香様……さあ、私の手をお取りください。そろそろ少し休憩して、その後また練習を……」
「……いやよ」
「えっ? い、今なん」
「もう練習やめるって言ったの」

 合法的かつ画期的に幽香の痴態と体をモチモチできる機会を得て、不謹慎とは思いながらも未だかつてないほどウキウキしていたエリーは、これまた未だかつてないほどの衝撃に見舞われた。
 とはいえあの風見幽香が「負けたくないから勝負を降りる」と言い出したのだから、驚くなというほうが無理な話である。

「そっ……そんなぁ! せっかく今まで頑張ったのに!」
「いいわよ、私は一生丘カナヅチで通すんだから。妖怪がイワシャコのまねするなんてくだらないわ」

 そうふてくされ気味に吐き捨てるなり、幽香はそっぽを向いてしまった。
 小さくとがらせた口と歪んだ眉が、言葉より雄弁に「私すねてます」と語っている。こうなるともはやエリーどころか閻魔大王の言うことだって聞きはしない。
 エリーは「走る生物」の例にイワシャコを持ってくるのは知名度の面からいって不適当ではないかと思ったが、そのとりとめのない感想はさらなる危機感によって押し流された。

 確かに生きていくうえでは多少鈍足でも問題はない。
 弾幕ごっこにおいても飛ぶのが速ければいいというわけではないし、本気で殺しあうにしても、そういう時は不意打ちでごんぶとレーザーでもぶちかませば事足りる。

 しかし幽香は今、自身の足の遅さから逃げようとしている。
 時には勝てない相手から逃げることも必要だが、何があろうと己から逃げてはいけないのである。
 自分からの逃避によって得られるのは、あくまでも一時的な安定でしかない。
 障害となっているものが精神的な問題だった場合はなおさらのこと。
 このままでは幽香の心が折れてしまう。

 妖怪にとって精神の磨耗は人間よりも存在の亡失に繋がりやすい。
 そうなったらもはや二度と立ち直ることはできないだろう。
 それだけならまだしも、自ら「負け」を選ぼうとしている今の幽香を、息も絶え絶えな夢月が見てしまったら。

 まずい。これはまずい、非常にまずい。
 今回ばかりは走らなきゃ乳が揺れないでしょうとか言っていられない。
 未だかつてない主の危機を感じたエリーは、一世一代の賭けに出ることにした。

「……その理屈だと、幽香様は兎でもできることができない兎以下の存在ということになりますよ?」

 ──出た瞬間に、世界が凍った。
 
「……エリー?」

 幽香がゆっくりと振り向いた。
 蝋細工のように冷たい瞳で見すえられ、エリーは反射的に死を感じた。
 心臓がある生物なら、ひとつ大きく脈を打つなり止まってしまってもおかしくない強烈な殺気がほとばしる。
 それを真正面から浴びせかけられ、後ずさることどころか一瞬息さえできなくなった。
 幽香を他者と比較して貶めるという、火に油を注いで爆弾を投げ入れ核を撃ち込んだ爆心地に全裸で突撃するような、神をも恐れぬ無謀な所業。
 負けず嫌いは叩いて伸ばせとはよく言うが、同時に挑発するにせよやり方を選べという言葉もある。
 言ってから十秒も経っていないが、その間に消し飛ばされなかっただけでも奇跡に近い。
 それでもエリーは臆せずに続けた。

「やる気がないのでしたら結構です。どうぞ”たかが運動会”からお逃げください」

 言って背を向け、つかつかと幽香から離れていく。足が動いたことに心底感謝した。
 実際のところ、エリーも必死だった。
 背中を抉られるような殺気の波も恐ろしいが、なにより敬愛する主人を見捨てる形になっていることが彼女を苛んでいたのである。

 ──彼女は本当に幽香が好きだった。
 普段は紳士ぶっていいふりこいて、その実周囲のことなどさっぱり鑑みない自己中心的な幽香のことが好きだった。
 自分が中心だからこそ、花も人間も妖怪も、あらゆる生命を平等に扱う──扱い方はともかく──彼女が好きだった。
 良くも悪くも純粋な心と、時折見せる花のような笑顔がどうしようもなく好きだった。

 一歩踏み出すごとに踏みつけられるように痛む胸を押さえ、エリーは歩き続ける。
 冷たい足音が体育館にむなしく響く。
 最初の一歩から十秒も経っていないが、その間に振り向いて謝って愛の告白をしなかっただけでもエリーにとっては奇跡に近い。
 そして針山地獄のような道程を経て、エリーが体育館の入り口に差し掛かったその時、新たな異変が起こった。

「ふぇぇ……」

 ──最初は、地獄の鬼がくしゃみでも我慢しているのかと思った。
 殺されても仕方ない。自分はそれだけのことを言ったし、やったのだから。幽香の手にかけてもらえるだけ幸運だと考えよう。
 現世に別れを告げる覚悟を決めて、エリーは一思いに幽香へと向き直った。

 しかし、そこに待っていたのはある意味地獄よりも凄絶な光景だった。

「な……あ……え、ちょ、な、待……ゆ、幽香様!? ちょ、な、何で……何で泣いてるんですかぁぁぁぁぁぁ!?」
「ひっく……ぐすっ……も……もぉ……やだぁ……うぇぇ……」

 何をやってもうまくいかない。どうやってもうまくいかない。
 頭をひねって考え出した方法と体をいじめて繰り出した渾身の動きをことごとく否定されて、幽香はついに泣き出してしまった。
 これが例えば霊夢と喧嘩をして惜しくも負けたということならば、悔しいことは悔しいがまだ納得もできよう。
 だが鉄をねじ切る腕を持ちながら、岩を砕く脚を持ちながら、永きを生きて知識をたくわえた頭を持ちながら、そしてたっぷりと経験をつんだ心を持ちながら、たかが走る程度のことができない。
 最初から「あなたの限界はここまで」と厳密に設定されているかのような、思いどおりにならない体と現実。わりと自由にやりたいタイプの幽香が、この理不尽な状況に耐えられるはずがなかった。

「ふぇ……こんなの……ぐすっ……ぜったい、えぐっ、うまく、できない、わよぉ……」
「かっ、か……勘弁してくださいよ、こんな……こんな……うおおおおおおおおおおおおおおおおおおーっ!」
「ひゃっ……!?」

 そして、今の状況に耐えられないのはエリーも同じだった。
 傍若無人な主は苦痛にまみれ、健気で優しい従者は快楽に侵され。
 なにもかもが磁石の両極のように対照的な二人だったから、まさしくSとNがひかれ合うようにして、エリーは幽香に抱きついた。

「エ……エリー……」
「そっ、そんな目で見ないでください! そもそも幽香様がいけないんですよ! なんかもうちょっとこう生まれたての赤ちゃんみたいにけたたましく泣き喚いてくれればいいものを、よりによってこんな、その、好きな人ができたんだけどはじめての感情だからどう処理していいかちっとも分からなくて、でも想いだけは日に日に募っていって、真夜中ベッドに入っても思い煩って眠れなくて、結局南極自分で自分が分からなくなってついには涙を流してしまう穢れなき乙女みたいな艶姿を見せつけられたらとてもじゃないけどキープできない! 私は誇り高き夢幻館のゲートキーパーなのに理性という名のゲートをキープできない! それどころか勢いあまって幽香様のヴァージナルゲートをブレイクスルーしてしまってもしかたないじゃない! しかたないじゃない!」

 幽香の肩をガッシと掴み、ぐるぐるドロドロ渦巻く瞳でもって幽香を見つめながらエリーが叫ぶ。
 言葉の波が止まらない。頭の逆回転が止まらない。あふれる想いが止まらない。
 エリーの命を懸けた大博打は、夢幻館最後の良心(まともなひと)である自身の理性を悶死せしめるという考えうるかぎり最悪の結果を招いた。

「や、やめて……ね?」
「~~~~~~ッッ!」

 ここに来て、さらなる緊Q事態が発生した。
 あのッッ! あの風見幽香がッッ!
 「やめなさい」とか「いいかげんにしなさい」ではなくッッ!
 その細く可憐な腕に相応のひ弱な力でエリーの肩をそっと抑えてどこか遠慮がちに「やめて」とッッ!
 そして続けざまに放たれた「……ね?」という弱々しい哀願の言の葉の破壊力はまさに弾幕的花嵐の大銀河でスペクタクルでアンビリーバブル!

「ジャストミ────────────────────────ト!!」

 とっくに錯乱してたエリーもこの空前絶後に青天霹靂で言語道断に天国絵図な反応には萌えると書いてビビったと読んで意味としては劣情を催した!

「おお、お、おもおもおもおもおもおもおもおもおもおもおもおもおっ持ち帰りィィィィィィ!!」
「い、いやぁぁぁぁぁぁ! エリーが壊れちゃったよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!」

 人はギャップに弱いって最初に言ったのは誰なのかしらん、誰なのか知らん。
 それはまさしく真理であり、普段悪魔的な奴が友情を語ったほうが好感度の上がり幅は大きいし、いばり屋がヘコたれれば親しみやすくなる。ずっこける確率だって平地より段差のほうが高い。
 今の幽香は薄氷のナイフである。ガラスのエクスカリバーである。つまようじのグングニルである。湯葉につつまれた核爆弾である。
 「強気なあの子のかわいいところ」というリーサルウェポンの直撃を受けて、エリーの頭の後退のネジが緩んで外れて壊れて消えた。

 その後、めでたく暖炉からの脱出を果たしたくるみとベッドに潰されるというコラテラルなダメージから復活した文が乱入したことによって事態は混迷を極めたが、妹の安眠を守るために幻月がぶっぱなしたレーザーにより、かろうじて幽香の貞操は守られた。
 そしてエリーが幽香に謝ったり、幻月が幽香をなだめたり、幽香をお風呂に入れたり、みんなでワイワイキャッキャと幽香の勝負服を見繕ったり、幽香の体力を回復させるためにごちそうを振舞ったり、天狗の持っていたネガにどういうわけか幽香がロンゲでもんぺだったころが写っていたのでちょっとしたお祭り騒ぎになったりと、まったくもって有意義な時間を過ごしたその結果。
 いつの間にか二度目の夜明けを迎えていたことに、気付いた者はいなかった。

§  §  §

 なんだかんだで紅魔館前である。
 あいもかわらず、目に痛いくらい赤い。昼はまぶしく夜は見づらい、なんとも不憫な色をしている。
 そのかなしい色の館を見るともなく見ながら、夢幻館ご一行様は正門をめがけてノッシノッシと進軍していた。

「せっかくあと一日猶予があったのに、後片付けで潰しちゃうとかスカポンタンにもほどがあるわよ」
「いやぁ、掃除はすぐに終わったんですけどねぇ。幽香様にへばりついた珍妙な液体を落としたりしてたらあっという間に今日ですよ。幽香様は触っただけで悶えるわ、エリーは感動が一周して失神するわでモガモガ」
「……一日中寝てただけの夢月には言われたくないわね。それよりあなた、何でそんなに平然としていられるのよ。夢幻の世界から出たら危ないんじゃなかったの?」

 一昨日のあれは演技だったのかと言いたくなるほど元気で素面な夢月に、幽香が問うた。
 すると夢月は逡巡する様子もなく、悪びれもせずに言った。

「そりゃ言ったけど、そんなの世界ごと動けばいいだけの話じゃない」
「ここで一句……カタツムリ 殻背負ってれば ひからびない」

 姉妹そろって身も蓋もなかった。

「……心配して損したわ」
「え? なんか言った?」
「なにも言ってない!」

 吐き捨てる。
 気付かれたくないのに、気付かないのが気に食わない。
 感情のやり場を探すように、幽香はそっぽを向いた。

「なにはともあれ運動会ですよ! ひさしぶりの晴れ舞台だから思わずやりすぎちゃいそう……ドゥフフ!」

 掌をぱんと打ち合わせて、くるみが気勢を上げた。
 殺人鬼と幼女を足して二で割ったような微笑を浮かべて、日よけの麦わら帽子をくるくると回す。
 一昨日の暖炉風呂で光に対する耐性がついたらしく、強烈な陽光の下においても蒸発する気配はない。
 帽子の影に隠れた口元で、白く鋭い歯がぬらりと煌めく。
 彼女の性格上、チャンスさえあれば「尻がすべった」などとほざきつつ玉入れの玉を対戦相手の尻につめこんで「これがホントの尻子玉!」とかなんとか言おうとしていることは想像に難くない。

「やるだけの事はやったんですから、何も恥じる必要などありません! あとは私たちがカバーします!」

 続いて、エリーが適度に薄い胸を叩いて言った。その衝撃で服の下に隠し持っていた対幽香専用盗撮用品がものの見事にこぼれ落ち、拾い集める間もなく幽香に蹴っ飛ばされてひっくり返る。
 それはそれとしても忠誠心には定評がある彼女のことだから、いざとなれば紅魔館内の床板を遠隔操作して飛来させ対戦相手を撃破してくれるに違いない。

「そうね、幽香が抜かれても私が抜き返してあげるわ。相手の背骨を首ごとな!」

 夢月がアメリカンジョークならぬニンゲンノイノチナンカナントモオモッテナインジョークを飛ばす。
 死の淵から華麗に復活した今の彼女には、やると言ったらやるスゴ味と覚悟があった。

「夢枕獏子ちゃんも応援に来てくれるって言ってたから、今日は頑張ろうねー」

 いつもと変わらず適当で曖昧で、なにか母性のようなものを感じさせる調子で幻月が言った。
 柔和な微笑みが野に咲く花のようにほころぶ。

「みんな……」

 家族で、友達で、仲間で、時にはライバル。そうさみんなはもう一人……いや、四人の幽香自身。
 強敵(とも)の温かい言葉に包まれて、幽香は不覚と思いながらも胸の奥から何かがこみ上げてくるのを抑えられなかった。

「──ふんっ。あなたたち、誰に向かってものを言っているつもりかしら」

 自分が今どんな顔をしているかすぐにわかったから、幽香は四人に背を向けて、早口でそう言った。

 たとえかけっこでドベになっても、二人三脚でずっこけても、玉入れで一個も入れられなくても、リレーで手を滑らせてバトンを夢月の鼻の穴にぶっ刺してしまったとしてもそれは真の敗北ではない。
 たしかに、”運動会”という形のうえではあの吸血鬼や剣士に負けるかもしれない。
 一歩間違えればどこぞの夜雀や氷精にまで負けるかもしれない。
 だからといって未来永劫そのパワーバランスが変わらないとは限らないではないか。
 兎と亀のたとえを引用するまでもなく、真の勝者とは終着点に着くまでわからないもの。
 目先の小さな浮き沈みに囚われて大局を見失うなど愚の骨頂である。

 今は雌伏の時。
 依然として幽香の足は遅い。ふざけるなと言いたくなるくらい遅い。
 みんなに追い抜かされてびっくりされたり笑われたり、もしかすると馬鹿にされるかもしれない。
 それがこの先に待ち受ける情け容赦のない現実なのだろう。
 ただ、身体がその非情なる現実に屈しても、心だけは折れないように。くじけないように。

「私は、これまでも……そしてこれからも……」

 幽香はそこで言葉を切ると、一歩前に踏み出してからゆっくりと夢月たちの方へ振り返った。
 微かに歪む口元は、どこか「走るのが恥ずかしい」などという細かいことに拘泥していた自身をあざ笑っているようでもあった。
 そして、傍目にはそれと分からないくらい小さく息を吸い──

「絶対誰にも負けないから」

 誓うように言った。

 ──そう。
 私は風見幽香。
 泣く子も黙り花も恥らう、最強のオリエンタルデーモン。
 最強とはつまり負けないこと。そして、負けたと思うまで妖怪は負けない。
 この先何があったとしても、その悔しさをバネにして、いつか必ずどいつもこいつも追い抜いてやる。

「あーあ、そんなデカいこと言っちゃって大丈シャバァ! ……うん、大丈夫みたいですね」
「失礼ですが、それくらい言われなくてもわかってます。……ええ、わかっておりますとも!」
「フッ……そうね、あなた強いもんねぇ」
「まぁ、期待させてもらいますよ」
「フフフ……さあ、そこな門番! ここの主に風見幽香が来たと伝えなさい! 運動会でもなんでもまとめてかかって来るがいいわ!」

 幽香はズバっと門の方に向き直ると、受付らしき胸のでけぇ少女めがけて声高らかに言い放った。
 もう迷わない。失いかけたものを取りもどして、新たな力を手に入れたから。
 その勇姿はまさしく豪傑、まさしく威風堂々、まさしく史上最強無敵のクールなチャンプ。
 今の幽香に死角はない。たとえどんな攻撃を、どんな現実を叩きつけられようと……

「そのことなんですが……運動会は晴天につき中止となりました」
「「「「「ジュジャジャジャジャジャジャバァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ!」」」」」

 耐えられなかった。
 衝撃的などという生易しい言葉では及びもつかないほど衝撃的な真実に、それぞれ滑って転んでひっくり返って成層圏までかっ飛んでいって目から赤外線ショットを発射して、と五者五様の華麗な反応を見せた。
 どれが誰の反応なのかとはバイト数の都合、ではなくプライバシー保護の観点からはぶく。

「これはショックだわ……これはきっついわ……これはキラメキ・トキメキ・二十一世紀だわ……」
「なっ、なんで!? 何そのマジ切れした時の幽香でも尻尾まいて逃げ出しそうなくらいエゲツないフェイント、ふざけてるの!?」
「こ、こんな幕切れっ……これじゃ幽香様に履かせるため出発前に音速で作り上げた汗を吸い込むと透けるというオーバーテクノロジー満載のスーパーウルトラセクシースパッツが台無しじゃないですか!」
「何よもうレミリアったら、四百年くらい会わない間にふぬけちゃって! この程度の日光で外に出られないなんてどんだけヘタレてるのよぉ!」
「そ、そう言われましても……吸血鬼は普通太陽の下じゃ活動できないんで、ご了承くださいとしか……」
「これはッ! よりにもよってこんな時だけイケシャーシャーと正論三昧! これぞまさしく悪魔の所業!」
「そうよ! 計画はすぐさま実行に移されて会場の設営やら競技の選考やら招待状の送付やらの作業は滞りなく進行していき、どこぞのパパラッチの協力を得て幻想郷中にばら撒かれた招待状は人妖の区別なくあらゆる者の手に渡って、ある者は期待をまたある者は野望をとそれぞれの思いを胸に来るXデイに向けて着々と準備を進めていたんじゃないの!? それを──それをさあ、こんな情けも容赦も風情も情緒もなく即刻無残に晴天中止だなんてさあ……!!」

 ひっくり返ったまま三点倒立の姿勢を保持しているくるみと、どういうわけか未だに目から赤外線の残滓が漏れ出している夢月が美鈴に詰め寄った。
 あんなに幽香が頑張ったのに、あんなに苦しい練習をくぐり抜けたのに、今更中止にされてはたまったものではない。

「いえ、まあ、晴天中止っていうのが異常なのは分かってますよ? だからこそ前もって招待状に書いておいたんですから」
「なんですって!?」
「たしか胸の間にしまっておいたやつが……」

 どうぞ、と差し出された招待状をひったくる夢月。
 よくよく見てみれば、そこには確かに「晴天中止」という言葉が記されていた。
 そう、夢月はガラにもなく慌てていた幽香をいじくり回しただけで加虐心が満たされてしまい、他の部分をすっかり見落としていたのである。
 ちなみにその招待状は今の今まで美鈴の乳に挟まれていたためか原理不明の母性あふれる後光を放っているのだがそれはこの際どうでもいい。

「へあぁぁぁぁぁぁ! 眼が! 腕が! 足が! は、破滅の光が五臓六腑に優しく激しく染み渡るぅぅぅぅぅぅ!」

 どうでもよくなかった。
 うっかりその光を直視してしまったくるみが、たんぱく質の焼ける匂いをふりまきながらびっちゃらびっちゃらのたうちまわる。
 その勇ましくも官能的な姿は海棲性生物のミドル級王者たるマグロが水揚げされた際に見せる勇姿に勝るとも劣らない。
 二度あることはてなもんや三度笠とはよく言ったものである。

「マグナムフェイクブワッシュウ!」
「幽香様!」

 そしてかなしいことは続く。
 てんやわんやの大騒ぎが収まる気配を見せぬ中、さきほど成層圏までかっ飛んでいった幽香がようやく帰ってきた。
 正直帰ってこないほうが穏やかな人生を送れたであろうに、さすがの幽香も重力には逆らえない。正確には逆らえるけどこういう場合は受身も取らずに落ちるのが礼儀なので逆らわない。
 滑って尻を打っただけなので比較的ダメージが小さかったエリーが、一も二もなく主の下へ駆け寄って抱き起こす。

「ご無事ですか幽香様! しっかりしてくださ……」
「うふ、うふふふふふ……うふ……うふふ、うふ、うふふっ、うふふふふ……ウフ……ウフー、くまの子ウーフ、ウフフゥ……」
「ゆ、幽香様……?」
「ふふ……うふふ……そうね……普通出られないわよね……あは、あはははは! そうよねぇぇ! あはは! あはぁは!」

 が、その瞬間、エリーの全身を強烈な悪寒が駆け巡った。
 それは言うなれば蛇に睨まれた蛙のような、圧倒的な存在を前にして萎縮する弱者の風情。
 その原因が己が主の発する妖気であることに気付くまで、まったく時間はかからなかった。

「巫山戯たことばかり……言ってるんじゃないわよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!」
「わひゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」

 エリーの肩に手をかけて、ぶおんと彼方に投げ飛ばす。
 ついさっきまでは勇者のように輝かしかったその顔は、いまや悲哀と怒りの混合物に満たされていた。
 可憐な唇が上弦の月のように裂け、両の瞳に燃えていた焔が消え失せる。
 ──何を悩んでいたのだろうか。 何を迷っていたのだろうか。
 せっかくの運動会だから暴力沙汰は控えめにして頑張ったのに、自分のやり方を曲げる必要などどこにもなかったと言うのだろうか。

「そりゃあねえ! 確かにねえ! 吸血鬼は太陽が出ていると思うように動けないのは言われるまでもなくわかってるけどああもういいわよよくわかったわ! そんなに陽の光が嫌いならお望みどおり二度と太陽が沈まないおまじないかけてやるわよ! てぇーるてーるぼーうずーてぇーるぼぉーおずー! あーしーったてーっんきーにハーレルヤ! ハーレルヤ! ハレルーヤ! ルーヤ! ルゥヤー! ルゥヤールゥヤールゥヤァールゥヤァー! フロォーィテェーシェーネェー! ゲッテールフンケン! トッホテェールアーウス! エッリィィィィィィッジウムゥゥゥゥゥゥ! 今ー日ーかーらーイーチーバーンかーっこーいーいーのーだー! バーリーバーリー最ー強ーナーンーバーワァァァァァァァァァァァァン!」
「幽香が壊れたぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 初夏の幻想郷に、少女たちのほがらかな笑い声が響く。
 天気明朗にして空高く、きらめく水面に魚が跳ねて、紅魔湖畔の妖精がかわいい花と戯れている。
 それはどこまでも穏やかで、強さなんてバカらしいよと、それは血を吐きながら続ける悲しいマラソンだよと教えてくれる大自然の意志の顕現。
 優しさは時には戦うことだと誰かの背中も言ってるけれど、裏を返せば優しさの大部分は戦わないこと。
 あえて逃げることで、引くことで、そして負けることで守れるものもある。
 
 かくして、幽香の無敗伝説(うしないかけたもの)は守られ。

「おーい、みんなー! やっほー!」
「あー熱かった……って、むむっ! あれに見えるは夢幻館の近所に住んでる棒持ち妖怪のオレンジさん!」
「ごめんね遅くなって! このオレンジさんとしたことがついうっかり寝過ごしちゃったよ! それより見てこの千羽鶴ならぬ千人てるてる坊主! なんでも今日は運動会だっていうもんだから三日間徹夜して作ったの! こんなにいい天気になるなんて苦労した甲斐があったってもんだよ……って、あれ、どうしたの? 何そのローテンション? こんな絶好の運動日和にそんなんじゃお天道様に笑われ……のわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!? ちょ! ちょ、待っ! 何!? 何で撃つの!? 私何か変なこと言った!? それともした!? な、何で!? え!? 何この近年まれに見るおぞましき仕打ち!? う……ぎゃああ──っ! ごが、ごががあっ! い、いてええ──っ! おぐ、おぐう! ごんぶとレーザーは……超いてええ────────────────っ!!」

 白星(あたらしいもの)をひとつ追加して、事件の幕は降りた。

ゆりかもめで
うみべのまちへ
かいものにいったら
りすにいとを盗まれて
んんんんんー! 許るさーん!
下っぱ
http://www7a.biglobe.ne.jp/~snmh/
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コメント



0.1440簡易評価
1.100名前が無い程度の能力削除
読んでる途中で中止オチは予想されましたが、
晴天中止とは成程w
ともあれ完結おめでとうございます。
4.80名前が無い程度の能力削除
お疲れ様です。

ゆうかりんが苛められてのを見れて幸せでした。
10.100名前が無い程度の能力削除
第九→バリバリ最強No.1のコンボに爆笑しました。

完結お疲れ様です。
15.90名前が無い程度の能力削除
完結お疲れさまでした。

……ところで、こりゃあ何だ(褒め言葉
19.100名前が無い程度の能力削除
迂闊にも忘れてしまった上・中編を読み直してまいりました。

しばらくぶりでキレはどうだろうと思ってみたらいらぬ心配のようで。

読めばそれだけ言葉の節々に込められたネタが滲み出てくる、音読すればなおよし、な文章はいつ見ても素敵です。いや、もちろん実際に音読なんてできませんがww



ともあれ、完結お疲れ様でした。
21.80ぐい井戸・御簾田削除
晴天中止!そういうのもあるのか
24.90A削除
なんだい!?このオチはなんだい!?(褒め言葉

いやぁ、お疲れ様でした!
30.100名前が無い程度の能力削除
素晴らしい幽香でした。
夢幻姉妹を見れるのもこの作品くらいなものだっただけに、完結が名残惜しいです。

「悪魔にも友情はあるんだから」

ゆでたまご先生!?
37.100名前が無い程度の能力削除
ゆうかりんにはぜひ素直ないい子になってほしい。
39.100名前が無い程度の能力削除
いい、実にいい夢幻館でありました。
43.100名前が無い程度の能力削除
幽香ちゃんが振り回されるのが可愛くて
夢月様の友情にも胸熱でした
夢幻館サイコー