静かな森の中は、魔法使いが住むのに適している。
誰も来ないような奥地であれば、何日も閉じこもって研究を続けていても、誰も気にすることはない。
更に付け加えるならば、誰も来ないのだから邪魔されることもない。
問題があるとすれば、危険な実験を行う際だ。
失敗して窮地に陥っても誰も助けてくれない。誰も来ないのだから。
彼女はそんなメリットとデメリットを天秤にかけ、その場所に住んでいる。
似たような考えかどうかはさておいても、近くにもう1人魔法使いが住むことになるとは思わなかったが。
だが、彼女の考えとは裏腹に、彼女の住まいは比較的人里との距離が近かった。
稀に迷い込む人間は、暗く静かな森の中で彼女の家を見つけると、決まって扉をノックする。
避難さえ出来れば、妖怪に襲われるかもしれないという不安から、一時的にでも解放されるからだろうか。
彼女は妖怪ではないし、人に対する情やら何やらも捨ててはいない。
積極的に仲良くなろうとしている訳ではないものの、わざわざ人との関係を悪くすることもないため、受け入れることに抵抗はない。
その日も控えめにドアをノックする音を耳にした時は、また誰かが迷い込んできたのだろうと彼女は考えていた。
(……子供か女性ってところね)
玄関に向かう最中、どのように出迎えるかを考える辺り、彼女とて場数を踏んでいる。
小さい子供であれば、自慢の人形達に相手をしてもらえば大抵は事足りるし、女性であれば紅茶とお菓子の用意くらい容易い。
そんなことをぼんやりと考えながら、彼女は錠を外してドアを開く。
「……あら?」
目の前に広がるのは、いつもと同じ代わり映えのしない森の風景。
と、不意に彼女のスカートが引っ張られた。
「こっちこっち」
「あ――」
引かれるままに視線を下に向ければ、たくましく天を向く空色の髪。
その幾分特異な髪型の者を、どうして忘れられようか。
更に下に咲くのは、無邪気な幼子のような笑顔。彼女と目が合うと、その人物は陽気に口を開いた。
「久しぶりね、アリスちゃん。元気にしてた?」
「母さんっ!?」
彼女――アリスの腰元の辺りで笑う訪問客。
一見すると子供にしか見えないその人物こそが、魔界の創造神でありアリス達魔界の住人の母、神綺なのだ。
「――で、突然どうしたのよ。今日は何かの記念日でもないし、誰かの誕生日でもなかったはずだけど」
湯気を上げるティーカップの向こうでは、暖かいクッキーを幸せそうに頬張る母の姿。
年相応という言葉は、人や妖怪が共存する幻想郷においては通用しない。
彼女とて魔法使いである。老化を止める捨虫の魔法があることも知っているから、それは理解出来ている。
――だが、どういう訳か彼女には目の前の母が異様に幼く見えていた。
かつて同じ時間を過ごしたこの母は、こんなに小さく無邪気だったのだろうか。
「アリスちゃんが心配だったから来ちゃった……って言ったら怒る?」
「そんな……別に怒らないけど、母さんが魔界を離れて平気なのかなって。それに、姉さん達も大変なんじゃ」
香りの向こうから返された問いに、アリスは少し言葉を詰まらせた。
心配されていることは嬉しいのだが、それはそれで別な問題がある。
そうおいそれと自らの世界を離れられるほど、神というものは軽々しくないはずだ。
何がきっかけで天変地異が起こるかは解ったものではない。
だが、心配顔のアリスに対し、神綺は困ったような笑いを浮かべた。
「大丈夫大丈夫。夢子ちゃん達だって、私がいない間くらいの留守番は出来るわよ。
むしろ『普段頑張ってる分、羽を伸ばして来て下さい』って言われちゃったくらいなんだから」
アリスの脳裏に目の前の母以上に母らしく、身に纏うメイド服が語るが如く家事全般を取り仕切る、魔界人最強クラスの姉の姿がよぎる。
いつも側に控える彼女にそうも言われては、神綺としても従わざるを得なかったのだろう。
「けど、ここまで来るの大変じゃなかった?」
「大変だったのよ。最近の妖怪は飛ぶのが早くて、逃げるのに結構苦労しちゃった」
さらりと返されたその言葉に、アリスは複雑な表情を浮かべた。
この母は一つの世界を作り上げた神である。
その実力を知らない訳ではないが、アリスから見ても小さいその姿を見れば、やはり心配にもなる。
もっとも、あまりに強大な力を振るえば、友人の巫女に異変と勘違いされ、対峙することになるかもしれない、という逆の心配もあるのだが。
が、子の心親知らずと言った所か、神綺は構わず続ける。
「まあ、妖怪っていっても変わった子だったのよ。だって、見つかった時の第一声がとっても丁寧だったの。
『――見かけない方ですね、取材させて頂いても宜しいですか?』って」
丁寧口調で取材を申し込む妖怪。
あまり人脈があるとは言えないアリスであったが、その妖怪には心当たりがある。
その行動に加えて飛ぶのが早いと言うのなら、本人でなくても種族は近いだろう。
「新聞記者さんだったみたいだけど、やっぱり凄かったわよ。
断っても引き下がってくれないし、逃げようとしてもすぐに追い付かれちゃった」
「まあ……そうよね」
「やっぱり足で稼ぐ子達は違うね。挙げ句にびしっと指差して
『私と鬼ごっこするには、速さが足りませんよ?』って言われちゃったくらいだもん」
僅かに虹のような光を反射する黒翼で、友人と最速を競う天狗の姿が目に浮かぶ。
紅茶に口を付けたアリスは、何となく聞いて欲しがっている神綺の希望を察して続きを促した。
「それで大人しく捕まっちゃったものだから、落ち着いて話せる場所に行きましょうって誘って、地上に降りたの。
そこでまあ、こんな感じに」
ぱちんと指を鳴らす神綺。
小さな変化ではあったが、突然のことにアリスは、危うく飲んでいた紅茶を吹き出しそうになった。
神綺の目の前にある、未だ口を付けていないティーカップ。
そこから、アリスにとってやけに見慣れた形が盛り上がってきたからだ。
重力に反して己の意志を通すかの如く天を向くそのたくましさは、さながら向日葵のよう。
その下にあるのは、目の前の母と瓜二つの顔。
違うのはその色。確認出来る控え目な胸元から髪先まで、染められているのはミルクティーの乳白色。
どうにか平静を保ってカップを置いたアリスに、揃いの笑顔が向けられた。
「木を隠すには森の中ってね。『私』を隠すのなら『私達』の中にって所よ」
単色の笑顔が沈み込むと、ようやく神綺はカップに口を付けた。
例え見た目は小さくとも、魔界という世界を作り上げた神である。彼女にとっては、この程度のことなど造作もないのだろう。
「……母さん、食べ物で遊ばないの」
「ふふ、そうね。実際には土や水を使ったし、数ももっと多くてちゃんと似せたんだけど」
「まあ、そうでもしないと撒けないでしょうね」
きっと神綺が創り出したのは、わらわらと群れをなし、見分けのつかない容姿で動いてみせる小柄な泥人形。
一瞬でそれだけのことをやってしまえるのは、流石とでもいうべきか。
何にせよ、こうしてここにいるのだから上手くいったのだろう。
「あーでも、受けてあげてもよかったかな。神様だって信じてくれなかったかもしれないけど」
「どうかしら。最近では外の世界で信仰されなくなった神様が、神社ごと引っ越してきたって話だけど?」
「あ、そっか。こっちは多神教なのね。やっぱり受けておけばよかったあ」
重力に屈し、だらしなくテーブルにへたりこむ神綺。
そんな母の神らしからぬ様子に苦笑し、空になったカップに紅茶を注いでいくアリス。
そんな中で、小さなあくびが彼女の耳に届いた。その元は言うまでもなく目の前に。
「……夢子姉さんがああ言ったの、解る気がするわね」
「ふえ?」
「母さん疲れてるんでしょ、自分でも気付かない程度には」
身体を起こし、むー……と首を傾げる魔界神。その仕草もやはり子供っぽい。
若く見えるのは女性にとって喜ばしいことではあるが、幼く見えるのはどうなのだろうか。
「そうでもないかな。まあ、何か作ったのも久しぶりだったからかも」
「少し休んでいったら?
部屋数ならあるし、別に使っても構わないような部屋だし」
「んー……アリスちゃんが添い寝してくれるなら♪」
「上海くらいなら貸してあげるわ」
「――ふう」
一人暮らしの家にしては、アリスの家はそれなりに部屋数がある。
使われない部屋でも手入れが成されていないわけではなく、人形達によって日々清潔に保たれていた。
もっとも、使われる事があったとしても、たまの来客が一夜を明かすだけなので、そうそう汚れることがないのだが。
雲のようなふかふかぶりを遺憾なく発揮したベッドは、かの魔界神を容赦なく夢の世界に引きずり込み、快楽に蕩けた寝顔を浮かべさせていた。
その腕の中には金髪の人形が。アリスとしては冗談を冗談で返したつもりだったが、どうやら真に受けられてしまったらしい。
ならば冗談だと思った言葉も、まるごと嘘ではなかったのか。
「シャンハーイ?」
「ん……大したことじゃないわ。それよりも、起こしちゃ駄目だからね」
主の妙な表情に問い掛けた上海人形だったが、アリスが口元に指を当てると黙って頷いた。
子供が親に似るのは道理。
創られた者が創った者に似るのも――まあ、同じこと。
人形達の製作者アリスは、人形達の母親とでも呼べるだろう。
だから人形達は多かれ少なかれ、どこかしらアリスに似ているのだ。
「……本当に、母さんったら」
今の上海人形は、アリスの代わりに添い寝をしているようなもの。
それでもその寝顔は、聖母とでも言うべき穏やかさと幸せを含んでいる。相当に緩んではいるが。
さらに付け加えるならば、異様な幼さもそこにあるのだが、指摘すると怒るだろう。それも可愛らしく。
――魔界という世界そのものの創造者、魔界に生きる全ての命を創り出した女神。
そんな果てしなく遠いような肩書きを持つ目の前の母は、今はこんなに近くで睡眠という天国に浸っている。
その近さは、自らが成長したこともあるのだろうか。
神綺が完全に眠っているのを確認したアリスは、ベッドから離れると部屋を後に――
(――ちょっと待って)
急に雷光のような閃きが意識に走り、彼女は踵を返した。
凝視するのは、神綺と彼女が寝ているベッドと、上海人形。
急なその行動に首を傾げる上海人形ではあったが、アリスはなんでもないとばかりに笑い返す。
それでも彼女の目は笑っておらず、持ち前の観察眼を全力で発揮し続けていた。
(まさか……)
馬鹿馬鹿しい発想ではあったが、今彼女の中にある仮説は決して無視出来るようなものではなかった。
張り詰めた表情のアリスは、今度こそ音を立てずに部屋を後にする。
静かにドアを閉めると、彼女の所へ1体の人形がふよふよと飛んできた。
「ホラーイ?」
「ええ呼んだわ蓬莱。中には上海がいるけど、蓬莱はここで待機してて。
そして、母さんが目覚めたら私に知らせて頂戴」
蓬莱人形に指示を出すと、アリスは銀色の魔糸を取り出し、器用に結んで両端に輪を作った。
片方をドアノブに掛けると、蓬莱人形は嬉々としてもう片側を自らの首に通す。
「じゃあ、頼んだわよ」
「ホラーイ」
ドアノブで首を吊る蓬莱人形は、その妙な状態にも構うことなくアリスを見送った。
足早に向かうその先は、たまに使う書斎。
紅魔館の魔女程ではないにせよ、相応の資料ならば彼女も持ち合わせているし、考えを纏めるにはいい場所である。
彼女の瞳に宿っていたのは、澄み渡るような知性の光。そして、一抹の不安だった。
「……もうこんな時間なの?」
目を覚ました神綺は、窓から差し込む西日を目にして、予想以上に熟睡してしまったことに気が付いた。
エプロンに袖を通し、オーブンから焼きたてのクッキーを取り出していたアリスは、そんな母に振り返り、笑いかける。
「それだけ母さんが疲れてたってことでしょ。それに、寝過ごしてまずいことでもあるの?」
「あるわよ。晩ご飯までに帰るって言ってきたから、あまり遅いと夢子ちゃん達が大挙して探しに来ちゃうかも」
硬質な音がするかのように、アリスの笑顔が凍り付く。
かつて、魔界の者が大量に幻想郷に来てしまい、少々いざこざが起こったことがある。
その際の事は2人とも覚えている……というよりは、実際にそのいざこざに巻き込まれたのだから、忘れる訳もない。
時間が経ってはいるものの、当時を覚えている妖怪がいないとも限らないし、また何かあってもそれはそれで困る。
「……えっと、まだ時間はあるわよね?」
「うーん……大丈夫だとは思うけど」
「なら待ってて。お土産のクッキー、すぐに包んじゃうから」
小さな紙箱と包装紙を抱えた何体かの人形が、彼女の手元にやって来て、助手のように手渡しする。
実際に包んでいるのはアリスだけだが、そんな人形達の様子を見て、思わず神綺は目を細めた。
「母さん?」
「ん。昔はグリモワールを抱き抱えるくらい小さかったのに、アリスちゃんも立派になったんだなあって」
「……今の母さんくらい小さかったとは思わないけど」
「それだけアリスちゃんが大きくなったのよ。いつか子供は、親を追い越してくものなんだから」
幻想郷一の器用さと称される指先は伊達ではない。
程なくして手作りクッキーには可愛らしいラッピングが成され、神綺に手渡された。
そして返される、母らしからぬ無邪気で幼い笑み。
「ねえ、母さん」
「なーに?」
日に何度も見れば、いい加減そのギャップにも慣れるものだ。
しかし、彼女の見た目の幼さこそが、今のアリスにとっては問題だった。
「……今の母さんって、ちゃんと信仰されてるの?」
外界での信仰を失い、神社ごと山の上に神様が引っ越してきたのは先日のこと。
その件に関してアリスが知り得ることは、ほとんど友人からの伝聞である。
――曰く、一柱は人でありながら奇跡を操る現人神。
――曰く、一柱はしめ縄を背負う猛々しい山の神。
そしてもう一柱は、人々に名前すらも忘れられた、幼女のような神だったとか。
信仰を失った神は、一緒に力も失ってしまうという。
信仰がない状態で幻想郷に来て、その上で友人達と弾幕の応酬を繰り広げるのだから、それなりの余力はあったのだろう。
だが、注目すべきはそんなことではない。
最も信仰を失っているであろう名前を忘れられた神が、幼女のような姿をしていたということだ。
信仰を失くした神が幼くなる、という確証はない。
比較になるかは別だが、信仰されているであろう人里に現れる穣りの女神は、自分とそうは変わらない。
だが――記憶の中の母は、世界を包み込むような慈悲に溢れ、もっと大きかったはずではなかっただろうか?
しかし今ではこんなに小さくなっている。それは母に対する信仰が減っているからではないだろうか?
それは突飛な発想かもしれない。
曖昧な主観と伝聞を元にした、冗談にしても笑えない推測かもしれない。
だが、気付いてしまった以上はその考えを振り払うことは出来なかった。
信仰を失って何も出来なくなることは、神の死に等しいと聞いていたから。
「うーん。フリフリの可愛い服でも来て、キラキラした魔法でも使えば信仰なんてあっという間に――っ!?」
「私は真面目に聞いてるんだけど」
「うう……ごめん」
ぴょこんと飛び出たサイドテールが無表情で引っ張られると、神綺は途端に涙目になった。
人形のよう、と称される整った容姿のアリスではあるが、本当に人形のように表情を動かさずにいると、それはそれで妙な迫力がある。
「それで、母さん。結局の所はどうなのよ。
信仰を失って来ているからそんなに小さくなってる……違う?」
茶化した母に改めて向かい、自らの推論を限りなく直球でぶつける。
真っ直ぐに向けられる眼には、誤魔化しを許さない固い意志の光。
真剣なアリスのその様子に、神綺は一転して大人びた、穏やかな笑みを返してみせた。
「――いつか子供は、親の手を離れて自分の足で歩いていくものよ。
世界だってそう。いつかは私が支えなくても済むようになるわ」
不意に見た『母』の表情。それこそまさに、記憶の中の女神の微笑み。
「親離れは必ず起こるものだし、それを悪いとは言わないわ。寂しいけどね。
でもやっぱり、子供達が立派になっていくのを見るのは嬉しいのよ」
「母さん……」
「やっぱり、アリスちゃんは私に似て心配性ね。
……大丈夫よ。まだまだ私がやらなきゃいけないことなんていっぱいあるんだから。
それにね、いつだって『お母さん』は強く在る者の代名詞なのよ」
小柄ながらも、頼もしく胸を張る神綺。アリスも人形達の母であるが、やはり年季が違う。
例え見た目が幼くとも、やはりこの母は魔界全ての母なのだ。
「じゃあ、そろそろ行かなきゃ。本当にみんなが心配しちゃうかも。
今日はありがとうね。お茶も美味しかったし、クッキーもご馳走様」
「待って!」
空と世界は黄昏色に染められ、いずれ境界の紫を経て空は夜の藍色で満たされる。
魔法が解ける前に帰らなければならないシンデレラを引き止めるのは、人形遣いの魔法使い。
「――私は母さんのこと、絶対に忘れたりなんかしないからね。
どれほど魔界が都会だからって、姉さん達だってそれは同じなはずよ」
「うん……みんなもそう言ってくれたわ。ありがとう、アリスちゃん」
流れ星が願いを叶える、とは誰が言った言葉だったのだろうか。
神綺が帰り、普段の静けさを取り戻した家の中で、アリスはふとそんな事を考える。
窓から見える夜空。その遥か遠くの方には、いくつかの煌く輝きが見えたからだ。
人か妖怪かは知らないが、きっと弾幕ごっこでもやっているのだろう。
森の中の彼女の家から見えるのだから、それはもう盛大に。
――だが、その正体に察しが付いていても、アリスは祈りたかった。
遠く離れた故郷に住まう、母や姉達の幸せを。
多くの星が流れる幻想郷という世界は、やはり優しい世界なのだろう。
誰も来ないような奥地であれば、何日も閉じこもって研究を続けていても、誰も気にすることはない。
更に付け加えるならば、誰も来ないのだから邪魔されることもない。
問題があるとすれば、危険な実験を行う際だ。
失敗して窮地に陥っても誰も助けてくれない。誰も来ないのだから。
彼女はそんなメリットとデメリットを天秤にかけ、その場所に住んでいる。
似たような考えかどうかはさておいても、近くにもう1人魔法使いが住むことになるとは思わなかったが。
だが、彼女の考えとは裏腹に、彼女の住まいは比較的人里との距離が近かった。
稀に迷い込む人間は、暗く静かな森の中で彼女の家を見つけると、決まって扉をノックする。
避難さえ出来れば、妖怪に襲われるかもしれないという不安から、一時的にでも解放されるからだろうか。
彼女は妖怪ではないし、人に対する情やら何やらも捨ててはいない。
積極的に仲良くなろうとしている訳ではないものの、わざわざ人との関係を悪くすることもないため、受け入れることに抵抗はない。
その日も控えめにドアをノックする音を耳にした時は、また誰かが迷い込んできたのだろうと彼女は考えていた。
(……子供か女性ってところね)
玄関に向かう最中、どのように出迎えるかを考える辺り、彼女とて場数を踏んでいる。
小さい子供であれば、自慢の人形達に相手をしてもらえば大抵は事足りるし、女性であれば紅茶とお菓子の用意くらい容易い。
そんなことをぼんやりと考えながら、彼女は錠を外してドアを開く。
「……あら?」
目の前に広がるのは、いつもと同じ代わり映えのしない森の風景。
と、不意に彼女のスカートが引っ張られた。
「こっちこっち」
「あ――」
引かれるままに視線を下に向ければ、たくましく天を向く空色の髪。
その幾分特異な髪型の者を、どうして忘れられようか。
更に下に咲くのは、無邪気な幼子のような笑顔。彼女と目が合うと、その人物は陽気に口を開いた。
「久しぶりね、アリスちゃん。元気にしてた?」
「母さんっ!?」
彼女――アリスの腰元の辺りで笑う訪問客。
一見すると子供にしか見えないその人物こそが、魔界の創造神でありアリス達魔界の住人の母、神綺なのだ。
「――で、突然どうしたのよ。今日は何かの記念日でもないし、誰かの誕生日でもなかったはずだけど」
湯気を上げるティーカップの向こうでは、暖かいクッキーを幸せそうに頬張る母の姿。
年相応という言葉は、人や妖怪が共存する幻想郷においては通用しない。
彼女とて魔法使いである。老化を止める捨虫の魔法があることも知っているから、それは理解出来ている。
――だが、どういう訳か彼女には目の前の母が異様に幼く見えていた。
かつて同じ時間を過ごしたこの母は、こんなに小さく無邪気だったのだろうか。
「アリスちゃんが心配だったから来ちゃった……って言ったら怒る?」
「そんな……別に怒らないけど、母さんが魔界を離れて平気なのかなって。それに、姉さん達も大変なんじゃ」
香りの向こうから返された問いに、アリスは少し言葉を詰まらせた。
心配されていることは嬉しいのだが、それはそれで別な問題がある。
そうおいそれと自らの世界を離れられるほど、神というものは軽々しくないはずだ。
何がきっかけで天変地異が起こるかは解ったものではない。
だが、心配顔のアリスに対し、神綺は困ったような笑いを浮かべた。
「大丈夫大丈夫。夢子ちゃん達だって、私がいない間くらいの留守番は出来るわよ。
むしろ『普段頑張ってる分、羽を伸ばして来て下さい』って言われちゃったくらいなんだから」
アリスの脳裏に目の前の母以上に母らしく、身に纏うメイド服が語るが如く家事全般を取り仕切る、魔界人最強クラスの姉の姿がよぎる。
いつも側に控える彼女にそうも言われては、神綺としても従わざるを得なかったのだろう。
「けど、ここまで来るの大変じゃなかった?」
「大変だったのよ。最近の妖怪は飛ぶのが早くて、逃げるのに結構苦労しちゃった」
さらりと返されたその言葉に、アリスは複雑な表情を浮かべた。
この母は一つの世界を作り上げた神である。
その実力を知らない訳ではないが、アリスから見ても小さいその姿を見れば、やはり心配にもなる。
もっとも、あまりに強大な力を振るえば、友人の巫女に異変と勘違いされ、対峙することになるかもしれない、という逆の心配もあるのだが。
が、子の心親知らずと言った所か、神綺は構わず続ける。
「まあ、妖怪っていっても変わった子だったのよ。だって、見つかった時の第一声がとっても丁寧だったの。
『――見かけない方ですね、取材させて頂いても宜しいですか?』って」
丁寧口調で取材を申し込む妖怪。
あまり人脈があるとは言えないアリスであったが、その妖怪には心当たりがある。
その行動に加えて飛ぶのが早いと言うのなら、本人でなくても種族は近いだろう。
「新聞記者さんだったみたいだけど、やっぱり凄かったわよ。
断っても引き下がってくれないし、逃げようとしてもすぐに追い付かれちゃった」
「まあ……そうよね」
「やっぱり足で稼ぐ子達は違うね。挙げ句にびしっと指差して
『私と鬼ごっこするには、速さが足りませんよ?』って言われちゃったくらいだもん」
僅かに虹のような光を反射する黒翼で、友人と最速を競う天狗の姿が目に浮かぶ。
紅茶に口を付けたアリスは、何となく聞いて欲しがっている神綺の希望を察して続きを促した。
「それで大人しく捕まっちゃったものだから、落ち着いて話せる場所に行きましょうって誘って、地上に降りたの。
そこでまあ、こんな感じに」
ぱちんと指を鳴らす神綺。
小さな変化ではあったが、突然のことにアリスは、危うく飲んでいた紅茶を吹き出しそうになった。
神綺の目の前にある、未だ口を付けていないティーカップ。
そこから、アリスにとってやけに見慣れた形が盛り上がってきたからだ。
重力に反して己の意志を通すかの如く天を向くそのたくましさは、さながら向日葵のよう。
その下にあるのは、目の前の母と瓜二つの顔。
違うのはその色。確認出来る控え目な胸元から髪先まで、染められているのはミルクティーの乳白色。
どうにか平静を保ってカップを置いたアリスに、揃いの笑顔が向けられた。
「木を隠すには森の中ってね。『私』を隠すのなら『私達』の中にって所よ」
単色の笑顔が沈み込むと、ようやく神綺はカップに口を付けた。
例え見た目は小さくとも、魔界という世界を作り上げた神である。彼女にとっては、この程度のことなど造作もないのだろう。
「……母さん、食べ物で遊ばないの」
「ふふ、そうね。実際には土や水を使ったし、数ももっと多くてちゃんと似せたんだけど」
「まあ、そうでもしないと撒けないでしょうね」
きっと神綺が創り出したのは、わらわらと群れをなし、見分けのつかない容姿で動いてみせる小柄な泥人形。
一瞬でそれだけのことをやってしまえるのは、流石とでもいうべきか。
何にせよ、こうしてここにいるのだから上手くいったのだろう。
「あーでも、受けてあげてもよかったかな。神様だって信じてくれなかったかもしれないけど」
「どうかしら。最近では外の世界で信仰されなくなった神様が、神社ごと引っ越してきたって話だけど?」
「あ、そっか。こっちは多神教なのね。やっぱり受けておけばよかったあ」
重力に屈し、だらしなくテーブルにへたりこむ神綺。
そんな母の神らしからぬ様子に苦笑し、空になったカップに紅茶を注いでいくアリス。
そんな中で、小さなあくびが彼女の耳に届いた。その元は言うまでもなく目の前に。
「……夢子姉さんがああ言ったの、解る気がするわね」
「ふえ?」
「母さん疲れてるんでしょ、自分でも気付かない程度には」
身体を起こし、むー……と首を傾げる魔界神。その仕草もやはり子供っぽい。
若く見えるのは女性にとって喜ばしいことではあるが、幼く見えるのはどうなのだろうか。
「そうでもないかな。まあ、何か作ったのも久しぶりだったからかも」
「少し休んでいったら?
部屋数ならあるし、別に使っても構わないような部屋だし」
「んー……アリスちゃんが添い寝してくれるなら♪」
「上海くらいなら貸してあげるわ」
「――ふう」
一人暮らしの家にしては、アリスの家はそれなりに部屋数がある。
使われない部屋でも手入れが成されていないわけではなく、人形達によって日々清潔に保たれていた。
もっとも、使われる事があったとしても、たまの来客が一夜を明かすだけなので、そうそう汚れることがないのだが。
雲のようなふかふかぶりを遺憾なく発揮したベッドは、かの魔界神を容赦なく夢の世界に引きずり込み、快楽に蕩けた寝顔を浮かべさせていた。
その腕の中には金髪の人形が。アリスとしては冗談を冗談で返したつもりだったが、どうやら真に受けられてしまったらしい。
ならば冗談だと思った言葉も、まるごと嘘ではなかったのか。
「シャンハーイ?」
「ん……大したことじゃないわ。それよりも、起こしちゃ駄目だからね」
主の妙な表情に問い掛けた上海人形だったが、アリスが口元に指を当てると黙って頷いた。
子供が親に似るのは道理。
創られた者が創った者に似るのも――まあ、同じこと。
人形達の製作者アリスは、人形達の母親とでも呼べるだろう。
だから人形達は多かれ少なかれ、どこかしらアリスに似ているのだ。
「……本当に、母さんったら」
今の上海人形は、アリスの代わりに添い寝をしているようなもの。
それでもその寝顔は、聖母とでも言うべき穏やかさと幸せを含んでいる。相当に緩んではいるが。
さらに付け加えるならば、異様な幼さもそこにあるのだが、指摘すると怒るだろう。それも可愛らしく。
――魔界という世界そのものの創造者、魔界に生きる全ての命を創り出した女神。
そんな果てしなく遠いような肩書きを持つ目の前の母は、今はこんなに近くで睡眠という天国に浸っている。
その近さは、自らが成長したこともあるのだろうか。
神綺が完全に眠っているのを確認したアリスは、ベッドから離れると部屋を後に――
(――ちょっと待って)
急に雷光のような閃きが意識に走り、彼女は踵を返した。
凝視するのは、神綺と彼女が寝ているベッドと、上海人形。
急なその行動に首を傾げる上海人形ではあったが、アリスはなんでもないとばかりに笑い返す。
それでも彼女の目は笑っておらず、持ち前の観察眼を全力で発揮し続けていた。
(まさか……)
馬鹿馬鹿しい発想ではあったが、今彼女の中にある仮説は決して無視出来るようなものではなかった。
張り詰めた表情のアリスは、今度こそ音を立てずに部屋を後にする。
静かにドアを閉めると、彼女の所へ1体の人形がふよふよと飛んできた。
「ホラーイ?」
「ええ呼んだわ蓬莱。中には上海がいるけど、蓬莱はここで待機してて。
そして、母さんが目覚めたら私に知らせて頂戴」
蓬莱人形に指示を出すと、アリスは銀色の魔糸を取り出し、器用に結んで両端に輪を作った。
片方をドアノブに掛けると、蓬莱人形は嬉々としてもう片側を自らの首に通す。
「じゃあ、頼んだわよ」
「ホラーイ」
ドアノブで首を吊る蓬莱人形は、その妙な状態にも構うことなくアリスを見送った。
足早に向かうその先は、たまに使う書斎。
紅魔館の魔女程ではないにせよ、相応の資料ならば彼女も持ち合わせているし、考えを纏めるにはいい場所である。
彼女の瞳に宿っていたのは、澄み渡るような知性の光。そして、一抹の不安だった。
「……もうこんな時間なの?」
目を覚ました神綺は、窓から差し込む西日を目にして、予想以上に熟睡してしまったことに気が付いた。
エプロンに袖を通し、オーブンから焼きたてのクッキーを取り出していたアリスは、そんな母に振り返り、笑いかける。
「それだけ母さんが疲れてたってことでしょ。それに、寝過ごしてまずいことでもあるの?」
「あるわよ。晩ご飯までに帰るって言ってきたから、あまり遅いと夢子ちゃん達が大挙して探しに来ちゃうかも」
硬質な音がするかのように、アリスの笑顔が凍り付く。
かつて、魔界の者が大量に幻想郷に来てしまい、少々いざこざが起こったことがある。
その際の事は2人とも覚えている……というよりは、実際にそのいざこざに巻き込まれたのだから、忘れる訳もない。
時間が経ってはいるものの、当時を覚えている妖怪がいないとも限らないし、また何かあってもそれはそれで困る。
「……えっと、まだ時間はあるわよね?」
「うーん……大丈夫だとは思うけど」
「なら待ってて。お土産のクッキー、すぐに包んじゃうから」
小さな紙箱と包装紙を抱えた何体かの人形が、彼女の手元にやって来て、助手のように手渡しする。
実際に包んでいるのはアリスだけだが、そんな人形達の様子を見て、思わず神綺は目を細めた。
「母さん?」
「ん。昔はグリモワールを抱き抱えるくらい小さかったのに、アリスちゃんも立派になったんだなあって」
「……今の母さんくらい小さかったとは思わないけど」
「それだけアリスちゃんが大きくなったのよ。いつか子供は、親を追い越してくものなんだから」
幻想郷一の器用さと称される指先は伊達ではない。
程なくして手作りクッキーには可愛らしいラッピングが成され、神綺に手渡された。
そして返される、母らしからぬ無邪気で幼い笑み。
「ねえ、母さん」
「なーに?」
日に何度も見れば、いい加減そのギャップにも慣れるものだ。
しかし、彼女の見た目の幼さこそが、今のアリスにとっては問題だった。
「……今の母さんって、ちゃんと信仰されてるの?」
外界での信仰を失い、神社ごと山の上に神様が引っ越してきたのは先日のこと。
その件に関してアリスが知り得ることは、ほとんど友人からの伝聞である。
――曰く、一柱は人でありながら奇跡を操る現人神。
――曰く、一柱はしめ縄を背負う猛々しい山の神。
そしてもう一柱は、人々に名前すらも忘れられた、幼女のような神だったとか。
信仰を失った神は、一緒に力も失ってしまうという。
信仰がない状態で幻想郷に来て、その上で友人達と弾幕の応酬を繰り広げるのだから、それなりの余力はあったのだろう。
だが、注目すべきはそんなことではない。
最も信仰を失っているであろう名前を忘れられた神が、幼女のような姿をしていたということだ。
信仰を失くした神が幼くなる、という確証はない。
比較になるかは別だが、信仰されているであろう人里に現れる穣りの女神は、自分とそうは変わらない。
だが――記憶の中の母は、世界を包み込むような慈悲に溢れ、もっと大きかったはずではなかっただろうか?
しかし今ではこんなに小さくなっている。それは母に対する信仰が減っているからではないだろうか?
それは突飛な発想かもしれない。
曖昧な主観と伝聞を元にした、冗談にしても笑えない推測かもしれない。
だが、気付いてしまった以上はその考えを振り払うことは出来なかった。
信仰を失って何も出来なくなることは、神の死に等しいと聞いていたから。
「うーん。フリフリの可愛い服でも来て、キラキラした魔法でも使えば信仰なんてあっという間に――っ!?」
「私は真面目に聞いてるんだけど」
「うう……ごめん」
ぴょこんと飛び出たサイドテールが無表情で引っ張られると、神綺は途端に涙目になった。
人形のよう、と称される整った容姿のアリスではあるが、本当に人形のように表情を動かさずにいると、それはそれで妙な迫力がある。
「それで、母さん。結局の所はどうなのよ。
信仰を失って来ているからそんなに小さくなってる……違う?」
茶化した母に改めて向かい、自らの推論を限りなく直球でぶつける。
真っ直ぐに向けられる眼には、誤魔化しを許さない固い意志の光。
真剣なアリスのその様子に、神綺は一転して大人びた、穏やかな笑みを返してみせた。
「――いつか子供は、親の手を離れて自分の足で歩いていくものよ。
世界だってそう。いつかは私が支えなくても済むようになるわ」
不意に見た『母』の表情。それこそまさに、記憶の中の女神の微笑み。
「親離れは必ず起こるものだし、それを悪いとは言わないわ。寂しいけどね。
でもやっぱり、子供達が立派になっていくのを見るのは嬉しいのよ」
「母さん……」
「やっぱり、アリスちゃんは私に似て心配性ね。
……大丈夫よ。まだまだ私がやらなきゃいけないことなんていっぱいあるんだから。
それにね、いつだって『お母さん』は強く在る者の代名詞なのよ」
小柄ながらも、頼もしく胸を張る神綺。アリスも人形達の母であるが、やはり年季が違う。
例え見た目が幼くとも、やはりこの母は魔界全ての母なのだ。
「じゃあ、そろそろ行かなきゃ。本当にみんなが心配しちゃうかも。
今日はありがとうね。お茶も美味しかったし、クッキーもご馳走様」
「待って!」
空と世界は黄昏色に染められ、いずれ境界の紫を経て空は夜の藍色で満たされる。
魔法が解ける前に帰らなければならないシンデレラを引き止めるのは、人形遣いの魔法使い。
「――私は母さんのこと、絶対に忘れたりなんかしないからね。
どれほど魔界が都会だからって、姉さん達だってそれは同じなはずよ」
「うん……みんなもそう言ってくれたわ。ありがとう、アリスちゃん」
流れ星が願いを叶える、とは誰が言った言葉だったのだろうか。
神綺が帰り、普段の静けさを取り戻した家の中で、アリスはふとそんな事を考える。
窓から見える夜空。その遥か遠くの方には、いくつかの煌く輝きが見えたからだ。
人か妖怪かは知らないが、きっと弾幕ごっこでもやっているのだろう。
森の中の彼女の家から見えるのだから、それはもう盛大に。
――だが、その正体に察しが付いていても、アリスは祈りたかった。
遠く離れた故郷に住まう、母や姉達の幸せを。
多くの星が流れる幻想郷という世界は、やはり優しい世界なのだろう。
旧作と上手く繋げる作品は少ないので楽しめました。次も期待。
とても面白かったです。
そうだよな…神綺様も神だもんな…
信仰が薄れたら消える可能性もあるよな…
こう胸が締め付けられるような…
「ツンデレラ?
神綺様よりアリスの方が合うな」
とか思ってしまった私ってorz
神綺様に対してはデレだけだしね
願わくはたくましきアホ毛が末永く見れるよう…。
神崎様が忘れられないための作品お疲れ様でした。