霧雨魔理沙の蒐集品は生きている。
といっても、どこぞの都会派魔法使いのそれと違って夜泣きはしないし、勝手に毛を伸ばすほど下品でもない。ただ、夜にこっそりと動き出すだけ。それらは各々好き勝手に遊び回り、朝になる前に眠りにつく。
魔理沙自身はそれを直接観察したことはない。しかし確信はしている。そうでなければ目の前に広がるこの光景に、説明がつかないからだ。
――ついこのあいだ軽く整理したはずなのに。
気がついたら足の踏み場がなくなっている。
試しに足先で小突いてみるが、泣き声ひとつあげやしない。昼のこいつらは我慢強い。
今、霧雨邸の居間を埋め尽くす品々はすべて最近のものだ。
古いやつらはあまりにも活発に動き回るので倉庫に封印した。
しかし新しく集めてきたものまで動き出すとなると、原因はこの家そのもの、あるいは地脈かなにかにあるのか。それとも蒐集品の間に有機的な聯関が生じたりするのか――。
「なぜ散らかるのか」は魔理沙が物心ついた頃から、彼女の研究テーマのひとつであり続けている。
根本的な原因が不明である以上、対症療法で我慢するしかない。
両手を腰に当てて、ざっと居間を見渡す。
靴下のように見えるあれはこのあいだ拾った蛇妖の抜け殻。その隣が紅魔館から借りてきた壷。脱ぎっぱなしのシャツの下にあるのは、結界の境目で拾ったよくわからない素材の筒か。本は種類、由来を問わずまんべんなく散らばっている。
「はぁ……」
まずは落ちているものを衣類、日用雑貨、蒐集品、ゴミに分別。
それから床を掃いて、洗濯と蒐集品の整理。雑巾がけは余裕があったら。
今からはじめても日暮れまでに終わるかどうか、といったところだろう。
計画を立てただけでげんなりしてしまうが、終わったときの爽快感を思えば我慢できなくはない。
むっと気合を入れてから腕まくりをして、まず床に落ちているものを拾いはじめた。
拾ったものの整理は後回しにして、いったんベッドやテーブルの上におき、床にたまった埃を掃く。
が、何かがおかしい。すでに掃いたはずのところに新しい埃が落ちている。
嫌な予感に導かれて視線を上に向ける。天井のところどころに灰色の毛玉が……。そういえば最後に煤払いをしたのはいつのころだっただろう。
気がついてしまった以上、見て見ぬふりもできない。
蒐集品をどけてから靴を脱ぎ、搾った雑巾を手にテーブルの上に立った。
そのまま何気なく部屋を見回すと、視界の隅、何か引っかかるものがあった。
「ん?」
天井と本棚の間にあるわずかな隙間。埃だらけのその奥に、黒く四角い物がある。
魔理沙は立てかけてあった箒に足をかけ、天井に頭をぶつけるすれすれのところまで体を浮かせて、隙間に手を伸ばした。
《箱の中には》
仮にも商店の玄関前とは思えないほど雑草が生い茂った地面に、魔理沙はトンと両足をついた。
跨っていた箒をくるりと回して肩に乗せ、からみつく雑草などものともせずに大股で玄関へ向かう。
店内に入ると、空気の質が変った。老木のように香り、石のように静か。湿った紙のような肌触りで、ほんの少しだけ黴臭い。そんな馴染み深い空気を軽く吸い込んで、喉に引っかけて音に変える。
「客だぞー。もてなせー」
返事はないが、気にせず奥へ。
外の光に慣れた目では見通せない薄暗がりを、危うげない足取りでのしのしと進む。
通路の突き当たり、雑多な物が山と積まれた机の向こう側で、ぴんとはねた銀色の髪が一房、ふらふらと揺れている。
魔理沙がそれを指先でつまんで軽く引っ張ると、森近霖之助はようやく顔を上げた。
「ん、魔理沙か」
「なにをそんなに熱中してるんだ?」
「新しく拾ってきた中にちょっと変わったものがあってね。計算機らしいんだが中にいつものような式神じゃなくて、ちゃんと実体をもった生き物が入ってたようなんだ。この中のものはもう死んでいるようだが……」
霖之助は目の前の大きな灰色の箱を軽く叩いた。
いつもの講釈が始まってはかなわないので、魔理沙は間をおかず本題に入る。
「そんなことよりさ、これ見てくれよこれ。香霖にもらったものだと思ったんだけど」
机に積まれたものをかきわけるようにして身を乗り出し、黒い小箱を霖之助の鼻先に突き出す。
霖之助は少しのけぞり、それから箱をうけとってしげしげと眺めた。
大きさは片手に軽く収まるほど。立方体に近く、表面には光を捻じ曲げて反射するような、奇妙な光沢がある。
「――ああ、ずいぶん昔に拾ったものだね。変わった品だったから覚えてるよ」
あげた覚えはないけどね、と付け加えるのを無視して魔理沙は続ける。
「なんとか開けられないか?」
霖之助は指の先で小箱をくるくると、器用に回してみせながら答える。
「無理だね。中になにかを入れて一度閉じたら、もう二度と開けられない。入れた本人にもだ。これはそういった目的で作られたものだから」
「閻魔の頭より硬いぞ。何でできてるんだ?」
「少なくとも金属ではない。外の世界のものであることは間違いないんだが」
「んー、やっぱり壊すしかないか」
霖之助は苦笑し、小箱を魔理沙の顔の前に差し出した。
「おすすめはできないな。君のやり方じゃあたとえ壊せたとしても中身が無事で済むとは思えない」
魔理沙は霖之助の手から箱を受け取る。
「なんとかするさ」
実のところ、この箱を見つけてすぐ、その場で思いつく限りの方法は試していた。あまりに歯が立たないので思わずちょっとした火力まで使ったが、それでもこの黒い小箱はびくともしなかった。せめて素材が特定できれば、薬品で腐食させることもできただろうが……。
このうえ霖之助にも開けられず、何の情報もないとなると、いよいよ本格的な力押しか反則技しか残っていない。
「あまり無茶はしないでくれよ。しかし――」
霖之助は頬を人差し指でかきながら。
「なぜいまさら開けようと思うんだい。そんな昔の、自分でも忘れていたものを」
「別に。なんとなくだよ」
魔理沙は肩をすくめて答えた。
霖之助を真似て指の上で小箱を回そうとして、失敗。
小箱はカコンと軽い音を立てて床を転がる。
それを追いかけてしゃがんだ魔理沙の背中に、霖之助の声がかかる。
「魔理沙」
「んー?」
「箱の役割とはなんだと思う」
「箱?」
「そう、箱だ」
薀蓄の気配がした。
こうなる前に帰るつもりだったが、はじまってしまったものは仕方ない。
魔理沙はひろった小箱を机の上に積み上げられた品々の頂点に置いてから、素直に答えた。
「何かを入れる。隠す。守る。あとは――閉じこめるとか」
「半分正解だ」
そう言われては聞き返さないわけにもいかない。
「じゃあもう半分は?」
「箱の機能は確かにモノを隠し、守り、閉じ込め、必要に応じて取り出せることだ。だが本質的な役割は、そうした機能を使った後にくるもの。モノから個性や表情を奪い、扱いやすくすることにある。ここに着目する場合、箱の中のものを取り出せるか否かはさほど重要ではなくなる」
霖之助は黒い小箱をつまみ上げ、軽く左右に振ってみせる。
箱からはなんの音もしない。
「箱に入れられたモノはとたんに量化し、質が失せる。数え方は一つ、二つ。このとき箱の中にある個物の個性は無視される」
そう続ける霖之助の人差し指の上でまた、小箱がくるくると回りはじめた。安定した回転だ。
魔理沙は無言で小箱を引ったくった。
霖之助は小さく肩をすくめる。
「箱は具体的なものだけに限らない。例えば言語や数字といった抽象的な記号。これらも個物から表情を奪い、等質化する一種の箱だ。『約十五分おきに一人の人間が自殺している』『この地震による死者は三百名以上』――どれほど凄まじい現実も、その気になればたったの一文で表せてしまう」
魔理沙が箱を乗せた指先に意識を集中すると、霖之助の言葉は右から左へと抜け、耳には音の感触だけが残った。
落ち着いた声に混じる、ほんの少しだけ浮ついた響き。
彼の蘊蓄は退屈だが、蘊蓄を語るときの彼の声は嫌いではなかった。
「箱は人の根本に食い込み、いつしか人は自然を自然そのものとして見ることができなくなった」
魔理沙はよっとかけ声を出して箱に回転を加えるが、またもや失敗。
机に下に転がりこんだ小箱を追いかけて、舌打ちしながら床に両手をついた。
「人は生まれてすぐに『私』という箱に収められ、『血筋』という系列に乗せられ、『社会』という箱の山の一部となる。『私』は箱を喰らい、箱を蓄え、箱の中で箱に囲まれたまま生涯を終える。今や箱に入れるという行為こそが、人の人たる所以なのだといっても過言ではないわけだ。そしてこの幻想郷という箱庭においても、人の本質は変わっていない」
小箱を手にした魔理沙はそのまま机の下をくぐり抜け、霖之助の脚を押しのけて顔を出した。
「――で、結局何が言いたいんだよ」
霖之助は苦笑しながら椅子を引き、魔理沙の手をとって立ち上がらせる。
「要するに、この箱は開けなくてもいいんじゃないかってことだよ」
「なんだそりゃ」
魔理沙はスカートについた埃を払いながら顔をしかめる。
「最近の魔理沙はますます妖怪じみてきて、自分が人間だってことを忘れてる節があるからね。開けない箱がひとつあるくらいでちょうどいい」
「『開けない』じゃなくて『開けられない』だろ?」
霖之助は笑って答える。
「結果的には同じことだろう」
◆ ◆ ◆
収穫はなし。いらん説教までされてしまった。
こうなると意地でも開けたくなる。
しかし霖之助の言うとおり、魔理沙のやり方では箱どころか中身まで消し飛んでしまうだろう。妖怪退治をはじめとしたトラブルシュートと違って、いつも通りの力押しでどうにかなるものではない。
つまり今必要なのは最後から二番目の手段であるところの、反則技。
使えないやつめと言い捨てて香霖堂を後にした魔理沙は、獲物を探す海烏のように森の上空を飛んでいた。
目当ては境界をいじる古い妖怪。
あらゆる縛りや制限をすり抜ける力を持つ彼女からみれば、ただ硬いだけの箱など箱の用を為していないはずだ。しかし対価として何を要求されるかわかったものではないし、そもそもどこに住んでいるのかわからない。
説得の材料をポケットいっぱいに詰めこんで、手始めに猫か狐でも苛めてやろうと、以前出くわしたあたりを飛び回ったものの、尻尾の影さえ見えてこない。
遠出の探索にはそれなりの新鮮さがあったが、それも日が登り切ってしまう頃には飽きがきた。
手詰まりだった。
しかし諦めて散らかった家に帰るというプランにはまるで魅力がない。
本当のところは、こんな箱は開けられなくてもいいのだ。ただ自宅に山盛りになった現実から逃げる口実としてちょうどよかったというだけの話。
魔理沙は半ば惰性でふらふらと飛ぶ。
今日はいい天気だった。暑すぎず、寒すぎず。黒い衣服にこもった熱を、柔らかな風がいい具合に奪っていく。
春の喧噪と夏の狂騒の狭間。太陽と風の天秤がほんの少しだけ太陽側に傾く時期。
普通の魔法使いが空を飛ぶには最高の条件だった。
魔理沙は全身の力を抜いて、身体を箒に預けた。両手両足をぶら下げて、箒の柄が頬にちょっと食い込む。
自然に欠伸が出た。
あふ、と息を吐ききって手足をぐっと伸ばす。
「そういう寝方をする猫、見たことがあるわ」
にじみ出た涙を拭わないうちに、聞き覚えのある凜とした声が、大きな影と共に頭上からふってきた。
なにかが近づいていることには気づいていたが、彼女だとは思わなかった。
魔理沙は少し意外に思いながら、箒を両手で握って身を起こす。
「ああ、ちょうどいい。この辺で尻尾の二本ある猫を見なかったか? 九尾の狐でもいい」
「黒白の泥棒猫ならすぐ下にいるわね」
魔理沙が見上げると、頭上には大きな木箱。大きな影はこれのせいか。
声の主の姿は箱に隠れて見えない。
まともな挨拶もないまま、木箱は動きはじめた。
魔理沙は箱を追いかけつつ回り込んで、自分を泥棒猫呼ばわりした女の隣に並ぶ。
「こんなところで何やってんだ」
「見ればわかるでしょう」
「紅魔館のメイド長が、でかい箱をぶら下げて空を飛んでるな」
緑の山々や里の田園を背景にするにはあまりにも場違いなメイド服。
十六夜咲夜はこちらに顔を向けようともしない。声をかけたのはただの気まぐれだったようだ。
ぶら下げているのは、大人の男が一人入ってもおつりがきそうなほど大きな木箱。咲夜の華奢といってもいい両手が、その木箱の下を幾重にもくぐった太い綱をしっかりと掴んでいる。
それは似我蜂が自分よりも大きな芋虫を軽々と運んでいく様に似ていた。
「なんだか知らんが重そうだな」
「そうでもないわよ」
「わざわざお前が運ぶってことは、なにか重要なものでも入ってるのか?」
咲夜の返答を待たず、魔理沙は木箱の蓋をひょいと開けた。
中身と目があった。
三秒ほどお見合いした後で、ゆっくりと蓋を閉じる。
「開けない方がいいと思うけど」
「開ける前に言ってくれ」
「言う前に開けたでしょう」
箱の中にあったのは、青いガラス玉。
捕らえられた獣が発する生への意志とは真逆の、冷え切った結晶のような死への欲動。
咲夜は魔理沙の顔を見て、両手がふさがった状態で器用に肩をすくめて見せた。
「なんだこれ」
「使用人か備蓄食料」
「どっちだよ」
「どっちになるかは性能次第。うちは適材適所だから」
「そりゃ初耳だな。あの門番もか」
「あれは食べても美味しくないもの」
「なるほど。しかし――」
吸血鬼の食料。
死ぬ価値のない人間。
大妖怪との間に交わされた契約。
そういう話は聞いていたし、当然のことだとも思っていた。
ただ、一つだけ腑に落ちないことがある。
「箱詰めするようなもんかね」
「目があったら嫌だからじゃない?」
「そんな殊勝な妖怪がいたらお目にかかってみたいもんだな」
人の箱詰め。肉の箱詰め。
妖怪にはこんな無駄なことをする理由がない。
言葉が通じようが情が通じようが、妖怪は人を喰う。
悩むでもなく、開き直るでもなく、妖怪はただ人を喰らう。
彼らの食事はどこまでも現実的なものだ。こんな木箱のごとき薄っぺらな人間性が入り込む余地はない。
「……ああ、なるほど」
魔理沙は自分の口が嫌な形に歪むのを感じて、片手で口をおさえた。
つまりこれは、妖怪による人間性のパロディだ。
この荷の運び手にわざわざ咲夜を指名したのも、大方アレの仕業だろう。そうでもなければ、妖精にでもできる雑用を彼女に任せる理由がない。
外の世界から人間を拐かすことができる、悪質な笑いのセンスの持ち主。
魔理沙はそんな妖怪を一匹しか知らない。
「コメントに困る気づかいだな。どうせお前は気にしないだろ」
咲夜は答えず、ただ薄く笑って質問を返した。
「あなたは気になる?」
「お前と違ってわたしはちゃんとした人間だからな。デリケートなんだよ」
「ご挨拶ね。ちゃんとした人間は最初に開けるなと言っていたら開けなかったのかしら?」
紅魔館侵入の常習犯は即答した。
「無理だな」
咲夜は浅くため息をついた。
「人間失格ね」
「お前にだけは言われたくなかったな」
◆ ◆ ◆
――――Cは、つねにすでに先立ち続ける「論理的・合理的な」場として働いているということである。これはルールへの従い方における「一致」の水準が、ルールにおける「一致」の水準に、どこまでも先行し続けるという事態に等しい(11)(第7章を参照)。あるいは、「寛大さの原理(principle of charity)における「不一致」に対する「一致」の先行という事態に――――
「何をしてるの」
背後からかかった不機嫌な声は、質問というより叱責に近かった。
魔理沙の意識が、硬質な文字の世界から黴臭い図書館の椅子の上へと引き戻される。
左手で開いていた本をパタリと閉じ、右手で椅子の背にひっかけていた帽子を頭にのせ、箒をつかんだ。
荷物を抱えた咲夜と別れた後、結局マヨイガ探しを諦めた魔理沙は、なんとなくこの図書館へ足を伸ばした。
シェスタ中の門番(食料未満)を飛び越え、妖精メイドたちの散漫な監視をかいくぐって館内に侵入し、図書館で読書中に図書館の主に見つかる。
いつもパターンだ。
魔理沙はすぐ後ろまで迫った陰気な気配に、振り向かずに答える。
「新しい本を借りにきたんだよ。見つかったついでに聞きたいこともある」
「そもそも出入りを許していないんだけど」
「許しを請うた覚えがないからな」
「猫はなにをやっているのかしら……」
「さっき猫同士で立ち話をしたぜ。いや、飛び話かな」
長く深いため息が、魔理沙の背中側の空気を揺らす。
魔理沙には聞き慣れた音だ。幻想郷は生に膿んだやつらが多すぎる。
せめて元気を分けてやろうと振り返り、パチュリー・ノーレッジの予想通りの渋面に、満面の笑みで応えた。
いつもなら即座に顔面に殺意のこもった弾が飛んでくるところ。
しかしパチュリーは軽く咳き込みながら魔理沙の横を通り過ぎ、並べてあった椅子に座って、手に持っていた本に顔を埋めた。
呼吸するたびに、喉から異音が漏れている。
――だいぶ調子が悪いらしい。
魔理沙はポケットから黒い小箱を取り出し、パチュリーに向かって放り投げる。
パチュリーは本を持ったまま片手で受け取り、しげしげと眺めてから魔理沙を見た。
「それ、中身を壊さないように開けられるか?」
魔理沙の質問に、パチュリーはしばらく小箱を撫でたり叩いたりした後で答えた。
「無理ね」
「やっぱり無理か」
魔理沙は投げ返された小箱を片手で受け取り、ポケットに戻す。
パチュリーがぼそりと聞き返した。
「何が入ってるの?」
「忘れた」
「そう」
パチュリーは関心を失ったように本に顔を向ける。
ぱらり、と本をめくる音。
魔理沙は黙って次の言葉を待つ。
「じゃあ、開けない方が良いわね」
ずいぶんと間を開けてから、そう続ける。
息が続かない日は、少しずつしか喋らない。
「そういうものか」
「そういうものよ」
言葉の終わりにケンケンと、軽い咳音が混じる。
早めに退散した方がいいだろうと、魔理沙は適当に見繕ってテーブルの上に置いてあった書物をまとめて、席を立つ。
「んじゃ、今日はこの辺で失礼するか」
パチュリーは何も言わない。魔理沙の知る限り、彼女は無駄なことを嫌う。
魔理沙は箒にまたがり、埃を立てないように静かに離陸。そのままゆっくりと本の森の出口に向かう。
その途中でふと、気になることがあって箒を手前に引いた。
今日のラッキープレイスは本棚の上。
当たりだった。
外の世界の自然科学書が適当にまとめられた本棚、その上にあったのは異形の箱だ。
今日は箱に縁がある日らしい。
大きさはだいたい二十センチ四方。厚みは大型の辞書ほどもある。箱の表面にはお札や六芒星をはじめとして、動物の骨を使った呪術の形跡、なぜか数式らしきものが書かれた紙まで貼ってある。ここまで節操のない封印は見たことがなかった。まるであふれ出す力に恐れを抱き、慌てて蓋をしたような――。
魔理沙は魅入られるようにして、その異質な箱を手にとった。
ずしりと重たい。まるで石でもはいっているようだが、中に入っているのは――当然本だろう。ここは図書館なのだから。
「なあ」
魔理沙はまたもや音もなく背後に迫った魔法使いに、静かに訊ねた。
「中身は?」
「外の世界の禁書。正確には外の世界の、さらに外側の世界の神についての禁書」
「それで?」
「見ればわかるでしょう。危険なのよ」
パチュリーは珍しく苛つきを隠さない口調で言った。
魔理沙の知る限り、彼女は無駄なことを嫌う。逆に言えば、必要だと思ったことは多少無理をしてでもやってのける。
パチュリーの警告に、魔理沙は挑戦的な笑みをもって振り返る。
「未知の探求は魔法使いの仕事だろ」
「分を超えた禁忌を犯して自滅するのは人間だけ」
「じゃあわたしは平気だな。なにしろメイド長お墨付きの人間失格だ」
「それは――」
パチュリーは何か言い返そうとしたところでその言葉が喉に引っ掛かったのか、壮絶な咳をした。そのまま体内の衝撃に身体を丸めて耐える。
魔理沙は思わず手を差し出したが、振り払われてしまった。
やがて発作が治まると、パチュリーは魔理沙の顔も見ずに一言残して背を向けた。
「好きにしなさい」
◆ ◆ ◆
紅魔館の長い廊下。
図書館のような黴臭さはないが、こもった湿気のせいで肌を舐めるような感触の風しか吹かない。
魔理沙は戦利品を抱えて、ふらふらと飛行していた。
パチュリーの様子については、まあ、身体が弱ったところにつけいったようで気分が悪かったが、だからといって心配して謝りに行くような間柄でもない。体調が良くなったらどうせ向こうから謝らせにくるだろう。
それよりも今はこの戦利品だと、魔理沙は木箱を抱えなおす。とにかく重い。片手では支えるだけで手一杯で、他の本は諦めるしかなかった。
「本は本でも石版だったりしないだろうな……」
魔理沙が思わず呟いた瞬間、視界のど真ん中に唐突に人影が出現した。
いわゆるひとつの瞬間移動。
こんな非常識な登場をする人間は一人しかいない。
「げ」
「あら、やっぱり入り込んでいたのね」
咲夜は、魔理沙に軽い調子で話しかけてきた。
外で会ったならこの対応に不思議はないが、ここは彼女の守るべき城、紅魔館だ。いつもなら問答無用でナイフが飛んでくるはずだが、彼女まで何か病気にかかったのだろうか。
訝る魔理沙をよそに、咲夜はさらに妙なことを言い出した。
「ちょうど良かった。お茶の時間なのよ、付き合いなさい」
「……ここはいつから喫茶店になったんだ?」
それとも毒入りクッキーでも食わせる気か。
咲夜は両手を腰においてフンと鼻をならす。
「お嬢様のご指名がなかったら処刑場になるはずだったわよ」
「レミリアが?」
「さあ、退屈なさってたようだから」
ついてきなさいと言って背を向ける咲夜の後を、魔理沙は半信半疑ながらも追いかける。スカートが瀟洒にはためく様を眺めているうちに、薄暗い大広間に出た。
石畳の上に敷きつめれた紅の絨毯。中央に椅子とテーブルが用意されており、紅魔館の主人はすでに席についているようだ。
どこから入ってくるのか、渇いた風が気持ちいい。主人が茶を楽しむ場所とあって、流石に換気が効いている。風はかすかに花の匂いがした。
しかし吸血鬼と魔女が同席し殺人鬼が傍らに立つこの茶会が、健康的な茶会のまま終るはずもない。
嫌な予感がした。
意識の焦点を絞り、緊張感を調節する。
魔理沙は箒を椅子の側面に立てかけて帽子を脱ぎ、片手を上げて挨拶した。
「よう。久しぶりだな」
「相変わらず礼儀がなってないわね」
レミリア・スカーレットは椅子の肘掛けに肘をつき、足を組んだまま魔理沙を出迎えた。
「今のわたしは客なんだろ?」
「賓客として扱われたいなら相応の品格を身につけなさい」
「お前こそ行儀が悪いんじゃないか」
「私はいいんだよ。寝起きで怠いんだ」
そう言いつつ、幼い仕草で欠伸をひとつ。
数世紀にわたって蓄積された矜持に根をはり、無数の人間の血液を糧に育てられたレミリア・スカーレットの傲慢さは、そんじょそこらの神など問題にならないレベルにまで達している。
レミリアとの会話に気をとられた隙に、背後にいたはずの咲夜がすました顔で魔理沙の隣に座っていた。
彼女がやらないなら、給仕は誰がやるのか。
魔理沙の疑問に答えるように、一人の小さなメイドがティーセットの乗った台車を押しながら広間へと入ってきた。
カチャカチャと音を立てる台車を慎重に押すそのメイドの衣装は、お世辞にもサイズが合っているとは言えなかった。袖はたくし上げられ、スカートを踏まないでいることが不思議なほどに裾が余っている。金色の髪はくりくりの巻き毛で、ピンク色のリボンで髪を無理矢理まとめた上に、一応ヘッドドレスを乗せてみましたといった風情。
顔はうつむいていたせいで見えなかったが、目を合わせるまでもない。
魔理沙はその少女を知っていた。
――紅魔館のメイド長が、でかい箱をぶら下げて空を飛んでるな。
――どっちになるかは性能次第。うちは適材適所だから。
魔理沙は咲夜の目を見ようとしたが、その視線はするりとかわされた。
予感的中。
つまりはこれが、レミリア・スカーレットの用意した茶会の目玉だ。
この悪趣味に付き合うのか、それとも――。
魔理沙は選択肢を前に、一瞬だけ躊躇した。
その一瞬を計ったように、レミリアが口を開けた。
「箱を、開けたいんだって?」
その一言で、魔理沙はテーブルをひっくり返すタイミングを逸した。
レミリアはニヤニヤと、片方の犬歯を剥き出しにして笑う。
魔理沙は遅れてわき上がった衝動を腹の奥に押しこんで、どうにか言葉を引っ張り出す
「……よく知ってるな」
「パチェから聞いた」
楽しげに目を細めるレミリア。
魔理沙はテーブルの脇に置いた戦利品をぽんと叩く。
「今はこっちの箱の方が気になるけどな」
「パチェ、怒ってたわよ」
「だいぶ調子が悪そうだったからな」
「今ごろ寝込んでるわよ。心配なら返してきたら?」
「冗談」
小さなメイドはどうにかテーブルの脇までたどり着き、ぺこりと一礼。硬い動きで純白のテーブルクロスの上にティーセットを広げはじめた。
彼女が着ているのはおそらく妖精用の予備のメイド服だろうが、それでも大きすぎるようだ。
カップと皿がカタカタと音を立て、少女の全身を支配する細かな震えを教えた。
「そういえば最近顔を見てないけど、あの巫女はどうしている?」
「いつも通りだよ」
「妖怪退治もろくにせずに、境内を掃除したり空っぽのお賽銭箱を覗いたり?」
「いいや、縁側で茶をすすってる」
「なるほど」
レミリアは心底楽しそうにくつくつと笑っているが、世間話を楽しんでいる笑い方ではない。
つま先立ちでもたつきながらも、どうにかティーセットの配置を終えた少女が、茶の準備にかかる。
ティーポットに湯がこぽこぽと音を立てて注がれ、紅茶の香りがふわりと広がった。
「湯の温度が高すぎるわね」
レミリアが誰へともなくそうつぶやくと、少女は叩かれたようにビクンと震えた。
魔理沙は弾の入ったポケットに向かいそうになる右手を、左手でぐっと押さえつけた。
――妖怪は人を襲い、人は妖怪を退治する。
昔からのお約束。
しかし今はまだ、魔理沙は動けない。
少女はまだ魔理沙の目を見ようとしない。
それまで黙って座っていた咲夜が音もなく立ち上がり、テーブルの上に不揃いに並べられたカップや茶請けのクッキーがのった皿の位置を正しはじめた。少女のあまりの手際の悪さに、見ていられなくなったのだろうか。少女は驚いたように昨夜を見たが、目の前にあっという間にカップが揃えられるのを見て、あわててティーポットを手に取った。
咲夜の動きに気をとられた魔理沙に向かって、レミリアがすっと右手を伸ばす。
「持ってきた箱とやら、見せなさい」
有無を言わせぬ命令形。
魔理沙はふんと小さく息をついて、ポケットの中の小箱を掴んだ。
「壊すなよ」
そう言いながら、下手に放る。
黒い立方体はテーブルを飛び越え、レミリアの小さな手の中へと吸い込まれるように落ちていき――――僅かに的をそれてテーブルの下、慣れない手つきでカップに紅茶を注ぐ少女の足元転がった。
「あっ」
転がる箱に驚いたのか、少女は弾かれたように片足を上げる。
勢いで体勢が崩れ、その手の内にあったポットが大きく傾く。
ポットの口から勢いよく紅茶が飛び出した、その先にあったのはレミリアの右腕。
死人の肌よりもなお白い、無機物じみた美しさを誇る吸血鬼の肌が、ゆっくりと赤く爛れていく。
「――」
魔理沙は反射的に声を上げて立ち上がろうとしたが、本能が口と足を抑えつけた。
いつの間に回りこんだのか、背後から鋭く突き刺さる無言の圧力。
銀色の殺意が、魔理沙の身体と意識を椅子に縫いとめていた。
「熱いわね」
レミリアは平然とした声色でそう言いながら、右腕の爛れた皮膚に舌を這わせた。
赤黒く変色した肌が剥がれ落ち、陶器のごとき白肌が現れる。
レミリアはふんと小さく鼻を鳴らして、こびりついた皮を左手で払う。
仕草、言葉とは裏腹に、その小さな身体からは壮絶なプレッシャーが放たれ、少女を打ちのめしていた。
「何か、言うことがあるんじゃない?」
レミリアは少女を詰問する。
少女は悲鳴を上げることさえ許されずに、その場に尻餅をついたまま身をすくめた。
喘ぐように開いた口からは、意味を成さない掠れた声が零れ落ちる。
少女の身体で唯一、吸血鬼の呪縛から逃れた青い目が、助けを求めるようにあたりを彷徨い、
そして少女は魔理沙の目を見た。
少女の目には、あの木箱の中で見た、冷えた鉛の如き諦観はなかった。
少女は間近に迫ったかつてない脅威に怖じ気づき、誰彼かまわずすがりつこうとしていた。
弱くて情けない、しかしこの上なく人間的な目。
お膳立てはそろった。
後は開始の合図だけだ。
魔理沙は静かに、血を吸う鬼の名を呼んだ。
「レミリア」
魔理沙の言葉を引き金に、レミリアの圧力が破裂。
同時に背中に突きつけられたナイフの切っ先がわずかに遠ざかった。
殺意の拘束が緩んだ隙に、魔理沙は箒を手元に呼び寄せる。
さきほどレミリアの手のひらに向かって落ちていったはずの小箱は、その直前で不自然な軌道を描いた。
不意の事故とはいえ、人間など問題にならないほどの反射神経を持つ吸血鬼が、おとなしく火傷を負って見せるのも妙な話。
そもそも、背後で音のない唸り声を上げているこの有能なる悪魔の犬が、主人にふりかかる厄災を見逃すことなど――それがどれほど些細なものであろうと――ありえない。
前提からして不自然。すべてが作為的。
――とんだ茶番だ。
妖怪は人を襲い、人は妖怪を退治する。
そんなものは建前にすぎない。
――要するにこいつは、「遊んでちょうだい」と可愛いらしくおねだりするには年をとりすぎてるだけだ。
弾幕ごっこモードに移行。
魔理沙の意識が加速し、世界を置き去りにした。
認識を飛ばし、敵の位置を把握。
レミリアはすでに椅子から離れ、羽を伸ばして宙にいる。
背後の咲夜も予想通り、すでに離脱をはじめている。
魔理沙は水のように重たくなった空気を掻き分けて、椅子にかけてあった帽子を頭にかぶりつつ、ポケットから取り出した弾幕をばら撒く。
マジックミサイル。
テーブルの真上にばら撒かれたそれが熱と光に変わって着弾するよりも早く、箒を走らせてテーブル脇で腰を抜かした少女を脇に抱えてかっさらう。
次の瞬間、ミサイルがテーブルを粉砕、椅子を四散させ、絨毯に大穴を開けた。
極限まで尖らせた集中力がほつれ、世界が魔理沙に追いつく。
――反撃がこない?
魔理沙は眉根を寄せて前方の気配を探る。
もうもうと立ちこめる粉塵の向こうから聞こえる、憮然とした声。
「……何が気に入らなかったのか知らないけれど、やってくれたわね」
レミリアは服についた埃を払いながら、あくまで上品に眉をひそめて見せた。
「テーブルも絨毯も、お気に入りのティーセットまで台無し」
いつの間にかレミリアの傍らに立っていた咲夜がそれに応じる。
「ティーセットは無事ですわ」
その言葉どおり、咲夜が手にした銀色の盆の上には、魔理沙のミサイルがテーブルごと粉砕したはずのティーセットがあった。カップの中の紅茶がこぼれた形跡すらない。
彼女自身、髪や肌はもちろん、衣服にすら埃ひとつついていなかった。
レミリアは大げさに驚いてみせる。
「あらー、さすがね」
「……おい」
魔理沙は行き場をなくした弾幕を持て余し、半眼でつっこんだ。
大広間に漲っていた殺気は霧散し、いまや空気はとりかえしのつかないほど弛緩していた。
頭痛を覚えるほどの白々しさで、レミリアは台詞を続ける。
「ティーセットが無事だったことに免じて、突然の無礼には目を瞑ってあげる。――もちろん、穏やかに過ごせるはずだったお茶の時間は弁償してもらうわよ」
魔理沙は小さく舌打ちした。
はじめからそのつもりだったのだろう。
遊んでやるつもりが、遊ばれていたわけだ。
「わかったよ。わたしの負けだ」
魔理沙は両手を挙げた。
これ以上芝居に付き合う余力はなかった。
要するに、レミリア・スカーレットは不良品をつかまされたのだ。
ところが契約した仕入れ先は返品に応じない。
そこで彼女は一計を案じた。
単純な人間をからかうついでに、不良品を回収させてなおかつ貸しまで作れる素敵な計画。
ツェペシュの末裔を自称する吸血鬼は、魔理沙の胸中を見透かすように目を細めながら、いつの間にか右手に持っていた小箱と、魔理沙が小脇に抱えた少女を交互に指さした。
「これとそれ、交換しましょう」
魔理沙は思わず腕の中の少女を見る。
少女は気絶してしまったのか、揺らしてもまるで反応がない。
「この子と、それを?」
レミリアは楽しげに頷く。
「これと、それを」
「なんでそんなもんが欲しいんだ」
魔理沙が少女を自分の膝の上に乗せなおしながら訊ねると、レミリアはまさに悪魔的な笑みを口に刻んだ。
「こっちのほうが面白そうだからだよ」
「そーかい。好きにしろよ」
魔理沙はパチュリーからの戦利品を指差す。
ミサイルの直撃を食らったはずのそれは、しかし傷ひとつついていない。
「それはいいのか?」
「これについてはさきほどパチュリー様から伝言が」
咲夜が戦利品を拾い上げながら、答えた。
喘息のせいで言えなかったことでもあるのだろうか。
「『飽きたら返してもらう』と」
わざわざ伝言として預けるには、あまりにも短い。
パチュリーはあの箱を危険なものだと言った。
にもかかわらずそれについてまるで触れないのは、かけられた封印を解けるはずがないと確信しているからか。
魔理沙は世紀単位で生きる者たちに可愛げを期待する愚を思い知った。
どいつもこいつも、人を喰った化け物ばかりだ。
「上等だ。おぼえてろよ」
空振りして萎えかけていた闘志が、再び燃え上がるのを感じた。
魔理沙は膝の上にぐったりとした少女を乗せたまま、咲夜の手から箱を掠めとり、そのまま大広間を後にした。
◆ ◆ ◆
「大丈夫か?」
少女が意識を取り戻したのは、紅魔館を飛び出した勢いで湖を越えた頃。
日が落ちて、夕闇の深くなる時間。
それまで膝の上で丸くなっていた少女は、魔理沙の声に応えてこくりと頷いた。
身をかがめれば魔理沙の懐に収まってしまうほど小さく華奢な身体。歳は十か、それより下だろうか。端整な顔立ちだが、生気が薄いせいで人形じみている。ふわふわの金髪と動きの少ない碧眼、そしてぶかぶかのメイド服が、その印象を後押ししていた。
しかしほんの少し前はガラス玉のようだった瞳の内には、重たい土を押しのけて顔を出す木の芽のように、小さくも確かな意志が宿っていた。
あるいは、外の世界にはありえない人の天敵の与えた恐怖が、降り積もった絶望を吹き飛ばしたのか。
――まあ、あいつがそこまで考えてたはずないけど。
外の人間ならば博麗神社に連れていくのが筋だろうが、彼女の場合、迷い込んだわけではない。
「もとの世界に帰りたいか?」
魔理沙が胸元で丸くなる少女に訊ねると、少女は何を言われたのかわからないという顔でまばたきをした。
考えてみれば、あのスキマ妖怪がわざわざ説明してから連れてきたとは思えない。
「あー、どう言えばいいかな」
この年頃の少女に世界の違いを理解させる自信はなかった。
「ここはとても遠いところなんだ。自分の家に帰りたいか?」
少女は考え込むようにうつむいてから、首を横に振った。
帰る場所があるなら、神隠しに遭うこともなかっただろう。
予想通りだったが、一番困る応えでもあった。
魔理沙は頭の中で知り合いの顔をざっと検索。
少女を預ける候補なら自宅を含めていくつかはあったが、里とつながりの深い人物は一人しか思いつかなかった。
――香霖の小言も聞き流せないな、こりゃ。
「ねえ」
風にかき消されなかったのが不思議なほどに、小さな囁き声。
視線を落とすと、少女はその青い瞳でじっと魔理沙の帽子を見つめていた。
少女は魔理沙の耳元に口を近づけて、いけないことをこっそりと訊くように。
「あなたは魔法使いなの?」
いろいろあって少し埃にまみれているが、しっかりと直立している黒の帽子。
魔理沙はそのつばを軽く引っ張って、戯けた口調でこう答えた。
「ああ、わたしは普通の魔法使いだぜ」
少女は目を丸くして口をつぐみ、魔理沙の背中に手を回して身を丸めた。
魔理沙は軽く身をよじって膝の上の感触を確かめ、胸元に少女の熱を感じながら、里を目指してゆっくりと飛んだ。
里の寺子屋を訪ねるころには、すでに日が落ちて月が昇っていた。少し欠けた、立待月。
魔理沙は満月でなくて良かったと思いつつ、いつの間にか寝ていた少女を横抱きしながら、明かりのついた寺子屋の戸を足で叩く。
寺子屋の主は、案の定険しい顔で戸を開いた。
「頼みたいことがある」
寺子屋住まいのワーハクタク、上白沢慧音――すでに床につく用意をしていたのか、長襦袢を着込んでいた。寺子屋の教師は早寝早起きだ――は、魔理沙と少女を見るなり深いため息をついた。
「見れば分かる。とにかく中に入れ」
慧音は少女を魔理沙から受け取り、用意してあった布団に寝かしつけた。
少女はよほど疲れていたのか、死体のように無反応だった。
魔理沙は慧音に事の顛末を、推測は推測だと注釈しつつ、丁寧に説明した。
「……わかった。この子は私が責任をもって預かろう」
柔らかな表情を浮かべた慧音は、布団の中の少女を起こさぬよう、囁くようにそう言った。
「悪いな。頼れるやつがお前くらいしかいなかった」
「少しは里に下りてこい。お前は人間なんだから」
慧音はそう言いながら、少女の額に手を当てる。
どこかで聞いたような言葉に、魔理沙は苦笑した。
「今度美味い酒でも持ってくる」
「もう行くのか」
「いろいろあって疲れたんだよ。また今度顔を見に来るさ」
魔理沙は眠る少女の頭を一撫でしてから外に飛び出し、箒に乗った。
次々と灯る人家の明かりを見下ろしながら、魔理沙はぐっと伸びをした。
久しぶりに降りた里。
人々は灯りを持ち寄り、一日の終わりをねぎらい合う。店の集まる通りから、酒や焼き魚の良い匂いが漂ってきた。まだ里の夜ははじまったばかりだ。
せっかくだから買い物をと思ったが、もう両腕と箒が限界に近かった。これ以上は本の一冊、酒の一瓶も持てそうにない。
夜の町の喧噪に懐かしさを感じながら、手近な道具屋で荒縄を買って、店主に刃物と店先を借りて作業にかかる。
適当な長さに切り、戦利品を十字に縛って箒に括り付ける。
店先に座り込んだまま、箒の柄を持って軽く振り、縛った縄の強度を確認していると、背中にトンと軽い衝撃。
振り向くと、金色のふわふわした生き物が魔理沙の背中に抱きついていた。
「なんだ、もう起きたのか」
少女は魔理沙の背中に、顔を力一杯押しつけて離さない。
「この子のために、大切な物を手放したそうだな」
少女の後ろに立つ慧音が神妙な顔でそう言うのに、魔理沙はしゃがんだまま手をパタパタと振って答える。
「こんな小さい箱だ。中に何が入ってるのかも忘れた。しかもどうやっても中身が取り出せないとくる。あいつもなんであんなもん欲しがったんだか」
慧音は首を横に振る。
「紅魔館の主は運命を操る。今は忘れてしまっただけで、その箱の中身はお前にとって――」
「香霖に言わせるとな」
魔理沙は慧音の言葉にかぶせて、さらに続ける。
「重たい現実を箱に入れて直視しないってことがすなわち、人の人たる所以なんだそうだ。だからあの箱を開けないでいる間は、自分が人間だってことを忘れないでいられるんだとさ」
ふん、と鼻で笑ってみせる。
「馬鹿なこと言ってるだろ?」
少なくとも霧雨魔理沙にとって、箱は開けるためにあるのだから。
「ま、結局あいつの言った通りになっちゃったんだけどさ」
開けたくても手元になければ開けられない。
慧音は瞑目し、苦笑しながら頭を振った。
「……そうか」
魔理沙はニッと笑ってみせる。
「いつか、中身を思い出したら取り返しにいくさ」
背中に押しつけられていた温かさが離れた。ひんやりとした感触からして涙と、もしかしたら鼻水くらいはつけられたかも知れない。
魔理沙が立ち上がりながら振り返ると、少女は何かを後ろ手に持ってもじもじしていた。
慧音が少女の思いを代弁する。
「彼女がお礼を渡したいそうだ」
「いらん」
あんまりな即答に少女の顔がこわばり、目が潤む。
魔理沙は慌ててしゃがみこみ、少女の涙と鼻水を拭う。ついでにずり下がったヘッドドレスもなおしつつ。
「今日はもうくたくたでさ。これ以上荷物が増えたら、重たくて飛べないんだよ。また今度貰いにくるから――」
「重さのことなら心配はいらない」
慧音が何か含むところのある笑いを浮かべながら、少女の背を押す。
少女が口を真一文字に結んだまま両手で差し出したのは――――小さな箱だった。
少女の両手に収まる程度の小さな黒塗りの漆器が、彼女の髪をまとめていたピンク色のリボンで閉じられている。
魔理沙は目の前に差し出されたそれを、思わず受け取ってしまう。
「軽いだろう?」
魔理沙は帽子のつばを指で掴んで、くっと手前に引っ張った。
ため息と同時に笑いがこみ上げてくる。
今日は本当に、箱に縁がある日らしい。
「ああ、軽いな」
◆ ◆ ◆
立待月が昇りきった頃、魔理沙はなんとか魔法の森の自宅に着いた。
戦利品を抱えて猫背になりながら、苦労してドアを開ける。
月明かりを頼りに洋燈を手に取り、ひとつひとつ火を灯していく。
掃除途中で放棄されたせいで以前よりも酷くなった散らかり具合も、今は気にならなかった。
今日の収穫は、箱が二つ。
二つともテーブルに置き、ほっと一息。
それからすぐに、そのうちの一つに洋燈を近づけて、『解錠』に取りかかる。
今夜は眠れそうにない
――――主人が作業に没頭しているさなか、蒐集品達は息を潜めて彼女が力尽きて眠るのを待っていた。
頭が前後に揺れはじめたが、彼女の場合はここからが長い。
その根性をもっと別の所に使えばいいものを……。
彼らは辛抱強く、その時がくるのを待つ。
すると彼女の肘で押し出された新入りの小箱が、テーブルから転げ落ちてきた。
それは中途半端に積み上げられた蒐集品の山の上に着地し、せっかくの夜を惜しむように、コトリと小さな音を立てた。
人物がちゃんとトレースされてて苦もなく読めました
何かと牧歌的に描かれがちですが、このくらいの
緊張感が最も自然だと思います。
登場人物の台詞廻しがとても瀟洒。
魔理沙の男前っぷりにやられました。
わりと硬派?な文章で
箒に引っかかっている白黒の泥棒猫だとか、おねだりできるほど素直になれない吸血鬼
といった描写をされてるのを見ると、こう、湧き上がってくるものがありますね!
あんた等がいうなw
地の文もどこかほのぼのとしながら、引き締まっていますし。
>金髪幼女にぶかぶかのメイド服
さあ、握手だ!
丁寧な文体がとても綺麗に情景を描写していると思います。
あと、幼女はいいものです。